パキスタン政治におけるイスラーム

パキスタン政治におけるイスラーム
井上あえか
パキスタンはムスリムの国家として独立したが、政教分離を基本とし、イスラーム国
家とならないという原則を継承してきた。しかし 1980 年代に政治が積極的にイスラーム
を利用する体制が築かれ、以後イスラームと国家や、パキスタンと周辺地域との関係に、
多大な影響を与えることになった。本稿では、パキスタンにおけるイスラームと政治の
かかわりを整理するとともに、南アジアのイスラームが担ってきた役割と性格を明らか
にする。そこにはまた、2001 年 9 月 11 日以降、アメリカ主導の反テロ戦略への協力がパ
キスタンにおけるイスラームに及ぼす影響についての考察を含めることとする(1)。
1.国家とイスラーム
(1) 建国の理念と政策
パキスタンは建国の理念においてイスラームを支柱に据え、憲法においてイスラーム
を国教と定めている。しかし独立運動の過程から、パキスタンにおいて政治と宗教の関
係は常に不明確さをはらんできた。パキスタンとインドが分離独立することになったの
は、ムハンマド・アリー・ジンナーが指導する全インド・ムスリム連盟が、英領インド
のムスリムにヒンドゥー支配に対する危機意識を強調してムスリムの統合を図り、結果
として大衆的な支持を集めたことによる。ムスリムの間にヒンドゥーに対する危機意識
は確かにあったのであろうし、事実として最終的にムスリム連盟がムスリムの支持を集
めたことは間違いない。しかし、長年ムスリムが多数を占める地域に住んできたムスリ
ムにとって、ヒンドゥー支配の到来は想定しにくいものであって、むしろムスリム連盟
によって中央集権体制が打ち立てられることのほうに危機感をもつものも多かった。ジ
ンナーらの主張が受け入れられ、選挙でムスリム連盟がムスリムの圧倒的支持を獲得す
るのは独立のわずか 1 年半ほど前のことに過ぎない。独立運動の過程で、ムスリム連盟
はムスリムに訴えるための手段としてイスラームを強調したが、結局イスラームはパキ
スタンがインドとは別の国家として成立し、国民統合を図るうえでの唯一の根拠となっ
ていった。
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イスラームをめぐってパキスタンがかかえる問題は、まず、ムスリムであることがひ
とつの国家を構成する国民を統合する原理として適切なのかどうか、つぎに、イスラー
ム国家ではなくムスリム国家であるという国家においてイスラームをどう取り扱うべき
か、であった。言い換えれば、ムスリムであること以外に社会経済的あるいは文化的な
共通性が希薄なパキスタン国民を、政教分離の政治体制下でいかにイスラームを紐帯と
して統合するか、ということである。ジンナーは独立運動の過程においても独立後の国
内統合に際しても、この国を「イスラーム国家」ではなく政教分離の「ムスリム国家」
としなくてはならないと繰り返し強調した。誰もがパキスタンの最大の問題と認識しな
がら手をつけない大土地制度を温存し、民主政府自体がそうした社会経済関係の中で限
界をもち、圧倒的多数の国民にとって政治が遠いパキスタンの現状にあって、イスラー
ムは国民の間で精神的に重要な役割を担っている。しかし、シャリーア (イスラーム法)
法廷は存在するがかつてこれが最高裁、高裁をしのぐ力をもったことはなく、1977 ─ 88
年のジアー・ウル・ハク政権のようにイスラーム化を重視する政権はあったものの、実
際パキスタンは独立以来一貫して政教分離を追求し、政治は宗教勢力との協力関係を維
持しつつこれを牽制する努力を続けてきた。ほとんどのパキスタンの為政者の理念にあ
ったのは近代的な政治制度と社会的なイスラームであって、いわゆるイスラーム革命を
予測させる状況にいたった経験もない。パキスタンのイスラーム勢力は社会的な役割を
担うにとどまり、政権を取りうるような勢力とはなっていない。パキスタンはムスリム
国家であってイスラーム国家ではなかった(2)。
(2) パキスタンにおける二つのイスラーム潮流
このようなパキスタンのイスラームを代表する思想家として、ファズルル・ラーマン
(1919 ─ 88 年)とジャマーアテ・イスラーミー(イスラーム党)の創設者サイイド・アブー
ル・アーラー・マウドゥーディー(1903 ─ 79 年)の二人があげられる。前者はアユーブ・
ハーン政権時代に、後者はジアー・ウル・ハク政権時代に、それぞれイデオローグとし
ての役割を果たした。
まず、パキスタン最初の長期政権となったアユーブ・ハーンの軍事政権は、経済開発
に力を入れ、近代化をめざす政策を採った。アユーブ時代の近代化政策の下でイスラー
ムの近代的解釈を実践したのは、ファズルル・ラーマンである。彼はパンジャーブ大学、
オクスフォード大学で学んだ後、カナダ、イギリスで教鞭をとり、1960 年にアユーブ政
権下のパキスタンに中央イスラーム研究所が設立されると、翌 61 年にその教授・所長に
就任した。中央イスラーム研究所はパキスタンのムスリムがイスラームの教えに従って
生活するために、「近代の進歩的社会の要請にこたえて合理的科学的用語でイスラームを
(3)
を目的として設立された。すなわち、イスラームの近代的解釈と改革
解釈すること」
をとおして、アユーブ・ハーン政権の近代化政策を支える理論的支柱となった。たとえ
ば、62 年憲法で国名からイスラームをはずし、パキスタン共和国としたものの、63 年末
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の第一次修正でパキスタン・イスラーム共和国と戻したこと(詳細は注(2)参照)や、憲法
