英語で教育、男女共学も 多士済々の教え子たち

水前寺成趣園の裏手に移築されている元熊本洋学校教師館のジェーンズ邸と
ジェーンズの肖像写真
この一人が横井時敬であった。
熊本洋学校が廃校になった明治9年に北の札幌農学
校にクラーク博士が着任し、約8ヶ月間滞在している。
マサチューセッツ農科大学学長も務めたクラークによ
る「少年よ大志を抱け」との呼びかけは、よく知られ
ている。
英語で教育、男女共学も
熊本洋学校の特長は次のようになる。授業は英語、
数学、地理、歴史、物理、化学、生物、天文学、地質
学を教科とし、すべて英語で行なわれた。当初はアル
ファベットすら知らない生徒ゆえ、通訳を介しての教
育を試みたが、これを早々とやめ、高度な外国語教育
観を持って独自の教育にチャレンジした。いまでも残
る13、4歳そこそこの生徒のノートは英語と挿絵で巧
みに綴られている。当然のことながら、出来る子と出
来の良くない子がいたことから生徒間に自助の精神が
芽生え、教え合うことが徹底され、したがって生徒の
自主性も芽生えたとされている。
また、開校3年目の明治7年には日本初の男女共学
を導入し、蘇峰、蘆花の姉である徳富初子や横井小
楠の娘で横井時雄の妹みや子が入学している。この
入学において男子生徒の反対があったそうで、この時
ジェーンズは反対する男子生徒に「あなたのお母さん
は女性ではありませんか?何故一緒で駄目なのです
か?」と諭したとされている。
キリスト教を教科とすることはなかったようである
が、キリスト教精神を受けた生徒たちが町はずれの花
岡山での熊本バンド結成に至り、このことは札幌バン
ドや横浜バンドと並んで夙に有名である。しかし、こ
うした環境の中でも横井時敬は科学的遺産を継承した
一人として育った。
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新・実学ジャーナル 2010.12
多士済々の教え子たち
熊本洋学校は、当初3年間を修業年限として開学し
たが、開学間もなくジェーンズの強い要望で4年就業
に変更された。しかも5年目で廃校となったために、
卒業生をどう数えるかが難しい。例えば正確には明治
4年入学と明治5年入学の1、2期生だけが修業年限
4年を全うしての卒業者となる。しかし、3期生、4
期生、5期生も3ないし1年間の教育を受けており、
彼らをジェーンズの教え子から外すわけにはいかない
と思う。そうなると最も厳密に数えた20数名から何ら
かの形で籍を置いたとなる201名までがジェーンズの
弟子達となるのである。
こうした多くの弟子達の中で従来から良く知られ
てきたのは、熊本バンドのメンバーを中心に新島襄
(1843-1890)設立の同志社大学(当時は同志社英学校)
に進み、その後大学の運営に尽力した面々である。同
学の第二代総長を務めた小崎弘道や8代総長の海老名
彈正、板垣退助とも親交のあった金森通倫、同志社を
経てイェール大学に留学し早稲田大学教授となった浮
田和民、岩手県水沢の出身で後藤新平、斉藤実ととも
に三秀才と呼ばれた山崎為徳、横井時雄(小楠の長男)
などがよく知られ、それ以外の卒業生は地元熊本でも
あまり語られることがなかった。
熊本県立大学の名誉教授であった田中啓介先生(残
念ながら私の着任直後に故人となられた)の編著『熊
(1985)には、第一回卒業生16人の中に、上
本英学史』
記の同志社進学組の他に中原淳蔵(1856 1911) と横
井時敬が紹介されている。
中原は、一期生として洋学校卒業後、工部大学校機
械科に進み、現在の熊本大学工学部の前身である熊本
高等工業学校の初代校長、そして九州帝国大学工科大