第 1章 ウィーンのトラウマ

ナポレオン三世の外交政策
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
第1章
第1節
ウィーンのトラウマ
ウィーン体制
ナポレオン三世の外交政策の基本線はウィーン体制の打破にある。これはこの皇帝が創始した
指針ではなく、ウィーン体制後の歴代フランス政府の悲願ともいうべきものであった。その意味
で皇帝の政策はフランスの伝統的外交政策の延長上にあるともいえる。ウィーン体制はそもそも
フランス政府にとって、なぜ桎梏と映ったのであろうか。それを論じるためには、まずその体制
の性格について述べておく必要があろう。
ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパに平和と秩序をもたらそうとして、列強首脳はウ
ィーンに集まった。合意に漕ぎつけるのに 10 か月もかかったことに示されるように、この和平
会談は最初から荒れ模様となる。列強相互の思惑の衝突から一時、会議そのもの行方さえ危ぶま
れるほどであったが[注]、紆余曲折を経てついに 1815 年 6 月、最終的妥結をみるにいたる。
皮肉なことに、これを導いたのが「ナポレオンの百日天下」である。
[注]ザクセンを狙うプロイセン、ポーランドを狙うロシアがともに手を取りあい、これに反対
するオーストリアがイギリスを味方に引き入れる。このように領土処理問題をめぐる普露と英墺
の対立が厳しかったが、1815 年3月、ナポレオンがエルバ島を脱出しパリで復位したという知
らせがウィーンに届いたとき、普露は要求を急きょ取り下げてから会議は円滑に進むようになっ
た。
ウィーン条約は領土的代償主義、保守主義、正統主義の3原則から成る。すなわち、領土的代
償主義は諸国間の入り組んだ版図を整序するために領土の交換を、保守主義は革命と民主主義の
否定を、正統主義は旧体制の復活をそれぞれ指している。今後、列強は別個の同盟条約を以って
この体制の維持のため共同責任を帯びることになった。
上記3原則のうち、各国の意思が容易に一致した保守主義と正統主義を先に論じることにしよ
う。保守主義と正統主義はもともと理念的には異なるが、ウィーン会議では一体的に処理された。
ヨーロッパの騒乱の根因はそもそもフランス革命に発すると見なされ、この革命が撒き散らした
自由と民主主義の原則は真っ向から否定されるとともに、その実現手段としての共和主義も唾棄
された。そこから出てきたのは旧制度の復活である。かくてフランス、スペイン、ポルトガル、
ナポリに王制が復活。ウィーン体制が反動的といわれる所以はここにある。
しかし、領土処理をめぐって諸国はなかなか一致をみない。1792 年から 1815 年までつづい
た戦争により、ヨーロッパの地図は大いに掻き乱されていた。これを戦後処理の一環として改め
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て線引きをおこなおうとするのだが、強国の論理が罷りとおって、弱小国、自治都市、旧従属国
の利害関係は無視された。たとえば、ポーランド王国は復活したものの、ロシア皇帝がその王位
を兼ねることになった。ロシアはこのほかフィンランドとベッサラヴィアを獲得する。プロイセ
ンはポメラニア、ザクセン北半分、ライン左岸を得た。オーストリアはネーデルランド、ポーラ
ンド、西南ドイツを放棄する代わりに北イタリアを取得。イギリスはケープ植民地、マルタ島、
セイロン島、イオニア諸島を獲得。スウェーデンはポメラニアとフィンランドを放棄する代わり
ノルウェーを獲得する。ドイツは 35 か国 4 自由都市から成るドイツ連邦を結成し、オーストリ
アがその議長国となる。フランスはすべての征服地を奪われ旧版図に戻ることになった。
ちょっと見たところでは、英・露・普3国が勢力拡大し、墺と典は五分五分、仏とその他は縮
小といった印象が残る。しかし、中身を細かく洗っていくと、真の勝利者は英国であることがわ
