立ち読み - 河北新報出版センター

空から見た仙台の中心部(1964年6月15日掲載)
はじめに
明治三十︵一八九七︶年に創刊した河北新報は、明治・大正・昭和・平成をまた
いで百二十年近くにわたり、四万二千号を超える新聞を発行してきました。記事の
量もさることながら、掲載された写真は膨大な数に上ります。
河北新報本社の資料庫には、数えきれないほどの写真が眠っています。その中から、
半世紀前に載った仙台の写真に目を覚ましてもらいました。切り抜き帳に収められ
た一枚一枚を見ると、市内のあちこちを市電が走り、青空の見える中央通に商店が
並び、聞いたこともないような通りを人が行き来しています。
現代の写真と比べてみれば一目瞭然。この五十年で仙台の風景は様変わりしまし
た。人が入れ替わり、ビルが建ち、道路や線路が建設されました。そんな中で、山
や田んぼが失われ、懐かしい町名が消えてしまったかもしれません。
風景は変わってしまいましたが、現代と過去の写真を並べてみると、ただ懐かし
いというだけではなく、時代を超えて通じるものがあるようにも思えます。それが
本書を開いて、それが何かを発見してもらえたら嬉しく思います。
うれ
何かは、見る人の年代や職業、性別などによって違ってくるでしょう。
編者
2
本書について
※この写真集は、一九六四年一月︱四月に河北新報で連載した﹁新仙台漫歩﹂を中心に、
六〇年代初めから半ばにかけての連載記事﹁仙台今昔﹂﹁ 万都市仙台﹂﹁わが町昔がたり﹂
で紹介した町や通り、公園、施設の中から、ランダムに百カ所を選んで掲載しています︵表
紙見返しの全景写真を含めると百一景︶。
※各タイトルの表記および見出し、写真説明は、原則として当時の紙面のままとしました。
半世紀前の雰囲気を伝えるため、掲載日の記事も抜粋して紹介しています。ただし、当時ま
だ使われていた差別語・不快語︵浮浪者など︶を言い換えるとともに、現代の新聞表記に合
わせて表現を変えた部分もあります。
※半世紀前の風景と対比させるため、最近の河北新報に掲載された写真や、新たに撮影し
た写真も収録しました。写真は必ずしも同じ場所から撮影したものではありません。写真説
明に掲載日がないものは、河北新報出版センターで二〇一四年六月から十一月にかけて撮影
した写真です。
※町名や通りの漢字表記・読み方については、仙台市教育委員会発行の﹃ 標﹄に準拠し
ました。また、読み方が二通り以上あるものについては、現在の仙台市民がふだん使ってい
る通称で紹介しています。
3
50
○ 大橋︵おおはし︶
︻カ行︼
○ 覚性院丁︵かくしょういんちょう︶
◆ 仙台市のあゆみ
はじめに
○ 蒲生︵がもう︶
○ 空堀丁︵からほりちょう︶
︻サ行︼
○ 作並街道︵さくなみかいどう︶
○ 三居沢︵さんきょざわ︶
○ 小鶴︵こづる︶
○ 米ケ袋︵こめがふくろ︶
◆ あのころの乗り物 ・ 車両
○ 勾当台通︵こうとうだいどおり︶
○ 国分町︵こくぶんちょう︶
○ 黒松団地︵くろまつだんち︶
○ 高等裁判所︵こうとうさいばんしょ︶
○ 勾当台公園︵こうとうだいこうえん︶
○ 北山霊園︵きたやまれいえん︶
○ 北六番丁︵きたろくばんちょう︶
○ 川内︵かわうち︶
○ 北仙台駅前︵きたせんだいえきまえ︶
本書について
目
次
○ 銀杏町︵いちょうまち︶
○ 稲荷小路︵いなりこうじ︶
○ 梅田川︵うめだがわ︶
○ X 橋︵エックスばし︶
○ 追廻︵おいまわし︶
○ 大手門︵おおてもん︶
○ 荒浜︵あらはま︶
