音楽学会 発表&配布原稿

女性音楽家研究における「女性歌手」の所在
コルブランとサンティ=ダモローを例に
註:日本ロッシーニ協会紀要『ロッシニアーナ』第 32 号(2011 年)の拙稿 PDF 版。
水谷 彰良
本稿は日本音楽学会第 58 回全国大会:シンポジウム 5『創造する女性たち』
(2007 年 9 月 30 日、
宮城学院女子大学)における筆者の発表・配布原稿を改訂したものです。
はじめに
音楽と係わる女性に関する研究は、女性作曲家を中心に大きな成果をあげてきましたが、女性演
奏家については同時代にすでに有名だった楽器奏者や、作曲をなした著名人のみが対象とされてい
ます。そこには作品を研究対象とする音楽学的な立場とは別に、演奏家より作曲家を上位に置く近
現代の価値観、さらに女性演奏家においても楽器奏者を歌手より上位に置く、ある種の序列観が影
を落としているように感じられます。本題に入る前に、これについて簡単にふれておきましょう。
a. 音楽学と声楽研究の乖離と齟齬
音楽学の世界において歌手及び声楽全般に対する関心が近年まできわめて薄かったことは、声楽
に関する諸研究を音楽大学の声楽科の教員やアマチュアを含む在野の研究者に任せ、距離を置いて
きたことでも判ります。そこには幾つかの理由があります。
1) 多くの音楽学者が、声楽を別種のジャンルとして軽視してきた。
2) そもそも歌唱や声楽は実体が不明確で、流行や聴衆の趣味嗜好に左右され、録音技術が発明さ
れる以前の歌唱は復元不可能な「失われた声」のため、研究対象となりにくい。
3) 音楽大学の教育では音楽学科と声楽科が完全に分離され、互いに回路を欠き、個人的な交流は
あっても共同研究が成立しにくい。
4) 声楽教育における最重要の課題はより良い発声歌唱を身につけさせることにあり、学問的・音
楽学的立場からの専門教育は無きに等しい。そもそも声楽は充分な学問的基盤を欠いたまま大
学教育に導入され、個人レッスンの実技教育を中心に今日に至っている。
5) その結果、
「声楽の諸問題は声楽科に特化した専門分野」との誤解が蔓延し、日本ではオペラ・
アリアや歌曲の楽譜編纂も声楽科の教員が行い、音楽学の見地からは容認しがたい楽譜や教本
を流布させている。
b. 差別的な価値観・序列観の背景
声楽教育がテーマではないので、これ以上は詳しく述べませんが、声楽をめぐる諸問題は歴史的
見地から歌手、歌唱、声楽教育を考える上での「要」であると、ここで強調しておきましょう。
ところで、上記の諸点は直接的ではなくとも、
「演奏家より作曲家を上位に置く近現代の価値観」
や「演奏家においても楽器奏者を歌手より上位に置く、ある種の序列観」と関連するように思えて
なりません。これがごく近代に定着した価値観や序列観に基づくことは言うまでもありませんが、
19 世紀のある時点まで、筆頭オペラ歌手はオペラ作曲家や台本作家よりもあらゆる点で上位にあり、
また歌手は器楽奏者よりも上位の存在でした。18~19 世紀初頭における標準的序列を簡単なパター
ンで示すと、次のようになります。
オペラ:
ペラ:
筆頭歌手 > 作曲家 > 台本作家 > 装置・
装置・美術家 > その他
その他の出演者と
出演者と伴奏の
伴奏の楽員
歌手全般:
歌手全般
:
オペラ歌手
オペラ歌手 > コンサート歌手
コンサート歌手 > サロン歌手
サロン歌手 > 大衆歌謡の
大衆歌謡の歌手 > アマチュア歌手
アマチュア歌手
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演奏家全般:
演奏家全般:
ヴィルトゥオーゾ歌手
ヴィルトゥオーゾ
歌手 > ヴィルトゥオーゾ奏者
ヴィルトゥオーゾ奏者 > 伴奏専門の
伴奏専門の奏者 > 民間の
民間の歌手と
歌手と奏者
19 世紀初頭までのオペラ歌手は、作品に対して創造的に関与し、作曲家に自分の声や技術に合致
する音楽を書かせました。劇場や宮廷からの依頼なしに作曲家がオペラを書くことはなく、初演歌
手はその音楽の絶対的な前提でした。こうした歌手とオペラ作曲家の関係が決定的に逆転するのは
中期のヴェルディとヴァーグナー以降で、その後の歌手は創造的役割を喪失し、作品のより良い実
践者であることだけを求められます。そして 19 世紀に公開演奏会が増加した結果、人気オペラ歌
手と同格のコンサート歌手が現れ(例:ジェニー・リンド)、パガニーニやリストの登場でヴィルトゥ
オーゾ歌手とヴィルトゥオーゾの楽器奏者も同格になりました。残ったのは、
「ソリスト>伴奏者」
「プロ>アマチュア」
「クラシックの演奏家>大衆音楽の演奏家」の序列や格差です(これに「男性
。
>女性」を含めても構いませんが、オペラ歌手に関しては必ずしもそうではありません)
これとは別に、演奏家が同時に作曲家だった時代が終わり、それぞれが専業化するプロセスも重
要です。歌手が作曲家でもあった時代は概ね 17 世紀初頭までで、商業劇場が誕生して以降は多く
のオペラ歌手が作曲に手を染めなくなります。これに対し、楽器奏者は 20 世紀のある段階まで作
曲家(即興演奏を含む)を兼ね、楽器奏者を歌手よりも上位に置く序列観や階層化の一因になりまし
た(女性歌手は男性を中心にした観客の性的関心を集め、男性歌手より偏見を持たれやすい、との事情がある)。
ここまで述べたことは、声楽をめぐる諸問題に一定の回路をもつ人にとっての常識、ないしは共
通認識であろうと思います。そして、20 世紀に勃興した女性学やジェンダー論が音楽学の分野に波
及し、世界的規模で「女性と音楽に関する研究」と「女性作曲家の掘り起こしを通じての復活演奏、
録音、楽譜再刊」が行われ、一定の成果を上げていることも、この問題に少しばかり関心をもつ方々
に自明の事実と言えるでしょう。にもかかわらず門外漢の私は、従来の「女性と音楽に関する研究」
や「女性作曲家の掘り起こし」に、ある種の疑問を抱いています。一見別種の問題と思われる a と
b を最初に述べたのも、それらが絡み合って私の論点を形成するからです。
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1-(1) 歌手史/歌唱史からみた「女性と音楽に関する研究」の問題点
『プリマ・ドンナの歴史』
(全 2 巻、東京書籍、1998 年)は私の関心の一つ「オペラ歌手と歌唱の歴
史」に基づいて書きましたが、文献調査と執筆過程で自覚したのは歌手史や歌唱史に属する研究が
世界的に未成熟で、日本にはそうしたジャンルがあるとさえ考えられていないらしい、ということ
でした。執筆から 10 年を経た現在も、私は「日本にはオペラ歌手史や歌唱史に当たる研究ジャン
ルが存在しないのではないか」と考えています。