かる。同国が獲得した島嶼および地域はたいした価値をもたないように見えるが、それらはいず
れも軍事・貿易上の戦略的要衝であり、将来における海外発展の橋頭堡となるものであった。
一方、周辺地域を併合し領土拡大に成功したかに見えるロシアはこれ以降、ポーランドの民族
運動やトルコとの抗争を宿命づけられることになる。
プロイセンも版図こそ大きく展ばしたが、念願の飛び地状態を解消できなかったばかりか、ラ
インラント[注]を併合することによって将来的に自由主義との格闘を約束される。また、プロ
イセンはこの併合によりフランスと直接領土を接することになり、将来的にこの老大国との競り
合いが不可避となる。
オーストリアは北イタリアの併合によって面倒なイタリア統一問題に首を突っ込むはめにな
った。すなわち、イタリアではナポレオン支配を受けてナショナリズムが勃興し、ピエモンテ王
国を中心に半島の国家統一に向けての気運が生まれていたが、旧制度復活を旗標とするオースト
リアがここを支配したことは諸邦、ナポリ王国、ローマ教皇、列強と、相互に矛盾しあう外交関
係を切り結ばざるをえず、外交的窮地に陥る。
[注] ラインラントはかつてローマ帝国の支配下にあった歴史的経験も手伝って、その政治風
土はドイツよりもフランスに似ている。すなわち、ライン川航行と通商の自由を掲げてライン河
畔 70 の都市が団結した「ライン都市同盟」(1254 年、1281 年)に象徴されるように、自由主
義、共和主義、民主主義がこの地域の政治風土である。16 世紀に宗教改革の嵐が吹き荒れたと
きも、ここの住民はプロテスタントを受け入れず、カトリックのままにとどまった。また、1792
年 10 月、フランス革命軍が勢いあまってラインラントに駒を進めたとき、ここの住民は歓呼を
もってこれを迎え入れ、ジャコバン党を組織する動きさえ示した。
第2節
フランス外交の右往左往
フランスに眼を転じてみよう。この国はウィーン体制をどう見たのであろうか。戦敗国であり
ながらフランスはウィーン会議で外交官タレーランの大奮闘のおかげで、大革命とナポレオン戦
争で得た領土を返還するのみで済み、旧版図はそっくりそのまま手許に残ることになった。それ
にもかかわらず、フランス人は大きな不満をいだいた。新体制の呼称に「ウィーン」という名を
つけることさえ嫌った彼らはこれを「1815 年体制」と呼び、これをフランスに押しつけた列強
を、ナポレオンが最後に苦杯を嘗めた戦場の名に因み「ワーテルロー同盟」と称した。不満の根
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は賠償金支払や征服領土の返還だけにとどまらない。「体制」がフランスの行動上の自由を奪い
取ったことも不満の種である。ウィーン体制は条約締結国の承認なしの領土変更をいっさい認め
ていなかったし、領土拡大の手段としての戦争も禁止していた。好戦的なフランスはこれにより
保有兵力までも制限を受けるはめになった。
フランス人はもともと自尊心の強い民族である。振り返ってみれば、フランスは西フランク王
国としての建国(843 年)以来1千年の歴史において版図を拡大こそすれ、一度として縮小の憂
き目に遭ったこともなければ、主権を行使するうえで他国から指図を受けたこともない。かくて、
ウィーン体制はフランス人の自負心を痛く傷つけるものとなった。
さらにフランスは革命戦争とナポレオン戦争を通して一時獲得したラインラントへの未練を
もっている。ライン川左岸すなわち現在のベルギーの一部、ルクセンブルク、ドイツ西部を含む
地域をフランスの国境とする宿願をもっていた。ここが国境となれば、フランスの国土防衛上の
不安が解消するというもの。さらに、ライン川航行権を手中におさめることによってドイツ全域
に対する経済的影響力をもつこともできるのだ。
かくて、1815 年以降のフランスの外交目標はひとえにウィーン体制の鉄鎖を断ち切ることに
