発表要旨集 - 同志社大学 情報公開用サーバ

第 67 回美学会全国大会
発表要旨集
2016 年 10 月 8 日(土)
、9 日(日)
同志社大学
プログラム・要旨目次
10 月 8 日(土)
シンポジウム 第一部
10:00-12:00
室町キャンパス 寒梅館ハーディーホール
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「
「妙」なる京都と「香り」のパリ」同志社大学人文科学研究所第 16 研究報告:岡林洋(同志社大学)
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「テロリズム時代のアートと美学の役割」
第一部:シュリンゲンジーフの舞台アクション《アッタ アッタ アートが脱獄している》をめぐって
司会:樋笠勝士(岡山県立大学)
コーディネーター:岡林洋
パネリスト:川俣正(パリ国立高等美術学校)[映像出演]、前田茂(京都精華大学)
、
村上真樹(同志社大学)
総会
12:30-13:30
研究発表Ⅰ
室町キャンパス 寒梅館ハーディーホール
14:30-16:40
室町キャンパス 寒梅館地下 1 階
Ⅰ-1〈美学1〉
14:30-15:10
美的性質の知覚と存在論
:レヴィンソンの美的知覚説の検討と代替案の提示
源河 亨
(日本学術振興会)
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15:15-15:55
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芸術の統一理論に向けた「再帰的定義」の可能性
――C.L.スティーブンソンのモデルから――
三浦 俊彦
(東京大学)
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16:00-16:40
9
中国の「美学」の成立における日本の影響
楊 冰
(日本学術振興会)
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Ⅰ-2〈西洋美術1〉
14:30-15:10
ティツィアーノ作《マリアの神殿奉献》に関する一考察
――ヴェネツィア、マリア、カリタ(慈愛)――
森本 奈穂美
(同志社大学)
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15:15-15:55
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オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂装飾の制作をめぐる一考察
――ピントゥリッキオ工房のグロテスク装飾との関連から――
森 結
(九州大学)
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16:00-16:40
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ドガの風景画にみられる新たな視覚
――サン=ヴァレリ=シュル=ソンムの風景画を中心に――
藤本 奈七
(関西学院大学)
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Ⅰ-3〈音楽〉
14:30-15:10 変形理論とシェンカー理論
1
――解釈と方法の優位性について
西田 紘子
(九州大学)
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・ 14
15:15-15:55 武満徹「雨」シリーズに属する独奏鍵盤作品の分析
原 塁
(京都大学)
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15
16:00-16:40 「ある善良な男」とは誰なのか
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――シャルル=ヴァランタン・アルカン作《葬送行進曲》の一考察
村井 幸輝郎
(日本学術振興会)
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研究発表Ⅱ
16:50-19:00
室町キャンパス 寒梅館地下 1 階
Ⅱ-1〈美学2〉
16:50-17:30 描き始める前に
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――『感覚の論理』における創造のプロセス
安藤 勝哉
(京都大学)
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17:35-18:15 ジャック・ランシエールのモダニズム/ポストモダニズム観とその射程
鈴木 亘
(東京大学)
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19
18:20-19:00 「凌駕しえない充実」と「絶対的な充実」
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大道 周作
(東京藝術大学)
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・ 20
Ⅱ-2〈西洋美術2〉
16:50-17:30 ピエール・ボナールの〈クリシー広場〉連作に関する考察
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――カイユボット受容とナビ派の装飾理論の乗り越え――
吉村 真
(早稲田大学)
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17:35-18:15 フルクサスにおける「イヴェント」再考
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――ジョージ・ブレクトの実践を中心に
小野寺 奈津
(慶應義塾大学)
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18:20-19:00 クリストとジャンヌ=クロードの芸術活動におけるクリストのコラージュを
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めぐって
日置 瑶子
(京都大学)
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Ⅱ-3〈写真、映像、舞踊〉
16:50-17:30
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スティーグリッツのキュビスト的視点
――291 ギャラリーの『ピカソ―ブラック展』
(1914-15)インスタレーショ
ン写真を中心に
宮本 康雄
(一橋大学)
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17:35-18:15
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彼女の人生を生きる
――原一男監督『極私的エロス・恋歌 1974』をめぐって
今村 純子
(東京藝術大学)
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18:20-19:00
土方巽の暗黒舞踏における象徴としての「東北」
――パースの記号論的な観点に即して――
李 裁仁
(東京大学)
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10 月 9 日(日)
若手研究者フォーラム
9:30-11:30
新町キャンパス 尋真館4階
分科会 1〈西洋美術 A〉
9:30-10:00
G. F. ワッツの〈顔の表情を隠す〉表現
岡田 実沙子
(成城大学)
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10:00-10:30
モーリス・ドニ作《バッカス祭》における 3 人の人物像を巡って
森 万由子
(早稲田大学)
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10:30-11:00
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アルフォンス・ムハ「スラヴ叙事詩」における写真の役割
中村 有里
(関西学院大学)
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11:00-11:30
クールベの画業における地方展覧会の位置付け
――サント市絵画版画彫刻展(1863)に関する一考察――
高野 詩織
(一橋大学)
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分科会2〈西洋美術 B〉
9:30-10:00
フランチェスコ・アルカンジェリ『ジョルジョ・モランディ』についての
一考察
――モランディの検閲による削除箇所の検討から――
遠藤 太良
(京都大学)
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10:00-10:30
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バルテュス作品における少女イメージ
――絵画とポラロイド写真から――
齋木 優城
(東京藝術大学)
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10:30-11:00
33
ベルメール作品における文学の外延としての人形
――作家の人形観形成に関する一考察――
原田 紗希
(京都市立芸術大学)
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11:00-11:30
ライオネル・ファイニンガーのゲルメローダ教会連作
――キュビスム受容から独自様式の確立へ
佐々木 千恵
(早稲田大学)
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分科会3〈芸術理論〉
9:30-10:00
Iconology が扱う領域について
――パノフスキーの Iconology 論を中心に――
斉藤 音夢
(東京藝術大学)
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36
10:00-10:30 アルベルティ『絵画論』再考
――規範、再現/表象、循環――
島田 浩太朗
(京都大学)
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10:30-11:00 ベトナム人画家ナムソンの美術論
──『中国画』への一考察──
二村 淳子
(鹿児島大学)
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11:00-11:30 茶道における「芸術的隔離性」について
延田 リサ
(京都大学)
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分科会4〈写真、映像、音楽〉
9:30-10:00
小津安二郎映画をめぐる西洋からの批評における問題点
――「無人のショット」を中心に――
具 慧原
(東京大学)
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10:00-10:30 デイヴィッド・ボードウェルの映画理論
――80 年代の著作における「規範」概念の検討――
住本 賢一
(東京大学)
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10:30-11:00 痕跡としての襞
――G・G・ド・クレランボーの写真と衣服論に関する研究――
安齋 詩歩子
(横浜国立大学)
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11:00-11:30 グスタフ・マーラーの交響曲における空間性
――現象学的空間についての考察――
曹 有敬
(東京大学)
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分科会5〈現代芸術の展開〉
9:30-10:00
1950 年代以降のマーク・ロスコ作品における「場」の意義
石山 律
(慶應義塾大学)
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44
10:00-10:30 草間彌生「言語芸術の世界」
――視覚芸術との補完関係、泉鏡花の影響――
パフチャレク パヴェウ
(同志社大学)
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45
10:30-11:00 《ブロック・ボイス》におけるヴィトリーヌとその意味
――「アウシュヴィッツ・デモンストレーション」を中心に――
水野 俊
(慶應義塾大学)
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11:00-11:30 スローターダイクにおける暴力表象
――アヴァンギャルドから新キニカルへ――
大村 一真
(同志社大学)
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4
研究発表Ⅲ
12:20-14:30
新町キャンパス 尋真館4階
Ⅲ-1〈美学3〉
12:20-13:00 ルイジ・パレイゾン「形成性の理論」における一考察
――「能動的形(forma-formans)による所産的形(forma-formata)の形成的誘導」
の理論的源泉を探る
片桐 亜古
(京都大学)
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13:05-13:45 バウムガルテンの美学における美的真理と形而上学
――可能的存在の存在論をめぐって――
桑原 俊介
(東京大学)
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13:50-14:30 二次元的人間の予知夢
――アドルフ・ヒルデブラント――
金田 千秋
(筑波大学)
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Ⅲ-2〈美学4〉
12:20-13:00 散漫な聴取の効果
――おもに 18 世紀後半におけるズルツァーらのリズム論から――
岡野 宏
(東京大学)
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・・・ 52
13:05-13:45 身体と言語
――動感の質的記述の試みから見えてくるもの――
柿沼 美穂
(東京工芸大学)
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13:50-14:30 「カッコイイとは、こういうこと」か
――適合性 suitability の感性化
春木 有亮
(北見工業大学)
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Ⅲ-3〈芸術理論〉
12:20-13:00 ヴァルター・ベンヤミンにおけるエルンスト・ユンガー
――「芸術のための芸術」をめぐって
長谷川 明子
(東京藝術大学)
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13:05-13:45 アンドレ・ブルトンと想像力の問題
――シュルレアリスムとルネサンスのあいだで
岡本 源太
(岡山大学)
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13:50-14:30 バタイユのエロティスム論におけるイメージの使用と意義
――『エロスの涙』考察
井岡 詩子
(京都大学)
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Ⅲ-4〈日本の現代美術〉
12:20-13:00 近現代美術の「臭気」をめぐる保存修復の射程
:井田照一《タントラ》(1962-2006)の体液、死骸、硝酸を手がかりに
田口 かおり
(日本学術振興会)
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13:05-13:45 高松次郎《題名》における同時代性と独自性
――もの派との比較より
大澤 慶久
(美学会東部会)
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13:50-14:30 テープ・レコーダーとして表現された主体
――高見沢文雄《柵を越えた羊の数》
金子 智太郎
(東京藝術大学)
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シンポジウム 第二部
15:00-16:30
寒梅館ハーディーホール
「テロリズム時代のアートと美学の役割」第二部:スローターダイクの暴力表象諸論をめぐって
司会:樋笠勝士(岡山県立大学)
パネリスト(50 音順)
:石田圭子(神戸大学)
、香川檀(武蔵大学)
、高田珠樹(大阪大学)
、
山口和子(岡山大学)
同志社大学人文科学研究所主催 公開講演会
16:40-18:00
寒梅館ハーディーホール
演題:
「香りと音楽」
講演者:シャンタル・ジャケ(Chantal JAQUET)パリ第一大学パンテオン‐ソルボンヌ 教授
(通訳:岩﨑陽子 京都嵯峨芸術大学短期大学部)
※シンポジウムⅠ・Ⅱ及び公開講演会は同志社大学エコ・エステティックス&サイエンス国際研究
センター後援。
懇親会
18:20-
会場:京都平安ホテル(京都市上京区烏丸通上長者町上る龍前町)
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【研究発表Ⅰ】
〈分科会 1〉 美学 1
〈分科会 2〉 西洋美術 1
〈分科会 3〉 音楽
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10 月 8 日(土)14:30-15:10 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 1〉美学 1
美的性質の知覚と存在論
:レヴィンソンの美的知覚説の検討と代替案の提示
源河 亨(日本学術振興会)
本発表の目的は、ジェロルド・レヴィンソンが近年の知覚の哲学を用いて展開している美的判断の客観
主義の問題点を明らかにするとともに、その代替案を提示することである。
美的判断は正誤が問えると主張する「客観主義」を擁護するうえで、レヴィンソンは、美的性質の実在
性と知覚可能性に訴えている。つまり、実在する美的性質を正しく知覚した主体は正しい美的判断を下せ
るが、知覚し損なうと誤った判断が下されるというのだ。この主張の支えとしてレヴィンソンは、マーク・
ジョンストンの「現れの理論」を援用している。現れの理論は色などの非美的性質の知覚を説明する理論
だが、それによると、色は、主体が特定の条件に立つことで意識に現れる対象の実在的な一側面である。
この考えに基づきレヴィンソンは、美的性質は色などの非美的性質(対象の現れ方)が特定の条件で意識
に現れる仕方(高階の現れ方)だと主張している。
だが、色などの性質が実在するかどうかについては昔から議論が紛糾しており、その実在性を主張する
ジョンストンの現れの理論も広く受け入れられているわけではない。そうであるなら、美的性質について
同様の主張を行うのはなお一層困難だと言える。
そこで本発表は、美的性質の知覚可能性を維持しつつ実在性を拒否する代替案を提示したい。ポイント
は二つある。一つめは投影説である。たとえば色の投影説では、対象が赤く見える場合、実際のところ赤
さは主体の意識の性質だが、対象の性質であるかのように投影されていると言われる。本発表は、これと
同じく、美的性質は対象に投影された主体の性質だと主張する。第二のポイントは、主体の性質とみなさ
れた美的性質を情動によって説明することである。美的性質には美的判断を促す評価的側面が含まれてい
るが、それは情動の特徴に還元されると主張するのである。恐怖が身の危険に対するネガティブな反応で
あり、喜びが目的や期待との一致に対するポジティブな反応であるように、情動は本質的に評価的要素を
もつが、それが美的な評価の基盤になるのだ。
投影説でも、レヴィンソンの目的であった客観主義の擁護は可能である。たとえば色の投影説でも、ポ
ストを見たときには赤さが投影される知覚が正しく、青さが投影される知覚は誤っていると言える。同様
に、特定の曲を聴いたときには、それに優美さを投影させる知覚が正しく、荘厳さを投影させる知覚は誤
っていると言えるだろう。さらに情動の投影説はレヴィンソンの立場よりも存在論的コストが小さいとい
う利点がある。美的性質についてどういった見解をとるにせよ情動という心的状態があることは認めなけ
ればならないが、情動の投影説は情動の評価的要素に美的性質を還元することで、客観主義を擁護するた
めに必要なモノの種類が減らせるのだ。
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10 月 8 日(土)15:15-15:55 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 1〉美学 1
芸術の統一理論に向けた「再帰的定義」の可能性
――C.L.スティーブンソンのモデルから――
三浦 俊彦(東京大学)
芸術作品の解釈および評価について提起されたC.L.スティーブンソンのモデル(以下、Sモデル)
を二つの点で一般化することにより、
「芸術作品の解釈」と「芸術概念の定義」という二つの主題を統一す
る試みに先鞭をつけるのが本発表の目的である。
Sモデルとは、芸術作品が性質Qを持つことを次のように分析するモデルである。
芸術作品xはQcである ≡df. 芸術作品xは適切な仕方で(注意と美的没入の態度をもって観察したい
と望む人々によってのみ洗練され維持されるべき仕方で)観察されたときQsにみえる(Stevenson, 1950,
p.903)
Qc、Qsはそれぞれ、”Q”という同音異義述語で指示される複雑な概念(定義される概念)と単純な
概念(定義に使われる概念)を表わす。ここで、Sモデルが潜在的に有していながら原論文で論及されな
かった二つの特徴に注目したい。第一点は、
「芸術である」という性質もQの一例と見なせること。任意の
芸術作品xについて、芸術である根拠をこの定義によって定式化するならば、それがただちに「芸術概念
の定義」になるのだ。
Sモデルは、すでに芸術作品とされている対象を論議領域とするものだが、その制限を取り払ってあら
ゆる対象にxの領域を広げると、芸術-非芸術の線引き問題に応用できる。ここでSモデルが有する第二点、
「再帰的定義 recursive definition」への拡張可能性が生きてくる。芸術の実在定義には、モリス・ワイツ以
来、
「開かれた概念の論理に反する」といった反本質主義からのメタ美学的批判がつきまとってきた。これ
に対し対象の関係的性質を考慮することで芸術概念の開放性と本質主義とを両立させたのがディッキーら
の制度論的定義だが、関係的性質における開放性までも指摘された場合、制度論的な方針には限界が生じ
うる。そこで芸術の定義可能性を探るもう一つの道として、再帰的定義が有望視されるだろう。もとのS