の条文中の「聖コーランとスンナ」の表現が「イスラーム」に置き換えられたりしたこ
とは、アユーブ時代のイスラームの近代的解釈を示している。
ラーマンのイスラーム解釈は、実証的歴史学や社会学その他近代西欧の人文・社会科
学をイスラームに対立する「世俗的」学問としてではなく、イスラームの現代的解釈と
適用の方法として、批判的かつ積極的に用いようとしたものであると考えられる(4)。し
かしそれはウラマー(イスラーム法学者)や、ジャマーアテ・イスラーミーのマウドゥー
ディーらとの激しい対立を生んだ。後にジアー時代のイデオローグとなるマウドゥーデ
ィーは、「イスラーム研究アカデミー」を設立して前述の中央イスラーム研究所に対抗し
たが、アユーブの失脚後 1970 年に行われた選挙で、マウドゥーディー率いるジャマーア
テ・イスラーミーも、伝統派イスラーム政党も、惨敗といえる敗北を喫する。この 70 年
を境に、マウドゥーディーはジャマーアテ・イスラーミーのアミール(総裁)の地位を辞
して政治活動から身を引くが、ジャマーアテ・イスラーミー自体は、その後ジアー・ウ
ル・ハク政権への協力という形で、政治的影響力を伸ばしていくこととなった。
(3) ジアー・ウル・ハクの政策
パキスタン史上もっとも踏み込んだイスラーム指向を打ち出したのは、1977 年から 88
年のジアー・ウル・ハク軍事政権であった。この時代にパキスタンははじめて、政治、
経済、司法の面でのイスラーム化を明確にした。
1977 年、軍事クーデタでブットー首相を逮捕して政権を掌握し、翌年ブットーを処刑
したジアー・ウル・ハク陸軍参謀長は、自らの政権の目的を「イスラーム制度の導入も
しくは施行」とし、これを政権の正統性根拠として掲げた(5)。彼の論理はまさしく建国
の理念をめぐる解釈にかかわっていた。まず、パキスタンはムスリムの自治権を守るこ
とを目的としているがイスラーム国家化を求めない、というジンナー以来の主張を否定
し、本来パキスタン運動はイスラーム国家の樹立を目指していたという解釈を示し、つ
ぎに、以前の政権下ではムスリム国家であったがイスラーム国家を実現しておらず、こ
れはパキスタン運動の理念に反する、と主張した。これにより、ジアー政権はパキスタ
ン建国以来の目標であるイスラーム国家化を実現する政権であることを、自らの政権の
正統性の根拠とした(6)。
具体的政策としてジアー・ウル・ハクは司法、経済、政治のイスラーム化を掲げ、そ
れぞれ「イスラーム的法制改革」、「イスラーム的経済改革」、「イスラーム的政治改革」
とされたが、イスラームと国家との関係で重視されるのは法制改革であろう。「イスラー
ム的法制改革」として、まず 1979 年 2 月の大統領令によってイスラーム刑法が導入され
た。同年さらに、ラーワルピンディー、ラーホール、ペシャーワル、クエッタの各高等
裁判所にシャリーア上訴裁判所が設置され、80 年にはこれらを改めた連邦シャリーア裁
判所が最高裁判所に設置された(7)。ただし地域ごとに異なった慣習法や社会構造がある
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とき、イスラーム法はそれらと折り合いがつく場合には採用されるが、そうでない場合
には慣習法が優先される傾向が強く、ジアー時代のイスラーム化もそうした限定をまぬ
かれなかったことが指摘されている(8)。とくに人口の大多数を占める農村では、ジアー
の改革にいたるまで、一般に封建的な農村社会構造を改革する意味をもちうる法制度の
イスラーム化が、土着の家族法、社会構造に対してむしろ抑圧的ととらえられている。
国内に国家とイスラームの関係やイスラーム条項についての合意がないままに、イスラ
ームと国家をめぐる伝統派と近代派の対立が存続してきたことが、その原因とされてい
る(9)。ここでも建国の理念と国民統合の原理が問題の根源となっている。
「イスラーム的経済改革」と「イスラーム的政治改革」は以下のようであった。まず、
イスラーム福祉経済の導入を掲げ、利子の廃止と救貧がその柱とされた。国家住宅金融
公社の利子廃止、銀行の預金・資産運用の利子廃止、救貧目的の宗教税としてザカート
(富裕税)、ウシュル(農産物税)を導入した(10)。つぎに、近代議会民主制は反イスラーム
的であるとして、大統領の下に連邦評議会(大統領任命の諮問機関)をおいた。1985 年に
は第 8 次憲法修正によって下院、州議会、内閣の解散権を大統領に付与するとともに、
ムスリムと非ムスリムの分離選挙制度を導入した(11)。これらの改革は 88 年ジアー・ウ
ル・ハク政権が倒れた後も、90 年代後半まで継承された。
ジアーのイスラームはサイイド・アブール・アーラー・マウドゥーディーとジャマー
アテ・イスラーミーがその思想的支柱となっていた。先のファズルル・ラーマンは、聖
典のテキストを近代的価値にあわせて解釈し、聖典に新しい解釈(イジュティハード)を
加えていわばイスラームを近代化してきた。これに対して、マウドゥーディーは聖典を
他者の基準や原理に関係づけて解釈、理解すること自体が、すでにイスラームの破壊で
あるとする。「西洋の学問に通じながらイスラームを現代的に編纂する」けれども、「は
じめにイスラームありき」が彼の一貫した態度であり、いわゆる「イスラームの近代化」
とは異なっている(12)。しかしマウドゥーディーはジャマーアテ・イスラーミーで近代教
育を受けた人材と宗教教育を受けた人材の交流による団体運営を行っており(13)、西欧近
代的価値を否定する復古主義運動とも異なっていた(14)。
