日本台湾医師連合 広報部

さと医も便り
第9号 2006年5月
日本台湾医師連合 広報部
http://www.jtmu.org/ 1
目 次
1. 新危機・新転機
~2006 年日本台湾医師連合新年国是声明~・・・・・・・・・・・
2
2. 彷徨う台湾人意識シンポジウム現場特報
~12・3 地方選挙の結果を受けて~・・・・・・・・・・・・・・
1.
われわれが今出來ることは何か・ ・・・・・・・・・
3
多田 恵 ( 講演 ) 6
2.
帰郷組曲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 王 紹英
9
3.
新包可花専欄第二回・・・・
・・ ・・・・・・・・・・・・
・ 包 可花
13
4.
滾入紅塵心自在・・・・
・・ ・・・・・・・・・・・・・・
・ 張 秀民
・・ ・・・・・・・・・・・・・・
・ 東 昌明
16
5.
台湾政治史年表・・・・
18
6.
軍国主義化の中国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 丘 哲治
26
9. 0 5年第3回日本台湾医師連合理事会議事録・・・・・・・・・
28
1
・・ ・
10.
0 5年第4回日本台湾医師連合理事会議事録・・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・
30
11. 会員日誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・
32
編後語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
34
2
・
新危機・新転機
~2006 年日本台湾医師連合新年国是声明~
去る 12 月 3 日に行われた台湾の選挙は地方選であるにもかかわらず、世界中の注目を浴び
た。注目の焦点は、与党民進党と野党国民党勢力構図の変化が台湾の対中国政策にどう影響を
もたらすか、というところにあった。そして選挙結果は、周知の通り与党民進党の大敗ということに
なった。
一方、陳水扁総統は 1 日、元旦のメッセージを発表し、2007 年の新憲法制定を目指すと共
に両岸政策では、従来の「積極的に自由化、効果的に管理」から「積極的に管理、効果的に自由化」
という方針への路線変更を打ち出し、「台湾主体意識」の堅持を強調した 。
この元旦のメッセージは日本であまり報道される事はなかったが、われわれ台日の架け橋で
ある日本台湾医師連合はこのメッセージは重大な意味を持つと考えた。そして、日本の友人達に、
台湾では「台湾主体意識」への流れが絶えずに続いている事を明らかにすると同時に、台湾各界
に以下の通り提言を行うことを決定した。
―声明―
1、陳水扁総統の元旦のメッセージを支持すると共に、真摯に実行することを強く要請する。
2、最高指導者である陳水扁総統だからこそ、自主、自信、自重、自愛が求められ、公平、公正、公
開、公議が望まれる。
3、 2004 年総統選挙の勝因は民進党の「台湾主体意識政策」にある、という厳然たる事実を無
視することは出来ない。そして、今回選挙の最大の敗因は民進党の行動が「 台湾主体意識」と
乖離したが故に元の支持者が遠ざかってしまった為である。
4、理念を犠牲にするような政党協調や中間層選挙民を取りこもうとする政策は台湾人への裏切り
行為にほかならない。
5、野党の連合が進んでいるが、民進党は党内の結束及び友党との連携を最優先に実行するべき
である。
6、国民党の、「党即ち国」時代の悪しき遺産を速やかに清算するべきである 。
7、堅持台湾、深耕台湾、防衛台湾、自決台湾。
天祐台湾
日本台湾医師連合
3
彷徨う台湾人意識シンポジウム現場特報
~12・3地方選挙の結果を受けて~
本稿は1月15日夕、東京アルカディア市ヶ谷にて開かれた本会主催のシンポジウムの
特報であります。本会会員は全国各地に点在している為、全会員を揃って会合を開くことは
不可能なことに違いない。一番近い関東地方に住む会員でも遠路で出席できない先生も沢
山おります。そういう意味において、会が主催した会合の内容や目的は、会員の皆さまには
十分理解して頂けないではないかと思います。今までこういう集会の後は講演録の形で、会
員誌の“さと医も便り“にて未出席の先生にご報告させて頂きましたが、今回のシンポジ
ウムはレポート方式で会員の先生に報告することを試みます。
さて、当日は日本台湾医師連合の会員だけではなく、台湾に関心を持つ日本人も多数参
加し、130名以上の参加者で会場は立ち見が出るほどの超満員な状態となりました。講演
者は“台湾の声”編集部の多田恵氏と台湾総統府国策顧問の金美齢氏両名の先生でした。
最初に多田恵氏が講演することとなりました。多田氏はまず昨年末の台湾地方トリプ
ル選挙で緑陣営が大敗した原因について10項目にわたる詳細な分析結果を述べられた。多
田氏が強調したことは、今民間の力が必要であるということ。国会で親中国派の野党が過半
数を握っている現状で、陳水扁総統のリーダーシップにはどうしても限界があります。とな
れば民間人がリードして、台湾の本土化、新憲法制定などを進めていかなければならないの
である。多田氏講演内容の詳細は、別紙にご参照して下さい。
続いて、金美齢先生の講演が始まった。
金美齢先生は台湾で選挙があるたびに、多くの日本人を連れて視察に行く(台湾では
外国人が台湾の選挙で特定の勢力を「応援」することは禁止されているが、
「視察」するこ と
は許されているのだという)。昨年末の地方選挙では緑陣営が敗北することは予め予想で
きたことでありました。さて、この選挙結果に、台湾マスコミの報道の仕方は、各紙の報道姿
勢が如実に現れている。中国寄りで有名な『中国時報』は“藍陣営が狂うほどの大勝利、緑派
は惨敗”という見出しをつけたのに対し、本土派で有名な自由時報は「人民は民進党に教訓
を与えた」との見出しをつけた。
民主主義には実は大いに厄介な側面があり、指導者が強固な意志を持って政策を進めて
いかないとおかしな方向に向ってしまう。昨年は民進党の汚職事件を中国寄りのマスコミ
が拡大に次ぐ拡大報道を続けました。国民党の汚職に比べればちっぽけであるにも関わら
ずである。汚職にまみれた国民党が平然としていられるのに対し、民進党が常にクリーンで
いなければならないのは民進党の宿命と言えそうでした。そのへん民進党はちゃんと自覚
4
を持たなければなりません。
中国人はもちろんのこと、例え台湾で生まれ育った人であっても、中華思想を持った人に
は何を言っても無駄である。今まで陳水扁政権がいくら宥和政策を遂行しようとしても全
く無駄でありました。これは日本の対中政策にも当てはまることであろう。
もちろんこのことは台湾の親中国派メディアにも言えます。元旦に陳水扁総統の演説が
行われていたが、台湾の一部のメディアは陳総統に対して下品な罵詈雑言を浴びせ続けた。
メディアの偏向報道の醜態を目の当たりにし、金美齢先生は決心したという。金美齢先生は
高らかな声で「私には陳水扁を監督する義務がある。それと同時に陳水扁を支持する義務も
ある。私はこれから陳水扁の悪口は言わないと決心しました」と発言した。その瞬間、会場に
拍手が沸き起こりました。
中国人は謀略に長けている。台湾人はいとも簡単に中国人の策略に踊らされている。その
上、台湾人はおとなしく、弱腰である。選挙終了後の様子を見ればわかる。親中国派は選挙で
勝利を収めると派手に喜び狂うが、総統選挙に敗北したときは暴動を起こす。台湾派は選挙
で勝利しても、敵を刺激すまいとおとなしくしているし、負ければ指を加えてみている。
金美齢先生によれば、台湾人が植民地時代に植え付けられた二級市民としてのメンタリ
ティを取り除かない限り、台湾国の建国は不可能とのこと。台湾人は、民主化を実現して十
数年経過してもいまだに恐怖意識が消えず、私的な場でさえも政治的な発言ができずにい
る。そして台湾人の多くは中国が戦争を起こすことを恐れている。だからなかなか台湾人意
識を表に出すことができない。台湾人はもっと自信を持たなければならないのだ。
しかし、台湾人が自信を持つためにはどうすればいいのか。これはアメリカ、そして日本
がもっとしっかりする必要がある。アメリカと日本は台湾の見方であり、台湾の安全を守る
という決意を示すことが必要である。保守系言論界の重鎮である桜井よしこ氏も最近は盛
んに日本も「台湾関係法」を制定すべきだと主張しています。もちろんこれは日本の国益に
もかなうことだ。台湾が中国に吸収されてしまうと、それは台湾自身のみならず、日本にと
っても大きな災厄をもたらすことになるのである。
金美齢先生による約1時間弱の講演の後、質疑応答となりました。
「次期総理の有力候補 で
ある安倍晋三氏は台湾の味方となるでしょうか」との質問に対し、金美齢先生は「私がこの
場で何か発言すると安倍さんへの票が減る心配があるのでちょっと言いにくいのですが、
間違いなくなります」とユーモアを交えながら答えました。
ある参加者からは「陳水扁総統の曖昧な態度が非常に腹立たしい」との発言に対し、金美
齢先生は、世の中は単に原理原則だけで動くのではなく、様々な要素が複雑に絡み合って自
分が直面する問題に対処していくのであって、そのような考え方は好ましくないと述べら
れた。
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また、ある老人が今後の台湾についての提案をし、
「民進党のみに頼るのではなく、新し い
台湾独立政党を作る必要がある。民進党、国民党隠れ本土派、台湾団結連盟、台湾独立建国連
盟、その他の諸勢力が一致団結して来年はじめまでに新政党を結成し、李登輝氏が党首、も
しくは顧問を勤める。そうしないと07年の立法議会選挙や08年の総統選挙に間に合わない」
と述べられた。
最後に、本会による声明文が発表され、講演会は終了した。在日台湾人は、在米台湾人より
もはるかに活躍し、それなりの成果を収めているし、日本人による台湾支持の活動も盛んで
ある。しかし依然として台湾国建国には至っておらず、まだまだ足りないのが現状である。
今後も我々は地道な努力を続けていく必要があるではないでしょう。
我々が今出来ることは何か
本稿は、1 月 15 日にて行ったシンポジウムでの講師多田 恵さんの講演録です 今日のテーマである12月の地方選挙では、県市長選挙を見ると、台湾派である緑陣営が嘉義
市長を入れると4ポスト失い、親中国である青陣営が4ポスト増やしました。2004年末の立法委員
選挙で期待されていた過半数を取ることが出来なかったのに続いてのことなので、心配している
人、望みを失った人がいるようですが、実際には逆境の中で健闘しています。私たちは立法院選挙
のときにように、状況を楽観視しては行けませんが、希望を捨て
る必要もありません。
逆境というのは、民進党政権が、(1)少数与党であること、(2)政権党であるので業績が求められ
るということ、(3)中華民国体制という矛盾した制度の下で行政を行う困難、(4)中国と、台湾に対
6
する理解が十分でなかった日米の間に挟まれていることによって、台湾をリードする強い方向性を
打ち出せないこと、そして、(5)選挙前だけ都合のいいことを言うように思われてし
まったこと。(6)これまで清潔さで支持を得ていたのに、政権をとって汚職疑惑が出たこと、(7)党内
部の人材の用い方、揺れる政策について、透明性がなく、支持者が喜んで支持できないようなイメ
ージを持たせてしまったこと。(8)メディアが国民党よりであるため、疑惑のイメージが増幅されたこ
と。これに対して、(9)ブルー陣営が団結して、『非常報道』などによる 批
判を押さえ込み、中国との友好的関係や、清潔さをアピールし、敵側に失点が少なかったこと。
(10)民進党支持者は政権に公正さを期待していた。ところが連戦訪中への抗議運動などで、司法
当局が緑の支持者ばかり検挙したり、『非常報道』に対する違法な捜査を許す、また、李登輝さ ん
への判決など裁判による言論弾圧を政権が許すなど、正義や公正さを追求する姿勢に欠けている
と見られたことです。
健闘したというのは、元の支持者が投票へ行かなかったり、敵に流れたりした例すらあるのに、
得票数で見ると、380万票を維持していて減らしていないのです。得票率で見ると、45%から43%
に、2ポイント落ちただけです。このグリーン陣営への支持率は、先の立法院選挙と同じです。です
から、今回の結果から、台湾人が中国を選択したと言うことはできないのです。そういう見方は、実
は国民党が作ったイメージで、それが、台湾から世界に発信されているのです。私たちは騙されて
はいけません。引き続き台湾人の気持ちを世界に訴えていかなければなりません。
そのほかの傾向として、ブルー陣営の票が国民党に集中する傾向が見られ、選挙後、親民党か
ら国民党へ移る議員が増えている。2007年の小選挙区での立法院選挙を前に、二大政党が争う
という状況に向かいつつあるように見えます。
また、期待通りに行かなかった選挙結果を受けて反省したのか、陳水扁総統は元旦の演説で、
民間による新憲法の推進について言及しました。また対中国投資を積極的に管理する方針も示し
ました。言っていることは良いのですが、私たちはこのような発言に踊らされて良いのでしょうか?
