40.アメリカ・インディアン悲史 感想文:林 久治

40.アメリカ・インディアン悲史
感想文:林
久治
著者:藤永茂
発行:1974 年 10 月 20 日
発行所:朝日新聞(朝日選
書 21)
初版の定価:600 円
略歴:1926 年生まれ。
1948 年、九州大学理学部物
理学科を卒業。1959 年、理
学博士(京都大学)の学位
を取得。
1959 年から 2 年間、シカゴ
大学理学部物理教室に研究
員として滞在して以来、コ
ンピュータを用いて原子や
電子の振る舞いを議論する
計算化学の研究を続ける。
1965 年、九州大学教授を経
て、1968 年、アルバータ大
学理学部教授に就任し、
1991 年、同大名誉教授とな
る。
(1)前書き
前回(39 章)/f、私(筆者の林)は「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたの
か」(著者:加勢英明、H.S.ストークス)という題目の本に対する感想を書いた。
この感想文によって、読者の方々が「林は全学連崩れの左翼である」との誤解を解
消していただき、「林は真理の探究者である」とご理解していただくことを、私は
期待していた。私はこの感想文を、数名の方々にお送りした。しかし、私の考え方
にはあまり賛同していただけなかったようで、「歴史は勝者が書くもので、仕方な
いですなあ」と、ある方から返事をいただいた。
前回、私は米国の歴史に対する私の意見を記載した。その一部を以下に青文字で
再記載する。(ここで、本書とは「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」の
本である。)
米国は 20 世紀の初頭には、フィリピンまで進出していたのであった。その間、米
国はインディアン達の土地を奪いながら彼らを大虐殺していた。換言すれば、米国
は先住民に対して「ジェノサイド」を行い、彼らの国土を乗っ取ったのである。そ
の上、米国はアフリカから黒人奴隷を大量に購入して、広大な農園で彼らに「強制
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労働」を強要し、本書に記載されているように(p.205)黒人女性を「Sex
Slaves(性的奴隷)」として陵辱した。
このようにして東亜に進出した米帝国主義の次ぎの目標はシナ大陸であった。そ
こには、日本がロシアを追い出して進出していた。そこで、米国は日本に戦争を仕
掛けて駆逐することを企んだ。その真相が、本書に詳しく記載されている。米国は
日米戦争でまんまと成功した後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラ
ク戦争などの侵略戦争を次々と仕掛け、有色人種を虐殺し続けている。故に、米国
はまさに世界史上で最大で最悪の「テロ国家」であったし、現在もそうである。
1965 年頃、私(筆者の林)は大学院生で長倉先生の研究室に所属し、「分子科
学」の学会に出席するようになった。その頃、藤永先生は九州大学理学部物理学科
の教授になられたばかりで、同じ学会で量子化学の理論を発表されていた。
1968 年には、藤永先生はカナダのアルバータ大学理学部教授に就任され、日本の
学会には来られなくなった。それから数年後、私は本屋で「アメリカ・インディア
ン悲史」という題名の本(以後、本書と書く)を発見した。私は本書に大変興味を
引かれ、著者の名前を見ると「なんと! 藤永先生」であった。
藤永先生はカナダでご専門の量子化学のご研究のかたわら、北米の先住民(イン
ディアン)の歴史を勉強され、彼らの悲惨な歴史に義憤を感じられたのではなかろ
うか。当時、私は「西部劇」におけるインディアンの扱いに疑問を持っていたが、
彼らの歴史を全く知らなかった。そこで、私は本書を購入し、アメリカ・インディ
アンの悲史を学び、大変感動したことを今でもよく憶えている。
現在でも、本書は一部の識者には「名著との評判」が高い。(例えば、このサイ
トをご覧下さい/1)私は本書の詳細を忘れてしまったので、本書を再読してその感
想を書くことを決意した。本書の感想文により、「上に書いた私の米国観は決して
偏向したものではない」ということを、読者の方々がご納得いただければ幸いであ
る。
現在、「アマゾン」では本書の新品はなく中古品しかない。けれど、公共の図書
館では、本書の閲覧が可能のはずである。本感想文では、本書の総てを紹介するこ
とはできない。本書に興味のある方は、ぜひ本書を自らお読み下さい。
なお、次ぎの動画もぜひご覧下さい。日本の真実の歴史/g
(2)本書の紹介(第1章から第5章まで)
