Alps 自転車紀行 2015.8.17-9.8

位が日本よりも高く、人々の応対の仕方、車両の設計を含め
◇◇Alps 自転車紀行 2015.8.17-9.8◇◇
山崎開平(理学部 3 年)
てサイクリストにも優しい。町の数だけキャンプ場があるのも、
キャンピングカーでバカンスを楽しむ人が大勢いるからであ
る。
シャモニーはアルプス最高峰モンブランの麓であるが、私
の目当てはグランドジョラスだった。かの森田勝が長谷川恒
夫とアルプス三大北壁(マッターホルン・アイガー・ジョラス)
冬季初登を争った舞台でもある。ここで初めて宿をとり、2 日
停滞した。しかし、幽玄に聳える尖峰群の向こう側、ジョラス
が望めることは無かった。心残りを表した様な雨に打たれな
がら、峠を越えてスイスに入る。
走った道のり(黒線は鉄道利用)
私はこれまで中学は陸上、高校はクロカンスキーと部活動
をやってきたが、それとともに父親の趣味に付き合う形で自
転車競技をやっていた。一時はプロを考えたほど、真剣に取
り組んだ。その後、大学山岳部に入って初めて山の魅力に
気付き、人と競って相対的な勝利を求めるのではなく、自然
の普遍的な美しさを求めることの素晴らしさを学んだ。今まで
自転車ぐらいしか取り柄がなかった私にとって、山は世界を
大きく広げた。2 年生になった頃、ひとつのプランが思い浮か
んだ。自転車で海外の山を登ることである。2003 年頃からツ
ール・ド・フランスをテレビで観戦してきたが、選手たちが大
草原やアルプス、ピレネーの山道を颯爽と駆ける映像が、強
最初にツェルマットを訪れた。ここはヴァリスアルプスの雄、
烈な印象として残っていた。そして山岳雑誌で目にした、シャ
マッターホルンの懐である。アルペンムード満点で、交通の
モニー尖峰群やドロミテの巨岩。もはや居ても立ってもいられ
要衝であり物々しい岩峰を擁すシャモニーとはまるで違う。
なかった。3 年生となり、色々あって Haupt を務めることになっ
宿に泊まるお金がなかったので、バックパッカーに混ざってド
た。夏休みは山岳部にとって、メンバーのレベルアップを図
ミトリーに入れられた。ここでは天気に恵まれた。朝一番で
るための大切な時期である。しかし 4 年生になると院試や就
Oberrohthorn(3414m)までトレッキングして、頂上で延々と、
活に追われて、計画が実行できるかは不透明だった。結局、
貪るように景色を堪能した。マッターホルンという山は、どこか
私は自らの責務よりも自己実現を優先させた。夏合宿を終え
日本の富士山に似ている。有名になりすぎたことが山として
ると装備庫からソロテンを持ち出し、実家にとんぼ返りして、2
の魅力を損ねてしまったが、山という枠組みでは語りきれな
日の準備の後に出発した。1 年近く強請った結果、親から 20
い、よりシンボリックな存在として不動なのである。それを見て
万援助してもらった。自転車は実家にあった年代物の TREK
いた時間が、今回の旅のハイライトになるのかもしれない。ツ
で、スチールフレームのフルリジッド MTB にロードタイヤを履
ェルマットを後にして、次はインターラーケンに向かう。その
かせた。キャリアはリアだけで、父親の伝から借りた。自転車
途中、ベルナーオーバーラントアルプスの西方、カンデルシ
を空輸するのはなかなか手間だったが、何とかなった。フラン
ュテグという山村の奥地にある Oeschinensee という湖に寄
スはパリからアルプスを経由してチェコのプラハまで、これか
った。湖までの自転車での道のりは厳しく、前輪が浮き上が
ら 3 週間の行程である。
る程の勾配だ。苦労して坂を登りつめた先にあったのは、ま
仁川でトランジットしてシャルル・ド・ゴール空港に着いたの
さにアルプスの湖のイメージをそのまま具現化したような理想
は日没間際だった。パリの名所を廻った後、コンコルド広場
郷であった。インターラーケンに着いたら、翌日はユングフラ
近くの茂みで蹲って夜を明かした。ブルゴーニュ地方は地平
ウ三山を見るため麓のグリンデルヴァルドに向かうつもりだっ
線が際限なく続き、パリからディジョンまでは 300km 程だが、
たが、キャンプ場からでもアイガー、メンヒ、ユングフラウが見
丸 2 日かかった。当初はプラハまでの全行程を自転車で行く
えることに気付き、また既に身体が悲鳴をあげていたので、
つもりだったが、トータルで 30kg 近い車体の重さもあり、早く
そこで停滞を決めた。三大北壁を見るのが一つの目標だっ
