気の利いた話

入
選
谷治 祐花
東京都立両国高等学校附属中学校 三年
会えて良かったと思っている。
ホストマザーが
教えてくれたこと
「大事なのは、笑うこと。」そう流暢な英語で言った彼女の
よくあった。忘れ物の多い私は、母に注意されるといつも言
分への苛立ちから、母や友人にきつく当たってしまうことが
自分の言いたいことをうまく表現できないことや、そんな自
自分の気持ちを人に伝えるのが苦手なことが私の悩みだ。
せて何度もうなずき、私の言葉を一生懸命聞いてくれた。そ
てしまう。しかし、そんな私を見て、彼女は私に視点を合わ
じた。うまく言えないとき、私は決まって眉間にシワをよせ
それでもやはりとっさに言葉がでてこないことには苦痛を感
いう安心感もあってか、私の緊張は一気にほぐれたのだが、
初日から、彼女はとても親切に接してくれた。日本人だと
い合いになる。そのたびに反省はするものの、つい言葉が先
の気遣いと聞き方のうまさに、私はとても感動した。しかし、
言葉が、 私 は 忘 れ ら れ な い 。
走ってしまう。そのようなわけで、私は人と話すことが好き
はじめは「こういう人は私とは違ってもともと何でもできる
人なんだろうな…」とも心のどこかで思っていたと思う。
ではなか っ た 。
だが、この夏、そんな私を大きく変えたものがある。海外
験する。私はとても不安だった。苦手なコミュニケーション
三年生全員が夏休みにアメリカで十日間のホームステイを体
は、人と全く話せなかったこと。悔しくて、それから毎日英
彼女は私の隣に座り、力強く話してくれた。来たばかりの頃
暮らして、苦しいことやつらいことはなかったのですか。
」
次の日、私は思い切って彼女に聞いてみた。
「アメリカで
を、英語だけで行えるのか。しかし、驚くことに私のホスト
語を猛勉強したこと。結婚してからは、夫との文化の違いに
語学研修での、ホストマザーとの出会いだ。私の学校では、
マザーは日本人だった。そして今、私はほんとうに彼女に出
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
もしれない。この時、私は彼女のような人になりたいと心の
た。それは、今までの私がいちばんできていなかったことか
は、どんなときでも笑顔でいること」と言った。どきっとし
を覚えている。最後に彼女は「いちばん大事にしていること
す言葉が見つからなくて、部屋の中がやけに静かに感じたの
思 っ て い る こ と。 ―― 素 晴 ら し い 人 だ と 思 っ た。 す ぐ に 返
戸惑ったこと。その違いを互いに受け入れることが大切だと
をもって言えるようになりたい。
かもしれない。そしていつか、人と話すことが好きだと自信
持ちが消え、私は成長のきっかけとなる一歩を踏み出せたの
かすると、そのおかげでできないことから逃げようとする気
ても、彼女は私に対して決して日本語を使わなかった。もし
の「勉強」だと思う。今思えば、どんなに意思が伝わらなく
彼女は英語を猛勉強したと言っていたが、これが私にとって
かった。もう一つは、人と積極的に関わろうと思ったこと。
もらったことを、私は一生忘れない。
十日間という短い出会いだったが、その中で彼女に教えて
底から思 っ た 。
そ れ か ら の ア メ リ カ 生 活 は、 よ り い っ そ う 楽 し い も の に
なった。もちろん英語力はそんなすぐには伸びないが、プー
ルに行ったり、焼きマシュマロを食べたり、そういう中で自
然と意思の疎通ができるようになっていたのだと思う。彼女
の言葉の力はほんとうにすごい。思い出をたくさん胸に刻み、
私は日本 に 帰 っ て き た 。
この十日間を終えて、私には変わったことが二つある。ま
ず、笑顔を心がけるようになったこと。この間、学校に傘を
忘れて母に「何度も言ってるでしょ。直そうとする気がない
の?」と言われ、つい、違うと声を荒らげそうになったとき、
頭をよぎったのは冒頭にも述べた彼女の言葉だった。そして、
「そういうわけじゃないよ。次から気をつけるね。
」と穏やか
に返すことができた。内心、そう言えたことがとてもうれし
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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入
選
荒川区立南千住第二中学校 三年
れ て く る。 父 の 番 は な か な か こ な い。 あ ご の 出 血 は ま だ 止
「反抗期はいらない」
それは、突然のできごとだった。一月のある日曜日、私は
まっていない。母は、私のようすを気遣い、背中をさすりな
熱海 遥香
久しぶりに父と母の三人で出掛けた。午後二時を過ぎ、買い
がら抱き寄せてくれた。なんともどかしい時間だろう。不安
五時を過ぎ、やっと父の名が呼ばれた。歯が数本折れてい
物はほぼ完了したが、帰宅前にどうしても見ておきたい店が
もしない内に父が追いかけてきた。随分早いなと思いながら
たので、あごのMRIを撮影し、切れた部分を縫合した。も
でいっぱいの私は、ただ声を殺して泣くことしかできなかっ
振り向くと、父はあごから血を流し、マフラーまでもが赤く
し、骨に異状があればこのまま入院と言われ、私の不安はさ
あり、私は母と、父は一人で、それぞれお目当ての店へ向か
染まっていた。「気がついたら倒れていて、あごを切ってい
らに高まった。幸いにも、骨に異状はなかったが、倒れた原
た。
た」という。驚きのあまり私は声も出ない。心臓はバクバク
因は不明のままだ。治療が終わり、外に出ると七時半になろ
い、後で父が合流することになった。ところが、別れて数分
と音を立てるように脈打ち、いつの間にか涙があふれ出し、
うとしていた。真っ暗な夜、見知らぬ場所で駅までのバスを
三人で待った。ほっとしてもいいはずなのに、私の心はそれ
止めよう が な か っ た 。
薬局で、救急病院の電話番号を教えていただいたが、なか
父には以前から、軽い心筋症があった。後日、このことも
を許してくれなかった。
く長く感じられた。タクシーで病院へ向かう時間さえもどか
含めてさまざまな検査を受けたが、意識を失った原因は分か
なか繋がらず受け入れ許可が降りるまでの時間がとてつもな
しかった。待合室は患者であふれており、急患が続々と運ば
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
と言葉を返したらいいのかも。だから、逃げていた。現実を
私を心から愛し、育んでくれる家族が、今、ここにいる。
ら な か っ た。 シ ョ ッ ク だ っ た の は、 す い 臓 に の う 胞 が 見 つ
私は生まれて初めて家族を失うかもしれないという恐怖を
この笑顔を忘れずにいたい。だから私に反抗期はいらない。
受け止めることが辛いから。でも笑顔はあった。何気無い会
覚えた。折しも、祖母には「小細胞ガン」というとても進行
大好きな家族と過ごせる大切な時間を反抗期を理由に無駄に
かったこと。今は経過観察と言われたが「ガン」にならない
の早い「肺ガン」が発覚した。すでに転移も認められ、治療
してしまうのは、もったいないと思うから。この幸福が限り
話の中で笑い合う家族がそこにはいた。
のすべはないと告知された。祖母自身、このことを知ってい
あるものだと知ったからこそ、自分に正直でありたい。私が
という保 証 は な い の だ そ う だ 。
る。悲しみと不安は私たち家族をどこまで追いかけてくるの
家族にできることは何だろう。たとえそれがささいなことで
「私の家族でいてくれてありがとう。
」
そして、心を込めて。
あったとしても、感謝の思いは常に伝えていこう。素直に、
だろう。 そ う 思 う と 涙 が 止 ま ら な か っ た 。
中学生となり、部活や塾へ通うようになると、家族と過ご
す時間は少なくなった。受験生となったこの夏は、講習会や
高校見学も重なり、今まで以上に家族との会話が減った。久
しぶりに 顔 を 合 せ た 父 が 言 っ た 。
「 あ れ、 こ ん な に 背 、 で か か っ た っ け ? す ご い 伸 び た ん