モデルを「Qcx ≡df. Fx→A(Qsx)
」と書いたとき、c,sの二階層区分を無数の階層区分へと拡
張した再帰的定義の一般形式はこう書ける。
Qnx ≡df. Fx→A(Qn−1x)
(n=1とした基底的定義がSモデル)
批判対象となる階層nでの定義を対象化した階層 n+1 において、同型の定義を繰り返す総体が再帰的定
義である。定義の構成要素F、Aの妥当性への疑義に直面したならば「定義項の内容」について議論すべ
きだが、定義可能性そのものを否定するメタ美学的批判に対しては、定義項の内容ではなく「定義の階層」
を変えることが正当な対処となろう。
以上のように、Sモデルに対し「解釈という行為に芸術認定行為をも含める」
「二階層構造を無限階層の
再帰構造へ拡張する」という二つの一般化を施すことが、統一的芸術理論の展望を得るとともに本質主義
的定義の復権を試すための有望な方法となるはずである。
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10 月 8 日(土)16:00-16:40 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 1〉美学 1
中国の「美学」の成立における日本の影響
楊 冰(日本学術振興会)
「美学」は本来中国になかった学問で、近代において西洋から中国に伝わり、
「美学」という学問が
成立した。近代の中国において、西洋の「美学」は如何なる経緯で中国に伝わり、そして学問として
如何に根付いたのか。本論文はこの中国の「美学」の創建期に注目する研究である。中国の近代の最
初の美学理論「境界論」
(1908)
、及びその後に誕生した、
「境界論」と並ぶもう一つの重要な美学理論
「移情論」
(1923)
。この二つの理論を作り上げた中国の最初の美学者達における一つの大きな共通点
は、日本と大いに接点を持っている点である。彼らはすべて明治から大正までの日本に留学し、中国
に戻った後でも、日本の学術理論書の翻訳に専念していた。今までの研究では、この二つの理論にお
ける日本の影響を取り上げられていなかった。この客観的な事実を見逃すことで、中国美学の原点に
対して、忠実的な研究姿勢と視線が欠けていたと言っても過言ではない。
本論文は、
「境界論」と「移情論」に立脚し、この二つの理論において、明治から大正までの日本国
内における哲学、心理学及び美学理論研究の与えた影響を明らかにしようとするものである。結論を
先取りに言えば、王国維によって作りあげられた「境界論」
(1908)は、当時日本で盛んに研究されて
いたカントの哲学(主に桑木厳翼によって研究された「認識論」
)とヴントの心理学(主に元良勇次郎
によって研究された「心の統覚作用」
)と中国の伝統的な詩の創作論を融合させた理論である。先行
研究では、
「境界論」をめぐってその理論の本質は中国的なものなのか、それとも西洋的なものなの
かという議論を繰り返してきたが、本論文は今までなかった観点から「境界論」を見直して、この中
国美学の最初の「赤ん坊」は「哲学」と「心理学」の血が混じり合う「混血児(哲学的美学と心理学
的美学の混合)
」であったことを判明した。もし 1908 年の「境界論」は近代における中国の「美学」
の萌芽だとすれば、それが大きく成長させたのは、20 年代に入ってから形成された「移情論」である。
先行研究では、
「境界論」と「移情論」はそれぞれ異なる二つの理論とされてきたが、本論文におい
て、心理学的美学の面において「移情論」は「境界論」の延長線にある理論だと明らかにした。具体
的にいうと、
「移情論」は、呂澂が阿部次郎の「感情移入論」に基づき、作り上げた心理学的美学理論
である。
初期の王国維と呂澂などの美学者たちの共通している特徴は、自らの美学理論の拠り所としている
のは、抽象的で論理的な西洋哲学理論ではなく、経験的な西洋心理学理論であった。従って、中国の
美学はその原点から心理学と離れられない関係を持っている。王国維(詩人でもある)と呂澂は主に
自分自身の美的経験を内省し、心理学的補助概念を借りて芸術の創作と鑑賞における、その心的要素
を分析し、美学的な考察を行った。王国維がスタートし、呂澂によって形作られた中国の最初の美学
の理論は「心理学的な美学」として誕生した。
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10 月 8 日(土)14:30-15:10 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 2〉西洋美術 1
ティツィアーノ作《マリアの神殿奉献》に関する一考察
――ヴェネツィア、マリア、カリタ(慈愛)――
森本 奈穂美(同志社大学)
ヴェネツィア派画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio, 1488/1490‐1576 年)は 1534~38
年にかけて同地のサンタ・マリア・デッラ・カリタ大同信組合(Scuola Grande di Santa Maria della Carità)の
注文により組合会館内のアルベルゴの間に《マリアの神殿奉献》を制作した。
本作品にはマリアの神殿奉献の図像伝統に登場する人物のみならず、古代風あるいは架空の建築や彫刻、
同時代のヴェネツィアの建築や人物群など、複合的な要素が含まれている。この点に関しては先行研究に
おいて様々な図像解釈が試みられてきた。しかし、アルベルゴの間には本作品以外に《聖母子三連祭壇画》
(アントニオ・ヴィヴァリーニ、ジョヴァンニ・ダレマーニャ、1446 年)
、
《マリアの結婚》(ジャンピエト
ロ・シルヴィオ、1539‐1543 年)、
《受胎告知》(ジローラモ・デンテ、1557‐1561 年)が設置されていたに
もかかわらず、先行研究において本作品は部屋の装飾全体の中で考察されることがなかった。その理由と
してアルベルゴの間を飾っていたティツィアーノ以外の作品が近年まで移設されていたことが挙げられる。
2010~2012 年における《マリアの神殿奉献》の修復の際、アルベルゴの間は《聖母子三連祭壇画》を除いて
元の場所に戻された。そのような経緯から修復方針を予め知っていたロザンドのみがティツィアーノ以外
の作品にも言及したが、それらの詳細な図像分析を行っていない。
本発表では、
《マリアの神殿奉献》を単独で解釈するのではなく、アルベルゴの間装飾全体、とりわけテ
ィツィアーノ以降の二作目との図像的連関を手掛かりに再解釈を試みる。発注者が全て同じ同信組合であ
り、ティツィアーノ以降に制作された作品が弟子あるいはティツィアーノ派の画家によって制作されたこ
とを考慮すると、これら三作品が一貫した図像を構成する可能性を検討する必要があると考えられるから
である。
そこで、まずアルベルゴの間全体の図像構成を復元的に概観し、マリア伝三作品に幼児を抱く女性像が
現れ、
《マリアの結婚》と《受胎告知》においてはより強調されていることを確認する。そして、ヴェネツ
ィアでは三つの対神徳(Virtutes Theologicae)のうちとりわけ〈慈愛〉
(Caritas)が幼児を抱く女性の寓意像
として総督宮正面彫刻のように格別な位置を与えられていることから、アルベルゴの間三作品に現れる幼
児を抱く女性像が〈慈愛〉の寓意として指摘できる可能性を検討する。
以上から、マリア伝三作品を一緒に考察することによって、これまで看過されてきたティツィアーノ以
降の二作品ほど顕著ではないが、
《マリアの神殿奉献》においても組合の信条である〈慈愛〉の寓意が組み
込まれているのではないかと考える。
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10 月 8 日(土)15:15-15:55 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 2〉西洋美術 1
オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂装飾の制作をめぐる一考察
――ピントゥリッキオ工房のグロテスク装飾との関連から――
森 結(九州大学)
ルネサンス期の画家ルカ・シニョレッリに名声を与えた、オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝
堂の装飾事業は 15 世紀末に着手され、先行研究では世紀末という時代状況とアンチ・キリストを描いた壁
画の主題が関心を呼び、ルネッタの分析を中心に研究が行われてきた。これに対し本発表は、腰壁装飾の
様式分析をその主眼とする。
本礼拝堂の腰壁装飾には、付け柱などで構成された建築的枠組みが描かれている。またその区画の中に
は古代の詩人の肖像と、彼らの著作の場面が描かれ、その周縁はグロテスク装飾で充填されている。それ
ではなぜ礼拝堂という聖なる場において、このように異教的な要素が、大きな割合を占めることができた
のだろうか。先行研究は、装飾事業の背景に控えていたであろう、当時の大聖堂の助祭であったアントニ
オ・デリ・アルベリや、彼のかつての生徒であり、彼が秘書として仕えてもいたフランチェスコ・ピッコ
ローミニ枢機卿らの人文主義的趣味の反映と見てきた。本発表は、大聖堂を取り巻く人的関係からのみ説
明されてきたこの見解を、作品の様式分析から裏付けようとするものである。
まず本礼拝堂の腰壁装飾の着想元として、本発表では新たに、腰壁装飾の形式とグロテスク装飾のモチ
ーフに関して、ピントゥリッキオ工房のローマのペニテンツィエーリ宮殿の腰壁装飾の形式および天井装
飾のモチーフ、そして教皇庁の「ボルジアの間」の装飾モチーフとの類似を指摘する。前者はデッラ・ロ
ーヴェレ家の私邸であったことから、シニョレッリがこれを直に取材したというよりは、本装飾事業に、
ピントゥリッキオ工房の人材が関与していた可能性が高いといえる。シニョレッリ自身のグロテスク装飾
の語彙の変遷を確認すると、本装飾事業において突如としてその語彙が豊かになることが裏付けられ、こ
の点からも本装飾事業にピントゥリッキオ工房の装飾事業の下絵が提供されたと見なされるのである。こ
のような背景により本礼拝堂に異教的な要素が流入したと考えられよう。
近年の研究は、本礼拝堂装飾においてアンチ・キリストの説法を含む終末の情景が主題として選択され
た理由を、ピッコローミニ枢機卿を媒介とした、当時の教皇庁とオルヴィエートとの関係から説明する傾
向にある。本装飾事業が始まる 1499 年は、オスマン帝国によりキリスト教世界が脅威に晒された年であ
り、こうした教皇庁の危機が本礼拝堂の装飾と同期させられているというのである。シニョレッリが本礼
拝堂の腰壁装飾の雛型として選んだのが、ピントゥリッキオ工房がローマで手がけた、教皇庁と結びつい
た一族の邸館や居室の装飾であったという本発表の指摘は、先行研究において焦点が当てられてきた教皇
庁とオルヴィエートの関係においても意義を持つものと考える。
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10 月 8 日(土)16:00-16:40 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 2〉西洋美術 1
ドガの風景画にみられる新たな視覚
――サン=ヴァレリ=シュル=ソンムの風景画を中心に――
藤本 奈七(関西学院大学)
ドガ(Edgar Degas, 1834-1917)は、主に 3 つの時期(1869 年、1890-93 年、1895-98 年頃)に集中して風
景画制作を行っている。そのうちの第 3 の時期にサン=ヴァレリ=シュル=ソンムで描かれた風景画につい
ては、これまでの研究では、次世代の芸術の前段階とみなされることも少なくなかった。
たとえば、ボッグスは、作品にみられる紫色や薄桃色といった固有色を逸脱した色彩から、また、ピッ
クヴァンスは恣意的な色遣いからフォーヴィスムの要素を指摘し、ケンドールは作品と実景との矛盾から
多視点やコラージュといったキュビスムを先取りする要素を示す。しかし、第 3 の時期の作品にみられる
「新しさ」については、さらに別の解釈も可能なのではないだろうか。たとえば、この時期の作品には、
「新しい視覚(バージャー)
」を再現したともいえる第 2 の時期の風景画との類似がいくつか確認できる。
第 2 の時期の風景画の多くは、1892 年にデュラン=リュエル画廊での個展に展示された。それらの作品
をめぐるドガとの会話を書き残した友人ダニエル・アレヴィによると、あるときドガは「鉄道列車から眺
めた後ろへ過ぎ去っていく風景に興味を感じて、それをもとに風景画を描こうと考えた」
。この考えに基づ
いて制作されたドガの風景画があまりにも不明瞭だったため、その会話の中でアレヴィの父はアミエルの
「風景画は心の状態だ」という言葉を引用したが、それに対しドガは「目の状態である」と答えている。
つまり、すでに指摘があるように、この時期の風景画にみられる不明瞭さは、鉄道と人間の視覚が相乗し
たことによってつくりだされた新しい視覚の表現であるとも考えられる。そして、このような表現は第 3
の時期の風景画からも確認できる。たとえば、
《サン=ヴァレリ=シュル=ソンムの眺め》
(1895-98)では、
前景の道や画面左側の建物が不明瞭に描かれているのに対し、遠景の建物には明確な輪郭線が残されてい
る。ここで確認できる前景と遠景の描かれ方は、前景は速度感によって歪曲あるいは消失するが遠くのも
のは視野にとどまりやすいという鉄道乗車視覚との関連を想起させる。また、水平線の高さが画面縦半分
より上に位置していることから、この時期のドガは第 2 の時期の作品と同様の視線で風景を捉えているこ
とがわかる。
本発表では、まず、鉄道乗車視覚に注目し、第 2 と第 3 の時期の風景画が共有する特性を指摘する。そ
して、第 3 の時期に同一の風景を前にしながら対象との距離を変えて描いた風景画《サン=ヴァレリ=シュ
ル=ソンムで》
(1895-98)と、3 点の同様の風景画《村の入口》
(1895-98)を採り上げ、前後に動く視点で
対象を捉えようとしたドガの新たな視覚を明らかにする。
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10 月 8 日(土)14:30-15:10 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 3〉音楽
変形理論とシェンカー理論
――解釈と方法の優位性について
西田 紘子(九州大学)
20 世紀後半以降のアメリカでは様々な音楽理論が発展してきた。これに伴い、これらの方法そのものや
歴史性を論じる研究や書評も数多く発表されている。それを可能にしたのは、1970 年代以降、音楽理論学
会(Society for Music Theory)をはじめとする専門学会が設立され、多くの専門誌が出版され始めたこと、
それによって方法の多様化が進んだことである。現代アメリカを中心とする音楽理論のこうした展開を「音
楽理論の哲学」として省察することは、隣接ないし関連する学術分野(音楽学や美学など)の方法論的変
遷と比較する際の基盤づくりともなる。
そこで本発表は、拡散する方法のうち、昨今の主流の一つをなす「変形理論 Transformational Theory」を
対象とし、
「既存理論」との互助関係や競合関係を明らかにすることによって、当該学術文化の発展過程を
文脈化し特徴づけることを目指す。
「変形理論」とは、D. ルーウィン(David Lewin)の『一般化された音
程と変形 Generalized Musical Intervals and Transformation』
(1987)に代表される、1980 年代以降の音楽理論
の一派である。そこには B. ハイアー(Brian Heyer)や H. クランペンハウアー(Henry Klumpenhouwer)
、
R. コーン(Richard Cohn)の一連の論考を踏まえた「ネオ・リーマン理論 Neo-Riemannian Theory」も含ま
れる。本発表で言う「既存理論」については、それまで一大勢力を築いてきたシェンカー理論を採り上げ
ることとする。
シェンカー理論が古典的な調性音楽を主たる対象としたのに対し、変形理論は、ポスト調性音楽や後期
ロマン主義音楽のための分析ツールであり、同じく無調以後の音楽を扱うピッチセット・クラス理論とは
異なり対象の関係やネットワークに目を向ける。このように対象設定の点からみても、変形理論とシェン
カー理論の優劣は、同一地平のもとに比較されえない。しかしながら、例えば J. フック(Julian Hook)が
変形理論とシェンカー理論の根本的な違いを強調しつつも「
〈変形〉と〈延長 Prolongation〉を対立概念と
みなすことは誤り」
(Hook 2007, 168)と述べるように、一部の研究(Heyer 1995, Cook 1996, Cohn 1999, Kopp
2002, Samarotto 2003, Rings 2007, Baker 2008)において、境界的作品を例に両理論の統合(あるいは差別化)
が提案されてきた。
本発表は、両者の関係性を扱ったこれらの研究に特に注目し、その主張を読解することを通して、既存
理論に対して新しい理論が提唱されて以後の方法論上の議論が、学術文化を発展させる上でいかなる効用
を生じさせているのかを事例研究として検討する。その効用は、次の 2 つに分けられる。
(1)擬似的統合
によるハイブリッドな理論的枠組みを通して発見的解釈を可能にすること、
(2)一方の理論が明らかにで
きる点を説明することで他方の理論の性質をも示すこと、である。言い換えれば一連の議論は、作品解釈
を刷新すること、方法の通約不可能性を保持することで新しい理論モデルを喚起することのいずれを最終
目的とするかという、
「解釈」と「方法」の優位性をめぐる方法論上の違いに集約できる。本発表では解釈
と方法のこの関係を図式化した上で、各理論の頑強さを問う。
14
10 月 8 日(土)15:15-15:55 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 3〉音楽
武満徹「雨」シリーズに属する独奏鍵盤作品の分析
原 塁(京都大学)
戦後日本を代表する作曲家である武満徹(1930-1996)は、1980 年代以降タイトルに「雨」を冠する作品
を多く創作した。本発表では、この「雨」シリーズのうち、特に三つの鍵盤作品についての考察を行ない、
楽曲構造を比較検討する。その三曲とは、二つのピアノ独奏曲《雨の樹素描》
(1982)と《雨の樹素描Ⅱ》
(1992)
、そしてチェンバロ曲《夢みる雨》
(1986)である。
《雨の樹素描》と《雨の樹素描Ⅱ》は、これまでも合わせて言及されることが多かった。先行研究では、
そのタイトルの同一性にも関わらず主要動機に明白な共通性は存在しないこと、左右の手がト音記号で書
かれた高音域の使用など全体の雰囲気に類似性が見られること、両曲には「リズムの多義性」に共通性が
あることなどが指摘されているが、いずれも踏み込んだ楽曲分析はほとんど行なわれておらず、未だ漠然
とした指摘に留まっている。また、チェンバロ曲である《夢みる雨》についても既存の分析は少ない。こ
の曲はチェンバロという楽器の特性上ペダルやダイナミクスによる変化を付けることが出来ず、動機の操
作とリズム語法に専心して書かれた曲といえるが、それが「雨」シリーズに属する曲の一貫として、他の
二曲のピアノ独奏曲といかなる関係を有しているかも解明されていない。
本発表は、動機の操作やダイナミクス、ペダルの使用の分析に加え、特にリズムという点に注目して考
察を行なう。
《雨の樹素描》は音価の収縮自在性と複数のリズム・パターンを持つ旋律の重ね合わせをその
特徴とする。このリズム・パターンの重ね合わせは、ダイナミクスの大きな変化と連動し、楽曲の推進力
となっている。
《夢みる雨》においてもリズム・パターンの使用は見られるが、それはむしろ楽曲の構造の
一貫した核として用いられ、
《雨の樹素描》におけるような、ダイナミクスの変化と連動した局所的なエネ
ルギーの増大には寄与していない。
《雨の樹素描Ⅱ》では《夢みる雨》と同様に、複数のリズム・パターン
の積み重ねが楽曲に推進力を与えることはない。ペダルに関する詳細なニュアンスを示す細かい指示は減
少し、ダイナミクスは《雨の樹素描》と比較して緩やかなものとなる。特にペダルとダイナミクスに関す
る事実は、チェンバロ曲の作曲が影響を及ぼしていると考えられる。また、上述の《雨の樹素描Ⅱ》には
《雨の樹素描》における「リズムの多義性」が受け継がれているという先行研究の指摘にも再考の余地が
あるだろう。
以上のように、本発表では「雨」シリーズに属する三曲の分析を通してシリーズ内の各楽曲の関係性を
詳らかにするとともに、外見は似通った響きを有する武満の独奏鍵盤作品群の構成方法の変遷を明らかに
する。
15
10 月 8 日(土)16:00-16:40 【研究発表Ⅰ】
〈分科会 3〉音楽
「ある善良な男」とは誰なのか
―― シャルル=ヴァランタン・アルカン作《葬送行進曲》の一考察
村井 幸輝郎(日本学術振興会)
19 世紀パリのユダヤ人音楽家 Ch=V・アルカンは、作品 39《12 の短調による練習曲》
(1857)の第四〜
七番を《ピアノ独奏のための交響曲》と銘打ち、その第二楽章にあたる第五番には《葬送行進曲 ある善良
な男の死に寄せて》を収録した。この「ある善良な男」は、一部の先行研究や批評では、1855 年没の作曲
者の父を指すとの見解が示されてきた。しかし、アルカンの父方のルーツが辿れるアルザスで出版された
19 世紀後半のユダヤ人の風習を伝える書物によれば、ユダヤ人の葬儀・埋葬では音楽は慎まれていたとい
う。そこで本発表では、以下の論旨に沿い、1849 年に早逝したアルカンの隣人にして友人の F・ショパン
こそ「ある善良な男」ではないか、との仮説を提示・検証する。
まず、アルカンが本作品以外に残した二曲の葬送行進曲では、作品中の要素が送られる対象を明らかに
している。それぞれ、トルコマーチで送られる軍人、そして歌詞中で「ジャコ」と呼びかけられるアフリ
カン・グレー種の鸚鵡、といった具合である。これをアルカンにおける葬送行進曲の個人様式とするなら、
作曲者の父親説に代わる仮説の糸口もまた、作品中に見出されよう。
そこで発表者が着目したのは、この《葬送行進曲》にはショパンの作品 49《幻想曲》
(1841)との類似性
が指摘されている、という事実である。発表者の楽曲分析では、本作品はさらにショパンの作品 35 第三楽
章《葬送行進曲》
(1839)とも強い類似を示した。ショパンの《幻想曲》及び《葬送行進曲》とはまさに、
後年のアルカンが自身の演奏会で取り上げたショパン作品のうち、複数回演奏された一握りの作品の一角
を成すものであり、
《葬送行進曲》は累積演奏回数が第1位である。これら二作品は、アルカンによるショ
パンの追憶と深く関わると考えられるのである。1877 年には、アルカンはショパン作及び自作の二つの葬
送行進曲を一度の演奏会で演奏したという記録もあり、アルカンにとってこれら二つの葬送行進曲はある
種ペアを成していたと考えられよう。さらに、作品 39 の随所にショパン作品からの色濃い影響と見られる
箇所があり、曲集全体が朧げにショパンのメドレーの様相を呈している。これは、ピアノ譜から管弦楽化
されたショパンの《葬送行進曲》並びにオルガンによるショパンのメドレーが演奏された、ショパンの葬
儀時の音楽プログラムをなぞるものとも解釈可能である。
以上の議論により浮かび上がる「ある善良な男」をショパンだとする仮説は、作品 39 はショパンの死を
追って始まったアルカンの長い隠遁生活の中で書き上げられた、という伝記的背景とも符合性が高い。こ
うした議論は、単なる一作品の解釈を超えて、アルカンと生前及び死後のショパンとの関係性を解明する
