ミシガンおもちゃの兵隊会社

村松高校 東京同窓 会会報
平成 12年 (2000)大 会号
新潟県 立村松 高等 学校東京 同窓 会
NQ29
田田田田田田田田四%田 田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田四%田 田田田田
村松高等学校東京 同窓会 第 43回 大会 プ ログラム
平成 12年 6月 3日 (土 )午 後 2時
会場 。日比谷 ・ り トル バ イ レーツ
◎第一部 総 会
① 大会実行委員長挨拶
② 東京同窓会長挨拶
③ 同窓会長挨拶
………………………………………………・………………… 委員長 伊藤 勇五
…………………………………………………・………………… 会 長 佐伯 益一
……………………………………………………………………… 同窓会長 伊藤 淳一
④ 学校長挨拶 …………………………………………………………………………… 校 長 杉原 雅昭
…………… 総務委員長 斉藤 和男
⑤ 平成 11年度経過報告 ……………………………………………。
⑥ 平成 11年度会計報告 ………………………………………………………… 財務委員長 鈴木多喜男
⑦ 会計監杏報告 ………………………………………………………………………… 監 事 塚田
勝
③ 役員改選
⑨ 東京同窓会長挨拶
◎第二部 懇親会
①・ 乾杯 ………………………………………………………………………………………… 出席者の中から
② Oア トラクション …………………………………………………………………… 演歌歌手 杉
幸子
③・ 抽選会 …………………………………………………………………………… 御 │1 恒夫、佐久間英輔
ほか華梓暮
④・ 校歌・ 応援歌 ………………………………………………………………………………………… 全 員
⑤ O手 締 め ………………………………………………………………………… 東京同窓会長 (総 会で選出)
⑥・ 閉会挨拶
……………………………………………………………………………… 副会長 岡本 和子
☆ 司会・ 進行 ……………………………………………………………………… 総務委員長 斉藤 和男
◎表紙について
酒井 忠氏 (旧 中24回 卒)昭 和 11年 4月 撮影
(西 暦 1936年 )
村松町・ 愛宕山 (海抜 103m)よ り兵舎の全景
村松公園 の桜 も満開、花見 の季節
側 台 で兵隊 さんが、東 の間の休息)
正面、遠方に兵舎 ……中央 は村松公園
(右 の地図、参照)
の
の
全
☆ 国各地 愛宕山 本家 は、京都市 の西北 に
位置 し高 さ 924mで 、嵐山・ 渡月橋 か ら山
容が望め風格 もあり、 1988年 の京都国体
山岳競技 の コースとなった。
田 X田 田田田 田田田田田田 X田 田謁謁田 X謁 田田田田田X田 田 X田 田四 %田 田田田田 田田田田田
東京同窓会第43回 大会にあた り
大会実行委員長 伊藤
“光 陰 矢 の ご と し"過 ぎ行 く歳 月 は 本 当 に早 い もの だ
と 、つ くづ く感 じて お ります 。
西暦
2000年
を迎 え るに あた り、所 言胃コ ン ピ ュー タ
ー 問題 が世 界 中 の 大 きな 関 心 事 で あ つた が 、懸 念 され た
トラブル も殆 どな く先 ず は平 穏 に 明 け て ホ ッ トした事 が 、
(旧
中 33)
ります 。同窓 の方 々の集 ま りが 、楽 しく生活 にハ リをも
たせ るよ うな懇親 の場 となれば幸 い と存 じます 。
今年 は 、天災 。人災 と暗 い話題が多 く、未だ に景 気 の
回復な く、日々の生活 の好転 を希 つて も、一 向に先 が見
えて来 な い 中、同窓 の各位 も大 々に頑張 つて居 られ る訳
つ い この間 の よ うな 気 が します 。
六 月 の 初 め こ ろ に は 、ふ る里 ・ 村 松 では す つ か り早 苗
で 、東京 同窓会 の役割 が大事 な もの と考 えてお ります 。
田 に衣 替 え した 蒲 原 平 野 に 、緑 の 風 が 吹 き渡 つて い る こ
あ ります 。長老 の皆様 には一層の ご 自愛 とご健勝 を願 う
と共 に 、積極的 に東京 同窓会 の PRを 行 い “広げ よ う松
とで し ょ う。そ ん な 折 、母校 村 松 高 校 東 京 同窓 会 第 43
` `プ
勇五
回大 会 が 開 催 され る運 び とな りま した 。 これ も偏 に会 員
皆 様 の ご 協 力 が あ れ ば こ そ と 、心 か ら感 謝 し厚 <御 礼 申
東京 同窓会で も、多 くの会 員 の 方 々が高齢 に達 しつ つ
高 同窓会 の 輪 "の 通 り、若 い人達 の入会勧誘 を心懸 けな
ければ と思 ってお ります 。私な りに期 して い ることは 、
しあげ ます 。 また 、前 年 の 大 会 が 終 わ るや 直 ち に今 年 の
大 会 を 目指 して 準 備 を進 め て こ られ た 、佐 伯 会 長 は じめ
「 いつ 何処 に いて も気配 りを欠 くな 、思 いや りを忘れ る
役 員 、実 行 委 員 の 諸 兄 には大 変 ご 苦 労 様 で した 。
今年 の 大 会 は 、会 報 28号 で ご案 内 の 通 り、東 京 の ド
で少 しで も東京 同窓会 のお役 に立て るよ う、心 して参 り
真 ん 中 、皇 居 の お掘 りを望 む 日比 谷公 園 の 近 くに会 場 を
設 定 い た しま した 。は た して {皆 様 の 反応 は如 何 か }と 、
期 待 と不 安 が 半 々の 心 境 です 。会 場 へ の 道 す が ら、お掘
や 公 園 に足 を運 ばれ る方 も居 られ るの で は 、 と思 って お
な 」。親 か らよ く云われた この こ とを、改めて胸 に刻ん
た い と思 つて い ます 。
会員 の皆様 も同窓 のお知 り合 い に 、東京 の大会に是非
ご参加 いただ けるよ う、お誘 い下 されば幸 いです 。
東京 同窓会第 43回 大会 に あた り、ご挨拶 といた します 。
平成 11年 度・ 東京同窓会 の動 き
平成
11年
4月
24日
・ 幹 事 会 (県 人 会館 … 22名 )
大 会準 備 、案 内状発 送 等 の 作 業
5月
1日
22日
・ 編 集 会議 (県 人 会 館 … 6名 )
・ 常任 幹 事 会 (岡 本 幹 事 宅 … 6名
大 会詳 細 の 打 合 わせ
・ 大 会 会 場 へ 行 き料 理 な ど確 認
29日
6月
5日
14日
3日
8月
15日
9月
4日
・ 幹 事 会 (県 人 会 館 … 21名 )
大 会 反 省 及 び 次 回会 場 の 件
・ 本 部 同窓 会 東 京 よ り 3名 出席
村松町「明 月 」
(県 人 会 館 … 9名
8号 作 成 につ い て
)
11月 6日
)
‐第 42回 大 会
浅 草 ROXニ ュー オ ー タ ニ
・ 常任 幹事 、関 孝 世 氏 … 葬 儀 告 別 式
(春 秋苑 =川 崎 市 生 田 区 )
議2
△ム組
報
人〓
・佳木
編
7月
10月 22日
‐編集 会 議 … 会 報 28号 につ い て
。平 成 12年 6月 の 大 会会 場 下見
仮予 約
・ 編集 会 議 (県 人 会 館 … 8名
会 報 原稿 等 の 最 終作業
)
28号 、校 正 作業 3名
18日 ・ 幹 事 会 (県 人 会 館 … 27名
会 報 28号 発 送作 業
12月 3日
・ 会報
)
平成
12年
3月
4日
・ 編 集 会 議 (県 人 会館 … 6名
会 報 29号 作 成 につ い て
)
田田田田田田田 田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田田
ありがとうございました
① 平成 11年 度 ・ 会 費納 入 の 皆 さん (敬 称 略 )
◎ 旧 中 の部 (57名 )
相田幸四郎、相田忠亮 、相田和平、伊藤勇五、伊藤秀男
伊藤達郎、市川薫平、五十嵐下郎、板垣文平、岩見益教
◎ 高校 女子 の部 (50名 )
速菌頃、落合常雄 小見 勇、小田恕哉 、 笠原健二郎
片桐賢太郎、亀嶋 謙、北沢卓夫 、熊倉 悟、小島員一
加藤久子 、 本村孝子、久我マキ、熊倉悦子、桑原 トム
小島典子 、近藤燦子 、許斐紀子、佐 々木恵美、斉藤英子
小柳 実、斉藤誠七郎、佐伯益■、坂上庸蔵、佐藤豊夫
佐藤八重 、斎木明子 、雑賀和子 、佐久間順子、島田淑子
佐久間精一 、斉藤和男、斉藤朝之、酒井 忠、佐野善吾
坂井太郎 、関谷捨蔵、高久貞夫、 団 順一 、千代國一
佐野美枝子、自石キ ヨ、鈴木則子 、田中富子、高尾佳子
寺田徳隣、成海正弘、西山荘平、 二平 品、芳賀健一
寺山征子、出ロテル 、徳永道子 、中島和子、八巻マサ子
南雲 剛、奈良泰夫、福原平八郎 、松尾 貢、横松宏平
深見洋子、 松本豊子、松本知子 、松尾恵子、真水道子
松田長四郎、水尾広吉、宮本 昇、武藤三郎 、八須民平
宮腰 ヨイ、向山律子、山西愈佐子、横溝田鶴、吉井祐江
山口二郎 、矢部五郎、吉田正平、吉田公男1
升本久子
芳原英男
緒方康子 、大橋マ ツエ 、大嶋エ ミ、神田正子、片柳ムツ
田川百合子、 高浜つ る子、 高橋睦子 、
男子、 159名
渡辺文男 ,式 場俊三
◎ 高校 男子 の部 (102名
荒井るり子 、安達繁子、飯利 幸、市川 俊、小沢幸子
高橋カツ
す
女子、64名
合言 、223名
│‐
金額 =669,000円
)
割 │1 守 、安部 実
青木 猛、浅井昭男 、新井康夫、 ラ
阿部 敏、石本芳雄、五十嵐 健 、伊藤勤吾、伊藤 額
石黒四郎、稲毛越郎 、今井英雄、 伊藤相賢、岩倉富栄
遠藤 順、岡村嘉志、大橋貞夫、大西範考 、大島惣四郎
小笠原二憲、亀山知明、川合敏男、川村莞爾 、神田弘殻
笠原 久、笠原大四郎、笠原静夫、加藤清治、杵測政海
‐
岸谷 武、雲村俊憧、倉田健五、熊倉富次、 熊倉芳夫
②平成 11年 度・寄付された皆さん (敬 称略)
金額 =171,000円