じゃない ? 」
「え〜。そんなに伸びてないと思うけど。」
と母はメジャーを持ち出し、父と二人がかりで私の身長を測
りだした。皆、自然と笑顔になった。「忙しいから。
」これは
会話が減ったほんとうの理由ではない。ほんとうは怖かった
のだ。父の顔を見ることも、「遙香が高校卒業するまでは死
ねないよ。だから受験がんばって。」と言って笑う祖母に何
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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選
「感謝する心とは。
」
うちの両親は、買い物に行って、おつりやレシートをもら
う時に必 ず お 礼 の 言 葉 を 言 い ま す 。
調布市立第六中学校 一年
竹内 義貴
「 だ っ て、 お 店 の 物 を 売 っ て も ら う ん だ よ、 あ り が と う で
しょ?」
た。お店 の 人 が 商 品 を 売 っ て
らうと考えていたことがわかってはじめてお礼を言っていた
ぼくは、買ってあげると考えていたけれど母は、売っても
と言いました。
「ありがとうございました。」
意味がわかりました。
ぼくは、小さい頃、それを不思議に思ったことがありまし
と 言 う の は、 客 に 買 っ て も ら う の だ か ら 当 り 前 だ け れ ど、
自分の立ち場の見方を変えただけなのに、その言葉の意味
の感じ方、意識が変わった感じがしました。
買った客 が
「ありがとう。」
その人にとってそれが仕事だからと言っても、自分のために
「人に何かしてもらうのは当たり前のことじゃないよ。例え
周りの人を見ていても、そんな人はあまりいません。たま
何かしてくれていることに変わりないのだから、感謝の気持
と言うの は 何 で な ん だ ろ う と 思 い ま し た 。
に、年をとったおばあさんやおじいさんが言っているのを聞
ちは忘れないようにしたいよね。
」
「ありがとうございます。
」
ぼくも、それ以来、買い物に行った時等、
と祖母に言われたことも思い出しました。
いたこと が あ る く ら い で し た 。
ぼくは 、 母 に 聞 い て み ま し た 。
「何で、あ り が と う っ て 言 う の ? 」
すると母 は
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
と言うよ う に な り ま し た 。
感謝の心といえば、今年、ぼくは中学生になりました。入
ことはできないと思うし、より良い社会を創りあげていくこ
とはできないと思います。
これからの社会を支えていく、ぼくたちの世代こそが、こ
の三つの心をしっかりともち、伝えていくことができれば、
学した第 六 中 学 校 で は 、
「思いやり の 心 、 や さ し い 心 、 感 謝 の 心 」
いじめや差別はもちろん、争いのない平和な明るい社会が築
ぼくはこれからも素直に、どんな時も感謝の心が伝えられ
いていけるのではないでしょうか?
というこ と を と て も 大 事 に し て い ま す 。
例えば、授業で使われるプリントを配る時、先生から最初
に受けと る 最 前 列 の 人 は 必 ず 、
思います。それは同時に、祖父母や両親の心も受けつぐこと
る人間でいられるように、三つの心を大切にしていきたいと
と言います。これは、そのプリントを作ってくださった先生
なのかなとも思いました。
「ありがとうございます。」
に感謝の心を伝えるためです。授業で使うプリントなんだか
ら、先生が作って当たり前なのではなく、自分たちのために
作ってくださったのだから感謝するのが当たり前なのです。
それをちゃんと言葉にすることは、とても大切なことだと思
いました。そして、先輩たちはどんな場面でもそのことが自
然とできている、その姿を見るたびに、さすがだなと、ぼく
は思いま す 。
思いやりの心がなければ、相手の立場を考え、思いをめぐ
らすこともできないし、やさしい心がなければ、相手を気づ
かうこともできません。この二つがあって、はじめて感謝と
いう心が も て る の か な と も 思 い ま し た 。
この三つの心を抜きにして、他人と正しい関わり方をする
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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選
夢を追い続ける
宣誓!私はこれまでの祖父への感謝と祖父からの愛情を胸
上田 萌加
お茶の水女子大学附属中学校 二年
かったです。
二〇十四年八月十九日からちょうど一年が経った今日。祖
を和らげようとする、二人の優しさはすばらしいと思いまし
添ってくれた看護師さん。話を聞き、痛みを分かり、苦しみ
祖父の望みを叶えてくれたお医者さん。そして、心に寄り
父の命日です。天国で元気にしていますか?いつも見守って
た。そう、訪問介護は感心、関心、感動の連続で、学ぶこと
に、いつ も 夢 を 追 い 続 け る こ と を 誓 い ま す 。
いてくれ て あ り が と う 。
てくれました。お土産に作ってくれるたきこみご飯とけんち
れた祖父。よく家に遊びに来て、おしゃべりな私に付き合っ
緒に私たちの到着を待ってくれました。患者の気持ち、その
緊白した中、二人は相談して痛み止めを貼らずに、祖父と一
八月七日、祖父が危ないという連絡が入りました。そんな
が多くありました。
ん汁が楽しみでした。毎年のように旅行に連れていってくれ
うえ家族の気持ちを尊重してくれる心遣いに心を打たれま
「 感 謝 」 で は 表 せ な い く ら い、 か わ い が り、 面 倒 を 見 て く
たり、バレエやピアノの発表会があるたびに大阪まで見に来
し た。 祖 父 は 歯 を く い し ば っ て 痛 み を 我 慢 し て い て、 意 識
がしっかりしていました。いつものようにいっぱい話して、
てくれました。祖父は質実剛健で優しく温かい人でした。
そんな祖父は食道がんになりましたが、自ら治療を希望し
八 月 八 日。 祖 父 の 容 態 が よ く な り、 施 設 の お 風 呂 で 体 を
笑って、うなずきながら聞いてくれる祖父に安心しました。
その時は分かりませんでした。祖父の選んだ道は正しかった
洗ってあげました。そして、子犬のワルツ等、記念の曲をた
ませんでした。自宅でゆっくりと過ごすことを望んだのです。
ん だ と。 で も 、 全 力 で サ ポ ー ト し 続 け る 医 者 は か っ こ う よ
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
くさん演奏しました。その間も看護師さんは付き添い、笑顔
頃から川崎病、喘息、ヘルパンギーナ、インフルエンザ等で
られる医者になるのが夢です。なぜ医者かというと、小さい
お世話になり、お医者さんに実は憧れている自分に気付いた
で接して く れ ま し た 。
その日の後も、流し素麺をしたり、花火をしたりと、祖父
祖父とは、話をしたり、遊んだりなど、たくさん関わるこ
出、たくさんの体験、たくさんの愛と希望、そして医者にな
最後に、祖父が私に残してくれたものは、たくさんの思い
からです。
とができました。二人のお医者さんと看護師さんに出会えた
りたいという夢。改めて今、私から祖父に伝えたいことがあ
と夏の風 物 詩 を 楽 し み ま し た 。
からこそ、貴重な体験をし、思い出を作り、最後まで祖父の
ります。
「ありがとう。最高の宝物を。いつも夢を追って努力するよ。
」
そばにいることができました。改めて、ありがとうございま
した。
踏み出せ、優しく明るい、頼もしい医者への一歩を。届け、
最後にした強い握手を忘れないために。そして、はばたけ私。
かされず、自分の力、意志で生きている姿。精一杯男らしく
感謝の思い。
八月十九日、早朝。祖父が亡くなりました。管によって生
生き抜いた祖父に、涙を拭い顔を上げて、拍手を送りたいで
す。私も あ き ら め ず に 夢 を 追 う か ら ね !
