DVD版 後藤新平書簡集 - 公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所

『DVD版
『DVD版 後藤新平書簡集』
後藤新平書簡集』総目次 総目次 (奥州私立後藤新平記念館所蔵・編集、中京大学社会科学研究所台湾史研究センター編集協力、雄松堂書店発売)
区分
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
氏名
相生由太郎
愛澤寧堅
愛澤寧堅
愛澤寧堅
愛澤寧堅
青木信光
青木信光
青山胤通
赤池濃
赤石定蔵
赤石定蔵
阿川光裕
阿川光裕
秋元俊吉
秋山定輔
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
愛久澤直哉
浅井竹秀
浅野総一郎
浅野総一郎
浅野総一郎
浅羽靖
朝比奈知泉
朝比奈知泉
かな
あいおいよしたろう
あいざわやすかた
あいざわやすかた
あいざわやすかた
あいざわやすかた
あおきのぶみつ
あおきのぶみつ
あおやまたねみち
あかいけあつし
あかいしていぞう
あかいしていぞう
あがわみつひろ
あがわみつひろ
あきもとしゅんきち
あきやまていすけ
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あくざわなおや
あさいたけひで
あさのそういちろう
あさのそういちろう
あさのそういちろう
あさばやすし
あさひなちせん
(かなんせい)
あさひなちせん
(かなんせい)
日付
(大正4年)8月7日
(大正7年)4月9日
(大正7年)4月24日
(大正7年)7月7日
(大正15年)4月9日
(昭和3年)9月18日
(昭和3年)10月9日
(明治26年)10月30日
2010/3/6
(明治39年)1月30日
(明治40年)9月16日
(明治6年)1月24日
(明治20年)11月16日
2010/3/19
(大正12年)10月30日
(明治33年)6月23日
(明治42年)9月8日
1909/9/23
(明治44年)9月15日
(明治45年)2月14日
(明治45年)3月22日
1912/8/26
(大正1年)10月1日
(大正11年)12月15日
(大正14年)11月25日
(昭和1年)12月27日
(昭和2年)1月19日
(昭和2年)11月22日
2010/1/27
2010/11/29
2010/5/11
(大正10年)11月16日
1922/9/27
1927/7/12
(大正2年10月3日)
(明治34年)8月22日
1921/7/8
形態
内容
封筒 巻紙墨筆
後藤の入閣を切望すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤夫人の逝去について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の外務大臣就任に対する祝辞。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
自身の病気と、東京市政について新聞上における政界の動向など。
封筒 便箋墨筆
委任状並びに投票の件。
封筒 巻紙墨筆
戊辰倶楽部創立趣旨に後藤が賛成してくれたことへの謝辞。
封筒 巻紙墨筆
衛生試験吏技手に富永を採用して欲しいとのお願い。
封筒 巻紙墨筆 謄写版 相撲協会役員・横綱・大関・力士会代表者・公平会員等の協議により、別紙改革案の決定をもって角界の紛
印刷物
議が解決したこと。
封筒 巻紙墨筆
大島は才気に任せて妙なことをやる癖があるので、先日の記事も無意識であったのかもしれないこと。
封筒 罫紙
「台湾日日新報」創刊以来交付した補助金の収支決算について。
封筒
新年の挨拶と、後藤の近況について。
封筒
福岡県人木下竜を衛生局へ採用して欲しいとのお願い。
封筒 巻紙墨筆
画家倉光松園の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
井上博士の件。
封筒 巻紙墨筆
外務省にて南清各事業の事情について報告が不完全であったため疎通していないものがあったことと、鉄路
の将来と脳務交渉等について。
封筒 巻紙墨筆
南清における潮汕鉄道の利権について、台湾開拓のことなど。
電報カーボン複写 電報 南清における潮汕鉄道の利権について。
訳文墨筆
封筒 巻紙墨筆
張京堂の死去、潮汕鉄道の資金、広東省補助銀行設立の件等について。
封筒 巻紙墨筆
辛亥革命勃発につき、南清の在留邦人の生命財産の保護について。
封筒 巻紙墨筆
潮汕鉄道の従業員保護と、その利権について。
封筒 便箋ペン筆
台湾総督府医学校卒業生をマレー半島及びジョホール国法定医師に採用について。
封筒 巻紙墨筆 簡章 厦門における樟脳事業と鉄道事業の完成について、潮汕鉄道出資金について、台湾の製脳事業についてな
ど。
封筒 巻紙墨筆
辛亥革命派の内部分裂の状況、潮汕鉄道の件、革命政府による外国人の保護について。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
支那汕頭産のポンカンを鉄道便にて送付したこと。
封筒 巻紙墨筆
仰せの一件については微力を尽くしたが、債権者よりの故障も重なり、ひとまず手を引くこと。
封筒 巻紙墨筆
訪露の際における資金調達については、半額は調達できたが残りは不可能であること。
封筒 半紙墨筆
清国福建における樟脳について、潮汕鉄道に関する経済的国交的意見、ジョホール国ベンゲランゴム林植林
地の計画についてなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤勝造へ用立てた13万円の残額について。
封筒 巻紙墨筆
今朝に書面についての内容を首相へ相談した件について。
封筒 巻紙墨筆 図面 京浜築港運河埋立計画について。
封筒 巻紙墨筆 タイプ 芝浦埋立工事について。
印刷物
巻紙墨筆
浅野造船所専用水面の件と、東京湾埋立会社錨地拡張の件について。
封筒 巻紙墨筆
北海道における治水事業について。
封筒 原稿用紙墨筆 台湾事業公債の募集と、伊藤の渡米について。
巻紙墨筆
後藤が市政に努力していることと思っていること。
1
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
朝比奈知泉
朝比奈知泉
朝比奈知泉
朝比奈知泉
珂南生 (朝比奈知
泉)
浅水又次郎
浅水又次郎
東武
安達謙蔵
安達峯一郎
安達峯一郎
安達峯一郎
安達峯一郎
阿部浩
阿部浩
阿部浩
阿部浩
天羽英二
荒井泰治
荒井泰治
荒井泰治
荒井泰治
荒井泰治
荒井泰治
荒井泰治
新井三佐子
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
新井三佐子 (みさ)
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
有松英義
あさひなちせん
2010/1/27
(かなんせい)
あさひなちせん
2010/5/10
(かなんせい)
あさひなちせん
2010/6/7
(かなんせい)
あさひなちせん
2010/6/26
(かなんせい)
あさひなちせん
(かなんせい)
あさみずまたじろう (明治35年)2月23日
あさみずまたじろう 2010/3/27
あずまたけし
(大正6年)10月12日
あだちけんぞう
2010/4/30
あだちみねいちろう (大正5年)10月24日
あだちみねいちろう (大正8年)6月25日
あだちみねいちろう (大正8年)
あだちみねいちろう (大正8年)6日
あべひろし
(明治45年)3月2日
あべひろし
(大正6年)2月24日
あべひろし
(大正6年)2月25日
あべひろし
(大正6年)2月26日
あもうえいじ
1926/1/31
あらいたいじ
1901/11/22
あらいたいじ
(明治41年)2月17日
あらいたいじ
(大正14年)10月23日
あらいたいじ
2010/3/28
あらいたいじ
2010/4/23
あらいたいじ
2010/8/27
あらいたいじ
2010/10/27
あらいみさこ (あ (大正12年)8月1日
らいみさ)
あらいみさこ (あ 1927/11/8
らいみさ)
ありまつひでよし
(明治44年)12月8日
ありまつひでよし
(大正7年)1月14日
ありまつひでよし
(大正9年)6月17日
ありまつひでよし
2010/9/28
ありまつひでよし
(大正9~13年)12月10日
ありまつひでよし
2010/1/25
ありまつひでよし
2010/1/25
ありまつひでよし
2010/3/8
ありまつひでよし
2010/3/14
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
レター用紙ペン筆
レター用紙ペン筆
レター用紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 電報
封筒 巻紙墨筆 電報
罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
台湾の蕃地にて医業に従事したいという志願者の紹介状。
近況報告。
4日付の後藤の問いに対する回答。
大磯翁と日向翁のことと、山田技手が阿片をトルコから総督府製薬所へ送付したこと。
児玉総督歓迎会の盛況、伊藤博文と首相との間柄、杉山のこと。
衆議院で付議されている台湾律令問題の状勢について。
民報と陸軍の関係、ロイテル電報と陸軍、「台湾日日新聞」の営業状態について。
来る10月22日開会の北海道会の形勢についてなど。
放送局合同計画の成案について。
内相重任のお祝いと、露国の本野氏よりココヴゾフ伯が後藤の近状を何度も問い合わせてきているとのことな
ど。
露国のココヴゾフ伯と往来している等の自身の近況報告。
ベルトローに面会の件について。
ベルギー外相イーマンス氏、在日本ベルギー公使デラ・ファイユ伯、フランス外務省政商務局長ベルトロー氏
の動向について。
紅葉館における会合への招待状。
安藤源次郎の紹介状。
大阪に出張中の人物についてと、大阪方面及び岡山の方は宣告発電督促中であることなど。
鳥取・大阪・神戸・新潟方面の情勢について。
日露協会学校の近況報告、満州における日露関係についてなど。
上京の下命をして欲しいことと、阿片再試験の結果報告。
樟脳販売について、三井の収入は1年で20万円は確実であること。
権利移転に関する件について。
山田耕三の推薦状。
高城耕三氏より題字の執筆願があったので、仙台市の伊藤幾三郎宛に郵送して欲しいこと。
満蒙探見記を編纂するため、題字と序文の依頼。
「仙台河北新報」編輯者大山長資の拝謁と就職の件についての願い。
三佐子は上州沢後温泉の医師福田宗禎の二女であること、後藤の松本来訪への御礼、松本一中教師の夫が
群馬県渋川中学へ転任したこと、息子の宏が松本高等学校に入学したことなど。
封筒 巻紙墨筆
福田家は零落してしまったが、高野長英の『ハルマ和解』だけは唯一の家宝として手許に置きたいので、後藤
の配慮を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
大連より到着すべき資料はまだ見ていないが、後藤が急いでいるようなので、愚見を提示すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤を攻撃する者が多いようなので、身辺に注意して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 便箋ペ ドイツの仮の帝国経済会議に関する情報を返上すること。
ン筆
封筒 巻紙墨筆
ドイツにおける経済会議し憲法の関係について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の東京市長就任は、市民の望みを後藤に託したものであること。
封筒 巻紙墨筆
昨年の発病の回顧と、御見舞いの御礼、朝鮮のリンゴを持参すること。
封筒 巻紙墨筆 便箋墨 漢詩文について。
筆
封筒 巻紙墨筆
笠松孝市の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
病気見舞い。
2
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
有松英義
有馬頼寧
有賀長雄
有賀長文
有賀長文
安東貞美
飯田宏作
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
飯野吉三郎
五百木良三
五百木良三
池田謙斎
池田宏
石川千代松
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
ありまつひでよし
ありまよりやす
あるがながお
あるがながふみ
あるがながふみ
あんどうさだみ
いいだこうさく
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いいのきちさぶろう
いおぎりょうぞう
いおぎりょうぞう
いけだけんさい
いけだひろし
いしかわちよまつ
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
2010/10/11
(大正)10月21日
(大正)11月17日
2010/6/10
2010/4/26
1923/3/1
(明治27年)4月13日
(大正7年)月14日
1922/8/2
1922/9/27
(大正12年)2月15日
1923/5/3
1923/9/5
1923/9/6
1923/9/11
1923/10/6
1923/12/12
1923/12/18
1925/4/22
1927/12/5
2010/3/25
2010/7/19
2010/8/19
2010/10/14
2010/12/12
27日
12日
(明治41年)7月23日
3日
(明治26年)5月16日
1919/2/25
明治23年3月15日
明治23年12月24日
(明治24年)3月25日
明治24年5月15日
(明治24年5月)
明治24年7月31日
明治24年8月6日
(明治24年)9月4日
封筒 巻紙墨筆
病気見舞いへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
全国水平社中央執行委員長南梅吉が後藤との面会を望んでいるので、自分が同行して参上すること。
封筒 罫紙墨筆
日支提携の可能性について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の外遊に際して、二八会の例会の日に送別会を開催する件について。
封筒 巻紙墨筆
少年団渡欧費用の援助について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の母親が逝去したことにたいする悔状。
葉書墨筆
相馬事件関係の新聞で取り纏めてある分を至急送って欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
対憲方途に着手し、昨日有松長官と坂本金弥氏を同伴して河野翁と会見したこと。
封筒 半紙墨筆
人生をして人生たらしむるに留意せしむるものに云々。
封筒 半紙墨筆
加藤首相等は毫も本件に疑いがないこと。
封筒 巻紙墨筆
ヨッフェ来日の意義について。
封筒 半紙墨筆
地方遊説は不急であることなど。
封筒 半紙墨筆 巻紙鉛 関東大震災後の人心の安定は、新内相の徳力であることなど。
筆
封筒 半紙墨筆
この際寸毫も他に犯されるようなことがないようにとのこと。
封筒 半紙墨筆
関東大震災による大畏縮を大復活させて禍を転じて福とし、帝都を世界の帝都とすることなど。
封筒 半紙墨筆
帝都復興院総裁の後藤の一挙手一投足は世人の注目を浴びていること。
封筒 半紙墨筆
臨時議会を代表している者を新聞が写していること。
封筒 半紙墨筆
政局の動向について。
封筒 半紙墨筆
各方面の疑迷を解決するのも一に自分の双肩にあることなど。
封筒 半紙墨筆 御守 天気晴朗であるのは欧露行の先行きを祝うものであること。
封筒 巻紙墨筆
本日参上したが後藤が不在であったので、理想実行の出発点はこの際伊勢神宮しかないと思い、ここより申し
上げること。
封筒 巻紙墨筆
瓢箪から駒が出るかもしれないこと。
封筒 巻紙墨筆
上意により万民を進むべき方向に進ませることは自重の上にも自重して行うことであるなど。
封筒 巻紙墨筆
大命を拝して伊勢参宮してくれた後藤に、歓迎の電報・電話が到着していることなど。
封筒 巻紙墨筆
久し振りに後藤の姿を見て満足であったことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤の後援会について。
封筒 巻紙墨筆
天下の人心の帰向は既に決していること。
封筒 巻紙墨筆
従前の事案につき重ねて依頼のこと。
封筒 巻紙墨筆
昨日の事をその筋に晤らかにしたところ云々。
封筒 半紙墨筆
本件については万障繰り合わせて来訪して欲しいこと。
封筒 便箋墨筆
済州島事業のために負債が嵩んでいること。
巻紙墨筆
教育者の加賀美氏の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
礼状。
封筒 巻紙墨筆
官制問題に関するメモを送付する旨。
封筒 タイプ印刷物 昨年の怪我の経過報告及び息子欣一がプリンストン在学のこと。
罫紙墨筆
清浦氏の洋行は多分4月出発となること、コッポ液に関すること、試験に関すること。
罫紙墨筆
ドイツ留学生の廃止の動きについて。
巻紙墨筆
清浦の洋行は5月に出発の予定、山県有朋の辞意の推察など。
罫紙墨筆
ロシア皇太子の遭難について、ドイツ留学中の研究費が不足しているので増額して欲しいこと。
罫紙墨筆
清浦奎吾が出発したことと、ドイツ留学中の後藤への帰国準備の通知。
罫紙墨筆
ドイツ留学中の後藤が経費の不足を訴えたにもかかわらず受入られなかったために憤慨して辞職を申し出た
のに対し、内地の状況を通報したもの。
罫紙墨筆
ドイツ留学中に官制改革が行われたこと、衛生局長長与専斎の辞職のこと、その後任を後藤にしたいが承知
して欲しいこと。
罫紙墨筆
長与の後任の衛生局長は、殆ど後藤に決定した旨通報。
3
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
明治24年9月23日
明治24年10月14日
(明治24年)
明治25年6月18日
(明治26年)7月2日
(明治26年11月17日)
明治27年8月22日
明治27年9月8日
(明治28年)1月18日
明治28年2月4日
(明治28年)3月14日
(明治28年)4月24日
(明治28年)5月5日
(明治28年)5月24日
(明治28年)6月13日
(明治28年)6月21日
(明治28年)6月23日
(明治28年)6月25日
(明治28年)7月26日
明治28年8月8日
(明治29年)9月7日
(明治30年)1月12日
明治30年9月20日
明治30年11月11日
1900/9/20
1901/3/4
1901/5/31
(明治34年)8月22日
1901/9/9
1902/1/25
1902/3/10
1902/3/15
1902/3/24
1903/1/12
1903/1/26
1903/2/11
1903/2/11
1903/2/13
1903/2/23
1903/3/17
1903/7/14
1903/8/16
封筒 罫紙墨筆
衛生局長となることを、ミュンヘン留学中の後藤に連絡。
罫紙墨筆
国内の衛生会の状況について。
罫紙墨筆
後藤が衛生局長などに提出した長文の意見書を受領したこと。
罫紙墨筆
後藤が帰朝後、赤十字社において第5回万国衛生会議の状況を陛下に報告したことなど。
巻紙墨筆
長谷川から衛生会脱会の申し出があったので、石黒がそのために懇談したこと。
封筒 名刺
後藤一蔵出生の賀詞。
封筒 罫紙墨筆
相馬事件で仮出獄中の後藤への慰問状。
封筒 罫紙墨筆
出征中の留守宅について、広島の石黒から後藤への依頼。
封筒 巻紙墨筆
石黒が佐野から江戸へ出てきた当時の様子について語ったもの。
封筒 巻紙墨筆
清国の講和使節が一度の会議だけで交渉を日本側から拒否され、長崎から帰国の予定であること。
封筒 巻紙墨筆
検疫所の官制の件は総理大臣も閲覧済で、施設部長・将官・事務官等が設置され、後藤は事務官に任じられ
ること。
封筒 巻紙墨筆
大連でコレラが発生し、第四師団の輸送船にも発病したが、船は消毒済で、まずは一段落であること。
巻紙墨筆
広島検疫所の消毒について。
封筒 巻紙墨筆
6月1日より検疫は陸軍がひきうけること、但し馬関において施行することは、双方とも不便で苦情が多いこと。
巻紙墨筆
広島検疫所開始後の後藤に対する忠告など。
封筒 巻紙墨筆
広島検疫所での消毒人数について、実際と公表されたものが異なっていることについて。
封筒 巻紙墨筆
広島の陸軍検疫所にはコレラ菌を検査する用具が無いため、北里研究所から借用してはどうか。
封筒 巻紙墨筆
8月中旬には輸送も終了するので、後藤は今後台湾で技量を発揮したらどうか云々。
巻紙墨筆
似島検疫所が暴風のため破損につき、船中に停留している人夫を神戸・大阪に回航して陸上に停留させるこ
と。
封筒 罫紙墨筆 巻紙墨 後藤の留守宅を訪問したこと、出生した娘は至極健康であること。
筆
巻紙墨筆
再び衛生局長となった後藤への忠告。
封筒 巻紙墨筆
下水法案に関する意見書。
封筒 罫紙墨筆
自身の退職の意向を、密かに後藤に伝えたもの。
封筒 罫紙墨筆
田中菊太郎の転職により後任には鶴田禎太郎を差し上げること。
封筒 巻紙墨筆
内閣更迭に関する下馬評など。
巻紙墨筆
安場家と苗永家との婚約媒酌についての報告。
封筒 巻紙墨筆
内閣は桂太郎の手に落ちたが、もし桂から相談があれば、躊躇せずにこれの応ずるよう忠告。
巻紙墨筆
衛生局長谷川と柳下の衝突により休職となったこと。
封筒 巻紙墨筆
自身の病後の状況について。
封筒 巻紙墨筆
桂太郎からの通報により石黒自身が貴族院議員の辞令を受けたことなど。
封筒 巻紙墨筆
議会終了後入院した後藤への見舞状。
封筒 巻紙墨筆
後藤の病気は、ベルツの診断でも2、3ヶ月の療養が必要であると児玉総督に伝え、後藤への配慮を申し出た
こと。
巻紙墨筆
後藤の病状を児玉総督に伝え、1ヶ月ぐらいの療養を申し出たこと。
封筒 巻紙墨筆
永楽病院設立の件について総理官邸へ意見陳述のこと。
封筒 巻紙墨筆
慈恵病院の設立方法に関する交渉の顛末。
葉書墨筆
出発前に連絡か電報をくれるよう後藤への依頼。
封筒 巻紙墨筆
新潟県出身東京芝区在住の佐藤羊五郎をハワイにおける糖業の経験者として推薦すること。明日台湾に帰る
後藤への挨拶。
封筒 巻紙墨筆
ある富豪の言動について、国家と皇室に対して憂慮に堪えないことなど。
封筒 巻紙墨筆
救療病院について大至急交渉している顛末について。
封筒 巻紙墨筆
永楽病院の移管についてなど。3月15日付桂太郎からの書簡同封。
巻紙墨筆
内閣の変動のたびに詔勅を煩わすことは、落涙に堪えないこと。
封筒 巻紙墨筆
留守先の様子など。
4
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
1903/9/30
(明治37年)6月14日
1904/6/27
1904/9/19
1904/10/12
1905/4/16
1905/5/10
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
1905/5/12
1905/6/12
1905/6/15
1905/8/8
1905/9/28
1905/10/13
1905/10/20
1905/11/10
1906/5/24
1906/6/7
1906/11/13
1907/2/6
1907/5/13
1907/5/14
1907/5/24
1907/6/29
1908/3/9
1908/3/11
1908/3/28
1908/9/5
1911/8/31
1912/3/13
1914/5/9
1915/2/22
1918/6/29
1918/10/13
1919/3/1
1919/4/7
1919/5/19
1919/7/20
1919/11/12
1920/2/17
封筒 巻紙墨筆
3大臣の新任についての私見。
封筒 巻紙墨筆
貴族院の投票に関する件など。
封筒 巻紙墨筆 電報 大山巌満州軍司令官と児玉源太郎参謀長は来月1日から6日頃に出発すること。
封筒 巻紙墨筆
遼陽を占領した感想について。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 明治18年に後藤が石黒に提出した衛生などに関する意見書の草稿を送ること。
紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
児玉に同行して石黒も上京したこと、連勝とはいいながら廟議も確定していない様子であることなど。
封筒 巻紙墨筆
台湾に赤十字病院を開設するために出張と決まったと同時に大本営付兼臨時台湾糖務局検疫部兼務となっ
たこと、児玉が新領土台湾は本世紀の出来物と賞賛されるだろうが、それは全て後藤の手際であると言ってい
ること。
巻紙墨筆
大本営付臨時陸軍検疫部付というのは顧問とでも言うべきか云々。
封筒 巻紙墨筆
日本海海戦で勝利し、米国の調停により勝利・平和の曙光が見えてきたことを祝う内容。
封筒 巻紙墨筆
台湾に赤十字病院が建設され、その開院式に後藤が出席してくれたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
先般自身が台湾で厚遇を受けたことに対し、台湾より帰京中の後藤へ礼状。
封筒 巻紙墨筆
日露講和条約について世論が百出し、石黒に対しても批判があることを慨嘆していること。
封筒 巻紙墨筆
日比谷焼打事件と、児玉もそれに巻き込まれたこと、日露の講話交渉の過程における薩長の対峙について。
封筒 巻紙墨筆
日本石油会社社長より技師の広瀬貞五郎を台湾に派遣したいとの申し出があったこと。
封筒 巻紙墨筆
井上円了の台湾旅行と、日露戦の負傷兵が馬車に乗せられて上野駅に至ったことなど。
封筒 巻紙墨筆
日比谷焼打事件について。
封筒 巻紙墨筆
日露戦争の戦費について後藤が送付したものを通読したこと、伊藤博文から韓国行きを勧められたが辞退し
たこと、山県有朋一派の満州経営についての自説。
封筒 巻紙墨筆
山県県人で法学士の久宗菫の就職依頼。
封筒 巻紙墨筆
同封した水野禎三からの日露戦後の経営についての意見書について、水野なる人物に一面識もないこと。
巻紙墨筆
後藤の妻の洋行を前にして、何か用事があれば何なりと申し出て欲しいこと。
巻紙墨筆
青年時代に世話になった老人が発病したため、寺内への随行を延期する旨通報。
封筒 巻紙墨筆
後藤の妻の洋行を新橋駅まで見送ったこと。
封筒 巻紙墨筆
満鉄の野田についての報告。
封筒 巻紙墨筆
石黒の長男忠篤と穂積陳重の息女との婚姻が成立したので、後藤に媒酌を依頼すること。
封筒 巻紙墨筆
息子の忠篤の婚姻媒酌人を承諾してもらったことに対する礼状。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 長男の婚姻の媒酌人への連絡と礼状。
筆 メモ墨筆
封筒 巻紙墨筆
鯨のように台湾に潜伏しているのは禁物であることなど。
巻紙墨筆
後藤の逓信大臣辞職を祝う旨。
封筒 巻紙墨筆
高木友枝の講演会に招待されたが、先約により出席できない旨の挨拶。
封筒 巻紙墨筆
ドクトル・フォン・ローレッツの手紙が見付かったので送付すること。
封筒 巻紙墨筆
病気見舞いへの謝辞と、その後の回復の状況。
封筒 巻紙墨筆
後藤よりの調査依頼に対する回答。
封筒 巻紙墨筆
後藤の内務大臣就任に際し、静養を勧めること。
封筒 巻紙墨筆
欧米巡察に出発する後藤への見送り。
封筒 罫紙ペン筆 原稿 議会における原首相の強引なやり方についてと、アメリカ赤十字大会に代表として後藤に出席してほしいこ
用紙ペン筆
と。
封筒 巻紙墨筆
第一次世界大戦の講和条約について種々の取沙汰があること、山県や寺内の容体について、アメリカ赤十字
大会がある場合には後藤に出席して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
ヨーロッパ旅行中の後藤への内地の政治状況報告。
封筒 巻紙墨筆
寺内が死去した際に御輿を担がれないように、民情の変化をよく推察して出所進退をするようにとの忠告。
封筒 巻紙墨筆
枢密顧問官になったことへの祝状。
5
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
1920/2/25
1920/2/25
大正9年9月
1920/12/8
1920/12/12
1920/12/21
1921/3/26
1921/7/23
1921/8/26
1921/10/11
(大正10年10月26日)
(大正11年1月12日)
1922/2/13
1922/7/16
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
1922/10/24
1922/11/17
1923/7/14
1923/7/18
1925/8/23
1925/9/4
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石黒忠悳
石坂音四郎
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
石塚英蔵
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしぐろただのり
いしざかおとしろう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
1927/4/16
1929/1/3
1929/1/7
2010/10/26
2010/12/9
1905/5/19
1901/6/21
1903/5/8
(明治38年)3月31日
1905/5/14
(大正2年)8月17日
(大正2年)11月21日
(大正5年)9月10日
(大正5年)9月10日
来翰
石塚英蔵
いしづかえいぞう
(大正5年10月)12日
封筒 巻紙墨筆
枢密顧問官を拝命した後も貴族院議員を辞するつもりはなかったが、山県有朋から辞する方がよいと忠告さ
れたために、辞表を提出したのであるから、理解して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
一昨日貴族院議員を辞任したこと、市電営業員の怠業による交通阻止等について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の叙勲への祝状。
封筒 巻紙墨筆
東京市長に推薦された後藤に、市民のために就任して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の依頼と市政についての返書への挨拶。
封筒 巻紙墨筆
後藤の東京市長就任後の贈答品に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
大倉高等商業学校卒業式に臨席し訓示をしてほしい旨依頼。
封筒 巻紙墨筆
児玉神社の祭礼の案内を受けたが、病気のため出席できないこと。
封筒 便箋墨筆
後藤の著書について、後藤の蔵書中にある可能性について。
封筒 巻紙墨筆
新聞に明治神宮の氏子が組織されたとあるが、明治神宮や伊勢神宮は国民全体の崇敬を受けるものであり、
一町一村のものではないこと云々。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
便箋墨筆
東京市の編纂委員の中の公園史編纂主任に面会の必要があり通報したが、市長の後藤からも伝えて欲しい
こと。
封筒 葉書ペン筆 原稿 贈答品の御礼と、別紙を一覧の上回して欲しいこと。
用紙切れ端墨筆
封筒 巻紙墨筆
東京市の社会課員より先帝の遺徳についての講演を依頼されたが、その依頼の仕方に立腹していること。
封筒 便箋墨筆 葉書 実業公論社から東京市長後藤新平に関して、アンケート調査を通した人物評価の依頼を受けたこと。
封筒 便箋墨筆
天津病院長田村俊治の紹介状。
封筒 巻紙墨筆 便箋墨 後藤の新潟訪問の際に、新潟臨港会社の小野塚喜三次を訪問して欲しいこと。
筆
封筒 便箋墨筆
桂からの手紙に後藤に関することが書かれているので見て欲しいこと。
巻紙墨筆
台湾衛生院の設立について後藤が桂に送った意見書に対する桂の考えが石黒に伝えられ、その内容は、後
藤の敏腕には期待するが、その希望には全面的には添えないというものであったこと。
封筒 巻紙墨筆
信州松代の松下竹遷の紹介状。
封筒 便箋墨筆
伊豆長岡滞在中に負傷した後藤への見舞状。
封筒 便箋墨筆
伊豆長岡の後藤への見舞状。
巻紙墨筆
山口誠太郎の面会の件。
便箋墨筆
後藤一蔵が来宅してくれたことへの謝状。
洋便箋ペン筆
後藤の援助によりドイツで勉学が続けられることへの感謝。
封筒 巻紙墨筆
内閣の更迭は台湾にとって好都合であること、台湾の新聞の混戦について、中央特別機関設立の進行状況
の問い合わせなど。
巻紙墨筆
妥協一条も総督の尽力により首尾よく運んだことと、広東通信員松岡好一郎解傭のことなど。
封筒 巻紙墨筆
児玉総督は評議会への土人の参加には不同意であることと、石塚の満州視察について。
封筒 巻紙墨筆
関東州民政署兼任の辞令を受けたこと、台湾の戒厳令は中央においてはあまり賛成の様子ではないことな
ど。
封筒 巻紙墨筆
桂の病状が軽快にむかいつつあること、桂が新党結成のために活動してきたこと、満鉄改革について新聞紙
上で奉じられていることなど。
封筒 巻紙墨筆
桂の他界を悼むことと、寺内朝鮮総督が葬儀のために出発したことなど。
封筒 巻紙墨筆
当分石塚が在官の東拓総裁事務取扱となることと、東拓会社法の条文について等の報告。
封筒 巻紙墨筆
去月斎藤実朝鮮総督より東拓総裁に就任して欲しいとの来電を受け辞退したが、再度要請されて内諾したこ
と、自分の貴族院議員の方もうまく行きそうで、後藤の援助を願いたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
長谷川総督更迭、山県伊三郎はあくまで留任が寺内の意向であること、山県と長谷川の二人では朝鮮統治の
将来には問題があること。
6
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
石塚英蔵
石塚英蔵
石橋和訓
石光真臣
石光真臣
伊集院彦吉
伊集院彦吉
磯村豊太郎
板垣退助
一戸兵衛
一木喜徳郎
一木喜徳郎
伊藤銀月
伊藤銀月
伊藤銀月
伊藤銀月
伊藤銀月
伊藤銀月
伊東重
伊東重
伊藤大八
伊東忠太
伊藤長七
伊藤長七
伊藤長七
伊藤長七
伊藤長七
伊藤長七
伊藤仁太郎
伊藤仁太郎
伊藤仁太郎
伊藤野技
伊藤博邦
伊藤博文
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
いしづかえいぞう
いしづかえいぞう
いしばしかずよし(いし
ばしわくん)
いしみつまおみ
いしみつまおみ
いじゅういんひこきち
いじゅういんひこきち
いそむらとよたろう
いたがきたいすけ
いちのへひょうえ
いっききとくろう
いっききとくろう
いとうぎんげつ
いとうぎんげつ
いとうぎんげつ
いとうぎんげつ
いとうぎんげつ
いとうぎんげつ
いとうじゅう
いとうじゅう
いとうだいはち
いとうちゅうた
いとうちょうしち
いとうちょうしち
いとうちょうしち
いとうちょうしち
いとうちょうしち
いとうちょうしち
いとうにたろう
いとうにたろう
いとうにたろう
いとうのえ
いとうひろくに
いとうひろぶみ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
大正5年10月
2010/10/9
2010/7/3
1922/2/15
2010/3/7
1909/4/5
1922/2/18
2010/2/10
大正6年9月(17日)
(昭和3年)2月20日
(大正5年)10月14日
(大正10年)12月29日
(大正11年)5月2日
(大正11年)6月21日
(大正11年)7月1日
(大正11年)10月26日
(大正11年~昭和3年)10月22日
(大正11年~昭和3年)10月30日
(大正7年)9月9日
1914/2/1
2010/3/25
(大正13年)11月2日
(大正6年)9月18日
1920/12/29
(大正10年)6月13日
1923/10/9
(大正15年)2月24日
(大正15年)10月13日
(大正11年)11月20日
(大正11年)12月17日
2010/7/18
(大正7年)3月9日
1909/12/15
2010/3/5
(明治36年)8月29日
(明治36年)10月28日
(明治37年)4月24日
(明治37年)5月8日
(明治37年)9月14日
(明治37年)10月14日
(明治38年)3月6日
名刺
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙 封筒
巻紙 封筒
巻紙 封筒
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 原稿用紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 洋紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙印刷物
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
7
法制長官は山田三良、松村真一郎でなければ松本烝治にてはどうかということ。
中村雅治一件についての報告。
三越で開催される自作展の絵画の購入依頼。
野田家の負債に関して、後藤にも負担を求める依頼状。
デンマークにおける少年団大会に後藤が出席することを期待していること。
清国前皇帝の大葬への満鉄代表者が参列する件と、清国の現状に関する意見。
イギリス皇太子来日を機として、ジャパン・ガゼット社が特別歓迎号の刊行を企画しているので、後藤に原稿を
依頼したいこと。
自身は禁煙したので、シガーを呈上すること。
四国に高等学校を設置するに際しては、候補地を高知県とするよう依頼。
ロシアから帰国した後藤へのお祝い。
後藤の厚配により、小栗一雄が京都府理事官へ転任したことへの御礼。
市民読本募集について審査委員を依嘱されたが、内務省御用掛の内命を受けたことを理由に辞退したこと。
会津若松市における伊藤銀月の講演会の準備についてなど。
先日松露の毒にあたったことについて。
自分の書簡に対する後藤の返事の督促。
黴菌作用パルプ採取の発明について最後の試験を行いたいので、試験費用の援助を願いたいこと。
黴菌作用パルプ採取の発明について、後藤に背いたことで苦況に陥り、これを破棄することも残念なので、非
礼を省みず書簡を後藤に送付したこと。
絶望の境に都落ちし、家族も離散して、旅費だけの助力を願いたいこと。
高等学校の設置にめぐる岩手県と山形県の誘致競争につき尽力依頼のこと。
東門会(幼年養生会)25周年に際して記念皆勤証を造り、その授与に関すること。
飯田県人林虎蔵氏の紹介状。
帝都復興に関する後藤よりの礼状について、自分は人違いである旨返書。
東京の通俗大学の件について。
後藤の尽力により、藤森佐金次が通俗大学会主事に任用されたので、本人が挨拶に伺いたいとのこと。
後藤の尽力により、伊藤長七が東京府より欧米各国視察の命を受けたことについての謝辞。
関東大震災後の腹腔に際して教育界より復興院への人材抜擢願。
赤司初太郎氏の子息の大介が私の学校へ入学を希望していること。
諏訪郡湖南村東英社関五助婦人の葬儀に際して、後藤の名前で弔電を送ることを許可して欲しいこと。
米国視察に赴くについて、東京市より何等かの調査嘱託の名義を得たいこと。
封筒のみ。
東洋大学学生越川貞一の紹介状。
拘禁中の大杉栄が後藤への面会を希望していること。
亡父伊藤博文の在世中懇意してくれたことに対し、刀を贈呈することについて。
杉山の件について。
児玉源太郎総督に二相を兼任することについて。
野房善一の件について。
前年恵贈された梅樹が満開であること。
日露戦争での陸軍の活躍と、朝比奈知泉の療養等について。
野房善一発病の件など。
東京日日新聞社を加藤高明へ譲渡すること。
後藤の台湾帰任を見送りたかったが来客ため出来なかったので書面にて挨拶すること。
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
(明治38年)3月22日
(明治38年)4月26日
1905/4/28
(明治38)年5月2日
(明治39年)7月8日
(明治)1月12日
(明治)1月21日
(明治)6月6日
(明治)7月27日
(明治)12月12日
(明治)12月21日
(明治)15日
(大正6年5月末日)
1917/7/4
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
いとうみよじ
いとうみよじ
1918/1/5
1918/4/23
来翰
伊東巳代治
いとうみよじ
1918/5/10
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
1919/5/3
大正8年5月19日夜
大正8年6月3日夜
大正2月18日
(大正)2月21日
来翰
伊東巳代治
いとうみよじ
(大正)3月11日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
(大正)3月11日
(大正)12月29日
2010/1/18
2010/1/19
2010/1/19
2010/1/20
封筒 巻紙墨筆
野房善一の件、台湾シャボンの発育についてなど。
封筒 巻紙墨筆
バルチック艦隊東航に対する台湾の戒厳令について、野房善一の件について。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 野房善一の件。
筆 戸籍謄本
封筒 巻紙墨筆
野房善一の件。
封筒 巻紙墨筆
バナナを贈呈されたことに対する礼状。
巻紙墨筆
過日の写真は早速調製し原板を保存してあるので、児玉総督へ送ったらどうかと思っていること。
封筒 便箋墨筆
皇室制度が進行のはこびとなったこと。
巻紙墨筆
台湾より帰省の際に、借用していた高野長英の書幅を返納したいこと。
封筒 巻紙墨筆
愛知県の豪商小栗留次郎が当地に立ち寄った時に、台湾の現状について後藤より拝承したことを聞いたこ
と。
封筒 巻紙墨筆
台湾蘭を寄贈されたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
後藤の推薦により、杉田百助が鉄道院へ採用されたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
帽子に関する礼と、原敬に面会したところによると台湾経費は否決するとのこと。
封筒 便箋墨筆
都下の各新聞に意外のことが漏洩しているのに驚いたこと、原・犬養両首相のこと。
封筒 便箋墨筆
丁巳年。臨時外交調査会開設早々考査審議の手順について、本野外相のために覚書と題して一条の演説
案のこと、今朝都下の各新聞に登載した支那電報の件、今回の突発事件に関し調査会の内外に対する考慮
について、審議会の議席に臨んだことなど。
封筒 便箋墨筆
御内示の密書数通を帰宅後早速熟閲のこと、事務頗る重要につき当局者も今一層まじめに考慮することなど
について。
封筒 便箋墨筆
在外本邦使臣と霞ヶ関との間に首相初め老閣にも報告しない秘密文書や往復電報がある 出兵問題につい
て松井・珍田両大使に態度を一変させた当時には、本野子爵より密電を打ち内諭を発した形跡がないわけで
はない これらの経緯について、本野・幣原へも聞きただし云々。
封筒 便箋墨筆
帝国の利害関係においてドイツに対するよりもむしろアメリカの東漸に対する防衛の必要が一層切迫してい
る。米独に対するだけでなく、内外にわたる確固たる国策の確定に関する御高教を仰ぎたいことなど。
罫紙墨筆
第4信 去月27日第3信発送、同信二相戴候通山東問題に関する外交調査会の決議者政府当局をして決心
の臍を固めしめ其結果として在仏我全権に打電せられたる訓令云々。
罫紙墨筆
第5信 本月3日付を以て第四信発送。
罫紙墨筆
第6信 支那方面の情報に就て過般北京に於て山東問題に因し暴動勃発して章公使を傷け候云々。
封筒 便箋墨筆
政界の事情も新聞紙で散見するが、昨日田逓信大臣が来訪し、基本が未確定の様子にて前途懸念。
封筒 便箋墨筆
中央の政況は、日支関係の問題を除くほか与党選挙の事務に忙殺されているので、最大の政務は等閑に付
されている 干渉非難の声は各地のいたるところで勃発し、先日の巡回監督役はその後どのようになったかを
尋ねている また日支問題は、日本から提議・開談・折衝を経て、妥当の解決策を見たい云々。
封筒 巻紙墨筆
英国が既受の電訓を今日まで霞ヶ関に提出することを躊躇している 今日となっては英国の提議を待つに及
ばず米国の覚書に対する答議を送付し、内外に対し帝国の態度を姓名することが急務であることなど。
封筒 巻紙墨筆
御内嘱の文案補訂。
封筒 便箋墨筆
昨夜は瓢屋よりご来会を待ち受けたこと。演説筆記写を差し上げ、外務省より何等報告に接せず、会議の議
題は多分四国協約問題と察すとのこと。
巻紙墨筆
今夕は、宿の主人に申しつけて、有名な汁粉を調理させたことなど。
巻紙墨筆
宮内省の連中は、明日正午まで当猟地を引き払うこと、宮内省連中に先立ち出発し、それまでには打合せの
都合もあることなど。
封筒 巻紙墨筆
各地で狩猟し一昨夜帰京し、昨夜小栗が来訪した。小栗の帰県につき豊橋付近の状況至急取調すること。
封筒 巻紙墨筆
雉子2羽贈呈。
8
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
2010/1/23
2010/1/23
2010/1/27
2010/1/27
2010/2/7
2010/2/21
2010/3/9
2010/3/17
2010/4/15
2010/9/16
2010/10/4
2010/10/20
2010/11/26
2010/11/28
2010/11/30
巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
便箋墨筆
来翰
伊東巳代治
いとうみよじ
2010/12/4
封筒 便箋墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
伊東巳代治
井土経重
井土経重
井土経重
井土経重
井土経重
井土経重
いとうみよじ
2010/12/8
いとうみよじ
2010/12/9
いとうみよじ
2010/12/13
いとうみよじ
2010/12/26
いとうみよじ
29日
いとうみよじ
いとうみよじ
いとうみよじ
いどつねしげ(いどれい (明治39年)7月26日
ざん)
いどつねしげ(いどれい (明治40年)4月9日
ざん)
いどつねしげ(いどれい (大正8年2月28日)
ざん)
いどつねしげ(いどれい 2010/2/2
ざん)
いどつねしげ(いどれい 2010/5/15
ざん)
いどつねしげ(いどれい 2010/7/30
ざん)
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 便箋墨筆
便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
葉書墨筆
9
両院開議。5、6日前、習志野へ出猟し、一昨夜帰京した。雉子1羽を拝呈したので、ご賞味下さいとのこと。
お粥の副食物には困却し、川崎君に申し含み調理転送、ご賞味をお願いしている。昨日平治博士を差し向
け、早速ご会見下されたことにて今朝委曲を承知した。
六三法問題に付き、自分自身の意見は加藤高明に申し送ったこと。小生はこれより制度調査の会議に臨むの
で、龍居頼三に直接電話で問い合わせするように依頼している。
先日習志野へ出猟し、今年は野雞が減少し獲物も少なく失望したとのこと、御帰任前にお話ししたいことがあ
るので、近日中に伺うとのこと。
猟銃の拝呈と、先日頂戴した蜜柑について。
日光で採れた雉子を進呈することと、野房善一の件等について。
今夕霞ヶ関会同の顛末如何、明朝御帰省次第電話にて詳細を報告するとのこと。
尊話の印刷物見当たらず、紅茶御礼。
寄贈の桜樹が満開。
御配慮を仰ぎたいので、本日御手隙の折に暫時お立ち寄り下されたい云々。
富山県高岡市選出の代議士鳥山敬二郎の紹介状。
黒田甲子郎の紹介状。
犬養の都合により午後1時に御来話下さいとのこと。
雉子2羽1兎進呈。
珍田大使より来電、他の電文と取り纏め、昨夕送付したこと。帝室制度の総会を開催した。出兵勧誘謝絶の理
由に関する訓電は未だ一見していないが、不備の点が少なくないだけでなく、矛盾の点もあるので、今後の関
係もあるので一層徹底的理由を垂示するようにお願いしていることなど。
湖東大演習御陪観のため東搓に上り、靳中将より上宣として後藤新平へ贈呈した蒸都琉璃廠賀蓮青特製之
雲鵬選頴湖筆十枚御割愛を辱し鳴謝 昨日は夕方まで枢府の委員会に拘束されて不在中拝復の礼を欠き
恐縮云々。
麻布の私邸を拝借して李家に貸与の件について。
増田君と面会し、草案を一見したこと 北川長崎市長昨日状況 長崎市の前途は、台湾基隆と、又一方に於
ては清国上海との交通上一層重要なので、市長の覚悟を要する。
日本鉄道海岸線にて仙台付近へ出猟し、柑樹無難に着した。雉子2羽と1兎を譲るとのこと。
中村是公満鉄総裁帰任の途次に長崎市へ立ち寄りのこと。無線電信局設置につき御厚配により長崎市救護
の一助となったことなど。
高野先生書を初めて拝見したこと、ペルシヤの敷物御厚情に注ぎ、大の方は申し受けるが、小の方は返却す
るとのこと。
大鷭2羽を厨下へ 吸物にて調理したこと。議会終了後催すことなど。
時局問題考究の史料を得たことに感謝し、5、6時頃から面会して拝書の上、御高教を仰ぎたい。
お見舞いのため、園丁長1人が差し出し、病室の中へ陳列の指図をお願いしている。
『将来之東北』と題する著書の題詞執筆依頼と、児玉源太郎の逝去について。
揮毫依頼。
後藤の欧米視察旅行について。
前田黙鳳の義弟松崎氏の紹介状。
斎藤孝次郎の紹介状。
半谷氏の著書の題詞督促。
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
井土経重
井土霊山(経重)
稲畑勝太郎
稲畑勝太郎
稲畑勝太郎
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
犬養毅
井上馨
井上馨
井上角五郎
井上孝哉
井上準之介
井上準之介
井上準之介
井上匡四郎
井上匡四郎
いどつねしげ(いどれい 2010/11/29
ざん)
いどれいざん(いどつね 2010/3/22
しげ)
いなはたかつたろう (大正9年)11月8日
いなはたかつたろう (大正11年)7月27日
いなはたかつたろう (大正)5月25日
いぬかいつよし
(明治)12月5日
いぬかいつよし
(大正6年)7月3日
いぬかいつよし
(大正6年)9月19日
いぬかいつよし
(大正7年2月21日)
いぬかいつよし
1918/2/22
いぬかいつよし
(大正8年)2月18日
いぬかいつよし
1919/10/26
いぬかいつよし
(大正9年)2月16日
いぬかいつよし
1920/8/7
いぬかいつよし
(大正10年)5月24日
いぬかいつよし
(大正10年)9月29日
いぬかいつよし
(大正11年)8月30日
いぬかいつよし
(大正13年)10月18日
いぬかいつよし
(大正13)年10月20日
いぬかいつよし
(大正13年10月)20日
いぬかいつよし
1924/11/21
いぬかいつよし
2010/1/18
いぬかいつよし
2010/1/21
いぬかいつよし
2010/6/29
いぬかいつよし
(大正11~14年)12月27日
いぬかいつよし
いのうえかおる
(明治41年)5月20日
いのうえかおる
2010/11/13
いのうえかくごろう 1918/4/24
いのうえこうさい
(大正6年)12月13日
いのうえじゅんのすけ (大正13年)4月5日
いのうえじゅんのすけ 1924/7/20
いのうえじゅんのすけ 2010/3/19
いのうえただしろう (明治38年)1月24日
いのうえただしろう (明治38年)6月8日
来翰
井上匡四郎
いのうえただしろう
(大正7年)6月1日
来翰
来翰
来翰
井上匡四郎
井上匡四郎
井上友一
いのうえただしろう
いのうえただしろう
いのうえともかず
(大正8年)11月27日
(大正12年)10月19日
1905/10/20
便箋 封筒
市民読本については、自分の願意は地方自治精神に関する読本であること。
巻紙墨筆
漢詩とその注釈。
封筒 巻紙墨筆
来17日来駕を乞い、その陪席者名を示している。
封筒 巻紙墨筆
残暑見舞。
封筒 巻紙墨筆
ロシアのケレンスキー内閣員前農相アレキサンドル・コンヴァロフ紹介。
巻紙墨筆
井上雄二の紹介状。
封筒 巻紙墨筆 蒟蒻版 朱執信『中国興亡論』は孫逸仙の意見を筆記したもので、孫の秘書役戴天仇が校正中のこと。和訳出版は題
名をあらためるかもしれない。
封筒 巻紙墨筆
直江津の道路問題について政友会の妨害があること。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
後藤の書簡が本野氏の情報と異なっているのに驚いたこと。
封筒 巻紙墨筆
原首相及び陸海両相と面晤のこと。
電報
帰京の上懇談の件。
封筒 便箋墨筆
政治状況の変化により後藤と会談したいこと。
封筒 便箋ペン筆
調査会のことについて。
封筒 便箋墨筆
調査会の開催通知。
封筒 便箋ペン筆
鉄道用地貸付の件について。
封筒 便箋ペン筆
加藤高明首相に辞意を表明したこと。
封筒 便箋墨筆
総裁によって放送無線理事長を指名した場合は、逓信省官吏との交渉が円満さを欠くことを指摘。
封筒 巻紙墨筆
放送無線の理事に三宅と福島を任命する件について。
封筒 巻紙墨筆
面会の申込み。
封筒 便箋墨筆
閣議の模様についての報告。
巻紙墨筆
台湾の新聞事業に従事した片山景雄の紹介状。
封筒 便箋墨筆
書家比田井天来の紹介状。
封筒 便箋ペン筆
芳沢謙吉外相について。
封筒 便箋墨筆
長島隆二が本郷区の補欠選挙で苦戦していること。
封筒 便箋墨筆
読売新聞記者韮沢信の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
セメント工場の件について。
封筒 巻紙墨筆
物産の飯田呼出のこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の外務大臣就任の祝詞。
封筒
封筒のみ。
封筒 便箋墨筆
イギリス政界の動向について。
葉書ペン筆
ボーイスカウトの大会がコペンハーゲンで開催されていることと、現地では後藤が来るかどうかが在外日本人
の間で大きな問題となっていること。
封筒 巻紙墨筆
前田氏を招いて「ゼネバ」の継続会を開くことについて。
封筒 便箋ペン筆
現在文部省の公費留学生としてサンフランシスコにいて、その後私費でフランスへ渡ることを希望しているが、
財力がないこと。
封筒 便箋ペン筆
日本海海戦先勝慶賀、自分は金山の実地研究を行っていて、将来台湾や支那の鉱業に貢献できるであろう
が、文部省の公費留学生なので、文部省と衝突しない範囲で自分の希望を叶えたいこと。
封筒 便箋ペン筆
軍需工業動員法案が貴族院特別委員会で審議されるのに伴う評議員の任命についてと、撫順・開平炭坑で
三井・三菱に属する「組合」が密約を結び、市価を引き上げていることについて。
封筒 巻紙墨筆
撫順炭坑と鞍山製鉄所の嘱託として勤務することになったこと。
封筒 便箋ペン筆
復興院評議員就任の挨拶と、前沢初治の紹介状。
電報
公売処分の取消について。
10
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
井上友一
井上友一
井上友一
井上通泰
伊能嘉矩
井野次郎
今井五介
今村秀芳
今村正義
今村幸成
今村力三郎
入江貫一
入江貫一
入江貫一
入江貫一
入沢達吉
入沢達吉
祝正一
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
祝辰巳
岩倉具定
岩崎勲
岩崎清七
岩崎清七
岩崎久弥
岩永裕吉
岩永裕吉
岩永裕吉
いのうえともかず
いのうえともかず
いのうえともかず
いのうえみちやす
いのうかのり
いのじろう
いまいごすけ
いまむらひでよし
いまむらまさよし
いまむらゆきなり
いまむらりきさぶろう
いりえかんいち
いりえかんいち
いりえかんいち
いりえかんいち
いりさわたつきち
いりさわたつきち
いわいしょういち
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわいたつみ
いわくらともさだ
いわさきいさお
いわさきせいしち
いわさきせいしち
いわさきひさや
いわながゆうきち
いわながゆうきち
いわながゆうきち
(大正3年6月)11日
(大正7年)5月14日
(大正12年)9月5日
1920/6/17
(大正13年)10月24日
1920/12/9
1927/2/18
(大正10年)7月12日
1925/6/10
(大正6年11月10日)
(大正12年)4月18日
1923/4/27
(大正15年)10月25日
(明治45年)3月12日
1914/7/20
(大正9年)3月30日
(明治40年)2月4日
(明治40年)5月21日
1907/6/9
(明治40年)7月12日
1907/7/28
(明治40年)9月5日
1907/10/10
1908/4/5
(明治)12月17日
(明治33年)10月4日
(大正6年)9月20日
(大正11年)2月21日
(大正12年)2月7日
(明治)
1920/3/27
1921/1/13
(昭和4年)1月7日
封筒 巻紙墨筆
済生会病院土地について宮内省・大蔵省・内務省との協議について。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 「在外同胞ノ教育衛生及金融ノ改善ニ関シ上申」の写の送付とその概要報告、及び『独逸の経済政策』につ
いて。
巻紙墨筆
留学生候補者人選の件について報告。
封筒 和紙墨筆
関東大震災後自分は桜田倶楽部に避難中で、松岡静雄は鵠沼で負傷したこと。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 小著に対する後藤の厚志に感謝すること。
封筒 巻紙墨筆
明治40年の伊藤博文と後藤新平の厳島神社参拝の調査報告。
封筒 巻紙墨筆
東京市会の全会一致の推薦で後藤が市長になったことへの祝詞。
封筒 便箋墨筆 和紙墨 高野長英に関する照会。
筆
葉書ペン筆
寒中見舞。
封筒 巻紙墨筆
製糖会社社長藤山氏へ一声かけて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
虎ノ門事件の真相を記述した今村の著書を贈呈すること。
封筒 巻紙墨筆
山県有朋が話したビスマルク演説の筆記翻訳を別包で提出すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の意見書が平田東助の手許にあるが、平田は風邪のため、意見書に対する細微の評言は三、四日後に
なること。
罫紙墨筆
後藤の意見書に対して、平田は首相や外務省当局者と協議の上、松方正義と西園寺公望にも了解を得なけ
ればならないと言っていること。
封筒 巻紙墨筆
山県有朋の伝記編纂のための史料が不足しているので、山県の関係者の招集を後藤に依頼すること。
封筒 巻紙墨筆
招宴の御礼。
便箋ペン筆
ユダヤ人経済界における努力について論じたゾムバルトの著作を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
台湾銀行東京市店への勤務願。
封筒 巻紙墨筆
林家家政整理問題に関する加藤庁長の誤解と、台湾総督府内の人事異動について。
封筒 巻紙墨筆
明治40年の南清における樟脳の産額、廈門・香港間の日本の樟脳貿易、台湾北部のペスト流行等の愛久澤
直哉の調査報告をについて。
封筒 罫紙墨筆 略図 台湾桃園庁管内の隘勇線前進状況の件報告。
巻紙墨筆
台湾財整会基本金として後藤より寄贈の300円を受領したこと。
封筒 罫紙墨筆
蕃薯リョ水力発電工事に関して大倉組と交渉を開始したことと、柳本恒春庁長と岡田嘉義庁長の辞職問題に
ついて。
封筒 巻紙墨筆
日日新報社の債権整理問題の処理について。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 台湾総督府内において第2次公債案が通過したことにより佐久間総督が上京するので、中央政界の現況に照
筆
らして助言して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 自分の病気ははかばかしくないので、別紙の件について後藤の指揮を仰ぎたいこと。
ン筆
巻紙墨筆
購買費の使途未定の件。
封筒 巻紙墨筆
厦門事件により、児玉総督の辞職ということもあったが、後藤長官の上京によって落着したこと。
封筒 便箋ペン筆
静岡県会の内情についての報告と、蒲原停車場移転問題に関する意見。
封筒 巻紙墨筆
代用食糧奨励会開催に際しての後藤の尽力に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
ヨッフェへの紹介依頼。
巻紙墨筆
満鉄の依頼に応じて三菱合資会社の松田武一郎に命じて坑業計画の助勢をさせるに当たっての条件の提
示。
封筒 罫紙ペン筆 便箋 ラモントの書簡の訳文を送付することと、「四国財団ニ関スル覚書」は現在翻訳中であること。
タイプ印刷
封筒 タイプ印刷
在ニューヨークの鶴見からの、武蔵電気鉄道計画に関する地下鉄道建設に要する経費調達と技術上の問題
についての報告など。
封筒 便箋ペン筆
後藤の怪我に対する見舞状。
11
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
岩原謙三
上杉慎吉
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
いわはらけんぞう
うえすぎしんきち
(明治40年2月)7日
(大正3年)3月30日
(大正4年)2月18日
(大正6年9月)2日
(大正7年1月)20日
(大正14年)1月20日
(大正11年11月)25日
(昭和4年)3月14日
(大正3年)7月21日
来翰
上杉慎吉
うえすぎしんきち
(大正4年)2月9日
来翰
来翰
来翰
来翰
上杉慎吉
上杉慎吉
上杉慎吉
上杉慎吉
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
(大正4年)8月30日
(大正5年)3月4日
(大正7年)4月25日
(大正7年)4月30日
来翰
来翰
上杉慎吉
上杉慎吉
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
(大正9年)2月27日
1920/2/28
来翰
来翰
上杉慎吉
上杉慎吉
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
(大正9年)3月26日
(大正9年)12月3日
来翰
来翰
来翰
来翰
上杉慎吉
上杉慎吉
上杉慎吉
上杉慎吉
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
(大正10年)1月18日
(大正10年)9月8日
大正10年10月
1923/8/30
来翰
来翰
上杉慎吉
上杉慎吉
うえすぎしんきち
うえすぎしんきち
(大正14年)10月1日
(大正12年~昭和3年)5月14日
来翰
来翰
上杉慎吉
上田恭輔
うえすぎしんきち
うえだきょうすけ
(大正11年~昭和2年)12月24日
(明治37年)5月1日
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 満鉄用機関車の見積書を送付したこと。
ン筆
郵便書簡
近況報告。
封筒 巻紙墨筆
後藤の書簡に対する礼と、岩下の拘引について。
封筒 巻紙墨筆
近況報告。
封筒 巻紙墨筆
花本において新年会開催につき招待状。
封筒 巻紙墨筆
工業倶楽部において新年会開催につき招待状。
封筒 巻紙墨筆
茶会の案内状。
封筒 巻紙墨筆 タイプ 岩原謙三履歴書を送付すること。
印刷
封筒 巻紙墨筆
以前後藤より政党政治に関して面白い書籍があれば申出てほしいとの話があったので、突然ではあるがデル
ブリユックの著書を高覧に供すること、本書は日本人は殊に参考になると思われること。
封筒 巻紙墨筆
先日後藤より下命された「政治と民意」の訳文は指図通り妥当ではないと思われる点を訂正し註釈評語を変え
てもう少しで完了するので、数日中には持参すること、また本書の出版を切望すること。
封筒 巻紙墨筆
本日の「国民新聞」に掲載された自分の「理想国論」は、後藤の学俗接近説に一歩を加えたものであるので一
読してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の著作の『日本膨張論』を送ってもらったことへの礼、また、その内容については極めて高尚な見地から
日本の膨張を止むを得ないものとする後藤の論に敬服したこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤が外務大臣に就任したことへの祝辞と、北京でも後藤に対する期待が大きいこと。
封筒 巻紙墨筆
日本よりの電報によると日本商業会議所会頭が唐紹儀等と会見して南北妥協に尽力する旨であるが、天津に
会合している支那各地の商会連合会も南北妥協の急なるを決議しているので、この際日本側も支那の為めに
妥協を希望するという声明を出したならば、日支交渉に疑惑を感じている支那の人心に好感を与えられるこ
と。
封筒 巻紙墨筆
無党派連盟の実現について日夜肝胆を砕いていたところ昨日の突然の議会の解散は天の与えた絶好の機
会と考えられるので、この際後藤に決心してほしい旨。
封筒 巻紙墨筆
今日の議会の解散は政党の弊害を天下に示したものであるから、今こそ無政党連盟を実現する絶好の機会
であり、またその他の状況も後藤にとってまたとないものであるから是非決起して欲しいこと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
先夜後藤より下命された講演については今月はもう時日が差迫っているので来年1月の下旬にしたいと思って
いること、また演題は「独逸戦敗ノ原因及新憲の成立ノ事情ト其批判付新国家理論の発展」としたいこと、何か
あれば指図してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の東京市長就任に対する慶賀と、先般後藤より下命された講演の件について指図してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
東宮のヨーロッパからの帰朝を奉迎する東京市民及び青年団の大祝賀会当日の天候についての思い。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 今回講談奨励会を発起したので後藤の助力が欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
伝え聞くところによると今回後藤は山本権兵衛より入閣を求められているようであるが、自分としてはこの際、後
藤が左右の事情に関係なく入閣することを切望していること及びその理由について。
封筒 巻紙墨筆
昨春以来著述に没頭していたがこの程ようやく1部脱稿したので1部を後藤の導覧に供すること。
封筒 巻紙墨筆
昨日は肝胆を披瀝していただき機密の話も承り深く感銘したこと、邦家百年の大策の為め一身をもって難事に
当る後藤に真に感動したこと、日露提携の好機を逸したら帝国の前途は遺憾千万となるので、後藤には一層
の決心をもって政府を圧して速に露国承認の基礎を定められんことを切望していることなど。
封筒 巻紙墨筆
無沙汰の詫と風気で引籠っている後藤への見解。
封筒 巻紙墨筆
日露戦争に対する米国の新聞雑誌の論調とアメリカにおける黄禍論についての報告。
12
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
(明治37年)5月18日
(明治37年)6月19日
(明治37年)8月8日
(明治37年)12月19日
(明治38年)2月11日
(明治38年)3月1日
(明治38年)6月21日
(明治39年)10月1日
(明治39年)11月16日
(明治40年)4月5日
(明治41年)4月26日
来翰
来翰
来翰
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
(大正7年)4月10日
(大正8年)12月18日
(大正9年)1月15日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
上田恭輔
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
うえだきょうすけ
(大正9年)1月30日
(大正9年)8月14日
(大正10年)4月15日
(大正10年)7月15日
(大正10年)12月14日
(大正12年)3月14日
(大正12年)6月20日
(大正12年)8月11日
(大正12年)9月5日
(大正13年2月22日)
(大正14年)4月23日
(大正15年3月13日)
(昭和2年)4月19日
(昭和4年)2月26日
(昭和4年)3月11日
2010/4/5
2010/8/18
2010/8/19
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
絵葉書ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆 新聞切抜
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
岡田晋太郎の件、カシニー伯による台湾統治に対する評価及び黄禍論について、英露提携の進捗状況と英
露間での東アジアに関する取決について。
日露戦争の戦況報告、日本による福建省の活動に対する外国の評価について、英露提携の動向、日韓議定
書などに対するヘンリー・ノルマンの発言。
日本軍占領後における大連・蓋平・営口の状況報告、大連・普蘭店間の鉄道について、児玉台湾総督の満
州での動向について。
旅順港にあるロシア艦隊の現況報告と、ロシアの公債発行と鉄道問題について。
児玉台湾総督の満州における動向についてと、日露戦争の戦況報告と軍政署の活動内容について。
日露戦争の戦局について。
児玉・石塚と関東州にて会談したことと、関東州の民政状況報告及び戦後の満州及び関東州の統治経営論
について。
関東都督府の施政状況等について。
後藤の満鉄総裁就任に対する在満州外国官吏の評価と、寛城子問題・満鉄経営に対する自身の意見。
関東都督府内部における民政部と陸軍部の確執、関東都督府民政部警務課の内外における評判について、
関東都督府民政部の現況、満鉄付属地における警察権問題について。
満鉄総会における後藤演説に対する上海支那政界の反響、奉新鉄道及び寛吉鉄道を満鉄の勢力範囲内に
置くこと、満鉄の出張所を上海に置くこと、満州における日本語教育について、日本語学校の卒業生を山東
経営の一助として使役させること。
便箋ペン筆
後藤夫人逝去の御見舞。
罫紙ペン筆
対支21ヶ条要求以来、中国における排日気分蔓延していること、東アジアにおける英字新聞上の日本による
対中国政策とシベリア出兵に対する評価について。
封筒 罫紙ペン筆 新聞 上田恭輔の「辛辣なる米国の排日宣伝」(「満州日日新聞」大正8年10月31日)、英国募兵ポスターの件、英国
切抜
資本家団体代表が満州に関心を表明したこと、シベリア出兵に対する世論について。
封筒 罫紙ペン筆
旧オムスク政府とセメーヨフの党徒の動向と、ロシア東清鉄道株式会社の動向について。
封筒 巻紙墨筆
北満鉄道を回収して北京・ハルピン間の直通列車の運行を企図する中国側と英米両国による資金援助につ
いてと、満州における勢力範囲と鉄道敷設の問題に関する意見。
封筒 巻紙墨筆
中国人及びシベリアのロシア人の日本官憲と満鉄に対する評判について。
封筒 巻紙墨筆
米国の殖民学者ビゲローに面会、同氏による日本の植民地統治政策に対する酷評について。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 太平洋会議に対する英字新聞「北京天津タイムス」(12月10日)の評論について。
抜
封筒 巻紙墨筆
ヨッフェ氏の近況報告、蒙古の情勢報告、北京政府内部の動向、満鉄回収問題の現状報告について。
封筒 巻紙墨筆