上で検討に値する視点を、音楽的実例をもって提供するものであると期待される。
16
【研究発表Ⅱ】
〈分科会 1〉 美学 2
〈分科会 2〉 西洋美術 2
〈分科会 3〉 写真、映像、舞踊
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10 月 8 日(土)16:50-17:30 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 1〉美学 2
描き始める前に
――『感覚の論理』における創造のプロセス
安藤 勝哉(京都大学)
本発表では、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)がフランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1909-1992)
の絵画を分析した著作『感覚の論理』(1981)の中で提示される、ドゥルーズの創造行為論を扱う。そのなか
でもとりわけ、描き始める前の準備段階において画家が「蓋然性」を逃れるべきだとドゥルーズが述べて
いることに着目し、その必要性をドゥルーズのヒューム論である『経験論と主体性』(1953)を経由すること
で明らかにする。これにより、創造行為における「偶然」に対するベーコンの考えをドゥルーズがどのよ
うに意味づけ、評価しているのかを明らかにすることが本発表の目的である。
ドゥルーズは『感覚の論理』において、ベーコンの絵画で描かれる形象や輪郭は、目に見えない時間や
力の表現なのだと述べている。これまでの先行研究においては、ベーコンの創造プロセスのうちでも、力
や時間を可視化する描く行為自体が注目されてきた。しかし、同じく創作に「偶然」を取り入れたポロッ
クやデュシャンといった他の芸術家ではなく、ベーコンの方をドゥルーズが評価した理由を理解するため
には、描く行為それ自体ではなく、描く以前の準備段階にこそ注目する必要がある。ドゥルーズは、描く
以前の準備段階で画家が「蓋然性が不等であることを確信する」ことの必要性を提起しており、ベーコン
はこの確信があったからこそ「偶然」を捉えることができたとしているからだ。しかしなぜそれが必要で
あるのかは、
『感覚の論理』の中ではそれほど詳しく述べられているわけではない。これを明らかにするた
めには、ドゥルーズがヒューム哲学を論じた『経験論と主体性』において蓋然性について言及されている
点に注目する必要がある。ここでドゥルーズは蓋然性を経由して信念を得ることの必要性を説いているか
らだ。この『経験論と主体性』における蓋然性の考察を通して、描く以前の準備段階における「確信」の
必要性も明確になり、それにより、これまで論じられてきたベーコンにおける「描く」という行為それ自
体の意味を捉えなおすことも可能になる。
以上のようにして本発表では、ドゥルーズが蓋然性に言及するヒューム論を参照点として、画家が描き
始める前に必要だとみなす準備段階における蓋然性からの逃走の内実を明らかにすることを目指す。それ
により絵画において偶然を取り込むことの意味や、絵画に偶然を取り込むための方法を見出すことができ
るだろう。
18
10 月 8 日(土)17:35-18:15 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 1〉美学 2
ジャック・ランシエールのモダニズム/ポストモダニズム観とその射程
鈴木 亘(東京大学)
現代フランスの哲学者ジャック・ランシエール(Jacques Rancière, 1940-)の美学的業績の一つに、西洋美
学史・芸術史の読み直しがある。彼は 18 世紀末から現代に至るまでの、芸術を芸術として同定する思考の
枠組みを「美学的体制 régime esthétique」と規定する。それは、アリストテレス以来の「表象的体制 régime
représentatif」——真実らしさや筋の優位、主題に応じたジャンルの階層的区分といった規範によって芸術
が同定される体制——とは異なって、前もって定められた規則ではなく、個々の作品が有する特異な存在
様態によってのみ芸術が芸術とみなされる体制である。こうした歴史記述は、モダニズムやポストモダニ
ズムといった芸術史の短期的な区画に抗し、それら諸時代に通底する(幾つかの先行研究の言葉を借りれ
ば)
「長期持続」を探る試みと言える。
ランシエールの枠組みでは、芸術の自律性を主張するモダニズムの芸術論も、反対に芸術の「大文字の
他者」などに対する倫理的他律性を主張するポストモダニズムも、
「美学的体制」に通底する自律性と他律
性をめぐる「矛盾」を取り逃している点で批判の対象となる。こうした彼の歴史観それ自体は頻繁に言及
されるものの、それが実際のモダニズム/ポストモダニズムの言説のいかなる点を刷新しうるか、という
ランシエールの当初の動機に基づいた分析は少ない。本発表が問題にするのはこの点である。まず、
『感性
的なもののパルタージュ』
(2000)と『美学への不満』
(2004)第一章を検討し、この批判と、代わって提
示されるランシエールの芸術史観の内実とを整理する。次いで、
『イメージの運命』
(2002)と『美学への
不満』における、グリーンバーグとリオタールに対するランシエールの批判を読解する。モダニズム/ポ
ストモダニズムの代表的論者である彼らの思想が、ランシエールによりいかに読み直され、彼自身の芸術
史に組み入れられるのかを、その妥当性も含め検討する。
第三に、ランシエールのかかる芸術史観が既存の言説に対して有する差異ないし優位性を吟味する。こ
こで手がかりとするのは、リオタールが『こどもたちに語るポストモダン』において、ポストモダンの使
命を見出し称揚したニューマンらの崇高な芸術作品に対置させ、
「リアリズム」と呼んで糾弾した、折衷主
義的なポストモダン芸術である。ランシエールが「美学的体制」を現代までのあらゆる芸術事象を規定す
るものと見るとき、リオタールの批判した後者のポストモダン芸術もまた、ランシエールにおいては「美
学的体制」を体現し、かつ積極的な意義を持つものとみなすことができる。この次第を、
『美学への不満』
や『解放された観客』
(2007)での批評文を取り上げることで、明らかにする。
以上を通じて本発表が最終的に目指すのは、グリーンバーグやリオタールを乗り越えようとするランシ
エールの芸術史観が、現在も含めた実際の芸術史を捉える上でどれほどの有効性を持つのか、その射程を
見極めることである。
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10 月 8 日(土)18:20-19:00 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 1〉美学 2
「凌駕しえない充実」と「絶対的な充実」
大道 周作(東京藝術大学)
メルロ=ポンティは、
『知覚の現象学』において絵画を例証として知覚論を展開しており、
「セザンヌの
疑惑」においては、この知覚論に基づいて絵画論を展開している。しかしながら、このように絵画論が知
覚論に根差したものであるとは言え、彼において、画家を含めたすべての知覚経験が同一に考えられてい
たわけでは決してない。本発表は、上記の両著作の各々で共に用いられている、形容詞を伴った二つの「充
実」概念、すなわち「凌駕しえない充実」と「絶対的な充実」という二つの概念に焦点を当てることによ
って、メルロ=ポンティが論じる画家の知覚経験における二つの側面を示すことを目的とする。
彼は、古典的な心理主義における「物」の知覚、すなわち「刺激と要素的知覚との間の一対一対応およ
び恒常的な連結」という「恒常性仮説」を批判し、いわゆる共感覚体験のなかで与えられるような「知覚
的両価性」や、感覚と世界との「コミュニオン」を前提とした知覚経験においてとらえられた「物」の在
り方を「充実」という概念を用いて論じている。このことは、知覚経験における「物」を身体の相関者と
して規定することを意味するのであり、その場合の私とは、判断や態度決定を伴う私ではなく、
「既に世界
に加担しているもうひとつの自我」である。このような自我にとって物は「凌駕しえない充実」において
とらえられる。この「凌駕しえない充実」は「現実の定義」に他ならないものであり、セザンヌの絵画は
「凌駕しえない充実」を備えたものである。しかし、画家は「私がそれに対して責任を持ち、また私がそ
れを決断するところの存在」でもなければならず、この側面においては、物は「絶対的な充実」において
とらえられる。すなわち、
「物がそれを知覚する当の人物に物自体として現れる」のである。この「絶対的
な充実」においては、画家は、物の表情を人間の言語ではなく「物そのものの言語」としてとらえる。こ
のことは、メルロ=ポンティがセザンヌの絵画を「人間が未だいなかった前世界」
、
「非人間的な自然」と
語る所以でもある。この「絶対的な充実」における知覚経験は、画家が行う動作のすべてにおいて作用す
るただ一つの動機なのである。
上記の「絶対的な充実」に関する議論は、
「即自がわれわれにとって存在するのはどのようにしてである
か」という、
『知覚の現象学』の序盤で既に提示されている基本的な問題の延長線上にあり、この問題は同
著の最終部である「コギト」や「自由」において論じられる超越論的領野の問題へと向けられている。ま
た「セザンヌの疑惑」が主題とするのは画家の「自由」である。したがって、メルロ=ポンティの絵画論
においても超越論的領野を検討することは極めて重要であり、本発表における論点は、この問題へと繋が
るものでもある。
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10 月 8 日(土)16:50-17:30 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 2〉西洋美術 2
ピエール・ボナールの〈クリシー広場〉連作に関する考察
――カイユボット受容とナビ派の装飾理論の乗り越え――
吉村 真(早稲田大学)
ピエール・ボナール(1867-1947)は、画業初期の 19 世紀末から 20 世紀初頭に絵画の装飾化を標榜し
たナビ派の中心メンバーとして活動したが、このグループでの中では特異な存在であったと見なしうる。
なぜならグループの理論的指導者セリュジエやドニが宗教的主題を好んだのに対し、ボナールは世俗的主
題、とりわけ同時代パリの都市的情景に熱中していたからであり、また 1895 年頃よりナビ派が批判した
印象派へと接近していったからである。本発表は 1895 年頃から 1912 年頃に断続的に制作されたクリシー
広場を舞台とする絵画群を取り上げ、そこに印象派の画家カイユボットの《パリの通り、雨》
(1877)の受
容を読み取りつつ、ボナールがナビ派的装飾性を乗り越える過程について再考するものである。
ボナールとカイユボットの親縁性はすでに複数の主題に関して言及されており、
〈クリシー広場〉連作と
《パリの通り、雨》についても、前景で手前に向かって歩く通行人の足を画面下端で切り取る構図の類似
などがナッシュやコステーネヴィッチの研究で指摘されている。しかしその分析は簡略で、両画家のつな
がりが十分検討されているとは言い難い。一般にボナールのナビ派からの脱却とは、曲線的輪郭でフォル
ムを固定し秩序づける装飾的様式から、粗い筆触で対象を大気にぼかす様式への移行と見なされている。
それゆえボナールに影響を与えた画家としてよく挙げられるのは、同じ印象派でもアカデミックな仕上げ
を想起させるカイユボットではなく、筆触分割を駆使したモネとピサロであった。だが発表者は、1894 年
にボナールがデュラン=リュエル画廊のカイユボット回顧展で《パリの通り、雨》を見る機会をもっていた
こと、及びこの作品と共通の構図が〈クリシー広場〉連作では反復して用いられていることを考慮し、本
作品がボナール芸術の変化にとって重要な触媒となったと仮定する。
本発表ではまず《パリの通り、雨》を分析し、カイユボットが上述の構図と線遠近法の誇張によって近
代化された街路における歩行の空間的・時間的感覚を表象するとともに、人物や乗り物の動きを整理する
ことで画面に幾何学的な秩序を付与している点に着目する。その上でボナールの〈クリシー広場〉連作を、
1906 年を境に二群に分けて比較し、以下の指摘をする。すなわちボナールは 1895-1906 年までの第一群で
カイユボットから学んだ歩行の空間的・時間的な感覚を導入することで、平面性と無時間性をア・プリオ
リな制作条件とするナビ派の装飾理論を和らげた。そして 1906-12 年の第二群においては人物や乗り物の
動きを多方向に分散させることで、カイユボット的な秩序からも離れ、都市の喧騒を生き生きと表象する
と同時に、事物の動きとともに色斑がオール・オーヴァーに広がる新しい無秩序な装飾性を獲得したので
ある。
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10 月 8 日(土)17:35-18:15 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 2〉西洋美術 2
フルクサスにおける「イヴェント」再考
――ジョージ・ブレクトの実践を中心に
小野寺 奈津(慶應義塾大学)
一九六〇年代初頭、ジョージ・マチューナス(一九三一~一九七八)によって組織された芸術運動フル
クサスは、
「スコア」と呼ばれる指示書をもとに行う「イヴェント」を上演するコンサートの開催を活動の
中心とした。とりわけ、フルクサスの主要作家に数えられるジョージ・ブレクト(一九二六~二〇〇七)
は一九五九年から一九六二年にかけて「スコア」を集中的に制作し、
「イヴェント」を概念として確立させ
たことで知られている。しかし、同時期にはその他にも「ハプニング」といったパフォーマンスを主軸と
した動向が起こっており、
「イヴェント」という言葉も時に誤解を含みながら普及していった。そのため、
ブレクト自身による「イヴェント」の成立過程は未だ検討の余地があり、またブレクトを論じた先行研究
は存在するが、フルクサスにおける位置付けは不明瞭である。そこで本発表ではブレクトによる「イヴェ
ント」の意義を明らかにすることを端緒として、フルクサスにおける「イヴェント」について再考する。
まずブレクトによる手稿および出版物をもとに「イヴェント」が単に出来事を意味する言葉から、概念
として確立するまでの経緯を検証する。ブレクトはジョン・ケージの授業を受講したことから音楽作品と
して「スコア」の制作を開始するが、オブジェを取り入れた初個展を経て、鑑賞者の聴覚だけではなく「全
感覚的な経験」を引き出す「イヴェント」を試みるようになる。最終的に鑑賞者自身が日常生活において
「スコア」を発端に、物事の状況を偶然性のなかで捉えるだけでも「イヴェント」の実演と見なされるよ
うになり、意味の推移が見られる。ブレクトにとって「イヴェント」とは、鑑賞者が様々な感覚を研ぎ澄
ますことで得られる全ての経験を芸術体験として置き換えることを意味していた。ここから、ブレクトは
生活こそが五感を総合的に働かせることが出来る状況だと考えていたと推測される。
マチューナスは一九六五年に記したフルクサスのマニフェストにおいて、鑑賞者自身が日常生活のなか
で芸術体験を得ることを目指しており、晩年にもブレクトの「イヴェント」をその例として挙げていた。
本発表では上記の考察を経て、フルクサスの「イヴェント」がコンサートにおいて上演されていた点、ま
た実験音楽の延長として捉えられてきた点について再考を促す。そこから、コンサートでは鑑賞者が限定
的な鑑賞体験のみに終始してしまっていたことを浮き彫りにする。この分析を踏まえ、ブレクトが提示し
た「イヴェント」こそが、本来マチューナスがフルクサスにおいて目指した「イヴェント」の在り方であ
ったと位置付ける。さらに、マチューナスは当時の美術動向において芸術と生活が隔てられていく状況を
問題視しており、ブレクトの「イヴェント」を解釈することを通じて、フルクサスが時代に退行するよう
な、芸術復古運動としての性質を持っていた可能性について指摘したい。
22
10 月 8 日(土)18:20-19:00 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 2〉西洋美術 2
クリストとジャンヌ=クロードの芸術活動におけるクリストのコラージュをめぐって
日置 瑶子(京都大学)
本発表は、現代美術のチーム「クリストとジャンヌ=クロード(Christo&Jeanne-Claude)
」のひとり現代
美術家クリストのコラージュ(Collage)に関するものである。本発表では、チームの芸術活動の一環として
クリストがプロジェクト実現まで制作するコラージュが、各プロジェクトを経るに従い独自の変遷を辿っ
た過程を論じる。
クリストとジャンヌ=クロードは、一般に梱包の作家、アースワークやランドアート、環境芸術の作家
として紹介されてきた。クリスト(Christo, 1935-)は、2009 年に現代美術家ジャンヌ=クロード(JeanneClaude, 1935-2009)亡き後も、ジャンヌ=クロードの生前から計画中のプロジェクトの実現に向けて活動中
だ。彼は 1958 年にパリに移り芸術活動を単独で始めた戦後の美術を代表するひとりで、彼が単独で制作し
た初期の作品は物を布で包んだ「梱包」
「包まれたオブジェ」シリーズと呼ばれ、彼の代表作だ。クリスト
とジャンヌ=クロードの芸術活動は初期クリスト単独のものとは別であり、彼らの芸術活動においてはプ
ロジェクトの準備から実現までが芸術作品だ。
クリストはプロジェクトの実現までのあいだ、自分たちのプロジェクトのためにコラージュを制作して
きた。そのコラージュは、大小さまざまであり、パステルなどで色づけされたドローイング、プロジェク
トが実現される予定地を写した写真、文章などで構成されている。
これまでクリストのコラージュは、たとえば美術史家ポーラ・ハーパーが、
「
《ゲート》の資金調達」
〔2005〕
において、
《ゲート、セントラル・パーク、ニューヨーク、1979-2005》
(以下、
《ゲート》
(1979-2005)
)に
関する資金調達について述べるなかで、彼らが「コレクター、ギャラリー、美術館へ彼〔クリスト〕のド
ローイング、コラージュ、リトグラフ版、初期の彫刻を売ることで《ゲート》の支払いをした」と触れる
にとどまる。さらに、クリストとジャンヌ=クロード研究では「プロジェクト」の形成に関して(長谷、
1998)やクリストの美術教育歴に着眼点が置かれ(ブーイエ、 1986)
、コラージュはチームの芸術活動に
関わっていながら検討対象として注目されなかった。
本発表では、コラージュの特徴を明らかにするための手段として、まず《ゲート》
(1979-2005)に関する
コラージュ群を挙げ、当時の彼らの活動に触れつつ制作年代順に比較検討し、
《ゲート》実現までのコラー
ジュの変化を考察する。その際、コラージュを構成するもののひとつドローイングに着目し、布と後景の
描き方を軸に展開を追う。次に《ゲート》
(1979-2005)と制作期間が重なる別のプロジェクトのコラージュ
群に触れ、プロジェクト同士のコラージュを比較検討することで、クリストのコラージュに通底する特徴
を明らかにすることを目指す。以上をとおし、本発表はクリストのコラージュの芸術性に着目し、先行研
究ではほとんど述べられてこなかったコラージュを対象に、芸術活動のための資金調達という経済性とは
別の意義を今後検討するためのものである。
23
10 月 8 日(土)16:50-17:30 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 3〉写真、映像、舞踊
スティーグリッツのキュビスト的視点
――291 ギャラリーの『ピカソ―ブラック展』(1914-15)インスタレーション写真を中心に
宮本 康雄(一橋大学)
20 世紀初頭、写真雑誌『カメラワーク』
(1903-17)を刊行し、
「291」
(1906-17)の愛称で親しまれたニュ
ーヨーク 5 番街のギャラリーを拠点としつつ、ヨーロッパ現代美術をアメリカ国内に先駆けて紹介したア
ルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)は、写真家、雑誌編集者、ギャラリー・オーナーといった肩
書だけでは語りつくせない人物である。
本発表は、彼の人物像に迫る研究の一端として、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発した年に、同ギャ
ラリーで開催された「ピカソ―ブラック展」の展示風景を捉えたスティーグリッツの写真をとりあげる。
この写真には、スティーグリッツが「ピカソの最重要作品」と評したパピエ・コレとアフリカのコタ族の
守護像がギャラリーの同一壁面上に展示され、その側に台座に据えられたスズメバチの巣を配した珍しい
光景が捉えられている。とりわけ後のキュビスム研究で指摘される、記号表現としてのアフリカ彫刻とキ
ュビスム作品との構造上の影響関係[カーンワイラー 1948、ボア 1987]を示唆したこの展示風景は、当
時のアメリカでは未だ目新しいものであった。先行研究において本作は、実際の展示とは異なる私的な演
出写真の可能性が指摘されてきた一方で、最近では、同時期に撮影されたスティーグリッツ作品との関係
において、彼のキュビスム受容の観点から、重要な足跡として再評価されてきている[シャノン 2000、グ
リーノー 2002]
。
上記の先行研究を踏まえつつ、本発表では、これまで等閑視されがちであった『カメラワーク』
(1916)
に掲載された同一主題の写真にも注目し、アフリカ彫刻とパピエ・コレとの構造上の類似性を捉える中で、
レリーフ状の構造を見出そうとしたスティーグリッツの構図と視点を検証する。このような視点は、ちょ
うどピカソがキュビスムに至る新しい絵画表現を模索するプロセスで、守護像をレリーフとして捉えた可
能性を指摘する考え方と軌を一にするものである[ロード、1968]
。また同時期に撮影された定点観測的な
都市景観の連作写真《291 の裏窓から》
(1915-16)にも同様の視点を見出すことができる。雪や夜のシーン
を選択し、露出を最大限に絞り込むことで、画面全体に焦点が合うように撮影された連作では、画面中の
複数のビルが互いに貫入することで形成されるレリーフ状の構造物として、カメラに対して対角線上にあ
るビル群が捉えられている。
一連の考察を通して、スティーグリッツは写真によって自らの拠点である 291 ギャラリーの内部と外部
を再定義する中で、キュビスム作品を受容し、その自伝的ともいえる写真表現においてキュビスト的視点
を確立したことを明らかにする。
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10 月 8 日(土)17:35-18:15 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 3〉写真、映像、舞踊
彼女の人生を生きる
――原一男監督『極私的エロス・恋歌 1974』をめぐって
今村 純子(東京藝術大学)
『極私的エロス・恋歌 1974』
(1974)は、原一男監督の代表作『ゆきゆきて、神軍』
(1987)や『全身小
説家』
(1994)と同様、被写体の滑稽さと狂気の交差する点を浮き彫りにすることで、別の言い方をするな
らば、滑稽さと狂気を中和させることによって、被写体が自らの個性と資質を手放さずに、そしてまた、
自らが置かれた社会的・歴史的条件を見据え、自らの人生を愛する「やわらかい心」で生きる姿を、高い
純度で映し出している。だが本作品は、その後、原が手掛ける一連のドキュメンタリー映画とは一線を画
している。それはこの映画が、その後の作品には決して見られない、映画の作り手と被写体とのあいだの、