少なくとも今の陳総統はリーダーシップのあるタイプではありません。台湾は民主主義なのですか
ら、政権に期待するのではなく私たちが、リードしていかなければ
なりません。陳総統の発言は、新憲法は政府主導ではできないので民間で進めて欲しいというメッ
セージにも取れます。李登輝先生が総統だったときも、在野の民進党などの民主化運動をパワー
にして改革が出来たのではないでしょうか?今、民間の力が必要なのです。
今月3日から5日にかけて行われた世論調査では、「台湾と中国との関係は台湾人民が決定す べ
き」という意見が89%を占めていることが明らかになりました。国民党が主張している「最終的な統
一」を支持するのは、わずか6.6%でした。台湾人が中国を選択することなど、中国の酷さを知れば、
ありえないことなのです。中国では最近、カドミウム汚染でイタイイタイ病も出ているそうですが、毎
日のようにそういうニュースがあります。それで
も行きたい人は自分だけ行けばいいのです。全台湾を巻き添えにする必要はありません。
では、私たちの希望の光を守り、その光が全台湾に行き渡るようにするにはどうしたらよいでしょう
か?政治家や官僚に影響力のある人は、政府が正しい決定を行えるように働きかけることもできる
かもしれません。また民進党政権が間違った選択をしないように監視することも必要でしょう。民進
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党が政策を進めやすいような環境作りも必要です。しかし、長期的に見て、最も影響力を維持する
ことができるのは、国民党の支持者が半数いるという現状を変えることです。
ある友人が台北市内で、Say Yes To Taiwan と書かれたTシャツを着ていたら、後ろから来た二
人組が、標準的な中国語で「何が台湾だ」と、馬鹿にしたそうです。台湾を愛するという当然のこと
が、嘲笑に遭うということが、なぜ今だに許されているのでしょうか?国民党はこれまで、全体主義
の独裁政権でした。台湾の隅々にスパイを張り巡らしました。ですから、社会的な活動を有利にする
ため、あるいは、白色恐怖の被害にあわないために、国民党に入った人も多いかもしれません。家
族に国民党員がいるかもしれません。
しかし、忘れてはならないのは、国民党は台湾人を虐殺し、何十年もその人権を奪った政党であ
ることです。台湾が国際社会から孤立したのも、最大の原因は国民党にあるのです。いったい誰が
それらの責任を負うのでしょうか?蒋介石と、特務の親玉だった蒋経国ではないでしょうか?それ
なのになぜ台湾人が、「中正紀念堂」「中正国際空港」で蒋介石を記念し続けなければならない の
でしょう?そして、国民党はそれらを反省するどころか、中国と手を結んで、台湾の主権独立を妨害
しています。これらは台湾・台湾人に対する侮辱以外の何物でもありません。蒋介石の孫が年末の
台北市長選出馬を表明しています。なんと恥知らずなことでしょう!
なぜ、台湾人は敵に対して、このように寛容なのでしょうか?たしかに性格もあるかもしれませんが、
一番の問題は、国民党がこれまでに中国で、そして台湾で行ってきた残虐な行為、そして台湾の地
位が未定であるのに、中国になったと騙して支配下において、台湾人の権利と財産を奪い、台湾人
の言葉を禁止し、今に至るまで台湾人を馬鹿にしているという、これらの事実が、台湾人に知らされ
ていないのです。あるいは鈍感になってしまっているのです。ブルー陣営は憲法を守れと要求して
いますが、憲法によれば台湾は中華民国の領土ではないのです。どうして、台湾人が国民党の印
がある国旗に忠誠を誓わなければならないのでしょうか?
ここで紹介したいのは1951年から2年間、1961年から15年間、無実の罪を着せられて監獄に入
れられ、人権を踏みにじられ、殺されそうになったことすらあった柯旗化氏が書いた『台湾監獄島』
です。台湾では中国語版もあります。台湾人の苦しみ、恐ろしい228事件の場面、著者の国民党員
に対する見方が特に印象に残りました。
「(1964年ごろ台東の泰源監獄に収監されていた政治犯のうち)国民党軍の将校上がりの外省
人は台独民主派と喧嘩をすると、「台湾が独立するくらいなら、われわれはむしろ台湾を中共に 渡
す」といって憚らなかった」
「一九六五年五月に廖文毅氏が帰台するまでは、外省人は台独派本省人に対してちょっと遠慮し
ていたが、廖氏が帰台して臨時政府が挫折すると、もう台湾独立の可能性はないと見たのか、台
独派の本省人をなめてかかるようになった」
「中共政権が国連に加入すると、看守たちは公然と共産党派の受刑者に好意を示すようになった。
シナ人の投機的で現金な民族性を見せつけられ、用心をしないと将来、国民党政権は台湾を中共
に売り渡す可能性があると思った」
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国民党は、共産党と同じように危険な組織です。彼らが司法を握れば、台湾人には法律を守るこ
とを要求し、自分たちは守りません。馬英九市長は、台北市でスポーツの国際競技が開かれると、
「中華民国」の国旗の持込を禁止しています。もう「中華民国」が国際社会で通用しないことを知っ
ています。そればかりか、自分たちが作った体制を守らずに、中国
に従っています。30年前に柯旗化氏が見抜いているように、まさに国民党は強いものに従って、台
湾を中国に売り渡す危険性があるのです。
私たちは、強くならなければ、馬鹿にされます。まずは、一人一人が、中国国民党が台湾人にして
きた不当な仕打ち、残虐な行為、国民党と共産党の危険性について、外国人にだけではなく、台湾
人の知り合いに、そして次の世代、後輩たちに伝えていくことで、国民党に投票するということは
「とんでもないことだ」という認識を広めていく必要があります。これは中国や国民党が自分たちの
正統性を主張するために、日本を敵に仕立てることとは違います。国民党は今、事実として台湾の
敵なのです。もし国民党に入っている人も、台湾を大切にするなら是非、この運動を進めてください。
台湾の未来のためです。こういう運動を通じて、徐々に国民党の洗脳から台湾人を救い出し、中国
を拒否する強い台湾人意識を打ちたて、不安定な東アジアを安定したものに変えていくことができ
るのではないでしょうか。
今日は誰が責任を負うべきかということを具体的に述べましたが、台湾のメディアではまだこれ
をはっきり言いにくい状況です。政府もはっきりとした立場を取れません。しかし、私たちは政府で
はありません。私たちが正しいと思う認識を伝えていく必要があります。
戦後、外来政権が行った不正義について、十分に反省し、民主国家を確立するために、真実を伝
えていくということを提案したいと思います。
「註」本稿は、2006.1.15 本会が主催したシンポジウムにて、講師の多田 恵さんの原
稿を掲載した原稿です
帰郷組曲
王 紹英
――Naruwan, Formosa
年始年末の休みを利用して、なるべく家族全員が一緒に旅行できるように心がけてきた。前
回の年末も、ドイツにでも家族旅行しようと考えている矢先、次男が台湾に行きたいと言い
出した。
台湾への家族旅行?全くと言えるほど、頭に浮かんだことはなかった。しかし、15年ぶり
の帰郷もいいかも知れない、と思った。子供の気持ちにのせられて、帰郷を決行した。
彼らは、親の国をどう思うのでしょうか。私はそれを楽しみにしていた。 ――国際空港
9
「これから間もなく蒋介石記念空港に着陸する」
日本人機長の北京語機内アナウンスが耳に入ると、胸が一瞬ぎょっとした。
なぜ、台湾人は自分をさんざんと苛めた統治者を、あたかも英雄のように国の玄関口である
国際空港の名にするのか、と聞かれても、私には返す言葉はない。台湾人の歪んだ精神状態
を如実に表している巨大なシンボルであろう。しかし、こんなことを台湾人に言っても、誰
も感情的にならず、そこにあるべきもののような反応しかえらないのでした。
15年ぶりに、蒋XXの股をくぐらなければならない屈辱を味合うことになったが、私は、
台湾人特有の心霊冷感の本領を発揮し、暗闇の中、桃園国際空港を後にした。
――並木の大通り
宿泊したホテルの前に、立派な榕樹並木の大通りがある。木漏れ日が殺風景な車道を幾分和
らげ、いかにも南国の景色を醸し出していた。町にはごみもあまりなく、結構綺麗でした。車
の流れは相変わらず台湾風ではあるが、一昔のような神風式運転は少なくなったようでし
た。タクシも清潔になって運転手の対応も大分よくなっていた。二日目の好印象が、蒋介石
記念空港への嫌悪感を跡形もなく吹き飛ばしてくれた。
――慈済
朝食を終えて慈済の本部に行われる年末の催しを参加される羽目になった。私も実は、少し
この組織を覗いて見たい気持ちはなくもなかった。
慈済は恐らく台湾で一番大きな慈善組織であろう。宗教の力だからこそ出来たとは言え、台
湾民間の底力を如実に現したものではないかと思った。だが、仏教と言っても、原始仏教と
違って、台湾式仏教と言っていいのではないかとも思う。その教義には、仏教の解脱とかけ
離れ、多くの台湾人が思っている社会公理と台湾人が好む人間善行が含まれている。よく見
ると多くは、儒教の教えと支那の訓示が入っている。台湾土着化した仏教であると考えて間
違えないが、支那思想が漂っていた。
組織の使用言語は、台湾式北京語であった。基督長老教会のように、台湾語への思い込み
(今はどうか)はなかった。キリスト教を真似して慈済にも十誡がある。当たり前のことが、
読むと全部いい戒律でした。しかし、最後の一誡は――政治に介入せず、デモに参加せず―
でした。
慈済は、基督長老教会のように自分を育んだ台湾の将来に関心を示さなかった。世界的な慈
善事業に熱中しても、もっとも身近にあった是正すべき独裁統治下の人権無視と救済され
るべき抑圧された台湾大衆の現実から眼をそらしてきた。独裁政権から迫害されなかった
のも当然のことでしょう。
かつて、台湾基督長老教会の高俊明牧師が組織の壊滅と彼自身の命の危険を犯してまで積
極的に台湾の白色恐怖に抗った。彼の英雄的な行動を台湾人の誇りと思わない人はいない
はず。同じ台湾に土着した宗教でもこんなに異なった政治的な反応をするのも面白い。
慈済の運営は、腑に落ちないところはあるものの、その実績は評価されてもいいと思う。し
かし、今回、私が一番知りたいのは、一人の指導者がとってもこのような巨大組織を築き上
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げることはできないので、何方かが指導者を神格化し、階級組織を考えて実際に動かしてい
ると思った。
何時から指導者が神格されたのでしょうか。
なぜ、本人が神格されることを拒まなかったのでしょうか。
そこを知りたかった。しかし、答えは、得られなかった。順従な信者はそんな疑問を抱くこと
はありえないと思った。
その一糸乱れずの催しの運営と指導者を神格化するような拝礼(頂礼と言う)をみて、す
ごく嫌悪感を覚えた。神格化した人間を中心にしなければ結束できない台湾人の支那的な
体質の一部を間際に見た。神のように崇拝されている指導者なきあとの組織はどうやって
維持して行くのでしょうね、と余計な心配をしちゃった。
巨大な建物を見学して組織と財力を聞いた後、子供達は最近慈済に嵌ってやや自己陶酔し
ている母親に向かって若干心配な面持ちでこう言った―Aren’t you scared?