(ここでは、林の意見や注釈を青文字で記載する。)
本書の「はじめに」で(p.5)、著者は「北米インディアンの悲史は異国の珍奇な
エピソードではない。現在(本書は 1972 年に書かれた)、我々の直面する数々の問
題と深くかかわっている。根源的には、我々の生きる価値の体系の問題であり、人
間が幸せに生きるとはどういうことかという切実な関心事に深くかかわっている」
と書いている。
第1章
ソンミ
ベトナム戦争(1960 年 12 月 - 1975 年 4 月 30 日)におけるソンミ村虐殺事件を
詳細に取り上げている。1968 年3月 16 日午前8時、一群のヘリコプターから南ベ
トナムのソンミ村に降り立った約 80 名の米軍兵士は、村の総人口 700 人ほどのうち
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約 450 人を虐殺した。すべて老人、婦女子、幼児であり、若い男はほとんど見当な
かった。当時の米軍発表によれば、ベトコン死者 128 の戦果だった。
この事件の報道にたいして、(米国における)一般の反応は「ドイツ兵か、日本
兵がしたというならよくわかる。しかし、アメリカ兵の行為としては、全く信じ難
い」というものであった。著者は「ソンミは、アメリカの歴史における孤立した特
異点ではない。動かし難い伝統の延長線上にある。1901 年のルソン島、1890 年のウ
インディド・ニー、1864 年のサンド・クリーク等々の記憶をアメリカ人は喪失して
いる。しかし、それらの事件を決して忘れない人達がいる。北米インディアンの生
き残りたちである」と書いている。
第2章
人喰人について
1492 年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」したが、現在のインディアンの若
者達は「アメリカを発見したのはお前達(白人達)ではない、俺たちだ」と言う。
西欧の人々は新世界の住民たちに異様なまでの関心を示した。
モンテーニュ(1533-1592)も「随想録」の「人喰人について」で、次ぎのように
書いている。「これらの民族が、私に野蛮に見えるのは、彼等が人間の考えによっ
て形を作られるところがほとんどなく、原始の素朴さに大変近いからである。(中
略)彼等は山々の向こうに住む諸民族と戦争をする。彼等が戦闘で示す強豪さは実
に驚くべきもので、敗走とか恐怖を知らない。各人、トロフィーとして、自分が殺
した敵の頭をもって帰る。(当時の日本もそうであった。)捕虜は、丁重にもてな
した後、殺して皆でその肉を焼いて食べる。身の糧とするためではなく、古代のス
キチア人達(スキタイ人とも呼ばれる古代の遊牧騎馬民族)がしたように、極端な
報復を示すためである。(中略)我々が、彼等の非だけは鳴らしておきながら、自
分達のそれについてはひどく盲目であるのに、実に心がいたむ。死んだ人間を食う
より、生きたままの人間を拷問する方が、もっと野蛮だと私は思う。(中略)我々
は彼等を野蛮人と呼ぶことは出来ようが、我々自身とくらべてそういうことは出来
ない。我々の方が、あらゆる野蛮さにおいて彼等より上手なのだから。」
第3章
感謝祭
1621 年 11 月にアメリカで最初の感謝祭がマサチューセッチュ州プリマスで祝わ
れた様子が詳細に記載されている。前年の 11 月に、メイフラワー号で当地に入植し
たイギリス人の移民は、その冬はことのほか厳しいものとなり、総員 101 人のうち
春を待たずにその半数が病死した。農耕にほとんど経験がなかった白人達に、とう
もろこし、じゃがいも、かぼちゃ等の栽培法を教えたのはインディアンであった。
魚の取り方や余った魚や海草を肥料にすることを教えたのもインディアンであった。
その最初の感謝祭には、近くから多数のインディアンが加わった。なかでも、彼
等の偉大な王、マサソイトは部下 90 人を率いて祝宴に加わった。インディアンたち
は、森から5匹の鹿や野生の七面鳥などをたずさえて野外の宴に参加し、白人達と
実りの秋の好日を楽しんだ。
当時、マサソイトの影響下のインディアンは優に千人を越え、プリマスの一握り
の開拓民達の命運は彼の手中にあった。ピルグリム・ファーザーと呼ばれるこの白
人の一群が、後につづく侵入者の尖兵として新大陸に辛くも橋頭堡を確保したとい
う認識に、マサソイトには欠けていた。彼は餓えた旅人をもてなすというインディ
アン古来の習慣にしたがってピルグリムを援助した。しかし、ピルグリムたちの
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「感謝」はインディアンの親切に対してではなく、「天の神」にのみ向けられてい