音楽学における声楽の位置づけとの関係もあり、
「女性と音楽に関する研究」においてもごく近年
まで、女性歌手は二次的ないしは添え物的な扱いをされてきました。そのことは、歌手史・歌唱史
研究で歴史的に重要と見なされる女性歌手とその功績が、女性と音楽に関する研究で重視されない
(もしくは見落とされている)という事実が証明します。ここでは、1810~40 年の女性歌手を例に述
べてみましょう。この期間の歴史的重要性は、歌手史・歌唱史の観点では主に次の三つに要約でき
ます── ① ロッシーニを中心にした作曲家によってベルカント・オペラの頂点が形成された。 ②
これに伴い、伝統的なベルカントの声楽技巧が極限に達した。 ③ 並行して 1830 年代にベルカン
トからドラマティックな歌唱様式への転換が始まり、1840 年頃を境にベルカントが衰退、ほどなく
終焉を迎える。
1810~40 年は、ベルカントの頂点と新たな声楽様式への過渡期を包摂する、歴史的にきわめて
重要な時期に当たります。歴史に残る偉大な歌手も、ここで現れました。この時期の最も重要な女
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性歌手として第一に挙げるべきは、イザベッラ [イサベル]・コルブラン Isabella[Isabel]Colbran(1784
[85 年説が誤りであることは後記] ~1845)
、ロール・サンティ=ダモローLaure Cinthie-Damoreau(芸名
としては Laura または Laure Cinti [-Damoreau] 生名ロール・サンティ・モンタラン Laure Cinthie Montalant,
、
ジュディッタ・パスタ Giuditta Pasta(1797~1865)、
マリーア・マリブラン Maria Malibran
1801~1863)
(生名マリ・フェリシテ・ガルシア Marie Félicité García,1808~1836)の 4 人です。けれども 1980 年代
までの女性と音楽に関する文献では、この時代の重要な女性音楽家はピアニスト兼作曲家のファニ
ー・メンデルスゾーン=ヘンゼル Fanny Mendelssohn-Hensel(1805~1847)に代表され、女性歌手は
一切言及されないか、例外的にマリブランの名が挙げられるだけです(網羅的な女性音楽家辞典を除く。
なお、マリブランの妹ポリーヌ[・ヴィアルド]
・ガルシアは後の世代に属し、クララ・シューマンも同様です)
。
1990 年以降の女性と音楽に関する文献ではこうした点が徐々に改められており、Women & music:
a history(edited by Karin Pendle.,Bloomington,Indiana University Press,1991/ 2-ed.2001.)にはコルブラ
ンを除く 3 人の名前が見出せます。そこではサンティ=ダモローが「パリで活躍し、パリ音楽院で
教鞭も執ったオペラ歌手」
、パスタが「ベッリーニ《ノルマ》のタイトルロールを初演した非凡な歌
手」
、マリブランが「ポリーヌ・ヴィアルドの姉」
「作曲もした歌手」
「夭折して後に小説や劇の主人
公になったオペラ歌手」
として挙げられ、
同時代の他の重要女性歌手についても言及されています。
そのラインナップはコルブランを無視したことを除いて歌手・歌唱史の観点から妥当といえますが、
個人的には総体的に見て「女性と音楽に関する研究」や「女性作曲家掘り起こし」の双方でなお、
女性歌手への目配りが乏しいように思います。なお、コルブランの歌手としての能力に関する証言
は「(しばしば一音高く、または低く歌う)最低の歌手」から「時代最高の完璧な技巧をもつ歌手」ま
で極端な幅がありますが、パスタに先立つ「ソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタの先駆者」で
(1815)から《セミラーミデ》
(1823)
あることは、彼女の創唱した《イギリス女王エリザベッタ》
に至るロッシーニのオペラ・セーリアの声楽書法が証明します。
1-(2) 作曲家としてのコルブラン再評価に向けて
コルブランは歌曲作曲家としてもイタリア歌曲史の空白を埋める一人ですので、ここで彼女の作
曲家としての側面に光を当ててみたいと思います(付録1「コルブランの作品目録とその問題点」参照)。
略歴を記しておきましょう。
コルブランの略歴:
1784 年マドリード生まれ。スペイン王室礼拝堂ヴァイオリン
奏者の父に早期教育を施され、6歳からマドリードのマエスト
ロの下で学ぶ。次いでナポリでオペラ作曲家ガエターノ・マリ
ネッリに師事し、14 歳から著名なカストラート、ジローラモ・
クレシェンティーニの教えを受ける。1798 年から 1808 年まで
マドリード、パリ、ボローニャなどでコンサートに出演、パリ
で名声を高めると 1808 年 12 月 26 日ミラーノのスカラ座にお
けるニコリーニ《コリオラーノ》初演でオペラ歌手デビュー。
その後ボローニャ、ヴェネツィア、ローマの劇場を経て、1811
年から 22 年までナポリの王立劇場で絶対的地位を得る。ロッ
シーニは彼女をヒロインに、
《イギリス女王エリザベッタ》
《オ
テッロ》
《アルミーダ》
《湖の女》
《セミラーミデ》など 10 作の
オペラ・セーリアを作曲した。
1822 年ロッシーニと結婚し、
1824
年引退、1837 年離婚、1845 年カステナーゾにて没。
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コルブランの肖像
作曲もしたコルブランが 4 種の歌曲集を出版したことは、フェティス F.-J.Fétis の音楽家辞典1に
も記され、その内容は後の重要音楽事典に踏襲されています(但し「4 種の歌曲集を出版した」との事
。楽譜の再刊は 1992 年が最初で(5 曲のみ。詳細
実にふれるだけで、タイトルや刊年等の情報は一切なし)
は付録 1 参照)
、作品目録は 1998 年のシュライファーMartha Furman Schleifer 編が最初と思われ、現
在までに 9 種のエディション(13 曲)が出版されています。
楽譜の再刊状況を見ると、コルブランの歌曲がキーティ Patricia Adkins Chiti(女性と音楽に関する
研究家としても有名なメッゾソプラノ歌手)によって価値を再認識され、続く女性作曲家シリーズによ
って女性と音楽に関する研究者に認知され、イタリア歌曲史の空白を埋める素材として 19 世紀歌
曲のアンソロジーの一隅を占めるに至った流れが見て取れます。コルブランの四つの歌曲集のうち