それを耳にして私は子供達の冷静さに安堵を覚え、ほっとした。
――若い兵隊さん
一昔のように兵隊さんはあまり見かけなくなった。松山空港の一角に金門・馬祖行きのカ
ウンターに二人の若い兵隊さんがのん気に歓談していた。前線に向かう出発時間が大っぴ
らに掲げていた。いかにも平和そうな風景でした。その二人は、恐らく私の息子より若いで
しょう、あどけなさが漂っていった。もし戦争が起こったら、彼らは台湾のために命を棄て
なければならないと思うと心がジンとした。こんな若くて格好いい青年を死なせるのは本
当に忍びがたいと思った。そう思うと、台湾人が現状維持というなんとなく生温い独立状態
を選択した苦しい気持ちは分かるようになった。自分は死んでいいが、子供を死なせたくな
い気持ちは痛いほど分かるようになった。
戦争発動と現状維持の主導権は、敵の手にある現状で果たして台湾人は、今の自由と民主を
守るため、防衛戦争を回避できるのか。
支那人が台湾を破壊するようになったら、彼らは身を張って台湾を守るのでしょうか。
台湾人の智恵を信じ、台湾人は平和建国の奇蹟を成し遂げることを祈るしかないと思った。
いずれ、歴史が語ってくれる。現状維持は、賢明な選択であるかどうかは分からないが、複雑
な心境で下した苦渋の選択に違えないと思った。
――愛河夜景
高雄はすっかり変わった。小港空港の職員の腰が低かった。私はちょっとびっくりした。国
も社会も、全体の雰囲気が変わったじゃないか。なぜでしょうか。やはり、台湾人政権のお陰
としか言いようがないと思った。
愛河、正式は高雄川と言い。しかし、誰も高雄川と呼ばず、愛河と呼んでいる。愛河のほうが
ロマンチックで美しい。つい最近まで愛河はその美しい名を裏腹に悪臭の溝で有名でした。
とっても、清らかな愛が芽生えそうなところではなかった。しかし、今は川沿いに小奇麗な
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喫茶店が立ち並び、川岸がライトアップされて本当に美しい。さらに、昔はとっても想像で
きなかった愛河クルージーンができた。船の前方から顔にかかって来るしぶきが、まったく
臭わず、爽やかでした。私は、思わず潮風に向かって高雄の変貌に叫びたくなった。
――地摩児・Dimore
今回の帰郷は、もう一つ目的があった。親父の散骨でした。
親父は日本人として生まれたが、歴史に翻弄され中華民国国民として半生を過ごし、最後は
日本国民として亡くなった。恐らく台湾の地に帰りたかったでしょう。骨の一部を家族の思
い出の地である山地門の清流に皆で流した時、燦々と光りが注ぐ山谷に川のせせらぎと家
族の笑声が響き渡った。
以前、山地門に美しい石板で出来たPaiwan族の住宅が多くあった。しかし、今はほと
んどがセメントで出来た醜悪な家宅ばかしが並んでいた。かつての風情がすっかり色褪せ
ていた。残念で仕方がない。
Paiwan 族は、山地門を Dimore と呼んでいる。Dimore とは、美少女のこと。
親父は、美少女の懐に帰る、と恐らく夢にも思っていなかったと思う。
「私にもそうしてくれ」と娘に言ったら、彼女は私を見つめて「sure」と爽やかに返事してく
れた。嬉しかった。
――228記念公園
花蓮の慈済建築群と周辺の観光を終え、台北に帰って急いで228記念館に向かっていた。
入り口に着いた時は、もうすでに閉館一時間前になっていた。しかし、どうしても子供に台
湾建国の原点である228事件について、分かって欲しかった。幸運にも英語のできる通訳
がいて丁寧に説明してくれた。彼らは、熱心に聞き入れ、色々質問した。展示室に自分の血を
感じたのでしょう。
私は、子供たちにある拡大された写真の中に凛々しく立っているダンティーで威厳に満ち
た人を指し、
「彼は君たちの great grand­uncle です」
と言ったら、彼らは一様に眼が輝いた。まさか、自分の家族にこんな偉大な事件に深く関わ
っていた人物がいると思わなかったのでしょう。その時点、彼らは心情的に228事件の一
部になったと思った。
展示室の一角にある台湾の平浦族の分布図が掛けられていた。台湾南部の人はかつて西拉
雅(Silaya)と自称した。私が Silaya のところに指して、君たちは Silaya の後裔と言った。
彼らは頷いた。彼らには漢人意識の欠片がなく、自分は漢人の子孫を思っていなかった。私
は自分の子供に「華」が無くなったことにすごく嬉しく思った。このことだけでも台湾を出
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て日本にいる甲斐があった。
私は最初の孫娘に Silaya と名づけたいと言ったら皆が微笑んだ。Silaya は美しい名と思っ
てくれたでしょう。Silayaは、彼方の地に再びよみがえると思った。
228記念館は明らかに首尾よく台湾人の手で運営されている。入り口から内部の装飾ま
で支那趣味のような泥臭さとけばけばしさが無くって垢抜けていた。スタッフの対応も大
変真摯であり、いかにも自分の後代に歴史を伝えたい熱意が満ち溢れていた。私たちが警備
と一緒に玄関を出た時は、もうすでに閉館時間を30分も過ぎていた。黄昏の天空に向かっ
て聳え立っている228記念碑の前に、私は228記念館の運営組織に最大の敬意を表し
たいと思った。台湾人のよさはそこに凝縮されていた。
228 記念公園はよく整備されて本当にゴミひとつも見かけなかった。公衆トイレを使った。
なんと、そこにトイレットペーパがあった。私は、その貧弱なトイレットペーパに心を打た
れた。台湾人の公の意識は、この 15 年でよみがえったではないかと思った。
――台北101
台北101­­世界最高の建物である。次男夫婦は仕事の関係上、台北101を見たがった。
地下鉄を乗って101を見物に行った。展望台から見た静かな観音山のシルエットに抱か
れている台北盆地の夜景は、今まで見た夜景と一味違って素晴らしかった。
地下鉄の清潔さと言い、行儀と言い、展望台の運営と言い、台湾がここまで進歩したことに、
私は感動を覚えるのを禁じえなかった。
地下の大食堂にお客さんが溢れていた。身だしなみ、しぐさも豊かさを感じさせる。恐らく、
物心ともに豊かになったに違えないと思った。
――ふるさとは、遠きにありて思ふもの
一週間たらずの帰郷の旅で皮相的な観察しかできなかったが、私はたいそう満足した。
故郷の変貌ぶりと子供の意識が確認できて、とっても良かった。台湾は相変わらず良い「中
国」という仮面をかぶっていることを自覚せずに邁進している。台湾の芯は中国と違ってい
ることを台湾人は十分認識していないと思った。このような立派な「国」が世界に認められ
ていないことは、台湾人の自己責任である。そう思うと切ない気持ちが湧き上がってきた。
私は小さい窓から美しい緑の大地が消えてゆくのを見ながら、胸の中には複雑な気持ちで
いっぱいでした。(2006 年1月)
13
新包可花專欄第二回
二隨先發制人 頂級法式大餐
百聞不如一啖 貴族香鴨料理
這一日,包可花和二隨
說
起法國料理源於羅馬帝國的宮廷料理。一談起「食經」二隨豈有坐聽
之理,二話不
說
,馬上開始抬槓。
『這就奇了,義大利料理不是義大利麵條就是披薩,哪裏比得上法國料理的多彩多姿,高貴
豪華?』
『二隨兄,橘生淮南即為橘,橘生淮北則為枳,法國和義大利風土人情、食材物皆不相同,
何況又經過了數百年以上的洗練演變,現在的料理法當然大不相同。不過當初羅馬帝國最盛期
時,義大利發展出奢侈的宮廷料理卻一點也不奇怪,當時法國還不成氣候,當然沒有甚麼高
貴豪華可言。一直到了十六世紀,翡冷翠的支配者 Mediti 將公主嫁給法國國王亨利二世以後,
才將義大利的宮廷料理傳入法國,奠定了日後法國料理的基礎
。 』
『話雖如此,難道法國人天生好命,只把義大利料理的宮廷料理留下,卻對義大利麵條和披
薩不屑一顧嗎?』二隨還是不服氣。
溫
『義大利 暖,法國較寒;義大利人豪放,法國人纖細。如此演變,倒也沒有什麼奇怪
。 』
兩人嘴上應酬,你來我往沒有什麼結果,最後決定各尋一間具有代表性的餐廳一決高下。二
隨一向「隨心所欲,隨遇而安」,根本不管什麼根源演變,當機立斷要找一間最頂級法國餐廳
決勝負。一念既生,毫不猶豫的就點名位於ホテルニューオータニ的三顆星法國餐廳トゥール
ダルジャン來一決勝負。包可花就難了,既然打著「包君花得可以點頭」的招牌,就必須多花心
思要去尋一間好吃又便宜的義大利餐館來別苗頭,也好讓二隨知道義大利庶民料理的味道不
下於法國大餐。
說起トゥールダルジャン(Tour d`Argent)那可是大有來頭,法國本店位於巴塞納河畔,