も疲れ果てて、諦めて TGV を使った。欧州はクライミング・ス
たが、そのうちの 2 つを見たことになる。
キー・カヤック・パラセーリングなどのアウトドアスポーツの地
ツーリングとしての目玉はここから先の峠道である。先ずグ
リムセル、フルカ、オーバーアルプの 2000m 級の峠を越えて、
2 時間も歩くと頂上の展望台に着く。見渡すと葉山の街並
古都クールに行く。輪行でサンモリッツま で行き、最後の
みがくっきりと見える。晴れ渡る青空に鳶がくるりと輪を描い
4000m 峰ピッツ・ベルニナを間近に見ながらベルニナ峠を越
ている。海の彼方にぼんやりと富士山も。ベンチに座り今朝
えて(ここも悪くない)スイスを後にし、イタリア領ティラーノに
早起きして握ってきたおにぎりをほお張る。彼女にも上げる。
入る。そこでアダメッロ山地の北側 SS42 を東進すれば、北イ
嬉しそうに食べている。はっきり言って小生かなりシアワセだ。
タリアの中心地ボルツァーノに着く。チロルというのはこの辺
デザートに、これも持ってきたりんごをむいて 2 人でほおばる。
から、北はオーストリアのインスブルックにかけての山域をいう。
まさにりんごを口に入れようとした瞬間、小生の口元からその
ドロミテ山塊はここから更に東にある。セラ、ポルドイ、ファル
りんごが吹っ飛んだ。何が起こったのかさっぱりわからずうろ
ツァレゴの 2000m 級の各峠をつなぐ道路はドロミテ街道と呼
たえる小生に彼女は「鳶が、、」と言った。彼女は確かにその
ばれ、ドロミテの中心地であるコルチナ(・ダンペッツォ)に通
姿を見たという、そしてわたしの手からりんごを取って行った
じている。セラ峠から見るサッソルンゴとコルチナのクリスタロ
のを。小生にわかには信じられずベンチの周りにりんごが落
山塊は好一対の奇岩だ。コルチナまでは天気がもってくれた
ちていないか探し回る。彼女は苦笑しながら「わたしは今朝り
がここで運がつき、雨が寒々しく降りはじめた。そして精魂体
んごを食べてきたのでこれ(彼女の分)をどうぞ」。
力も尽きた。オーストリア最高峰、グロースクロックナーに至る
「鳶に油揚げ」とはよく言ったものだ。それにしてもわたしにそ
峠道は、着雪の恐れもあったのであきらめた。プラハまで自
の姿を見せることなく、高い空から手の中にある小さいりんご
転車では到底間に合わないので、旅はザルツブルグまでで
を、わたしの手には触れることなく、奪っていくなんてちょっと
終えることとした。宿で久々に食べた暖かいもの(スープ)の
信じられない。よっぽどわたしが鼻の下を長くして目も空ろ気
味は印象深い。結局、総走行距離は 2000km には届かなか
分は漫ろ(そぞろ)だったのだろうか。
った。
ところでザルツブルグの駅では、シリアからの難民を受け入
れる準備が進められていた。また、11 月にはパリで同時多発
テロも起きた。それに私が巻き込まれなくて良かったと人から
言われるが、正直、私一人の命など取るに足らないと思って
しまう。旅を通じて、素直・崇高・真面目…様々な印象の人に
出会った。その多くに対して、私は人として共感を持った。今
はただ、彼らに平穏な日々が訪れるのを、日本から願うばか
りである。
◆寄稿
◇◇左衛門小屋テラス改修報告◇◇
◇◇鳶(とんび)◇◇
小山紀一(S38 入部)、佐藤行彦(S42 入会)
田尻研治(S47 入部)
編集:斎藤雅英(S31 入部)
12 月 9 日快晴の逗子駅に降り立ちメンバー中島容子と 2 名
件の熊・蜂騒動、つまり、壁面内部空間に営巣した蜂の巣を
で仙元山(せんげん)に登った。登山というよりハイキング報告
狙って、熊が剥がし廻った左衛門小屋外部壁面全面改装の
である。
構想時から指摘されていた次の作業、テラスの改修は、今後
本題に入る前に中島容子について少々。ひょんなことから知
数十年保障つきで完了しました。基本構造は変わっておりま
り合った(わたしが男性も子育てを!と講演などやっていると
せん。なお、作業請け大工派遣業者への支払い、金物代、
きに彼女が地元役所の男女共同参画の担当だった縁)もう
工費、経費、消費税を含む合計金額は、見積もりを下回る
30 年近く一緒に山に登っている(毎年 2-3 回は行く)。2 人だ
96,120 円でした。
けのときが多いが複数のときもある。彼女は立派な体格(要は
太っている)でゆっくり歩く、それがわたしには具合が良い。
須藤秀昭先輩ではないですが小生も変形性膝関節炎。涙ぐ