たことが、やがて痛々しいまでも明らかになる。その詳細は、第5章に書かれてい
る。
1600 年代に入って、イギリス教会の信者の中に、教会の弾圧的な権威に反抗する
者が増加した。その一部はピューリタン(清教徒)と呼ばれ、教会内部からの変革
を目指した。他のグループは分離主義者で、宗教信仰の自由を求めて新大陸への集
団渡航を行った。それ故、彼等はピルグリム(巡礼者)と呼ばれた。
ピルグリム・ファーザー達はイギリスからの最初の入植者ではない。1607 年には、
バージニアでジェイムズ・タウンが発足した。ここで白人達に接触したインディア
ンの中心人物はウハンソナコクであったが、人々は彼をキング・ポアターンと呼ん
だ。ジェイムズ・タウンでも、発足当初の苦難は厳しく、1607 年から3年間でここ
に入植したのは 900 人であったが、1610 年の生存者は僅か 150 人であった。
白人達の指導者であったジョン・スミスは、強奪、窃盗、脅迫などの強引な手段
でインディアンから食料を得ようとした。老ポアターンにとっては、ジェイムズ・
タウンを抹殺することも、白人達を餓えるがままに放置することもできた。しかし、
彼はそうしなかった。ジョン・スミスは「我々がインディアンの襲撃を予期した時
に、彼等がとうもろこしを我々に運んで来てくれたのは、全く神の恩寵という他な
い」と記している。
海賊まがいのジョン・スミスが不逞行為を働き、インディアンに捕らえらて処刑
されようとした。その時、ポアターンの娘・ポカホンタスは父に彼の助命を乞うた。
ポアターンはジョン・スミスを釈放し、これを契機に白人達との交遊が進んだ。ポ
カホンタスは、ジョン・ロルフなる白人の妻となる。1613 年に、ポアターンは白人
達と和平の協約を結び、1618 年の彼の死まで、その約束に忠実だった。(本書のミ
スプリを青文字で訂正した。)
ジョン・ロルフはインディアンからタバコの栽培を学び、ここに最初のバージニ
ア・タバコ園の経営者が誕生した。インディアン達はロルフを「自分で飲む分だけ
作ればよいのに」と笑ったが、最後に笑ったのは白人達であった。タバコは連作を
拒むので、栽培規模が拡大するにつれて、数千エーカーの作地変更を要求した。新
しく土地を拓くより、インディアンの畑を奪う方がはるかに経済的だった。
インディアンの側には、土地の個人所有、永続的なタイトルという概念が全く欠
けていた。彼等は「土地は、水や空と同じこと」とよく言った。土地は、それを必
要とするものが、適当に使用すればよいという素朴な立場に立って、インディアン
達は、はじめ、白人達の要求を快く受け入れた。やがて、入植者の人口が急増し、
土地に対する貪欲さが限りなくふくれて行ったとき、インディアン達が不安と危惧
におそわれたのは当然であった。
他方、食料その他についてインディアンへの依存度が減少するにつれて、白人達
は次第に彼等を、植民地の発展をさまたげる野蛮人との見方を強めて行った。ポア
ターン自身の存命中にも、すでに事態の本質の露呈は被うべきもなかった。しかし、
彼の死までは、平和は曲がりなりにも保たれた。1969 年においても、あるキリスト
教系大学の雑誌は「感謝祭は、ニュー・イングランドで広く行われるようになった。
人々は、作物の豊かな実り、インディアンに対する勝利といった、喜ばしい事件を、
神に感謝して、この日を祝ったのである」と書いている。
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第4章
オペチャンカヌウ
ポアターン没後のジェイムズ・タウンにおけるインディアン達と白人達の紛争が
詳しく書かれている。1618 年、彼の弟のオペチャンカヌウが彼の権力を受け継いだ。
その頃から、白人の渡来は増加し、タバコ園は拡がり、インディアンは黒い森の中
に追われた。1619 年、ジョン・ロルフはオランダの軍人からニグロ 20 人を買った。
バージニア・タバコ園、黒人奴隷の始まりであった。
ひそかに準備していたオペチャンカヌウは、1622 年3月 22 日の早朝、突如とし
て立ち上がった。インディアン達は、ジェイムズ・タウン郊外の農園を同時に襲い、
老若男女をとわず、約 350 人の白人を虐殺した。彼の致命的な誤算は、4年間に白
人の人口が 350 人から 1500 人に増えていたことであった。
その年の暮れ、白人側は低姿勢で和を講ずるふりをして、多数のインディアンを
招じ、一網打尽に殺戮して復讐をとげた。しかし、オペチャンカヌウは辛くも謀殺
をまぬがれた。紛争の本質は単純である。海からの侵入者を、侵略を受けた側が、
