日本・スコットランド教育文化交流の諸相

名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
第 56巻第 2 号 (2009年度)
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
一一明治日本とグラスゴウ一一
加藤詔士
III.グラスゴウにおける日本人留学生
I.スコットランドと明治日本
1.グラスゴウ大学
1
. 日本工業化におけるスコットランドの指導性
2.
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
と
明
治
日
本
1)自然科学諸科目の受講
3
英国における日本関心の高まり
2)学外における実修体験
3)日本語資格試験の開始
II.お雇い教師 H ダイアーの日英交流推進活動
1
. 日
本
工
学
教
育
の
組
織
化
2.
2.
3
. 日
本
研
究
の
進
展
4
. 日
本
関
係
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
の
形
成
5.
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
お
け
る
技
術
教
育
改
革
6.
ダ
イ
ア
ー
へ
の
関
心
の
高
ま
り
IV. まとめ一日英教育連鎖の拠点グラスゴウ
名(森有干し,五代友厚ら)が,慶応元 (1865) 年に密
1
.
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
と
明
治
日
本
1.
航したさいは,長崎のク。ラパー商会 (Glover
日
本
工
業
化
に
お
け
る
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
の
指
導
性
&Co.) が
斡旋し,官学生は同じくウィリアムソン教授の尽力で
(1)
安
政 5 (1858)
ストラスクライド大学
1)夜間課程の開設と実学教育の伝統
2)実学人材の育成
帝
国
財
務
及
工
業
通
信
員
の
嘱
託
ユニヴァシティ・カレッジに学んだ。西洋の科学・技
年
に
日
英
修
好
通
商
条
約
が
締
結
さ
れ
,
上
術の習得をめざして英屈に留学した上記の留学生のう
海
・
香
港
か
ら
長
崎
・
神
戸
・
横
浜
に
至
る
航
路
が
開
か
れ
る
ち,山尾庸三ならびに伊藤博文は,帰国後,明治政府
と
,
多
数
の
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
人
商
人
が
日
本
の
市
場
に
到
来
に出仕し政府の工業化政策を先導することになるが,
Lた
。
か
れ
ら
は
英
国
の
対
日
政
策
に
沿
っ
て
,
フ
ラ
ン
ス
を
そのさいもスコットランドが関与している。
牽
制
す
る
た
め
に
も
,
討
幕
を
は
か
る
西
南
雄
藩
に
接
近
し
,
(2)
ま
だ
学
術
・
商
業
の
た
め
の
海
外
渡
航
が
禁
止
さ
れ
て
い
る
な
明治政府の工業化政策は,工部省による官営工業政
か
,
自
分
た
ち
の
ネ
ッ
ト
ワ
ー
ク
を
使
っ
て
日
本
人
青
年
の
i度
策,内務省および農商務省による民業育成政策,兵部
英を支援した。
省および陸軍省・海軍省による軍事工業政策に大別さ
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
人
商
人
の
な
か
で
も
,
い
ち
早
く
来
日
し
れるが,明治前期に工業化政策の中核となったのは工
て
横
浜
を
拠
点
に
交
易
を
は
じ
め
た
ジ
ャ
ー
デ
イ
ン
・
マ
セ
ソ
ン商会(J
ardine
,
年 5 月
,
山
尾
庸
三
1909)
Matheson& Co.) は,文久 3 (
1
8
6
3
)
(1837-1917)
ら
長
州
藩
士
を
助
け
た
。
英
国
に
部省であった。工部省は,西洋の工業技術の導入なら
や
伊
藤
博
文
(Hugh
喫緊の課題とした。
5名
を
横
浜
か
ら
密
出
国
さ
せ
,
英
国
留
学
そのなか,山尾庸三は工部省に出仕し工学人材の
i度
っ
て
か
ら
も
,
留
学
生
た
ち
は
ジ
ャ
ー
養成機関の設置に尽力した。「工学ヲ開明スルハ厚生
デ
イ
ン
・
マ
セ
ソ
ン
商
会
の
兄
弟
会
社
マ
セ
ソ
ン
会
社
社
長
M. マ
セ
ソ
ン
(1841­
びに工学専門教育機関の設立による実学人材の育成を
利用ノ道ヲ立ル恭礎」であるとの認識から,明治 4
H.
M
.Matheson,
1821-1898) のはか
(I 8n)年 4 月には「実学知識ノ徒」を養成する工学校
らいで,ロンドン大学ユニヴァシティ・カレッジの化
計画を立案している。
学教授 W. A.ウィリアムソン (William A
.Williamson,
1824-1904) の指導を受け,
この工学校の教師の人選は,伊藤博文に託された。
しかもウィリアムソンの紹
かれは明治 5 (1872) 年 8 月,岩倉使節団の副使として
介で阿カレッジに入学することができた。薩摩務士 19
英国に赴いたとき,ロンドンにおいてマセソン会社社
-1 ー
日本・スコットランド教育文化交流の諸柑
長 H M.マセソンに協力を求めた。このとき,伊藤は
た W. K.バルトン
マセソンに,教師の人選に加えて「教育計画から図書
1899)
(William
や用具の調達まで,学校作りの一切の権限を委ねてい
だ
け
で
な
く
,
灯
台
守
,
電
信
技
手
,
鉄
道
員
,
造
船
職
人
と
KinninmondBurton , 1
8
5
6
ュ
が
知
ら
れ
て
い
る
が
,
専
門
的
技
術
者
と
し
て
の
か
れ
ら
し
て
基
礎
的
な
工
業
技
術
を
伝
え
た
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
人
も
少
るん
なくない(1)。
マセソンはグラスゴウ大学の工学教授 W.]. M.ラン
キン (William J
ohnMacquornRankine , 1
8
2
0
1
8
7
2
)
2.
に
相
談
し
た
と
こ
ろ
,
複
数
の
候
補
者
の
な
か
か
ら
教
え
子
の
H ダ
イ
ア
ー
(Henry
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
と
明
治
日
本
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
の
な
か
で
も
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
は
,
近
代
日
本
Dyer, 1848-1918) が推薦され,か
が
形
成
さ
れ
る
と
き
日
本
と
緊
密
な
関
係
に
あ
っ
た
。
れを中心に教師陣が編成された。 1873年夏には,ダイ
ま
ず
第
ー
に
,
工
業
技
術
の
近
代
化
を
先
導
し
た
工
部
省
アーを含む英国人教師の第一陣 9 名が来着した。
は
,
工
学
人
材
の
専
門
教
育
機
関
と
し
て
設
霞
し
た
工
学
寮
な
教師陣のなかにはスコットランド関係者が少なから
ず含まれた。エデインパラ大学出身の数学教授 D.
マ
ー
シ
ャ
ル
(David
H巴nry
ら
び
に
工
部
大
学
校
の
編
制
な
ら
び
に
教
育
の
組
織
化
と
い
う
H
.
任
務
を
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
出
身
で
お
雇
い
教
師
と
し
て
招
稗
Marshall, 1848-1932) ,ア
バディーン大学出身の英語・英文学教授 W.G. クレイ
し
た Hダ
イ
ア
ー
に
託
し
た
。
ダ
イ
ア
ー
は
,
英
国
人
教
師
陣
ギー (William G
.Craigi
を
率
い
て
工
学
専
門
教
育
を
推
進
し
た
。
巴
)
。
自
然
哲
学
教
授
W.E.
エ
ア
ト
EdwardAyrton, 1847-1908) ならびに工
ン (William
ダ
イ
ア
ー
ら
教
師
障
が
選
ば
れ
る
に
つ
い
て
も
,
既
述
の
よ
う
に
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
系
の
ジ
ャ
ー
デ
イ
ン
・
マ
セ
ソ
ン
商
学教授].ペリー (JohnPerry, 1850-1920) は,スコッ
トランド人ではないが,グラスゴウ大学で W.
会
の
マ
セ
ソ
ン
が
仲
介
役
と
な
っ
て
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
の
ラ
トムソ
ン
キ
ン
教
授
に
依
頼
し
,
ラ
ン
キ
ン
が
介
在
し
て
い
る
。
ン (William Thomson, 1824-1907) 教授の講義に出席
し,
そ
の
夕
、
イ
ア
ー
は
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
学
ぶ
前
,
徒
弟
修
トムソンの実験室で働いたことがある。
(3)
業
中
に
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
前
身
校
で
あ
る
ア
ン
ダ
ソ
ダイアーは工学の実務的な人材養成のための専門教
ン
・
カ
レ
ッ
ジ
の
夜
間
課
程
に
学
ん
だ
が
,
向
じ
こ
ろ
,
山
尾
育機関を構想しこれを提出すると,同構想、は工部省の
庸
三
も
向
カ
レ
ッ
ジ
に
学
ん
で
、
い
た
と
い
う
機
縁
か
ら
,
ダ
イ
上記の工学校計聞に代わって採用され,明治 7 (
1
8
7
4
)
ア
ー
の
日
本
に
お
け
る
活
動
は
工
部
省
に
出
仕
し
た
山
尾
の
支
年8月
,
工
学
専
門
教
育
機
関
が
開
校
し
た
。
は
じ
め
工
学
寮
援
を
受
け
て
兵
体
化
さ
れ
促
進
さ
れ
る
こ
と
に
な
る
。
と
い
い
,
明
治
第
二
に
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
は
日
本
の
殖
産
興
業
な
ら
び
に
工
10 年 1 月
に
工
部
大
学
校
と
名
を
変
え
た
。
学
人
材
の
養
成
に
直
結
す
る
よ
う
な
大
学
が
あ
っ
た
。
そ
れ
も
す
で
に
幕
末
に
は
,
横
須
賀
に
造
船
学
校
が
,
箱
館
に
鉱
山
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
と
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
二
校
あ
っ
学
校
が
設
け
ら
れ
,
そ
れ
ぞ
し
て
工
業
技
術
の
教
育
が
お
こ
な
わ
れ
て
い
た
け
れ
ど
も
,
こ
た。
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
は
れ
ら
は
明
治
維
新
後
に
よ
み
が
え
る
こ
之
は
な
か
っ
た
。
工
部
18 世
紀
に
工
業
都
市
に
変
身
し
て
以
来
,
ま
省
は
ま
っ
た
く
新
し
い
構
想
の
も
と
で
工
学
寮
な
ら
び
に
工
部
ち
に
は
木
綿
紡
績
工
場
や
鉄
工
所
が
建
ち
,
ク
ラ
イ
ド
河
流
域
大
学
校
を
創
設
し
た
。
そ
の
と
き
関
与
し
た
の
は
,
フ
ラ
ン
ス
に
は
造
船
所
が
林
立
し
て
い
た
。
こ
う
し
た
社
会
の
需
要
に
応
で
も
ア
メ
リ
カ
で
も
な
く
英
国
で
あ
っ
た
。
英
国
の
な
か
で
も
え
て
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
は
,
他
の
英
国
の
諸
大
学
に
先
駆
け
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
が
深
く
関
わ
っ
て
い
る
。
て 1840 年
に
は
工
学
講
座
を
,
設
す
る
な
ど
,
科
学
技
術
の
研
究
と
教
育
が
進
展
し
て
い
た
。
そ
の
後
も
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
の
教
師
や
教
育
専
門
家
は
い
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
方
は
実
学
中
心
の
教
育
機
関
で
ろ
い
ろ
な
立
場
で
近
代
日
本
の
形
成
に
か
か
わ
っ
た
。
と
く
に
酋
洋
の
工
業
技
術
の
導
入
に
お
い
て
は
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
人
あり,
が
大
い
に
関
与
し
た
。
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
人
技
術
者
は
,
工
場
・
生
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
在
学
し
な
が
ら
,
夜
間
に
ス
ト
ラ
ス
し
か
も
夜
間
課
程
を
開
設
し
て
い
た
こ
と
か
ら
,
留
学
造
船
所
・
製
造
会
社
に
雇
わ
れ
た
機
械
技
師
,
鉄
道
・
橋
梁
・
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
も
修
学
す
る
こ
と
が
で
き
た
。
し
か
も
,
両
道
路
・
上
水
道
・
下
水
道
に
か
か
わ
っ
た
土
木
技
師
,
霞
信
の
大
学
と
も
,
大
学
に
籍
を
置
き
な
が
ら
,
学
外
の
造
船
所
や
鉄
架
設
に
従
事
し
た
霞
気
技
師
,
造
船
会
社
に
雇
わ
れ
た
造
船
技
師
に
大
別
さ
れ
る
。
灯
台
建
設
に
た
ず
さ
わ
っ
た
R
.
ン
ト
ン
(Richard
1883 年
に
は
造
船
学
講
座
を
創
工
所
な
ど
に
出
向
い
て
実
地
研
修
を
体
験
す
る
こ
と
が
奨
励
さ
H目
プ
ラ
れ
て
い
た
。
HenryBrunton, 1841-1901) ,北海
両
大
学
の
な
か
で
も
,
グ
ラ
ス
グ
ウ
大
学
は
お
雇
い
教
師
が
道の港湾の築港・整備設計にあたった港湾土木技師c.
仲
を
と
り
も
つ
形
で
多
数
の
日
本
人
留
学
生
が
集
ま
り
,
と
く
S. メーク (Charles S
c
o
t
tMeik1853-1923)
に
自
然
科
学
を
専
攻
す
る
留
学
生
の
メ
ッ
カ
と
な
っ
た
感
が
あ
,上下水道
る
。
資
格
試
験
の計画・施設を指導し日本最初の衛生工学教授となっ
2 一
(Preliminary
Examination)
に
お
け
る
外
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
第 56 巻
第
S
p
i
1
'
i
t
)j,それに
2 号 (2009
国語選択科目の一つに日本語を認定したことに象徴さ
神 (η 'w J,α'!p αη ese
れるように,
本 (Dω Nippon)J などが含まれている。
日本人の留学を支援したこともあって,
H. ダイアー『大日
英国の定評ある書評誌『タイムズ・リテラリ」・サ
多くの日本人が留学し,日本と英国の教育交流の一大
プリメント (Tlw
拠点校となった。
は,
第三に,グラスゴウは美術工芸の面でも明治臼本と
ン『日本
ている。
T
i
mesLite
1904 年 12 月 9 日号で,
集を組み,
の交流が促進された。そのさいもお雇い教師が介在し
r.ωyS1 ψ,plmnent)j
I 日本関係図書
(J, α'!p an: αnAttempt
αt I
n
t
e
l
p
r
e
t
a
t
i
o
n
)j,農
スコットランド人教師R.H.スミス (Robert H巴my
o
ft
h
eT
w
e
n
t
i
e
t
hC
e
n
t
u
1
Y
)j など,新干日書
し
て
い
る
。
い
づ
れ
も
クス卿 (Sir H
arrySmithParkes, 1828-1885) の仲介
ある。
英国における日本に対する関心はすでに徳川幕府の
転覆と日本開国のころから始まっていたが,その後の
日本社会の急速な変化に触発され,
1150 点
に
の
ぼ
る
日
本
関
係
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
で
あ
る
。
「
日
本
政
府
交
換
品
Exchang
,巴 Call 巴 ction)
andMuseum)
Government
(Japanese
ArtG
a
l
l
e
r
y
(Kelvingrove
とくに「日本の経
済的・軍事的発展に刺激されてイギリスの日本解釈に
大きな変化がみられJ た。
Jと
名
づ
け
ら
れ
,
同
市
の
ケ
ル
ヴ
イ
ン
グ
ロ
ー
ブ
美
術
館
・
博
物
館
6冊
を
紹
介
年
に
英
国
で
出
版
さ
れ
た
著
書
で
(2)
i奈
器
,
楽
器
,
陶
磁
器
,
金
工
品
,
織
物
・
衣
装
,
紙
工
品
な
ど
か
ら
な
る
1904
年 11 月 25 日
に
,
明
治
政
府
か
ら
大
量
の
美
術
工
芸
品
が
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
市
に
贈
呈
さ
れ
た
。
家
具,
J と題する特
H. ダイアー『大日本.J.ラフカデイオ・ハー
Smith, 1852-1916) が発案し,駐日英国公使H. S. パー
11)
の
場
合
商務省編 W20世紀初頭の日本 (J,叩 αn 伽 tlwBeg伽ning
たとえば,開成学校ならびに東京大学のお雇い
でもって, 1
8
7
8 (明治
年
度
)
日本の方でも,政府が良好な日本イメージの形成の
ために,西欧の知識人やメディアに影響を与えるよう
に
収
蔵
さ
れ
た
。
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
市
は
,
そ
の
返
礼
と
し
て
西
洋
絵
画
や
工
業
標
本
な
ど
を
日
本
に
寄
贈
し
た
。
な周到な措置を講じた。たとえば,日本海軍の軍艦を
こ
れ
ら
の
諸
品
は
,
東
京
の
帝
国
博
物
館
(
東
京
国
立
博
物
館
設計した英国人を日本に招月号して歓待したし,英国人
の
前
身
)
に
収
蔵
さ
れ
た
。
作家(たとえば女性旅行家I.1.バード, I
s
a
b
e
l
l
aLucy
工
部
大
学
校
の
お
雇
い
教
師
H. ダイアーもまた,
自身
Bird, 1831-1904) の日本旅行に格別の便宜をはかった
の
持
ち
帰
り
品
お
よ
び
帰
国
後
に
日
本
か
ら
贈
呈
さ
れ
た
誇
品
り,
な
ど
で
日
本
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
(
図
書
,
美
術
工
芸
品
,
楽
器
,
表するという野心的な計画」を進めたことなどである。
これらが功を奏したことで,
写
真
・
絵
葉
書
類
)
を
形
成
し
た
。
そ
れ
ら
は
,
死
後
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
の
ミ
ッ
チ
ェ
ル
図
書
館
さらには「日本政府が官庁報告や統計・を英語で発
(Mitch
巴II Li brary)
あ
る
い
日本への関心の高まりに
結ぴついた。
19世紀末ならびに 20世紀はじめになると,別の要因
は
ケ
ル
ヴ
イ
ン
グ
ロ
ー
ブ
美
術
館
・
博
物
館
な
ど
に
寄
贈
さ
れ
た (2) 。
がからんでくる。そのーは,
I ロシアの膨張政策 J と
いう国際情勢の変化である。このロシアに対抗する点
3.
英
国
に
お
け
る
日
本
関
心
の
高
ま
り
で,英国と日本は利害を共にすることになり, 1902年
(1)
日本と英国,
に日英同盟を結ぶ。英国における日本への関心は,こ
日
本
と
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
の
交
流
は
,
明
治
のようななか一段と高まることになる。日英同盟の調
後
期
に
な
る
と
あ
ら
た
な
展
開
を
み
せ
る
。
日
本
は
西
洋
を
モ
印ののち,
デ
ル
に
し
て
工
業
化
を
進
め
て
き
た
が
,
日
清
戦
争
と
日
露
戦
I 日本の公的機関から出る英語資料の量が
増大 J したし,既述のように, I新渡戸稲造のような日
争
を
契
機
に
ア
ジ
ア
の
強
固
に
成
長
す
る
と
,
西
洋
で
は
日
本
本人著者が,英国の読者の好意的な反応を期待して日
へ
の
関
心
が
高
ま
り
を
み
せ
る
よ
う
に
な
る
。
英
語
で
書
か
れ
本に関する書物を書いた」。
その二は,このころ,英国社会は停滞し内政改革
た
日
本
研
究
書
が
増
大
し
た
の
は
,
そ
の
あ
ら
わ
れ
と
思
わ
れ
を求める世論が高まっていたという事情があった。
る。
たとえば,
「二 O 世紀のはじめころ,イギリスの海外政策と国内
20 世
紀
初
期
ア
メ
リ
カ
の
有
力
な
一
般
誌
『
ザ
・
リテラリー・ダイジ、エスト
1905 年 8 月 28 日号で,
(η wLitem1
ν Digest
の諸制度は,広汎な批判と再評価の対象になって j い
)j は,
た。「ドイツ,フランス,アメリカとの貿易競争に対す
I現
代
の
注
目
図
書
,
日
本
理
解
に
役
立つ本」という欄を特設し,
I日
本
理
解
に
役
立
つ
J 注目
る恐れから,教育改革に関する議論がさかんに行われ
図
書 13 冊
を
選
定
し
こ
れ
を
書
評
な
い
し
紹
介
し
て
い
る
。
新
i度戸稲造『武士道
松
謙
澄
『
旭
日
(Bushido:
(η wRisenSun)j
ていた J 。そのようななか,
T
l
wS
o
u
lo
fJap 側).1,末
,
I 日本が改革の物差しにな
るかもしれないという考え方」が広まったことは注目
岡
倉
由
三
郎
『
日
本
精
される。
-3 一
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
二
年
間
は
,
土
木
学
・
機
械
学
・
電
信
学
・
建
築
学
・
応
用
化
改革論議が盛んななか出版された一書が,R.ダイ
(1904) である。「東洋の英国.、大日
学
・
冶
金
学
・
鉱
山
学
と
い
う
専
門
科
目
が
用
意
さ
れ
,
学
生
本,国家革新の研究j という象徴的な題名をもっ同書
は
こ
の
う
ち
一
科
目
を
選
択
し
て
学
ぶ
。
最
後
の
二
年
間
は
全
は.
1904年 10月に 1000部出版されたが,年内にすべて
国
各
地
の
工
場
・
造
船
所
・
鉱
山
な
ど
に
出
向
き
,
学
習
し
て
捌かれたので翌年に 250部が増刷された。日本はいま
き
た
理
論
を
実
際
に
応
用
す
る
こ
と
に
携
わ
る
と
い
う
構
想
で
停滞している英毘を改革するさいの教訓になる,とり
あ
る
。
アー著『大日本.1
こ
の
よ
う
な
学
謀
課
程
構
想
、
は
,
す
で
に
指
摘
さ
れ
て
い
る
わけ日本の成長における教育の役割には注目すべきも
のがある。英国はその日本の教育制度にならうとい
よ
う
に
,
注
目
す
べ
き
特
色
が
あ
る
。
そ
の
ー
は
.