一つは筆写楽譜を原本に 2004 年に出版されましたが、にもかかわらず初版楽譜に基づく歌曲集の
完全な楽譜は未出版となっています。
ここでの問題は、作曲家コルブランに関するキーティの記述とシュライファー作成による作品目
録がきわめてずさんで、重大な誤謬を含む点です。付録 1 に私が新たに作成した作品目録を掲げ、
後発の楽譜再刊も含めて問題点や欠陥を明らかにしておきましたので、ご覧ください。
イタリアにおける女性と音楽研究の第一人者キーティと全 12 巻を予定する画期的な女性作曲家
シリーズの出版/編者シュライファーによる、こうした非音楽学的な仕事ぶりの原因がどこにある
のか私には判りかねますが、コルブランの事例は彼女たちの手がける他の女性作曲家や女性歌手に
関する記述と作品目録への信頼を損なわせはしないでしょうか。ちなみにキーティは他にもさまざ
まな楽譜を出版し、Donne in musica(Roma,1981)、Almanacco delle virtuose,primedonne […](Novara,
1991)の著書に加えて多数の論考がありますが、その記述には思い込みや古い文献を鵜呑みにした
誤謬が散見されます。こうした誤謬や欠陥の原因として、ここでは「歌手史・歌唱史研究の未成熟」
「異なるジャンルの専門家との連携の欠如」のみ挙げておきますが、私はもっと根深く、深刻な問
題があると考えています。そこで、声楽とかかわる別種の視点から「女性と音楽に関する研究」に
ついて述べてみたいと思います。
2 声楽教育と教則本の歴史からみた「女性と音楽に関する研究」とサンティ=ダモロー
歌手史・歌唱史と共に声楽の歴史研究の一分野をなすのが声楽教育と歌唱教則本の歴史です。こ
ちらも世界的規模で未成熟の研究領域であり、日本には専門研究者が絶無といってよいでしょう。
「女性と音楽に関する研究」においても女性音楽教育家の存在は重要なはずですが、19 世紀まで突
出した女性教師がいないため、これに関する記述はヨーロッパ各地に近代的な音楽院の誕生した
1800 年以降に絞られます(私的な教育活動を行った女性音楽教師は古くからいましたが、著名な人物や重要
。
教本の執筆者はいません)
前記 Women & music: a history では第 4 章「European Composers and Musicians,ca 1800-1890」
(Nancy
B. Reich 執筆)に Education の項目があり、女学生を受け容れた音楽院に関する記述に続いて引退後
に音楽院で教鞭をとった演奏家として、マリ・プレイエル Marie Pleyel(1811~1875)とポリーヌ・
ヴィアルド Pauline Viardot(1821~1910)の名を挙げ、さらに「30 年以上パリ音楽院の教授を務め
た」ルイーズ・ファランク Louise Farrenc(1804~1875)に言及し、最も多い行数を歌唱教本の著者
マティルデ・マルケージ Mathilde Marchesi(1821~1913)に費やしています。確かにマティルデ・
マルケージの声楽教本の一つ Méthode de chant théorique et pratique(Paris,1877)は今日も各国語に
翻訳されて教本に使われていますが、歌唱教則本の研究者であれば、女性の執筆した 19 世紀の重
要教本にロール・サンティ=ダモローの Méthode de chant composée pour ses classes du conservatoire
1
Fétis, François-Joseph.Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique,Vol.2
[Paris,1875]の項目 Colbran に、
「彼女は 4 種のカンツォーネ集を作曲し、一つはスペイン女王、もう一つは
ロシア女帝、3 番目はクレシェンティーニ、最後のそれはウジェーヌ・ド・ボアルネ大公に献呈」とある。
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(Paris, 1849)を挙げることでしょう。次に、サンティ=ダモローの略歴を記しておきます。
サンティ=ダモローの略歴:
1801 年パリ生まれ。語学研究者の父に素質を認められ、7 歳でパリ音楽院のソルフェージュ
科に入学し、ピアノとハープを学んだ後 13 歳で声楽科に移籍。政変で音楽院が閉鎖されると、
その才能に眼を留めたカタラーニ夫妻(パリのイタリア王立劇場
の設立者)の求めで 15 歳を目前にイタリア王立劇場の端役歌
手となる。その後、声楽教師としても名高いオペラ歌手マル
コ・ボルドーニとマヌエル・ガルシアの教えを受けてプリマ・
ドンナに昇格し、21 歳でロンドンのキングズ劇場のプリマ・
ドンナに求められる。続いてパリのイタリア劇場音楽監督ロ
ッシーニの薫陶を受けて才能を開花させるとロッシーニの求
めでオペラ座に移籍し、1826 年から 10 年間、ロッシーニ、
オベール、マイヤベーアのグラントペラの主役を創唱してオ
ペラ座で最も高額の報酬を得る。1836~41 年はオペラ・コミ
ック座のプリマ・ドンナを務め、現役で活躍中の 1832 年 11
月にパリ音楽院の声楽科教授に就任、1856 年まで教鞭を執る。
サンティ=ダモローの肖像
1863 年パリ没。
前述のように、サンティ=ダモローは「パリで活躍し、パリ音楽院で教鞭も執ったオペラ歌手」
として Women & music: a history に取り上げられ、同時代の歌手で最も多い行数(11 行)を使って説
明されますが、にもかかわらず声楽教則本の著者や作曲家の側面は無視されています。そこで付録
2 に、彼女の執筆した声楽教本と、確認しえた作品を挙げておきます。ちなみに大部の音楽辞典に
はサンティ=ダモローが声楽教本の著者で歌曲集も出版した、と書かれていますが、作品名を正確
に記した文献はなく、Fétis が音楽家辞典に記した Album de romances を無批判に掲げるだけです。
歌唱教則本の歴史に関する研究も徐々に成果が現れ、1800~1860 年にフランスで出版された重
要教本が全 7 巻のシリーズで復刻されています(Méthodes & Traités, Collection dirigée par Jean SaintArroman, Série II France 1800-1860, 7 volumes realizes par Jeanne Roudet: Chant.,Bressuire,Éditions J.M.
