父娘の絆「広美丸」

父娘の絆「広美丸」
∼ 亡き父の船を引き継ぎ漁業へ参入 ∼
谷山漁業協同組合
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右田広美
地域の概要
鹿 児 島 市は , 鹿児 島 県 の県 庁 所 在地 で , 2004年
に 近 隣 の 5町 と 合 併 し 人 口 が 60万 人 を 超 え る 南 九
州 最 大 の 都 市 で ある 。 市 内は 商 工業 化 や 宅地 化 が
進 ん で い る が , 桜 島 を 望 む 景 観 は ,「 東 洋 の ナ ポ
リ 」 と も 称 さ れ 年 間 約 900万 人 が 訪 れ る 観 光 都 市
でもある。
鹿 児 島 市 の 中 心部 に 位 置す る 谷山 地 区 は, 埋 め
立 て が 進 み , 大 型の 新 興 住宅 地 が造 成 さ れ大 規 模
な商業施設が進出している。
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漁業の概要
私 の 所 属 す る 谷 山 漁 業 協 同 組 合 は , 正 組 合 員 50
人 , 準 組 合 員 40人で , 高 齢化 が 進み 組 合 員数 は 減
少 傾 向 に あ る 。 主な 漁 業 種類 は ,刺 網 , 定置 網 ,
潜水漁業 ,一本釣 り等で ,漁獲物 は直接組 合員が鹿 児島中央 卸売市場 に出荷 している。
平成19年の漁獲量は,120トンであった。
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研究・実践活動の取組課題選定の動機
谷山で生まれた私は,幼い頃から
船と海が大好きで,両親と漁に行く
6歳 上 の 兄 を う ら や ま し く 思 っ て い
た。
しかし,鹿児島湾の中にバショウ
カジキが来遊する夏休みになると,
父は私を対岸にある垂水や古江沖に
一週間ほどの泊まりがけの漁に連れ
て行ってくれた。カジキ流網は夜間
操業するので一晩中休む間がなかっ
たが,大漁の時に鹿児島の市場に水
揚げするのが楽しみだった。時には,
図2
初代広美丸
台風の中を帰ってくることもあり危
険な体験も数多くあったが,今思えば無謀な父だったと思う。
私は, 高校に進 学する 頃には海 から遠ざ かってい たが,就 職してO Lにな ると,時間
を見ては 獲った魚 を市場 に持って 行った。 その後, 22歳 の時,一 度は都会 に出たい夢も
あり横浜 に出たが ,母の 突然の死 により半 年あまり で帰郷し なければ ならな くなった。
当時,自 衛官だっ た兄と 弟は,父 の近くに 居ること が出来ず ,ショッ クを受 けている父
を独りにしないため故郷に戻ってきたのである。
故郷で 職を求め ,やが て25歳で結婚 し長男が 生まれた 。長男が 2歳くら いになると父
はバイク で迎えに 来ては ,漁に連 れて行く ようにな った。昼 間だけな ら心配 もしなかっ
たが,夜の漁まで連れて行くようになり,私も徐々に一緒に漁に出るようになった。
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研究・実践活動の状況及び成果
父と一 緒に仕事 をした 漁船「広 美丸」は ,昭和50年9月建 造の2.7トンで ,当時の谷山
漁協では初のプラスティック船と
聞いてる。
しかし,私が父と漁に行き始め
た 頃 に は 既 に 建 造 後 17年 目 で あ っ
た が , そ れ か ら 20年 近 く ず っ と 同
じ船を二人で大切に使ってきた。
ちなみに,この船は現在私の名義
図3
になり,今でも現役で漁に出てい
広美丸2.7トン
る。
歌の文句ではないが「型は古いが時化には強い」が父の口癖であった。
また, 信じられ ないか もしれな いが,私 達の船に は魚探も GPSも 付いて いない。漁
場はもちろん父の経験と山立てで決めていた。天候についても,天気予報は一応見るが,
一番は桜島の煙と雲を見て,明日の天気や風を読んでいた。
船の修 理もほと んど家 族で行っ てきた。 幸いにも ,夫が車 の板金塗 装業を していたの
でいろい ろ教えて 貰い, 船体修理 はグラス ファイバ ーを貼っ たり,ペ ンキ塗 りも独りで
出来るようになった。
仕事内容や漁法などを父が手