学
課
編
成
い,などという指摘が含まれているけ)。
を
七
科
と
じ
た
こ
と
で
あ
る
。
当
時
,
工
学
の
専
門
領
域
を
「
こ
明治時代の日本と英国,とりわけスコットランドの
れ
だ
け
細
分
化
し
た
の
は
,
イ
ギ
リ
ス
に
は
も
ち
ろ
ん
世
界
に
グラスゴウとの聞には,以上のような諸種の関係と交
も
先
例
が
な
い
流がみられた。本稿は,このうち,お雇い教師且ダ
交
代 j と
い
う
教
育
方
法
が
構
想
さ
れ
た
こ
と
で
あ
る
。
「
イ
イアーならびにグラスゴウに学んだ日本人留学生を介
ギ
リ
ス
の
教
育
伝
統
を
重
ん
じ
つ
つ
,
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
大
陸
の
教
した交流をめぐって,具体的に考察する。
育
方
法
を
入
れ
込
ん
だ
,
新
し
い
実
験
的
教
育
モ
デ
ル
の
創
出
J と
い
わ
れ
る
。
そ
の
二
は
,
I学
理
と
実
地
の
で
あ
る
」
と
評
さ
れ
て
い
る
。
そ
の
三
は
.
II. お雇い教師 H.
進活動
ダイアーの日英交流推
室
,
化
学
実
験
室
,
作
業
場
,
技
術
博
物
館
を
付
設
す
る
こ
と
の
教
育
効
果
が
自
覚
さ
れ
て
い
た
。
1.日本工学教育の組織化
ダ
イ
ア
ー
構
想
、
を
大
幅
に
取
り
い
れ
て
作
成
さ
れ
た
で
あ
ろ
う
こ
の
英
文
カ
レ
ン
ダ
ー
は
,
工
部
省
が
そ
れ
ま
で
に
作
成
し
(1)
て
い
た
工
学
校
計
画
に
代
わ
っ
て
採
用
さ
れ
,
明
治
ダ
イ
ア
ー
は
工
部
省
の
お
履
い
教
師
と
し
て
招
勝
さ
れ
,
明
治 6 (1 873) 年 6 月から
I施
設
や
設
備
に
特
段
の
配
慮
:
を
し
た
」
こ
と
で
あ
る
。
図
書
室
,
物
理
学
実
験
7年2
月
,
邦
文
の
『
工
学
寮
学
課
並
諸
規
則
』
が
印
刷
・
刊
行
さ
れ
15 年 6 月まで工学寮ならびに工
た
。
「
そ
の
内
容
は
英
文
カ
レ
ン
ダ
ー
と
悉
く
符
合
す
る
」
。
し
部
大
学
校
に
勤
務
し
た
。
こ
の
間
の
職
務
は
二
つ
あ
っ
た
。
そ
の
ー
は
,
教
師
と
し
て
土
木
学
・
機
械
学
の
講
義
と
実
習
の
指
か
も
,
同
『
規
則
導を担当することであり,そのこは,都検(教頭)と
本
に
お
い
て
変
更
は
な
く
,
工
部
大
学
校
の
性
格
を
決
定
づ
け
し
て
教
師
の
筆
頭
に
位
置
し
て
学
校
の
編
制
,
学
科
課
程
の
作
る
こ
と
に
な
る
」
点
で
重
要
で
あ
る
。
商
業
教
育
と
違
っ
て
,
日
本
で
は
未
曾
有
の
こ
と
で
あ
っ
た
だ
度
版
と
け
に
,
学
校
の
編
制
と
学
科
課
程
の
策
定
と
い
う
期
待
に
応
え
年
年
度
,
て
,
工
学
教
育
の
組
織
化
に
寄
与
し
た
こ
と
は
特
筆
さ
れ
る
。
1884 年度.
1876
1878
い
て
変
更
は
な
日
本
へ
の
赴
任
に
あ
た
り
,
工
年
度
版
,
1875
年度.
1885
1879
に
関
し
て
受
け
入
れ
ら
れ
た
」
と
い
う
。
か
れ
が
作
成
し
た
と
い
う
カ
レ
優
秀
生
に
対
す
る
褒
章
規
定
(
明
治
7
)
,
鋳
鋳
試
検
局
お
よ
び
ン
ダ
ー
の
原
本
は
発
見
さ
れ
て
い
な
い
け
れ
ど
も
,
そ
の
内
容
工
学
試
検
局
と
い
う
付
属
施
設
の
新
設
(
明
治
7
)
,
官
費
生
に
は
明
治
加
え
て
私
費
生
の
入
学
許
可
(
明
治
(
明
治
1880
8
8)
年
1877
年度.
1883
年
度
の
英
文
版
を
調
査
し
た
が
.
修
学
し
文
カ
レ
ン
ダ
ー
に
反
映
さ
れ
て
い
る
と
推
定
さ
れ
て
い
る
。
年度,
j ぃ
。
明
治
これを提出すると「いかなる変更もなしに日本政府に
年
に
工
学
寮
が
印
刷
・
刊
行
し
た
下
記
の
英
(
明
治
w工
部
大
学
校
学
課
並
諸
規
郎
』
の
学
教
育
機
関
の
た
め
の
カ
レ
ン
ダ
ー
(
学
校
要
覧
)
を
作
成
し
6 (1873)
I基
筆
者
は
『
工
学
寮
学
課
並
諸
規
則
』
の
成
に
関
与
す
る
こ
と
で
あ
っ
た
。
工
学
教
育
は
,
農
業
教
育
や
ダイアー自身によるど,
j は
こ
れ
以
後
何
回
か
改
正
さ
れ
る
が
,
年度,
I基
本
に
お
(1875)
年6月
に
修
学
順
序
3 ・ 4年
次
の
二
年
間
は
毎
年
6 カ
月
間
は
学
校
で
6 カ
月
は
実
地
修
業
す
る
と
修
正
さ
れ
た
ほ
か
,
成
績
9)
,
身
体
運
動
の
規
定
10) ,
造
船
学
の
増
設
(
明
治
15)
な
ど
が
加
わ
る
け
れ
ど
も
,
大
筋
の
変
更
は
認
め
ら
れ
な
い
。
11 叫:p eri α l
C
o
l
l
e
g
eo
fEngineering ,T
o
k
e
i
. Calend
S
e
s
s
i
o
nMDCCCLXXIII-LXX
Tok 巴i.
実
学
重
視
と
い
う
工
学
教
育
理
念
,
な
ら
び
に
工
学
部
を
草
αれ
創
期
か
ら
大
学
の
な
か
に
位
置
づ
け
る
と
い
う
日
本
の
工
学
教
刀f
育
制
度
は
,
ダ
イ
ア
ー
の
創
案
に
成
る
,
上
記
の
P
r
i
n
t
e
da
tt
h
eCollege , 1
8
7
3
.
1873
文
カ
レ
ン
ダ
ー
に
始
ま
る
と
考
え
ら
れ
る
同
英
文
カ
レ
ン
ダ
ー
に
よ
る
と
,
修
業
年
限
は
そ
れ
を
一
般
科
学
,
専
門
学
,
実
地
学
に
年
の
英
(4) 。
(2)
6年
と
し
,
2年
づ
つ
あ
て
る
。
ダイアーの工学教育構想は,学理と実地の交代,理
最
初
の
二
年
間
は
英
語
・
地
理
学
・
初
級
数
学
・
初
級
機
械
論と実践の結合を重視した構想であった。これが成っ
学
・
初
級
物
理
学
・
化
学
・
工
学
製
図
か
ら
成
る
。
そ
の
後
の
たのも,若いころジェイムス・エイトキン(James
-4 ー
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
第 56 巻
第 2 号 (2009
Aitken) 社という鋳物工場で徒弟修業をした体験とグ
有
力
科
学
技
術
雑
誌
が
,
ラスゴウ大学における工学の学習,ならびにヨーロッ
き
に
注
目
し
て
い
た
こ
と
に
な
る
。
パ諸国の工業教育制度についての調査研究をもとに,
日
本
に
お
け
る
工
科
大
学
設
立
の
動
以
後
も
,
い
く
つ
か
の
新
聞
・
雑
誌
が
何
回
も
取
り
あ
げ
た
。
工学寮ならびに工部大学校という工学の実務的な人材
そ
の
内
容
は
,
建
物
・
敷
地
の
配
置
,
卒
業
式
,
ダ
イ
ア
ー
の
育成のための専門教育機関の教育課程を構想したと考
歓
送
会
,
記
念
講
演
,
入
学
試
験
・
定
期
試
験
な
ど
細
事
に
ま
えられる。
で
及
ん
で
い
る
。
と
り
わ
け
学
課
課
程
の
内
容
編
成
な
ら
び
に
後年,自著のなかでもこのような工学教育構想の意
教
育
体
制
に
強
い
関
心
が
示
さ
れ
た
。
入
手
し
た
『
カ
レ
ン
義を主張し, r大日本j (1904) や『大局的にみたエンジ
ダ
ー
』
を
も
と
に
し
た
詳
細
な
解
説
記
事
を
載
せ
そ
こ
か
ら
ニアの教育と実務に関する提言 (IntI吋uctory A
d
d
l
'
e
s
s
英
国
の
工
学
教
育
に
対
す
る
批
判
を
引
き
出
し
,
同
時
に
工
部
ont
h
eTn αining
A
s
p
e
c
t
s
)
j (1905)
ωld
Worko
fE
n
g
i
n
e
e
r
si
nT
h
e
i
l
'~
号
では,
de l'
rエ
ン
ジ
ニ
ア
の
教
育
に
お
け
る
大
学
校
に
お
け
る
工
学
教
育
の
特
質
と
そ
の
先
進
性
に
論
及
し
て
い
る
理
論
と
実
践
の
結
合
の
方
法
は
夜
、
が
日
本
に
導
入
し
た
」
と
自
17 日,
負
し
て
い
る
。
日,
工
学
の
実
務
的
な
人
材
育
成
を
め
ざ
し
た
教
育
活
動
の
成
果
J 誌 1874 年 3 月 12 日,
J 誌1877 年 5 月 18 日,
rエ
ン
ジ
ニ
ア
リ
ン
グ
』
誌
6年
に
工
学
寮
と
し
て
開
校
工
学
教
育
体
制
の
変
容
,
19 年
に
帝
国
大
学
に
併
合
さ
れ
る
ま
で
に
,
493 名
の
18 年
末
ま
で
に
1877 年 7 月 27 日
な
ど
)
。
工
日
本
工
学
教
育
史
に
お
け
る
工
部
大
学
校
の
位
置
な
ど
を
め
ぐ
っ
て
,
報
じ
て
い
る
。
211 名
の
卒
業
生
を
工
部
大
学
校
が
英
毘
の
新
聞
・
雑
誌
上
で
注
目
さ
れ
て
い
た
送
り
だ
し
た
。
追
跡
調
査
に
よ
る
と
,
か
れ
ら
は
研
究
活
動
,
こ
ろ
と
い
え
ば
,
欧
米
で
は
総
合
的
な
高
等
技
術
教
育
機
関
は
教
育
活
動
,
実
業
活
動
と
い
う
三
つ
の
側
面
に
お
い
て
,
ダ
イ
ま
だ
設
立
途
上
に
あ
っ
た
。
英
国
で
は
,
ア
ー
が
期
待
し
た
実
践
的
な
力
量
を
発
揮
し
て
,
明
治
日
本
の
た
つ
の
万
国
博
覧
会
を
機
に
,
学
校
教
育
形
態
で
の
科
学
技
術
形
成
に
寄
与
し
て
い
る
。
教
育
の
組
織
化
が
国
家
的
課
題
で
あ
る
と
の
認
識
が
高
ま
り
,
以
上
の
よ
う
な
工
学
教
育
の
組
織
化
な
ら
び
に
実
務
的
人
材
1851 年
と 67 年
の
ふ
他
国
の
実
状
調
査
が
精
力
的
に
始
め
ら
れ
て
い
た
。
そ
の
よ
う
の
育
成
と
い
う
功
労
に
対
し
,
明
治
15 ·(1882)
年 10 月 24
な
な
か
,
工
部
大
学
校
へ
の
関
心
は
高
ま
り
を
み
せ
て
い
る
。
日
,
ダ
イ
ア
ー
は
勲
三
等
に
叙
せ
ら
れ
旭
日
中
綬
章
が
授
与
さ
も
っ
と
も
,
そ
の
論
調
に
は
者
干
の
変
化
が
う
か
が
わ
れ
れ
た
。
そ
の
き
い
の
「
ヘ
ン
リ
ー
,
ダ
イ
エ
ル
氏
奉
職
履
歴
概
る
。
当
初
は
日
本
政
府
の
要
議
を
受
け
た
の
で
産
業
発
展
の
基
略J に
は
,
工
学
人
材
養
成
の
た
め
の
「
学
課
並
諸
規
則
ヲ
選
礎
と
考
え
ら
れ
う
る
「
西
欧
文
明
の
特
徴
的
な
も
の
を
伝
え
て
定
」
し
,
r校
舎
ノ
構
造
教
場
ノ
位
置
等
ヲ
計
画
J し,
二
関
ス
ル
一
切
ノ
器
械
書
籍
等
ヲ
装
置
ス
ル
ノ
功
績
が
称
え
ら
れ
て
い
る
1877 年 5 月
1878 年 6 月 28
ら
文
部
省
に
移
っ
て
か
ら
も
,
移
行
・
移
管
を
含
め
た
日
本
の
と
な
る
。
工
部
大
学
校
は
,
明
治
学
生
を
入
学
さ
せ
,
明
治
cr ネ
イ
チ
ャ
ー
rエ
ン
ジ
ニ
ア
部
大
学
校
が
帝
国
大
学
工
科
大
学
に
な
り
,
所
管
が
工
部
省
か
は
,
そ
の
卒
業
生
の
活
躍
状
況
を
追
跡
す
こ
と
に
よ
っ
て
可
能
し
明
治
r工
学
準
備
」
を
し
た
や
ろ
う
J 左
い
う
姿
勢
で
あ
っ
た
。
そ
れ
が
工
学
寮
な
い
し
工
部
大
学
校
が
開
校
し
た
後
は
そ
の
教
育
方
式
を
称
讃
し
,
そ
れ
(5) 。
は
英
国
が
模
範
と
す
る
に
値
す
る
と
考
え
ら
れ
た
。
「
エ
ン
ジ
(3)
ニ
ア
の
体
系
的
教
育
に
お
け
る
著
し
い
遅
れ
」
が
国
家
的
な
重
工
学
寮
な
ら
び
に
工
部
大
学
校
の
誕
生
は
,
英
国
で
関
心
を
要
問
題
に
な
っ
て
い
た
英
国
に
と
っ
て
,
工
部
大
学
校
は
「
作
も
っ
て
受
け
と
め
ら
れ
て
い
た
。
英
国
は
ダ
イ
ア
ー
ら
同
校
の
業
場
に
お
け
る
生
の
実
際
的
経
験
」
と
「
高
度
な
科
学
的
訓
練
」
お
雇
い
教
師
を
送
り
出
し
た
だ
け
に
,
当
時
の
新
聞
・
雑
誌
は
,
と
を
賢
明
に
結
合
さ
せ
た
点
に
お
い
て
,
理
想
的
な
教
育
機
関
極
東
の
日
本
に
誕
生
し
た
世
界
的
に
あ
た
ら
し
い
総
合
的
工
科
で
あ
る
と
理
解
さ
れ
て
い
た
の
で
あ
る
(6) 。
大
学
と
認
識
し
,
驚
き
と
賛
辞
を
も
っ
て
繰
り
返
し
取
り
あ
げ
2.
て
い
る
。
1
8
7
3 (明治
管
見
に
よ
る
と
,
チ
ャ
ー
』
誌
が
「
日
本
の
工
科
大
学
た
の
を
皮
切
り
に
,
6)
年 4 月 3 日,
8 日
後
の
4 月 11 日には,
帝
国
財
務
及
工
業
通
信
員
の
嘱
託
rネ
イ
(1)
J と
い
う
記
事
を
掲
載
し
ア
』
誌
が
『
ネ
イ
チ
ャ
ー
』
誌
の
向
記
事
を
再
録
し
た
し
,
ダ
イ
ア
ー
は
,
明
治
政
府
の
帝
国
財
務
及
工
業
通
信
員
に
任
rエ
ン
ジ
ニ
命
さ
れ
,
英
国
へ
の
日
本
紹
介
を
主
務
と
す
る
業
務
を
委
託
さ
rエ
れ
た
。
明
治
35
(1902)
年3 月
の
こ
と
で
あ
っ
て
,
お
雇
い
ン
ジ
ニ
ア
リ
ン
グ
』
誌
も
ま
た
「
日
本
の
工
学
の
進
展
,
江
戸
解
除
後
も
日
本
と
親
密
な
関
係
を
保
ち
日
英
交
流
の
推
進
に
寄
に
工
科
大
学
誕
生
与
し
て
い
た
と
い
う
実
績
に
か
ん
が
み
,
推
薦
さ
れ
た
も
の
で
j と
い
う
記
事
を
載
せ
,
設
立
計
画
案
に
つ
い
て
詳
し
く
報
じ
て
い
る
。
ダ
イ
ア
ー
ら
お
雇
い
教
師
の
第
一
あ
る
。
他
の
お
雇
い
教
師
に
は
み
ら
れ
な
い
特
異
な
経
歴
で
あ
陣
が
林
董
る。
し
た
の
が
年度)
(1850-1913)
に
伴
わ
れ
て
サ
ザ
ン
プ
ト
ン
を
出
港
1873 年 4 月
初
旬
の
こ
と
だ
か
ら
,
早
く
も
英
国
の
そ
も
そ
も
帝
国
財
務
及
主
業
通
信
員
の
委
嘱
は
,
駐
英
ロ
ン
-5-
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
ドン領事館一等領事荒川巳次 (1857 -1949) の発案に
知
ラ
シ
メ
及
ヒ
外
国
ニ
於
ケ
ル
情
況
ヲ
時
々
報
道
ス
ル
コ
ト
」
はじまる。荒川は工部大学校を卒業(明治 13年,鉱山
を
期
待
す
る
,
と
伝
え
ら
れ
た
。
具
体
的
に
は
,
毎
年
の
予
算
科第二等及第)後,工部省鉱山局,日本鉄道会社をへ
計
画
な
い
し
半
期
ご
と
の
輸
出
入
の
状
況
に
つ
い
て
,
定
期
的
に
簡
単
な
論
評
を
草
す
る
こ
と
,
あ
る
い
は
大
蔵
省
そ
の
他
が
て外交官に転身,ロンドンに赴任していた。
赴任中の明治 34 (1901) 年 11 月 26 日, 1元工部大学教
頭へンリ」・ダイエル博士 Dr.