海に押し返そうとしたに過ぎない。白人の傲慢さは、「インディアンの行動は、神
の恩恵を受けた者達に対する許すべかざる反逆」と考えたことである。そして、イ
ンディアン達は、森に、沼に、草原に、野獣のようにハントされ、殺されていった。
1644 年4月、老オペチャンカヌウは、再び幽鬼のごとく決起して、白人 400 人を
殺戮した。百歳近い彼は、担架の上で指揮をとった。やがて、彼は白人兵士に捕ら
えられ、見世物として町に運ばれた。アメリカ合衆国内の土地占有について、イン
ディアンと白人との間に結ばれた条約、協定は、300 を越えた。しかし、その殆ど
総てが、白人側から一方的に破られた。著者は、「この証拠隠滅をほとんど企てな
かったアメリカの白人達の天真爛漫さを讃えるべきであろうか」と苦笑している。
著者は次ぎのように書いている。「インディアンと白人との対決は、単なる原始
原住民と優越侵入民族との衝突以上のものを含んでいる。それは、全く対峙する二
つの文化パターンの激突であった。一方の文化は、環境としての自然に恐れをいだ
き、その際限ない征服と、変形と濫用によってのみその不安を押しのけ、自己の価
値を認識しようとする動的な欲望の体系である。他方の文化は、人間自身を大自然
の一部と見做し、一つの平衡に達した状態で、充足を見出したほとんど動きのない
欲望の体系である。」
白人達はインディアンの側に土地の個人所有の概念がないのを承知の上で、「合
法的」な書類で彼等から土地を取り上げた。あるインディアンは、なにがしかの報
酬で(例えば、1本の酒)、他部族の土地の譲渡書類に署名した。インディアンが
自分の畑を喰い荒らした白人の家畜を殺すと、彼は町の裁判所に引き立てられ「イ
ギリスの法律」を厳正に適用され、容赦なく処罰された。このようにして、インデ
ィアン達の誇りは傷つけられた。
1636 年、マサチューセッツで白人が殺される事件が起こった(林の調査では、イ
ギリス交易業者・某が殺された)。知事ペインは「犯人はペコート族」と断定し、
彼等が住むナロック島に、90 人の奇襲討伐隊を送り、島の住人の殆どを殺した。ペ
コート族は他の部族に応援を求めたが、白人達の狡猾な切り崩しにあって、ペコー
ト族は孤立した。1637 年、白人達は、敵対部族の協力さえ得て、職業軍人ジョン・
メイソンを起用し、ペコート族の大集落を奇襲した。婦女子、幼児を含む千人余の
5
ペコート族が虐殺された。ここに、ペコート族は独立集団としては崩壊し、残存者
も徹底的にハントされたり、奴隷として売られた。
1675 年、キング・フィリップ戦争(第5章を参照)として、史上に残る破局の到
来は、すでに不可避の必然であった。
図1.インディアンを追撃するアメリカ騎兵の想像図
第5章
キング・フィリップ
1675 年に勃発したキング・フィリップ戦争が詳細に書かれている。1661 年、約千
人からなるワムパナグ族の指導者(大セイチェム)マサソイトが死んだ。白人達は
彼を部族の王と思っていたが、大セイチェムは「調停者」であって、部族の人々に
命令する権限はなかった。部族はいくつかの小集団にわかれ、それぞれに指導者
(セイチェム)を持っていた。部族として戦闘行為に入るか否かといった重要事項
の決定は、部族全体の合意を基礎としていた。個々の戦闘員は自己の考えに従って
戦列から離れることもできた。原始的な民主社会であった。
マサソイトの長男ワムサタが大セイチェムの地位を受け継いだ。白人達は彼をア
レクサンダーと呼んでいた。彼は父親の政策を継いで、白人達と事をかまえなかっ
たが、若い世代はこれまで鬱積していた白人の際限ない横暴に対する反感が盛り上
がった。白人達はにわかに警戒心を高めた。1662 年には、プリマス植民地当局はア
レクサンダーの白人に対する「忠誠」を確かめるため、本拠のマウント・ホープ
(図2の①)を出てダクスバリー(図2の③)に出頭するように命じた。
兵隊に強要されたアレクサンダーは、妻子を連れてダクスバリーに出頭した。そ
こで、彼は罪人のように厳しく追及されたので、彼の自尊心はいたく傷つけられ、
突然に高熱を出し、帰途の途中で死亡した。インディアン達は「毒殺された」と激
怒した。そんな最中に、24 才の弟メタカム(1639-1676.8.12)は兄の跡を継いだ。
白人達は彼をキング・フィリップと呼んだ。
6
③
④
②
⑤
①
図2.17 世紀の北米プリマス植民地
①マウント・ホープ(ワムパナム族の本拠)、②プリマス、③ダクスバリー、④ト
ウントン、⑤スワンシー。
1671 年に至って、反乱計画進行の噂はいよいよ高まった。プリマス当局はフィリ
ップをトウントン(図2の④)に呼び出して、激しく追及した。白人側はフィリッ