(4) 回避されてきた国政のイスラーム化
つぎに、パキスタンの政治がイスラーム化を回避してきたことを端的に示す事例を二
つ紹介する。まず 1969 年の例である。このときパキスタン全土にはアユーブ軍事政権に
対する反政府運動が広がっており、ジャミーアトゥル・ウラマーエ・イスラーム(イスラ
ーム・ウラマー党)やジャマーアテ・イスラーミーなどのイスラーム政党は、イスラーム
の危機を訴えて勢力伸張を図った。このときイスラーム政党の対抗相手は、東パキスタ
ンでは完全自治を求めるムジーブル・ラーマンのアワーミー連盟であり、西パキスタン
ではイスラーム社会主義を掲げるズルフィカル・アリー・ブットーのパキスタン人民党
であった。この選挙で、イスラーム政党(ジャマーアテ・イスラーミー、イスラーム・ウラマ
8
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ー党など)は全国で候補を立てたが計 18 議席を獲得したにとどまり、東西パキスタンの
二政党に完敗した。この時東西パキスタンの有権者は新しい政府の担い手として宗教勢
力を選択せず、この選挙で選ばれたのは西パキスタンではズルフィカル・アリー・ブッ
トー、東パキスタンではムジーブル・ラーマンという、いわゆるポピュリスト政治家た
ちが率いる勢力だったのである(15)。
もうひとつの例は、1998 年のシャリーア法案である。98 年 9 月、第二次ナワーズ・シ
ャリーフ政権下で三つ目の憲法修正案が下院に提出された。この憲法第 15 次修正案はコ
ーランとシャリーアを国家の最高法とすることをさだめていた(16)。シャリーフ首相はこ
の法案について、後述するジアー・ウル・ハクと同様パキスタン建国の理念の解釈と結
びつけ、シャリーア導入は「パキスタン建国の目的を最終的に果たすため」であると述
べた(17)。これは宗教勢力への働きかけの意図があると考えられ、内外でパキスタンが宗
教国家色を強めるという観測を生んだが、結果的に、この法案は上院を通過しなかった。
シャリーフ首相は 97 年の就任以来 1 年半の期間に、軍や最高裁といった国内の権威と対
立し、独裁とも見える体制を築きつつあったが、その一方で経済の停滞や独裁化への批
判も生まれていた。そのさなかにシャリーア法案をもち出したことについては、宗教勢
力からも政治家からも批判が起こった。「ナワーズ・シャリーフはパキスタンを崩壊のふ
ちに追いやったあげく、シャリーア法案に逃げ込もうとしている」(イスラーム党カーズィ
(18)
ー・フセイン・アフマド党首)
、「ナワーズ・シャリーフは憲法第 15 次改正によって独裁
(19)
などの批判からわかるよう
者になろうとしている」(98 年 10 月 4 日の全政党会議の決議)
に、シャリーフのシャリーア法案は、大義名分としてのイスラームを掲げることで高ま
りつつある批判をかわそうとしたものと看破されていた。資本家であるシャリーフ首相
が実質的なイスラーム化を指向することは考えられないことであったからである。
このように前者の例では、文字どおり有権者がイスラーム化を回避し、ポピュリスト
政治家が登場したことがわかる。後者の例では、一見イスラーム化政策であるが実は与
党がイスラームを自らの権力維持のために都合よく利用しようと試みたにすぎなかった
ことが示されている。
本節で見たように、パキスタン建国の経緯からイスラームが国家の象徴、あるいは統
合の柱として位置づけられてきたが、実際には政治的なイスラーム化が現実のものとな
ったことがあるとはいいがたい。ジアー時代のイスラーム化政策がその後も長く存続し
たことのひとつの理由は、次章で述べるとおりアフガニスタンやカシミールへの支援が
戦略的に実施され、同時にイスラーム・ナショナリズムが強調される状況が長期にわた
ればわたるほど、必然的に国民の間にもイスラーム意識が喚起され強調されて、相乗的
にイスラーム的な傾向が強まっていったということが考えられよう。しかしパキスタン
政治がイスラーム勢力と手を組んだ 1977 年以降を考えても、それは政治のイスラーム化
というよりは、政治が政権維持・強化のためにイスラームという大義名分を利用したと
いうべきであり、パキスタン社会において、イスラーム勢力は政治よりむしろ社会的な
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役割を多く担ってきたということができよう。
2.国境を越えたイスラーム勢力との関係
(1) パキスタン政府によるアフガニスタンへの資金、武器、訓練の供与
本章では、目を転じて国境を越えたイスラーム世界との関係において、パキスタンの
イスラームがいかなる対応を見せているのか検討する。ジアー・ウル・ハク時代以来、
パキスタンはアフガニスタンやカシミールといった近隣のイスラーム勢力との間に、緊
密な関係を構築するようになっていった。ただし後に触れるように、国外といっても域
内の関係に限定されるのが特徴であった。
まずジアー時代にイスラーム化という方針の下に打ち出された外交政策が、アフガニ
スタンの対ソ連ムジャーヒディーン諸派への支援である(20)。1979 年にソ連がアフガニス
タンの共産政権擁護を名目として軍事侵攻を行って以来、アフガニスタン各地で、イス
ラームを擁護し共産主義に反対する勢力が蜂起して、対ソ連戦争が始まっていた。彼ら
イスラーム教徒の反ソ連戦士(ムジャーヒディーン)たちは、パキスタン、アメリカを中
心とした外国の援助を受けて、88 年のソ連軍撤退まで東西冷戦の前線となった。パキス
タンは軍統合情報部(ISI)と、ジアー政権がイスラーム化のパートナーとして政権に取