及
工
業
通
信
員
ニ
任
命
ノ
義
菓
請
(1855-1911)
H
e
n
r
yDyer
欧
文
で
刊
行
し
た
財
政
・
経
済
に
関
連
の
あ
る
統
計
報
告
類
,
な
ら
び
に
重
要
な
財
政
計
画
,
鉄
道
・
航
海
・
銀
行
・
保
険
・
ヲ
帝
国
財
務
J を
外
務
大
臣
小
村
寿
太
郎
あ
て
に
送
付
し
て
申
し
で
た
。
そ
の
内
容
は
,
鉱
業
・
各
種
工
業
・
農
業
な
ど
の
沿
撃
と
現
状
に
つ
い
て
の
論
評
を
英
国
で
発
表
な
い
し
講
演
す
る
こ
と
,
な
ど
で
あ
る
。
(2)
主
に 3点
か
ら
な
る
。
第
ー
は
発
議
の
事
由
で
あ
っ
て
,
日
本
の
財
政
な
ら
び
に
経
済
社
会
の
現
況
を
ロ
ン
ド
ン
市
場
に
知
ら
帝国財務及工業通信員どしての活動に対して毎月 10
せ
る
と
と
も
に
,
英
国
民
へ
も
詳
し
く
報
ず
る
こ
と
は
,
日
本
ポンド(年間 120 ポンド)が支給されつづけたというか
の
経
済
社
会
の
趨
勢
上
す
こ
ぶ
る
必
要
で
あ
る
と
恩
わ
れ
る
。
ら,どのような成果があらわれ,
と
く
に
こ
れ
ま
で
に
新
聞
紙
上
に
あ
ら
わ
れ
た
日
本
の
財
政
お
かなる寄与をなしたのか。探究すべき課題であるけれ
日英関係の増進にい
よ
び
商
工
業
の
実
情
に
つ
い
て
の
記
事
は
,
英
国
の
実
業
家
を
ども,具体的にこれを測定することはむつかしい。
本件は機密扱いとされただけに,外務省外交史料館
覚
醒
し
た
観
が
あ
る
。
こ
の
よ
う
な
任
務
を
,
ダ
イ
ア
ー
に
委
にある基本文書 (I ヘンリー・ダイエル博士ヲ帝国財政
嘱
し
よ
う
と
い
う
の
で
あ
る
。
及工業通信員ニ任命方在倫敦領事裏請一件」なめに
第
二
は
,
推
薦
す
る
理
由
で
あ
る
。
ダ
イ
ア
ー
は
お
雇
い
教
師
を
解
約
後
,
郷
塁
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
戻
っ
て
か
ら
も
,
日
本
も,成果にかかわる記述は認められない。同文書には,
の
利
益
に
留
意
し
つ
づ
け
て
き
た
。
日
本
経
済
の
現
況
に
か
か
「官房秘」あるいは[機密送」というスタンプや書きこ
わ
る
報
告
や
論
説
を
新
聞
・
雑
誌
に
発
表
す
る
こ
と
を
と
お
し
みがあちこちに認められる。
ただし,
て
,
日
本
の
た
め
に
尽
力
し
て
い
る
。
英
国
の
商
工
業
者
の
、
注
1本邦財政経済ニ関スル事項ヲ新聞雑誌ニ
掲載j するという任務についてなら,ダイアーは下記
意
を
す
こ
ぶ
る
喚
起
す
る
と
こ
ろ
が
あ
っ
た
。
のような論稿を発表している。
当
時
,
大
蔵
省
は
財
務
通
信
員
を
ロ
ン
ド
ン
ほ
か
世
界
の
主
01 日本における教育と国家的効率j
要
都
市
に
派
遣
し
,
当
該
国
の
財
務
を
調
査
さ
せ
て
い
た
。
農
『ネイチャー j
商
務
省
も
ま
た
,
毎
年
,
相
当
な
金
額
を
投
じ
て
商
工
業
視
察
(1904年 12 月 15 日)
01 日本産業と外国投資j
員
を
各
留
に
派
出
し
,
日
本
と
当
該
国
の
資
本
家
な
ら
び
に
商
『財政評論誌j (1906年 2 月)
工
業
者
間
の
疎
通
を
は
か
ろ
う
と
し
て
い
た
し
,
商
品
陳
列
館
01 日本の商業道徳」
を
海
外
各
地
に
設
け
て
日
本
の
貿
易
の
伸
長
を
企
て
つ
つ
あ
っ
た
。
そ
れ
だ
け
に
,
ダ
イ
ア
ー
の
よ
う
に
,
『財政評論誌j (1906年 3 月)
1能
ク
当
国
ト
帝
屈
o1 日本における外国投資の法的側面J
ノ
事
情
ニ
精
通
シ
旦
ツ
熱
心
ニ
我
カ
帝
国
ノ
隆
運
ヲ
希
望
ス
ル
『財政評論誌 j (1906年 8 月)
者
」
を
活
用
し
な
い
手
は
な
い
で
あ
ろ
う
。
日
本
の
国
情
を
英
01 日本の借款更改一政府全権公使高橋是清とのイ
国
民
に
頻
繁
に
知
ら
せ
る
と
と
も
に
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
ほ
か
各
都
市
の
産
業
の
活
動
状
況
を
報
告
さ
せ
る
こ
と
は
,
日
本
に
と
っ
ンタピュー」
て
き
わ
め
て
有
効
で
、
あ
る
と
考
え
ら
れ
る
。
つ
い
て
は
,
第
三
f財政評論誌j (1906年 11 月)
o1 日本からの教訓IJ
に
,
大
蔵
省
ま
た
は
農
商
務
省
よ
り
「
帝
国
経
済
又
ハ
工
業
特
『協同組合年報j
別
通
信
員
ノ
如
キ
名
義
ヲ
以
テ
相
当
ノ
手
当
金
ヲ
下
付
セ
ラ
ル
、
様
街
『タイムズ j (1908年 3 月 18 日)
当
金
は
「
当
国
一
般
ノ
実
況
上
,
年
約
千
二
,
三
百
円
(
英
貨
百
弐
拾
傍
)
内
外
ノ
ト
コ
ロ
ニ
テ
可
然
」
と
提
案
し
て
い
る
。
01 日本の商業教育 j
『グラスゴウ・ヘラルド j
荒
川
領
事
の
構
想
と
提
案
は
,
日
本
政
府
の
了
承
を
と
り
つ
け
る
こ
と
が
で
き
た
。
明
治
長
官
阪
谷
芳
郎
(
1
8
5
7-1929)
-1941)
あ
て
に
送
付
し
た
文
書
に
は
,
(1910年 11 月 26 日)
01東洋貿易,日本と中国の工学j
35 年 2 月
日
臼
付
で
,
大
蔵
総
務
(1863
(1908月 3 月)
01 日本の工学」
l詮
議
ヲ
仰
キ
度
候
」
と
申
し
出
,
ダ
イ
ア
ー
へ
の
手
f グラスゴウ・ヘラルドj (1912年 12 月 31 日)
が
外
務
総
務
長
官
弥
回
捨
巳
このうち, r財政評論誌j という月刊誌に. 1906年の
1右
ハ
頗
ル
有
1 年間に日本の財政と商業道徳をめぐる 4 本の論説を
益j だ
か
ら
「
帝
国
財
務
通
信
員
タ
ル
コ
ト
ヲ
嘱
託
致
度
」
と
あ
る
。
ダ
イ
ア
ー
に
は
「
本
邦
財
政
経
済
ニ
関
ス
ル
事
項
ヲ
新
寄せたことが注目される。第一作「日本産業と外国投
聞
雑
誌
ニ
掲
載
シ
又
ハ
其
他
ノ
方
法
ヲ
以
テ
一
般
外
国
市
場
ニ
資J では,日本の教育制度ならびに憲法制度などの整
-6 一
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
第 56巻第 2 号 (2009年度)
備が進んでいることを指摘し「日本への投資の安全
グラスゴウ大学に新設される造船学教授職につくこと
性を保証し」ょうとした。第二作「日本の商業道徳 j
を念願するなかで進められたが. 1
8
8
3 (明治
では,日本における商人の地位の改善ならびに商業道
続
い
て
徳の水準の向上を紹介した。第三作「日本における外
向
に
転
換
し
た
。
ま
ず
教
育
改
革
の
研
究
に
む
か
い
,
さ
ら
に
国投資の法的側面J では,
日本への投資は政府の権威
幅
を
広
げ
て
社
会
改
革
に
つ
い
て
も
考
察
し
た
。
教
育
改
革
研
にもとづいているがゆえに大いに安全で、あることに言
究
と
し
て
は
,
技
術
者
教
育
の
改
革
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
の
技
術
教
及している。第四作「日本の借款更改J は,
育
改
革
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
の
改
革
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
市
初
等
・
日本が英
貨公債を募集する正当性と安全性を指摘している。
一連の論説が発表された 1906年ころといえば.
年
に
中
等
教
育
改
革
を
め
ぐ
る
考
察
の
四
種
あ
る
。
社
会
改
革
研
究
と
し
て
は
,
キ
リ
ス
ト
教
会
の
改
革
な
ら
び
に
協
同
組
合
運
動
I日
本は,日露戦争に伴う臨時費を支弁したり,各種産業
の
推
進
に
か
か
わ
る
考
察
が
み
ら
れ
る
。
に外資を導入したりするため,さかんに英貨公債を募
集していた j 。そのようななか,
16)
1886 年
に
も
選
考
に
漏
れ
る
と
,
こ
れ
を
境
に
別
の
方
19 世
紀
末
か
ら
世
界
に
お
け
る
日
本
関
心
が
高
ま
り
,
日本の財政事情を論
し
か
も
日
英
関
の
協
調
が
一
段
と
進
展
す
る
よ
う
に
な
る
と
,
日
本
じ,それを通して日本の進展および日本人の特性に言
研
究
を
意
欲
的
に
お
し
す
す
め
た
。
ダ
イ
ア
ー
の
日
本
研
究
に
及したものである。日本の財政事情にとどまらず,日
は,
本の商業道徳の向上,外匿と対等になることを熱望す
と
い
う
個
別
主
題
に
つ
い
て
の
研
究
,
な
ら
び
に
『
大
日
本
る日本の国民性,
『
世
界
政
治
の
な
か
の
日
本
(
J
i
叩
日露戦争における日本の立場などに
ついても,紹介ないし擁護している。このような著作,
日
本
の
経
済
社
会
,
工
業
教
育
,
商
業
教
育
.
{I 多
身
教
育
j
αη 仰 W01"ld
Politi
ω
H
と
い
う
総
合
的
な
日
本
研
究
が
あ
る
。
後
者
の
著
書
は
,
そ
れ
ぞ
とくに日本の借款あるいは外国の投資をめぐる著作は
れ
本
文
多くのデータを集めて展開されており,世界への日本
の
歴
史
や
現
状
や
課
題
を
実
証
性
の
高
い
研
究
と
し
て
集
大
成
450 頁
な
ら
び
に
418 頁
と
い
う
大
作
で
あ
り
.
紹介ならびに日英関係の促進に寄与したであろうと思
し
た
」
と
評
さ
れ
て
い
る
。
「
当
時
の
外
国
人
に
よ
る
日
本
研
われる。
究
書
と
し
て
は
最
高
水
準
の
も
の
で
あ
る
」
と
も
位
置
づ
け
ら
なお,帝国財務及工業通信員の嘱託制度はいつま
I日
本
れ
て
い
る
。
『
大
日
本
でも続いたわけではなかった。ロンドンのほかに
j r世
界
政
治
の
な
か
の
日
本
』
と
い
う
著
書
の
ニューヨーク,上海,ボンベイにおいても,当該地の
ほかに.
財政経済状況についての調査報告を嘱託し調査手当が
Nα tion 日t 互
加 cien C1J iηJα 'P an)
支給されてきたのだけれども,日本政府の行政整理な
教
訓 I
らびに経費節減策が進むなか,大正 2
論稿も含めて,著作の題名に「日本(Japan , Japan巴se.
(1913) 年度か
I日
本
の
教
育
と
国
家
的
効
率
(Educ
ら嘱託は解かれることになった。ただしダイアーに
DaiN
i
p
p
o
n
)J を冠したものだけでも
対する財務通信事務の委託および手当の支給について
年
,
そ
の
業
績
が
見
直
さ
れ
,
西
洋
ジ
ャ
パ
ノ
ロ
ジ
ス
ト
著
作
は.
集
シ
リ
ー
ズ
の
ー
っ
と
し
て
.
I 当分従前ノ通継続j とされたことが注目される。
死去 (1918年)まで嘱託が継続されたと推定される (7) 。
集
成
(2006)
3
.
(The
rへ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
著
作
が
編
集
・
刊
行
さ
れ
る
に
至
っ
て
い
る
汁
全
5巻
O
(2)
(1)
ダ
イ
ア
ー
の
日
本
研
究
に
は
,
分
析
の
方
法
と
視
角
,
な
ら
びに研究素材の点で特筆すべきところがある。
さ
れ
た
『
オ
ッ
ク
ス
フ
ォ
ー
ド
英
国
伝
記
事
典
ηaryojNatio
αnd
17 点
を
数
え
る
。
近
C
o
l
l
e
c
t
e
dW
r
i
t
i
n
g
so
jHem 、yDyel
日
本
研
究
の
進
展
ダ
イ
ア
ー
は
多
数
の
著
作
を
残
し
て
い
る
。
先
般
刊
行
Dictio
日tion
J(1904). I 日本からの
(SomeL
e
s
s
o
n
sfromJ,αpαη) J(1908) などという
叩 lBiogr<
(Oxj01"d
α:phy)
第
一
に
,
母
毘
英
国
と
の
比
較
と
い
う
方
法
が
随
所
で
駆
使
j (2004) では. I多
されている。しかも,
産な著述家」であることが特筆されている。
日
本
を
モ
デ
ル
固
と
位
置
づ
け
,
日
本
か
ら
学
ん
だ
教
訓
を
英
国
の
改
革
に
役
立
て
よ
う
と
し
て
い
筆者が収集しただけでも,図書・冊子は 42点,論文・
た
こ
と
が
注
目
さ
れ
る
。
論説は 70点を数える。その数が多いだけでなくその幅
比
較
の
視
座
は
,
ダ
イ
ア
ー
の
教
育
活
動
や
著
作
に
早
く
か
も広い。著作の主題は,工学教育,工学研究,教育改
ら
あ
ら
わ
れ
て
い
る
。
お
雇
い
教
師
と
し
て
来
日
し
,
工
部
大
革,社会改革,そして日本研究に大別することができ
学
校
の
教
育
な
ら
び
に
経
営
を
託
さ
れ
た
と
き
,
す
で
に
世
界
る。
の
「
有
力
な
教
育
機
関
の
組
織
を
研
究
し
て
最初,お雇い教師のころは工学教育と技術者教育を
ロ
ッ
パ
諸
国
に
お
け
る
工
学
人
材
養
成
制
度
と
英
国
流
の
実
地
めぐって考察した。帰国後は,まず工学の学術研究が
重
視
の
教
育
と
を
組
み
合
わ
せ
た
方
式
を
取
り
い
れ
よ
う
と
し
緒についたけれども長くは続かなかった。工学研究は
た
。
帰
国
後
,
英
国
,
と
く
に
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
の
技
術
教
育
の
改
7
j お
り
,
ヨ
ー
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
あ
る J と
ま
で
主
張
さ
れ
て
い
る
。
革を押し進めるときも,工部大学校で試みた実践なら
教
育
の
な
か
で
も
と
く
に
工
業
教
育
が
,
そ
れ
も
政
府
主
導
びに日本を含めた世界の状況についての視察と考察の
成果が,視野に入れられた。日本が驚異的な成長をし
の
工
業
教
育
制
度
が
英
国
へ
の
教
訓
!
と
し
て
役
立
つ
こ
と
が
論
19世・紀末に国際社会の一員として台頭すると,その原
述
さ
れ
て
い
る
。
工
業
教
育
だ
け
で
は
な
く
,
日
本
の
商
業
教
動力の分析をとおして,停滞する英国社会への教訓|を
育
な
ら
び
に
修
身
教
育
に
つ
い
て
も
,
英
国
の
教
訓
に
せ
よ
と
ダ
イ
ア
ー
は
説
く
。
『
世
界
政
治
の
な
か
の
日
本
指し示そうとした。
「制度改革の発想 i原として,英国が日本に関心、を抱
いた歴史は驚くほど長い j が,ダイアーは 20世紀初
j
民
生
活
j I日
本
の
商
業
教
育
Jα pan)
J(1910)
(Cormnercial
r教
育
と
国
Educ
α tio η in
ではそのような主張が認められる。
I英国の海外政策と国内の諸制度は,広汎な批判
ダイアーの日本研究における第三の注目点は,多数
と再評価の対象になっていた」なかで. I積極的に発言
の日本関係資料を活用したことである。『大日本』で
した」一人であった。たとえば.
r大日本j (1904) の
あれ『世界政治のなかの日本』であれ,数多くの文献
なかでは,英淘の「国民生活の進化は,比較的遅々と
史料や情報が含みこまれている。お雇い教師として同
期.
I 産業の発展は,その
じような日本体験をもった外国人はほかにも少なくな
多くがいまや急速に消滅しつつある状況に依存してい
かったのに,ダイア}がこのような文献史料や情報に
る j のに対して.
恵まれた理由は二点考えられる。
した歩みをたどっている J し.
I どこにもまして日本はそれぞれ教
そのーは,
育上の措置を充実させてその成果を国家の事業に反映
日本の友人たち,
とりわけ工部大学校関
させ,国内の経済と社会の状況および海外における通
係者からの協力が考えられる。「日本にいる私の友人
商の拡大に大きな成果を及ぼしている」こと. I 日本人
たちは,引き続いてかなり重要な新聞雑誌や公式報告
は,図の進歩を目指して教育制度にしっかりした基礎
などを私の許に送り届けてくれている。またイギリス
を築いた。この教育制度はあらゆる分野にわたって非
を訪問した場合には,私のところに立ち寄って最近の
常に行き届いたもので,いくつかの点でイギリスに教
日本事情を話題に,
訓を提供した J ことなどを,指摘している。
している。」とダイアーは言日している。そのなかでも
日本研究において特筆すべき第二点は,
日本の成長
「日本各地のさまざまな分野で活躍している私の教え
における教育の役割を重要視したことである。英国と
子J の協力にとくに感謝し. r大日本』では謝辞を記し
の比較をとおして「日本の国家的教育制度」を高く評
ている。
その二に,
価した。
じっくり時間をかけて意見を交換
日本政府を通じて資料を入手したことが
日本の急速な成長は「それまでに日本で確立されて
注目される。前記のように,明治35 (1902) 年に帝国
きたきわめて完墜な教育制度」の基盤の上で展開され
財務及工業通信員に任ぜられたことで,日本政府を介
I 日本の近年の歴史は,教育に責任を負
して多くの日本情報を自在に活用することができるよ
う者が高い国家的理想、に鼓舞された場合,賢明に方向
うになり,本格的な日本研究が進展し特色ある成果を
づけられた教育制度が留事に対して影響を与えるとい
著したのである。
たとみなし.
そのさい,ダイアーは「英語で書かれた資料に依拠
うことを示すもっとも顕著な実例である j と指摘して
いる。そのさい,自生的に工業化が進んだ母毘英国と
し J たのだが.
の比較をとおして,日本の国家的教育制度に注目し,
最良の西洋人のために準備したものだった J というこ
日本の経験は f英国への教訓!となる j と説いた。
とに留意しなければならない。日本は英国が学ぶべき
で
も
「
日
本
か
ら
の
教
訓
特
設
さ
れ
て
い
る
。
既
述
の
よ
う
に
.
的
効
率
J (1904)
とと関連があるように思われる (8) 。
と
い
う
項
目
が
4.
I日
本
の
教
育
と
国
家
あ
る
い
は
「
日
本
か
ら
の
教
訓
と
題
す
る
論
稿
も
あ
る
。
そ
の
論
稿
「
日
本
か
ら
の
教
訓
冒
頭
に
は
.
IJ
日本の政府役人が日本
モデルになると評価して,好意的な日本像を描いたこ
『大日本j では「英国が学ぶべき教訪IIJ という項目が,
また冊子『教育と国民生活 (Education ωldN,α tional
L
i
f
e
)
j (1 912)
I その多くは,
IJ
日本関係コレクションの形成
(
1
9
0
8
)
(1)
ダイアーには.
IJ の
「ダイアー遺贈品
I国
際
社
会
の
一
員
と
し
て
日
本
が
台
頭
し
た
こ
Iダ
イ
ア
ー
・
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
」
あ
る
い
は
(Dyer
B
e
q
u
e
s
t
)J と呼ばれる在英日
本
関
係
資
料
が
あ
る
。
お
雇
い
教
師
と
し
て
日
本
に
滞
在
し
て
と
が 19 世
紀
後
半
の
政
治
的
驚
異
で
あ
る
こ
と
は
広
く
認
め
ら
れ
て
い
る
が
,
そ
れ
を
も
た
ら
し
た
原
因
を
考
究
し
そ
の
教
訓
|
以来,
を
で
き
る
だ
け
生
か
し
て
成
果
が
え
ら
れ
る
よ
う
学
ぶ
こ
と
流
を
重
ね
る
な
か
で
形
成
さ
れ
た
資
料
群
で
あ
る
。
日
本
か
ら
は
,
世
界
の
す
べ
て
の
国
の
義
務
で
あ
り
同
時
に
関
心
事
で
も
大
量
の
日
本
事
物
を
持
ち
帰
っ
た
が
,
そ
れ
だ
け
で
な
く
,
帰
8 一
日
本
へ
の
関
心
を
持
ち
つ
づ
け
,
日
本
と
の
関
係
と
交
第 56巻第 2 号 (2009年度)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
国後に加わった諸品も含まれている。
の来日外国人による著作,あるいは森有ネL ,新渡戸稲
ダイアー・コレクションといっても一括しであるの
造,菊池大麓,野日米,益田孝,岡倉覚三,松方正義
ではなく,いくつかに分割されて保管されている。筆
ら国際的に活動した日本人による英書など,あわせて
者の調査によれば,五つの資料群がある。グラスゴウ
215点を数える。日本の案内書や地図帳の類い(東海道
のミッチェル図書館ならびにケルヴイングローブ美術
箱根関の地図 2 帖,江戸の地図 11防など)も 85点ある。
館・博物館,エデインパラ市中央図書館には大型のコ
これら日本関係の英書以,
レクションが所蔵されている。ダイア}が学んだグラ
政治のなかの日本j
r大日本』ならびに『世界
スゴウ大学ならびにストラスクライド大学には,大型
かされたであろうと考えられる。ちなみに,
ではないがダイアー関係史料がある。工部大学校の都
の巻末に掲出された参考書目一覧,ならびに本文中に
というダイア{の大著の執筆に生
r大日本』
検職に選ばれるさいにダイアーみずから編集した『推
指摘・引用された書目は総数92 点にのぼるが,筆者の
薦書・成績証明書一覧 (Selections j
r
0
1
nT
e
s
t
i
m
o
n
i
a
l
s
確認では,そのうち少なくとも 51 点がダイアー遺贈図
n1YD
ym;C
.E. , ont
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P
r
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n
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db
yHe
書のなかに含まれている。
日sionofHis
Appointmenta
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p
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r
i
a
lC
o
l
l
e
g
eo
f
Engineel
加g,
Tokio , Jap側).J
(1873) ,工部大学校の
第三に,ダイアー帰国後に日本から贈呈された資料
ダイアー著 ηw E
v
o
l
n
t
i
o
no
fI
n
d
n
s
t
1
Y(
1
8
9
5
)
として,
教師館ならびにダイアー夫婦の写真などである。ダイ
の
邦
訳
書
(
坪
谷
善
四
郎
訳
『
工
業
進
化
論
アーの持ち帰り品ないし遺贈品はみられない。
わが国の造船協会の機関誌『造船協会年報』の創刊号
(2)
j博
文
館
,
1896) ,
(1897年 12 月)などがある。後者では,造船総監・佐繁
左f中 (1852 -1905) による英語論文が収録され,アー
ダイア}・コレクションの主たる内容は図書・冊子,
美術工芸品,楽器,写真・絵葉書類から構成されてい
ムストロング・ミッチェルネ土において建造された日本
る。
帝国海軍の戦総 f八島」の試験運航の記録がとりあげ
まず,
ミッチェル図書館には,ダイアーの死後に寄
られている。
贈された大量の図書・冊子等が収蔵されている。
(大正 11)
年から
1924
第四に,図書・冊子類のほかに,巻物ならび、に軸物
1922
(大正 13)
年にかけて「日本,極
も遺贈されていることが特筆される。巻物としては,
東
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
な
ど
に
関
す
る
広
範
か
「義経記」にもとづく長大な巻軸 3 巻がある。制作年
っ
貴
重
な
印
刷
物
を
含
ん
だ
は 1710 (宝永7)年ころと推定されている。日本人の
j 図
書 3,700 冊
な
ら
び
に
冊
子
1
9
2
7 (昭和
2,000 冊が,
東
に
関
す
る
図
書
手とは思われない筆跡で, I 義経記絵巻 Pictur巴 Scrolls ,
2 )
年 10 月 10 日
に
は
さ
ら
に
「
極
800 冊
,
日
本
の
家
庭
生
活
や
産
業
活
動
を
bas巴 d
示
す
楽
曲
集
お
よ
び
水
彩
蘭
」
が
,
そ
れ
ぞ
れ
寄
贈
さ
れ
た
。
ont
h
eh
i
s
t
o
r
yo
f“ Gikei-ki" (
H
i
s
t
o
r
yo
fP
r
i
n
c
e
Yoshitsune )J, I っちみかどなかなお J 作という添え書
図
書
・
冊
子
類
に
つ
い
て
は
,
集
書
の
範
囲
が
広
く
種
類
も
きがあり,
多
岐
に
わ
た
っ
て
い
る
。
ダ
イ
ア
ー
の
専
攻
領
域
で
あ
る
科
I貴重品」と記されている。
掛軸にはつぎの 7 幅ある。①本表装に仕立てられ
学
・
技
術
の
関
係
書
に
と
ど
ま
ら
ず
,
政
治
・
教
育
・
宗
教
・
た「雪中の常盤御前
美
術
・
地
理
な
ど
に
つ
い
て
も
相
当
数
含
ま
れ
る
。
ス
コ
ッ
ト
Snow)J
ラ
ン
ド
の
ほ
か
に
,
雪
の
な
か
,
わ
ら
王
手
き
屋
根
の
軒
下
で
牛
若
ら
を
あ
や
す
常
盤
日
本
な
ら
び
、
に
極
東
に
か
か
わ
る
図
書
も
た
あ
か
る
い
朱
と
緑
の
模
様
が
映
え
,
落
ち
着
い
た
色
合
い
で
日
本
関
係
書
の
な
か
に
は
,
第
一
に
和
装
本
が
あ
る
。
田
中
菊
雄
編
『
以
呂
波
引
紋
帳
J (求古堂,
『
楳
嶺
百
鳥
画
諮
J
J
『
省
亭
花
鳥
画
諮
『
前
賢
故
実
(郁文堂,
188 1
)
,
幸
野
楳
嶺
画
1
8
8
1-1
8
8
7
),滝沢清編『唐
(錦栄堂,
(求古堂,
1881
J (
大
倉
孫
兵
衛
,
J
1903)
お
よ
び
1887)
1890-9
族
,
小
鼓
を
打
つ
僧
,
纂
築
を
鳴
ら
す
烏
帽
子
姿
の
男
性
,
笠
1
)
,
菊
池
武
保
を
弾
く
赤
装
束
の
僧
,
火
焔
太
鼓
を
た
た
く
烏
帽
子
の
男
と
い
な
ど
の
貴
重
本
で
あ
る
。
(David
作
円
土
日
祭
悪
神
除
寓
民
守
護
之
尊
像
描いた淡彩画で,
Murray, 1830-1905) ,初代駐日
R
u
t
h
e
r
f
o
r
dAlcock,
1
8
0
9
1
8
9
7
),
お
雇
い
教
師
W
.