(合 計 ,55名
◎ 男子 の部 (43名 )計
10,000円
7,000円
7,000円
5,000円
3,000円
)
金 125,000円
亀嶋 謙
山崎輝雄
酒井 忠
川合敏男
式場俊三
今井英雄
村園
黒井伊作
中付市雅一郎
熊倉 悟
松尾吉信
吉田正平
加藤三代太 吉井 清
武藤三郎
武藤正昭
伊藤秀男
鈴木多喜男、杉山 喬、瀬倉武志、関 考世、関谷雄二
関塚 豪、関 和世、 高地 彰、田代信雄、高山幹雄
佐 々木秀和 関 孝世
吉田公男
中川四郎
松田長四郎 芳原英男
高岡雄三、高岡英治、 鶴巻流三 、鶴巻 浩、鶴巻静夫
弦巻‐郎、弦巻 等、坪谷次郎、土田 猛、 塚田 勝
西山荘平
下野文幹
寺山和夫、中川四郎、中山 健 、中村雅臣、 二宮文三
長谷川五郎
根本俊夫、 廣田達衛、 長谷川宏一 、
文三
小田恕哉
伊藤勇五
佐藤 赳
横松宏平
関谷捨蔵
吉田正平
遠藤 順
大橋貞夫
近藤洋輝、近藤尚志、近藤英洋、近藤殻夫、小日山芳栄
、 佐 々木秀三
、 割 │1恒 夫、 佐 々御
佐久薗
佐藤良平、佐藤 赳、斉藤正義、佐藤正秀、 沢出赳允
新保 優、下野文幹、鈴木健司、鈴木輝雄、 鈴木忠雄
1梓羊
夫、増田ヨI庚 、松尾保司、松尾 了、丸山貞次
長谷り
松尾員一郎、松尾正春、三浦靖典、三室茂和、宮沢正由
武藤正昭、 村川恭平、山崎輝雄、山田俊治 、山田一男
梁取錦二、八木又一郎、米山正洞、渡辺八郎
◎ 旧高 女 の部 (14名 )
石井洋子、下氏愛子、内田道子、大橋玉枝、 日本和子
′
∫
湘暉 月、佐藤治子、佐藤玲子、新保清子、 鈴木節子
田村 ミツエ 、藤崎 トヨ、堀 和子、丸山セイ子
2,000円
小日山芳栄 佐藤良平
宮
1,000円
熊倉富次
鈴木健司
梁取正道
沢出赳允
一一
郎 鶴巻静夫
ノ
曜
◎ 女子 の部 (12名
10,000円
8,000円
4,000円
3,000円
2,000円
山崎民二
金 46,000円
)計
関 良子 (香典返 し
)
一氏愛子
木村孝子
山西愈佐子 真水道子
大橋玉枝
深見洋子
横溝田鶴
新保清子
小島典子
片柳ムツ
緒方康子
w″
田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田 田田田 田田田 田田田 田田 田
平成 11年 度会 計収支決算書
(平 成 11年 4月 1日 よ り平成
12年 3月 31日 まで )
新潟県 立村松高等学校東京 同窓会
I又ノヽσD著 椰 (単位 :円
△ム
11戦
男子
好
計
669,000
費
160 4当
480,000
63 4ζ
189,000
1 4ζ
1 44
3,000
3,000
編集費
2名
12
イ
ろ
125,000
46,000
55 44
①へく9
846,865
平成 10年 度 よりの繰越金
1,837,382
計
⑨ ⑩
③ 預 り金処理 について
平成 11年 度会費納入 について 6名 の方 が重複納入
されていますが、 4名 は本決算書 に計上せず 12年
度分納入会費 として処理 、 2名 の方は 10年度分 と
して本書 で処理 させていただきました。
合
④ ⑤
865
受け取 り利子
計
計
(6回 ) 42,447
42,510
138,075
59,660
840
7,080
2,919
会費払込み手数料
備 品 費
31,500
会旗作成費
21,000
大会横幕作成費
同窓会本部対応費
28,000
総会出席費
5,177
写真代
新潟県人会対応費
58,000
カレンダー購入費
10,230
同 送料
5,300
催事出席補助費
3,000
県人会報購入費
慶 弔 費
41,769
弔・ 関 孝世氏
0岡
15,000
弔
本さんご主人
42回 大会補填費
雑
費
写真 、事務消耗品費
2,684,247
2,684,247
125,580
寄稿依頼謝礼
封筒代
合
平成
総
419,111
同 送料
No.28印 刷費
同 送料
印刷費送金手数料
171,000
43 4五
5,266
4,590
No.27印 刷費
し
寄 付
男子
好
計
31,591
21,735
印刷費
押
鋼 蒲讚
6,000
)
“
議
通信費送料
郵便切手・ ハガキ
費
男子
好
計
(単位 :円
費
3回
81,052
ま
(42回 大会準備会費含 ず )
会
223 イ
ヨ
△蚕
10戦
ゴ五ロゴσD書
)
12年度 へ 繰越 し金:
上記の通 り報告いたします。
平成 12年 4月 15日
上記の決算書は監査の結果、適正 と認めます。 平成 12年 4月 22日
33,177
76,530
56,769
255,599
18,658
1,037,657
計
総
12,670
52,500
計
1, 646,590
2,684,247
会長 佐 伯 益 一 〇
会計監杏 芳 賀 健 一 〇
〃
塚 田
勝 〇
田田四 %田 田田四%田 四 %X田 田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 四 %田 田田田 田田田田
千代
國 一 氏 の 歌 阜 を読 む
岡村
村松高校東京同窓会 々長の佐伯 さんから同窓先輩の、
千代國一氏の歌集 「水草の川」 Ⅸ 初雌 )を お借 りして読
ませていただいた。ついでに感想を と言われたので郷土
新潟県出身の誇るべ き歌人 、千代國一氏の軌跡の断片を
皆様方 に知 って頂ければ幸甚 と、この拙文を寄せさせて
いただいた次第 です。とは言 っても、氏 とは特に親 しい
お付 き合 いがあるわけでもなく白髪の温顔を何かの折 に
遠 くより拝見する程度 ですが、手許 にある若干 の資料に
よ り、その作品を通 じて、氏の横顔の一端をご理解願 え
れば幸 いと思 います。
まず、氏の略年譜 によ ります と、大正五年新潟県村松
町に生 まれ、昭和八年旧制県立村松中学校を卒業、十二
年 に旧大倉高商 (現東京経済大学 )卒業。横浜正金銀行
(後 の東京銀行 )に 入行 、十五年に退職。 (合 名 )大倉
組 に入社 、二十一年大倉製糸開会社取締役 、三十五年代
表常務取締役 、同五十 三年取締役を辞 し顧間に、五十六
年顧間を辞す。この間、昭和十八年、中川京子 さんと婚
姻 とあ ります。 ……歌歴 については……
昭和十五年 窪田空穂 、松村英=氏系の「国民文学」
に入会 、二十五年 「新歌人会」結成 に参加。五十二年
「国民文学」選者 、六十二年から「国民文学」編集発行
人。現代歌人協会理事を務められて現在 に及んでお りま
す。また 平成三年 より九年 まで宮中「歌会始」の選者
としてもよ く知 られています。以上 が概要であります。
短歌を始められた動機 について、氏 は、エ ッセイに、
転職時のある時期 に (昭 和十五年の銀行退職 、大倉組入
社時 )応 召中のご令兄が休暇で、たまたま帰郷 された折
に岩波文庫の「子規歌集」を頂 き、一読 して短歌に興味
を抱かれ、次 いで近代歌人の歌集を読破 されたが、特 に
空穂、赤彦 に惹 かれその結果 、窪田空需創刊の「国民文
学」に入会、松村英一氏 に師事 されたと述べ られていま
す。 作歌のきっかけを作 って くださったご令兄は昭和
二十年 フイ リピンのルソン島に於 て戦死 されましたが、
氏 は第十歌集 「花光」に次のよ うに詠んでおられます。
戦 より骨 の還 らぬ兄おもふ
思ひ一つに吾の尽 きなむ
以上 の通 り、氏の短歌 の原点は、御令兄の戦死 という
悲慮1に つ なが ってお り、作品の折 々にこの傷痕 が見えか
くれするのは、この歌人の宿命 とでも言 うべ きでしょう
か。 私事 で恐縮 ですが、途中空白となりました私の、
歌歴の原点 も旧制糸剣 │1中 学時代 の国語教師、中山ネL治
先生の、「吾 が後 に汝 (如 )が 続 くを信 じつつ 撃ちてし
く
征かむ南戦 観昴ヽ
むに」の ハガキによる陣中詠 にある
ことを思 い合わせると感既深 い ものがあ ります。
三夫
氏の歌集 は、昭和二十七年の
第一歌集「`鳥 の棲む樹」より平
成十一年の「水草の川」まで十
(千 代 國―氏)
一冊を数 えますが各 々の歌集 よリー、二首づつひいて、
氏の作歌 と人生 の軌跡を辿 ってみたいと思 います。
……各短歌の終わ りの (∼ )の 註は 岡村記 ……
◎
第一歌集 「鳥の棲 む樹」 昭和二十七年
唇 に盃 あつ る時の 間を
ふるふかなしき汝を見 たりけり
(結 婚 )
◎
第二歌集 「陰のある道」 昭和三十四年
いきどほり生 々(雄 雄)と して取 り立の
手形拒否する数行 じるす
(経 営者の決断)
◎
第二歌集 「冷氣湖」
昭和四十年
かそかなる母 と思ひぬ吾が家 に
老 い衰へて湯を浴める音
(老 い母あはれ)
城川 鮨潮ill)の 涸れ しそこひも眼にあ りて
楊柳 (や 憂)押 しゆく雪解 の水 (bill暉 着村松 )
◎
第四歌集 「冬の沙」
昭和四十七年
室牛山ひ ぐらしあまた暁の
間にとほりて揺 りかへす声
(室 牛寺 までの流麗な旅行詠 )
◎
第五歌集 睦萎罫」
昭和五十二年
この企鰈塾1か さむゆゑ に身を退 きじ
者の涙を声ながらきく
(経 営者の悲哀 )
◎
第六歌集 「花天」
昭和五十六年
空穂逝き英一老 いて身一つの
茫茫 と坐す薄明の夜を
(老 師追慕)
◎
第七歌集 「天の暁」
昭和五十九年
椰子 と麻鬱たる丘に陥落の
幾 日戦ひ兄の果てしなり
(ル ソン島ダラガ・兄戦死の地にて
◎
第八歌集 「風日」
昭和六十二年
遠 き代の遠流 鰯問 の地 (%)に 咲 く花の
蒲公英 しろし風 に曝 (aれ つつ
(流亡の人を偲ぶ )
◎
第九歌集 「 日曇」
平成二年
暢びやかに講ずるみ歌わが裡 (う ち)の
兵 に果てにし兄に徹 らむ
(亡 兄思慕 )
大君の詠 ませ給ひしたちばなの
かがよふ朱実 け冽 ひと日悲 しむ (昭 和天皇追悼)
◎
第十歌集 「花光」
平成七年 一首前出
◎
平成十一年
第十一歌集「水草 の川」
歌詠める五十九年の生 き様の
豊 かな りしや頷 くとせむ
(易 からざりし歌の道人の感 既)
)
田田田田田田田四%田 田四 %田 田田田四 %田 田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田田 田