性愛、嫉妬、猜疑といった様々な階層における「エロス的交感」を、それが肯定的なものであれ、否定的
なものであれ、繊細に、克明に映し出し、それが 90 分間の流れのなかで、たえず、たゆまず、作品の主旋
律を奏でている点である。このことが、映画を観る者の「生の創造」を否応なく触発するがゆえに、わた
したちはこの映画に接する直中で、他の誰でもない、
「わたしの人生を生きる」ということについて思考せ
ざるをえなくなってくる。ここに、映画の作り手による「映画の創造」と、わたしたちひとりひとりがそ
の担い手である「生の創造」とが共振し、胎動する場所がひらかれるのである。
監督のかつての恋人である被写体が「彼女の人生を生きる」ために、女手ひとつで子どもを育てる、東
京から沖縄に移住する、白人から差別を受ける黒人を恋人に選ぶ等、あえてより不利な立場に身を置くと
いう逆説は、自らの精神においてのみならず、自らの生身の身体を通して、世界からの様々な傷を引き受
けてゆくことでもある。そこで被写体が経験するのは、自らが被っているのと同種の暴力の加害者に自分
がなりうるという眩暈である。このかぎりなく個的な経験を描き出すことで、映画は、被害者と加害者、
弱者と強者が、つねに表裏一体であり、いつ逆転してもおかしくない緊張のもとにある普遍的な問題を、
ジェンダー、国籍、地域といった差異を通して映し出してゆく。このとき、かぎりなく「私的」であるこ
とがかぎりなく「詩的」であることへと、見ること(美学)が創ること(詩学)へと転換されてゆく。そ
れゆえこの映画の詩性は、映画を観る者に対してもまた、自分自身の生を震わせ、目醒めさせざるをえな
いのである。
本作品は、従来、衝撃的な自力出産シーンに象徴される、私小説的映画としての側面から高い評価を受
けてきた。本発表では、同作品における「芸術の創造」と「生の創造」との類比関係に焦点を定め、弱い
立場に置かれた人が受ける世界からの侮辱や軽蔑といった傷が、いったいどのようにして「生の創造」を
肯定的に促す起爆剤となりうるのかを、映画という時間芸術特有の表情、吐息、沈黙に着目することを通
して、あきらかにしてみたい。
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10 月 8 日(土)18:20-19:00 【研究発表Ⅱ】
〈分科会 3〉写真、映像、舞踊
土方巽の暗黒舞踏における象徴としての「東北」
――パースの記号論的な観点に即して――
李 裁仁(東京大学)
本研究は、日本の前衛舞踊である土方巽(1928-1986)の「暗黒舞踏」
(以下「舞踏」
)を研究対象とし、
舞踏作品に見られる諸特徴を記号論的な観点から捉え直すものである。舞踏とは、1950 年代末から 1960 年
代にかけて、土方によって創始された日本の新しいダンスである。初期の舞踏は、従来のダンスにおける
諸規範や様式、そして物語の再現ないしは感情表現の媒体としての身体の使用を拒む「反舞踊」として特
徴付けられ、日本の 20 世紀ダンス史上、大きな意義を持つものと評価されることになった。このような舞
踏は 1960 年後半に入ると、そのスタイルを変化させ、以前には見られなかった「東北」的な要素、すなわ
ち土方の故郷である秋田を想起させるような舞台装置、音響、動作などが舞台上に登場するようになる。
本研究では、土方の舞踏における諸特徴の中でも、とりわけこの「東北」に注目する。
土方と同時代の多くの舞踏評論家たちは、舞台上に現れた「東北」を、
「日本人」という自らの出自に対
する土方の表明として評価した。すなわち、西洋のダンスが主流であった当時の日本において、後期の舞
踏作品は土俗性という特徴を帯びるダンスとして高く評価されたのである。しかしながら、このような本
質主義的な解釈によれば、前衛ダンスとしての舞踏における「東北」は、単なる民族性や土俗性の表象と
して意味付けられ、表現主義を乗り越えるダンスである舞踏が再びモダンダンスへ還元されてしまうと発
表者は考える。というのも、土方の多くの言説や講演から読み取れる「東北」とは、批評家たちの語るよ
うな土方の出自の表明としての「東北」にとどまらないと思われるからである。
本研究はこのような問題意識から出発し、後期舞踏の「東北」をめぐる議論を検討することで、
「東北」
の持ち得る多様な意味を明らかにすることを目指す。分析に際しては、とりわけパース(Charles Sanders
Peirce, 1839-1914)の記号論を枠組みとして用いる。記号論的な枠組みから分析することは、土方の身振り
を一つの記号として理解し、その身振りが指し示す意味をより分析的で反省的に捉えようとすることを意
味する。パースは記号とそれの指示する対象との関係について「類似記号」
、
「指標記号」
、
「象徴記号」と
いう三つを区別するが、これを舞踏の動作に当てはめるならば、
「東北」とは、実際の東北に見られる人々
の身振りに類似しているのみならず、土方の身体にある「不安」の指標としても機能し、さらには人間の
本質としての「不自由さ」を象徴する媒体であると結論される。
本研究のこのような記号論的な考察は、
「東北」をめぐる既存の議論に記号論的な方法を当てはめるのみ
ならず、舞踏の記号論的な意味体系を明らかにすることで、
「東北」の表象という本質主義的な視点に偏っ
ている従来の画一的な舞踏作品の解釈の枠組みを超え出、
「東北」に対して論じられなかったより豊富な議
論の可能性を開くものであると考えられる。
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【若手研究者フォーラム】
〈分科会 1〉 西洋美術A
〈分科会 2〉 西洋美術B
〈分科会 3〉 芸術理論
〈分科会 4〉 写真、映像、音楽
〈分科会 5〉 現代芸術の展開
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10 月 9 日(日)9:30-10:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 1〉西洋美術A
G. F. ワッツの〈顔の表情を隠す〉表現
岡田 実沙子(成城大学)
唯美主義または象徴主義の先駆けとして、近年その評価を高めつつある 19 世紀イギリスの画家のジョー
ジ・フレデリック・ワッツ(George Frederic Watts, 1817-1904)は、しばしば画中の人物を、顔やその表情を
見せない姿で描いている。これまでこの特徴については、身体による感情表現を強調している、と指摘さ
れてきたものの、その表現の成立や展開については十分な考察がされていない。しかし、この特徴が見ら
れる絵画作品について検討してみると、表現の成立と意図、その後の展開を明瞭にすることができる。
顔やその表情を隠す特徴がはじめに現れるのは、画家の前半期の油彩画《サタン》
(1847-48 年)である。
大画面にサタンの胸像をクローズアップして描くこの作品では、サタンは顔を不自然なまでに後方に反ら
し、鑑賞者から表情を隠している。極度の身体のひねりと画面に広がる大きな身振りには、制作前にイタ
リアで目にしたシスティーナ礼拝堂の天井画からの影響が認められ、エルギン・マーブルから学んだ豊か
な身体の量感表現をより強調させてもいる。また一方で、その着想源として挙げられる、ウィリアム・ブ
レイクによる『ヨブ記』挿絵のサタンと、ジョン・マーティンによる『失楽園』挿絵のサタンが、顔を見
せない後ろ姿で描かれていることにも注目したい。
《サタン》制作と同時期に、ブレイクらによるサタンに
酷似した、ワッツ筆のデッサンが確認できることからも、彼らの作品を参照したことで、顔の表情を隠す
身振りが生まれたのだと考えられる。
しかしながら《サタン》制作後の 10 数年間、ワッツの作品に顔の表情を隠す表現を見出すことは出来な
い。それが復活するのは、1860 年代後半になる。ワッツはそれまでの期間に、諸外国の芸術と出会い、19
世紀後半のイギリス画壇の新しい動きに押されるかたちで、新たな絵画表現を志す。そして、ミケランジ
ェロや古代ギリシア彫刻の身体表現に再び強い関心を寄せ、それを反映させるひとつの手段として、顔の
表情を隠す表現に再び取り組むことになったと推察される。極度に顔を反らす、背を向けるという身振り
が頻出するようになり、晩年にかけては、顔の表情を筆遣いによってぼかし、さらにドレーパリーを多用
して身体の量感や運動性を強調するようになるのである。
これまで、顔の表情を隠すという特徴は、個々の作品の解説の中で言及されるにとどまり、それ以上追
究されることはなかった。だが、顔の表情を隠す表現は、ミケランジェロや古代ギリシア彫刻の身体表現
に対する関心を踏まえて、徐々に表現の幅を広げて確立された手法と考えられるのである。顔の表情を隠
す表現は、ワッツが明確な目的を持って生涯に亘って取り組んだ、重要な感情表現の試みのひとつとして、
改めて評価される必要があるだろう。
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10 月 9 日(日)10:00-10:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 1〉西洋美術A
モーリス・ドニ作《バッカス祭》における 3 人の人物像を巡って
森 万由子(早稲田大学)
本発表では、19 世紀末から 20 世紀前半にかけてフランスで活動したナビ派の画家、モーリス・ドニ
(Maurice Denis, 1870-1943)の《バッカス祭》に見られる彼独自の表現を指摘し、同作品の解釈を試みる。
《バッカス祭》は、1920 年、スイス、ジュネーヴの毛皮店「ベンガル虎(le tigre royal)
」からの注文を受
け制作された。ブリヂストン美術館所蔵の同名の作品はパネル制作のための下絵であり、完成作の装飾パ
ネルは新潟県立近代美術館に所蔵されている。このように下絵、完成作の両方が日本に渡っている貴重な
作例であるにも関わらず、両作品はともに、これまであまり詳細な研究の対象にはなってこなかった。し
かし日本で最も早く展覧会に出品されたドニの作品という点でも、十分に研究の意義があると考えられる。
本作では、特に画面前景の 3 人の人物に着目することで、単なる神話画の枠を越えた解釈が可能である。
発表者は、ドニが描いた他の作品との比較から、そこに見出せる人物を、ドニ自身の 2 人の息子と妻マル
トの肖像であると考える。ドニは私的な作品においてのみならず、注文を受けて描いた作品の中にも、こ
のように身の回りの人物を描き込むことがあった。
ここではキリスト教主題の導入も指摘できる。ドニは幼い頃より敬虔なカトリック教徒であり、少年か
ら青年期にかけて美術館に通い特にルネサンス以前の宗教画に深い感銘を受けていた。また 1895 年以降は
繰り返しイタリア旅行に出かけ、同地で多くの作品を目にしている。そのような背景から、宗教画に限ら
ず絵画を描く際、まず彼の中にキリスト教主題に見られる構図が浮かぶのは自然なことであったと考えら
れる。本作において、2 人の子どもの体格差から連想されるのは、赤子のイエス・キリストと洗礼者ヨハネ
であり、年少の子どもに寄り添うのは聖母マリアである。風俗画として描かれながら、構図や人物同士の
関係性にキリスト教の場面が喚起される作品をドニは多く制作しており、ここでも神話画の中に描きこん
だ家族の姿に、さらにイエスや聖母のイメージを重ねたものと解釈できる。
先行研究において指摘されるように、ドニは宗教画に身近な人物の面影を重ねる、あるいは逆に家族の
肖像といった風俗画にキリスト教主題を重複させる手法により、聖俗の境界を越え愛するものの姿を描い
た。本作においては、そこに神話という新たな要素が加わることで、主題を重層化するドニの表現は、さ
らに独自性を増した特異なものに高められていると考えられる。
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10 月 9 日(日)10:30-11:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 1〉西洋美術A
アルフォンス・ムハ「スラヴ叙事詩」における写真の役割
中村 有里(関西学院大学)
アルフォンス・ムハ(1860-1939)は生涯で少なくとも 1500 点の写真を撮影した。パリで装飾画家とし
て活躍していた頃のムハは、即興でポーズをとるモデルを撮影している。彼はこれらの写真から適当なも
のを選び、下絵として作品に利用していた。その後の「スラヴ叙事詩」の制作時期(1912-1926)には、彼
はむしろモデルにポーズを指示するようになる。この頃のムハはアトリエのあったズビロフ城近郊に住む
人々に様々な衣装を着せて写真を撮影し、
「スラヴ叙事詩」のデッサンに用いていた。また、ムハは撮影自
体にも時間をかけるようになった。
「スラヴ叙事詩」とほぼ同時期にチェコの歴史を題材にして制作された
プラハ市民会館の市長ホールの壁画には、写真はほとんど利用されていない。
「スラヴ叙事詩」の制作にお
いて、このように写真が利用された理由は、どこにあるのだろうか。
佐藤智子が指摘しているように、ムハが 1894 年にパリのアトリエでカルノー首相の葬列を見下ろして撮
影した写真では、被写体の構図がそれまでのクロースアップからロングショットへと、すでに変化しはじ
めている。この変化によってもたらされたのは、ニュース映像に見られるような事件性を強調する視覚効
果である。写真におけるこのような変化は絵画作品にも見られる。たとえば、パリ時代の《ジスモンダ》
などに見られる単独の女性を中心とする構図は、
「スラヴ叙事詩」ではロングショットによる表現に取って
代わられた。このようにムハは絵画にも写真と同じように、事件性を伝えるような視覚効果を求めたと考
えられる。
また、ムハは写真に映し出される人物の動きにも注目している。ドミニク・ド・フォン=レオは、
《ルヤ
ーナ島のスヴァントヴィト祭》の画面下部に描かれた少女たちの姿に、アトリエで踊っている瞬間を撮影
した痕跡を見て取った。また、ムハは 1913 年に、
《ロシアの農奴解放》の制作のためにモスクワへ取材旅
行をしている。そこで彼は現地の人々のスナップショットを撮影した。少女たちや取材旅行先の人々には、
長時間同じポーズを取らせることはできない。ムハは絶えず変化する動きを捉える写真をもとに描くこと
で臨場感を出し、観者が歴史の一場面に立ち会っているような感覚をもたらそうとしていると思われる。
先行研究では被写体の動きの表現について言及されてはいるものの、絵画作品にどのように利用されて
いるのかについては、十分な分析が行われているとは言い難い。本発表ではムハによる写真撮影と絵画制
作の変遷をたどり、その双方に見られる動きの表現を比較する。それとともに、
「スラヴ叙事詩」における
ムハが、構図を変化させることによって歴史的事実を目の前で再現しようと試みていたことを明らかにす
る。また、写真による動きの効果が、いかに「スラヴ叙事詩」に臨場感を与えているかについても画面の
分析をもとに検証したい。
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10 月 9 日(日)11:00-11:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 1〉西洋美術A
クールベの画業における地方展覧会の位置付け
――サント市絵画版画彫刻展(1863)に関する一考察――
高野 詩織(一橋大学)
レアリスムの画家ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)は、印象派の画家たちに先駆け
てパリで 2 度の個展(1855、1867)を行ったことで知られるように、展覧会制度に強い関心を寄せた画家
である。クールベは、権威あるサロンを積極的に利用し、
《オルナンの埋葬》
(1849-50、オルセー美術館)
をはじめとする大画面構図で注目を集めた。ところが、このようなサロン出品作が、その後に国内の地方
都市でも展示されていたという事実は、あまり知られていない。当時、地方展覧会のために必ずしも芸術
家は現地に赴かなかったが、特に画業後期のクールベは、会期中自ら地方の開催地に足を運ぶことがあっ
た。その目的は従来、新たなパトロンの開拓にあるとされてきたが、そのために展覧会が果たす役割につ
いて具体的に論じられることは少ない。
1863 年にサント市で開催された絵画彫刻版画展は、クールベの現地滞在時に開催された数少ない地方展
覧会の一つである。大西洋岸に位置する都市サントで、クールベは現地の芸術家らと展覧会を計画し、カ
ミーユ・コロー(Camille Corot, 1796-1875)を含む 5 人の芸術家の作品 200 点ほどが、同市役所で展示され
ることになった。クールベはここで絵画 43 点と彫刻 2 点を出品しており、その数量は、画家存命中の展覧
会としては個展に次ぐものである。また、その内容も、現地の地方風俗に取材した《女羊番、サントンジ
ュ地方の風景》
(1862 年、旧村内美術館コレクション)をはじめ、人物画から風景画、彫刻まで多岐に渡っ
ている。こうした事情を考えると、地方で行われたとはいえ、本展は、クールベの画業における一つの到
達点にあると言える。
本展の主たる先行研究としては、クールベのサント周辺での滞在に関するロジェ・ボニオの包括的研究
(1973)がある。彼の研究では、未刊行物を含む一次史料を基に展覧会の再構成が試みられているが、画
家自身による作品選定や展示構成の狙いについて見解を示していない。作品を公にするために試行錯誤を
繰り返してきたクールベは、この展覧会をどのように利用したのか。それを考える余地は大いにあるだろ
う。
そこで本発表では、サント市絵画彫刻版画展を、1867 年の第二回個展との繋がりを持った対外的アピー
ルの場として捉え直し、彼の画業に位置付けたい。まずボニオの研究を基に本展を概観した後、クールベ
の出品作品とそれに関する美術批評を分析する。それによって明らかになるのは、彼が、作品選定を自由
に行うことができる状況を最大限に利用し、現地の絵画購入者層に好まれる作品だけでなく、安定した評
価を得ていない実験的な作品をここで展示していたということである。こうした地方展覧会は、パリの展
覧会と同様に、多彩な作品を手掛けるクールベの力量を示すために機能していたのである。
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10 月 9 日(日)9:30-10:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 2〉西洋美術B
フランチェスコ・アルカンジェリ『ジョルジョ・モランディ』についての一考察
――モランディの検閲による削除箇所の検討から――
遠藤 太良(京都大学)
ジョルジョ・モランディは 20 世紀イタリアを代表する画家の一人である。その画業は批評家との関わり
なしには考えられない。彼は自身に関するものを含む多くの批評から様々な影響を受けると同時に、批評
家に自身についてのモノグラフの執筆を依頼しその内容に干渉することにより、いわば自己表象の手段と
しても批評を利用していた。
そうしたモランディと批評家たちとの関わりを考える上で重要な人物の一人が画家の友人でもあった美
術史家フランチェスコ・アルカンジェリである。彼はモランディの依頼によってモノグラフを執筆したが、
そのモノグラフは画家の検閲により多くの部分を削除され、画家の死後まで出版停止に追いやられた。モ
ランディの検閲以前のオリジナルの草稿が出版されたのは 2007 年である。ルカ・チェーザリによるこのモ
ノグラフの序文を除いては削除箇所についての検討はほとんどなされておらず、そのチェーザリによる序
文も概略的なものに留まっている。本発表はこのモノグラフにおける削除箇所を検討することにより、モ
ランディが望んでいた自己表象がいかなるものであるかを明らかにすることを目的とする。それはモラン
ディ研究や 20 世紀イタリアの美術批評について研究する上で重要なものとなり得よう。
まず、削除箇所について検討し、それがいかなる内容であるかについて考察する。続いて、それらを踏
まえた上で、モノグラフにおける削除されてはいないが注目すべき箇所について考察する。これらによっ
て明らかとなるのは以下の二点である。一つ目は、削除箇所はモランディと他者との関わりに関する部分
がほとんどであるということである。その中には、レンブラントやドランなどモランディに影響を与えて
いたとアルカンジェリが考える画家たちの名やブランディなどモランディと親交のあった批評家に関する
記述、トリアッティなど政治家に関する記述が見て取れる。二つ目は、アルカンジェリのモノグラフに多
く見られるモランディの「不定形」の作品を評価する記述が削除されていないということである。以上の
ことから、モランディがこのモノグラフを拒絶したのは、他者との関わりについてのアルカンジェリの記
述が意に沿わなかったためであり、
「不定形」を評価する記述をしたためではないと考えられ、彼が望んで
いた自己表象は「不定形」の作品を含むモノであるといえる。
これまでの研究において、モランディは自身の「定形」の作品のみを重視し、
「不定形」の作品について
は積極的に評価しようとしてこなかったとされてきた。アルカンジェリのモノグラフにおけるモランディ
の検閲による削除箇所の検討をとおしてモランディの自己表象に「不定形」が含まれることを示す本発表
はそうした状況に一石を投じるものとなり得よう。
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10 月 9 日(日)10:00-10:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 2〉西洋美術B
バルテュス作品における少女イメージ
――絵画とポラロイド写真から――
齋木 優城(東京藝術大学)
バルテュス(Balthus, Balthazar Klossowsi de Rola,1908-2001)は、20 世紀を代表する画家である。し
かし、
「少女」のヌードを扱った作品が猥褻であるとされ、度々規制の対象となってきた。その業績が
高く評価されながら、芸術作品としての作品理解が不安定なものに留まっているのはなぜか。発表者
は、
「少女」のイメージが持つ意味を明らかにすることで、作品理解がより豊かなものになると考え
た。本発表は、バルテュスの少女イメージの分析を通し作品の芸術性を再考するものである。
まず、バルテュスが表現した少女イメージの意味と独自性を明らかにする。発表者は、先行研究を
踏まえ、
「ファンム・オブジェ(=客体としての女)
」的身体が室内という限定的空間において展開さ
れることで、バルテュスが少女を通して瞬間的な身体を提示していたと考える。ここで述べる瞬間的
身体とは、子どもから大人へと変化する過渡期における非決定的な身体性のことを指す。この身体性
はクールベ(Gustave Courbet,1819-1877)の《眠れる裸婦》
(1858)に由来し、バルテュスは《猫と戯
れる裸婦》
(1949)や《部屋》
(1952-54)といった作品において「投げ出されてある(abandonné)
」ポ
ーズをとった瞬間的な身体を繰り返し提示してきた。発表者は、バルテュスの少女イメージに象徴的
な「瞬間的身体」が絵画と写真に共通していることに着目し、写真作品と絵画作品に登場する少女イ
メージの結節点を考える。
本発表ではこれを踏まえ、バルテュスが撮影した写真が持つ芸術性と、写真作品と絵画の関連性を
考察する。これらの写真は絵画の下絵として撮影されたものだが、2014 年に公開された最新の資料で
あるため、先行研究は十分になされていない。少女イメージに瞬間的身体性を付与した作品は 1940 年
代から発表されており、バルテュスの少女イメージは生涯を通して一貫していたといえる。バルテュ