雅稱「銀塔」,成立於 1582 年已有四百年以上的
歷
史,名列全世界有名餐廳的 No.1,而東京的
分店成立於 1984 年,也是全世界唯一的分店。該店的香鴨料理馳名全球,出名的程度令全世
界未品過的王侯貴族幾稀也。二隨欽點此店,其實別有用心,因為七年前他就是在品鴨一道勝
過包可花,事隔七年,如今還是要先聲奪人,壓(鴨)一下包可花的氣焰。
兩人在相約的トゥールダルジャン門口一見面,不禁相對而笑。原來兩人相聚時服裝少有正
裝,包可花平常就喜歡撐場面,西裝筆挺也不算特別,可是二隨一向不修邊幅,穿著越是正
式,看起來就越憋扭。兩人報上名後,就跟著服務生先到一間小客廳稍候,然後再進入大廳入
座。所經之處,洛可可王朝式的裝潢無不極盡豪華之能事,從天花板上的水晶燈到下的地毯都
不下於凡爾賽宮殿。再看服務生的人數、服裝,不禁再度相對而笑,原來兩人自以為西裝領帶
已經是最高境界,沒想到所有的服務生都穿著燕尾服,更勝自己一籌。不過這一次兩人為了表
現紳士風度只好憋住聲音,不敢笑出聲來。
14
兩人一落座,二隨就先發制人,開始大談「鴨經
」 。
說
『 到這裏的鴨子,那可是大有來頭。都是來自本店在遮蘭 (Challan) 村的專屬農場。去過巴
黎的人都知道郊外的羅瓦河谷(le val de Loire entre Sully-sur-Loire etChalonnes)古城區,遮
蘭村離那兒不遠,是個風光明媚的沼澤地區。沼澤地區是野鳥棲息之地,將此地的野鴨和西班
牙鴨子的交配種放到沼地養到六星期大,就會有 2.5 公斤重,這就是我們即將大快頤的鴨子
。』
包可花曾經在鴨道上棋輸一著,不敢正面反擊,只能四兩撥千斤。
『那有甚麼希奇,北京填鴨的飼養法是先普通養五十天,再強灌飼料十五天,只要三個月,
鴨子還不是又大又肥
。 』
『北京鴨可不能同日而語,本店從養鴨、選鴨、解鴨到鴨醬、鴨汁的做法,從一百年前就有嚴
格的規則可循,對保証最高品質
。 』
說說
著 著,第一道菜就端上來了。兩人往菜單一看,單單菜名就語不驚人死不休,名為「三
皇帝風味鵝肝醬
」。原 來 1867 年俄國皇帝和皇太子到巴黎參觀萬國博覽會時,曾經和 Prishia
皇帝以及德國鐵血宰相俾斯麥在「銀塔」共進餐,當時俄國皇帝抱怨菜單裏面沒有鵝肝醬,餐
廳告以『秋天才是生鵝肝醬的季節』,並答應秋後獻上,後來精心設計出來的就是這一道「三皇
帝風味鵝肝醬
」 。
『未吃鴨,先吃鵝,嘗嘗鵝肝醬味道也好』二隨開始得意忘形。包可花急著品嘗鵝肝醬,因此
說
嘴裏不答,可是笑在肚皮裏。原來包可花曾經專文論述鵝肝醬, 過整片生煎的鵝肝醬其實多
是鴨肝。因此這店裏吃的鴨肉和鵝肝醬要正本清源的話其實是殊途同歸,同樣來自遮蘭村的鴨
身上。
幾道菜吃完,正在等主菜鴨肉時,二隨又開始大發宏論。
『鴨子都是生後才 5、6 星期的幼鴨,不但肉質柔軟,更重要的是香味集中於脂肪部分。因此
烤時必須將流下來的鴨油重新澆回鴨肉表面,才能讓鴨肉都能吃入香味。至於最重要的醬汁,
我不
說內 你也不曉得,竟然是用鴨血和鴨 臟調在美酒之中,可是極為入味,沒有一絲腥味
。 』
說
包可花這幾年其實也對鴨子下過一番功夫,一聽二隨越 越不把自己放在眼裏,忍不住也
要壓(鴨)一下二隨的威風。
『讓醬汁入味之法無數,法國料理再高深,可也比不上中國人
。』包可花不理會二隨不屑的 眼
神,繼續
說
下去。
『據「朝野僉載」記載,武則天的愛臣張易之生活豪侈,曾考案「明火暗味烤活鵝鴨」一品,為
的就是要讓醬汁入味。將鵝或鴨關入鐵籠之中,鐵籠中擺火盆,此為明火;又在鐵籠周圍設置
放有醬醋等各種調味汁的銅盆,此為暗味。火盆一烤,鵝鴨吃熱,便不停環繞鐵籠走動,並拼
命飲銅盆裏的調味汁,等到鵝鴨烤熟
脫
毛,味道便特別入味鮮美
。 』
忽見服務生將烤熟的幼鴨端來,兩人便停止鬥嘴,注意觀看如何料理鴨肉。包可花想起兩人
狀
進主餐廳時,曾見右邊有一張用大理石雕刻成布簾下垂形 的大桌,服務生便是將鴨放在此
桌上。桌上另放有一銀器,附有轉盤,卻不知何所用。兩人座位距離大桌甚近,正好可以將服
說
務生把幼鴨大卸八塊的行動看得一清二楚,二隨得了個可以解 的大好良機,更是鼻開眼笑 ,
開始比手畫。
『看到那個拿著玻璃酒杯的人沒有?』果然有個身著禮服的人站在桌邊正往玻璃酒杯裏頭倒
酒。
『那人可不是要向客人乾杯,他是受過嚴格訓練的「鴨料理人
」。酒杯裏裝的是切細的鴨肝 ,
加最高級白蘭地是要把血腥味壓下去
。 』
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「鴨料理人」倒完酒後,便拿起刀叉開始卸鴨。首先把鴨腿切開放在一旁,然後小心翼翼的將
鴨胸肉一片一片切下擺在盤子上。肉切完後,用剪刀將鴨骨架一剪為二,再將附有鴨心的鴨骨
放入旁邊的銀器之中。二隨又開口了:
『現在要開始的就是調理醬汁的儀式,這裏提供的是全鴨大餐,所以連澆在鴨肉上的醬汁,
都是用鴨心、鴨肝、鴨骨、鴨血調和而成。那個銀器就是用來將這些東西壓碎、攪拌的工具
。』
「鴨料理人」將鴨湯倒入銀器之後,便開始旋轉銀器上的轉盤,壓榨得差不多以後,就將所
得的鴨汁倒出。之後把浮在鴨汁表面上的油脂去掉之後,再過濾兩次,就開始加熱、調味、攪拌,
攪拌到像蜂蜜似的帶有黏性以後,醬汁就算完成。
如此經過大約十五分鐘的調鴨儀式以後,服務生便將鴨肉端上桌來。盤中除了鴨肉以外只有
兩塊馬鈴薯,並沒有其他菜式點綴。食時將鴨片全體沾著鴨汁一起吃,不但沒有絲毫腥味,而
且香郁濃厚,的確是吃鴨的王道。服務生並將兩張卡片送上,卡面上
說
明今日兩人所食的是第
185731 號鴨子。原來法國本店從 1890 年開始鴨子全有編號,昭和天皇在巴黎吃的是第 53211
號,1984 年東京分店開店時便從第 53212 號開始計算,如此推算下來,東京分店一年大約要
消費 7000 隻鴨子。
『包可花兄,小弟
說
的沒有錯吧?法國料理真的可以提高人的品味
。 』
『二隨兄,今日所食確然如此,只不過代價未免太高,而且以最頂級的香鴨來評斷法國料理,
也有失公平之處。下次就由我來找一間義大利庶民料理,來看看誰是誰非
。 』
包可花要如何以下駟對上駟,且看下回分解。
16
滾入紅塵心自在
張秀民
天涯何處無芳草 這部電影是鄭南榕與葉菊蘭戀愛的時候、我當電燈炮一起觀賞的、是大學時代最難忘的詩篇
之一。特別記得電影裏有一首詩:「雖然誰也不能令時光倒流
草原欣欣向榮
花卉再度吐艶
但是我們都不要傷感
寧可在殘餘中找尋力量」
課堂上老師解釈釋著詩、學生娜妲麗華因愛情困擾而心不在焉。老師於是點名要她説明詩
的含意。記得她清純的双眸含著涙説:「我想我想作者的意思是有一天我們都得放棄少年時代
的理想、面對現實去努力吧!」
經過 1929 年經濟大恐慌、男女主角雖愛得深、愛得切也因環境不允許而分手。若干年後、
女主角到郷下去探望已跟他人結婚的男主角、歸程她問“你快樂嗎?”他回答“我現在不去
想快樂或不快樂這名詞了”
故事結束。……。
的確、有一天毎個人都必須面對現實去努力。但今天其實有辧法讓草原、花卉再次吐艶。只
要我們有CD或DVD、只要我們將片子倒轉、可令時光倒流、倒轉的帶子很美很真、可是重看
的今昔往事終不似當年情。所以我們真的要把握當下可以付出愛就付出、値得欣賞就説出來。
因為人生最大的懲罰是「後悔」 。
只要為你活一天 (功夫)
只要為你活一天這支歌因「功夫」這部電影又活了過來、而且多活了好多天。版權的事情我
不懂、但這支歌放在「功夫」這部電影中的場景其實很經典。
「功夫」這片子横掃 2005 年的「金馬奬」、我也特別 跑去看此片子、故事中有個場面非常 温
馨。小時候男主角曾在女主角被兩三男生欺負時挺身而出保護小女生、並且為小女生搶回棒棒
糖、小女生視他為救命英雄。
多年之後男主角變成流氓、為非作歹。有天、他去搶刼、搶刼一個賣糖果的少女。少女死抱
著一個箱子不放手。他認為那箱子裝錢。他硬過來、打開一看―――只是一枝棒棒糖。
當年小英雄為小女生搶回的棒棒糖.....。
這時候、
「只要為 你活一天」的音樂輕輕響起、非常美。
「功夫」如果没有這個鏡頭就不是「 功
夫」了。因為這鏡頭使男主角的生命産生最大的轉折。他想改―過―自―新―。
相信毎個人都有最純真最潔浄的人生。只可惜被滾滾紅塵招惹而汚染了心性。當有一天被
喚回原來的清浄心時會再度照出人類最原始的感情的。人類可以這樣美好。可以在覺悟後散發
清浄的智慧之光的。「只要為 你活一天」可以這樣 不俗。
17
如果你經過一座險険悪的森林
你帶著四種動物、一是体積龐大走路遲緩的大象。ニ是忠実實的狗、三是活潑俏皮的猴子、
四是美麗嬌小的孔雀。如果因為森林行走太危險、你必須捨棄他們的時候、你會先那隻動物捨
棄?