選択 は常 に負なりし過去 (葉 嵯)を
以上十一歌集 より若干の作品を引き、鑑賞 して参 りま
作 しみてゆく住み古 は)り し街
したが、「国民文学」は写実主義を基 に、生活 に根 ざす
堅実な詠風を標榜 していますが、氏の短歌には事実 より
一歩進 み、人の心の深奥 に迫る何 かが感 じられます。
を、第一位 として採 って頂 いたことが、その後の作歌活
動の励みになったことに厚 く御礼申 し上げて、拙文を締
更 に 氏 には永年の実業界での活動経験より見た経済界
への、鋭 い観察眼を通 しての作品 が見 られます。
め括 らせて頂きます。
によ
、
この傾向が「まひる野」の篠弘氏等
り 職場詠を
含 めての一種 の社会詠 として継承 されている事は高 く評
鋼
昭和 2年生 糸制 │1市 出身
価 されています。決 して華や かであ りませんが故郷新潟
の風景 のように重厚で、対象を直視する 氏の作品 に心
1日 制県立糸創 │1中 学卒
か ら敬意を表します。
東京新潟県人会広報副委員長
「
「
、
の
か
も
、
葱」
日本歌人クラブ会員
本
げ」
同人誌
私 現在 相馬御風創刊
本
目
馴 順 護
会員 として、この道 に関わ っていますが平成八年十月の
「多摩歌話会秋季短歌大会」に於 て千代國
に
拙歌、
選
(お かむ らみ つ お氏 )
=氏
赤 山会春季会
Ⅲ赤 城 の 間 に 25名 が 出席 し開 催 され
奈 良幹 事 長 の 開会 の 言 葉 に始 ま り、物 故 会 員 に黙 祷 、
旧校 歌 斉 唱 、吉 田会 長 の 挨拶 に 続 い て五 十 嵐 事 務 局 長 と
も ら った の は 、 33回 卒 の 遠 藤 氏 が 自作 の 漢詩 (別 掲 )
を朗 々 と吟 詠 。 また 、恒 例 に な っ た卓 話 で は 20回 卒 の
う
兄 F5
こ 召
野 示
中村 勤 氏 が 「 我 が松 中勝 て り」 と題 して 、野球 部 黄 金 時
代 を築 いた 苦 労 話 が 披露 され た 。記 念 撮 影 の 後 、佐 久 間
監 事 の 乾 杯 で懇 親 会 が始 ま リー 気 に談 笑 の輪 が広 が つ た 。
交 通 事 情 で遅 れ た 関 八 十一 氏 (33回 )は 、喉 頭 ガ ン
と戦 い奇 跡 の 回復 を勝 ち取 つ た との経 過 が 幹事 長 か ら報
告 され 、全 員 か ら温 か い 拍手 を浴 び 感 動 的 で あ つ た 。
26)
賞
仙
成
友
若
常
喜
慶
通
壮
壽
良
紳
健
春
辰
︵
先輩の喜寿を賀す ︶ 遠 藤 順 舞
二 郎 (中
朋
松 門 の朋 友 良 辰 を 慶 こび 、
武藤
平
共 に 祝 す 平 成 喜 寿 の春 。
今 か ら皆 楽 しみ に して い る。
似
風 格 仙 に 似 て 常 に 壮 健 、
同会館 で 開 催 と
の 報 告 が され た 。よ り多 くの 会 員 の方 々の 出席 を期 待 し
誠
淡 交 誠 実 神 に 通 ず る若 し 。
11月 11日 (土 )、
平成庚 辰 二月吉 日
尚 、秋 季 例 会 は
松
壽
武 藤 の三 氏 に長 寿 祝 いが 贈呈 され た 。錦 上 に花 を添 えて
共
喜
佐 藤 会 計 幹 事 か ら報 告 の あ と 、喜 寿 を迎 えた会 長 、松 田 、
風
先 輩
(私 学 会 館 )5階
旧制 中学 時 代 の 思 い 出 に浸 た れ る楽 しい一 時 を過 ご した 。
淡
賀
)午 後 1時 か ら、 アル カ デ イア市 ヶ谷 、
平 成庚 辰 三月 吉 日
◎ 4月 8日 (土
咲
四 %%%%xNNNxttxN8NN%濁
お便 りの 中か ら
田困 X田 田田 XttX田 田田田田田 X田 田田田 田田田 田田
順 不 同 ・ 敬称 略
小 説 は一 年 一 作主 義 で ま い ります 。 これ か ら も色 々仕
事 を しなが ら も名作 を残 して ま い ります 。 ご指 導下 さ い 。
吉田
公 男 (旧 中 27)
◎会報 28号 を あ りが と う。恐 れ 入 つ た の は 「 臥龍 が丘
は緑 な り」 の 旧 中 27回 卒 同級 会 の 記 事 が 、あ ま りに も
…後 便 …
会報 を ご 送 付 頂 きま して あ りが と うご ざ い ま した 。
今 回 の 会 報 は いつ もよ り胸 を熱 く して拝読 い た しま した 。
27回
もちろん佐 伯会 長 の 筆 で『 元 禄 の 豹 ・ 堀部 安兵 衛 』 を ご
卒 の 同級 会 の 記 事 が 並 ん で い また しが 、贔 贋 目を差 し引
紹 介 くだ され た こ と もあ ります 。母 校 の 先 輩 の 温 か い気
い て も 27回 の 記 事 が最 も面 白か つ た 。一 日で 一 人 当た
持 ちが 、ひ しひ しと伝 わ つて くる 、 い い文 章 で した 。
名 文 で あ つた こ とで した 。あ の 号 には 丁 度 25、
26、
り六 本 の 酒 を事 もな く飲 ん で しま う我 等 同級 生 の 会 の 雰
私 、 あ ま り人 の 好 意 に甘 え る こ とが無 か った ので 人 の
囲気 を十 三 分 に伝 えて い た だ き ま した 。在 校 時代 、音 楽
情 け の あ りが た さを しみ しみ と感 じま した 。
が得意 で もな か つ た輩 が 、今 で は 会 と もな る とカ ラオ ケ
を歌 い 踊 る あた り、 そ の ま ヽ我 が 身 に省 み て楽 しく読 み
『 堀 部 安 兵 衛 』は 出版社 の 説 明 で は 「 ソン をす るこ とな
く済 み ま した 。 それ に して も新 潟 で 、 も っ と売 れ る と思
っ た の です が 意 外 で した よ 」 との こ とです 。私 の 社 には
ま した 。
渡辺
照 男 (旧 中 31)
◎東京 同窓 会 々報 「 臥龍 が丘 は緑 な り」を お送 りくだ さ
い ま した有 難 うご ざ い ま した 。
五 泉 、村松 に 、 も っ と活 力 を与 えた い と い う気 持 ち の あ
っ た こ とは 事実 。です か ら少 しガ ッカ リ しま した 。
と こ ろが 、名 古 屋 で友 人 を通 じて講 演 を頼 まれ た のは
賑 や か な 東 京 同窓 会 の 様 子 が 、 うま く表 現 され て お り
これ また ビ ック リで した 。活 動 的 な人 が い るか否 か で 、
ま した 。盛 り沢 山 の 情 報 や ご 意 見 、 ご感 想 の 他 に 、 ち ょ
地 域 の 様相 は ま るで変 わ つて くる の です ね 。私 は会 長 の
「 本部 総会 に 出席 して 」 と題 す る稿 を読 ん で いて 「 あ ゝ
っ とい い話 な どが あ り、び っ く りいた しま した 。
我 が松 高 同窓 会 も 、間近 に迫 つ た創 立 九 十 周 年 記 念 行
これ だ 。村 松 は死 ん で い る 。 これ じゃ あ駄 目だ 」と 自分
事 に 向 けて 準 備 を始 め て お ります 。実 行委 員会 もス タ ー
で も悔 しくな って しまい 、思 わ ず 「 な ん て バ カ な 」 と、
トしま した 。力 不 足 を痛 感 しな が ら「 何 ん とか しな けれ
まで叫 ん で しま い ま した 。村 松 人 は 「 シ ョウシだわ 」な
ば 」の 合 言 葉 で や りぬ こ うと話 し合 つて お ります 。
ん て言 つて 引 つ込 み 思 案 ば か りして い ます 。私 もそ うで
今後 と も 、 ご鞭 撻 ご叱 貢 を 、 よ ろ しくお願 い 申 しあげ
(本 部 同窓 会 ・ 副 会 長 )
ます 。
した が 、人 の 気 持 ち にな つ て 、 もの を考 え よ うと しな い
の です ね 。松高 が評 価 され た 頃 は鹿 瀬 、津 川 、新 津 、五
泉 方 面 か ら通 字 す る人達 が 眠れ る者 に刺激 を与 えて くれ
◎
敷布団
千 せ し温 も り
雲村
良夜 な り
松 風 (俊 惟
た ので す 。だ け ど今 は 、あ ま りに も静 かで 目覚 め る こ と
)(高 5)
が あ りませ ん 。人 は 思 い 出だ けで は生 きて ゆ け ませ ん 。
そ の ポ カ ポ カ布 団 の 中 に まで『 新 潟 県人 』 を持 ち込 ん
で 「元 禄 の 豹 ‐堀 部 安 兵 衛 」 の 1ペ ー ジ に も及 ぶ PRを
せ た い もの です 。お礼 の ひ と言 が 、つ い本 音 を吐 く結果
幾 度 も幾 度 も読 み ま した 。
に な つ て しま い ま した 。 とにか く私 には 向 山 さん を介 し
読 む程 に先 輩 の 温 も りが身 体 い っ ぱ い に広 が っ て ま い
りま した 。感 激 です 。本 当 に あ りが と うご ざ い ま した 。
カ ッパ の 光 文 社 で定 年 を迎 え 、初 め て 小 説 を書 い て み た
せめ て東 京 同窓会 だ けで も、高 鳴 る血潮 を燃 え上 が ら
て会 長 に 親 近感 を抱 い た こ とが本 を書 い た こ と以上 に大
きな収 穫 で した 。
の です 。編 集 者 が作 家 に変 身 す る こ とは 、相 撲 の 行 司 が
力士 に 化 け る み た い な もの で し ょ うか 。
ところが 、六 十才 過 ぎて書 き上 げ た 創 作 が思 い が けな
い 大 賞 を受 け るな ん て 、考 えて も い な い こ とで した 。
岡村
三 夫 (糸 魚川 市 )
◎ この 度 「 臥龍 が丘 は緑 な り」新 春 号 をお送 りい た だ き
あ りが と うご ざ い ま した 。
私 ど もの 旧制 糸魚 川 中学 は 糸魚 川 の 城 跡 にあ りま した
「 堀 部 安 兵 衛 」 は第 二 作 目。 ま さ に前 作 が フロ ックで は