スの写真作品を写真史の文脈から論じるための切り口として、ロラン・バルト(Roland Barthes,19151980)の『明るい部屋』
(1980)を挙げたい。バルテュスの写真においては、バルトが提示する写真の
ノエマ《それは=かつて=あった》が 2 重の意味(客体としての少女の存在証明と、不定過去を現前
させるための記憶装置)で応用できる。すなわち、絵画に現れた瞬間的な少女イメージが、写真とい
う記憶装置を媒介することで、新たに再現性を得たと考えられる。このことから、バルテュスが絵画
上で求めた少女イメージが、写真によってより強固なものになったといえよう。
以上から、バルテュスは少女に瞬間的な身体性を付与し、写真を介することによってそのイメージ
がより効果的に表現されたことが分かる。本発表を通じて、作品理解に新たな側面が生まれることに
なるだろう。
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10 月 9 日(日)10:30-11:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 2〉西洋美術B
ベルメール作品における文学の外延としての人形
――作家の人形観形成に関する一考察――
原田 紗希(京都市立芸術大学)
ハンス・ベルメールが人形の発表を始めたのは 1934 年のことである。球体関節を持ち、身体の部位を
様々に入れ替えられていたこの人形は彼の代名詞となると同時に、1938 年のシュルレアリスム展パリにお
ける人体表現への熱狂の先駆けとなった。
人型の造形の前例としてはダダの諸作例があり、ベルメールはこれをドイツ時代にすでに知っていたと
思われる。また、人形作家ロッテ・プリッツェルの人形も自らの制作より前に知っており、さらに彼女と
共に見た 16 世紀デューラー派の人形は彼に球体関節の示唆を与えたとされてきた。しかしながら、ベルメ
ールの人形はその制作が始まるや否や身体が奇妙に組み替えられた空前絶後のものとなる。そこには美術
に留まらない着想源があったのではないだろうか。
そこで本発表で注目したいのは、文学や演劇論とベルメールの人形制作の関連性である。従来的には、
ベルメールの人形制作のきっかけとしてホフマンの『砂男』を原作とするオペラ『ホフマン物語』の鑑賞
があげられてきた。その第一幕は主人公が恋慕した人形がばらばらに破壊されるところで終わるのだが、
ベルメールの人形の断片化の始点はここにあると考えることも出来る。また、別れた愛人を模した人形「フ
ェティッシュ」と過ごした逸話を持つココシュカは書簡集『親愛なる M 嬢』を刊行し、ベルメールの興味
を引きつけていた。彼の伝記では、書簡集は人形制作に対する現実的で可能性のある助言で溢れていたと
記される。ベルメールの人形は幼少期の甘美な思い出が作り上げた少女であったが、フェティッシュもま
た幸福な愛人との暮らしを留めるものであった。
さらに、シュルレアリスムに人形が受容される地盤を整えたと思われる文学は他にも指摘できる。例え
ば、ホフマンの『砂男』は 1919 年のフロイトの論文によって分析され、その人形観が 20 世紀へ流入して
いた。また、リラダンの『未來のイヴ』では、人形は貴婦人の人造人間であるが、その姿が終盤に露にな
るまで人形は基本的に組み立てられる前の部品としてしか登場しない。一般的に人形が破壊されることは
あるが、構築される過程を扱うのは稀な表現であり、ベルメールの人形制作過程の写真に通ずるものがあ
る。最後にクライストの『マリオネット劇場』について触れておきたい。人形の無意識と人間に対する優
越を語るこの随筆は、1810 年に出版されたものだが、1969 年にシュルレアリストのヴァレンセイによって
仏訳され、ベルメールが挿絵を寄せて刊行された。シュルレアリストの人形に対する関心が文学にも向い
ていたことがわかる出来事である。
ベルメールの活動時期に美術における人形の隆興があったことは語られてきたが、文学に関してもその
傾向があったことは看過されてきた。ベルメール作品との関連から人形を扱う文学を包括的に精査するこ
とは、作家の人形観を見出す鍵となるのではないだろうか。
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10 月 9 日(日)11:00-11:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 2〉西洋美術B
ライオネル・ファイニンガーのゲルメローダ教会連作
――キュビスム受容から独自様式の確立へ――
佐々木 千恵(早稲田大学)
ライオネル・ファイニンガー (Lyonel Feininger, 1871-1956 年)は、生涯にわたってヴァイマール近郊の小
村ゲルメローダの教会を主題として連作を描き続けた。
様々な技法による作品群のうち、
油彩画 10 点(19131936 年)は画家の代表作とみなされ、しばしば研究の対象となってきた。先行研究ではこれらの作品全体を
解釈し、ドイツ・ロマン主義以来教会のモチーフに付与されてきた精神性の象徴を指摘しているが、本発
表では、連作の最初期である 1913 年に描かれた 3 点に焦点を当て、ファイニンガーのキュビスムへの関心
と反発、さらにそれを契機として独自の絵画表現を模索する過程を検討する。
ファイニンガーは 1911 年にパリで開催されたサロン・デ・ザンデパンダンを訪れ、そこで目にしたサロ
ン・キュビスト、とりわけロベール・ドローネー(Robert Delaunay, 1885-1941 年)から強い影響を受けた。当
時のドイツにおいて、ドローネーはキュビストの代表者として理解され、大きな影響を与えていた。ファ
イニンガーも、ドローネーの作品に特徴的な、光線で対象を分割する色彩的キュビスムを積極的に自身の
絵画表現に取り入れていった。しかし 1913 年に描いた前述の 3 点には、そのような手法からの逸脱がみら
れる。背景の空間は、光線によって空間を分割しキュビスム風に描いているものの、主たるモチーフであ
る教会については、教会の形態を保つ程度の分割に留め、現実のゲルメローダ教会のイメージが失われな
いように描いている。
このような表現に至った経緯には、ファイニンガーがキュビスムに対して強い対抗意識をもっていたこ
とが指摘できる。画家は、キュビストが現実のヴィジョンを軽視した機械的な制作に陥っている、という
批判的な意見を述べているが、これは前述の 3 点を制作した 1913 年のことであった。実際ファイニンガー
はこの 3 点において、ドローネーのエッフェル塔を想起させる構図と、同じ主題を繰り返し描く手法を用
いつつも、近代的な鉄の塔に代わり中世の教会の尖塔という、類似しながらも相反するモチーフを用いて
いる。こうした表現を使うことによって、ファイニンガーはドローネーとの差異を形式・内容の両面から
強調し、自身の作品の独自性を示そうとしたと考えられるのである。
本発表では以上のように、とりわけドローネーとの作品比較から、ファイニンガーにおけるゲルメロー
ダ教会連作の意義を明らかにする。
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10 月 9 日(日)9:30-10:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 3〉芸術理論
Iconology が扱う領域について
――パノフスキーの Iconology 論を中心に――
斉藤 音夢(東京藝術大学)
今日、提唱されて久しい Iconology について、それが扱う領域の明確化を図ることが本発表の目的であ
る。Iconology なる用語はチェーザレ•リーパ(Cesare Ripa, c.1560-c.1622)が 1593 年に記した著作の題名で
ある、Iconologia によってその誕生を確認できる。しかしながら当該著作において、Iconology が何たるか
を画策することは困難である。なぜならば、16 世紀末に刊行された Iconologia は、盛期ルネサンスを経て
難解を極めた擬人像やアトリビュートの図像解釈の言わば手引書としての役割しか持ち得なかったからだ。
Iconology という用語の存在は 16 世紀に既にあったが、その意義を見出すためにはエルヴィン・パノフス
キー(Erwin Panofsky,1892-1968)に代表される Iconology 論を精査する必要がある。Iconology とは何かと
いうことを体系的に意味づけた第一人者としてパノフスキーを引き合いにし、本発表の第一目的である<
Iconology が扱う領域の明確化>を目指す。
パノフスキーが Iconology なる用語を本文中に初めて用いたのは、Meaning in the Visual Arts(
『視覚芸術の
意味』
、1955 年)の第 1 章においてであった。しかし、Iconology なる用語を本文中に使用せずとも、その
思想体系自体は Studies in Iconology: Humanistic Themes In the Art of the Renaissance(
『イコノロジー研究―ル
ネサンス美術における人文主義の諸テーマ』
、1939 年)の序論にて既に展開されており、さらに言えば、
1932 年の哲学誌(Logos, XXI, 1932)において掲載された論文“ Zum Problem der Beschreibung und Inhaltsdeutung
von Werken der bildenden Kunst ”(
「造形芸術作品の記述および内容解釈の問題について」
、1994 年) におい
ても、彼の Iconology 論の源流を見ることができる。この3つの著作には、内容に関して顕著に異なる点が
見られ、また同時に相互連関も見られる。本発表では、初めに前期ドイツ語論文と後期英語著作の比較・
検討をした上で、後期英語著作同士の比較・検討を試みる。
以上のような比較・検討を基に、Iconology と Iconography が扱う<解釈の範囲>の違いを明らかにし、
最終的な結論として Iconology が扱う領域の明確化をはかりたいと考える。
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10 月 9 日(日)10:00-10:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 3〉芸術理論
アルベルティ『絵画論』再考
――規範、再現/表象、循環――
島田 浩太朗(京都大学)
初期ルネサンスの人文主義者レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)は、
『絵画論』
(1435/36)
において、古典古代の数学、幾何学、修辞学、そして中世の光学論をその基礎としつつ、絵画における遠
近法、構成、歴史/物語を再検討することで、新しい芸術と芸術家の規範を提示した。とりわけ遠近法に着
目してみると、絵画空間の構成要素を点・線・面といった最小限にまで還元するとともに、視点と対象の
間に視的ピラミッドを構成することでその一裁断面を窓に見立て、その窓枠の向こう側にある三次元の対
象を二次元に精確に写し取るためにヴェール(ブラッチャ)を考案した。彼は観察・分析を通して、自然
現象や経験についての理論的再検討を行うことで、主体と客体、具体と抽象、実と虚のあいだの往還を繰
り返し、自然と人工といった二元論を超えた普遍的な再現/表象システムそのものをつくりだした。
このラディカルな再現/表象システムは、芸術家の創造行為の過程において、二次元と三次元、想像世界
と現実世界の間をシームレスに行き来することを容易にするだけでなく、絵画空間内における視点の移動
を伴った経験的シークエンスをも含む、イメージと擬似体験の間の「循環」的特徴を持つ。この特質は、
制作者だけでなく鑑賞者をもその絵画空間へと引き込み、もうひとつの仮想世界へと没入させる力を絵画
に与えることに成功した。つまり、遠近法とは目の前の三次元の対象を二次元に忠実に再現するための方
法であると同時に、その間を自由に往還する「循環」のための方法でもある。発表者は、このような特異
性を同論考にもたらした最大の要因は、彼が建築家でもあったことに起因すると考える。すなわち、夢想
と現実のあいだをインタラクティブに行き来する、その終わりなき建築的思考にその本質があるのだ。
以上のことから、本発表では同書を字義通りの「絵画論」として読むだけでなく、建築論、すなわち分
野を超えた総合芸術論として、あるいは宗教・芸術・科学といった諸領域が原初的で未分化な状態のまま
浮遊し、時間と空間が過去・現在・未来に対して開かれた、知覚の原論として読み直すことを試みる。と
りわけその数学的・光学的な特質に着目することで、新しい芸術の再現/表象のための規範という枠を超え
て、観察-分析-再現を無限に繰り返すことによってつくりだされる、自然と模倣(あるいは人工)の間を「循
環」する現象的・生態学的な芸術の有り様について考察する。かつてアルベルティが同書において古典古
代からの引用を縫い合わせつつ、それらの資料に時空を超えて新たな意味を付与するアナクロニズムの方
法によって古代のテクストを現代(近代)の問題として適用する術を検討したように、発表者は現代にお
ける同書のアクチュアリティについて再検討したい。
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10 月 9 日(日)10:30-11:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 3〉芸術理論
ベトナム人画家ナムソンの美術論
──『中国画』への一考察──
二村 淳子(鹿児島大学)
1930 年に記された『中国画:その技術と象徴、自然を解釈する中国人の独特な流儀』
(以下、
『中国画』と
省略)は、ベトナムにおける最初の「美術書」とされているものの、この書に対する本格的な研究は着手
されていない。著者は、ベトナムの近代画家、ナムソン(Nam Sơn/南山、1899-1973、本名 Nguyễn Vạn Thọ
/阮文壽)
。ベトナム近代絵画のパイオニアとして位置付けられている彼は、フランス統治下にハノイに設
立されたインドシナ美術学校(L’École supérieure des Beaux-Arts de l' Indochine)の設立に貢献し、当校教師
として活躍した人物である。
この『中国画』は、王維や王安節などの文人画論の引用と解説が著書の大半以上を占めており、中国と
ベトナムの画における同根が前提とされている。また、結論部では、これら中国文人画に「デッサン」を
取り入れ、安南の絵画を進化・発展させていくべきだと主張されている。ベトナム近代絵画の旗振り役で
あった彼が、なぜ『中国画』と題する書を執筆する必要があったのだろうか。
この問いへの一つの答えして、まずは、ジャポニスム熱の退潮後に台頭した、欧州における中国文人画
熱との関連を指摘することができる。ナムソンがパリに留学した 1920 年代は、こうした一連の西洋におけ
る中国画論研究の開花期にあたる。留学生だったナムソンは、フランスの美術を学ぶと同時に、中国美術
に対するフランス知識人のまなざしを追体験する機会に恵まれている。実際、ナムソンのこの著は、東洋
美術研究者ラファエル・ペトルッチ(Raphaël Petrucci, 1872-1917)に多くを負っていることが実証できる。
オ リ エ ンタリスト
だが、ナムソンは東洋研究者の「発見」を、そのまま肯定的に再利用しているわけではない。そこには、
同時代人の思想家、ファム・クイン(Phạm Quỳnh/范瓊、1892-1945)らが唱えていた「安南ルネサンス」
なる文化運動との関連がある。
「安南ルネサンス」とは、ギリシャ・ローマを古典と定めた 17 世紀のフラ
ンスに倣い、自己のルーツを認識し、その系列に沿って発展を志向していく運動だ。過去と切断して新た
な絵画を創出していくのではなく、
「進歩しながらも後世とも続いている」絵画を創出させようと主張して
いたナムソンの美術論の拠り所はクインの思想に一致する。つまり、ベトナム絵画の「古典」を明確化さ
せるというナムソンの意図がこの著にはあるのだ。
20 世紀初頭のベトナムにおいては、
「極東的」な芸術がメトロポールから求められ、西洋の要素が混入す
れば、
「真性」ではないものとみなされた。フランス人が想像する本質的な「極東芸術」を超えるための戦
略をナムソンのこの書に読むことができる。
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10 月 9 日(日)11:00-11:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 3〉芸術理論
茶道における「芸術的隔離性」について
延田 リサ(京都大学)
本発表は、近年欧米で注目されているマルチモダリティ(Multimodality)のパラダイムを通して、
『茶の
美学』
(1977 年)で指摘された「芸術的隔離性」が実践的な茶道において、具体的にどのように多様な表現
によって確立されているのかについて考察することを目的としている。谷川徹三によると「芸術的隔離性」
とは、
「自然の世界や日常生活の世界に組み入られている連関を意識的に断絶して、芸術の世界をそれとし
て他の世界からはっきり区別するもの」であり、茶庭や茶室、茶道具、点前の多岐に渡る分野において確
認できるとされている。しかしながらそれらの考察は、各分野の個別的な場面における言及に留まってお
り、これまで横断的な考察が行われてこなかった。そこで本発表ではグンサー・クレスとテオ・ヴァン・
ルーエン(Kress and van Leeuwen, 1996; Kress, 2010)によって提唱された、社会記号論を基盤とするマルチ
モダリティ分析のフレームワークを使用し、
「芸術的隔離性」の横断的な表現に関する検証を試みる。
マルチモダリティとは、言語や画像、色、ジェスチャー、音、レイアウトなど人が使用するあらゆる表
現要素を、意味の生成とその作り手に焦点を当てることによって、横断的に分析することを可能とする方
法論である。一般に専門分野において個別に分析される表現要素は、マルチモダリティ分析を通して特定
の意味生成のために協同的に使用される物質的な資源として捉えることができ、それら孤立していた表現
要素は互いに影響し合う関係性をもつものとして考察することが可能となる。
実践的な茶道における出来事は、客が露地を通って茶室に入室するところから始まり、亭主が茶を点て、
客がそれを飲み、亭主が退出するところまでと広く定めることができる。その間に亭主と客はそれぞれ、
飛石の伝い歩きや蹲踞の水、躙る運動、畳での動き、帛紗の色、ちり打ちの音、茶碗を回す動作などを通
して、日常生活とは区別された「芸術的隔離性」を作り上げていることが確認できる。
以上の考察を通して、マルチモダリティの枠組みを使用することにより、これまで個別に考察されてき
た茶庭や茶室、茶道具、所作などを取り囲む表現方法は、
「芸術的隔離性」の概念を中心に横断的に考察で
きることが明らかとなる。この区別は、異なる形態の表現を使用することにより、参与者に実践的な茶道
が日常生活とは切り離された世界であることを繰り返し提示することに成功する。そしてそれらの表現が
明確であればあるほど「芸術的隔離性」は確実なものとして存在し、茶道具や掛軸、茶、香、菓子、茶の
取り合わせに表出される亭主の「創造的な心の働き」としての作意がより強調されると考えられる。
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10 月 9 日(日)9:30-10:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 4〉写真、映像、音楽
小津安二郎映画をめぐる西洋からの批評における問題点
――「無人のショット」を中心に――
具 慧原(東京大学)
本発表では、小津安二郎の映画において独特に使われている「無人のショット」を対象とし、西洋にお
ける小津への批評がこのショットをどのように扱ったかを批判的に検討する。無人のショットは小津映画
にしばしば登場する、人物のいない風景ないし室内空間、静物などを示すショットである。このショット
は多くの論者によって重要視されており、またその解釈も大きく分かれている。それゆえ無人のショット
は、小津映画の解釈多様性を典型的に示している。無人のショットについては、とりわけ西洋からの注目
を通じて、日本においてもより活発に議論されるようになったという経緯がある。そのため、西洋での議
論を検討することは無人のショットを論ずるための礎となる。
西洋では、1970 年代に入って小津映画に対する本格的な議論が始まった。その際、多くの研究者が日本
文化に基づき小津映画を解釈することを試み、無人のショットもこの文脈の中で扱われた。例えば、ポー
ル・シュレイダーはシーンないしシークェンスの終結部に挿入された無人のショットが、場面と場面を連
結すると同時に、龍安寺の石庭の石どうしのあいだにある「無」と同じ役割を果たしていると言う。小津
を西洋に紹介したドナルド・リチーも、ストーリを休止させる無人のショットが「意味の空白」すなわち
「無」の現れであると考え、それを「空のショット」と名付けている。このように、シュレイダーとリチ
ーは、禅芸術との類似性から無人のショットを文化論的に解釈した。この文化論的解釈に対して、デイビ
ット・ボードウェルは形式主義的アプローチのもとで反論する。彼は小津映画にとって日本文化の影響は
決して大きなものではなかったと指摘したうえで、無人のショットが小津の遊戯的な話法の一つであるこ
とを示す。
本発表は、無人のショットをめぐる上記のような解釈の背景にある歴史的文脈を検討し、西洋の文化論
的解釈と形式主義的解釈のそれぞれの問題点を指摘することを目指す。第一に、文化論的アプローチにつ
いては、①西洋で当時依然として隆盛を誇ったジャポネズリーと、②1950 年代にフランスで始まり、1970
年代にアメリカまで広がった作家主義的傾向がその背景にあることを明らかにする。そのうえで、文化論
的解釈がオリエンタリズムに陥っており、小津が活躍していた時代に禅思想の無などがどのように受け入
れられていたのかを全く考慮していないという問題点を指摘する。第二に、形式主義的アプローチの背景
に、ポスト構造主義由来の映画理論によるハリウッド映画の連続体系に対する批判の流れがあることを示
す。この解釈については、無人のショットをハリウッド映画との相違点に即して考察するという限界があ
ること、さらには文化論的解釈への批判も説得的でないということを明らかにする。
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10 月 9 日(日)10:00-10:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 4〉写真、映像、音楽
デイヴィッド・ボードウェルの映画理論
――80 年代の著作における「規範」概念の検討――
住本 賢一(東京大学)
本発表は、映画学者デイヴィッド・ボードウェル(1947-)の鍵概念である「規範 norm」について、80 年代
の二つの著作を中心として検討するものである。
ボードウェルは、共著である『古典的ハリウッド映画 1960 年までの映画スタイルと製作方式』(1985)
においてスタイル分析の部分を主に担当し、1910 年代から 1950 年代頃まで続いたスタジオ時代のハリウ
ッド映画を「個々の創作を支える高度に一貫した美的伝統を構成する」ものであるとした上で、物語を自
然に伝達することに特化しているというその形式的特徴を詳細に分析した。この著作によって「古典的ハ
