書 評・紹 介 Martin Haspelmath, Matthew S. Dryer

言語研究(Gengo Kenkyu)130(2006)
,131∼138
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【書 評 ・ 紹 介】
Martin Haspelmath, Matthew S. Dryer, David Gil and Bernard
Comrie (eds.), The World Atlas of Language Structures. Oxford:
Oxford University Press, 2005. xv+695pp. (with CD-ROM)
山 本 秀 樹
(弘前大学)
キーワード:言語地図,世界諸言語,地理的分布,言語類型論
本書は,種々の言語特徴に関する地理的分布を示した世界地図と,原則として
それぞれに対応する見開き 2 ページの解説文を収めた(縦 37 cm,横 26 cm から
なる)大部の書に,1 枚の CD-ROM が付属している.本書で言語特徴を示した
地図は 142 種に及ぶが,それらは,まず「音韻」,「形態法」,「名詞に関わる範
疇」,「名詞に関わる統語法」,「動詞に関わる範疇」,「語順」,「単文」
,「複文」,
「語彙」,「手話」,「その他」の 11 部に分類され,それぞれの部がさらに複数の特
徴を扱った地図からなっている.たとえば,「音韻」の部では,子音数,母音数,
鼻母音,音節構造,声調等の項目がとり上げられ,「形態法」の部では,接頭辞
付加と接尾辞付加,重複,格の融合といった伝統的な項目のほか,特に Nichols
(1992)の研究により有名になった主要部標示と従属部標示に関わる項目も 3 つ
ほど扱われている.また,いくつかの部では,たとえば「名詞に関わる範疇」の
部について「性と数」,「冠詞と代名詞」,「格」,「数詞」の 4 つ,「動詞に関わる
範疇」の部について「時制とアスペクト」,「モダリティ」,「補充法」の 3 つのよ
うに,まず少数にグループ分けした上で,それぞれに関係する複数の項目をとり
上げるといった工夫も見られる.
本書が刊行されたのは 2005 年夏であるが,企画自体はかなり以前から立てら
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書評・紹介 山本秀樹
れていたようである.評者がこの地図集の企画を知ったのは,たしか 2000 年頃,
編者の 1 人である Dryer のホームページを閲覧したときであり,当時,すでに
少数の地図の見本と,本プロジェクトよってとり上げられる予定の言語特徴が掲
載されていた.当時,評者自身も,種々の語順特徴に関して分布図を作製しつ
つ,地理的・系統的分布の研究に取り組んでいたときでもあり,この地図集の 1
日も早い完成を心待ちにしていたが,昨年の刊行によってその全貌を目にするこ
とができた.
本書は,ある一定のテーマについて論じたモノグラフや論文集ではないので,
何らかの論点に関して評釈するという形をとることはできない.また,とり上げ
られた言語現象も非常に多岐にわたるため,個々の地図や現象に関して詳細を論
じていくのも適切ではない.そこで,本稿では,評者自身の言語データ収集や地
図作製の経験も踏まえながら,言語学(特に言語類型論)におけるこの種の世界
規模での地理的研究の重要性,本書が持つ特長や問題点等について書評・紹介す
ることにしたい.なお,本書に言及する場合,書名の頭文字をとった WALS と
いう名称がかなり浸透しつつあるので,本稿でも以下この名称を用いる.
言語学において WALS との関連が最も深い分野は,やはり言語類型論であ
る.周知のように,1960 年代以降に新たに研究が活発化した言語類型論は,言
語普遍性研究と密接な関係を有し,正しい普遍性を発見するために,可能な限り
地理的,系統的な偏りを避けた諸言語のサンプルに基づいて研究が行われてき
た.そこでは,世界諸言語から一度そのようなサンプルを設定した後は,各言語
がどの系統に属し,どこで話されているかという要因は捨象され,多くの場合,
もっぱら諸言語の統計的な分布に着目して言語普遍性が探究されてきた.つま
り,近年の類型論において,地理的要因というのは,特にそのサンプリングの段
階でむしろ避けるべき要因であった.これは,普遍性を見出す目的には正しい方
法であろうが,地理的な要因を捨象して統計的な分布だけを見ている限りでは,
多くの言語現象について重要な側面が見過ごされてしまうことになる.これまで
評者自身もしばしば論じてきたように(山本 2003a,2003b,2004 等参照),従
来バルカン半島や南アジア等の一部地域の限られた特徴について言語連合ないし
言語圏と言われてきたが,実際には,多くの言語現象が,様々な地域で地理的に
書 評 ・ 紹 介
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まとまった分布を示し,むしろ地理的な分布を観察することによって,よりよく
理解できることが少なくない.このことは,WALS の多くの地図にも現れてお
り,WALS は,種々の言語現象に関し,まさに世界規模での地理的分布の観察
を中心に据えた本格的なプロジェクトである.