満鉄理事更迭の動向について。
封筒 罫紙ペン筆
ロシア労農政府の動向、北満とロシア国境線におけるロシア軍の状況と張作霖の反応、満鉄の経営方針、満
鉄内部の実情について。
封筒 巻紙墨筆
満鉄による食糧・建築材料の蒐集について。
封筒 新聞切抜
チャイナ・プレス紙上における後藤に関する記事の切抜。
封筒 巻紙墨筆
後藤の朝鮮・満州旅行についての各地の反響、張作霖の動向、松岡洋右満鉄理事の動向、在満邦人につい
て。
封筒 印刷物
新築満鉄大連医院案内。
封筒 巻紙墨筆
北伐に伴い、長江沿岸及び満州の沿岸における在留邦人の状況について。
封筒 巻紙墨筆
中国の幣制改革に伴い、満州に流通する朝鮮銀行券及び正金銀行券の影響について。
原稿用紙ペン筆
米国新聞に掲載されたニュートン・ベーカー主催の極東外交談話会の模様をについて。
封筒 巻紙墨筆
21ヶ条要求の際における中国の排日熱についてと、紹介されたハリス・シャリックの満州旅行についての所
感。
封筒 巻紙墨筆
日露関係についてと、満鉄の状況報告。
罫紙ペン筆
干沖漢と張作霖の動向と、中国学生運動の現状。
13
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
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上田恭輔
上田孝吉
上野専一
上野専一
上野専一
上野専一
上野専一
浮田和民
宇佐美勝夫
宇佐美勝夫
宇佐美勝夫
鵜沢総明
牛嶋謹爾
うえだきょうすけ
うえだこうきち
うえのせんいち
うえのせんいち
うえのせんいち
うえのせんいち
うえのせんいち
うきたかずたみ
うさみかつお
うさみかつお
うさみかつお
うざわふさあき
うしじまきんじ
(大正4年)6月7日
(明治33年)7月4日
1911/1/1
明治8月13日
(大正4年)5月19日
2010/5/20
(大正4年)1月18日
(大正12年)7月6日
(大正12年8月6日)
2010/7/18
2010/8/16
1909/1/20
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
牛塚虎太郎
牛塚虎太郎
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
臼井哲夫
薄益三
内ヶ崎作三郎
内田嘉吉
内田嘉吉
内田康哉
内田良平
内田良平
内田良平
内田良平
内海忠勝
江頭鴻
江頭鴻
江木千之
江木翼
江木翼
江木翼
江木翼
うしづかとらたろう
うしづかとらたろう
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすいてつお
うすきますぞう
うちがさきさくさぶろう
うちだかきち
うちだかきち
うちだやすや
うちだりょうへい
うちだりょうへい
うちだりょうへい
うちだりょうへい
うつみただかつ
えがしらこう
えがしらこう
えぎかずゆき
えぎたすく
えぎたすく
えぎたすく
えぎたすく
(大正2年)11月23日
(大正14年)3月20日
(大正5年)10月4日
(大正7年)2月20日
(大正7年)2月24日
(大正7年)3月10日
(大正9年)4月26日
(大正11年3月)28日
(大正11年)5月15日
(大正11年)7月25日
2010/3/1
(5月20日)
(大正6年)10月1日
(大正12年)3月7日
(明治44年)8月11日
(昭和4年)1月9日
1917/10/6
(大正9年)7月7日
1921/11/20
2010/11/21
2010/6/7
(明治34年)12月3日
(大正6年)9月14日
(大正7年)11月25日
大正11年11月
2010/3/16
2010/3/19
2010/5/3
(大正12年)5月25日
封筒 新聞切抜
「胡漢民君の八つ当たり」という記事は、近来の痛快事であること。
封筒 巻紙墨筆
面会してくれたことへの礼と、就職の依頼。
封筒 巻紙墨筆
支那政府から40万両の送出云々は北京事変発生時に打電したものか、広東省へも100万両調達の令あるや
に聞いてること。
封筒 巻紙墨筆
年賀の挨拶と、ハワイ移民の状況について。
封筒 巻紙墨筆
台湾郵便視察者への面会依頼と、廈門居留民のための医師招致依頼。
封筒 切抜記事
外交評論(Honolulu Star Bulletin,1915.4.30)切抜を送付すること。
巻紙墨筆 封筒
朝鮮在住の伊藤伊吉の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
文明協会事務員紹介と、同会会員募集への協力依頼。
封筒 巻紙墨筆
安田家事績調書送付の件。
封筒 謄写版印刷 合名会社保善社総長安田善次郎の事績調書送付の件。
封筒 巻紙墨筆
森元医学士の紹介状。
封筒 巻紙墨筆 名刺 渡辺寛治氏とゾルフ大使の会談について。
封筒 レターペーパーペ 昨年在米日本人会参事渡辺金三が当会の代表として貴地に行った際の後藤の配慮に対する礼と、後藤が在
ン筆 領収証
米日本人会の参助員になることを承諾し多額の金円を寄付したことに対する礼。
封筒 巻紙墨筆
『政党社会学』『独国ハンザ同盟大要』を恵贈してくれたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
後藤の姉の逝去に対する悔状。
封筒 巻紙墨筆
元老会議の開催、大命降下後直ちに組閣を提言、書簡は直ちに後藤伯に交付して相談することなど。
封筒 謄写版印刷 支那の政情について。
封筒 謄写版印刷 シベリア独立秘密報告を臼井が送付したものを島田元太郎が印刷物としたもの。
封筒 謄写版印刷 支那の政情について。
封筒 巻紙墨筆
長崎県下の選挙状況報告と、朝鮮の件についての照会。
封筒 巻紙墨筆
横田が本日来訪したこと、政友会新幹部の組織など。
封筒 巻紙墨筆
明16日朝の電話について。
封筒 罫紙カーボン複写 重要な件について後藤の内示を仰ぐため訪問を希望していること。
封筒 巻紙墨筆
富田浩太郎の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
セレベス島在住の大農園主柴田鉄四郎のために揮毫して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
蒙古産業協会成立の報告と御礼。
封筒 巻紙墨筆
後藤の母堂逝去に対する悔状。
封筒 巻紙墨筆
台湾警察歴史編纂にかかわる紹介への回答。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 台湾倶楽部副会長に就任したことと、同倶楽部総会報告。
筆 印刷物
封筒 巻紙墨筆
S.A.ウォストロチン氏の紹介状。
封筒 巻紙墨筆 謄写版 朝鮮問題に関して首相・陸相・逓相に宛てた書簡の写しを送付すること。
印刷物
巻紙墨筆
朝鮮統治に関する意見及び「日韓併合始末」送付について。
封筒 巻紙墨筆
青木宇外の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
国龍会会員藤沢の紹介状。
巻紙墨筆 封筒
台湾の実況については英断の必要があり、大蔵大臣へ相談して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
早稲田大学の紛争に関する所感と、その善後策を引き受けた後藤への私見開陳。
封筒 巻紙墨筆
バリ講話会議全権西園寺について。
封筒 活字印刷物 活版印刷の漢詩。
封筒 便箋ペン筆
招宴の礼状と対露諸国関係大略一覧。
封筒 便箋ペン筆
ビアード博士の東京市政に関する報告書送付と、ヨッフェの招致論について。
巻紙墨筆
新聞に掲載された後藤の請求に対する忠告。
巻紙墨筆
大統領候補者の政見に対する私見を送付すること。
14
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
江木翼
江木衷
江木衷
江口愛子
江口愛子
江口愛子
江口愛子
江口定条
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
えぎたすく
えぎちゅう
えぎちゅう
えぐちあいこ
えぐちあいこ
えぐちあいこ
えぐちあいこ
えぐちさだえ
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
2010/8/21
(大正5年2月26日)
(大正10年10月1日)
(明治45年)5月17日
1925/1/1
(大正15年)10月11日
2010/6/30
2010/1/10
(大正6年)7月1日
1918/1/10
(大正7年)1月20日
(大正7年)2月11日
(大正7年)2月16日
(大正7年)3月3日
(大正7年)12月7日
(大正7年)12月18日
来翰
恵美孝三
えみこうぞう
(大正8年)1月25日
来翰
来翰
来翰
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
(大正8年)3月1日
(大正8年)7月22日
(大正9年)5月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
(大正9年)6月22日
(大正9年)12月29日
(大正12年)8月26日
(大正12年)11月17日
(大正15年)1月28日
(昭和2年)7月14日
2010/2/8
2010/7/17
来翰
来翰
来翰
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
2010/10/28
2010/4/12
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 洋紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 原稿用紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
内務省の高橋要治を候補者の一人に推挙すること。
『日本膨張論』読後の感想。
国体に関する意見書を送付する旨。
父の墓参に来てくれたことへの感謝と、横山学への便宜願。
年賀の挨拶。
父の墓参に来てくれたことへの礼と、婦人参政権についての私見。
後藤一蔵負傷への見舞いと、無理解者への批判。
市政調査創設予算に対して三菱社長が同意の模様であること。
不信任案についての私見と、外交調査会が成立した上は更に進んで国民思想の統一に着手すべきであるこ
と。
新聞学会及び国民評論の経営の報告と、今後の方針について後藤の指導を得たいこと。
第40議会に向けての教示と、新聞学会及び国民評論に対する指導が欲しいこと。
憲政会の盲動と内閣弾劾案の内容もわかり、それに従い原稿に修正を加える必要があること。
議会の大勢は既に決したこと、新聞学会は爾来これに関し準備進捗し既に改版第1号の校正も出始めたこと、
またその「講義録」第1号に後藤の新聞観を掲載したこと。
明治功臣録出版の遅延と、「警世評論」及び「日本及日本人」の後藤攻撃に対する抗議方法について。
「新聞学講義」第17号完成、世界の思潮である国家社会主義を遂行できるものとして後藤に期待、やまと新聞
社における半沢の立場等について。
「講義録」第18号完成、しかし物価高騰により経費がかかり赤字であること、新聞学会・国民評論も大きく予算
を上まわっていること、来年度は新聞学会に人事部・調査通信部などを新設したいこと、今日の急務は3000円
中2000円欠損補充のことなどの報告。
封筒 巻紙墨筆
新聞学会・国民評論会の事務所を自宅に移すことの了解を求めることと、今までの欠損は「新聞講義録」にあ
るわけではなく、全て国民評論の損失によるものであり新聞学会は維持していきたいこと。
封筒 巻紙墨筆
病気快癒の祝辞と、後藤の旅行への出発に際しての挨拶。
洋紙ペン筆
対支外交の行詰り、物価騰貴、思潮激変、ストの多発、労働問題など国内情況を外遊中の後藤に報告したも
の。
封筒 巻紙墨筆
総選挙の結果、政友会は作戦通り過半数を占めたが、知識階級の信頼を失い、政界革新を標榜する少壮新
進の人物が各地で得票し、国民党も好成績をおさめ、政党革新の時代到来を感じていること。
封筒 巻紙墨筆
世間の現状を憂い、後藤に対し、高見を平易に説明し、世界の大勢と日本の地位の現状、特に時代思潮の
変化について国民の覚醒を促す一大警策を発する著作を刊行して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
姉の服喪中につき欠礼の挨拶。
封筒 便箋ペン筆 名刺 「日露予備交渉或問」の印刷において意外の失態を生じ遺憾に思っていること。
封筒 巻紙墨筆
電話不通につき取次先の氏名・住所・電話番号を通知すること。
封筒 罫紙墨筆
加藤高明首相の訃報に接し、加藤の業績に対する私見と、後継内閣についての希望。
封筒 便箋ペン筆
「万朝報」の近況報告と、後藤の普通選挙準備への期待。
封筒 巻紙墨筆
「新聞学会講義録」改版及び国民評論発展の資金受理のお礼と、別稿の一読のお願い。
巻紙墨筆
世界の大局に対し、政友会の自重論は国家を第二とし党略を第一とする由々しき言動であり、薩派海軍と結
んで現内閣の成功を妨害しようとするのみであること、出兵問題が起るごとに各新聞の論調は区々に分れ不
緊張と無理解の甚だしさを示していることなど。
巻紙墨筆
後藤より去月の来出頭を促されているものの欠礼しているが、病熱も退散したので一両日中にうかがうこと。
封筒 原稿用紙ペン筆 大戦終了後における世界革新の趨勢に適応するために、一大調査機関の創設を提案すること。
封筒 巻紙墨筆
息子の就職で後藤の世話になったものの、競争が激しく採用になりそうにないこと、神経衰弱気味なので息子
を田舎でしばらく静養させたいことなど報告とお礼。
15
来翰
来翰
来翰
来翰
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
恵美孝三
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
えみこうぞう
2010/5/20
2010/6/18
2010/6/18
2010/7/12
来翰
恵美孝三
えみこうぞう
2010/8/4
来翰
来翰
恵美孝三
恵美孝三
えみこうぞう
えみこうぞう
2010/11/16
2010/11/25
来翰
恵美孝三
えみこうぞう
2010/12/24
来翰
来翰
来翰
恵美孝三
遠藤隆吉
遠藤隆吉
えみこうぞう
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
2010/12/29
(大正9年)5月20日
(大正11年)9月10日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
遠藤隆吉
遠藤隆吉
遠藤隆吉
遠藤隆吉
遠藤隆吉
遠藤隆吉
老川茂信
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
えんどうりゅうきち
おいかわしげのぶ
(大正13年)7月2日
(大正14年)3月9日
(昭和2年)10月9日
2010/1/30
2010/2/19
2010/5/9
1928/8/26
来翰
来翰
来翰
大浦兼武
大浦兼武
大浦兼武
おおうらかねたけ
おおうらかねたけ
おおうらかねたけ
(大正2年)3月10日
(大正2年3月)14日
(大正2年)6月30日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
大浦兼武
大岡育造
大木遠吉
大倉喜八郎
大倉喜八郎
大島久満次
大島久満次
大島健一
おおうらかねたけ
おおおかいくぞう
おおきえんきち
おおくらきはちろう
おおくらきはちろう
おおしまくまじ
おおしまくまじ
おおしまけんいち
(大正2年)1月7日
(明治39年)12月11日
(明治34年)11月29日
26日
27日
(明治39年)8月17日
(明治41年)2月24日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
病気見舞への礼状、まだ不眠などは回復はしていないこと、拝受した原稿が病気のため遅れていることなど。
「国民」に掲載された太平洋の根本義を再論した感想。
先刻の後藤の教示を筆記したので、見て欲しいこと。
東京市政については、三木、森久保、利光などが暗躍しており百鬼夜行状態であるが、それを報じない報道
もおかしい。「万朝報」から自分に主筆前編集長という話しが内々に来ているが、同社は目下財政整理の最中
で毎月2万円内外の欠損を告げていることなど。
巻紙墨筆
意外の大異変により交通通信不通一切の事情不明、戒厳令施行の事も昨晩になって承知した。神田・本郷方
面も鎮火したので取敢えず特使を派遣すること、この書を持参する人物は「やまと新聞」の硬派記者西村英雄
であること、一切の通信機関もなく内閣更迭も閣員も不明であること。
封筒 便箋ペン筆
欧州最近の政情視察のために出発する後藤への挨拶。
封筒 原稿用紙ペン筆 原稿用紙表紙に「復興審議会の論議に就いて」と題し、高橋・加藤等の意見は背後に政党政派に迎合せる政
略論とし、反対論の江木・伊東の論は世間では快哉するものもあろうが、その思想や知見は時代錯誤にすぎ
ないこと。
封筒 巻紙墨筆
昨夕電話をいただいたが病のためうかがえないこと、病は快方に向かっているので一両日中には回復すると
思われる、先月来、後藤の政道論・対露策及び復興論などを対話式にまとめたので見てもらいたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
内閣総辞職の報に接しての御機嫌伺い。
封筒 巻紙墨筆
面会の礼と、後藤の無党派連盟の提案に賛同すること。
封筒 巻紙墨筆
夜学校のことで後藤より教師が近くにいるのならばやるとよいという話を得て一生懸命に取り組んできたが、夜
学校は財団法人では法規上経営できないため、芹沢氏と相談した上で後藤に報告するとのこと。
封筒 巻紙墨筆
大正12年度収支決算を交詢社で承認されたものを見て欲しいこと。願いを聞いて下さり学会としてもうれしいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
卒業式無事終了、岡田良平文部大臣の祝辞代読、浅野総一郎の演説があったことなどの報告。
封筒 巻紙墨筆
祝品の礼と病気見舞。
封筒 巻紙墨筆
後藤による保証と建築に対する高配に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
教育方針を別紙の通り決定したので、貴覧に供する云々。
封筒 巻紙墨筆
学年末し年始で雑事に忙殺され欠礼したことなど近況の報告。
封筒 巻紙墨筆
明治期にドイツに留学した人々が世話になり日本婆さんとして知られたラアゲルストレーム未亡人が1911年に
89才で逝去し、彼女の遺書により留学生らが贈った写真や手紙などが自分に渡されたこと、それらの中には後
藤のものもあることなど。
封筒 巻紙墨筆
目下政友会から首相に迫っている事のうち、陸海軍大臣任用のことは首相の方で譲るような様子であり、そう
すれば他のことも追々切込むことになるなど。
封筒 巻紙墨筆
議会の状況報告など。
封筒 巻紙墨筆
桂公の容体について、転地も本月末までとし帰京の予定であったが、この2、3日衰弱が激しく心臓も心配なの
で当地滞在となったことなどを、三郎なる人物から知らせてきたので、後藤に転送すること。
封筒 巻紙墨筆
別紙は至極名案と思うが、自分も風邪で臥床中なので別紙返上が甚だ遅延してしまったこと。
封筒 巻紙墨筆
恒松隆広の親戚の勤一を満鉄に採用して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
広池千九郎博士の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
兼て願置の通り明27日午前11時までに必ず御繰合せ来て欲しいこと。
巻紙墨筆 活字印刷物 龍門社50回秋季総会において自分個人の健康法にもとづいて発表する国家の健康法について為政当局へ
の質問。
封筒 洋紙ペン筆
新聞紙上で突然の児玉子爵の死去、後藤の満鉄転任を知り、台湾のことが益々心配に感じたこと、今回の図
師・粕両人の失態事件発覚について申し訳なく思っていること等。
封筒 巻紙墨筆
先般南部巡視中の訓示に対して後藤から叱責を受けたことと、北埔事件に関して警察統治についての反省
点について。
巻紙墨筆
礼状。
16
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大島義昌
大谷光演
大谷光演
大谷光端
大谷尊由
大谷竹次郎
太田政弘
大槻修二
(明治39年)11月23日
(明治39年)12月18日
(明治40年)2月5日
(明治40年)9月5日
2010/1/12
2010/1/17
2010/2/20
2010/6/30
2010/12/29
(大正6年)8月26日
2010/11/26
(大正3年)12月5日
(大正8年)8月18日
(大正12年)3月25日
(大正6年)10月9日
(明治)24年12月1日
大津麟平
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおしまよしまさ
おおたにこうえん
おおたにこうえん
おおたにこうずい
おおたにそんゆう
おおたにたけじろう
おおたまさひろ
おおつきしゅうじ(おお
つきじょでん)
おおつりんぺい
来翰
来翰
来翰
大津麟平
大津麟平
おおつりんぺい
おおつりんぺい
1907/7/26
(明治)1月17日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
大津麟平
大津麟平
大津麟平
大鳥圭介
大鳥圭介
大鳥富士太郎
大橋新太郎
大橋新太郎
おおつりんぺい
おおつりんぺい
おおつりんぺい
おおとりけいすけ
おおとりけいすけ
おおとりふじたろう
おおはししんたろう
おおはししんたろう
(明治)11月4日
(大正4年)2月12日
2010/2/14
(明治31年)10月10日
(明治41年)2月15日
2010/6/29
(明治45年)4月29日
1923/12/10
(明治39年)10月16日
封筒 巻紙墨筆
満鉄総裁並びに台湾総督府・関東都督府両顧問就任の祝いと、石塚や属僚等について相談を希望している
こと。
封筒 巻紙墨筆
後藤より申越の諮詢事項については、都督府創設以来日も浅く自然台湾とは相違点も多く熟考中であるので
暫時猶予を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
杉浦秘書官帰任の先月25日の貴書拝読、種々の配慮、後任者のこともあり本月上旬に上京のすること等。
封筒 洋紙鉛筆
予定通り出発し、巡査や儀仗兵が沿道に配列されて歓待、総督も特設旅館で待受け総督衙門で晩餐などを
大連の後藤に報告。
封筒 巻紙墨筆
別冊辞表を差し出す旨。
巻紙墨筆
杉浦秘書官を通じて照会の件に関し同意につき感謝、他より勧告せしむるか若しくは自分から処決せしむる
かの2案だが、慎重のうえにも慎重に考慮を尽す必要があること。
封筒 巻紙墨筆
医師の言に依り暫時温緩な他方において静養すべく外務大臣には診断書を添えて請願すること。
封筒 巻紙墨筆
管内一巡視は一昨日28日に終了、関東都督府官制一部改正実施後1ヶ月を経たが何一つ得る処は無いこ
と。
封筒 巻紙墨筆
帝国議会開幕、部内の打合せ上甚だ不面目、諮詢事項についても早速お答え申し上げるべきであることな
ど。
封筒 巻紙墨筆
多忙中にもかかわらず、大谷の依頼に対し配慮いただいたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
大久保高明の依頼の仲介。
封筒 レターペーパーペ 先日後藤が京都に来た際に留守にしていたことへの欠礼状と、先月より当地に来ていること、今夕満州に出発
ン筆
すること等。
封筒 罫紙墨筆
川野尊宝の件に対する礼状と、8月15日付の後藤の書簡並びに調査書は本日返上したことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤の亡母の葬儀写真が完成したので納付する旨。
封筒 巻紙墨筆
東京地方における未曾有の風水害の惨状に対する見舞、本県においても人心更新の必要上郡長・署長の大
更迭をしたいと考えており、その状況報告。
封筒 巻紙墨筆 和紙 高野長英の碑については小生の代作にて勝海舟は承護したので原稿を御覧に入れること、もっとも彫刻と成
までには刪修もする必得であること、篆額は伊達宗成公へ願っていることなど。
封筒 巻紙墨筆
大津は悪性マラリア再発後北投で療静しつつ公務に携わっていること、佐久間新総督は下僚の苦心して作成
した案を不採用とし、下僚を呆然とさせていること、一種の偏狭な理想と実情を整合しない私見をもって下僚
の提案を一喝するなど後藤の長官辞任後の台湾事情について。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
参事官詰の属官として法学士1名の拝用を岡松博士に依頼しておいたが適当の人物がいないとの旨申越して
きたこと、適当な者のことをそちらでも聞いたなら配慮して欲しいこと、今回上京する手嶋事務官にも依頼して
おいたこと、児玉総督の飯酒が昔日の比ではなく心配なことなど。
巻紙墨筆
台湾守備軍の人事異動、大稲埕のローズが台湾支配人を免じられたこと、ベルリン滞在の鹿子木から礼状が
届いたこと。
封筒 巻紙墨筆 活字印 福島県出身衆議院候補者中野寅吉の推薦状。
刷物
封筒 巻紙墨筆
岩手県遠野中学校大教室に掲げる文字について。
封筒 巻紙墨筆
自分は上京の意向であり、上京したならば早速参上し台湾の様子や富士四郎を御教導されたる次第も伺うこ
と。
封筒 巻紙墨筆
御機嫌伺いと、三男六三が大連において営業課に勤務しているので教導してやって欲しいこと。
封筒 洋紙ペン筆
仕払期限の延長に感謝、今後樟脳は湿度を減し高品質のものにするという話に賛同である旨のW・F・ミッ
チェルよりの書簡。
封筒 巻紙墨筆
露国大使を紹介してくれることに対する礼状。
封筒 謄写版印刷物 日本工業倶楽部と経済連盟会連合の委員会で修正可決された復興建築会社案について。
17
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
大橋新太郎
岡崎邦輔
岡崎邦輔
岡崎邦輔
岡崎邦輔
岡崎邦輔
岡崎藤吉
岡田忠彦
岡田忠彦
おおはししんたろう
おかざきくにすけ
おかざきくにすけ
おかざきくにすけ
おかざきくにすけ
おかざきくにすけ
おかざきとうきち
おかだただひこ
おかだただひこ
2010/3/14
(大正5年)10月10日
(大正6年)3月21日
(大正6年)9月16日
(大正7年)1月5日
1928/1/17
(大正6年?)2月21日
(大正9年)4月14日
(大正12年)9月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
岡田忠彦
緒方正清
緒方正清
岡田良平
岡松参太郎
岡実
岡実
岡実
岡実
沖守固
沖守固
奥繁三郎
尾崎行雄
織田信恒
織田万
鬼倉重次郎
小野金六
小野金六
おかだただひこ
おがたまさきよ
おがたまさきよ
おかだりょうへい
おかまつさんたろう
おかみのる
おかみのる
おかみのる
おかみのる
おきもりかた
おきもりかた
おくしげさぶろう
おざきゆきお
おだのぶつね
おだよろず
おにくらしげじろう
おのきんろく
おのきんろく
(大正12年12月)9日
(大正5年)3月3日
2010/8/12
(大正2年)11月22日
(大正12年)6月20日
1925/2/14
(大正)14年2月19日
(大正14年?)3月1日
2010/1/29
2月29日
(大正7年)3月3日
(大正12年)9月9日
(大正12年)1月28日
2010/6/17
(大正6年11月28日)
明治31年4月16日
(明治31年)5月17日
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
1907/7/15
1908/8/22
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
1909/2/10
1915/9/9
1918/1/11
(大正7年)1月15日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 活字印刷物
封筒 巻紙墨筆
封筒 洋紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
工業倶楽部の午餐会への招待に対する礼状。
昨日の内相就任の祝状、前内閣を批政百出と批判し、後藤内相に期待していること。
ロシア革命への所感を述べ、日本の政情について憲政会は慣用手段として選挙間際に買収の手を延してい
ることを憂慮していること。
奈良県水力の件について知事の処置等に関して具申。
新年の挨拶と、後藤への面会願い。
松田雪堂『地租委譲と義務教育費国費負担研究』の送付状。
本日河田君を差遣し内意を下されたことへの謝意と、来月早々拝謁の予定であること。
ボストン技術学校、アメリカ目下の反動的アメリカニズム、農民党の視察などアメリカ各地の状況をニューヨーク
から報告。
御寵命を蒙り並びに貴論により品川沖の駆逐艦に便乗して10日夕に帰任、爾来内々に跡始末をし、いつでも
御電令に応じる準備も整っていること、府県議会議員の選挙も目睫に迫り1日も速く御召命を願上げることな
ど。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 本日の「国民新聞」記事に、政友会政務調査会で物資供給局を廃止して農商務省に物資部を設けることなど
抜
農商務大臣の言として不都合な発言が掲載されていること。
封筒 巻紙墨筆
『日本膨張論』を寄贈されたことへの礼状とその感想。
巻紙墨筆
婦人科手術原稿落手、婦人科手術の歴史について開陳。
封筒 巻紙墨筆
翻訳された『政党社会学』と『独国ハンザ同盟大要』の著書を恵贈されたことへの礼状。
封筒 地図
鉱石山鉱産地見取図(1/12000) 西鞍山站鉄鉱産地々質図(1/12000) 西鞍山鉄鉱床断面図(縦1/660
横1/600) 鞍山站鉄鉱産地地質図(1/12000)
封筒 巻紙墨筆
ヨッフェとの交渉について「東京日日新聞」及びその他の新聞も強硬な態度であり、当分このままの局面の推
移に待つしかないことなど。
封筒 便箋墨筆
公会堂建設についての武井男爵との問答報告。
封筒 巻紙墨筆
市役所に中村市長を訪問し、市会の意向と内務省の内意について相談、会長が位置変更に反対のこと、日
露修好記念会のことなど。
封筒 便箋ペン筆
昨日武井男爵を訪問し、移転のことについては異存は無いとの発言を得たこと。
封筒 巻紙墨筆
自身の病状と金員拝借を希望していること。
封筒 巻紙墨筆
添田より後藤への書状の返付状。
巻紙墨筆
大阪と京都においては、西シベリア及び満州に出兵計画の風説があり、堅実な実業家には何事も着手できな
いような有様なので、風説ならば一掃の必要があること。
巻紙墨筆
臨時議会を開くこと、6ヶ月間東京に永久的建築に着手するのを禁止すること、内閣直属の帝都改造委員会を
設けることを電文で要求。
封筒 巻紙墨筆
面会への礼状。
封筒 巻紙墨筆
『清国行政法』の印刷については、ようやく200部を製本したこと。
封筒 罫紙墨筆
議会の正面に天照大神と神武天皇を祭ることなど。
封筒 巻紙墨筆 蒟蒻版 台湾鉄道会社の興業資金借入れについて台湾総督より依頼があったので、委員会を開き決議にもとづいて
印刷物
渋沢に依頼し、その後渋沢から三井物産の益田孝に協力を求めたこと。
封筒 巻紙墨筆
会社設立期限遅延のこと、外資借入れの件は目下ピーコック社代理人フインチと交渉中のことなどの経過は
発起人森清右衛門を台湾に出張させ、会社進行状況は同人から具申させること。
封筒 巻紙墨筆
後藤より内示の自分の外国出張の件は光栄であるり、後藤の高慮を深く肝にめいじ今後一層精励すること。
封筒 便箋ペン筆
先般中谷逓信省参事官滞在中は同参事官に同行して逓信省郵便局等を参観したこと、目下ベルリン付近の
見学に勉めていて昨日は造船博覧会を見物したこと、ドイツがこのように海事に積極的に乗出している姿をみ
ると、我国の如き四面環海の国は国民の海事思操の発達が緊要であること云々。
洋紙ペン筆
自分は後藤の高恩に依り欧米視察の光栄を得、その後何らの故障なく公務に勤めいおり、来る13日当地出発
米国に趣き3月26日入京の心得であることなど。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
尾形君とも力の限りを尽くし必ず奉公することなど。
18
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正7年)3月14日
(大正7年)3月22日
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正7年)4月1日
1918/4/25
(大正7年)7月1日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正8年)1月13日
(大正8年)1月14日
(大正8年)12月15日
(大正9年)3月3日
(大正9年)4月9日
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正9年)6月2日
(大正9年)6月16日
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正9年)8月23日
(大正9年)9月12日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正10年)5月17日
(大正10年)5月30日
(大正10年)7月25日
(大正10年)9月7日
(大正10年)11月6日
来翰
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
(大正10年)11月12日
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正10年)12月19日
(大正11年)4月25日
(大正11年)5月7日
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正11年)5月20日
(大正11年)6月21日
封筒 巻紙墨筆 タイプ 林本源製糖株式会社株式売買に関する林鶴寿と林熊徴間の調定についての報告。
印字物
封筒 巻紙墨筆
昨今専売事業を批難する者があるが、要はモルヒネ製造に就いて星に特殊利益を与えその分配の一部を後
藤の政党操縦に使用していると湯地総長に直訴したとの内報に接したが、何等懸念することは無いと愚考して
いるものの、これは自分を台湾より去らしめんとの考に外ないこと云々。
封筒 巻紙墨筆
和子夫人病気につき見舞状。
封筒 巻紙墨筆
後藤の外務大臣就任は天意に出てたるもので人意の外に属し非常の意義あるものなので、謹て満腔の祝賀
の意を表すること。
封筒 巻紙墨筆
此度代議士本田親清氏が来台し下村長官の紹介書を持って自分を訪れ対支問題、台湾に製薬所を新設し
モルヒネの売下を受けたき願いがあること、支那阿片について等の話があったこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の米国視察が決定したことについてと、後藤の阿片政策について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の発程についての内報に接したること、明石総督に対し政治の要諦を解られさる行動があり遺憾に思うこ
と。
封筒 巻紙墨筆
田新総督着任後の状況と、福井の山力寛太郎君よりの小生に対する報告など。
封筒 巻紙墨筆
水野子爵について。
封筒 巻紙墨筆
明10日正午後藤の招によって参上する人名は左記の通りなので宜しく願いたいこと。雲南督軍唐継堯氏令
息・唐紹驤氏・同令甥 唐紹武氏・軍医監周汝為氏・督軍副官劉以椿氏・留学生監督王燦氏・技師劉国澎氏・
陸軍中佐山県初男氏。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 選挙も相済み今後は政府として努力すること、先般に3回引合せた関口泰君より書面が来たので御参考のた
抜
め差上げること。
罫紙墨筆
先般後藤に接見してもらった雲南周一行は見学帰任の途についたこと、周君は阿片問題惹ては財政問題に
就き必ず帰任後唐督軍に報告し断行を促がすであろうこと。海南問題も幾分の進展を見ていることなど。
封筒 巻紙墨筆
大和製糖合併の日も無事に議決したことなど。
封筒 巻紙墨筆
伊東子爵の頼みで中山氏身上について阿部財務局長代理に相談したところその意見にては中山氏は目下
上京中にて今後尚担当のものを与えることになっているので引続き在京の必要があるとの考えであること。
封筒 便箋墨筆
只今乗船、下関市豊前田町今井唯一宛に発送することなど。
封筒 巻紙墨筆
親友の後藤祐明君の休職の電報入手したが意外のことであることなど。
封筒 巻紙墨筆
総務長官就任に対し、油断無く努力しているので安心して欲しいことなど、長官就任についての後藤への感
謝と決意。
封筒 便箋墨筆
台湾総督府内の人事について。
封筒 便箋墨筆
此度の原総理の兇変は痛恨の至りで、邦家にとって遺憾であり、国民一般にこの変事に対しては極めて慎重
の態度を採るべきであり、無論政治家は特に後継内閣政争を起さぬ様慎むべきであるなど。
封筒 罫紙墨筆
フート氏については少時間の視察であっても種々の着想があり、台湾の開発に利するものがあるので、内地
滞在中にその助力を得て電気工事に対する台湾の根本方針を確立したいと思うので、後藤の指導し援助とを
願いたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
本島産のネーブル2籠等を贈呈すること。
封筒 罫紙墨筆
英国皇太子殿下は無事退京したので安心してほしいことと、山崎君の身上について。
封筒 便箋墨筆
山崎直三君は早速嘱託を命じられて赴任したとの電報に接したので御礼を申上げること、昨日の入電で内閣
改造中止の報に接したが、万一総督が内閣に入るならば自分も特別の事情なき限りは同時に退官したいこと
など。
封筒 便箋墨筆
当地への電報は日毎に事情を異にする様に見受けられること、台湾の昨今は万事総督の指揮により最善を尽
していることなど。
封筒 罫紙墨筆
新内閣成立は意外に急速に落着したが、今日の時局は後藤以外に人心一心する者はないので、若政党者
が全然私心を去り国家本位に立脚して断じるならば必ず後藤の出馬を仰ぐものを思われること。
19
来翰
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
(大正11年)7月26日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正11年11月)26日
(大正12年)2月27日
(大正12年)5月2日
(大正12年)5月9日
(大正12年)10月17日
(大正12年)10月31日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
(大正12年)11月9日
(大正13年)3月11日
(大正13年)4月1日
(大正13年)8月15日
(大正13年)8月19日
(大正14年)9月11日
(大正14年)9月27日
(大正15年)7月4日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
賀来佐賀太郎
筧克彦
河西建次
河西建次
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かくさがたろう
かけいかつひこ
かさいけんじ
かさいけんじ
(大正15年)7月17日
(大正15年)9月29日
1918/1/11
(大正2月24日)
2010/7/13
2010/7/13
2010/8/23
2010/10/6
(大正)12月16日
紀元2586年9月6日
(明治40年)5月17日
(大正元年)12月3日
来翰
河西建次
かさいけんじ
(大正3年)正月元旦
来翰
来翰
来翰
河西建次
河西建次
河西建次
かさいけんじ
かさいけんじ
かさいけんじ
(大正7年)7月13日
(大正7年)12月4日
(大正10年)11月5日
封筒 便箋墨筆
後藤裕明氏は長く浪々の境遇にあり友人として心痛のしているので、水野内相にその採用方を後藤より申入
てほしいこと。台湾電力の工事の一時中止後の方途については、目下検討を重ねているので、後藤の教えを
受けたいこと。
封筒 巻紙墨筆
来27日に相違なく参上すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の母親の逝去に対する悔状。
封筒 便箋墨筆
台湾行啓御沙汰書訂正の件。
封筒 便箋墨筆
辜顕栄救済の件。
封筒 便箋墨筆
後藤の帝都復興院総裁兼任のことと、新総督の就任について。
封筒 罫紙墨筆 履歴用 内田新総督と政務に精励していること、今後数ヶ月の間に於ける総督の態度によっては台湾も新生の気が発
紙
生するであろうこと、 当庁事務官高橋親吉氏は年来内地転勤を望んでいるので、万一都合がよければ内務
部長に採用すれば相当の役に立つこと。
封筒 便箋墨筆
内田総督の動静と後藤裕明のこと、高橋事務官への内示のこと。
封筒 便箋墨筆
辜顕栄の財産整理と救済について。
封筒 便箋墨筆
辜顕栄の財産整理の処置方について。
封筒 便箋墨筆
内田総督台湾においては内外に一人の支持者もなく、引上の用意をしている様に見受られるので、その際の
賀来自身の処し方について。
便箋墨筆
内田総督の去就について、総督への官民の風評と賀来の総務への不満など。
封筒 便箋墨筆 巻紙墨 賀来の援助に感謝する旨の辜顕栄より自分宛の書簡を後藤に送付する旨。
筆
封筒 便箋墨筆 電報 先日後藤の示教を受け、只進行を中止することのみだが、今後とも必ず一応の相談なく行動を開始することは
ないものと察せられること。
封筒 便箋ペン筆 雑誌 熱海に対する閣下の高諭については感動したこと、今回久邇宮殿下の別邸が熱海に設けられたことは光栄感
切抜
激の至りであるが、熱海の恩人たる後藤の別邸を失うことは残念なので町有地を割いて別荘に充てはどうかな
ど。
郵便書簡ペン筆 名刺 中山と山県の額面2枚を発送したこと。
封筒 便箋ペン筆
出発直前電話にて願出た大分県久住町民有志希望の後藤の講演の件に付き、日程の範囲にては困難なの
で今回は断念して次の機会を待たれる様申送ったことなど。
封筒
封筒のみ。
封筒 名刺
明日議会に出席の上で説明してほしいとの土屋よりの申出に対し、充分説明を与えるので安心して欲しいこ
と、中村君と今夕会見することなど。
封筒 便箋墨筆
別邸問題について。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
新聞記事小生申し出のものといささか内容に違いあり御教えを仰ぎたし。
封筒 便箋墨筆
佐野博士の渡台視察願については後藤が口添したが希望の通りになったのか、福沢氏への件についてな
ど。
封筒 便箋墨筆
日本宗教家懇話会に出席するはずのところ、朝鮮地方に旅行のため後藤の高訓に接することろができないこ
と。
封筒 巻紙墨筆
ドイツへ医学留学中の学資金を台湾総督官房秘書官大津麟平より受領したことと、留学生たちの動向につい
て。
封筒 巻紙墨筆
中央試験所員平野久伴は今回留学決定に付き、同氏の高梁紙製造に関する調査及び留学中の調査事項が
製塩事業にあるのか高梁紙事業にあるのか等につき後藤に引見してほしい旨。
封筒 巻紙墨筆 謄写版 勅令の廃止によって後備役になっても、満州にとどまって南満医学堂の経営に努力する旨。
印刷物 活字印刷物
封筒 巻紙墨筆 活字印 南満医学堂の卒業生の状況と第4回卒業式挙行の件。
刷物
封筒 便箋ペン筆
第15回上水協議会参列のために台湾に行き、ついでに台湾各地を視察してきたこと。
封筒 巻紙墨筆
原敬首相の暗殺を聞き、後藤が政党政治に着手することを望んでいること。
20
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
河西建次
河西建次
河西建次
河西建次
河西建次
笠間杲雄
かさいけんじ
かさいけんじ
かさいけんじ
かさいけんじ
かさいけんじ
かさまあきお
(大正12年)11月2日
(大正12年)
(大正)6月2日
(大正)10月24日
(大正9年)6月23日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
片岡健吉
賀田直治
賀田直治
片山秀太郎
片山秀太郎
片山秀太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かたおかけんきち
かたなおはる
かたなおはる
かたやまひでたろう
かたやまひでたろう
かたやまひでたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
2010/12/31
(大正7年)11月25日
(大正7年)12月25日
1925/1/15
(大正15年)7月24日
(大正)10月5日
(明治33年)8月3日
(明治34年)3月9日
(明治34年)3月22日
(明治34年)3月30日
(明治34年)4月22日
(明治35年)3月18日
(明治36年)1月18日
(明治36年)1月24日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
(明治37年)5月16日
(明治37年)9月28日
(明治38年)3月31日
(明治38年)11月22日
(明治39年)5月31日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
(明治39年)8月1日
(明治39年)11月18日
(明治39年)12月23日
(明治40年)1月23日
(明治40年)2月1日
(明治40年)5月31日
(明治40年)8月31日
来翰
桂太郎
かつらたろう
(明治41年)1月7日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
鳥取県知事留任につき後藤の配慮に感謝していること。
後藤の入閣に対する慶賀と、近親の鳥取県知事が苦況にあるので引き立てて欲しいこと。
友人の朝日新聞記者大谷氏に面会して欲しいこと。
大連医院歯科医長を勤めていた佐藤運雄氏が退職して私立歯科医学専門学校を創めるので後藤に後援し
てほしいこと。
手紙の件その他にて後藤と面談したいこと、朝鮮の序でに奉天か北京までの微行を希望していること等。
国際交通会議に代表委員として出席し、日本の政界に外交界人物なきを慨嘆すること、後藤の提案の有望青
年欧米留学が急務であること、近来顧維鈞らと交際してみて日本が遜色あるは偏にこの点にあること。
巻紙墨筆
高知県人片山要三郎氏を採用して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
実業界注意を要する時機であること、西シベリア後援推進委員会の仕事を努めたいこと、彦七を機を見て誘い
たいこと、謙良院様の供養を心懸けていること。
封筒 巻紙墨筆
故夫人を追慕、平壌栗一袋を御仏前に供されることを願う。
封筒巻紙 墨筆
日露協会学校第3回卒業式への出席依頼。
封筒 巻紙墨筆
小倉市青年会主催の講演会への講演依頼。
封筒 巻紙墨筆 暗号表 日露協会学校の綱紀緊張のこと、ハルピンに労農勢力が増加し白色露人が大恐慌であること、露支親善が進
むこと、親日露人が凋落したこと、別紙電報暗符を同封すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤が台湾に帰る前に会いたいので、葉山の別邸を訪れて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会学校への援助に対する謝辞。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会学校への補助存続願。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会学校の計画への後藤の協力に対する謝辞など。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会学校寄宿舎建築の件。
巻紙墨筆
入院中の後藤に、退院後は葉山で静養してはとの誘い。
封筒 巻紙墨筆
後藤と石里の書状により、大倉・石黒・佐藤と会合の後、大倉と会見する旨。
封筒 巻紙墨筆
日頃話合っている件については、話をしなければならない事があるが所用に取紛れているので一日延引して
ほしいこと、昨朝大倉と面会して自分の意見を話したところ、大倉も充分熟考するといって帰ったこと、また石
黒男爵へも相談するといっていたこと。
封筒 巻紙墨筆
日露戦役中の九連城の戦闘に関する報告と戦後の状況並に台湾協会学校補助金について。
封筒 巻紙墨筆
日露戦役中の九連城の戦闘に関する報告と戦後の状況並に台湾協会学校補助金について。旅順・遼陽前
の時局に対する意見。
封筒 巻紙墨筆
日露戦役中の奉天付近における戦況報告と、阿里山の森林事業について。
封筒 巻紙墨筆
日露戦争後の桂自身の進退に関する件。
封筒 巻紙墨筆
長男や二女の結婚で多忙であること、数十年ぶりに閑ができたので家事の整理に余念がないこと、出発前に
後藤より依託された件については杉山氏をもって内報した通り閣議決定したこと、近頃は満州所分に忙しく、
自分まで引出されて迷惑していることなど。
巻紙墨筆
児玉源太郎の訃報に接しての思い。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会の組織変更につき桂宅へ会合して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾協会の拡張について総会開催につき出席依頼。
封筒 巻紙墨筆
先日内話の件については後藤が諸方へ話していると思うが、その状勢について一報して欲しいことなど。
封筒 巻紙墨筆
伊藤博文はまだ決心せず鶴厚長官が帰朝してから桂を加えて3人で大磯にて協議決定することになった旨。
封筒 巻紙墨筆
東洋協会拡張資金の募集は予想通りであること、北京行の都合についてなど。
巻紙墨筆
韓国問題が起ってより世の中は韓国韓国と彼是言っていること、伊藤博文が帰京して韓国政変についての報
告があったこと、政界も政府も夏の昼寝状態であること、9月中旬に後藤が上京する時には満州統一意見を携
帯してほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
昨日僧侶が来て例の一件について耳を煩したがお経を聞いて極楽に行くわけにもいかず理屈を述べて帰し
たこと、今日も鉄道屋の和尚が来て難題について説法したがこれ又極楽へ送ってくれる様な力が無く理屈を
もって退去させたことなど。
21
来翰
桂太郎
かつらたろう
(明治41年)1月11日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
(明治41年)1月23日
(明治41年)2月28日
(明治41年)5月15日
(明治41年)11月14日
(明治42年)1月23日
(明治43年)4月14日
(明治44年)2月24日
(明治45年2月)18日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
(明治45年)5月20日
(明治45年)7月5日
(大正元年)8月13日
(大正2年)5月26日
(明治)2月2日
(明治)2月2日
(明治)2月22日
(明治)3月6日
(明治)4月17日
(明治)4月22日
(明治)6月19日
(明治)8月6日
(明治)8月30日
(明治)11月1日
(明治)11月5日
(明治)11月13日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
(明治)11月29日
(明治)12月6日
(明治)12月11日
(明治)12月12日
(明治)12月25日
(明治)12月29日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
杉山氏より云々の事は自分はまだ面会していないので不明であること、東京もまだ落着せずその日その日を
送っている有様であるが、明日頃より動きはじめるようであること、此度のことは大蔵が我等を全くごまかした結
果であること、この両三日の事の進行により意外の事を生じるであろうことなど。
後藤に面談したいことがあるので、都合のよい時に会って欲しいことなど。
過日内話下された件は断ってきたので、この際見合わせとして一考願いたいこと。
大連出発の際の後藤の手紙を受け取ったことと、国内の財界や政界の情勢等について露国旅行中の後藤へ
の通報。
9日は造幣局にて終日試験に従事し、翌日は大坂実業協会の晩餐会で財政談を試みたこと、鉄道院官制の
件は上奏したが未だ下付されないことなど。
本日内話の物は明朝家扶に持参させるので受領してほしいこと、明日後藤邸に伺うので、委員会の答弁の順
序について指揮してほしいこと。
病気のため葉山で静養している後藤への見舞い。
大逆事件問題と南北朝正閏論問題落着の件。
佐藤中佐の報告は当を得ていること、英国大使が満州問題についての英国外相の覚書を持参してきたこと、
これらの問題に対して政府の意見は未だ確定していないので心配であることなど。
過日内話の件に付き寺内朝鮮総督へ書面を遣したこと、書中に日露協会の件について後藤が近々朝鮮に行
くことを認めたこと、自分も明日より軽井沢へ行くことなど。
満州からシベリア旅行途中の警備に関する件。
桂の旅行中の通路の警戒保護に対して露国皇室と政府へ発する謝電について。
同志会の内訌問題について。
後藤の病気に対する見舞、自身の近況、最近の議会の様子と対朝鮮・支那問題の推移、六三案の提出につ
いて一木・原と交渉の件。
彼の人より来書にて、面会の結果先方も同感で来る5月に会談の事に決定したこと、多少の難風は覚悟の上
であるけれども船は山へは乗せないので安心していてほしいことなど。
義勇艦隊の船舶を台湾に仕用するのが困難ならば満鉄の仕用に供したらどうかと有地男爵より相談があった
こと。
東洋拓殖会社の設立について。
平田男爵事件に関しては要領を得ないので、本人の話を聞いてやって欲しいこと。
平田男爵の件については、直接話を聞いてやって欲しいこと。
欧州へ出発する朝比奈知泉の送別会の案内状。
逓信省所管予算についての説明。
富講と売債の件について。
只今大蔵大臣と協議を遂げたので、後藤に速やかに大蔵次官と善後策について協議して欲しいこと。
陸軍大臣より承ったところによると問題も解決する哉の処に誠によんどころ無き事にて勘弁を願いたいことと、
魯語専門卒業生の採用方依頼。
昨朝内話の件は昨夕斉藤侯に面会し話をしたが、敢て宮内省にて事業をしようとするものではなく、老生の考
えも打ち明けたところそれに関しては異議がなく、また官業は勿論同意であり、民業に移すことも至極賛成との
こと、また台湾善後策についてのことなど。
大租事件については、閣議に提議の運びとなったこと。
杉山氏の件について寺内朝鮮総督と協議したが、釜山問題については差し当たり総督に依頼するしかないこ
となど。
出京中の後藤を台湾協会へ招待したいことと、その時に内地人の肝を寒からしめるような講話をして欲しいこ
と。
鉄道院予算の削減についての釈明。
後藤の転地療養を聞き安堵し、充分の静養を希望していること。
後藤逓信大臣の旅行承認の件。
22
来翰
桂太郎
かつらたろう
(大正)3月11日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
2010/2/13
2010/2/27
2010/3/18
2010/4/4
2010/4/20
2010/6/10
2010/6/12
2010/6/16
2010/6/19
2010/6/27
2010/7/11
2010/10/22
2010/11/4
2010/11/9
2010/11/13
2010/12/13
2010/12/17
14日
2010/1/5
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
桂太郎
かつらたろう
2010/7/13
巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
桂太郎
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
かつらたろう
2010/12/1
2010/12/17
2010/12/22
2010/12/29
18日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
桂太郎
かつらたろう
(明治)5月15日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
加藤高明
加藤高明
かとうたかあき
かとうたかあき
(大正13年6月13日)
(大正)14年7月16日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
加藤時次郎
かとうときじろう
1916/10/30
封筒 巻紙墨筆
後藤の高配に預った事務所の件は意外の変化を来し意の如くにならず遺憾千万であること、後藤が渇望して
いる件は都下においても「毎日新聞」等で承っているが、本日彼の応答で或は鎮静するかもしれないと、このと
ころ見物していることなど。
問題は目下掛案中であるが安心して静養していてほしいことと建築図案に関する件。
熱海で静養中の後藤への東京の近状通報。
秘電を落手したことと、電文は明朝会ったときに返却すること。
新年の挨拶。
昨日、山県が来訪し会談したところ、例の一件に関しては想像通り同意せず、尚充分熟考を要することと考え
ていること。
直接話したいことがあるので、明日来訪して欲しいこと。
世上の風雲は政党の勝利と政府の万歳を称えている形勢であることなど。
長谷川すゝ子の紹介状。
後藤に依頼しておいた東洋協会大阪支部と神戸における協会資金の募集についてなど。
満州営口水道事業について。
お気付の件は暫時兼任の決心をしたこと、植木屋政策については多少の結果はあるだろうが、先年の例を見
るならばこの策は害多くして益がないので止めた方がよいことなど。
日独協会創立について。
桂の写真を送付すること。
杉梅三郎の身上の件については直接内示して欲しいこと。
上田熊生の紹介状。
上田熊生を使用して欲しい旨依頼。
龍居氏の書状は一見の上返付したので査収して欲しいこと。龍居の意見は充分に斟酌できることなど。
別紙一見、只今より供奉出発し20日に帰京すること。
原氏より申出の事は極秘にしておいてほしいこと、九州鉄道の事は断然実行してほしいこと、後藤の旅行中は
原への対応は寺内等と協議すること、満州銀行の件は最早捨置けないので、後藤の留守中に決定することな
ど。
佐久間台湾総督が来訪し民政長官候補について当方の意見を承諾し亀井英三郎・床次地方局長の2人を候
補として出したこと、亀井は目下事情がゆるさず床次は将来台湾に樺山時代の形勢を造り出す可能性がある
と佐久間へ返答したこと、後藤の意見次第で床次が採用となるとのこと。
後藤の書簡と通信を見たが、この際は一本参るほかはないこと。
体調が回復したので、後藤に来訪して欲しいこと。
病気引籠中の後藤への見舞状。
江木翰長が来て、一見至極の案ではあるが、実は書面にしないでも実際にこの様に致すつもりであるので、迷
惑である旨。
本日、松田正久氏と大臣室に於て会談した時に、航路補助予算問題については当期の協賛は堂内の紛騒も
あるので猶予し、来期のこととしたい旨西園寺等とも相談中であると申出たので、この問題は法律は既に確定
しているのだからと申述べておいた旨。
今朝参内し皇后陛下の施療施薬に関する勅語に奉答し計画等を上奏して帰宅したところ、後藤の手紙と自分
の昇寿の御祝物をいただき有難く接手しこと、今日の昇寿は先に内閣において披露した通りで深く謝するとこ
ろであるが、その御祝として青玉の花瓶を送っていただいた厚志には感謝すること。
加藤高明内閣組閣の際の後藤の祝詞に対する返礼、近日中に後藤が来訪してくれるということだが、一両日
中は取込んでいるので15日にしてほしいこと。
後藤より申越の件については、露国との関係上外務省の意見を聞く必要があり、また財務当局その他の考え
も聞かなければならないが、後藤の意見の趣旨は申伝えてあるが、未だ回答がないため、問題案件の採否に
ついては今は申上げ兼ねること。
今回内閣の主席を得られたことは密かに悦び、後藤の手腕に希望、旧友末吉四郎を鉄道薄給従業者に国家
教育布教を希望、諸種の便宜依頼。
23
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
加藤時次郎
加藤時次郎
加藤咄堂 (熊一郎)
加藤友三郎
加藤友三郎
加藤尚志
加藤尚志
加藤尚志
加藤尚志
加藤尚志
加藤政之助
加藤政之助
加藤政之助
加藤政之助
加藤政之助
揖取素彦
金井清
金井清
金井清
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金杉英五郎
金子堅太郎
金子堅太郎
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かとうときじろう
かとうときじろう
かとうとつどう(かとうくま
いちろう)
かとうともさぶろう
かとうともさぶろう
かとうひさし
かとうひさし
かとうひさし
かとうひさし
かとうひさし
かとうまさのすけ
かとうまさのすけ
かとうまさのすけ
かとうまさのすけ
かとうまさのすけ
かとりもとひこ
かないきよし
かないきよし
かないきよし
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かなすぎえいごろう
かねこけんたろう
かねこけんたろう
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正6年)1月30日
(大正6年)1月30日
(大正15年)7月5日
(大正8年)1月8日
(大正)
(明治30年)10月5日
(明治33年)2月8日
(明治)2月1日
(明治)12月6日
(明治)14日
(明治39年)11月26日
(大正9年)12月10日
(大正11年)5月9日
(大正12年)9月14日
2010/8/10
(明治42年)10月29日
(大正4年)4月20日
2010/3/7
(5月9日)
(明治39年1月)30日
(明治41年8月5日)
(明治43年)3月29日
(大正4年)3月28日
(大正4年)3月30日
(大正4年)4月14日
2010/3/9
2010/10/9
6日
(明治)月20日
(大正6年)9月4日
(明治34年)5月23日
1904/4/2
(明治)38年11月16日
(明治)39年2月8日
(明治)39年2月9日
(明治40年)7月20日
(明治41年)11月21日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 メモ 名刺
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 洋紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 インボ
イス用紙
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 罫紙
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(明治41年)12月5日
封筒 巻紙墨筆
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堺利彦の立候補を間接援助しているのは社会主義を主張しているのではないので、妨害・圧迫無きよう希望
していること。
堺の運動に対する援助は鈴木梅四郎攻撃の意味であること。
愚見を別封の「精神」に披露しているので、後藤に見て欲しいこと。
栃内長官令嬢の安場家との縁談について。
浅井秘書官への極秘内話は差し支えないこと。
阿片行政に関する講話筆記を差し上げるので、自分の上京後後藤の指揮を受けたいこと。
施政状況報告と、阿片原料騰貴について。
後藤の指示の通り水野長官へ相談したところ至極もっともの説なので明日はこれを主張し、場合に依っては臨
席を請求するかもしれないこと。
員林椪柑を便船にて進呈する旨。
目下の台北付近の状況報告。
貴会社に御話の両名を採用して欲しいこと。
東京市長当選問題については、後藤の拒絶を希望していること。
先般の件は切迫しているので、特別の配慮を切望していること。
近況報告。
伊豆天城山の山葵を贈呈する旨。
劣孫三郎の技師昇進願。
京浜電鉄に関し書類を内務省より取り寄せ調べたこと、京浜間貨物輸送調査問合、軌道及び軽便鉄道一覧
を鶴見君に託したこと。
高橋氏の教習所卒業後の就職依頼。
岡山県警察部長より選挙区内の検挙状況の報告。
桜田倶楽部幹事会への出席願。
後藤の新内閣入閣の祝詞。
自分の一言が誤解されているが、自分は後藤を中傷する程馬鹿ではないこと。
野並氏の件が官憲財力の迫害により意外の不結果となったこと。
野並氏の落選と親戚・知人が多数検挙されたことについて。
最早忍耐も切れ当方より攻撃することを覚悟したこと。
昼食の招待状。
我が国の衛生行政の沿革について後藤の意見を聞きたいこと。
愚論を持ち込む馬鹿者がいるが、心配は無用であること。
政界の状況は台湾も万事不如意で、後藤の不満を察していること。
米国代理大使ホイラーとの面会の件。
マックンジー工場の継続について。
再製受負契約が後藤のおかげで継続になったことへの謝辞。
戸坂熊吉が横須賀海軍工廠に雇用された後急病にて死亡した経過について。
再製樟脳製造に関する相談。
樟脳製造改良策中の計算の訂正。
賀田の件は御申聞の如く貸出を承諾し8万円渡し残りは本月中入用、大里製糖合同一件は左記の条件にて
まとまる等。
九鉄調査の件は門司支店の岡烈へ申付け別紙が出来たので送付、九鉄創業の際土地出身の軍人・警部の
古手を駅長に採用したため、駅長は甚だ高慢にて便利等につき考慮を図らず発車時間を勝手に定めている
ので、仙石氏の改革で最も骨折れたのは駅長の更任であること。
山陽鉄道に関する取調調書供覧の件。
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(明治42年)2月25日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(明治42年)3月1日
(明治42年)4月22日
(明治42年)10月28日
(明治44年8月28日)
(明治45年)4月26日
(明治45年)6月12日
(大正元年)11月10日
(大正2年)3月22日
(大正2年5月10日)
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正2年8月10日)
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正2年8月18日)
(大正2年)8月19日
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正2年8月30日)
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正2年8月30日)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正2年9月10日)
(大正2年10月12日)
(大正2)年10月21日
(大正2年10月21日)
(大正2年)11月2日
(大正2年12月6日)
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正2年)12月10日
(大正2年12月16日)
(大正2年12月18日)
(大正2年)12月26日
封筒 巻紙墨筆
辰馬の件、引請けるとすれば精細な取調べ必要だが目下日糖事件で暇無しと応答したが、度々来訪し辰馬
整理放棄するの外無きを以て強願、また酒造税納付のため3、4万円の調達相談があり融通、日糖重役に自分
を擬す件は、鈴木の内諾を得られるまで見合わせてほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
坂出鳴海の釜山埋立意見書について。
封筒 巻紙墨筆
関門調査による彦島活用に関する意見書。
封筒 巻紙墨筆
伊藤博文薨去につき挨拶。
封筒 罫紙墨筆
社外船の発達に関する意見書。
封筒 巻紙墨筆
日露協会会員承諾者氏名について。
封筒 巻紙墨筆
日露協会寄付金2万円を日野氏宛に送付したこと。
封筒 巻紙墨筆 地図 西村が買い取った地所建物の件、軍艦商船要部の鋼材に関する件。
封筒 巻紙墨筆
大統領府李秘書(袁の腹心)へ曹汝林(袁の密使)派遣の件と、本日の新聞にある新政党会での大隈伯の演
説の件について巽よりの来簡を後藤に送付する旨について。
封筒 便箋墨筆
参議院議長は国民党の勝利、衆議院議長選挙は袁世凱派の勝利、五国借款団成立、参議院は五国借款団
を無効と議決せり、借款団成立に関する袁世凱の真意、米国は承認、袁の密使を帯び李秘書来訪など。
封筒 便箋墨筆 新聞切 袁世凱の密使来邸、油砿一家袁に回付。加藤高明退京、日本の通信員来訪、今回成立の中日トラスト会社
抜
について、孫文の動向、油砿について、新聞切抜送付、進歩党総務総長林長民来訪、中国政府の公正な態
度、軍人と外交官の意思疎通不十分のことなど。
封筒 便箋墨筆
辛亥革命の第二革命失敗後の感想。
封筒 巻紙墨筆
彼の部分は必ず調達するが今は活動写真の件に尽力中にて猶予ありたし、日活問題救済は当店の事情が許
さないので藤田と相談すべし、巽より桂の回復を賀すとの来電ありこれは袁世凱が祝意を致したもの、今回の
支那騒動が日本経済に与えた影響度合いは日本国内と同じであることなど。
封筒 便箋墨筆
ドイツとベルギーのシンジケートの活動がめざましいこと、陜西に出かけていた山本と鈴木が北京に帰って来
るので、彼等が何をやっていたのか内偵中であること、現在当地に出張中の陜西省財政司長は袁世凱派に
属しており実際は何をしに来たのか不明であることなど。
封筒 便箋墨筆 名刺 鈴木直三郎の動向、陜西省石油開発に関する件、油、農、糖三件のうち、油の件は一番進行していて残りの
件は進行させたし、農政における提携案、日本人の米消費高が知りたいことなど。
封筒 便箋墨筆
山本と鈴木のは山座の資格で陜西財政司長と会見、別紙中華民国内務省訓令供覧、日本の新聞取締に関
するもの。
封筒 便箋墨筆
自分の二旬目での活動の苦心は別紙選挙法第三条に関すること、今朝選挙、10日就任式。
巻紙墨筆
巽昨日帰来、別紙書類は大体纏め方を記したるもので、より詳しい書類は後送すること。
封筒 便箋墨筆
油・米・棉・糀に関する覚書要領別紙の通り、詳細書類は持参する、進歩党政務長林長民が来訪し日本の政
局について話したこと、村長民のことなど。
封筒 巻紙墨筆
平井晴二郎の北京行についてと、後藤の同志会絶縁は喜ばしいことなど。
封筒 便箋墨筆 メモ 後藤と桂・立憲同志会の関係、後藤の抱負、油砿問題に対する応援、国民党解散、議員資格褫奪の理由、財
活字印刷物
政上の問題、鉄道問題、油砿問題、日本への公使は陸宗輿に決定、陸は袁世凱派の一人、海軍の油砿運動
失敗、倉知事業も思うように運び居らずことなど。
封筒 巻紙墨筆
中山説太郎紹介、要件は露領での漁業に関しては日露協会の尽力を希望、中山は一井組の代表者。
封筒 便箋墨筆
黄遠庸の日本視察は総統府より日本の対支方針を探るように命じられたためで、後藤を訪問する予定である
こと。
封筒 便箋墨筆
日本公使陸宗輿来訪、過日黄遠庸と同じく説示、後藤男を頼みとするよう、黎之洪の北京到着の様子、倉知
は南方で持てあました株を北方にて引き受けてくれと頼むことなど。
封筒 巻紙墨筆
星と面会し後藤に一任しておいたので、その指揮を受けるべしと伝える、要するに内田長官の決心一つで如
何様にも出来る様子であるが要領を得ないので後藤より配慮してほしいこと。
25
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正2年12月27日)
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正2年11月24日)
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正3年1月?)
