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精神分析キーワード
by
利根川義昭
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§1去勢
1.1去勢
精神分析でいう「去勢」の概念には、男性性器を切りとるといった通俗的意味あいはな
い。
「去勢」とは、五歳くらいの子どもが無意識のうちに体験した複合的な心理的経験のこと
をいう。
この経験は、子どもが自分の将来の性的同一性を受け容れるにあたって決定的な重要性を
もつ。
基本的には、子どもが不安を感じながらも性の解剖学的差異にはじめて気づき、それを[己
のものとして]認めることをいう。
それ以前の子どもは、自分が全能だという幻影のなかで生きている。しかし去勢という試
練を経た後に彼は、世界が男と女から成り立っており、身体には境界(限界)があることを
認めるようになる。
つまり子どもである己のペニスでは、自分の母親への強い性的欲望をけっして実行できな
いことを認めざるをえなくなる。
1.2男の子にとっての去勢コンプレックス
フロイトは、五歳児の「小さなハンス」の症例を検討したさいに、「去勢コンプレック
ス」と彼が名づけたものを発見した。
このコンプレックスを最初に彼が記述したのは1908年のことで、その論拠には、この男の
子だけでなく、大人の患者の幼児期の記憶にかんする分析があった。男性の去勢コンプレ
ックスの成立は、かんたんに図式化すると以下の四期に分かれる。
1.3第一期 誰もがペニスを持っている
去勢の概念が真に問題にしているところを理解するには、まず男の子が想い描く空想につ
いて知らねばならない。
あるとき男の子は自分と同じペニスを誰もが持っているはずだと思いこむ。これは幼児的
なさまざまな思いこみが成立するための前提段階であって、これをもとに子どもは男性性
器と女性性器のあいだに解剖学的な差異などないはずだと信じこむようになる。
フロイトが着目したこの思いこみは、男の子にも女の子にも共通してみられるもので、去
勢という心的経験に欠かせない前段階として生じる。
だが、誰もが所有しているはずのこの身体器官を、実は身近な人――母親や妹など――が
持っていないことにはっきり気づくと、男の子は自分の思いこみを捨てて、やがていつか
自分も同じくそれを失うのではないかという不安を抱きはじめる。
1.4第二期ペニスが脅かされる
第二期に入ると、子どもは、親から自体愛的行為を禁じられ近親相姦的幻想を捨てるよう
求められたさい、この言葉による威嚇により恐れを感じる。
いつまでも自分の身体を愛撫し続けてやめないような子どもは、この威嚇のおかげで、一
見してあきらかに性器という身体部分を失う危険性から[心理的に]身を守ることができ
る。
しかし親たちのこの叱責の言葉は、暗黙のうちにもう一つの役割を果たす。つまりそれ
は、いつか母親との関係のなかで自分が父親の立場にたちたいという男の子の期待をすべ
てあきらめさせるのである。
この去勢の威嚇は直接にはベニスにたいして向けられたものであるが、その影響は愛情の
対象である母親をいつか自分のものにしたいという男の子の幻想にまでおよぶわけであ
る。
そこで子どもは母親という愛の対象をあさらめざるをえなくなる。言葉による警告、とく
に父親からの[禁上の]言葉は、しだいに子どもの心に内化(内面化)されて、これが超自我の
起源となる。
1.5第三期ペニスを持たない人たちがいる、だから脅
威はたしかに本物(現実的)だ
この時期になると子どもは、女性の性器部位に視覚的に気づいてそこに注意を向けるよう
になる。だがまだこの時期には、女性の陰部を目にしても、それが女性性器だとは理解で
きず、むしろ女性の身体にあるペニス状の部位だとみなしてしまう。
だから子どもがそこに視覚的に見いだすのは、腔ではなく、ベニスの欠如なのである。
男の子は、最初はこの欠如に何の関心も示さないかのようにみえる。だが、これまで気づ
かなかった危険を視覚的に知覚することによって、第二期に聞いた[親の]言葉による威嚇
(脅威)の記憶がいまや明白な意味をもつようになる。
ペニスを持っていることを誇りに感じている男の子が、あるとき少女の性器部位を目にす
る。すると彼は、女の子が自分とよく似た人間なのにペニスを持たない事実を認めざるを
えない。このため自分のペニスもなくなってしまうのではないかと彼は考えるようにな
る。
このように去勢の威嚇は、事後的に影響をおよぼすのである。男の子は、自分のペニスに
たいしてナルシンズム的な愛着心を抱いているので、自分とよく似た人間たちのなかにペ
ニスを持たない人がいるなどということは認めることができない。
だからこそ、女の子の性器をはじめて目にすると、彼の頑固な先入観――つまり、ペニス
を持たない人間などいるはずがない(そんなことは不可能だ)という彼の信念――が、日の前
の自明の事実にたいして強い抵抗を示すのである。
第四期母親も同じく去勢されている......不安の出現
女の子にペニスがないことを実際に日にしても、あいかわらず男の子は、母親のように年
上で尊敬すべき女性ならペニスがあるはずだという信念を変えようとしない。だが後にな
って女性が出産することを知ると、自分の母親にもやはりペニスがないことを実感するよ
うになる。この時になってはじめて本物の去勢不安が生じてくる。
去勢コンプレックスが実質的にできあがるのは、まず女性の性器官を見たことによって[重
要な]意味を与えられた威嚇が危険の印だと感じられたときである。だがそうなるために
は、もう一つの別な要因がなければならないことをわれわれは知っている。
女性の身体部位を見たことで、子どものなかには――現実的なものであれ、想像的なもの
であれ――言葉による威嚇の記憶がよみがえる。
この威嚇は、かつて両親が口にした言葉であり、子どもにたいしてペニスの興奮から得ら
れる快感を禁じた言葉である。
このように、去勢コンプレックスが成り立つための主要な二条件は、一つは女性の身体に
ペニスがないことを視覚的に知覚することであり、もう一つは、両親の言葉による威嚇を
聴覚的に想起することである。
1.6最終期去勢コンプレックスの終了とエディプス・
コンプレックスの終了
去勢不安にとらわれたあと、その影響を受けた男の子は、禁止を含んだ掟を受け容れる。
そして母親を性的パートナーに選ぶことを諦めて、自分のペニスを救う道を選ぶのであ
る。
このように母親を断念して父性的な掟を受容することにより、エディプス的な愛という局
面が完成される。男の子はこのとき男性としての己の同一性を肯定できるようになる。通
過しなければならなかったこの危機を通して、彼の心は実り豊かに構造化される。
というのも彼は、己の欠如を受け容れたうえで、自分自身の限界(境界)を創り出せるように
なったからである。言いかえれば男の子にとって、去勢コンプンックスの終了とはまたエ
ディプス・コンプレックスの終了でもある。
去勢コンプレックスはとくに強烈で決定的な仕方で消滅することに着日しよう。フロイト
はこう述べている。
「男の子の場合、エディプス・コンプレックスはたんに抑圧されるのではない。去勢の威
嚇がもたらす衝撃のもとで文字どおり砕け散るのである。そのさい理想的な状態だと、エ
ディプス・コンプれックスは無意識のなかでさえもはや存続しなくなる」。
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