"● `● ■ いる く 堀し 型 詢 01高 照 理 易 需 ロメ■ 珈 丼 ]88 至浩国 鯰/// ン ´ ズ 査 フ 卜 i [通 津 地 区] ① 鉾八幡宮 貞観元年 (8591豊 前国宇佐人幡宮 よ り勧請 の時矛 を建て以 つて備 とした。故に鉾人幡宮 と称す。祭神姫大神、誉 田別之命、神功皇后、 息長足姫命。境 内に稲荷神社、恵比寿神社 (七 人岬神社 も祀る)が ある。 ② 河野善次郎碑 通津浦 と大島久賀浦が漁業権争 いを し,七 人 の犠牲者が出た、いわ ゆる七人 岬伝説。 この 争 い を県 の役人 を務 めた河野氏が調停 した。 通津漁業会創素 ヽ ③ 住吉神社 明治 35年 3月 3日 、河本弥重郎、青巳親子 が建立。航行安全の神様。軒左側 に猿 の刻物 がある。 ④ 田浦大相撲発祥の地 豊臣秀吉が文禄の役 (1592)で 朝鮮 に出兵 した際、風待ちのため通津浦に仮泊 し、兵士 の士気を鼓舞するため田浦で相撲をとらせた のが始まり。 ⑤ 専徳寺、弘中隆包碑 専徳寺は寛永元年 (16241開 基.当 初は高 照寺山にあったが、剖 ll広 家公の計 で現在地 に移築 した。初代住職 は弘中隆包 (兼 )の 孫 了善師 の三男善超飢 境 内には、弘 中三河守隆包 の碑があ る。岩 国領主であ り、陶晴賢の部下で もあつた隆包 は毛利元就 との厳 島合戦 (弘 治元年、155め に 反対の忠告 を したが聴 きいれ られず 、息子隆 佐0)と 共 に命をお とした。 ⑥ 桜井戸 井戸は、直径 65m、 深 さ 2m(水 深 lm)。 どんな早ばつでも枯渇す るこ とな く、良質 な 水約 50ぱ′日が湧水。吉りH広 家、如兼公が京 都 の柳 の水 よ り遜色な しと賞賛。昭和 60年 7 月 22日 、名水百選に認定 された。 ②景福寺 泉迫小丘の上 にあ り,高 雅閑静 の地で,南 に通津の家並み を越 えて瀬戸内海 の碧波 を望 む景観 の黄葉宗 の寺。境 内には四国人十八 ヶ 所霊山の石仏が山全体にあ り、大愚禅師、芭 蕉 の句諄、薬師堂t大 師堂な どがある。内部 には虚 自斎筆 の涅槃 5日 前の掛け軸な どがあ る。 ③馬頭観音 乗越橋を渡つた所にある。三面八亀 ③東沢潟終焉地碑 ネ沢潟は天伸 年 (18321岩 国市錦見沙原 に 生まれ、佐助 ,正 純、祭一郎 際 一とも)と 言い、号 は 自沙、水月、迂怪、沢濃と称した。陽明学者。 長州征伐を阻上のため藩政改革を要求、柱島流 罪、釈放後 「沢潟塾」 を作り教育に尽力。明治 24 年 (1891)没 、60歳 。 ①天然記念物イヌマキ巨樹 目通 り周囲 88m、 高さ約 16111、 樹齢 は 350 年といわれるが明らかでない。 昭和 54年 12月 4日 山 口県指定の天然記念物に認定。 まわりに大歳神社、荒神様がある。 ①吉川広家公碑 初代岩 国藩主・ 広家公 は、広正 に家をゆず り元和 8年 (1622)、 通津本 呂尾 に隠居 し、女│ 兼 と号 した。寛永 2年 (1625)65歳 で没。没 後、隠居所 は海前寺轄 洞剰 とな り、昌達が開 山とな つたが、現在は碑 のみ。近 くに四男政 春 の邸跡 がある。 ⑫五百羅漢観音 本 呂尾南河原橋 を渡 り梶山の頂上にある。 山頂に祠 があ り、その中に現在約 470体 の埴 輸の よ うな石仏が左右 に並んでいる。 ⑬山田妙見社 貞享 3年 (16861山 田炒 見平 に奉建 、 この 社 地 にあ る時人馬 な ど災難 が多発 したので 、 場所 を現在地 に移 した。 ⑭大番社 畑・ ゴルフ場管理塔 のFllを 入 つて約 5111く らぃの所 か ら右 に折れ、山を下 る。降霊水者、 蛇 は水 の精であるので、大番社は水稲 に必要 な水 の神様だ と言われ る。大番社 とは黄幡神 つ ま り陰陽道 の人将軍 の一つ。 が続 き、難 が集 合協議 の 結果火 伏地蔵 を受納 した。四国八十八 ヶ所霊場 効 9番 立 江寺 よ り 御霊 を拝受 。 ② 知足寺跡 明和 4年 (1767)頃 、大愚禅師によって建 立。大愚禅師 は岩 国で修行、長野で托鉢 を し 長野の資産家に認 め られ寺 を建立、 て いる時、 景福時をかけもち隆盛 させた。萩東光寺 15代 住職 を務め、山Fヨ も建立 した。 O杵 築神社 明治 42年 、内務省令により長野地区の 9 つの小規模 神社や荒神様 な どが合併 され、杵 築神社一つになつた。連石、鳥居や灯篭が多 いのはこの社 に集 められたためざ 毎年 5月 3日 に神舞が行 なわれ る。 ● 長徳寺 一 般 の フラ屋 の 形 でお 寺 の形 を 長徳 寺 は、 して い な いの で 、分 か りに くい。住職 もこの ①桝形観音 寺に住 んでいない。 長徳寺は、 往古寺 ではな く 30万 以 上の格式 修験者 が観音岩 方面か ら山中を修験 し、最 後に この地に来て滝に身を打たれて、イ ン ド 南岸 の海上 にある補 陀落 山や熊野権現 などの 修験 を体験 したのであろ う。桝形 は岩が桝形 に切 つた よ うな形 があることか らこの名が付 いたのであろ う。現 在は水量が少なく、 滝には なつていない。 ある大名 であつた のが 、 文明 2年 (1470)京 都 建仁 寺 へ 請願 し直末 として護 国山長徳寺 と なる。 当時 は長野全域 が境 内 と言 えるほ ど勢 力があ った。大阪合戦 に敗れ慶長 19年 焼 き討 [長 野地国 ち された。 O蓮 照院 舞々地区にある。 吉川広家公 が 由宇在住 当時、 岩 国城 の御普 請用木 にこの蓮照院が長徳寺 とともに とられ た。吉川氏打ち入 りまでは観音堂は近 くの長 徳寺の剰tで あったが、打ちいりの時こわさ 0長 野尻火伏地蔵 れた。元禄 に浄恵寺弟子恵性が再建 した。 嘉永年間 (1848∼ 1853)長 野尻地区に火災 製 作 石 仏 巡 り 同 好 会 通津地区自然と環境を守る会 通津地区社会福祉協議会 ィラス ト 山 本 洋 子
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