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正3年1月)
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年2月19日)
(大正3)年2月27日
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年3月3日)
(大正3年3月5日)
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年)3月7日
(大正3年)3月9日
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年)3月13日
(大正3年)3月17日
(大正3年)3月24日
(大正3年)3月29日
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年)3月31日
(大正3年4月6日)
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年4月10日)
(大正3年4月18日)
(大正3年)4月24日
封筒 便箋墨筆 活字印 特使来邸、油砿に関する修正書類は大総統に提出、他3案も同様、袁世凱は実業総長張謇をある点まで自
刷物
由に頤使する方便考慮中、袁世凱は先生の意見書を細読して運用、中国内政情報、日中実業関係に関する
情報。
封筒 便箋墨筆 活字印 22日到着、同夜袁世凱の使来訪、米国人頻りに陜西を望む、熱河の油砿を米国に提供、熊総理と段陸軍総
刷物
長との軍隊減少問題、有賀長雄の件、川崎洋行の出張員の件、葉山別荘での御訓示了承、近日袁世凱大総
統に面会、油砿は当方の修正意見の通り了議、米・糖・棉等々実業総長と内儀決定するなど。
封筒 便箋墨筆
袁世凱の命により新任駐日公使陸宗輿来邸、日本の現況主として政治界・実業界についての変遷の説明を
求めたので維新以来の歴史的事実を詳説し、現今の人物評では後藤のことを吹聴しておいたこと、憲法起草
委員としての種々の内案の話や第一革命当時の秘密談を聞いたことなど。
封筒 便箋墨筆
袁世凱は油鉱は外間より指を染るを許さず自分の考えにて決行しつつあり、糖・米・棉問題を農商総長に申し
含めた一事について、在日本公使館一等書記官劉崇傑露国に転任、総統府部内に日本に在る亡命の徒が
何か計画しているとの懸念ありなど。
封筒 藁半紙鉛筆 罫紙 特使来訪、米国の運動活発化、1部譲歩余儀なし、海軍小田切失敗、当方計画への影響大ならず、公使の力
だけでは駄目、陸公使昨日来訪。
巻紙墨筆 便箋3枚 封 大日本麦酒上村来談、桜麦酒との交渉不調の件、熊内閣辞任、小田切の申込の件を米国探知、財政逼迫の
筒
ため借款必要、機を見て破約の内意、日本海軍延長石油のため3000万円貸せるか、日本内閣交代と後藤の
位置、若し寺内内閣となり後藤が入閣したならば実行できるなど。
封筒 便箋鉛筆
○(原文のママ)と会談の内容明日送る、民国最高幹部の内幕、陜西省民の反対など。
封筒 便箋墨筆 洋紙 米国スタンダードとの仮契約破壊も可能、山座公使より油田権の要求ありしも熊が認諾せず云々、日本内閣
の状況との関係、大谷光演法主は社会の状況を見ることなく正義の言を聞く耳のない馬鹿である、国民党解
散以後の党現状についての情報、白狼匪軍と官軍との対抗状況の概略など。
封筒 罫紙ペン筆 便箋 北京巽氏より入電で、我が政府油坑のために3000万円用意の真偽を取調のうえ電報願いたいこと。
活字印刷物
封筒 巻紙墨筆 電報 3000万円の件について後藤の返事を持っていること、油鉱計画も怪しき方に進みかけている様で袁世凱の方
から3000万円の話をほのめかす様な、或は米国その他日本との関係を発表し米国の方より多く出金させる魂
胆か、しかし日本政府が抗議を行えば巽に授けた計画が成功するとも思えることなど。
封筒 巻紙墨筆
鈴木商店と台湾総督府専売局の関係について。
封筒 巻紙墨筆 電報 後藤の内報の大意を巽に文通したところ、この次の内閣改造の政変は迅速に電報してほしいとの来電あった
こと。商業界は真に混乱の状態で、三井も200万円以上損失。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 渋沢栄一の渡清に関し別紙「神戸クロニクル」記事送付、内閣はいよいよ辞職であるがこの際、浜口雄幸にし
抜
かるべき地位配慮を乞うこと。
封筒 巻紙墨筆 便箋 巽より別紙あり、11日協話の第五点について意見を尋ねてきたので指図を乞う、小生より新内閣成立後でなけ
新聞切抜
れば意見決定は難しいことを申し送る、新内閣情報の迅速と確実さが巽の袁世凱に対する信頼を上下させる
こと。
封筒 巻紙墨筆
清浦内閣確定の由、国民は政争のため迷惑、東西の銀行支払停止頻々、先便浜口雄幸の件を配慮してほし
いが、彼の進退は加藤総理の内諾を要すること。
封筒 便箋墨筆
(金子直吉宛巽来治郎書簡)日支間国交険悪、一昨夕曹汝霖の激語は南京事件と昌黎事件への苦情、日支
関係円満のためには昌黎事件譲歩と孫黄放逐間接損害の放棄必要。(金子直吉宛巽来治郎書簡)司法次長
来邸、章総長の農商総長兼任について、新聞と政治派閥の関係について。
封筒 便箋ペン筆
北京巽より入電で、袁世凱は太后の坤徳を称し、崩御を惜しめり、昨夜の重要内議は例の宣言実行に関する
事と利権問題、財政問題であること。
封筒 便箋ペン筆
北京巽氏より来電で、昨秋の議定と先月の内議を基礎として契約の調印が済んだが、一方の件は我が政府に
とって重大であること。
封筒 巻紙墨筆
昨日巽来治郎に面会し、彼の件は不完全ながら兎に角調印、内容は近日翻訳送付することなど。
26
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正3年)4月27日
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年)5月28日
(大正3年)6月30日
(大正3年)7月1日
(大正3年)10月13日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正3年)10月20日
(大正6年)4月17日
(大正6年)5月21日
(大正6年)11月6日
(大正7年7月)
(大正7年)9月2日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正9年)3月27日
(大正10年)12月16日
(大正11年)10月15日
(大正11年)11月22日
(大正12年3月13日)
(大正12年)3月30日
(大正12年)5月5日
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正12年)5月25日
(大正12年8月27日)
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正12年)9月3日
(大正12年)9月15日
(大正14年)7月24日
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正14年)8月3日
来翰
金子直吉
かねこなおきち
(大正)2月15日
封筒 巻紙墨筆
巽の尽力の件は大隈伯側の人には話さないように願いたいこと、後藤恕作の息子積の結婚の件で後藤へ人
物問い合わせがあるから宜しく答えておいてほしいこと、大阪北浜銀行の取付収まったこと。
封筒 巻紙墨筆
北京より巽氏へ対支同盟・煙草専売についての別紙電報に付き後藤へ供覧の件、醋酸の技師を樺太へ売込
の件。
封筒 巻紙墨筆
巽来治郎が朝鮮総督府において卒倒して危篤に陥ったこと。
封筒 巻紙墨筆
巽の病気への後藤の配慮に対する謝辞と、その後の巽の状況。
封筒 巻紙墨筆
露国より続々精製樟脳注文あり、いかなる用途に用いるものか分からず、負傷者消毒用か爆裂弾火薬原料
か、もし後藤がロシアよりの派遣軍人に面会したならその用途を聞き出し内報して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
露国軍隊への寄付金の送付先を教えて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
支那関税問題に関する報告。
封筒 巻紙墨筆
橋本喜蔵の選挙について。
封筒 巻紙墨筆
高田殖産局長が神戸に着いたので、面会の節には桃園問題に尽力するように後藤より一言いって欲しいこ
と。
罫紙タイプ印字 タイプ ハンター商会経由で競売に落札した「テツヘ」鉱業会社問題の善処を後藤に要望。
印字物
巻紙墨筆
中国からの米の買入に関し北京政府は承諾したが省議会は反対の為め当分見込みはないこと、これは100万
石、200万石という巨額の数量だからで、ともかく10万石、15万石を渡すよう要求すべきであること、支那とは米
穀欠乏の際の相互供給を約束すべきであることなど。
封筒 巻紙墨筆
桝本卯平の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
小松久寿の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
早川の死去により、後任の満鉄社長を後藤の配下より出したいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の子爵叙爵の祝い。
封筒 罫紙ペン筆
安倍孝良による「広東油性頁岩記要」(広東省の鉱山より採鉱される鉱物、鉱山の鉱量・調査・権利について
略記)
封筒 巻紙墨筆
平高寅太郎を張作霖に紹介する文書は、鈴木商店の組織改正後の社名・役職名に改めた方が好都合であろ
うと思われること。
封筒 巻紙墨筆
浜口氏の件は若槻氏に相談したけれども、賛成を得ず、打切る他致し方なし、久保久次はウラジオストックに
おける競争者で鈴木商店とは関係なし、鈴木商店大連支店長平高寅太郎を張作霖に紹介する書簡のお願
いしたいこと。
封筒 巻紙墨筆
鈴木商店大連支店長平高寅太郎を張作霖に紹介する後藤書簡を藤田より拝受したことと、神戸銀行集会所
での講演の引受を後藤に依頼すること。
封筒 巻紙墨筆
加藤友三郎の死去により、今後の政争を憂慮しており、政党首領をして5年・10年政争を中止する主旨のも
と、各方面より人材を集めた連立内閣を希望し、その首脳者には後藤ないし他の適任者を希望していること。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 関東大震災にあたり救難復旧の事業の成功を切望していること。
封筒 巻紙墨筆
本月7、8日頃は神戸もよほど不穏で、流言浮説取締令により人心はやや安定、今回の震災に対する措置で国
民は政府を徳としていることなど。
封筒 巻紙墨筆
シベリアと少年団に関する件を雑司ヶ谷へ話したところ、前者は外務省、後者は文部省で取調中で、シベリア
の方は大問題で予知し難いが、少年団の方は大した問題でもないので強く承諾を迫るつもり。下坂の件は台
湾銀行理事に含むところがある云々。
巻紙墨筆
加藤高明内閣の寿命はなお相当あると予想すること、浜口蔵相は秀吉(加藤)配下の加藤清正のようなもので
用意周到な人物であること、浜口面会の折に少年団補助を迫るつもりなので後藤からも文相へ懇談して欲し
いことなど。
巻紙墨筆
岡崎出願の海事銀行は実質上船舶銀行で、後藤の慫慂で鈴木商店ら阪神船舶業者が船舶銀行を出願した
手前、これが許可されたら鈴木商店ら船舶業者の面目丸つぶれとなるので、不許可になるよう後藤の高配を
得たいこと。また台湾桃園庁下の製糖業計画も鈴木商店へ許可するよう願いたし云々。
27
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
(大正)11月14日
2010/1/15
2010/2/7
2010/4/6
来翰
金子直吉
かねこなおきち
2010/9/15
来翰
金子直吉
かねこなおきち
2010/11/23
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
金子直吉
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
2010/12/20
2010/12/26
2010/12/28
2010/3/19
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
金子直吉
金子直吉
金子直吉
(金子直吉)
鹿子木員信
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かねこなおきち
かのこぎかずのぶ
2010/11/26
(29日)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鹿子木小五郎
鹿子木小五郎
鹿子木小五郎
鹿子木小五郎
鹿子木小五郎
鹿子木小五郎
樺山資紀
樺山資紀
樺山資紀
鎌田弥助
鎌田弥助
亀井英三郎
亀谷聖馨
亀谷聖馨
かのこぎこごろう
かのこぎこごろう
かのこぎこごろう
かのこぎこごろう
かのこぎこごろう
かのこぎこごろう
かばやますけのり
かばやますけのり
かばやますけのり
かまたやすけ
かまたやすけ
かめいえいざぶろう
かめたにせいけい
かめたにせいけい
(明治39年)7月25日
1907/5/3
(明治41年)7月23日
(明治)1月28日
(明治)12月28日
(大正7年)2月10日
(明治31年)3月28日
(明治)11月26日
(明治)12月7日
1912/3/6
(明治)45年3月8日
(明治39年)12月6日
(大正4年)7月10日
(大正9年)12月27日
昭和4年正月3日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
民間の2会社へ入電あり、アメリカの造船産額をめぐる対立でアメリカ大統領も日本側主張の280万トン説に同
意し、鉄禁輸も緩和の見込みであること。
17日正午に銀行集会所で粗餐を差し上げ、その後後藤の高話を拝聴することとしたが、それについての後藤
の都合の問い合わせ。
昨日の回答文中の紡績業製品輸入税を12~29.4円としたのは、4.18~21.5円の間違いであること。
椋野武吉を使に金35000円を送ること、大英断をもって事業を手控えるのは難しいが、これ以上不景気に遭遇
するならばやむを得ないこと、今日の景気が回復するかどうかは近い将来に戦争が始まるかどうかにあること、
吉井伯爵が囹圄の人となれば製鋼所が悪評判を受けるので、司法大臣への働きかけを頼むこと。
封筒 巻紙墨筆
ウィスコンシン州立大学出身でアメリカで会計士をやっている柴田言寛を紹介すること、恩師の食料局次長
マッカーシ博士へ鉄材禁輸問題解決のため側面より尽力を願うと依頼しておいたので引見の上同問題につい
て教示してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
田丸は必ず25日前に上京、「主人」にも電報で恩命の趣を伝達、保険会社がすべての準備金をもって公債を
買い入れたのは政府の公債政策に貢献するため、5年10年後保険準備金が2000万円位に達して総ての保険
会社が準備金で公債を買い入れるようになれば多少公債政策に貢献するはずであること。
封筒 巻紙墨筆
高等学校が高松に決定したことについて、高知に決定するようにとの依頼と、坂本氏の貴族院入りについての
依頼。
封筒 巻紙墨筆
来春の関西出張の日程が決まり次第一報して欲しいこと。
巻紙墨筆
ドイツ船の修繕費はわからないが、評価が2000万円であれば買収すること、支払は正金銀行がドイツに有する
預金であてれば列国においても異議がないであろうことなど。
封筒 巻紙墨筆
満鉄石炭会社の件は鈴木商店にとって誠に不面目のことであり、満鉄が満州貿易に功労ある鈴木商店を除
いて、三菱のような満州に於ける新顔を石炭会社に加えたのは片手落の処分であるから何とか考慮してほし
いことなど。
封筒 巻紙墨筆
西下の汽車中で台湾銀行頭取に大意だけ話した、大蔵省・日銀関係も都合良く解決、中川頭取は難局に処
しては案外偉いところがあること。
封筒 便箋墨筆
油田の中心である陜西省延長県を始め、20余県の知事更迭は彼の方寸で、思い切ったやり方であることな
ど。
巻紙墨筆
過日申し上げた意見(日銀・郵貯の利子引き下げ。輸出為替による海外正貨引き当てとした兌換券発行。大
銀行による低利貸付)を断行しなければ、大恐慌を惹起することなど。
便箋ペン筆
大里製糖と大日本製糖との合同条件は、宮嶋より送付した書類よりずっと有利であること。
封筒 便箋ペン筆
後藤が来独されず残念、日本は世界の舞台に雄歩すべき、日本の為政者に遠謀深慮がないことを非難、欧
米抜きで日本独力の支那問題解決は不可能、人物の選抜と訓練が必要、ドイツの大学に日本文化研究の講
座を開設したり、日本関係の雑誌を刊行するなど。
封筒 巻紙墨筆
児玉源太郎の薨去は残念であること。医学校教員の喧嘩について。奉天丸の件について。
罫紙墨筆
台湾総督府通信要覧贈呈について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の入閣祝いと、自身の内地転任願。
巻紙墨筆
対韓国政策についての意見。
巻紙墨筆
昇等の礼と、台湾総督が明日到着する予定であること。
封筒 巻紙墨筆
大垣市制施行の件について。
便箋ペン筆
興一の履歴書を送るので、後藤に尽力して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
鹿児島県氏族山口を、後藤の部下として採用して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
鹿児島県人家村盛吉推薦状。
封筒 罫紙ペン筆 洋紙 保定における兵乱の模様、各国租界に関する風説など天津の状況、山東や河南地方にも暴動が起こりつつ
あり満州にも伝播するかもしれないことなど。
封筒 罫紙ペン筆
北京・天津方面の暴動について。
封筒 巻紙墨筆
警視長官の上京を待って相談するとの旨を伝えてくれたことへの謝辞。
封筒 巻紙墨筆
無辺の漢詩を参考のため進呈する旨。
封筒 巻紙墨筆
後藤の東京市長就任祝い。
28
来翰
来翰
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
来翰
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
来翰
茅原廉太郎
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茅原廉太郎
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茅原廉太郎
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
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茅原廉太郎
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
(明治41年)7月15日
(大正5年)12月26日
(大正9年)1月24日
(大正9年)12月7日
1921/1/7
(大正10年)6月9日
(大正10年)6月10日
(大正10年)6月28日
(大正10年)
(大正11年12日)
(大正12年2月7日)
大正(12年)11月27日
(大正12年)12月29日
(大正13年)1月9日
(大正13年)2月16日
(大正13年2月21日)
(大正13年)5月3日
(大正13年)5月16日
(大正13年)11月9日
(大正13年)12月21日
(大正)1月23日
封筒 レターペーパーペ 後藤の逓信大臣就任祝い。
ン筆
封筒 便箋ペン筆 新聞 米国の日本人移民に関する日本の対米外交について。
切抜
封筒 便箋ペン筆
日本の将来に就いて途方に呉れているとの後藤の言に同感であり、自分も日本国民を研究するために再度
の洋行を行ったこと、後藤はいかなる国民哲学によって日本国民を救おうとしているのか、文章をもって卑見
を書き連ねるつもりであること。
封筒 便箋ペン筆
後藤の著書の構成について。
便箋ペン筆 原稿用紙 東京市政についての後藤への提言。
封筒 便箋ペン筆
後藤の玉稿に対する批評は誰にすべきか云々。
封筒 便箋ペン筆
『自治生活の新精神』『大調査機関と国家二大急要問題』の印刷体裁と「内観」本紙への転載可否について。
封筒 便箋ペン筆
自著『日本国民経』を贈呈する旨。
原稿用紙ペン筆
後藤の論文を拝見したが、これを全躰として発表して悪いという理由はないので、「内観」の3月1日号に付録と
して掲載したらよいと思うことなど。
封筒 巻紙墨筆
政友会への入党勧誘。
封筒 巻紙墨筆
内観新年号の「後藤子と産業調査機関、日本史の新面目を創造せよ」という記事の写と、「客舎夜野賦呈棲露
貴爵」と「廉初草」の漢詩文。
封筒 巻紙墨筆
後藤の厚庇を得て全国を優遊し、経世の学を具体化し理論に依らず具体的施設をもって産業革命を成就す
ると共に、国民性を改造する宰を立てたいこと、山本内閣には何等全局的総合経綸がないこと、他日後藤に
産業問題を以て地方を遊説して欲しいことなど。
封筒 巻紙墨筆
虎の門事件のため伊勢神宮及び桃山御陵に拝謁するのは当然で、爵位勲章をも辞せられしは当然と思うこ
と、日本人には人生哲学がないこと、歴代の内閣にはさきゆきの計画がないこと、帝都復興計画について、天
下が後藤をと願うのは1、2年も必要としないだろうことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤の使命は撥乱反正の雄たるにあることで、哲人的経国家として日本の百姓を生かし、近代的経済生活を
創始せしむるための大計をもってほしいこと、自著の『日本国民経』を是非読んでほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
東京を発して静岡・浜松・岐阜に参り是より京都より阪神間を経て台湾に赴く予定であること、自著「伝統的産
業の滅亡」という論文を送るので、読んで欲しいこと、他に「特畜、愛の宗教」も送る予定であること、選挙で買
収が行われるのは日本の農民が極貧なるが為めであることなど。
封筒 巻紙墨筆
自身の論文である「伝統的産業の滅亡」の浄書と「特産・愛の宗教 食料改造を目的とする国家の一大政策」
の浄書。
封筒 巻紙墨筆
「国難来」の送状。
封筒 巻紙墨筆
「国難来」の評判について、「台湾統治批判」を貴覧に入れるが、2万以上の役人外3千万近くの俸給を貰って
それで台湾を治められないとは驚入りことで、辜顕栄は台湾などは1人で沢山といっていることなど。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 少年団の規約を作ることは百年の大業であるので、規約の箇条につき参考までに意見を述べること。
封筒 巻紙墨筆
少年団の綱領や守則を定めるのは他の事と違い憲法を制定さるよりも大事であると思うこと、「少年団研究」に
掲載せるものは杜撰を極めているので、もしこのままにして置けば後藤を批議するもの出ないとも限らないの
で、何卒少年団の約束を制定を制定して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
横田千之助法制局長官と面会した件について。
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来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
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来翰
来翰
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茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
茅原廉太郎
河合鈰太郎
河合鈰太郎
河合鈰太郎
河合鈰太郎
河合徳三郎
河合操
河上清
河上清
河上清
川上滝弥
川上俊彦
川上俊彦
川上俊彦
川上俊彦
川崎三郎
川崎三郎
川島浪速
河津進
河津進
川村竹治
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かやはられんたろう(か
やはらかざん)
かわいじたろう
かわいじたろう
かわいじたろう
かわいじたろう
かわいとくさぶろう
かわいみさお
かわかみきよし
かわかみきよし
かわかみきよし
かわかみたきや
かわかみとしひこ(かわ
かみとしつね)
かわかみとしひこ(かわ
かみとしつね)
かわかみとしひこ(かわ
かみとしつね)
かわかみとしひこ(かわ
かみとしつね)
かわさきさぶろう
かわさきさぶろう
かわしまなにわ
かわづすすむ
かわづすすむ
かわむらたけじ
(大正)4月10日
(大正)7月10日
(大正)9月25日
(大正)
(大正)5月1日
2010/7/11
2010/11/9
(大正)
3日
(明治39年)7月7日
1907/9/6
2010/3/10
(明治)6月8日
(大正12年)6月17日
1924/8/20
(大正12年2月19日)
2010/6/5
2010/11/16
1906/10/20
1908/7/14
(昭和3年)4月15日
2010/7/10
2010/9/27
1917/5/3
(大正9年)9月22日
2010/9/24
(大正5年)2月27日
2010/2/7
(大正14年1月)元旦
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
レターペーパー墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
別紙の如きものは内観の5月号同人郵信欄に出し、若し不都合なれば削去すること、若し改むべきあらば改め
ること、13日を以て府下大崎町上大崎444に移転すること。
後藤の著作である『大調査機関と二大急要問題』の紙型をとっておくことにしたこと。
後藤の自叙伝口述について。
政友会入党の勧誘。
台湾で総督と会ったことと、辜顕栄より後藤によろしくとの伝言があったこと。
ボーイスカウトに多大のインテレストを有す岐阜教育新聞主筆の竹内健又氏の紹介状。
警視庁智能犯係峰島利平は曽て麻布警察署に居て後藤の邸を警護した事がある、千葉県人にて中央大学
に学び身体健康非常な勤勉家であるので、今回智能犯係長石松清治氏栄転の由に付きその後任となれるよ
う警視総監に後藤より話してほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤が単独で進退することは後図の為めにも得策ではなく、あくまで首相と進退を共にしてほしいというのが
聡明な人士の希望であること。
封筒 巻紙墨筆
地方財政の緊粛整理、地方産業の発達、自治体の綱紀粛正等を地方人民に寄せる意見を聞かせて欲しいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
各県長官への後藤の親書依頼、復興事業のため地方事業中止との風説があるため訂正の必要あること、各
県長官宛の親書1通を賜われば結構であること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の身辺を危ぶむものかせあるので、注意して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
阿里山調査の状況について。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 名刺 巒大山伐採事業調査のために渡台する湊山雅喜を後藤に紹介したいこと。
巻紙墨筆
阿里山経営について。
封筒 和紙墨筆
大和民労会の主旨と、同会の総裁に後藤の門下より人間を推薦して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤より書籍を寄贈されたことへの謝辞。
封筒 便箋ペン筆
ヨッフエの訪問に関する後藤への伝言。
封筒 巻紙墨筆
自らの病気全快祝いの午餐招待のこと。
封筒 レターペーパーペ 米国留学より帰国し実業界入を希望している笠井金治を引き立てて欲しいこと。
ン筆
紀念葉書ペン筆
新高山登山の記念葉書。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
露国大使を招き後藤邸で催されるご参会へ招待されたことへの礼状。
巻紙墨筆
知人宛書簡を後藤へ送付してしまったことの詫と、例の家屋の買入に関する談判は不調であること。
封筒 巻紙墨筆
本書を持参する星野桂吾より、満州の近状を聞いて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
地方有志者よりの揮毫依頼と、今回の選挙について。
封筒 巻紙墨筆
支那漫遊を行い戦後の状勢を視察したいので、後藤の教示を得たいこと。
封筒 巻紙墨筆
かつて後藤邸を騒擾した森山英治なる者が、謝罪したいというので、引見してやって欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の『日本膨張論』恵贈に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
国際経済調査会の件、特に満鉄調査会について南波主幹が後藤に伺いたいことがあるので、引見してやっ
て欲しいこと。
封筒 洋紙ペン筆
ベルリンより新年の挨拶。
30
来翰
菅野虎吉
かんのとらきち
(明治27年)6月3日
来翰
来翰
木内重四郎
木内重四郎
きうちじゅうしろう
きうちじゅうしろう
(明治)2月15日
(大正7年?)12月16日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
木内重四郎
菊池謙二郎
菊池武徳
菊池武徳
菊池武徳
菊池武徳
菊池武徳
きうちじゅうしろう
きくちけんじろう
きくちたけのり
きくちたけのり
きくちたけのり
きくちたけのり
きくちたけのり
(大正7年)12月31日
(大正14年8月10日)
(大正9年)12月8日
(大正9年)12月9日
1924/8/10
(昭和)1月19日
2010/7/31
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
菊池忠三郎
菊池忠三郎
菊池忠三郎
菊池忠三郎
岸田吟香
北里柴三郎
北里柴三郎
北里柴三郎
北里柴三郎
北里柴三郎
木下謙次郎
木下新三郎
木下新三郎
木下新三郎
きくちちゅうざぶろう
きくちちゅうざぶろう
きくちちゅうざぶろう
きくちちゅうざぶろう
きしだぎんこう
きたざとしばさぶろう
きたざとしばさぶろう
きたざとしばさぶろう
きたざとしばさぶろう
きたざとしばさぶろう
きのしたけんじろう
きのしたしんざぶろう
きのしたしんざぶろう
きのしたしんざぶろう
(大正3年)8月3日
(大正7年)2月6日
(大正8年)6月30日
2010/12/28
(明治)10月11日
(明治24年)7月15日
(明治)
(明治)
2010/3/12
(明治39年)5月24日
(明治37年?)3月3日
(明治37年)3月18日
(明治38年)2月25日
来翰
来翰
来翰
木下新三郎
木下新三郎
木下淑夫
きのしたしんざぶろう (明治39年)7月25日
きのしたしんざぶろう 1907/6/18
きのしたよしお
1910/11/16
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
木下淑夫
紀平正美
木村久太郎
木村栄
木村栄
恭親王
きのしたよしお
きひらただよし
きむらきゅうたろう
きむらひさし
きむらひさし
きょうしんのう
(大正9年)4月3日
1927/6/7
(大正)12月19日
(大正9年)6月7日
(大正14年)3月3日
宣統乙丑年9月21日
封筒 巻紙墨筆
療養のため群馬へ御旅行とのことであるが、一層慎重に御療養をしてほしいこと、今般鈴木君は汽船買入の
ため下神したので面会し、積年の欝を掃ったこと、野生負債の件は詳細を椎名君まで伝えたので聞取ってほ
しいこと。
巻紙墨筆
海外実業生名簿贈呈状。
巻紙墨筆
獄中への慰問に対する礼、寺崎土木課長は収賄し収檻、有る事無い事陳述し、自分も同人の陳述が原因、
女子師範学校を伏見に移転する際に議員を買収との取調、議員3人は三矢警察局長より金を貰ったとは全然
承知せず、自分も不本意ながら自身を罪する陳述、司法最高部の配慮を願いたい。
封筒 巻紙墨筆
後藤の慰問に対する謝辞。
封筒 詩箋墨筆
立林完太郎を引見してやって欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 活字印 教育活動写真協会発起について。
刷物
封筒 巻紙墨筆
御願申上げておいた2件は御差支の由御海恕願いたいことと、市長問題の新聞をよみての一句呈上。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 「国民新聞」に掲載された「太平洋政策の根本義」の読後感。
抜
便箋ペン筆
市政浄化が進行中であることと、伝記編纂についての愚案。
封筒 便箋ペン筆
数月来狸穴の満鉄公館へ出頭、社長多忙のため自分の任務と条件は未決定、国務大調査機関の件、軍縮
停頓の前途等に就き後藤の高諭を拝したい、調査機関に付いては松岡洋右氏とも話合。
封筒 巻紙墨筆
永井柳太郎氏より電話、大隈伯は国府津に赴き箱根に行く筈、大倉翁に後藤の意向を伝へ置くこと、新高製
糖の事は高島に一任 、内話の事は耳にしたる事無し。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 小山豊太郎の過去と現状について。
封筒 巻紙墨筆
大西洋上における後藤の盲腸発生の件について。
巻紙墨筆
伊東子爵に面会し、別紙の通り調製して飯野へ送付した旨。
巻紙墨筆 名刺
海尾先生真跡展覧会開催につき菘翁先生真跡拝借願。
封筒 洋紙片ペン筆 罫 大日本私立衛生会より万国衛生会への出席依頼を承諾したこと等。第7回万国衛生デモクラシー会に審事委
紙
員北里柴三郎を代表として参列を委嘱すること。
封筒 洋紙ペン筆
独文メモ断片。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
精養軒における集会に招待してくれたことへの謝辞。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
英国人アトキンの件と、新聞に関する件について。
便箋墨筆 原稿用紙 民報の発行禁止について。
便箋墨筆
判官弾劾事件について。
封筒 巻紙墨筆
六・三問題衆議院通過の心労を察していること、当地は汕頭暴動事件に引続き屈尺蕃害あり、電灯工事崩
壊、苗栗に怪しき難破船、軍隊交代は秘密に実行、法院部内の判官検察官間に確執、大租公債下付や地租
改正やら説諭を要する、後藤の帰台を希望、健全なれば内地人は無い方が勝手かと思われる。
封筒 巻紙墨筆
児玉源太郎薨去につき悔状。
封筒 便箋ペン筆
後藤一蔵の病気見舞。
封筒 罫紙ペン筆
ご下命の広軌問題に関しては電報にて報告、陸軍省当局者との会見は山之内理事より報告済、本月上旬の
収入は良好、日露連絡問題は別紙通信にて発表、石油業者間の競争については生産過多が遠因で亜細亜
石油会社とスタンダード石油会社の競争が近因云々。
封筒 巻紙墨筆
鉄道院在職中の御礼。
封筒 巻紙墨筆
山岡氏の染筆願を聞き届けてくれた上に引見してくれたことへの謝辞。
封筒 巻紙墨筆
代々木の拙宅の事を伊東伯爵が高覧してくれるように、後藤の高配を願いたいこと。
封筒 便箋ペン筆
後藤昌蔵寄付金は、生糸の暴落により不可能となったこと。
封筒 便箋ペン筆
『日本膨張論』を貰ったことに対する礼と、日露条約締結は慶賀の至りであること。
封筒 巻紙墨筆
赤化の禍は目前にあること及び鮑公式紹介のこと。
31
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
清浦奎吾
清浦奎吾
清浦奎吾
清浦奎吾
清浦奎吾
清浦奎吾
清浦奎吾
桐島像一
きようらけいご
きようらけいご
きようらけいご
きようらけいご
きようらけいご
きようらけいご
きようらけいご
きりしましょういち
(1891年)7月7日
(明治24年)10月3日
(明治36年)6月12日
(明治36年)9月13日
(明治39年)7月9日
(明治)1月11日
(大正12年)8月31日
(大正10年)9月26日
封筒 罫紙墨筆
罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 半紙ペン筆
来翰
来翰
来翰
来翰
桐島像一
桐島像一
桐島像一
桐島像一
きりしましょういち
きりしましょういち
きりしましょういち
きりしましょういち
(大正10年?)11月9日
(大正10年)12月5日
(大正12年)10月5日
(大正12年)
封筒 洋紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
桐島像一
桐島像一
桐島像一
桐島像一
九鬼隆一
九鬼隆一
櫛引弓人
工藤卓爾
工藤卓爾
国貞隆人
国貞隆人
国貞隆人
国沢新兵衛
国沢新兵衛
国沢新兵衛
国沢新兵衛
国沢新兵衛
久原房之助
窪田駒吉
きりしましょういち
きりしましょういち
きりしましょういち
きりしましょういち
くきりゅういち
くきりゅういち
くしびきゆみと
くどうたくじ
くどうたくじ
くにさだたかひと
くにさだたかひと
くにさだたかひと
くにさわしんべえ
くにさわしんべえ
くにさわしんべえ
くにさわしんべえ
くにさわしんべえ
くはらふさのすけ
くぼたこまきち
(大正14年)2月17日
(昭和2年)6月12日
2010/7/4
2010/9/2
1917/6/7
(大正12年)1月
1917/6/12
(大正7年)1月11日
(大正7年)4月24日
1924/4/20
(大正13年9月29日)
(大正13年10月15日)
1916/1/21
1919/1/1
2010/2/4
1927/1/30
2010/11/12
(昭和2年)12月31日
2010/4/30
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 半紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
郵便書簡ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒
封筒 巻紙印刷物
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
32
自分とロンドン万国衛生会委員の辞表提出は聞き届けられないであろうこと。衛生局長の候補者は他に適当
な人を見出せないこと。
長与専斎から申し来たった上は変更の気遣いは無く、衛生局長就任を決意されるよう、希望していること。
永井一雄は臭虫の害により神戸で下船し、次の船まで静養していること。
行政整理は進行しているが、尚一層の工夫を要すること。永井一雄は静養を要するため、洋行は罷免のほか
ないであろうこと。
台湾総督府法院長と尾立検事長は犬猿の仲の状態であるので、尾立を大審院へ大審院検事矢野茂を尾立
の後任に採用というのはいかがであろうか。
法制局の論は、容易に融解はしないと思われること。
山本権兵衛が内閣を組織したのは、国家のために百喜であること。勝田主計任用のことについて山本に依頼
したこと。総裁になるよう希望していること。
英国皇太子の来京の折りに英国国家会唱のこと。団琢磨団長等の渡欧のこと。東京市にて外債が必要なら
ば、下調べの設置は如何。電気局と道路局の革新には、外国人の技手や職工頭または事務の実際家を入れ
ることが必要であること。
安田氏の寄付条件のこと。表面上東京市長の申し込みは、資金使用の目的範囲を指定する位が穏当である
こと。
小宴を催したいこと。来客は、三助役・内田嘉吉・坪谷善四郎・柳沢伯爵・近藤進児・大海原内務部長。
関東大震災の後、被災商人が店を新築しようとするも、警視庁の許可を得られず、遷延するに及んでは苦情
百出なので、臨時の取計らいが必要であること。
人については白木屋寺務西野恵之助が適当で、土地整理の事については松本氏自ら当たること、物資供与
の事は局長に一時兼任し、モラトリアムは速やかに廃止し、白人の職工または職長採用等については直ちに
実行に走る人を採用すること。
蟹の贈呈状。
別封「吉田東洋」贈呈状。
京都の博覧会に御出張の由であるので、別紙営業案内記載の東京EC株式会社出品陳列を紹介すること。
岩崎久弥実弟正弥氏が入洛中であるので、会ってほしいこと。
旭ガラス工場参観のこと。
今回設置の臨時外交調査会に後藤が参画することを、国家のために祝意を申し述べること。
昨年の10月24日に築地の水交社の大会において講演した自分の所論を別封で送ること。後藤の意見とは異
なるところがあるので反対意見を承りたいこと。
今度、米国の飛行家アート・スミスと共に台湾に行くので、同島における今回の飛行に関し充分の成果を得る
ために、後藤の推薦状が欲しいこと。
青森県築港疑獄事件は、築港所長のみに非ずして知事にも責任があること。
今回、後藤が内務と鉄道を去ったことについては失望しているが、今日の日本の現状から見れば、外務大臣
就任は慶賀に堪えないこと。
封筒のみ。
金1000円借用願。
金1000円借用願い。
封筒のみ。
新年の挨拶。
南満州鉄道株式会社の戦時巡回文庫へ、後藤の著作である『政党政策ト道徳』・『自治団綱領釈義』・『独逸
ハンザ同盟』・『日本膨張論』を寄贈されたことに対する礼状。
留岡幸助経営の家庭学校の北見分校で10年間教員をやっていた品川養介という人物を引見してほしい旨。
留岡幸助経営の家庭学校の北見分校で教育主任をしている品川養介の紹介状。
先日お話の大黒の件は、自分が上京した時に申上げること。
電話で話した星氏の件は、銀行の了解をとる必要があり、早速尽力したが満足な結果を得ることができず、更
に金子直吉と協議したけれども、遺憾ながら同封した手紙の様な返事があり、折角後藤に口添えしてもらった
のに申訳けないこと。
来翰
来翰
窪田静太郎
窪田静太郎
くぼたせいたろう(くぼた (1898年)4月8日
しずたろう)
くぼたせいたろう(くぼた (明治)11月19日
しずたろう)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
窪田静太郎
窪田静太郎
窪田静太郎
久保田譲
久保田譲
久保田譲
久保田譲
久米金弥
倉知鉄吉
くぼたせいたろう(くぼた (大正4年)9月26日
しずたろう)
くぼたせいたろう(くぼた 大正7年12月
しずたろう)
くぼたせいたろう(くぼた 1927/12/1
しずたろう)
くぼたゆずる
(大正元年)10月8日
くぼたゆずる
(大正4年)6月26日
くぼたゆずる
(大正4年)9月23日
くぼたゆずる
(明治)9日
くめきんや
(明治34年)11月10日
くらちてつきち
2010/8/2
来翰
黒板勝美
くろいたかつみ
1926/4/22
来翰
来翰
黒板勝美
畔田明
くろいたかつみ
くろだあきら
2010/11/16
(明治45年?)3月13日
来翰
黒田甲子郎
くろだこうしろう
(明治)39年11月28日
来翰
来翰
来翰
来翰
黒田甲子郎
黒田甲子郎
小泉雲渓
小泉策太郎
くろだこうしろう
くろだこうしろう
こいずみうんけい
こいずみさくたろう
1918/12/14
1920/12/17
(昭和3年)2月23日
(大正7年)8月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
小泉策太郎
肥塚龍
国府種徳
国府種徳
小久保喜七
小久保喜七
こいずみさくたろう 2010/2/24
こいづかりゅう
2010/3/9
こくぶたねのり (こ (明治39年)2月22日
くぶさいとう)
こくぶたねのり (こ (明治)11月19日
くぶさいとう)
こくぼきしち
(大正7年)4月25日
こくぼきしち
2010/3/21
葉書ペン筆
封筒 巻紙墨筆
パリからボルドーを経由してマドリードに到着したこと。米西戦争の影響など。
独逸国労働者疾病保険法の翻訳を入用だと聞いたが、目下一部だけ当局に保管中で、それも出張中の野田
技師が自宅に持っていっているので、当人が帰京次第、後藤のところへ持参すること。独逸の労働者負傷保
健法と老廃保健法については、自分が農商務省在職中に翻訳したものがあるので取寄せること。
封筒 巻紙墨筆
後藤が通俗大学を設立し、同文庫の第一編として刊行された『最近の東京市』を恵贈してくれたことに対する
礼状。
巻紙墨筆
自治に関する後藤の論考への批評。
封筒 巻紙墨筆
後藤の渡欧に際して行われる東京市政調査会主催の送別晩餐会には是非出席するつもりでいたところ、一
昨日より感冒に罹り出席できない旨詫状。
封筒 巻紙墨筆
昨日の内外政局に関する後藤の経綸は、感服に堪えないこと。
封筒 巻紙墨筆
息子四郎急病のため、先日お願いした四郎の米英行きの件は、取捨てておいてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
息子四郎の病気が全快し、英国行きが内定したので、取り敢えず感謝の旨。
封筒 巻紙墨筆
昨日来談の趣は、木下総長の書簡差置いたこと。
封筒 巻紙印刷物 今度欧州に派遣されることになり、米国経由でロンドンにて電信会議に出席した後、欧州大陸を巡回する予定
である旨の挨拶状。
封筒 巻紙墨筆
今回の酒井子爵死去のため、露領水産組合に欠員が生じたが、この地位は厄介なものであるので、日露協会
幹部の中から後任者を出すことが、日露両国の関係や協会自身の立場上得策であるので、後藤の一考を煩
わしたいこと。
封筒 巻紙墨筆
かねて配慮に預かっている松木善右衛門所蔵の浮世絵を、先に日本倶楽部において相談した趣旨によっ
て、来る25日に神田鐳蔵別邸(旧三浦悟楼邸)で陳列するので、来臨してほしい旨。
封筒 巻紙墨筆
去る夏以来高配を願っている京都の松木善右衛門の40年来の蒐集品である浮世絵と版画が海外に流出しそ
うなので、東京市か後藤自身が買上げる等により、これを救ってほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
官僚政治に対する永井柳太郎の批評についての後藤の答を新日本紙上において拝見したが、誠に尤もの次
第であるが、言い過ぎの気味もあると思われたこと。後藤の社会的な位置も既に定まっているのだから、あまり
細かなことまで考を労さないように願っていること。
巻紙墨筆
南満州鉄道株式会社も第一回総会を終えて、後藤をはじめ重役諸氏は遼東各地を巡検している由である
が、自分は、後藤の配下に入るまでの間に、著述を試みたり京釜京義線等の視察を試みたりするか、立噪が
ずいるのが良いのか、後藤の内意を承りたいこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 京城日報社東京支局詰の記者荒牧守を伺候させるので、元旦の紙面に光彩を添えるため、後藤に揮毫して
ほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
自身の近況報告と、後藤の東京市長就任祝。
封筒 巻紙墨筆
第1回の普通選挙も完了したが、国民の本心は百端分裂の傾向に見え、寒心に堪えないこと。
封筒 巻紙墨筆
昨年10月初旬に内務大臣の官舎を訪問して、政府が市場に干渉して米価を調節するのは誤りであると進言し
たこと、春の議会で仲小路農商務相に3日にわたって質疑したこと、米価調節を批判した小著を発表したこと。
封筒 巻紙墨筆
少年団に関する建議案は、3派交渉委員会に付議上一致して提出が決定されたこと議会の通過も確実なの
で、貴族院の方の手配をしておいて欲しいことなど。
封筒 巻紙墨筆 名刺 多田菊太郎氏は兵庫県会議員で小生の知人であるので、山崎軽便鉄道敷設のことに付いて訪問したいこと。
巻紙墨筆
一月中旬にお話の殖民政策の要綱について、その後論文を執筆しようとしたが駄目で、同一の題目で再度御
面倒を願うのは恐縮ではあるが、もう一度見て欲しいこと。
巻紙墨筆
明春刊行する「太陽」への論文掲載を許可してほしいことと、台湾統治に関する資料を借用したいこと。
封筒 巻紙墨筆
今回、後藤が水野・中村の両氏を引上げたことに対する讃辞。
巻紙墨筆
後藤より電話をもらった際に不在であったことに対する詫と今後の自分の予定について。
33
来翰
来翰
来翰
来翰
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
明治39年1月
1907/5/10
(大正5年)10月12日
1917/9/29
来翰
辜顕栄
こけんえい
1918/2/4
来翰
来翰
来翰
来翰
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
1918/10/11
1919/12/18
(大正9年)5月21日
(大正13年)10月2日
来翰
辜顕栄
こけんえい
1924/11/30
来翰
来翰
来翰
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
こけんえい
こけんえい
こけんえい
大正14年1月元旦
(大正14年)3月2日
(大正14年)3月4日
来翰
辜顕栄
こけんえい
(大正14年)5月4日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
(大正14年)6月10日
1925/6/14
(大正14年)6月21日
(大正14年)6月26日
(大正15年)4月11日
(大正15年)11月4日
(大正)7月16日
(昭和2年)4月27日
1927/7/23
(昭和2年)7月31日
(昭和2年)10月25日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
児玉源太郎と後藤新平が台湾民衆の歓迎に対して謝辞を述べて招待会を開催したことに対する礼状。
後藤が南満州鉄道株式会社総裁として台湾から大連に転じることへの祝辞。
後藤が荒井泰治に対して辜顕栄の分蜜糖製造のことが心配であると言ったのをうけて、辜顕栄より経営上の
問題は何も無いとの報告及び後藤の内務大臣就任にたいする祝辞。
本年の初夏頃上京する予定であったが、去る5月中に田中央駅で転倒して脳震盪を起こし、静養数ヶ月に及
び、上京して拝謁する機会を逸したが、漸く頭脳も平常に復したので、来月下旬には上京し、親しく面会した
いこと。
巻紙墨筆
自分の製糖原料採取区域に隣接した濁水渓流域を開発するため、滞京中の民政長官下村宏に開墾許可を
得るよう働きかけることを後藤に頼み、開墾の願書と図面を息子に託して在京中の後藤に呈し、意見をもとめ
たい旨。
封筒 巻紙墨筆
自分の製糖工場に属する原料採取区域処分についての現状と、この問題を解決するよう後藤への依頼。
封筒 巻紙墨筆
台湾員林土産の椪柑150個の贈呈状。
封筒 巻紙墨筆
自分の製糖会社の始末に付いて指導を仰ぎたかったが、話も及ばす別れることとなったので、また都合の良
い時に面会してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤が新任の民政長官後藤文夫と殖産局長喜多孝治及び台湾関係者に、辜顕栄のことを頼んだことに対す
る礼状。台湾公益会を引退しようとしたが、後藤に止められてこの考えを取消したこと。長岡から東京に帰った
後藤に会おうと思ったが、自分井村をめぐる疑惑があったため、台湾に帰ったこと。
封筒 巻紙墨筆
破産の危機に遭遇した辜顕栄が、台湾銀行がなかなか援助を与えないために、後藤に対して台湾公益会の
創立や私財を使って中国官民との親交を推進するなど、台湾に対する自分の貢献を列挙したもの。
封筒 巻紙墨筆
辜顕栄とその息子辜皆得からの年賀状。
封筒 巻紙墨筆
債務整理に際し、自分の官塩売捌総館の資格を取消されるという噂を聞いたので、後藤に援助を求めたいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
自分の財産整理は、総督と民政長官の更迭により、中断となったこと。現総督は自分に好感を持っていないた
め、自分の官塩総館を取上げる様子であるので、近来開発事業に親しんでいること。
封筒 巻紙墨筆
自分の550万円の債務問題を解決するため、中川台湾銀行頭取にこの問題について配慮してくれるよう、浜
口雄幸大蔵大臣を通して働きかけて欲しいこと。また自分は、東京に着き次第後藤に面会したいこと。
罫紙墨筆
北京にある執政府の段祺瑞執政との会談の内容報告。
罫紙墨筆
中国に入ってかにの種々の所見と、北京の執政府から実業顧問の職を授けられたことについての報告。
封筒 便箋墨筆
上海事件以来の中国の現状と自分の活動振りを北京から後藤に報告し、華南銀行と商工銀行の催促をうけ
て、後藤の指示を仰ぎたいこと。
封筒 便箋墨筆
広東省沙西長堤事件及び中国の政局についての後藤への報告。
封筒 巻紙墨筆
後藤による新党の樹立は、非常に喜ばしいこと。台湾には最近左傾思想分子がいるため、公益会又は崇聖会
等を創立し、孔教を広めて左傾思想を防ぎたいとことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤の行っている政治の倫理化運動に敬意を表していること、そして後藤の著作である『政治の倫理化』に対
して印刷費を寄付したので、本を送って欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
安渓の鉄鉱石と浙江省の木綿を経営するため、後藤に援助を求めたいこと。
封筒 巻紙墨筆
自分の財務危機を救うために重要な人物である台湾銀行の川崎理事の辞職を後藤に止めて欲しいこと。田
中義一内閣の成立をうけて、自分は台湾の秩序維持に微力を尽くすこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 自身の財務危機を救うため、日銀総裁井上準之助と台湾銀行当局に対し後藤より働きかけて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾銀行の各債権の年利の引下げについての後藤の斡旋に対する謝意と、台湾の各所に農業組合が出現
してきていることに対する自分の意見など。
封筒 巻紙墨筆
自分の債務整理は、上山満之進台湾総督と後藤文夫総務長官及び後藤新平等の尽力に依り解決の端緒を
得ることができたことに対する礼状。
34
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
辜顕栄
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こけんえい
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
1927/11/9
(昭和2年)12月21日
(昭和3年)8月23日
2010/1/14
1928/8/13
(明治28年)6月17日
(明治31年4、5月)
(明治31年)12月16日
明治31年12月24日
(明治)32年1月26日
(明治33年)1月5日
(明治33年)2月23日
(明治33年)8月26日
(明治34年?)8月25日
(明治34年?)8月25日
(明治34年?)9月10日
(明治34年)9月17日
(明治34年)11月29日
(明治36年)8月3日
(明治36年)8月24日
(明治36年)9月2日
(明治36年)11月1日
(明治36年)21日
(明治37年)5月7日
(明治37年)6月27日
(明治37年)7月22日
(明治37年)8月20日
(明治37年)10月8日
(明治37年)12月31日
(明治38年)1月9日
(明治38年)5月22日
(明治39年)5月24日
(明治)1月31日
(明治)2月17日
(明治)5月24日
封筒 巻紙墨筆
上山満之進台湾総督の人事問題について、上山と後藤文夫が留任できるよう、後藤に尽力してほしいこと。
封筒 巻紙印刷物 年末の挨拶及び別便で当地員林産の凸柑を贈呈する旨。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 昭和3年8月19日のドイツ大使歓迎晩餐会の状況報告。
カード
封筒 巻紙墨筆
台湾のカラスミ一箱の贈呈状。
封筒 巻紙墨筆 和文タ 独逸大使訪台につき歓待晩餐会についての報告と屏東開墾地 未許可事件につき川村総督への口添への
イプ印字
願い。和文タイプは独逸大使日程表。
巻紙墨筆
陸軍臨時検疫事業遂行に関する件。
巻紙墨筆
蕃人カクートを雇用することに付いての諸問題、特に官舎の都合に関することなど。
封筒 巻紙墨筆
台湾人の帰順の状況、討伐に関すること、事業公債に関することなど。
罫紙墨筆
台湾事業公債の件について。
罫紙墨筆
大稲埕・艋舺その他の紳商等が一致協同して、全台維新公会を創立したので、代表者に内地を巡覧させるこ
ととしたことなど。
巻紙墨筆
木村匡・野村才二・西・大嶋の進級と、保甲の錫口・水返脚・金包里の状況、台南・鳳山付近・恒春の一揆に
関する自分の意見。
封筒 巻紙墨筆
台南事件に関する善後策、香港・上海の件、マイヤスその他各地が平穏であること、台北県の保甲制度につ
いて、嘉義弁務署長の辞表提出の件について。
巻紙墨筆
宮島丸に歩兵二中隊を送る事に決定し、報の後6時間には基隆を抜錨するよう艦長に伝言してほしいことな
ど。
封筒 巻紙墨筆
鎌倉で阿久沢と面会したこと、領事館設置の件、廃県に伴う処置について、台湾人参事の件など。
巻紙墨筆
杉山茂丸を再度台湾に渡航させることとその資金についてなど。
封筒 巻紙墨筆
疲南の陸軍の引揚、伊藤博文の米国行、行政改革、米国大統領狙撃事件、大山巌の辞表提出と陛下が暫時
これを引き留めたことなど。
巻紙墨筆
台湾の官制改革、増俸、予算の減額、有栖川家と伏見宮家の衝突、御下賜金、伊藤博文の米国行につい
て。
封筒 巻紙墨筆
樸仔脚支署が襲撃されたことについて庁長旅団長集会で協議せしめたこと、ドイツ東洋艦隊司令官ベンデマ
ンが来月厦門から淡水に来ること。
封筒 巻紙墨筆
露国談判は、日本はこれを露京において取り纏めることを求めたが、外務省の見込みでは十に七は破談とな
るであろうこと。
封筒 巻紙墨筆 洋紙 日露関係の切迫と、小沢副官に帰台を命じるつもりであること。
封筒 巻紙墨筆 洋紙 外交問題に大略見当がついたので、副官を渡台させることと、米と薬品の準備が肝要でであること。
封筒 巻紙墨筆
台湾の法院の内情と、日露関係については、陸軍は何時でも開戦できる準備があること。
封筒 巻紙墨筆
中村雅次の官金費消に関する件と文部省廃止問題について。
封筒 巻紙墨筆
明朝乗船して釜山経由で戦地に赴くこと、バルチック艦隊のこと、大連の民政署に石塚を採用したこと。
葉書墨筆
大連にやって来て民政署の開設を幇助し、明朝より帰北すること。
封筒 罫紙墨筆
大連の状況報告。
封筒 巻紙墨筆
バルチック艦隊の東航前の玄米買入に関することと、凱旋後は台湾で生涯を終わりたいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 陸軍供給の台湾米積載船の抑留に関すること。
郵便書簡墨筆
議会について、杉山・龍居両氏のこと、蔵米の無事について。
郵便書簡墨筆
旅順の開戦は近来の快事であることなど。
封筒 巻紙墨筆
無事に奉天に帰隊し、関東州にまず警察と租務令を施行したこと、台湾状勢についてなど。
封筒 便箋墨筆
赤石の一件は片付いたこと、新総督の佐久間が着府したこと、新渡戸が帰京したことなど。
封筒 巻紙墨筆
内務大臣の勅令案に対する台湾総督の意見など。
封筒 巻紙墨筆
背後の事は自分達が引受けるので安心するようにとの、首相及び山県よりの伝言。
封筒 巻紙墨筆
明日目白へ行って事情を確かめてくること。
35
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉源太郎
児玉秀雄
児玉秀雄
児玉秀雄
児玉文太郎
後藤朝太郎
後藤朝太郎
後藤一蔵
後藤一蔵
後藤一蔵
後藤一蔵
後藤一蔵
後藤一蔵
後藤一蔵
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまげんたろう
こだまひでお
こだまひでお
こだまひでお
こだまぶんたろう
ごとうあさたろう
ごとうあさたろう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
(明治38年)11月5日
(明治)28日
(明治35年)4月23日
(明治)4月26日
(明治39年)4月12日
1906/7/30
大正12年10月
(昭和2年)9月20日
(明治40年)9月2日
(大正10年)10月30日
(大正)10年10月30日
(明治40年)5月7日
(明治40年)5月25日
(明治42年)11月7日
(大正元年)8月15日
(大正4年)12月9日
(1919年)7月10日
(大正8年)8月25日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
後藤一蔵
後藤和子
後藤実崇
後藤実崇
後藤猛太郎
ごとういちぞう
2010/9/30
ごとうかずこ
(明治41年)4月30日
ごとうさねたか
卯月9日
(ごとうじゅうえもん)
ごとうさねたか (ご 2010/5/23
とうじゅうえもん)
ごとうたけたろう
(明治38年5月8日)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
後藤猛太郎
後藤猛太郎
後藤猛太郎
後藤猛太郎
後藤猛太郎
後藤鉄二郎
後藤鉄二郎
後藤初勢
後藤彦七
後藤彦七
後藤彦七
後藤彦七
後藤彦七
後藤彦七
ごとうたけたろう
ごとうたけたろう
ごとうたけたろう
ごとうたけたろう
ごとうたけたろう
ごとうてつじろう
ごとうてつじろう
ごとうはつせ
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうひこしち
(明治39年)2月24日
(明治45年4月1日)
(明治)11月25日
2010/2/13
2010/2/21
1927/7/19
1927/8/5
(明治14年3月3日)
(明治40年)5月末日
(明治40年)6月10日
2010/2/6
2010/5/31
2010/8/23
封筒 巻紙墨筆
司令部の帰京は来る25日頃のことで、帰京次第軍備の拡張について山県と論争するつもりであること、一刻も
早く台湾に帰りたいこと。
封筒 藁半紙墨筆 別紙は返却することなど。
巻紙墨筆
明治35年度の事業についての現在の状況と、富講のことについて。
巻紙墨筆
阿里山山林の事業計画について。
封筒 巻紙墨筆
男爵授与のお祝いとして粗餐を差上げたいので、夫人を同伴して来光願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
大観院殿の法事の案内。
封筒 巻紙墨筆
魯庵記念財団顧問を、後藤に嘱託すること。
封筒 巻紙墨筆
対支交渉は憂慮すべき事態に陥っていること。自身の進退問題について。
封筒 巻紙墨筆
満州煉瓦会社についての意見と、大連を本拠に満鉄に関連する事業に従事したいこと。
封筒 罫紙ペン筆 罫紙 江木千之が提案した大日本製糖の藤山雷太の拓大基金寄付の件と、鉄道協会における支那文化事業関係
者の会合についての私見。
封筒 罫紙ペン筆
東亜文化事業打合会への招待状の配布先について。
巻紙墨筆
後藤が大連に出発後、葉山に行ったことと、靖国神社に参拝したこと。
封筒 巻紙墨筆
先日の手紙が、誤字を訂正されて大連から母親のところに返送されてきたことと、母親が横浜より無事に出航
したこと。
葉書ペン筆
陸軍大演習の模様について。
絵葉書ペン筆
青森で田村丸に乗船する直前の、後藤への連絡。
洋紙ペン筆
在米中の後藤一蔵の友人である、広東出身の黄鳳萃が帰国途中に日本に立寄り後藤に会いたがっているの
で、面会してやって欲しいこと。
封筒 洋紙ペン筆
米欧視察中の後藤の病気を心配していること。
罫紙ペン筆
電報にてモンタニア号出帆の延引を承知、先日河上清氏サンフランシスコよりニューヨークに来て、前田氏より
も問合せの電報あり 東京は皆元気の様子、小生は夏期学校も無事終り、先日来ニューヨーク近郊を旅行
新渡戸先生、笠間・岩永両氏は欧州に残るとのことなど。
封筒 便箋ペン筆
明朝に木曽川流域の水力発電所を見学し、大井発電所のダムや大阪の大同火力発電所も見る予定であるこ
と。
封筒 便箋ペン筆
大連の後藤の健康を案じていることと、日本の留守宅の様子。
巻紙墨筆
和歌に託した新平家の訓戒。
巻紙墨筆
伊賀袴を送るので洗濯して黒に染直し、又はそのまま義経袴に仕立てるように、古背割羽織は是も洗濯して
墨に染直し新平の筒袖の背割羽織にするように等、衣類に関する指示。
封筒 巻紙墨筆
杉山氏の取結びにより金子から台華殖民合資会社を林謙吉郎に渡し、同社を経営するため婚儀が終ってか
ら渡台すること、岩崎氏から意外に信用を得たことは後藤の庇護の結果であること。
巻紙墨筆
杉山茂丸から得た滑稽書簡を、後藤に転送すること。
封筒 巻紙墨筆
日露協会寄付金の儀は、第一銀行その他より金1000円寄付の事になり、何時にしても実行されること。
巻紙墨筆
小坂広告の翻訳稿が出来次第郵送するほか、27日後藤が浦賀に出た時電話すること。
封筒 巻紙墨筆
喘息の他に心臓実質炎に罹ったために、狩猟の供がかなわなくなったこと。
巻紙墨筆
糖尿病が再発したために、後藤に会いに行けなくなったこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の贈物に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
見舞も届きかね恐縮であること、英写を賜りありがたいこと、尚生田方に賜った英写は早速届け置いたこと。
和紙墨筆
台湾と往来する後藤家の面々の安否について。
巻紙墨筆
近況報告。
和紙墨筆
和子が海外に出発する時の様子等について。
封筒 巻紙墨筆
一蔵の病状について。
封筒 巻紙墨筆
一蔵の病状について。
巻紙墨筆
後藤新平が旅行で留守にしていた間に受領した郵便部等について。
巻紙墨筆
帰京の報告。
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
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来翰
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来翰
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来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
後藤彦七
後藤彦七
後藤彦七
後藤利恵
後藤
後藤
近衛篤麿
近衛文麿
木場貞長
小橋一太
小林丑三郎
小林丑三郎
小林丑三郎
小針鎮平
小針鎮平
小針鎮平
小松原英太郎
小松原英太郎
小松原英太郎
小松原英太郎
小松原英太郎
小松原英太郎
小松緑
小松緑
小松緑
小松緑
小松吉久
小松吉久
小村欣一
米田虎雄
近藤隆吉
近藤廉平
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうひこしち
ごとうりえ
ごとう
ごとう
このえあつまろ
このえあやまろ(このえ
ふみまろ)
こばさだなが
こばしいちた(こはしい
ちた)
こばやしうしさぶろう
こばやしうしさぶろう
こばやしうしさぶろう
こばりちんぺい
こばりちんぺい
こばりちんぺい
こまつぱらえいたろう
こまつぱらえいたろう
こまつぱらえいたろう
こまつぱらえいたろう
こまつぱらえいたろう
こまつぱらえいたろう
こまつみどり
こまつみどり
こまつみどり
こまつみどり
こまつよしひさ
こまつよしひさ
こむらきんいち
こめたとらお
こんどうりゅうきち
こんどうれんぺい
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
(明治)8月19日
2010/12/13
2010/1/2
(明治45年3月10日)
(明治45年3月7日)
2010/5/28
(明治)
(大正13年)5月10日
(明治45年3月)13日
(大正6年)10月22日
1917/11/10
(明治)40年11月30日
大正元年9月30日
1915/10/15
(明治37年)9月5日
(大正3年)7月16日
(大正5年)2月25日
(大正6年)7月27日
(明治)4月28日
(明治)9月2日
(大正)3月4日
(大正)3月23日
(大正)11月13日
(昭和2年)12月2日
1906/1/1
(大正6年)7月7日
2010/3/19
(明治33年)5月26日
(大正)2月3日
2010/2/4
(明治39年)9月2日
(明治39年)10月18日
(明治40年)1月25日
(明治40年)6月27日
(明治40年)7月15日
(明治40年)10月12日
封筒 巻紙墨筆
馬関から帰京した田畑氏より送付の記事によると、ドイツが南満州に注目していることが想像できること。
封筒 巻紙墨筆
中国陜西省の炭田の経営に、自分の知人である大阪の資産家が参加できるように後藤に尽力して欲しいこ
と。
巻紙墨筆
一蔵の病状について。
巻紙墨筆
安場の家族は無事であること、後藤が帰国して留守中の出来事を昔語り出来る日が来るのを楽しみにしてい
ること。
電報
「ハセガワ」の病気が旦夕に迫っているとの知らせがあったこと。
電報
「ヤギシタシュウ」が死去したのでどうしたらよいか問合わせ。
封筒 巻紙墨筆
自分知人の川上清が後藤に相談したいとのことで、自分が仲介を頼まれたこと。
封筒 便箋墨筆
京都都ホテルに泊まっている際に、後藤に会いたいこと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 岡山県における鶴見の選挙への干渉について長尾をもって問合わせたことについての弁明。
封筒 巻紙墨筆
後藤より招待された集会に出席する旨回答。
封筒 巻紙墨筆
後藤より下問のあった阿片問題についての返書。
封筒 巻紙墨筆
東京出発の後、長春・吉林・ハルピン等の満州の実況を概観し北京に到着、以後多忙を極めていること。
巻紙墨筆
昨29日に帰京した後藤に対し旅行中の苦労を察する務。
封筒 和紙墨筆
後藤の揮毫4枚を請取ったこと。
封筒 和紙墨筆
幅物6葉揮毫願。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 台湾協会学校について。
封筒 巻紙墨筆
桂太郎の墓所建設費の内へ、東洋協会から金1000円を寄進する件について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の著作である『日本膨張論』を送ってくれたことに対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
東洋協会が拓殖館を建設するにあたり、満鉄の所有地買入れの件で後藤の尽力を得たいこと。
封筒 巻紙墨筆
旧彦根藩士百尾喬利を台湾で警部長に採用して欲しい旨依頼。
封筒 巻紙墨筆
高木はすを台湾で採用して欲しい旨依頼。
封筒 巻紙墨筆
伊藤公全集第2巻は近日中に刊行のはずであるので、出来次第後藤に見せる予定であること。また、自分の
著書の外交秘書も近日出版の予定なので、後藤の序文をいただきたいこと。
封筒 巻紙墨筆
『伊藤公全集』第三巻逸話の部に掲載するための原稿として、明治44年出版の「名士の偉人観」の切抜を送
付したこと。
封筒 巻紙墨筆 活字印 伊藤公全集刊行に計画があるので、色々と後藤に依頼したいことがあること。
刷物
封筒 巻紙墨筆
ソ連訪問の途に上る後藤に対して、日ソ親善についての自分の意見を開陳したもの。
和紙墨筆
新年の挨拶。
封筒 巻紙墨筆
拝領した書幅についてと、自作の詩文を改めたこと。
封筒 巻紙墨筆
奉天で日蒙仏教協会の幹事をしている釈黙笑が、今度蒙古人のために日蒙倶楽部を設立することとなり、資
金調達の目的で上京してきたので、後藤に紹介すること。
封筒 巻紙墨筆
安場と自分が世話をしてきた熊谷直亮を、台湾で奉職させて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
教師の米国行を見送るため、欠礼すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の話を拝聴したいので、来る20日午後5時半に築地の瓢屋へ来て欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
外務大臣に見せることは、大臣が病中でもあるので、暫時見合わせること。
封筒 巻紙墨筆
小熊氏の治療を受けることを約束すること。
封筒 巻紙墨筆
岡松氏に在官のまま理事を兼ねさせることは、可能であること。
封筒 巻紙墨筆
暁星中学校の校舎増築及び用地買収の発起人になって欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の苦衷は察するが、国家のために堪えて欲しいこと。久保田氏の昇等については心配は無用であること
など。
封筒 巻紙墨筆
過日依頼された「満州日日新聞」の題字を差出すこと。
37
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西園寺公望
西郷菊次郎
斎藤参吉
斎藤参吉
斎藤隆夫
斎藤博
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤実
斎藤道四郎
斎藤道四郎
斎藤道四郎
斎藤道四郎
酒井日主
酒井日主
酒井日主
境野哲
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
榊原政雄
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいごうきくじろう
さいとうさんきち
さいとうさんきち
さいとうたかお
さいとうひろし
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうまこと
さいとうみちしろう
さいとうみちしろう
さいとうみちしろう
さいとうみちしろう
さかいにっしゅ
さかいにっしゅ
さかいにっしゅ
さかいのてつ
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
さかきばらまさお
(明治41年)3月12日
(明治41年)7月23日
(明治45年)5月2日
(明治45年)5月17日
(大正5年)10月18日
(大正7年)4月29日
明治32年12月26日
2010/2/25
2010/12/30
(大正6年)1月31日
1921/4/9
(明治38年)2月28日
(明治38年)3月27日
(大正7年)5月28日
(大正9年)4月1日
(大正9年)12月27日
(大正11年)1月26日
(大正11年)4月4日
(大正11年)9月7日
大正12年1月
(明治14年)2月3日
1920/4/8
(大正9年)5月13日
1924/7/19
(大正8年)1月27日
(大正8年)12月16日
元旦
1921/7/9
(大正6年)12月19日
(大正7年)8月1日
(大正7年)8月10日
1923/11/27
(大正14年10月19日)
(大正15年)11月17日
(大正15年11月)
2010/8/15
封筒 巻紙墨筆
顧問制度のことについては、もう少し議論を重ねた上で採決したいこと。
封筒 巻紙墨筆
両顧問の辞表を返却することなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤より依嘱された件については、鈴木に依頼しておいたこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤より依嘱された住友から日露協会への寄付の件について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の内務大臣就任について、国家のためにその尽力を祈っていること。
封筒 巻紙墨筆
近衛に対して無理を押しつけたものの採用してくれたことに対する謝辞。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
新聞に掲載された後藤の報道の真偽の確認。
巻紙墨筆
生蕃討伐の件について必要事項の指示を仰ぎたいこと。
封筒 巻紙墨筆
支那起業意見書の提出について。
封筒 巻紙墨筆
後藤への面会願。
巻紙墨筆 便箋 電報 宮津慶一なる人物へ帰国に際して500円立替えたことについて。
封筒 巻紙墨筆
中村氏の報酬のことについて。
封筒 巻紙墨筆
留守家の山林の引渡しと、その処分方法についてなど。
封筒 巻紙墨筆
貴族院議員選挙への応援依頼と、留守家の問題について。
封筒 巻紙墨筆 便箋 留守家計算書報告。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 留守家の財産の管理状況は、あまり芳しくないこと。
封筒 巻紙墨筆
伊達伯爵薨去の特旨叙位について、後藤に尽力して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 便箋 留守家財産計算書について。