取り足取り教えてくれたと言い
たいところだが,
「見て憶えろ」
と言わんばかりの態度で,最初
は何も教えてはくれなかった。
父は「女は漁師にはなれない」
と考えていたのだろう。おかげ
で,私の中には反発心が生まれ,
意地と根性で頑張ることが出来
た。
私達親子でやってきた漁は数
多く有るが,主には刺網とタコ
ツボ漁である。
図4
年間操業スケジュール
刺網は ,春先か らのカ マス網, 夏からモ チウオ( イボダイ )網,冬 にはヒ ラメ網と続
き,梅雨の頃にはワタリガニやコウイカの刺網も操業した。
タコツ ボは,産 卵期の 11月 1日か ら11月30日を除き 1年中操 業した。 タコツボ漁も改良
を重ねて陶器の壺からコンクリート,プラスティックに変わり,餌もカラスガイ,カニ,
アサリと変遷しタコとの知恵比べを繰り広げてきた。
カマス・モチウオ刺網は,
朝 夕 2回 の 操 業 で あ る 。 私 達 の
船はスピードが出ないので人
より早く出港して漁場を確保
しなければならないため,朝
の 操 業 は 真 夜 中 の 午 前 3時 頃 出
港する。漁場に着くと網を張
り , 日 の 出 前 に 揚 げ 始 め て 2時
間ほど揚網作業を行う。午前9
時頃に一旦帰港して水揚げし,
朝食の後,タコ壺を揚げるた
めに再度出港する。なお,タ
図5
カマス・モチウオ網操業スケジュール
コ壺は揚げてタコを取り出し
た後,す ぐに投入 して3 ∼4日お く。帰港 してタコ を水揚げ した後は ,身体 を休めて夕
方のカマス漁に備える。
夕方は ,午後4時頃 出港して 暗くなっ てから操 業し午 後8時半頃 戻ってく る。当日漁獲
したカマ ス,モチ ウオ, タコ等は クーラー ボックス に入れて おき,翌 朝,人 に頼んで市
場に出荷してもらうという毎日の繰り返しである。
私が漁 に行き始 めた頃 は,谷山 地区では モチウオ (イボダ イ)は漁 獲され ていなかっ
た魚で,魚自体も知られていなかった。あるとき,叔父の小型定置網にたくさん入網し,
値段も高値だと知った父は,他の漁協の知人に聞いていち早く網を作った。
カマス とモチウ オは年 によって は漁期が 重なるの で,カマ スとモチ ウオの 操業を交互
に行ったり,漁模様を見てどちらかに絞って操業する。
ヒ ラ メ 網 は 漁 協 の 取 り 決 め で 操 業 期 間 が 12月 1日 か ら 3月 31日 の 4ヶ 月 間 と 決 め ら れ て
おり,ヒラメを中心に鯛やコチ,エイ,アンコウを漁獲する。漁具は500m ほ どの網を2
組 準 備 し , 1日 お き に 揚 げ る こ と に し て い る が , 冬 は 時 化 が 続 く と 4 ∼ 5 日 は 出 漁 で き
ないこと もある。 漁獲し たヒラメ は翌朝活 かして出 荷するた めに,私 が海水 を入れたク
ーラーで市場に車で運んでいた。
その他 にも,私 は漁の 合間を見 ては,大 潮の時に 潮が引い た海岸に 出かけ ワカメ,ア
サリ,カ ラスガイ ,マガ キガイを 採って魚 と一緒に 出荷した り,値段 の安い 時はアオア
ジやカマ スの開き を作っ て収入の 足しにし たり,経 費削減の ために氷 や魚箱 の調達も自
分で行ってきた。
船に乗 ると常に 緊張の 連続であ るが,時 として心 温まる事 もある。 鹿児島 湾には沢山
のイルカ が生息し ていて ,資源を 食い荒ら したり, 近づいて くると魚 が逃げ 散って漁に
ならないので,湾内の漁業者からは嫌われている。
ある日 ,ヒラメ 網を揚 げている と,遠く に暴れる 魚が見え たので, 時期外 れのカジキ
かと思っ ていたら ,近く にイルカ の群れが 居て,そ の揚げて いる網に イルカ がかかって
いた。私 の頭の中 は真っ 白になり ,途方に 暮れる間 もなく, 後方の父 から「 早く網を揚
げろ」と促された。
イルカ に近付く と,つ がいか親 子なのか ,もう一 頭が心配 そうに寄 り添っ ている。そ
れを見た父は,迷うことなく「網はどうなっても良いから逃がしてやれ」と言った。
そう言 われても ,私の 中ではそ の年に父 が苦労し て新調し た網にナ イフを 入れること
は心が張 り裂けそ うであ った。暴 れるイル カに「静 かにして 」と言い ながら 涙したこと
は忘れら れない。 イルカ は自由を 取り戻す と,仲間 の群れと ともに, まるで 御礼を言っ
