A-11 「時計」の起源

A-11
「時計」の起源
飛鳥が時計の発祥の地であること知っていますか?
*どんな時計なの?
日時計は不定時法として古代から使用されていましたが季節や場所で日出・日入
時間が異なり夜間の使用が出来ない為に定時法になり得なかった。
国家として広範囲を統治するためには「時」の共有が必要となり中国・漢の時代に
最初の暦である「三統暦」と同じ頃に定時法として使える「漏刻(ろうこく)」という水
時計が創られたとあり、「時」を現す道具として暦と時計は密接な関係にあります。
この漏刻がその後改良が加えられて唐の時代には四段式となって我国に伝来された
ものと考えられています。
日本書紀には斉明六年条(660)に「皇太子初めて漏刻をつくり民に時を知らしむ」
とあり、更に天智十年条(671)に「漏刻を新しき台に置く、初めて時を打ち鐘鼓(か
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ねつずみ)を動(とどろ)かす」と記されていることから斉明朝で試作した物を改良し
て天智朝で実用化したのではなかろうか?
*どんな仕掛けなの?
漏刻の原理は水槽下部の子孔からの流出する水量が一定であることから受水槽の水
面の動きで「時」を測定するもので精度を上げるため種々の工夫がされている。
我国の漏刻は立派な鐘楼を有する建物の中に収められていた様子が水落遺跡(みぞ
おちいせき)の発掘調査で確認されており、四段式にしているのは水槽のヘッド(水面
の高さ)を一定にする為で、発掘現場から細い銅管が発見されておりサイフォン原理を
使用したと考えられ、銅管の蝋付(ろうずけ)の痕跡も認められ当時の最先端技術が
導入されていることが覗える。
この設備から漏刻は天子の象徴的存在ではなかったかと考えられ奈良時代には九州
太宰府(だざいふ)と陸奥の鎮守府に設置されたと記録されている。その後平安時代
末まで記録あるが 1127 年に焼失後復旧されず廃絶された可能性もあり江戸時代の
1838 年幕府天文方(てんもんがた)の渋川景佑により復元試作実験がされた記録が残
されている。
飛鳥時代の漏刻の実態は廃絶された経緯から不明ですが、中国では漢時代の携帯用
漏刻が出土しており、元時代の現存品もありこれらも参考にして江戸時代の実験記録
に基づいた復元模型が明日香村にあります。
*どんな使われ方をしていたの?
漏刻は権威の象徴でも有り限られた場所にしか造営されなかったと考えられ、律令
制度により整えられ始めた官僚組織での朝廷への出・退時間に鐘鼓を打ち「時」を告げ
ていたのではなかろうか?従って平安期までは多用されていたのだろう。
日常的利用には携帯出来るような簡易版が存在したと考えられるが我国では携帯用
漏刻のたぐいは発見されておらず、類似品として「時香盤(じこうばん)」と呼ばれ東
大寺・二月堂のお水取りに現在も使用されているという江戸時代の遺品があり40セ
ンチメータ角の火鉢の灰の上にコ字型に抹香を積み重ね燃える時間を測定する香漏
(こうろう)で、一般寺院でも勤行のために常用されていたと考えられる。戦国時代
になると西欧から既に振子式の時計が導入され水時計の存在は失われた。
*どんな時間認識だったの?
我国の時間制度の歴史で漏刻の導入は画期的なことで、それまでの不定時法に替わ
りこれを契機に定時法を採用して十二世紀頃まで維持されていたが、陰陽道の迷信が
はびこり始めて定量的な暦学が衰退し、遣唐使の廃止で中国からの最新暦の導入も途
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絶え古代の不定時法に逆戻りして江戸時代まで続いた。
この定時法の導入からは「飛鳥人」の気質が覗え、常に最新技術に興味を示し新興国
建設意欲が旺盛であったと考えられ飛鳥での発祥テーマが多いことでも実証している。
ちなみに「時の記念日」6月10日は天智10年4月25日に漏刻で時を告げ
たとする日本書紀の記事を太陽暦に換算した日です。
<註>
不定時法:日出・日入の時刻は1年を通じて2.5 時間程度の早遅があり、東西に長い
列島である我国では地域で 1 時間程度の差異あるが自然法として許容し基
準時を季節で変えて時を表現する原始的方法
定時法:太陽が子午線を横切る時刻を測定して 1 日の時間を等分割で表現する方法で
そのため時計設備が必要になるが統一国家形成には時の共有が必要とした
サイフォン:大気圧を利用して水面より高く導水して液体を流下させる原理
ロウ付け:鉄の溶接と同じく非金属の銅を接着する技術
水落遺跡:甘樫丘の東で石神遺跡の南にあり両遺跡は導水で関係ありとされてい
る
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