看 護 師 さ ん は お 葬 式 に も 参 列 し て く れ、 そ の 後 も 一 人 に
なった祖母を気遣って、会いに来てくれます。今年の初盆も
花を供えに来てくれました。もちろん明るい笑顔で、
「こんにち は ! 」
と。私は 気 に な っ て い た こ と を 尋 ね ま し た 。
「何で、そ ん な に 頑 張 れ る の ? 」
「生きがいだね。体が動いちゃうんだよねっ。」
元気に力強く答えてくれました。私も胸を張って、そう答え
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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入
選
感動を生み出す
私は今までの人生の中で一度だけ、人と関わり、感動の涙
を流した こ と が あ り ま す 。
私は小学校四年生のころからNPO法人活動の一環として、
世田谷区立砧中学校 三年
清水 美里
顔や元気が波紋のように広がっていって、多くの人が笑顔に
なります。
」
私はこの話を聞いて、自分のやっていることに納得がいき、
す。しかし私は、踊りを見せるだけで社会貢献になっている
一緒に活動する仲間はこの活動を「社会貢献活動」と呼びま
てみんなの気持ちが一つになっていたからだと思います。は
違うように感じました。きっとそれは、リーダーの話を聞い
施設での阿波踊り当日、メンバー全員のオーラがいつもと
自信がもてるようになりました。
のだろうか、自分がやる意味ってあるのだろうか、そんな疑
じめはチームの何人かだけの気持ちだったことがメンバー全
老人施設で阿波踊りを披露するという活動を行っています。
問を抱く よ う に な っ て し ま っ て い ま し た 。
た。
また、笑顔、元気、それと喜びを分け合うことができたとも
員に広がって、施設全体が一つになっていると感じました。
員に広がっていました。そして、その気持ちが見ている方全
「私たちはお年寄りに笑顔を分けているんです。お年寄りは、
感じました。
そんなとき、阿波踊りのリーダーからある話を聞きまし
いつも老人ホームで変化のない生活を送っています。そこで
「みんなに元気をもらったよ。
」
踊り終わった後、お年寄りと交流する時間がありました。
になります。そして、その笑顔になったお年寄りをその家族
と言って、おじいさんが私の手を強く握ってくださいました。
私たちが笑顔で踊りを見せることによって、お年寄りも笑顔
が見て、また笑顔になります。こうして私たちの発信した笑
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
「ありがとう、ありがとう。」
と言って、おばあさんが涙を流してくださいました。私たち
が施設の方々に分けた元気や笑顔が「大きな感動」となって
自分にかえってきたと感じた瞬間でした。それから私は、五
年間続けてきた阿波踊りの中で、初めて涙を流しました。こ
れが、人と関わり、感動の涙を流した初めての経験です。
自分の笑顔や元気は、たくさんの人に分けることができる。
誰かのために何かをすると、目には見えないもっともっと大
きな何かとなって自分にかえってくる。この一日で、そんな
大切なこ と に 気 づ く こ と が で き ま し た 。
私は自分が感じたこの感動を、多くの人に感じてほしいの
です。そうすればきっと、人のためになることを自分からで
きる「奉仕」の心をもつ人が多くなると思います。
また、私はこの経験を通して、奉仕の心を育てられる人に
なりたいと強く思うようになりました。そのためにはまず、
この活動を長く続けていこうと思います。そして、東京中へ、
日本中へ、いつかは世界へ、私たちの元気と笑顔を広げ、感
動を生み 出 し た い と 思 い ま す 。
「明日のTOKYO」を笑顔にするため、私はこの活動を
続けてい き ま す 。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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入
選
言われたのだ。
板橋区立西台中学校 二年
福井 友香
愚か者の知恵である』が口ぐせだった。そして、あの言葉を
んなとき、担任の先生に呼び出された。その先生は『諦めは
諦めは愚か者の
知恵である
「向いているんじゃないか。生徒会。福井に。
」
私の担任の国語の先生は、いかにも国語の教師らしく、倒
置法を使って私にそう言った。私はこの日から、この言葉が、
員や学級委員という存在がいた。私はこの大きな存在にどこ
ない。諦める理由を作るために。私の頭の片隅には、代表委
ていたのではなく、自分自身で〝思わせていた〟のかもしれ
とそう思っていた。あの言葉を言われるまでは。いや、思っ
かって、私はこういう仕事が向いているのだから。私はずっ
保 健 委 員 で い い。 表 に 出 な い、 地 味 な 仕 事 で い い。 な ぜ
を 信 じ て み た い と 思 っ た。「 変 わ り た い 」
、私は初めてそう
で も、 や っ て み た い と 思 っ た。 あ の 言 葉 を、 自 分 の 可 能 性
いる?〟―― 何を言っているのかと思った。うそだと思った。
た。あの言葉がこだましていた。――〝私が生徒会に向いて
い。
」とも言った。私はそれからずっとこのことを考えてい
考えて立候補をやめるのはまちがいだ。一週間考えてみなさ
が、生徒会に、向いている? ―― 先生は「落選することを
「 向 い て い る ん じ ゃ な い か。 生 徒 会。 福 井 に。
」 と。 ―― 私
か憧れをもちながらも、自分にはできないと逃げていたのだ。
思えた。私は立候補することを決意し、そのことを一番に先
脳裏に焼 き つ い て 離 れ な く な っ た 。
私はこん な 自 分 が 嫌 い だ っ た 。 大 嫌 い だ っ た 。
立会演説会で、皆の前に立って話したときは、声も手も足
生に伝えた。
らせが配られた。少し憧れた。興味もあった。でも、私には
も心までもが震えた。でも終わったときには、すがすがしい
中学一年生の二学期のある日、『生徒会役員選挙』のお知
どうせできないだろう。そう思って諦めようとしていた。そ
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
こんなに 素 晴 ら し い こ と な の か と 私 は 学 ん だ 。
気持ちでいっぱいになった。あぁ、自分を信じて頑張るって
転んでしまうかもしれない、大きな壁にぶつかるかもしれな
しかしたら、人に何かを言われるかもしれない、つまずいて
た諦めていたかもしれない。そう考えると、人が人に与える
言葉が私の背中を押した。もし先生の言葉がなかったら、ま