プ一行の火器をその場で没収し、ワムパナグ族の所有する全火器の提出を迫った。
当時、ニューイングランド地方には4万に近い白人入植者がいた。一方、インディ
アン達は白人が持ち込んだ病気に対する免疫がなく、当地に住むアルゴンキン・イ
ンディアンの総人口は2万ほどに減少し、数的な劣勢は明らかであった。
大陸の西方奥地には、イロコワと総称される極めて強力なグループがおり、アル
ゴンキンとは古来の宿敵であった。従って、白人の圧力をさけて、奥地に移住する
ことは不可能であった。フィリップは「アルゴンキン生存の唯一の望みは、海から
の侵入者を海に押し返すことしかない。そのためには、諸部族の一致団結が絶対必
要だ」と考えた。フィリップは他部族の説得を行ったが、個々の見解の相違に寛容
なインディアン社会の団結は進まなかった。ワムパナグ族の小集団に中でも、フィ
リップの説得に耳を貸さぬものもあった。白人側でも切り崩しの手を打った。
1675 年1月、一人のクリスチャンのインディアンが、プリマス近くで死体となっ
て発見された。彼は短期間ながらハーバード大学(1636 年、ボストンに設立)で学
んだインテリで、フィリップの側近の一人であった。彼は、死の数日前、植民地の
知事に「フィリップが白人排斥の反乱計画を進めている」と通報していた。やがて、
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三人の容疑者が逮捕され、プリマスの法廷で絞首刑の判決を受け、刑は町の広場で
即刻行われた(6月 16 日)。
三人の逮捕の当初から、白人側の一方的な処置に対する抗議の声が高く、処刑に
至ってワムパナグ側の反白人感情は爆発寸前であった。6月 17 日には、白人の開拓
民数人が道を誤って、ワムパナグの若者達に捕まった。しかし、フィリップは彼等
を無傷で釈放した。6月 20 日には、フィリップの目を盗んで、若者達がスワンシー
(図2の⑤)に進出し、すでに退避して人影のない開拓部落に放火した。6月 23 日
には、白人の若者が一人のインディアンを狙撃する事件が起こった。翌日、インデ
ィアン達は九人の白人を惨殺して復讐をとげた。事態は、フィリップが望まない方
向に発展し、彼には止めようがなくなった。
各植民地はすぐさま義勇軍を編成して現地に向かった。フィリップは沼地にひそ
んでゲリラ戦を展開、リホボス、トウントン、ダートマスの町々を次々に襲い、住
民を恐怖の底に落とし入れた。当地の最有力部族・ナラガンセット族は白人当局の
圧力で、フィリップへの非協力を誓っていた。そこに、アレクサンダーの妻が逃げ
込んだので、白人当局は彼女の引渡しを要求した。
ナラガンセットのセイチェム・カノンシェットは彼女の引渡しに応じなかった。
そこで、白人側はナラガンセットに対して強引な予防戦争を遂行した。12 月 19 日
に、白人側は千人以上の大部隊を編成して、ナラガンセットの本拠集落を急襲した。
白人達は村落に踏み入り、婦女子と子供を含む6百人以上を虐殺した。軍事的には
この先制奇襲攻撃は大成功で、意気消沈の極にあった白人達は自信を回復した。
カノンシェットは逃亡して、フィリップに合流した。他の部族も呼応して立ち上
がったので、1676 年に入ると、白人側の犠牲者の数は上昇した。フィリップの乾坤
一擲の全面戦争がこのままに推移すれば、白人を海に追い落とすことも可能かに見
えた。しかし、1676 年の春の到来とともに、インディアン側の戦力は急激に衰えた。
その理由はいくつもあった。根本的には、両者の実力に差があまりにもあった。
しかも、インディアンにとっては、これまでの戦争は一種のゲームであり、勝敗は
一種の約束であった。白人達は、たたいても、たたいても、押し返してきた。春に
なると、畑に種を植え、木の実を摘み、森の渓流で魚を獲らねばならない。これが
インディアン達の生活のリズムであった。直面する危機の本質を理解していたのは、
フィリップだけであった。(平将門の乱とよく似ている。)
インディアンの中にはキリスト教に改宗した者も多く、フィリップを裏切る連中
も増えてきた。白人達は、これらの「よいインディアン」の先導で暗い森に踏み入
り、各地で敵性インディアンの小群に奇襲をかけて、殲滅していった。4月のある
日、カノンシェットはこのようにして捕らえられた。逮捕から刑場で消えるまでの
彼の態度は、人間としての威厳と高貴に満ち、白人達に強い感銘を与えた。
7月 20 日には、フィリップの家族の一団が襲われ、173 人が殺された。捕虜の中
には、彼の妻と年少の息子がいた。8月6日には、アレクサンダーの妻の一団が襲
われ、彼女の首はプリマスでポールの上に晒された。フィリップの従者の中に「こ