「 亀 陵 」 と呼 ん でお ります が 、東 京 支 部 は あ る もの の 、
な いこ とを世 に問 うた もの で す 。評 判 は前 作 よ り高 い よ
これ と い つ た活 動 を行 っ て お らず 寂 しい 限 りです 。
うで す 。 と こ ろが新 聞や 雑 誌 は前 作 ほ どに取 り上 げ て は
佐伯 会 長 の よ うな熱 意 の あ る人 が居れ ば こ そ 、会 は隆
くれ ませ ん 。理 由は 私 を可 愛 が つて くれ た菊 村 到 氏 、尾
盛 す る もの と、つ くづ く羨 ま しく思 って お ります 。
崎秀樹 氏 が 相 次 いで 黄泉 の 国 へ 旅 立 っ て しま った か らで
人 生 の 出発 へ の 原点 と も言 うべ き旧制 中学 、高 校 にて培
す 。あ らた め て 先 人 の 大 切 さ を悔 や ん で い た とこ ろで し
か われ た人 脈 と人 の 和 を大切 に して 、今 後 の 人 生 を実 り
た 。 しか し、 そ れ に代 わ る恩 恵 を松 高 の 東 京 同窓 会 長 か
あ る もの に した い と思 つ て お ります 。会長 始 め 会 員各 位
ら受 け る こ とに な ろ うとは 、夢 に も考 えて い ませ ん で し
の ご健 康 と会 の益 々 の ご発 展 をお祈 り して お ります 。
た 。 とにか く取 り急 ぎ 、お礼 の 手 紙 を書 き ま した 。
(新 潟 県人 会 広報 副 委 員長
)
田田田田田 田田田田 田田田田田田田 XN田 謁田田田田田田田四 %X%%謁 田 X四 %%四 %田 四 %
お便 りの 中か ら
キ ヨ (高 3)
自石
順 不 同・ 敬 称 略
◎ いつ もお 便 りあ りが と うご ざ い ます 。
池田
孝 一部 (巻 町 )
昨年暮 れ 、広 島か ら草加 に転 居 しま して か ら、 よ うや く
◎ 「 臥龍 が 丘 は 緑 な り」を ご 送 付 い た だ きあ りが と うご
ざ い ま した 。一 気 に 、巻 頭 の “2000年 に斯 く思 う"
落 ち着 い た とこ ろです 。都 内 に近 いの が何 よ りも嬉 しく
か ら巻 末 に 至1る まで 読 了 させ て い た だ き ま した 。
行 つた り来 た り、ふ る さ との話 に花 を咲 かせ 、温 か い友
まず 、高 校 の 同窓 会 で この よ うな会 報 を N028に 至 る
まで 出 し続 けて お られ る こ と と記 事 の 多 さ (会 員及 び 関
年 齢 と と もに 人 恋 しくな り、 これ まで何 回か 同級生 と も
情 に感 謝 して い る毎 日です 。
今 年 の 東京 同窓 会 を楽 しみ に して お ります 。
係 諸 氏 の 長 文 の 原 稿 )に 驚 き 、そ こに 佐伯 さん が 大 きな
柱 と して支 えて お られ る さ ま 、ぴ ― ん と筋 の 通 つ た姿 勢
謙 (中
22)
◎ 原稿 をお 送 り しま した の で 、 6月 発行 の 会報 にはぜ ひ
を感 じ取 る こ とが で きま した 。
巻 頭 言 か らは 、 わ が意 を得 た りと感 じる こ とは 多 く、
必 ず しも 100%同
亀鳴
載 せ て い た だ きた い と存 じます 。元 来 、会 報 に は会 員 の
じ考 え とは言 えな い もの の 、今 日の
皆 さん が書 い た もの を順 次載 せ るべ きで 、私 の よ うに甘
世 相 に見 る多 くの 体 た ら くは 戦後 教 育 の 欠 陥 を ま ざ ま ざ
えて い る とは云 え 、連 続 寄 稿 す るの は本 当 に良 くな い こ
と露 呈 して い る こ とは疑 い あ りませ ん 。
と と、 よ く分 か ります の で予 め お 詫 び い た します 。
また読 み 進 む うち 、佐 伯 さん が リー ダ ー と して だ けで
私 も八 十 才 を越 え本 当に明 日、何 が あ つ て もおか しく
な く書 き手 と して も 、 この 会 報 を支 え盛 り上 げ て お られ
な いの で 、近 頃 、雑 文 で も何 で も書 け る 時 に書 い て お く
る こ とが よ く分 か りま した 。同級 会 の こ と、蒲 原 鉄 道 の
こ とを終 始 考 えてお ります 。
こ と 、堀 部 安 兵 衛 の 本 の こ と等 、 それ ぞれ 興 味深 く読 ま
せ て いた だ き ま した 。 これ ら を通 じて 佐 伯 さん に一 層 の
五泉市
竹谷
十二 五 (中
27)
親 近 感 を感 じた こ とは 間 違 い な く 、同 じボ ラ ン テ ィア活
動 をす る同志 と して 、よ き先 輩 を得 た 思 い が して お りま
◎ ク ラ ス 会 の ス ナ ップ 、同窓 会報 、素 晴 ら しい「ふ る さ
す 。 ど うもあ りが と うご ざ い ま した 。
私 も中学 、高 校 、地 域 、出身 郷 人会 等 々い くつ か の 会
蒲原鉄道 も鉄道線 を廃止 、いま 、バ ス旅行業 、不動産
業 の会社 と して頑張 つてお ります 。依頼 の電車運賃 の変
に 関 わ つて お ります が 、それ らの 活 動 をす る上 で の 沢 山
の ヒ ン トも頂 戴 で きた と思 つて お ります 。何 よ り も若 々
遷 、ど うにか大正創立期か らの もの調査 完 了 いた しま し
たので集約 の うえお送 りいた しま した 。
しい そ の 情 熱 に尻 を叩 かれ ま した 。
お役 にたてば幸 です 。
とカ レ ンダー 」の ご恵送 、感 激 です 。感 謝 、感 謝 で す 。
(東 京 新 潟 県人 会 広 報 委 員 )
ち ょっと嬉 しか つた話
川崎市
◎夫 、孝 世 (高 3回 卒 ‐会 常 任 幹 事
関
良子
)が 亡 くな りま して
「 留 守 中 に 、電 話 が あ つた よ 。あ の 村 松 の 美 味 じ
早 や 半 年 とな りま した 。 そ の 節 は 同窓 会 の 方 々 に多数 来
い酒 を作 つて い る所 の 長 女 だ つ て言 つて い た 」と 、
て い た だ き 、あ りが と うご ざ い ま した 。村 松 高 校 を こ よ
家 の 人 が 言 う。「 と つ て も美 しい 人 な の よ 。 わた し
な く愛 し、友 達 との お付 き合 い を喜 び と し誇 りに して お
お話 した 事 は な い けれ ど密 か に憧 れ て い た人 な の 」
り最 後 まで 世 話 人 の 役 を させ て い た だ き幸 せ な 一 生 だ っ
た と思 い ます 。で きれ ば も う少 し皆 様 と御 一 緒 に い られ
と言 い な が ら 、ち ょつ と嬉 しい 。
た ら と 、残 念 だ つた と想 い を残 した か な と側 で み て い た
いいお 話 )の 内容 が実 家 の お 酒 「 に ご り酒 」の 事 に
者 と して感 じて お ります が 、皆 様 に見 送 つて い た だ き 、
及 ん で い た の で思 わ ず お 電 話 下 さ つた との こ と。
会報
27号 を読 ん で い て 、最 後 の 方 の
(ち ょっ と
今 年 の 東京 同窓 会 大 会 には 、出席 して くだ さる と
や は り幸 せ だ つ た と思 い ます 。
本 当 に長 い 間 、 お 付 き合 い あ りが と うご ざ い ま した 。
約束 して い た だ き ま した 。お逢 い で きる こ とを楽 し
こ こ にお礼 を 申 し上 げ 、会 の 益 々 の 発 展 の ため に少 しで
み に して い ます 。 また 、小 さな記 事 に まで 目を通 し
す が 、お役 に立 て て い た だ きた く同封 い た しま した 。
て い た だ き 、感謝 して お ります 。
皆 様 の ご健 康 を祈 願 して 、お 礼 の 言葉 とさせ て い た だ き
村松 高校 東 京 同窓 会 一 同 宛
ます 。
(平 成
11年 12月
2日
斉 藤英 子 さ ま
本 当に あ りが と うござ い ま した 。
(洋
)
)
◎ …… 広報委 員会 か ら…… 多 くの 方 々か ら会報送付 につ いてのお礼状 が来 てお りますが 、何れ も同 じよ うな内容のため 、
限 られ た紙面 の 関係上 、割愛 させて頂 きま した 。悪 しか らず御 了承 くだ さい 。
田謁田田 X田 田謁 %田 XXN田 田田 X謁 田田四 %田 田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田
懐 旧 の情
新 たな 新 発 田、五 泉 、 村松
亀嶋
私 は 、間 もな く八 十 一 歳 にな る 。年 老 い て くる と無 性
謙
(旧
中 22回 卒)
新 発 田 と い う地 名 は珍 しい 方 だ 。史書 に よる と人 命 に
に若 い 頃 の こ とが思 い 出 され 、ふ る さ とが恋 しくな つ て
由来 す る もの で戦 国 時代 、上 杉家 に属 した豪族 、新 発 田
くる もの で あ る 。年 寄 りの 懐 旧談 と して 読 ん で い た だ け
重 家 か ら発 して い る ら しい 。四百 年 前 の 慶 長 三 年 (1598)
れ ば と思 う。
豊 臣秀 吉 に 覚 えめ で た か った 溝 日伯 者 守秀 勝 が 、加 賀 の
12年 春 、私 は 旧制 村 松 中学 を卒 え る と 、程 な く
東 京 へ と出 た 。五 泉 に 在 住す る こ と几 そ 16年 、東 京 の
生 活 が 65年 間 に及 ぶ 。 四十 代 の 始 め の 3年 程 、勤 め の
大 聖 寺 藩 (四 万 五 千 石
藩 へ 転 封 して 以来 、明治 維 新 まで続 い た 。関 ヶ原 の 合 戦