り込んだイスラーム・ウラマー党を窓口として、アメリカの支援を受け入れ、中央情報
局(CIA)との協力関係を構築して、アフガニスタンのムジャーヒディーンを支援した。
その結果、80 年代をつうじて ISI とイスラーム・ウラマー党はパキスタン政治における
隠然たる支配勢力へと変貌していくこととなった。
ジアー・ウル・ハク政権がはじめたこのアフガニスタンへの干渉は、彼の政策の二本
柱であった「イスラーム化」と「ナショナリズム」によって、南アジア、アフガニスタ
ン、中央アジアのイスラーム圏をひとつの地域として構想する戦略にもとづいていた。
1988 年 6 月にジアー・ウル・ハクは次のように語った。「……前線国家という役割を引
き受けるリスクを負った以上は、地域情勢が以前のような状態に逆戻りして、インドや
ソ連の影響力が増し、われわれの国土への領有権主張がなされることなど許せない。真
のイスラーム国家、真のイスラーム連合が出現し、汎イスラーム主義の復興の一翼を担
うのだ。……パキスタンとアフガニスタンの間にパスポートは不要になる。いずれはタ
(21)
。
ジキスタンやウズベキスタンも合流するだろう」
ソ連撤退からムジャーヒディーン政権成立、ムジャーヒディーン政権下の内戦下をつ
うじて、支援相手はムジャーヒディーンのヘクマティヤル派からターリバーンへ移り変
わっていくものの、こうした ISI とイスラーム・ウラマー党の影響力は、事実上 2001 年
のアフガニスタン空爆にいたるまで継続された。2001 年秋にターリバーンと袂を分かっ
10
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てアメリカの空爆に協力する決定をした主体は ISI であると考えられ、そのことによって、
イスラーム・ウラマー党は ISI に切り捨てられ、勢力を失った(22)。
パキスタンが 1994 年以降ターリバーンを支援し育て、アフガニスタンへの影響力確保
を図ったのには、戦略的必要と中央アジアの天然資源へのルート確保という二つの意図
があったとされる。戦略的必要とは、基本的には先に引いたジアーのことばに示されて
いるインドやロシアの脅威への対抗であり、そこにはアフガニスタン、中央アジアにか
けてのイスラーム圏の統合というジアーの構想が受け継がれている。また天然資源への
ルート確保とは、いうまでもなく中央アジアの石油・ガスを、アフガニスタンとパキス
タンを通るパイプラインによって運び出すプロジェクトであり、すでに 80 年代からアメ
リカの石油会社ユノカルが深く関与し、88 年にソ連が撤退してもアメリカがアフガニス
タンから興味を失わなかった動機でもあった(23)。いずれにしても、普遍的なイスラーム
世界全体の問題が設定されているわけではなく、地域的には南西アジアと中央アジアが
想定されているにとどまっている。
また、アフガニスタンではターリバーンが誕生後 2 年あまりで首都を制圧する勢力に
成長した。ターリバーンは首都へ迫る過程で、進軍した村々の多くをほとんど戦闘する
ことなく統制下に収めていったといわれる(24)。彼らは内戦に疲れた一地域から生まれ、
人々に容認されて成長していった運動であった。そのように考えるならターリバーンの
目的はおのずとアフガニスタン国内の治安回復であって、それ以外の地域にまで敷衍し
うる広範なイスラーム復興運動とは直接のかかわりはない。その点が、ターリバーンと
アルカーイダが政治的な目的という観点から明確に区別されると考えられる根拠でもあ
る。
パキスタンのイスラームもアフガニスタンのイスラームも、政治的な関心の範囲はそ
れぞれ自国とせいぜいその周辺に限られている。中東、パレスチナ、チェチェンなどへ
の共感を表明することはあっても、それらは間接的な問題であって、ムスリムとしての
彼ら自身の内在的な関心とはいえないと考えられる。
(2) カシミール解放勢力への武器・訓練供与
パキスタンと国境を越えたイスラームとの関係が展開するもうひとつの舞台はカシミ
ールである。カシミールにおける反インド武装闘争は、1989 年ごろから激化した(25)。カ
シミール解放勢力はパキスタンのイスラーム党をその人的経済的な後ろ盾として、強い
つながりをもつと見られている。パキスタン政府はカシミール解放勢力への武器・訓練
供与について一切関与を否定しており、カシミールの解放運動に対して政治的・精神的
支援を行うという一貫した公式見解を示している。しかし実際にはアフガニスタンにお
いて対ソ連戦争が終了したころから、ISI とイスラーム党が連携してカシミールへのてこ
入れが開始されたと考えられている。
近年解放勢力はパキスタンにとって、さまざまな意味で両刃の剣となってきていた。
パキスタン政治におけるイスラーム
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第一に、解放勢力はインド軍を攻撃目標にしているという点ではパキスタンの利益であ
るが、一方で、その攻撃が一般市民の殺害に及び、国際法に違反し、テロを実行するこ
とになると、彼らへの国際的な批判がパキスタンの国際的評価の低下に直結する。それ
はただでさえ脆弱なパキスタンの立場をいっそう不安定なものとする。
第二に、カシミール解放勢力と国内のスンナ派武装勢力とは、人的に多く共通する部
分を有する。したがってカシミール解放勢力の活動を容認し、あるいは支援することが
国内の宗派間抗争を助長する可能性がある。これはパキスタン内政の不安定化を意味す
る。
第三に、カシミール解放勢力は当面の課題としてカシミールの解放を掲げているが、