のあたりで白人と和を講じたら」と進言する者がいた。フィリップは激怒のあまり、
彼を撲り殺してしまった。彼の弟は、白人のもとに走り、フィリップを売った。8
月 12 日の夜明け、18 人の白人と 22 人のインディアンの一隊は、フィリップの一団
を襲った。
8
兵士達はフィリップの死体を見て、どっと歓声をあげた。それはやがて「アメリ
カの悲劇」に遠く連なって行くことを誰も気付かなかった。兵士達はフィリップの
死体を分断して、その首をプリマスに送ってポールの上にかかげ、25 年間公衆の面
前に晒した。これで、白人達は再び安全に西方への開拓を進めることが出来た。捕
虜になったフィリップの妻と息子は一人一ポンドの値段で奴隷として別々に西イン
ド諸島に売られた。なお、黒人奴隷と比べて、インディアン奴隷は従順さに欠け、
評判は最低であった。
(3)第6章以降の内容
第6章以降にも、アメリカにおけるインディアン達と白人達の紛争(戦争とも云
える)が詳しく書かれている。これらは、父祖の土地から追い出されたインディア
ン達の悲しい歴史であり、傲慢な白人達による先住民殲滅の残酷な歴史であった。
本質的には、第5章に記載されているキング・フィリップ戦争の経緯に類似してい
る。紙面の関係で、第6章以降に記載されている本書の内容を詳しく紹介すること
は不可能である。従って、主な事件を、年表にして以下に簡単に紹介するに留めた
い。詳細に興味のある方は、図書館などで本書を自ら読まれることを推奨する。な
お、次ぎのサイトにも詳しい解説があります。(インディアン戦争/9)(インディ
アン抵抗史年表/m)
図3.米国の領土拡張
1783
米国の建国
1783-1853
北米大陸内での拡
張(左図を参照)
1867
ロシアからアラスカ購入
1898
ハワイ併合
1898
パリ条約で、フィリピ
ン、グァム、プエルトリコを
スペインより割譲
1901
米比戦争で比国は米国に
降伏。
第6章 イロコワ、第7章 ワシントンと「小さな亀」、第8章 テクセム、第 9
章 セコイア、第 10 章 涙のふみわけ道、第 11 章 セミノール戦争、第 12 章
我々にとってインディアンとは何か。
1570 年頃 現在のニューヨーク州北部に住んでいたインディアンの5部族は、互いに抗争
を繰返していたが、この頃に和解して「イロコワ連邦」を結成。
1756-1763 フレンチ・インディアン戦争:欧州での7年戦争に対応して、北米でも英国と
フランスが闘った。互いにインディアン諸部族を味方につけ、英仏両軍は敵性部族を殲滅
し、インディアン同志でも戦った。この戦争の結果、英国はカナダとミシシッピー川以東
を領有した。イロコワ連邦は英国側につく。
9
1775-1783 アメリカ独立戦争:アメリカ植民地軍と英国軍との戦争。インディアン諸部族も
両陣営について戦った。イロコワ連邦では、植民地軍か英国軍かにつく部族に分裂して互
いに殺しあったので、イロコワ連邦は実質的に崩壊した。
1790 北西領土と呼ばれていたオハイオ地域で,マイアミ族の指導者リトル・タートル
(本名:ミチキニクヮ、1752 頃-1812)が反乱。彼はその名に似ず堂々たる偉丈夫で、近隣
部族を結集しマイアミ連合を結成。ハーマー将軍の率いる約 1400 人の白人兵士を撃破。
1791 リトル・タートルが率いるマイアミ連合は、クレア将軍が率いる2千の米軍を撃破。
多数の白人入植者は土地を棄てて、東へ逃れた。
1794
リトル・タートルは和平を唱えたが、マイアミ連合は3千の米軍と戦い敗北。
1795 マイアミ連合は降伏し、グリーンビル協定を結び、オハイオ州の大部分を米国に割
譲する。
1809 テクムセは(1768-1813)オハイオ地域のキスポコサ族の酋長で、カナダからメキシ
コ湾までの諸部族の大同団結に奔走。彼はグリーンビル協定を聞き「わが心は石、わがは
らからの苦難を思う悲しみは石のように重く、残された土地を保証する条約を、白人達は
たちまち破るであろう。われに生ある限り、あくまでも戦い抜かんとするわが決意は、石
のように固い」と言ったと伝えられる。
1810 北西領土の知事ハリソン(1773-1841)は、テクムセの留守中に彼の本拠地ティペカ
ヌウを約千人の手勢を率いて急襲し、本拠地を焼き払う。彼はこの戦果を過大に宣伝し、
後に第9代アメリカ大統領となる。
1813 テクムセは北に逃れ、英軍と組んでハリソン軍と戦うが、10 月5日のテムズの戦い
で戦死。
1821 ミシシッピー川東部に住んでいたチェロキー族は(図4参照)、米国と休戦条約
(1794)を結んだ後、「チェロキー国」を形成。白人の文明を受け入れ、文明化の道を歩