歩を踏み出したのだ。きっかけは、先生のあの言葉。先生の
て言いたい。
「諦めは愚か者の知恵である」と。私はもう絶
後私の財産になると思う。そして最後に、先生の言葉を借り
自分のことを好きになれた。信じることができた。それは今
ぐせを思い出して、挑戦していきたい。私はあの頃とは違う。
い。でもそんなときは、先生の言葉を思い出して、先生の口
言葉は強いパワーをもっている、だからこそ、相手に軽々し
対に、諦めない。
そして私は生徒会役員に当選した。私は変わるための第一
く悪口を言ってはいけないし、困っていたら優しく声をかけ
てあげよ う 、 私 は そ う 思 っ た 。
私 は そ れ か ら さ ま ざ ま な こ と に 挑 戦 し は じ め た。 ボ ラ ン
ティア活動に参加して、地域の方にお礼を言われてうれしく
なったり、運動会実行委員になって、皆をまとめることが難
しく、どうすればよいか考えたり……。挑戦をして、うまく
い っ た こ と も、 怒 ら れ た こ と も、 誉 め ら れ た こ と も、 悔 し
かったこともたくさんあった。でも私は、「挑戦した」
「諦め
なかった」「頑張った」ことが大事だと思う。結果より過程
が 大 事 だ。 も ち ろ ん 結 果 が 大 事 な と き も あ る。 そ の と き は
たとえ結果が失敗に終わっても、今回の過程を思い出して、
次、また挑戦すればいい。そんなことを先生から学んだ気が
する。
私はこれからも諦めずにいろいろなことに挑戦したい。も
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入
選
幸せのカタチ
私の祖父は、去年、全国で六千人しかかかることのない難
世田谷区立玉川中学校 二年
新井 香乃
手のために精一杯尽くすと、相手は精神的に安らぎ、苦しみ
などに血液が回らなくなって腐っていくことです。そのため
恐ろしいことは、血流が悪くなり、心臓から遠い手先や足先
たくさん風邪をひくなど、病気をこじらせます。さらに最も
した。きっと、祖父が病気に勝とうと頑張っていたのは、楽
公園でもよく一緒に遊んで、池の鯉にパンをあげたりもしま
上で、ゲームをしたり、ビデオを見たりしました。それから、
祖父はパソコンが好きで、私が小さい頃は、祖父のひざの
を分かち合えるのだなぁ、と感じました。
祖父は、手の指とひざ下を切断しました。私は神様はなぜ、
しかった時代に少しでも戻りたいという気持ちがあったから
病になりました。その病気は、体を治す機能が働かなくなり、
おじいちゃんにこんなにも苦しい思いをさせたのかと、今で
ではないかと思います。体力的にも精神的にも辛かったと思
祖母の支えと祖父の頑張りがつながって、強いきずなのよ
も思うのです。いつ、どんな時に病気にかかって、どれだけ
このような中、祖父が辛いことを乗り越えられたのは、祖
うなものが生まれたのではないでしょうか。私は、二人を見
いますが、それを乗り越えようとするだけでもすごいことな
母の支えがあったからだと思います。老人が老人を介護する
て、
「幸せなことってなんだろう。
」と考えました。そんな時、
辛い思いをするのかが分からないことが、とても恐ろしいと
ことはほんとうに難しいことだと思います。けれど祖母は、
祖父は言いました。
のだと思います。
少しでも祖父を気分よくさせてあげたいという一心で、よく
「最後の一杯はビールが飲みたいなぁ。
」
感じまし た 。
頑張っていたと思います。私は、そんな祖母を見ながら、相
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
と。私はこの時思いました。「当たり前のことが幸せなこと
なんだ。」と。ビールを飲める。ゆっくり睡眠をとれる。食
事ができる。お風呂に入れる。こんな当たり前のことでもそ
れ が 幸 せ で、 そ の 幸 せ を 決 し て 無 駄 に 過 ご し て は な ら な い
なぁと私は思いました。私たちが言う「当たり前」は、
「幸
せ」という言葉に置き換えられるのではないかと思います。
これからも、たくさんの当たり前なことがあると思います。
それは一つ一つが幸せなことだということを忘れないように
したいです。これは、祖父が残してくれた最後のメッセージ
です。
残念ながら、今年の夏、祖父は亡くなりました。生まれて
初めてお葬式にも参加しました。次々と祖父との思い出がよ
みがえり、涙が止まりませんでした。祖父と過ごした時間が
かけがえのないものだと改めて気づかされました。どんなに
家族とケンカして怒られてきらいになっても家族はいちばん
大切な存在だということを頭に入れておかなければならない
と思いま し た 。
私たちが幸せに暮らしていけるように、祖父は見守ってく
れているはずです。私たちもそれに応えられるように幸せの
カタチを 作 っ て い き た い で す 。
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優しい人
八王子市立松が谷中学校 三年
「ううん、わたしが好きでやってるだけだよ。
」
中嶋 菜帆
わたし の 友 達 に 、 優 し い 人 が い る 。
他 に も、 K に 優 し く さ れ た と い う エ ピ ソ ー ド を い く つ も
と言うのだった。
も気が利いて、それに、頼みごとをしても嫌な顔一つしない
知っている。Kは誰に対しても優しかったので、彼女を悪く
その友達、Kは誰もが認める優しい人だった。彼女はとて
できいてくれるような人だった。恩着せがましいようなこと
言う人はいなかった。
す る こ と は 相 手 の た め に も 自 分 の た め に も な る っ て、 私 は
「本当に、わたしが好きでやってるだけだよ。誰かに優しく
すると、Kは、こう言った。
てみた。
Kはそれを好んでやっているのか。わたしはKに、そう尋ね
彼女はあんなにも優しく、気が利くのか。そして、どうして
わたしは、彼女の優しさの秘密を知りたいと思った。なぜ
も一切言 わ ず 、 か わ り に 、
「わたしが好きでやってるだけだから。」
と言って に こ り と 微 笑 ん だ 。
こんなことがあった。学校の教室でわたしはKやその他の
友達たちと一緒にいた。喉がかわいたのでわたしが水筒のお
茶を飲もうとしたその時、クラスメートとぶつかって、お茶
をこぼし て し ま っ た 。
わたしはあわてて水筒のふたを閉じ、それを机に置くと、
その言葉は、わたしを大きく変えた。
思っているから」
取ってきてくれたのである。わたしがありがとうとお礼を言
人に優しくするのは、相手のためにも自分のためにもなる。
次の瞬間にはぞうきんが差し出されていた。もちろん、Kが
うと、K は い つ も の 笑 顔 で 、
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