罫紙
封筒 巻紙墨筆
留守邦太郎の結婚については、伊達伯爵の配慮により久世子爵の令嬢との縁組が成立したこと。
封筒 便箋ペン筆 名刺 留守家収支決算書。
和紙墨筆
後藤の熱田出帆の際には拝顔を得ず残念であったことと、その時に今村秀栄が後藤に是非面会したかったと
のことで、書簡を認めこと。
封筒 巻紙墨筆
揮毫依頼。
封筒 巻紙墨筆
後藤より照会された葉山の別邸の番人について。
巻紙墨筆
後藤より貰った書簡を子女等に分与したいので、末尾に染筆を給わりたいこと。
封筒巻紙墨筆
「奉送欧米行」(漢詩)
封筒 巻紙墨筆
「謹奉祝帰朝」(漢詩)
封筒 巻紙墨筆
四恩教林15周年大道開催につき、後藤に揮毫して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
先般話し合った朝鮮方面に対する方策を進めたく、主意書を認めなければならないところ、用事にて書けず
申し訳ないこと。
封筒 巻紙墨筆
現在の内閣についてと、来月よりボルネオ・セレベスを視察し、将来は経済問題を解決するための拠点とした
いので、後藤の教示が欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
新渡戸との会談の模様と、鄭家屯付近の博王府の土地問題についての鈴木商店の金子直吉の動向につい
て。
封筒 巻紙墨筆
博王府の土地問題について金子直吉の関心を引くようにして欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
農場にせよ鉄道及び山林にせよ何れも500万円を下らざる価格のものなので、財界凋落の今日この一大財源
を回復して満蒙殖民政策の実現に殊功を樹てる心算であることなど。
封筒 巻紙墨筆
農場の取戻しを企図してから10年が経過したが、後藤との知己を得たことで、挽回できて幸甚であったこと。
封筒 巻紙巻紙
蘭領の椰子園への植民と、奉天の榊原農場への植民の件について。
封筒 巻紙墨筆 活字印 榊原農場後援会に対して、保護して欲しいこと。
刷物
封筒 巻紙墨筆
中国各所で暴動が起きているが、これを善導するには、思い切った社会政策が必要であること。
38
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
阪谷芳郎
阪谷芳郎
阪谷芳郎
阪谷芳郎
阪谷芳郎
坂野長三郎
坂野長三郎
阪本釤之助
阪本釤之助
阪本釤之助
阪本釤之助
阪本釤之助
阪本釤之助
坂本俊篤
佐久間左馬太
佐久間左馬太
佐久間左馬太
佐久間左馬太
佐久間鉄園
柵瀬軍之佐
桜井錠二
桜井錠二
桜井錠二
桜井錠二
桜井弥六
桜井弥六
桜井弥六
桜内幸雄
酒勾常明
佐々木吉三郎
佐々木吉三郎
佐佐木信綱
佐々木安五郎
佐々友房
佐々友房
佐藤衡
さかたによしお
さかたによしお
さかたによしお
さかたによしお
さかたによしお
さかのちょうざぶろう
さかのちょうざぶろう
さかもとさんのすけ
さかもとさんのすけ
さかもとさんのすけ
さかもとさんのすけ
さかもとさんのすけ
さかもとさんのすけ
さかもととしあつ
さくまさまた
さくまさまた
さくまさまた
さくまさまた
さくまてつえん
さくらいぐんのすけ
さくらいじょうじ
さくらいじょうじ
さくらいじょうじ
さくらいじょうじ
さくらいやろく
さくらいやろく
さくらいやろく
さくらうちゆきお
さこうつねあき
ささききちさぶろう
ささききちさぶろう
ささきのぶつな
ささきやすごろう
さっさともふさ
さっさともふさ
さとうこう
(明治32年)1月21日
(明治33年)6月22日
(明治39年)12月3日
(明治40年)2月4日
2010/3/20
(明治38年?)3月27日
2010/7/28
(明治45年)6月27日
(大正5年)11月20日
(大正5年)11月23日
(大正12年)9月27日
(昭和4年)1月7日
2010/6/6
(大正6年)9月8日
(明治39年)9月1日
(明治39年)11月13日
1907/4/3
(明治43年)7月7日
(大正6年)7月29日
2010/3/26
(明治40年)2月5日
(明治40年)2月12日
(明治40年)2月15日
(明治40年)2月26日
(大正14年)11月10日
(昭和3年)2月21日
2010/10/21
1928/2/15
(明治40年)10月6日
(大正12年)5月15日
(大正12年8月)28日
(明治42年2月)27日
(大正7年7月)18日
(明治28年)12月26日
(明治)8月13日
(大正3年)10月6日
巻紙墨筆
台湾事業費6000万円については、首相によっては予算の盛り込まれない可能性も残っているので、一番に諮
問されるであろう後藤に、助力を依頼したもの。
封筒 巻紙墨筆
清国へ兵を送るために1円銀が必要になったことと、台湾協会による学校設立への総督府補助出願につい
て。
封筒 巻紙墨筆
後藤の満州出張前に打合せをしたいこと。
封筒 巻紙墨筆
満鉄に米国式を導入して材料注文をすることは、外交上にも好都合であるので、極内密にしておくこと。
封筒 巻紙墨筆
病気見舞。
封筒 巻紙墨筆
廈門診断所の維持方法について。
巻紙墨筆
久し振りに帰郷したことと、厦門診療所の状況報告。
封筒 巻紙墨筆
出張の途中、後藤に立寄って欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤より内命の件についてと、市内でペストが発生したことについて。
封筒 巻紙墨筆
後藤より内命された件は、2500円で協定したこと。
封筒 巻紙墨筆
帝都復興評議員の一員に加えて欲しいこと。
封筒 便箋墨筆
市議会問題解決のために、麻布同志会を後藤宅で開きたいこと。
封筒 巻紙墨筆
鹿児島出張所運輸係長丹羽近馬に面会して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
書中の講話の話はそれ程の材料も無くほんの取留無き座談と思って欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
満鉄就任と内決して帰台し、台北到着後、即日総督へ書函と意見書を提出したのに対し、挨拶状なり意見書
とは何れを指すや。
封筒 巻紙墨筆
後藤が満鉄総裁に就任、勲一等に陞叙せられたことに対し、在台中における挨拶と祝辞を述たもの。
封筒 巻紙墨筆
帝国ホテルにおける晩餐会に出席して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 長尾氏の特別任用に関して、特に後藤の尽力を仰ぎたいこと。
封筒 巻紙墨筆
本日南洋に居る林謙吉郎氏よりフィリピンでの近詠を贈ってきたので、後藤と二田男爵の高覧に供すること。
巻紙墨筆
本日ちょっと帰国、来月12、13日には渡台の積りであること。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 依頼を受けていた化学者の件は、工学方面から推薦することとなり、内山弥左衛門を推すことに決定したこと。
封筒 巻紙墨筆
鈴木は内定で内山は今暫く猶予ということであったにもかかわらず、正反対になっているので、確認のため電
話で後藤と話したいこと。
封筒 巻紙墨筆 起案用 内山弥左衛門が仕事を再開したため、満鉄の方は断る旨報告。
紙
封筒 巻紙墨筆
清国の武昌に勤務している稲並幸吉が契約が切れるので、そこまで猶予してもらえるならば推薦したいこと。
封筒 巻紙墨筆
生柿進呈状。
封筒 巻紙墨筆
ロシアより帰国した後に後藤より挨拶状を貰ったことに対する返礼及び近況報告。
封筒 巻紙墨筆
柿進呈及び近況報告。
封筒 巻紙墨筆
総選挙に打って出る際の応援依頼。
封筒 巻紙墨筆
製糖会社の社債が好結果であること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の後の東京市長の後任には、永田助役しかいないことと、前田助役の留任を希望していること。
封筒 巻紙墨筆
新内閣の文部大臣として、柳沢政太郎を登用せよとの進言。
封筒 巻紙墨筆
佐佐木信綱の子供へ名前を付けててくれたことへの謝辞。
封筒 巻紙墨筆
児玉源太郎の13回忌に臨席せよとのことであるが、当時台湾において徹頭徹尾児玉総督の政策に反対して
いた自分としては、感無量であること。
封筒 巻紙墨筆
償金の内3000万円を帝室に差し上げることは、国民協会一致で賛成であること。
封筒 巻紙墨筆
基隆築港付近の土地を売却したいこと。
封筒 巻紙墨筆
揮毫の依頼と、著書を拝呈する旨。
39
来翰
佐藤皐蔵
さとうこうぞう
(大正15年)3月28日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐藤三吉
佐藤昌助
佐藤宗三郎
佐藤正
佐藤正
佐藤正
さとうさんきち
さとうしょうすけ
さとうそうざぶろう
さとうただし
さとうただし
さとうただし
2010/2/5
1916/10/9
(大正12年)3月6日
(明治45年)3月25日
(大正9年)12月16日
2010/8/17
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐藤竜三郎
佐藤竜三郎
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤寛
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
さとうたつさぶろう
2010/8/11
さとうたつさぶろう
2010/11/4
さとうひろし(さとうろくせ (大正元年)11月29日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正4年)4月22日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正7年)2月8日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正7年)3月8日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正7年)3月9日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正10年?)3月27日
き)
さとうひろし(さとうろくせ 1921/4/29
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正10年)5月11日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正10年)6月17日
き)
さとうひろし(さとうろくせ 大正11年1月
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正11年)3月7日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正11年)7月6日
き)
さとうひろし(さとうろくせ (大正12年)4月13日
き)
さとうひろし(さとうろくせ 2010/5/2
き)
さとうひろし(さとうろくせ 2010/10/20
き)
さとうやすのすけ
(明治40年)2月1日
さとうやすのすけ
(明治)40年4月5日
さとうやすのすけ
(明治40年)4月6日
さとうやすのすけ
(明治40年)6月14日
封筒 巻紙墨筆 名刺 斎藤総督の知遇で大正12年海軍の現役を離れて以来、教化国体に加入したこと、後藤は進取的国是を提供
せられ、又青少年の訓育に尽力しているので、親しく驚嘆に接し高見を拝承できれば、業務遂行上裨益する
所大なるであろう。
封筒 巻紙墨筆
自分の隣地に変圧所が出来ることは付近の者には迷惑であるので、是非計画を変更して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の内務大臣就任に対する祝辞。
封筒 巻紙墨筆
後藤の母親が死去したことに対する悔状。
封筒 巻紙墨筆
承諾を得た拙著に関する序文を供覧に具すこと、追て長谷川先生遺稿並に伝記編纂に関して逸話等を聞け
る時日を示してほしいこと。
封筒 洋紙ペン筆
東京市長を承諾せしは不審であるが、一度引受けらた上は定めし成算が有るものと思う。唯早稲田畑よりも1
人の助役を採用してほしいこと。
封筒 便箋ペン筆
今回の早稲田大学々長問題及び改革問題と、この改革が成就しても改革後の万端の計画を調べ、これを役
人に托し、自分は去る覚悟を決めているので、自分の後事に就き配慮を願いこと。
巻紙墨筆
息子の佐藤長三郎に嫁を紹介してくれたことに対する礼状。
巻紙墨筆
結婚式費用の件。
封筒 巻紙墨筆
過日京都において後藤より下問のあった十月の異名についての回答。
封筒 巻紙墨筆
後藤より命じられた草案は別紙の通り認め、田中伯爵より機密が漏れるようなことは、万に一つもないこと。
封筒 巻紙墨筆
高作本句只の字の方よろしいと思うこと、安場へ電話にても一寸紹介してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤邸に行ったところ不在であったので、別紙を御覧にいれること。
封筒 巻紙墨筆
今回買上を願ったレールは67磅(ポンド)半にて昨年セールフザーより納めるものと同一であるが、今一応調
査したいこと。
封筒 巻紙墨筆
過日席上にて作った堀部安兵衛の賛を改めたこと。
便箋ペン筆
呉氏へ贈る詩歌について。
封筒 巻紙墨筆
昨日御邪魔の際願出た鴻社大会展観ならびに特別室に飾るべき二幅を揮毫してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
先刻は御邪魔した時に話した題辞を採用してほしいこと、 洋瓦株は1株25円払込済のもの1万株に対して1万
千円拝借願う次第であること。
封筒 活字印刷物 故随鴎吟社顧問土居香国並びに故名誉員矢土錦、高野竹隠、股野藍田四氏の追悼会の通知。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 後藤より尋ねられた関防の件は、山田敬斉より別紙の様に申して来たこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 春来会社内に紛擾があり後藤の助言を仰ぎたいこと、尚門名の儀については別紙の如く選出していて面白き
ように思うが後藤の意向は如何か。
封筒 包紙 巻紙墨筆 過日は揮毫していただき当地の人は大に悦んでいること、腰折を貴覧に供するので御霊前に供えてほしいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
知人の醸造家河東倍二郎よりの手製の稲山宗を賞味してほしい旨申出てきたので自分が取次ぐので、受け
取ってもらえれば光栄の至であること。
巻紙墨筆
2、3日前に田中伯が見舞に来られ、松下の事を気遣われたので、同伯と貴名を拝借の上、松下へ忠告してお
いたことなど。
封筒 罫紙ペン筆
満鉄への採用の内意を受けての意見。
封筒 罫紙ペン筆
満鉄の用地買収に伴って清国官憲の妨害が始まったこと。
封筒 罫紙ペン筆
北京行に関し、後藤の腹案の元老を担ぎ出す件は余り得策ではないと判断できること。
封筒 巻紙墨筆
北京・吉林・奉天・長春の各所に出張員を置き、情報網を形成することが満鉄の営業にとって有益であること。
40
来翰
佐藤安之助
さとうやすのすけ
(明治40年)8月6日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
(明治40年)8月18日
(明治40年)8月21日
1907/8/22
(明治)41年6月23日
(明治)41年7月15日
(明治)44年3月29日
(明治)44年4月20日
(明治44年)
(明治)45年1月25日
(明治45年)2月5日
(明治45年)2月8日
(明治45年)3月6日
(明治45年)4月7日
(明治)8月11日
1917/6/30
1918/5/21
1922/2/24
1922/8/5
1922/9/8
1922/12/30
1923/1/12
1923/2/7
(大正12年)2月12日
1923/5/21
1923/10/30
来翰
佐藤安之助
さとうやすのすけ
1923/11/19
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
(大正14年)3月5日
(大正15年)1月6日
(昭和2年)6月14日
(昭和2年)6月16日
(大正)1月15日
2010/5/28
罫紙ペン筆
遼陽視察の結果、鉄道と地方とを親和にするために交渉にあたる人員を増やすことが必要で、そのために新
規に採用する人物には特殊技能として中国語が堪能であることが条件であること。
巻紙 墨筆
北京における、袁世凱と張之洞の状況。
罫紙ペン筆
安奉線に守備隊を配置する件について。
封筒
封筒のみ。
罫紙ペン筆 名刺
後藤が満鉄総裁として訪露の帰途ハルピンにて会見し内地に帰った後の満州事情について。
封筒 巻紙墨筆 詩箋 後藤の逓信大臣就任に対するお祝い。
封筒 罫紙ペン筆 新聞 ドイツ皇帝の振舞いと国情についての報告。
切抜
罫紙ペン筆
欧州各国情勢報告。
罫紙ペン筆
孫逸仙及び黄興との面会談。
罫紙ペン筆
辛亥革命の動向について。
罫紙ペン筆
武漢視察の帰途、南京政府・武昌政府・袁世凱一派の三者間に注意を払うことについて。
封筒 罫紙ペン筆
辛亥革命についての状況報告。
封筒 罫紙ペン筆
辛亥革命の勃発により天津地方の被害について、北京における袁世凱の様子、満州より増援の歩兵第11連
隊は2個中隊の動向。
罫紙ペン筆
日支間関係面白くないのは日本の対満政策の矛盾に起因していると考えられるので、改善に尽力しているこ
と。
封筒 罫紙ペン筆
小笠原から佐藤への奉天総領事館引渡事情、唐・徐との会談模様、ペスト、電灯、萩原氏の評判。
罫紙ペン筆
民主主義が欧州を席巻し始めていて、ドイツは閉口の模様、日本も十分に講究する必要があること。
封筒 罫紙ペン筆
後藤の外相就任祝いと、外交官吏の宿弊について。
封筒 罫紙墨筆
後藤からの依頼である、歩兵大佐永留孝義についての人物調査報告。
封筒 洋紙ペン筆
William Pan Caper著『The modern City and it's Government』の紹介及び目次の訳文。
封筒 罫紙ペン筆 タイ 対支政策については、陸軍は手を引きその他各省が最も力を入れるべきであるひと。
プ印字物
封筒 罫紙ペン筆
支那青年会館修繕金義捐の件について。
封筒 罫紙ペン筆
支那青年会館に対する寄付金のことと、対支実業懇話会の主な者の一覧表。
封筒 罫紙墨筆
ヨッフェ招待問題と、赤化防止団の後藤邸不法侵入事件について。
封筒 罫紙墨筆
山東鉱山合弁会社に関しては、外務省外に配慮するために、後藤の取りなしを期待していること。
封筒 罫紙ペン筆 罫紙 馮玉祥から後藤に書簡が送られたことについて。
封筒 罫紙ペン筆 謄写 対張作霖対策を講究しなければ失態を招く恐れがあること。
版印刷物 藁半紙 和紙
封筒 洋紙ペン筆
支那官民の空気が良好な今、積極的行動に打って出るのが肝要、欧州協調外交は少し支那において失敗す
るのではないかとの考え、北京の内情、芳沢の不評判について 、外務省の人材不足について。
封筒 罫紙墨筆
北京漫遊に際して、土産の携行にかんすること。
封筒 巻紙墨筆
後藤の言を田中義一に伝えたところ、大変喜んだことと、帰途西園寺の所に寄る必要はないこと。
封筒 巻紙墨筆
安広南満州鉄道株式会社社長辞任について。
封筒 巻紙墨筆
安広満鉄社長の辞任決定の件と、首相が後藤と極秘に面談したがっていること。
封筒 巻紙墨筆
横山の報告書は、龍居頼三にも回覧して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
総理大臣に対して、書面は拝読し内容の件については研究してから返答すると、伝言して欲しいこと。
41
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
佐藤安之助
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
さとうやすのすけ
2010/6/11
2010/9/8
2010/11/17
来翰
来翰
佐藤寛(六石)
佐野静子
さとうろくせき(さとうひろ (大正10年)10月8日
し)
さのしずこ
(明治37年)2月20日
来翰
来翰
来翰
来翰
佐野静子
佐野静子
佐野静子
佐野静子
さのしずこ
さのしずこ
さのしずこ
さのしずこ
(明治40年)5月16日
(明治40年)6月7日
(明治40年)6月8日
(明治40年)8月28日
来翰
来翰
佐野静子
佐野静子
さのしずこ
さのしずこ
(大正8年)4月26日
(大正8年)5月18日
来翰
佐野静子
さのしずこ
(大正8年)7月24日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
佐野雋達
佐野彪太
佐野彪太
佐野彪太
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
沢田謙
さのとしたつ
さのとらた
さのとらた
さのとらた
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
さわだけん
(明治39年)7月3日
(明治)6月27日
(明治)11月11日
1907/1/1
2010/8/1
(大正13年)9月12日
(大正13年9月22日)
(大正13年)10月11日
(大正14年)6月23日
(大正15年2月8日)
1928/1/28
2010/10/26
2010/11/10
(明治)9月20日
封筒 罫紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 名刺
謄写版印刷物
封筒 罫紙ペン筆
藁谷某の評判について。
江浙地方の地図書込みについて。
南清一帯から北京に侵入する可能性があること。
陞勲されたことについての礼状。
「趙爾巽ト日本諸大官トノ会見」(印刷物)
唐巡撫より送ってきたものを後藤に転送すること、岡松理事は明日督撫に会見すること、明夜は理事が主人と
なって陶大均その日本関係の人及び学者を招宴する筈であること、封中の他一封は天津の山根より来たもの
で漢文新聞の記者を依頼した事に対する返事であることなど。
封筒 巻紙墨筆
長崎カステラ御陰候様に差上度と云々、東宮殿下奉迎の御作を訂正の件、宮尾小海長官と面会、洋瓦にす
るとの話、工場を箱館辺に設立など。
封筒 巻紙墨筆 紙片 自分達は変わりがないので安心してほしいこと、過日は後藤が無事に帰台したことを新聞で知ったこと、いよい
よ戦争がはじまるようであるが幸いにも目出度いことのみ耳にしていること 仙波太郎より後藤より寄贈された
「露国ノ闇黒界」の礼状が来ているので伝えることなど。
封筒 巻紙墨筆
大連にいる後藤への近況報告。
封筒 巻紙墨筆
後藤一蔵が突然に高熱を発し、赤十字病院へ入院したこと。
封筒 巻紙墨筆
高熱のために赤十字病院に入院した後藤一蔵は、その後熱も下がって元気になり、退院も程ないこととなった
ので、安心してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の祖母をはじめとする家族の様子及び一蔵の病状、 新渡戸夫人と一緒に外遊中の和子夫人が後藤の
ゆるしがあるならば欧州へ廻りたいとのことであるがその後はどうなったのか知らせてほしいこと、一本松の祖
母の鎌倉転地後の状況。
封筒 便箋ペン筆
渡米中の後藤への、家族や親族及び自分の近況報告。
封筒 洋紙ペン筆
後藤一蔵より米国視察中の新平の消息を聞いていること、 折々の新聞で時局の意見などを拝見しているこ
と、次に英国に渡る時には風土が変わるので気をつける様にとのこと、日本にいる家族・親族の様子。
封筒 便箋ペン筆
後藤が米国より欧州へ無事に旅行を続けていることに安心していること、留守をしている自分たちの近況、青
山に夫人和子の墓が出来たこと、床次内相が夫人の百ヶ日も済むか済まないうちに新しい夫人を迎えたという
が同じ境遇にいるどの様に感じているのか、自分としては脳の中であきれていること。
封筒 巻紙墨筆
男爵叙爵と芝区宮川町に新邸が完成した事への祝辞。
封筒 巻紙墨筆
安場老人の病気見舞と、天津滞在を延長する旨報告。
封筒 巻紙墨筆
後藤の赤十字社に関する演説筆記送付に関する件。
絵葉書
新年の祝詞。
封筒 巻紙墨筆
実業同志会関係の代表として森田・綿貫よりの報告電報を通知する旨など。
封筒 便箋ペン筆
ハワイ行の洋上より、船中の生活についての報告。
封筒 便箋ペン筆
ハワイの住民は目が死んでいる様で、永住したいとは思わなかったことと、サンフランシスコへ到着したこと。
封筒 便箋ペン筆
アメリカ旅行の報告。現地で鶴見・石本と面会したことなど。
葉書ペン筆
妻たか子の永眠報告。
封筒 罫紙ペン筆
東京市政調査会辞職報告。
封筒 活字印刷物 ムッソリーニ伝出版の報告と、同書を宣伝してほしいこと。
巻紙墨筆
「政治の倫理化」は全部書直しのため校正が遅れたことについての詫状。
レターペーパーペン筆 アメリカ留学報告及び近況報告。
封筒 原稿用紙ペン筆 「政治の倫理化」の校正が完了したので送付することと、校正箇所とその説明。
封筒 原稿用紙ペン筆 「外政根本の樹立」の校正完了報告。
封筒 レターペーパーペ 「公民読本」の校正完了報告。
ン筆
42
来翰
来翰
来翰
沢田謙
沢田謙
沢村繁太郎
さわだけん
さわだけん
さわむらしげたろう
(明治32年)8月25日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
沢村繁太郎
沢村繁太郎
沢柳政太郎
沢柳政太郎
沢柳政太郎
沢柳政太郎
沢柳政太郎
沢柳政太郎
三宮義胤
椎名弁七郎
塩見平之助
塩見平之助
塩見平之助
塩見平之助
志賀重昂
四竈きみ
四竈謙平
四竈謙平
四竈謙平
志賀和多利
志賀和多利
志賀和多利
実川時治郎
品川弥二郎
信夫淳平
信夫淳平
渋沢栄一
渋沢栄一
渋沢栄一
渋沢栄一
渋沢栄一
渋谷新平
さわむらしげたろう
さわむらしげたろう
さわやなぎまさたろう
さわやなぎまさたろう
さわやなぎまさたろう
さわやなぎまさたろう
さわやなぎまさたろう
さわやなぎまさたろう
さんのみやよしたね
しいなべんしちろう
しおみへいのすけ
しおみへいのすけ
しおみへいのすけ
しおみへいのすけ
しがしげたか
しかまきみ
しかまけんぺい
しかまけんぺい
しかまけんぺい
しがわたり
しがわたり
しがわたり
じつかわときじろう
しながわやじろう
しのぶじゅんぺい
しのぶじゅんぺい
しぶさわえいいち
しぶさわえいいち
しぶさわえいいち
しぶさわえいいち
しぶさわえいいち
しぶやしんぺい
(明治33年)6月18日
(明治)7月10日
(大正10年)6月20日
(大正10年)10月5日
(大正13年9月)1日
(大正13年)9月25日
(大正13年9月)28日
(昭和2年)7月8日
(明治)33年4月11日
(明治)2月23日
1908/2/22
(明治41年)2月28日
1925/10/21
1926/6/5
(大正15年5月)
(昭和2年)7月30日
(大正15年)12月9日
(昭和2年)7月21日
(昭和3年)10月7日
1916/10/8
1920/2/29
(大正15年)11月23日
(極月17日)
(明治31年)5月29日
(大正3年)8月31日
(昭和3年2月9日)
(明治44年)11月21日
1921/1/22
2010/4/9
2010/4/14
2010/8/14
(大正13年)10月1日
封筒 レターペーパーペ 病気見舞状。
ン筆
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
厦門道台と厦防庁とを免官させて謝罪の意を表し、且つ加害者を厳罰に処する様に総理衙門より厳重に申込
んでほしいことを総督府より電報にて外務大臣に主意してはどうかとの提案。
封筒 巻紙墨筆
太沽砲撃事件についてと、中国北部地方の状況について。
封筒 巻紙墨筆
汕頭嶺東同文学堂創立者の山下稲三郎に面会して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 過般後藤より示された教育学院の件については、前奈良女子師範学校長野尻精一氏が尽力していること。
紙
封筒 便箋ペン筆 新聞 ロンドンの道路・交通・下水等は、未来の東京のために将来的に参考になるであろうこと。
切抜
封筒 罫紙墨筆 電報 平林広人氏のデンマーク滞在費用については、差し当たり300円の送金を希望していること。
封筒 巻紙墨筆 領収証 平林氏への後藤の援助については、敢えて名前は伏せておくとのこと。そして、200円分を英貨に替えてデン
マークへ送金したこと。
封筒 巻紙墨筆 電報 デンマーク滞在費用を送金したことに対し、平林より感謝の電報が到着したこと。
封筒 便箋ペン筆
洋上よりの近況報告、鶴見夫人の元気な様子、マールブルヒ大学教授ホットー博士のために援助を乞う、
3000円をドイツ文化協会の方へ支弁しほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
浅野氏の叙位と、基隆に所有している土地の寄付について。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
後藤の王道論が王陽明の説に似ているということ。
封筒 巻紙墨筆
後藤の王道論が王陽明の説と同じだと評価すること、陽明学を深めるようにとの警諭に接し取り組んだところ一
段の進歩を感じてきていること。
封筒 巻紙墨筆
現行に行われている13家(宗教)の解疎を検討し至確と信じる卑説を立て、また儒教を公開的民族的に宣布
する案を立てたこと。
封筒 巻紙墨筆
自分の著作への揮毫依頼と、鶴見祐助への紹介依頼。
封筒 活字印刷物 ベルナルド・エァン・ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim)略歴。
封筒 巻紙墨筆
無音の詫びと後藤よりの中元にたいする礼状。
封筒 巻紙墨筆
後藤よりの歳暮に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
親族一同への後藤よりの贈品に対する礼状。
巻紙墨筆
後藤が四竈謙平の自宅に立ち寄ってくれたことに対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
新内閣の組織ににあたり、司法長官に花井卓蔵を推すこと。
封筒 巻紙墨筆
衆議院議員選挙に岩手6区(胆沢・江刺・気仙)から出馬するつもりなので、助勢願いたいということ。
封筒 巻紙墨筆
国内の政情報告。
封筒 巻紙墨筆
普通選挙法施行後の選挙の実態は以前と変わらないので、警戒が必要であること。
封筒 巻紙墨筆
山本盛房の紹介状と面会依頼。
封筒 レターペーパー墨 カルカッタ領事館より着任の挨拶。
筆
封筒 新聞切抜 名刺 「後藤氏の帰朝と日露の親善」と題する「万朝報」の記事切り抜。
封筒 巻紙墨筆
日露協会の寄付金のことについては、正金銀行も郵船会社もOKしているとの報告。
封筒 原稿用紙墨筆 井上志郎と月山貞勝の推薦状。
封筒 巻紙墨筆
武井文夫の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
ラモントに関する書類を受け取ったこと、米人一行着京後協議会を開く模様であること。
封筒 巻紙墨筆
山口六郎次の紹介と後藤への講演会出演依頼。
封筒 原稿用紙ペン筆 東京市長への推薦は受けない方が得策であること。
43
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
渋谷新平
渋谷愛夫
島倉貢
島村久
下飯坂権三郎
下飯坂武次郎
下飯坂武次郎
下飯坂武次郎
下条康麿
下条康麿
下条康麿
下田歌子
下田歌子
しぶやしんぺい
(大正13年)10月7日
しぶやよしお
1916/1/18
しまくらみつぐ
1919/2/21
しまむらひさし
明治24年6月13日
しもいいざかごんざぶろ 1918/4/25
う
しもいいざかたけじろう (明治41年)7月17日
しもいいざかたけじろう 1918/9/12
しもいいざかたけじろう 1926/4/10
しもじょうやすまろ
2010/1/21
しもじょうやすまろ
(大正)9月30日
しもじょうやすまろ
1927/7/3
しもだうたこ
(大正12年)4月1日
しもだうたこ
(大正12年)4月8日
来翰
来翰
下田歌子
下田歌子
しもだうたこ
しもだうたこ
(大正12年)4月27日
(大正12年)5月22日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
下田歌子
下村当吉
下村当吉
下村当吉
下村当吉
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
しもだうたこ
しもむらとうきち
しもむらとうきち
しもむらとうきち
しもむらとうきち
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
2010/4/8
(大正12年)7月6日
(大正12年)12月3日
(大正14年)6月10日
2010/1/3
(大正4年)10月29日
(大正6年5月18日)
(大正6年)9月13日
(大正6年)12月21日
(大正8年)7月24日
1920/5/25
(大正9年)5月30日
(大正11年7月10日)
(大正)12年9月10日
(大正)12年9月22日
(大正)12年10月5日
(大正)12年11月7日
封筒 原稿用紙ペン筆
和紙墨筆綴
封筒 巻紙墨筆
罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 半紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
東京市長への推薦を辞退したことへの祝福と、神戸停車場払下げの件について。
時局に対する自身の意見。
非売品だった『ビスマルク演説集』をわけてほしい旨。
万国衛生会議に関する英文プログラムを送付すること。独文のものについては印刷次第回送すること。
後藤の外務大臣就任に対する祝辞。
輸出楢材見分のため出張2週間目であること、後藤の逓信大臣就任を祝うこと。
高野長英生誕地の写真完成報告。
入院見舞に対する感謝と、全快の後に再度お礼に参上する心算であること。
旅行の件は、別紙の様式で記入の後提出するならば、直ちに認められるであろうこと。
岸一太氏の化学に関する技師としての詮衡は、支障無く決定したこと。
震災当時親任式記念撮影の招待状及び式次第。
頃日、外松孫太郎がやって来て、昨年来共讃を得ている例の閣下崇拝者推薦の件は是非ともこの際に行い
たいので、後藤の助力を願いたいこと。
過日申上げた件を直ちに取搬んでいただき、何事にも真面目に取扱う人の少ない社会において後藤の働き
に感謝すること、彼の人は世上の誤認誤評にも耳を傾けず理想に向って奮闘する決心であること、宮家の遭
難後は私も毎日参殿していることなど。
封筒 巻紙墨筆
転地後の後藤に拝領の果物を送ること、過日願上げた件は風雲の急を見るにつけても後藤の助力を願いた
いこと。
封筒 巻紙墨筆
対露交渉において漁業人頭税免除等は単へに後藤の尽力と感佩の外無いこと、そうした仔細を例の人に覚
書にして渡してほしいこと、例の人に対する懇願の件はどうなっているのかということ、またその事について何
分の尽力を願いたいこと、外松孫太郎へは後藤の言の通り伝えておいたことなど。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 特許権者と会社との関係については、特許権者の立場から賀来氏へ別紙の通り書面を差し出して置くというこ
と。
封筒 巻紙墨筆
特許権の事は解決、代価17万5000円で全権利を譲渡、5ヶ年の分割支払いを受けることで協議が整ったこと。
封筒 便箋墨筆
松子の病状報告と見舞いへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
溝口新平の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
公私を通しての後藤の教諭への謝辞。
封筒 巻紙墨筆
花蓮港とタロコの開発、中部の水力電気、対岸の中国大陸における排日運動等の台湾現状報告。
封筒 巻紙墨筆
人事・早川鉄治・鈴木三郎・築港等の台湾事情報告。
封筒 巻紙墨筆
台湾警察協会雑誌に後藤が一筆書いた事への礼状。
封筒 レターペーパー墨 郵便局創立10周年記念について、台湾事情報告について、中国情勢について親日派の迫害、在支那の在
筆
外公館の改革、人材登用について、南部塩業社会設立の報告など。
巻紙墨筆
故明石大将の自筆訓示草稿における揮毫依頼。
封筒 巻紙墨筆
お手紙感謝、別紙男爵宛の書面は届けに上がること、頭山氏宛の書面は廃棄してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
市政調査に関しては本社の服部文学士は相当理解しているので、時に応じて召して頂きたいとのこと。
封筒 便箋ペン筆
帝都復興にかんする意見。
便箋ペン筆
朝鮮人問題と社会主義問題について、後藤の意見を伺いたいこと。
封筒 便箋ペン筆
パラリンピック参加の経費補助について。
封筒 便箋ペン筆
都市計画における宮城の移転問題について。
44
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
下村宏
( )修治
十文字大元
春興社
勝田主計
勝田主計
白井新太郎
白井新太郎
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しもむらひろし
しゅうじ
じゅうもんじだいげん
しゅんこうしゃ
しょうだかずえ
しょうだかずえ
しらいしんたろう
しらいしんたろう
1927/7/15
1928/2/12
(大正)3月6日
(大正8年)3月1日
(8月)2日
2010/10/4
(1912年)10月5日
(大正12年)4月28日
1927/1/30
(大正8年)2月28日
(大正4年)9月28日
(大正4年)9月30日
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆
絵葉書ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
白井新太郎
白井新太郎
しらいしんたろう
しらいしんたろう
(大正4年)10月8日
(大正7年)1月15日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
白井新太郎
白井新太郎
白岩龍平
末広重恭
しらいしんたろう
(大正7年)2月6日
しらいしんたろう
1926/10/12
しらいわりゅうへい (大正6年)10月21日
すえひろしげやす(すえ (明治26年)10月10日
ひろてっちょう)
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
末松偕一郎
末松偕一郎
末松偕一郎
すえまつかいいちろう (大正6年)9月12日
すえまつかいいちろう (大正6年)9月26日
すえまつかいいちろう (大正6年)12月5日
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
末松偕一郎
すえまつかいいちろう (大正7年)5月20日
封筒 巻紙墨筆
来翰
末松偕一郎
すえまつかいいちろう 1922/1/20
封筒 便箋ペン筆
来翰
来翰
来翰
末松偕一郎
末松偕一郎
末松謙澄・生子
すえまつかいいちろう 1922/6/30
すえまつかいいちろう (大正12年)
すえまつけんちょう・す (明治41年)7月3日
えまついくこ
封筒 便箋ペン筆
封筒 名刺
封筒 巻紙墨筆
45
ただの1分でも良いので、面会の機会をいただきたいこと。
後藤が講演してくれることへの謝辞と、揮毫依頼。
自身が台湾に在職している旨。
体が優れない時に服用すべき薬品について。
万国阿片会議の経過と条約書写を送ること。
梅谷光貞氏の紹介状。
10月2日にベルリンを引き上げてパリに入り、来る17~18日頃まで滞在した後にロンドンヘ渡ること、後藤の健
康を祈っていること。
ヨッフェへの治療について。
「政治の倫理化」の映画化に際し、市電乗換券に広告を出すことについての売込み。
3日出発の米欧巡視旅行について。
封筒のみ。
安田家との取引開始について。
安田家より借金のことについて協定が成立し、追て富士水電の別動隊として化学工業に従事しつつある富士
電化工業株式会社に増資の上、水電会社と合併させ、借入金の振替をすること。
安田家の件は、弊社社債として90万円、前回の60万円、都合150万円を借り入れ、社債の内小池商店から30
万円借入したので、円満に解決したのも後藤のお蔭であること対するお礼。
11日の夜行で会津若松へ向かった用向は、会津日報社社長に告訴事件問題について協定覚書を延期する
ためであり、日報社の営業権及び所属機械を2250円で譲受け、社長との個人的契約として他国での生活費を
渡し若松を退去させることに話を纏めたことなど。
会津日報社社長の生亀藤吉のことは前回の書簡で述べたとおりであるが、去る13日に交換した覚書は生亀氏
入獄準備につき反故となったことなど。
後藤新平による政治の倫理化についての遊説を高く評価し、自分もこうした活動に参加する決意であること、
安田家との関係は良好で、小生の運命も東電の興廃次第であること。
過日車中において後藤の高論を拝聴したこと。
芝区に伝染病研究所を設立する件につき先頃後藤に面会の際、区民の与論を採用なく断行した場合、舌と
筆とを以て当局者の不当を天下に訴えるべきと御約束したので、7日に弥生館で演説した筆記を「国会」紙上
に掲載したこと、今日・明日の分を進呈するので読んでもらえれば仕合せであること。
昨夜の児玉内閣書記官長よりの電報によると、現在台湾総督府財務局長の後任を選定中で、もし末松が転任
を引き受けてくれるならば先方は大変歓迎するだろうことなど。
台湾総督府財務局長に転任の辞令を受け、今後は台湾財務のため尽力すること、また戦後欧米出張を希望
しかつ講和大使の随員に加わりたいので、後藤の配慮を願いたいことなど。
地方税予算査定済みにつき、近日上京して国費予算に充分研究の上議会に出席したいこと、従来整備した
内地行政の経験からすると台湾の制度・事務処理方法・慣例等には幾多の不備不権衡があるので、改善の意
見書を立案する余地があることなど。
後藤夫人の葬儀当日、台湾でも盛大な追悼会が開催されたことや大島前長官などの追悼会のことについて、
また5月7日には議員団は視察のため到着し、角板山・台中・嘉義・阿里山・台南・打狗等を視察し、一昨日台
北に帰り本朝出発したことなど。
田総督は枢密院本会議出席の上で帰任のはず、台湾総督府高官夫人たち(末松・賀来・川崎)の体調がよく
ないこと、台湾教育令実施準備及び各学校計画も4月までには完成すること。
妻死去の際の弔問等に対する礼、台湾より朝鮮財務部長への転任は中止となったこと、母を失った子供たち
のためにも内地に転任したいので援助してほしいこと。
震災見舞と内務大臣就任に対する祝い。
小午後会開催に付き案内。
来翰
菅原通敬
すがわらみちよし
(大正15年)1月6日
来翰
杉梅三郎
すぎうめさぶろう
1907/7/2
来翰
杉梅三郎
すぎうめさぶろう
(明治41年)8月13日
来翰
杉梅三郎
すぎうめさぶろう
2010/10/24
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
杉浦重剛
杉浦宗三郎
杉中種吉
杉中種吉
杉孫七郎
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎうらじゅうごう
すぎうらそうざぶろう
すぎなかたねきち
すぎなかたねきち
すぎまごしちろう
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(大正7年)5月1日
(大正10年4月25日)
2010/12/5
2010/12/14
2010/2/26
(明治32年?)1月6日
(明治33年)2月12日
(明治33年)4月19日
(明治33年)5月10日
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(明治33年)5月12日
(明治33年5月14日)
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(明治33年)9月16日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(明治33年?)10月27日
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
1900/2/12
1904/6/16
封筒 巻紙墨筆
税制整理の問題は政治問題の中心となっているがこれについて昨年11月に商業会議所に於て自分が講演し
た際の筆記を送るので参考にしてほしいこと、商業会議所における税制に関する建議は自分の意見に基いた
ものであること、地租の本質に関する愚見は自分の独創のものであること。
罫紙ペン筆
満鉄総裁の名刺を持参して米国大使に面会し篤く謝詞を述べたこと、独乙音楽師招聘の件、ウイレンキン氏
が総裁が依頼した紹介状を自分の所へ届けてくれること、後藤より下命された独乙製の洋服地の件、独乙大
使に依来した大連の紹介状の件、自分の出発の予定。
罫紙ペン筆
後藤の写真を夫人より頂戴し米国ベイン氏に送付したこと、露国蔵相とウエンツェル副総裁の来翰は訳文を添
へて差上るので閲覧してほしいこと、ウエンツェルの手紙は写を作って久保調査役を経て本社と清野理事へ
差出したこと、蔵相の手紙は参考のため原文と訳文の写を作成したこと。
罫紙ペン筆
ウエルトハイマーの桂公論の訳文を送るので一覧してほしいこと、先日青木子爵に会った際に東亜経済調査
局の事を話したところ、非常に賞賛して局を一見したいので自分に案内を依頼されたこと、その時に子爵は
「後藤の様な人物を遊ばせておくのは甚だ遺憾である」と述べたということ。
封筒 巻紙墨筆
支那南北の和共と日支親善の実をあげるための卑見を送るので、読んで欲しいこと。
封筒 レターペーパーペ 自分は今朝出発して渡台の途上にあること、市道路局長候補の1人として元大蔵省技師丹羽氏を池田氏に推
ン筆
薦したこと、道路局長の職について、鉄道省の官制改正について。
封筒 巻紙墨筆
自身の近況について、「自治生活の新精神」をようやく書上げたので、その内容について後藤に見てもらい、
改訂の個所について指示を仰ぎたいこと。
封筒 巻紙墨筆
弁護士会における後藤の話を病のために聞くことができず残念であること、「自治生活の新精神」の校正につ
いて。
封筒 巻紙墨筆
明王問画幅の件について。
巻紙墨筆
台湾公債の募集に関する案文を示し、この様にやっておけば沢山であり、自分はただちに着手してやっつけ
て御覧に入れること。
巻紙墨筆
台湾公債と事業公債に関する米国人との交渉について。
封筒 巻紙墨筆
糖業機械購入のこと、ポンドの一件について、山県有朋の様子について。
封筒 巻紙墨筆
糖業器械購入の件について、山田が1割の報酬を要求してきたこと、総督指図の公債その他の事を明朝拝謁
して言上する予定であること、山県が自分を興銀の重役にしようとして蔵相と交渉したとの手紙を友人より受
取ったので、この事に関する後藤の意見を聞きたいこと。
巻紙墨筆
糖業器械の件は山田の尽力にて大体落着したこと、山田より謝儀として1割7500円を要求してきたこととそれに
関して自分は進退極っていること、またこの事に関連した状況など。
封筒 巻紙墨筆
山田が鉄面皮にも金策を自分から後藤へ申込でほしいと申出てきたこと、自から融通した金も返却してくれな
いこと、山田が大阪にて官名を以て自分を呼出し台南の起業を自分に取扱せるとの内命のような事を言った
にもかかわらず、鈴木三井派と先決してしまうような勝手なことを行っていることなど。
巻紙墨筆
兄と閣下の地位を考えると国家の為には大幸の失礼ではあるが閣下にはこの儀を宜敷願いたし、兄には専ら
倶楽部の主義本領を守ってほしいこと、拝面の際に申上げた件は遠からず実行の外ないこと、両人間直接の
話合は到底纏まらないだろうし大磯翁を起すことは到底不可であることなど。
便箋墨筆 電報
米国よりの電報によると事業公債に関する米国での塩梅は大丈夫と思われること、最早この上は、後に引く訳
にもいかず、この際信用の推行を計るしかないこと、拝顔の上色々と言いたいこともあるので、此の書状が着し
だい連絡してほしいこと。
封筒
封筒のみ。
罫紙綴ペン筆
台湾移民に関する件、台湾の茶業を発展させるための施策について、愛久澤氏を部下として使役する方法に
ついて、帰京中の児玉総督に面会し、今回渡台して感じた事を申上げたこと、他に後藤に言いたい政治上の
事も沢山あるが、あまりに長文になるために後便に譲ること。
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来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(明治38年)3月22日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(明治)38年3月30日
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
1905/6/30
(明治38年)8月13日
(明治38年)9月17日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(明治39年)6月16日
来翰
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(明治40年)8月23日
(明治40年)9月9日
(明治41・42年?)6月28日
1910/5/28
来翰
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(明治43年)5月28日
(明治)45年4月29日
(明治)6月30日
(明治)8月18日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
(大正2年)11月15日
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
大正2年霜月下旬
(大正5年)10月4日
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(大正6年)1月30日
(大正6年4月27日)
(大正6年?)27日
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
1918/1/14
(大正7年)2月18日
1919/5/20
封筒 巻紙墨筆
高輪の家屋を売却し負債の1部を返済したこと、当分の間花月の別荘に住んでいること、田畑健三に申付け
家来を1人撰定したこと、明治17年以来の呑気な閑人となってしまったこと、それを聞いた周囲より色々と言っ
てくること、三興社が大打撃をうけたこと、そのために、自分の生活費に困っていることなど。
罫紙ペン筆
台湾総督の帰京に際し大阪にて総督と面談したこと、その内容は満州の戦況、六三問題、戦局終結の手段に
肝胆を碎いていること等で、また藤田金山及び阿里山問題についても総督と論談したことなど。
封筒 罫紙ペン筆 和紙 台湾総督児玉源太郎へ差出した手紙のコピーを送るので、後藤に見て欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
大陸社の件は後藤伯爵の働きで都合よく進行していること、後藤伯爵は常規を外れた行動が多いので、今回
台湾ヘ1人で旅行する際にも充分注意をしてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
新聞の件はもとより深い理由もないので一応収ったこと、 伊東巳代治と桂太郎が大衝突を起したこと、桂の愚
痴を聞き伊東の相談を受けていたところ、伊東と会った時に新聞の方をやってほしいとの依頼があったこと、こ
の際の資金繰の件についてなど。
封筒 巻紙墨筆 電報 林謙吉郎より台湾の牛稠港の土地を台湾築港局に貸してほしいとの話があったので安くとも良いから全部売
ることにしたとの電報があったこと、これに対する後藤の考えと誰に相談したら良いか考えてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
自分が従来使用してきた暗号を、秘密保持の必要上変更したこと。
封筒 巻紙墨筆
児玉源太郎大将の伝記を編纂中であるので、資料の蒐集に協力して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
今月の貧乏は甚しく月払も盆も出来ず、気の毒であるが今月1000円、盆前に3000円を自分へ都合してくれる
様後藤伯爵へ話をしてほしいこと、借金は盆過には返済すること。
封筒 巻紙墨筆
先年来刊行してきた「太平洋通信」と「雑誌サンデー」は朝野の間に重きをなす様にはなったが時流の傾向に
遅れ弊害もまた少くなくなってきたので、今回両者を分離して経営を別にすることと決定したこと、それについ
て何か後藤の教示があるならば承りたいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 今回「太平洋通信」と「雑誌サンデー」を分離する件に付き別紙記載の人々に別紙内容の通り願出したので承
知してほしい旨。
封筒 巻紙墨筆
久し振りに後藤の話を拝聴かたがた粗餐を差上げたいので、5月4日に築地の瓢屋へ来て欲しいこと。
巻紙墨筆
台湾におけるセメント製造についての建言。
封筒 巻紙墨筆
本日(歯)と話したことは、大浦の事と野村の事はもっともと言いて、もし話になれば決して同意しないと明言し
ておいたこと 森山は(歯)と相談の上呼戻す事に話し合ったこと、(歯)の出立前の二木との話によれば例の
勅令案は林董の反対にて西園寺が困り相談したことなど。
封筒 巻紙墨筆
東拓の問題について山科より渋沢に話させたところ大賛成にて、自分から内相へ申述べるとの由であったの
で是に面会すれば内部の真相も分るであろうこと、そして朝鮮復興の基調とするには一大事の時であると思わ
れること。
封筒 巻紙墨筆
備前忠光太刀と備前則光合口の譲渡証。
封筒 巻紙墨筆
自分は大隈の辞表が怖いと思っていること、それなのに各方面ではすでに後任の話が出ているのは同志会の
騒擾を招くものであること、大隈と加藤との関係には訳があること、大隈は辞表を提出するに当っては今後の
事を上奏する理由があると思うこと。
封筒 巻紙墨筆
犬養と尾崎の両氏に注意して欲しいこと。
封筒 新聞切抜
4月27日の「大阪朝日新聞」に掲載された寺内内閣非難の記事が、不届きであること。
封筒 巻紙墨筆
博多湾築港に関する命令変更の件に付き県の土木課長や会社の人間が上京したところ、関係省の小橋局長
より大臣の意見を聞き、一同顔を青くしてやってきたので、自分の解釈を述べ速に命令を変更する様にと答え
ておいたこと。
封筒 罫紙墨筆
関門海底鉄道株式会社を発起し政府に申請書提出に付き後藤に配慮してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
旧正月に際しての招待状。
罫紙ペン筆
山県・寺内の近況、第一次大戦の講和会議について、政界の状況について、田中陸相・明石総督・立花満州
司令官がやって来て、その際に田中が朝鮮総督の失態は回復の見込がなく辞任の外はないだろうからこの際
文官総督の端をひらいて後藤を総督にしてはどうかと言ったので、自分は反対したことなど。
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杉山茂丸
杉山茂丸
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すぎやましげまる
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すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
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(大正8年)12月18日
(大正9年)1月20日
(大正9年)10月25日
(大正9年)12月15日
(大正9年)12月17日
(大正10年)8月29日
(大正11年)5月6日
(大正11年)5月20日
(大正11年)12月12日
(大正11年11月22日)
(大正12年)
(大正12年)9月13日
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杉山茂丸
すぎやましげまる
(大正12年)9月29日
来翰
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杉山茂丸
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すぎやましげまる
すぎやましげまる
(大正12年)10月15日
(大正12年)10月22日
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すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(大正12年)12月2日
1923/12/12
(大正12年)12月23日
(大正14年)3月12日
(昭和2年)11月21日
昭和4年1月
(昭和4年)3月5日
(大正)1月19日
(大正11年)3月5日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
2010/6/29
封筒 巻紙墨筆
明朝川上博士を遣わすので、面倒でも博多の事の大略を聞いて腹に入れておいて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾総督田健次郎の上京に際して話を聞きたいと思うので、築地の花本まで来て欲しいこと。
封筒 罫紙ペン筆 封筒 日英同盟に関する米国の新聞の切抜を送るので、用が済んだら返して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤が東京市長に就任する直前の状況について。
封筒 巻紙墨筆
後藤の東京市長就任に際し、市政のの在り方についての自分の意見。
封筒 巻紙墨筆 履歴書 長浜重麿を採用して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
先般御願いしておいた達磨の絵の証を、早く書いて欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 履歴書 山口正伸を東京市医に採用して欲しいことと、後藤の揮毫に対する謝辞。
封筒 巻紙墨筆
大谷竹次郎が、御園座の会場式に東京市長である後藤に出席してくれるよう頼んでくれと言ってきたこと。
封筒 謄写版印刷物綴 九水相談役和田豊治氏談「如何せば福岡市の繁栄を助長するか」
封筒 原稿用紙朱筆 新 米国の軍事教育についての「やまと新聞」記事(6月29日・30日)切抜とワシントン会議の主旨が遂に無意義と
聞切抜
なるとの「国民新聞」記事(6月28日)切抜を送付するので見てほしい旨。
封筒 巻紙墨筆
震災の後で、自分の老後の最後の仕事とも思い、今日の危機を救うため、保険制度、諸外国との外交につい
て建言すること、まずは、朝鮮の毒菌壷を消毒し、また従来首相に反対した者を善化したいこと、首相が自分
の力を必要とするのであれば犬馬の労をとること、この書状を田中陸相にも見せてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 震災後の荷揚に付いては、中村精七郎という者が多数のハシケその他の荷揚準備をしていたが、各省の様
子をみてからと自分が引止めておいたのであるが、一度後藤へその準備について知ってもらいたいというの
で、引見の上教示をしてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
震災後の難局に乗出した以上は範を跡に残すだけのことは考えてほしいこと、材木の買入については米国の
キング商会に命じるなら自分が世話をすることなど。
封筒 巻紙墨筆
震災後の国技館の修理について角力協会の者たちがその許可方の問題について困っており、5000人の死活
問題であり、また自分も従来世話をしてきたことでもあるので、協会の代表の者にこの手紙を持たせて後藤の
ところへ行かせるから一寸会ってやってほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
横田一派が研究会中心の手に内閣を取ろうとしていることと、東京港の築港についての建言。
封筒 巻紙墨筆 タイプ 関東大震災後の東京湾築港完成の件に付いて米国人と相談を試み契約書を作成したので、参考までにその
印字物
写を送付すること。
巻紙墨筆
関東大震災後の火災保険問題についての政界の動向。
封筒 巻紙墨筆
自分の甥の元陸軍中尉高畠義彦が後藤のハルピン行の供をしたいと言っているので、許可してもらえるか問
合わせ。
巻紙墨筆
後藤のロシア訪問の中止を切望していること。また、総理大臣田中義一にも同様の趣旨を申遣わしたこと。
封筒 タイプ印字物 国際工船漁業株式会社創立に付き、稟告及び再稟告。
封筒 巻紙墨筆
久し振りに後藤の話を聞きたいので、築地の新喜楽まで来て欲しいこと。また、川村台湾総督も当日出席する
予定であること。
巻紙墨筆
新年の祝詞。奉祝として粗餐を差上げたいので、築地の花本まで来て欲しいことと、このことは野田逓信大臣
にも案内しておいたこと。
封筒 巻紙墨筆 挨拶状 大阪でウーンと倒れて入院。朝顔がやって来て平和記念東京博覧会の演芸所で踊りたいので、市長にお願
いして欲しいと言って築地の有明館で待っているので、何とか聞いてやって欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
桂侯攻撃の事は、十数年来共に抱寝をしてきた自分としては、今更そんな事が出来る筈はないこと、その事に
ついて後藤に心労をかけてすまないこと、厄介な浪人を友にもつ者の因果と思ってほしいこと。
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来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
2010/8/20
来翰
来翰
来翰
来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
(大正10年)8月22日
(大正12年)10月5日
2010/11/20
16日
来翰
杉山茂丸
すぎやましげまる
2010/10/7
来翰
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来翰
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
2010/11/14
2010/12/7
2010/12/20
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
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来翰
来翰
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杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
杉山茂丸
鈴木伊十
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すぎやましげまる
すずきいじゅう
2010/12/23
2010/1/13
2010/3/5
2010/6/16
2010/7/12
2010/10/5
1日
(明治)3月29日
2010/3/12
(明治31年)6月30日
来翰
来翰
来翰
鈴木伊十
鈴木喜三郎
鈴木真一
すずきいじゅう
すずききさぶろう
すずきしんいち
(9月21日)
(大正9年)12月21日
(明治24年)12月3日
来翰
鈴木宗言
すずきそうげん
(明治34年?)12月10日
来翰
鈴木辰海
すずきたつみ
1913/11/21
封筒 巻紙墨筆
釜山の件につき自分より後藤に「それではもう頼まない」と申出たという由であるが、自分は愚蒙ではあるがそ
の様な不敬なことを言った覚はないこと、その様な言辞は今までお世話になった人間に対して言うべきもので
はないこと、したがって無礼の言はなかったことだけは信じてほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆 履歴書 青木一郎を東京市役所へ採用して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
別紙のよんどころなき依頼について、何か仕様があるならば使って欲しいし、もし不可能ならばついでの時に
返事が欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
樺太庁長官平岡定太郎が、内務大臣との間の事で危うくなっているので、後藤の助力を得たいこと。
巻紙墨筆
シベリア旅行費は出してくれることになったので渡してほしいこと、昨夜の話は名案と信じるのでこれを大黒に
話すことは必要であるが十二分に強く明確にするよう切望すること、出歯よりの今朝の電話のこと。
巻紙墨筆
松竹合名会社大谷竹次郎がやって来て大阪に於ける日本信託銀行頭取林市蔵の厚意により、浪花座・中
座・角座・朝日座・弁天座・松竹座を抵当にした借入を行った等申出たこと、その借入金の利息をもって蒲田
に活動写真の撮影所を設立したいので援助してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
一昨夜話した伊東へ忠告したら一寸自分へ知らせること、石丸優三と山科の事を忘れぬ様に願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の高論は拝覧したが、封入の人物については聞き及んだこともないので、一応徳富氏に問い合わせては
どうかということ。
封筒 巻紙墨筆
益田孝氏が来所し先般より自分が後藤へ取り次いでいる小田原紡績会社への低利資金貸付願については一
昨日神奈川県知事より出願してその筋へ提出したこと、この事は小田原復興の第一義であるので後藤の助力
を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
四国の柿を取寄せたので、些少ながら後藤に進呈すること。
封筒 巻紙墨筆
四国より取寄せた柿を、後藤へ贈呈する旨。
巻紙墨筆
借用願。
巻紙墨筆
来る19日に酔仙亭で田中と高田と飯を食うので、後藤に来て欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 版型見 自分の著書の題字として、「改造」の2字を揮毫して欲しいこと。
本
封筒 巻紙墨筆
国元老人の生前の嘆願であるので、別紙の絹地に1、2字揮毫して欲しいこと。
巻紙墨筆
大河内のスッパ抜きを以て非常に叱って遣わしたところ、左の通り躍起となって来た、その故に先刻の100円
の切手を送って遣ったこと。
巻紙墨筆
七言絶句及び俳句。
巻紙墨筆
兼ねて願いおいた件は素心を遂げる様尽力を願いたいこと、桂大臣は来月15日頃には帰京するので、その
節は直ちに児玉総督への送信を願う儀に付き含み置いてほしいこと。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
台北出発の当初、鈴木伊十が後藤に伝えた内地新聞利用の件、議会の解散に伴い憲政党内閣が成立して
も、台湾の統治には関係ないこと、隈板内閣成立までの経緯、大石正巳の政治家としての資質と憲政党内部
における猟官運動の動向について。
封筒 巻紙墨筆
「早稲田大学紛擾ノ遠因、近因、最近因並ニ現状」の印刷物を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
東京市長就任に対する祝詞。
便箋墨筆 銀行入金控 ドイツの後藤に送金した際の横浜正金銀行の入金控書を同封し、送金の金額が多いため、買い物を控えるよ
書留郵便物請取証 うに忠告。
巻紙墨筆
民刑訴訟手続に関する特則制定について、台湾総督府評議会員の定数に関する改正意見、本年11月の地
租規則制定と土地調査規則廃止に対する批判、法院内の人事と制度の案について後藤に指揮を願いたいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
知人の借金の連帯保証人になったが、その破産により鈴木辰海が支払わなければならなくなったこと。稲毛の
家を売渡すように、第一生命保険会社より言われたが、その地価が納得できないため、地価の公正なる評価
額を、実地御踏査のうえ確定し後藤に買取りを願いたいこと。
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来翰
来翰
鈴木万次郎
須藤千尋
すずきまんじろう
すどうちひろ
1922/9/9
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
(明治40年)7月27日
(大正)3年10月5日
(大正5年)10月9日
(大正7年)3月5日
(大正7年)4月25日
(大正7年)10月11日
(大正12年)4月2日
1924/7/16
2010/3/6
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
清野長太郎
清野長太郎
清野長太郎
関直彦
関一
関一
関屋龍吉
関屋龍吉
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
関屋貞三郎
仙台一市民
副島道正
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せいのちょうたろう
せきなおひこ
せきはじめ
せきはじめ
せきやたつきち(せきや
りゅうきち)
せきやたつきち(せきや
りゅうきち)
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せきやていざぶろう
せんだいいちしみん
そえじまみちまさ
(大正?)6月3日
2010/7/1
(昭和)
1925/2/27
(大正12年)2月28日
1926/4/24
(昭和2年)8月30日
2010/10/19
(明治37年?)8月2日
(明治37年)8月20日
(明治38年)1月13日
(明治40年)6月23日
(大正12年3月?)14日
(昭和4年)1月10日
2010/3/28
2010/4/6
(大正13年2月22日)
(大正6年)6月30日
来翰
副島道正
そえじまみちまさ
(大正7年)11月16日
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
地方官更迭の断行について。
別紙の山林は、調査の誤りのため官有に帰したが、明治32年に下戻を申請したところ不許可となった、しかし
引続き行政訴訟を提起したが証拠不充分で敗訴した、今回は本省に対して何等かの方法手段を講じて出願
するつもりなので、後藤の助力を仰ぎたいこと。
封筒 巻紙墨筆
久保田政周の復職について。
封筒 巻紙墨筆
寺内正毅の出発と、近時の政治変動について。
封筒 巻紙墨筆
重任のこと、来月の立太子式に自分も召されたことなど。
封筒 巻紙墨筆
神戸市内の鉄道線路改良問題について委員上京、建造中の木船に関しては三菱にて艦装のこと。
封筒 巻紙墨筆
神戸市政の現状について 道路整理問題、県立商業学校移転、貧富調和のための救済協会基金約8万円の
募集について等の神戸市政の現状について、後藤の外相就任への祝詞。
封筒 巻紙墨筆
神戸における風水害のこと、内閣交迭に伴う自身の進退について、政友会の古賀廉造・高橋光成の金銭問題
について。
巻紙墨筆 活字印刷物 信濃国高遠町建福寺所蔵の狩野興の筆による観音左右龍虎の図3幅を国宝に指定したこと。
巻紙墨筆
準備進行に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
三島子爵に面会したが、三島は幹事長就任を望まず評議員でよいとのこと、武井守正男爵のこと、幹事長の
適任者は三島であること、幹事長を欠員とする場合は規則改正が必要であること。
封筒 巻紙墨筆 便箋 公会堂問題に関し、湯浅倉平から別紙の書状が来たこと。
封筒 巻紙墨筆
本県農銀頭取の問題について、滝鳴・伊藤英一を農銀の重役候補とする農銀内部の問題について。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 活字印 国税減免に関する法律案の件について。
刷物
封筒 巻紙墨筆
礼状。
巻紙墨筆
(前半欠)
封筒 巻紙墨筆
休職機会に再び外遊し、青少年団および社会事業方面の視察を希望する。外遊出発前に面会を希望のこ
と。
封筒 巻紙墨筆
昨18日付の「都新聞」紙上に、少年団に関する全く事実無根の記事が掲載されていたこと。
封筒 罫紙墨筆
日露戦争下の満州における後方勤務の状況、東清鉄道の現況、児玉源太郎の状況について。
巻紙墨筆
児玉源太郎の近況と満州における戦況報告及び新渡戸稲造の離台についての感想。
巻紙墨筆
戦地における上田恭輔のこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 工業試験所は本年度の予算額より少額にて創業できることとなったので残額は家屋の修繕や水道敷設等に
充てること、この様な次第であるので技師の人選を至急に願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
ビヤード博士の件を、宮内大臣に申出たこと。
封筒 巻紙墨筆
小野氏御下命の件は既に済ませたことと、病気療養中の後藤への気遣い。
封筒 巻紙墨筆
大正天皇の遺品である木彫を少年団に貸与しても差支えなしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
何人かの日本人高官がフランスで病気に罹ったので、日本人看護婦もロンドンに適当の人材を呼寄せること
など。
封筒 半紙朱筆
後藤の仙台来訪につき、その歓迎会の切符を販売しているが、こうした陋習は止めるように後藤より説得して
欲しいこと。
封筒 便箋ペン筆 罫紙 モルヒネが、日本商人の手により大連・安東・台湾を経由して中国内地に入り込むが、領事裁判権のため中国
官憲はそれを取締ることができないこと、先日ボールス氏には東京倶楽部において面会し、台湾のアヘン漸
禁政策の成功や支那における断禁主義の不結果などについて1時間余り会談したことなど。
封筒 便箋ペン筆
阿片問題をめぐる上海の近況。
50
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
副島道正
添田寿一
添田寿一
添田寿一
添田寿一
添田寿一
添田寿一
添田寿一
孫文
孫文
高木兼寛
高木友枝
高木友枝
高木信威
高木信威
高木信威
高木信威
高木信威
高楠順次郎
高楠順次郎
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえじまみちまさ
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そえだじゅいち
そんぶん
そんぶん
たかぎかねひろ
たかぎともえ
たかぎともえ
たかぎのぶたけ
たかぎのぶたけ
たかぎのぶたけ
たかぎのぶたけ
たかぎのぶたけ
たかくすじゅんじろう
たかくすじゅんじろう
(大正13年)10月26日
(大正14年)2月15日
(大正15年)8月3日
(昭和2年)12月4日
2010/1/3
2010/2/26
2010/6/12
2010/6/15
2010/2/3
2010/9/30
2010/10/9
(明治37年8月?)21日
2010/1/1
(明治)6月3日
(明治)12月10日
19日
(明治42年)27日
中華民国13年9月18日
(大正12年)9月21日
1918/6/7
(明治28年)9月5日
1925/3/8
(大正3年12月18日)
1915/9/12
1915/10/26
1923/2/12
1924/2/24
(昭和2年11月23日)
(昭和3年10月12日)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
高楠順次郎
高崎親章
高島平三郎
高島平三郎
高梨哲四郎
高梨哲四郎
たかくすじゅんじろう
たかさきちかあき
たかしまへいざぶろう
たかしまへいざぶろう
たかなしてつしろう
たかなしてつしろう
(昭和3年?)
