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回
逆に、ものすごい人気 られている。墓参に来た た。どっしりとした四角
に庄倒されたのが、米ロ 人が記していくという。 い墓碑の陰から今にもあ
ひげ
ック歌手のジム・モリソ 同性愛者だったワイルド のちょび髭姿が現れそう
三千枚以上撮りためた
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二
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ンだ。パリのアパルトマ のこと。男性のキスが結 だ.正面には故人と革り 写真からよりすぐって、
ってくださいというよう 昨年は東京で、今年は私
は、ローランサンと同じ
展を開いた。ほかの仕事
だけは声がかかれば日本
もしているが、墓の写真
撮影旅行では車を運転 中どこへでも持っていく
車使わず故人しのぶ
□ ロ 口
いる。
子供時代から大好きで に石のベンチが置かれて の原点である与論島で個
ンで謎の死を遂げた彼 構多いのだそうだ。
い彫像やレリーフ、墓碑 に死んだ指揮者カラヤン いつも熱狂的なファンに なって撮っていると、い
ペールトラシェ-ズに葬 どうしても行きたかった
い上がった私には、幼い を心ひかれるままに撮っ からだ。人の真価は死後、 られた。私は彼を知らな のがベルリンにあるグリ
ころから死者の世界は身 ていた。欧州の墓は美し 決まるというが、八九年 かったが、通りかかると ム兄弟の墓。妻と夢中に
近だった。
た。オーストリアのアニ こわもての男が神妙な表
和
田 州 生
◇ドイツ中心に欧州各地で撮影旅行、国内で展覧会◇
iL.武家の鵜にカメラ向け
ったo
中には芸術作品と呼び
ができた。
のような彫像を刻んでい
スイス・ヴヴェイに眠
と赤いキスマークがつけ ンプルだが魅力的だっ
シーを乗り継ぎ教会や墓 らいたい。ここに眠る人
めていると不遇の画家が
(わだ・くに浴=写真家)
て裏口から抜け出すこと 麦畑が広がっている。眺 い世代に伝えたいのだ。
持った墓参者が残ってい うに今も絵画そのままの ることの素晴らしさを若
だ。たまたま、門の鍵を が眠る墓地を取り囲むよ のを見つけ、挑戦し続け
クになって助け壷呼ん
がに気味が悪い。パニッ 死んだオーヴェール・シ たいことを貫いた。人が
ユル・オワ-ズには、彼 何と言琴つと、好きなも
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フ郊外、教会墓地の日当 情で何時間も祈りをささ
昼間は公園のように明 地まで歩く。故人が見た 々の多くは生きている
墓にみる死後の評価
たりの悪い一角に寂しく げていたりする。
るく開放的な欧州の墓地 風景に近づける気がする 間、貧乏で不遇だったけ
帰国後も仕事で渡欧す 十字架が立っている。
ちょっと不気味だった だが、日が暮れるとさす からだ。例えばゴッホの れど、自分を信じてやり
る。
ライフワークにするき 銘で飾られ、周囲も花園 の墓は生前の名声と比べ 囲まれ、遠目にもすぐわ つの間にか閉菌時間を過 しない。妻と一緒に重い つもりだ。
っかけは1九六四年、日 のように手入れされてい てあまりに地味で層い かる。腕に入れ墨をした ぎて閉じこめられてしま 機材を担いで電車やタク
特に子供たちに見ても
ため訪れた与論島で風葬
大芸術学部の卒業制作の
に出合ったことだった。
白い砂浜の墓地に立つ死
者の館では、洗骨を待つ
故人がいつでも戻って来
げ た
が置かれていた。亡くし
モーツァルト、ハイネ、 られるように下駄や草履
ニーチェ、ゴッホーー。
ドイツを中心に欧州の芸 た家族を思う人々の気持
術家や学者の墓を撮り続 ちが痛いほど伝わってき
け、三十年以上になる。 てひどく感動した。この
人にはなぜと不思議がら 時に撮影した写真が注目
たくなる墓標もある。シ
ャンソン歌手、イヴ・モ
ンタンの墓には枯れ葉が
あしらわれ、「モモ」や
「はてしない物語」で知
ラマンとして
れるが、墓は人が限りあ
さ
れ
、
写
真
家
の
道
に
進
む
るたびに撮影を続けた。
日本で人気の高い画
る生を精いっぱい生きた 第一歩にもなった。
著名人の墓を集中的に訪 家、マリー・ローランサ
証し。その前に立つと心
卒業後、業界紙のカメ
ね
だ
し
た
の
は
六
年
ほ
ど
前
ン
もパリ、ペール・ラシ
エーズ墓地に忘れ去られ
が静まる。
られるドイツの作家、ミ
オワ-ズにあるゴッホの
たような風情でたたずん
ドイツ・ミュ
れないほどだった。
墓碑銘も消えかけ読みと るが、表も裏もびっしり るチャップリンの墓もシ
も探しだすのは難しい。
眠るこの墓地には案内用 カー・ワイルドの墓碑だ。 青銅の書物が大きく広げ
の地図があるが、それで 翼の生えたスフィンクス られている。
でいた。数々の有名人が のが、英国人小説家オス ヒヤエル・エンデの墓は
養、右は弟テオの墓
□ 口 □
与論島での感動が契機 ンヘンに駐在
四歳まで歩けず、医者 すると、自然
も見放したほどの重病か に嘉にカメラ
ら立ち直った個人的な体 を向け始め
験が関係しているのかも た。最初は無・
しれない.死の献からは 名の人々の墓
オ.」ヴェール・シュJレ1