それに、わたしにも、優しくした相手にお礼を言われて嬉し
確かにそうだ。Kは周りの人に優しいがゆえに好かれている。
いる。それは難しいことではあるのだが、気を配った行動に
ンをしっかりと見つけて行動することを目標として生活して
わたしは今、周りよく見ることを意識し、皆の発するサイ
わたしの笑顔とKの笑顔が重なるような気がした。
「わたしが好きでやってるだけだよ。
」
そして、お礼を言われたら、わたしは決まってこう返す。
たなと思えた。
対し「ありがとう」の一言があるだけで、がんばってよかっ
く思った こ と が あ っ た 。
わたしは、周りの人に優しくし、気の利く行動をしようと
意識するようになった。まずは小さなことからと思い、学級
文庫の整頓をしてみる。すると、近くにいる人に、
「偉いね」
と言われた。わたしは、自然と頬がゆるんでしまうのを感じ、
思わず、
「わたしが 好 き で や っ て る だ け だ よ 」
と言った 。
それからもわたしは周りに気を配り続けた。気が利くよう
な行動をとろうと意識をすることによって、自分が周りをよ
く見るようになったことがわかった。そして、今までの自分
はあまり周りを見ていなかったのだと気がついた。
皆は、あらゆるサインを発していた。ある生徒は扇風機の
風が当たって腕をさすり、またある生徒は手ぐしでせっせと
髪をとかした。わたしは、Kにはこれが見えていたのだな、
と思った。皆がいつも発していたサインをKはしっかりと捉
えることができたから、あのような気の利いた行動ができる。
わたしと K の 違 い は そ こ に あ っ た の だ 。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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入
選
と涙なんか気にせず言い続けた。そうしたら、弱り切った祖
稲城市立稲城第六中学校 三年
私には幼き日から憧れてきた夢がある。それは「バレリー
父のどこにそんな力があったのか分からない。けれど、祖父
約束
ナ」という決して簡単ではない道。三歳からバレエを習い続
は確実に私の手を握り返したのだった。そして、何と言いた
澁谷 玲奈
け、小さい頃からバレリーナになりたいと夢を抱いてきた。
そ れ か ら だ っ た。 私 が 本 気 で バ レ リ ー ナ を 目 指 す よ う に
かったのかは分からなかったけれど、口をパクパクさせて私
せみの鳴き声が病室の中で響き渡っていて蒸し暑い日だっ
なったのは。祖父の気持ちが私を大きく変えた。それから半
しかし、ほんとうにそう確信したのは去年の夏のことだった。
た。母と祖母が医師に呼ばれていた。それで何となく嫌な予
年後のバレエのコンクールに向けて必死に練習に励んだ。私
に伝えようとしていた。言葉は通じなかったけれど、最後の
感がして一日中そわそわしていたのを今でも昨日のことのよ
は決して脚がきれいなわけでもなくバレエ向きの身体ではな
去年の夏、祖父が他界した。私が知らされた時にはもう余
うに覚えている。病室にオレンジ色の光が差しこんでいたか
い。けれど、バレエに対する気持ちは誰にも負けない。そん
力をふりしぼって握り返してくれた祖父の手は誰よりも力強
ら夕方だったと思う。急に祖父の呼吸が荒くなり看護師の人
な 気 持 ち で 迎 え た 本 番 前、 あ の 日 と 同 じ よ う に 手 を 力 強 く
命 二 ヵ 月 で、 驚 く ほ ど や せ て 会 話 も ま ま な ら な い 状 態 だ っ
が「手を握ってあげて。応答はできないけどちゃんと分かる
握って舞台に出た。その瞬間、私はやっぱりバレエが好きだ
く私に勇気をくれたのだった。
から。」と言った。私はその弱々しい手を力強く握った。
「お
なと思えた。踊ることが楽しくて祖父のように私を支えてく
た。 そ ん な 祖 父 と 最 後 に 交 わ し た 約 束 が あ っ た。 あ の 日 は
じいちゃん分かる?私、バレエ頑張るから見守っていて。
」
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
れる人もいて、私はやっぱりバレリーナになりたいと改めて
思った。努力は結果につながった。史上最高の四位を頂ける
ことができた。このことを誰よりも祖父に伝えたかった。だ
から、私はまた手を強く握って祖父に向かって感謝の思いを
伝えた。
あれから約一年が経とうとしている。私はもちろん今もバ
レリーナを目指して、日々練習に励んでいる。厳しい練習や
指導で時には辛くて涙を流すこともあるけれど、あの日のこ
とを思い出せば何でも乗り越えられる。そして勇気をもらえ
る。いつでも私のことを応援してくれていた祖父のことだか
ら、今でも空から私のことを見守ってくれていると思う。
だからこそ、私はこれからもずっとバレリーナを目指し、
いつかは祖父に笑って「約束守ったよ。」と言いたい。辛い
時には、あの力強く握ってくれた手を思い出して、一歩ずつ
夢への道 を 歩 ん で い き た い 。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
30
入
選
先生の価値観
鷹南学園 三鷹市立第五中学校 二年
内田 薫菜瑛
た。私に限らず、大体の人がそうだと思います。しかし、勉
机の上にあるお茶を指さして、こんな話をしてくれました。
と、尋ねました。すると先生は困ったような顔で笑いながら、
「なぜ勉強をしなくてはいけないのですか。
」
強をしなくてはならない理由とは何でしょうか。偏差値の高
「 も し や っ と 言 葉 を 話 せ る よ う に な っ た 二 歳 の 子 に、 こ れ
私は小さい頃から、勉強は大切だと言われて育ってきまし
い高校に進学するためでしょうか。収入の安定している仕事
のコップに入ったお茶、とかね。これは、国語を勉強してき
は 何 か、 と 聞 い た ら、 た だ お 茶 と し か 答 え ら れ な い だ ろ う
そんなときに、両親の勧めで家庭教師に来てもらうことに
た人だからこそ出せる表現だよね。一五〇円で買った五〇〇
に就くためでしょうか。私は、これらを叶えても幸せになれ
なりました。家で決まった時間に勉強するということはあま
ミリリットルのペットボトルに半分入ったお茶、これは算数
ね。でももし中学生に同じことを聞いたら、いろいろな表現
り気乗りしませんでしたが、先生はとてもおもしろく話しや
や数学。マグネシウムやナトリウムなどの鉱物が入ったお茶、
る保証はないと思っていたので、勉強する意義を感じること
すかったので、すぐに仲良くなりました。先生は授業の中で
これは理科。アルプス山脈で採れた水と中国の茶葉でつくり、
の仕方で答えることができると思う。例えば、透明なガラス
