世界を股にかけた報道写真家・岡村昭彦

08,
08,11,
11,20
世界が
世界が尊敬した
尊敬した日本人
した日本人(
日本人(38)
38)
世界を
世界を股にかけた報道写真家
にかけた報道写真家・
報道写真家・岡村昭彦
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授
静岡県立大学国際関係学部教授)
)
「南ベトナム政府軍兵士
ベトナム政府軍兵士が
政府軍兵士が農民に
農民に水責めの
水責めの拷問
めの拷問を
拷問を加えるシーン
えるシーン」
シーン」など―
など―ベトナム戦争
ベトナム戦争の
戦争の実
告発する
する9
スクープ写真
写真が
米写真週刊誌「
LIFE」(
」(1964
1964年
12日号
日号)
態を告発
する
9頁のスクープ
写真
が米写真週刊誌
「LIFE
」(
1964
年6月12
日号
)に掲載
され、『
、『第
ロバート・
キャパが
まれた』
編集後記で
絶賛された
された。
され
、『
第2のロバート
・キャパ
が生まれた
』と編集後記
で絶賛
された
。
報道写真家・
報道写真家・岡村昭彦の
岡村昭彦のデビュー作
デビュー作であり、
であり、一躍、
一躍、その名
その名は世界にとどろいた
世界にとどろいた。
にとどろいた。
この写真
この 写真の
写真 の 事前情報をつかんだ
事前情報 をつかんだラスク
をつかんだ ラスク米国務長官
ラスク米国務長官は
米国務長官 は 「 ライフ」
ライフ 」 に 載
せないように圧力
圧力をかけた
をかけた。
せないように
圧力
をかけた
。
ライフ側
ライフ側は岡村の
岡村のネガを
ネガを全部回収して
全部回収して、「
して、「やらせ
、「やらせ」
やらせ」がないかどうか1
がないかどうか1枚
をすべてチェック
チェックし
ないことを確認
確認して
して、
一挙に
掲載した
した。
1枚 をすべて
チェック
し、ないことを
確認
して
、一挙
に掲載
した
。この
ライフ」
をみたニクソン
ニクソン副大統領
副大統領は
にたたきつけて、
「ライフ
」をみた
ニクソン
副大統領
は床にたたきつけて
、怒り狂ったとい
われる。
われる。
「LIFE」
LIFE」は当時、
当時、約八百万部の
約八百万部の世界一の
世界一のグラフ雑誌
グラフ雑誌で
雑誌で、世界の
世界のカメラマン、
カメラマン、ジャーナリストは
ジャーナリストは
この雑誌
雑誌を
目指してしのぎをけづっており
してしのぎをけづっており、
この
雑誌
を目指
してしのぎをけづっており
、翌 65(昭和
65(昭和 40)年
40)年、岡村は
岡村は世界が
世界が注目していた
注目していた
解放民族戦線副議長との
との会見
会見に
めて成功
成功し
米海外記者クラブ
クラブ最優
解放民族戦線副議長
との
会見
に初めて
成功
し、この年 36 歳で「米海外記者
クラブ
最優
秀報道写真年度賞」
いた。
秀報道写真年度賞
」に輝いた
。
日本で
日本で出版した
出版した「
した「南ヴェトナム戦争従軍記
ヴェトナム戦争従軍記」(
戦争従軍記」(岩波新書
」(岩波新書)
岩波新書)がベストセラーになるなど
ベストセラーになるなど、
になるなど、世界の
世界の
メディアを
ベトナム戦争
戦争にひきつけた
にひきつけた。
メディア
をベトナム
戦争
にひきつけた
。
岡村は
岡村は1929(
1929(昭和 4)年1月、東京で
東京で海軍大尉の
海軍大尉の長男として
長男として生
として生まれた。
まれた。家系には
家系には日本赤
には日本赤
十字創設者の
佐野常民、
東大病理学の
権威・
緒方知三郎がいる
がいる名門
名門の
であった。
十字創設者
の佐野常民
、東大病理学
の権威
・緒方知三郎
がいる
名門
の出であった
。
東京医専(
東京医専(東京医科歯科大)
東京医科歯科大)を中退し
中退し、北海道の
北海道のトラピスト修道院
トラピスト修道院で
修道院で 1 年半過ごした
年半過ごした。
ごした。敗
戦後の
えと戦
いながら、
一家を
米軍相手の
ヤミ商売
商売で
英語力を
戦後
の飢えと
戦いながら
、一家
を支え米軍相手
のヤミ
商売
で英語力
を養い、部落解放運
炭鉱の
じて週刊誌記者
週刊誌記者となった
となった。
動や、炭鉱
の生活に身を投じて
週刊誌記者
となった
。
それまでカメラ
それまでカメラは
カメラは嫌いだったが、
いだったが、写真こそ
写真こそ世界共通言語
こそ世界共通言語である
世界共通言語である
通信社の
契約特派員となり
となり、
トナム戦争
戦争の
として 34 歳で通信社
の契約特派員
となり
、べトナム
戦争
の
取材に
かった。
取材
に向かった
。
人間はどこに
はどこに立
っているか」
テーマに
フリーランスとして
「 今 、 人間
はどこに
立 っているか
」 をテーマ
に フリーランス
として
めた岡村
岡村の
出発点は
される側
ベトナム・
追 い 求 めた
岡村
の 出発点
は 殺 される
側 の ベトナム
・ ジャング
であり、
そこから問題
問題をより
をより深
げた。
ルであり
、そこから
問題
をより
深く広く掘り下げた
。
静岡県浜名湖の
静岡県浜名湖の舞阪の
舞阪の実家と
実家と、殺す側のケネディー米大統
ケネディー米大統