○ 荒町・南鍛冶町︵あらまち・みなみかじまち︶
○ 秋保街道︵あきうかいどう︶
○ 秋保電鉄︵あきうでんてつ︶
○ 旭ケ丘団地︵あさひがおかだんち︶
○ 跡付丁︵あとつけちょう︶
○ 青葉通︵あおばどおり︶
○ 青葉山︵あおばやま︶
︻ア行︼
2
38 36
68 66 64 62 60 58 56 54 52 50 48 46 44 42 40
72 70
3
34 32 30 28 26 24 22 20 18 16 14 12 10 8
4
○ 三百人町︵さんびゃくにんまち︶
○ 市街全景︵しがいぜんけい︶
○ 鹿落坂︵ししおちざか︶
○ 清水小路︵しずこうじ︶
○ 市民図書館︵しみんとしょかん︶
○ 市役所︵しやくしょ︶
○ 定禅寺︵じょうぜんじ︶
○ 新寺小路︵しんてらこうじ︶
○ 瑞鳳殿︵ずいほうでん︶
○ 仙台駅︵せんだいえき︶
○ 仙台駅前︵せんだいえきまえ︶
○ 仙台銀座︵せんだいぎんざ︶
◆ 仙台市の人口推移
︻タ行︼
○ 大学病院︵だいがくびょういん︶
高砂︵たかさご︶
中央卸売市場︵ちゅうおうおろしうりしじょう︶
中央通商店街︵ちゅうおうどおりしょうてんがい︶
榴岡公園︵つつじがおかこうえん︶
角五郎丁︵つのごろうちょう︶
○ 燕沢︵つばめさわ︶
○ 動物園︵どうぶつえん︶
○ 東北大植物園︵とうほくだいしょくぶつえん︶
○ 東北大本部︵とうほくだいほんぶ︶
○ 通町︵とおりちょう︶
○ 虎屋横丁︵とらやよこちょう︶
◆ 建物のいま昔
︻ナ行︼
○ 中江︵なかえ︶
○ 中田︵なかだ︶
○ 長町︵ながまち︶
○ 苦竹︵にがたけ︶
○ 西公園︵にしこうえん︶
○ 西の平︵にしのだいら︶
○ 二十人町︵にじゅうにんまち︶
①文化編
◆ 六〇年代あれこれ
︻ハ行︼
○ 博物館︵はくぶつかん︶
○ 芭蕉の ︵ばしょうのつじ︶
○ 旅籠町︵はたごちょう︶
○ 八幡町︵はちまんまち︶
5
○ 大年寺山︵だいねんじやま︶
○ 台原︵だいのはら︶
○
○
○
○
○
98 96 94 92 90 88 86 84 82 80 78 76 74
○ 東仙台︵ひがしせんだい︶
○ 東二番丁︵ひがしにばんちょう︶
○ 東八番丁︵ひがしはちばんちょう︶
○ 口横丁︵ひぐちよこちょう︶
○ 東一番丁︵ひがしいちばんちょう︶
○ 明神横丁︵みょうじんよこちょう︶
○ 瞑想の松︵めいそうのまつ︶
○ 本荒町︵もとあらまち︶
○ 元常盤丁・錦町︵もとときわちょう・にしきちょう︶
○ 宮町︵みやまち︶
②世相編
◆ 六〇年代あれこれ
○ 八木山︵やぎやま︶
︻ ヤ 行・ラ 行 ︼
○ 広瀬通︵ひろせどおり︶
○ 琵琶首丁︵びわくびちょう︶
○ 野草園︵やそうえん︶
○ 養賢堂跡︵宮城県庁・ようけんどうあと︶
○ 評定河原︵ひょうじょうがわら︶
○ 広瀬川︵ひろせがわ︶
○ 袋町︵ふくろまち︶
○ 二日町︵ふつかまち︶
参考図書・資料
おわりに
◆ 一九六〇年代の主な出来事
○ 保春院前丁︵ほしゅんいんまえちょう︶
○ 細横丁︵ほそよこちょう︶
○ 澱橋︵よどみばし︶
○ 与兵衛沼︵よへえぬま︶
○ 連鎖街︵れんさがい︶
○ 連坊小路︵れんぼうこうじ︶
◆ 清流はどこへ
︻マ行︼
○ 三神峯︵みかみね︶
○ 神子町︵みこまち︶
○ 緑ケ丘団地︵みどりがおかだんち︶
○ 南小泉︵みなみこいずみ︶
○ 南町︵みなみまち︶
○ 南六軒丁︵みなみろっけんちょう︶
○ 宮城野原︵みやぎのはら︶
6
︻ ア 行 ︼