E
グ
リ
フ
イ
ス
E
l
l
i
o
tGriffis, 1843-1928) ,女性旅行家I.
6人
の
奏
者
を
描
い
た
色
鮮
や
か
な
ひ
ち
り
き
う
,
多
種
類
の
楽
器
と
奏
者
が
描
か
れ
て
い
る
。
③
藤
原
安
学
日
本
関
係
の
英
書
が
少
な
か
ら
ず
含
ま
れ
て
い
る
。
文
部
省
学
英国公使R.オールコック卿 (Sir
あ
る
。
②
楽
器
に
興
じ
る
掛
絵
(
鶴
仙
作
)
。
等
を
演
奏
す
る
女
性
,
能
管
を
奏
す
る
貴
,
渡
辺
省
亭
画
第
二
に
,
図
書
の
大
半
は
英
書
で
あ
る
が
,
そ
の
な
か
に
は
監 D. マ
レ
ー
o
fTokiwagozeni
nth 巴
御
前
が
描
か
れ
て
い
る
。
白
い
雪
の
な
か
,
長
い
裾
に
描
か
れ
少
な
か
ら
ず
含
ま
れ
て
い
る
。
草
模
様
雛
形
(Picture
。
追
っ
手
か
ら
逃
れ
る
途
次
で
、
あ
ろ
う
か
,
一
面
の
(William
L バードほか
J
0
28体の神を墨で
19世紀後半の作と思われる。④五月
節句の臓の大和絵。臓のまねきについた鯉,鍾燈,五
月峨を描いた掛絵である。「文久元年辛酉盛夏端午日
際康瀬節子雅君需六十翁主岳」という筆書きがある。
⑤竜の墨絵。養川法眼という印記がそなわっている。
9-
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
⑥万工政宗の石碑文の掛字。 19世紀後半の作で,石碑
『
北
斎
函
富
獄
三
十
六
景
は東京の芝に建っとある。⑦永真法眼(狩野安信)作
社.
の日本風景を描いた暴絵。これは軸装されていない。
れ
て
い
る
。
さ
れ
る
。
数
々
の
絵
葉
書
や
写
真
を
集
め
て
厚
紙
に
貼
り
つ
11600 年前主要戦乱上の大将た
ち(J a
p
a
n
e
s
egen 巴rals
1600)J
と題する画帖は
j 全
四
巻
と
そ
の
解
説
書
(
歴
史
画
報
な
ど
,
ダ
イ
ア
一
死
後
に
加
わ
っ
た
諸
品
も
含
ま
第
二
に
,
絵
葉
書
な
ら
び
に
写
真
の
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
が
注
目
第五に,巻物・軸物のほかにも,興味ある絵画類
がある。その一つ.
1936)
け
,
書
冊
の
形
式
に
仕
立
て
ら
れ
て
い
る
。
外
国
人
む
け
の
土
i
nn
o
t
a
b
l
ec
i
v
i
lwarsb巴for 巴
産
用
に
作
ら
れ
た
の
を
手
に
い
れ
た
も
の
で
あ
ろ
う
。
100 点
の
絵
か
ら
な
り
,
蛇
腹
の
よ
写
真
帖
は
う
に
折
り
畳
ま
れ
て
い
る
。
縦
長
の
画
面
の
上
部
の
余
白
に
経
A3 サ
イ
ズ
と
い
う
大
判
で
,
蒔
絵
箱
に
収
め
ら
歴
な
ど
に
つ
い
て
の
詞
書
き
が
,
下
部
に
は
人
物
画
が
配
さ
れ
れ
て
い
る
。
義
に
は
竹
林
に
鶏
二
;
j
;
j
と
雀
一
羽
が
遊
ぶ
図
柄
が
ている。武士だけでなく貴族,僧侶も描かれており,
識
か
れ
て
い
る
。
「
中
国
と
日
本
の
風
景
・
風
俗
そ
れ
ぞ
れ
の
装
束
が
色
あ
ざ
や
か
で
あ
る
。
こ
れ
ら
の
人
物
画
Costumeso
fC
h
i
n
a& J
a
p
a
n
)J という箱書きがあり,
像のうち.
1足
利
頼
之
1
8
8
0 (明治 13)
J な
ら
び
に
「
北
条
泰
時
」
を
描
い
た
年
こ
ろ
横
浜
で
制
作
さ
れ
て
い
る
。
人
物
写
の
娘
,
僧
侶
と
入
れ
暴
を
し
た
若
者
,
旅
芸
人
の
子
ど
も
,
軽
O
(3)
業
と
太
鼓
た
た
き
な
ど
)
.
な
ら
び
に
観
光
名
所
写
真
(
箱
根
,
同じグラスゴウにあるケルヴイングローブ美術館・
鎌
倉
大
仏
,
上
野
の
森
,
愛
宕
山
の
社
,
富
士
吉
田
,
京
都
の
清
水
寺
な
ど
)
か
ら
成
っ
て
い
る
。
博物館には,別の特色あるコレクションがある。
絵
葉
書
帖
は
約
第ーは,楽器類のコレクションである。五弦琴,二
200 枚
か
ら
成
る
。
風
俗
・
祭
り
絵
葉
書
と
か
弦琴,月琴,小鼓,太鼓(大胴) .小太鼓,尺八,能
浮
世
絵
・
木
版
絵
葉
書
と
か
で
な
く
,
風
景
絵
葉
書
が
中
心
で
管,草笛(七孔ある横笛).竜笛,主主,平家琵琶,琴
あ
る
。
こ
れ
も
日
本
,
中
間
,
香
港
の
名
所
や
風
景
の
絵
葉
書
2 張り,それに名称不明の弦楽器の. 13種 14点を数え
で
あ
る
。
日
光
東
照
宮
,
東
京
逓
信
省
,
江
戸
川
の
桜
,
東
京
る。このうち,平家琵琶(長さ 78.8 センチ,幅31. 7 セ
堀
切
菖
蒲
,
上
野
不
忍
池
蓮
花
,
箱
根
底
倉
の
仙
石
屋
旅
館
,
ンチ)は黒い漆絡に入っている。琴(長さ 186 センチ,
鎌
倉
大
仏
,
富
士
JII の
富
士
,
京
都
の
保
津
川
下
り
,
神
戸
の
幅26 センチ)は絹の飾り房がつき,綿布で包装され木
オ
リ
エ
ン
タ
ル
ホ
テ
ル
正
面
や
波
止
場
,
神
戸
海
岸
通
り
の
夕
製の漆箱に収められているけれども,金糸の刺繍など
景
,
須
磨
の
海
浜
,
明
石
人
丸
神
社
,
岡
山
後
楽
園
な
ど
,
多
見あたらない。
彩
な
絵
柄
が
み
ら
れ
る
。
モ
ノ
ク
ロ
だ
け
で
な
く
,
手
彩
色
を
また,五弦琴,小鼓,太鼓,小太鼓,尺八,能管の
施
さ
れ
た
カ
ラ
フ
ル
な
絵
葉
書
も
少
な
く
な
い
。
第
三
に
,
巻
物
が
6 点は,和織を着た等身大の男女(男性はグラスゴウ
大学留学生・志田林太郎と伝えられている)の日本人
山
に
住
む
盗
賊
を
退
治
し
た
入って展覧に供されており,これには虚無僧の写真も
で
あ
る
。
掛
物
も
添えられている。 1927( 昭和 2 )年にダイアーの遺産管
財人により同館へ貸与され. 1
9
3
8 (昭和
13)
年 6 月 30
i原
頼
光
伝
説
を
題
材
に
し
た
巻
物
9点
あ
る
。
掛
軸
の
ミ
ニ
チ
ユ
ア
版
を
教
本
の
よ
う
6幅
あ
る
。
豊
国
作
『
清
書
七
伊
呂
波
』
な
ら
び
に
『
八
津
波
源
氏
五
拾
四
第
二
に
,
江
戸
中
期
の
浮
世
絵
師
・
西
川
祐
信
(1671­
l陥』
1
8
9
8 (明治 31)
が
含
ま
れ
て
い
る
ほ
か
.
年
制
作
の
作
品
や
戦
後
の
北
京
で
制
作
さ
れ
た
作
品
も
含
ま
れ
る
。
104 点
あ
る
。
扉
風
の
よ
う
に
横
に
つ
第
四
に
,
木
版
闘
が
な
が
る
連
作
の
絵
が
多
い
。
風
俗
や
美
人
を
描
い
た
典
雅
な
絵
49 枚
(
縦
36.5
セ
ン
チ
,
横
25.5
セ
ン
チ
)
あ
り
圧
巻
で
あ
る
。
お
も
に
江
戸
後
期
浮
世
絵
の
一
派
で
で
あ
る
。
(
4)
あ
る
歌
川
派
の
作
品
で
あ
る
が
,
す
べ
て
が
オ
リ
ジ
ナ
ル
と
い
エデインパラ市中央図書館 (Edinburgh
Library)
1大
江
山
J と
い
う
上
書
き
が
あ
る
。
丹
波
国
大
江
に
つ
な
ぎ
,
蛇
腹
形
式
に
仕
立
て
た
も
の
が
日
に
な
っ
て
遺
族
か
ら
寄
贈
さ
れ
た
,
と
い
う
記
録
が
あ
る
。
の
作
品
が
,
総
数
3幅
あ
る
。
木
箱
に
収
め
ら
れ
.
酒
呑
童
子
之
図
三
巻
f象とともに,エントランス・ホ}ルのガラスケースに
1750)
&
真
(
青
年
貴
族
,
ス
イ
カ
売
り
,
琴
を
つ
ま
び
く
芸
者
,
庶
民
人
物
画
二
点
は
,
そ
れ
ぞ
て
い
る
(Views
C
e
n
t
r
a
l
の
美
術
図
書
室
の
場
合
は
,
第
一
に
和
装
本
が
特
筆
さ
れ
る
。
①
『
害
在
日
朗
心
l ②
奈
良
絵
本
10 巻
か
ら
構
成
さ
れ
う
訳
で
は
な
い
。
国
貞
(
豊
図
と
署
名
)
が
一
番
多
く
.
め
・
久
松
J 1男
達
本
町
綱
五
郎
相
系
道
寅
J 1幡
随
意
長
兵
衛
」
な
ど
る
『
保
元
物
語
』
六
帖
,
お
よ
び
③
『
平
治
物
語
』
六
l陥
,
④
は
「
東
海
道
五
拾
三
次
之
内
藤
枝
」
と
「
五
拾
三
次
名
所
図
会
『富 j訣
苔
景
』
初
編
・
二
編
・
三
編
,
⑤
『
北
斎
閣
議
j 上
編
草
津 J の 2枚
。
図
芳
は
(
尾
州
永
楽
屋
東
四
郎
)
.
⑥
『
花
鳥
画
傍
』
二
編
で
あ
る
。
こ
の
ほ
か
に
,
胡
正
言
編
f十
竹
斎
築
譜
J
(国際書店.
武
蔵
坊
弁
慶
.
1
9
5
2
)
.
1
0
i原
義
経
J 1菅
19 枚
を
数
え
る
。
広
重
f菅
原
伝
授
寺
子
屋
H艶
姿
女
十
六
女
仙
な
ど 11 枚
あ
る
。
貞
秀
は
「
菅
原
伝
授
道
明
寺
の
段
一
1を
そ
J 1景
清
岩
窟
立
去
図
J 1富樫蛮勇,
H賢
女
烈
婦
伝
」
J 1菅
原
伝
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
第 56 巻
第 2 号 (2009
授寺子屋の段j など 9 枚。芝泉は「仮名手本忠臣蔵九
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
の
ミ
ッ
チ
ェ
ル
図
書
館
で
「
へ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
段目」など 3 枚。ほかに芳員,芳艶,英山,国周,閏
ア
ー
・
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
展
」
が
開
か
れ
た
。
輝がそれぞれ 1 枚含まれる。上記のうち,国貞作「景
市
民
交
流
年
(2005
i青岩窟立去図」および「菅棺系道賓」はグリーテイン
Exchange)J
の
一
環
と
し
て
企
画
さ
れ
た
も
の
で
あ
る
。
同
グカードに仕立てられ,市販されている。
展
の
ポ
ス
タ
ー
の
見
出
し
に
は
,
英
語
と
日
本
語
で
「
ヘ
ン
同館には,ダイアーが日本政府から贈られた勲章
12005
と
あ
る
。
薄
黄
色
と
朱
色
を
基
調
と
し
た
品
格
の
保
た
れ
た
ポ
師として滞日中の工部大学校の経営ならびに教育指導
ス
タ
ー
で
あ
っ
て
,
こ
れ
に
三
世
歌
川
!
豊
田
の
芝
居
役
者
絵
における功績だけでなく,帰国してからも,教育文化
(
香
蝶
楼
豊
国
画
「
六
玉
川
景
事
および経済面における日英交流を促進した功績に対し
る
か
ら
,
観
覧
者
の
関
心
を
引
き
つ
け
た
に
ち
が
い
な
い
。
2
0
0
9(平成
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
美
術
学
校
41) 年 2 月 21 日付で,それぞれ叙勲されている。
21)
'EU
h
e
n
r
ydy 巴r coll 巴 ctionJ
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
・
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
,
られている。 1882 (明治 15) 年 10 月 24 日と 1908 (明治
年
日
EU-JapanYearo
fP
e
o
p
l
e
t
o
P
e
o
p
l
e
(勲三等旭日中綬賞と勲二等瑞宝章)がある。お雇い教
て授与されたもので,黒い漆塗り桐紋入りの箱に収め
年度)
J)
年
に
も
,
が
大
き
く
配
置
さ
れ
て
い
8 月 21 日
か
ら
10 月 10 日まで,
S
c
h
o
o
lo
fArt)
(Glasgow
に
お
い
て
「
大
日
本
:
へ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
・
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
の
歌
(5)
舞
伎
絵
(Dai
N
i
p
p
o
n
:KabukiP
r
i
n
t
sf
r
o
mth 巴 Henry
DyerC
o
l
l
e
c
t
i
o
n
)J と
題
す
る
展
覧
会
が
開
か
れ
,
歌
舞
伎
以上のような大量かっ多彩なコレクションは,ダイ
アーの長年にわたる日本関心ならびに日英交流を裏づ
関
連
の
版
画
が
重
点
的
に
選
ば
れ
た
。
日
英
修
好
ける点で注目される。
Japan-UK150)
ただし,日本研究を意図して,これら日本関係の諸
で
あ
る
150 年 (The
記
念
事
業
の
一
環
と
し
て
開
催
さ
れ
た
も
の
(9) 。
品を言十画的に収集し活用したとは思われない。かれの
本格的な日本研究が始まるのは,帰国後,とりわけ母
5.
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
お
け
る
技
術
教
育
改
革
ダ
イ
ア
ー
は
日
本
に
お
け
る
教
育
体
験
と
そ
の
成
果
を
持
ち
校グラスゴウ大学の教授就任の希望が叶えられなかっ
た以後のことである。しかも,おそらく贈られるまま
帰
り
,
郷
里
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
お
け
る
教
育
実
践
に
移
し
入
れ
受領したり,機縁があるごとに買い求めたようで,あ
た
。
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
技
術
教
育
改
革
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
の
改
革
,
れもこれもというのが本当の収集姿勢であったと思わ
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
市
初
等
・
中
等
教
育
改
革
な
ど
に
関
与
し
た
が
,
れる。
な
か
で
も
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
・
西
部
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
技
術
大
学
(
ス
しかしこうした大量かっ多彩なコレクションに
は,ダイアーの日本に対する強い関心が確かにうかが
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
前
身
校
)
の
理
事
あ
る
い
は
大
学
要
1
8
8
7 (明治 20)
覧
検
討
委
員
会
委
員
長
と
し
て
,
われる点で重要である。その関心が本格的な日本研究
時
か
ら
同
校
の
改
革
に
関
与
し
た
こ
と
が
注
目
さ
れ
る
。
工
部
につながり結実したであろうということは,とうぜん
大
学
校
に
お
け
る
体
験
に
も
と
づ
い
た
改
革
を
導
入
し
,
予想される。『大日本』や『世界政治のなかの日本』
技
術
大
学
の
諸
制
度
を
形
づ
く
る
さ
い
に
相
当
顕
著
な
影
響
力
といった大著にどのような影響力をもっていたかとい
を
及
ぼ
す
こ
と
が
で
き
た
」
。
うことは興味ある検討課題となるしこれほどの大著
ら
び
に
専
門
学
の
授
業
科
目
の
編
成
に
お
い
て
,
ので、はなかったであろう。
重
要
な
役
割
を
果
た
し
た
ダイアー・コレクションのうち,
近年,
1き
わ
め
て
J。
工
部
大
学
校
で
は
当
初
は
七
つ
,
明
治 15 年
か
ら
八
つ
の
専
門
学
科
(
土
木
学
,
機
械
学
,
電
信
学
,
建
築
学
,
応
用
化
学
,
冶
金
学
,
鉱
山
学
,
造
船
学
)
よ
日本美術工芸品は,
日英交流の歴史的所産,
1岡
ま
ず
第
一
に
,
昼
間
部
に
お
け
る
専
門
学
科
の
課
程
編
成
な
は,そうした日本事物への親近感なしに打ちこめるも
(6)
とりわけ日本・グラス
り
編
成
さ
れ
た
が
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
・
西
部
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
技
ゴウ間の歴史的関係を示す諸品として関心を集めてい
術
大
学
で
は
「
今
は
農
学
が
か
な
り
の
程
度
ま
で
応
用
科
学
,
る。
と
く
に
エ
ン
ジ
ニ
ア
リ
ン
グ
の
問
題
と
な
っ
て
い
る
の
で
・
・
も
1
9
9
1 (平成
Society)
3)
年
に
,
英
国
の
日
本
協
会
(The
J
a
p
a
n
の
設
立
百
周
年
を
祝
う
「
ジ
ャ
パ
ン
・
フ
ェ
ス
テ
イ
う
一
つ
の
分
野
と
し
て
農
学
を
つ
け
加
え
る
を
加
え
て
九
つ
の
専
門
学
科
を
編
成
し
た
。
し
か
も
,
そ
の
さ
バ
ル
」
が
英
国
全
土
で
展
開
さ
れ
た
さ
い
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
い
,
夕
、
イ
ア
ー
が
考
え
た
学
科
名
な
ら
び
に
配
列
!
I
I
買
が
そ
の
ま
で
も
,
ダ
イ
ア
ー
・
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
の
な
か
か
ら
日
本
美
術
工
ま
採
用
さ
れ
て
い
る
。
専
門
学
の
授
業
科
目
に
お
い
て
も
,
工
部
大
学
校
の
編
成
を
芸
品
が
選
ば
れ
,
日
英
交
流
の
足
跡
を
し
の
ぶ
格
好
の
品
と
し
大
限
に
取
り
入
れ
た
。
た
と
え
ば
,
土
木
学
の
場
合
で
い
う
て
展
覧
に
供
さ
れ
た
。
2
0
0
5(平成17)年には,
年
の
開
校
5 月 11 日
か
ら
6 月 30 日まで,
と
,
工
部
大
学
校
に
お
け
る
七
つ
の
授
業
科
目
(
高
等
数
学
.