你心中有答案了嗎?你也可以排列出丟掉它的秩序。在美國問了一百個男人。九十九個都
説先丟掉孔雀、原因是孔雀除了美麗以外、一無是處。這是一個心理測驗。毎樣動物都代表著我
們生命中重要的人。大象是父母。狗是朋友、猴子是小孩、而被所有男人最先丟棄那可憐的孔雀
則代表妻子。很多男人在答案掲曉的時候都大喊“不準!不準!我很愛太太、怎可能最先放棄
她?”
但是只有一位、他是主持這測驗的朋友、他的回答出乎預料之外。他説他會留下孔雀、最不
可能放棄孔雀。
咦?為甚麼?
“因為其他動物都有一技之長、丟在森林不會死。而孔雀會活不下去”
原來、他要保護弱小的孔雀。而其他男士都因為判斷孔雀對「我」最没用、所以先放棄「她」。
這其中可以看見的是人人都先「利己」才想到「利他」。稀少的那位「因為孔雀弱小而要保護 她」
的人是很偉大的、他先想到利他。故事至此應結束了。利己或利他?這男士的妻子應是最幸福
的。所有的丈夫只有她的「頭家」最後的最後留下她。
而我忍不住這麼想、如果這偉大男士生命中又出現一隻更弱小的孔雀、他會不會為了保護
這隻更嬌弱的孔雀而放棄如今已被他視為老虎的妻子啊?!
「觀心無常」其實人與人之間的小情小愛不用太認真啊!
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台湾政治史年表
(1) 日本統治が始まるまでの台湾小史
1544 年 ポルトガル船が台湾を発見、“イラ.フオルモサ”と呼ぶ。
1574 年 明朝に追われた海賊が澎湖から“東番の魑港”に逃れたとの記録(神
宇実録)は台湾を“東番”としている。
1604 年 オランダが澎湖を占領したが、明朝に駆逐される。
1622 年 オランダが再び澎湖を占領。
1624 年 オランダは澎湖から撤退、台南にゼーランデイア城を設置、台湾総督を
派遣。(台湾本島は明朝の版図ではなく明朝は黙認し、38 年間オランダ
領。) 1626 年 スペインは台湾北部を占領、社寮島(現和平島)にサンサルバドル城を
築き、台湾総督を派遣。
1628 年 スペインは淡水を占拠。
1642 年 オランダは台湾北部からスペインを追放。
1661 年 明朝遺臣鄭成功がオランダを台湾から追放。
1683 年 清朝は“澎湖で鄭王朝を滅ぼし、台湾は清国領となり、福建省台湾府と
なる。
1885 年 清朝は台湾省を設置。
1年
日清戦争後、下関条約によって(日清講和条約締結 4 月 17 日)台湾と
澎湖諸島を日本に割譲。(起草人 John A Foster)乃係旧金山和約起草人
19
John Foster Dulles 的祖父。
台湾総督府編成 5 月 10 日
台湾民主独立国宣言 5 月 23 日 178 日で崩壊(11 月 18 日)
台湾民主国総統唐景崧が厦門に逃亡、日本軍、台北に入城 6 月 7 日
台湾総督府、台北で始政式 6 月 17 日
台湾民主国崩壊 11 月 18 日
{50 年間日本統治}
(2) 中華民国の変遷
(A)大陸統治時代
1912年
中華民国臨時政府成立、袁世凱が臨時大総統に就任。 1年
蒋介石が南京国民政府を樹立。 1945年
日中戦争勃発、南京国民政府は重慶に撤退、(1931 年満州事変、1937 年支
那事変、日中宣戦布告。)
1年
日本対英米宣戦布告。12 月 8 日
2年
中国(国民政府)対日伊独宣戦布告。2 月 9 日 3年
カイロ宣言発表、11 月 27 日(11 月 22 日~26 日戦後処理会談)、
12 月 1 日公布(沈建復により)
1945 年 ソ連対日宣戦布告。8 月 8 日
1945 年 ①二次大戦終了、日本降伏(8 月 15 日)東京湾のミズーリ号艦上において
日本の降伏文書調印され、国民党軍台湾占領(マッカーサー第一号命令より)。
②波茨坦宣言(ポツダン)。(7 月 26 日)
③国民党政権の部隊と公署の人員到着( 10 月 17 日)台湾人の国籍中華民
国に。台湾では国民党の陳儀が行政長官兼警備司令官として支配開始。
20
1年
① 国共内戦激化、中華民国憲法公布。
② 日本名古屋港に上陸予定日本占領予定国民党軍第 67 師団がハイフオン
集結。(6 月 18 日)
1947 年 二・二八事件、台湾人に対する大虐殺開始。(4 月 22 日)
(B)台湾移転時代
1949 年 南京国民政府崩壊、100 万ともいわれる国民党員が台湾に移動。(外省人
の到来)
戒厳令施行(5 月 20 日)
中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言(10 月 1 日)
国民政府、台北に遷都、中華民国が流亡政府になり。
1年
蒋介石が中華民国総統に就任。
米国大統領トルーマンが台湾海峡不介入を声明。(1 月 5 日)
イギリスは中華人民共和国を承認した。(1 月 6 日)
トルーマンが“台湾海峡の中立化”を宣言、( 6 月 27 日)第七艦隊を台湾海峡
に派遣。
朝鮮戦争勃発、(6 月 25 日)1953 年結束。
2年
米軍の軍事援助開始(1 月)(1965 年まで 15 億ドル)
米国と共同防衛相互援助協定調印(2 月 10 日)
中国代表問題について“ダレス・モリソン了解”合意。(6 月 15 日)
対日講和条約最終案、米国務省でダレス( John F Dulles)から顧維鈞に
手渡された。(7 月 6 日)対日平和会議、9 月 4 日~8 日まで、サンフランシスコのオ
21
ペラハウスで開かれた、9 月 8 日調印式、(日米安全保障条約は同日署名された)、
起草人 John Foster Dulles
日本衆議院(10 月 26 日)、参議院(11 月 26 日)双方を承認した。
3年
サンフランシスコ平和条約(4 月 28 日発効)で日本は台湾と澎湖諸島を放棄。
日華平和条約調印、(台北条約 4 月 28 日)、日本語、中国語、英語(正文)、
( 8 月 5 日発効){内容①本体 14 ケ条②議定書全 2 項③交換公文三つ
(条約を補足する文書)④同意議事録四つ}(将日華条約置於旧金山和
約之下、以英文為正文、更藉由與日本簽約、在在説明中華民国政府必須承認
対台湾、米国乃是主要占領権国。)
1956年
日本が国連加入(12 月 18 日)
1958 年 金門で砲撃戦(8 月 23 日~10 月 6 日)米台湾防衛を表明。(9 日)
1年
蒋介石、ダレス共同声明で、武力による大陸反攻を放棄。(10 月 23 日)
2年
台湾独立を主張する“台湾青年”東京で刊行。(4 月 10 日)
1964 年 彭明敏ら逮捕(9 月 20 日)1968 年、台湾問題処理政策はハーバード大学によ
り取りまとめて報告書によってニクソンに手渡す。(11 月 6 日)
1971 年 キッシンジャー大統領補佐官が極秘に訪中、ニクソン大統領米中接触発表(7 月)
中華人民共和国が国連中国(China)議席に復帰、台湾蒋政府、国連中国
議席より追放。( 10 月 25 日第 26 回国連総会においてアルバニア決議案を可
決され、賛成 76、反対 35、棄権 17、)
1972 年 ニクソン訪中(2 月 21 日)
米中上海コミュニケ共同声明発表、(2 月 27 日)
蒋経国が行政院長(首相)に就任、日中国交正常化、日華平和条約破棄、台
22
日断交、(9 月 29 日)(9 月 29 日、大平正芳外相は外相談話をもって、“日
華平和条約は終了した”との見解を発表した、日本国憲法第 98 条に照らし
て、また国会の承認によって成立した条約を外相の一片の談話をもって
“破棄”出来るかどうか、法的には問題がある。)日本は台湾に交流協会、
台湾は日本に亜東関係協会を開設(12 月 2 日)
1年
米中連絡事務所設置、科学文化交流合意。(2 月 25 日)
2年
日台関係議員懇談会一行訪台(10 月 29 日)、交流協会台北事務所長ト部
俊男着任。
3年
蒋介石総統死去。
1978 年 蒋経国が第六期中華民国総統に当選。(3 月 21 日)
日中平和友好条約調印―北京。(8 月 12 日)
1年
台米国交断絶、米中国交正常化。(1 月 1 日)
米国議会.“台湾関係法”制定(4月 10 日)
米在台協会業務開始 ( 台北 ) (4月 16 日) (The American Institute in Taiwan. AIT)(コロンビア特別区の法律にもとづいて設立された非営利法人)
在台米軍撤退完了。(4 月 26 日)
カーター米大統領“台湾関係法実施行政命令”(6月 22 日)
高雄で国際人権デー記念集会(12 月 10 日)、美麗島事件に発展。
1980 年 蒋経国が“大陸反攻”から“三民主義による中国統一”と政策変更。
高雄美麗島事件被告黄信介、施明徳(無期懲役)姚嘉文、張俊宏、林義雄、
呂秀蓮、陳菊等軍事法廷により 12 年―14 年の有期徒刑判決を受ける。
(2 月 20 日)
23
1年
葉剣英全人代委員長が平和九項目提案。(9 月 30 日)
1982 年 中国外交部駐北京各国代表機関に台湾を政治的実体とする活動に注意喚起の覚書、 (3 月 18 日)廖承志が蒋経国に国共合作呼びかけ。(7 月 24 日)
1983 年 米 上 院 が “ 台 湾 決 議 ” 採 択 、 ( 11 月 15 日 )
“台湾決議”は内政干渉と抗議の覚書。(11 月 18 日)
1985 年 蒋経国総統が“後継者は世襲ではない”と言明。(12 月 25 日)
1986 年 民主進歩党結成、(9 月 28 日)国民党中央常務委員会が戒厳令及び新党
結成禁止解除の方針決定(10 月 15 日)民進党第一回党員代表大会、党
主席に江鵬堅。(11 月 10 日)
1年
戒厳令解除(7 月 15 日)、蒋経国が“私も台湾人だ”と公言。
2年
蒋経国死去、李登輝が総統に昇格。(1 月 13 日)
国民党代理主席に李登輝総統、(1 月 27 日)民進党“主権独立国家台湾
は中国に属せず、国際地位の変更には住民の同意を要する”の“四、十七”
決議を採択。(4 月 17 日)国民党第 13 回全国代表大会、(7 月 7 日)国民
党主席に李登輝、(7 月 8 日)民進党主席に黄信介。(10 月 30 日)
3年
フ ゙ ッ シ ュ 大 統 領 訪 中 、 鄧 小 平 と 会 談 。 ( 2 月 26 日 )
ランス在台協会オープン(3 月 10 日)
ジャーナリスト鄭南榕が焼身自殺、李登輝総統“現実(柔軟)外交”を宣言
(6 月 3 日)
(C)台湾化時代:
4年