定められた。この指針は 19 世紀全体におけるフランス外交政策を貫くものとなった。列強によ
る共同保証がついているかぎり、この体制を打ち破ることはできない、それゆえ、フランスはい
つかは列強の足並みの“乱れ”をついてどこかの国と結託する以外に打開の道はない。18 世紀
に頻発した国際紛争において列強の合従連衡が目まぐるしくおこなわれた歴史的経験に照らし
て考えると、こうした“乱れ”はすぐに生まれるものと見られた。ところが、“乱れ”はなかな
か生じない。ウィーン体制は見かけとは異なり非常に堅固であり、結果として 1914 年の大戦を
迎えるまでの百年もの長いあいだ続くことになった。
これには、アジア、アフリカの植民地を軸とする世界帝国の形成に余念のないイギリスがヨー
ロッパの紛争に局外中立を貫きとおしたことが大きく作用している。17 世紀後半から 19 世紀初
頭までの 150 年間、ヨーロッパの紛争に関わりつづけてきたこの国が以後もこうした姿勢を貫く
かどうかが注目されたが、ウィーン体制後のイギリスは急におとなしくなる。ヨーロッパの紛争
に対する同国の“無関心”の態度がヨーロッパの平和維持に貢献するところとなった。たしかに、
19 世紀の戦争は自由主義と民族主義の戦争こそあれ、列強があい乱れて長期間つづく全面戦争
はない。いちばん長かった戦争といえば、英・仏・伊・土の連合軍とロシアが黒海周辺で戦った
クリミア戦争(1853~56 年)だが、これとて、双方ともに決定打を欠いたため、期せずしてだ
らだらと長引いた戦争である。
話を戻すとして、19 世紀は自由主義とナショナリズムの荒れ狂う時代である。両者は理念的
に異なる思潮であるが、歴史の表舞台には一体のものとして躍り出た。19 世紀ヨーロッパの紛
争のほとんどすべてにこの2つの要素が絡んでいる。すなわち、ギリシャ独立戦争、ベルギー独
立戦争、流産に終わったポーランド独立運動とハンガリー独立運動、ドイツとイタリアにおける
国家統一運動の開始 ― これらはすべて、もとを質せばフランス革命の余震とみなすことができ
る。
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19 世紀の前半においてヨーロッパで紛争が起るたびに、歴代フランス政府はジレンマに陥る。
すなわち、紛争を拡大することによってウィーン体制の裂け目を拡大し、ヨーロッパの政治ゲー
ムのカード切りなおしの機会を窺うか、それとも、紛争の鎮圧に加担して体制への恭順の姿勢を
貫きとおすかのジレンマである。前者であれば念願のウィーン体制の打破に適うであろうが、イ
ギリスの態度が不透明なままでは迂闊なことはできない。これがうまくいくのは、イギリスの賛
同が得られる場合に限られる。後者であれば、打倒すべきウィーン体制が無疵のままに残るだけ
のことである。
じっさい、ウィーン後のフランス外交は首尾一貫しないものに終始する。復古王政期はウィー
ン体制に対する「優等生」的態度を維持し、つづく七月王政期には一転して体制打破のための積
極的外交策に変わる。それは大転換といえるが、緻密な計算に基づくものではない。当初の「優
等生」的態度は紛争当事国の諸政府から当然のことと受けとめられ、民衆レベルでは敵対感情を
もって迎えられた。七月王政の積極外交策への転換は諸国政府からは騒動屋フランスの復活と受
けとめられ、警戒心を煽るだけの結果に終わる。復古王政期と七月王政期の 33 年間を通して一
貫して変わらなかったものがある。すなわち、フランス政府はナショナリズムこそ鼓舞したが、
自由主義には味方しなかったことがそれだ。19 世紀初頭のヨーロッパの激動はこの2つの思潮
が渾然一体となって起きたものだが、このような取捨選択の態度は混乱を大きくするだけの結果
に終わった。
ウィーン体制後のドイツに澎湃と湧き起こるナショナリズムと自由主義の動きを前にしてフ
ランスは最初のジレンマを味わう。1817 年 10 月 18 日、ヴァルトブルクに集まったドイツの学