-11-
J と
し
て
,
農
学
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
高等理学,土木学,機械学,地質学,
lP,ij 量学,図学)
る 1996 (平成 8) 年の 4 月,同大学において「産業の
が名称ごとそのまま採用され,さらにこれに 3 授業科
国際化,問題点・戦略・事例研究」というテーマで関
包
かれた。その翌 1997年は工部大学校が明治 10
(Building Construction, Laboratory, On巴 General
Subject) を追加して編成された。グラスゴウ・西部ス
年
に
開
校
し
て
か
ら
コットランド技術大学は「グラスゴーにあった科学教
3 月,
育関係の四つの学校を併合再編したものだが,私はそ
割
の
評
価
の際,
れ
た
日本の工部大学校の教科課程をこの新しい大学
第二に,学科課程以外にも工部大学校の成果が移し
入れられた。実験室の整備,学理と実地を結合する教
まず,ダイアーは実験室教育の意義を自覚し,工部
j と
い
う
テ
ー
マ
で
,
東
京
大
学
に
お
い
て
開
催
さ
(11) 。
機
と
な
り
,
ま
た
日
本
全
国
で
展
開
さ
れ
た
「
英
国
祭
UK98J
の
一
環
と
し
て
,
ダ
イ
ア
ー
の
胸
像
が
二
体
制
作
さ
れ
,
東
京
大
学
と
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
贈
呈
さ
れ
た
。
英
国
祭
育方式,資格証明書 (diploma) の新設がとくに注目さ
れる。
r工
学
お
よ
び
工
学
教
育
の
現
代
と
未
来
に
お
け
る
役
第
二
に
,
こ
の
ダ
イ
ア
ー
記
念
シ
ン
ポ
ジ
ウ
ム
の
開
催
が
契
に取り入れることができた」と,ダイアーは述べてい
る。
UK98
画
さ
れ
,
1998
は
日
英
友
好
関
係
の
促
進
を
目
的
ど
し
て
企
年
の
一
年
間
,
日
本
各
地
で
八
百
近
く
の
交
流
イ
ベ
ン
ト
が
開
か
れ
た
。
そ
の
一
環
と
し
て
,
ダ
イ
ア
ー
の
胸
大学校では工学実験室を重要な施設として位置づけて
像
が
英
国
大
使
館
お
よ
び
ICL
ジ
ャ
パ
ン
か
ら
両
大
学
に
寄
贈
いた。問実験室は世界で「最初の教育機関 j と認めら
さ
れ
た
。
東
京
大
学
で
は
1998
年 7 月 29 日
に
贈
呈
式
が
お
こ
れているが,グラスゴウ・西部スコットランド技術大
な
わ
れ
,
東
京
大
学
工
学
部
列
品
館
の
学
部
長
応
接
室
に
安
置
学においても土木学実験室,造船学実験室,電気学実
さ
れ
て
い
る
。
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
で
は
験室を設置することに尽力した。
工学教育における理論と実践,学理と実地の結合と
11 月 16 日
に
式
典
が
お
こ
な
わ
れ
,
ダ
イ
ア
ー
を
介
し
た
日
英
聞
の
歴
史
的
な
緋
の
深
ま
り
いう特徴ある学修方式もまた,ダイアーがこれを考案
が
祝
さ
れ
た
。
]
.
ア
ー
パ
ス
ノ
ッ
ト
(
J
し工部大学校において具体化したのだが,その教育成
長
の
記
念
講
演
「
へ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
の
偉
業
」
で
は
,
主
果を実体験したことでこれも移し入れた。「エンジニ
に
三
つ
の
貢
献
が
た
た
え
ら
れ
た
。
そ
の
アの訓練における理論と実践の結合の方法は,今日で
ohn
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
前
身
で
あ
る
「
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
・
西
部
ス
強く奨励され,またある程度実践に移されています。」
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
工
科
大
学
の
教
育
プ
ロ
グ
ラ
ム
の
進
展
に
影
響
とダイアーは記している。資格証明書については,理
を
あ
た
え
た
」
こ
と
,
と
り
わ
け
,
工
部
大
学
校
で
実
施
し
た
,
論学習を修めた者に「工学士J 号を授与することに異
実
習
と
理
論
学
習
を
交
互
に
組
み
あ
わ
せ
る
サ
ン
ド
イ
ツ
チ
課
議を唱え,見習い修業を体験したエンジニアに授与す
程
は
,
同
大
学
の
教
学
の
基
本
方
針
で
あ
る
実
学
教
育
の
重
視
ることを主張した。具体的には,機械学,電気学,化
策
の
な
か
に
具
体
化
さ
れ
て
い
る
こ
と
で
あ
る
。
そ
の
学,造船学の資格証明書を新設し,徒弟制度を活用し
2 は,
rr グ
ロ
ー
バ
リ
ゼ
ー
シ
ョ
ン
ながら 3 年間学校で学習したのちの,試験の合格者に
ま
だ
ほ
ど
遠
か
っ
た
時
代
に
,
世
界
中
の
旅
行
と
コ
ミ
ュ
ニ
対して「修了証書ならびに学位記を授与するという制
ケ
ー
シ
ョ
ン
の
機
会
が
増
大
す
れ
ば
人
び
と
の
生
活
に
重
大
な
度」の創始に,尽力した(10) 。
影
響
を
お
よ
ぼ
す
で
あ
ろ
う
と
予
見
し
た
イ
ア
ー
は
,
近年,ダイアーへの関心の高まりと再評価の動きが
段と増進させる点で注目される。
第一はダイアー記念シンポジウムの開催である。
「ダイアーの業績を評価し, 21世紀に向けて工学教育
学
j と
い
う
考
え
が
j こ
と
で
あ
る
。
ダ
r工
学
と
い
う
学
問
こ
そ
が
テ
ク
ノ
ロ
ジ
ー
,
経
済
,
社
会
の
変
化
を
進
展
さ
せ
る
鍵
に
な
る
で
あ
ろ
う
と
強
く
確
イ
言
し
た
みられる。かれの偉業をしのぶ種々の企画は,日本・
スコットランド間の交流の成果であり,また交流を一
Arbuthnott)
1 は
,
ダ
イ
ア
ー
は
日
本
で
の
体
験
を
も
と
に
,
ス
ト
は徒弟制度の“サンドウイツチ"方式という呼び名で
6 ,夕、イアーへの関心の高まり
(
1
8
7
7
)
120 年
目
に
あ
た
る
の
に
ち
な
み
,
同
年
そ
の
J。
3 は
,
帰
国
後
も
,
日
英
関
の
良
好
な
関
係
の
進
展
に
寄
与
し
た
こ
と
で
あ
る
。
日
本
政
府
の
代
理
人
に
な
っ
た
し
,
グ
ラ
ウ
ゴ
ウ
に
や
っ
て
く
る
日
本
人
留
学
生
の
支
援
に
は
顕
著
な
も
の
が
あ
っ
た
。
胸
像
は
,
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
ヘ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
一
.
ピ
ル
デ
イ
ン
グ
に
あ
る
船
持
舶
自
f学学科
と技術移転を広く討議するための日英柏互交換シンポ
(ωD 巴叩par 吋tm 巴n
此
1詑toぱf
S
h
i
pandMa凶
riオin配
I児巴 T巴 chno旧olog 町
y) の
玄
関
ジウム j であって,ストラスクライド大学ど東京大学
に
霞
か
れ
て
い
る
(
1
凶
lロ凶2引)
ダ
イ
ア
一
再
評
価
を
示
す
第
三
は
,
工学部の共催で 2 回開かれた。まず,ダイアーの出身
校の一つストラスクライド大学の創立 200周年にあた
英
国
伝
記
事
典
12-
j
rオ
ッ
ク
ス
フ
ォ
ー
ド
に
ダ
イ
ア
ー
が
採
録
さ
れ
た
こ
と
で
あ
る
。
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
これまで代表的な物故者人名事典である『英国伝記事
典但ictionary o
fN州側日
IBiog
ra l抑H に
登
載
さ
れ
第 56 巻
第 2 号 (2009
留
学
生
は
,
大
学
文
書
に
記
録
が
残
る
者
だ
け
で
も
ス
フ
ォ
ー
ド
英
霞
伝
記
事
典
』
が
50 名を
数
え
る
。
入
学
手
続
き
を
し
て
,
AlbllmHW
る
こ
と
は
な
か
っ
た
が
,
同
事
典
の
最
新
版
で
あ
る
『
オ
ッ
ク
2004 年 9 月
に
刊
行
さ
れ
る
W登
録
証
受
講
者
一
覧
(G日 lendm·).!
(Class
雇
い
教
師
と
し
て
来
日
す
る
ま
で
の
生
涯
,
日
本
で
の
お
雇
い
修
学
記
録
に
は
,
顕
著
な
傾
向
と
特
徴
が
い
く
つ
か
認
め
ら
れ
る。
動
,
著
作
活
動
(
と
り
わ
け
日
本
研
究
の
進
展
)
,
歴
史
的
評
価
第
一
に
,
か
れ
ら
の
出
身
校
が
注
目
さ
れ
る
。
最
初
に
つ
い
て
,
相
当
詳
し
く
記
述
さ
れ
て
い
る
。
お
よ
び
日
本
の
工
学
教
育
に
対
す
る
貢
献
に
つ
い
て
は
,
Iラ
ン
キ
た
。
工
部
大
学
校
出
身
者
が
こ
れ
に
続
い
た
期
卒
業
生
か
ら
選
抜
さ
れ
た
英
国
留
学
生
o ま
ず
同
校
第
一
11 名のうち,
が
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
学
ん
だ
。
Hと
信
じ
1880
て
い
た
こ
と
か
ら
,
理
論
と
実
践
を
結
び
つ
け
う
る
人
物
と
し
志
田
林
三
郎
,
高
山
直
質
,
南
て
ダ
イ
ア
}
を
推
薦
し
た
。
へ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
の
業
績
は
,
の
三
好
晋
六
郎
で
あ
る
。
そ
の
後
も
工
部
大
学
校
出
身
者
は
,
高
級
な
,
実
験
に
よ
る
探
求
的
な
工
学
教
育
を
,
か
つ
て
は
儒
内
藤
政
共
教
と
暗
記
学
習
に
傾
倒
し
て
い
た
日
本
に
導
入
し
た
こ
と
に
あ
(1886)
(1 泊。
(1904)
の
邦
訳
が
野
藤
次
郎
(実業之日本社,
1999)
1989)
の
英
語
版
(Henry
o
fE
n
g
i
n
e
e
r
i
n
gEducationi
nJap
αn,
(1893)
1
9
0
5
),
加
茂
正
雄
と
(14) や
,
三
好
信
浩
『
ダ
イ
ア
ー
の
日
(福村出版,
1
8
8
2 (明治
i育,
,
渡
辺
嘉
一
(1888)
(1884
,
須
田
利
信
,
1885)
(1888)
4名
年
留
学
の
15)
年
留
学
,
真
野
文
二
と
続
き
,
合
帝
国
大
学
に
併
合
さ
れ
て
以
降
は
,
同
校
工
科
大
学
出
身
の
佐
企
聞
き
れ
,
平
野
勇
夫
訳
『
大
日
本
,
技
術
立
国
日
本
の
恩
人
本.!
(1882)
,
進
経
太
(明治 13)
計9名
を
数
え
る
。
工
部
大
学
校
が
帝
国
大
学
な
ら
び
に
東
京
第
四
に
,
ダ
イ
ア
ー
の
主
著
『
大
日
本
.
!
し
て
刊
行
さ
れ
た
こ
と
年
作
は
開
成
学
校
出
身
で
,
文
部
省
第
二
回
派
遣
留
学
生
で
、
あ
っ
考
え
る
べ
き
か
で
あ
る
。
し
か
し
,
実
践
科
学
で
問
題
に
し
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
の
は
何
を
な
す
べ
き
か
で
あ
る
』
・
(1876
1877 年
)
の
留
学
生
で
あ
る
谷
口
直
貞
お
よ
び
増
田
礼
ン
は
『
理
論
科
学
で
問
題
に
し
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
の
は
何
を
が
描
い
た
明
治
日
本
の
実
像
.
!
W大
学
要
覧
な
ど
に
確
か
な
記
録
が
認
め
ら
れ
る
諸
氏
で
あ
る
。
短
期
留
学
者
も
い
れ
ば
長
期
の
者
も
い
る
が
,
か
れ
ら
の
る。 j と言己されている
(M α t1 加tlation
Gαt 日 10gllesH
と
,
そ
の
見
出
し
語
に
採
録
さ
れ
た
。
し
か
も
,
出
生
か
ら
お
教
師
と
し
て
の
活
動
と
貢
献
,
帰
国
後
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
で
の
活
年度)
,
寺
野
精
一
(1907)
し
た
。
日
清
戦
争
後
の
D
y
e
l
;P削'we I'
Kent , 2004) が上梓されたことも,特記される。
(1896 , 1897 ,
与曾八 (1899 ,
,
松
田
清
一
(1912)
(1904
,
が
留
学
19 世
紀
末
に
な
る
と
,
海
軍
関
係
者
が
増
加
す
る
。
大
久
保
立
G
l
o
b
a
lOriental,
(1898)
,
小
林
俊
次
郎
(1895
,
1896 ,
1897) ,藤井光五郎
1898) ,小田切延寿 (1897 , 1898) ,中島
1900) は海軍機関学校出身であった。
小島内弥 (1897) は父が海軍軍人,風間篤次郎 (1899 ,
1900) は自身が海軍機関少尉で、あった。
III 圃グラスゴウにおける日本人留学生
「造船・海運業界の指導者の二世」の留学も注目され
1.グラスゴウ大学
る。近藤滋弥 (1905 ,
1906, 1907, 1908。日本郵船会社
の近藤廉平の三男) ,範多龍太郎 (1889, 1890 , 1891,
1892) およびエドワ}ド・ハンター (1906 , 1907 , 1908 ,
1909 , 1910, 1911 。大阪商船会社の E. ハンターの長
1)自然科学諸科目の受講
(1)
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
は
であるが,
1451 年
に
創
立
さ
れ
た
伝
統
あ
る
大
学
18 世
紀
の
後
半
か
ら
科
学
教
育
が
推
進
さ
れ
実
学
主
義
的
な
変
容
を
と
げ
て
い
た
。
1840
男および次男)であって,いずれも長期留学し「造船
(天保 11)
年
と
い
う
学J で工学士号を得た。ほかに,慶応義塾出身者が 3
早
い
時
期
に
,
英
国
で
最
初
の
工
学
講
座
を
創
設
し
た
。
工
学
名いる。後藤牧太 (1888 , 1889) ,田中館愛橘 (1888 ,
は
オ
ッ
ク
ス
フ
ォ
ー
ド
大
学
や
ケ
ン
ブ
リ
ッ
ジ
大
学
が
長
い
間
1889) ,福沢三八 (1900 ,
大
学
に
ふ
さ
わ
し
い
科
目
と
み
な
さ
な
か
っ
た
の
に
,
グ
ラ
ス
ただし出身校がなお不明の者もいる。
ゴ
ウ
大
学
は
こ
れ
を
取
り
入
れ
,
初
代
教
授
1
.
ン
(L巴wis
代
教
授
W.
D,
DundarBrodi 巴 Gordon , 1815-1876)
J
.M.R.ランキンなどを擁して工学の研究
と
教
育
の
先
進
校
に
な
っ
た
。
1883
(明治 16)
1901 , 1902,
1903) である。
B. ゴード
(2)
,
第
二
第二に,履修科目は,ほほ全員が日本の殖産興業に
年
に
は
,
世
つながる自然諾科学を受講している。論理学および道
徳哲学の受講者(渡辺嘉一 18850 三好文太1888) がい
界
に
先
が
け
て
造
船
学
講
座
を
新
設
す
る
な
ど
,
英
国
の
諸
大
るけれども,その他はすべて自然科学諸科目を受講し
学
の
な
か
で
も
科
学
技
術
教
育
を
先
導
し
た
。
そ
れ
だ
け
に
,
ている。医学を専攻した者も 2 名(モリ・イガ 1898。
英
国
を
モ
デ
ル
に
工
業
化
を
め
ざ
し
た
明
治
日
本
か
ら
,
数
多
竹田政盛 1899) 含まれる。
くの留学生を引きつけた。
こ
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
,
明
治
時
代
に
学
ん
だ
日
本
人
履修者が一番多かったのは工学(エンジニアリング)
ないし機械学(原動機,機械装置,土木工学,電気工
-13 ー
日本・スコットランド教脊文化交流の諸相
学などの講義および実験,現場実習を含む)で, 50名
書,建築入門などが扱われている。
中 30名がこれを選択している。ついで自然哲学あるい
「土木学・機械学J 上級は,土犠日を|徐く毎日午後 4
は物理学が25名,造船学24名,数学22名,化学16名な
時から始まる。細かな学習課程が用意され,初級コー
どという内訳である。
スの復習と継続学習に加えて,主として次のような
同じ科目でも,講義だけでなく実験・実習も受講し
テーマが取りあげられている。物質の弾性と強度,建
でいることが注目される。 選択した者が一番多かっ
造物の強度・安定性・堅牢さ,構造物の支柱,エネル
た工学の場合でいうと,
!Engine巴 ring
L
a
b
o
r
a
t
o
r
yJ
nE
n
g
i
n
e
e
r
i
n
g
JiEngin
i
O
f
f
i
c
eandFi 巴Id Worki
DrawingandCalculationJ
ギー・機械力・馬力,摩擦と応用力学上の諮問題,水
力学原理,河川と流水の測定,熱力学の基本原理,蒸
巴 ering
気機関・水車・タービン,揚水用の遠心ポンプと送風
な
ど
と
称
す
る
工
学
実
験
・
実
習
科
目
で
あ
る
。
自
然
哲
学
,
造
船
学
,
化
学
に
つ
い
て
も
,
機,造船学原理と求積法,陸橋と高架橋,排水工事と
講
義
ロ
ー
ス
と
と
も
に
実
験
コ
ー
ス
を
受
講
し
た
者
が
多
い
。
上水道事業,建物内の換気装置その他の衛生設備,鉱
工
学
な
い
し
機
械
学
は
,
明
治
期
を
と
お
し
て
数
多
く
の
留
山における換気・排水・水処理,などである。
学
生
が
学
ん
だ
。
造
船
学
は
当
初
は
開
設
さ
れ
て
い
な
か
っ
たが,
1883 年
に
創
設
さ
れ
る
と
,
同
年
(
名
称
は
Archit
巴ctur 巴 and
「工学実留・実地調査」上級は火曜日および木曜日の
iNaval
MarineEngine
巴ringJ)
好
普
六
郎
が
受
講
し
た
の
を
皮
切
り
に
,
午後 1 時から 3 時まで関かれた。画法幾何学・正射図
に
ま
ず
三
法・等 i則投影法・遠近法の講義と実習,工学建築学製
1887 年
(
名
称
は
r
DrawingandShipCalculationJ)
図・土地測量・水準測量・土地区画・測定法一般の実
に
は
岩
田
武
弥
太
,
習,工学研修旅行が用意されていた。そのほか,土曜
1888 年
に
は
進
経
太
,
須
田
利
信
が
そ
れ
ぞ
れ
受
講
し
た
。
翌
日などには学外で実際に就業してみることが求められ
1889 年
に
入
学
し
た
範
多
龍
太
郎
な
ら
び
に
山
本
長
方
は
,
初
級
か
ら
上
級
ま
で
の
講
義
と
実
習
な
い
し
1893
ていた。
(drawing)
を,
以上のように,グラスゴウ大学では教室での理論学
1892 年
年
ま
で
ほ
ぼ
毎
年
選
択
し
て
い
る
。
大
久
保
立
習,実験室での実験実習,学外での実習体験を結びつ
(1895, 1896, 1897) ,藤井光五郎 (1896 , 1897, 1898) ,
けた授業がおこなわれていたことになる。
(3)
鹿島龍蔵 (1901 , 1902, 1903) ,宮島可次郎 (1902 ,
1903) ,近藤滋弥 (1906 ,
1907) ,エドワード・ハンター
(1907, 1908, 1910, 1911) 等も同様である。
第三に,学業成績が優秀であったことが特筆され
る。とりわけ初期の留学生は輝かしい成績を残し,
具体的な学習内容を,南清の場合についてみると次
種々の受賞記録が残っている。たとえば,
日本人最初
のとおりである。かれは 1880度に物理学,土木学・機
の留学生である谷口直貞は,物理学 7 番(受講者 140
械学初級,土木学・機械学上級,工学実習・実地調査
名),数学上級 8 番 (38 名) ,土木・機械学初級 5 番
(Offic巴 and F
i
e
l
dWorki
nEngin
を
受
講
し
た
。
最
初
の
「
物
理
学
巴巴 ring)
J は W.