2010/10/15
(大正11年)6月21日
(大正15年)7月5日
(明治40年)5月8日
1917/9/4
封筒 便箋ペン筆 新聞 帰鮮後、国際阿片会議の模様が「京城日報」に掲載されたので、切抜きを送付すること。
切抜
封筒 便箋ペン筆
今年9月入露の予定であること。
封筒 巻紙墨筆
朝鮮社長姜世馨と精神を異にしていたための詫状。
封筒 巻紙墨筆
朝鮮を経由する後藤の訪露に際し、風邪のため見送りできないことの詫と、斉藤実朝鮮総督の解任に伴い、
京城日報辞任のこと。
封筒 便箋ペン筆
近況報告と、高橋作衛と榎本武憲は将来後藤のために尽す人だと思うこと。
封筒 便箋ペン筆
翻訳の上英国大使に送付すること。
封筒 巻紙墨筆
7月1日に東京倶楽部での晩餐への招待状。
封筒 便箋ペン筆
液体燃料について。
封筒 便箋ペン筆
最近の執筆・講演に関すること。
封筒 巻紙墨筆
「京城日報」主筆丸山幹次が、社説と「勤山録」を書いたこと。
封筒 巻紙墨筆
「朝鮮統治論」2部を贈呈すること、明晩東京倶楽部において晩餐があり、斎藤実・牧野伸顕・一木・英米伊独
大使が来会すること。
巻紙墨筆 新聞切抜 国民の力は財政上の運用及び外交上の手腕の問題であること、満韓経営について、ロンドンチャイナエキス
プレスの記事。
巻紙墨筆
年賀の挨拶と、決算上の損失を見ないこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾幣制の確立に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
(前半欠)台湾銀行の資金不足、上﨑理事と金融の状況視察その他大蔵省へ打合、台湾経営、南清政策。
巻紙墨筆
利子は元来営利上を離れたが、放念してほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
都築の辞任の後、久米金弥が貴族院議員となるように後藤に尽力願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
深田鶴松氏の紹介状。
封筒 罫紙墨筆
日韓両国の将来について
半紙墨筆
関東大震災のお見舞い
封筒 巻紙墨筆
市会議員選挙のことについての後藤の配慮に対する謝辞。
封筒 巻紙墨筆
血清療法開始後の成績と、広島市船入避病院の患者の様子の報告。
封筒 便箋ペン筆
台湾慈善婦人会に関しては、賀来佐賀太郎氏の帰朝の上相談して、その上で後藤の指揮を仰ぎたいこと。
絵葉書ペン筆
フランスのモーに近い新戦場バルギーにおいて、遙かに後藤の健康を祈っていること。
封筒 洋紙ペン筆
第一次世界大戦中における欧米各国の国内状況の報告と、佐藤六石よりの送金の半分は後藤の配慮による
ことへの謝辞。
封筒 洋紙ペン筆
松下軍治氏死去により、遺業の維持を叶えるよう願うこと、佐藤六石も病気なので全快を願い、名医を紹介し
てほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
小野主水がへの後藤の揮毫に対する謝辞と、自作の漢詩文の披露。
封筒 巻紙墨筆
長男重周が後藤のところへ参上し色々と教示を受けたことに対する謝辞。
封筒 罫紙墨筆
本日、色々と後藤に手数をかけたことに対する謝辞と無情経について。
封筒 巻紙墨筆
日独文化協会の飯田氏が後藤の所に持参し色々御邪魔したこと、ゾルフ大使については、名誉学位は大学
内部では賛成しているが規則がないので望みがないと思うこと、帝国学士院会員のことも到底無理であろうこ
となど。
封筒 罫紙ペン筆
ゾルフ大使帰国につき、日独文化協会にて送別会開催を予定していること、自分は入院中なので事務員飯田
茂三郎を後藤のところへ行かせるので引見してほしいこと。
巻紙墨筆
長春・ハルピン間の鉄道と樺太北半分を露国より買収すべきであること、黒龍江岸において露国の領分にある
鉱産物の調査を試み、利益があるならば露国と合弁で採掘を行うべきこと。
封筒 巻紙墨筆
日本連合少年団総裁就任を、後藤に要請すること。
封筒 巻紙墨筆
昨日の送別の宴に来てくれたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
旅順在住の丘襄二の満州経営意見書を後藤に転送すること。
封筒 巻紙墨筆
島田三郎等が、土地収用法に関して後藤内相を告訴するとのことが新聞紙上に散見されるが、自分は弁護士
として内相側を担当する意向があること。
51
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
高根義人
高野岩三郎
高野孟矩
高野長運
高橋是清
高橋是清
高橋是清
高橋作衛
たかねよしひと
たかのいわさぶろう
たかのたけのり
たかのちょううん
たかはしこれきよ
たかはしこれきよ
たかはしこれきよ
たかはしさくえ
(大正10年)11月16日
(大正4年)7月24日
1907/4/24
2010/4/15
1912/6/12
1919/11/14
来翰
高橋光威
たかはしみつたけ
大正12年1月
来翰
来翰
高平小五郎
高峰譲吉
たかひらこごろう
たかみねじょうきち
(明治33年)6月1日
1907/5/25
来翰
高峰譲吉
たかみねじょうきち
(大正元年)10月23日
来翰
高峰譲吉
たかみねじょうきち
2010/9/17
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
達谷窟信敬
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
田川大吉郎
たがやしんけい
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
たがわだいきちろう
(明治28年)5月14日
(大正9年)12月9日
(大正11年)3月28日
(大正12年)5月2日
(昭和2年)7月20日
2010/4/23
2010/4/26
2010/6/3
2010/7/10
来翰
来翰
来翰
来翰
宅野田夫
宅野田夫
宅野田夫
武井守正
たくのでんぷ
たくのでんぷ
たくのでんぷ
たけいもりまさ
1922/6/25
1923/7/10
1924/1/10
(大正2年)11月22日
1913/9/3
封筒 巻紙墨筆
ワシントン会議に関する自分の感想が雑誌記事となったので、該号を贈呈するから後藤に読んで欲しいこと。
封筒 洋紙ペン筆
拙著を1部贈呈するので、閑な時にでも読んで欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 満州における苦力供給の件について協議して欲しいこと。
巻紙墨筆
西園寺の題字の件に付いての依頼と、後藤の題字については旅行前に揮毫してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
(前半欠)後藤の外遊に際して送別の晩餐を行うので出席してほしい旨の案内。
封筒 巻紙墨筆
後藤が長途の旅行より無事帰京した事に対する賀詞、別冊の私見は先般山県有朋に対して差出したものを
今般印刷したものであること。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 活字印 先般児玉果亭の墨書展覧会を開催したので、最早その作品を一家に私蔵する必要もないと覚悟し、一部は
刷物
果亭文庫に寄付し、あとは出来るだけ知己の方に贈呈することとしたので、後藤の所へも一幅贈るので受取っ
てほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
故原敬の在世中に共に国事を議し、または親交のあった人々に揮毫を請い、それを原の菩提寺である盛岡
の大慈寺に納め、故人記念のため同寺永代の宝物としたいので、後藤にも揮毫してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
自分の同郷人である細川碧が台湾のことについて話したいことがあるというので、聞いてやって欲しいこと。
封筒 便箋ペン筆
苛性曹達電気製造については、台湾総督府とは協議済であったが、4月30日の後藤の電報は、茂庭の欧州
派遣を留めることを意味するのであろう、本事業の成行については、ベーケランド氏や茂庭の質問があるの
で、日本丸にて帰朝する茂庭君から聞いてほしいこと。
封筒 便箋ペン筆
岩下清周氏が高峰譲吉の所へ立寄ったので、桂太郎と後藤への伝言をお願いした、その内容は、日本に国
民科学研究所というようなものの設立が必要である旨を、桂太郎と後藤へ伝言してくれるよう依頼したこと。
便箋ペン筆
日米合同資金で富山県下神通川の水力を利用してアルミニューム製造工業設立計画が成立したこと、該事
業のもつ意義、神通川上流の水力使用について出願しているので許可してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
近況報告と、日清講和条約及び三国干渉についての自身の所見について。
封筒 原稿用紙ペン筆 後藤の東京市長推挙のことと、東京市政に対する都市研究会及び田川氏本人の意見。
封筒 原稿用紙ペン筆 東京市に市政研究局を設置すること。
原稿用紙ペン筆
後藤新平の東京市長辞任のこと、「東京日日新聞」上に市政調査会設置などに対する反対意見を寄稿したこ
と。
封筒 原稿用紙ペン筆 伊賀地方への尾崎氏遊説のことと、小屋氏の動向について。
封筒 原稿用紙ペン筆 4月23日の会合における田川大吉郎の発言に対する説明。
封筒 原稿用紙ペン筆 4月26日の委員会における選挙の候補者に関すること。
封筒 便箋ペン筆
自分は多年苦心の一言をこの程漸く刷成したので献呈すること、自分の都市研究は明治36年に後藤の激励
の辞に負う所が多いことなど。
便箋ペン筆
拙著「都市政策汎論」につき配慮を賜わり、市政調査会にて多数買上げてくれたことに対する礼と、新聞紙上
にて伝えられるシベリアに関する新しい計画を深い興味を持ってながめていること。
封筒 便箋墨筆
後藤の揮毫を拝領したことに対する礼状と、お礼として観音像を受取って欲しいこと。
封筒 半紙墨筆
今朝の引見及び自作の仏像を受け取ってくれたことに対する謝辞と、帰路立花小一郎大将と会ったこと。
封筒 半紙墨筆
頭山先生を見舞ったこと、前官礼遇問題について、上杉慎吉は後藤に自分から切言するようにと言っている
が自分は後藤に今迄通りやっていってほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
『政党社会学』贈呈状。
52
来翰
竹越与三郎
たけこしよさぶろう(たけ (明治38年)4月7日
こしさんさ)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
竹越与三郎
竹越与三郎
竹越与三郎
竹越与三郎
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
建部遯吾
田子一民
田子一民
田嶋五郎作
田島達介
田島達介
田島道治
田島道治
田島道治
田島道治
立作太郎
立作太郎
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たけこしよさぶろう(たけ
こしさんさ)
たけこしよさぶろう(たけ
こしさんさ)
たけこしよさぶろう(たけ
こしさんさ)
たけこしよさぶろう(たけ
こしさんさ)
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たけべとんご
たごいちみん
たごいちみん
たじまごろさく
たじまたつすけ
たじまたつすけ
たじまみちじ
たじまみちじ
たじまみちじ
たじまみちじ
たちさくたろう
たちさくたろう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(明治38年)4月21日
(明治38年)7月7日
(明治40年)10月21日
(明治40年)11月11日
(大正10年)5月28日
(大正10年)7月22日
1921/8/21
1921/9/27
(大正10年)10月7日
(大正12年)10月21日
(大正12年)11月15日
(大正13年2月)28日
(大正13年)7月7日
(昭和3年)2月12日
1918/4/15
1924/6/14
2010/11/16
(大正8年)7月6日
(大正9年)11月21日
(1月3日)
2010/8/30
2010/10/1
1918/8/4
(昭和2年)3月31日
(明治37年)3月2日
(明治40年)7月9日
(明治40年)7月19日
封筒 巻紙墨筆
『台湾統治誌』を後藤に送付したので、一読を願いたいこと、本書において記事の議論は少なくないが、殖民
大方針の記事に関しては自信があること、石塚英蔵と共に欧州派遣を命じられ、膠州湾や香港、東南アジア
の植民地を経由して欧米に行くが、旅費7000円の支給をお願いすること。
封筒 巻紙墨筆
礼状。
封筒 巻紙墨筆
基隆出帆後の近況報告。
封筒 巻紙墨筆
大連・営口・山海関を経て北京に向かう途中で、南満州の三頭政治に統一について見聞したこと。
封筒 巻紙墨筆
北京政府内部における皇太子冊子事件のことと、張之洞と会見した際に、清朝内部における憲法制定問題が
話題になったこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 日本社会学院第9回大会で、後藤に講演を依頼したいこと。研究報告の題目は「内地植民問題」であるが、講
演はこれに因まなくてもかまわないこと。
封筒 巻紙墨筆
自著を後藤が推薦してくれたことに対する礼状及び近況報告。
封筒 巻紙墨筆
今後の太平洋会議に関する鄙見の大要を別紙として送るので、後藤の高批を仰ぎたいこと。また現在の時艱
に対しては、大隈重信の出馬を促すほかに方途はないことなど。
封筒 便箋ペン筆 葉書 10月30日に東京商科大学で開催される日本社会学院第9回大会における後藤の講演の題目を、同封の葉書
で折り返し返信してほしいこと。
封筒 罫紙2枚ペン筆 日本社会学院の研究大会における後藤の講演の題目を知らせて欲しい旨督促。
封筒 巻紙墨筆
建部自身が書いた小冊子「政治改革」における提案の送付状。
封筒 巻紙墨筆 大正公 「樺太経営の成敗及びその意義」(大正公論30号)の送付状。
論
封筒 名刺
自身の著作に対して後藤の高批を仰ぎたいこと。
封筒 便箋ペン筆
日露交渉促進会では後藤に会えなかったこと、後藤の外遊が延期となった理由についてなど。
封筒 巻紙墨筆 活字印 後藤がロシア旅行から無事に帰国したことへの祝い。
刷物
封筒 便箋ペン筆
後藤の妻和子の死去に対する悔状。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
欧米への旅行中の諸事に対する礼状。
封筒 便箋ペン筆
外遊中の後藤に対する病気見舞と後藤からの贈物に対する礼状。
封筒 便箋鉛筆
後藤の探物については、万が一これかと思われるものを御手許まで試に差出すこと、後藤自筆の原稿は鞄の
中にあること、調査事項についての指示を乞うこと。
封筒 巻紙墨筆
大阪で偶然に出会ったことについて。
封筒 巻紙墨筆
台湾産の茶などの贈物に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
神戸到着の際に、後藤一蔵が出迎えてくれたこと等についての礼状。
封筒 巻紙墨筆
小林美樹雄氏の紹介状。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
日英同盟と日清・日露戦後に関する外交について研究した点を印刷物としたので、3部送付する旨。
巻紙墨筆
台湾への通信員を選定して欲しいという後藤の電報に対する返答と、総選挙後の状勢等について。
封筒 半紙墨筆 罫紙 視察の日程案を送るので、参考までに供覧して欲しいこと。
新聞切抜
封筒 便箋ペン筆
後藤の留守宅の様子、韓国の将来に関する後藤の意見の大要は内閣にも入れておいたこと、渡辺亨が孟家
屯において岩下清周と称した件については当時の様子を聞取り同封しておいたことなど。
53
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
(明治40年7月23日)
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
(明治40年)7月30日
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
(明治41年7月)
(明治40年)8月5日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(明治40年9月15日)
(明治40年)12日
(明治41年)5月9日
(明治42年)1月6日
(明治43年)1月7日
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(明治43年)1月8日
(明治45年)3(月)5日
(明治45年3月9日)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(明治)9月13日
(明治)11月6日
(明治)5日
(明治)
(大正元年)11月25日
(大正2年)7月3日
(大正4年)1月13日
(大正6年)8月10日
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正6年?)9月12日
(大正6年?)10月21日
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
(大正6年)11月14日
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正7年1月)28日
(大正7年)2月5日
封筒 便箋ペン筆 集合 児玉源太郎の一周忌法会に出席したところ、大山・桂・岡沢・石黒・井口・長岡ら10数名の将校が出席し寺内
写真 新聞切抜
は親族として出席した、後藤が献納した松を墓に植えるにあたり根廻りを許す限りのものを選定し、花崗岩の
石碑を背面から覆うように植えた、封入した写真は天津領事館北条太洋より送付されたもの云々。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 安東県のことについては、電報接受に付き安心してほしい、韓国の事情について伊藤統監から色々と説示さ
抜
れたが、韓国統監府内部には、木内と統監の周囲にはアンチ木内がいて、今回のことは、両者の関係による
ものであること、また兵備のことについても府内で意思の齟齬があることなど。
封筒 巻紙墨筆
西園寺公望宛の返書を後藤に見てもらったが、西園寺は先刻大磯へ行ってしまったので、大磯に郵送するむ
ね報告。
封筒 便箋ペン筆
ドイツ皇帝より後藤に勲章を与えたいとのことにつき後藤は辞退するつもりであるとの内意を寺内と桂に告げ
た、寺内は後藤が旭一等を頂戴しているので、辞退の理由は尤もであり、他日また時節もあるからそれまで見
合わせるとの返事で断る方がよいとの感想を伝えた、桂も寺内の考えと一致していることを報告したなど。
電報 電報訳文
阪谷・山本への意見書について述べ、2人はともかく早く来るほうがよいとのこと。
罫紙ペン筆
阪谷より絵はがきの御礼を述べられたことを伝える。
封筒 罫紙墨筆
後藤訪露中の留守宅及び会社等の近況を報告するもの。
罫紙墨筆
湯河原滞養中の後藤より託された書翰を山県有朋へ届けたこ旨と、その際山県より後藤帰京の日程を聞かれ
たこと、並に帰京の節は山県を訪れてほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 柴山準行よりの龍居頼三宛書簡を後藤へ転送する旨、添田氏逝去について、中村満鉄総裁は明日帰京のは
ず、福島中将が満州へ向い、帰路は韓国を経由すると聞いていること、松田炭坑長は明朝9時入京のはずで
あること。
封筒 罫紙墨筆 新聞切 本日、「時事」・「東京朝日」・「毎日電報」に掲載された米国による満州鉄道の措置に関する切抜を送付するこ
抜
と、中村満鉄総裁は帰京、松田博士は今朝入京しこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 佐藤安之助中佐より後藤宛の電報を送る旨と、岡松博士帰京のこと。
電報
坂西より後藤男に転電頼む、お手紙の件その他にて面談したし、朝鮮の序に奉天か北京まで微行を望む、日
取りは返信する、後藤の朝鮮行は新聞誤報であると取敢えず坂西へ返しておいた、微行をお考への有無は
再報したし。
封筒 罫紙ペン筆
ベンソンの時計を拝見したいこと、また大連の時計屋に見せることは一切見合わせたほうがよいこと。
罫紙墨筆
松尾小三郎と面会したところ、揮毫を依頼されたこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の説は至極結構なので、通信社を経て新聞にも出したほうがよいと思うこと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
朝日新聞社の支那通である根岸佶の紹介と、佐藤信氏は北京を引揚げ帰社したこと。
封筒 便箋墨筆
孫宝鋳と李盛鐸両氏一行が来日したので、帝国ホテルで挨拶した旨報告。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 東京経済調査大正4年度予算を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
昨夜国沢理事長よりの龍居宛電命を書き写している、国沢は龍居に対して吉長協約調印及び細目協定のた
めに北京への出張を命じ、その時期は調印の時日確定後としている、また細目協定については外務省と協議
を遂げるように指示しているので、これを外務省へ申し出たことなど。
封筒 便箋ペン筆
北京での中国側委員との交渉の進捗状況について。
便箋ペン筆
吉長鉄道新契約に関する簽押を経、その後のことに関する手続なども昨日終了、明22日その地において支
那公使へ交付するまでに取運ぶことができたことと、中国との交渉に関する満鉄側と外務省との関係、及び
各々の意思について。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 満蒙鉄道の件に関しての林公使よりの来電を送付すること、岩永氏が曹総長に面会したこと、そして交渉にあ
たり満鉄社員を急派し交渉を進めさせるように岩永より大連本社に申越したこと。
封筒 巻紙墨筆
大連病院長河西健次よりの書簡を、後藤に転送すること。
封筒 巻紙墨筆
田原よりの来信を後藤が見たと思うが、北京にて邦字新聞を発行することは重要であること。
54
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正7年10月)12日
(大正7年)15日
(大正7年)23日
(大正7年)26日
(大正8年)4月1日
封筒 巻紙墨筆 罫紙
便箋
封筒 巻紙墨筆 タイプ
印字物
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 罫紙
封筒 便箋墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正8年)11月28日
(大正8年12月28日)
(大正9年)6月14日
(大正7年)
封筒 巻紙墨筆 電報
電報訳文
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 葉書
新聞切抜
封筒 便箋ペン筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正10年)9月尽日
大正10年10月
(大正11年)7月12日
(大正12年)12月31日
(大正14年)4月27日
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正)2月14日
(大正)3月9日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
(大正)6月16日
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
(大正)8月31日
封筒 便箋ペン筆 タイ
プ印字物
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(大正)年10月14日
(大正)6日
(大正)6日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆 藁半紙
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
2010/3/20
2010/3/20
2010/4/17
2010/5/8
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
55
田原よりの来信を、後藤に転送すること。
清瀬規矩雄に関する内報を、後藤に送ること。
別紙は坂西少将より送付してきたものなので、念のため高覧を願いたいこと。
視察日程の試案を送付することと、横山為重の婚祝いについて。
第41議会では予算案が通過したこと、ただし開墾会社補助費のみ反対にあい潰れたこと、満鉄の政府配当を
350万に相上すると同時に配当を増加することとすること、関東州の財源として所得税法を施行したいこと、関
東都督府の廃止に伴い関東庁が設置されることなど。
徐氏に礼状を渡したこと。
年末年始の挨拶。
出川のことについての依頼と、渋谷正義の人柄について。
欧州の形勢が急転直下し講話の時期に入ったこと、日本の講和会議の全権委員として珍田と松井の両名に
御沙汰があるかもしれないこと、しかし最近の外電によると米国は大統領自ら臨む事になる模様なので日本政
府はこれに相当する人物を全権委員としなければならないことなど。
前田助役との話は調査部とのことにて、何れの方面でもよいと思うこと、その他近況報告。
封筒のみ。
祝儀の配慮は今回限りにしてくれるようとの進言。
新聞の所伝により後藤の心労の程を察していること、元旦に後藤のところへ挨拶するつもりであったが、湿疹
に罹り存外長引きそうであること。
先日の旅行中、後藤はロシアと支那の当局の人々とも款晤を尽したことと拝察するが、茶話の裏にも他日の為
めに記録しておく必要があると思われる事柄もあったであろうと思われるので、後藤の記憶の新しい間にそれ
を口授してくれるならばそれを筆写したいので都合を知らせてほしいこと。
先日内話の次第を早速服部氏に相談したところ、その計画に対し加勢するのは勿論であるが他所については
考慮したいとの回答があったこと。
林公使に面会したこと、東清鉄道の一時譲受け或いは将来の権利についての問題はこれを避け、単純に時
局の対応策としてホルワツト将軍を説得し、長春・ハルピン間の軌条を満鉄と同一に改むることは急務と考え、
満鉄側より総理・内務両相の考慮を請うことが望ましいことなど。
外務大臣宛の後藤の書簡は到着し、10万円迄の了解を得られたこと、外務大臣は露国大使と面会前に対露
関係者側の希望なり日露協会の意見なりを承知しておきたいとのことなので要望事項を記して外務省へ差出
しておいたことなど。
明日第1回会議を開催した次第は別信を以て報告した通りであること、先方より持出した字句の修正は枯尾花
に類するお化けの正体の様なもので安心したこと、自分としては即時快諾を与えたいと思ったが一応電伺の
上挨拶すべしと勿体をつけて別れたことなど。
中村総裁の希望の要点について。
建築図面のことについては、菊池秘書官に問合わせて欲しいこと。
臨時の用があれば電話してほしいこと、夕刻には必ず帰宅していること、昨日預った後藤の講演速記には気
付いた所に朱筆を加えておいたこと、過日拝借した美術品入札の目録も日露協会の便丁に持っていかせる
ので受け取ってほしいこと、画賛の件は別紙の愚案を考えたこと。
急用があれば電話して欲しいことと、五山については別紙の通りであること。
先刻、神山氏が来訪したこと、新任者への寺務引継が完了したら、帰京して後藤のところに伺うこと。
祝氏の履歴書を返却すること。
後藤の旅行の日取を内定の上、相当の返答をしたいこと。
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
2010/5/17
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
2010/6/8
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
2010/6/11
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
2010/6/27
2010/8/28
2010/9/9
2010/9/23
2010/9/25
2010/10/14
極月13日
11日
14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
龍居頼三
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
たついらいぞう
(昭和4年)正月5日
2010/2/15
2010/9/2
来翰
龍居頼三
たついらいぞう
2010/6/22
2010/9/2
2010/9/14
19日
22日
31日
(明治40年)8月7日
(明治)6月29日
封筒 巻紙墨筆
御考慮中のReconstructionの訳字は改造以外に妥当なものが見出だせないこと、ただ仔細は「再」「後」「新」
の意味もあること、またConstructionは「速」「起」「造」「成」「築」「搭」の意があるのでこれらを飜訳する際の注
意について。
封筒 巻紙墨筆
先日後藤の内覧に供しおいた視察報告書の作成者である後藤彦吉氏の紹介、彼は朝鮮人教育の為めに設
けた海外教育会の担当者として京城などに伝道し、上海・間島を根拠地として朝鮮人の事情に精通しているこ
と、北部中国を一巡して学生の排日運動の真相も察していたことなど。
罫紙ペン筆
河部氏と会談したこと、長野が切戦になってきたので困っていること、後藤は自分の不在中は長島に相談する
ように言われたが、仁木や長島では金ばかり取られて成功しないこと、しかし後藤の方は勢いがあるので、い
ずれ必要が生じた時は宜しく頼むとのことだったので委細承知と引受けておいたことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤より下命された序案は、明日までに認めるので、教正して欲しいことなど。
封筒 巻紙墨筆
著者より鈴木城正氏が借受けたものの写を別冊として送るので参考としてほしいこと、国沢副総裁の近況につ
いて、文庫の原稿について。
封筒 巻紙墨筆
内話の件について粟屋関一氏に募ったところ十分努力したいとの事であるので、一応参上させるので引見を
許可してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
病気の自分を慰問してくれた後藤に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
唯根伊与は満鉄本社に勤務し調査課長を務めた経歴を持つ唯根を紹介し後藤の引退を願ったもの。
巻紙墨筆
電報局長の後任に長尾氏を推挙することと、龍居自身の予定について。
封筒 巻紙墨筆
英国より持ち帰った布地を貰ったことと、歳暮の祝儀に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
神戸以来の事についていずれ持参し御礼するつもりでいること、後藤の文書の草稿を書いたので御覧の後に
加筆を願い、返却の後浄写の上で署名してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
祝氏のことについては、如何様にも自分は微力を尽すこと、そしてとにかく本人の来訪を求め、履歴書は当方
に存留していること。
封筒
封筒のみ。
封筒 謄写版印刷物 過激派は上海を中心に活動しているが、その構成はロシア人を中心に中国人を主要分子とし、朝鮮の独立仮
政府や日本人も参加しているので、「露支日鮮」の四国連合会を組織していること等、視察報告。
封筒 巻紙墨筆 便箋 後藤の負傷に驚いたこと、読売ラジオ版で永田先生の代勤のことが発表となったので引続き滞在するものと
思っていることなど。
巻紙墨筆
昨日後藤より下命された鮮満協会での挨拶文を起草したので、吐正の上返却してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
伊豆長岡の別荘の名称案。
封筒 巻紙墨筆
史筆は正直の所へあくまで公平を補正する様に願いたいこと、「万朝報」の計画が従来の類書を越える様な意
味も加えたらどうだろうかという助言。
巻紙墨筆
近親の病児が死去したことについての報告。
巻紙墨筆
峡事務官の添書のこと、伊東子爵においても重々御芳情のこと、松田院長と今朝面会のことなど。
巻紙墨筆
留守中の用向は総て御手許より御考慮をお願いしている こと、壮年の学士のみにて日本歴史を分担執筆す
ることになり、徳川氏末期を引受けたことなど。
巻紙墨筆
後藤より下命された件については貴覧に供するので、教正して欲しいこと。
巻紙墨筆
後藤より下命された補稿の箇所は挿入しておいたことと、小題を設けた方が読者にとっては便利が良いことな
ど。
巻紙墨筆
稲葉見山の原稿を送付すること。
封筒 便箋墨筆
陳遵略歴史(呉県史より)。
巻紙墨筆
第一頁に加筆の件について。
封筒 便箋ペン筆
ドイツ皇帝からの勲章の件につき珍田外務次官と面会、ドイツが後藤へ勲章を与えることの経緯などが不明な
のでドイツ大使に後藤の叙勲を辞退するとの内意をほのめかしてみると珍田が言っていること。
巻紙墨筆
満州旅行のこと
56
来翰
巽来治郎
たつみこじろう
(大正3年5月3日)
来翰
伊達宗基
だてむねもと
1907/2/1
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
田中義一
田中義一
田中義一
田中義一
田中清次郎
たなかぎいち
たなかぎいち
たなかぎいち
たなかぎいち
たなかせいじろう
(大正7年)7月15日
(大正7年7月)17日
2010/9/12
(大正)
1907/8/13
来翰
田中清次郎
たなかせいじろう
1908/12/23
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
田中清次郎
田中清次郎
田中都吉
田中光顕
田中光顕
田中光顕
田中光顕
田中光顕
たなかせいじろう
たなかせいじろう
たなかときち
たなかみつあき
たなかみつあき
たなかみつあき
たなかみつあき
たなかみつあき
1909/1/23
(昭和)
(1928年?)10月8日
(明治)2月18日
(大正5年)4月28日
1923/9/26
2010/6/14
2010/11/2
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
田中善立
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
たなかよしたつ
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
(大正12年)11月17日
(明治26年)3月22日
(明治40年)6月29日
1915/11/25
(大正6年)7月7日
(大正9年)11月10日
(大正9年)12月9日
(大正9年)12月21日
(大正10年)12月25日
(大正11年)3月29日
(大正11年)4月19日
封筒 便箋墨筆
大隈と面会し対支軽挙を行なわないよう警告したこと、伊集院公使にも同様の警告を発しこと、清国公使と密
談し白浪匪の運動員が東京にいることを聞きまた日本陸軍当局者による「支那政府」への銃の払下げを防止
するように公使から依頼され、山県にこのことを内話したことなど。
封筒 巻紙墨筆
明治34年11月の明治天皇仙台行幸の際に、勅使を瑞鳳廟へ派遣し、増位の沙汰があるとともに栄典拝受の
紀念として山林5町余歩に樹木7万株を植付け造林経営を贈られたことについての謝辞。
巻紙墨筆 罫紙
バイカル方面の救恤品目を先日通知したが、今又沿海州方面の救恤品の報告が来たので高覧に供するこ
と。
封筒 巻紙墨筆
坂部中佐より田中参謀次長宛の電報写を送付すること、浦塩方面の兵力限定は全く無意味であること、満州
方面への出動は最も緊要でかつ有効であることなど。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 奉天にいる佐藤中佐より、別紙電報訳文を参考までに転送すること。
封筒 巻紙墨筆
伊藤文吉の官吏任用につき、本人は御命を蒙りたいとのことであるが、陸軍より復興院へ兼務させたいので、
必要に応じて仕事を命じあるいは諮問するようにしてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 営口延長線敷地買収の件に関し営口新市街行政委員の一人「天春」なる者よりの来書を高覧に供すること、
御送付の図正落掌、昨日デリー・マッカスリーに内交渉の結果は案外容易に進行すると思われたが、本日
ブッシュに話を試みる筈で、多分意の如く進行するであろうことなど。
封筒 便箋鉛筆
ロシアのペテルスブルグにおいて開催された、東清満鉄との直通輸送に関する会議の状況、東信鉄道と南満
鉄道との利害の対立点は、大連とウラジオストックとの競争などを背景としていることなど。
封筒 便箋鉛筆
ロシアのペテルスブルグにおける東清鉄道及び南満州鉄道間の直通運転に関する交渉会議の模様につい
て。
封筒 便箋ペン筆
低利資金を東拓へ貸付けた後、東拓から「彼ノ会社」に融通する案があり、杉山氏から農相に進言することと、
宮尾氏の関与について。
封筒 便箋ペン筆
ロシアに在住3年有余、賜暇で今年11月に着京するので、帰京したら早速後藤に報告に行くこと。
封筒 巻紙墨筆
司法省跡の建物のこと。
封筒 巻紙墨筆
寺岡等は後藤新平を疑い、福田常松をして半沢に諮らしめ、半沢から菊池に内情を聞く、柳瀬の分を田中光
顕自身が1万円、松下勇三郎が5000円を出したこと。
封筒 巻紙墨筆
元山形・富山県知事森本泉の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
棚瀬帰京の上、面会には注意してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
やまと新聞社債の事を田中自身が聞き間違えたこと、社債の手形は時効で、松下一家の分はおよそ200万計
りの負債とのこと、仏と米との専売特許基礎工事営業は高架鉄道の基礎工事試験を受けつつあること、長谷
川中部管理局長のこと。
封筒 巻紙墨筆
震災後における復興計画について、あまりに小さくて残念に思うことなど。
封筒 巻紙墨筆
県庁前の動向についてと、非職となった自分の今後について後藤への依頼。
封筒 巻紙墨筆
阿川未亡人が、後藤が多忙中にもかかわらず心配していたことを誤解し、一時にもせよ恨んでいたこと等、今
朝における阿川未亡人との談話こと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
当時の新聞報道をふまえた政治状況に対する感想。
封筒 巻紙墨筆
近況報告と大槻博士の著作について。
封筒 巻紙墨筆
(前半欠)東京市長の問題により後藤に市政にあたることを願うこと、東京市議会議員候補者、補助者推薦の
こと。
封筒 巻紙墨筆
後藤の帰朝祝い。
封筒 罫紙墨筆
拙著「武次年表」のことと、されを持病の喘息のために持参できないことなど。
封筒 罫紙墨筆
越川善明の紹介状。
封筒 便箋ペン筆
安田善三郎死後における安田家の内紛について、「中央新聞」に安田家より寄付したる300円で揉めると題
し、市会の一大問題となって市長は苦しい立場に陥っていると論じられていること。
57
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
田辺実明
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
たなべさねあき
(大正11年)8月16日
(大正11年)10月4日
(大正12年)8月9日
(大正12年)11月9日
(大正13年)1月7日
(大正14年)2月22日
来翰
来翰
来翰
来翰
田辺実明
田辺実明
谷信近
田野俊貞
たなべさねあき
たなべさねあき
たにのぶちか
たのとしさだ
(昭和2年)7月21日
2010/4/29
2010/6/20
(明治)5月4日
来翰
田原禎次郎
たはらていじろう
(明治38年)12月7日
来翰
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
たはらていじろう
(明治)5月14日
(大正5年)2月3日
(大正7年)1月10日
来翰
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
たはらていじろう
1918/1/10
(大正7年7月24日)
(大正7年)7月27日
来翰
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
たはらていじろう
(大正10年)10月10日
(大正10年)12月5日
(大正10年)12月7日
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
(大正11年)8月9日
(大正12年)2月18日
来翰
田原禎次郎
たはらていじろう
2010/1/27
封筒 便箋ペン筆 表
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
郵便書簡ペン筆
封筒 便箋ペン筆
郵便書簡墨筆
芸妓取締方法及び検梅実施方法について。
東京府に侵入した悪疫の患者数、臨時東京地方衛生会設置当時の役員、在横浜仏人ヱーワイジーチルツの
伝染病蔓延に関する考案について。
暑中御見舞と、後藤と露国代表ヨッフェ氏との会議に関する所感、戊辰戦争時における仙台藩の建白書につ
いて。
川原博巳の紹介状。
清浦奎吾内閣の評判は悪いが、前内閣の山本首相は「質実剛健」、後藤は「英俊」と評価していること。
「時事新報」の紙上で、後藤新平が日露交渉に関する打明話が掲載されているが、その読後の感想 山藤衣
村に加藤良之助は露探の嫌疑がかかっており、「東京日日新聞」紙上でも取り上げられている 明日後藤新
平をねらう動きがあるので注意を促しているなど。
葉書ペン筆
別記案内のこと。
封筒 巻紙墨筆
新聞記事に対するコメントと、芝増上寺におる二代将軍の廟所について。
巻紙墨筆
児玉総督の寿像代金の件について。
巻紙墨筆
昨夜西京より大坂へ向う列車の中で高木友枝氏と談話したこと、高木友枝は民政局の政策がグラグラしている
ことに対して不満の様子であったこと、開業医師の中に任用希望者が2名いるとのこと。
巻紙墨筆
児玉源太郎台湾総督凱旋祝い、「時事新報」に「独逸殖産局の前途」という記事があること、揚子江流域にお
ける英独日は時節柄母国人同士を歓迎するだろうこと、一昨夜の総督府内失火について。
巻紙墨筆
新聞社を辞めた後に台湾総督府内の調査事務の担当者となりたいこと。
封筒 巻紙墨筆
中国の近状と対支政策について意見を述べた北京公使館一等書記官小村俊三郎の紹介と、弊社内部抗争
について。
封筒 便箋ペン筆
南北ともに主戦者でも戦意なく和議を望んでいおり、調停者として日本に期待していること、共和制は支那に
は不適当との認識があり、宣統帝の復辟を望み、馮・段が競争的に復辟運動をしていること、康有為・升允・鄭
孝胥らが宣統帝復辟運動を行っていること、山東民政署問題等の南支の状況についての報告。
封筒
封筒のみ。
封筒 名刺
Hopenrohe公の議長就任、1879年3月自治の許可(マントエフェル氏太守就任)、1888年4月1日独逸貨幣、
1890年代議士選挙。
封筒 巻紙墨筆
龍居頼三満鉄理事の勧告により新支那新聞社との合同を断ち、「京津日日新聞」発行を出願したこと、天津に
いて漢字新聞北洋日報発行を計画していること、後藤が北洋日報の創設に尽力していることに対する謝辞な
ど。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 「大都市交通整理法」を送付すること。
紙
封筒 巻紙墨筆
台湾日日新報社の来年の新年号僻頭への後藤の記事掲載を依頼と、後藤新平が題辞を記した篠崎嘉郎の
著書を見て欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
持地の『台湾統治史』編纂事業に参与を依頼され、一部分を担当することになったが、賀来長官の孤立に同
情を表す文章になることを台湾日日新報が承諾するならば、努力する決意であること、また台湾日日新聞社の
赤石社長が干渉主義を改めず独裁専制の方法を執るならば、入社の必要がないこと。
封筒 罫紙墨筆
台湾総督府史料編纂委員会において、領台以前のことは田原が担当し、本記は持地六三郎、台湾大年表・
台湾関係書総目録・解題は尾崎白水が担当するとのことなど。
封筒 便箋ペン筆
日露国交回復に関して「シヨウイニスト」がこれを赤化とみなし不穏の挙があること、史料蒐集中に鄭成功・浜
田弥兵衛・末松平二郎等の史跡を通して新事実を発見したこと、欧州にて独仏の関係悪化し結局独露が提
携し、一戦の外は永久の平和が来ないであろうこと。
封筒 便箋ペン筆
パリ講和条約締結後におけるドイツの国家的破産が欧州全体の自滅を招くことになると思われること、ドイツ中
央政界における中央党・デモクラット党・社会党の動向について、ワイマール共和国の施政が帝政時代と何等
変わらないとの批判が盛んであること、ドイツにおける労働者問題の状況について。
58
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
2010/3/13
2010/3/17
来翰
田原禎次郎
たはらていじろう
2010/5/27
来翰
田原禎次郎
たはらていじろう
2010/6/3
来翰
来翰
田原禎次郎
田原禎次郎
たはらていじろう
たはらていじろう
2010/6/4
2010/10/9
来翰
田原禎次郎
たはらていじろう
2010/10/25
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
田原禎次郎
田原良純
田原良純
俵国一
俵国一
中条精一郎
珍田捨巳
珍田捨巳
珍田捨巳
珍田捨巳
珍田捨巳
陳宝琛
陳宝琛
付岡兵助
津雲国利
たはらていじろう
たはらよしずみ
(明治45年)3月13日
たはらよしずみ
2010/1/24
たわらくにいち
大正12年11月
たわらくにいち
1923/12/3
ちゅうじょうせいいちろう
ちんだすてみ
(明治40年)8月2日
ちんだすてみ
1918/5/4
ちんだすてみ
(大正11年)3月13日
ちんだすてみ
(昭和2年)2月17日
ちんだすてみ
2010/3/24
ちんほうちん
ちんほうちん
つきおかひょうすけ (昭和3年)9月17日
つくもくにとし
(大正13年1月23日)
来翰
辻村楠造
つじむらくすぞう
(明治40年)11月12日
来翰
辻村楠造
つじむらくすぞう
(大正5年)8月1日
来翰
来翰
土屋員安
土屋員安
つちやかずやす
つちやかずやす
(大正8年)2月24日
(大正9年)12月19日
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
ワイマール共和国に対して「共和民なき共和国」と批判があることや、反革命運動の情勢といった、ドイツ国内
における政治動向について。
反革命運動・帝政復活運動はカップとドイツ陸軍との団結によってなされていること、旧大統領・旧内閣の無効
の発表、ドイツ国民議会・プロイセン国会の解散の発表などのドイツ国内の状況について。
便箋ペン筆
林権助在清公使及び公使館員の支那政局の観察はいつも見当違いであり、寺内正毅、本野一郎が段内閣を
楽観視してしまったこと、直隷派が段祺瑞を見限り、段祺瑞内閣が倒れた要因について、段祺瑞内閣の倒壊
により中国国内が民主的傾向になりつつあること、日本の援段政策に対する酷評。
巻紙墨筆
満蒙経営が「行き当りばったり主義」であること、弊社社長守谷は「在京消極主義」で副社長の村田は「全権
者」であること、寺内正毅朝鮮総督の関東都督兼任と後藤新平の満鉄総裁再任を在満者が希望しているこ
と。
封筒 巻紙墨筆
山東鉄道に奉職している兼井林蔵を引見して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 ベルリン日報及びフォーシツェ新聞の石炭節約展覧会の記事の翻訳文を送付すること、「大連」の題辞及び
紙
田原の額面に後藤の揮毫を依頼すること、『都市公論』の終末に「欧米都市彙報欄」が設けられ、欧米の都市
経営が紹介されていること。
封筒 巻紙墨筆
後藤新平の自叙伝のこと、台湾総督府内で計画中の『台湾統治史』編纂の主任者としては持地六三郎が適
任者であること、オーベル・シレンジエン問題についてのドイツの主張は正当であること。
便箋墨筆
伝記資料返還のことについて。
封筒 巻紙墨筆
明14日の築地精養軒における高木友枝の講演会に招待されたことへのお礼。
巻紙墨筆
欧米における樟脳及び樟脳油の効用に関する取調書を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
東京帝国大学工学部丁友会弁論部大会で後藤に講演して欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
東京帝国大学工学部丁友会弁論部大会での後藤の講演に対する礼状。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 ドイツ皇帝は後藤新平に王冠第一等勲七等を与えたいが、その勲章は日本の瑞宝大綬に相当するものであ
ること。
封筒 便箋墨筆
本多参事官の執務成績について、在英各国の大使館参事官に対する待遇について、任地在住の職員の子
息令嬢の処遇について。
封筒 巻紙墨筆
3月15日の午餐会に出席する旨。
封筒 巻紙墨筆 洋紙 国際連盟事務総長サル・ノーリツク・ドラモンドよりの来翰写を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
新渡戸稲造博士夫妻の歓迎会開催について、その案内状を後藤よりもらったことに対する礼とその欠席届。
封筒 巻紙墨筆
東文学堂2年卒業生3名の日本留学に対する礼状。
封筒 便箋墨筆
後藤の福建訪問以来30年を懐旧。
封筒 巻紙墨筆
書一筆を家宝として保管するとの礼状。
封筒 活字印刷物 清浦の子息である敬吉と豊秋は八尾と結託して下野銀行東京支店支配人高畠覚三をして不当貸付させた結
果、回収不能に陥いったため銀行は破綻休業したこと、現在清浦が総理大臣を勤めていることに対して反対
を表明すること。
封筒 巻紙墨筆
神尾参謀長の電報と杉浦秘書官の手紙からすると間違いがあるので、委細を杉浦秘書官に伝えること、旅順
では重役達との交渉が纏まらないので、参謀長と相談の上会社の迷惑と成らないように取極め、大連に赴き
返答をしたこと、先日会社の御用につき寺内より下命があったので微力を尽したい云々。
封筒 巻紙墨筆
目賀田男と会談し、露蘭銀行等の件については企図の実現を切望していること、ロシアからの新注文のため
奔走し、また嶺氏の厚配により施設実行に取りかかったので、相互の意志疏通を円滑にしたいこと、清野知事
と社宅で面会したこと、いずれ上京の上、後藤の厚配を受けたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤新平の監修の名著恵贈に対する礼状、特に山県の書は無限の感愧であるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤新平の東京市長就任に対する祝詞。
59
来翰
土屋清三郎
つちやせいざぶろう
(大正14年)10月27日
来翰
都築馨六
つづきけいろく
(明治41~44年)4月26日
来翰
都築馨六
つづきけいろく
(大正4年)1月28日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
都築馨六
都築馨六
都築馨六
堤康次郎
角田真平
角田真平
坪井九八郎
坪井九八郎
坪井九馬三
坪井九馬三
坪井九馬三
坪井九馬三
坪井次郎
津村重舎
鶴見愛子
鶴見愛子
鶴見愛子
鶴見愛子
鶴見愛子
来翰
来翰
来翰
鶴見愛子
鶴見愛子
鶴見祐輔
つづきけいろく
(大正7年)4月10日
つづきけいろく
(大正8年)3月1日
つづきけいろく
(大正10年)3月31日
つつみやすじろう
1926/1/12
つのだしんぺい
1918/4/24
つのだしんぺい
2010/7/19
つぼいくはちろう
(明治44年)12月8日
つぼいくはちろう
(大正11年)8月13日
つぼいくめぞう
1909/10/19
つぼいくめぞう
1919/2/16
つぼいくめぞう
1922/12/27
つぼいくめぞう
1909/11/12
つぼいじろう
(明治25年?)11月12日
つむらじゅうしゃ
2010/11/26
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年)3月18日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年)3月24日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年)5月18日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年)6月21日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年)6月25日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (1919年)7月22日
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正14)年8月17日
こ)
つるみゆうすけ
1915/2/14
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1916/8/16
1917/2/26
1917/10/24
封筒 巻紙墨筆
代議士・有志の間で国事の本分を尽すために国事会を設立することが決まったこと、今回総会を開催して代
表者を中心として組織するつもりであること、委細は明朝に拝顔の上申し上げること。
封筒 巻紙墨筆
鉄道改築に関して、東海道三島町の町民は将来町の盛衰にかかわるものなので土地の事情などの巨細を後
藤逓信大臣に説明したいとのことに付き、三島町郵便局長の渡辺寿太郎氏を紹介する旨。
封筒 巻紙墨筆
過日送付した「いんでぺんでんす」を読んでほしいこと、第一次大戦中にベルギーの中立維持についてヨー
ロッパ諸間で締結された条約は内容が公表されていないので何とも言えないこと、ハーグ中立条規にはドイツ
も同意していたにも関わらずドイツはベルギーの中立を侵害しているのはベルギーの態度と関係。
封筒 巻紙墨筆
後藤新平の妻の死去に対する悔状。
封筒 巻紙墨筆
後藤の著書を拝受したこに対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
新聞紙上を拝見したところ、後藤の配下の小学校長には大分変更がある様子なので、小田浩という人物を使
用してほしいと思い、本人に履歴書を持参させるので、引見を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
自分は憲政会に入らなければならなくなつたが、それについての後藤の意見を聞きたい旨。
封筒 巻紙墨筆
大賀 外相就任に対する祝状。
巻紙墨筆
軍人遺族救護会に尽力した松島氏の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
所属の将来についての希望 私見上申のことについて嘉納のことや揮毫のことに対して感謝していること。
封筒 巻紙墨筆
履歴書の送状。
封筒 罫紙墨筆
大日本史料の編纂について、高野長英画像を所蔵しているならば借用したいこと。
封筒 巻紙墨筆
森孝三より金一封を確かに受領したことと、演説集の内容に対する所感。
封筒 便箋墨筆
自分の台湾生蕃語の研究のために、後藤に尽力して欲しいこと。
罫紙墨筆
借用していた高野長英画像を、東京帝国大学総長の謝状を添えて返却すること。
便箋ペン筆
留学延期が聴許されたことに対する礼状と、小児養育金が長与より久しく送付がないことについてなど。
封筒 巻紙墨筆
柿の贈呈状。
封筒 便箋墨筆
洋行出発後の新平の安否伺と、家族の近況報告。
便箋墨筆
1年前に亡くなった母和子の思い出など。
封筒 便箋ペン筆
後藤の家族の様子、後藤の母の石碑建碑、新築の図面が出来た等近況報告。
封筒 便箋ペン筆
去る8日に後藤が着英と外務省広田秘書官より電話あったこと、家族の近況、1歳になった和子のこと、この度
祐輔渡英につき一方ならぬお世話になった御礼。
封筒 便箋ペン筆
23日外務省より、大西洋上にて盲腸炎再発の気味にて一時発熱、軽度の腸加答児のため約一週間静養を要
する見込との連絡があり驚いたこと、その後特別の電報もないので、大事に到らず御快方のことと喜んでいるこ
となど。
封筒 便箋ペン筆 葉書 渡英の際の船中に於ける後藤の病気について了承したこと、家族の近況、青山墓所の工事が完了したこと、
宮中より中元下賜のこと、台湾総督府より奨励金3000円を受取ったことなど。
封筒 洋紙ペン筆
加州行は余リ勝手にすぎる御願いかと思うことなど。
封筒 巻紙墨筆
佐田が鶴見宅を訪れ、天下の大勢を痛論した後、此際、原敬との交驩を第一の急務とする故、近日中、自分
が原敬を訪問し、大いに説得する所存とのこと、及び新渡戸を訪問した際、後藤を市長にと考えている人が有
ると言っていたことなど。
巻紙墨筆
長野講演会のこと、自身の近況報告及び在北京の岩永裕吉より書簡並に意見書送付につき後藤へ伝達する
とのこと。
巻紙墨筆
転地療養のため東京出立の際に見送れなかったことに対する詫、桜田町の地所と西園寺の邸を見てきたこと
並に図面を預ってきたので送付すること、新渡戸夫人に面会したこと。
便箋ペン筆
支那における軽便鉄道敷設計画について、在北京公使館及び各方面と交渉中の状況に関する報告。
60
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1918/10/3
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1919/3/19
1919/4/8
1919/4/15
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1919/5/21
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1919/10/10
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1919/11/20
1919/11/20
1919/11/24
(1919年11月24日)
1919年12月7日、21日
(1919年12月10日)
1919/12/12
1919/12/18
(1919年12月18日)
1919/12/21
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1919/12/21
1919/12/24
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1919/12/27
1921/1/3
1921/1/21
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
(大正)10年8月8日
1922/6/13
1923/8/7
1924/9/11
封筒 便箋ペン筆
内閣更迭に際し、後藤に新渡戸・田嶋・岩永を従えて米国外遊をすすめること、第一次大戦中における米国
内の状況、米国内に於ける日本人帰化問題・日本人土地所有権問題・日米問題・在カリフォルニア日本人・
ウィルソン大統領について報告。
便箋ペン筆
後藤の米国外遊出発の件を承知した旨及び米国旅行中の予定について報告。
封筒 レターペーパーペ 自身の病気見舞いに対する礼及びシカゴに於て後藤を出迎える米国人の人柄について注意してほしい旨。
ン筆
レターペーパーペン筆 米国外遊中の後藤に対して、将来を考えて大デモンストレーションをするように勧め、ニューヨークでは、新
聞・雑誌に意見を発表し、主要な政治家・実業家・新聞社長・雑誌社長等と面会し、社会事業の研究としてY
MCA・救貧事業・社会主義者並に過激派の事業を見て、外に諸方を見学する様に勧めたもの。
封筒 レターペーパーペ 「ニューヨーク・タイムズ」への後藤の談話は良かったこと、ニューヨークにては反日感情が強いこと、ハーバー
ン筆
ド大学教授ラスキーと会い渡英後の便誼が出来たこと、ボストンの印象はニューヨークと全く異なること。
封筒 レターペーパーペ セシル卿の英国貴族廃止の演説とロイド・ジョージの鉱山国民反対論の新聞記事切抜送付の件。
ン筆 新聞切抜
封筒 便箋ペン筆
日本の水力電気事業の建築を請負ったソーヤー氏が米国に出発した旨通知。
封筒 便箋ペン筆
米国に於ける石炭ストのこと、プリンス・オブ・ウェールズ来米の様子、平和条約のこと、日本の不人気、フォー
ドとの面会、チャイルドより依頼の件等報告。
封筒 レターペーパーペ ロシアの過激派及びベルリンよりの通信記事ののった「ニューヨーク・タイムズ」の切抜を送付する旨。
ン筆
封筒 新聞切抜
「ニューヨーク・タイムズ」記事切抜。
新聞切抜
「ニューヨーク・タイムズ」記事切抜。
封筒 新聞切抜
米国の各種新聞記事の切抜。
封筒 レターペーパーペ ボストンのヘンリー・ソーヤーが、水力電気事業工事請負のため渡日するので、井上日銀総裁・福沢桃介・増
ン筆 名刺
田次郎・高橋蔵相・野田逓相に紹介してほしい旨。
封筒 レターペーパーペ カリヤースに載った米国の政況に関するチャイルドの社説についての詳述及び米国留学中の一蔵の近況。
ン筆
封筒 新聞切抜
「ナショナル・ウィークリー」記事切抜(文中に後藤の名あり)。
封筒 レターペーパーペ 「ニューヨーク・トリビューン」に掲載されたフランク・サイモンによる対露政策論及び英国記者の過激派観に関
ン筆 新聞切抜
する記事切抜送付の件。
封筒 レターペーパーペ 米国内における対日感情及び日本に関する評論についての詳説。
ン筆
封筒 レターペーパーペ 「アンカーズ・マガジン」に掲載されたフーバーの欧州社会主義観に関する記事送付の件。
ン筆 雑誌切抜
封筒
封筒のみ。
封筒 ペン筆 新聞切抜 日本に関する新聞記事切抜送付のこと、日英同盟についての米国力での論調、米国の新政権についてな
ど。
藁半紙ペン筆
米国内の市政、特にシカゴ市政腐敗の事情及ひその救済策調査並に同市に於ける市政問題研究について
学者等に会見して聴取ったこと、更に東京市政刷新のための鶴見の考える4案について。
巻紙墨筆
京浜電気鉄道株式会社常務取締役就任の交渉を受けた鉄道局技師鈴木一に面会して欲しいこと。
封筒 レターペーパーペ 新内閣に対する私見、支那旅行中に感じた支那の現状、文芸復興運転の様子、及ひ各界の人々の会見の様
ン筆
子等報告。
巻紙墨筆
ヨッフェの出発に際し、手配の内容についての報告。
封筒 レターペーパーペ 後藤が仏国答礼使となる可能性があるとのニューヨーク・日本字新聞を見たこと、ウイリアムタウンにおける鶴
ン筆
見の講演の評判及びその後の近況報告。
61
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1924/9/30
大正14年正月元旦
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1925/2/7
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1925/3/12
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1925/7/13
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1925/8/18
1925/9/14
1926/3/23
1926/4/12
1926/5/25
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1926/8/19
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1926/8/31
1926/9/11
(大正15年?)10月24日
(大正)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
(昭和2年3月22日)
1927/7/8
1927/7/11
1927/9/9
1928/2/4
1928/5/1
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
1928/5/3
1928/5/9
封筒 レターペーパーペ 支那にて戦端が開けた後の米国内の対日感情の変化、コロンビア大学での講義内容、伊東伯の阿片に対す
ン筆
る発言 犬養逓相の政党発達に関する話が米国内で好評とのことなど。
封筒 レターペーパーペ 昨年の自分の講演及び論文及び本年の講演及び論文執筆の予定報告。
ン筆 タイプ印字物 新
聞切抜
封筒 レターペーパーペ 米国に於ける自分の講演の様子、排日移民法案についていつも受ける質問及びそれよりわかる米国民の対
ン筆
日感情の好転、リチャード・ウォッシュボーン・チャイルドの近況と米政界に於ける位置等について報告。
レターペーパーペン筆 日露交渉成立に対する米国内の反応、自分の講演会や新聞への寄稿文に対する反応、米国各地にて排日
論者と立会演説を行ったこと、幣原外相の対米抗議打切は良策であること、開催予定の太平洋沿岸6ヶ国の
学会に日本よりは後藤に出席してほしいことなど。
封筒 レターペーパーペ 太平洋問題調査会無事開催予定のこと、同会議に愛子を同伴すること、その後の自分の予定と、ニューヨーク
ン筆
にて発行の「外交」という雑誌に、日露外交論について後藤に起稿してほしいとの依頼があること。
封筒 レターペーパーペ ハワイで開催された太平洋問題調査会終了後のカリフォルニアにおける講演の様子など。
ン筆
封筒 レターペーパーペ ニューヨークにおける滞在先のビアード博士一家と自身の近況報告など。
ン筆
封筒 巻紙墨筆
後藤が新党を組織すとの噂に対する政界の状況に関する報告。
封筒 罫紙ペン筆
ルーズベルトの案内が終わったので帰京すること、今回の政治倫理についての大阪方面の反応を調べたこ
と、後藤の発表した意見に対する私見。
封筒 巻紙墨筆
28日の講演会に予定していた小林丑二郎・河合栄治郎は無理のため、永田と後藤のみにて行うこと 帝国ホ