いろいろな話をしてくれました。その中のある話によって、
日本に輸入されたお茶、これは社会。勉強することによって、
ができず に い ま し た 。
私の勉強に対する考え方が大きく変わったことがあったので
ただお茶ではなく、いろいろな表現ができるようになったよ
ね。こんなふうに、勉強というのは物の表現の仕方を広げ、
す。
ある日の私は、特に勉強へのやる気が起きず、先生に、
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
あなたの考え方や見方を自由にするためのものなんだよ。
」
話を聞いて、私はとても驚きました。しなければ不幸にな
る、しなければ社会についていけなくなる、というわけでは
なく、することによって幸せになれる、そんな視点で勉強に
ついて考えたことはありませんでした。私の友人に、他の人
と視点が違い、効率的な考え方ができる人がいますが、その
人はよく勉強をしています。私は、その人の独特な考え方が
どこから来るものなのかいつも不思議に思っていましたが、
長年勉強してきたことのおかげなのかもしれないと、納得し
ました。
ま た、 私 は 自 分 自 身 が そ こ ま で 勉 強 を し て い た 自 覚 は な
かったのですが、この話を聞いて、自分が思ったよりたくさ
んのことを学んできていたことに気付き、少しうれしくも思
いました 。
私は、先生とのこの関わりを通して、勉強に対する考え方
を変えました。勉強することによって将来の選択の幅が広が
るということは間違いないので、今までの勉強に対する考え
方を捨てたわけではありません。しかし、私はこれに加えて、
新たな理由を見つけました。それは、物事への考え方を豊か
にすることです。勉強をしていろいろな知識を吸収すること
によって、偏見や差別やまわりの評判にふりまわされず、自
分の頭で物事を考えられるようになろうと思います。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
32
入
選
「人間万事塞翁が馬」
世田谷区立砧中学校 一年
百々 颯馬
の桃浦は、どこを見ても何も無く、しかし、海はとても穏や
それから五ヵ月後、家族とお墓参りを兼ねて訪れた震災後
は、宮城県石巻市の東側に位置する牡鹿半島の小さな集落で、
かで、海だけを見ているとあの震災が信じられないような気
僕の思い出の場所の一つに桃浦という所があります。桃浦
「牡蠣」の養殖が盛んなことでも有名です。ここは、僕の祖
翌年、自然豊かな桃浦の海を、そして桃浦の牡蠣を蘇らせ
がしました。
緑豊かな山に囲まれたとても美しい浜があります。僕は小さ
るため、牡蠣養殖漁業者の方々が立ち上がり、再出発したと
母が生まれ育った地で、きれいなエメラルドグリーンの海と、
な頃によく遊びに行きました。冬の牡蠣のシーズンには、親
いうことをテレビのニュースで知りました。
その頃、僕は小学五年生になっていました。冬休み、祖母
戚が新鮮な牡蠣をたくさん送ってくれたこともあり、僕はこ
の桃浦の 海 と 牡 蠣 が 大 好 き で し た 。
てしまったのです。桃浦は大津波に飲み込まれ、壊滅的な被
早速、桃浦の牡蠣と、他の漁場で採れた牡蠣を二つ購入し、
牡蠣を見つけたのです。飛び上がるほどうれしく思いました。
の家に泊まりに行っていた時、立ち寄ったスーパーで桃浦の
害が出てしまいました。幸い親戚は助かりましたが、ほとん
食卓に並べて家族で食べ比べをしました。すると、家族全員
しかし、二〇一一年三月十一日、あの東日本大震災が起き
どの家は無くなり、牡蠣の養殖施設や船等すべてを失ってし
が桃浦の牡蠣を当てることができたのです。僕もすぐに分か
したのを覚えています。調べてみると、牡鹿半島の広大な自
りました。この時僕は、桃浦の牡蠣のおいしさに心から感動
まったの で す 。
小学三年生だった僕は、大好きな桃浦と牡蠣が無くなって
しまった こ と を 、 心 の 底 か ら 悲 し み ま し た 。
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
す。昨年、大山さんの会社が復興庁が主催する「復興ビジネ
出しました。大山さんはお忙しい中、わざわざ返事をくださ
然と北上川の流れが、この深い味を作っているのだと知りま
三学期になり、授業で俳句を詠む機会がありました。どの
います。いちばん心に残ったのは、あの震災を乗り越えた大
スコンテスト」で優秀賞に輝いた時にも、うれしくて手紙を
ような句を詠もうか考えていた時、ふと思い付いたのがこの
山さんの座右の銘が、
「塞翁が馬」だと知ったことです。僕
した。
桃浦の牡蠣のことだったのです。祖母の家で食べたあの味が
は、この言葉がこれまでの自分にも当てはまることに気付き
なになれるように努力したいと思います。
桃浦の牡蠣が繋いでくれたこのご縁に感謝し、立派なおと
「人間万事塞翁が馬」
ました。この日から僕にも座右の銘ができたのです。
忘れられ な か っ た か ら で す 。 そ し て 、
「味くらべ やっぱり牡蠣は 桃浦」
という句を詠みました。その句が、クラスの俳句大会で入選
したので し た 。
僕は、桃浦の牡蠣を蘇らせてくれた「桃浦かき生産者合同
会社」の方々に、どうしてもお礼が言いたくて手紙を出しま
した。すると、しばらくしたある日のこと、僕の大好きな牡
蠣が桃浦から宅急便で届いたのです。中には手紙が添えてあ
りました。会社の代表である大山勝幸さんからでした。手紙
には、震災で集落が無くなりそうになったことや、日本のた
くさんの人たちから応援をもらって頑張っていることが書い
てありま し た 。 そ し て 最 後 に 、
「いっぱい勉強して新しい日本を創るようなおとなになって
ください。」
と、メッ セ ー ジ が 綴 ら れ て い た の で す 。
それから僕は、大山さんに手紙を出させていただいていま
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
34
入
選
「ミス・ピルブラウ」
渋谷区立原宿外苑中学校 一年
で、学校生活になじむことができ、友達もたくさん作ること
大西 悠
私が今まで創ってきた人生で、心が動かされた人との出会
ができるようになりました。全てはミス・ピルブラウのおか
ミス・ピルブラウは私のあこがれにもなりました。優しい
いと関わりはたくさんあります。その中でも、私が幼稚園の
七才まで父の仕事の関係でオランダに住んでいました。オラ
ところ、英語を教えてくれるところ、そしてピアノが上手な
げなのです。
ンダではオランダ語を話しますが、私が通っていたのはAI
ところなどです。私はミス・ピルブラウにピアノも教わるこ
と き の で き ご と が 特 に 印 象 に 残 っ て い ま す。 私 は 二 才 か ら
SRというインターナショナルスクールでした。