もちろん,世界全体にわたって言語現象を地図化する試みは,WALS が初め
てではない.古典的に知られているものでは,Schmidt(1926)がいくつかの言
語特徴に関して世界地図上に色分けしたものがある.ただし,当時の研究状況か
らやむを得ないことであるが,それらの地図は,実際に多くの言語データを収集
した上で地図化したものというより,むしろ著者自身の諸言語に関する知識や観
に基づいて大まかに塗りつぶしたものになっている.
しかしながら,言語類型論において,世界規模で地理的分布を考察する重要性
が真に認識され,実際に言語現象を世界地図上に示してその地理的分布を考察す
る研究が行われるようになったのは,比較的最近のことと言ってよい.そこで,
評者の言語地図作製の経験も踏まえ,言語特徴を地図化した最近の他の世界分布
図と比較しながら,WALS の特長を論じることにしたい.
評者は,約 3,000 の言語について種々の語順特徴のデータを収集し,地図化し
たことがある.その際に大きな問題となったのは,木と森の関係,すなわち(個
別言語に関わる)ミクロな視点と(全体的な分布パターンに関わる)マクロな視
点をどう地図化するかという問題である.評者の場合,まずミクロな視点に関し
ては,主として国またはさらに小さな地域内部の個別言語の位置を示した言語地
図上に,収集したすべての語順特徴を言語ごとに手書きで書き込む形の地図を作
製した.この種の地図では,各言語が実際にとる語順類型,周辺言語との変異等
を細かくとらえることはできるが,あまりに詳細にすぎて,やはり全体的な分布
パターンをつかみにくい.そこで,これらの個別の地図に関しては,科研費報告
書(山本 2000)としては発表したが,書籍(山本 2003a)にする段階では,印刷
上の問題もあって断念し,世界地図上に(言葉や記号による説明を一部付しつ
つ)語順パターンを斜線の形でべたに塗りつぶしたマクロな視点の地図にとど
め,ミクロな視点に関しては,個別言語のデータ表として提示する形をとった.
そのほか最近の分布図としては,松本(2003)のものがある.これは,データ
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書評・紹介 山本秀樹
を地図化する段階で評者も下図の作製に携わったが,8 つの言語特徴について,
主に系統的グループごとにまとめたデータをもとに,やはりべたに塗りつぶした
形のマクロな視点のみの地図になっている.ただし,これは,言語の遠い類縁関
係を探究するという当該研究の目的にとっては有効である.
これらとやや異なるタイプの分布図には,WALS の執筆者の 1 人でもある
Nichols(1992)のものがある.これは,世界地図の輪郭を省いた白紙の図に,
それぞれ,9 種の言語特徴を持つ個別言語を点として表す形式をとっている.こ
れによって,当該の特徴を持つ言語が世界全体で特にどの地域に集中しているか
に関し,おおよその分布をとらえることはできるが,半ページ程の小さな長方形
の枠内にサンプル言語が黒い点で示されており,あまり見やすい形式の地図とは
言い難い.
これらの地図に対して,WALS は,ミクロな視点とマクロな視点を見事に融
合させ,両方の視点による観察を可能にしている.WALS の地図は,見開き 2
ページの大版の世界地図上で,各サンプル言語を,各言語にあてられたアルファ
ベット 3 文字のコードを囲む記号として当該言語が話されている地域の中心地に
配置し,各言語にその地図でとり上げた特徴を表す記号の形や色を付して表示し
ている.これによって,マクロな分布パターンが,Nichols のものと比べてはる
かに見やすいものに改良されている.しかし,ミクロな視点については,言語が
特に込み合っている 4 つの地域を拡大した地図を付してはいるが,印刷された地
図上で見る限りでは,多くの言語同士がしばしば重なり合って見えづらくなって
しまっている.実際,評者自身も最初に WALS を見たときには,やはりこの種
の言語分布図では,ミクロな視点が犠牲になるのはやむを得なかったかという印
象を受けた.しかし,この問題は,付属した CD-ROM によって見事に解消され
ている.