Fuzeau,2005)。そこには 14 人の作曲家・声楽教師の執筆した 17 種の声楽教本がファクシミリ複製
されていますが、女性の著者はサンティ=ダモローが唯一です。
ボルドーニ、ガルシア、ロッシーニに学んだサンティ=ダモローは、ベルカント唱法を身に付け
た最初のフランス人の女性オペラ歌手となりました。彼女がパリ音楽院の自分のクラスの学生のた
めに書いた声楽教本は、同音楽院における 1830~50 年代の声楽教育を理解する上で第一級の資料
であり、彼女の書き残した数百のカデンツァもまた、当時のオペラ座における歌唱の実際を知るた
めの重要資料といえます。そうした点を従来の「女性と音楽に関する研究」が重視せず、見逃して
いることが、私には不思議に思えてなりません。
3 結語:プリマ・ドンナ研究の視点での「女性と音楽に関する研究」への疑問
以上、コルブランとサンティ=ダモローを例に、
「女性と音楽に関する研究」の問題点をお話しま
したが、最後にプリマ・ドンナ研究の視点でから意見を述べ、結語に代えさせていただきます。
プリマ・ドンナ prima donna[伊](イタリアの音楽用語では近年「プリマドンナ primadonna」も使用)
は、現在では「活躍する女性」にまで意味を拡大して使われますが、狭義には「オペラの首席女性
歌手」を意味し、ある時点からオペラに出演する歌手の序列や称号に用いられました。ここで指摘
したいのは、この用語が内部に序列をもつオペラにおいて首席女性オペラ歌手に適用され、表向き
63
は序列のない女性作曲家や女性楽器奏者には適用されなかった、という点です。別な言い方をすれ
ば、
「失われた声」の時代の歌手にも、同時代の確固たる評価や客観的な評価基準が厳然とあったの
です。出演報酬とも合致する序列、出演歴、彼女たちのために書かれた音楽(楽譜)、歌唱に関する
同時代証言を総合的に分析すれば、声の実体が不明な時代の歌手と歌唱、評価が研究対象たりえま
す。例えばショパンはパリに来てすぐにイタリア劇場とオペラ座の上演に接して有名歌手の歌唱と
技巧を聴き比べ、マリブランとサンティ=ダモローについて次のように述べています──「ラ・マ
リブランは彼女の奇跡的な声で魅了する。彼女は容姿でも幻惑する! 驚異中の驚異![中略]ダモ
ロー=サンティ夫人は完璧に歌う。ぼくは彼女の歌唱がマリブランのそれよりも好きだ。マリブラ
ンは驚かせるけれど、サンティは魅了する。彼女は有名なトゥロンがフルートで成すよりも上手に
半音階を演奏する。彼女以上に完璧な声を持つのは不可能だろう」
(ヴォイチェホフスキ宛、1831 年 12
月 12 日付)
。
歌手に関する証言は、新聞批評のみならず観劇した音楽家やアマチュアによっても数多く書き残
されていますから、個々の歌手の声、歌唱、テクニックを明らかにでき、評価の指針とすることが
できます。それゆえ「当時は評価されなかったが、プリマ・ドンナより優れたセコンダ・ドンナや
端役女性歌手がいた」などという評価の逆転が、後世に起きることもありません。作曲家の場合は
作品があるので後世の新たな評価が可能ですが、女性作曲家の復権を目的に過大評価される可能性
も否定できません。作品のない女性楽器奏者の場合は、歌手の序列と異なる基準や同時代の好意的
評価のみを基準に、名演奏家の列に加えられる危険性があります(男性による否定的証言は、しばしば
「男優位の立場からの誹謗中傷」として無視するか、当時の男がいかに差別的で公平さを欠くかの例証として、
。その結果、オペラ歌手研究では不可能な、
「生前正当な評価を受けなかっ
批判的に言及されるのみ)
たが、実は同時代の大作曲家や大演奏家をしのぐ知られざる女性作曲家や女性演奏家が存在した」
との立言が──想像や過大評価も含め──可能になります。女性と音楽に関する書を読んでいて、
そう感じることがあります。
もう一つ私が気になるのは、女性の作曲した作品が正当に評価されずに忘れ去られた理由を、優
れた女性作曲家への嫉妬や当時の社会に蔓延する女性差別など、男対女の構図に求める傾向がみら
れる点です。後世にとって優れた作品が必ずしも同時代に正当な評価をされず忘れ去られるのは、
作者の性別と関係なく、今日も含めて歴史の常態ではないでしょうか。19 世紀末までの作曲家の圧
倒的多数が男であるなら、当然のことながら男性作曲家とその作品も膨大な数が忘れ去られ、その
中に復権すべき作曲家と作品が山ほどあるはずです。特定の時代や社会で評価されるものとされな
いもの、その関係やメカニズムもまた、未開拓の研究分野なのかも知れません。社会学や心理学も
関係するこの問題を性差に起因する事象と捉えることに、私は疑問を抱いています。
女性作曲家辞典や女性作曲家目録に掲載された名前は 1980 年代に 5000 人に達していますので、
現在は万の単位になっていることでしょう。そうした辞典を見ていると、
「音楽作品を残した女性の
人名録」の域を出ていないのではないか、と感じます。あまりに並列的、網羅的で、むしろ本質を
見え難くしているように思えるのです。
そして女性歌手や女性演奏家を同じ基準で加えていったら、
どうなってしまうのか、との疑問も芽生えます。
あらためてプリマ・ドンナや女性歌手に話を戻せば、すでに述べたようにオペラ歌手史の視点で
さまざまな客観的材料をもって時代ごとの名歌手の絞り込みが可能なだけでなく、声種ごとにその
系譜や変遷を明らかにすることができます。そもそも歌手には楽器演奏家と異なる特殊性が備わっ
ており、成人の場合、声種とジェンダーは(カストラートや例外的男性歌手を除いて)決定要因となっ
ています。そして女性歌手は男性歌手とは異なる声域と声質を備えるがゆえに、両性を登場人物と
するオペラでは(歴史に生じた特殊な用法や地域を除いて)不可欠の存在であり続けました。女性差別、
女性蔑視や誹謗中傷があっても、それが歌手としての正当な評価を妨げたり、名声を消し去ること
はありません。にもかかわらず、いや、むしろそこに原因があるのかもしれませんが、
「女性と音楽
64
に関する研究」における女性歌手は、不当に低く位置付けられているように思えてなりません。そ
の理由はさまざまで、すでに大方述べてしまった気もしますが、これに関して「音楽における女性」
研究の専門家の意見をお聞かせいただければ幸いです。
「門外漢がなにを言うか!」とお叱りを受けるのを承知で本音を言いますと、
「女性と音楽に関す
る研究」は、関連する研究分野の未成熟や遅れをよそに、脆弱な土台の上に巨大な構築物を建てよ
うとしているかに思えてなりません。女性研究者を中心とする「女性と音楽に関する研究」が再構
築する「新しい音楽史」もまた、
「女性を無視して構築された過去の音楽史」と同様の轍を踏むので
はないか、と私は危惧するのです。このままでは遠からず、小林緑先生が引用されたロネイの言葉、
「音楽史はなぜ、省略によって嘘をつくのか?」が、女性と音楽研究が構築する新しい音楽史に対
しても投げかけられるような気がしてなりません。ここでの「省略」とは、すぐには解決し得ない
問題、関連する諸分野の研究が未成熟の現状や基礎研究の欠如の「無視」や「隠蔽」を意味します。
「女性と音楽に関する研究」において、女性オペラ歌手研究が不在の原因はどこにあるのか?……
その答えを、女性と音楽に関する専門研究者にお尋ねしたいと思います。
付録1:コルブランの作品目録とその問題点
イザベッラ・コルブラン(Isabella
Colbran,1784-1845)の最初の作品目録
は、1998 年に刊行された次の叢書に
みられる──Women Composers:Music
①
Through the Ages (vol.4) : Composers
Born 1700-1799 [Vocal Music]』(edited
by Sylvia Glickman & Martha Furman
②
Schleifer.,New York,G. K.Hall,1998.)