み、学校等も整備する。1821 年にはセコイア(1767 頃-1843)がチェロキー文字を発明し
た。その数年後にはチェロキー国民の識字率はゼロからほぼ 100%となり、周辺の白人達よ
り裕福で文化的になった。それは、人間の「自由」と「平等」と「進歩」とを旗印にかか
げる米国の巨大な偽善に、民族の全運命をかけることであった。テネシー州の大農園主・
アンドリュー・ジャクソン(後に米国7代大統領、在位:1829-1837)は数人の酋長達を買
収して、チェロキー族の土地を大量に「合法的」に取得(1817-1819)。これに対抗して、
チェロキー族の指導者達は、白人との混血児(白人 7/8、チェロキー1/8)のジョン・ロス
(1790-1866)を中心として、政治行政形態を近代化した。
1822
チェロキー国は、最高裁判所と地方裁判所の司法組織を確立。
1825 チェロキー国の主都(図4の①)をニュー・エチョタと命名し、国会議事堂、最高
裁判所、政府印刷所を建設。
1827 チェロキー国は、英語、チェロキー語両語を用いて成文化された新憲法を制定。立
法、行政、司法の三権分立の見事な民主憲法であった。
1828
新憲法下で、チェロキー国の初代大統領としてジョン・ロスを選出。
1829 ジョージア州のチェロキー国内で有望な金山が発見され、ゴールド・ラッシュとな
る。白人の山師達は勝手にチェロキー族の農園に押入って、不法占拠。12 月8日、米国7
代大統領に就任したジャクソンは初の国会施政方針演説で「ジョージア、アラバマ州内の
インディアンが独立の政体を持つことを許さず。1830 年春までに、それらのインディアン
の総てをミシシッピー川以西に移住させる法案(インディアン撤去法案)を国会に提出す
る」と表明。
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1830 5月 28 日、ジャクソン大統領は「インディアン撤去法案」に署名。その後、ミシシ
ッピー川以東のインディアン諸部族は、米国政府の圧力に屈して著しく不利な条約を結び、
ミシシッピー川以西に移住した。1831 年、チョクトウ族は強制移住の途中で、飢え、寒さ、
病気などで多数の死者を出した。チェロキー国のジョン・ロスは、ジョージア州当局の度
重なる悪質な嫌がらせにも拘らず、平和的に米国政府と交渉を重ねた。
①
図4.1830 年の「インディアン撤去法案」によるインディアン諸部族の強制移動
のルート。黄色い地域は諸部族の居住地、赤い地域は米国政府が設定したインディ
アン居留地。赤い矢印はチェロキー族のルート、黒い矢印は他部族のルート。①は
チェロキー国の主都があったニュー・エチョタ。(チェロキー国のHP/x)
1835 12 月 29 日、国家元首のロスの不在時に、チェロキー国の協調派は米国とニュー・エ
チョタ条約を締結し、1838 年までに西部へ移住することを承認。
1838 米国政府はスコット将軍と7千の兵士を派遣して、チェロキー族の強制移住を実施。
チェロキー族1万3千は道なき森林を辿り、寒さ、食料不足、風邪、肺炎、コレラ、天然
痘などで多数の犠牲者を出した。死者は4千とも云われている。チェロキー族は、泣きな
がら西へ辿った 13,000 キロの道程を涙のふみわけ道(The Trail of Tears)と呼んだ。
(説明が長くなってしまいましたので、以後は、ごくごく簡潔に紹介します。)
1817-1818 第一次セミノール戦争:ジャクソンが米軍を率いて当時はスペイン領であった
フロリダに侵入、セミノール族と戦う。1819 年、米国はスペインからフロリダを購入。
1835-1842 第二次セミノール戦争:セミノール族の西部移住に反対してオセオーラがゲリ
ラ戦で米軍と戦う。1837 年、米軍は和議を装ってオセオーラを逮捕。
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1864.11.29 サンド・クリーク虐殺事件:コロラド州で、講和の意思を持ったシャイエン
族の集団約7百人を、米兵約 750 が襲い、老若男女を問わず虐殺。(本書 p.13)
1890.12.29 ウインディド・ニー虐殺事件:サウス・ダコタ州で、米軍はスー族のティピ
ー(移動用テント)の群れを襲い、女子供を含む 300 人を虐殺。(本書 p.250)
(北米でインディアン達を抹殺して彼等の国土を取り上げた米国はアジアに進出した。本
書には記載されていない出来事をも含めて、米国が犯した犯罪行為を以下に記載する。)
1898
ハワイ併合
1898
米西戦争の結果、米国はフィリピン、グァム、プエルトリコをスペインから割譲。