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
7
青葉通
青葉山
秋保街道
秋保電鉄
旭ケ丘団地
跡付丁
荒浜
荒町・南鍛冶町
銀杏町
稲荷小路
梅田川
X橋
追廻
大手門
大橋
青葉通
(あおばどおり)
珍しいケヤキ並木を誇る道
昔 は「 砂 漠 」の 異 名 も
︻ 当 時 の 記 事 よ り ︼
﹁皆さま、青葉通に入ってまいります。
ご覧の左右の並木はケヤキでございま
す。 ア カ シ ア、 ポ プ ラ、 桜 な ど も 植 え ら
れ、 杜 の 都 仙 台 に、 そ の 美 し さ を 添 え て
お り ま す ⋮﹂。 バ ス ガ イ ド 嬢 の 滑 ら か な
案 内。 市 内 巡 り の 観 光 バ ス は、 解 説 に ケ
ヤキをまず取り上げてくれる。
駅前から大町通に至る延長千三百八十
㍍ の 両 側 に、 百 四 十 四 本 の ケ ヤ キ が 見 事
な 枝 ぶ り を 見 せ、 上 へ 上 へ と そ び え 立 つ
ビ ル 街 に、 落 ち 着 い た 都 会 の 雰 囲 気 を 与
えている。
焼 け た だ れ た 戦 災 都 市 仙 台 に、 幅 五 十
㍍ の 道 路 を つ く る 計 画 を 聞 か さ れ﹁ 市 長
は 愚 か だ ﹂ と の の し っ た 人 も い た。 乾 け
ば﹁ 仙 台 砂 漠 ﹂、 降 れ ば﹁ 泥 田 ﹂ の 異 名
を 取 っ た。 そ ん な 悪 口 は ど こ 吹 く 風 と、
ケヤキはすくすくと育った。
︵一九六四年二月六日掲載︶
8
仙台国際ハーフマラソンで、
深緑のトンネルを駆け抜けるランナー
(2012年5月14日掲載)
︻ 半 世 紀 後 の い ま ︼
9
地 下 鉄 東 西 線 の 工 事 に 伴 い、 青 葉 通 の
ケヤキ約二百二十本のうち影響を受ける
四 十 四 本 に つ い て﹁ 移 植 か 伐 採 か ﹂ で 大
い に も め た 経 緯 が あ る。 結 局、 二 十 七 本
は 伐 採、 十 七 本 が 公 園 な ど へ 移 植 さ れ
た。 工 事 が 終 わ れ ば、 再 び ケ ヤ キ が 植 え
られる。
ケヤキ並木は、
いまも「杜の都」のシンボルだ
青葉山
(あおばやま)
市街地を見下ろす政宗像
観光仙台の象徴
︻ 当 時 の 記 事 よ り ︼
﹁自殺の名所﹂というありがたくない
ことで有名な八木山つり橋のかかる竜ノ
口 渓 谷 を 境 に、 南 側 を 八 木 山、 北 側 を 青
葉山と呼ぶ。
青葉山は伊達政宗が慶長七︵一六〇二︶
年 五 月 に 仙 台 城 を 築 い た と こ ろ。 仙 台 市
の 代 表 的 な 観 光 地 で あ る。 市 民 に と っ て
も絶好のレクリエーションの場所とし
て、年に何度も登る人が多い。
天 守 台 に は、 護 国 神 社 を は じ め、 政 宗
像、 土 井 晩 翠 の﹁ 荒 城 の 月 ﹂、 展 望 台 な
ど が あ る。 政 宗 像 は 戦 後 つ く ら れ た も の
で、 何 か 物 足 り な い と い う 声 が 強 い。 こ
れ を 政 宗 公 ゆ か り の 岩 出 山 に 移 し、 戦 前
のような騎馬像に代えるよう市で準備を
進めている。
︵一九六四年一月二十一日掲載︶
10
政宗と言えばこの騎馬像。りりしい姿で立つ
︻ 半 世 紀 後 の い ま ︼
11
も と も と は、 一 九 三 五 年 に 現 在 と 同 じ
