2016 年10月号掲載

series essay
田中みずき(銭湯ペンキ絵師)
海から観るペンキ絵
な中、漁船の会社のかたは外国からの船員の話をしな
銭湯のペンキ絵では、富士山の下に水辺の風景を描
がら、「この絵のことをわかってくれるかなぁ」と照
きます。湯船に浸かりながらご覧下されば、絵の中の
れ臭そうに笑いながら船を案内してくれました。兄貴
海や湖で入浴している気持ちを味わっていただけるか
分の面倒見の良さそうな笑顔から、この絵をもとに船
と思っています。しかし、本当に海で入浴すると、ど
員たちが国籍を超えてコミュニケーションをとる姿を
んな気持ちがするのでしょうか。
想像している様子が伺えます。
実は私は、海でご覧いただくペンキ絵を描いたこと
船が港に戻った時に眺める富士山は、長く続く海上
があります。それは、遠洋漁業船の中のお風呂場に絵
での毎日の後にやっと目にすることができる特別なも
を描くというお仕事でした。
のでしょう。それはすでに、日常生活の中でご近所の
その船は長い航海を終え、次の出航に向けて調整を
銭湯で観る絵とは違う意味を持つ富士山です。
すべく静岡県の港に停めてありました。一度海に漁に出
ると、一年間余り戻ることができないと言います。港か
船旅を想像しながら
らはとてもきれいに富士山が見え、日本を思い出せるよ
船の揺れが気になることも全くないまま、制作は進
うにこの富士山を描いて欲しいというお話でした。
みます。画中の海に漁船も入れ、実際に観た船の中に
富士山を見慣れているかたにご覧いただくというこ
入ってその船を描くという不思議な入れ子のような状
とで、いつも以上に気合いが入ります。ところが、富
況が面白くもありました。夕方には終わり、マグロを
士山の下にどんな風景を描くかで迷ってしまいまし
お土産にいただいて帰途につきます。
た。海に出ている時に観る絵なので、海の景色には飽
絵を描いていたのはわずか 1 日でありながら、とて
きているのではと思ったのです。
も長い旅をしてきたような気持ちがしました。漁船会
そこで、水辺の風景ではないものにしたほうが良い
社のかたの分かりやすい説明を聞くうちに、広い海ら
かとご相談すると、「この港から見える富士山にして欲
しく、いつもより少し大きな世界を知ることができた
しい」とのご要望が出ました。海の上から、日本に戻っ
ようにも思います。
た時に見える風景を思い出そうということのようです。
なお、船酔いはしなかったものの、小さい頃から大
好きなジブリ映画に出てきそうな雰囲気に酔いしれた
船員の富士山への思い
ことは秘密です。ジブリの映画によく出てくる飛行機
富士山への思いを伺い、船の中で過ごす毎日を想像
乗りではないけれど、たくさんの人が毎日を過ごすこ
してしまいました。船員たちは、故郷のことや、そこ
の船では、色とりどりの物語が生まれているはず。そ
に暮らす家族や友人、恋人のことを考えて頑張り、無
の物語の背景の一部に富士山があると思うとうれしい
事に戻れる日を思うのでしょう。絵があるということ
限りです。
の意味を考えさせられます。
それまで思っていた「銭湯でおなじみの」富士山は、
また、船員の皆さんが泊まる部屋や、捕れたマグロ
「うれしい帰還の」象徴でもあるのだと改めて痛切に
を冷凍する機械、運転室などを見せていただきながら、
感じるお仕事でした。
現在の遠洋漁業の状況も聴くことができました。現在
では船員も日本人だけではなく多くが東南アジアのか
ただそうです。人件費のこともあり、今後、日本の漁
業の歴史を担う人材をどのように育てていくかを考え
ねばならないというお話を聴きました。銭湯のペンキ
絵の描き手についても考えさせられるお話です。そん
10
公共建築ニュース Vol.48 No.574 2016 年 10 月号
プロフィール ● 1983 年大阪生まれ。幼少時から東京在住。筑波大学付
属高等学校進学後、明治学院大学在学中に銭湯ペンキ絵師・中島盛夫氏
に弟子入り。現在は独立し、銭湯のペンキ絵のほか、老人ホームの浴室や
店舗など制作の場を広げている。現代美術展覧会・レビュー情報サイト
「カ
ロンズネット」元編集長。ペンキ絵制作に関する活動は、ブログ「銭湯ペ
ンキ絵師見習い日記」
(http://mizu111.blog40.fc2.com/)
にて随時掲載。