テルにて各方面の人々の懇談会を試みたところ盛会であったこと、連立内閣は不調に帰するとの状報、長野
県・新潟県の遊説について、後藤が文春に投稿した記事の評判など。
封筒 巻紙墨筆
政治倫理運動が成功していること、近藤が出版する小冊子についての鶴見の校正本送付のこと、米国近代の
政治改革運動の実況や英国の政治思想の変遷を河合栄治郎より話させるので九州遊説出発前に軽井沢の
別荘に来てほしいことなど。
罫紙ペン筆
日本電報通信社の件、沢柳博士に交渉の件、印刷物誤植訂正の件、九州等遊説日割の件、雄弁社より広告
並に書物発売の件、広告文案の件報告。
封筒 巻紙墨筆
カラハン招待の件、雄弁会の出版についての広告その他に関する件の報告。
封筒 巻紙墨筆
各府県普選準備会首脳者会合の下打合会を鶴見宅で開催する予定で30名程集まる手配になっていること。
巻紙墨筆 半紙
日露交渉について閣議にて予備交渉の開始を確定したこと、尼港と樺太の件を議したこと、本日の閣議は日
露問題は未決のまま散会したこと、総理が後藤と面会したいとの内話があったこと。
封筒 巻紙墨筆
政治の倫理化運動一周年記念講演会のプログラム案。
封筒 レターペーパーペ 太平洋問題調査会出席のため無事にハワイに到着した旨の報告。
ン筆
封筒 レターペーパーペ 今回のハワイにおける太平洋問題調査会の開会前の各国の様子について。
ン筆
封筒 巻紙墨筆
田中外相に関する件につき後藤の配慮に感謝すること、露国行の件は東方策完成の好機であるので是非行
くように勧め又はその際は自分も加えてほしいとのことなど。
封筒 巻紙墨筆
露国における後藤の活躍に対する賛辞、身分は渡米後2ヶ月で解散の報に接し、急ぎ帰国したこと、帰国後
の選挙事情のことと自身の選挙運動の状況について。
封筒 巻紙墨筆 新聞切 後藤よりの来翰の件に付き院内にて尾崎行雄と懇談したところ、先刻尾崎より電話にて内閣改造の際の明政
抜
会の態度について問合せがあったのでその件に関し自宅において代議士会を開催する旨報告。
封筒 巻紙墨筆
鈴木内務大臣の辞職に伴う政治情勢について。
封筒 巻紙墨筆
政局に関して後藤に心労をかけたことへの礼、自分は岡山の選挙区に行って自分の行動に対する誹難や選
挙区の動揺に対処するとのこと。
62
来翰
鶴見祐輔
つるみゆうすけ
1928/11/9
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
鶴見祐輔
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
2010/8/8
2010/12/22
2010/5/1
2010/6/5
(8月)28日
(明治39年)8月4日
(明治39年)8月16日
(明治39年)8月24日
(明治40年)4月12日
(明治42年)3月29日
(明治42年10月)27日
(明治43年)8月29日
(明治44年)1月18日
(明治44年)5月24日
(明治44年)6月5日
(明治44年)7月7日
(明治45年)3月16日
(明治)5月25日
(明治)6月10日
(明治)11月5日
(明治)12月2日
(大正元年)9月7日
(大正元年)9月21日
(大正元年)11月15日
(大正元年)12月20日
(大正2年)7月9日
(大正2年)10月10日
(大正3年)10月21日
(大正4年)1月6日
(大正5年)3月11日
封筒 レターペーパーペ 米国内における対日感情はさほど悪くないが、日本が満州を取るといった漠然とした印象が余程しみこんでい
ン筆
ること、それは在支那の宣教師を通して米国に入ってくること、そして、これに対抗する政策をとる必要があるこ
となど。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒 レターペーパーペ 支那内地の宣教師引上の件について。
ン筆
封筒 巻紙墨筆
岡山市議会壮年会において後藤の講演を依頼した件について。
レターペーパーペン筆 米国の選挙で鶴見の指示した人々が敗北したこと、7月20日に米国に渡ること。
封筒 巻紙墨筆
満鉄総裁に就任するについて、意見書を寺内を通して提出したことに対する返書。
封筒 巻紙墨筆
満鉄委員会のこと 定款の審議状況、株式募集に関すること、顧問制度発会は延引しそうなこと。
封筒 巻紙墨筆
満鉄委員会公告按決定のこと、株式の募集期限のこと、顧問制度に関する状況。
封筒 巻紙墨筆
後藤が満鉄の技師に製鉄所技師を希望したことに対して、農商務省が応諾しなかった旨。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 満鉄沿線の実査に関する佐藤安之助からの報告書を見ての後藤への返書。
封筒 巻紙墨筆 電報 注意の次第は大久保へ伝えたこと。
封筒 巻紙墨筆
東京の洪水に関すること、台湾の内政について、朝鮮併合の詔書渙発の当日は平穏であったこと、朝鮮の皇
族・華族の監督に関すること。
封筒 巻紙墨筆
京城を出発し京都まで来ていることと、全ては帰京の後に会ってからとすること。
封筒 巻紙墨筆
湯河原に転地精養中の後藤に対する見舞、朝鮮の地は意外と平穏であること、内地政界の状況に関するこ
と。
封筒 巻紙墨筆
日露協会の設立について田中少将より申来る事情もあるので、後藤に助力してほしいとの依頼。
封筒 巻紙墨筆
新聞記事により後藤が椅子より落ちて怪我をしたことを知り、その見舞、内地政界の状況を教えてもらった事に
対する礼とそれについての私見。
封筒 巻紙墨筆
日露協会の事業への後藤の尽力に対する礼、後藤の日露協会総裁就任と幹事改選について、露国大使心
得帰任するので、それに際して一会合を催せば好都合と思へることなど。
封筒 巻紙墨筆
大連滞在中の歓待に対する謝辞、大連土地処分等の意見書について。
封筒 巻紙墨筆
佐久間大将より別封の通り言って来ているので後藤の高覧に供する旨。
封筒 巻紙墨筆
釜山港湾地図を一括返却の件。
封筒 巻紙墨筆
病気のために本日の出席は不可能なのでシベリヤ問題について発言しておいて欲しいとの依頼。
封筒 巻紙墨筆
書簡2通を送付すること。
封筒 巻紙墨筆
後藤より受取った税制整理案、行政整理案、二師団増設の要求、現在の寺内の位置、文官任用令の改正に
関する政府部内の方針を書いた書簡の写しを後藤に返す旨。
封筒 巻紙墨筆
首相官邸において、法政局長官、内閣書記官長等列席にて、殖民地問題に関する会議を行ったこと、増州
問題は見込がないこと。
封筒 巻紙墨筆
政界の紛糾に関すること、後藤が大任を引受けることについて。
封筒 巻紙墨筆
桂公の病状については憂慮していること、有栖川宮薨去(大正2年7月5日)のこと、政界の状況にては自分も
帰京しないで京城に滞ることなど。
封筒 巻紙墨筆
桂公の病状について、今回は残念ながら終焉であろうとのこと、それに関して宇佐川中将を帰京せしめたこ
と。
封筒 巻紙墨筆
露国傷病兵見舞金として300円を送付したこと、それ以外の為換券は仏国の分であること。
封筒 巻紙墨筆
議会解散のこと、欧州の戦乱が一段落したので、その鋭峰が東洋殊に日本に向う時は、諸公にはどの様な成
算があるのか承りたいこと 来る昭憲皇太后の一年祭には帰京すること。
封筒 巻紙墨筆
議会に提出して東拓按について、支那に対する方針が変更される様に感じること、ロシア大使の転任は遺憾
であること、朝鮮青年会と宣教師との関係について新渡戸に依頼したこと。
63
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
寺内正毅
田健治郎
田健治郎
田健治郎
田健治郎
土肥慶蔵
土肥慶蔵
土肥直康
土肥直康
土肥直康
東郷実
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
でんけんじろう
でんけんじろう
でんけんじろう
でんけんじろう
といけいぞう
といけいぞう
といなおやす
といなおやす
といなおやす
とうごうみのる
(大正7年)7月7日
(大正7年?)8月21日
(大正)9月30日
(大正)2月20日
(大正)8月7日
2010/1/15
2010/2/8
2010/3/5
2010/3/19
2010/4/10
2010/4/27
2010/5/4
2010/7/9
2010/9/12
2010/12/17
(大正8年)11月24日
2010/9/7
(大正14年)10月19日
(昭和3年)2月8日
(大正10年)8月3日
(大正15年)1月26日
(明治36年)2月21日
(明治41年)9月12日
2010/12/31
(大正10年)8月7日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
東郷実
東郷安
東郷安
唐紹儀
土岐嘉平
土岐嘉平
徳川家達
とうごうみのる
とうごうやすし
とうごうやすし
とうしょうぎ
ときかへい
ときかへい
とくがわいえさと
(大正12年)3月6日
1916/5/23
1919/2/28
(明治)
(大正12年)9月25日
1928/12/29
(明治40年)6月2日
封筒 巻紙墨筆
支那における製鉄業をそれに対する大倉喜八郎等の動向及びこれらの事に関する寺内の私見。
封筒 巻紙墨筆
政界の動向、特に満州及び支那問題について、朝鮮において共進会を開催するので、後藤の来遊を希望す
ること、金剛山の探勝もまた一奇であること。
巻紙墨筆
寺内正毅が内閣総理大臣を辞めた時の挨拶状。
封筒 巻紙墨筆
各大臣の地方巡視の実施方法について。
封筒 巻紙墨筆
後藤よりの来翰に対する礼、欧州の戦局(大正3~7年)とそれに関連した支那の状況、日本の対支政策はどう
あるべきかなど。
封筒 巻紙墨筆
朝鮮経由で満州・シベリアへの交通を一層親密に結びたいこと、奉天に朝鮮銀行の支店を設置したこと、安東
島の関税を露国側と同一に三分の一にすることなど。
封筒 巻紙墨筆
議会の解散は免れないこと、ビー氏来遊に関すること、間嶋で支那兵が掠奪をはたらいたことなど。
封筒 巻紙墨筆
協会がロシア大使を招待することについて。
封筒 巻紙墨筆
本日開かれる協議会について。
封筒 巻紙墨筆
台湾の蕃務処理については、至極同感であるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
奉天で医務に従事している檜垣春三が、今回同地に赤十字病院を設立するにあたって帰朝しているので、後
藤に会ってほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾遊覧が済んだことに対する慶賀、山県の病症が心痛に堪えないこと、対支政策の失敗に関すること。
封筒 巻紙墨筆
佐藤の書簡を閲読したので返却する旨。
封筒 巻紙墨筆
両陛下の帰京と、岩原の件は原田へ内談しておいたこと。
封筒 巻紙墨筆 手形入 杉山へ手紙を渡して欲しいこと。
封筒
巻紙墨筆
選挙における政友会・国民党・中立実業団・憲政会への対応について。
封筒 巻紙墨筆
後藤が外遊から無事帰朝したことに対する祝賀、自分は突然台湾総督を拝命し赴任するので会えないため、
今度上京の時には色々話を伺いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾の百日紅で製作した火爐を進呈する旨。
封筒 巻紙墨筆
病気の息子への見舞いに対する礼状。
封筒 便箋墨筆
後藤がソ連から無事に帰朝したことへの慶賀と、自分は風邪で歓迎に出られないこと。
封筒 巻紙墨筆 活字印 花柳病予防協会雑誌を発刊するので、後藤に原稿を寄せて欲しいこと。
刷物
封筒 巻紙墨筆
昨夕後藤が臨席してくれたことに対する礼と、伊藤の死後、真の政治家は後藤しかいないこと、今回の世界一
周旅行において、その感を強くしたこと。
封筒 巻紙墨筆
大坂博覧会の台湾館の扁額への揮毫依頼。
封筒 巻紙墨筆
招魂碑除幕式記念絵葉書のことについて。
巻紙墨筆
後藤よりの贈答品に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
上京中に面会してくれた事及び依頼した書を送ってくれたことに対する謝辞、台湾では総務長官の更迭に
伴って局長級に多少の異動があるとの話があること、高田殖産局長は上京中であるから再び局長としては来
台しないであろうとの噂があり、そうならば、局長には有為の人材がほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
後藤の母親の逝去に対する悔状。
巻紙ペン筆 タイプ印字 奉天にいる友人から奉天を中心とする最近の満州の形勢について知らせてきたので、後藤に転送したこと。
物
封筒 巻紙墨筆
欧米視察に出発する後藤に対する謝辞。
封筒 便箋墨筆 名刺 岡松博士の満州調査の際の来訪を期待する。
封筒 巻紙墨筆
関東大震災後の後藤の尽力と心労は察していること、大阪方面の上京、多大の提案を分与してくれたことに
対する謝辞。
封筒 巻紙墨筆
大礼記念の京都大博覧会が無事に閉会したので、計画当初よりの後藤の尽力に対する謝辞。
封筒 巻紙墨筆
満州・韓国巡回の時、南満州鉄道乗車に際して特殊待遇してくれたことに対する謝辞。
64
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
徳川家達
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
徳富猪一郎
床次竹次郎
利光鶴松
栃内曽次郎
外松孫太郎
外松孫太郎
外松孫太郎
外松孫太郎
外松孫太郎
外松孫太郎
富沢正太郎
富沢正太郎
とくがわいえさと
(大正7年)7月15日
とくとみいいちろう・とくと (明治)43年5月16日
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 大正元年8月9日
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 大正4年1月
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1916/2/17
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1917/2/24
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1918/4/23
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1920/2/26
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1920/3/6
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1921/1/8
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1921/11/21
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1924/7/9
みそほう
とくとみいいちろう・とくと (大正)14年2月5日
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1925/9/12
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1925/10/14
みそほう
とくとみいいちろう・とくと (大正15年1月26日)
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1927/3/5
みそほう
とくとみいいちろう・とくと 1929/1/30
みそほう
とくとみいいちろう・とくと
みそほう
とこなみたけじろう 2010/9/9
としみつつるまつ
2010/8/17
とちないそうじろう
1928/2/18
とまつまごたろう
(大正10)年11月21日
とまつまごたろう
(大正11)年3月11日
とまつまごたろう
(大正11)年3月26日
とまつまごたろう
(大正11年)5月9日
とまつまごたろう
2010/12/12
とまつまごたろう
(大正10年?)12月18日
とみざわしょうたろう (明治34年)10月21日
とみざわしょうたろう 2010/5/31
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙印刷物
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 便箋墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
封筒
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
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本日官邸へ訪問する予定であったが、後藤の都合により延期となる旨の通知を受けたので、なるべく早く面会
したいこと。
後藤より贈呈された『満州に於ける日本の政策』に大いに感服したこと。
明治天皇崩御後の一部の政党の動向には、警戒すべき点があることを憂慮していること。
桂太郎の伝記編纂に関して、桂の書簡や関係文書を提供して欲しいこと。
後藤から著書を贈呈されたことへの礼とその読後感。
過日、後藤に面会した際の感想にについて。
後藤の外務大臣就任への祝辞。
熱海で湯治中の自身の近況報告。
日本改造本部の構成に期待していること。首相は原でも加藤でもかまわないこと。
新年の挨拶及び今年の戦地調査の予定について。
青山の自宅を社会教育のために提供するので、指図と助成をして欲しいこと。
記者石川六郎の紹介状。
自著の進呈状。
贈呈された書類にたいする礼状。
書斎の椅子を送られたことへの礼状。
中央会大谷師の送別会の案内など。
時候の挨拶。
台湾旅行を前にして、旅行中の便宜をはかってもらいたいこと。
封筒のみ。
後藤も帰京したので伺うべきであるが、繁忙と思われるので、用件を別に送付すること。
日本倶楽部における後藤の育英事業についての高説に対する賞賛とそれに関連した土地所得に関する交渉
についての報告。
洋々会における後藤の講演場所及び日時の連絡。
飯野吉三郎を貴族院勅撰議員とすることについて。
飯野吉三郎が貴族院勅撰議員となることについて。
後藤会の発起人である飯野吉三郎を勅撰議員に推挙すること。
飯野吉三郎を貴族院議員とすることについて、その後の状況を教えて欲しいこと。
飯野吉三郎を貴族院議員に推挙する件について、下田歌子と話したことについて。
飯野吉三郎を貴族院議員に勅撰することについて。
水沢の留守家紛議についての報告。
就職の礼状。
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
戸水寛人
戸水寛人
戸水寛人
富田鉄之助
富田鉄之助
富永泰三
友枝高彦
内藤虎次郎
永井松三
とみずひろんど(とみず
ひろと)
とみずひろんど(とみず
ひろと)
とみずひろんど(とみず
ひろと)
とみたてつのすけ
とみたてつのすけ
とみながたいぞう
ともえだたかひこ
ないとうとらじろう
ながいまつぞう
(大正6年10月9日)
(大正6年)10月13日
(大正13年)5月21日
2010/6/25
2010/3/9
10日
(昭和3年)12月7日
2010/6/11
(1920年)6月15日
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正4年8月2日)
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正4年)8月15日
来翰
来翰
永井柳太郎
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
ながいりゅうたろう
(大正4年)8月19日
(大正4年)8月22日
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
1917/12/13
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正7)年11月10日
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正8年)正月吉旦
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正8年)1月28日
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正8年)4月18日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 便箋ペン筆
蒙古開発の趣旨で蒙古産業協会を設置したので、その経営について後藤の意見を聞きたいこと。
後藤を訪問したことについての謝辞、その後の相談で武藤金吉・熊谷直吉・薄の3人は蒙古に派遣しないこと
に決まったので、もう一度後藤に面会したいこと。
吉崎彰一を紹介するので、会って欲しいこと。
来訪につき出向依頼のこと。
仙台北山輪王寺の件。
外務大臣後藤新平に対する自薦状。
後藤の伯爵陞爵とハンブルク大学から名誉学位を授与されたことにたいする、ベルリンからの祝辞。
朝日新聞社北京特派員神田正雄の紹介及び東洋銀行案のことなど。
北イタリアの労働会議関係に出張した帰途に、当地に寄ったこと 鶴見夫人がロンドンに到着した翌日に出発
したため会うことができなかったこと、アメリカは戦後措置に没頭のため、時に米仏間に感情の疎隔を生じるよ
うなことがあること。
電報
元老の1人を総理とし後藤に外務大臣を願い御大礼と開戦始末とを目的とする連合内閣を組織することは、党
争の悪弊を一新し、国政の基礎を新たにするものと信じていること、後藤に外務大臣を願うのは、与党の統禦
と列国会議の参列とを託するためであること。
封筒 レターペーパーペ 大隈内閣は後藤の予想通り元老の留任依頼となり、加藤一派のみ辞職すべしと報道されているのを知り、自
ン筆
分は直ちに大隈に電報で後藤との協力を勧告したこと、朝鮮では後藤の評価が大変高く、朝鮮総督・植民地
大臣就任の期待が強いこと、後藤の紹介状により寺内総督から厚遇を受けていることなど。
写真葉書ペン筆
昨日撫順炭坑を訪問し苦力の作業を視察したこと、事務所の応接室に後藤の肖像画があったことなど。
封筒 レターペーパーペ 満鉄沿線を視察して昨日大連に到着したこと、朝鮮経営が予想以上に成功しているのに比べ、満鉄沿線に
ン筆
おける邦人勢力の微弱なのは遺憾なこと、勢力拡大のためにも鉄道路線の延長が必要なことなど。
封筒 洋紙ペン筆
10月20日横浜出港、華南を視察し、軍閥などと会見してきたこと、第一次世界大戦中の東部戦線の講和を受
けて、日本はこの際西シベリア、黒竜江以東に出兵して永久占領を建議すること、その理由はヨーロッパ出兵
は損失が多く、極東出兵が望ましいこと、日本の満蒙北支那支配に好都合なことなど。
封筒 洋紙ペン筆
大戦中、アメリカの郵便物検閲が厳しくなったこと。サンフランシスコで鶴見に会ったこと。アメリカの労働組合
動向のこと。アメリカは、戦捷がアメリカの参戦によるという自信を深め、戦後弱国の側につくことを警戒してい
ること。後藤がアメリカに外遊し、直接政治家・実業家・新聞記者と接することを提案するなど。
封筒 洋紙ペン筆
新年の挨拶、アメリカ北部は寒いため、12月中旬ニューヨーク出発、ジョージア州サヴァンナー市に滞在中で
あること。戦中アメリカが軍事的のみならず経済的にも成長し、世界金融の中心がロンドンからニューヨークに
移る勢にあること、社会的には労働組合の存在が大きくなっていることなどを報告。
封筒 洋紙ペン筆 タイ アメリカでの研究にも大体の概念を得たこととイギリスにおける労働問題が重大化しているので、渡英したいこ
プ印字物
と、パリ講和会議が始まったが、日本代表は積極的な発言もせず、活動は不活発であること、日本の友人から
アメリカの産業界についていろいろ質問をしてくれるので、タイプライターで報告書を作成云々。
レターペーパーペン筆 後藤の欧米漫遊を知ったこと。彼に書簡を書いていること。渡英後、講和会議を視察したこと。日本代表を無
為無能と断じ、世界の政治家と対等に交渉し得ない現状を憂うこと。後藤の帰国後の活動を期待すること。皇
帝を政治から分離し、帝国議会を最高責任機関とすることなどを建議すること。
66
来翰
永井柳太郎
ながいりゅうたろう
(大正12年)6月18日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
永井柳太郎
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
ながいりゅうたろう
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
2010/4/21
(明治36年?)2月26日
1905/2/25
明治(40年?)9月9日
(明治41年)7月21日
(明治44年)5月28日
(明治)2月25日
来翰
来翰
長尾半平
長尾半平
ながおはんぺい
ながおはんぺい
(明治)12月5日
(明治)12月9日
来翰
長尾半平
ながおはんぺい
1913/7/28
来翰
来翰
来翰
長尾半平
長尾半平
長尾半平
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
(大正8年?)2月17日
(大正10年?)9月7日
(大正11年)11月7日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
長尾半平
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
ながおはんぺい
(大正12年)9月25日
(大正13年)5月12日
1925/7/16
(大正14年)11月30日
(大正)5月20日
2010/1/19
2010/6/29
来翰
来翰
長尾半平
長尾半平
ながおはんぺい
ながおはんぺい
2010/9/23
2010/12/22
封筒 便箋ペン筆
支那の最新情勢研究のため、本日神戸出港。ヨッフェとの交渉、日露国交外交における国民の支持は後藤に
あると思うこと、支那について後藤が大隈首相に建言した東清銀行案の実現によって支那財政を日本の監視
下に置くことになること、加藤は後藤と会談し後藤の考えを評価したと思われること。
封筒 巻紙墨筆
「万朝報」記者東舜英がロシアに対する後藤の意見を拝聴の上「万朝報」に掲載したいので、引見をお願いし
たい旨の依頼状。
巻紙墨筆
基隆・淡水・打狗の築港に関する負担利子、即ち年4万円に対してどのように措置するか民政長官後藤と協議
したいこと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
高橋本吉採用の件につき感謝、本年度の台北水道・水力発電・打狗築港など責任重大であること。
巻紙墨筆
事実上大臣以上の栄職を捨てて大臣として入閣したことを、平生の烔眼にもかかわらずつまらぬ事をなされた
るものかなとゴマメの歯ギシリと言いつつ祝うこと。
封筒 巻紙墨筆
桂内閣がいわば野垂れ死にした後、後藤が熱心にとり組んでいた鉄道事業に関し、特に鉄道院の人事につ
いて具体的に人名を記して長尾の意見を建議していること。
巻紙墨筆
逓信省の由井漱平は台南郵電局技手由井五平の子息である、彼の就職は大津秘書官より伺い交渉中のこ
と、機械工学士田嵜二三次の件は7級で交渉中のこと、山崩のことなど天災とはいえ痛心していること、蕃害に
対しての対策について述べる黒瀬学一は本日の便船で神戸出帆し帰台すること。
巻紙墨筆
台湾宅付近の写真4種12葉を佐々木侍従武官・北白川・小松宮両殿下に、残部を後藤に送りたいこと。
巻紙墨筆
年末賞与に関し後藤民政長官の決裁を願出たもの、高等官に関する分は本月1日までに総督に内申する事
になっているため、不在中につき後藤に願い出ている 本年は現状維持の時期ではあるが、事業としては相
当あり特別の理由をつけて内申したことなど。
封筒 罫紙墨筆 活字印 九州鉄道管理局長となった長尾が、勤続年数の比較的長い職員やその両親などを選抜し、清見会と名付け
刷物 謄写版印刷物 た懇親会を開催した時の報告書を後藤に送付すること。
封筒 巻紙墨筆
通信大学の夏季学校については昨年は2300円の費用がかかったことからして今年も1500円以下では運営は
難しいこと等を報告。
封筒 巻紙墨筆
昨日内命を受けたことについては光栄だが、その際覚悟がつかず一日の猶予を願ったが決心もついたので
檜木舞台で修業したいこと。
封筒 巻紙墨筆
安田修徳会より東京女子大学へ寄付を仰ぎたいので、同会長の武井男爵への書状を認めて自分に送ってほ
しいこと、東京女子大学はアメリカより200万円以上の巨額を得て、新渡戸・長尾の正副校長のもとすでに3万
坪の土地を得て永久的建築をしようとしており、日本側も50万円位の寄付金を得たいこと。
封筒 洋紙ペン筆 領収 後藤家に亜鉛板100枚を届けた領収証と、ハワイ在住日本人惣代の松沢光茂を後藤に紹介するメモ書。
証 名刺
封筒 巻紙墨筆
未だ確報は得ていないが、鶴見の落選したことで多大の御心痛を与えるような始末となり申し訳なく、しかし鶴
見も意義ある教訓を得たことであろうし、自分たちも学ぶ処があったこと。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
四国へ出張予定の後藤に対し、高知県の東部の青年間で有力者といわれる青年を紹介すること、彼は県内
の政教にも精通しており出発前に数分でも時間をとる価値があるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
応用心理の児童保金事業は現代の一大要求で、市内の小学生も対象とし増進すべであること。
封筒 巻紙墨筆
シベリア問題に関する卑見を総理・外相などに提出したので、後藤にも意見を求めること。
巻紙墨筆
辜顕栄の経営する糖業譲渡について金子直吉が関心を示していること、辜としては今までの投資70万円と生
産高15万ピクルによる利益30万円から合計200万円以上で譲渡したい内心があるので、後藤にも情報を伝え
御高見を伺いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
11月初、亡父の命日に頌徳碑を建立したいので、徳薫桑梓か山高水長かの4文字を揮毫してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
歳末に際し例年通り越後村上の塩鮭3尾を送ること。
67
来翰
来翰
長尾半平
長尾半平
ながおはんぺい
ながおはんぺい
(昭和3年)2月13日
(昭和4年)1月14日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
長尾半平
ながおはんぺい
(12月)14日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
中川小十郎
中川小十郎
中柴末純
中柴末純
中島正武
長島隆二
長島隆二
なかがわこじゅうろう
なかがわこじゅうろう
なかしばすえずみ
なかしばすえずみ
なかじままさたけ
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
(大正12年)10月20日
(大正13年)10月8日
(昭和2年)8月5日
(昭和3年)8月1日
2010/11/1
2010/8/19
(大正9年)3月2日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
絵葉書ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
長島隆二
ながしまりゅうじ
(大正9年)4月15日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
長島隆二
長島隆二
長島隆二
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
2010/1/31
2010/3/19
2010/3/31
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
長島隆二
長島隆二
長島隆二
長島隆二
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
2010/11/17
2010/12/12
2010/1/24
2010/4/21
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
長島隆二
ながしまりゅうじ
2010/5/3
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
長島隆二
長島隆二
仲小路廉
ながしまりゅうじ
ながしまりゅうじ
なかしょうじれん
2010/10/24
2010/11/3
(明治43年)1月8日
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
仲小路廉
仲小路廉
なかしょうじれん
なかしょうじれん
(明治43年)5月26日
1910/8/11
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
来翰
仲小路廉
なかしょうじれん
2010/9/19
巻紙墨筆
68
越後村上の特産物である鮭3尾を後藤に献上すること。
先日試食していただいたものは炊き方が不完全であったため、特許者があらためて自分が炊いたものを試食
していただきたいと申し出があり、朝食にあうように、玄米のみ、半分半分、3分の1混ぜたものの3種類を持参
するはずであること。
本田仙太郎へ昨日3000円を渡したところ非常に感激していたこと、その際に後藤の自分としては事業を助け
るというよりは本田一身を救うという意味が多いのだという言葉を伝えたところ、非常に感激していたことなど。
先年台北市が大風雨による被害を受けた後、復興に尽力した台湾土地建物会社専務取締役の木村恭治の
紹介状。
中村是公が東京市長に選任されたことは、後藤の援助のたまものとして中村の同窓としての感謝状。及び電
気局長大道の留任依頼。
後藤の著書の趣旨に従って書いた別紙の御査収を願い。
面会できたことと、その際に記念写真を賜ったことの礼状。
ハルピンから、学校の近況報告。
今朝大蔵大臣が小田原に出発する際に、山陰・山陽連絡線に代わる軽便鉄道と静岡県下の軽便鉄道につい
てこの際解決するように後藤に申し上げるよう命じられたこと。
政情は1日も等閑を許さない情況、原首相は外交彙報問題提出に狼狽し解散を決定したと解釈できること、世
人は解散をもって政府の勝利と見込んでいるが、解散は政府の窮地であり、今後追撃は政府の陥落と確信し
ていること、後藤の責任は重大であること。
政府の政策の行き詰まりが現実に暴露され、最早現政府の救済策では到底緩和できないこと、国民に新しい
希望を与える新しい内容の政策を組織するしかないこと、阿川の親戚の細川省三が選挙に出るので応援して
ほしいこと。
朝鮮の鉄道の件につき愚弟長島弘を差出し、恐縮ではあるが引見してご高配を賜りたいこと。
友人小田政賀の紹介、会見依頼と堀内竹尓の著書の紹介のこと。
東京土地住宅株式会社取締役三宅勘一を紹介し会見を願いたいこと、三宅は土地経営に関し天才で、土地
を分譲し小住宅を提供する事業をしており、今般近衛などの土地分割引受について都市住宅経営の特殊方
針を有し、後藤の指導を仰ぎたいこと。
新聞記者須田吉禰の拝顔を依頼、同氏の実弟は今年電車により負傷するなど同情すべき事情にあること。
大日本崇祖協会理事長の桑原馬之助の引見を依頼。
最近出版された「人気ノ焦点に立てる後藤新平」宣伝フィルム作成のため、米国パラマウントの撮影技師に適
宜の機会に撮影を許可願いたいこと。
佐藤氏の対露通知の件、3ヶ月の仕払い猶予の条件は是非朝鮮銀行の援助を必要とすること、その場合、不
動産見込担保という特典にあずかりたいこと、大蔵省財務局長にも一応の諒解を得ていること、鈴木朝鮮銀行
副総裁に対し佐藤から対露取引開始に関し申出ること等、後藤の理解と配慮がほしいこと。
鷲見行正の紹介状。岐阜県で後藤が講演する件について指図を仰ぐこと、同県代表として鷲見行正なる者が
おり、自分の膝元の青年のなかでも有為の者であり、中橋方面の事情にも精通しており、横田とも隔意のない
間で、特に山本伯側との接触も密接であるなどして会見を願い出ていること。
封筒のみ。
帰朝後懇談の機会もないので、後藤との会見を切望していること。
後藤の出発後、例の件について御下命の旨を含み寺内陸相に面会し詳細に事情を伝えたこと、本日桂首相
に面会し航海会社監督の件について伝えたこと、電気事情について本日議会で議論となる予定であることな
ど。
韓国行きについては千思万考の結果辞退したこと、このことを直に山県に申し上げて置くこと。
イタリア視察中、イタリア政府から異数の厚遇を受け、訪問先にも政府高官が同行するなどしており、後藤から
東京駐在のイタリア大使に感謝を表明しておいてほしいこと、イタリア視察の状況報告。
山県公への書面を別紙草稿の如く認めたので、高批を請うこと。
来翰
仲小路廉
なかしょうじれん
2010/10/15
来翰
来翰
来翰
中田敬義
永田天丁
永田秀次郎
なかたたかのり
ながたてんちょう
ながたひでじろう
(6月5日)
1928/8/5
(大正4年)7月4日
来翰
永田秀次郎
ながたひでじろう
(大正8年)6月24日
来翰
来翰
来翰
永田秀次郎
永田秀次郎
永田秀次郎
ながたひでじろう
ながたひでじろう
ながたひでじろう
(大正)8年8月2日
10日
(昭和2年)10月13日
来翰
来翰
来翰
来翰
永田秀次郎
永田秀次郎
永田秀次郎
永田秀次郎 長尾半平
池田宏 前田多門
2010/2/10
2010/10/7
30日
1923/1/26
来翰
来翰
中野正剛
夏秋亀一
ながたひでじろう
ながたひでじろう
ながたひでじろう
ながたひでじろう なが
おはんぺい いけだひ
ろし まえだたもん
なかのせいごう
なかばかめいち
2010/10/13
(明治40年)9月10日
来翰
夏秋亀一
なかばかめいち
(明治41年)1月29日
来翰
夏秋亀一
なかばかめいち
(明治41年)2月8日
来翰
夏秋亀一
なかばかめいち
(明治41年)2月13日
来翰
来翰
夏秋亀一
夏秋亀一
なかばかめいち
なかばかめいち
2010/4/30
2010/9/24
来翰
来翰
中橋徳五郎
中橋徳五郎
なかはしとくごろう
なかはしとくごろう
(明治39年12月6日)
2010/2/7
封筒 巻紙墨筆
実は何のことやら頓と相分からず、自分からは誰にも何も話していないこと、近来当局者を初めとして軽率無
謀の挙動多く、加えて浮説流伝甚だしく、当分内外の威信を失する事が少くなくないこと。
封筒 便箋墨筆
漢詩一首。
郵便書簡墨筆
巡査看守普通文官養成所 雑誌「青年立国」誌上廿九頁乃至三十頁の後藤翁讃美記事は同社編輯部全員
が不掲載としたるを小生が全員を説き掲載するに至りたるもの等。
封筒 巻紙墨筆
①東京実業公論記者の中村杏堂の身元調査については、住所などから本人と確定できず、警視庁に問い合
わせたこと。②京都市上京区聖護院町在住と称し、東京実業公論京都出張員と称する中村杏堂の身元報告
で、同場所は大学病院の敷地となり、同人物も居住していないとのこと。
封筒 罫紙ペン筆 便箋 支那情勢については、四国借款問題でこのままではアメリカの後塵を受けるだけであり、断乎たる方針が必要
なこと、 米価については、米騒動の再発は労働問題と関連する可能性があること、政変については後藤内閣
の可能性が高いことなど。
絵葉書
同盟罷業、新聞も印刷工場ストライキにより発行できず、米価も高く昨年の再発か、政界は「既成政党ヲ置キ
去リ」の形勢であること等。
巻紙墨筆
「大大坂新聞」の横山三郎の件で福本日南ともに一度後藤と会見したいので、後藤の都合について問合わ
せ、なお自分は午後2時に日本倶楽部で横山と会見の予定があること。
封筒 罫紙ペン筆
一昨日ハルピン到着、朝鮮視察は、山は青く朝鮮人は勤勉で将来に光明をみたこと、「朝鮮文字」のこと、斎
藤総督は明年大典までは異動しない観測が多いこと、満州は支那人にとっての問題解決の地であること、満
鉄社長の去就が国内政治と連動していることへの批判など。
封筒 便箋ペン筆 名刺 高等学校時代の学友海軍主計少将林好郎の紹介状。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
宿泊費の支払に関して申し上げたことは当方の全くの誤解であったこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤がヨッフェを招いたことについて、日露協会長として保養のため別荘を提供したに過ぎないこと、政府は
交渉成否の全責任を後藤に帰せようとしていること、ヨッフェの交渉目的は通商に限られたものとは考えられな
いこと、故に後藤が第三者的立場に終始し、積極的な提案などをしないように忠告すること。
封筒 巻紙墨筆
佐賀県唐津町長陸軍少将杉山正則の紹介状。
封筒 洋紙ペン筆
ウイレンキン氏は12月下旬に帰国するので後藤が会見することが望ましいこと、ロシアに対する注文について
逓信次官と面会し次官の指定した鉄道事務官平井総裁と面会したとこと、寺内陸相と面会した際、ハルピンの
製粉所を入手すればアメリカ小麦粉の輸入を防ぎ結構なことと発言していたことなど。
封筒 罫紙墨筆 便箋 後藤の病気見舞、満州小麦代価については菊池に申し送ったこと、印紙については横浜の外国人が自分の
帰朝を待っていること、ロシア政情について社会党は硬派と軟派の対立が激しく、立憲民主党は社会党と協
調など政界活気が出てきたこと、バルカン・ドイツ・ポルトガルの政情にについて。
封筒 罫紙墨筆 便箋 ロシアの蔵相と会見した際、後藤の健康、条軌、日露貿易についてたずねられたが、日露貿易については後
藤の教示を受けた上で蔵相には意見書を出したいこと、ロシアの外相と駐日公使の更迭の可能性などロシア
政府内の動向について。
封筒 罫紙墨筆 便箋 ロシア政府外相と面会し、後藤が病気のため出発が遅れる旨伝えたこと、逓信大臣に面会しロシア・ドイツ・オ
ランダ三国の「積卸ナシニ荷物ヲ運送スルコトニ関スル露普両国政府ノ合意書」を入手してこと、東清鉄道長
からハルピン東清鉄道用工場の図面を得たこと、台湾茶のロシア輸出に関することなど。
封筒 巻紙墨筆
友人の川久保は外交について研究しており、後藤が尽力しているロシア問題についても参考になると思われ
るので引見してやってほしいこと。
封筒 便箋墨筆
日本を衰敗から救う道、東洋永遠の平和を確保する唯一の方法はシベリア問題の解決であること、国際関係
も目下好機であること、ただ当局者が党内問題にだけ熱心で国家百年の大計を顧慮する余裕がなく頭脳もな
いこと。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
中村次官と今朝面会したが、渡台前にもう一度後藤と面会したいこと。
69
来翰
来翰
中村啓次郎
中村是公
なかむらけいじろう
なかむらこれきみ
2010/1/17
1907/6/26
来翰
中村是公
なかむらこれきみ
1907/7/12
来翰
来翰
中村是公
中村是公
なかむらこれきみ
なかむらこれきみ
(明治40年8月)3日
(明治40年)9月7日
来翰
中村是公
なかむらこれきみ
(明治41年)5月29日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
中村是公
中村是公
中村是公
中村是公
中村精七郎
中村雅治
なかむらこれきみ
なかむらこれきみ
なかむらこれきみ
なかむらこれきみ
なかむらせいしちろう
なかむらまさはる
(明治41年)9月15日
2010/9/10
13日
15日
(大正7年)1月19日
(明治36年10月)24日
来翰
来翰
来翰
中村弥六
長与称吉
長与称吉
なかむらやろく
ながよしょうきち
ながよしょうきち
明治(20年)9月15日
(明治20年)11月29日
来翰
来翰
来翰
長与称吉
長与称吉
長与称吉
ながよしょうきち
ながよしょうきち
ながよしょうきち
2010/12/15
2010/11/3
14日
来翰
長与称吉
ながよしょうきち
来翰
来翰
長与専斎
長与専斎
ながよせんさい
ながよせんさい
(明治10年)12月8日
(明治24年)3月31日
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
至急面会の要請文。
奉天の街路・市場・道路・農事試験場などの視察、奉天将軍の顧問訪問、日本官民に対する厳しい評価、清
国人の現在の国家感、居留民による種々の犯罪の多発と犯人未逮捕などを記し、内地人の言動・顧問の実
力を重要視し日本統治の実態に危機感を抱いていることなど。
封筒 罫紙墨筆
関東都督府民政長官中村是公が、萩原総領事から都督への租借地の産出塩を東三省が輸入する問題につ
いての電文(7月11日発電)、同問題に対する都督からの返電(7月12日発電)、都督から外務大臣への電文
(7月12日発電)の写しを後藤に送付すること。
封筒 罫紙ペン筆 名刺 防穀令関係の電文等を送付すること。
封筒 罫紙ペン筆
顧問より別紙電文を受領したこと、顧問より都督巡視の際の訓示を種々受けていて、都督通過の沿道には清
国人も各戸ごとに国旗を掲揚するように厳令されたのに、その内訓を発することを忘れてしまったことなど。
罫紙墨筆
満鉄の社債について、募集は興業銀行手数料は大蔵省において前回の半分とするなどの内意があったこと、
その後添田総裁より前回通りの申し入れがあり、若槻次官からは大蔵省に電文が届き手数料は4分の5となっ
たこと。
封筒 罫紙墨筆
後藤の思召しの通りに、佐藤・龍居を同伴して徐総督へ伝えたこと、満鉄に対する総督の感想は後藤の在職
中と全く異なることがないことなど。
封筒 便箋鉛筆
大島が督撫の説得に乗り出しているが、袁世凱が外務尚書となったこともあり、督撫の立場も困難とあること。
封筒
封筒のみ。
罫紙ペン筆
北京訪問に際し後藤の配慮に感謝し、伊集院公使との面談内容について意見を求めること。
封筒 巻紙墨筆
石炭会社経営者として東北・北海道における採炭事業への援助依頼と、理化学研究所の総裁就任を要請す
ること。
封筒 巻紙墨筆 半紙 昨日の赴任に際し、後藤より1400円を恩借して渡台したが、放蕩をし負債を増やしたこと、金策に失敗し公金
費消の罪により犯罪者となっておかしくない自分を依願免官扱いとされたことに対しては、感謝のほかないこ
と。
封筒
封筒のみ。
便箋ペン筆
御多忙中熊々沙氏方へ談判の手掛を開くことは、成るべく速成を望むこと、岩佐は一昨日当地を出発し
ニュールンベルグを経る積りが、昨日また当地に引返してきたことなど。
便箋ペン筆
沙氏訣判一条に就き御地に出向くよう御来示があったが、目下窮乏かつ多忙であり、来週土曜日まで猶予し
てほしいこと、それまでには金策もでき、また土曜日ならば学校も欠席しないですむこと、老父も旧健に復し、
私立衛生組合の用事で福井石川両県に巡回していることなど。
巻紙墨筆
先日上京されたことは承知していたが、御多忙と考え失礼したところ、ウーロン茶など母の好物の土産をいた
だいたことへの謝辞。
便箋墨筆
老父母のために早く帰国してほしいこと。
便箋ペン筆
病後でもあり天候急変の時節柄一層の自愛を求めること、来月初旬に出発の予定もあり目下取込中であろうと
推察していること、協議会のことは後藤の高慮の通りであり異存はないこと、自分のドクトルテーマは申し出たも
のの未だおもしろいものが入手できず下調べ中であることなど。
便箋墨筆
①昨日から休暇演習が始まり、自分も電気療法その他の課ベレーゲン致し受験下調べで多忙であること。②
ローマにて開会の万国医学会へ大日本私立衛生会代表者として参会することが内決との由拝読、貴下の御
骨折に感謝、夏期休業中の両3ヶ月ローマに滞在して原始虫学を取調べる心得であること。
巻紙墨筆
日本の衛生事物が今日なお普及しないのは、衛生課に人を得ないこと、衛生について伝染病対策という認識
しかないこと、組織や規則が宜しく整っていないためであること。
罫紙墨筆
コッホの結核液に今日から大学でも試験に着手する委員は、ヘルツ・スクローバ・佐々木・青山などであるこ
と、病院の事は麻布を選び、小部分から始めて一大専門病院とする目的で治療研究所とする見込であること、
在官のままの留学は本年より中止、ロンドンの衛生デモクラシー会への後藤の派遣について。
70
来翰
長与専斎
ながよせんさい
(明治24年)4月11日
罫紙墨筆
来翰
長与専斎
ながよせんさい
(明治24年)6月5日
封筒 罫紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
長与専斎
長与専斎
長与専斎
長与専斎
長与専斎
長与専斎
長与専斎
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
(明治25年)3月11日
(明治26年)9月2日
(明治28年)3月18日
(明治28年)4月8日
(明治28年)4月17日
(明治31年)9月13日
(明治14年)1月27日
封筒 罫紙墨筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
長与専斎
長与専斎
長与専斎
長与専斎
仁井田益太郎
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
ながよせんさい
にいだますたろう
2010/2/4
2010/2/24
2010/9/8
2010/11/13
(6月)21日
便箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋
後藤新平伯伝記編纂会
用箋
後藤新平伯伝記編纂会
用箋
封筒 巻紙墨筆
来翰
新名直和
にいななおかず
2010/12/31
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
新元鹿之助
新元鹿之助
にいもとしかのすけ
にいもとしかのすけ
1923/9/5
(大正15年)2月18日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
西沢之助
西原亀三
西村輔三
西村輔三
西村輔三
西村輔三
西村輔三
にしさわのすけ
にしはらかめぞう
にしむらすけぞう
にしむらすけぞう
にしむらすけぞう
にしむらすけぞう
にしむらすけぞう
1927/4/23
(昭和3年)9月22日
(明治31年)3月19日
(明治31年)8月19日
(大正)11年5月7日
(大正)11年12月23日
(大正11年?)11月10日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
71
ドイツの結核液について、日本の大学などでもその効用について先月27日から試験が始まったこと、ドイツで
も反対論があるが日本でも真偽については時間がかかること、ロンドンの万国衛生会議に同じくドイツ留学中
で研究に従事している北里よりも後藤を出張せさたいこと。
ロンドン出張について、北里へは衛生会から依頼し取計ってもらうこと、専門病院については有志者もいたが
反対論のため有志者も謝絶に傾き、北里の帰朝を待つしかないこと、ロシア皇太子の大津遭難は文明国に留
学する者には面目ない感想を与えたことと思うこと。
息子の一件落着の顛末については詳細に報告していただき、一家の幸福は全く後藤のたまものであること、
私立衛生会と牛痘の生漿のことなど。
原文書なし。息子がサイゴンを出発し帰朝する旨の電報。
このたび陸軍の検疫の一件は、技倆を発揮する好機であることなど。
臨時陸軍検疫所で精勤していること、支那・南洋のコレラについて陸軍の準備がまた整っておらず、先に流行
していること、石黒も近く出発のことなど。
和議が整ったこと、澎湖島において第2の戦争が継続していること 検疫についての苦労を推察するとのこと。
台湾に新聞記者を派遣する件、また福沢翁とも相談する必要があること。
本月3日の新聞に掲載された後藤の医学校設立意見について、3県に1つの医学校を設立し、その長官も1人
が兼ねるという案に同意し、各県ごとに小規模な医学校を設けることには批判的であること。
肩胛の急性僂麻にかかったが、医師法案意外の大騒ぎとなり敗北すでに備わっているといえども今日覚悟の
登院をする。
原文書なし。大体の規模の定まり親展したが種々の曲折もあるであろうし今夕にも伺う。
原文書なし。案に対する北里の同意は大変幸である 早速評議会を開きたいので明後日10日の都合はいか
でしょうか、もし同意ならばそれぞれ通知するよう事務所へ命じてほしいこと。
原文書なし。昨日帰宅したがいろいろ申し上げたこともあるので明日詳しく話したいこと。
中村是公から鈴木商店の顧問にという依頼があり、その際鈴木の顧問となる以上は同時に三井の顧問である
ことは面白くないとの注意を受けたことを述べ24日に都市研究会の宴会で相談したいということ。
直和は今回放送局を辞任 自分は一昨年後藤の命を承けて本邦創始の新事業を担当した 後藤の抱負であ
る全国ラヂオ文化の民衆化をすすめるため、放送局の合同や放送地域の拡大計画も本年実行した 後藤新
平が放送協会の総裁に推戴しないことは遺憾 桑山次官は留職することを報じている。
内務大臣御栄任に対する祝詞および未曾有の大震害につき御憂慮拝察云々のこと。
後藤の健康伺い、小生は近来朝鮮鉄道問題に没頭、案を脱稿したので各大臣を訪問中。閣下にも御諒解を
得たいが御近状をうかがい差しひかえている。専ら鉄道協会にて一昨年来調査中であったもので、朝鮮鉄道
につき朝野識者の注意を引く計画にて不日貴衆両院の人物を招き説明する云々。
一昨年来、国民精神作興・産業発展に尽力中 お目にかかりたし 別冊進呈するので、お読みくだされたし。
金解禁を前にして、日本銀行改革論を著したので、高覧に供したい。
23日大阪ホテルでの宴会には、是非出席を願うこと。
愚児輔義の件、金を尊家に預けて無駄遣いさせないようにしてきたが、奥様も御渡台の事、近々引取に行き
たいこと。
養子好穂の件、離別するのも法律上問題が多く、世間にもみっともないので復籍することにしたいこと。
好穂の件、やはり離籍することにしたので、ご了承くだされたし。
40年以上歯科医として無事勤めてきたが、古稀となったので引退する。好穂が医業を継承しないので、今後
は医業との関係はなくなること。
来翰
新渡戸稲造
にとべいなぞう
(明治37年)5月20日
来翰
新渡戸稲造
にとべいなぞう
(明治37年)8月26日
来翰
新渡戸稲造
にとべいなぞう
(明治38年)6月11日
来翰
新渡戸稲造
にとべいなぞう
(明治)38年11月10日
来翰
来翰
新渡戸稲造
新渡戸稲造
にとべいなぞう
にとべいなぞう
(明治39年)5月29日
(明治40年)7月12日
来翰
来翰
新渡戸稲造
新渡戸稲造
にとべいなぞう
にとべいなぞう
2010/7/7
(大正9年)2月20日
来翰
来翰
来翰
新渡戸稲造
新渡戸万里子(メアリ)
新渡戸万里子(メアリ)
にとべいなぞう
(昭和3年)2月16日
にとべまりこ(にとべめあ 1906/7/27
り)
にとべまりこ(にとべめあ 1921/1/26
り)
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
新渡戸万里子(メアリ)
新渡戸万里子(メアリ)
新渡戸万里子(メアリ)
蜷川新
根津嘉一郎
根津一
乃木希典
にとべまりこ(にとべめあ 1927/11/2
り)
にとべまりこ(にとべめあ
り)
にとべまりこ(にとべめあ 1928/6/4
り)
にながわあらた
(大正7年)4月25日
ねづかいちろう
(昭和)2月25日
ねづはじめ
(大正)11月25日
のぎまれすけ
(明治30年)5月5日
来翰
野口英世
のぐちひでよ
1924/5/22
来翰
野口雄三郎
のぐちゆうざぶろう
(大正12年)9月(29日)
封筒 巻紙墨筆
3年来の後藤の配慮に深謝、台湾赴任を決定した最大の理由も後藤の人となりにあること。渡台後の自分の不
勉強をわびる。前京都大学総長より教授の話を受け自由な浮浪の身を望んだが、それでは後藤氏に対しても
面目なしとのことで転任を承諾するに至ったこと。先週から大学で殖民論を開講のこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤諭示の通り温泉療法をして伊香保に来て3週間となった。来月中旬まで逗留したいと。来週は大島直太
郎結婚の媒介のため3、4日上京すること。早川鉄治を介して友人赤壁次郎の就職依頼があり本人は長年北海
道支署長を勤めた人物であるとして後藤に新渡戸から願い出ていること。
封筒 巻紙墨筆
昨晩おそく号外が来て日露講和談判開始を伝えていたこと。その時実業家団体に講演中であったが演説を
忘れてしまったこと。後藤の起案した稿を拝読して一層敬服したこと。今朝の新聞によれば竹越氏が渡台した
こと、自分も来月初旬渡台したいこと。石塚一行の当地通過につき一行を見送ったこと。
巻紙墨筆
文部省監督以外の中学校設立の御目論の由拝読、失敗するやの御疑念は尤もであるが、理想ありて失敗す
るは理想なくして成功するよりはるかに優れた義と考える。ブライアン氏大学に来り演説。氏の論旨は理想なき
人は人生の真味を知らざるというにあり。
巻紙墨筆
男爵御受のこと新聞にて拝見。小生奉天にてチブス嫌疑で就床中。満州での調査は案外捗り、予期以上の
結果。今回の使命で特に得た点を記す。
封筒 巻紙墨筆
昨日米国より書状到来、御令閨様も頗る御壮健御旅行の御様子 堀基氏銃器製造会社設立の計画あり、村
田将軍も大いに賛成とのこと。同人は、いつにても御地に罷越し計画を言上したいとのことなので、もし御引見
の思召あらば小生まで御通知下されたし。
封筒 巻紙墨筆
この書持参人は昨朝お願いした電気工学志願の上田大助氏にて一応御面会下されたし。
封筒 便箋ペン筆
東京内田子爵宛書簡の転送。秘書原田健去16日無事着任。拙者は連盟代表として万国赤十字社大会出席
のためスイス出張。在シベリア独・墺・俘虜返還問題。現在当国ではセシル卿など国際連盟に関する宣伝活
動が頗るさかん。本邦においても国際連盟協会を成立させ、この運動に御援助をお願いしたいこと。
封筒 巻紙墨筆
小生同郷人実業家中村氏紹介 数分間御面会下されたし 用件は主として水沢にある銀行に関すること。
封筒 便箋ペン筆
本文英文 児玉源太郎の死に関し後藤をいたわる内容。
罫紙ペン筆
東京市長に就任されたことを昨日知る。帝都の事務を改善するには後藤以外ないが、多大の困難を伴うことを
想像し同情にたえず。私共は当地にて鶴見夫人の親切かつ愉快な話を承った。夫は当地の日本人が相互の
利益のため小団体を作るころを希望。ジュネーブ、シャンペル・ベオ・セジュー・ホテルにて。
封筒 便箋ペン筆
後藤の新渡戸夫妻に対する友情と親切に感謝する内容。
巻紙墨筆
此書持参の橋本清慎氏は旧南部藩士にて警視庁警部を奉職、小石川勤務にて毎々拙宅を親切に訪れる人
物にて、是非貴殿に面会したいとのことにて紹介する。
便箋ペン筆
後藤の誕生日に対し記念品を送る内容。
封筒 巻紙墨筆
国家の大事を解決するのは実質的外交政策家なので、国家のため御栄任を祝す。
巻紙墨筆
根津初め5名方の寄付金1万円を送付 工業倶楽部費用は私より支払うこと。
封筒 巻紙墨筆
地方官に対する敬神に関する御訓示感服、幸徳事件に関する卑見を述べた意見書を同封するので、お読み
くださいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
台湾中央衛生会の建議により台北市区計画委員会を置き台北市街の区画を定め、衛生上の施政につき完全
なる計画を立てしむべき筈。市区計画上の御意見を承りたい。台湾の衛生行政については御考案を要するこ
とではあるが今後は各種の問題について便宜上主任官に直接協議するので御含置下されたし。
封筒 便箋ペン筆 名刺 今回ロックフェラー財団内万国衛生局主任休職軍医少将General Frederic F.Russell博士が日本公衆衛生の
為め尽力したき考えにて渡日せられ候ニ付紹介したい。ロ氏財団事業が欧州南米支那等より日本にも拡張せ
んとの意見は国際的の立場より相好ましき事と存候云々。
封筒 便箋ペン筆
震災時の活躍につき激励。
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来翰
来翰
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来翰
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野口雄三郎
野口雄三郎
野口雄三郎
野田豁通
野並慶定
野村徳七
野村素介
野依秀一
野依秀一
野依秀一
野依秀一
野呂寧
野呂寧
橋本徹馬
のぐちゆうざぶろう
のぐちゆうざぶろう
のぐちゆうざぶろう
のだひろみち
のなみよしさだ
のむらとくしち
のむらもとすけ
のよりひでいち
のよりひでいち
のよりひでいち
のよりひでいち
のろやすし
のろやすし
はしもとてつま
(19)28年3月26日
1929/1/30
(明治40年)2月14日
(大正4年)4月15日
(大正13年)7月25日
1920/6/16
(大正12年9月8日)
(大正12年)9月11日
(大正12~13年)
(大正9年)4月12日
(大正9年)11月7日
(大正12年)4月7日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
橋本徹馬
橋本徹馬
長谷川謹介
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
はしもとてつま
はしもとてつま
はせがわきんすけ
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
(大正13年)1月14日
2010/2/4
(明治39年)12月2日
(明治25年)12月7日
(明治26年)3月30日
(明治26年4月)14日
(明治26年)4月26日
(明治26年)5月1日
(明治26年)5月6日
(明治26年)5月6日
(明治26年)5月12日
(明治26年)5月13日
(明治26年)5月13日
(明治26年)5月24日
(明治26年)5月25日
(明治26年)5月27日
(明治26年)6月11日
(明治26年)6月11日
明治26年6月20日
(明治26年)6月21日
(明治26年)6月21日
封筒 便箋ペン筆
便箋ペン筆
便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
便箋ペン筆
封筒 原稿用紙ペン筆
封筒 原稿用紙ペン筆
封筒 原稿用紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
(ドイツ語)来日のこと
ゾルフ氏は、森孝三氏と友に三宮まで送った 私はドイツ外科学会で講演し、そのまま欧州にとどまるつもり
日独協会の辞令を下さればありがたし云々。
東上中の御厚意感謝 例の福岡の僧主高鍋日統に邂逅、コロンパイル、露蒙国境域問題に論究、三十年前
の理想が実現しつつあり、感激云々。
東洋貿易運輸会社設立の件、満州で外国人に負けないよう活動したく、有力な出資者をさらに募りたい。
金杉氏との紛議に関する新聞紙上の論説は迷惑千万、金杉氏を告訴することについて。
伊藤・山県両公の巻、小包にして発送したこと。
封筒のみ。
獄中から出所、閣下よりの励まし感謝 私と鈴木商店との噂は嘘 これからは政治で活動したいこと。
閣下はこの際、大任につかれ、天才的手腕を発揮してほしい また内務省の仕事を少し回して欲しいこと。
実業家は震災に対し、内閣の果断の措置をほめるとともに、遷都には反対 より大規模な築港を望んでいる
また火災保険が心配 自分は出獄してから、横田千之助が閣下を称賛。
天災に際し、天才的手腕を発揮して欲しい。私は「特別人事通信」を発行しているが、これも閣下のため役に
立てたいので、是非面会したいこと。
第15回台湾土地調査紀念総会への寄付金感謝及び同会の情況報告。
お申し付けの台湾土地調査に関する諸法規類、別便にて発送したこと。
ロシア承認問題で政府が煮え切らない時は、尾崎行雄先生と提携し、自分や鈴木、山田君らが大活動し、機
運を盛り上げるという方法は如何 私の選挙区の件も松木先生にお願いしてくださいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
閣下は山本内閣での失敗を挽回するため、今後は30歳前の青年と共に歩むと宣言してほしい。
封筒 巻紙墨筆
鈴木君より意見書拝見 これよりも英国労働党のロシア承認問題を捉えて所感を発表される方が時宜にか
なっていると思われること。
封筒 巻紙墨筆
小生婿中浜慶三郎、満鉄海運部に就職したし 是非面会してほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
漢方医継続問題は衆議院に提出、私はその内一大演説も試みたいこと。
巻紙墨筆
常置検疫規則に関し衛生局長である貴兄の意見と内相の意見とはどうなのか。
封筒 巻紙墨筆
北里氏辞任、しかるべく取り計らって欲しいこと。
封筒 巻紙墨筆
伝染病研究所名称変更は補助金を打ち切られるなどの理由で、反対。
封筒 巻紙墨筆
伝染病研究所への芝区の反対は、高木兼寛・末松謙澄の扇動で本当に困ったもの。
巻紙墨筆
伝染病研究所の件で、長与君が高木と連合していることは明らか 自分は別に計画するところあり、全国の有
志と進めていくつもり。
巻紙墨筆
伝染病研究所の件で至急お会いして話したい。
封筒 巻紙墨筆
私立衛生会での演説の件、長与と高木の伝染病研究所への反対はすでに明らかなこと。
封筒 巻紙墨筆
明日の会議、欠席の場合もあるとのこと。
巻紙 封筒
伝染病研究所の件、せっかく議会を通過したのに、大将の長与翁が降参しては困ること。
巻紙墨筆
公園内の北里氏病室放逐の件、市参事会の意向を福沢氏より知りたし。
巻紙墨筆
27~29日は先約あり、この日は避けて欲しい。
巻紙墨筆
伝染病研究所の件、このまま東京知事、内相、衛生局長の意見が違うときはこれを世間に曝すつもりとのこと。
封筒 巻紙墨筆 和紙 長与氏・高木氏と対立する自分は、大日本私立衛生会の役員を辞任する 別紙辞表あり。
封筒 巻紙墨筆
先に提出した辞表に不手際があったら、お知らせ下さいとのこと。
半紙墨筆
大日本私立衛生会評議員辞任願。
封筒 巻紙墨筆
私の大日本私立衛生会役員辞任の件、至急お取り計らい下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
伝染病研究所の件に付役員会開催の趣、しかしその議題が書かれておらず、お教え頂きたい。
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来翰
来翰
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長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
(明治26年)6月24日