ト
ム
ソ
ン
上
級
の
4科
目
(26名) ,工学現場実務上級 2 番 (18名)であった。増
(William
田礼作は物理学 8 番 (140名),数学上級 3 番 (38名),
Thomson, 1824-1907) 教授が担当し,授業は力学の概
土木・機械学初級 4 番 (26 名),土木・機械学上級 2 番
要,物質の特性,熱力学,実例・計算・実験による例
(17名),工学現場実務上級 3 番 (18名)であって,土木
解,の 4 領域から構成された。毎日 2 時間開設され,
学・機械学履修者のうち優秀な学生に贈られるウォー
第 1 限は朝 9 時に始まり,諸原理の説明,観測結果に
カー賞( 2 番),ならびに工学の試験成績優秀者に贈ら
ついての解説,実験による例解にあてられた。第 2 限
れるハーヴェイ賞( 2 番)を獲得している。両名とも,
は,火曜日・木曜日は 11 時から数学の論証と演習なら
わずか二年の修学で工学士号ならびに工学技能証明書
びに初級数学の試験が,月曜日・水畷日・金曜日は 12
(
C
e
r
t
i
f
i
c
a
t
eo
fP
r
o
f
i
c
i
e
n
c
yi
nEngin
時から上級数学の講義がおこなわれた。教科書として
獲
得
し
た
。
トムソンの単著や共著 a 自然哲学原理 (Elements
o
f
N
a
t
1
t
m
lP
h
i
l
o
s
o
p
h
yH 188 1,など)が使用され,実験
続
い
て
留
学
し
た
南
清
の
場
合
は
,
物
理
学
は
「土木学・機械学」初級は,毎週月・水・金曜日の
2 番 (18 名
)
,
土
15 名
,
初
級
賞
( 3番
)
な
ら
び
に
ハ
ー
ヴ
ェ
イ
賞
11 時から 12 時まで開かれた。土地測量・水準測量の原
い
る
。
同
僚
の
志
田
林
三
郎
な
ら
び
に
高
山
直
質
も
ま
た
成
績
優
秀
で
あ
っ
た
。
志
回
は
,
数
学
上
級
は
法,計測(とくに線路の土木工事関連) ,鉄道線路とそ
)
と
い
う
成
績
を
残
し
て
い
る
。
し
か
も
,
ク
学 1 番 (194 名
の軌道の設計,
リ
ー
ラ
ン
ド
金
賞
と
い
っ
て
,
1
4
一
19 名
)
で
は
ウ
ォ
ー
カ
ー
(3 番
)
を
獲
得
し
て
理と方法に始まり,経緯儀および、水準器の原理と使用
トンネルの掘削,土木工事契約の明細
S
c
i
e
n
c
e
)を
7番
(
受
講
者 194 名
)
,
工
学
実
習
・
実
地
調
査
上
級
は
木
学
・
機
械
学
(
上
級
室を活用して教えられた。
巴巴 ring
2 番 (57 名) ,
物
理
i物
理
学
と
神
学
の
学
生
を
対
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
象に学長ならび、に大学教授の指定する主題についての
第 56巻第 2 号 (2009年度)
わめてずば抜けていたのである。これは,話がすべて
最優秀論文に与えられる J 賞を,磁気感受率 (magnetic
わかるという優れた理解力のあらわれであった。ま
susceptibility) についての実験論文によって獲得した。
た,英語が彼らにとって外国語であることを考えると
高山直質の場合は,土木学・機械学上級および初級,
き,英語で自分の考えをはっきりと力強く表現できる
工学実習・実地調査上級を受講し,土木学・機械学上
能力を示すものであったが,この点はトムソン教授の
級 2 番 (15 名)。ウォーカ}賞( 3 番)ならびにハー
まったく思いもよらぬところであった J
ヴェイ賞(l番)を獲得している。受講者の投票で選
ばれる「物理学J 優秀賞( 2 番)も獲得している。
ちなみに,
かれら工部大学校留学生の活躍は,
日本にも伝え
られた。『朝野新聞 J は,学位授与式のあった明治 14
日本人留学生の受賞記録をまとめると,
(1881) 年の 6 月 26 日の紙面でさっそく報じた。日本
工学会の機関誌『工学会誌j (明治 19年 5 月 31 日)で
下記のとおりである。
は,真野文二 (1861 -1946) の寄稿「高山直質氏之小
1876年度増田礼作
ウォーカー賞 (2 香)
停J のなかで紹介された。真野は工部大学校を卒業後
ハーヴ、エイ賞
の 1886 (明治 19) 年にグラスゴウ大学へ留学し,かれ
(2 番)
1880年度志田林三郎
クリーランド金賞
もまた自然哲学 1 番,数学上級 2 番という好成績を収
1880年度高山直質
ウォーカー賞 (3 番)
め,ウオ)カー賞 (3 番)ならびにハーヴェイ賞(l
ハーヴェイ賞(l番)
番)を獲得している。
1880年度南
j青
後出の福沢三八 (1881 -1962)
ウォーカー賞 (3 香)
ハーヴ、ェイ賞
もまた. 1904年 4 月
18 日の卒業式でその成績が称えられた。地元紙の『グ
(3 番)
1882年度三好晋六郎
ロパートダンカン賞
ラスゴウ・ヘラルド j
1884年度渡辺嘉一
ウォーカー賞 (5 番)
ブニング・タイムズj (1904年 4 月 18 日)は.
(1904年 4 月 19 日)および『イ
1886年度真野文二
ウォーカー賞 (3 香)
壇上にあらわれると拍手喝さいで迎えられ,長く続い
ハーヴェ千賞(l番)
た。それは学友による称賛のしるしであり,また,か
I かれが
れの国籍や科学の学識に対する賛辞とも解されるであ
1880年度に学んだ,南清・志田林三郎・高山直質と
ろう。 J と報じている。
いう工部大学校第一期留学生の学業成績の優秀さは,
第四に,修学期間は短期の考もいれば長期の者も少
当時大いに注目を集めた。 1881 (明治 14) 年 4 月 29 日,
なくない。
グラスゴウ大学博物館ホールで閲かれた学位授与式で
修学者は 13名.
は,
年間の修学者 l 名(岩田武弥太).
自然哲学教授 W. トムソンが式辞を述べ大いにた
たえた。その模様は,翌 30 日付の地元紙『グラスゴウ・
1 年間の修学者は 24名と多いが,
3 年間 4 名.
2 年間の
4 年間 6 名,さらには 5
6 年間 2 名(山本長
方,エドワード・ハンター)いう内訳である。
ヘラルド』あるいは f ノース・ブリティッシュ・デイ
かれらのうち学土号を取得して卒業した者は 12名を
リイ・メイルJ で紹介されている。
数える。谷口直貞,増田中L作,渡辺嘉一,岩田武弥太,
トムソン教授は「日本から来た三人の学生 j の優秀
範多龍太郎,山本長方,佐藤恒二,福沢三八,岩根友
さと学習ぶりに感銘したようで,次のように報じられ
愛,近藤滋弥,エドワ}ド・ハンター,荘田泰蔵の諸
氏である。このうち最初の 3 名は,
ている。
「彼らは文字どおり母国の誉れとなったのであり,
2 年間の修学での
取得者である。
(
4
)
彼らがいかに心から迎え入れられたかを見て,彼はと
ても満足したのであった。しかし勉強しにやって来
異
色
の
日
本
人
留
学
生
が
い
る
。
1898(
て一緒に同じ机を並べ,世界の反対側にある聞にヨー
モ
リ
・
イ
ガ
で
あ
る
。
モ
リ
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
日
本
人
留
学
ロッパの学聞を持ち帰ろうと一心になっているこれら
生
最
初
の
女
性
で
あ
り
,
同
年
度
の
『
笠
録
証
』
番
号
は
「
専
の日本人学生たちを,スコットランドの若者たちが非
修
ク
ラ
ス
常に毅切に歓迎しとても好意的に迎え入てくれたとい
な
る
。
『
主
主
録
証
』
に
彼
女
は
下
記
の
よ
う
に
届
け
出
て
い
る
J
うことは,まったく予期できなかったことである。こ
が
,
実
は
自
分
の
氏
名
な
ら
び
に
父
の
氏
名
は
変
名
で
あ
る
。
1番
で
あ
る
か
ら
大
学
院
留
学
で
あ
っ
た
こ
と
に
の三人の日本人学生の並外れた優秀さについて注目す
日
本
の
住
所
表
記
も
,
出
身
校
で
あ
る
べきことがあった。いずれのクラスでも彼らには仲間
の
親
友
福
島
輝
の
住
所
たちの全員一致でもって賞が与えられたのだが,彼ら
は
な
い
。
は筆記試験に秀でていたのみならず,口頭試験にもき
-15-
明
治 31) 年
留
学
の
f開
拓
史
女
学
校
時
代
j を
借
用
し
て
い
る
。
年
齢
、
も
正
確
で
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
「氏名
モリ・イガ
殺
の
履
修
は
,
学
生
の
都
合
に
よ
っ
て
,
弟
子
入
り
な
い
し
徒
サンフランシスコのクーパ}・
弟
奉
公
の
前
後
で
も
途
中
か
ら
で
も
よ
い
。
こ
れ
に
よ
く
合
う
カレッジ医学博士
と
思
わ
れ
る
履
修
の
組
み
方
は
,
冬
期
を
大
学
の
勉
学
に
,
夏
年齢
34歳
期
を
工
学
実
習
に
あ
て
る
こ
と
で
あ
る
。
出生地
日本の東京
ら
わ
れ
る
。
し
か
も
,
父の氏名
ユマ
Univel
父の職業
医師 (Physician)
年
度
版
か
ら
,
同
制
度
に
つ
い
て
の
明
確
な
規
程
が
あ
ら
わ
れ
父の生死
生存
る。
受講希望クラス
病理学および細菌学
か
三
夏
,
土
木
工
事
か
建
築
業
の
営
業
所
,
作
業
所
,
あ
る
い
本学の在学年数
j と
い
う
記
録
が
あ
rグ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
要
覧
討ty Cal 側dα .1').1
11)
f工
学
専
攻
生
は
,
可
能
な
ら
ば
,
本
学
在
籍
中
の
二
夏
は
鉄
道
や
水
道
,
港
湾
な
ど
敷
設
中
の
事
業
に
勤
め
る
こ
と
が
1 年目
望
ま
し
い
」
と
い
う
内
容
で
あ
る
。
現住所
日本の住所
(Glasgow
1
8
7
8(明治
に
見
る
か
ぎ
り
,
1880
年
度
版
以
降
に
な
る
と
,
そ
れ
を
強
く
「
推
奨
」
す
る
と
い
う
文
字
が
加
わ
る
。
日本の東京・芝 20番地 j
(2)
近年の調査研究によれば,静岡県士族広瀬秀雄の娘
日本人留学生で,この実地研修を体験した者は 10名
広瀬常 (1855 -1900 頃)が彼女の本名である。森有礼
いる。かれらの氏名と実習先は次のとおりであり,こ
(
1
8
4
7-1889)
と契約結婚して評判になるが,明治 19年
のうち,志田,高山,南,三好,渡辺,真野の 6 名は
工部大学校出身者であることが注目される。
に離婚。その後,発起してまずアメリカのクーパー・
カレッジ (Cooper College) 医学部(スタンフォード
大学医学部の前身)へ留学し,ついで 1898年グラスゴ
増田札作
マクレラン鉄工所(グラスゴウ)。
ブライス・ガンピング工場(エデイ
ウ大学に転じて「応用病理学」および「細菌学」を学
ンパラ)
んだ。
彼女の留学は,榎本武揚 (1836 -1908) ら!日幕臣の
川!田龍吉
人たちが支援した。明治の新時代になって生活基盤が
志田林三郎
グラスゴウ郵便局
激変し,生きぬくのがとてもきびしい情況のなか,
高山直質
マザウエル鉄工所
南
マクレラン鉄工所。カレドニアン鉄道。
I日
幕臣仲間の固いネットワークに守られて海外留学に旅
j青
ロブニッツ・カルボーン造船所
リオテイント鉱山鉄道(スペイン)
立ち,姿をかえて生きぬこうとしたので、あった。明治
時代に自立を求めた日本人女性の一人として注目され
三好晋六郎
ロパート・ネイピア造船所
る (15) 。
渡辺嘉ー
ジョン・ホォウラ一社。
ベンジャミン・ベーカ一社。
2) 学外における実修体験
グラスゴウの地下鉄・運河・築港
工事。
(1)
真野文二
アームストロングネ1
る。日本人留学生のなかにも,留学中に学外の造船所,
大久保立
ロブニッツ造船所
鉄
工
所
,
鉄
道
会
社
な
ど
に
赴
き
実
地
研
修
を
体
験
し
た
者
が
寺野精一
ジョン・ホォウラ一社
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
で
は
,
教
室
で
の
学
習
と
関
連
し
た
実
地
(グラスゴウ,ニューカッスル)
研
修
を
体
験
す
る
こ
と
が
奨
励
さ
れ
て
い
た
こ
と
が
特
筆
さ
れ
少
な
か
ら
ず
い
た
。
同大学では年間を通して大学での学習課程が計闘さ
れていたわけでなく,
上
記
の
実
習
体
験
者
の
う
ち
,
南
清
は
,
最
初
に
マ
ク
レ
ラ
6 ヶ月単位で編成され,
10 月か
ら 3 月
ま
で
の
冬
学
期
に
は
大
学
に
通
う
が
,
夏
学
期
の
ン
6 ヶ
(P.
&A.M
'Lellan)
し
て
鉄
橋
の
組
み
立
て
作
業
に
従
事
し
て
い
る
。
市
内
の
ト
ロ
ン
ゲ
イ
ト
に
あ
っ
て
,
鉄
道
の
貨
車
製
造
,
橋
梁
や
ボ
イ
ラ
ー
月
間
は
学
外
の
会
社
や
工
場
で
の
実
習
に
出
掛
け
る
こ
と
が
で
製
作
の
ほ
か
,
鉄
製
器
具
や
銅
製
品
の
卸
売
り
,
金
属
細
工
,
きたからである。
機
械
製
作
,
ボ
ル
ト
・
ナ
ッ
ト
・
リ
ベ
ッ
ト
・
鎖
の
製
造
,
ブ
大
学
当
局
は
早
く
か
ら
こ
の
実
地
研
修
を
奨
励
し
て
い
た
。
大
学
と
産
業
界
と
が
協
力
し
て
学
習
と
実
習
と
を
交
互
に
お
こ
リ
キ
製
造
,
ガ
ス
工
事
な
ど
を
扱
っ
て
い
た
。
こ
の
と
き
の
職
な
わ
せ
る
と
い
う
こ
の
制
度
が
い
つ
始
ま
っ
た
の
か
,
諸
説
あ
工
頭
は
,
神
戸
・
京
都
聞
の
線
路
を
敷
設
す
る
さ
い
に
招
か
るが,
1
8
6
5 (慶応元)年になると,弟子入り制度や徒
弟
奉
公
制
度
を
妨
げ
な
い
よ
う
に
配
慮
し
,
鉄
工
所
に
入
り
,
職
工
た
ち
に
伍
れ
,
職
工
頭
と
し
て
指
導
し
た
こ
と
の
あ
る
人
物
で
あ
っ
た
と
r大
学
の
学
習
課
い
う
か
ら
,
工
部
省
お
雇
い
建
設
師
で
あ
っ
た
-16
E. G. ホ
ル
サ
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
ム
(Edmund
GregoryHortham)
と
推
定
さ
れ
る
。
グラスゴウ大学の理事会ならびに教授会は協議のう
こ
の
よ
う
な
実
地
研
修
は
,
南
に
と
っ
て
初
め
て
の
こ
と
で
え,福沢の願い出を認可した。 1901 年 2 月 7 日の『教
は
な
い
。
工
部
大
学
校
に
在
学
中
,
す
で
に
経
験
ず
み
で
あ
っ
授会記録』には, 1 日本人学生福沢三八が,人文科学課
た
。
在
学
時
の
『
工
部
大
学
校
学
課
並
諸
規
則
j
月)によれば,
2年
間
は
学
校
内
6年
間
の
在
学
中
,
最
初
に
お
い
て
修
学
す
る
が
,
そ
の
ご
の
(明治
10 年 3
程および自然科学課程の資格試験で,フランス誇もし
くはドイツ語に代わり日本語を選択したいとの意向を
2年
聞
は
「
毎
年
六
ヶ
月
知らせてきた J とあり,また「本教授会は日本人が本
間
校
中
ニ
於
テ
修
学
シ
六
ヶ
月
間
ハ
実
地
ニ
就
キ
テ
各
志
願
ノ
工
術
ヲ
修
業
セ
シ
メ
と,
第 56巻第 2 号 (2009年度)
年の自然科学の資格試験のさいの第 4 試験科目として
J る
。
そ
れ
か
ら
最
後
の
2年
間
に
な
る
日本語をとることを承認した。また,大学理事会に対
1全
ク
実
地
ニ
就
テ
執
業
セ
シ
ム
」
こ
と
に
な
っ
て
い
た
。
し春季試験の試験委員が遅れることなく任命される
じ
っ
さ
い
南
の
記
録
を
み
て
み
る
と
,
た
と
え
ば
,
あ
た
る
明
治
11 年度には,
6年
次
に
よう要請した」という記録がみえる。
10 月 7 日
か
ら
大
坂
に
出
む
き
翌
日本語資格試験という日本人留学生に対するこの緩
年 6 月 16 日
に
帰
京
し
て
い
る
。
出
典
は
『
工
部
省
第
四
周
年
報(工作・燈台・営繕
H ニ(明治
和策が実現するについては, H ダイアーが尽力した。
12)
である
(16) 。
資格試験を管理・監督する合同試験委員会への働きか
けが功を奏し,問委員会は日本語試験の実施を「満場
3)日本語資格試験の開始
一致で承認した」という書簡を受け取っている。福沢
(1)
三人はこの書簡を添えて大学理事会に願い出ている。
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
は
,
資
格
試
験
の
外
国
語
選
択
科
目
に
日
日本語試験が実現した背景には,成績優秀な日本人留
本
語
を
認
定
し
て
い
る
。
同
大
学
に
留
学
中
の
福
沢
三
八
が
申
学生の存在,
し
出
を
し
こ
れ
を
且
ダ
イ
ア
ー
が
支
援
し
た
。
し
か
も
,
そ
好関係という事情があったことも考えられるであろ
1
8
6
7-1916)
の
最
初
の
試
験
委
員
は
夏
目
金
之
助
(
激
石
,
日英同盟に象徴されるような日英聞の友
つ。
で
、
あ
っ
た
だ
け
に
注
目
さ
れ
る
。
激
石
が
ロ
ン
ド
ン
に
留
学
中
の
明
治
33
(1900)
こ
の
資
格
試
験
は
(3)
年
の
こ
と
で
あ
る
。
日本語資格試験の試験委員を選任するにあたり,
IPreliminary
ExaminationJ
大学理事会はグラスゴウ在住の日本通から情報を集
と
称
し
て
,
短
期
間
在
学
す
る
だ
け
な
ら
必
要
な
い
が
,
学
位
を
取
得
めた。在グラスゴウ名誉領事A.R.ブラウン (Albert
し
て
卒
業
し
よ
う
と
す
る
に
は
全
科
目
に
合
格
し
な
け
れ
ば
な
R
i
c
h
a
r
dBrown, 1839-1913) もその一人であった。日
ら
な
か
っ
た
。
教
養
科
目
(medicine)
(arts)
,
理
学
(sci 巴nce)
本に長期間滞在し,駅逓局内で海運業務に従事したり
,
医
学
に
つ
い
て
お
こ
な
わ
れ
,
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
諸
大
日本郵船会社のゼネラル・マネージャーとして活躍し
学
合
同
試
験
委
員
会
の
管
理
・
監
督
の
下
,
大
学
理
事
会
が
任
たことがある。当時は,グラスゴウ市内で日本郵船会
命
す
る
学
内
・
学
外
の
試
験
委
員
に
よ
っ
て
実
施
さ
れ
た
。
社および東京海上保険会社のグラスゴウ代理店業務を
(2)
委託されていた。
グラスゴウ大学日本語資格試験は,福沢三人の申し
そのブラウンの会社(A. R.ブラウン・マクファーレ
出に端を発している。福沢が入学した 1900 (明治33)
ン有限会社, A
.R
.Brown , M
c
f
a
r
l
a
n
e& C
o
" Lt d.)