した。毎日、休み時間や放課後に時間をつくって、英語で話
ていたミス・ピルブラウが私のために個別特訓をしてくれま
たのです。そこで、私のキンダーガーデンのときの担任をし
が、話すことはできませんでした。単語をあまり知らなかっ
うになりたいと思っていたので、その分、先生も期待に応え
にだけ特訓をしてくれていたからです。私は英語を話せるよ
このできごとが私の印象に強く残っているのは、先生が私
のような先生になることが当時の私の将来の夢になりました。
ますます先生にあこがれました。そして、ミス・ピルブラウ
とになりました。先生は難しくて長い曲を上手に弾けたので、
す練習を一緒にしてくれました。まだ幼い私があきないよう
ようと一生懸命教えてくれたのです。その結果、私は英語で
私は英語を聞いて理解することと書くことはできました
に、ゲームや本を使って教えてくれました。そうやっていく
話すことができるようになりました。
これから日本と外国との交流もますます増えていくと思い
うちに、私は相手に伝えたいことを英語で伝えられるように
なったのです。その結果、私はインターナショナルスクール
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
ます。国際化社会の中で英語が話せることは有利なことなの
で、私は 先 生 に と て も 感 謝 し て い ま す 。
私がミス・ピルブラウから学んだことは、人のために尽く
すことのすばらしさです。誰かのために一生懸命になること
は良いことだと思います。それは相手も自分もうれしい気持
ちになれるからです。人のために何かをすることで、その人
も自分も成長することができると思うからです。そしてきっ
と、その人も同じように別の人のためにまた何かをしてあげ
るようになると思います。こうして人と人との関わりがどん
どん広がって、お互いを助け合い、支え合う良い社会ができ
るのだと 思 い ま す 。
日本という国を超え、さまざまな国の人々をも巻き込み、
豊かな社会を創ることにつながるのだと思います。
この経験を通して、私は将来、外交官になりたいと思うよ
うになりました。外交官とは、外務省や海外の大使館などに
勤務し、外国との交渉や交流を行う仕事です。国際化が進み、
世界各国との関わりはますます重要なものとなっています。
外交官は、外国との交渉や連携といった関わり合いを通じて、
日本の平和と国民の安全を守るために働いています。人のた
めに何かをすることで、より良い社会を創ることを学んだ私
は、将来、外交官という仕事を通じて、日本と国際社会のた
めになる仕事をしたいと思うようになりました。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
36
入
選
偽り
世田谷区立砧中学校 二年
小泉 颯紀
りつくろってはだめなのか。そういうことを考えることが最
そう言って育てたりする。でも、ほんとうにうそや偽りでと
「うそつきは泥棒の始まり。」
は、大人 が
い。裏をつく。一般的に良い言葉ではない。小さい子どもに
だろうが人を守るためだろうが、うそという事実は変わらな
に。理由はさまざまだ。けど、うそはうそだ。人を欺くため
今でも一言一句もらさず覚えている。
師さんと、少し話すことができた。僕はあの人たちの言葉は、
ことができなかった。その後、父の仕事の関係で、地元の漁
目で見た。形容し難い胸の痛みだった。僕は少しの間、動く
かったが、被災地に行くことになった。僕は被災地を自分の
う 思 っ た。 僕 は 両 親 に、 行 き た い と 頼 ん だ。 少 し 時 間 は か
はなかった。僕はなぜか、自分の目で見なきゃいけない、そ
「行きたい」という感情が湧いた。決っして冷やかしなどで
の経緯などが放送された。衝撃を受けた。僕はテレビを見て、
近増えてきた。多分きっかけは、かつてないほど大きな災害、
「この海はな、今少しだけ汚ねえけどな、絶対もとに戻って
う そ を つ く。 人 を 欺 く た め に、 時 と し て、 人 を 守 る た め
東日本大 震 災 か ら だ 。
海底を震源とする東日本大震災が発生した。地震の規模はマ
キロメートル、仙台市の東方沖七〇キロメートルの太平洋の
だ祈っていた。それでも、みんなには笑顔をふりまいていた。
に。でも、その目の奥に光が無かった。漁師さんは、ただた
こ ん な ふ う に 話 し て く れ た。 ま る で 確 信 し て い る か の よ う
うめえ魚を食べさせてくれんだよ。この海は裏切らねえ。
」
グニチュード九・〇で、発生時点において日本周辺における
僕は、この漁師さんのうそで、勇気づけられた。偽りの笑顔
二〇一一年三月十一日。宮城県牡鹿半島の東南東沖一三〇
観測史上最大の地震だった。テレビでは連日放送され、震災
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
だったけれど、人のためと書いて偽りと読むように、きっと
漁師さんのうそも、人のためのものだった。僕だけじゃない。
周りの人たちも、みんな勇気づけられていた。帰る時に、父
が漁師さんに何かを言われていた。その内容は、僕たちにも
父から知 ら さ れ た 。
「諦めなければ絶対叶うなんてことはありえない。努力が実
らないこともある。でも、不幸を嘆いて逃げ出すのは、最後
まで努力してからでも遅くない。だから、まだ諦めるわけに
は行かねえんだ。」
そう言っていたそうだ。ほんとうにドラマみたいな一日だっ
た。忘れられない一日だった。僕はこの体験を通して、心に
決めていることがある。それは、「人のためになるなら、ど
んな苦しい時でも、笑っていよう。」そう思った。人と関わ
るということの中で、ほんとうに大切なことを僕は教えても
らった。多分僕は、あの漁師さんのことを、一生忘れはしな
いだろう。そして、僕に与えられた使命は、いつまでもこの
ことを忘 れ な い こ と だ と 、 僕 は 思 う 。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
38
入
選
もう後悔したくない
世田谷区立玉川中学校 一年
兼益 夏見
生懸命話そうともしてくれました。祖父のがんの進行を知っ
化していく祖父を見ているうちに「このままでは助からない
私が幼い頃、両親が共働きだったこともあり、よく祖父母
ている私から見るとその姿はとても強く見えました。こんな
私の祖父は一昨年にがんで亡くなりました。その祖父は私
の家へ行き、遊んでいました。優しくてたくさんのことを教
大変なときでも祖父は体を張って私に大切なことを教えてく
か も し れ な い な。
」と思うようになっていました。そんな苦
えてくれる祖父母が、私は大好きでした。特に祖父は、いつ
れたのです。それから、祖父は病院の入退院をくり返し、手
にさまざまなことを教えてくれました。その一つ一つが、今