ているかのように高くジャンプして遠ざかっていった。
あの時 ,父はど んな気 持ちで指 示したの だろうか 。でも, 私にとっ ては父 の優しさを
改めて感じる出来事であった。
こ の 20 年 の 間 に は 漁 業 以 外 の こ と
も父から引き継いだ。父は港の世話
役 も 引 き 受 け て い た の で , 年 3回 の エ
ビス祭りの炊き出しや宴会に私も参
加 さ せ , 年 2回 の 海 岸 清 掃 , 松 魚 礁 の
投入,タコツボのタコ産卵床投入に
も積極的に参加して地元の漁師仲間
と面識を深める機会を与えてくれた。
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波及効果
父は女が漁師になることなど考え
ていなかったが,私は「広美丸」と
図6
谷山地区松魚礁設置
海が大好きであった。
漁に行 き始めた 頃は, 手伝い程 度のつも りであっ た。そん な折,父 がバイ クで事故に
遭い海に 出られな くなっ てしまっ た。私は 免許がな いと船の 管理すら 出来な いことを知
り,小型 船舶操縦 士の免 許を取得 した。そ れを機に ,遊漁船 業の業務 主任者 の資格や工
事作業の警戒船の資格も取得した。
父は, 漁業を兄 に譲る 気持ちを ずっと持 っていた のだが, その兄は 11年 前に他界して
しまった。その後,頑固な父も少しずつ私に対して接し方が変わってきた。
朝真っ 暗な内か ら海に 出て夜遅 くまで海 で頑張る 毎日。漁 に行って も,泣 き言一つ言
わず,子 供と過ご す時間 を削り家 庭を犠牲 にしてま で父につ いてきた 私の姿 を見て,い
つしか認めてくれるようになっていた。
父が船 長,私が 漁労長 という役 割で,数 年前から は漁場選 びを始め 出漁も 全て任せて
くれるまでになった。
父 が 80 歳 を 過 ぎ た 頃 か ら は , 周 り
からも船や組合員資格の名義を変更
する話があったが,父の生き甲斐が
無くなりそうなので私は先延ばしに
し て き た 。 父 が 82歳 で 病 気 に な っ た
ことを機に,早く正組合員になるよ
う 強 い 勧 め も あ り , 私 は 平 成 22年 2月
に谷山漁協の正組合員となった。
父はその後一ヶ月あまりは最後の
ヒラメ網に行き,それからは入退院
を 繰 り 返 し な が ら 平 成 22年 10月 , 建
造 後 37 年 の 船 と 多 く の 教 え を 残 し て
図7
在りし日の父
帰らぬ人となった。
6
今後の課題や計画と問題点
い ま,私は 父から譲 り受け た船を持 ち正組合 員として 漁業を営 むように なったが,父
とともに 漁に出て いた頃 に比べ海 の中が変 わってき たと感じ ている。 これま で見たこと
のないリ ュウグウ ノツカ イが獲れ たり,海 水温が上 がり出荷 できない 魚が増 えたため水
揚げの量も金額も減少している。
私はこ れから, いまま での漁法 はもちろ ん,他の 漁業者や 普及指導 員の協 力を得なが
ら漁場や漁法を研究していきたいと思う。
最近, 漁師仲間 が個人 で鮮魚の 直売を始 めたとこ ろ,客が つき手応 えもあ るようであ
る。漁業 者や組合 ,市, 県の協力 があれば 直売所は 地域の活 性化と漁 業所得 の向上に繋
がると思 う。みん なと協 力して, よりよい 魚を消費 者に納得 できる価 格で提 供する取り
組みや, 値段の安 い時に アオアジ やカマス 等の加工 品を作っ て直売す ること にも挑戦し
たいと思う。
また, とても大 切な海 の環境を 守る活動 も重要で ある。そ の一つが 海の浄 化や稚魚の
保育場と しても役 立つ藻 場の造成 である。 藻類は海 の環境を 守るだけ ではな く,クリー
ンエネルギーとしても注目され,健康食品などでも脚光を浴びている。
子供達 のために も,今 ある谷山 の海の環 境を守り ,資源を 育むため にワカ メやヒジキ
の海藻養殖にも漁協組合員の方々と共に取り組んでいきたいと思う。
最後に ,かつて 父が沖 縄復帰に 際して漁 業技術を 指導する 支援活動 に従事 し,沖縄の
漁業復興 に尽力し たこと があった ように, 機会を見 つけて私 も父を見 習って 東北の震災
被災漁業者の復興のお役に立ちたいと願っている。