とくにパキスタン人やアラブ人主体の組織はイスラーム主義者の集団である以上、いず
れはパキスタンを真のイスラーム国家に変えることに目標が移る可能性をもっている。
1.(2)で述べたとおり、パキスタンの政権がかつてイスラーム国家化を試みたことはな
い。イスラーム化を政策に取り込んだジアー・ウル・ハクでさえ、イスラーム勢力を政
治的に利用したに過ぎず、軍を頂点とする政教分離の原則は維持されており、政治の本
質的なイスラーム化を図ってはいない。カシミールのイスラーム解放勢力の影響がパキ
スタン国内に及ぶことは避けるべき事態と考えられる。
とはいえ、パキスタンがカシミールの反インド勢力を支援することには依然としてメ
リットがある。解放勢力がカシミールで破壊活動を行うことで多数のインド軍をカシミ
ールに張り付けることができ、パキスタンにとっては約 2 倍といわれるインドとの軍事
力格差を縮める安価な方法となる。パキスタンにとってインドとの対抗は第一の外交課
題であり、現実問題として、カシミールはパキスタンにとって大国インドとの外交にお
いて、最大の武器となっている。カシミール解放勢力の活動はパキスタンに利するのが
現実である。ここでも、パキスタンにとってイスラームは政治的な利用価値が高いので
ある。ただし、前に見たような国内のイスラーム勢力を政権が利用するという場合と異
なって、現在のカシミール解放勢力の中で目立った破壊活動を行っているのがアラブ人
やパキスタン人など外国人勢力であるために、パキスタンが彼らを利用する上でのリス
クは高まっている。パキスタンのムシャッラフ政権は 2001 年の同時多発テロ後、アメリ
カやインドの求めに応じて、2002 年 1 月までに、越境テロを実行しているとされるカシ
ミール解放組織を存続禁止とした。しかし越境テロやインドのジャンムー・カシミール
州におけるテロ事件はなくならず、ようやく減少したのは 2002 年 6 月以降だったといわ
れる。依然として ISI がこうした解放勢力を支援しているという認識はインドにもアメリ
カにもあって、パキスタンへの圧力は強まっている。
カシミール側に関して付言すれば、カシミール解放勢力の中で、外国人組織は資金力
や人的資源の豊富さを背景に 1990 年代末から大きくなった。しかし 89 年以来武装闘争
を担ってきたカシミール人解放勢力は、こうした外来者の台頭を歓迎しているわけでは
ない。2000 年にはカシミール人解放組織ヒズブル・ムジャーヒディーンがインド政府と
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の間で一時停戦の合意に達したり(これは結局長続きしなかったが)、カシミール人解放組
織の連合体である全党自由会議が、2002 年秋のカシミール州議会選挙への参加の可能性
を一時示唆するなど(結局参加はしなかった)、外国人組織との差異化を求める動きが見ら
れる。こうした変化の可能性が今後いかに展開するか注目される。
(3) 世界的なイスラームネットワークとの接点
これまで述べてきたように、南アジアのイスラームの政治目的は地域的に限定されて
いる。パキスタン国内では政権の安定と国民統合、またカシミールにおいては対インド
戦略とカシミール人の自決権行使、さらにアフガニスタンではソ連の侵略への対抗、あ
るいは治安回復といったように、あくまで地域的な政治状況の中にイスラームの役割が
あるのであって、汎イスラーミズムといえるような理念への関心は希薄であり、まして
や反ユダヤや反イスラエルなどとは基本的にほど遠いところにある。しかし、理念とは
べつにアフガニスタンやカシミールのムジャーヒディーンを訓練し彼らに武器を与え、
さらに彼らとその家族を養っている資金は、とくに 1990 年代末以降事実上アラブを中心
としたイスラーム世界全体から提供されている、という指摘がある(26)。その意味では、
南アジアのイスラームもまた、世界的なイスラームネットワークの一角に位置するとい
える余地がある。
カシミール武装闘争を支える資金は、近年、銀行口座に直接送金される匿名の寄付や、
インターネットをつうじた寄付の募集によってまかなわれており、世界中のイスラーム
教徒が容易に送金主となりうるという。ムジャーヒディーンの給与、留守宅への生活援
助、シャヒード(殉教者)への補償が、こうして集められた資金でまかなわれるという(27)。
パキスタンの JI は 1995 年にイスラーム殉教基金(Shehda-e-Islam)を設立し、殉教者への
補償や留守家族や遺族への資金援助を行っている。さらに家族の死をイスラームのため
の正しい選択として納得させるよう、遺族を慰めることにもつとめているという。アラ
ブ人、パキスタン人主体の武装組織で、2002 年 1 月にパキスタン政府によって存続禁止
とされたラシュカレ・タイバやハルカトゥル・ムジャーヒディーンも、慈善組織を設立
し、殉教者の家族に補償金を支給している(28)。
さらにこうした資金力は、若い人材をムジャーヒディーンとしてリクルートするため
にも使われる。武装組織に新たに加わる少年たちは、一見自発的に参加を決めているよ
うに見える。しかし、たとえば軍事訓練に参加すれば 5,000 ルピー給付されるため、雇
用機会の少ない貧しい少年たちの目には魅力的な就職先である。したがってこうした給
付金は自発的な参加の動機となりうる。インドの諜報機関の調査として紹介されている
ところによれば、1996 年から 2000 年の間に約 5,000 人の少年がパキスタン国内に存在す
る訓練基地に参加したという(29)。カシミール解放勢力をめぐっては、世界中の匿名の寄