生たちは、ウィーン後の群小国家体制と新絶対主義に対して抗議の意思を表明し、反動的記念物
の破壊や焚書を敢行した[注]。この事件はドイツ社会の緊張感を一挙に高める引き金となり、
ドイツ・ブルシェンシャフトの結成に帰着。メッテルニヒはこの危機に敏感に反応し、1818 年
のアーヘン会議を皮切りにいくたびか会合を開いてドイツ連邦に新しい機能を付加した。1819
年 7 月、プロイセン政府と直談判したのち、カールスバートで 10 カ国の政府代表を招いて4つ
の連邦法を導入した。カールスバート決議といわれるものがこれで、その狙いは下から湧き起こ
るナショナリズムの運動の弾圧に定められていた。ドイツ駐在のフランス大使は本国宛ての報告
で「ドイツがフランス革命のような大変動の前夜にある」と述べる。これを耳にしたルイ十八世
は、フランスは一連の騒動とはまったく無関係であり、暴動の鎮圧に賛成と宣言した。
[注]「ヴァルトブルク祭典」の名で知られるこの運動の主体は学生であった。この祭典を契機
に、国民運動のなかで初めて全ドイツ規模の構想のもとで組織されたものであった。ブルシェン
シャフトのメンバーは毎年、開催される学生組合会議( Burschentag) を将来の国民的発展の烽
火にしようとした。そこにはナショナルな言説と急進民主主義的な言説が一つの綱領のなかで解
けあっていた。彼らが反対するのは新教・旧教の差別、ドイツの分断、君主専制主義、自由・平
等の抑圧であった。
Cf. オットー・ダン著、末川清、姫岡とし子、高橋秀寿訳『ドイツ国民とナショナリズム(1770
-1990)』名古屋大学出版会、1999 年、pp.64-65.
同じころ、スペインでも農民暴動が発生していた(1820 年1月)[注]。列強の代表が集まっ
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たヴェローナ会議は、スペイン絶対王政の救援のためフランスに派兵を命じた。これに“踏み絵”
の意味が込められていることはいうまでもない。1822 年末に外務大臣になったシャトーブリア
ンは軍事介入を決定。1823 年 4 月、ルイ十八世の弟アングレーム公はカタルーニャを制圧した
あと、5月にはマドリードに入城してスペインの政界から立憲派を一掃することに成功した。遠
征軍は 12 月2日(アウステルリッツ戦勝記念日)にパリに凱旋した。
[注]ウィーン体制後のイベリア半島でもナポレオンの残党が一掃され、フェルディナンド七世
が復位し反動的体制が復活したが、領主制の残存状況に反対する農民が封建的諸権利の廃棄、賦
役反対、農地分配を要求して反乱を起こした。
フランスの政府のこうした態度は列強から歓迎された。ベルリンはフランスの軍事的再興をも
っとも恐れていたが、フランス政府が旧秩序の擁護者であること知って安心した。フランスはラ
イン川への野心をもたないと宣言したため、1820 年代後半の普仏関係はきわめて良好のうちに
推移する。
フランス外交の転換は七月革命とともに生じた。ベルギー独立運動がその機会となった。ウィ
ーン条約により旧オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)はオランダ王国に併合されていた。
もともと宗教、文化、経済の面で明確な違いをもつオランダとベルギーが一つの国を成すには無
理があり[注]、南部を中心に独立の機運がつづいていた。
[注] ウィーン会議でオランダによるベルギーの併合案が出てきたのは、ベルギーをもって障
壁となしフランスの再膨張を抑えたいとする列強の希望と、オランダによる戦災賠償金の要求と
を同時に満たすためである。この決定にはベルギーの住民の意思が完全に無視されている。ネー
デルラントの北部は新教、南部は旧教、言語についてはそれぞれオランダ語とフランス語、経済
についてもそれぞれ商業と工業(重工業)の違いがあった。公用語はオランダ語とされ、人口比
で南部が圧倒的に多い(1830 年当時2対1)のにもかかわらず、議員数は同数とされ、政府の