年当時,卒業要件として,年に二度,秋季と春季にお
一
枚
の
用
筆
の
裏
面
に
,
鉛
筆
で
人
選
に
か
か
わ
る
な
ぐ
り
書
こなわれる資格試験において,①英語,②ラテン誇も
き
が
あ
り
,
しくはギ、リシャ語,③数学,④ラテン語もしくはギリ
という
シャ語(いずれかが未修であれば),フランス語,
Dr
.Dyer, K
a
t
s
u
j
i
r
oHirano, M
r
.Arakawa
3 名の氏名が読める。お雇い教師であったH.ダ
ドイ
イ
ア
ー
,
ブ
ラ
ウ
ン
・
マ
ク
フ
ァ
ー
レ
ン
有
限
会
社
の
日
本
人
ツ語,イタリア語,力学のうちのひとつ,の四科目全
通信員ヒラノ氏,在ロンドン領事館一等領事荒川巳次
部に合格することが課せられていた。
と推定される。このうち,荒川が試験委員を委嘱され
そのさい,いくつかの緩和策があり,受験に際して
た。
の配慮がなされていたけれども,フランス人やドイツ
ところが,荒川はグラスゴウ大学理事会書記官から
人なら,上記の第 4 受験科目に定められた科目のうち
任命通知と試験問題作成上の具体的な指示を受けとっ
母国語を選択することができるのに,日本人留学生の
たものの,ほどなくして辞退してきた。
場合はこれができなかった。福沢はこの点を突いて,
記官あてに電報をうち,
3 月 27 日,同書
I
S
o
r
r
yIamu
n
a
b
l
et
oa
c
c
e
p
t
日本語試験の実施という緩和策を願い出たものであ
yourappointmentt
oExamin
る。入学して最初の資格試験にあたる 1900年秋季試験
Pro
.
fmustaM
(同年 9 月 10 日実施)以降のことである。
の
ち
に
石
激
ち
わ
な
す
助
之
金
目
夏
そ
こ
れ
か
,
が
る
め
読
と
授
一7
1 一
目巴 y
l
p
e
R
J.nos
紅白
教
メ
ツ
マ
。
る
い
て
び
詫
と
Can
Irecommend
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
がいない。「試験委員拝命の件,受諾しえず,遺憾。夏
は大勢の受講者を引きつけた。クライド峡谷から石炭
日教授の推薦可能なりや。返求む。」というこの電報
および鉄という天然資源が開発され,グラスゴウが産
は,関連文書のなかで夏目激石が登場する最初の史料
業革命の一大中心地となって進展するなか,数学なら
びに自然哲学(物理学)についての実験を取りいれた
である。
荒川の推薦は協議のうえ認められ
に任命された。実際に, 1
9
0
1 (明治
試
験
お
よ
び
同
年
教育に対して,大きな需要が生まれてきたと考えられ
i敦石が試験委員
34)
年4月
の
春
季
る。
アンダソンは,この体験をもとに,遺言書のなか
10 月
の
秋
季
試
験
の
二
度
,
学
外
試
験
委
員
で新大学の開設を含む遠大な構想を摘き遺産を残し
を
つ
と
め
て
い
る
。
た。そのような経験と遺言書のなかで捕かれた構想を
i敦
石
が
出
題
し
た
日
本
語
の
資
格
試
験
を
受
験
し
合
格
し
た
者
は
4名
い
る
。
1901
もとに,まず,アンダソン・インステイチユ}ショ
年4月
の
春
季
試
験
に
お
け
る
福
沢
三
八
,
鹿
島
龍
蔵
,
佐
藤
恒
二
,
同
年
ン (Anderson' sInstitution) という成人専用の学習機
10 月
の
秋
季
試
験
に
お
関がグラスゴウに誕生した。 1796年のことである。ス
け
る
岩
根
友
愛
の
諸
氏
で
あ
る
。
た
だ
し
,
溺
;
石
が
出
題
し
た
試
験
問
題
の
内
容
は
,
日
下
の
と
こ
ろ
,
判
明
し
て
い
な
い
。
トラスクライド大学はこの年を創立年としている。や
試
験
委
員
に
な
っ
た
と
い
っ
て
も
,
激
石
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
出
がてここから,熟練職工層が中心になって組織したグ
向
い
た
わ
け
で
は
な
い
。
ロ
ン
ド
シ
の
宿
所
(
ザ
・
チ
ェ
イ
ス
ラスゴウ・メカニックス・インスティチューション
(
G
l
a
s
g
o
wM巴chanics'
通8番
地
)
で
問
題
を
作
成
し
,
教
授
会
あ
て
に
郵
送
し
た
。
試
験
委
員
手
当
と
し
て
4ポ
ン
ド
ざ
す
活
動
が
展
開
さ
れ
た
が
,
こ
れ
は
激
石
に
と
っ
て
「
ロ
ン
ド
ン
留
学
中
唯
一
の
臨
時
収
入 j で
あ
っ
た
。
当
時
学
費
は
一
カ
月
一
五
Institution)
f一
ポ
ン
ド
は
約
十
円
。
(18) 。
こ
れ
ら
の
学
習
機
関
・
組
織
は
,
そ
の
後
さ
ま
ざ
ま
な
発
展
激
石
の
留
経
路
を
た
ど
り
,
名
称
を
何
度
か
変
更
し
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
あ
O 円J で
あ
っ
た
。
「
ロ
ン
ド
ン
留
学
日
記J (r 激
石
日
記
』
岩
波
文
庫
)
に
は
こ
れ
ら
の
顛
末
が
記
さ
る
諸
学
校
の
吸
収
合
併
を
へ
て
,
現
在
の
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
れ
て
い
る
。
大
学
に
至
っ
て
い
る
。
そ
れ
ら
の
諸
学
校
は
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
な
なお,
ら
び
に
西
部
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
に
お
け
る
商
工
業
の
発
展
と
緊
i秋
石
帰
国
後
も
,
日
本
語
受
験
の
希
望
者
が
あ
ら
わ
れ
る
た
び
に
試
験
委
員
が
任
命
さ
れ
た
。
密
な
か
か
わ
り
を
も
ち
続
け
,
エ
ン
ジ
ニ
ア
,
医
者
,
科
学
者
1902 年
秋
季
試
験
に
は
,
ロ
ン
ド
ン
に
留
学
し
て
い
た
東
京
高
等
師
範
学
校
の
岡
倉
な
ど
の
志
望
者
に
対
し
理
論
学
習
と
実
務
的
な
学
習
の
場
を
提
由
三
郎
供
し
た
。
(1868
-1936) が任じられている。その後, r グ
明
治
期
の
日
本
人
留
学
生
が
学
ん
だ
の
は
,
こ
れ
ら
諸
学
校
ラスゴウ大学要覧j の 1970年度版まで関連の規定があ
るから, 1
9
7
1 (昭和 46)
と
称
す
る
自
主
的
な
学
習
組
織
が
派
生
し
,
こ
こ
を
拠
点
に
成
人
の
自
己
実
現
を
目
4 シ
リ
ン
グ
が
支
給
さ
れ
た
年3 月
の
春
季
試
験
ま
で
,
1
8
7
7 (明治 10)
の
う
ち
,
日
本
年
に
関
学
し
た
ア
ン
ダ
ソ
ン
・
sCollege) ならびに 1887 (明治
語
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
資
格
試
験
の
外
国
語
選
択
科
目
の
認
定
カ
レ
ッ
ジ
(Anderson'
語
で
あ
り
つ
づ
け
た
こ
と
に
な
る
問
。
20) 年開校のグラスゴウ・西部スコットランド技術
大学 (Glasgow
2.
Coli 巴 gel
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
a
r
i
dth 巴 West
(2)
1
)
夜
間
課
程
の
開
設
と
実
学
教
育
の
伝
統
ストラスクライド大学は,
(1)
1
7
9
6 (寛政
第二に,実学人材の教育という点でも特色ある歴史
8)
をもっていた。創立以来,実学教育の長い伝統を有し
年
の
創
立
以
来
,
英
国
の
他
の
諸
大
学
と
は
い
く
ぶ
ん
異
な
っ
た
歴
史
を
ている。
創立者アンダソン自身,科学知識の実際的応用とい
も
っ
て
い
る
。
う点に強い関心をもっていたし,その後も,かれの遺
第
一
に
,
成
人
の
自
主
的
な
学
習
拠
点
で
あ
っ
た
と
い
う
特
色
が
み
ら
れ
る
。
そ
も
そ
も
創
立
者
の
]
.
ア
ン
ダ
ソ
ン
(
J
o
fS
c
o
t
l
a
n
dT巴 chnical
で
あ
っ
た
。
志を受けついで幾多の技術教育課程を開設し変化し
ohn
Anderson, 1726-1796) は,大学開放の先駆者の一人
つつある社会の要求に応えて実学を提供してきた。同
であった。グラスゴウがヱ業都市として、活況を呈しは
時代の商工業や経済生活に関 j裏づけて日々の教育研究
じめた 18世紀後半期の, 1757年から 96年までグラスゴ
活動を展開し,応用科学,工学,経営学などを重視する
ウ大学自然哲学教授であったとき,同僚教師と同じよ
傾向は長く続いている。].ヤング(James
うに,市民の学習要求に応えて,担当していた自然哲
-1883) , ]
.1
.
ベ
ア
ド
(
J
学の実験コースを地元市民にも開放した。稜々の工夫
な
と
多
数
の
技
術
者
や
科
学
者
を
輩
出
し
た
。
をして市民の学習を支援したこともあって,伺コース
8)
-18-
年
に
創
立
ohn
Young, 1
8
1
1
L
o
g
i
eBaird, 1
8
8
8 1
9
4
6
)
200 周
年
を
迎
え
た
之
き
の
標
語
は
,
1996
(平成
I実
学
教
第 56 巻
第 2 号 (2009
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
育
の
提
供
と
い
う
点
で
\
特
色
あ
る
歴
史
を
も
っ
て
い
た
。
育の2
却
∞
O
O年 (ω20ωOy
戸巴ars ぱ0.f 凶
us巴ぱ.fu
ぱlie
巴a
創r‘'ill
(3)
明
治
末
年
ま
で
に
,
同
大
学
(
当
時
の
学
校
名
は
,
前
述
の
よ
う
に
,
ア
ン
ダ
ソ
ン
・
カ
レ
ッ
ジ
な
ら
び
に
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
・
第三に,明治日本の教育と緊密な関係をもっていた
ことが注目される。幕末以来,
日本から何人もの留学
西
部
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
技
術
大
学
)
に
学
ん
だ
日
本
人
は
,
筆
者
の
調
査
で
は
,
総
勢
生が本学に学んだし,お雇い教師のH.ダイアーが工部
21 名
を
数
え
る
。
か
れ
ら
の
修
学
記
録
大学校において展開した実践的な工学教育の方式を,
を
『
学
籍
簿
帰国後,本学に移し入れようとしたからである。
ると,顕著な{頃肉と特徴が認められる。
(Regist
学
は
,
開
国
前
の
慶
応
同校の 200年史研究である『ジョン・アンダソンの
庸
三
で
あ
る
。
早
く
も
文
久
U
n
i
v
e
r
s
i
t
yo
f
遺産 (JohnAηdersoη's Legαcy, ηw
Stmthclyde
1
7
9
6
1
9
9
6
)
1
.)691(
α ndi ぉ Aη tecedents
)napa
3
年
に
始
ま
る
。
最
初
は
山
尾
(1863)
年
に
,
ジ
ャ
ー
デ
イ
ン
・
マ
セ
ソ
ン
商
会
の
支
援
で
英
国
に
密
出
国
し
,
ロ
ン
ド
ン
2年
か
ら
明
治
元
(1868)
年までの
2 年間,アンダソン・カレッジの夜間課程で自然哲学,
Jあ
が
し
出
見
う
い
と
生
学
留
人
本
日
に
中
文
本
,
れ
わ
ら
2 (1866)
で
修
学
し
た
後
,
慶
応
で
B)') .I等の史料をもとに分析してみ
第
一
に
,
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
お
け
る
日
本
人
の
留
明治日本との関係というこの局面は,近年の学校
史のなかで再評価され特筆されている。たとえば,
J
(
本
日
「
に
か
な
の
引
索
,
は
年度)
教
い
9
雇
お
に
び
ら
な
名
無
機
化
学
,
冶
金
学
を
履
修
し
た
。
昼
間
に
は
ロ
パ
ー
ト
・
ネ
イ
ピ
ア
造
船
所
で
実
地
に
造
船
技
術
を
学
ん
で
、
い
る
。
,
三
庸
尾
山
は
師
と
生
学
留
人
本
日
。
る
2
い
て
し
場
登
が
名
1
(
郎
五
虎
丸
石
)
2
0
9
1
4
3
8
?-1875) ,高
(
郎
八
渡
馬
,
つ
い
で
石
丸
虎
五
郎
な
ら
び
に
馬
i度八郎の二人が,慶応、
峰譲吉 (1854-1922) ,宮島可次郎,松田清一 (1876­
2年
に
,
こ
れ
も
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
出
身
の
グ
ラ
パ
ー
商
会
の
1
9
3
4
),
竹
鶴
政
孝
T
.B ,
グ
ラ
パ
ー
鈴
木
重
初
-1
9
7
9
),
北
川
政
(1894
(1901
(1898-1987);
-1938) の諸氏であり,このうち最初
の 6 名が幕末および明治期の留学生である。お雇い教
(Thomas
B
l
a
k
eGlover, 1838-1911) ら
の支援で英国に密航した。アンダソン・カレッジに学
んで,理工系の知識を身につけた。
日本開国後のストラスクライド大学日本人留学生第
師とは,工部大学校の土木・機械学教師に招かれたH.
ダイアー,および同校土木・測量学助教師 AW,トム
一号は,高峰譲吉である。工部大学校の一期生(化学
ソン (Arthur W
atsonThomson)
専攻)であり,明治 12 (1879) 年 11 月の同校卒業時に
である。
『
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
土
木
学
Herit
St γα thclyde
す
る
冊
子
に
お
い
て
も
,
Conn
100 年
史
I日
本
と
の
関
係
巴ction)
(The
G
o
o
d
l
y
政府派遣留学生 11 名のうちの一人に選抜されて,グラ
スゴウにやっで来た。 1879-80年,アンダソン・カ
αt
レッジのヤング実験室 (Young Laboratory) に学び,
と
で
も
題
Japanes
巴
E
.J ミ
ル
ズ
高峰の留学以後,
J 面
に
つ
い
て
論
及
さ
れ
て
い
る
。
ダ
イ
ア
ー
は
,
工
部
省
の
ロ
ン
ド
ン
代
理
人
H
.
M
.
ソ
ン
に
推
薦
さ
れ
て
来
日
し
,
明
治
年
ま
で
の
約
(Edward
JamesMills , 1840-192 1)講師
担当の無機化学を聴講生という形で学んだ。
Jと
い
う
節
を
特
設
し
て
,
上
記
二
名
の
お
雇
い
教
師
を
介
し
た
「
影
響
(1883)
(A
A Hund1・ed yiヲars o
fC
i
v
i
lEngineel'ing
U
n
i
v
e
r
s
i
t
y1887-1987}
j (1987)
αge ,
6
(1873)
年
か
ら
1890年代,
マ
セ
16
とくにその末期以降,留学生が急増し明治
末年までに 17名を数える。このころの学校名は,グラ
スゴウ・西部スコットランド技術大学と改称されてい
10 年
間
,
工
学
寮
な
ら
び
に
工
部
大
学
校
の
都
検
(
教
頭
)
の
任
に
あ
っ
た
。
日本人留学生は途絶えていたが,
If サ
ン
ド
イ
ツ
チ
j 課
た。
程
の
教
育
を
組
織
化
し
,
立
派
な
学
校
を
設
立
し
た
の
で
,
日
第二に,留学といっても昼間課程での修学とはかぎ
本
人
が
あ
た
ら
し
い
高
等
教
育
制
度
を
作
る
さ
い
に
用
い
る
ア
らない。同大学では夜間課程が開設されていた。富山
イ
デ
ア
の
真
の
提
供
者
で
あ
っ
た
J。
ト
ム
ソ
ン
に
つ
い
て
は
,
「
へ
ン
リ
ー
・
ダ
イ
ア
ー
が
教
頭
で
、
あ
っ
た
工
部
大
学
校
で
間 (1878
アーサおよび近藤滋弥の 2 名は昼間課程を履修した
3年
(それぞれ 1899年度および1904年度)が,その他の 19名
-81 年)を送った」こと,帰国後,グラスゴ
はいずれも夜間課程に学んでいる(正確にいえば,富
ウ・西部スコットランド技術大学の最初の非常勤講師
山アーサは,
に任命され,土木工学デイプロマを創設したというこ
も履修している)。しかも,富山アーサは 3 年間修学し
1899年度は昼間課程だけでなく夜間課程
とが,記述されている(19) 。
て 1901 年に造船学の准学士号 (Associate) を取得した
2) 実学人材の育成
修して卒業学位を取得するというのではなく,特定の
けれども,かれを除く留学生 20名は,所定の課程を履
(1)
専攻科目についてのみ聴講した。
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
は
成
人
学
習
の
拠
点
と
し
て
の
実
績
を
も
ち
,
夜
間
課
程
の
開
設
な
ら
び
に
勤
労
者
へ
の
実
学
教
したがって,第三に,かれらの修学期間は総じて短
い。
-19 一
3 年間の修学者 2 名(富山アーサ,岩根友愛),
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
2 年間の修学者が 3 名(山尾庸三,小田切延寿,佐藤
(講義 5 ,実習 2 ,講義・実習 2 ),造船学は 8 名,数
恒二)いるけれども,残りの 16名は 1 年間修学しただ
学 5 名,電気工学 5 名(講義 4 ,実習1),化学 5 名
けであった。短期の修学ということと連動して,かれ
(一般化学 1 ,工業化学 1 ,無機化学 3) ,磁気学・電
らが履修した科目数は多くなく,
気学 4 名,機械工学製図 3 名,自然哲学 3 名,応用機
1 年間の修学者 16名
械学 2 名,原動機(講義・実習)
のうち 7 名は 1 科目のみという特定科目の履修であっ
た。ほかに 2 科目履修者 2 名,
4
3 科目履修者 4 名,
2 名,建築工事 2 名,
冶金学 2 名,機械製図 1 名,重金属製品製造 1 名,ガ
ス機関 l 名,船舶工学製図 l 名,などという内訳であ
科目の履修者は 1 名という内訳である( 2 名は科目名
不明)。
る。昼間課程の 2 名は,数学,
第四に,ストラスクライド大学留学生 21 名のうち,
自然哲学,力学,実験
物理学,応用物理学,化学講義,応用化学,機械学,
14名がグラスゴウ大学に在籍中にストラスクライド大
応用機械学,原動機(講義) ,原動機(実習に工学製
学にも修学していたことが注目される。すなわち,山
図,機械製図などを履修した。
本長方,小田切延寿,富山アーサ,鈴木四十,中島奥
曽八,風間篤次郎,佐藤恒二,浦野喜三郎,岩根友愛,
履修科目はほとんどすべてが自然科学系科目である
が,蒸気機関,原動機,建築工事,重金属製品製造,
岩崎秀弥,堤佐久間,宮島可次郎,近藤滋弥,松田清
ガス機関などという科目名にあらわれているように,
ーの諸氏である。(正確には,上記のうち,近藤滋弥は
専門技術の習得に直結するような実務的な授業科目の
グラスゴウ大学に入学する前年に 1 年間ストラスクラ
履修が自立っている。
ちなみに,
イド大学の昼間課程に学んだが,かれ以外の留学生は
グラスゴウ大学に在籍しながらストラスクライド大学
日本人留学生が一番多く履修した「蒸気
機関」の授業では,
r原動機の理論・構造・応用 j をめ
に学んだ)。これができたのも,ストラスクライド大学
ぐり, r幻灯画,模型,図表,実験」を大いに取り入れ
の夜間課程に学んだからである。
て教えられた。
グラスゴウ大学在籍中にストラスクライド大学に学
「蒸気機関 nJ の場合,①「熱力学の法郊と原理,蒸
んだ最初は,山本長方であった。グラスゴウ大学留学
気機関・熱気機関・ガス機関・石油機関その他への応
2 年目の 1890年度にはストラスクライド大学で「童文学
用」に始まり,②「機関。弁,弁装置,弁線図,クラ
I
Jr数
学
n
J
r無
機
化
学
J r無
機
化
学
(
実
習
い
る
。
続
い
て
,
小
田
切
延
寿
が
1897
を
受
講
し
て
か
ら
1904
)J
を
学
ん
で
ンク回転力線図。はずみ車。調速機。釣合わせ。発動
年
度
に
「
建
築
工
事
」
機の試運転 J ,③「ボイラー.陸用ボイラー・ロコボイ
年
度
に
松
田
清
ー
が
「
重
金
属
製
品
製
造
」
を
受
講
す
る
ま
で
の
ラー(汽車用)・船用ボイラー・水管ボイラー・炎管ボ
6年
の
間
,
ほ
ぼ
毎
年
度
,
の
べ
イラー
13
その設計・構造・試験・作動。過熱器・空気
名
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
日
本
人
留
学
生
が
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
加熱器・押込通風装置。燃料と燃料試験J ,④「エンジ
大
学
に
修
学
し
て
い
る
。
ン: I登用機関・蒸気機関・船用機関・タービン機関 J ,
こ
の
う
ち
,
岩
根
友
愛
は
1901
間
,
小
田
切
延
寿
は
1897
年
度
と
(
明
治
34)
98 年
度
の
年
度
か
ら
3年
⑤「高圧蒸気,二段膨張機関・過熱・蒸気ジャケット
の効用 J ,⑥「用途(工場,電灯,船・鉄道の推進等)
2年
間
そ
れ
ぞ
れ
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
在
籍
し
た
が
,
二
人
と
も
こ
の
間
,
毎
年
に応じた原動機の型式・設計の選定。計算の方式(図
度
,
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
夜
間
課
程
に
学
ん
だ
。
佐
藤
解入り) J,
恒
二
は
4年
間
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
留
学
中
の
年
度
)
と
4年
目
(1901
3年
目
二番目に履修者の多い「造船学J の第 1 コースの場
(1900
年
度
)
に
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
合は,順に,①「載貨容積の単位。平面図のいろいろ。
正立方体の容積。物体の密度と重量。浮力・揚力の原
学
ん
で
い
る
。
鈴
木
四
十
,
中
島
奥
曽
八
,
風
間
篤
次
郎
,
宮
島
可
次
郎
,
松
田
清
一
の
5名
は
修
学
中
の
理 J ,②「背の船と建造法。最近の木船と木鉄船,その
2年
間
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
長所と短所 J ,③「造船と鉄の活用。初期の銅船および
1年
目
を
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
学
ん
だ
。
一
方
,
富
山
ア
ー
サ
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
大
学
に
は
1900
木船の構造上の類似点J.④「交易用の最新の鋼船。そ
年
度
に
在
籍
し
た
だ
け
で
あ
る
の
に
,
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
に
は
年
度
か
ら
1900
の建造システムと各部を連結する強度補強法と水密方
1898
年
度
ま
で
の
3年
間
在
籍
し
,
し
か
も
1899
年
1901
法J ,⑤「装甲軍艦・非装甲軍艦の建造装備J ,⑥「船
底見透し,配管,つの形クリート,フェアリング(船
度
は
昼
間
課
程
と
夜
間
課
程
の
両
方
に
学
び
,
前
述
の
よ
う
に,
という ill買に講じられた。
体形状を平滑リにする修正作業)と舷弧,船台と進水
年
に
は
造
船
学
の
准
学
士
号
を
取
得
し
て
い
る
。
(2)
台の製作準備 J ,から構成された。要するに,
r蒸気機
第五に,かれら日本人留学生の履修科目についてみ
関 J r造船学」のいづれにおいても,基本原理・原則
ると,夜間課程については,蒸気機関の履修者が 9 名
のほかに,実際の応用と方法について具体的に言及さ
-20 一
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
れ,現場ないし実務に関連づけた内容で、あった。
第 56 巻
第 2 号 (2009
室
・
造
船
学
実
験
室
・
電
気
学
実
験
室
の
設
置
,
機
械
学
・
電
第六に,ストラスクライド大学においても,グラス
気
学
・
化
学
・
造
船
学
の
資
格
証
明
書
の
新
設
な
ど
に
つ
い
て
ゴウ大学と同様に,大学で学習しながら学外の産業現
も
推
進
し
た
。
工
部
大
学
校
に
お
け
る
実
践
が
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
場に赴き実地研修を体験した者がいた。山尾庸三なら
ドに逆流したという点で、注目される。
第
二
に
,
明
治
びに高峰談吉の二人である。既述のように,山尾庸三
35
(1902)
年
に
は
,
明
治
政
府
の
帝
国
財
はネイピア造船所で,高峰譲吉は「スコットランド
務
及
工
業
通
信
員
を
委
嘱
さ
れ
た
。
日
本
の
財
政
や
商
工
業
の
最大の会社であるセント・ロロックス化学工場 (St.