関係 で 京 都 に居 た こ とが あ るが 、単 身 赴 任 で実 質 は 東 京
に 一 万 石 を 分家 させ 、あ とは五 万 石 の 外様 大名 で通 した 。
と大 差 は な か つ た 。東 京 に比 べ る と五 泉 の生 活 は実 に短
私 の 父母 は もとよ り、先祖 は新 発 田 に長 い が 、特 に母
昭和
)か ら六 万 石 に加 増 の 上 、新 発 田
の 折 、東 側 につ い た の が 良 か つた の で あ ろ う。江 戸 時代
か く物 心 が つ いて か らの 記憶 とな る と更 に短 く 10年 位
方 (柳 川家 )の 初 代 は秀 勝 公 に従 つて 入封 、新 発 田藩士
の もの か 。 30代 か ら 60代 一 杯 まで は 仕 事 や 生 活 に追
と して仕 えた 。家 系 は今 も続 い て い るか ら、我 が 家 には
われ て い た か ら 、生 れ 故 郷 や 幼 時 の 頃 を深 く想 い起 こす
四百年 余 の 歴 史 が あ る こ とにな る 。
新発 田 の 見 どころは城 跡 で 、当時 と して は珍 しい 平城
機 会 は あ ま り無 か つ た 。
然 し、時 に強 く意 識 させ られ る こ とが あ った 。それ は
で あ る 。城 跡 に今 は大 手 門 と櫓 しか残 つて いな い が 、春
ナ マ リと い うか 、ア クセ ン トと い うべ きか 、 これ が容 易
か ら初 夏 に か けて周 囲 の お掘 には 、菖 蒲や 「 あや め 」が
に直 らな い こ とで あ つた 。一 応 は 標 準 語 ら しい 言葉 で 喋
一 面 に咲 き乱れ る 。それ で別 名 「 菖蒲 城 」「 あや め 城 」
つ て い るつ も りだ が 、時 々何 か の 拍 子 に この ナ マ リや 方
とか の 名 が あ る 。そ の ほ か溝 口家 の 下 屋敷 庭 国 と足 軽長
言 が 出 て く る 。家 族 や 親 戚 の 多 くは東 京 生 まれ の 東 京 育
屋 が知 られ て い る 。実家 は城 跡 近 くに あ るので新 発 田ヘ
ちで あ るか ら、 その 度 に笑 わ れ て しま う。外部 の人 に も
行 く と朝 夕は必 ず お掘 りの周 りを歩 き回 つた ものだ 。
「 失 礼 で す が 、 お 国 は … … ?」 と訊 かれ た こ とが幾 度 も
今 は 自衛 隊 が駐 屯 して い るが 、昔 は 陸軍 歩 兵 第十 六聯
60代 の 頃 、私 が 早 大
隊 が あ つた 。五泉 、村松 の 友 人 達 や下 越 の 大半 の 人 達 が
に 勤 め て い た 時 の こ とで 、あ る事 務 職 員か ら「 亀 嶋先 生
この 聯 隊 に 入 隊す る 。先 の 大 戦 時 、は るか南 方 の ガ ダル
は 、新 潟 県 の 下 越 地 方 の 出身 で は な い で す か 」 と言 われ
カ ナル 島に まで転 戦 、隊 員 の ほ とん どが悲 惨 な死 を遂 げ
た こ とで あ る 。 あ ま りの 図星 に私 は驚 い た が 「 うん 、そ
た悲 運 の 聯 隊 で あ つた 。
あ る 。 中で も一 番 記 憶 に あ る の は
の 通 り」 と答 えた 。 そ の 職 員 は「 実 は 、私 も水 原 在 の 出
郷社 諏 訪 神社 の 秋 の 大 祭 も懐 か しい 。新 発 田は穀 倉地
です 。父 の 職 の 関 係 で 新 発 田 、新 津 、五 泉 は よ く知 つて
帯 の 中心 だ か ら近在 の 農 村 か ら人 が集 ま つ て来 て賑 わ う。
い ます 。何 回 も行 き ま した 。だ いぶ 前 か ら先 生 の 話 し声
出店 も多 く出 る 。人 混 み に紛 れ ま い と兄 姉 の 手 を し っか
が 聞 こ えて くる と、亡 くな つ た 田舎 の 父 親 の 事 を思 い 出
りと握 つ て 歩 い た記 憶 が あ る 。また私 が 中学 四年生 の 春
し、懐 か しくて 仕 方 な か つた の です よ 」 と。そ して私 と
(昭 和 10年 )兄 と従 弟 と 3人 で 、往復 十 里 と云 われ て い
固 い握 手 を交 わ し以 来 親 しく付 き合 うよ うにな つた 。
た加治 川 堤 の 桜 見物 に行 つた 時 の こ と も印象 に 残 る 。堤
人 生 は マ ラ ソ ン レース と同 じよ うな もの で 、年 老 い る
には羽 越線 の 臨 時停 車 場 が 開設 され て い て 、近 在や 遠方
と 出発 点 の 幼 児 の 頃 へ 戻 る ら しい 。七 十 歳 を越 え る頃 に
か らの 花 見 客 で溢 れ て い た 。そ の 当時 の 桜 は最 も盛 りの
な る と昔 の こ とが次 々 と生 き返 つ て くる の で あ る 。
頃 で幹 も太 く、花 も見事 で あ つた 。兄 は 旧制 新 潟高 校生
八 十 代 に入 つた 今 は 、 い よ い よ強 烈 とな る 。
で 自線 二 条 に雪 の 結 晶 を型 取 った徹 章 の 真 新 しい帽 子 、
以 下 は 、 そ の 思 い 出 の土 地 の 書 き綴 りで あ る 。
◎新 発 田
新 発 田 中学 三 年 生 にな る従 弟 も二本 の 自線 が入 つた 帽子
をか ぶ つて い た 。村 松 の 帽子 は 白線 も何 も無 い が 、私 は
私 の 生 れ た の は新 発 田 で実 家 は 今 も残 って い る 。生 れ
村 松 を表徴 した あ の 「 松 葉 」の 徽 章 が 簡潔 で分 か り易 く
る と直 ぐ に五 泉 の 亀 鳴家 へ 養 子 に 出た の で 、新 発 田で育
気 に い って い たの で 、線 の 無 いの が少 しも気 に な らず 、
ちは しな か つ た が小 さ い 頃 か らよ く往 来 した 。兄 弟 も従
ホ ウの 本 の 厚 い足駄 で 、花 の 下 を音 を鳴 ら しな が ら歩 い
兄 弟 も多 く居 た の で 思 い 出 は 多 い 。
た 。実 に爽 快 な気 分 で あ つた 。
lθ
し
田田 X田 田田田謁田 田田田謁田 XN謁 田 XttX田 田 X田 田謁田田四 %四 %田 田田田田田田四 %田
こ こ で 新 発 田 出身 の 著 名 人 を二 、三 挙 げ て み た い 。
五 泉 と違 つ て どこか文 化 的 な雰 囲気 が あ つ た 。村松 藩 は
昔 は忠 臣蔵 の 堀 部 安 兵 衛 、戦 前 は 大 倉 喜 八 郎 男爵 の二 人
村 上藩 の 分 家 が独立 した もの だ が 、三 万石 の 小 大 名 とは
が代 表 で あ つた 。 い まは 御 存 じの 通 り。 この二 人 に加 え 、
め な が ら … 」の 花 嫁人 形 の 歌 の
あ の 「 金 欄 どん す の 帯 し′
い え藩 校 も あ っ て歴代 の 藩 主 が 、 しっか り した教 育 、学
作 詞 者 、蕗 谷 虹 児 。 この 人 は 大 正 12年 に雑 誌 「令 女 界 」
問 を代 々守 り伝 えて来 て い た もの と思 う。
日本 の 漢 和 辞 典編 纂 の 大 御 所 、諸 橋轍 次 氏 は 村松 に生
に詩 を発 表 した が元 来 は雑 誌 の 挿 絵 画 家 で だ つ た と い う。
まれ 小 学校 まで育 つた人 で あ る 。詩 人 と して有 名 な 堀 □
記念 館 も あ る 。そ の ほ か に元 大 関 豊 山 、 日本相 撲 協 会 の
大 学 氏 (長 岡 出身 )の 夫 人は村 松 町 の 出身 で 、少 女 時代
時津 風 理 事 長 が い る 。
は 文才 に秀 でた 人 と聞 い て い る 。
◎五泉
私 た ちの 大先 輩 で あ る千 代 国 一 氏 (旧 中 18回 卒 )は 日
五泉 は 、そ こで 育 つ こ と 16年 だ か ら 、今 の 年 齢 にな
本 短歌 界 の 長 老 で 、 これ まで八 回 も宮 中 「 歌会 始 」の 選
る と懐 か しく思 い 出す こ とが 多 いが 、それ らを思 い 出 し
者 を勤 め られ た 。また 「 国民 文 学 」の 編 集 、発 行 もされ
て順 序 よ く明 瞭 に記 す る こ とは 困 難 で あ る 。
現 代歌 人協 会 の 理事 に も就 任 され てお り、我 ら母 校 の 誇
養 父 母 は 元 々 土 地 の 人で は な く五 泉 には 親 戚 は 一 軒 も
な い 。従 っ て 町 の 中心 部 に住 ん で い た が 、学 校 の 友 達 以
りとす る方 で あ る 。
村松 で一 番 印象 に 残 るの は 、学 校 を除 けば 、愛宕 山 と
(103m)眺 望 が 素 晴
外 、訪 ね て 行 〈家 は な か つた 。幼 い 頃 、家 の 出入 りの 大
工 の 棟 梁 で私 を特 に可愛 が って くれ た 人 が い て 、 よ く近
村 松 公 園 で あ る 。愛 宕 山は低 い が
郷 の 大 田 、善 願 、今 泉 、三 本 木 、土 深 な どへ 手 間 仕 事 に
行 く時 、弟 子 に道 具 を持 たせ 私 の 手 をひ い て連 れ て い っ
れ て い る 。中学 四 、五 年 の 頃 か 、 クラ スの 者
て くれ た 。疲 れ る と肩 車 も して くれ た 。私 は 大 喜 び だ つ
「
た 。仕 事 の 合 間 には 木 の 切れ 端 で オ モ チ ャ 」を作 って
へ 「 松 茸 飯 Jを 食 べ に行 つた 。一 度 、柔道 の笠 原先 生 に
くれ た 。そ れ を 自慢 しな が ら近 所 の 子 供 と魚 を取 つ た り
め もな か つ た 。笠原 先 生 は体 に 似 ず 、気 持 ちの 優 しい先
蛇 を追 った り して遊 び まわ っ た 。
生 で あ つた 。
五泉 と い う地 名 は 水 と関係 が あ る 。町 中 の 何 処 を掘 つ