WALS 付属の CD-ROM は,大きさや重量の点では単なる付録のように見え
るが,実はこれこそが WALS の真髄を示すものであり,むしろ書籍本体の方が
付録であると言っても過言ではない.まず,印刷された地図では重なって見えに
くかった各地域をディスプレイ上で自由に拡大表示することができ,ミクロな視
点の観察も可能にしている.しかも,そこから,各言語の別名を含む完全名や系
書 評 ・ 紹 介
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統や地理的位置,さらにしばしば各言語に関する実例やデータの基となった参照
文献の情報などまで見ることができる.つまり評者のものも含め,従来の印刷媒
体であれば数百ページを要し,地図上で表すことがほとんど不可能であったミク
ロな視点の詳細情報を,電子的な媒体を通じて世界地図の中に組み込むことが可
能になっている.
さらに,これが最大の特長と言うべきことであろうが,WALS の CD-ROM
は,種々のデータを検索できるばかりでなく,利用者が WALS でとり上げられ
た複数の言語特徴を組み合わせた地図を作製,表示することを可能にしている.
これによって,類型論で従来言われてきたものも含め,種々の特徴間の共起関係
や含意関係を,それらの地理的な分布とともに検証,考察していくことが可能に
なっている.
当然のことながら,あらゆる研究について可能なように,WALS についても,
あえて問題点を指摘しようとすれば,以下のようにいくつかの問題点をあげるこ
とは,一応できるだろう.
第 1 に,WALS でとり上げられた言語の数の少なさ,ばらつきという問題が
ある.WALS では,少なくとも 1 つの地図に現れているという意味での言語の
総数は 2,559 言語に及び,最小で(手話言語に関する)35 言語,最大で(目的語
と動詞の語順に関する)1,370 言語,平均 409 言語があげられている.しかし,
実際には,以前からそれぞれ音韻データ,語順データを大量に収集していたこと
で知られる Ian Maddieson(13 種の地図において 485 ないし 566 言語で平均 555
言語)と Matthew S. Dryer(27 種の地図において 437 ないし 1,370 言語で平均
902 言語)による地図が,言語数において突出して WALS 全体の平均言語数を
引き上げている.事実,この 2 人の地図を除けば,WALS の平均言語数は一気
に 269 言語にまで下がる.この数は,6,000 以上とも言われる世界全体の言語数
から見ても多いとは言い難いだろう.評者自身も,WALS を最初に目にしたと
きの印象の 1 つは,意外と言語数が少ないということであった.また,各地図の
言語にばらつきがあるため,利用者が WALS の CD-ROM によって複数の特徴
を組み合わせた地図を表示しようとしたときに,不十分な数の言語しか表示され
ない場合もあり得る.しかし,WALS では,可能な限りとり上げるように要求
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書評・紹介 山本秀樹
された言語として 100 言語,とり上げることが望まれる言語としてさらに 100 言
語という,共通のサンプル言語を設定している.これらの言語の選択は,データ
の入手可能性といった現実的な要因なども関係し,必ずしもすべての地図で遵守
されたわけではないが,可能な限り地理的および系統的に多様になるように考慮
されている.また,評者は,山本(2003a)において,とり上げられなかった多
くの言語についても,その地理的位置と系統が与えられれば,かなりの程度正確
にその言語の語順を予測することが可能であろうという趣旨のことを述べたこと
がある.このことは,程度差はあろうが,WALS で扱われた多くの特徴につい
ても当てはまるだろう.その意味では,WALS の多くの地図は,空所部分につ
いてもかなりの程度予測できる形で表示されていると評価することもできるだろ
う.
第 2 に,地図化する意義が疑問視される現象が含まれたり,地図化が望まれる
現象が含まれていない等,現象の選択にやや恣意的な偏りも見られる.たとえば
「茶」の語頭子音の ch 音と t 音の分布,吸着音の言語外使用の分布,すでにその
地理的分布がよく知られた吸着音の分布等,わざわざ WALS で地図化する必要
があったのか.また,たとえば松本(2000,2003)がとり上げた特徴の中では,
形容詞のタイプや親族名体系なども WALS では扱われていない.これらの特性
は,人類言語にとって基礎語彙以上に安定し,言語普遍性には至らない,言語の
遠い類縁関係を探究する上で本質的な特性と考えられ,興味深い地理的分布を示
すことが明らかになりつつある.しかしながら,さすがに著名な 4 人の類型論学
者が編者になっているだけあって,総体的には,言語学的ないし類型論的に重要
と考えられる特徴が慎重に選択されていると評価できるだろう.