。
コルブランの項目執筆と楽譜校訂は
Martha Furman Schleifer によるもので、
③
で、右図の作品目録が掲げられている
(①~④の番号は筆者が追加した)
。
④
コルブランが四つのアルバム(もしくは全 4 集の歌曲集)を出版したことは、グローヴ音楽事典(1980
&2001 年)その他の音楽辞典に書かれているが、個々のタイトルや出版社の情報は記されていない。
上記 Schleifer のコルブラン作品目録がこれに該当するものとして 4 種を挙げたことは、前記書の解説
(p.366.)に「コルブランは四つの歌曲集を作曲し、それぞれを、クレシェンティーニ、スペイン女王、
ロシア女帝、ウジェーヌ・ド・ボアルネに献呈した」と記したことでも判る。①~③の所蔵図書館記
載は編者による独自調査の結果であろう。けれども推測される刊年順の目録ではなく、第 2 集(①)
と第 3 集(③)はあっても第1集に該当する曲集を挙げていない。④は文献から得た情報を単に載せ
たものらしく、曲集のタイトルとしては不完全である。刊年推定は不正確で、②③のタイトルも献呈
先を省くなど不備が目立つ。
結論から言えば、Schleifer の目録はきわめて不完全であり、実際は①に先立つ第1集が存在し、続
いて刊行された①③②をもって 4 種の歌曲集が成立するのである(正確なデータは下記の筆者作成目録で
65
明らかにする)
。誤謬の原因が Schleifer の調査不足にあるのは明らかで、④については 19 世紀のフェテ
ィス(F.-J.Fétis)の音楽家辞典の記載に起源を持つようだ。
その後、筆者の知るかぎりコルブラン作品目録は作られていないが、簡略ながらより正確な情報が
次の論文にみられる(その p.24.及び註 16 において)。
Ragni, Sergio.Isabella Colbran: Appunti per una biografia(in Bollettino del Centro Rossiniano di Studi,
Anno XXXIII 1998,n.1.,Pesaro,Fondazione G.Rossini, giugno 1999.,pp.17-55.)
けれども、Ragni は第 1 集以外のタイトルを詳しく記していない。そこで筆者が新たに作成したコ
ルブラン作品目録を次に掲げ、現代の再出版を含むエディションの問題点を明らかにしておきたい。
【コルブラン作品目録(水谷彰良編)】
《Sei canzoncine》もしくは《Petis Airs Italiens》のタイトルを持つ曲集。各 6 曲からなる。編成は、
歌曲集 註:
歌(canto)とピアノまたはハープ(斜体部分はタイトル頁複製から転記。便宜的にタイトル冒頭を
太字で表示した)
。
① Sei / CANZONCINE / Ou Petis Airs Italiens / Avec Traduction
Française de DELRIEU / Avec Accompagnement / de Piano ou
Harpe / DÉDIÉS / à S.M. la REINE d’ESPAGNE / Par / D.a Isabel
Colbran / Sa Pensionée / Prix 5 f. / Propriété des Editeurs. Déposé à
la Bibliothèque Imp.le / A PARIS / Au Magasin de Musique Dirigé
Par M M.rs / Chérubini, Méhul, Kreutzer, Rode, N.Isouard et
Boieldieu / Rue de la Loi No.268 vis-à-vis celle Ménars. / A Lyon,
Chez Garnier, Place de la Comédie No.18 / 344[s.d. プレート番号か
ら 1805 年2]
註:被献呈者のスペイン女王はカルロ 4 世の妻マリーア・ルイーザ
(・ディ・パルマ)
(Maria Luisa [di Parma], 1751-1819.)
。全 6
曲のテキストはすべてメタスタージオ作品から採られ、オペラの
台本作者でもあるエティエンヌ=ジョゼフ=ベルナール・デルリ
ウ(Étienne-Joseph-Bernard Delrieu,c1761- c1836)のフランス
語訳が添えられている。
歌曲集 第1集のタイトル頁
② Sei / CANZONCINE / ou Petis Airs Italiens / avec Traduction française / et Accompagnement / de Piano ou
Harpe / DÉDIÉS / A La Majesté / L’Impératrice de toutes les Russies / Par / JSABEL COLBRAN /
Pensionée de S.M.la Reine des Espagne et Membre de l’Académie Philarmonique de Bologne / 2.me Recueil
Prix 6 f. / Propriété des Editeurs. Déposé à la Bibliothèque Impériale / A PARIS /
Au Magasin de Musique Dirigé Par M M.rs / Chérubini, Méhul, Kreutzer, Rode, et Boieldieu / Rue de
Richelieu, No.76, vis-à-vis celle de Ménars. / 557[s.d. プレート番号から 1808 年]
註:被献呈者「全ロシアの女帝」は、アレクサンドル 1 世の妻エリザヴェータ・アレクセーエヴナ(ルイー
ゼ・マリー・アウグステ・フォン・バーデン)
(Елизавета Алексеевна,1779-1826)を指すと思われる。
全 6 曲のうち 3 曲がメタスタージオのテキスト。
③ Six
Six / PETITS AIRS ITALIENS / avec Paroles françaises et Accompagnement / de Piano ou Harpe, / Dédiés /
à Sa Majesté Catholique / MARIE JULIE / Reine des Espagnes et des Indes / Par / ISABELLE COLBRAN /
Membre de l’Académie Philarmonique de Bologne / 3.eme Recueil. Prix 6 fr. / Propriété des Editeurs. ──
Déposé à la Bibliothèque Imp.le / A PARIS / au Magasin de Musique dirigé Par M M. / Chérubini, Méhul,
Kreutzer, Rode et Boieldieu / Rue de Richelieu, No.76, vis-à-vis la Rue de Ménars. / No.609.[s.d. プレート番
号から 1808-9 年(Ragni は 1809 年とする)
]
2
パリの音楽出版社と印刷楽譜のプレート番号による年代推定は、Anik Devriès / François Lesure: Dictionnaire
des éditeurs de musique française.,2 vols.,Genève,Minkoff,1979,/ 1988.に基づく。
66
註:被献呈者「スペインとインド諸国の女王 Marie Julie」は、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトの妻ジ
ュリー・クラリー(Julie Clary,1771-1845)を指し、この称号は彼女の夫が 1808 年にスペイン王ホセ 1
世に即位して得たもの。全 6 曲ともメタスタージオのテキストを用いる。なお、コルブランは 1808 年に
ミラーノのスカラ座と契約し、同年 12 月 26 日から出演している。
④ Six
Six / PETITS AIRS ITALIENS / des differens caractères avec Accompag.nt de Piano ou Harpe / Dédiés / à
Mr Crescentini son Maître / Par / ISABELLE COLBRAN / Pensionnaire de S.M. la Reine d’ Espagne &
Membre de l’Académie des / Philarmonique de Bologne. / Prix 6 f. / A PARIS / Au Magasin de Musique et
d’Instrumens de Mr DE MOMIGNY, Boulevard Poissonniere Nr. 20 / Propriété de l’ Editeur Déposée à la
Bibliot.e Imp.le[s.d., s.l. プレート番号が無く、年代推定の情報を欠く。住所から 1807 年 12 月~1824 年 10
月の間と判るが、コルブランは 1808 年冬から 1823 年までパリを訪問した形跡はない]
註:被献呈者は師ジローラモ・クレシェンティーニ Girolamo Crescentini(1762-1846)
。掲載楽曲が現時点
で未確認につき、テキストの作者に関する情報も不明。
[パリ以外のエディションについて]
a) Ragni は「イタリア副王 Eugenio Napoleone に献呈された別な《六つのアリエッタ(Sei ariette)》の
出版がローマのマルトレッリ社によって 1810 年 9 月 29 日付『カンピドーリオ新聞(Giornale del
Campidoglio)』紙上に告知されたが、結局実行されなかったようだ」と記している(Ragni,p.24.,n.16)。
その情報が音楽学者 Annalisa Bini によってもたらされたことは続く謝辞で明らかだが、このときの