リウッド映画 the classical Hollywood cinema」という概念はその後の映画研究で大きな影響力を持つように
なったが、ボードウェルの枠組みはいくつかの批判に晒されることにもなる。主だった批判としては、そ
のスタジオ時代のハリウッド映画の多様な作品を一枚岩的に捉える姿勢に対するものや、
「古典的」という
概念のもとにスタジオ時代のハリウッド映画の形式を世界的かつ脱歴史的な普遍性を有するものであるか
のように扱う態度に対するものが挙げられ、それらの批判は現在のハリウッド映画研究の焦点の一部と結
びついている。これらの問題は、ボードウェルの著作においては「命令やそれまでの実践によって確立さ
れた一貫した基準」を意味する「規範」概念の定義とその運用の恣意性に関わるものであるというのが発
表者の見立てである。本発表の意義は、ボードウェルの著作を内在的に読解し検討することによって、上
記の批判の正当性を支持しつつボードウェルの映画理論の問題点をより具体的に特定することにある。
本発表では『古典的ハリウッド映画』のスタイル分析の理論編であると言える『フィクション映画にお
ける語り』(1985)での「規範」の定義を検討し、さらにその概念が「古典的ハリウッド映画」の境界画定に
いかに利用されているかを検討する。そこで明らかになるのは、
「規範」が定義の段階では「古典的語り」
やそこから逸脱することを旨とする「芸術映画の語り」といったような時代や社会によって規定される「モ
ード mode」のレベルについての概念であったのに対し、スタジオ時代のハリウッドで製作された映画の中
でも一見物語を自然に伝達する「規範」からは逸脱するように思われる映画の説明では「規範」概念が「モ
ード」よりも狭い「ジャンル genre」のレベルで適用され、それによってそれらの映画が「古典的ハリウッ
ド映画」の「規範」に沿うものとして正当化されているということである。これは『古典的ハリウッド映
画』での様々な異なる局面においても共通する論理であり、ボードウェルが「古典的ハリウッド映画」の
スタイル面での境界を恣意的に決定していくレトリックのあり方がここに浮かび上がっていると言えるだ
ろう。
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10 月 9 日(日)10:30-11:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 4〉写真、映像、音楽
痕跡としての襞
――G・G・ド・クレランボーの写真と衣服論に関する研究――
安齋 詩歩子(横浜国立大学)
本研究は「服を着ること」という人間の行為の根源に接近しようとするひとつのアプローチである。
パリの警察病院に勤務した精神科医、G・G・ド・クレランボー(Gaëtan Gatian de Clérambault, 1872-1934)
が撮影した膨大な量のモロッコの民族衣装の写真は、あからさまに襞(ドレープ)を強調し、その中にあ
るはずの身体をほとんど無視しているように見える。襞(ドレープ)は一枚の布から衣服を構成する過程
の中に現れる現象である。
被写体の身体ではなく衣服だけを対象化するような撮影の手法は、同時代に植民地で撮影されたオリエ
ンタリズムの眼差しとは異なり、ひたすらに衣服を「分析的」に撮影しようとする意図によるものだ。そ
して、クレランボーは撮影した写真や古代の彫刻、レリーフに表象された衣服の観察に没頭し、独自の分
析による一枚布の衣服に関する人類学的研究を行っている。
クレランボーの写真と衣服論は、フランスの精神科医・精神分析家であるセルジュ・ティスロン(Serge
Tisseron, 1948- )によって再発見され、1990 年にはポンピドゥー・センターで展覧会が行われた。また、
ティスロンはこの展覧会のカタログで、クレランボーの生涯をかけての布に対する情熱を紹介し、写真に
ついても論じている。日本では港千尋がこの展覧会の開催をきっかけにクレランボーを紹介しているが、
その後本格的な研究は現れていない。
筆者はパリのケ・ブランリー美術館に収容されているクレランボーの約 1000 点に及ぶ写真コレクション
を直接閲覧し、クレランボーの襞(ドレープ)や布に対するただならぬ執着心を確認することができた。
クレランボーの写真は、衣服と身体の共存を映し出すファッション写真とははっきりと異なるものであり、
その時そこにあった人間と衣服の関係を視覚的に表象するというよりも、むしろその背後にある人類発生
の起源と結び付けられた衣服の存在そのものを浮かび上がらせようとする実践なのである。
上記の人類学的実践の他に、精神科医クレランボーは、布を盗みマスタベーションを行う女性たちの症
例を「接触愛好症(aptophilie)
」と名付けた。この症候群は、身体感覚に即したフェティシズムであり、従
来の限定的なフェティシズム概念を拡張するものである。このような布へのフェティシズム概念を含めて
クレランボーの業績を再考することは、人間が布を身にまとい、装い続けてきた歴史の底に横たわる根源
的な欲望の構造を明らかにしていく糸口となるだろう。
身体を離れると跡形もなく消えてしまう襞(ドレープ)に対する儚い欲望への着目は、従来の衣装論、
ファッション論とは異なる地平へと向かう挑戦でもある。本研究は人間と衣服の自明な関係性ではなく、
人間が衣服と共に在るということ/「服を着ること」への欲望を明らかにするものである。
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10 月 9 日(日)11:00-11:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 4〉写真、映像、音楽
グスタフ・マーラーの交響曲における空間性
――現象学的空間についての考察――
曹 有敬(東京大学)
近年のグスタフ・マーラー(1860-1911)の交響曲における「空間性 spatiality」研究の中で、 「現象学的
空間 phenomenological space」という用語は頻繁に取り上げられているが、それについての詳細な検討はさ
れてこなかった。本発表では、マーラーの交響曲において初めて現象学的視点を提示したと思われるジェ
ルジ・リゲティ(1923-2006)の 1974 年の二つの論稿「Gustav Mahler und die musikalische Utopie: I. Musik und
Raum」と「Gustav Mahler und die musikalische Utopie: II. Collage」を対象とし、改めてマーラーの交響曲に含
まれる空間的側面を考察する。
音楽に適用される数ある空間的用語を考えると、人類は早くから音楽現象を空間的に認識してきたと想
定される。それにもかかわらず、一般に時間芸術として考えられる音楽における「空間性」の存否は依然
として論争の対象となっている。20 世紀初頭の Kurth (1925)以来、音楽の空間性という一般的問題につい
ては様々な議論があるが、マーラー研究においてもこの問題はしばしば論じられてきた。マーラー論で、
ドナルド・ミッチェル(1925-)などが「音響空間」と「劇場性」に着目しながら、楽器を舞台裏に配置す
ることなど楽譜上の作曲家自身の演奏指示や物理的手段によって導かれる空間性を中心に議論してきた。
そのような議論の背後には、マーラーがオペラのような舞台芸術で行われていた空間の扱い方を交響曲と
いうジャンルで用いた初めての作曲家であるという事実がある。
しかし、空間に対するマーラーの試みは単に物理的なもの(外的空間)だけではない。ゲシュタルト心
理学を取り上げて、主体の「想像の空間 imaginär Raum」に注目したリゲティは、物理的に楽器を舞台裏に
配置しなくても、聴き手に何らかのイメージを連想させることができることに注目してマーラーの交響曲
における空間性の独自性を強調し、これを 20 世紀音楽における空間性を先取りするものと解釈した。現象
学的視点から、自我によって知覚され、自我の意識内において形成されうる空間(内的空間)を表象する
ことができる。
本発表では、リゲティがマーラー論において取り上げた音域、楽器の編成法、ポリフォニー、引用やコ
ラージュ、コラールという五つの現象学的空間要素の中で、明らかに現象学的空間を表す引用やコラージ
ュ技法を中心に検討を行う。リゲティのマーラー論を再考することによって、見過ごされがちな音楽にお
ける「空間性」が明らかになるだろう。
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10 月 9 日(日)9:30-10:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 5〉現代芸術の展開
1950 年代以降のマーク・ロスコ作品における「場」の意義
石山 律(慶應義塾大学)
本発表の目的は、マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903-1970)の展示状況への拘りを経て作り出された「場」
の意義を明らかにすることである。
マーク・ロスコは、一般的に「カラーフィールド・ペインティング」の作家として分類され、1950 年代
初頭から登場した単一の、或いは積み重なった矩形は彼の一つの「様式」として知られている。彼自身の
発言やその大画面、また 50 年代末から見られる褐色系の抑制された色彩から、その主題について「感情」
、
特に「悲劇的な」感情と結びつけられることが多い。その一方でロスコは、1952 年にニューヨーク近代美
術館で開催された「15 人のアメリカ人作家」展では展示方法に細かな注文をつけ、担当学芸員とトラブル
を起こすなど、自身の作品の展示状況を自身の意思でコントロールすることに執着もしていた。これ以後
彼はグループ展への出品を拒み、最終的には建築物の高さ、採光方法、壁や床の材質や色までに全て自身
の意見を反映させた「ロスコ・チャペル」を死後 1971 年に献堂している。
このように極端なまでに展示にセンシティヴな姿勢には、モダニズム芸術の自律性を離れ、「演劇的
theatrical」
(マイケル・フリード)と批判された次世代の作家たちと共通する面を見出せると考える。空間
との関係を観者に強制するロスコの制作は、一種のインスタレーションと見なすことも可能ではないだろ
うか。
「インスタレーション」は展示のため作品を「据え付けること」が原義であるが、現在では芸術の一
形式を指す用語として使用されていると言ってよい。絵画作品であれば、例えば単体のキャンヴァスをそ
れぞれ自律した作品と捉えるのではなく、展示空間全体を作品とすることがインスタレーションであるな
らば、
「ロスコ・チャペル」に至るまでの彼の作品をインスタレーションであると捉えることもできるだろ
う。この点でロスコは、流派は異なれど、同時期に活動していた次世代の作家たちと共通した空間意識を
持ち、それを作品へ反映していたのではないだろうか。
本発表では、ロスコが展示状況に介入を始めた 50 年代からの時代的な空間意識を踏まえた上で、照明な
ど展示状況と色彩や構成など絵画面との関係を検討するとともに、フランク・ステラ(Frank Stella, 1936-)を
はじめとした次世代の作家たちがその空間意識をいかにして作品へ反映させたのかを概観することで、ロ
スコが作り上げようとした「場」の意味するところを浮かび上がらせたい。
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10 月 9 日(日)10:00-10:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 5〉現代芸術の展開
草間彌生「言語芸術の世界」
――視覚芸術との補完関係、泉鏡花の影響――
パフチャレク パヴェウ(同志社大学)
草間彌生の多岐に亘る芸術活動は、絵画・彫刻・ハプニング等の視覚芸術と、小説・詩集・自伝等の言
語芸術との二つのグループに分けることができる。草間は、米国から日本へ帰国をした 1978 年から 2002
年までに 13 冊の書籍を出版した。
『クリストファー男娼窟』(1983)が野生時代新人文学賞を受賞するなど、
それらは同時代の文学者達から高評価を得た。にも拘らず、今日、それらに対する注目度は、世界的な評
価を得ている彼女の視覚芸術と較べて必ずしも高いものではない。彼女の視覚芸術と言語芸術との関係に
ついて、1989 年の Alexandra Munroe を皮切りに、先行研究は、両者の共通点を指摘するにとどまっている。
また、彼女の言語芸術を泉の文学作品と体系的に分析する試みも未だない。それに対し、本研究は両者の
補完関係を指摘し、その上で草間と泉の体系的分析を試みる。それにより、草間芸術の価値を根源的に理
解する事を目標とする。
手掛かりとして、本発表では、草間の世界観を表す最も特徴的なテーマである「自己消滅」を比較対象
とする。彼女の視覚芸術で「自己消滅」は、抽象的、象徴的に表される。例えば、草間のハプニングでは
一人の人間の体に水玉が描かれ、やがて何人もの人間が折り重なる。これに描かれた「自己消滅」は「個
が他と一体となること」として示される。実際にその人間は消えるわけではなく、一様に描かれることで、
あくまでも儀式の中では消滅する。一方、言語芸術では具象的に表される。小説の中で、主人公の男がビ
ルから飛び降りるシーンでは、飛び降りながら肉体が水玉に転身し、それが消え去るところまで描写され
る。草間の「自己消滅」は、一体化と転身もしくは変容の両方により理解されねばならない。つまり視覚
芸術と言語芸術は補完しあって、彼女が意図した本来の意味へと至る。
更に、言語芸術に関して、前近代(封建制)社会のモダニストともいうべき泉鏡花との関連を見極める。
両者の作品には現実と幻想の曖昧さ、超自然などの世界観が共通し、草間本人も泉作品への自身の嗜好を
打ち明けている。Alexandra Munroe と谷川渥は、二人の共通点を指摘しているが、断片的である。それに対
し、本発表は両者に共通する幻想などの世界観について、病跡学・精神分析学の観点から草間は西丸四方、
泉は吉村博仁の指摘によりながら体系的に分析する。
実際のところ、草間が 83 年に野生時代新人文学賞を受賞したのは示唆的である。草間はアメリカから帰
国した際、視覚芸術が思うように評価されず、言語芸術に表現手段を拡張した。その際、置かれた環境に
親近性があり、かつ当時ブームを迎えていた泉がインスピレーションとなったのである。草間の言語芸術
をこうした泉との繋がりで捉えると、彼女の視覚芸術が、80 年代以降再評価された経緯や理由の説明が出
来る。本発表の意義はそこにある。
45
10 月 9 日(日)10:30-11:00 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 5〉現代芸術の展開
《ブロック・ボイス》におけるヴィトリーヌとその意味
――「アウシュヴィッツ・デモンストレーション」を中心に――
水野 俊(慶應義塾大学)
ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys, 1921-1986)のもっとも大きなインスタレーション作品のひとつ《ブロ
ック・ボイス》は、元は Karl Ströher がダルムシュタットのヘッセン州立博物館に貸与していたコレクショ
ンであり、1970 年にボイスによって同博物館に配置されて以降現在まで常設展示されている。7つの部屋
からなるこの作品複合体は、膨大な数のオブジェクトや彫刻、ドローイングの他に、ボイスが行ったアク
ションに由来する「遺物」が様々な形で展示されている。3 部屋目以降にはガラス製の展示ケース「ヴィト
リーヌ」が用いられ、由来・素材とも様々なオブジェクト及び「遺物」がその中に陳列されている。
本発表では、5部屋目にある唯一タイトルを付されたヴィトリーヌ「アウシュヴィッツ・デモンストレ
ーション」を出発点とし、
《ブロック・ボイス》内のヴィトリーヌの意味と効果について検討する。その際
問題となるのは、ボイス自身の言葉と同時に、アウシュヴィッツという主題をほのめかすその方法と、作
品形式(ヴィトリーヌおよびインスタレーション)の性質である。ボイスについての批評・研究において
も、作者本人による説明や概念(
「拡張された芸術概念」
「社会彫刻」など)が作品解釈の主たる源となっ
てきたが、彼の言説が究明されてきたこととも相まって、1990 年代以降には作品と言説が必ずしも対応し
ていないことが指摘されるようになった。Theodora Vischer などが述べるように、作者の言説からだけでは
作品を十全に説明しえないと考えられる。特にアウシュヴィッツについて、ボイス自身は多くの言葉を割
いてはいない。
ボイス作品におけるアウシュヴィッツの問題については、すでに Gene Ray が美的カテゴリーである「崇
高」と関連付けながら、ボイスの個人史ではなく多くの人々が共有する歴史的記憶(ホロコースト)から
その解釈の範囲を見直している。しかし《ブロック・ボイス》におけるアウシュヴィッツの位置付けにつ
いて、それが一構成要素であるのか、あるいは作品全体を規定するものなのかは更に考察される必要があ
る。また《ブロック・ボイス》に関する先行研究では、インスタレーションとしての性質に注目したもの
(Inge Lorenzo, 1995)、インスタレーションを一種の劇場(Theater)とみなしそのパフォーマティヴな性質を分
析するもの (Barbara Gronau, 2001)などが存在する。本発表ではこれらの先行研究を参照し、ヴィトリーヌ
によるインスタレーションの特徴を考察した上で、それがアウシュヴィッツという主題を展示する上でも
たらす効果を明らかにする。また自然史と美術史を含んだ博物館という展示の文脈を考慮すれば、ヴィト
リーヌの必然性、更に《ブロック・ボイス》全体の意味についても再検討されうる。
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10 月 9 日(日)11:00-11:30 【若手研究者フォーラム】
〈分科会 5〉現代芸術の展開
スローターダイクにおける暴力表象
――アヴァンギャルドから新キニカルへ――
大村 一真(同志社大学)
M・フーコーが『言葉と物』のなかで「人間の終焉」を語って以降、半世紀が経とうとしている。現在、
人間(性)が死滅したのかという議論は広範にわたるが、この問題を鋭い切り口から抉りだした者が、哲
学者 P・スローターダイクである。彼の著書『人間園の規則』は人間性を称賛する人文主義の役割を相対化
させ、それに代わる遺伝子工学という新しい人間形成の在り方を支持する。ここで肝心なことは、スロー
ターダイクが「人間(性)の条件」を継続して多角的に問い続けていることである。
この観点からみると、本発表で取り上げる暴力 (Gewalt) もまた、スローターダイクにとって人間の条件
を構成する要素の一つである。つまりここで取り上げられる暴力とは、人間行動の駆動因となるような心
理的エネルギーであるとみなければならない。そして、スローターダイクの暴力概念は、
「分裂した暴力」
と「体現された暴力」の二つに解釈することができる。彼の著書『シニカル理性批判』になぞらえるなら
ば、前者がシニカルな暴力であり、後者がキニカルな暴力である。
シニカルな暴力とは、優位的な支配者意識が生み出したものである。フーコーの「生政治」による統治
術と同じように、この暴力は被支配者意識の自己保存欲を満たし、かれらを支配者側へと馴到化させる。
ここでは、被支配者層は支配者層と倒錯的な共犯関係を結ぶ。他方でキニカルな暴力とは、優位的な支配
者意識に対抗するべく生み出されたものである。この暴力の執行者は自己を偽装することなく、行動、笑
い、沈黙を自由自在に駆使することによって、自分自身の暴力を製作する。
そして、スローターダイクはこの二つの暴力の発露を、戦間期のダダイストらによる芸術上のアヴァン
ギャルド運動にみる。スローターダイクにとって、彼らの芸術性はキニカルな精神とシニカルな精神の融
合形態であり、反ファシズム的な要素を有する「抵抗の美学」でありながら、破壊に陶酔するプレ・ファ
シズム的要素を含む「殺戮の美学」でもあった。
本発表では、スローターダイクのシニカル/キニカルの軸を用いながら、シニカルとキニカルのアマル
ガムとしてのアヴァンギャルドを論じ、最終的にスローターダイクの暴力表象と S・ジジェクの暴力概念
とを対比することを試みる。スローターダイクとジジェクは主体の構築を妨げるシニカルな暴力に対して
共同戦線を張るものの、スローターダイクが芸術上のキニカルな暴力を主題とするのに対して、ジジェク
は突発的な革命的暴力を主題とする。そして、この両者の相違がスローターダイクの暴力表象の独自性を
理解する手掛かりになる。スローターダイクとジジェクを交差させながら、スローターダイクにおける新
キニカルとしての暴力表象の可能性を問うことを本発表の最終課題とする。
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【研究発表Ⅲ】
〈分科会 1〉 美学 3
〈分科会 2〉 美学 4
〈分科会 3〉 芸術理論
〈分科会 4〉 日本の現代美術
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10 月 9 日(日)12:20-13:00 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 1〉美学 3
ルイジ・パレイゾン「形成性の理論」における一考察
――「能動的形(forma-formans)による所産的形(forma-formata)の形成的誘導」の理論的源泉を
探る
片桐 亜古(京都大学)
本発表の目的は、ルイジ・パレイゾン(1918-1992)が論稿集『美学 ―― 形成性の理論』(1954)および『美
学の諸問題 I ―― 理論』(1974)において浮き彫りにした、芸術作品の形成における形の支配の様相 より
具体的には「能動的形 (forma-formans)による所産的形 (forma-formata)」の形成的誘導」 をめぐる論旨の
理論的源泉を明らかにすることにある。
パレイゾンが、芸術家による作品の形成過程を説明するにあたり方法論的基軸として用いたのは、解釈
理論であった。彼によれば、作品の形成は、芸術家が目の前の対象(素材)と循環性のある相互関係を培
いつつ対象に対し解釈行為をくり返す中で実行され成し遂げられるものである。芸術家、すなわち解釈の
主体は自身の人格をもって素材、すなわち解釈の対象 ―― 彼はこれを解釈行為の実行における成果の意
味合いを込め「形 (forma)」と表現する ―― に対峙する。作品の形と解釈者の人格との出会いは、その
つどかけがいのない絶対性を帯びている。それにも拘らず、その解釈は無限に多様でありえる。では、そ
の無限の解釈の可能性のうちのひとつが解釈として必然性をもつのは何に依拠するものか。パレイゾンに
よれば、
それは能動的形 (forma-formante)による所産的形 (forma-formata)の形成的誘導によるものである。
これは、ともすれば神秘主義的と受け止められかねない論旨である。その理論的源泉を見極め理論の構築
過程を確認する必要があろう。パレイゾンの思想を扱う先行研究としては、F. P. チリア(1995)
、F. トマ
テイス(2003)
、F. ルッソ(1993)らの網羅的研究が挙げられる。が、いずれも彼の思想の概説に留まって
おり、この点を含め彼の美学思想の特徴の分析および評価は不十分と言わざるを得ない。発表者は、これ
を中世のスコラ哲学における能動的自然 (natura-naturans)と所産的自然 (natura-naturata)の概念および G.