閣僚の数では北部が圧倒的に優位に立っていた。
七月革命の報道がブリュッセルに届くや否や、反射的にここで反乱行動が生じた。ベルギー臨
時政府はフランスに援助を求めてきた(10 月)。フランス新政府は、ベルギーの独立がウィーン
体制の崩壊に連なること、経済的重要性をもつベルギーとの関係をもちたいこともあり、独立運
動を支援したいのはやまやまだった。しかし、単独行動は危険の判断から当面、諸外国の出方を
見守ることにした。ウィーン体制の破綻を意味するベルギーの独立に直面した列強はロンドン会
議で問題解決をはかることになった。プロイセンとロシアはベルギー独立に反対だったが、折か
ら生起したポーランド反乱を鎮圧するのに精いっぱいで、オランダの支援のため兵力を割く余裕
がなく、イギリスとフランスはベルギーを支持したため、結局、列国代表は独立を承認するにい
たった。
にもかかわらず、オランダと独立軍のあいだに戦闘が起り、たちまち独立軍は窮地に陥った。
かくてフランス軍が支援に駆けつけ、オランダ軍を撃破する。ベルギーの永世中立国化を条件に
紛争が最終的に解決するのは 1831 年 10 月である。ヨーロッパの領土変更はこれだけであった
が、1815 年来のフランス包囲網の一角に初めて穴があいた。ベルギーの初代国王レオポルト一
世は仏王ルイ=フィリップの長女と結婚し、フランスとベルギーの事実上の同盟関係が成立した。
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1914 年 8 月、ドイツ軍の怒涛の突進を阻むのがこの中立国ベルギーである。
ベルギー問題では英仏は協調行動をとったが、10 年後の「東方問題(Eastern Question)」で
は対立し、その緊張関係は開戦の瀬戸際まで行った。「東方問題」とは何か、細部に立ち入るの
は避けてあらましのみを述べておこう。オスマン=トルコの宗主権下にあるエジプトが独立を企
てたのを機に、イギリス、ロシア、フランスが干渉して起きた一連の紛争を「東方問題」という。
これは 1831~33 年の第一次紛争と 1839~40 年の第二次戦争に分かれる。英仏が激突するのは
第二次紛争のほうである。
第一次紛争で、ロシアの地中海への南下を恐れるイギリスはフランスを誘ってエジプトの肩を
もち、ロシアとトルコの同盟に敵対する。エジプト太守メヘメット=アリは完全独立こそ認めら
れなかったが、新たにシリアとキリキアの統治権を獲得。これに不満をいだくトルコはロシアと
ウンキャル=スケレッシ条約を結びロシアの援助を確保するとともに、その秘密条項によって黒
海、ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡におけるロシア艦隊の航行権を認めた。
第二次紛争は、メヘメット=アリがトルコに対して統治権の世襲化を要求することによって生
じた。フランスの支援を得て軍隊の近代化をはかっていたメヘメット=アリのエジプト軍はトル
コ軍を撃破し、シリアを征服し、首邑ビザンチンをも脅かすにいたる。イギリスはフランスの独
自行動を訝るとともに、東地中海方面での勢力均衡を根本的に崩しかねないエジプトの強大化を
恐れた。イギリスは紛争収拾のためオーストリア、ロシア、プロイセンを誘ってロンドンに会議
をもつ。1840 年7月 15 日のロンドン協定はフランスに「貴国の願望はヨーロッパの法になじ
まない」[注]と警告を発する一方で、メヘメット=アリにシリア北部、メッカ、メディナ、ク
レタ島をトルコに返還するよう迫った。アリにしてみれば、前の紛争でイギリスの加勢を得てト
ルコから獲得した領地を今度は返せという要求に理不尽さを感じたのはとうぜんで、アリはこれ
を拒絶。
[注] Poidevin, Raymond et Bariety, Jacque, Les relations franco-allmandes,1815-1975,
Armand Colin, 1978, p.122.