イタリア副王は Eugenio Napoleone ではなく Eugène de Beauharnais(1781-1824)であり、であれば
Fétis の音楽家辞典における「最後の歌曲集はウジェーヌ・ド・ボアルネ大公に献呈された」との記
述と一致する。しかし、Bini/Antolini 共著の 19 世紀前半期のローマの音楽出版社に関する研究書
においても、このとき告知された作品で出版が確認できるのはマンフローチェのアリアのみ、とさ
れている3。告知されながら出版されなかった《六つのアリエッタ》が新作である確証はなく、その
後コルブランが新たな曲集を出版していないことから、パリで既刊の四つの曲集のどれかをローマ
で刊行する予定だったと推測するのが合理的ではなかろうか。
b) ナポリのジラール社(Bernardo Girard e C.)による《Sei canzoncine ou petits airs italiens》の印刷楽譜
が存在する(ICCU 目録ネット版所蔵データ[Codice identificativo:IT/ICCU/DE/ 02032006278]の記載は次
のとおり──Sei canzoncine : ou petits airs italiens / avec traduction française de Delrieu [Dalla cop.:] avec
accompagnement de piano ou harpe dedies a S.M. la Reine d'Espagne par D.a Isabel Colbran la pensionnee
Napoli : Bernardo Girard e Comp.[s.d., n.l. 344]
)
。この目録記載で腑に落ちないのは、曲目を〈Povero
cor tu palpiti〉と〈Il piè s’allontana dal caro sembiante〉しか挙げず、頁数からもこの 2 曲のみである
こと(残る 4 曲が出版されたかどうかは現時点で不明)。また Girard は楽曲単位でプレート番号を付すの
に、ICCU 目録は「344」しか挙げておらず、それがパリ初版のプレート番号と一致するのも不自
然である。しかしながら、このエディションがパリ初版の第 1 集の海賊出版であることは、献呈先
を含むタイトル頁記載の一致、前記 2 曲の一致、Delrieu の原テキストの存在でも明らかだろう。プ
Bernardo Girard e Comp.の社名は 1835 年以降の使用である。
レート番号での刊年推定は不可能だが、
単独出版の歌曲
a) CAVATINA O CANZONETTA
CANZONETTA / Di partenza,
partenza, o ultimo addio / Composta da Da ISABELLA COLBRAN. /
Dedicata alli suoi celebri maestri MARINELLI. e CRESCENTINI, / e a tutti li suoi amici di Parigi.
.Paris, Chez M.lles Erard.,s.d.l,n.508[テキスト冒頭“Parto vi lascio addio”とプレート番号 508 は ICCU 目
録ネット版による]
3
Bianca Maria Antolini / Annalisa Bini: Editori e librai musicali a Roma nella prima metà dell'Ottocento.,
Roma,Edizioni Torre d'Orfeo,1988.,p.15. なお共著者 Antolini が『Dizionario degli editori musicali italiani
1750-1930.』(Pisa,Edizioni ETS.,2000.)の項目「Martorelli, Giulio Cesare」の中で、1810 年にマルトレッリ
がコルブランの《六つのアリエッタ》を含む三つの楽譜を出版した、と記して前著と矛盾するが、単純な誤りで
はなかろうか。
67
註:Ragni はプレート番号を記さずに「パリを去る直前に出版させた」とし、コルブランが決定的にパリを離
れる 1808 年の出版とほのめかしている。しかし、プレート番号から推定できるのは 1805 年頃で、当時
彼女が歌手としてパリで最初の成功を収め、歌曲集第 1 集を刊行したことからもその可能性が高いであろ
う(コルブランはパリでの活動を 1805 年初頭に終え、スペインに帰郷した)
。テキストの作者は不明。
〈Già la notte s’avvicina〉
)in Passatempi musicali o sia raccolta di Ariette e Duettini per camera
b) Barcarola(
inediti, Romanze francesi nuove, Canzoncine Napolitane e Siciliane, Variazioni pel canto, piccoli Divertimenti per Pianoforte, Contradanze, Walz, Balli diversi etc.,[fascicolo 1]Napoli,Reale Litografia Militare
[Girard], ottobre 1824.
註;不定期ながら継続的に 1865 年まで出版されたアマチュア向け声楽・器楽曲の楽譜シリーズ《音楽の気晴
》は、副題冒頭の「未出版の室内アリエッタと小二重唱」との記載からも判
らし(Passatempi musicali)
るように、出版社が著名な作曲家に新曲を委嘱して作られた。最初の 1 年間(1824 年 10 月~1825 年 10
月)に 6 冊出版され、最初のアルバムにはコルブラン作品と共にロッシーニの新作歌曲〈En medio a mis
colores〉も掲載されている。なお、
〈Già la notte s’avvicina〉は 1833 年にミラーノの E.& P.アルタリア
社が再出版した(”Il Trovatore italiano, No.38 .”Milano,E.& P.Artaria,1833.)
。テキストはメタスタージ
オを使用。
現時点で確認されるコルブラン作品は以上がすべてで、
〈Già la notte s’avvicina〉を除いて 19 世紀中
の再版を確認できない。次に、1992 年に出版が始まる現代譜を刊年順に掲げ、問題点を注記しておき
たい(高声、中声、低声用それぞれを刊行した出版社もあるが、リストでは一種のみ挙げる)。
III. コルブラン作品の現代譜とその諸問題
(1) Una voce poco fa…
fa…ovvero le musiche delle primedonne rossiniane[edited by Patricia Adkins Chiti.,Roma,
Garamond,1992.所収。
〈Benché ti sia crudel〉
〈Vorrei che almen per gioco〉
〈Per costume o mio bel nume〉
〈T'intendo si mio cor〉
〈Ch'io mai vi possa lasciar d'amare〉の 5 曲を掲載]
註:この楽譜の決定的誤謬は、
編者 Chiti が 5 曲すべてに
「da “Petits Airs Italiens” dedicate a S.M.La Regina
di Spagna (1799)」と付した点にある(スペイン女王へ献呈したのは前記のうち 3 曲で、
〈T'intendo si mio
cor〉と〈Ch'io mai vi possa〉はロシア女帝に献呈した第 2 集の楽曲)
。
「1799 年」の年号も誤り(第 1 集
の初版は 1805 年、第 2 集は 1808 年)
。加えて Chiti は楽譜に先立つ解説(pp.26-29.)の中で、
「コルブ
ランの作曲活動は少女期に始まり、スペイン女王に献呈した 1 台のピアノまたはハープの伴奏を持つ4巻
の『室内アリエッタ(Ariette da Camera)
』は 14 歳で作曲され、彼女がアカデミー会員になる申し込み
をした際に、作曲者自身によりボローニャのアッカデーミア・フィラルモーニカで披露された」と記して
いるが、下線で示した部分はすべて誤謬である。
「14 歳で作曲」したとする根拠は不明で、上記のように
四つのアルバムはコルブランが 21 歳の 1805 年から順次出版された。1806 年 11 月 21 日にアッカデーミ
ア・フィラルモーニカ会員に推挙された際、コルブランはボローニャにおらず(そもそも彼女がみずから
会員に申し込んだのではなく、
「歌手としての比類なき才能」により会員に求められた)4、アッカデーミ
ア・フィラルモーニカにおける演奏も翌 1807 年 4 月 19 日に初めて行われ、自作歌曲を歌っていないこと
が同日の印刷プログラムで確かめられるのである5。なお、拙著『プリマ・ドンナの歴史 II』
(東京書籍、
1998 年)はコルブランの歌曲集に関して、Chiti の記述と Fétis の音楽家辞典を踏襲した誤謬がある6。
(2) Women Composers: Music Through the Ages (vol.4):
1700--1799(
(vol.4): Composers Born 1700
1799(Vocal Music)
Music)[New
York,G.K.Hall,1998.所収。
〈Povero cor tu palpiti〉
〈La speranza al cor mi dice〉
〈Adonta del fato mio bene〉
〈Mi lagnerò tacendo〉の 4 曲を掲載(pp.369-381.)Martha Furman Schleifer 編・解説]
4
5
6
コルブランは歌曲集の第 1 集を出版した 1805 年にはパリに滞在しており、
翌 1806 年春にスペインに一時帰郷し、
その後一旦パリに戻ったと推測される(Ragni.,p.26.)