ましいリハビリを日々繰り返すこと 1 年、やっと山靴を履いて。
恐る恐るワンピッチ『大丈夫じゃないか』、さらにもうワンピッチ
『結構、行けるじゃないか』少し余裕も出てくる。山道の土の
匂い木々からもれる木漏れ日、『ああ、久しぶりだなあ』。気持
ちも弾みだんだんと嬉しくなってくる。
連絡を密にしつつ立案、本蔵良蔵小屋担当幹事経由で山
の会の了承を得て、渋谷建設社長(在遠刈田)との間で、施
工方法、必要機材、担当大工、日数、経費等の折衝、詳細
打ち合わせを 10 月初旬までには済ませた。
改修作業:
③来春までのエコーライン冬季閉鎖を一週間後にひかえて、
10 月 28 日より一泊で副棟梁采配の改修作業を実施した。初
日は朝 7 時半渋谷建設へ全員集結(田代侃棟梁、小山紀一
副棟梁、森岡昭シェフ、我妻大工、佐藤行彦大工補佐及び
斎藤雅英雑役主務)、社長立ち合いで機材積載後、直ちに
入山、11 時には現場作業開始。
④解体・組立作業:錆びた 6 角ボルトをスパナで取り外し、外
改修前
側の束、桁を新規角材で組立直す。腐食のはげしい床の枕
木は、新規防腐角材に替える。コーナーにアングルをビス止
めして、横荷重を負担する。階段は従来のものを利用し、6
角ボルトで固定。ボルト穴空け、締め込み、部材の咬み合わ
せなどの作業では、大工持ち込みのドリル、鋸など各種電動
器具が大活躍。夕闇が迫るころまでには、新しいテラスを仮
設した。
2 日目、床に新角材、古枕木をセッティングし、レベル調整し
て表面を均し、カスガイにて互いに連結した後、防腐剤を塗
布して、午前中に組立完了、後片付け清掃。潤沢清澄な沢
水で冷やし、ヌメリを落とし、薬味タップリの特製ザル饂飩で
昼食、ゆるりと帰路につく。途次、新丸山沢流路変更の左衛
門路確保作業[参照別稿:田代侃他共著丸山沢異変]。雨
脚激しくなるカナガラ駐車場 4 時着、解散。
改修後
エピソード:
初日の作業たけなわの中、現場から一時的に姿を消した棟
これにより、田代侃棟梁の左衛門小屋改修構想の完璧実現、
梁は、実は、川になってしまった左衛門路の復旧、新丸山沢
即ち平成の左衛門小屋改修の完了までには、外部壁板全
流路の変更作業下調べを口実に、大工に授かった食茸弁別
面の再度のクレオソート、タール塗りを最後の作業として来年
法の秘伝を胸に、密かに旬のムキタケ採取に出かけたので
に残すのみとなりました。今次作業のあらましを以下に報告し
あった。これを予想して準備して来たかの如く、程よい辛味の
ます。
大根おろしを、これまたタップリ添えたムキタケの珍味も加わ
った夕食時の幸せは、シェフの慧眼がもたらした労務への報
事前調査・準備:
酬でもあった。番外のキノコ狩りにウツツを抜かして居たばか
①火山性微動・地震の動向に伴うエコーラインの閉鎖解除
りではなかった棟梁の名誉のために言えば、同氏は雑役を
後も、未だに解禁されていないカナガラ駐車場から左衛門路
従えて、地下の薪蔵に身をかがめ、物置としてのスペースも
へ立ち入る県の特別許可を得て、去る 8 月 8 日に入舎(参
無いほどに乱雑に詰め込まれていた残材、機材の殆ど全て
照:清渓 134 号 19 頁森岡報告)。予想以上に進んだ荒廃で、
を一旦外へ引き出し、再度、キチット収め直し、小屋の外観
テラス骨格部分は倒壊寸前であることを確認したうえで、必
整備と併せて、本来の地下室機能を回復させた。小屋本体
要な資・機材割り出しの詳細調査。テラス改修用の新角材は、
改修時と同じく今次も、並みのプロの少なくとも倍以上の働き
小屋本体壁面改修用資材と同時にヘリコプターで既に搬入
はした我妻大工のエネルギーの秘訣は、どんぶりメシの豪快
済みであったが、他に 50 年間の風雪に耐えてきた旧来のテ
なお代わりの連発にあったことに目をつぶる分けには行かな
ラス用材、国鉄払下げレール用枕木には、両側階段の他に
い。そしてここにも、通例は各自持参となる筈の初日の昼メシ
も、2m30cm 長の超古材ながら、十分に再々利用できる強度
作りから始め、数度の茶菓をもタップリ準備して、背後で気づ
を有するものがあることも判明。
かれずに、それとなく各人の労働意欲をそそるシェフの魂胆
②その後、小山副棟梁は改修方法などについて田代棟梁と
が垣間見えた。他方、若さを買われて力仕事に専念し、ピタ
リと大工に密着して、相当な重量の角材の移動配置、持ち支
えなど文字通りの縁の下の力持ちは佐藤大工補佐。斎藤雑
役担当主務も仕事にあぶれることもなく、それぞれに愉快な
共同であった。
主役はテラス
以上