驚愕した点ではフランスも同じで、これまで何の相談も受けなかったばかりか、いつの間にか
自国は「ワーテルロー同盟」と対峙していたのである。時の首相アドルフ・ティエールは戦争辞
さじとばかり、敢然とメヘメット=アリを支持する。パリの新聞は湧き立ち、首相に拍手大喝采
を送った。ティエールはまさに全ヨーロッパを相手とする戦争に直面していた。ティエールは議
会で「ヨーロッパ全部を敵にしても戦いたい」と宣言。フランス人の脳裏を大革命とナポレオン
戦争の思い出がかすめる。「ライプニッツ」や「ワーテルロー」よりすでに四半世紀以上が経過
し、その苦い記憶の部分が薄れ、ナポレオン戦争の光輝の部分のみが蘇る。ヨーロッパにおける
フランスの使命を信じる者にとって、ロンドン協定は身を切られる仕打ちと映った。自国政府の
軟弱外交ぶりに切歯扼腕の思いを重ねていたフランス人が「時、至れり!」の感にとらわれたの
は十分に理解できる。ティエールはナポレオン気取りで自室に籠もり地図と首っ引きとなる。
しかし、国王ルイ=フィリップの穏忍自重の態度がフランスを大破局から救った。王は国際的
孤立を恐れてエジプト援助を放棄した。メヘメット=アリは単独で出兵したが、シリアでイギリ
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ス軍に大敗し、全占領地を放棄。ただ、トルコの宗主権のもとにエジプト統治の世襲権のみは認
められた。
「東方問題」は将来に連なる遺恨感情を解き放った。まず、フランスから述べよう。熱狂の虜
となった世論が国家を破滅に導くというのはよくあることである。4対1の勝ち目のない戦いを
避けたという意味で、ルイ=フィリップ王は正しかったはずである。しかし、ルイ=フィリップ
は臆病者呼ばわりされ、その威信は地に堕ちた。1840 年 8 月末からパリでストライキが頻発し、
10 月 15 日には、同王を狙った暗殺未遂事件が発生。これに動揺した王は事件 10 日後に、今や
人気絶頂のティエールを罷免する。ティエールのなかにナポレオンを見出していたフランス人は
この更迭人事に落胆と憤激を覚えた。以後の七月王政への国民の信任は坂を転げ落ちていく。
「東
方問題」が 1848 年の二月革命を用意したのはまちがいない。七月王政下で二度も首相をつとめ
るほど重要な役割を演じたティエールだったが、このときの更迭のゆえに政治的延命を果たし、
二月革命、第二帝政、パリ=コミューン、第三共和政を駆け抜けていく。
「東方問題」の反響はライン川の対岸でも起きた。
「ヨーロッパ全部を相手にしても戦いたい」
というティエールの演説はドイツ人のあいだに燻りつづけるナショナリズムに火を放った。「フ
ランス嫌いの嵐」(レイノー)[注]がいたるところで爆発。
[注]Poidevin et Bariety, Ibid.
とくにラインラントのプロイセン、プファルツ、バーデン、バイエルンにおいて荒れ狂った。
フランスがラインラントに再進出するという危惧がこうした怒りを爆発させたのだ。「やつらは
自由なドイツ=ラインを獲得しないだろう」 ― ケルンの若き書記ニコラス・ベッカー作「ライ
ンの歌」はこのとき生まれた。新聞はフランスに関する誹謗記事を満載することによってこの運
動を支えた。かくて、敬虔主義的、ロマン主義的ドイツは無神論と革命のフランスに反抗する。
政府次元でもフランスの侵入に備えた。プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム四世はドイツ
連邦の軍備と要塞化に関する法案を上程する一方で、オーストリアにフランスの攻撃に同盟を提
唱。すなわち、プロイセンが西方から攻撃を受けた場合、15 万の援軍を受ける約束をとりつけ
た。その代償としてオーストリアはイタリア領有を認めるという。こうした防御的措置が世論の
沸騰を伴ったのはいうまでもない。
1840 年危機はライン川の両岸で愛国的情熱を呼び覚ました。フランスは国境の変更を夢見た
のに対し、ドイツは形成過程にあるドイツ=ナショナリズムのなかで培われた固い連帯と決意を
表明する。ドイツの憤激が少なからずルイ=フィリップを非戦方向に導いたのは明らかであろう。
(次章
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/napoleon3_2.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
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