。もしくは 1806 年にスペインに一時帰郷した後にシチー
リア、次いで中部イタリアで活動と推測する文献もある(Appolonia.,p.167.)
。いずれにしろ、アカデミーに推
挙されたとき、コルブランはボローニャに「不在」
(Ragni)であった。
写真複製が Rossini 1792-1992 Mostra storico-documentaria.,Perugia,Electa Editori Umbri,1992.,p90.に掲載。
第 1 集の出版を
「1799 年」
としたことと関連する記述
(p.226.)
、
及び第 2 集~第 4 集の献呈先に関する記述
(p.228.)
。
68
註:編者 Schleifer によるコルブラン作品目録の問題点はすでに記したとおりである。その解説には〈Povero
cor tu palpiti〉が『Six Petits airs Italiens avec Paroles françaises』の第 1 曲と書かれているが、該当曲
は 1805 年の(実質的)第 1 集の第 1 曲であり、正しくは『Sei Canzoncine ou Petis Airs Italiens』の第
1 曲となる。しかし、Schleifer がコルブラン作品目録に第 1 集を挙げずにその楽曲を掲載したのは不可解
で、曲集のタイトルを第 3 集から転記した点も含め謎が残る。他の 3 曲はすべて第 2 集から採られ、その
旨正しく記されているものの、
〈La speranza al cor mi dice〉と〈Adonta del fato mio bene〉のテキスト
をメタスタージオとするのは誤りで7、この誤謬はその後のエディションに踏襲されることになる。
〈La speranza al cor mi dice〉
〈Adonta del fato
- (2(2-bis) Isabella Colbran: Four Songs :〈Povero cor tu palpiti〉
mio bene〉
〈Mi lagnerò tacendo〉.,Hildegard Publishing Company,1998.
註:前記(2)の 4 曲を原出版社 G.K. Hall の許可を得てリプリントし、1 冊で出版したもの。
〈La speranza
al cor mi dice〉と〈Adonta del fato mio bene〉のテキストはメタスタージオとされたまま。
(3) Arie, Ariette
riette e Romanze : composizioni vocali da camera di operisti dell'Ottocento[scelte e rivedute da
Riccardo Allorto.,Milano,Ricordi,1998.所収。
〈Già la notte s’avvicina〉
〈Quel cor che mi prometti〉の 2 曲を
掲載(pp.27-31.)
]
註:編者 Allorto は解説(p.VI)の中で全 3 集からなる『Sei canzoncine ou petits airs italiens avec traduction
françaises et accompagnement de piano ou harpe”』のみ言及し──これが第 2 集の記載であることは上
記作品目録でも明らか──掲載楽曲の出典を記していない。
〈Quel cor che mi prometti〉は第 3 集の第 2
曲に該当するものの、
〈Già la notte s’avvicina〉を『Sei canzoncine ou petits airs italiens』の楽曲とす
るのは誤りで、その初版は 1824 年にナポリで出版されている(筆者による作品目録参照)
。なお、Allorto
は第 1 集の出版を「1806 年より前」
、第 2 集と第 3 集を「1809~11 年の間」と誤った推定をしている。
(4) Passatempi musicali […]Vol.1: musiche di Donizetti, Rossini e altri[a cura di Ignazio Macchiarella.,
Bologna,Ut Orpheus Edizioni,1998.所収]
註:
〈Già la notte s’avvicina〉のみ掲載(p.2-3.)
。初版楽譜に基づく現代譜で、原本は前記 II-b) Barcarola。
(5) The First Solos,S
olos,Songs
,Songs by Women Composers[edited by Randi Marrazzo.,Hildegard Pub.,2000.所収 (high,
medium and low voice)]
註:
〈Già la notte s’avvicina〉のみ掲載。解説に新味を欠き、ボアルネに献呈された曲集を含めて全 4 集と
する誤謬を踏襲。
(6) Gateway to Italian
Italian art songs : An Anthology of Italian Song and Interpretation[edited by John Glenn
Paton].,Van Nuys, Alfred Publishing Co.,2004.所収。
〈Già la notte s’avvicina〉を掲載(p.81-82.)
]
註:編者 Paton は出典に Passatempi musicali の初版(前記 II-b)とその現代譜(4)
、さらに 1833 年のミ
ラーノ版(E.& P.Artaria,1833.)を挙げている。
(7) Sei canzoncine : For Soprano (original
(original key) & Piano / by Isabella Colbran[edited by Alejandro Garri /
Assisted by Kent Carlson., First Edition,Mühlheim,Garri Editions,2004. No.1〈Povero cor tu palpiti〉No.2
〈Il piè s’allontana dal caro sembiante〉 No.3〈Benchè[sic]ti sia crudel〉 No.4〈Per costume, oh mio bel
nume〉 No.5〈Vorrei che almen per gioco〉 No.6〈Chi sa qual core〉を掲載。
註:フランクフルトの図書館所蔵の筆写譜(Frankfurt am Main, Stadt- und Universitätsbibliothek.,Mus.