(明治26年)6月29日
(明治26年)7月1日
(明治26年)7月2日
(明治26年)7月2日
(明治26年)7月8日
(明治26年)7月13日
(明治26年)7月14日
(明治26年)7月26日
(明治26年)8月1日
(明治26年)8月2日
(明治26年)9月10日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
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長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
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(明治26年)9月13日
(明治26年9月)16日
(明治26年)9月21日
(明治26年)9月23日
(明治26年)9月23日
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
(明治26年)9月24日
(明治26年)9月25日
(明治26年)9月26日
(明治26年)9月26日
(明治26年9月)27日
(明治28年)6月18日
(明治30年)10月7日
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
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来翰
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長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
(明治38年)7月5日
(明治38年)12月14日
(明治41年)11月19日
(明治42年)2月2日
2010/2/5
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
芝区紛擾の原因は、私立衛生会役員の処置の失敗にある 我々兵卒が戦っているのに、大将が降参しては
困る ついては副会頭並びに幹事の意見を聞きたい。
例の件につき、東京府知事は内相へ如何なる応答をなしたのかお教え下されたし。
鈴木良輔は松山棟庵を訪問した由、彼らの奸策には注意されたし。
島田氏へ廻すようにお願いした書類はその必要がなくなった 今後は伝染病研究所の件については反対の
位置に立つので、弁護の必要なし。
伝染病研究所無用との運動に対し、それならば我々は議会を動かして国庫補助金をとる運動をするつもり。
来る16日演説会では小生の持論を展開するつもり。ついては衛生会趣意に戻る点あれば小生は退会するつ
もり。
芝区談判の件は、正副会頭はむしろ責任を下の者に負わせる方が得策であること。
妻病気のため、会合は欠席するつもり。正副会頭は該件には関係しない方がよく、このことを長与翁に伝えて
欲しいこと。
伝染病研究所の件に付き、星亨、曽根(祢の誤りか)、川島、犬飼(養の誤りか)と会合、いずれも北里にその
任を尽くさしめるよう支援するということ。
別紙の私の退会届を土方会頭へ貴兄より提出して欲しい 真の退会の理由は、長与翁へ述べるつもり。
この度の一件では、長与翁等には相済まず、今後は一切伝染病には関係しない決心とのこと。
伝染病研究所遂に建設に決定 もし愚論に流されて、お流れになったならば、国会議場に於て医事衛生は一
切排斥せられることになり、政府の信用問題ともなるので、早く着手してほしいとのこと。
病気のため昨夕拝趨せず失礼とのこと。
伝染病研究所補助費建議案、提出者8名の他175名の賛成で提出したとのこと。
赤痢が流行しているが、小生にも尊君や長与翁から会合出席の勧誘を中浜君より請けたが、職務外なので欠
席すること。
伝染病研究所補助費刪減に付き、我々有志も検討しているので、土方や長与と会って協議してもよいこと。
長与・土方は今も芝区の人間と伝染病研究所建設に反対している 今度の私立衛生会における私の演題を
「大日本私立衛生会正副会頭は衛生上否な四千万同胞の大罪人なり」とすることにしたこと。
無事出産慶賀 衛生会演説に付き、御示教感謝とのこと。
衛生会での演説の題を変更した。中央会には演題により欠席したいとのこと。
大日本私立衛生会役員は芝区の連中で共謀しているので、30日の常会での演説はお断りするとのこと。
大日本私立衛生会役員は芝区の連中で共謀しているので、30日の常会での演説はお断りするとのこと。
すでに退会して数ヶ月になるのに、評議員会開催通知や雑誌が送付されてくるのは如何 30日の常会での
演説はお断りするとのこと。
自分も中郡長候補を辞し、錦地へ漫遊致したし 広島の鴈斯は美味しいとのこと、値段などを教えて欲しいと
のこと。
(明治3年8月学事取調を初めとして医科大学設立に尽力するも長与に排斥されるなどの長谷川の経歴あり。)
この自分を文部省より候補として推薦するならば総理など周旋人もあり是非とも提出してほしいとのこと。
大山巌の奉天会戦についての詩を送るので、咜正してほしいとのこと。
満州軍総司令部児玉大将へ呈する詩をお送りする 別紙漢詩文あり。
今朝お会いしてお願いした件、ご承諾くだされ感謝 来る23日の撮影よろしくお願いしますとのこと。
挨拶、漢詩を送る。
雑誌に大光栄の記事感謝、九鼎大品より重きを加之ありがたしとのこと。
74
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
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来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
長谷川泰
服部一三
花井卓蔵
花房義質
浜口雄幸
浜口雄幸
早川鉄治
早川鉄治
早川鉄治
早川鉄治
早川鉄治
早川鉄治
早川鉄治
林市蔵
林市蔵
林市蔵
林市蔵
林市蔵
林市蔵
林権助
林権助
林権助
林権助
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はせがわたい
はっとりいちぞう
はないたくぞう
はなぶさよしもと
はまぐちおさち
はまぐちおさち
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやかわてつじ
はやしいちぞう
はやしいちぞう
はやしいちぞう
はやしいちぞう
はやしいちぞう
はやしいちぞう
はやしごんすけ
はやしごんすけ
はやしごんすけ
はやしごんすけ
2010/3/13
2010/7/28
2010/7/30
(明治26年)6月20日
(明治30年)7月30日
1913/1/14
(明治41年)7月21日
(大正2年)11月22日
(大正12年)7月27日
(明治)8月8日
(大正6年2月)27日
(大正7年3月)23日
(大正10年1月)14日
2010/9/15
18日
23日
(明治41年)7月18日
(大正7年)6月27日
(大正7年)11月27日
(大正)1月15日
2010/1/6
2010/6/19
(明治39年)11月15日
(明治41年)1月14日
1918/6/3
1918/6/16
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来翰
来翰
来翰
林茂香
林茂香
林茂香
林田亀太郎
はやししげか
はやししげか
はやししげか
はやしだかめたろう
1922/5/14
(昭和2年)10月12日
(昭和2年)10月16日
(明治38年)3月23日
来翰
林田亀太郎
はやしだかめたろう
(大正6年)8月29日
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
地面売却と否とを問わず、市村座興業は衛生会の威信に関わるので、中止させたい 不問に付しては、地面
購買者もそれにならい、本会を蔑視するであろうとのこと。
小生の小児はチフスにて明夕集会は欠席するとのこと。
明朝にも十分御懇話下され、その結果次第では小生は私立衛生会脱会の決心でありますとのこと。
大日本私立衛生会役員は辞任することにした 前に差し上げた辞表の字句を訂正して提出することにするこ
と。
高野長英履歴取調に付、ご教示を願う 郡長更迭云々は慎重を要するとのこと。
封筒のみ。
御無音のおわびと病気見舞。
『政党社会学』『独国ハンザ同盟大要』の恵贈下され感謝 京阪等出張のため、あいさつせずに失礼とのこと。
小生への任官祝いに感謝 多忙のため書面で失礼とのこと。
友人赤壁二郎紹介台湾に就職周旋依頼。
昨夕土肥竹二郎帰京御全快之由重量、小生今回犂候補断念 中立団体選挙事務所を設け全国中立団体事
務統一化を企図。
2月の日本及日本人に閣下の名節を汚す記事あり 匿名は卑しむべし 小生駁論を試み度置考 弁護の用意
あり 多勢の子分中此事なきを遺憾とのこと。
高著「自活生活之新精神」拝読、東京市長として同精神にて面目一新を願う。
友人村上貞一政治に関する用件にて紹介。
友人木原猷明著作『朝鮮忠清道論山の発展史』の題辞御染筆を願う 福井三郎只今下関より帰京先日の話
を突留め参上するとのこと。
同郷人塩見平之助著作『元始儒教宜聞』に序文寄稿を乞うとのこと。
逓送就任祝い 御入閣は即新政府之気概を看取して余ありと存在候祝詞を呈す云々。
御内政手伝の件はその後松田専心調査罷在松田は意外にその辺は注意周到にて折々相談云々とのこと。
御来阪により公会堂の御演説は乍失礼上出来の批評に有之多大の益を貽し候。
淀川改修ご英断により速に解決の御方針を拝し府民一同感謝 大阪と中央政府との間に接近を見るは何れ
の内閣に於ても必要なりとの卑見に有之申候。
新年奉賀 辞表提出の事実に遺憾 折角の復興、御計画中の策云々とのこと。
本山君と協議確定の案お互に考えると申して別れ候につき御承知下され度とのこと。
「時事新報」亀井陸良紹介 待遇等内田と相談決定されたし 関外・長春鉄道改築後業務改良必要とのこと。
病気御見舞 鉄道、日本の施政に付世人小言あり 戒心を要す 清国改革論帰着する所なき状況慶親王の
決断無き態度は遺憾とのこと。
江庸氏(元司法総長)、在日本支那留学生監督就任につき紹介とのこと。
西原亀三来燕 御華示の件 小生に於て邪魔するつもりなし ただ手段方法の不公明は物議をかもさん 段
内閣も曽汝霖はいるが重みに欠け前途有望でない 大総統選挙問題 近日芳沢帰朝お聞を乞うとのこと。
封筒 罫紙墨筆
長年の御庇護感謝 写真呈上。
巻紙墨筆
閣下の大病に際し治癒祈願として茂香の写真を呈上とのこと。
巻紙墨筆
御病気の由のところ、「毎日新聞」にて来月10日頃渡露とのこと大安堵とのこと。
封筒 巻紙墨筆 和紙 ①同県人臨時台湾土地調査局属立山延安本年度にて失職とのこと郵便局などへの奉職配慮を乞う。(3月23
日) ②弟林田太郎神戸鈴木組に奉職ご配慮を願う 同封林田太郎履歴書 大正10年まで(2月13日)。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 ①京釜鉄道改良工事に付歎願書添状 請負人総代白川友一より提出、又下生より閣下に陳情、全国の請負
業者も来月4日に大会を開催(巻紙) ②京釜線改良工事に関し嘆願書、大戦による物価騰貴のため請負全
額の増額を乞う 大正6年8月26日 鈴木太郎吉他5人(青罫紙)。
75
来翰
林田亀太郎
はやしだかめたろう
(大正6年)12月22日
来翰
来翰
来翰
来翰
林田亀太郎
林田亀太郎
林田亀太郎
林田亀太郎
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
(大正9年)12月14日
(大正12年)1月21日
(大正12年)3月17日
(大正12年)5月19日
来翰
林田亀太郎
はやしだかめたろう
(大正12年8月20日)
来翰
来翰
来翰
来翰
林田亀太郎
林田亀太郎
林田亀太郎
林田亀太郎
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
大正12年10月24日
(大正12年)11月17日
(大正)3月8日
(大正12年)9月12日
来翰
来翰
来翰
来翰
林田亀太郎
林田亀太郎
林田亀太郎
林董
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしだかめたろう
はやしただす
(昭和元年?)12月29日
(大正)4月12日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
林有造
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田二郎
原田祖岳
原田祖岳
はやしゆうぞう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだじろう
はらだそがく
はらだそがく
2010/12/21
(大正)3月7日
(大正)6月4日
(大正)6月7日
(大正)7月31日
(大正)10月10日
(大正)12月24日
(大正)2月6日
(大正)3月23日
(大正)3月30日
(大正)7月9日
(大正)8月19日
(大正)10月2日
2010/10/11
(昭和3年)5月27日
(昭和4年)3月22日
(大正11年10月27日)
1925/11/20
(大正12年)12月12日
封筒 便箋墨筆
熊本の高木弟四郎上京面会を乞う 同人は選挙違反で久しく入獄、高松事件の残党来25日大審院で判決あ
り、判決確定すれば自分は3年間の浪人を終え世間に乗り出すつもりとのこと。
封筒 巻紙墨筆
都市研究会の講演欠席。麻布・赤坂の部に出席を望む。
封筒 巻紙墨筆
三党首之妥協筋書通りに運び大慶 善後策失敗すれば仏作って魂の入れざるような類であるから一段の尽
力を乞うとのこと。
封筒 罫紙墨筆
革新クラブの外交通中野正剛明朝参上とのこと会見を乞う 時刻は直接通知ありたし。同氏は日露修交決議
案を議会に提出の予定とのこと。
封筒 巻紙墨筆
対露交渉進行同慶、一昨夕内田康哉氏より露国問題やや可能性が出てきたと聞く 軍縮の山本安夫氏より来
26日の大会にて演説されたいとの意向あり 同会は露国承認与論喚起に尽力とのこと。
封筒 罫紙墨筆
日露交渉一段落、華府会議の批准も済み近々首相掛冠は目熱のなりゆき人心未た政友会に可ならず反対勢
力十分ならざる以上 後継内閣は政党以外は必然閣下の自重を望む 内田康哉。
封筒 巻紙墨筆 便箋 2通同封 ①別紙供覧 12月8日 ②衆議院選挙法調査会配付書類全部恵贈 大正12年10月24日 。
封筒 便箋墨筆
横浜市長問題に付鈴木代議士参上陳述の予定 東拓に関しては安斎氏伺候、藤本光安は風教局設置の建
議紹介。
封筒 巻紙墨筆
揮毫御礼。
封筒 和紙墨筆 便箋 ①小生老いたれども多少働きたし〔別紙〕報告。
②赤坂区役所震災対策概要報告、同区は六班に分ち在郷軍人をして配給を任す、名誉職に関係させるのは
軍人の喜ばざる所、ただし町会の存在する所二、三ヶ所は直接配給。
③小名木川の豪農藤本に其筋より米5000俵交付、藤本の手を経て受取ることいかがかとのこと。
封筒 罫紙墨筆
前田氏と会見の件、今朝は日高氏来邸。閣下と前田氏会合の相談、日高の言に前田の閣下と結び付けんと
の希望は、来議会安全の為め、又閣下内閣組織の時の為め。
封筒 便箋墨筆
鈴木代議士より横浜市長渡辺氏辞任、後任について。
封筒 原稿用紙墨筆 政本提携への尽力は「政治の倫理化」の一選択、更に政本憲の三頭首を結束を希望とのこと。
封筒 巻紙墨筆
第3回英国殖民地代表会議開催 「タイムス」によればこれは属邦と母国との関係を緊密にし帝国主義を完成
させんとのことチェンバレンの保護貿易論および会議の決議を見て知るべしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
2通同封 ①本年は困難なく予算通過を期待、同県人片山要三郎に付紹介 12月21日(巻紙)②拝借の第1
号返却 2月16日(巻紙)。
封筒 巻紙墨筆
挨拶状、物産贈呈。
封筒 巻紙墨筆
物産贈呈。
封筒 巻紙墨筆
物産贈呈。
封筒 巻紙墨筆
挨拶文、品物贈呈。
封筒 巻紙墨筆
物産贈呈。
封筒 巻紙墨筆
近況挨拶、品物贈呈。
封筒 巻紙墨筆
品物受取、干物贈呈。
封筒 巻紙墨筆
挨拶文、山芋贈呈。
封筒 巻紙墨筆
御供物贈呈。
封筒 巻紙墨筆
物産贈呈。
封筒 巻紙墨筆
挨拶文。
封筒 巻紙墨筆
品物贈呈。
封筒 巻紙墨筆
千葉県某(理事向屋伝平?)身上の件依頼。
封筒 巻紙墨筆
滞留先より物産の贈呈。
封筒 巻紙墨筆
陞爵祝。
封筒 巻紙墨筆
乾坤山日本寺事業の為31日に面会希望。
封筒 巻紙墨筆
鋸山日本寺へ多額の寄付御礼。
76
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
原十目吉
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
はらとめきち
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
(明治)10日
(明治)45年1月19日
1912/1/20
(明治45年)1月29日
(明治45年)2月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
(明治)45年2月17日
(明治45年)2月17日
1912/3/15
(明治45年4月2日)
1916/11/20
来翰
来翰
坂西利八郎
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
(大正10年)1月8日
来翰
来翰
来翰
坂西利八郎
坂西利八郎
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
2010/5/10
(大正10~11年)7月22日
来翰
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
(大正12年)8月11日
来翰
来翰
坂西利八郎
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
2010/3/10
(大正)9月15日
来翰
来翰
坂西利八郎
坂西利八郎
ばんざいりはちろう
ばんざいりはちろう
来翰
来翰
来翰
坂西良一
半沢玉城
半沢玉城
ばんざいりょういち
はんざわぎょくじょう
はんざわぎょくじょう
(明治45年)3月2日
(大正9年?)1月13日
(大正9年)2月25日
巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆 便箋
封筒 巻紙墨筆
台湾公債法案に付注意すべき諸点 憲政本党に対する運動は小生担当 棚瀬軍之佐も有力 又院外者の
運動も必要 台湾関係の人々には応援第一にしたしとのこと。
「別紙対清政策意見書山県公ニ進達ノ是非差支ナクバ御高覧ニ供サレ度」(後藤新平伯伝記編纂会)の記載
があるが、本体の後藤宛の書簡はない。山県宛坂西書簡
後藤新平書簡を一読。山県への書簡送付に関する件 清国の状勢に関する件
①袁の評判の不良なる事殊に我邦人間に甚しく感じられること。②別冊報告写、皇帝退位問題勃興時期の袁
世凱と前号報告以後の概況。
御高説中の主要なる点は袁世凱もその根本主義、小田原公御初の御意見等を知ったならば、御漏し下され
度、必ずや近く来るへき(共和国採用之結果)各種の情況に対しては再び今回の如き無為無策観望一点張と
ならざる様致度云々。
便箋墨筆
袁世凱大統領に関する報告。
便箋墨筆 便箋ペン筆 袁世凱が臨時大統領就任及び袁世凱との会見に関して、先例により報告写1通を台覧に供すること。
便箋ペン筆
速に対支那方針の確定を要するに付き意見開示
封筒 便箋ペン筆
辛亥革命に関する情勢分析と対清外交に関する意見
便箋ペン筆
過般中山技師へ貴名片御交付の節御送りの名片は徐世昌に渡したこと、徐は現在において段内閣を支持し
て一先づ解決しようとする意見であるので、在野の政客として大に国事の為め尽瘁を辞せずと決心している様
であることなどの中国政情などについて報告。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
当地政局も旧蝋張作霖と曹鯤錕の入京となり徐総統は何を言ってもこの際財政に目鼻が付かなければ梁土
詒を引張り出す決心であるのは至当の処置とおもわれること、時恰も中国交通及銀行の取付け騒ぎとなり交通
系此勢力基礎を動揺するに到ったならば、張作霖に対して命乞い為すなどの中国政情などを報告。
封筒 巻紙墨筆
此拙簡持参之当地唯一の邦字新聞支那社長安東万吉の紹介状。
封筒 便箋ペン筆
官革両軍の上海談判は不成立とならんとする時における袁世凱について。
封筒 巻紙墨筆
当地政局依然五里霧中で、大統領も政府も法律上根拠が無く、いわば皆無同然、議会を召集し恢復を急い
ではいるが云々、桜泰慶儀閣下には同人及び事業に対し殊の外御同情特に時々御訓誡賜っていることに厚
く御礼申上げること。
封筒 巻紙墨筆
日露交渉之「お手習」は定めて心労のこととさっすること、御紹介の東洋協会の大学の学生厳井凢は、昨日貰
京夫々指導するので安慮してほしいこと、現時における支那政局は固より紛糾には相違無いが、その主因は
結局彼等支那人自身が国家の前途に対する観察に明般ならさる故で云々。
封筒 巻紙墨筆
教育視察の為に派遣される朱念禎と陳延齢の紹介、現任の教育総長彭允彝より依嘱。
巻紙墨筆
当地政局は、徐世昌と段祺瑞とも自己の利慾心に駆られ、徐と段は遂に利害が一致しない状態に至り、その
結果今回の始末となったことなどの中国政情報告、小生管掌の辺防軍も見事根底より転覆されたこと、小生は
少くとも事前にこれを知り極力段祺瑞一派に忠言を試みたが、却て妨害する為めの運動の如く思はれ余計な
濡衣を着るに至ったことなどの報告。
便箋ペン筆
孫逸仙及び時局に対する袁世凱の意向並びに袁世凱の顧問モリソンとブリッソーに関する報告。
巻紙墨筆
手紙の件その他にて面談したし、朝鮮のついでに奉天か北京まで微行望日取返、目下朝鮮行が新聞の誤報
であることだけは取敢えず坂西へ返えして置いたこと、御微行御考の有無は再報したい。
封筒 巻紙墨筆
坂西利八郎の安否について後藤からの確報に接し大安心致したる旨お礼状。
封筒 巻紙墨筆
本日詔書煥発に付き平和克復に関し閣下に御一言を紙上に謹掲載仕度ホンノ片言隻語にてよろし、固より内
外に御迷惑を来さゞる様極力注意すること。
封筒 罫紙墨筆
閣下各位を歴訪就中仲小路前農相閣下の意図頗る肯繁に中り国家政局の前途に関し稍や具体的に計策の
指示現政府も最近に及び却って腰を落着け当分居据しと決心候ものヽ如く此謂貴族院の肉薄も大したものは
あらず。研究会の八ヶ条も未だ政府に提示する意思無欠云々。
77
来翰
半沢玉城
はんざわぎょくじょう
(大正9年)2月26日
来翰
半沢玉城
はんざわぎょくじょう
(大正10年)4月8日
来翰
来翰
半沢玉城
半沢玉城
はんざわぎょくじょう
はんざわぎょくじょう
(大正10年)12月28日
(大正14年)2月26日
来翰
日置益
ひおきえき
(大正)8年1月13日
来翰
日置益
ひおきえき
1919/10/24
来翰
来翰
来翰
来翰
日置益
日置益
日置益
日笠芳太郎
ひおきえき
ひおきえき
ひおきえき
ひがさよしたろう
大正9年元旦
(大正9年)5月26日
(大正)1月21日
(大正5年10月11日)
来翰
日笠芳太郎
ひがさよしたろう
(大正5年)10月11日
来翰
日笠芳太郎
ひがさよしたろう
(大正5年)10月12日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
日笠芳太郎
土方久元
土方久元
土方久元
比田井鴻
比田井鴻
肥田景之
人見一太郎
人見一太郎
ひがさよしたろう
ひじかたひさもと
ひじかたひさもと
ひじかたひさもと
ひたいこう
ひたいこう
ひだかげゆき
ひとみいちたろう
ひとみいちたろう
(大正7年)4月24日
(明治28年)7月3日
1910/2/19
2010/10/7
(大正10年)3月19日
(大正10年)9月11日
(昭和3年)2月8日
1902/12/8
(大正7年)1月7日
封筒 巻紙墨筆
本夕衆議院解散の次第臼井老大人の名前を以て発電致置候今回の解散は意義復雑且つ重大、要するに行
詰りの結果たるは明白。得意の悲哀は寧ろ政府に在るべく次いで来るものは総選挙の結果に依る勝利の悲哀
たるべく候。政局の前途は益々英傑の出現を必要とすべく其時期は恐らく本年夏秋の交云々。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 ①先日時事新報社が御允許を得て特別材料は社内に於ても厳秘として、石河、桜井両君以外には何人をも
感知せしめざる注意を払い居候処右桜井君微恙の為め往々出社致さざる日も有之隨って貴重の材料をして
社内に感知せしむる事態を惹起しては面白からざる次第に付右は君の手を経て頂戴する云々。
②サニタリアム創設に関する桜井宛後藤書簡
封筒 巻紙墨筆
歳末公私繁劇の際恐入候へ共 名古屋七宝 暫時御引見の栄を賜り度とのこと。
封筒 便箋墨筆 巻紙 外務省内前途有為の人材は此際是非閣下の御聲咳に接せん事を熱望する者続出致し候 出渕次官に於て
極力査定を加へられたる結果諸氏の熱望を釣り合ひとを考へ別紙の如く参上致度き事に本日決定致候 極
めて急激なる増員には御座候へ共何卒御諒認賜り度云々。
封筒 便箋墨筆
戦争終結大慶、小生米国赴任希望援助を乞う 紐育安場氏近況報告、小生来19日デンマークへ出張、世界
人心の変化 アスキス落選は人心の変化を証するもの、欧州中より帝王の消滅に関する日置きにあらず、我
国も刷新必要とのこと。
便箋墨筆
我国も世界の大革命的気運に連れ万事根本的革新を要す。閣下の欧米視察は好適、ドイツの全敗は小生に
擬せられた駐独大使の任命を遷都するような形勢、小生ストックホルム着任も無意味の感あり、30年間外交界
に奉仕しながら大使にならずして終了は残念、ぜひ共昇任を望む云々。
封筒 絵葉書ペン筆 新年賀詞 今日となりては政党の基礎なくして政界に活躍はできない この際デモクラット党を組織されてはい
かが、今回伊集院帰朝につきイタリー大使に任命希望とのこと。
封筒 便箋ペン筆
閣下近日御来着との事御話申上候度事多々あり ワレンベルグも同様とのこと。
封筒 巻紙墨筆
過日拝見の閣下対支政策案稿同意、特に阿片に付いては研究したしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
革新記者会の名簿および構成 行動を共にする記者団 各記者団名簿通信社状況。帝通前内閣派だから電
通の利用は有効、 土井卓弥の朝野通信は有松を通じて援助を求む(純政友なるが中心人物なし)、東洋通
信は日置入社せば切廻せる(以上は政友派)、独通は官僚系の色彩、東京通信は寺内と関係ありとのこと。
巻紙墨筆
仲小路農相と面会 外交記事に関し箝口令を下した一昨年の外務省令第一号廃止 寺田市正参上の筈同
会は大隈内閣瓦解前より運動、新内閣の見方に立つべく活動中、忠勤すべき人物に200円渡されたし 革新
記者会が言論尊重として内閣の味方となり行動する際に外務省令撤廃は好都合など。
封筒 巻紙墨筆
東洋通信に根拠を定め御用命を蒙りたし、小生入社すれば牛耳ること可能 革新記者倶楽部動向 大木遠
吉伯は誇大軽薄の感あるも使い用にては有効、徳川達孝伯も有効、憲政会は記者団と提携し排閥運動を始
めるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
外相就任祝詞 小生一昨年台湾に赴くも何物も得ず 下村民政長官優柔不断の故なりとのこと。
巻紙墨筆
大日本私立衛生会幹事辞退とのことなれど評議員会にて協議のところ敢て御就任を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
横浜市紳商須田重次郎紹介 面会を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
ケーブル会社設立に関し森谷平吉紹介。
封筒 巻紙墨筆
小生別紙事業(別紙なし)を推進 面会希望。
封筒 巻紙墨筆
先日の贈物腐敗の由汗顔の至りとのこと。
巻紙 封筒
長途御旅行より帰着御祝 世界平和に関係する日露親善に対して御挨拶等申上たしとのこと。
便箋ペン筆
第一回万国服装博覧会昨日開会 日本の出品間に合わず台湾茶店のみ開館、開館式模様、茶店開店顛末
烏龍茶販路拡張購交中とのこと。
封筒 巻紙墨筆
独墺を根底より覆して真正の世界平和を得るは今回の戦争の目的、只今の形勢は五分五分、姑息的平和に
終るにはあらざるや、その場合我邦の方針に一変せざるを得ず、世界を二分して日独が覇王となるか、三分し
て日独米が盟主になるかの2つに外ならず英仏は無力暴露米国が鼎の軽重となるとのこと。
78
来翰
人見一太郎
ひとみいちたろう
(大正8年)2月27日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
日野西資博
平木白星
平木白星
平田東助
平田東助
平田東助
平田東助
平田東助
平林広人
平林広人
ひのにしすけひろ
ひらきはくせい
ひらきはくせい
ひらたとうすけ
ひらたとうすけ
ひらたとうすけ
ひらたとうすけ
ひらたとうすけ
ひらばやしひろと
ひらばやしひろと
1923/2/28
(明治45年)5月3日
2010/5/20
(明治44年)5月22日
(大正3年)7月25日
(大正7年)2月7日
(大正7年)4月16日
2010/7/18
(大正6年)7月13日
1917/9/6
来翰
来翰
平林広人
平林広人
ひらばやしひろと
ひらばやしひろと
(大正15年)10月11日
2010/9/13
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
平山成信
平山成信
弘世助太郎
福井孝治
福井三郎
福沢桃介
福沢桃介
福沢桃介
福沢桃介
ひらやまなりのぶ
ひらやまなりのぶ
ひろせすけたろう
ふくいこうじ
ふくいさぶろう
ふくざわももすけ
ふくざわももすけ
ふくざわももすけ
ふくざわももすけ
大正10年11月
2010/8/25
(昭和2年)11月29日
(大正13年)2月25日
(大正2年11月)22日
(大正7年11月)6日
1920/4/28
(大正10年6月)21日
大正12年12月
来翰
来翰
来翰
福沢桃介
福田和五郎
福田和五郎
ふくざわももすけ
ふくだわごろう
ふくだわごろう
大正15年4月
1904/12/23
(大正11年)2月19日
来翰
福田和五郎
ふくだわごろう
(大正15年4月7日)
封筒 巻紙墨筆
階級制度を全廃し一代華族制 富豪の相続税の高率化 中等民族の数を増やす、天皇と国民の間に金力権
力の障壁をなくす 政治思想普及教育の普及 官設公設住宅の推進 『ビスマルク演説集』拝読「権利は只銃
剣に存す」は国際連盟成立後にも真理、民本時代のビスマルクとして今後の活躍期待とのこと。
封筒 巻紙墨筆
御母堂御逝去弔辞。
封筒 和紙墨筆
「処生訓」販売報告書。
巻紙墨筆
(前半欠)平山成信の英文雑誌「ジャパン・マガジン」に台湾号を近々発行の予定、同誌主筆中塚栄次郎より
後藤新平に寄稿を願たしとの由、中塚氏と面会を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
御垂示の東鉄問題今朝首相と面談、若槻次官より開申前にて熱議をする施薬救療の件聖旨に悖ることなきを
期すにこの件につき面会 山県有朋に面会に関し報告。
封筒 巻紙墨筆
先日の御内話の剰余金云々の件、彼の方意見定まらず 大隈伯は来1日箱根、興津、小田原訪問の趣仄聞
とのこと。
封筒 巻紙墨筆
予算会議も好都合にまとまる模様御同慶 加藤房蔵雑誌興国(二宮熊次郎と経営するもの)に関し面会希望
配慮を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
拝別後五番町へ罷越した処、同公より貴殿への伝言あり 18日夕8時頃参上したし。
封筒 巻紙墨筆
御高閲読返却 現時内外の救済策として感服 実行計画が肝要とのこと。
封筒 罫紙墨筆
夏季大学申込者500人、信州人が過半を占め、全国にわたり教師多数、国民文化の啓発は政治と政情に付き
永久策の上に立つ後藤新平に講演依頼の件。
封筒 巻紙墨筆
夏期大学成功御礼 大学状況報告、参加者のある者は他日夏期大学の名を各地方に開設する場合の努力
を申しくれた 3、4年会員を養った上に地方巡回開始したし 明年以後の経営には資金の増加が最大の問
題、これより田園小学校経営に全力を注ぎたし。
封筒 便箋ペン筆
我国に永久戦の陣容を整える必要から青年の品性を培養することを眼目とするデンマークのような「家塾」開
設し大人物の養成必要とのこと。別送「デンマーク農民の努力」。
封筒 便箋ペン筆
沢柳博士の配慮により、少年団大会終了後1年間デンマークへ滞在の予定 デンマークを北信東北の人文的
開発に資する手頃なるラボトリー ラジオ界のオーソリティーもあり政界にはモルトケ伯あり面白い新興国。
封筒 巻紙墨筆
「ジャパン・マガジン」国際上通商上緊要の機関として認められたる唯一の英文雑誌、今回東京府主催平和紀
念会東京博覧会紀念号を計画援助を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 運河計画に付友人菱沼氏紹介。
封筒 巻紙墨筆
訪ソ激励 出発の途当地に寄られたく稲畑勝太郎君よりもお願い申すとのこと。
封筒 巻紙墨筆
家庭の溷乱より国家の事言うに忍びかたく一書を成す、拙著ほろびゆく女の全国図書館高等女学校寄贈に
付援助依頼につき内覧を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
最新の『政党社会学』恵贈お礼。
封筒 巻紙墨筆
昨日の長尾氏の件是非心配を乞うとのこと。
封筒 活字印刷物 雑誌「ダイヤモンド」中「九重城外より」の一読を乞う 安田善次郎のような資本家は模範 今回提出の所得税
法案反対。
封筒 巻紙墨筆
東京市が東京瓦斯・東京電灯との報償契約に付東京市が一方的に有効と解釈し実行を命じたのは法理によ
れば無効 市長の正当なる解決を望む 後藤市政も衆愚に落ちるかとのこと。
封筒 活字印刷物 普通選挙実行に関し、政治思想訓練の幼稚な、かつ家族制度を基本とする我国においては善良なる結果を
生ずるものなるやを窺う、ぜひ反対に奮闘を乞う「極端なる普選実行に反対す」を呈上。
封筒 巻紙墨筆
大同電力大柴発電所事業誌刊行に付恵贈。
活字印刷物
無罪確定精養軒にて祝宴案内。
封筒 巻紙墨筆
現今国情無自覚者ばかり 大廓清の前夜の大墜落の如し まだまだより以上の大危機を惹起するにあらざる
か、その時こそ起つべき秋、閣下之を改革する盟首ならん、私共はその準備に尽くしつつあるが先立つものは
金 御自愛願ふとのこと。
封筒 便箋ペン筆
新政同盟設立趣旨、新有権者同盟では旧有権者を疎外することになるので新政同盟とする、全国の選挙区
毎に設け中央主盟は閣下を戴く、組織順序は閣下の遊説を初とし、地方を組織化、中央本部には連絡部と情
報部を置く 小生等別動隊として今月中旬以後各地へ出発のつもり。
79
来翰
来翰
来翰
藤田勇
藤田勇
藤田謙一
ふじたいさむ
ふじたいさむ
ふじたけんいち
(昭和2年)3月1日
(昭和2年11月)12日
1920/6/21
来翰
藤田謙一
ふじたけんいち
(大正10年)11月6日
来翰
藤田謙一
ふじたけんいち
(大正11年)5月5日
来翰
藤田謙一
ふじたけんいち
(大正12年12月)
来翰
来翰
来翰
来翰
藤田謙一
藤田伝三郎
藤田伝三郎
藤田伝三郎
ふじたけんいち
ふじたでんざぶろう
ふじたでんざぶろう
ふじたでんざぶろう
(大正15年)4月23日
(明治36年)12月1日
(明治37年)2月2日
(明治38年)6月2日
来翰
藤田伝三郎
ふじたでんざぶろう
(明治41年)12月24日
来翰
藤田平太郎
ふじたへいたろう
(明治39年)9月5日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
藤田平太郎
藤波言忠
藤波言忠
藤波言忠
藤村義朗
来翰
来翰
藤村義朗
藤原銀次郎
ふじたへいたろう
(大正13年)5月9日
ふじなみことただ
(明治39年)12月7日
ふじなみことただ
(大正2年)11月23日
ふじなみことただ
2010/1/27
ふじむらよしあき(ふじむ (大正11年)5月30日
らよしろう)
ふじむらよしあき(ふじむ (昭和2年)11月14日
らよしろう)
ふじわらぎんじろう (明治40年)9月2日
来翰
来翰
来翰
藤原銀次郎
藤原咲平
藤原俊雄
ふじわらぎんじろう
ふじわらさくへい
ふじわらとしお
2010/10/25
1917/6/14
1923/3/29
来翰
二荒芳徳
ふたらよしのり
(大正11年)3月3日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
小生一身上の件には榎本半二郎参上面会を乞うとのこと。
すっぽん入手招宴。
先日横田千之助来訪 例の問題1千万円だけは高橋蔵相に於て引受け、残りの1千万円は公債支弁の外な
く、これは困難、寄付金調達も難しとのこと 結局は調査会の組織方法の縮少は止むをえずと横田の観測、閣
下は内閣の悪口を出さぬ様自重ありたしとのこと。
封筒 便箋ペン筆
今回の暗殺事件誠に意外痛恨の至り 閣下に種々の建策する雑輩は跳付けありたし、機を見て出馬する覚
悟と準備は必要 政機には引継き横田 松本と意見交換 横田の渡米は敬遠主義によるもの 松本は台湾よ
り返り不平の趣 横田は識見あるも松本は単なる報告の取りまとめ屋 松本近来来訪云々。
封筒 巻紙墨筆
中橋元田は如何なる手段によるも辞表を出さぬ事に確定 明日の閣議にても又々お流れとならん従て以後何
時たりとも局面展開の事もあるべく油断なされぬよう 山本農相のみは西園寺公の勧めにて提出に決定とのこ
と。
封筒 巻紙墨筆 帳簿用 例のもの三つ市蔵君より御渡 川原と土井に1万円渡す内約 3000づつ渡されたし 川原へは議案通過に付
紙
きよろしく頼み自動車代として渡されたし 村上貞一氏へは選挙費の一部として渡されたし 安楽、加藤(辰)
は小生より適宜取計ふべし 小笠原伯と会見 研究会入会の芝居決行など。
封筒 巻紙墨筆
葛原冷蔵始末の件に付ヤンソン氏と交渉したく後藤閣下へ尽力依頼。葛原冷蔵に関する4月21日付藤田謙
一宛谷村一太郎書簡。
封筒 巻紙墨筆
来阪の折面会出来ず残念 増区の件鉱区訂正に御尽力感謝とのこと。
封筒 巻紙墨筆
瑞金鉱山増区紛擾の件に付台北木下荒井より弊社支配人木村陽二へ連絡あり 木村を差向け度何卒御指
導を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
敵国艦隊対州近海全滅、今回の戦勝は不思議の感あり、先日の一件に付杉山兄報告児玉男も同慶、万事杉
山に依頼、高見を杉山へ内示されたし、又願書を木村陽二迄呈出の儀は杉山出発前念のためのもの。
封筒 巻紙墨筆
電話度数割について各新聞反対論あるも小生は同感、東洋における経済調査機関の必要を感じる、チース
博士の論文ありがたし、閣下台湾御在職中の御高配をいただいた件の成行は杉山氏に依頼したので聴取あ
りたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
宜蘭方面森林三方面より出願の運動 阿里山経営上の大打撃 宜蘭・深坑両庁の森林を当方に允可下さる
べし 願書は後藤伯に托し閣下へ手渡すよう依頼 木材価格の願書提出 鹿嶋組へ払下げ価格七割引 阿
里山はそれ以上を希望 杉山氏瑞金鉱山を木村久太郎購入の由問合せあり云々。
封筒 巻紙墨筆
天寿院様訓誡和歌集恵贈御礼。
封筒 巻紙墨筆
満州利源調査資料八冊早速取計御祝。
封筒 罫紙ペン筆
『政党社会学』他1冊『独国ハンサ同盟大要』1冊贈与御礼。
封筒 巻紙墨筆
昨年11月3日の憲法記念館における御講話別冊送付。
封筒 巻紙墨筆
市政会館敷地につき内務省と市とのゴタゴタ、有楽町三井集会所を市に寄付するが、名ばかりの地代で借地
を三井に頼んではいかが、公園内よりも適当、三井の社会奉仕のためにも市がこれに公会堂を付直すれは社
会的施設としても完全ならんとのこと。
封筒 巻紙墨筆
近々御訪露の事、近畿協会今渡財団法人として発足 清浦氏を総裁、貴台を副総裁にと決議、御承認下され
たしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
土倉山林の件取調書完成何とか決定に至るべし 井上伯は土倉に同情なく閉口、満州各地で三井は大不評
小生台湾出張中社長会あり あとは益田の力によるほかなし 在満当社支店長大連支店長と衝突、今回大連
は営口を離れて本部直轄、これは三井の信用を傷つけるものと心配云々。
封筒 巻紙墨筆
ソ連極東経済会議長スタリコフ氏来朝、築地蜻蛉に招宴案内。
封筒 罫紙ペン筆
気象事業に関する私見4ヶ条、右に関する参考書呈上。
封筒 巻紙墨筆
面会多謝 帰路片岡直温、武藤山治らと邂逅 世間話に時を移す ヨッフェ氏のこと世間は誤解、問題はデリ
ケートにつき身辺注意ありたし、今後の重要問題は米支露の三国関係だが露国問題を第一に解決する要あり
とのこと。
封筒 巻紙墨筆
少年団のため閣下の後援は天助、三島通庸子爵は少年団運動に志あり、御引見を乞うとのこと。
80
来翰
来翰
二荒芳徳
二荒芳徳
ふたらよしのり
ふたらよしのり
(大正12年)5月2日
(大正)13年8月10日
来翰
来翰
二荒芳徳
二荒芳徳
ふたらよしのり
ふたらよしのり
(大正15年)2月17日
(大正)9月3日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
二荒芳徳
二荒芳徳
二荒芳徳
二荒芳徳
船越光之丞
古谷重綱
木影会
穂積陳重
穂積陳重
穂積陳重
穂積陳重
穂積陳重
堀内文次郎
ふたらよしのり
ふたらよしのり
ふたらよしのり
ふたらよしのり
ふなこしみつのじょう
ふるやしげつな
ぼくえいかい
ほづみのぶしげ
ほづみのぶしげ
ほづみのぶしげ
ほづみのぶしげ
ほづみのぶしげ
ほりうちぶんじろう
(昭和4年)2月21日
(大正11年)9月24日
2010/5/3
2010/8/29
2010/9/17
1924/4/1
大正14年11月
(大正5年)2月24日
(大正10年)10月25日
(大正11年)4月8日
2010/3/11
2010/4/23
(明治)12月24日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
堀内文次郎
堀内文次郎
堀口九万一
本多静六
前田多門
ほりうちぶんじろう
ほりうちぶんじろう
ほりぐちくまいち
ほんだせいろく
まえだたもん
1914/8/17
(大正11年)3月6日
1919/4/15
1923/2/20
(大正6年)2月26日
来翰
来翰
前田多門
前田多門
まえだたもん
まえだたもん
(大正8年)4月27日
(大正13年)1月17日
来翰
来翰
前田多門
前田多門
まえだたもん
まえだたもん
(大正)1月5日
(大正)7月22日
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
市長御辞任は残念、世態遅緩経団の大策なきは残念、閣下御自重を願ふ、日本橋少年団の形は揃うとのこ
と。
大迫氏市長就任承認は連盟の為残念 翁島に連盟役員露営の由視察したしもの秩父宮より御下問、其意は
殿下も露営を経験したしとの事ならん 小生11月翁島行、深尾理事等と打合の予定とのこと。
封筒 便箋ペン筆 印刷 大木伯急逝 中外教育研究会設立 精神復興の第一線に立つことを期す、行く行くは少年団運動に協力さ
物
せたし 小生原作「弥栄の一笑」公映禁止の報道は誤まりとのこと。
巻紙墨筆
少年団運動今後は大に途展をとぐるは閣下の尽力の賜もの 連盟補助の件文部は了解 大蔵は河田主計局
長までは充分根廻し 大臣と田次官は閣下より願くれたし 貴族院研究会、男爵勅撰にも依頼のつもりとのこ
と。
封筒 便箋墨筆
昨夜の御懇話承知、今となりては小生の立場上問責案に賛成することに決心すること報知とのこと。
封筒 巻紙墨筆
「帝国憲法制定之由来」拝読 昨日拙書呈上に対し御懇書感銘、御外遊日記昨今脱稿校正中にて繁忙のた
め欠礼とのこと。
封筒 便箋ペン筆
少年団幕営地候補地大瀬岬・江梨視察報告。
封筒 巻紙墨筆
健児のため総長名にて起稿の一文御一覧されたし。
封筒 巻紙墨筆
比書持参斎藤嘲史は肥田理吉の社友、面会下されたし。
封筒 罫紙ペン筆
エドワルド・ヘイ将軍駐日墨国大使赴任に付、人物概略紹介 墨国民対日感情良好 墨国財政窮乏なれども
日本に対する義捐金の大さをみても肯首すべしとのこと。
封筒 活字印刷物 故木内重内郎伝記編纂に付き資料提供および御執筆依頼。
封筒 巻紙墨筆
高著『日本膨張論』拝読 通俗大学文庫の始めとして成功の祈るとのこと。
封筒 巻紙墨筆
かねて申上た五人組制度の比較研究上梓に付呈上 同書中保甲に関する部分は閣下が台湾在勤中に恵投
せられた材料によるところ少なからずとのこと。
封筒 巻紙墨筆
恰も台湾旧慣調査のように市長として自治制調査結果刊行物恵贈感謝、拙著五人組研究したので、特別の
興味を以て拝読。
封筒 巻紙墨筆
平井直紹介、同氏は高野長英研究者。
封筒 巻紙墨筆
杉村濱遺子陽太郎君紹介目下法科大学政治科生、来年卒業の為、学力・胆力にすぐれる、来年卒業爾後の
お引立を乞うとのこと。
巻紙墨筆
小生10月下旬より台中台南を巡視去る12日帰北、台湾前途洋々の感あり。余が討伐に従事せる間に軍政は
新編制となり文武諸友は総智の意思の如く協力同心となり討伐は面積の広大なるに拘らず着々良結果となり
台中台南間1人の土匪も見ず。内地人の迷盲本島統治の困難を知るべしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
今回世界の大乱に出陣の栄を担い、いただいて刀をさげる機会を得て出陣するとのこと。
封筒 巻紙墨筆
現今内外情勢緊迫、摂政宮殿下の下大同団結すべし、閣下奮起を願うとのこと。
封筒 罫紙ペン筆
米国御安着の上は席をもって、南米方面にも一瞥を賜われば将来両国諸多の関係上裨益あり、我が国の移
植民輸出の好国たるブラジルへ一遊賜りたしとのこと。
封筒 便箋ペン筆
新宿の浜野氏来邸、同氏邸内鴨池を住宅地になすの話あり大反対、閣下市長として浜野氏説得を乞うとのこ
と。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 先刻電話を以て御命じの件確に次官に申上置候然るに本日松井知事よりも会議に関する報告有之一応閲覧
仕候処不穏の箇処無之御参考の為め同報告中大臣御訓示に関係の個所を抄写し別紙高覧に供し申候
云々。別紙郡市長会議に関する示達事項報告。
罫紙ペン筆
例の件経費の立て方を文部省会計課にて高等学校設置に関する実例を取調べ報告、大正8年度追加の予
算の例により公債を以て支弁するも実際は寄付を待つこと。
封筒 罫紙ペン筆
内閣更迭の由残念 前代未聞の不敬漢出る 再び震災関東地方を襲ふと云ふが如き、ムッソリーニ内閣の無
議会無憲法と申して宜しき高圧政策行はれ居り 伊太利を旅行仕り候処到る所の光景一時の日本よりも一層
甚しき軍国主義的なるを看取る 国際労働事務局長アルベルト・トーマは快男児とのこと。
罫紙墨筆
本日宴会前の拝謁午前11時より11時半迄の間に侍従長官房に御来集とのこと。
封筒 便箋ペン筆
国際労働政府代表事務所創設以来欠く可からざる人として格別の貢献をされた畏友の鮎沢巌紹介状。
81
来翰
前田多門
まえだたもん
2010/8/25
来翰
来翰
来翰
前田多門
前田多門
前田多門
まえだたもん
まえだたもん
まえだたもん
2010/8/26
2010/9/24
(大正)12月15日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
前田黙鳳
牧野伸顕
正木直彦
正木直彦
増田次郎
まえだもくほう
まきののぶあき
まさきなおひこ
まさきなおひこ
ますだじろう
2010/2/2
(昭和3年)6月29日
(明治45年3月1日)
(大正11年)10月27日
(明治39年)8月15日
来翰
増田次郎
ますだじろう
(大正10年12月)12日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
増田次郎
増田次郎
増田次郎
増田次郎
増田次郎
増田次郎
益田孝
益田孝
益田孝
ますだじろう
ますだじろう
ますだじろう
ますだじろう
ますだじろう
ますだじろう
ますだたかし
ますだたかし
ますだたかし
(大正11年)3月28日
(大正11年)3月28日
(大正11年)9月5日
2010/7/29
(昭和2年)7月29日
2010/2/28
(明治36年)1月26日
(大正4年)4月5日
(大正)11年7月22日
来翰
益田孝
ますだたかし
(大正)11年7月28日
来翰
来翰
益田孝
益田孝
ますだたかし
ますだたかし
(大正)11年8月2日
(大正)11年9月23日
来翰
来翰
益田孝
桝本卯平
ますだたかし
ますもとうへい
2010/4/5
大正11年正月4日
罫紙ペン筆
建築の義に就ては佐野理事転地先より帰京を待ち本日会議仕候、地盤工事に要する杭を米国より取り寄する
に約二ヶ月要す、本建築は警視庁に認可申請書提出、建築工事請負人は清水組に、6月2日理事会にて決
定、理事会評議員任期満了の分再選、ビヤード博士が日本に残した影響を報告とのこと。
罫紙ペン筆
理事召集(6月2日)のため召集前に一応議案御説明致度それ迄にご帰京下さるか御都合によりては小生御
地に参上云々。
封筒 便箋ペン筆
内相諭示の要領を文書に認む可き旨の御下命に依り稍遅蒔乍ら別紙相認め云々送り状。
封筒 巻紙墨筆
大久保知事より例のもの提出相成候に付早速書類取揃へ内閣に提出の運びと相成候仍ほ書記官長に面会
の上特別取扱にて明日は日曜なれどもなるべく明日中に発令となる様依頼したところなるべく取計らうという旨
返事があったこと。
封筒 巻紙墨筆
松崎万之丞就職斡旋のこと。
封筒 巻紙墨筆
過日遠路御来談感謝、その後の事情御洩し下され有り難し、差掛の問題は別として対支関係前途容易ならざ
る時機と思われ、あくまで御高配の程を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
山賊会とて毎年一度脂粉ぬきの会合あり、今年も会合の予定、御参加下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 東京美術学校講師斎藤佳三紹介、同氏渡欧研究の予定出発前閣下に拝謁御教示を仰ぎ度希望御一見下さ
れたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙 浅田正文と小川より別紙台湾に製糖工場設立に関する願書提出、帝国ホテル理髪職小川繁雄三百円恩借
希望如何すべきや、大国民唱歌印刷デスク他費用千円藤村氏へ渡す件指示を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
本島における堰堤工事に対し佐野博士に指導頂きたし、上京の時面晤を得ず、後藤男に心中披瀝せし処電
報に接し感謝に不堪、佐野博士至急渡台せしめたし、小生(増田)は福沢と共に15日名古屋に至る予定との
こと。
封筒 巻紙墨筆
福沢氏より門野氏へ早速通知 門野氏は懶け者で欲の少なき人物故同氏呼出直に話される方よろしからんと
福沢より申出あり。
封筒 巻紙墨筆
一昨夜御指揮の件今朝福沢と会い通知金は相当額を門野に托しあり 早速詳細の書面を同氏に送り御旨の
通り取計らうとのこと。
郵便書簡墨筆
御下命の調書10日迄に入手発送のつもり 来月中旬小島独御決行されたしとのこと。
巻紙墨筆
長良川産香魚を暑中見舞として別便にて送呈。
封筒 巻紙墨筆
暑中見舞にて長良川産香魚一函別便を以て御送呈申上候。
封筒 巻紙墨筆
来る3月3日の招宴御請
封筒 巻紙墨筆
両3日前井上伯の興津出発を見送ったところ是非帰出立前に尊台に面会したく興津に立寄られたしとの伝
言。
封筒 巻紙墨筆
早速台湾重役に内議させたところ貴意の如く丸田を平取締役に差置き他の業務をさせるは異存なし 但し丸
田は健康に不安 台湾会社より問合せ然るべしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
最有力者を申し上げることを失念 川崎武之助男これなり 川崎男は明治の初めに三条岩倉大久保木戸伊
藤等が内密に会して内議した建物を買取り、態々神戸に移築して長し之に伝えるとのこと 篤志の人でありこ
の度の計画に応ずるであろうとのこと。
封筒 巻紙墨筆
26日の御召集の御帖行き違いに今朝落手、後水欠席となり遺憾。御君にも一般有志者の援助を請うとの御趣
旨をお示であるが新聞紙に広告とまではせずとも、雑報に各地の新聞紙に掲げ少額なりとも有志の浄罪を受
けることができれば満足 京都市の鳩居堂・林新助両人が尽力し浄財は大分集まるはずなど。
封筒 巻紙墨筆
京都にて含雪老公(山県有朋)の知遇を忝くなくした人名を取調べたので御参考まで申し上げる。
封筒 巻紙墨筆
28日故山県公銅像の儀につき御集会御催しの由かかる発起には野崎広太は無くてはならぬ人物 同人は老
公の晩年には大いに信頼された者でそのため小田原へも移転、また募金のこと、編纂のことにも経験ある人物
につき是非同人を集会にお招き願いたい また田中特使も必らず御賛成になると思う。
封筒 巻紙墨筆
博多築港のこと御配慮を賜り来る8日夜尊邸へお招き下されありがたい しかし健康常ならず、夜の御招待は
辞退したく杉山・室田両氏も承知の事につき何卒御海恕を願う。
封筒 便箋ペン筆
自治に関する意見(著書脱稿したるため)について御一読を願う。
82
来翰
町田経宇
まちだけいう
(昭和2年)1月10日
来翰
町田経宇
まちだけいう
2010/7/2
来翰
来翰
松井茂
松井茂
まついしげる
まついしげる
(明治41年7月)17日
(大正6年)9月1日
来翰
松井茂
まついしげる
(大正6年)12月29日
来翰
松井茂
まついしげる
(大正8年)3月2日
来翰
松井茂
まついしげる
(大正)3月
来翰
来翰
来翰
松井茂
松井茂
松井茂
まついしげる
まついしげる
まついしげる
(大正5月)20日
(大正)3月12日
(大正)11日
来翰
松井茂
まついしげる
1927/1/5
来翰
来翰
来翰
松井茂
松井茂
松岡均平
まついしげる
まついしげる
まつおかきんぺい
(昭和2年)5月24日
1928/10/31
(大正6年)11月16日
来翰
来翰
松岡均平
松岡均平
まつおかきんぺい
まつおかきんぺい
(大正10年)6月24日
(大正10年)7月1日
来翰
松岡均平
まつおかきんぺい
(大正)5月25日
封筒 巻紙墨筆
政本提携も出来、来る休会の始めには現内閣総辞職か議会解散必至。ただ在野両党主古傷や微力にて大
命降下の公算少なく、産姿役たる閣下が一時政本両党を与党とて大政掌理の任に当たる外なし。腐敗した政
界空気を一洗し、内治外交に昭和更新の基礎を確立し国利民福を増進する上において然るべし。
封筒 便箋墨筆
来る5、6、7の中一夕拙宅にて小集催したし 興津御訪問の土産話を拝聴いたし、時局に関する意見を交換し
たく、右のうち可能な日時を内示されたし 今回は小範囲の集会に限り、床次・有松の両氏に来集を求める筈
とのこと。
封筒 巻紙墨筆
逓相就任祝詞
封筒 巻紙墨筆
今夏は阪神九州に参り築港の比較研究をなし、大いに参考となる (愛知)県下動物虐待防の件は兼て計画
中のところ頃日終に決行したので別紙参考願う 別冊「智仁勇」は成瀬子爵主宰に係るり閣下人物評を掲げ
てあるので序に添え置いた 遊廓問題については御席に警保局長御差向下されたし云々。
封筒 巻紙墨筆
今年は治水問題の原案執行、総選挙の取締等御高慮を煩し、総選挙も大過なく経過、厚く御礼。過般は種々
政治上のことを御聞取下され万謝。正邪曲直の顧念を以て当ることが時弊に適すると存じ、常々御高配を煩
すこと恐縮、国民教育の任にある「小学教局」に対し別冊の如くに訓示したので御批読を願う。
封筒 巻紙墨筆
先般上京の節は御病気中のところ、今や御全快の上いよいよ御渡米の途に就かれるとのことで衷心より欣賀、
欧州戦乱の跡に鑒るも我邦に於ては将来の国民と警察との関係を密接にするの要を認め、小生も及ばずな
がら早晩兼ての理想に向て猛進致度 何卒この点に関し特に御指導を願う。
巻紙墨筆
3月27日の警察講習所落成式に式辞頂戴したし 来る27日午前10時より兼て御尽力の警察講習所の落成式
挙行につき何卒一場の御奨励の辞を頂戴したい 小生今日より愛媛・高知・富山等へ出張につき帰京後参上
お願するので承諾下されたしとのこと。
巻紙墨筆
警察講習所落成式祝詞依頼 いよいよ来る6月1日(木)午前10時より警察講習所落成式挙行につき御臨場の
上祝辞を願いたいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
病気見舞 過般来御病気引籠の由、ただし明かに御快方と承り安心 1日も速かに御全快を祈る 小生目下
防火読本執筆中 出来上がった節には御高教を仰ぎたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
警察講習所の問題につき鋭意起案中、直接尊覧に供すべし。経費節減の時代にはいかにやと案ぜられる
が、国家将来のため方策は方策として研究。前内閣行政整理の際、講習所廃止説もあったが当局の努力によ
り今日に至っている。1年4万3千円のために教育上相当効果をあげ、幹部教育のため必要云々。
封筒 巻紙墨筆
年頭所感 我邦警察の前途については今より国策上大に憂慮すべき点に対し考慮し置く必要ありと存ずる
何とぞ例の国民警察の問題に対しても時節柄一層御配意を願う 頃日国民消防の小著を公にしたので何卒
忌憚なき御批評を乞うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
別冊「飽薇」に掲載の評論、御批責を願う。
封筒 巻紙墨筆
有松氏追弔金に付金5円御願いしたし 有松兄弟追弔会会費の件 発起者は5円宛御願することになってお
り、警察協会までお送りいただきたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
昨日小島源三郎に面会したところ漁業組合より阿部浩氏に組合長たる事を依頼したところ、同氏は閣下と原
敬氏に相談の上諾否を決する筈とのことにて、そのままになっているとのこと 従って御帰京後直ちに阿部氏
より右相談があると思うのでなるべくは小島氏の希望成就するよう御取計を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
27日ベルクーナー夫人の講演会にドイツ大使ゾルフ氏傍聴希望、御差支なければ招待券を同氏へ直接御送
付下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
心理学者上野陽一君に面会の節、市電に職工採用心理検査所を設定する話あり。市としては別に中央心理
検査局を設けられるやの噂あるが、検査方法や器械は異なるとのことで、差当たり市電において実用的設備
を設置する方がよいと愚考。上野氏洋行前にベルクーナー夫人と協力して計画を立てさせ云々。
封筒 罫紙墨筆 便箋 ベルグーナー教授夫人の提案翻訳、貴覧に供す 明日頃本人参上したき由申居、何れ電話にて御都合を伺
うつもり。三菱所有の心理学検査器械は6月3・4日頃までには神戸より取寄せる予定とのこと。別紙「学童心理
検査提議」あり。
83
来翰
松岡好一
まつおかこういち
1901/2/1
来翰
松岡好一
まつおかこういち
1901/8/24
来翰
松岡俊三
まつおかしゅんぞう
(大正9年)12月5日
来翰
松岡俊三
まつおかしゅんぞう
(大正9年)12月10日
来翰
来翰
松岡洋右
松岡洋右
まつおかようすけ
まつおかようすけ
(明治40年)9月13日
(大正12年)9月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
松岡洋右
松岡洋右
松岡洋右
松岡洋右
まつおかようすけ
まつおかようすけ
まつおかようすけ
まつおかようすけ
(大正12年)9月17日
(大正14年)2月4日
(大正14年)3月18日
(大正14年)7月10日
来翰
来翰
松岡洋右
松岡洋右
まつおかようすけ
まつおかようすけ
(大正14年12月5日
1925/12/9
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
松岡洋右
松岡洋右
松岡洋右
松岡洋右
松岡洋右
まつおかようすけ
まつおかようすけ
まつおかようすけ
まつおかようすけ
まつおかようすけ
1925/12/10
2010/12/9
(4月2日)
2010/4/11
2010/4/14
来翰
松岡洋右
まつおかようすけ
2010/4/19
来翰
来翰
松岡洋右
松岡洋右
まつおかようすけ
まつおかようすけ
2010/9/29
2010/12/9
来翰
松岡洋右
まつおかようすけ
(昭和4年)3月13日
巻紙墨筆 新聞切抜 ①第6回報告、支那に於ける康有為党の軍略密発、非常準備金の募集、康党張之洞を憎む、康党の劉坤一
に対する感情、康党の頑固党に対する感情等に関する報告 ②一般政情に関する記事の切抜1枚。
封筒 便箋墨筆 巻紙 ①三合会頭目蘇卓南からの密告によって孫文派と三合会の動静を報告する(第29回報告) ②孫文派、三合
新聞切抜
会及び康有為党等の動静に関する漢文巻紙 ③潮尾各郷に同神相残についての記事の切抜1枚、香港「中
国報」8月24日。
封筒 巻紙墨筆
閣下の計画せんとする東京市改造運動に関し相談相手となるべき資格は当「都新聞」に於ても小生に於ても
他新聞並に他の社主より以上に之を具有すると存じ候御高見見如何に御座候哉明日参上右の御返事承わる
べく。
封筒 巻紙墨筆
東京市大改新の第一歩たるべき明11時の会合に先約があるため遺憾ながら欠席仕候尓後の運動及宣伝等
には勿論閣下の御活動を御援助する精神は寸毫の変化無之事は書面を以て申上候。
罫紙ペン筆 罫紙複写 上海通信記事を写し送付の件
物
便箋ペン筆
内相に御就任の事と相成候処九月初旬小生上京種々御指教を仰き度特に一身の進退に就き此際御教示を
蒙り度存念の処此大震災・音信の途さら今尚回復せられす此事態にては自然小生上京月半を可相成に付不
取敢高尾氏の幸便に托し托書呈上候。
封筒 罫紙ペン筆 名刺 満州材建築の件。
封筒 便箋ペン筆
満鉄と満州との近況を報告する。
封筒 罫紙ペン筆
閣下の御訪哈はコタエ申候日露接近協力して支那は圧すると思われては困る 御訪哈の途中是非奉天にて
張作霖氏に御面会を乞うとのこと。
封筒 便箋ペン筆
日露協会学校に関しては御賢慮を煩はし候段唯感謝在罷候尚小生も僅に十日位の予定にし五月下旬当北
京に来り候処其後上海事件に伴ふ風潮拡大と中央政界混沌の為めとして意外遅延、八、九月頃迄には辞表
提出会社を去る覚悟有之候。
封筒 電報訳文
昨日午後4時半頃張学良よりの電話により左翼軍退却の真相及び退却後の様子判明、昨日奉天城内の人心
が動揺したのも全く張作霖が昨日朝9時より荷物を運び出したるためなり。
封筒 電報訳文
張総司令は断然野に下ることを思い止まり飽迄最後は一戦を交えんと決意せり、将軍は郭に政権を譲ることは
絶対不同意にて武装の侭出得れば日本の斡旋に依り将軍の信する人に譲り体面を維持せんとの極意らしく
信せらる。
封筒 電報訳文
「支那動乱の状態満鉄野村氏と鎌田氏より松岡理事(東京に在る)へ報じ来れるものの写を伯の御手許に提
出せしもの」13通
巻紙墨筆
昨日の御訓諭、なおその節御恵貸下された書類を封入し御返付するので、御査収下されたく。
封筒 罫紙ペン筆
極秘の鉄道地図を書簡と一緒に書留で送った事 書簡中には漢学の現在及び将来を論する事云々。
封筒 巻紙墨筆 名刺 「子供研究講座」全10巻発行の計画者上羽清敏氏を紹介せるもの。
封筒 巻紙墨筆
藤原氏御紹介を願上候、万朝報社長秀村氏は藤原氏と面談の印象にては心細い云々 中井商店から紙代
(旧債務)の請求をゆるめる様、是非一度藤原氏に御願い放したいこと 「万朝報」を援助のこと云々。
封筒 巻紙墨筆 名刺 首相と山本氏との間を往復の結果、漸く十万丈近く調達方努力可致とのこと 御喜には副はざることというそら
え供云々 大分新聞記者も目をつけ始め候には、小生来邸せぬことに致候云々。
封筒 巻紙墨筆
満鉄本社実業部庶務課長木村通氏赴欧に就き、西比利亜経由希望候に付ては御助力を仰ぐ度旨依頼と同
時に本人紹介書。
封筒 巻紙墨筆
本日再び田中男を訪問、時局に関しても又、内政に関しても、其の話、相手は閣下なり閣下に助けて貰わね
ば駄目なりと話した云々 尚田中男は本夕九時前後、閣下を訪問の筈、それを伝えて呉れ候と頼まれた
云々。
封筒 巻紙墨筆
元大連市長杉野耕三郎氏を紹介状
84
来翰
松岡洋右
まつおかようすけ
(大正14年)10月18日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
松尾小三郎
松方正義
松方正義
松木幹一郎
松木幹一郎
まつおこさぶろう
まつかたまさよし
まつかたまさよし
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
1923/10/12
1922/10/30
2010/11/2
(明治)
大正8年除夜
来翰
松木幹一郎
まつきかんいちろう
(大正9年)6月12日
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正11年)1月21日
(大正11年)7月26日
来翰
松木幹一郎
まつきかんいちろう
(大正11年)9月19日
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正11年)12月27日
(大正11年?)21日
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正12年)5月5日
(大正12年)7月31日
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正12年)7月11日
(大正12年8月)25日
来翰
来翰
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正12年)9月26日
(大正12年11月)9日
1923/12/27
大正12年
便箋ペン筆
迂生が長々当地に無能振を発揮しているので、自分は極東の大危局到らむとするを予感して、明日出発して
一応大連に帰り残務整理の上急ぎ帰京すること 御紹介の独人モーア君は当地にて2回来訪を受け支那時
局談相遂け、又御紹介の小幡氏は本日来訪したこと。
封筒 罫紙墨筆 罫紙ペ 帝都復興に関する意見書呈上 先月26日閣下の御意見を仰ぎたく取り急ぎ大略の意見を認め官邸に伺候し
ン筆
捧呈した帝都復興に関する件につき改めて別稿1篇呈上するとのこと。
封筒 巻紙墨筆
旧知諸君が米寿記念の祝賀会を起し、帝国学士院に「松方記念」の奨学会を設けてくれたことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆 名刺 運送船業者原田商行原田十次郎面方紹介状。
罫紙墨筆
目下予算之状況未定之今日にて若し通過致すとせば台湾神社宮司任命致可、宮司御任命引継き禰宜に充
分経験ある国学者を一名採用相成様致度とのこと。