騎 馬 像 が 建 て ら れ た。 し か し、 戦 争 で 供
出 さ れ た た め、 戦 後 に な っ て 写 真 の よ う
な政宗像を制作。平服姿だったため、
﹁平
和 像 ﹂ と も 呼 ば れ た。 い ま の 騎 馬 像 は、
記事の載った一九六四年に復元された。
青葉城跡より仙台市内を望む
秋保街道
(あきうかいどう)
ボーリングにより温泉探しもたけなわ
昔 は 出 羽 と の 往 還路
︻ 当 時 の 記 事 よ り ︼
﹁名取川かまぶろ温泉﹂なる奇妙な温
泉 が 出 現 し た。 不 老 長 寿、 な か ん ず く 神
経痛、リューマチに効くとある。
一 度 は 熱 い の が 噴 き 出 し た ら し い が、
い ま は 摂 氏 一 八・ 五 度 の お 湯 し か 出 な
い。 事 業 者 は 懸 命 に ボ ー リ ン グ 中 だ が、
本 格 的 な 温 泉 と な る ま で に は、 若 干 時 間
がかかるらしい。
仙台市と秋保温泉を結ぶこの古い街道
は、 か つ て は 二 口 峠 を 越 え て 出 羽 と の 往
還 路 だ っ た。 平 安 初 期、 慈 覚 大 師 が 開 基
し た と い う 大 滝 不 動 尊 が あ っ て、 昔 は に
ぎ や か だ っ た。 し か し 近 世、 発 展 の テ ン
ポ は 遅 く、 つ い 最 近 姿 を 消 し た 軽 便 鉄 道
がぴったりの街道筋だった。
ゆ く ゆ く、 か ま ぶ ろ 温 泉 な ど が 大 い に
に ぎ わ え ば、 四 囲 の 田 畑 も 人 家 で 埋 ま る
日も来るだろう。
︵一九六四年二月十五日掲載︶
12
大型店が並び、
車の往来も激しい。
のどかな街道風景の面影はどこに
︻ 半 世 紀 後 の い ま ︼
残 念 な が ら﹁ か ま ぶ ろ 温 泉 ﹂ は 成 功 し
な か っ た よ う だ が、 秋 保 街 道︵ 国 道
号 ︶ 沿 線 は 発 展 を 続 け て い る。 か
つての農村地帯は一大ショッピングロー
ド と な り、 週 末 と な れ ば 買 い 物 客 ら で 渋
滞になることもある。
らいらいきょう
年
2
0
1
3
月
5
日掲載︶
ライトアップされて樹木や岩肌が浮かび上がる
秋保の磊々 峡︵
13
2
8
6
2
秋保電鉄
(あきうでんてつ)
秋保電車の長町駅舎。青根温泉延長の夢は幻に終わった
時流 に 押 さ れ 廃 止 の 憂 き 目
︻ 当 時 の 記 事 よ り ︼
﹁秋保電気軌道株式会社は市外長町に
あ り。 大 正 元︵ 一 九 一 二 ︶ 年 九 月、 秋 保
石 材 合 資 会 社 を 設 立 し た る に 始 ま り ⋮。
着 々 準 備 を 進 め、 十 四 年 六 月 電 車 の 運 転
を 見 る に 至 れ り。 将 来、 秋 保 よ り さ ら に
青根温泉方面へ線路延長の計画なり﹂
︵大
正十四年発行の﹁仙台市写真帖﹂より︶
こ う し て 走 り 出 し た﹁ 秋 保 電 車 ﹂ だ っ
た が、 こ と し 五 月、 バ ス に 押 さ れ て 運 転
を や め た。 い ま 長 町 に は 終 点 の 駅 舎 だ け
がむなしく残されている。
﹁電車になる前は馬車鉄道で、通称﹃ト
テ 馬 車 ﹄ と 言 っ た。 御 者 が 豆 腐 屋 の よ う
な ラ ッ パ を 吹 き 鳴 ら し、 の ん び り と 湯 治