ら しい 。特 に 松 林 の 群 れ が い い 。旧校 歌 の一 節 に も歌 わ
3人 で 何 度
か 授 業 をサ ポ リ、赤 山か ら愛 宕 山 へ 入 り、山頂 近 くの 店
見 つ か り大 目玉 を食 った こ とが あ るが 、あ とは 何 の お咎
多少 老 い ては い るが 、 3000本 余 の 桜 が 一 斉 に 花 を
て も水 が湧 き出 て く る 。水 道 が な か つた 頃 で 、家 庭 で は 、
開 く公 園 も い い 。全 国 的 に も有 名 で あ る 。広 々 と した芝
ナ ガ シに 大 きな 水 が め や 桶 を置 いて 毎 朝 、水 を汲 み 入 れ
生 の上 に寝 転 ん では 、お 互 い 自由気侭 に語 り合 い青 春 を
´で あ つ た 。水 は清 浄 で 美 味 だ つた 。 また五 泉 は
る暮 ら し
十 三 分 に楽 しん だ もの で あ る 。
機 織 り業 が 盛 ん で 町 を支 えて お り活 気 もあ り職 人 の 家 が
私 は 随分 長 い 間 、村松 へ 行 つ て なか つた が 、つ い二 、
多 く、小路 へ 入 る と長 屋 が た く さん あ つ た 。五 泉 小 学 校
は校 舎 が 大 き <、 特 に雨 天 体 操 場 の 設 備 は 立派 で 、県下
三 年前 、五 泉 で法事 が あ り翌 ロタ クシーで 公 園 を訪 れ た 。
で も指 折 り との 評 判 で あ つた 。近 くに早 出川 が あ り清 流
で鮎 の 動 きな どが見 え 、よ く泳 ぎ に行 つた が 川 原近 くに
の 思 い 出が 頭 の 中 を駆 け 回 るの だ が 、そ の ひ とつ ひ とつ
僅 か 20分 位 で あ つた が 愛 宕 山や 公 園 を散 策 した 。往 時
に囚 わ れ て い て は反 つて大 きな 想 い 、情 景 を失 つて しま
桑 畑 が あ り 、そ の 実 を取 つて 食 べ 、 日 の まわ りを赤 黒 く
うと思 い 、た だ ウ ッ トリ した気 分 に な つた だ けで満 足 し
染 め た ま ま暗 くな る まで過 ご した 。春 先 に な る と腰 に団
て 再 び 車 へ と戻 つた 。
子 をぶ ら 下げ て 、広 い 空 き地 で凧 を揚 げ た 。澄 ん だ大 空
に凧 が舞 い あ が つて ゆ くの が 無 性 に嬉 しか っ た 。
町 には 幼 稚 園 も無 く 、む ろ ん塾 な どな か つ た 時 代 で あ
る 。五 泉 に は数 年 お き位 に大 火 事 が あ つた 。何 時 の 年 だ
機会 が あ れ ば 、 も う一 度 、 いや 何 度 で も私 の 生 まれ た
地 、育 つた 地 、学 ん だ地 を訪 れ て み た い と考 えて い る 。
(平 成
12年
1月
記)
つ た か忘 れ た が 、火 が 我 が家 の 数 軒 先 まで寄 せ て きて火
の 粉 を浴 び 、怖 くて 体 が ガ タガ タ震 えた の を覚 えて い る 。
も う今 は た まに帰 省 して も、寄 る家 も何 軒 もな く知 つ て
い る 人 も少 な くな り、み ん な 老 い て しま った 。
ち ょ っと無理な話
◎ 一 日だ けで も良 い か ら大 臣 をや つて み た い と思
これ が生 きて い る者 の 運 命 で あ ろ うか 。
つて い る 。記 者会 見 を して 、外交 、国 防 、教 育 な ど
◎村 松
につ い て 思 いの た け を喋 つ て み た い 。そ して 翌 日ク
村松 には 住 ん だ こ とは な い が 、旧 中 の 五 年 間 お世 話 に
な つた 。菓 子 店 「 三 村 屋 」の 川 瀬 君 とは特 に親 しく彼 の
ビに な つ て もよ い 。野 に在 つ て は 、 マ ス コ ミが相 手
家 には 何 度 か 泊 め て もら つた 。村 松 は 私 の 感 じで は新 発
田 の 町 を 、 ひ と廻 り小 さ く した よ うな 町 で町 並 み も似 て
い て 、同 じ城 下 町 のせ いか ヒ ッソ リと した静 か な 町 だ が 、
に して くれ な い か らだ 。如 何 で しよ う ?森 さん 。
(伯
)
田田田田田 田田田 田四 %田 田田田田 X田 田田田田四 %田 田四 %田 X四%田 田 x四%田 四 %%四 %
旧陸軍墓地はどうなった ?
東京 同窓会長
佐伯
益―
(中
27回 卒 )
リ
レ
とも6∼ 7メ ー
ト
中学四年 か、五年 の時だったか忘れたが、軍事教練 の
位 の厚 さの土砂が削 り取 って搬出され、
いま 番坂へか ゝる道 も2∼ 3メ ート位低 くなっている
一環 として、日露戦争の生 き残 り石黒重次郎老中尉 ドノ
に率 い られて露営の幕舎を張 ったことがある。露営地は
のでないかと思 う。昭和 56年 の地図では建物の記号に
練兵場 の端 にある実弾射撃場近 くの小高 い丘 にある陸軍
変わっている。ちょうど墓地の在 った辺 りの現地表面に
jllが 流れていたよう
墓地の広場であった。そばにノ
1ヽ さな
今の「愛松園」が建 っていることになると言
己してあった。
である。 (そ うでなければ飯金炊餐など出来る筈 もない
墓石 の行方は不明、町の郷友会 (元軍人 の会 )の 人、
し、また この場所 は最近 、古 い地図で知 った)
或 いは新潟の護国神社へ問い合わせたら分かるかも知れ
の
の
ぬと付記 してあった。私は番坂を知 らない。
食事後 大休止 時、私達はたくさん並んだお墓を、
一つ ひとつ見て廻 らた。さながら会津飯盛山の白虎隊 の
なにか記念碑か慰霊碑でもあるのかなとも思 ったが、
墓が三列、三列 と横隊 に並んでいるようで数は覚えてい
それも不明。恐 らくは無 いであろう。墓地には戦で亡 く
ない。墓石は粗末で、荻野石 のよ うでもあった。表には
なった将兵の墓 も多くあった筈。全国各地には忠魂碑や
陸軍歩兵二等卒 、または一等卒、何 の伺某の墓 と彫 られ
各種の記念碑がたくさん建 っていたが戦後 、みな取 り払
てお り、裏面 には驚 く事 にその殆 どが何年何月、溺死 と
われた。戦勝国への遠慮か、命令か、時代の趨勢か、今
となっては昔の歴史を知るすべ もない。残念 に思 う。
あ った。年号 は分からない。 (卒 )と あるから凡 らくは
明治末期 か大正の年代か ?
逆説だが、中国や韓国にある反 日的記念碑や記念館等を
私 はこの「溺死」の二文字 に大 きな疑間 と関心を抱 い
想起 してみるがいい。
た。あ とで石黒中尉 ドノに訊 いてみた。
鹿瀬町には神社 の境内に、県出身の鈴木荘六元陸軍大将
「それはナアー 村松聯隊の兵隊が大日原の演習場へ行
の揮塁 し欄
碑が現存 している。私は帰省する度 に、
く時 に阿賀野 ││を 渡 る渡船 が転覆 して多くの兵隊が溺死
名 も顔 も知 らぬ英霊の、その碑 に向かって軽 く頭を下げ
したんだ…その墓 よ」 との答。それにしても将校の墓が
て通 り過 ぎる。
見当たらなかったのは不思議であ った。或いは私の見落
余談 になるが 真偽の程は知 らぬ。
しであ ったかも知れぬ。その 日、私達 が墓地に着 いた時
かつて 村松町で自衛隊誘致の話が出たが、大方の反対
また去る時 も、着剣 して捧げ銃をし、弔意を表 した事は
で実現 しなかったとい う。もし誘致 に成功 していたら、
い うまでもない。……はるか昔の事 である……
現在の村松町は随分 と変わっていると思 う。
当時の大 日原演習場は、今の水原町飛地 にあ り、現在は
自衛隊演習地 となっている。大 日とい う地嗜がある。
とにか く これで積年の謎が一つ解けた。墓地が無 く
以下は後 日談である。
なって、ガ ッカ リしたのも事実。調べて下 さった伊藤氏
その後 、軍事的歴史 の好 きな私は 再びこの墓地を訪れ
とマ ドンナさんに厚 く御礼申し上げたい。
てみたいと長 い問思 い続けてきた。村松 へ行 く度 に多 く
今度は「愛松園」 とは何だ と、また考え込んでしまった。
の人 に、この所在を訊 いてみたが、誰 も知 らぬと云 う。
最後 に 「私が何故 このノ稿を書 いたか ということを
昨年 8月 の本部同窓会総会 に、八木、深見両役員 と共
皆 さんに考 えて頂きたい」 と思 っていることを付け加 え
に出席 した帰 り、当時マ ドンナと騒 がれた同級生の佐藤
させていただく。
静子 さん宅へ お寄 りした。そこでまた訊 いてみた。
ちょっと。どうでもいい話
「伊藤 さんなら御存知 かも」 と早速電話 して下さった。
◎ 家 に い る と 、 毎 日 の よ うに マ ン シ ョ ン 、 お 墓 、 投
郷土史研究家 の伊藤正氏 (旧 中 32回 卒 )の ことである。
資 な ど勧 誘 の 電 話 が か か っ て く る 。 多 い と き に は 日
マ
ドンナさんを通 じて伊藤氏から地図を付
間 もなく
に 五 回 もあ る 。一 体 、何 処 で 調 べ る の か 不 思 議 だ 。
した詳 しい説明が送 られてきた。それによると大正 3年
つ い二 、三 日前 に 墓 の 勧 誘 の 電 話 が あ った 。 田 舎
に 先 祖 代 々 の 墓 が あ る か ら い い 、 と言 つ た ら 田 舎 は
の陸地測量部 の地図には明らかに射撃場の東に石碑、石
ど ち ら で す か と き た 。新 潟 だ と答 え た ら 「 私 も新 潟
塔 の言
己号 がついている。此処が陸軍墓地であった。
で す 。 して 、 ど の 辺 ?]と ま た 訊 く 。 う る さ く な つ
戦後 、取 り払わ れて昭和 30年 代 には番坂 (ば んざか)
て 、 東 魚 沼 郡 だ !と 言 つ た ら fあ ゝ 、 い い 所 で す ね
お 米 も 旨 い し 」 だ っ て 。 バ ヵ モ ン :新 潟 県 に ひ が し
か らの道 が残 り、墓地跡は砂地のノ
Jヽ さな広場 となってい
魚 沼 郡 な ん て あ る もん か !