付者から集まる資金が、南アジアのイスラーム圏の貧しい少年たちをひきつけるという、
経済関係が成立していると考えられる。
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しかしこうした資金によってまかなわれる活動の政治的な主張は、すでに述べたとお
りアフガニスタンにおける覇権争いやカシミール解放といったきわめて地域的な性格が
強く、域外のイスラーム運動と直接的に連携しているとはいえない。それはたとえばウ
サーマ・ビン・ラーディンとの関係に現れている。ウサーマ・ビン・ラーディンらは
1996 年夏にアフガニスタンに入り、ターリバーンの支配地域内に居住する許可を得た。
両者はこの時点では深いつながりを結ぶにはいたっていなかった。98 年春、ウサーマ・
ビン・ラーディンが反米・反ユダヤのジハードを呼びかけるファトワー(宗教令)を出し
た。これにたいして、ターリバーンの指導者ウマルは「自分以外の人物がアフガニスタ
ン国内で首長のように振る舞い、ファトワーを出すことは好ましくない」と強い不快感
を示した(30)。反イスラエルは中東イスラーム世界の問題であって、アフガニスタンの問
題ではなかったのであり、ターリバーンにとってウサーマたちは客人ではあったがけっ
して政治的同志とはいえなかったことが端的にあらわれている。この時ウサーマはウマ
ルに対し非礼を詫びて、以後ウサーマはアフガニスタンにおいてはウマルの下に位置す
ることを認め、ウサーマからターリバーン政権に対する、総額 1 億ドルに及ぶといわれ
る資金提供が始まったという(31)。
3.9 月 11 日後のパキスタンとイスラーム
(1) 9.11 の影響
2001 年 9 月 11 日までのパキスタンはターリバーンを支援し、カシミール解放勢力を支
援してきていたが、アメリカのアフガニスタン空爆を境にパキスタンの政策は大きく転
換した。まずパキスタン政府はターリバーンを攻撃するアメリカに協力を表明した。次
にカシミールのアラブ人・パキスタン人を主体とした武装組織の存続禁止と、国内のマ
ドラサ(モスク附属の宗教学校)の管理強化を表明した。このような政策は現ムシャッラ
フ政権の近代化指向ともあいまって、ジアー・ウル・ハク時代以来 1990 年代の民政期を
つうじて維持されてきたイスラーム重視政策の転換を意味していた。こうした転換はム
シャッラフ大統領の決定であると同時に軍事政権総体としての意向であると見られ、さ
らにいえば ISI の戦略的な結論であったと考えられる。イスラーム・ウラマー党はターリ
バーンとの決別というパキスタン政府の政策に強く反発して各地で反対のデモンストレ
ーションを行った。彼らが極めて感情的な反応を示したのに対して、彼らとともに 80 年
代以来アフガニスタンのイスラーム勢力支援を行ってきた ISI が、冷徹にパキスタンの戦
略的な利益を追求してターリバーンを切り捨てたことから、その力の健在ぶりが逆に照
らし出されたともいえよう。
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(2) イスラームをめぐるパキスタンの課題
ムシャッラフ大統領はカシミールの武装組織の存続禁止を発表したが、実態としてカ
シミールの「越境テロ」は減少せず、むしろ現在のインドとパキスタンの緊張を生み出
す原因となった。ムシャッラフのイニシアティブでイスラーム勢力を押さえ込むことは
一定程度できても、カシミール問題でインドに譲歩することは国民感情が許さないとい
う認識が根強い。さらに、武装闘争の存在は印パの軍事的不均衡是正と、カシミール問
題への国際社会の関心喚起に有効である。対インド政策の武器としてのカシミールを本
気で放棄できるのかは疑問である。
現在ムシャッラフ大統領は国政を掌握してはいるが、民主化という約束を果たさなけ
れば国際社会からの批判を浴びることになる。最高裁の判断に従って 2002 年 10 月に選
挙を実施することを約束したムシャッラフは、大統領として正統性根拠を確立するため
に、2002 年 4 月 30 日に彼がこれまでの民主化、改革路線を踏襲して今後も大統領職を継
続することへの是非を問い、投票の 97 % の支持を得たことを根拠として、自らの大統領
への就任を正当なものとして憲法に定めた(32)。また 8 月 21 日に憲法改正を実施し、大統
領権限の強化と国家安全保障評議会の設置を定めた(33)。民主化に向けたこうした一連の
流れについては、1985 年に民政移管を発表したジアー政権との類似性が指摘されている。
とくに国家安全保障評議会の設置を憲法に定めたことは、軍の政治への関与を明文化し
たものとして強い批判を受けている(34)。しかし、約束どおり 2002 年 10 月 10 日に実施さ
れた議会選挙とその後の首相選出や組閣にいたるまで、ムシャッラフは政党との良好な
関係構築をめぐって苦慮していた。
さらにジアー政権と決定的に異なるのは、イスラームの扱いである。近代主義者とい
われるムシャッラフは、この点で元来、ジアーとはまったく異なっているが、とくに
2001 年 9 月 11 日の同時多発テロ後、ジアー時代以来のイスラーム・ナショナリズムを弱
める改革を行ってきた。最大の政策転換はいうまでもなくターリバーン支援を停止し、
アメリカの対テロ戦略への協力を決めたことであり、それにともなう軍情報部の人事刷
新であった。昨年 10 月、親ターリバーン派といわれたパキスタン軍幹部 3 名が引退ある
いは政策決定に関与するポストから退いた(35)。