も私のことを気にかけてくれて、私が泣いているときは背中
術を何度も行って、見るからに苦しそうな、話すこともでき
しい状態でも、祖父は私や妹が来ると笑って迎えてくれて一
をさすってくれたり、大好きなきゅうりのぬかづけを食べさ
ないような体になってしまいました。でも、けっして病から
の私を創 っ て い ま す 。
せ て く れ た り し て、 私 が う れ し い と き は、 体 を も ち 上 げ て
逃げないその姿勢は、いつも私に勇気や強さをくれました。
年を重ねるにつれ、私も日々の勉強や習いごとがいそがし
いっしょに喜んでくれました。その相手を想う心遣いは、私
にはすご く キ ラ キ ラ し て 見 え ま し た 。
祖父が亡くなる三年前で、私は七歳でした。その当時は、こ
「じいじ、久しぶり。
」
した。そして久々にお見舞に行ったとき、
くなり、祖父のお見舞にもなかなか行けなくなってしまいま
との重大さが全くと言っていいほど分かっておらず、すぐに
と私が話しかけた後、祖父がやや困り顔で、
その祖父ががんになったのが分かったのは今から六年前、
治ると思っていました。しかし、月日がたつにつれ容体が悪
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
「どなたですか。」
と苦しそうに言ったとき、目の前が一瞬真っ暗になった気が
しました。このとき、祖父は認知症を発症していたのです。
あのじいじがまさか、という気持ちでいっぱいで、そんな姿
を見たくなくて今までよりさらに病院に行く回数も減りまし
た。そしてある日、突然、祖父が亡くなりました。あまりに
急すぎてぼう然としていましたが、後から悲しさと後悔がお
そってきて涙が止まりませんでした。生きていくうえで大切
なことをたくさん教えてくれたのに何も恩返しができなかっ
た、 忘 れ ら れ る の が こ わ く て 、 会 っ て 話 が た く さ ん で き な
かった、伝えたいこと全部伝えられなかったと、今思い返し
ても後悔ばかりが無限に出てきます。そして、もう人との関
わりでこんな悔しい思いはしたくないと強く思いました。
このできごとは私を大きく変えてくれました。大切な人ほ
ど、失って初めてこの人は私にとってかけがえのない人だと
気付くものだということ、たとえ話せなくても行動が全てを
教えてくれること、そして何より大切なのは、誰かをはげま
したり助けたりと大切にすることだということなど、たくさ
んのことを祖父は身をもって教えてくれました。この教えて
もらったことを胸に刻み、前を向いて進んでいくことが、私
が祖父にできる恩返しだと思います。これから、何があって
も、誰かを大切に思える優しくて強い心をもってたくさんの
ことと真っすぐ向き合っていきたいと思います。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
40
入
選
人と人とをつなぐもの
武蔵野市立第二中学校 三年
小井谷 雪音
そんなある日、私は誕生日を迎えた。家族はパーティーを
開き、盛大に祝ってくれた。その夜、私が生まれた時刻に母
私の気持ちが変わるきっかけとなったのは、ある一通の手
紙だった。短い文章ではあったが、私はこの手紙に励まされ、
が手紙をくれた。中にはこんなことが書かれていた。
「みんな、あなたのことを大切に思っているよ。頑張り屋
支えられ て き た 。
私には、悩みごとが二つあった。一つは、部活動だ。私は
のあなたはお母さんの自慢です。何かあったらすぐ言ってね。
私は涙が止まらなかった。まるで悩みごとを知っているか
キャプテンとして活動していたが、思うようにチームをまと
やっていけるのか、考えても出口は見つからない。日に日に
のような手紙だったからだ。母がそんなことを思っているな
みんながついているよ。
」
部 活 に 行 く の が 嫌 に な っ て い き、 人 に 会 う こ と さ え も 嫌 に
んて、考えもしなかった。この日から私は、何事にも気持ち
めることができなかった。どうしたらチームメイトとうまく
なった。
い。 中 学 三 年 生 に な っ て 、 宿 題 や 予 習 ・ 復 習 の 量 が 格 段 と
動のことを母に言うと、
「チームスポーツは大変だよね。一
そのために、まずは悩みを相談することから始めた。部活
を切り替えて取り組もうと心に決めた。
多 く な っ た。 す る と、 自 分 の 部 屋 で 勉 強 す る 時 間 が 長 く な
人で抱え込まずに、一度顧問の先生に相談してみたら。
」と
もう一つは、勉強だ。とはいえ、勉強が嫌いなわけではな
り、家族から孤立していると感じるようになった。
「何で私
提案してくれた。その言葉通り、私が先生に相談すると、先
生はミーティングを開いてくださり、チーム全員で話し合う
だけ」と自分にいら立ち、親に反抗してしまうこともあった。
この二つの悩みが渦を巻き、誰にも言えずにいた。
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第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
ことができた。そして、引退するまで全力で部活動に打ち込
めた。勉強面では、「孤立している」というのは私の勘違い
で、家族に努力を認めてもらえていることを知ったので、今
よりもっ と 頑 張 ろ う と い う 気 持 ち が 生 ま れ た 。
今 の 世 の 中 は、 ほ と ん ど の 人 が 携 帯 電 話 を 持 っ て い て、
メールで相手とやりとりすることが多い。しかし、私は、今、
この時代だからこそ手紙の尊さを知ることができた。手紙は、
一文字一文字が心を込めて書かれている。その人にしか書け
な い 文 字 や 文 が あ る。 だ か ら、 温 か な 気 持 ち が よ く 伝 わ っ
て く る。 ま た、 書 く 方 は 相 手 を 思 っ て 時 間 を か け て 手 紙 を
書 く。 そ れ は 相 手 を 目 の 前 に 感 じ て い る 貴 重 な 時 間 で あ る。
このように、人と人とをつなぐことは、手紙にしかできない。
私の母も、私を思って時間をかけて手紙を書いてくれたこと
だろう。だから、私は母の愛情と温もりを心から感じ、新た
な決意を す る こ と が で き た の だ 。
今後、高校生や社会人となるうちに、人との関わりはます
ます増えていくだろう。そんな時、メールで話を済ませるの
ではなく、心を込めて手紙を書くことで、温かい人間関係が
築けるの で は な い だ ろ う か 。
第24回“明日のTOKYO”作文コンクール 優秀作品集
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