W. ゲーテが提示した美学思想にその源泉があると仮説をたて、その検証を本発表でこころみる。
能動的自然と所産的自然の概念はトマス・アクイナスにより提示されたものである。管見では、これら
二概念により構成される理論構造はパレイゾンが提示した能動的形と所産的形によるものに通底する。こ
れら前者と後者の理論構想を比較検討する中で、アクイナスが提示した理論構造をパレイゾンが継承し、
形成性の理論構築の一基軸とした過程を浮き彫りに出来ると考える。合わせて、アクイナスが提示した形
の概念に対する考察を行いたい。パレイゾンが提示した形の概念をより正確に把握する上でこの考察は有
効であろう。一方、ゲーテの美学思想の影響に関しては、論稿集『美学の諸問題 II 歴史』(2000)あるいは
『ドイツ観念論における美学思想 III ゲーテ/シェリング』(2003)を参照しつつ論旨の組み立てを行うも
のとする。これらの論稿集におけるゲーテの美学思想をめぐる彼の論稿からは、自然界の原理に基づき芸
術活動およびその所産を捉えようとするゲーテの姿勢に対するパレイゾンの大いなる親和性を読み取るこ
とが出来るのである。
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10 月 9 日(日)13:05-13:45 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 1〉美学 3
バウムガルテンの美学における美的真理と形而上学
――可能的存在の存在論をめぐって――
桑原 俊介(東京大学)
古代ギリシア以来、芸術は様々な形で「真理」と関係してきた。だがこれらの真理は、普遍的真理とし
て、芸術に固有の真理ではない。芸術の固有性は、普遍的真理を伝える「媒体」としての形式的固有性に
すぎない。だが18世紀に入ると、
「詩的真理(poetic truth)
」といった芸術に固有の真理ないし真理のカテ
ゴリーが提起され始める。そこで決定的に重要となったのが、美学の創設者であるバウムガルテンが提起
した「美的真理(veritas aesthetica)
」概念である。彼の美学は、
「感性的認識(cognitio sensitiva)
」を主題化
する「感性学」として構想されたものだが、
「美的真理」は、感性に即した真理という真理の新たなカテゴ
リーを確立し、近代的な自律的芸術(作品)概念の成立のための重要な理論的基盤を与えることになる。
だが、バウムガルテンの「美的真理」の独自性は、それが「感性」に即した真理であるという点に限定
されるものではない。その独自性はむしろ、それが芸術の主たる対象である「可能的存在(possibile)
」を、
形而上学ないしその存在論に基づいて理論化した点にも認められねばならない。つまりそれまで単なる「可
能なもの」乃至「虚構的なもの」として、
「真理」としての存在論的ステイタスを否定されてきた芸術的存
在が、彼によって新たに固有の「真理」として承認され、その存在論的理論づけを与えられたのである。
このことは、先行研究においては十分には強調されてこなかったと思われるが、
「美的真理」とは「感性的
認識」に関わる《認識の真理(veritas cognitionis)
》であるのみならず、
「可能的存在」に関わる《存在の真
理(veritas entis)
》でもある。美学においては、認識の真理と存在の真理とが相即不離に結びつく。
では、このような美学における「可能的存在」の理論化は、いかにして可能となったのか。本発表では
その決定的な要因として、バウムガルテンの形而上学の存在論が、それ以前のものとは決定的に異なる理
念の下で構想された点に着目する。つまり彼以前の存在論が、事物が「何であるか(quid est)
」という問い、
つまり quidditas としての事物の「本質(essentia)
」を問うものであったのに対し、バウムガルテンの存在論
は、事物の本質ではなく、事物が存在するための「可能性の条件」を問うものに変化した、つまりそれが
「可能的存在に関する学(scientia possibilium)
」として構想されたことが、
「可能的存在」を主たる課題と
する美学の存在論ないしその真理論を可能にした決定的な要因となったのではないかと考える。
むろんかかる存在論の変容は、バウムガルテンが範型としたヴォルフ、ライプニッツの存在論にまで遡
及されうるが、本発表では以上のことを、古代から近世にかけての真理論と存在論、そこでの「可能的存
在」の位置づけ、さらにはその基礎となる「矛盾律」との関係性といった概念史的文脈に基づいて跡づけ
つつ、各種テクストに即して実証する。
50
10 月 9 日(日)13:50-14:30 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 1〉美学 3
二次元的人間の予知夢
――アドルフ・ヒルデブラント――
金田 千秋(筑波大学)
アドルフ・ヒルデブラント(1847-1921)の『造形芸術における形の問題(Das Problem der Form in der bildenden
Kunst)』(1893)を読むとき、研究者はヘルマン・ヘルムホルツ(1821-1894)の視覚生理学が及ぼした影響をそ
こに読み取る習いである。だが私は解釈の準拠枠としてむしろ生理学者ならぬ数学者ヘルムホルツを推し
たいと思う。
ヒルデブラントがヘルムホルツの非ユークリッド幾何学系の論文に目を通したことは、書簡から十分推
認できる。決定的なのは「平面」概念である。
「平面知覚だけを持つ虫は、球面上を這いながら、どうやっ
て球面世界を認識することができるか」というヘルムホルツの思考実験は、十九世紀後半に人口に膾炙し、
『二次元的世界』という小説まで出たほどであるが、
「面」
、
「層」
、
「面層」
「押し葉」などの概念で物の形
を分析するヒルデブラント美学は、この碩学の思考実験に深い影響を受けている。
「世界は平面でできてい
る」という洞察は、ヘルムホルツ経由で彫刻家に宿ったのである。
この洞察は「輪切り技法」の歴史に結びついている。対象を輪切りにする数学者ヘロンの「求積法」も
(古代ギリシア)
、
「水が抜けるにつれて水中の物体が徐々に姿を現わす」というミケランジェロの観察も
(ルネサンス)
、
「すべての関数は無限個の三角関数の和に書き換えられる」というフランス人数学者フー
リエの主張(1822)も、すべて、平面状に輪切りにすることで対象の本質把握に至る点で軌を一にする。
問題はこの洞察と技法が人間にどんな能力を要求するかである。平面知覚は直観に帰着するとしても、
平面と平面の関係はどうだろうか。ここでヒルデブラントはもう一つの歴史に棹さす。
十八世紀末、カントとライプニツ派の間に論争が勃発したが、対立の核心は空間の基礎を「直観」に置
くか「直観と概念」に置くかにあった。この対立が十九世紀にも命脈を保っていたことは、数学者ヘルマ
ン・グラスマン(Hermann Graßmann.1809-1877)の存在が物語っている。ベルリン大学で主専攻の数学を放棄
してシュライエルマハー哲学に没頭し、それでも(それゆえ?)後年ベクトル理論の創始者となり得た彼
は、論文「幾何学的解析」(1847)ではカントをライプニツ的に再解釈することで対立の無害化に成功してい
る。
「直観」なのか「直観と概念」なのか。しかしこの対立は政治的性格を帯びている。
「ユダヤ人コンラー
ト・フィードラーの形態理論」と「ユダヤ人ヒルデブラントの形式理論」の対立は、空間をめぐる十八世
紀末のあの対立が、十九世紀末ドイツ美学に場所を動かし、バイロイトのプロト・ナチスという新しい補
助変数のもとで自らを反復した姿に他ならない。このことは、乞われて『形の問題』の草稿を閲読したフ
ィードラーが、
「直観カテゴリー(Anschauungskategorie)」という露骨に非カント的な言辞に鋭く反発したこ
とに端的に現れている。ちなみにフィードラーは公私ともにバイロイトの中枢と昵懇の間柄、しかしヒル
デブラントは自他共に許すリヒャルト・ワグナーの敵(Feind)だったのである。
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10 月 9 日(日)12:20-13:00 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 2〉美学 4
散漫な聴取の効果
――おもに 18 世紀後半におけるズルツァーらのリズム論から――
岡野 宏(東京大学)
18 世紀末は、いわゆる「集中的な聴取」の端緒の時期といわれる。古くは 17 世紀イタリアの「ヴィルト
ゥオーソ」の概念に先例を持ちながらも、音楽に単なる「耳の快楽」以上の価値を認めた 18 世紀末の人々
は、ある種の宗教体験に比せられるような形で、音楽に没入し始めた。こうした傾向は 19 世紀に強化・反
復され、音楽受容における規範性を形作ってきた(渡辺:2012)
。
本発表ではこうした「集中的な聴取」とは異なる「散漫な聴取」が、同時代において「出現」している
のではないか、ということを提起する。しかし、それは演奏会音楽においてではなく、音楽の根源にあた
るような労働の際のリズミカルな掛け声や打音の類においてである。非常にシンプルなリズムをもつこう
いった掛け声の類は音楽の根源にあると同時に、それゆえに、音楽の手前にあるものとして扱われる。こ
のため芸術作品としての音楽を扱う従来の音楽研究では、あまり扱われることがなかった。
労働のリズムはおそらく先史時代より存在しているものであり、その点では特段 18 世紀性を指摘するこ
とはできない。しかし、ある事象がそれを取り巻く文脈の中で新たに出現するという考え方を採用するな
らば、それを 18 世紀的な文脈のなかで成立する歴史的なものとして扱うことが可能である。さらにいえ
ば、労働のリズムによって生じる「効果」もまた歴史的に出現するものと考えられる。
18 世紀は「注意」の理論が発展した時代であり、Braunschweiger の古典的な研究によれば、19 世紀末に
おける注意理論の多くの論点が 18 世紀にすでに見出される。こうした注意の理論は一方では「集中的な聴
取」への理論的背景を提供するが(Riley: 2004)
、他方ではある種の散漫さへの理論的背景をも提供してい
る。というのも、特定の対象に対する過度の集中は集中自体を妨げることに繋がってしまうからである。
また、痛みの緩和のためには痛みとその観念から注意を逸らせることが必要であるとも言われる。
発表者はこうした散漫の理論がヨハン・ゲオルク・ズルツァーをはじめとする 18 世紀後半から 19 世紀
初頭において労働のリズムを考察する思考の系譜に影響を与えていると考える。発表では、美学的なテク
ストのみならず、脱穀などの労働自体を扱ったそれからも参照し、労働のリズムが同時代において新しい
意味合いを持って現れていることを明らかにする。その際、伝統的に音楽が持つとされている、労働によ
る疲労を癒す「効果」との比較も試みる。
52
10 月 9 日(日)13:05-13:45 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 2〉美学 4
身体と言語
――動感の質的記述の試みから見えてくるもの――
柿沼 美穂(東京工芸大学)
人間の動きを言語、特に記述的言語で表すことは容易ではない。その理由は、一つには、人間の動きが
複雑だからである。人間の動きは三次元的であり、かつ、時間的に変化する。さらに身体の各部分が、何
らかの統一性を保持しながら、それぞれ特徴的なしかたで動く。このように複雑なことがらの言語化には
何よりも膨大な記述が必要となる。
それでも、動きの構成要素を手続き的に追う記述的言語に関する問題はまだ比較的容易である。問題は、
その動きからわれわれが感じ取る動感(運動感覚)
、すなわち動きの質(動きにおける力の入れ方、コント
ロールの様子、方向転換のしかた、相対的に把握される速さなど)である。動感は、動きの構成要素では
なく、いわば様態を示すものであり、こうしたことは、記述的言語で捉えることがきわめて困難なのであ
る。
「わざ言語」と呼ばれる独特の表現が用いられるのはこのようなときである。
「わざ言語」は把握困難な
様態の感得を促すために、感覚の共有を喚起するような、きわめて象徴的、あるいは創造的な(ある意味
で詩のような)言葉を用いる。当然のことではあるが、こうした言語は、誰にでも理解されやすいもので
はない。
そこで、発表者は、この研究発表において動きの質的な側面を表現する方法について、身体の感覚と言
語の関係から考察し、そのような言語(あるいは言語的表現)のギャップを減らす方法を示すこととする。
まず、メルロ=ポンティの言語論から、言語が概念的な意味ばかりでなく、所作的意味をもつことを確
認する。言語は、所作、すなわち身体の動きの一つであるというということは、語は意味の単なる「器」
でなく、語そのものが意味をもっていると考えることである。さらにメルロ=ポンティは、ソシュールに
ならって、言語は、一つひとつの語という要素が集積して形成されるようなシステムではなく、それぞれ
の語が、他のさまざまな語との間の差異を示しているようなシステムであり、また、個別的要素よりも全
体が先行し、それが分節化されることによって意味が生じるシステムであると考察している。
次に発表者は、このような観点に立つことによって、どのような言語表現が動感を表すのにより適切と
考えられるかをより具体的に検討する。その際には、ドゥルーズ、ロラン・バルト、セール、クリステヴ
ァなどの著作をはじめ、こうした「様態」に関する記述において、どのような表現がなされているかを参
照する。そして、彼らの示唆するところを、動きの質的な側面の強度的な概念に基づいて捉えようと試み
ているラバンの方法論と照合し、より適切な動きの質の表現方法について考察する。
現在、このような理論的な準備を行うとともに、この方法論に従った実際の実験計画を立案中である。
それに従って実験を行い、可能な限りその結果と考察を行う。できるかぎり、この結果および考察を含め
た発表としたい。
53
10 月 9 日(日)13:50-14:30 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 2〉美学 4
「カッコイイとは、こういうこと」か
――適合性 suitability の感性化
春木 有亮(北見工業大学)
本発表の目的は、
「かっこいい(
「カッコイイ」
、
「カッコいい」などを含む。
)
」という概念を、それが一
つの「感性的質」
(津上英輔(2010)
)を指示するとみなしつつ、論究することである。
「かっこいい」は、
戦後のテレヴィ界で用いられ出し、とりわけ 1960 年代に、
「若者ことば」
、
「子どもことば」という位置づ
けで普及した。その後、たとえば「かわいい」と同様に、語の流通とともに、一定の文化領域、感性領域
を切り開いてきたと言える。しかしながら、
「かっこいい」
(文化)の内実を問う分析的な論考は、これま
でほとんどない。
「かっこいい」の語源の一部である「恰好」は、鎌倉時代以降に日本に入ってきた漢語であるが、遅く
とも 15 世紀には、
「恰合」と表記上オルタナティヴであり、
「ちょうどよい(あたかもよし)
」というある
種の適合性を意味する。その後 17 世紀をまたいで、
「見た目にうつる姿形」という意味を派生させるが、
この「姿形」は、
「そのものにふさわしい外観」でもあり、
「
「よし」
「悪し」などを伴って用いることが多
い」
(
『角川古語大辞典』ほか)
。このとき恰好は、適合性に基づいた価値判断とともに見いだされたかたち
であると言える。
1960 年代には、戦争を描く、漫画や、
「図解」付きの雑誌記事が人気を博すにつれ、戦争をかっこいい
ととらえる「子ども」
が増えたことから、
「かっこいい」
は、おもに教育論の枠内で問題化され
(阿部進
(1961)
ほか)
、
「写真、マンガ、テレビ、広告」などの「視覚文化」が発達するなかで、ものの「外見」という意
味での「姿・形」を「鋭敏」にとらえるさいの、
「肉体的・感覚的・視覚的な価値」
(佐藤忠男(1964)ほ
か)とされた。
「かっこいい」の咎は、
「外見」を優先し「中身」を軽視することであったが、それは逆か
ら言えば、
「外見を本質の重要な一部と見なす」ことにより、
「現実から抽象した本質に価値を見いだす近
代的認識を遡航し、想像力から現実を紡ぎ出す」
(斎藤次郎(1979)
)生きかたである。
「カッコとは、格好
そのものではなく、外見に表出したものの本質をふくむ対象総体」
(斎藤)であるとき、かっこいいものは、
その内に適合性の基準自体を含むと言える。
あたかもよし
本発表はまず、こうした言説の整理を通して、
「 恰 好 (恰合)
」
、
「恰好(よし)
」
、
「かっこ(いい)
」の
変遷に、適合性の「感性化」を見ることを試みる。
感性化を孕む「かっこいい」を、映画『紅の豚』
(1992)の広告コピー「カッコイイとは、こういうこと
さ。
」は、
「カッコイイ」の意味を映画(ポスターの絵)へと投げ返すその身振り自体によって、体現する。
あたかも同コピーを皮切りに、90 年代半ばから「かっこいい」が再興するが、それは、たとえば「エコか
っこいい」に見られる、倫理的価値を感性的価値に読みかえるイデオロギーとともにであることを、本発
表は示したい。
54
10 月 9 日(日)12:20-13:00 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 3〉芸術理論
ヴァルター・ベンヤミンにおけるエルンスト・ユンガー
――「芸術のための芸術」をめぐって
長谷川 明子(東京藝術大学)
E・ユンガーの創作活動は、W・ベンヤミンによって「芸術のための芸術」と図式化されたが、この指摘
を前提にベンヤミンとユンガーを対比的に読み、両者の芸術観を照らし合わせることで、芸術における「機
械的なもの」の効果を考えたい。
この「芸術のための芸術」という評言は、もともとは、ベンヤミンが「ドイツ・ファシズムの理論」(1930)
における、ユンガー編纂の論集『戦争と兵士』(1930)の書評の際、用いたもので、当該の論集の、戦争の神
秘化や戦争それ自体を目的としたような記述に対して言われたと考えられる。
一方で、ベンヤミンは「芸術のための芸術」を、
「複製技術時代の芸術作品」(1936)において、単に純粋
な自律的芸術としてではなく、まず、写真による危機に対して従来の芸術が持ち出した芸術の神学として
いる。つまり写真というテクノロジーが、従来の芸術を「芸術のための芸術」へと追い込むのである。さ
らにこのエッセイの終章では、ファシズムによる戦争の唯美化が、
「芸術のための芸術」の完成と言われる。
ベンヤミンにおいて戦争はテクノロジーの反乱である。
しかしユンガーは機械やテクノロジーに興味が深く、写真にも関心を持ち、写真集の編纂にも携わった。
戦争体験をもとにした著述では、戦場の過酷な状況の精密な描写スタイルが、カメラや光学器械にも喩え