実況を新聞・雑誌等をとおして英国に報道することで,
R
o
l
l
o
xChemicalWorks)
で
徒
弟
奉
公
の
口
を
え
た
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
留
学
生
は
,
昼
間
は
造
船
所
や
工
場
で
、
年度)
J。
ス
日
英
関
係
の
増
進
に
寄
与
す
る
こ
と
が
期
待
さ
れ
た
。
他
の
お
雇
い
教
師
に
は
み
ら
れ
な
い
特
異
な
経
歴
で
あ
る
。
実
地
研
修
を
受
け
た
り
徒
弟
と
し
て
働
き
,
夜
は
大
学
で
原
第
三
に
,
お
雇
い
教
師
と
し
て
の
日
本
体
験
な
ら
び
に
深
い
理・理論について学ぶことができたのである(則。
日
本
理
解
を
も
と
に
,
帰
国
後
に
日
本
研
究
を
深
め
,
日
本
事
情
通
と
し
て
西
洋
へ
の
日
本
紹
介
に
寄
与
し
た
。
『
大
日
本
』
『
世
界
政
治
の
な
か
の
日
本
』
と
い
う
大
著
を
は
じ
め
,
題
名
に
I
V
. ま
と
め
一
日
英
教
育
連
鎖
の
拠
点
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
「
日
本
」
を
冠
し
た
著
作
だ
け
で
も
(1)
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
は
明
治
日
本
と
緊
密
な
関
係
に
あ
っ
た
。
お
雇
い
教
師
H.
ダ
イ
ア
ー
な
ら
び
に
日
本
人
17 点を数える。
そ
の
日
本
研
究
は
分
析
の
方
法
と
視
角
,
研
究
素
材
の
点
で
特
色
が
あ
っ
た
。
ま
ず
,
英
国
と
の
比
較
と
い
う
方
法
を
随
所
で
駆
使
し
た
。
日
本
は
モ
デ
ル
国
に
な
る
と
認
識
し
,
沈
滞
し
留
学
生
を
介
し
た
交
流
と
関
係
だ
け
で
も
,
次
の
よ
う
な
諸
点
て
い
る
英
国
の
改
革
に
役
立
て
よ
う
と
し
た
。
つ
ぎ
に
,
日
本
が
認
め
ら
れ
る
。
の
成
長
に
お
け
る
教
育
の
役
割
を
重
視
し
た
。
と
く
に
日
本
の
ま
ず
,
近
代
日
本
教
育
の
成
立
と
進
展
の
さ
い
,
グ
ラ
ス
ゴ
国
家
的
教
育
制
度
を
高
く
評
価
し
,
日
本
の
経
験
は
「
英
国
へ
ウ
大
学
な
ら
び
に
ス
ト
ラ
ス
ク
ラ
イ
ド
大
学
の
前
身
校
ア
ン
ダ
の
教
訓
に
な
る
」
と
説
い
た
。
し
か
も
,
帝
国
財
務
及
工
業
通
ソ
ン
・
カ
レ
ッ
ジ
に
学
ん
だ
信員になり,
H.
ダ
イ
ア
ー
が
お
雇
い
教
師
と
日
本
政
府
を
通
じ
て
多
数
の
日
本
資
料
を
自
在
し
て
招
か
れ
た
。
か
れ
は
技
術
導
入
と
工
業
化
政
策
の
中
核
と
に
活
用
す
る
こ
と
が
で
き
る
よ
う
に
な
っ
た
こ
と
で
\
そ
れ
ら
な
っ
た
工
部
省
に
雇
い
入
れ
ら
れ
,
明
治
政
府
の
匝
是
で
あ
っ
の
資
料
を
活
用
し
て
特
色
あ
る
成
果
を
生
み
出
し
た
。
た
国
家
富
強
な
ら
び
に
殖
産
興
業
に
直
結
す
る
工
学
専
門
教
育
第
四
に
,
ダ
イ
ア
}
に
は
「
ダ
イ
ア
ー
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
」
あ
の
組
織
化
に
寄
与
し
た
。
他
の
英
国
人
教
師
を
率
い
て
工
学
専
る
い
は
「
ダ
イ
ア
ー
遺
贈
品
門
教
育
を
推
進
し
,
工
学
人
材
の
育
成
と
い
う
期
待
に
こ
た
え
係資料がある。図書・冊子,美術工芸品,楽器,写真,
た。
絵
葉
書
類
な
ど
か
ら
構
成
さ
れ
る
間
資
料
は
五
つ
の
資
料
群
に
な
か
で
も
,
大
陸
諸
国
に
み
ら
れ
る
学
理
を
重
視
す
る
方
式
j と
称
さ
れ
る
,
大
量
の
日
本
関
分
割
さ
れ
,
現
在
は
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
お
よ
び
エ
デ
イ
ン
パ
ラ
の
美
と
英
国
に
み
ら
れ
る
実
践
重
視
の
方
式
と
を
結
合
し
た
教
育
課
術
館
・
博
物
館
,
図
書
館
に
所
蔵
さ
れ
て
い
る
。
大
量
か
っ
多
程
を
創
案
し
,
こ
れ
を
工
学
寮
お
よ
び
工
部
大
学
校
に
導
入
し
彩
な
向
コ
レ
ク
シ
ョ
ン
は
,
ダ
イ
ア
ー
の
長
年
に
わ
た
る
日
本
た
こ
と
が
注
目
さ
れ
る
。
こ
れ
は
単
独
の
モ
デ
ル
を
ど
こ
に
も
関
心
な
ら
び
に
日
英
交
流
を
裏
づ
け
る
点
で
注
目
さ
れ
る
。
資
も
た
な
い
独
自
の
も
の
で
あ
っ
た
。
お
雇
い
教
師
を
送
り
出
し
料
の
な
か
で
も
日
本
美
術
工
芸
品
は
,
近
年
,
日
英
交
流
の
歴
た英国は.
史的所産,
rエ
ン
ジ
ニ
ア
の
体
系
的
教
育
に
お
け
る
著
し
い
遅
れ J が
固
の
重
要
問
題
に
な
っ
て
い
た
だ
け
に
,
大
き
な
関
と
り
わ
け
日
本
・
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
聞
の
交
流
の
足
跡
を
し
の
ぶ
格
好
の
品
と
し
て
,
展
覧
に
供
さ
れ
て
い
る
。
心
を
も
っ
て
そ
の
動
向
を
繰
り
返
し
紹
介
し
た
。
(2)
グラスゴウには,お雇い教師を介して数多くの日本
ダ
イ
ア
ー
は
お
雇
い
教
師
を
解
除
さ
れ
,
郷
里
の
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
に
戻
っ
て
か
ら
も
日
本
と
関
係
を
保
ち
続
け
,
晩
年
に
至
る
人留学生が集まった。グラスゴウにあるグラスゴウ大
ま
で
日
英
の
交
流
の
推
進
に
寄
与
し
た
。
学ならびにストラスクライド大学は実学人材の教育機
第
一
に
,
日
本
の
工
学
寮
お
よ
び
工
部
大
学
校
に
お
け
る
教
育
実
践
を
持
ち
帰
り
,
グ
ラ
ス
ゴ
ウ
・
西
部
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
関としての実績を持っており,特色ある学習機会を提
供した。
技
術
大
学
に
移
し
入
れ
た
。
ま
ず
,
専
門
学
科
の
課
程
な
ら
び
グラスゴウ大学には,明治時代に少なくとも 50名が
に
専
門
学
の
授
業
科
目
を
編
成
す
る
さ
い
,
工
部
大
学
校
の
学
学んだ。まず,かれらの出身校についてみると,工部
科
課
程
を
ほ
ぼ
そ
の
ま
ま
移
植
し
た
。
工
学
教
育
に
お
け
る
学
大学校出身者は 9 名,同校が併合された帝国大学およ
理
の
学
習
と
実
地
研
修
の
結
合
と
い
う
,
自
身
が
創
案
し
実
施
び東京帝国大学工科大学出身者は 5 名を数えた。日清
し
た
学
習
方
式
も
ま
た
移
し
入
れ
た
。
さ
ら
に
,
土
木
学
実
験
戦争後の 19世紀末になる友 海軍関係者が増加し,海軍
-21 ー
日本・スコットランド教育文化交流の諸相
機関学校出身者 4 名を合めて合計 6 名にのぼった。造
る
た
び
に
試
験
委
員
が
任
命
さ
れ
た
。
船・海運業界の指導者の二世も 3 名を数える。慶応義
は
,
ロ
ン
ド
ン
に
留
学
し
て
い
た
岡
倉
由
三
郎
が
任
じ
ら
れ
て
塾出身者も 3 名含まれる。
Uミ
る
。
1902
年
秋
季
試
験
に
(3)
第二に,履修科目はほぼ全員が日本の殖産興業につ
ストラスクライド大学には 21名が留学した。そのう
ながる自然諸科学を受講した。工学ないし機械学が一
50名中 30名がこれを選択している。ついでL 自
ち,日本開園前にすでに 3 名が学んでいた。かれらは,
然哲学ないし物理学が25名,造船学 24名,数学22名,
横浜および長崎を拠点に日英貿易に乗り出していたス
化学 16名などという内訳である。同じ科目でも,講義
コットランド系商社の斡旋で密出国し,留学地として
コースとともに実験コースを受講した者が多い。同大
グラスゴウを選択した。その最初が山尾庸三である。
番多く,
学では,教室での理論学習を実験室での実験実習(さ
同大学は,成人への学習機会の開放,夜間課程の開
らには学外での実習体験)に結びつけた教育がおこな
設,実践的な教育と実学人材の養成という,英国の他
われていた。女性で医学専攻という異色の留学生も 1
の大学にはあまりみられない特色をもっていた。それ
だけに,日本人留学生21名の貿学実績には特筆すべき
名いた。
諸点がみられる。
第三に,学業成績が優秀であったことが特筆され
そのーは,留学といっても昼間課程に学んだ者は 2
る。とりわけ初期の留学生は輝かしい成績を残し,
名だけであり, 19名は夜間課程だけを履修した。しか
種々の受賞記録が残っている。
も, 21 名中 20名は卒業学位を取得するのではなく,特
学位授与式において日本人留学生の優秀さと学習ぶ
定の専攻科目についてのみ受講した。
りが称えられ,地元紙に報道された事例もある。工部
したがって,かれらの履修期間は総じて短い。 3 年
大学校第一期留学生で 1880年度に学んだ,南 i青・志田
林三郎・高山直質の場合がそうであって,
間の修学者 2 名(うち 1 名は准学士号を取得),
r朝野新関 j
3 名,
や『工学会誌』を通じて日本にも紹介された。
1 年間は 16名という内訳であった。
2 年間
1 年間の修
学者 16名のうち 7 名は 1 科目のみの履修者であった。
第四に,修学期間は区々で短期の者もいれば長期の
者も少なくない。 1 年間だけの修学者は 24名と多い
ほかに 2 科目履修者は 2 名, 3 科目履修者 4 名, 4 科目
が, 2 年間の修学者は 13名,
履修者は l 名という内訳である( 2 名は科目名不明)。
5 年間 1 名,
3 年間 4 名, 4 年間 6 名,
そのこは, 21 名のうち 14名がグラスゴウ大学にも修
6 年間 2 名いう内訳である。かれらのう
学していた。グラスゴウ大学の昼間課程に在籍しなが
ち,学士号を取得した者は 12名を数える。
第五に,修学中に学外に出て実地研修を体験するこ
ら,ストラスクライド大学(正確にはグラスゴウ・西
とが奨励されていた。同大学の学習課程は 6 ヶ月単位
部スコットランド技術大学)の夜間課程に学んだので
で編成され,
ある。
10 月から 3 月までの冬学期は大学に通う
その三に,夜間課程における履修科目は,蒸気機関
が,夏学期の 6 ヶ月間は学外での実地研修に出かける
ことができた。日本人留学生も, 10名が造船所,鉄工
の履修者 9 名,造船学 8 名,数学 5 名,電気工学 5 名,
所,鉄道会社,郵便局などでの実修を体験している。
化学 5 名,磁気学・電気学 4 名,機械学製図 3 名,自
そのうち 6 名が工部大学校出身者で、あった。工部大学
然哲学 3 名,応用機械学 2 名,原動機 2 名,建築工事
校では教室での学習と実地研修を交互に組み込むとい
2 名,冶金学 2 名,機械製図 1 名,重金属製品製造 1
う教育課程が,ダイアーの発案ですでに実施に移され
名,ガス機関 1 名,船舶工学製図 1 名,などという内
ていた。
訳であった。昼間課程では,数学,自然哲学,力学,
第六に,資格試験の外国語選択科目に日本語が認定
実験物理学,応用物理学,化学講義,応用化学,機械
されたことが注目される。留学中の福沢三八が申し出
学,応用機械学,原動機(講義) ,原動機(実習) ,工
をしダイアーがその実現を支援した。試験委員に
学製図,機械製図などを履修した。夜間課程であれ昼
は,最初,在ロンドン領事館一等領事荒川|巳次が委嘱
間課程であれ,蒸気機関,原動機,建築工事,重金属
されたが,荒川!は程なくして辞退し,ロンドンに留学
製品製造,ガス機関という科目名にあらわれているよ
中の夏目金之助(激石)を推薦した。夏目は 1901年 4
うに,専門技術の習得に直結するような実務に関連づ
月の春季試験と同年 10月の秋季試験に試験委員をつと
けた科目の履修が目立っている。
めた。夏目が出題した日本語試験問題は今なお不明で
その四に,実地研修を体験した者は山尾庸三および
あるが,福沢三八を含め 4 名の日本人がこれを受験し
高峰譲吉の 2 名いた。そのうち,山尾は,留学から帰
た。激石の帰国後は,
ると工部省の創設を推進し,また同省の要職を歴任す
日本語受験の希望者があらわれ
2
2
第 56巻第 2 号 (2009年度)
名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)
るなか,グラスゴウの造船所における実地研修を含め
1)三好信浩『ダイアーの日本』福村出版, 1989 , 3
7
た留学体験をもとに実学人材の教育機関の設立を計画
53 頁
;
北
政
巳
『
ス
コ
ッ
ト
ラ
ン
ド
と
近
代
日
本
した。ダイアーが赴任すると,同じストラスクライド
ネット,
j 丸
善
プ
ラ
2001 , 93-96頁: Checldand , 0. , 'Th巴 Scots
大学に学んだという間柄もあって,ダイアーを支援し
i
nM
e
i
j
iJapan1
8
6
8
1
9
1
2
', i
nCage, R
.A.巴
た。ダイアーが提案した工学教育構想が採用される
S
c
o
t
sAbm
と,その具体化を促進することになる。
1914, CroomHelm, London, pp.
263-266 (0. チェッ
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が求めていた工学,造船学その他の諸科学を学ぶこと
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ができただけでなく,教室での理論学習を実験室での
収) :拙稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクラ
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学
出
版
部
,
2004 , 55~58頁所
実習ならびに現場での実地研修に結びつけて学習を深
イド大学における日英交流-J r英学史研究』第 42
めるという,特色ある教育体制が用意されていた。と
号,
くに学外での実地研修が奨励されていて,意欲ある者
日本英学史学会, 2009年 11 月,
15-18頁。
2)拙稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクライド
大学における日英交流ー」同上,
であれば造船所,鉄工所,鉄道会社などで実習を体験
15-16頁。
することもできた。しかも,ストラスクライド大学で
3) 拙稿「近代日本とイギリスの教育学術交流 J r教育
は夜間課程も開設されていたので,昼間はグラスゴウ
史研究室年報j 第 13号,名古屋大学大学院教育発達
大学もしくはストラスクライド大学での学習,あるい
科学研究科教育史研究室, 2007年 12 月, 45-47頁。
は学外での実地研修を体験しながら,夜間にはストラ
4) 三好信浩『日本工業教育成立史の研究ー近代日本
スクライド大学で学習する機会も用意されていた。し
の工業化と教育-.I風間書房,
たがって,グラスゴウは,短期日のうちに実学人材の
に 271-280頁;同『ダイアーの日本J 前出,III.と
育成をめざしていた当時の日本にとってふさわしい留
学地であったと考えられる。
くに 83
88頁参照。
5)三好信i告『日本工業教育成立史の研究ー近代日本
(4)
の工業化と教育
』向上, 298-320頁;拙稿「日英
交流の推進者へンリー・ダイアーの叙勲 J r 日本古
グラスゴウはお雇い教師匠.ダイアーの人選と雇い
入れにおいて明治日本との関係が成立しただけでな
書通信』第 67巻第 10号,
く,ダイアーらお雇い教師を介在して日本人留学生が
月, 20-22頁。
集まったという点で,教育連鎖の拠点であった。
1999 ,第五章,とく
日本古書通信社, 2002年 10
6)拙稿「英国からみた工部大学校 J ,江藤恭二編『比
較教育史の総合的研究
そのお雇い教師は任期が終了し契約解除になったら
近代日本教育の確立過程
母国に戻る,一時的な文化や技術の運搬者という側面
における欧米教育の受容に関する比較史的考察
をもっている。日本での教育体験の持ち帰りや日本事
No.1 (文部省科学研究費総合研究
告書),
物の持ちこみだけでなく,日本研究や日本滞在記の執
筆を通して日本紹介を推進するという点で,まさに教
37-49
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英学史学会,
ダイアーの場合も,工部大学校における専門学の学
科課程の編成と授業科目の開設,工学実験室の整備,学
1980 年 3 月,
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2008 年 10 月,
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学
史
研
究
』
第
39-44
41 号,
日
本
頁,参照。
8)三好信浩『ダイアーの日本』前出, V: 北政巳
理と実地を結合した教育方法を,グラスゴウ・西部ス
『国際日本を拓いた人々
日本とスコットランドの
コットランド技術大学に移植したし,多彩で大量な日
粋
本美術工芸品の持ち帰り,ならびに日本での体験と見
ンリー・ダイアーの著作 J r教育史研究室年報』第
聞にもとづく日本研究によって,スコットランドはも
12号,名古屋大学教育学部教育史研究室, 2006年 12
ちろん世-界への日本紹介に寄与したという点でも注目
月,
J 同文舘,
1984 ,第 5 章,拙稿「お雇い教師へ
1-32頁;同「お雇い英国人教師へンリー・ダ
イアーの日本研究一成果と特色一」同上;同 IH目ダ
される。
イアー『大日本.I (1 904) の伝来J r名古屋大学大学
注
院教育発達科学研究科紀要(教育科学).1第 55巻第 2
号, 2009年 3 月, 67-90頁;同「明治日本躍進の研
[本稿は,これまでに発表した拙稿から主題にかか
わる記述を抜いて再構成したものであり,旧稿と重複
究
がある。注記すべき典拠史料ならびに引用文献は,旧
信』第 65巻第 12号,
稿に含まれるものについては基本的に省略した。]
4- 8 頁,参照。
23-
H. ダイアー『大日本J の刊行一J r 日本古書通
日本古書通信社, 2000年 12 月,
日本・スコットランド教育文化交流の諸柑
号
,
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本
英
学
史
学
会
関
西
支
部
,
9) 拙稿「日英交流の遺産ダイアー・コレクション研
究 J r英学史研究』第 38号,
年 10 月,
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日本英学史学会,
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,
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2007 年 3 月,
16) 北政巳『国際日本を拓いた人々
ウ留学j 同上;同「明治期グラスゴウ大学日本人留
学生の記録J 向上,参照。
『国際日本を拓いた人々一日本とスコットランドの
17)拙稿「明治期におけるグラスゴウ大学日本語資格試
終-j 前出,第 5 章;拙稿「グラスゴウと明治日本
験J ,江藤恭二監修,篠田弘・鈴木正幸編『教育近代
ストラスクライド大学における日英交流-J 前出,
化の諸相』名古屋大学出版会, 1992年 3 月,
27-29頁,参照。
J r福沢手帖j86 ,福沢諭吉協会, 1
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験
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動向 )J r教育社会史研究室年報』第 3 号,名古屋大
学教育学部教育社会史研究室, 1997年 11 月,
201-221
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頁。
拙稿「へンリー・ダイアーの胸像
号,東京大学出版会,
教育社会史研究室,
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J WP ,i第 319
1999 年 5 月,
25-30
jJ
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側t ,
No .1, J
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研究』神戸商科大学経済研究所, 1987 ,第 l 章;拙
1-26頁。
稿「グラスゴウと明治日本一ストラスクライド大学
における日英交流J 前出;同「明治期日本人留学生
14) 拙稿「明治日本躍進の研究-H. ダイアー『大日本』
の母校
」前出。
ストラスクライド大学のニ 00 年史 J r皐
鐙j 第 94巻第 7 号,丸善,
15) 北政巳『国際日本を拓いた人々一日本とスコット
1997年 7 月, 36-39頁,
参照。
ランドの終』前出,第 6 章,拙稿「南i青のグラスゴ
19) 拙稿「グラスゴウと明治日本
ウ留学 J ,加藤詔士・吉川卓治共編『西洋世界と日本
の近代化一教育文化交流史研究
ω~d
18) 拙著『英国メカニックス・インスティチュートの
11 号,名古屋大学教育学部
2005 年 11 月,
日tion
2002 , pp.79-91 ,参照。
頁。
拙稿「辞書・事典のなかの『へンリー・ダイアー
『教育史研究室年報』第
の刊行
日本とスコット
ランドの粋』同上,第 6 章;拙稿「南清のグラスこf
10) 三好信浩『ダイアーの日本J 前出, IV; 北政巳
13)
2003 , 14-15頁;富田仁編
海を越えた日本人名事典』日外アソシ
エーツ, 2005 , 681 頁,参照。
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大学における日英交流J 同上,
』大学教育出版,
2010年 3 月出版予定,所収;同「明治期グラスゴウ
20) 同上, 21-27頁。
大学日本人留学生の記録 J r関西英学史研究j 第 5
2
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ストラスクライド
18-20頁。
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