“台湾、澎湖、金門、馬祖”の名で GATT に復帰要請、(1 月 4 日)
24
第八代総統に李登輝当選、(3 月 21 日)
行政院に“大陸委員会”成立、(4 月 27 日)
大陸との内戦状態を終結宣言―李登輝総統(5 月 15 日)
李登輝が中華民国第八期総統に就任(5 月 20 日)
国是会議開催―李総統主催(6 月 28 日)、民進党“台湾の主権独立”の
決議案採択(10 月 7 日)李総統が“1991 年 5 月までに、動員勘乱時期終
結”と発表(12 月 25 日)
5年
総統府国家統一委員会が“国家統一綱領”採択(2 月 23 日)
台湾に海峡交流基金会設置(3 月 9 日)、憲法戦時臨時条項の廃止、中国
との戦争状態中止宣言(5 月 1 日)、“台独建国聨盟”成立、(台中、5 月
16 日)
“懲治反乱条例”廃止、(5 月 17 日)
民進党新主席に許信良、民進党が党綱に“台独条項”を採択。( 10 月 13
日)
第一次憲法改革、中国に海峡両岸関係協会設置。(12 月 16 日)
1992 年 福田赳夫元首相が訪台、(4 月 1 日)
刑法 100 条内乱罪規定廃止、(5 月 16 日)
亜東関係協会駐日弁事処が“台北駐日経済文化代表処”と改名( 5 月 20
日)
警備総司令部閉鎖、(7 月 31 日)
“台、澎、金、馬”関税地区名義で GATT のオブザーバー参加認める(9 月
25
29 日)
GATT にオブザーバーとして 21 年ぶりに復帰、(11 月 4 日)
ヒルズ米通商代表訪台、(11 月 30 日)
1年
台湾で“新党”結成(8 月 10 日)
中国浙江省“千島湖事件”、(3 月 31 日)(台湾旅客 24 名が観光船に閉
じ込められ、焼殺された。)
2年
中国が“台湾同胞投資保護法”を公布(3 月)
国民党中央常務委員会で総統は次期から民選による、(4 月 24 日)
台湾初の民選省長に宋楚瑜、台北市長に陳水扁が初の民進党市長として当
選(12 月 3 日)
1995 年 江八点発表(1 月)
彭明敏、辜寛敏等独立運動リーダー多数民進党に入党。(2 月)
李登輝総統が二、二八事件で政府を代表して公式謝罪。(2 月 28 日)
下関条約 100 周年を記念して、台湾独立を訴え、一万五千人が街頭デモ。(4
月 16 日)
李六条発表(4 月)米下院が 396 対 0 の全会一致で李総統の訪米案を採択
(5 月 2 日)
米上院が 97 対 1 で李総統の訪米要請案を採択(5 月 9 日)
米国務省は李総統の訪米に同意したと発表、(中国銭其琛副総理兼外交部
長が駐北京米大使に強烈に抗議、訪米中の于振武空軍司令員一行を召還、
遅浩田国防部長の訪米を無期延期)(5 月 23 日)
李登輝がコーネル大学訪問、中国が反発し駐米大使召還。(6 月)
26
中国人民解放軍が台湾北部の海域にて軍事演習。(7 月)(8 月)
江澤民国家主席が米誌に“李登輝の訪中を歓迎するし、訪台の招請を受け
れば、いつでも出席する”と語る。(10 月 11 日)
李総統“江澤民の談話は理性を以って処理”(10 月 16 日)
総統選挙に国民党から自主参戦の林洋港候補は郝柏村前行政院長を副総統
候補に指名。
中国が東山島で陸、海、空連合演習(11 月 15 日)
林洋港、郝柏村両副主席(国民党)公開書で李主席を“毀党叛国”と批判、
国民党事実上の分裂。(12 月 9 日)
1996 年 中国軍がミサイル発射演習、台湾北部と南部の海域に計 3 発の地対地ミサ
イル発射(3 月 8 日)3 月 12 日~21 日、中国軍実弾演習、台湾総統選挙
を妨害する為。
台湾初の総統直接選挙で李登輝、連戦の国民党候補が得票率 54%で圧勝。
(3 月 23 日)
第九回総統に李登輝、副総統に連戦就任。(5 月 20 日)
南アフリカが 97 年末で台湾と断交し、中国と国交樹立する方針を発表。
(11 月)
1年
江澤民主席“中台統一後の副主席ポスト、台湾から人材を迎える”
(3 月 30 日)
ギングリッチ米下院議長が北京で“中国が台湾を武力攻撃すれば、米国は
武力で対抗”と中国指導部に警告していたことが判明、中国外交部の沈
国放報道局長は“台湾問題は中国内政で、いかなる外国人も介入すべき
でない”と反発(4 月 1 日)
ギングリッチは現職の米下院議長として 79 年の米台断交以来初めて訪台。
27
1年
建国党新主席に許世楷(4 月 11 日)
日本政府が台湾の旅券に 72 時間の入国ビザ免除を承認、(6 月 9 日)
クリントン大統領が江澤民主席と会談、核ミサイルの照準外しなどで合意、
“三つの不支持”表明。(6 月 27 日)
台北市長に馬英九当選、(12 月 5 日)
中国が国防白書を発表、日米防衛協力のための新ガイドラインに台湾を含
むことに反対表明、(7 月)上海で第 2 次汪、辜会談。(10 月)
(D)“台湾中華民国”時代:
2年
民進党全人代“台湾前途決議文”採択、中華民国の国号を承認、
(5 月 8 日)
李登輝が“二国論”発表(7 月 9 日)
宋楚瑜が無所属で総統選出馬を表明、(7 月 16 日)
李総統は宋楚瑜前省長を“金銭で総統職を買おうとしている”と痛烈に批
判(9 月 13 日)
新幹線システムの導入に向けて日本コンソーシアム、(12 月 28 日)
3年
陳水扁(民進党)第十期中華民国総統に就任、副総統に呂秀蓮女士
(5 月 20 日)
唐飛元国民党国防部長を行政院長に任命(5 月 20 日)
中国が台湾問題に関する白書を発表、台湾への武力行使の条件に、台湾側が
無期限に統一交渉をすることを追加、(2 月)
陳水扁総統が中南米訪問に出発、(8 月 13 日)
28
唐飛行政院長辞職、新行政院長に張俊雄副院長を任命、(10 月 3 日)
内政部各種選挙で中国大陸、香港、マカオからの政治献金禁止、(10 月 24 日)
1年
台湾の金門、馬祖と中国福建省間の“小三通”(直接通商、通航、通信)の
解禁(1 月)
ブッシュ大統領就任式、(1 月)
ラムズフェルド国防長官が米中軍事交流の再検討を指示、(3 月)
海南島沖で EP-3 事件、(4 月 1 日)
ブッシュ大統領の“台湾防衛は何としても”発言、(4 月)
米台軍事協議でキッド級駆逐艦 4 隻、対潜哨戒機 12 機、デイーゼル潜水艦
8 隻の台湾への売却に同意、(4 月)
米国防総省が米中軍事交流に関する報告書を議会に提出、(6 月)
マケドニアが中国と外交関係結び台湾と断交、(6 月 18 日)
ロシア及び中央アジア四カ国とともに“上海協力機構”設立、(6 月)
台湾団結連盟結成、(8 月 12 日)
台湾国民党が李登輝の党籍取り消し、(9 月 21 日)
9.11 テロ発生、銭其琛中国外相訪米、ブッシュ大統領が APEC 首脳会議に出
席のため上海訪問(10 月)江澤民と会談、中国 WTO 加盟。(12 月)
台湾の立法委員選挙で民進党が 87 議席獲得し、初の第一与党に、国民党惨
敗、(110→63 議席)(12 月 1 日)
2年
台湾 WTO 加盟(1 月)
29
張俊雄内閣総辞職、游鍚坤(総統府秘書長)を新行政院長に任命、
(1 月 21 日)
中国銭其琛外相が中国の指導者として始めて民進党に統一問題での対話
を呼び掛け(1 月)
フアーゴ米太平洋艦隊司令官が北京訪問、(2 月)
ブッシュ大統領が日本の国会で演説、“台湾(防衛)への約束を忘れない”
と言明(2 月)
ブッシュが北京の清華大学で講演、台湾防衛支援の義務を明言、(2 月 22 日)
フロリダで米台防衛サミット開催、台湾の国防部長湯耀明が出席する為、
米政府は“中華民国国防部長”の肩書きでビザ発給、(3 月 6 日)
米下院で“台湾議連”結成、(4 月)
胡錦濤国家副主席訪米、ラムズフェルド国防長官と会見、(5 月)
陳水扁総統の“一辺一国”発言、台湾の将来の地位を決める住民投票法制
定を真剣に検討すべきと言明、(8 月 3 日)
米国務省が“東トルキスタン・イスラム運動”をテロリスト指定、(8 月)
ブッシュ大統領がクロフオードの牧場で江澤民と会談、(10 月)
国連安保理がイラクに関する第 1441 号決議を全会一致で採択、(11 月)
中国、ASEAN と FTA を 2010 年までに実現することで合意、(11 月)
中国共産党第 16 回党大会で新総書記に胡錦濤副主席を選出して、第 4 世代の
指導部発足、(11 月 15 日)アーミテージ国務副長官が訪中、梁光烈参謀総長と
会談、米中防衛協議再開(12 月)
中国、徐文立など政治犯の釈放始まる、(12 月)
30
2003 年 米中外相会議、米中安全保障対話、(1 月)
SARS 流行、(1 月)
春節に、台北及び高雄と上海を結ぶチャーター航空便が香港経由で解禁に、(1 月)
パウエル訪中(2 月)ブッシュが空母リンカーン艦上でイラクの主要戦闘行動の終結宣言、
(5 月)
陳総統が総統選と同時期に住民投票実施を表明、(6 月)
米国防総省が中国の軍事力に関する報告書を議会へ提出、(7 月)
北京で北朝鮮の核に関する6カ国協議開催、(8 月)
スノー財務長官が訪中、“台湾議連”米上院にもできる、(9 月)
“正名運動”(台湾の名称で国連加盟)を求める 15 万人のデモ、(9 月)
米財務省が“米中合同技術協力プログラム”発足を発表、(10 月)
連戦がワシントン訪問、(10 月)
中国共産党第 16 期中央委員会第 3 回全体会議開催、曹剛川国防相訪米、
(10 月)
蔡英文(台湾の大陸委員会主任)ワシントン訪問、(11 月)
台湾がキリバスと外交関係結ぶ、台湾立法院住民投票で野党案を可決、(11 月)
ホワイトハウスで温家宝首相とブツシュ大統領が会談、(12 月)
陳水扁総統が住民投票決行を公約、“公民投票法”成立、(12 月)
2004 年 台湾とパナマ FTA 発効、陳水扁政権住民投票の議案発表、(1 月)
アーミテージ国務副長官、マイヤーズ統合参謀本部議長ら訪中、(1 月)
31
北京で北朝鮮の核に関する6カ国協議開催、米中防衛協議開催、(2 月)
泛緑陣営、二・二八平和記念日にあわせ、“人間の鎖”大イベント、泛藍陣営“大
地に接吻”の大イベント、(2 月)中国第 10 期全人代第 2 回会議、(3 月)
台湾総統選挙、陳水扁が辛勝、(3 月)
チエイニー副大統領訪中、(4 月)
“公正通貨同盟”分裂、AFL―CIO らは“中国通貨同盟”結成、テーラ財務次官
とスペルツ特使訪中、(5 月)