ガ チ ャ ンー
(伯
たとのことで、墓地跡は土 (山 砂か)取場 となり少なく
,レ
1ヽ
)
12
田田田田 田田田四 %田 田渦田田田田田田田田四 %田 田田田田田田田田 田田田田田田 謁田田 XN田
本来 、他 人 の 集 ま りな が ら仲 間 に何 か 不 都 合 が 起 きた
仲 間意識 と身内意識
伊藤
勇 五 (旧 中 33)
◎仲間意識 、身 内意識 と云 う言 葉 を時 々聞 くこ とがある。
一般 に 同 じ様 な意 味 と して使われ て い るが 、私は本 当の
は全 く違 うと思 つて い る。
時 、た とえ多 少 筋 が通 らな く と も最後 まで 庇 お うとす る
の は 、集 団 、組 織 を守 るため に 他 な らな い 。結 果 と して
それ が 自分 を守 る こ とにな るか らで あ る 。一 連 の 警 察 の
失 態 隠 しが それ を示 して い る 。仲 間意 識 の 根 底 には 自分
を守 る欲 と計 算 が あ る と思 つて い る 。
身 内 とは 、判 り易 く云 えば家 族 や親 しい関係 に あ る親
先頃 、警察 の 不祥事が続 い て 問題 とな つたが 、その 中
籍 の 人 達 (一 族 )の こ とで あ り、身 内意 識 とは そ の 人達
で 、お らが生 国 さの新潟 県警 が何 とも情 けな い失態 を演
の 持 つ 『 一 体感 』だ と云 え る 。同 じ血 縁 で一 族 を構 成 す
じたのは ご存 じの とお りです 。
る人達 は 、血脈 を共 に して い るため 、そ の一 族 を守 ろ う
か な り以前 、三条市で少女 が誘拐 された事件 が あ つた 。
とす る意 識 は純 粋 に 強 い 。 しか し 、 この 人 達 の 意 識 の 中
長 い間未解決 の ままで人 々の 記憶 か らも遠 くな って いた
に は 一 族 と して の 誇 りが あ る 。誇 りが あ るか ら恥 を知 り、
が 、両親や身 内の祈 りが通 して 、実 に 9年 ぶ りに発見 さ
恥 を知 るか ら 自制 が 出来 る の で あ る 。 この 自制 をす る意
れた 。犯人 は 柏 崎 の 男で何 と共奴 が 自分 の 家 の三 階に少
識 が筋 の 通 らな い言 動 を慎 しませ るの で あ る。身 内 の 不
女 を監禁 し、部屋 か ら一 歩 も外 へ 出 さず閉 じ込め て いた
とい うのには驚 きと同時 に怒 りが納 ま らなか った 。
始 末 を庇 い 、欲 の 手 助 け もす るが 、飽 くまで もそれ は 、
一 族 の 名誉 を汚 さな い範 囲 内 にお い て の こ とで あ る 。
新潟 県警 の 不祥事 は これ に関わ る失態だ けに 、県民 は
身 内意 識 の 根 底 には一 族 を 守 る誇 りと自制 が あ る と思
疎か全国 の 人 々 に大 きな衝撃 を与 え 、厳 しい批判 を浴び
っ て い る 。警 察 組 織 の 中 に本 当 の 身 内意 識 が あ れ ば 、あ
たのであ った 。 これ に就 いて県警 トップの本 部長 が 釈明
の様 な 体質 には絶対 にな らな い 筈 で あ る。 しか し、あの
の会見 を行 ったが 、その席で臆面 もな く嘘 を重 ねて云 い
体 質 は な か な か変 わ らな い だ ろ う。身 内は そ の ま まで も
訳 をす るいい加減 さに腹が立 つてな らなか った 。特 に誘
仲 間 に なれ るが 、仲 間は そ の ま まで は身 内 になれ な い か
拐 され た少女 は柏崎 の 保健所 の職 員に よ って発見 され た
らで あ る 。
るや 、今度 は「 第 一 発見者 に迷 惑 が及ぶの を考慮 してあ
の様 に発表 した 」と弁解す る図 々 しさ と、少女 が発見 さ
‐
れた 時 、県警 の トッフは偶た ま特別監査の名 日で中央か
ら来潟 して いた関東管 区警察 局長 を、県 内の温泉 に招待
し部下 の幹部 を連れ て一緒 に接 待 マー ジ ャンに うつつ を
ぬか して居たので あ つた 。 この 時局長 が「 県警 に戻 らな
くて大丈夫 か ?」 と一 応 は質 した に も拘 らず 「 構 い ませ
ん 」とその まま朝 まで居続 けて戻 ろ うと しなか つた 。認
識 の甘 さと、立場 を忘れ た姿 勢 に怒 りを通 り越 して呆れ
旧 中 34回・ 高 2
同期会 (平 成 11年 )
酵結
のに 、県警 は この事件 に対す る捜査 ミス を補 うためか 、
少女は警察 が発見 した と発表 し、 それ が嘘だ と指摘 され
◎ 旧制 中学 第 34回 、高校第 2回 卒業生 の 同期会 が 平成
11年 7月 4日 ∼ 5日 の 両 日、神 奈川 県厚本市 の飯 山温
泉元湯旅館 にお いて開催 され た 。
初参 加 の 2名 を加 えた 23名 の 有志 が料理 に舌鼓 を打
ち美酒 に酔 い 、若 き 日の 想 い 出を夜更 けまで語 り合 った 。
{松 龍会誌 、第 6号 (12.3.1)よ り
}
て しまった 。警察組織 の 中で 、キ ャ リア と云われ る人達
の余 りに も一般 の人 とか け離 れた 物 の 考 え方 と、そのキ
ヤ リア達が リー ドす る警察 の 組織 に 、国民 の信頼 が揺 い
だの も当然 で あ ろ う。
この度 の不祥事 に対 して マス コ ミや学識経験者の 中か
ら『 この組織 は仲間意識 、身 内意識 が非 常に強 い 。だか
ら内部 で起 きた不祥 事 をお互 い隠 し、庇 い合 う体質があ
り、そのため には嘘 も平気 で つ く』 と云 う声が聞かれ た 。
私は冒頭 に 、仲間意識 と身 内意識は全 く違 うと書 いた
が 、これ には持論が あ って 、私 に云わせれば警察組織の
中には仲 間意識 があ るだ けで 、身 内意識な どある訳 がな
いの である。…以下 、持論 を述 べ させ て いただ くと… 。
仲間 とは判 りやす く云 えば 、一 緒 に物 事 をす る人達 の
こ とで あ り、仲 間意識 とはそ の人達 の 持 つ 連帯感だ と云
える。同 じ目的 で集 団 を構成す る人達 は 、利害 を共有 し
飯 山温 泉 ・ 元湯旅館 にて (神 奈 川県厚木市 )
て い るため その 組織 を守 ろ うとす る意識は異 常 に強 い 。
Iθ
田田田 田田田謁田田田四 %田 田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田 田
内田
力氏
(母 校々長)
村松高校 々長 0内 田 力先生が病気療養中のところ
入院先 の済生会新潟第二病院で、 3月 26日 午後 2時 15
分 、直腸 ガンのため亡 くなられ ました。
告別式 は同 29日 午前 10時 よ り、新潟市の青山会堂で
執 り行なわれ、学校関係、教え子等 、大勢の方が参列 、
また 本部同窓会 より伊藤会長始め二・ 二の役員の方が
参列 されました。ここに謹んで衰 障の意を表 し ご冥福
をお祈 りいたします。 (享 年 60)
なお 東京同窓会からは御香典 を送 り弔意を表 してお り
合 掌
ます。
蒲鉄 の思 い 出・ 俳 句 と短歌
先生は平成 10年 4月 に着任以来、僅か 2年間の在職で
したが温厚で真面日、活発なスポーツマンでした。来年
3月 に定年 とのことでしたが、誠 に残念 に思 います。
後任 には県立松代高校の杉原校長が着任 されています。
◎短 歌
・丘 を越 え
山かげ抜 けて
四季 の 回想
◎俳句
・赤 トンボ
さよな ら電車
安 田町
・蒲鉄 の
消 え し村松
練馬 区
練区
吊 り輪 ゆれ
山口
ひた走 る
蒲原鉄道
福原平八郎 (中 26)
精 一 (中 26)
ひた走 る
福原平 八郎 (中 26)
◎ とにか く蒲 原鉄道 にはお世話 にな りま した 。
家が 出雲 崎で したので 、越後線 ・弥彦線 に乗 り、
東 三 条 で乗換 え、加茂 か らの大 切な足 で した 。
松 五 会、老 いて ます ます 盛んな り
◎松五会 とは 、村松高校 第 5回 卒業生 の集 ま りで あ る。
卒業年度 で い えば 、昭和 28年 に学び舎 を巣立 つた仲間た
ち。現在 、 210名 の 名前 と住 所 が確認 されて いる 。
ほぼ 10年 前 の事 だ 。金子鶴男氏 (五 泉 出身 )が 「み
んなで楽 しく語 り合 お う」と知 つて い る人 たちに呼びか
けた 。賛 同者 は喜んで幹事役 を買 つてでた 。
以来 、毎年 、東京 と新潟で交 互 に会場 を選び 、楽 しい
‐
集 い を続 けて い る。 ことに、昨年 の第 10回 越後湯沢 で
の会は北海道 や愛知 県か らも懐 か しい人 た ちが駆 けつ け 、
会場は熱 く盛 り上 が つた 。
一度 、出席 した人 は必ずや つて くる温 か い会 である。
す でに次 の第 11回 を待 ちわび る声 が高 い 。そのため 4月
9日 (日 )、 櫻満開 の上 野 ‐北京飯店 で幹事会 を開催 じ
た 。す ると、この席 に東京 同窓会 の佐 伯益 一 会長 か ら、
津川 の銘酒 ‐麒麟 山 の一 升瓶 が二 本 も ドー ン と差 し入れ
14
され た の で あ る 。 ま さに大感 激 !「 お い 、今 年 か ら東 京
大 会 に も出 て み よ うか 」 と い った 意 見 も飛 び 交 っ た 。
松 五 会 が 東 京 同窓 会 の ニ ュー パ ワー の ひ とつ と して 、
そ の 発展 に協 力 で き る 日は 、 そ う遠 くな い よ うに思 えて
な らな い 。 (文 責 =松 五 会 ・ 雲 村 俊 槌 )
V
田田 田田謁 田田田田 田田田謁田田 田田田謁謁田田田田田田 田田田田田四 %謁 田田田田田田田田田
4,2キ
五泉、村松間の運賃の変遷
蒲鉄 の 思 い 出
(2)
実施年月日
会報第 28号 に蒲原鉄道 に纏わる思 い出を書 いたが、
記事中、僅かだが通学定期運賃 のことに触れている。
そこで五泉、村松間の電車賃の移 り変わ りに関 さを抱 い
た。幸 いに元蒲鉄の取締役であった同級生の竹谷十 三7T
君が五泉 に居 られるので訊ねてみた。暫 くしてこの件 に
ついて丁重な手紙 と詳細な資料が送 られて来た。
(佐 伯)
感謝 しながら、ご紹介 したい。
『 電車運 賃 の変遷 』 に対す る思考
竹谷 十二五
(中
27)
1、
507月
170 4月
4月