Hs.872)に基づく現代譜。Notes(p.iii)に「テキストの詩人、初演都市と作曲年は現在私たちに不明」
と書かれているが、掲載曲は第 1 集の全 6 曲と一致し、初版が 1805 年パリ、テキストがメタスタージオ
であるのは明白で、コルブラン作品に関する基礎的な調査なしに筆写譜を原本にしたことが判る。
(8) Women Composers, A Heritage of Song[edited by Carol Kimball.,Milwaukee,Wis,Hal Leonard,2004.所収。
〈Povero cor tu palpiti〉
〈La speranza al cor mi dice〉を掲載]
註:出版社は(2) (2-bis)と同じでも編者が異なり、楽譜も新たに起こされ、実用譜のための変更がある。
〈La
speranza al cor mi dice〉のテキストはメタスタージオとされたままで、解説に新味がなく、ボアルネに
献呈された曲集を含めて全 4 集とする誤謬を踏襲している。
7
Sirch, Licia., Metastasio nella musica vocale da camera nell’Ottocento の目録(Appencice I)ではこの 2 曲が
除外され、私の調べでもメタスタージオ以外の作と判断しうる。但し、詩人は特定できない。
69
これまでに再出版されたコルブランの歌曲は、次の 13 曲である。
〈Adonta del fato mio bene〉
〈Benché ti sia crudel〉
〈Ch'io mai vi possa lasciar d'amare〉
〈Chi sa qual core〉
〈Già la notte s’avvicina〉
〈Il piè s’allontana dal caro sembiante〉
〈La speranza al cor mi dice〉
〈Mi lagnerò
tacendo〉
〈Per costume o mio bel nume〉
〈Povero cor tu palpiti〉
〈Quel cor che mi prometti〉
〈T'intendo si mio
cor〉
〈Vorrei che almen per gioco〉
。
付記:コルブランの生年月日について
従来の音楽辞典と音楽文献ではコルブランの生年月日が 1785 年 2 月 2 日とされてきたが、正しく
は「1784 年 2 月 28 日生まれ、3 月 1 日受洗」であることが、Ragni によるマドリードのサン・マル
ティン教区教会の記録文書の調査で明らかになった(Ragni,前記論文 p.18.)。その事実が知られていな
いらしく、最新文献でも誤った生年月日が踏襲されている。
付録 2:サンティ=ダモロー作品目録(水谷彰良編)
ロール・サンティ=ダモロー(Laure Cinthie-Damoreau,1801-1863)は 2 種の声楽教本を執筆し、彼
女の作曲した歌曲と重唱曲も少なからず出版されている。けれども彼女の作品目録は作成されたこと
がなく、現時点で歌曲の初版データも不明である。以下、筆者の調べに基づく目録を掲載する。
声楽教本
① MÉTHODE / DE / CHANT / composée pour ses classes / du conservatoire / PAR M.me / CINTI-
DAMOREAU […] / A Paris, au Ménestrel,2 bis,Rue Vivienne, Maison A.Meissonnier Heugel success.r, 1849。
註:タイトル頁左右の記載から、ドイツのショット社(B.Schott fils)とイギリスのハース社(Charles Haas)
との提携出版であると判る。少し遅れてイタリアのルッカ社(F.Lucca)とリコルディ社(G.Ricordi & C)
がイタリア語版を出版するなど、広く流布した。現代再刊『Classic Bel Canto Technique』(New York,
Dover Publications.,1997.英訳)の他、ファクシミリ版もある(Méthodes & Traités, Collection dirigée par
Jean Saint-Arroman, Série II France 1800-1860,: Chant.,(volume IV).,Bressuire,Éditions J.M. Fuzeau
S.A.,2005.,pp.203-315.)。
② DÉVELOPPEMENT PROGRESSIF DE LA VOIX. NOUVELLE MÉTHODE DE CHANT A L’USAGE
DES JEUNES PERSONNES […] INTRODUCTION A SA MÉTHODE D’ARTISTE., Paris,Ménestrel,
Heugel e Cie,1855.
註:1862 年に再版され、その後第2版も出版。筆者所蔵の第 2 版ではタイトルが Développement progressif de
la voix. Nouvelle méthode de chant à l’usage des jeunes voix と変更されている(2.ed.,Paris,au Ménestrel,
Heugel e Cie.,s.d.プレート番号から 1870 年)
。なお、EDS の項目 Cinti- Damoreau ではこれに続いて
Desarrollo progresivo de la voz […], Paris,1864.を挙げているが、これは本書のスペイン語版であって第三
の教本とは見なせない。
室内声楽作品
F.-J.Fétis が音楽家辞典にサンティ=ダモローの作品として歌曲集 Album de romances (Paris,
Troupenas)を挙げ、後の音楽辞典や女性作曲家辞典にも踏襲されている、筆者は存在を確認できずに
いる。1830 年に同じ出版社がサンティ=ダモローらに捧げた歌曲集を出版しており、Fétis はこれを
彼女の作品と誤解したのではなかろうか(そのタイトルは次のとおり──ALBUM Lyrique / Romances
Chansonettes & Nocturnes / orné de douze Lithographies / Mise en Musique et Dedié à Madame / CintiDamoreau / et Messieurs / H. Nourrit et Levasseur / par / G. Rossini D.E.F.Auber / F.Herold et T.Labarre. / avec
。
Accompt. de Guitarre par Meissonnier Jeune. / Paris, chez E. Troupenas,s.d.[1830])
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なお、Troupenas の後継出版社 Brandus et Cie はサンティ=ダモローの歌曲と重唱曲を単独出版し、
1853 年の同社の声楽曲目録に、フランス語テキストの独唱歌曲 4 種、イタリア語テキストの二重唱
曲 2 種が掲げられている。これまでに筆者が確認しえたサンティ=ダモローの室内声楽作品は、印刷
楽譜が独唱歌曲 14 種、二重唱曲 4 種、自筆楽譜 2 種である。次にそのリストを掲げる(初版はすべて
パリと思われるが、現時点では初版出版社と刊年を特定しえない)
。
独唱歌曲
〈L’Abandon〉 Paroles de Luynes Amédée
〈Ah! quel plaisir d’être
coquette
e〉
(Romance)["Oui, j’aime à paraître"] Paroles de Mme.E.de Girardin
d’être coquett
〈L’appuntamento〉 Paroles de G.A.Gourbillon
(Romance-étude)["Je suis Beppa"] Paroles de A.Gourdin
〈Beppa la Sorcière〉
〈Le Départ〉(Romance)
〈Les Enfants des brouillards〉(Romance)
〈Fantaisie pour
pour piano et chant〉 Paroles de Gabriel Prévost
〈Grand'père et petits enfants〉 Paroles de Francis Tourte
〈Léon〉 Paroles de [Mme.] E.de Girardin.
〈L’Oubli〉(Romance)
〈Le Refrain du pâtre〉(Tyrolienne)
〈La Religieuse〉(Romance)
〈Si j’ étais
étais grand! 〉(Romance)Paroles de Mlle Besnard
〈Le vieux trouvadour〉 Paroles de Alexandre Duval
註:未出版の可能性もあるが、次の 2 曲の自筆楽譜が現存。
〈Créature d’un jour qui t’agites une heure〉 Paroles de Alfred de Musset
〈Nous nous aimâmes tout un jour〉 Paroles de Gabriel Prévost
二重唱曲
〈Les Bouquetière〉
〈Le Chanteur des bois〉
〈Questa è la bella face〉(Notturno)
〈La Sera〉(Romance)
付記:
サンティ=ダモローの自筆素材(自筆書簡と署名入り契約書。合計 9 点)、彼女の作曲した多数のカデ
ンツァや装飾変奏が Indiana University (Bloomington) Lilly Library Manuscript Collections に所蔵されて
いる。サンティ=ダモローの室内声楽作品の再出版は、まだ行われていない。
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