陳総統就任演説(第 11 期総統)、中国に対話呼びかけ、(5 月)
台湾立法院の王金平院長らワシントン訪問、(6 月)
中国―ASEAN 非公式外相会談及びアジア協力外相会談、青島で開催される、
(6 月)
6カ国協議開催、(6 月)
台湾軍“漢光 20 号”演習、(7 月)
人民解放軍、福建省で大規模演習、(7 月)
ライス安全保障担当訪中、(7 月)
国連安保理、スータンのダルフール危機で決議採択、中国は棄権、(7 月)
台湾大陸委員会主任呉釗虁訪米、(9 月)
江澤民党中央軍事委主席の引退は共産党第 16 期中央委員会第 4 回総会で決
定、(9 月)
陳水扁政権 6108 億台湾ドル軍購案の特別予算を立法院に提出、(9 月)
米大統領選挙、ブッシュ再選、パウエル国務長官、アミテージ副長官辞任、ライス補佐官の長
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官就任内定、(11 月)チリのサンチャゴで APEC 首脳会議、(11 月)
バヌアルノが台湾と外交関係結ぶ、中国即時抗議、(11 月)陳総統の“10 項目提
案”談話、
IMF、中国の 4 条協議報告書を初めて公表、(11 月)
スノー財務長官、ラムズ国防長官らブッシュ政権第 2 期で留任を決める、(12 月)
台湾立法院選挙、国民党と親民党の野党連合が過半数を制す、(12 月)
1年
ブッシュ政権第 2 期へ、ライス国務長官就任、(1 月)
趙紫陽元総書記死去、(1 月)
辜振甫会長(海峡両岸交流基金会)逝去、(1 月)
謝長廷高雄市長が行政院長に就任(1 月)
ライスの訪日及び訪中、(3 月)
第 10 期全国人民代表大会第 3 回大会議“反国家分裂法”を可決、(3 月)
民進党が野党親民党との提携を発表、(3 月)
“反国家分裂法”反対デモ、(3 月)
反日デモ、中国全土に広がる、(3 月)(4 月)
文責 東昌明 平成 17 年 10 月 18 日(火)
軍国主義化の中国
丘哲治
72年当時の首相田中角栄がそれまで友好関係にある台湾を切り捨て、日本と中国は
日中共同声明を発表して国交を結びました。以来30年あまり、双方が日中友好を高々と唱
えながら交流して来ました。その間、日本政府は 3 兆円以上とも言う巨大な金額を無償か円
借款かのような形で中国を援助しました。民間企業にも資金や技術を惜しみなく投資して
きました。特に89年天安門事件以降、欧米諸国が中国政府の自国民を虐殺する行為を非難
33
し、援助を引き上げました中、日本と台湾だけは寛容の態度で中国と接しました。その為、本
日の中国が繁栄できるでしょう。あの当時、中国は各地の空港や駅にて“熱烈歓迎”や“日
中友好”のでっかいプラカートや横断幕で日本や台湾の人を迎え、国を挙げて日本や台湾
のビジネスマンを歓迎していました。
残念ながらここに来て、繁栄してきた中国が反国家分裂法を制定して、台湾は中国の一
部とかを叫んで、台湾を恫喝しています。日中関係も俄かに怪しくなって来ました。昨年4
月に中国の各地で反日デモが行なわれ、日本人留学生や日系企業やレストランが標的とな
って、抗議と破壊の対象となる。こういった光景が一昨年にアジア杯サッカー選手権後の騒
動の続き、再度日本中お茶の間のテレビで見られることとなった。こんな事態になったこと
は、だれが 90 年代に予想できますか?特に霞ヶ関の官僚や一部無知の政治家連中は中国の
本質をずっと認識できない責任が重いで反省するべきではないでしょうか。中国共産党は、
自分の立場が弱い時に相手と話し合いや和解や交渉をしますが、一旦自分がちょっとでも
強くなると、すぐ相手を威嚇するや暴力な手段でことを解決するという国柄を認識しなけ
ればならないです。
反日デモの理由として、小泉首相の靖国神社参拝、日本の常任理事国入り、歴史教科書
などの問題が挙げられており、日本のメディアにもこの部分をことさら強調する動きもあ
るが、それはあまりに短絡的ものではないかと思われます。中国国民の底流には、急速な経
済発展に伴う社会のひずみや貧富の格差への不満が鬱積し、反日とは無縁の暴動が頻発し
ている。言論を統制された国なので、去年の反日デモもそのような不満のはけ口に「反日」が
中国政府と人民両方に利用されただけです
一連の反日騒動について中国の外交部スポクスマンは無神経で公式記者会見の場で
“責任は中国にない”と平然に厚かましく発言しました。これは、正しく暴言であり、平気
で自らが中国政府と人民の無法ぶりを世界に曝け出しました。なんと言う理不尽な国だな
と日本の国民は思いました。しかし、こうした中国人の対日観は、返って日中友好に幻想を
抱く一部の日本人には非常に良い警告でありますでしょう。外務省のチャーナスクールの
諸君は暴徒化した中国人が投げた石や生卵の雨で頭を冷やすべきであろう。これから真剣
に真の日中友好のあり方を検討し、毅然とした態度で対処するべきです。
先の大戦後の日本は平和憲法のもとで繁栄してきましたことは過言ではありません。
この憲法の大切さは日本人でおれば、誰でも十分過ぎるほど分るはずです。時代に合わない
所はあるかもしれませんが、その部分を修正すれば今でも世界に通用します。平和を愛する
日本人はだれでも戦争を望んでいませんはずです。記憶に新しいとこでも宮沢や村山や橋
本元総理等が繰り返して先の戦争について謝罪や反省の弁を述べ、正式な戦争補償ではな
いが、償いの意味でODAやさまざまな名目で中国を応援してきました。それにもかかわら
ず、中国は自分の都合が悪い時に歴史問題等を持ち出して、必要以上に日本を名指して批判
します。中国が誇る儒教の“忠恕”という教えは他国への要求の基準となり、逆に中国国内
において儒教は死語になっていて、現代中国にあるのは共産主義のイディオロギーのみで
34
す。ですから共産党が中国の政権を掌握し続ける限り、日本は中国に軍国主義だと批判され
続けるでしょう。平和ボケに浸かっている日本は過去の戦争について、これ以上傷をつけな
いで欲しいという願望は暫く望めませんになるでしょう。
歴史上、中国は絶えずに領土の拡大を目指していて、特に元の時代(実際にジンギスカ
ンはモンゴル人)に領土が一番広いと中国が自慢して謳歌している。最近 50 年間を見ても、
中印、中ソ、中越国境紛争が起き、古高麗は中国の領土と勝手に歴史教科書に記載し、南沙諸
島の領有問題や東シナ海のガス油田開発や尖閣諸島の所有権問題などが皆で中国のものと
主張し、さらに台湾についても台湾は中国の一部と主張し、“反国家分裂法”まで制定しま
した。このように古代や近代を問わず、中國は戰略上いつも領土拡大の野心を持っています。
この点に関しては、周辺の国々が忘れてはならないでしょう。
教科書問題で、中国は日本が軍国主義の復活を図っていると批判していますが、むしろ
“軍国主義”という言葉を今の中国に当て嵌まるとぴったりと合致しています。この国が
毎年公式に公表する軍事予算の伸び率は十数年連続して世界一となり、非公式の数字を入
れるともっと膨大な軍事費になります。いったいこの軍事力はどこで、誰に対して使うのか、
近隣諸国にとっては非常に恐怖の存在です。世界が軍縮の方向に迎っている時、中国政府が
逆にひたすら軍拡路線を取り、日中両国どっちが軍国主義に走るのは明白であろう。残念な
がら、こういった経緯を総合しますと、かつて第3世界のリーダを自認する中国は、もはや
軍事力で世界にわれの存在をアピールしようとする国に変身したと言わざるを得ない。
日本が戦前の過ちを繰り返さない限り、上が述べたように戦後の日本平和憲法は確か
に素晴らしいものであります。この憲法を持つだけで、日本が軍事力を使わずに世界の平和
に貢献することは、よその国は賞賛しています。軍国主義化する現代中国が自国の体制を改
めないかぎり、一時的共産党が国を治まっても、経済面の改革と開放に連れ、人民が目を覚
ましてしまうでしょう。やがて、この共産党王朝は、かつて中国の元、明、清王朝のように、人
民の手により空中分解される恐れがあります。問題は、中国が平和的な民主主義の国になる
まで、平和を愛する近隣諸国がどれぐらい悩まされ、どれぐらい受難されるでしょう。
05 年第 3 回理事会議事録
日時:平成17年10月30日(日) Pm:4:00
場所:ルノアール四谷店 新宿区四谷 1―3-22
司会:東昌明理事 記録:高村豪理事
出席顧問:重光茂栄 徳山昌平
理事:東 昌明 頌彦真賢 岡山文章 丘 哲治 王 紹英 蕭 悧悧 高村豪
田川博章 中里憲文 中山博雄 長峰俊次 布施政庭 毛利忠 劉 文玲 監事:大山青峰 河元康夫
1、開会 35
2.出席者の確認
3、会長挨拶 4、諸報告
1 現会員数について 151名
2 7月24日、小田滋先生講演会の反省
講演で皆様は小田先生ご一族と台湾のつながり及び台湾に対する貢献の事の講演
を期待していました。講師が個人の経歴と過去の人物の話を長引いた為、講演時間
は大幅に超過しました。今後、講師どの連絡はもっと慎重にやるべきではないかと
思います。 3
、 「整合台語的羅馬字拼音系統一」への提言書に本会の立場として
結論から言えば、通用拼音系統と教会式拼音系統の両者は台湾語を発展
させる為に、お互いのメリット、デメリットを研究し、相互理解のもと
で決めた方が良いと思います。 4、台湾産果物の販売についての結果報告
果物を注文した先生達の評判が良い様です。会にとっても少し歳入面への貢献す
る事が出来ましたので来年は継続に実施したいです。 5、さと医も便りの編集長、編集委員について さと医も便りの編集長に清水栄先生が就任することになりました。次号
の発行は 11 月中発送する予定です。さと医も便り発行の目的である会員
の意見交換や繋がりを強化する為に、会員先生から多数のご寄稿を期待
しています。理事の先生達は、会が目指しているものを全会員に周知す
る為に、あらゆる角度からの考えや意見を、さと医も便りに投稿して下
さい。
6、年会費の納入現状について
年会費の納入率は低く、その反面支出が収入より遥かに多い現状には、会員が会に
対する理解度は不十分ではないかと思われます。役員が会員への説明責任が果た
していない可能性が大いにあるかもしれません。そのため、役員たちが会員へ
一層の努力が必要となります。現状では寄付金に頼ざるを得ない。
7、各理事報告
理事の意見、寄付金を広告費の代わりに経費として落とす事が出来な
いでしょうか?