210 3月
220 3月
220 7月
230 5月
23・ 7月
250 5月
20・
26 7・
0.0
0.8
│1
│1
│1
1.3
3.3
4.0
2円 │1
13.3
1.0
開鞘
ず
値下ι
値上ι
ず
↓
8円
10円
15円
17円
20円
25円
30円
20
320 6・ 1
370 2・ 8
1
43・ 1・ 16
450 6。 12
470 7・ 1
49・ 8・ 11
510 3・ 17
530 4・ 14
550 4・ 20
570 4。 20
590 4・ 20
61 010・ 1
平 成元年
1
│
│1
│
考
3円 50銭 1 23.3
280 2・ 1
400 4・
備
4・
1
904・
1
11010・ 3
40円
50円
60円
90円
110円
140円
170円
190円
220円
230円
240円
280円
鐵
1
1
1533.3
冊
消鍵
廃線 まで
泉となる
予 ♯
五泉、村松間の運賃の変遷 から次のことが考えられ
ます。開業時の運賃 15銭 に対 して電車線廃止時の運賃
が 280円 で正に 1866.7倍 で一般物価が大正末
期 に対 して 2000倍 を超えている現在、公共交通機関
が国の方針で低額 に抑制 されて来た現状を見 ることが出
来 ると共 に、昭和 40年 代頃からのモ ータリゼーシ ョン
の進展 に伴 う物流の変化、競争の激化等による運賃の適
正化が出来得なかった事など……時代の流れが読み取れ
ると思 います。
大正 12年 当時、五泉 、村松間 15銭 の運賃が昭和
5年 、加茂 まで路線延長 した時 に 12銭 と値下げ とな
ったのは、第一次世界大戦後の、昭和初期 の不況 に対
する対応 と考 えられる。
2、
第二次世界大戦の敗戦 によるインフレの進展 によっ
て運賃値上げ対応 も意のま ゝにならず、昭和 23年始
めに公務員の初任給が 39.9倍 に伸びたのに対 し
五泉、村松間の運賃は 23. 3倍 であ り、運賃が抑
制 されている状況を見 ることが出来る。
3、
戦後 、昭和 30年 代後半から物価の上昇に伴 う対応
が運賃改定 で 2∼ 3年 ローテーションで実施 された。
4、
昭和 60年 代からはモ ータ リゼーションの進展 によ
り、人の移動方法 に大 きな変化が現れ、ローカル交通
の輸送人員 が減少傾向 とな り運賃の改訂が困難 となっ
て来た。
※ 我 々が中学校 に通学当時 は 12銭 、開業時の運賃 が
15銭 、我 々の常識からすると、物価 とは値上が りする
のみ と思 っていましたが、運賃 が値下げの時 もあったの
かと…… 昭和初期 の不況が相当な影響を経済界に及ぼ
していたのですね。 ……
( 私達の在学時 、支那そば一羽tが 9銭 から 10銭 、
ス とは呼ばな
イ
ライスカレーが 15銭 、 一一 当時 は カレー
ラ
かった 一一概ね五泉 、村松間の運賃 に匹敵 し、まんじゅ
うが、一ケ 2銭 であった。軍事教練は厳 しかつたが、
思 い出の多い楽 しい時代でもあった。 ①翫き )
◎
僻
15銭
12銭
15銭
20銭
50銭
60銭
大 正 12年 9月
昭和
運賃
ロ
15
田田田田田田田田田田田田田田 田田田田田田田田田田田田田田田田 田田田田 田田田x田 田 X田 田
ち よつ とい い 話
ち よ つとおも しろ い話
四 月 に 、亡 父 の 法 事 で 田舎 へ 行 って きた 。
新 幹 線 で新 潟 駅 に着 く と至 る所 に今 春 再 開 した SL
◎東 京 同窓 会 広 報 委 員長 の 沢 出 さん か ら編 集 会 議 の
C57180「
ガ貼 つ て あ る 。 一 枚 欲 しくな って 名 刺 を出 しな が ら
案 内状 が 属 いた 。何 気 な く読 み 机 の 上 に置 い た 。 と
同時 に 「 え つ ?」 再 び手 に とる 。漢文 ?中 国 語 ?…
案 内所 に飛 び 込 ん だ 。事 情 を説 明 す る と「 今 日は 担
違 うと思 うん だ け ど ?… それ は送 り仮 名 抜 きの漢 字
当が休 み だ か ら明 日にで も 」 と 、云 う事 で帰 りに又
だ けで 構 成 され た 文 章 だ つた 。 ま しめ な顔 で 時 どき
寄 っ て み た ら既 に用 意 して あ つた 。然 も 2枚 。応 対
シ ャ レ を飛 ばす 沢 出 さん 独特 の 遊 び心 か な ?
ば ん え つ 物 語 号 」の 大 きな ポ ス ター
それ と もワ ー プ ロ 作 業 の 省 エ ネか ? な ど と思 い
つ ゝも 、少 しは 中国 語 を解 す るが 自信 が あ るわ けで
して くれ た 人 は 三 人 、驚 く事 に 、 そ の うちの二 人 は
五 泉 出身 で 、わ が 母 校 の 同窓 後輩 。や は り世 の 中 に
は 「 こ うい う事 もあ るの か な あ 」 と思 った 。
もな い 私 に と つて 、 この よ うな表 現 も可 能 な の か ?
嬉 し くな つ て 、持 って い た SLの ネ ク タイ ピ ン と
と、俄 か に 不 安 と探 求心 が 頭 を もた げ 、遂 に辞 書 を
五 泉 を特 集 した 「 新 潟 県人 会 報 」 を各 々お 渡 し して
取 り出 し私 な りに 中 国語 で の 案 内状 を作成 して み た
そ して 、改 め て 日本 語 の 優 雅 さ 、 きめ の 細 や か さ
きた 。頂 い た名 刺 には 、新潟 駅 営 業 総 括助 役 ・ 斉 藤
一 良 、 とあ つ た 。昭 和 40年 ・ 高 校
17回 卒 。
を思 うと と もに丁 寧 さの過 剰 を実 感 した 。 また 私 達
や」
が 多用 す る 「 御 」の 字 は 、中国語 では 「 御 者 ぎまし
一 枚 は 県人 会 館 会 議室 に貼 らせ て も ら うつ も りで
い る 。強 心 臓 もた ま には 役 に立 つ な と思 つた (伯
つ ま り「 馬 車 を御 す る 」以 外 は 、封 建 社 会 に於 て は
)
(統 治す る
①
上 が下 を支配す る
②
皇帝 に関す る語の接尾語
(例 えば …天子が御覧 にな る )
本 会報 に 「千 代 國 一 氏 の 歌集 を読 む 」の 、岡村 三 夫 氏
)
の 寄 稿文 が掲 載 され て お ります が 、そ の 後 、次 の 事 が ら
とあ り、「 御 」の字 は本来軽 々 しく使 っては いけな
が分 か りま したの でお知 らせ します 。 (広 報 委 員会
い文字 な の か と考 え させ られ た 。
それ に して も沢 出 さん 、面 白 い事考 え出 され ますね
)
お陰 さまで私 も一 晩 、言葉遊び を楽 しみ ま した 。
◎短 歌 新 聞社 設定 の 第 七 回短歌 新 聞社 賞 が 、歌誌 「 国民
文学 」編 集発 行 人 の 千 代 國 一 に 贈 られ る事 にな つ た 。
と、 3月
我 了解 御 字 的意 志 ‐道 是 対 今 日最 大 的 成果 了 。謝 謝
10日 発 行 の 短歌 新 聞 一 面 トップ に掲 載 され て
(深 見
い ま した 。対 象歌 集 は 、第 十 一 歌 集 の『 水草 の 川 』で 、
歌 歴 六 十 年 に お よぶ 歌 壇 の 長 老 の ひ と り、千 代氏 の 喜 び
の 声 を聞 い た 。 と書 い て あ りま した 。
ご受賞おめで とうございます。 (千 代氏…旧中18回 卒
新潟県立村松高等学校東京同窓会
広報委 員会
方)
錦集捜記
一 ︿覇報資殊中に 、いろ いろな事件や
一
第 29号
事務局 〒 157¨ 0061 東京世 田谷区北烏 山 3-13-15-104(八 木又 一 郎
電話 ・FAX番 号 03-3307-1048
lδ
一事故がありま し た 。横山 ノ ック大阪 ¨
一府 知事 の強制 ワイ セ ツ裁 判 。女性監 ¨
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¨禁董正匡護昇時に新艦習盃茸壁部の漁童→
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¨での宴︿〓。新潟県警幹部によ る交通 ¨
一違 反も み消し 。埼 玉県警上尾署 では ¨
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費 、一
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陸T古昼服膝壁部の遺狂絶裂寧。薦罪→
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一省汚職事件 でキ ャリ ア逮 捕 。二月 の ¨
九% と過去最悪を記録 一
¨失業率 、四 ‘
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埼 玉県本庄市 の偽装結婚 と保険金 一
一殺人 。そごうデ パート 、六千 四百億 一
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¨円 の 信 霊 塾 蒼 鳥 帥 昴 符 に 要請 。 一
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一三月 二十 一日 に 互 不 嶼 継 場 合 レ洞爺 一
発行人
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¨四月 二日、・
一不明で五日には森内閣発足。満月の ¨
一目に 事 仕 讐 再 摯 多 いそ つです 。 一
十七日、朝日新厠朝刊 一面 一
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四月一一
。説明 一
一に満開のチ ューリ ップの写首本
一には 、五泉市巣本地区で百五十万本 ¨
一栽培され観光客にも人気と の事 。 一
一二月末 の失業者 、三百五十万人。 ¨
一二十重則
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一小遣 いの 、
一〇四 パー セ ントを占 め 一
¨て います 。この状況 では個人消費ほ 一
一伸びず現状 のま ゝ? 広報委員会 ¨
平成 12年 6月
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