第 3 に,WALS では,それぞれの地図に対して,その言語現象に関する概要
や地理的分布の分析等が当該地図の作製者によって書かれているが,これは,そ
れぞれ 2 ページ程度のごく簡略なものにすぎない.ただし,これは WALS 自体
の不備というよりもむしろ,特に地理的分布の分析に関しては,多くの場合,今
後の研究に委ねられていると考えるべきであろう.また,それぞれの地図は,概
ねその現象を過去に扱ってきた研究者によって書かれているので,その研究者に
よる著書や論文を参照することによって,当該現象について詳細を知ることも可
書 評 ・ 紹 介
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能であろう.
第 4 に,編者たちも WALS の序において触れているが,たとえば格のような
言語範疇の認定が,異なる地図の間で必ずしも統一されていないという問題があ
る.ただし,これは,通言語的な研究をする場合にしばしば経験するように,多
くの言語範疇に関して一定した通言語的認定が困難であることによって,ある程
度やむを得ないことであろう.
第 5 に,あらゆる著作に起こり得ることではあるが,WALS の場合も,刊行
後に種々の誤りが発見されている.1 つには,多くの言語データが,過去に記述
された文法書や論文を通じて収集されていることに起因し,これだけ多数の言語
を扱う以上は,やはりある程度はやむを得ないことであろう.ただ,WALS の
場合には,報告された誤りをウェブ上(http://www.eva.mpg.de/lingua/files/errata.
html)で公開するという事後処理を行っている点は,新しい良心的な手法として
特筆すべきであろう.
以上のように WALS についても問題点を指摘することは可能であるが,これ
らの問題は,大部分,おそらく編者や著者たちも認識しており,この種の大規模
な企画においてはやむを得ないものとして許容すべき範囲内であろう.WALS
の刊行は,先に触れたようにその企画から長い年月を経ているが,仮にこれらの
問題点をすべてクリアした上での刊行を目指したとすれば,何年も先に,あるい
は永遠に不可能にさえなっていたかもしれない.WALS は,CD-ROM によって
利用者が自ら種々の地図を作製,表示することを可能にしていることや,各分布
図に対してごく簡略な解説しか付されていないことなどからも窺えるように,研
究の完成を示しているというよりも,むしろ WALS を基にした様々な研究の出
発点をなすものと考えるべきであろう.WALS を利用した研究は,すでにイン
ターネット上でも散見され,日本言語学会第 132 回大会において堀江薫氏により
企画されたワークショップでも紹介されている.WALS は,このように,研究
者たちに,世界諸言語の種々の言語現象に対する地理的な視点からの研究発展へ
の道を切り開いたという意味でも大きな意義を持つ.
なお,現在,評者が研究代表者となって,WALS とは独立に,科研費による
言語特徴の分布地図の電子化に着手しているが,これについては,また別の機会
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書評・紹介 山本秀樹
に発表したい.
参 照 文 献
松本克己(2000)「世界諸言語のキョウダイ名―その多様性と普遍性」『一般言
語学論叢』3: 1–56.筑波大学.
松本克己(2003)「日本語の系統―類型地理論的考察」アレキサンダー・ボビ
ン・長田俊樹(編)
『日本語系統論の現在』
,日文研叢書 31: 41–129.京都:
国際日本文化研究センター.
Nichols, Johanna (1992) Linguistic diversity in space and time. Chicago: University
of Chicago Press.
Schmidt, Wilhelm (1926) Die Sprachfamilien und Sprachenkreise der Erde. Heidelberg: Carl Winter.
山本秀樹(2000)『世界諸言語における語順の地理的および系統的分布に関する
研究』文部省科学研究費補助金研究成果報告書.
山本秀樹(2003a)『世界諸言語の地理的・系統的語順分布とその変遷』広島:溪
水社.
山本秀樹(2003b)「言語にとって冠詞とは何か」『言語』32-10: 28–34.
山本秀樹(2004)「比較表現あれこれ」『言語』33-10: 24–31.
(受領日 2006 年 9 月 29 日 最終原稿受理日 2006 年 10 月 4 日)