とはいえ、いうまでもなくイスラームはパキスタン建国の柱であり統合の原理である。
アメリカがテロリストといえどもムスリム同胞を攻撃する目的でパキスタンに駐留する
状況が長期にわたっているのは、ムシャッラフにとってさえ不本意なものである(36)。冷
戦期のジアー政権時代と異なり、一極構造の国際社会の目は軍事政権とイスラーム主義
にたいしていっそう厳しい。当面軍が政権を大きく左右する役割にとどまるとしても、
彼らがイスラームの大義を守りながら国益優先の判断を続けることには今後大きな困難
が生じるかもしれない。
パキスタン政治におけるイスラーム
15
4.むすびにかえて
パキスタンにおけるイスラームは、ムスリムが人口の 97 % をしめ、統合の原理として
の役割を果たしているということを除けば、多様である。イスラーム的な規範によって
政治を運営すべきだと考えるムスリムもいれば、日常生活の規範としてイスラームを重
視するが、政治・経済は近代的なシステムを支持するというムスリムもいる。自宅の女
性部屋を主な生活の場とするムスリム女性もいれば、国会議員となり男性社会の一員と
して活躍する女性もいる。ターリバーンのイスラーム政策も賛否さまざまに評価された。
どのようなイスラームがどのように政治にかかわるのかについて、独立運動の時代にも、
独立を遂げた時にも、そして今日に至るまで、パキスタン国民の間に具体的な合意はな
く、そのためにイスラームをめぐる複数の立場と政治との不確定的な関係が継続してい
るように見える。それはパキスタンにおいては、イスラームの許容範囲に幅があるとい
うことを意味し、そのことが、理念的な統合の原理と政治動態との間の乖離を生み出し
てきたものと思われる。
国家におけるイスラームの意味がさまざまに解釈されることは、一面で政治の方向性
や司法のあり方にマイナスの作用を及ぼした。たとえば、パキスタンにおけるイスラー
ムの役割の不安定さは、1.(3)で述べたとおりそのイスラーム法の扱われ方に端的にあ
らわれている。パキスタンにおいてイスラーム法には一貫性がなく不安定であるとの指
摘がある(37)。不安定とは、歴代の為政者たちの間の意見の相違が頻繁な法改正を招き、
法体系はいつ変更されるかわからないために依拠しがたい性格を帯びることになる、と
いうことを意味する。イスラーム法について、あるいは国家におけるイスラームの位置
づけについて、国民的な合意がないまま、国内にイスラームの位置づけをめぐる対立が
存続し、立場による対抗が生じる。為政者は概して近代主義者であったが、その中でも
イスラームをめぐる為政者の対応には相違があり、イスラーム法体系には矛盾や不安定
さが生じている。それを引き起こしているのはほかならぬパキスタンという国家の成立
の経緯に由来する国家イデオロギーであるとされる(38)。問題の根源は結局、二国民論と
その結果としての分離独立に回帰することとなる。
こうして、パキスタンにおけるイスラームの意味は、常にパキスタン国家の成立や性
格そのものとの関係の中で問題となっている。ターリバーン運動やカシミール解放運動
といった、国境の外のイスラームに関わる場合も、密接な関連のある近接地域の問題に
かぎられる。また、イスラームを解釈する立場にある学者たちの間にも、改革派同士で
さえファズルル・ラーマンとマウドゥーディーのような違いがあり、その他に伝統派の
ウラマーの立場がある。彼らは各々異なる立場から世俗政権の批判勢力となりうるので
ある。
ターリバーンとのかかわりでパキスタンの「ターリバーン化」、つまりイスラーム・フ
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ァンダメンタリズムが政治を支配することを危惧する見方もある。2002 年 10 月に、民
政移管を期して実施された選挙では、イスラーム 6 政党の連合体である統一協議会連盟
(MMA)が 52 議席(下院 272 議席中)を獲得し、パキスタン・ムスリム連盟(カーエデ・ア
ーザム派)とパキスタン人民党に次ぐ第三党になった。これはイスラーム政党が獲得した
議席数としては史上最高である。しかし少なくともこの選挙結果については、2001 年 10
月以来のアフガニスタン空爆に反対する世論が、明確に大統領の対米協力に反対した
MMA への支持としてあらわれたと見るべきであろう。これをもって、政治のイスラー
ム化を論じるのは早計である。現実にはこれまでにパキスタンの為政者がイスラーム主
義に政治的主導権をわたしたことはない。イスラーム主義の伸張がパキスタンの将来像
を決めるのではなく、選挙を受けて 2002 年 11 月に実施された形の上での民政移管を機
に、パキスタンが議会制民主主義を回復して国家としての安定を確立できるかどうかが、
今後パキスタンのさまざまなイスラーム勢力の動向を左右するものと見られる。
(注)
(1) 本稿は 2002 年 6 月 10 日のアジア政経学会東日本部会大会、共通論題「アジアの国際政治とイスラーム」
における報告にもとづいている。
(2) ただし、国名は憲法とその修正によって、以下のとおり変遷した。1956 年憲法でパキスタン・イスラーム
共和国。58 年「イスラーム」を削除。62 年憲法でパキスタン共和国。63 年第一次修正でパキスタン・イスラ
ーム共和国。73 年憲法でパキスタン・イスラーム共和国となって現在に至る。
(3) 中村廣治郎『イスラームと近代』、岩波書店、1997 年、192 ページ。
(4) Rahman, Fazlur, Islam and Modernity, University of Chicago, 1982.