5、議長の選出 本会定款草案第27条の規定により会長が議長
6、議題 1 物故会員及び家族への対応について
会員及び会員の父母が亡くなられた時、当該会員から会への連絡があった
場合、会としては花環を送ることにします。同時に関係会員へお知らせ致します。
2 選挙管理委員会の委員
選挙管理委員を荘司明、高素妙、徳泉治、松村正鴻、中原昴等五名の会員
36
に委嘱しました。ほかに、理事から 2 名が予備委員に就任した。 3 06 年 3 月総会について 3月19日か26日に予定を組みました。
4 忘年会が怡友会と台医人協会との共催の件について
今年は合同忘年会の名称で怡友会と台医人協会と共催します、来年以後は
来年早々3会の会長にて話し合いする。
5 会の運営費について
年会費を支払った会員は半分以下、会の運営上、会員の協力が不可欠です、
会員のご協力を心よりお願い申し上げます。ほか、年会費の値上げ、或る
いは理事たちだけの年会費の増額と言う意見がありました。
6 台湾主権記念会の検討と展望について
出来なら李登輝前総統を来年の講師に迎え入れたいと各方面からの要請
がありました。今はこの方向で調整しています。李登輝前総統が地方都
市を訪れることは問題ないですが、東京を訪問した上さらに台湾の主権問
題について講演することが実現出来るかどうか、今のところは未知数です。いずれに
しても、来年も日本台湾医師連合が台湾主権記念会を主催した形で関連団体と共
同開催する方針は変わりません。
7、 閉会 05 年第4回理事会録
日時:平成18年2月11日(土) Pm 2:30
場所:東京ルノアール銀座店
担当理事 毛利忠
記録 王 紹英
出席顧問 重光茂栄 玉井輝章 徳山昌平 理事 頌彦真賢 王 紹英 岡山文章 丘 哲治 高村 豪 中山博雄 長峰俊次
毛利 忠 監事 大山青峰 蘇原寛敏
1、開会 37
2.出席者の確認
3、会長挨拶 4、諸報告
1 現会員数について 151名
2 1月15日 シポジウムについて
世界日報 自民党の月刊 台生報などの反響について
3、2月5日 a 日台友好文化交流コンサートについて
b 台湾文化芸術訪問団舞鈴劇場の件について
4、中川昭一 安倍晋三 小池百合子 3氏への入閣祝電
5、各理事報告 会計報告:毛利忠先生
年会費の納入現状について
5、議長の選出 本会定款草案第27条の規定により会長が議長
6、議題 1 会の運営方法について
許代表との歓談会、意見交換会については、日本人としての会であることを前
提に会長が文書で打診し、代表の都合と意向を伺い新年会については、未定
2 会の運営費について
さといも便りの経費について再検討
会報誌に薬品等の広告を載せることについて検討
不足分の経費については、理事等が寄付分担
寄付金は広告の名義で領収書を発行
少なくとも年一度一流講師を迎える(総会か)
会合前の薬品メーカに広告を打診
3 総会時期の改定について
総会時期の改定について、会則の通りに、時宜により会期を変更することで
改定せず
会員出席率が減少傾向について、顔副会長が責任者とし、会員のアンケート
を取り、会員の意向を計る
4 06 年台医連総会について
定時総会の開催日は4月2日2時30分、池袋ホテルメトロポリタンにて
総会の議案について
1、 17年の会計報告
2、 総会時期の改定
総会後の記念講演会は、三宅久之氏を講師として招く
5 第2回台湾主権記念会の検討と展望について
今年の台湾主権記念会は9月3日に、羅福全氏を講師として招く
記念会の形式は未定、場所(ホテルかホールか)は形式決まり次第決める
38
6 怡友会の忘年会との共催について
怡友会の共同開催の要請には拒まず、分担金は5万円以下にする
7 その他 日本社会への奉仕活動
会員の宗教団体への協力活動は、個人として行動し、会の名義で活動すべ
からず
日本での個人開業の経験を本にすること
会員が開業経験を文に、台湾の同業者に参考していただく
(責任者:頌彦真賢副会長)
8、閉会 会員日誌
2005 年10月30日
o
05年第3回理事会が新宿区四谷ルノアールにて開催しました
11月
o
第8号「さと医も便り」発行
39
2005 年12月25日
ホテルオークラにて怡友会、日本台医人協会と忘年会を共催。忘年会の前に呂桔誠台湾銀
行董事長が講演をなさいました。呂桔誠は、のち財政部長(財務省長官)に昇格しました。
演題:改革中的台灣—從財經改革談起
2006 年1月15日
o
東京都千代田区九段私学会館にてシンポジウムを主催 o
講師: 金美齢先生、多田恵さん
演題 金美齢先生:彷徨う台湾人意識・12、3 地方選挙の結果を受けて
多田恵さん:我々が今出来ることは何か
2006 年2月11日
o
05年第4回理事会が銀座ルノアールにて開催しました
1 会の運営方法や総会時期の改定や運営費について討議しました
2 06 年台医連総会について討議しました
3 第2回台湾主権記念会の検討と展望についてについて討議しました
2006 年 2 月 22 日 o
台北県政府が來にある高砂義勇隊慰霊碑を強制撤去することで、本会が台北県政府へ抗
議の声明文を送った
我々は以下の事項を要求する。
1 慰霊碑の撤去をすぐ中止すること。
2
台北県長が原住民に謝罪すること。
3
蒋介石記念廟を高砂義勇隊慰霊廟に変えること。
40
編後語 清水 栄
2 回目の本誌の編集になりますが、まず最初は、前号の本誌のことですが、多分皆様が既
にお気付きだと思いますが、2005 年 11 月号を間違って 2007 年 11 月号としまして、
2 年間時計を早回りしてしまいました。ここで謹んで訂正を致し、お詫びを申し上げます。
41
さて、さる 12 月 3 日に行われた台湾の地方選で、周知のように与党民進党は 2004 年末の
立法委員選挙に続いて敗北を喫し、多くの人々を失望させました。
「何で八 五%、九〇%の人が
本省人であるのにかかわらず、台湾人の政党を勝たせてやらないんですか」
、
「国民党に洗 脳
された台湾人」などと文句を言われてしまいました。しかしながら、戦後 60 数年経った現在、
純粋な外省人がかなり少なくなり、台湾人の心も決して本省人・外省人と割りきれる程簡
単ではないように思います。これほどの繁栄、民主化を成し遂げて来た国民は決してバカで
はなく、ちゃんと現実を見詰めて行動しているものと思います。今時、共産独裁中国と一緒
になろうなんて考えている人は外省人の中でもかなりの少数でしょう。中国からの強い脅
威で人々は将来に不安を抱えています。将来に不安を抱えながらも、まず目の前の生活があ
ります。その目の前の生活を良くするのも当然の要求であり、時の政権が、どんな事情があ
るにしましても、その要求に応えられなく、良い展望も提示できなければ、ましてや汚職の
不祥事を起こしたりしますと、当然お灸を据えられます。かと言いまして、台湾人が自由、民
主化を放棄することはまず考えられません。もしもそのような危険性が本当に強くなれば、
台湾人は間違いなく立ち上がるのでしょう。前号でも言いましたが、台湾の本土化、民主化
は歴史の潮流であり、歴史の潮流はとっても重いです。動き出させるのは多くの先人、先輩
の努力と犠牲で相当に大変でしたが、一旦大きく動き出している以上、人々の思惑を超えま
して、途中に多少の下げ上げをしながらも昇ってゆき、逆戻りはしないと信じております。
今 9 号誌は前号と比べまして、大部薄くなっていますが、政治的話題、論説以外に、
「食経 」、
小品文などのソフトな話題もあり、読んでいて楽しいです。このような文章も大歓迎ですの
で、皆様ぜひふるって会誌にご投稿下さい。
ご投稿に際し、パソコンで原稿を作成する場合、お願いとしまして、
1.字体はなるべく一般的にパソコンに添付されているフォントでお願いします。実際の会
誌では日本文フォントは MS 明朝で、台湾文フォント(Big5)は MingLiU でなるべく統一した
いですので、ご作文に合わせる特別なフォントの必要がなければ、なるべくこの二つのフォ
ントでお願いします。
2.文章の本文のフォントのサイズは 12 にして下さい。
3.用紙設定は、A4 紙で、余白は上下左右ともに 20mm でお願いします。
勿論、これはあくまでも原則的なお願いで、お好みがあり、ぜひこのフォント、この構成にし
たいというご希望がありましたら、それを尊重します。
宜しくお願い致します。
なお、会誌の経費を賄うために、王紹英理事のご尽力で今号誌に製薬会社 5 社の広告を載
せることになりました。皆様どうぞご了承下さい。
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