ルーツをたどって
をたどって、
アイルランド・
ダブリンに
生活の
拠点を
領のルーツ
をたどって
、アイルランド
・ダブリン
に生活
の拠点
を移
して世界
世界を
二眼レフ
レフで
歴史的な
視座から
から記録
記録していった
していった。
して
世界
を二眼
レフ
で歴史的
な視座
から
記録
していった
。
1968 年には世界
には世界の
世界の紛争地
紛争地を回り、アイルランド紛争
アイルランド紛争や
紛争やアフリカ・
アフリカ・ビアフラの
ビアフラの独立戦争による
独立戦争による飢
による飢
内戦を
取材、
中南米にもいった
にもいった。
国内では
では水俣病
水俣病や
餓や内戦
を取材
、中南米
にもいった
。国内
では
水俣病
や地元浜名湖の
地元浜名湖の水質汚染
水質汚染を
汚染を防ぐ
公害反対運動を
支援し
地球環境問題に
んだ。
公害反対運動
を支援
し、地球環境問題
に取り組んだ
。
その点
その点で岡村は
岡村は写真ジャーナリスト
写真ジャーナリストを
ジャーナリストを超えた、
えた、市民運動の
市民運動のリーダーであり
リーダーであり、
であり、知の冒険
であった。
ダブリンや
者であった
。ダブリン
やロンドンの
ロンドンの図書館で
図書館で独学で
独学で勉強し
勉強し、訪れた世界中
れた世界中の
世界中の古本屋からも
古本屋からも膨
からも膨
海外古書を
めて、
その数
千冊(
うち4
千冊が
洋書)
となった舞阪
舞阪の
書庫を
大な海外古書
を集めて
、その
数1万2千冊
(うち
4千冊
が洋書
)となった
舞阪
の書庫
を「人
民文庫」
命名し
世界を
変革するための
するための知識庫
知識庫として
として解放
解放した
した。
民文庫
」と命名
し、世界
を変革
するための
知識庫
として
解放
した
。
ベトナム戦争
ベトナム戦争で
戦争で米軍が
米軍が使用した
使用した「
した「枯葉剤」(
枯葉剤」(ダイオキシン
」(ダイオキシン)
ダイオキシン)の影響の
影響の問題意識から
問題意識から1980
から1980(
1980(昭
和 55
55)
バイオエシックス」(
」(生命倫理学
生命倫理学)
について関心
関心を
めて、
)年 51 歳で「バイオエシックス
」(
生命倫理学
)について
関心
を深めて
、ジョージ
タウン大学教授
大学教授・
木村利人と
二人三脚で
全国講演し
医者や
看護婦たちと
たちと勉強会
勉強会を
タウン
大学教授
・木村利人
と二人三脚
で全国講演
し、医者
や看護婦
たちと
勉強会
を
げて、
この分野
分野での
での先駆的
先駆的な
活動と
執筆を
った。
立ち上げて
、この
分野
での
先駆的
な活動
と執筆
を行った
。
さらに、
さらに 、岡村の
岡村 の 眼 は 病院における
病院における患者
における患者の
患者の 人権、
人権 、看護ケア
看護 ケア問題
ケア問題、
問題 、死 んでいく人間
んでいく人間としての
人間 としての権
としての 権
それを看取
看取る
からの死
にいく者
ケアする
するホスピス
ホスピス運動
運動へとたどりつく
へとたどりつく。
利と、それを
看取
る側からの
死にいく
者をケア
する
ホスピス
運動
へとたどりつく
。
世界の
世界のホスピス運動
ホスピス運動は
運動は1967年
1967年のロンドンの
ロンドンのセント・
セント・クリストファー・
クリストファー・
ホスピスの
設立がはじまりだが
がはじまりだが、
世界各地の
ホスピス運動
運動を
取材し
ホスピス
の設立
がはじまりだが
、世界各地
のホスピス
運動
を取材
し
54歳
となっていた岡村
岡村は
1983年
から日本
日本で
ホスピスへ
て、54
歳となっていた
岡村
は1983
年から
日本
で初の「ホスピス
へ
連載を
めた。
の遠い道」の連載
を始めた
。
日本で
めてのホスピス
ホスピスの
研究書である
である。
日本
で初めての
ホスピス
の研究書
である
。
↑静岡県立大学図書館
静岡県立大学図書館誕生
図書館誕生し
誕生した岡村文庫>
岡村文庫>
エネルギッシュに
エネルギッシュに世界の
世界の難問に
難問に単独で
単独で挑み続けた岡村
けた岡村は
岡村は無理がたたったのか
無理がたたったのか、
がたたったのか、1985(
1985(昭和
60)
敗血症
60
)年3月、敗血
症で 56 歳の若さで急逝
さで急逝した
急逝した。
した。
岡村に
岡村 に対して、
して、『世界を
世界 を揺 るがした十日間
るがした十日間』
十日間』のジョン・
ジョン・リードや
リードや 、ジョージ・
ジョージ・オーウエル、
オーウエル、エドガ
スノーらに
らに匹敵
匹敵する
する世界的
世界的ジャーナリスト
ジャーナリスト』
という高
評価があるが
があるが、
30年後
年後の
ー・スノー
らに
匹敵
する
世界的
ジャーナリスト
』という
高い評価
があるが
、30
年後
の今、日本
でやっと論議
論議されている
されている高齢者
高齢者の
看護や
ホスピス問題
問題を
るにつけ、
岡村の
でやっと
論議
されている
高齢者
の看護
やホスピス
問題
を見るにつけ
、岡村
の目ががどんなに
時代に
先駆けていたかがわかる
けていたかがわかる。
時代
に先駆
けていたかがわかる
。