(5) ジアー・ウル・ハクの政策については以下を参照。Mohammad Ziya-ul-Haqq, Taqarir, Pt. 1: Jul. 5 ─ Dec.
31, 1977; 浜口恒夫「イスラムとパキスタンの統合:ジアー・ウル・ハック政権下のイスラム化とその後」
『1990 年代における南アジアの構造変動』、文部省科学研究費・特定領域研究(A)「南アジア世界の構造変動
とネットワーク」総括班研究成果報告書 No. 2、1999 年。
(6) 浜口、前掲論文。
(7) Ian Talbot, Pakistan: a political history, pp. 245 ─ 286.
(8) Lubya Mehdi, The Islamization of the Law in Pakistan, Curzon Press, U.K., 1994, p. 70.
(9) Ibid., p. 220.
(10) Ian Talbot, op. cit., pp. 277 ─ 279.
(11) Ibid., p. 293.
(12) 山根聡「マウドゥーディーのイスラーム復興運動: 20 世紀インド・ムスリム知識人の動態的研究」『アジ
ア太平洋論叢』第 11 号、2001 年、198 ページ。
(13) 現在のアミール(党総裁)であるカーズィーフセインも地理学の学位をもち大学の教壇に立った経験があ
る。またナーイブ・アミール(副総裁)7 名の多くが法学、社会学などの学位を有している。
(14) 山根、前掲論文、198 ページ。
(15) Ayesha Jalal, Democracy and Authoritarianism in South Asia: a comparative and historical perspective,
Cambridge University Press, Karachi, 1995, pp. 66 ─ 85.
(16) 第 15 次修正案は二項からなり、もう一項は、憲法修正は投票数の 3 分の 2 の賛成で可決とすることを定め
ていた。これは憲法の改正をより容易にするものであった。
(17) Dawn, 13 October 1998.
(18) Dawn, 5 October 1998.
(19) Dawn, 5 October 1998.
(20) アフガニスタンの戦争については、以下を参照。Gohari, M. J., The Taliban: A Scent to Power, Oxford
University Press, Karachi, 1999; Rashid, Ahmad, Taliban: Militant Islam, Oil & Fundamentalism in Central
Asia, Yale University Press, 2000; 山根聡「パキスタン軍部と宗教勢力:対アフガニスタン政策を通して」『パ
キスタン─軍事クーデタの背景』、アジア経済研究所、2001 年; 山根聡「ターリバーンの盛衰」、広瀬崇子・
堀本武功編著『アフガニスタン:南アジア情勢を読み解く』、明石書店、2002 年。またパキスタン内政との関
パキスタン政治におけるイスラーム
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係に関しては、井上あえか「ターリバーンとパキスタンの内政」、広瀬・堀本編著、前掲書を参照。
(21) 1988 年 6 月 29 日の会見における発言。Selig S. Harrison,「パキスタンの危険な戦略」『ルモンド・ディプ
ロマティーク』電子版、2001 年 10 月。
(22) アフガニスタンの戦争とパキスタン内政の関係については、井上、前掲論文を参照のこと。
(23) Ahmad Rashid, op. cit.
(24) 山本芳幸『カブール・ノート』、幻冬舎、2001 年、62 ─ 63 ページ。
(25) 1989 年以降のカシミールにおける武装闘争の激化については、以下を参照。Stern, Jessica, ÒPakistanÕs
Jihad Culture,Ó Foreign Affairs, November/December 2000; Hewitt, Vernon, Towards the Future?: Jammu and
Kashmir in the 21st Century, Granta Editions, Cambridge, U.K., 2001; 井上あえか「カシミール問題の現状:
武装闘争の発生と変容」、武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争』(共同研究会中間成果報告書)、アジア
経済研究所、2002 年。
(26) Jessica Stern, op. cit.
(27) Ibid.
(28) Ibid.
(29) Times of India, 7 Dec. 2001.
(30) 山根聡「ターリバーンの盛衰」、広瀬・堀本編著、前掲書、48 ページ。
(31) 同上、49 ページ。
(32) 第 41 条 7 項。国民投票を根拠として大統領への就任を正当化するやり方は、注(33)の改正とあわせて、
ジアー時代の再来を思わせるものとなっている。
(33) もっとも大きな改正点は、大統領の下院解散権(首相解任権)を復活させたこと(第 58 条 2 項 b)と、国
家安全保障評議会を設置したこと(第 152 条 a)であった。前者はジアー・ウル・ハク時代に導入され 97 年に
廃止されていたが復活したもの。後者はジアー時代に構想されながら実現できなかったもの。
(34) 国家安全保障評議会の構成は、大統領(議長)、首相、上下両院議長、下院野党指導者、各州首相、統幕
議長、三軍の長の計 13 名。Dawn, 22 August 2002.
(35) 9.11 後のパキスタンの対応については、井上、前掲「ターリバーンとパキスタンの内政」を参照。
(36) アメリカへの協力表明に際して早期収拾を求めた。Dawn, 20 October 2001.
(37) Lubya Mehdi, op. cit., pp. 220 ─ 221.
(38) Ibid.
(いのうえ・あえか
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東京大学東洋文化研究所)
アジア研究
Vol. 49, No. 1, January 2003