1899-1913 米比戦争で、米国はフィリピン独立を阻止。1901 年 9 月 28 日に、サマール島
でパトロール中の米兵 38 名がゲリラに殺された。この報復に、サマール島とレイテ島の島
民約 10 万人が殺された。この戦争で、米軍は反抗する比国人約 60 万人を虐殺。
1945
3月 10 日の東京大空襲で市民 10 万人以上を殺害。広島と長崎への原爆投下。
1950.7.26 朝鮮戦争のノグンニ事件:韓国避難民の中に北朝鮮兵が居ると疑い、米空軍の
機銃掃射で民間人約 300 人を殺害。
1968.3.16
ベトナム戦争における、米軍のソンミ村虐殺。枯葉作戦も大犯罪であった。
2001-
米国のアフガン戦争での虐殺事件は多い。
2003-
米国のイラク戦争での虐殺事件は多い。
(4)本書の感想
本書で(p.248-249)、著者の藤永教授は次ぎのように書いている。「アメリカ人
が黒人奴隷制度の下で犯した非人間的行為はナチスの比ではない。ナチスは3百万
人のユダヤ人を虐殺したが、アフリカからアメリカに向かう奴隷船に貨物同然に積
み込まれて、暑気と窒息のために死んだ黒人達の数は1千万人と推定される。ヒロ
シマなど物の数ではない。しかし、自己の悪魔性についての実存的な不安などは当
時のアメリカ人には無縁であった。黒人に対する罪の意識は、人間を品物扱いにし
たという単純な事実に向けられているだけである。これと対照的に、インディアン
については、アメリカ人は本能的にある『おそれ』を持ち続けて今日に至っている。
それは、自分達の幸福論と本質的に対峙する幸福論によって生き、しかも自分達よ
りもあるいは幸せであったかもしれない人間達を、まず力によってみじめな状態に
追い込み、そして殺してしまったらしいという不安であった。」
本書の最後で(p.255-256)、藤永先生は次ぎのように書いている。「インディア
ン問題はインディアン達の問題ではない。我々の問題である。そして、『インディ
アン』はいたる所にいる。素朴な親愛と畏敬をこめてクマを殺すことを知っていた
アイヌたちだけが我々にとってのインディアンではない。『魚は天のくれらすもの
でござす。これより上の栄華はどこにゆけばあろうかい』と語った水俣の漁師の爺
さまを、我々が殺したとき、我々はまぎれもなく『インディアン』を殺したのであ
る。インディアン問題はインディアンをどう救うかという問題ではない。インディ
アン問題は我々の問題である。我々をどう救うかという問題である。」
本書の「はじめに」で(p.5)、先生は次ぎのようにも書かれている。「北米イン
ディアンの悲史をたどることは、そのままアメリカの本質を見定めることに他なら
ない。アメリカという国に好意を持つか反感を持つかなどという、生ぬるいことで
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はない。アメリカは果たして可能か、黄色いアメリカである日本は果たして可能か
どうかを、未来に向かって自らに問いただしてみることである。」
藤永先生が本書を書かれてから四十数年が経過した。その間、日本は「高度経済
成長」を満喫し、「バブル」が弾けて落胆し、「中共や北朝鮮の脅威」に晒されて
いる。現在の自公政権は米国政府に脅されて、「安保法案」を国会で強行採決し、
「TPP」も喜んで受け入れそうである。藤永先生は現在もご健在である。日本が
このように「米国の植民地」同然になってしまったことを、藤永先生はどうお考え
であろうか?
私(筆者の林)は、本書における藤永先生のご意見に全面的に賛成である。さら
に、私は「先生が本書を書かれた 1972 年の当時に想像も出来なかったくらい、現在
の日本は亡国の危機に瀕している。しかも、日本国民の殆どはそれとは気付かずに、
安倍首相に騙されている」との強い懸念を抱いている。
前回(39 章)/fに、私は「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」の本を紹
介し、「先の大戦における戦争犯罪国家は、日本ではなく米国でありソ連である」
と主張した。現在、日本国民の殆どはこのような「真実の史感」を見失い、「戦勝
国の史感」に甘んじている。更に、言語の問題でも、「小学校で英語を教えよう」
という亡国的な策略に陥っている。
現在、私は「日本国民が自己の輝かしい歴史と言語を失い、アメリカ・インディ
アンの徹を踏んで、米国の植民地に成り下がる」ことを、強く懸念している。
(記載:2015 年 10 月 20 日)
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