られ、そこでは、アウラをはぎ取られた剥き出しの「もの」が描写されるかのようである。また、彼自身
は自分の仕事が「芸術のための芸術」呼ばわりされることに否定的だった。ところがユンガーの『パリ日
記』1944 年 5 月 27 日には、空襲で燃え上がるパリの街をワイン片手に眺める彼自身の姿が記され、
「複製
技術時代の芸術作品」に言われた、
「人類が自分自身の全滅を第一級の美的享受として体験する」ことが、
実現したかのようである。この時ベンヤミンは亡くなっているが、ユンガーの活動を「芸術のための芸術」
とした洞察の深さが思われる。
ベンヤミンのこの図式を援用しつつユンガーの活動を評した J・ハーフは、ユンガーのテクノロジーに対
する態度を、崇拝的であり、テクノロジー自体の理解というより、その美的、感覚的な受容であるという。
あるいは、R・Zuch のように、ユンガーの描写に古典的な絵画のスタイルを見たり、B・Werneburg のよう
に、ユンガーの写真集における「マスク」という隔てる作用を指摘する論者もある。そこでは、近づき難
い、すなわち「アウラ」的対象をユンガーが提示したと考えられている。
テクノロジーに興味を示しながらも、ユンガーにおける「技術」は、ベンヤミンが示した二つの技術、
原始時代と現代の技術の両者の、前者により近く、アウラが衰えていくはずの時代にアウラ的表現の持つ
問題点が現れていると考えられる。またベンヤミンの両義的な思考法が、思想的には敵対的立場にあった
ユンガーにも理解が及ぶものであることが窺われる。
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10 月 9 日(日)13:05-13:45 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 3〉芸術理論
アンドレ・ブルトンと想像力の問題
――シュルレアリスムとルネサンスのあいだで
岡本 源太(岡山大学)
本発表では、アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)の一連の絵画論の検討を通して、シュルレ
アリスムの想像力論を、ルネサンスからの系譜上に位置づけて理解することを試みたい。シュルレアリス
ムの想像力論は、当然のこと、まずもってボードレール以来のフランス詩の伝統、あるいはフロイトやジ
ャネらによる同時代の神経・精神医学の展開と関連づけるべきものであり、その観点からすでに厖大な研
究蓄積がある。とはいえ、かつてスタロバンスキー(1970)やシェニウー=ジャンドロン(1984)が示唆し
たように、シュルレアリスムの想像力論は、思想史的に理解するのであれば、さらに遡ってルネサンスの
ジョルダーノ・ブルーノの哲学やパラケルススの医学からの系譜に連なるものでもあるだろう。実際、ブ
ルトンは、ブルーノの哲学にシュルレアリスムの要求の基盤そのものを認め、パオロ・ウッチェッロの作
品に最初のシュルレアリスム絵画を見いだし、レオナルド・ダ・ヴィンチとピエロ・ディ・コジモの実践
をシュルレアリスム的な客観的偶然の範例として語っている。その意味では、
「驚異」
(le merveilleux)のほ
かに美しいものはないという、
『シュルレアリスム宣言』
(1924)でのブルトンの有名な主張も、ルネサン
ス美学のシュルレアリスム的変形の一つと言える。
とはいえ、正確にはいかなる点で、シュルレアリスムの想像力論はルネサンス美学に結びついているの
か。そこで本発表では、漠然とした類似性の指摘にもとづく比較に終始してしまうことを避けるためにも、
二つの手順を踏む。第一に、ブルトンの一連の絵画論からそのルネサンス解釈を再構成する。それにより、
まずはシュルレアリスムがみずからの実践をどの点においてルネサンスに結びつけていたのかを解明する。
第二に、そのブルトンのルネサンス解釈を、より広いルネサンス受容史――とりわけブルーノ、ウッチェ
ッロ、レオナルド、ピエロ・ディ・コジモの受容史――の文脈上に位置づけなおす。そうして、シュルレ
アリスムにおけるルネサンス受容の特徴と特異性を浮き彫りにし、いかなる点でルネサンスの想像力論を
引き継いだと言えるのかを明確にする。
このとき注目したいのは、ブルトンがブルーノ哲学に認めたシュルレアリスムの要求の基盤が、想像力
が自然を追い越すことはありえないという、想像力と自然との関係に関するものだったということである。
実のところ、想像力論をルネサンスからシュルレアリスムへの系譜上で理解するとき、想像力概念ととも
に、自然概念の受容と変容が問題になるだろう。そこから本発表では最終的に、ブルーノやレオナルドが
ルネサンスにおいて体現したような芸術の認識論化と自然の時間論化が、シュルレアリスムにおいて反復
され変形されたことを考察する。
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10 月 9 日(日)13:50-14:30 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 3〉芸術理論
バタイユのエロティスム論におけるイメージの使用と意義
――『エロスの涙』考察
井岡 詩子(京都大学)
『エロスの涙』
(1961 年)は、ジョルジュ・バタイユの生前に刊行された最後の著作である。そこでは、
先史時代の洞窟壁画、古代の壺絵やモザイク、マニエリスムやフォンテーヌブロー派の絵画、近代絵画、
供儀の写真など 230 点あまりのイメージとともに、バタイユのエロティスム論(性愛だけでなく、性と死
にまつわる人間の活動全般を対象とする議論)のエッセンスが描きだされている。
『エロスの涙』のテクス
トがそこに掲載された個々のイメージへ言及することはほとんどなく、イメージにたいするバタイユの考
えは明確でないが、ロ・デュカとのあいだで交わされた書簡からは、大量のイメージを選定し掲載するこ
とへのバタイユの情熱を読みとることができ、その重要性が窺える。バタイユにおけるイメージの使用や
意義については、その執筆活動の初期にあたる『ドキュマン』誌(1929‐30 年)を主軸に研究されること
が多く、
『エロスの涙』はあくまで初期の活動のヴァリアントとして扱われるにとどまっている。
本発表の目的は、晩年の著作である『エロスの涙』について、バタイユの初期の活動とは異なるイメー
ジの使用と意義が認められることをあきらかにすることにある。その際、同時期のバタイユの著作やメモ、
書簡を手がかりに『エロスの涙』執筆の思想的背景を浮き彫りにし、本書のイメージ使用におけるバタイ
ユの意図を、つぎの二点からあきらかにする。すなわち、
『エロスの涙』というタイトル、とりわけ「涙」
のモチーフに込められた意味と、バタイユのエロティスム論におけるイメージ(図像であれ観念であれ、
対象としてのイメージ)の在り方である。
本発表では、まず、
『エロスの涙』関連のメモにおける、
「涙」と「笑い」の果たす役割を対比的に論じ
る議論に着目することで、
「涙」というモチーフによって、本書でのイメージの使用やそれらのイメージの
生成過程が象徴されていることを示す。
「涙」は、
「笑い」の対象として軽視された状態からエロティスム
を救いだし、その追究をうながす契機とみなされているのである。つぎに、
『エロティスムの歴史』
(1951
年頃)と『エロティスム』
(1957 年)を導きの糸とし、エロティスムの追究におけるイメージは、入念につ
くりあげられたひとつの事物として把握されていることをあきらかにする。このようなイメージは、女性
の美しさや文学とともに、エロティスムの固定された形態であり、不定形な形態(バッカスの巫女や供儀、
腐敗など)と区別される。両者はどちらもバタイユのエロティスム論を特徴づけるものであるが、バタイ
ユ初期の活動が不定形な形態を示すイメージに捧げられていたのにたいし、
『エロスの涙』が読者に提示す
るのは固定された形態としてのイメージである。以上を通して、バタイユ晩年の思想におけるイメージの
使用と意義を詳らかにし、初期の活動との差異を浮き彫りにする。
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10 月 9 日(日)12:20-13:00 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 4〉日本の現代美術
近現代美術の「臭気」をめぐる保存修復の射程
:井田照一《タントラ》(1962-2006)の体液、死骸、硝酸を手がかりに
田口 かおり(日本学術振興会)
本発表は、近現代に制作された美術作品が放つ「臭気」について、歴史的変遷、具体的要因、制作者の
意図、収蔵をめぐる問題などの観点から多角的に検証し、その実態をあきらかにするものである。その上
で発表者は、作品から決して完全には消去できないこの一要素について、将来的にいかなる処置や保存が
望ましいのかを提示する。
2015 年 9 月、メトロポリタン美術館が開催した企画「多感覚のメトロポリタン」の例をあげるまでもな
く、オルファクトリー・アート(嗅覚芸術)の分野は、ますます活発化の傾向にある。マルセル・デュシ
ャンが《パリの空気》を制作した 1919 年頃より、無臭の空気を作品主題とする芸術家が数多く出現してき
た。ただし、ダミアン・ハースト《1000 年》(1990)では、展示期間が進行するにつれ、素材である牛の頭部
が腐敗し凄まじい悪臭を放つことになった。ここで試みられたのは、経年変化の様相を、臭気をも媒介と
し展示するという表現形態である。美術史家カロ・ヴェルビークも想起するように、作品に付随する香り
は時に過激な臭気と化して鑑賞者を苛立たせ、美術館側を困惑させ、継続的な展示を不可能にし、結果、
様々な対策が促されてきた。
しかし、経年変化の末に素材が悪臭を放ちはじめるであろう未来を芸術家があらかじめ想定していた場
合、作品への介入には危険がともなう。美術史家アレッサンドロ・コンティが述べたように、ルネサンス
以降、芸術家たちは時に、色彩の将来的な退色が作品に望ましい古色を与えることを予測した上で、使用
素材を選択していた。現代において、作品の放つ臭気が「嗅覚としての古色」であったとするならば、保
存修復が果たす役割はおそらく臭気を無批判に除去することではなく、臭気の原因を科学的に特定した上
で、制作者の意図を理解し、より望ましい収蔵と展示の環境を提示することにあると考えられる。
そこで発表者は、造形芸術家である井田照一の作品《タントラ》(1962-2006)を対象として行った自身に
よる修復のケース・スタディから、臭気を作品の一要素として取り扱い可能な限り保存する、という新た
な介入技法と理念を提示する。
《タントラ》には、作家が自身の生の痕跡として体液や爪などを素材として
用いた結果、刺激臭が残存しており、健康被害の懸念から調査が困難とされてきた作品である。発表者は、
《タントラ》の組成をめぐる調査を手がかりに、将来的に悪臭を放つ素材の選択が意図的なものであった
と指摘し、作品上の臭気を保存する意義をあきらかにする。本発表は、いまだ先行研究の存在しない「臭
気をめぐる美術史」の基礎研究として位置づけられるものとなる。また、この考察は、近現代の芸術家た
ちが、素材の性質や経年変化といかに対峙しどのような選択を試みてきたのかについて、新たな視座を提
供する成果にも繋がるだろう。
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10 月 9 日(日)13:05-13:45 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 4〉日本の現代美術
高松次郎《題名》における同時代性と独自性
――もの派との比較より
大澤 慶久(美学会東部会)
高松次郎(1936-98)は、
「影」
、
「遠近法」
、
「単体」等の連作を携えて特に 1960 年代から 70 年代に日本
の現代美術界に大きな影響を及ぼした。それに重なる 60 年代末から 70 年代初頭、高松の活躍を横目に、
近代的な表象作用に抗するべくあるがままの世界との出会いの構造を催すことを制作基盤に据えたもの派
が日本の美術界を席巻した。この時期の高松の文章には「開かれた世界」や「人間とは無関係に存在して
いるもの」への指向性が現れており、高松がその新しい思潮の影響下にあったことが窺える。だが注意さ
れなければならないのは、もの派と共通する問題を展開する際にも高松は彼独自の方法に基づいて制作し
ていたということである。本発表ではその着目すべき代表例として、1971 年の「人間と自然」展で初出展
された《題名》を取り上げる。
本作の先行研究として、それを主題的に論じた唯一のものである光田由里の重要な研究がある。光田は
本作を、その形式的特徴、題名と題されたタイトル、本作のプラン、高松の文章等の分析から美術制度に
おける作品の表象過程とタイトルの関係性、また作品とタイトルの齟齬を知らせるものとして解釈する。
この解釈は本作の、表象批判つまりもの派との共通性と言葉とものの齟齬つまり高松の独自性に関して示
唆的である。この研究を礎にしつつ本発表は、もの派とのより具体的な比較の観点を導入し、表象批判と
は区別されるもの派と共通する問題意識と、それが本作では独自の方法で展開されていることを強調した
い。
そこで本発表では第一に高松ともの派の問題意識の共通性を探る。高松の文章にはもの派的な用語がみ
られるが、それは表面上の一致に留まるものではなく事物の豊かさや複雑さに対する共通の指向性をもつ
ことを確認する。第二に高松ともの派のその問題に際しての方法の相違性を探る。もの派が「仕草」
(李禹
煥)や「放置」
(菅木志雄)によってものの存在が顕になると考えるのに対して、高松は言葉とものの「離
反」によってものの存在が顕になると考えていることを示す。第三に、本作の形式的特徴、タイトル、プ
ラン、高松の文章等の分析を通じて、この高松特有の方法が本作に構造化されていることを示す。具体的
には、作品とタイトルがともに高松のいう自己同一性を持つことにより本作が両者の離反の構造を有する
ことを明らかにする。本発表はこうして、同時代的な問題意識が高松独自の方法によって本作では展開さ
れていると主張する。
高松研究においてもの派が隆盛した時期を対象とするものには、両者の共通性、相違性を顧慮ないし強
調したものが比較的多くみられる。それは高松の同時代の動向への位置付けとその枠には収まりきらない
独自性の確保という課題に応じたものであるだろう。本発表はこれまで論じられる機会にあまり恵まれな
かった本作を主題に掲げるとともに高松作品の同時代性及び独自性を考察する研究の一端を担うことを目
指したい。
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10 月 9 日(日)13:50-14:30 【研究発表Ⅲ】
〈分科会 4〉日本の現代美術
テープ・レコーダーとして表現された主体
――高見沢文雄《柵を越えた羊の数》
金子 智太郎(東京藝術大学)
音や聴取をめぐる学際的研究領域サウンド・スタディーズは科学技術論の影響の下で、関係する人々の
ふるまいや技巧に目を向けながら音響技術史の見直しを進めている。こうした研究成果を芸術論に取り入
れることで、メディアの固有性と呼ばれるものや、芸術と社会の関係を再考する手がかりが得られるので
はないか。本発表はこのような想定にもとづいて現代美術におけるテープ・レコーダーの使用について考
察する。特に高見沢文雄《柵を越えた羊の数》
(一九七四)に注目し、音響技術史との関連を見ていきたい。
《柵を越えた羊の数》は台座に置かれた三〇台のテープ・レコーダーと添えられたメモからなる。すべ
てのレコーダーが数を数える作家の声を再生し続ける。高見沢はこの作品のために二つのルールを自らに
課した。まず、毎晩眠るときに口元にマイクを置き、数を数え続けて録音する。次に、テープを再生し、
数えられた数を時間軸上にメモしていく。峯村敏明が美共闘世代の「ポストもの派」を評した「作品以前
の芸術の原点、日々の行為の集積と反復の上に底辺から築かれるべき芸術の原理性を指し示しえた」とい
う言葉は、この作品にもよく当てはまる。ポストもの派と呼ばれた作家は、もの派が視覚を強調して作家
を舞台の外部に置こうとしたのに対して、作家の行為をさまざまなメディアに記録していった。写真や映
像が中心だったが、録音を用いた作品もあった。
テープ・レコーダーは六〇年代から、ロバート・モリスや刀根康尚、ウィリアム・アナスタシ、ブルー
ス・ナウマンらによって、音を発するオブジェとして展示されていた。そうした作品はよく、再生される
音が声、機器が身体に見立てられ、ある種の主体の表現として解釈されてきた。そして、ジャネット・ク
レイナックはナウマンの作品が表現する主体のありかたと音響技術史における録音術の変化の関わりを考
察した。以前にもキャサリン・ヘイルズが、サミュエル・ベケットとウィリアム・バロウズによるテープ・
レコーダーをめぐる作品を対比し、音響技術史との関係を指摘していた。
本発表も《柵を越えた羊の数》と日本における音響技術の展開を関連づけながら考察を進める。注目し
たい論点のひとつは、寺山修司による評論「偶然性のエクリチュール」
(一九七四)である。寺山はこのな
かで、同作品をはじめとする当時のさまざまな分野の表現が「個人の意識(自己肯定)を軸とした表現の
不可能性」という発想を共有し、
「個の記憶を合成し、編集し、その総合された結果として『私』をとらえ
直す」と解釈した。彼の言葉は六〇年代に普及したテープ編集技術を想起させる。本発表はこうした指摘
を行なうことからはじめて、カセット・テープやアマチュア録音といった音響技術の動向を参照しながら
《柵を越えた羊の数》の手法を検討していく。
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キャンパス周辺地図
・10 月 8 日(土)同志社大学今出川校地 室町キャンパス寒梅館
・10 月 9 日(日)若手研究者フォーラム、研究発表Ⅲ:同志社大学今出川校地 新町キャンパス尋真館
シンポジウム第二部、公開講演会:同志社大学今出川校地 室町キャンパス寒梅館
懇親会:京都平安ホテル
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室町キャンパス 寒梅館(地下 1 階)
新町キャンパス 尋真館 4 階
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第 67 回美学会全国大会
発表要旨集
2016 年 10 月 8 日(土)
、9 日(日)
於 同志社大学
編集・制作
第 67 回美学会全国大会実行委員会事務局
〒602-8580 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入
同志社大学人文科学研究所事務室気付
E-mail: [email protected]
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