客 を 運 ん で い た も ん だ ﹂。 そ う 言 う 佐 藤
勘三郎さん︵名取郡秋保村・旅館経営者︶
は、 電 車 が 好 き で 最 後 ま で バ ス を 利 用 し
なかった人だ。
︵一九六一年六月十六日掲載︶
14
︻ 半 世 紀 後 の い ま ︼
ら
ら
当 時 の 長 町 駅 は、 太 白 区 文 化 セ ン タ ー
ら
メ
モ
楽 楽 楽 ホ ー ル、 図 書 館 な ど が 入 る 再 開 発
ビ ル﹁ た い は っ く る ﹂ の 場 所 に あ っ た。
い ま の ザ・ モ ー ル 付 近 な ど を 通 っ て 秋 保
まで走っていた。
口
へ向けて電車が走っていた
JR長町駅の駅前。楽楽楽ホールや高層ビルなどが立ち並ぶ。かつては、この辺りから秋保
テー﹂と吹き、馬の歩くリズムと合わせて
腐屋さんがラッパで﹁トテー、トテトテト
呼んでいたようだ。トテ馬車の愛称は、豆
記事で見ると、当時は﹁秋保電車﹂とも
と
お客さんに聞かせていたのが由来と言われ
る。
15
ひ
旭ケ丘団地
(あさひがおかだんち)
いまでは大きな町になった旭ケ丘
東北一の大団地
︻ 当 時 の 記 事 よ り ︼
﹁ 空 気 が き れ い だ し、 日 当 た り が よ い
から子どもを育てるのにはよい場所だ﹂
と 住 民 は 言 う。 窓 を 開 け る と、 市 街 地 は
煙 で 覆 わ れ、 い か に 空 気 が 汚 染 さ れ て い
る か 分 か る。 晴 れ た 日 に は、 泉 ケ 岳 が す
ぐ 目 の 前 に、 船 形 連 峰 や 蔵 王 連 峰 も は っ
きりと見える。
泉 町︵ 現・ 仙 台 市 ︶ と の 境 に あ る 郊 外
の 高 台 と い っ て も 都 心 部 ま で 車 で 十 分、
バ ス の 便 も よ い。 年 中、 新 築 の つ ち 音 が
絶えない。
いまでは千三百戸を超える東北一の団
地 に 膨 れ 上 が っ た が、 つ い 六 年 前 ま で は
雑 木 林 と 草 原 の 高 台 に す ぎ な か っ た。 団
地 名 は 土 地 会 社 が つ け た ニ ッ ク ネ ー ム。
いちねん ぽ
一 部 が 泉 町 に な っ て い る ほ か、 原 町 小 田
原 字 一 年 甫 上、 北 根 東 沢、 同 西 沢 な ど に
分 か れ、 お ま け に 番 地 が 飛 ん で い て ま こ
とにややこしい。
︵一九六四年二月二十一日掲載︶
16
︻ 半 世 紀 後 の い ま ︼
仙 台 市 初 の 住 宅 団 地 と し て 開 発 さ れ、
現在は約四千五百戸、八千人余りが住む。
市 は 一 九 六 四 年 に﹁ 仙 台 市 住 居 表 示 に 関
す る 条 例 ﹂ を 制 定。 翌 年、 第 一 号 と し て
旭 ケ 丘 地 区 が 指 定 さ れ た。 現 町 名 は 旭 ケ
メ
モ
丘一丁目から四丁目まで。
口
段々畑のように住居が連なる。地域内には青年文化センターや科学館があり、文化地区とし
また、アイヌ語で﹁広い川﹂を意味する﹁セ
さらに伊達政宗が
﹁仙台﹂
としたというもの。
プナイ﹂が変化したのでは︱と解釈する言語
ての顔を持つ
支配した国分氏により﹁千代﹂と改められ、
があり﹁千体﹂と呼ばれた。後に、この地を
かつて青葉山に千体の仏像が安置されたお堂
﹁仙台﹂の語源には諸説ある。その一つは、
と
学者もいる。
17
ひ