封筒 巻紙墨筆
大正8年の除夜に際し年来の御高恩に感泣せる事 殊に病気の際数次御見舞を賜り又長男の病死の際特に
生花一対を賜り家族一門深く御志に感泣仕候事に御座候厚く御礼奉申上候。
封筒 巻紙墨筆 タイプ 山田忠正参り「資本主義」に就て小生の説を求め普選問題に移り閣下の自治堂と結取付けて話を致し其後雑
印字物
誌改造、世界へ出したきを以て与へ候一部タイプライターして高覧に供し申候此度閣下御提唱の実現として
大々的調査機関が政府の一部に出来候やの由之に就て御高話を拝聴致度候有之近日参上。
封筒 巻紙墨筆
仏使節来朝にて御多端中恐縮ながら、昨年来御話があった山下へ御一声の件よろしく願い度しとのこと。
封筒 巻紙墨筆
昨夜は鶴見君に極めて時局に緊要なる題目に就ての御講演を承り尚又御馳走に預り難有御礼申上候 支那
に遊歴する人士も数多く候へとも鶴見君の御旅行の如きは到る処において当代々表者の人士の意見を求め
寧極めて稀な孫子興味津々たるを覚えた次第云々。
封筒 巻紙墨筆
本書持参村上貞一氏閣下に一度御目に通り願度と切望致候に付誠に恐入けれとも引見賜り申上候同氏は之
朝日新聞に従事し小生の同郷の故何卒本人の願意御許容之程偏に奉候有之。
封筒 巻紙墨筆 領収証 金500円、村上貞一氏へ渡したる領収証を封入の書状。
封筒 巻紙墨筆
後藤会長閣下 市政調査会 松本理事 一昨夜差上げたタイプライター印刷は、文章が訳文崩しのため難し
く遅延。昨日は日比谷会館の懸賞図案程出期限18通到着。佐野博士一見、大体満足の結果との由審査期
限は3月中だが佐野博士は4月上旬中に行ないたいとのこと。 ビアード博士旅程を変更云々。
封筒 巻紙墨筆 名刺 近藤達児氏より重ねて演説方懇請の件。
封筒 巻紙墨筆
来月15日ヨッフェ氏、川上氏を上客として御招待の趣、予備交渉の結末新聞之模様にては当局之態度依例
にこせこせ致居何角御配意之事奉相察被下候 来る四月ハグルフ大使御地へ参上相成候由又是天下刮目
之焦点に相成可申かとのこと。
封筒 巻紙墨筆
人口食糧問題に関する委員会の件、今後好機会有之の節は此加えられ候様、首相一御推存願上致候。
封筒 巻紙墨筆
加藤首相意外に早く病気革まり、誠にお気の毒云々 閣下と情意お投合の日露問題途上、此事ある遺憾に
有り、政局は波瀾今正に酣ふれども一も未だ核心に触れたるなし、1日も早く御帰京あらせられた候、村上も
日日運動云々。
巻紙 封筒 タイプ印字 桐島氏は自宅にて食事を済まし、午後6時半頃御伺可申し上候との返事。別紙松木幹一郎「経済ト政治ノ相
物
互化」あり。
封筒 巻紙墨筆
昨夕御示の件は目下の市況急御購入を試むる程度のことに無之 因に商人の方へ一々直接に返事不致事。
封筒 和紙墨筆 辞職願 虎の門事件の為、松木は帝都復興院副総裁を辞す辞職願書。
封筒 巻紙墨筆
特別委員会協定案を認められたる趣旨、復興院官制及び復興法に関する評議実会に対する打合書。
85
来翰
松木幹一郎
まつきかんいちろう
(大正13年)1月24日
封筒 巻紙墨筆
来翰
松木幹一郎
まつきかんいちろう
(大正13年)5月5日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(大正13年)9月30日
2010/2/26
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
2010/4/25
(大正)12月8日
封筒 巻紙墨筆 名刺
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
松木幹一郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう
(昭和2年)7月30日
(昭和2年)8月5日
(昭和2年)8月6日
2010/8/5
2010/9/5
(10月27日)
来翰
来翰
来翰
来翰
松木幹一郎
松木幹一郎 井上敬次
郎
松木堅二郎
松崎章太郎
まつきかんいちろう
まつきかんいちろう い
のうえけいじろう
まつきけんじろう
まつざきしょうたろう
(昭和4年)1月13日
(大正8年)6月25日
1920/12/23
1924/1/30
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 タイプ
印字物
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆 タイ
プ印字物
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
松下軍治
松平恒雄
松平恒雄
松平康荘
松田武一郎
まつしたぐんじ
まつだいらつねお
まつだいらつねお
まつだいらやすたか
まつだたけいちろう
(大正4年)6月4日
(大正13年)4月11日
大正(13年?)4月14日
(大正9年)7月16日
1909/1/7
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 タイプ
印字物
封筒 巻紙墨筆 罫紙
封筒 巻紙墨筆
罫紙墨筆
来翰
松田武一郎
まつだたけいちろう
1911/2/8
封筒 巻紙墨筆
86
本書持参の山本秀煌氏は本会研究員にして今期議会に提出するべき宗教法案に就て反対意見を有せられ
る子爵閣下の御教示を得度ため御引見を賜りやう同氏参邸の節は宜敷御願申上候。
桐島君を訪問御伝言之趣旨相伝へ置申候 税金の件に田辺に命し調査致候事 11日友邦協会の総督招待
晩餐会に閣下を御招待申上候事筈 近藤達児参り閣下へ御願之筋申入有之尚周氏代理御地に相伺候趣に
付小生之手紙持参 岡副会長帰京本日本会へ相見へ申上候。
市会投票の結果、予期の如く之あって復興倶楽部御指導のこと最有意義と相成可申 已に天下に御発表通
り御辞退ありて、次点の中村氏に思切って辣腕を振はめ云々。
①先日御電話にて承り市ヶ谷方面地所之件研究仕候処家屋敷地にしては山下にて広過き申候に付一方投
資関係之積にて相調へ候へとも是亦見込難相立誠に恥入候… ②日野強氏等の件に付田中次長及本郷司
令官へ一書御発送賜り候は誠に此上仕合に相察候。
同郷人博文館の編輯員桑原雷晏氏紹介状。
仏領印度支那の御旅行は事情御困難の趣様候 大に失望仕候、別紙クローデル仏大使が松岡氏に宛たる
私信を見ると如何に閣下の御旅行を期待し居たりしかを知るに足るべく御断りの御挨拶お手加減の程願上候
云々。別紙に仏大使の手紙写あり。
会館の問題も既に山は見へ申し上け、此更両3日の内に具体的御報申し上げ得候 御役所の繁文縟礼を繰
り返し候、新聞記事を頗る掛念致候様子。
市政会館使用認可に付き、警視庁当局との交渉次第書と読む件。
昨日林屋警視総監に面会今朝掛の方に取調有之候更明後日月曜迄には当方入手の運になり可申候、尚安
田総長結城重役を保養地に訪問大体のお話致申候。
鈴木於菟平氏訳の日露非公式交渉議事要録(露国側作製の分)を同封で送付する件。
昨日御話申上候 新聞切抜入御覧され
①「復興倶楽部推薦会員歴訪顛末」12日、後藤の命により、柳田国男と分担して各氏を歴訪勧誘した結果(用
箋) ②「十月二十七日帝国ホテル招待者名簿」出欠の記入あり (和文タイプ)。
霊気療法の宮川(吉三郎)氏を御紹介申上候 安川氏は面目を施し早速参上せるゆえなる次第 御容体は何
卒本人へ直接に御指示奉煩度願上候。
欧米漫遊に付、7月1日に送別会を京橋区築地新喜楽に開催御案内状。
東京市長に御就任を賀上候 欧州へ御出発を舎兄幹一郎の代理として東京駅にて見送致候。
震災に際し後藤が義捐金募集に尽かしてくれた結果、区内の有志から9万1000余円の寄付があったこと、そ
れを弔慰金・見舞金として罹災者に贈与、事務費などとして使用した結果、5万5500百円の預金が残ったこと
を報告し、この預金の使途について後藤の意見を仰いでいるとのこと。
長野県人より金壱万円借用していたる処本日突如差押閉口、頗る心苦敷次第、借用依頼か云々。
伯林より森氏の件に関し電報到着につき、とりあえず貴覧に供すとのこと。
別紙写の通り在独本多大使より来電 実否につき返電の必要あり 御示を煩したしとのこと。
客月八日当地(福井)御出張の節、別邸にて撮影した写真を記念として進呈とのこと。
謹賀新年、満州御経綸の御方針について、将来も専心撫順開発に尽力致したし、去月28日付書につき正副
総裁新任後一層奮励の訓示に従うつもり、岩崎男の意向を確かめたところ同意安心。
無事静養安心ありたし。病状報告。満鉄事業の意見は龍居へ答えた。封筒表書に「逓信大臣行書信控 二月
八日夜」と記載されている。
来翰
松田正久
まつだまさひさ
(明治38年)7月2日
来翰
来翰
来翰
松田三徳
松永安左衛門
松永安左衛門
まつだみのり
1918/1/11
まつながやすざえもん (大正10年)5月17日
まつながやすざえもん (大正)3月8日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
松室致
松室致
松室致
松室致
松本剛吉
松本さだ
松本重威
松本安正
松本安正
松本安正
まつむろいたす
まつむろいたす
まつむろいたす
まつむろいたす
まつもとごうきち
まつもとさだ
まつもとしげたけ
まつもとやすまさ
まつもとやすまさ
まつもとやすまさ
1914/7/16
1916/2/25
1917/9/27
(大正)6月12日
(大正6年)2月27日
1912/6/18
(大正6年)12月23日
(大正11年)3月2日
(大正11年)3月13日
(大正13年)6月6日
来翰
松本安正
まつもとやすまさ
(大正11年~昭和3年)2月8日
来翰
松浦厚
まつらあつし
(大正3年)10月21日
来翰
真鍋嘉一郎
まなべかいちろう
1923/8/5
来翰
来翰
馬渕鋭太郎
馬渕鋭太郎
まぶちえいたろう
まぶちえいたろう
(昭和3年)5月25日
(大正6年)9月15日
来翰
丸山耕吉
まるやまこうきち
(大正2年)5月17日
来翰
三浦謹之助
みうらきんのすけ
(明治28年)1月21日
封筒 巻紙墨筆
木村久太郎より台湾での金坑経営の現況を聞くに誠に気の毒 同人将来坑業家として必ず国家の公益を為
す者につき、公平な御判断を以て行政上の処置に差支えない限り、本人の志功を遂げさせられるよう依頼す
るとのこと。
封筒 巻紙墨筆
大正7年度予算に観音寺池田線を計上されたことに対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
市政一般の計画を実行するために、市会を解散して新市会を組織し、市民の意志を問い、市民自ら責任を有
することを知らしめるべきことを提言とのこと。
封筒 巻紙墨筆
御高嘱の御所有地問題、田島氏出社せず 同人秘書より聞いたところ、不明瞭であるが、どうも買った様で取
りあえず御知らせする なお同氏に面会の上問い正した上、お伺いして相談したいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
一昨日官租より帝室会計審査局長官に推挙の内示あり、これは御尽力の結果にて昨夜快諾の旨返答とのこ
と。
封筒 巻紙墨筆
「日本膨脹論」恵贈に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
自作の茄子少々貴覧に供す 御笑納願了。
封筒 巻紙墨筆
過日御尽力御願いした寄付金の儀につき別紙趣意書その他御一覧の上御高配を乞うとのこと。
封筒 罫紙墨筆
①「憲政会、倦色アリ」と題する報告書 地方候補者の不況を中心に報告。
②「憲政会幹部会議」との報告書
封筒 巻紙墨筆 巻紙印 故児玉源太郎七回忌法要を来る22日建仁寺にて執行につき来臨を乞うとのことなど。
刷物
封筒 巻紙墨筆
国元より静慮庵慈隆和尚の筆蹟送付につき両3日中に携帯参邸するので面謁下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
原田(二郎)翁へ貴意の程談話 同翁は御来談を期待する様子 寸隙の日時があれば御連絡を下されたしと
のこと。
封筒 巻紙墨筆
巣鴨中学校へ援助の件 原田翁の件 翁の周囲に真個の相談相手たるものなく尊台の御善導に期待 市政
調査会趣意書拝見 時代の要求に応じた緊急の御施政と推察とのこと。
封筒 便箋墨筆
清浦内閣投出し決定 後継は加藤に大命降下 三派の一角が崩れることあり「老人」は閣下を新内閣に立た
しめることを希望 「老人」の死後壱千万円献金の件小橋氏の策略 清浦氏来談 御成婚紀念財団の件は
中止 宮内省倉富氏に問合せ将来建議を提出することになる 阿部盛は日露学校書記に採用。
封筒 巻紙墨筆
星製薬会社資金融通の件 原田老人病臥中につき時機を見て小生より委細進言のつもり なお一宮・星両氏
にも直接会見し、来る十月には星の案内にて工場・学校等の施設活動の実況を見学する筈とのこと。
封筒 巻紙墨筆
大原伯爵嗣子縁談一条 伊達伯爵家にて断念と思ひしにその談再びこれ有る伝承 閣下のお考えは 嗣子
病気全癒にて前途案事する点なしと御認めになりこの際縁組の儀御賛成か 小生の心得まで御一報を煩した
し 先般申し上げたように本月末か来月初めに例の小集を催したく御都合伺いたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
三並氏のその後の経過順調につき本日小生の私邸より大学病院病室の方へ相引移し候折角ご打電ご依嘱
の栄(ド)博士通訳の一件病臥中の脳裏に終始往来いたし煩悩の模様よりしも尊翰拝受寛大感謝とのこと。
封筒 便箋墨筆
別冊『労働組合提唱』呈上
封筒 巻紙墨筆
教育上危険思想防止の義貴意を伺ひ努力主義の教育と題し県下に提唱教育上施設を試みた、国民思想統
一は内務行政上実現も、教育方面は頗る遺憾岡田文相に呈議、考証派の歴史派の勢力強く研究に流れ教
育的訓育的方面に欠け、訓育は一に修身に委するの状況憂慮 今こそ国史教育の徹底必要のこと。
封筒 巻紙墨筆
小生酒田に来り種々尽力 国民党支部は設けないことに決定 酒田町会議員は全員当選の見込み、貴党に
趣くには便利 飽海郡の政友会中遊佐村方面は全部竹内氏に内決。国民党との関係上非常に心痛。今般の
運動に刑事巡査が尾行するの意外。運動費かかり250円の借金ができたので御送金を願うとのこと。
封筒 罫紙墨筆
島田三郎より話のあった新聞に一欄を設けて毎週1回くらい返事衛生記事を発表することは小生も賛成 我々
医学者にて組合を組織し返事衛生の普及を謀る件は如何 貴兄賛成ならば早速取りかかりたいとのこと。
87
来翰
来翰
三浦謹之助
三上参次
みうらきんのすけ
みかみさんじ
(大正7年)11月23日
1915/8/27
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
美喜男
三島通陽
三島通陽
三島通陽
水野遵
みきお
みしまみちはる
みしまみちはる
みしまみちはる
みずのじゅん
丙辰(大正5年)秋
(大正13年3月)16日
(昭和2年7月)17日
(昭和年)3月3日
明治29年8月5日
来翰
水野遵
みずのじゅん
(明治)5月1日
来翰
水野遵
みずのじゅん
(明治)9月25日
来翰
来翰
水野禎三
水野禎三
みずのていぞう
みずのていぞう
(明治38年)3月18日
(明治39年)12月3日
来翰
水野禎三
みずのていぞう
(明治39年)12月6日
来翰
水野禎三
みずのていぞう
(明治39年)12月7日
来翰
水野禎三
みずのていぞう
(明治39年12月9日)
来翰
水野禎三
みずのていぞう
(明治40年)5月17日
来翰
来翰
来翰
来翰
水野禎三
水野禎三
水野禎三
水野禎三
みずのていぞう
みずのていぞう
みずのていぞう
みずのていぞう
(明治42年10月2日)
1916/10/5
(大正6年)6月27日
(大正6年)7月10日
来翰
水野禎三
みずのていぞう
(大正7年)9月7日
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒のみ。
この書面持参の文学士阪本健一は鉄道院の委嘱にて鉄道沿革史を編纂していたもので鉄道史に関する裏
面の材料となるべき御話を承りたく参上させるので差支えない限り御話し下されたし。
巻紙墨筆
漢詩
封筒 便箋ペン筆 新聞 「大毎」社説に掲載の「少年団と学校」送付(「大阪毎日新聞」大正13年3月16日付切抜同封)。
切抜
封筒 伝書鳩通信用箋 箱根キャンプ場よりあいさつ。
ペン筆 印刷物
封筒 巻紙墨筆
久邇侯爵より(ボーイスカウト)コペンハーゲン大会に参観者として出場したい旨御内意を承わったとのこと。
封筒 罫紙墨筆
民政局長水野遵 衛生顧問後藤新平殿 阿片に関する各種鑑札名義等入用に付 意匠等貴官の御見込に
て印刷局に注文されたし 阿片取締方法の実施は10月を期し、まず台北に施行のつもりにつき、その含みに
て至急調製されたし 追って本文につき製薬所属鷹﨑僊三を上京させるのでしかるべく指揮されたしとのこ
と。
罫紙墨筆
兼て御協議の病院長待遇の件 内閣書記官に相談したところ多額の手当を給することは難しいとの意見にて
実際上差支を生じ止むを得ない状況となれば官制改正しか途はない ついては兼て申上げておいたように御
取計いの上至急渡台なされるようお願いしたい 名古屋ホテルに於て。
封筒 巻紙墨筆
上遠野富之助紹介 日本鉄道車輌製造会社は内地鉄道会社より注文あり好成績 台湾の鉄道車輌も製造を
命ぜられたき志願あり 今般同社取締役上遠野富之助氏渡台につき、同人より御聴取されたし 同社は台湾
に分工場設置を計画しており、将来総督府の便利となると思われるとのこと。
巻紙
過日児玉男ヘ歎願した事は御承知のことと思うが、数次書面を呈するも未だ返信なく頗る苦辛 願わくば男爵
の意中を御同察の上、至急男爵へ書信を発して下さるよう願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
今回御鑑識を蒙り、会社事業に尽瘁する志望なれども旅費不足のため未だ上京できず、1日も早く上京して
お目にかかりたい 愚息春風にはお目にかかるよう申付けてあるが寒書生につき、面会が叶うか心配 別紙の
ように今回就職したか 自分が会社就職できたらまた学文させたいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
15日御出発のこと新聞にて拝承、満地へ御供したいが旅費がなくこの地を動くことできない 本日大蔵村の者
が来て、山村売却は余日が必要とのこと、10日までに調達するよう依頼。閣下出発万一御採用の上は犬馬の
労を尽したい。愚息春風には何とか充分の教育を受けさせたい。
巻紙墨筆
「今朝御尊書ニ付、履歴等一覧ニ供ス」以下自身の経歴につき、品川、高島、児玉などの恩顧などを記す 本
日大蔵の者が参り、山林の下木を買却して上京に間に合わせるとのことで、上京拝趨の上御眼子に叶わなけ
れば駅夫炭鉱夫にでもなる覚悟とのこと。
封筒 巻紙墨筆
尊書拝見 将来有望の大会社は青年採用はもっとものこと 故大将逝去の後は閣下に従い抱負を達したく忠
実懸命に事に就くつもりなので、秘書・庶務・文書等の仕事が志望 とにかく上京面会だけは御許容下された
しとのこと。
封筒 巻紙墨筆
後藤寺内両名宛 尊書を得ず苦慮 先般上京した時は不幸空しく帰宅したが何とぞ寺内閣下と御相談の上
採用となるよう、愚息の教育も覚つかなく生計困難の逆境を御推察下されたしとのこと。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
寺内伯大命拝受につき、閣下へ御祝賀を申し上げ、ここに小包を拝呈す。
封筒 巻紙墨筆
後藤に対する揮毫依頼および建碑の件依頼。
封筒 巻紙墨筆
過日依頼の揮毫の件、絹地を添えてお願いした筈、故児玉大将御碑建設の件、不可能との思召ならば見合
せ、閣下不許可ということならば致方なくいずれにせよ御沙汰を仰ぎたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
過日来御伺いの件未だ御答なく受領証も御返却なし、過般来絹を差上げ御染毫をお願いしてあるが、これま
た何等御沙汰なしとのこと。
88
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
水野禎三
水野禎三
水野禎三
水野禎三
水野禎三
みずのていぞう
みずのていぞう
みずのていぞう
みずのていぞう
みずのていぞう
(大正7年)12月23日
(大正8年)1月30日
(大正8年)12月19日
2010/6/16
(大正13年)7月14日
来翰
来翰
水野禎三
水野禎三
みずのていぞう
みずのていぞう
(大正13年)7月17日
(大正13年)7月27日
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
(明治)6日
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
(明治)29日
来翰
来翰
水野錬太郎
水野錬太郎
みずのれんたろう
みずのれんたろう
(大正2年)11月22日
(大正)2月24日
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
(大正6年)11月14日
来翰
来翰
水野錬太郎
水野錬太郎
みずのれんたろう
みずのれんたろう
(大正8年)12月26日
(大正9年)2月19日
来翰
来翰
水野錬太郎
水野錬太郎
みずのれんたろう
みずのれんたろう
(大正9年)4月30日
(大正9年)11月20日
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
(大正9年)12月20日
来翰
来翰
水野錬太郎
水野錬太郎
みずのれんたろう
みずのれんたろう
大正11年8月(17日)
(大正12年)2月18日
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
1924/5/6
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 紙片
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
昨年末は歳暮の御祝へ鮎すしを御取上け放しに相成り最早1ヶ年、御尊毫を蒙り候や、絹地是又御取上け放
し大正8年は御染筆仰付けられ度く懇願云々。
今年は賀状も御遣し無く、昨年は御歳暮御答礼も無く、又御染筆相成らず絹地御返却も無く如何思召されて
いるのか、一応承知したいので一報してほしいこと。
先般来、絹地を差上げ御染筆を御願申上げたが、御閑暇を見計い初春にても御尊毫を下されたいこと。
過般御願した「七々子」御揮毫を賜るよう願うとのこと。
古希御祝に付き佐藤将軍の御書披露のため進呈したこと、自分は児玉大将以来四、五回会見シ、和子殿の
死去と御老母の死去には香料を呈し、市蔵殿の婚儀には御祝儀を申上げたこと、老生還暦の祝に上等箱入
綿紗付紙入に末広料を遣され相当の答礼があったこと云々。
封筒 巻紙墨筆
和子・母堂葬儀の香料、市蔵婚儀の祝儀・返却の督促状。
封筒 巻紙墨筆
過日紛失を恐れて書にて御祝い願上げた次第、然に封袋に書留の判はあるものの佐藤将軍の書は無く不審
に思い照会するここと、和子母堂死去の香料と市蔵君の祝儀等は木挽町の官舎ヘ老生が持参して閣下の承
知のことなので、御返送を待っていること。
巻紙墨筆
台湾地方官俸給令改正は内地府県地方官俸給令改正まで見合の趣と聞いていたが内地地方官俸給令は直
ちに決定するものでもないので俸給令改正如何にかかわらず兎に角大臣より御申出の人を直ちに採用になる
か俸給令改正後採用したい都合であれば台湾俸給令を先に提出することは出来ないか云々。
封筒 巻紙墨筆
菊池武一は昨年教科書事件にて休職となったがその後予審免除となり全く冤罪のことが判明し、復職を希望
するも本省にては今は難しく、同人は台湾の行政に従事したい希望があるので適当な場所があれは御採用を
願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
『ハンザ同盟大要』並に『政党社会学』恵贈に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆 謄写版 其後御病状は如何、選挙事務も田逓相邸の会合にて漸次進捗別紙新妻案某之書状御参考まで、同書中本
印刷 罫紙墨筆
人云々とあるは池上大阪市長の事で、大阪市に一勢力を有し、新妻に話して中立議員のため尽力させたい
考え、御出発前御下命の栃木の関口吾一郎に関する件云々。
封筒 巻紙墨筆
過般御電報は首相に申上ぐ。京阪地方経済界に対し蔵相下阪して財政方針を説明すること機宜に適す。ホ
テル問題はその後大蔵次官と交渉、7万5000円支出のこと承諾。内務省実行予算中より支出し、残高は予備
金より支出大蔵次官と交渉中。北海道森林経営のこと俵長官上京中本夜御地へ出張につき云々。
封筒 巻紙墨筆
小生過般来感冒にて発熱、伊丹博士の診断に疲労衰弱抵抗力薄弱にて、長途の旅行は中止すべしとの戒
告あり 心外ながら帰鮮は一時延期し、湯河原に転地療養中とのこと。
封筒 巻紙墨筆
滞京中は種々仰高配に預り有難く小生病気も追々軽快平熱に復す 当地も只今のところ小康を得るも種々の
小事故あり決して安心の状態ではない しかし時日を以てすれば追々平静に復すると思われる 内地方今の
状況は実に不安定にて一大革新を要する 小生は一身の利害を犠牲にして御援助の決意。
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 京城市内某易者の門前に別紙の如き張出があったと写して送ってきた者があり、春の夜の御徒然のお慰みに
ン筆
拝呈するとのこと。
封筒 巻紙墨筆
当地の状況は1部の人が想像する程険悪ではないが、併合後十年くらいにすぎず多少の紛争は免かれず異
民族をして短日月間に忠亮の臣民とするのは困難 内地人が鮮人が悪化せりとて、神経過敏になるは大国民
の態度ではなく、大局を見るの明が必要云々。
封筒 巻紙墨筆
今回東京市長御当選御承諾の趣、大慶と申すよりむしろ御苦労千万と申上げる事適当 唯々義侠的御決心
に感服する外なし 東京市政の刷新には市民の覚悟を促すことが現状では必要で、これには閣下の手腕を
待つ外なく、是非御奮闘を乞うとのこと。
封筒 巻紙印刷物 水野夫人病気見舞に対する礼状 一時は如何と案ぜられたが、容態も追々軽快に赴き、近く帰国の途に就き
得る見込とのこと。
封筒 印刷物
旧臘蘇東坡後赤壁稚会の席上、別紙の如き小生作2首に対し列席諸賢の次韻倡和を忝くし、これらを取りまと
め印刷したく、併せて広く御同好諸賢の御次韻御倡和も仰ぎたく御恵投を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
ロックフェラー財団より救援申出に関する件につき財団より直接内務大臣又はその代理者と商議するため、代
表者としてドクトル・ビクトール・ヂ・ハイザー、ドクトル・ヂョン・ビー・グランドを日本へ派出すべき旨の通報に接
したので念のため御通知するとのこと。
89
来翰
水野錬太郎
みずのれんたろう
(大正12年~昭和3年)7月23日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
水野錬太郎
水町袈裟六
三瀬彦之進
道重信教
三井邦太郎
宮入慶之助
宮入慶之助
宮入慶之助
みずのれんたろう
みずまちけさろく
みせひこのしん
みちしげのぶのり
みついくにたろう
みやいりけいのすけ
みやいりけいのすけ
みやいりけいのすけ
(大正14年7月24日)
1907/2/2
1926/9/25
(大正2年)9月10日
1927/10/29
(明治32年~39年)10月22日
(大正6年)2月25日
(大正12年~昭和3年)6月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
宮尾舜治
宮尾舜治
宮尾泰利
宮尾泰利
宮尾泰利
宮川隆
三宅驥一
宮島幹之助
みやおしゅんじ
みやおしゅんじ
みやおやすとし
みやおやすとし
みやおやすとし
みやがわたかし
みやけきいち
みやじまみきのすけ
1929/3/19
1919/7/18
(大正8年8月1日)
(大正12年)8月31日
1923/11/11
1923/10/4
1921/9/3
来翰
来翰
宮島幹之助
宮島幹之助
みやじまみきのすけ
みやじまみきのすけ
1926/2/2
2010/6/5
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
三好徳三郎
三好徳三郎
三好徳三郎
閔元植
武藤山治
村上彰一
村上彰一
村上先
みよしとくさぶろう
みよしとくさぶろう
みよしとくさぶろう
みんうぉんしく
むとうさんじ
むらかみしょういち
むらかみしょういち
むらかみせん
(明治32年~39年)4月14日
(大正11年)8月21日
(大正12年~昭和3年)8月25日
2010/12/27
大正13年1月(19日)
1912/4/1
(大正3年)11月29日
(明治32~39年)1月24日
来翰
来翰
村上先
村上先
むらかみせん
むらかみせん
(大正5年10月12日)
(大正7年)12月5日
便箋ペン筆
過日は御招待に頼り拝謝、その節御内示の極東拓殖会社案ならびに設立の件につき早速拝見いたし、その
中四、五の点につき、欄頭に卑見と批評を加えたので、然るべく御取捨下されたし 小生当地に書類整理
旁々静養中、不日帰京の上御面会のつもりとのこと。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
南満州鉄道株式会社損益計算別冊の通り調製したので貴覧に供す、御意見あらば御一報ありたしとのこと。
封筒 和紙墨筆
三瀬周三(諸淵)贈位の儀につき尽力を賜ったことへの礼状。
封筒 巻紙墨筆
静寛院宮奉賀会の議につき願出の件に対する後藤新平の承諾に謝意表明。
封筒 巻紙墨筆
昨日突然の参邸にもかかわらず面謁していただいたことへの礼状。
封筒
封筒のみ。
便箋ペン筆
病気見舞 「学俗接近」はしばしば閣下の御談義に上がるが鷹之助の思うに、今日の我国の学者に現況に見
て切実に熱望されること。
便箋ペン筆
福岡の学校衛生主任者の会合で演べた「腸内寄生虫に就て」を御高覧下されたく福日付録を座右に差し出
す、さし当たりの目的のため政府は寄生虫予防研究所というようなものを設けるべきと思いつき、これを実行に
移すにあたり閣下と石黒閣下の御発言に期待とのこと。
封筒 巻紙墨筆
農相秘書官より肥料管理法案外二件特別委員石井省一郎に対し、法案通過に尽力してくれるよう閣下より御
依頼願いたしとのことにつきよろしく願うとのこと。
和紙墨筆
別紙勅令案送付、関屋参事官と御協議の上総督御決裁の上御内申相成度。
封筒 巻紙墨筆
政州漫遊中の後藤に対し御健康を伺い漢詩を寄せるとのこと。
封筒 印刷物
本文書なし 別紙として「東京朝日新聞」号外大正8年7月31日付、「東京朝日」外府下各新聞連名、工場員の
過大要求のため休刊する旨通知(8月1日付)。
封筒 巻紙墨筆
残暑御伺。
封筒
封筒のみ。
罫紙墨筆
震災後の救済復興事業に従事する人物推薦の件。米山梅吉・近藤賢二・水崎基一・末広厳太郎・渡辺鉄三・
秋山高 ・小松原彌六・後藤正基・佐久間秀雄・白神寿吉
封筒 便箋ペン筆
着欧以来当地ジュネーブにて研究に従事、去月は国際保健委員会に日本委員として出席、本月5日開催の
連盟総会では阿片問題と衛生問題を分担する筈 3月に開かれる阿片委員会に出席の後復帰朝の予定 当
地国際連盟事務局在勤の新渡戸博士の頗る壮健とのこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 今朝面会の節、公費を以て医師の配置を要すべき村落数、人口を申し上げたが、大震災前の調査なので内
ン筆
務省に行き取り調べた内容を別紙として送るので御一覧されたしとのこと。
巻紙墨筆
後藤の下命に依り先般御手許に差出した台湾阿片制度及び諸法規と共に高覧に供すべき日本内地の阿片
取締に関する法規を別紙に相認め差出すので、御閑な節に一覧願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
閣下本日御帰台のところ、不肖病気入院中につき欠礼の段御海容下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
賀来長官日々勉強、今や官民の徳望一層厚く諸事順調につき、中央政府に引抜れては台湾にとって一大損
害につき、今しばらく台湾に留任するよう御配慮を願うとのこと。
巻紙墨筆
風説の如く台湾総督・総務長官の更迭が行われたならばその後任者如何により、小生大いに考慮すべきと考
え、その場合は閣下の御指図により進退と態度を決したいこと。
封筒 巻紙墨筆
出京中のご高配に対する感謝及び近況報告
封筒 巻紙墨筆
小生曩に実業同志会を発起、国家の為め尽力、閣下に対し、この際愚裏の存する処を具陳し御諒知を請い
置き度 ここに別冊を贈呈すとのこと。
封筒 和紙墨筆
本線に接続する鉄道路線の新設工事に関する意見書。
封筒 和紙墨筆
別府その他地方に伝わる美風についての所感。
巻紙墨筆
閣下御不予にて退養中とのこと 摂養の程を願う 塩水港製糖会社質量とも昨年より好成績なれも糖価不振、
これも底値と思われる 総督は去る9月南下、急行程にて新営庄には15分休憩のみ、会社へはお立寄りなし。
政局も一転機、今次内閣には東奥の地より2大臣を出し、小生等後進にも気味し云々。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
近時東洋協会内部に種々の弊害を生じ、そのため小松原会長が引退し、他に有力会長を推戴することに内
定、後任会長は閣下にお願いしたいというのが会員全部の希望、是非とも御承諾を願うとのこと。
90
来翰
来翰
村田俊彦
目賀田種太郎
むらたとしひこ
めがたたねたろう
(大正9年)5月23日
(大正4年)5月19日
来翰
来翰
来翰
来翰
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
(大正6年)11月8日
(大正8年)2月15日
1920/3/19
(大正9年)4月7日
来翰
目賀田種太郎
めがたたねたろう
1921/3/3
来翰
目賀田種太郎
めがたたねたろう
1923/2/16
来翰
目賀田種太郎
めがたたねたろう
(大正12年)3月9日
来翰
来翰
来翰
来翰
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
1923/4/29
(大正12年)7月9日
1923/11/20
1924/5/16
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
目賀田種太郎
物集高見
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
めがたたねたろう
もずめたかみ
(大正13年)5月27日
(大正13年)10月9日
(明治40年~大正10年)12月10日
(大正12年~昭和3年)1月14日
(大正12年~昭和3年)2月15日
(大正12年~昭和3年)3月20日
(大正12年~昭和3年)4月2日
1926/2/19
来翰
来翰
物集高見
持地六三郎
もずめたかみ
もちじろくさぶろう
(明治37?年)4月2日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
小生目下青島に滞在、時々済南に出張、今春頃禹域御漫遊の御企てがあると伺ったがその後は如何是非御
実行され度、その節は弊社塩田を御高覧を願うとのこと。
前日開会の一部六部連合会において古市氏より鉄道院に対し説明を得た結果報告、省鉄両部関係、すなわ
ち国債基金と鉄道会計との関係調査のため明午後幸クラブにて両部開会につき御臨席を願うとのこと。
封筒 便箋ペン筆 罫紙 米国桑港および加州における日本人の関係は延いて国交に及ぼす事件であるとし、現状の見分報告。
ペン筆
封筒 巻紙墨筆
御来書の趣米国トラクター会社来状の件、農商務省商品陳列館管掌のものと思われ、とりあえず同館へ回付
の上、適宜処理方を依頼したとのこと。
封筒 罫紙墨筆
本日別紙の通り森館長より電報あり高覧に供す。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 バンデリップ氏客月27日ニューヨーク発、去る5日デンバー着 その言うところは今や米国は独露の財政に関
渉する時機が熟した好機 一行は日本に至り大いに日米関係に尽力すべし云々。
封筒 巻紙墨筆
ジュネーブ会議を了したるも渋沢子その他実業方面より米国の視察を奨められ、欧州各国の実況も視察した
く急ぎ各方面を巡回中 然るに兼てよりの病気再発し三月上旬には帰朝したいと思ったが、便船なく、また各
国の旧知よりこの際立寄りを求めて旧誼を温めたいという書状もあり云々。
封筒 巻紙墨筆 謄写版 昨夜の小集は充分に要領を得たことと存ずる、在中の別案は自分より提出、いずれも異存なく殊に第三項莫
印刷物
斯科派遣の如きは、なるべく至急運び度しと和田氏主唱し、不日直接申し上げると思われるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
一昨日神崎氏ヨッヘ方へ参り兼てアントノフ関係もあり、日本にては日露合同経営の目的にて極東興業団を
組織し居る旨申し述べ、組織目的の大要を述べたところ、誠に結構といい、また東欧に向い日本船開航計画
のことを述べたところ、最も重要との考えで同意、露国本土へ日本人が到る件も賛成等々。
封筒 巻紙墨筆
幹事中島中将来訪 この度日露事件に対し、後藤子爵が御関係になることに立ち到ったことは誠に喜ばしい
として目賀田の心得までにと意見を開陳。
封筒 巻紙墨筆
鈴木陽之介氏の発議により、会員中の内議を別紙として貴閲に供す。
封筒 罫紙ペン筆 謄写 11月10日煥発の詔書は井田学校長が奉読し生徒に対し訓示を与えたこと、11月14日地方長官招待会におけ
版印刷物
る陳述は別紙の通り井田学校長へ心得として送付。
封筒 巻紙墨筆 便箋ペ 協会学校長の件、寺内・中島中将とも細談を遂げたところ気の毒ながら適任ではなく、これ以上経過すること
ン筆
はできないとして学者教育者であるだけでなく一般校規振粛、学校へ面目を発起すべき人物として、小松浅
五郎を進める云々。
封筒 巻紙墨筆
中島中将より今回賀陽宮宮務監督にとの内議があるが協会幹事は差支ないとのこと、小子へ内談があり、協
会としては前例があり異存がない旨を答えておいたとのこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 別紙写しの件につき、小生の聞くところとして質問したところ、答弁は大体新聞に報ずる如くであったこと、その
筆
他「ハルピン露字新聞」の報道内容を伝える。
巻紙墨筆
再刻の事由は拙序に申述べた通り著者の風としてずいぶん寓意潜情があるためとのこと。
封筒 巻紙墨筆
去る11日田中男へ罷越、第一、第二の内に付き内議、同男は第一の方然るべしと申され、篤と相談、返事に
及ぶべしとのことであったとのこと。
封筒 便箋ペン筆
ハルピン学校長露国視察費が出来たならば、陳列所の森氏も兼て志望しており同時に処置しなければ大い
に失望云々。
封筒 巻紙墨筆
御内示の案閲読、異存なし。
封筒 巻紙墨筆
先刻松井氏へ面会提出したところ、同氏曰く「コンナ必要ハナイト思フ然シ一閲ノ上供出可致」云々。
巻紙墨筆
政府としては対露政策上早く施すべき事項云々。
封筒 巻紙墨筆
毎年各地を行脚し遠からず帰京につきその節御一謁下さるよう予め願上げる、拝青の要は23年来各地の人
心次第に悪化の傾向にあるが、この悪化を幾分か減殺すべき方案を見付けたので、それを申上げたいとのこ
と。
名刺
新年奉祝の名詞「寓居 大分県豊後国宇佐郡駅館村 中間氏方」
巻紙墨筆
視学事務担任者採用につき推薦の件、その他学校教育に関する件。
91
来翰
来翰
来翰
来翰
持地六三郎
持地六三郎
持地六三郎
持地六三郎
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
(大正7年)2月9日
(大正7年)12月28日
(大正9年)4月7日
(大正10年)2月3日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
持地六三郎
持地六三郎
持地六三郎
持地六三郎
望月小太郎
望月小太郎
望月小太郎
望月小太郎
望月小太郎
元田肇
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
もちじろくさぶろう
もちづきこたろう
もちづきこたろう
もちづきこたろう
もちづきこたろう
もちづきこたろう
もとだはじめ
(大正10年)2月19日
(大正11年1月4日)
(明治40年~大正11年)7月6日
1923/5/27
1921/9/5
1923/2/1
1923/12/18
1924/2/15
1925/6/13
(明治32年~39年)5月22日
来翰
元田肇
もとだはじめ
(明治41年~43年)11月10日
来翰
来翰
元田肇
本野一郎
もとだはじめ
もとのいちろう
(明治41年~大正11年)4月15日
1918/4/2
来翰
本野一郎
もとのいちろう
1918/4/19
来翰
本野久子
もとのひさこ
(昭和3年)3月12日
来翰
来翰
本山彦一
本山彦一
もとやまひこいち
もとやまひこいち
(明治45年)5月13日
1917/10/16
来翰
本山彦一
もとやまひこいち
1918/11/15
封筒 巻紙墨筆
福島県伊達郡桑折町角田文平は緑家にして先代は貴族院多額納税議員、この度銀行経営を始めるにつき
閣下に御面謁・御教示・御庇護をお願いしたいとのこと。
封筒 巻紙墨筆
満州および北支那視察の所感、朝鮮との比較において意見を述べる。
封筒 巻紙墨筆
先日面会の折拝借の論文二篇拝読、大調査機関説立に関する論文再三拝読、感想を別紙に記述、御一説
下さらば光栄とのこと。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 別紙「英帝国之新精神」と題する論文は近来の面白き論文にて一説を試みたので御一読の光栄を賜りたくか
紙墨筆
なうことならば、「東洋協会雑誌」その他の雑誌へ掲載していただければ本懐とのこと。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 閔元植横死(2月16日東京駅ホテルにて刺殺される)につき、朝鮮参政権問題に関し感慨止む能れず一論文
紙墨筆
を起草したので御一読を乞うとのこと。
封筒 詩箋墨筆
漢詩文「元朝拝賀」「宸題 旭光照波恭賦」「次韻言懐」
封筒 巻紙墨筆
昨日台北着、月末には帰京の予定、かねて御内示の書類は昨日文書課の庫裏にて拝見、誠に台湾開政の
際の有益の資料と思われ全部写取り持帰るつもりとのこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 故田原天南が閣下の伝記編纂に関し蒐集した文書等を別紙の目録の通り一括送付につき御査収下されたし
ン筆
とのこと。
封筒 巻紙墨筆
昨今日本の立場に関し別呈の「軍備制限と日米関係」の趣旨を米国に徹底するため又々渡米の覚悟、つい
ては御寸暇もあらば御一読御指教を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
別呈「内田外相就任以来重要外交案件譲歩一覧表」幸に昨31日の官報号外に登載のものを拝呈、御一読下
されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
政友会の復興費の削限は現内閣に対する決戦であるがさればとて直ちに解散すれば敵の計穽に陥いること
になる云々。
封筒 巻紙墨筆 官報号 言語同断の解散、国運の阻止遺憾、これに過ぎず別呈卑見書中外交問題御一読を乞うとのこと。
外
封筒 便箋ペン筆
早稲田出身法学士上田光雄君を紹介、普選布及のため国民大学講義録発行し、小生も微力ながら共鳴して
おり何卒御引見を切望とのこと。
巻紙墨筆
この度岡松博士の御採用にて東京法学院卒業生小山田実・上田恒三郎台湾旧慣取調所に赴任、両人とも将
来は奉公の実を挙げると信じているので何卒よろしくお頼み申し上げるとのこと。
封筒 巻紙墨筆
先日御内示の趣拝承大いに安心のところ、頃日南海重役の者大挙反対運動に上京の趣電報あり、固より相
当の理由の下に御決定したことで今更右様の運動にて聊かも影響を受けることはないと考えるが、長引けば
いかなる故障相生じるやも計り難く、何卒至急御許可の発表を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆 名刺 小生友人酒井才二郎と申す者、朝鮮拓殖会社にありし折より一事業を計画しており、この度閣下に拝謁願い
たき旨申出たので御紹介申上げる御引見していただければ仕合せとのこと。
封筒 巻紙墨筆
支那交通部顧問平井晴二郎本年6月契約期間満了なるも再任固辞、後任者御詮議の上御回復願いたし。右
銓衡にあたっては支那将来の鉄道経営に対し充分なる地歩を占むるを急務とし、相当の機略と技倆とを兼ね
備えた者が必要。就ては鉄道官僚において重用の新進有為の人物を割愛される様ご配慮方。
巻紙墨筆
去12日閣議懇談の際付議された「西比利亜出兵問題ニ関スル帝国ト連合列強間の交渉顛末概要」ならびに
「本問題ニ対スル卑見」御参考まで別紙写各一部差進めるので御査閲を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
普選準備会解散により同会で使っていただいていた中津たか子は自然解職となったが、目下本人の給料によ
り一家をささえており気の毒、今は少年保護婦人協会の方で手伝ってもらい僅かの報酬を得ている次第、どこ
か転勤できるよう御取計らい願いたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
御原稿一篇拝手、早速新聞社へ廻しておいた、過般御内示の1件に対しても具体的に御答申上げたいと考え
ているが、選挙期日が迫り未だ其機を得ず御海恕下されたしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
先般東京大阪方面暴風雨洪水のため新聞用紙供給が意の如くならず、ついに紙数減少となったのは新聞
社、製紙場ともに責任あり、ついては将来このようなことがないよう方策を講ずるべく鉄道輸送上においても新
聞紙輸送に御配慮を願うとのこと。
封筒 巻紙墨筆
22日の日露協会の用事が済み次第出発して、23日の大坂の講演になんとしても出席してほしい旨。
92
来翰
来翰
来翰
本山彦一
本山彦一
本山彦一
もとやまひこいち
もとやまひこいち
もとやまひこいち
(大正11年)9月24日
(大正11年)10月25日
(大正14年)11月22日
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
本山彦一
もとやまひこいち
(明治39年~大正10年)12月24日
封筒 巻紙墨筆
来翰
本山彦一
もとやまひこいち
1928/12/31
巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
森孝三
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
もりこうぞう
1905/7/11
(明治39年)1月10日
(明治)6月17日
電報
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
(大正5年)9月20日
(1919年)9月3日
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
来翰
来翰
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
(大正8年)10月18日
(1919年)10月19日
洋紙ペン筆
封筒 洋紙ペン筆
来翰
森孝三
もりこうぞう
(1920年)1月18日
封筒 洋紙ペン筆
来翰
森孝三
もりこうぞう
1920/12/10
封筒 洋紙ペン筆
来翰
来翰
来翰
森孝三
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
もりこうぞう
(大正10年)6月9日
(大正10年)7月28日
(大正12年)8月15日
封筒 洋紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
来翰
森孝三
もりこうぞう
(大正12年)8月24日
封筒 便箋ペン筆
93
岡博士を新聞社へ招聘の件及その際に待遇について、先日話した専務取締又は副会頭等の件は暫く他へ
ははなさないでほしいことのこと。
岡博士を新聞社へ招聘する件については後藤の斡旋もあって博士も快諾してくれたこと、これにより紙上も一
段と光彩を放ち実力と信用を増すであろうとのこと。
先日上京の際に内話した件は該書類を「大毎」の幹部に示したところ大体において賛同の意を表しているが
朝日新聞と直接懇談して歩調を一にすることはできないので、目下上京中の下村氏と話してほしいこと、岡博
士の方へは「大毎」の主幹より話してあること云々。
先日会った時に後藤が懇示してくれた趣には感謝していること 昨夕村山氏と懇談したが、同氏も後藤の趣旨
に同感であること、しかし、具体的な方案は無いこと、もし話を一歩進めるならば幾多の考案と多少の時日が
かかると思われるとのこと。
『原敬全集』刊行につき前田・田中両氏より予算編制申出あり、本社幹部に提出したが、現内閣諸公や有力者
の後援あり新聞社が寄付する必要はなく、政友会の色濃い原なので中立である「大毎」が加入することを非と
する者もいた。自分は敬意を表することは当然だと述べ株主総会に提議し云々。
ハクブンカン(博文館か)の出版物はすでに発行されたと、本日、独逸公使より招待されたこと、その際に公使
は台湾始政10年を祝し殊に土地調査と国税調査を賞賛したとのこと。
伊藤博文の書がほしいので、同人に後藤より依頼してほしいとのこと。
台湾総督府警察官及司獄官練習所の敷地買収及び自己の土地購入に際しての部下の行為により冤罪事件
に巻き込まれ、上司や法院検察官の取調を受け「全台日報」の記者からは攻撃され、辞表を呈出して謹慎中
であること、自分は全く無実であることを後藤に訴え賢断を仰いだものとのこと。
過日下命された参考資料の内、書中表記のものはあるので、呼び出してくれれば持参するとのこと。
自分達は後藤の忠告に従って露都からフィンランド沿岸を経てスウェーデンにやってきたこと、同国人より露国
政府の露化政策に対する苦情を聞いたこと、同国の状勢、デンマークを経てハンブルグへ到着し、ハンブル
グアメリカ汽船会社の重役と会合したところ、桂と後藤がドイツに来れなくなった事を残念。
スウェーデンに到着し、ワルレンベルグ公使の紹介で色々調査を依頼していること、スウェーデンの社会と対
日感情について。
ドイツの電気改造報告書呈上後ワルレンベルグ公使よりスウェーデンの分を送ってきたので送付すること、ドイ
ツに関してはドイツに着いてから調査をする予定であること、同公使の意見では日本に於いて起業銀行の必
要があるならばと人物を紹介してくれたこと、ワルレンベルの家の銀行を調べる積りとのこと。
独逸に着いて新事業調査の傍ら資料蒐集を行っていること、外交秘録・教育・工業に関するもの、ヘルフェ
ツッヒと今度の戦争に日本が参戦した問題を話した。現在のドイツの政事・経済情勢については良い状態であ
ること、鉄道の固有化について、ジーメンスやツァイスの現況についてなど。
昨夜のドイツ大使晩餐会は後藤の市長問題で大に賑ったこと。大使は後藤の不承諾を予想し、船越・長島・
金杉も不賛成で大調査案成立の宣伝が急務であることを満場一致で決議。ホルスタイン事件の弁護人が大
使を訪問し万一有罪にでもなると反抗運動がも起り特赦等の方法を求めたので後藤に配慮願いたい。
フランクフルト市立大学付属労働大学の設立主旨・教授課程・講義内容について。
ゲルケー博士より亜炭にて運転する発電所と亜炭からの煉炭製造に関する資料を送ってきたので後藤に転
送するとのこと。
ヨッフェはウラジオに到着したこと、ヨッフェと外交全権連名の招待会で胸襟を開いて話合う予定。カリニンは森
のウラジオ到着2日前に出発したこと、カリニンは日本軍の被害を訴出た住民に対し、演説したこと、又、ウラジ
オの党員大会の席上で日米について論じたとのこと。
ハルピン、奉天におけるカラハンの動静、ロシアと支那政府の交渉の行方、日本のとるべき行動についてハル
ピン駐在松井石根少将らの見解など。
来翰
森孝三
もりこうぞう
(大正12年)9月27日
来翰
来翰
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
(明治39年~大正11年)4月29日
(明治39年~大正11年)7月19日
来翰
来翰
来翰
森孝三
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
もりこうぞう
(大正)12月17日
1928/3/20
来翰
森孝三
もりこうぞう
(1929年)3月28日
来翰
森孝三
もりこうぞう
(大正12年~昭和3年)1月21日
来翰
来翰
森孝三
森孝三
もりこうぞう
もりこうぞう
(大正12年~昭和3年)6月14日
(大正11年~昭和3年)
来翰
来翰
森孝三
森幸(森孝三の妻)
もりこうぞう
もりさち
(大正11年~昭和4年)
(大正8年)3月1日
来翰
来翰
森恪
森永太一郎
もりつとむ
もりながたいちろう
1918/7/3
1923/6/8
来翰
森正隆
もりまさたか
(大正5年)9月6日
来翰
森正隆
もりまさたか
(大正6年)1月29日
来翰
森正隆
もりまさたか
(大正7年)4月23日
封筒 便箋ペン筆
北京に到着後、直にカラハン、トクフキン両氏を訪問し用談したこと、まず震災後の後藤をはじめとする両氏の
知友たての消息を聞かれたこと、レーニン号事件に関すること、日露修交問題に関することなど。
封筒 巻紙墨筆
伊東第五中学校長への紹介状依頼。
封筒 便箋ペン筆
昨日の岸との会見の結果、ゲルケーは例の亜炭は発電用には差支えなく、低温乾溜には適さないと言ってい
ること、意見書の材料として東京市内に送電している水力電気の内訳が知りたいこと、台湾在住で石油乳材会
社を経営している国井重次郎に面会してほしいとのこと。
巻紙墨筆
先日、賀来長官より補助の件を申し上げた欧州留学生は関口泰であるので宜しく願いたい旨。
封筒 原稿用紙ペン筆 1913年6月7日発行DIE ZEIT SCHRIFTの記事及びその翻訳文である「日独同盟乎」。
印刷物
封筒 罫紙ペン筆
アイスキー参事官より会見申込あり訪問。例の件に関しモスクワ政府より2回の来電あり、東清鉄道問題は危
機を脱し張作霖は蒋介石等の進軍により脅威を受け労農に対する態度を緩和させたこと。東清鉄道対満鉄の
問題及満州一般の問題は依然として将来の大問題であり後藤に考慮を煩したいこと。
封筒 便箋ペン筆
ロシアを経由して無事ドイツに着いたこと、自分の露国横断記・露都勧業記録・会見要領は松木の所へ送り清
書の上後藤へ呈出する筈になっていること、ドイツでは流感のため未だ人にあまり会えないので報告は追って
すること、大使館にて後藤がデンマークに来る旨を聞いた、日本円のレートが下っていることなど。
封筒 巻紙墨筆
ゾルフ駐日ドイツ大使に後藤の厚情を伝えたところ非常に感謝していた、大使は政府へ依頼の事は見合せと
して後藤の配慮を煩したいと思っていること、大使には同行者がいないので米国経由にするほかなく至急船
室をとる必要があるので若し自分が同行できるならば好都合なので、同行の件を決定してほしい。
巻紙墨筆 和文タイプ印 独逸研究所に関する雑誌記事の翻訳送付の件。
字
封筒 罫紙ペン筆
支那において三井名義にて日本が獲得した無線電信敷設権は米国の蹂躙するところとなり、外務省は支那
政府に抗議したけれども、支那政府の背後には米国があって無遠慮に無線電信敷設契約を締結していること
は御承知の通りだが、その実、先年三井が建設した無線電信所の工事が不完全云々。
封筒 和文タイプカーボ 「クルップ農業利権」と題したタイプ印刷の冊子。
ン複写
封筒 巻紙墨筆
主人病気のため又々御尽力に預り、大谷博士の御来診を蒙り重ねて御礼を申上げる、御蔭様にて今朝来こと
の外気分よく、今後養生怠りなく心掛ければ快復も速かならんと楽しみにしているとのこと。
封筒 罫紙墨筆
吉林省濛江森林の件は既に借款金額支払期日を経過していて、折角獲得した利権も空しく水泡に帰してしま
う恐れがあるので、本件が滞りなく成立するように庇護を加えてほしい旨。
電報 原稿用紙ペン筆 21ヶ条問題にて支那本土および海外在住の支那人は日本製品および日本人に対しボイコットをなし、各地の
(電報訳文)
日本人同胞は困難の地位にあろので、この問題について善後策を御考究あらんことを懇願する、支那人は
21ヶ条締結日を国恥記念日として毎年宣伝云々。
和紙墨筆
今回内閣組織に付、その中心人物として御奔走の由何とぞ円満に完全かつ有力な内閣の存立を願う、また閣
下が内務大臣たらんことを希望、但し閣員の精選は内閣威信上第一の要件云々、今回は各政党を向にまわ
して戦う考えがなければならず、いわゆる決死的人物を精選するよう願いたい云々。
封筒 和紙墨筆
昨朝懇篤なる御教示、一身上の処置については、方向を転ぜずそのまま待つ方しかるべしとのことにつき、先
輩諸彦とも相談の上、閣下の諭示を奉じ時期の来るのを待つことに決心、しかるべる願う、この間何か御用が
あれば何なりとも働く、小生が地方官に採用を願わないのは政友系に近いため云々。
封筒 巻紙墨筆
閣下外務大臣御就任大慶至極、外交多事の際閣下の御就任を見るは国民の均しく喜ぶところ 水野練太郎
次官を後任に御推薦になったことについては、誠意を尽して閣下の御厚意に答えるつもり云々。
94
来翰
森正隆
もりまさたか
(大正10年)7月1日
来翰
森正隆
もりまさたか
(明治39年~大正10年)9月8日
来翰
守屋善兵衛
もりやぜんべえ
1903/6/1
来翰
守屋善兵衛
もりやぜんべえ
(明治39年)11月28日
来翰
来翰
来翰
来翰
守屋善兵衛
守屋善兵衛
森順正
諸戸清六
もりやぜんべえ
もりやぜんべえ
もりよりまさ
もろとせいろく
(大正12年9月2日)
2010/12/30
1919/1/21
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
門馬尚涇
柳下士興
柳生一義
八代六郎
安河内麻吉
安場末喜
もんまただつね
やぎしたしこう
やぎゅうかずよし
やしろろくろう
やすかうちあさきち
やすばすえき
(明治22年)5月7日
(明治41年)7月18日
(明治32年~39年)3月19日
(大正5年)2月25日
(大正8年)2月21日
(明治35年)12月16日
来翰
安場末喜
やすばすえき
(明治年)12月8日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
安場末喜
安場末喜
安場保和
安場保和
安場保和
やすばすえき
やすばすえき
やすばやすかず
やすばやすかず
やすばやすかず
(大正5年10月)11日
(明治40年~大正11年)7月11日
明治14年1月11日
明治24年2月21日
(明治25年)6月21日
来翰
安場保和
やすばやすかず
(明治27年)7月15日
封筒 和紙墨筆
小生今般貴族院に入り宮城県知事辞職に付き将来も変らぬ御指導をたまわりたい、顧みれば滋賀県に採用
していただいた結果今日に到り、年末の御厚誼に謹んで感謝、将来については東京に居を構えたく、何か東
京市の嘱託の名義を御与えいただけないか、閣下のために働く便宜ともなる、尊慮を伺いたい。
封筒 巻紙墨筆 名刺 仙台の画家斎藤松雲氏を紹介。同氏は旧仙台藩士、官を辞して兼て好める丹青にその憤をやるも、性質恬
淡、畸行頗る多く、伎倆も凡庸ではない、名声があがらないのは本人が名を求めないのと、引き立てる主人が
いないため、このたび揮毫を閣下に献上したいとして紹介方も依頼。
罫紙墨筆
本日台湾銀行より借入手続をし、別紙為替送金手形にて金5万円受領、別紙借用証書は御保証を要するの
で、記名捺印の上直接台湾銀行へ御返送されたし云々、また本日当社株主総会を開き、印刷業視察として不
肖善兵衛を海外諸国へ派遣の件につき旅費支給等の件可決とのこと。
封筒 巻紙墨筆
今回新たに御受領の大綬章御佩用の御写真一葉至急頂戴したい、新聞その他葉書などにも使用したいの
で、あらかじめ御許容を願う、台銀に対する満鉄株更正申込書及び5万円の証拠金預証にそれぞれ記名調印
もしくは裏書をして御返送下されたし、未だ到着せず念のため申し添えるとのこと。
封筒 巻紙ペン筆
その後別条はないか伺う 昨夜はお庭の椅子の上に鼡色の麻袋を忘れたので、此者へ御渡し下されたしとの
こと。
封筒 便箋ペン筆 名刺 ①守屋善兵衛名刺裏に「寸借ハ前ニ若御主人迄提出シアリ 天南 田原禎次郎墓」 ②田原禎次郎墓のデ
ザイン
巻紙墨筆
後藤が下命してくれた旨は承っているが、本日になっても小包が到着しない旨とのこと。
封筒 巻紙墨筆
小生昨秋渡米の折には少なからず懇情を蒙り、おかげ様にて去る7日無事帰朝、早速参上御礼かたがた種々
御高見をうけたまわりたいと思っていたが、風邪の気味にて引籠中につき、離床後推参のつもり云々。
巻紙墨筆 印刷物 諸方より借金返済、北海道内物価高の事情を詳説して借金返済遅延の申し訳をする内容。
封筒 巻紙墨筆
後藤の逓相就任を祝し、あわせて新内閣への期待を述べ覚悟を求めること。
巻紙墨筆
本島における国庫債券応募高につき取扱店ごとに区別した一覧表を調整したので高覧に供すること。
封筒 巻紙墨筆
貴著『大日本膨張論』を御恵してくれたことへの礼。
封筒 巻紙墨筆
後藤が近々外遊するとのことであるが、斬新なる御智見をもたらし御帰朝されることを期待していること。
巻紙墨筆
目下、来年の大阪勧業博覧会に出品すべき紙類を製造中、日曜返上で従事、尊台御帰朝については、この
間当場で試験した成績を御報告致したい、欧米で御実見になった斯業の現状について話を伺いたく、御東上
前に是非お呼びいただきたい、一本松における問題についても御意見を伺いたい。
巻紙墨筆
当会社の事、罹災後とかく面白からざる話が生し、前途困難 今や当初の目的製紙所を設立して紙を製造す
ることが出来たる今日なれば、自分の地位は他人に譲って社を去っても差支えないと考えていること。
封筒 巻紙墨筆
御就任早々当分の内は非常なる御多忙と拝察 地方官更迭の場合には、津田毅一を加えていただきたいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
故山田信道氏子息男爵山田東三郎君は、平素朝鮮にて烟草会社に従事していて、この程帰京につき御引見
を願いたいこと。
巻紙墨筆
新年祝詞、昨冬も相変らず山口方の病人等御治療また横井氏よりも書通あり、御厚情を謝す、横井よりは相
変わらず御奮励の趣を伺う云々。
罫紙墨筆
新年祝詞、貴地新年等の儀式の景況云々、気候・病気の流行、国会の景況等の報導について。
巻紙墨筆 後藤新平伯 霖雨が過ぎた頃には家族まとめて上京したく、ついては御転居のことが格別不都合でなければ、先は麻布の
伝記編纂会用箋ペン筆 方に居住したいので、末喜とも御相談されたし云々。
封筒 巻紙墨筆
一昨夜より道後に入浴、松山懇親会に臨み意外に盛会云々、総選挙に「九州課題」として遊説活動の様子を
伝え、その間帰京も出来ないので、この夏の家族のことを相談する内容。
95
来翰
来翰
来翰
安場保和
安場保和
安場保和
やすばやすかず
やすばやすかず
やすばやすかず
明治32年3月
(明治32年)4月5日
(明治)3月21日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
安場保国
安場保健
安広伴一郎
安広伴一郎
柳原義光
矢野政二(滄浪)
やすばやすくに
やすばやすたけ
やすひろともいちろう
やすひろともいちろう
やなぎはらよしみつ
やのせいじ(やのそうろ
う)
昭和(2)年12月1日
(明治40年)5月31日
(大正7年)4月11日
(大正13年)6月25日
2010/2/21
(大正5年10月)11日
来翰
矢野政二(滄浪)
やのせいじ(やのそうろ (大正9年12月)12日
う)
来翰
来翰
来翰
矢野政二(滄浪)
矢野政二(滄浪)
山県有朋
やのせいじ(やのそうろ (大正11年8月)21日
う)
やのせいじ(やのそうろ (大正1年)月17日
う)
やまがたありとも
(明治39年)5月31日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山県有朋
山口四郎
山口四郎
山口四郎
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
(明治42年)7月20日
(明治)10月3日
(大正1年)9月1日
1916/7/10
(大正6年)11月3日
(大正6年)11月10日
(明治40年~大正11年)1月25日
(明治40年~大正11年)2月28日
(明治39年~大正11年)5月9日
(大正5年)10月10日
(大正7年)12月15日
(大正8年)1月12日
封筒 巻紙墨筆
高野長英肉筆の前後出師表陳情篇、今般の御赴任に際し預り、その証として衛府太刀一振を携帯を願いた
いこと。
封筒 巻紙墨筆 和紙墨 無事御着珍慶、彦七君のことは今回後藤幹則より別紙申し来り、益々掛念の度を深める、(別紙)橋本・山根
筆
両国手より頻りに執筆を厳しく禁じられているので先以て右まで。
封筒 巻紙墨筆
彼狂人一条白根へ委曲申遣したところ、今朝参り重々恐縮、いかなる命令にも服従する旨申される、それは
別問題として老狂一疋御救済のつもりにて彼の調書だけを尽させるよう格別に依頼したいこと。
封筒 便箋
近く御入露の報を新聞にて拝見、御使命を果しての無事御帰朝を祈る、私は北海道生活1年半、出来れば田
舎廻りを止めて暫く外国に行ってきたいと考えていること。
封筒 巻紙墨筆
Japanese Rule in Formosa 受領の御礼。
封筒 巻紙墨筆
後藤夫人逝去に対する悔状。
封筒 巻紙墨筆
今回満鉄社長就任につき御高話を拝聴かたがた粗餐を差上げたく来る7月6日築地新喜楽へ枉駕くだされば
栄光であること。
封筒 巻紙墨筆
『ビスマルク演説集』の御恵贈に対する礼状
封筒 巻紙墨筆
この度の入閣は、国家のため真にめでたき次第云々、同志会一派の立憲運動は実に噴飯、これ程日本国民
を馬鹿にしたものはない、今日の社会神経は立憲云々ではなくいかにして中等階級の潰滅を防ぐかと思想界
の健全にあり 、自分は目下「新国家論」を著し稿正中、不日進呈御教示を仰ぐ考えであること。
封筒 巻紙墨筆
東京市長問題で面倒の御様子だが、実は後藤一人の問題ではなく、国家のリーダーとしての問題、これから
は新国家主義すなわちナショナリティー本位の生存競争の世となっていくのに、日本にては愚者で混乱、東
京市政のごときは、その単位である市民の覚醒に10年も20年もかかると思われる云々。
封筒 巻紙墨筆
今朝拝眉の節、うっかり自分の急用を申し上げるのを忘れたが、書籍館の100部は何とぞ御許容下されたいこ
と。
封筒 巻紙墨筆
過日来御引見下さり有難く、また近々御引見を願う、長尾半平に面会、多少異見あるが閣下において是非助
けてほしいこと。
封筒 巻紙墨筆
新総督佐久間将軍任地到着の節 文武官市民大歓迎の由内報を得、欣喜 嘉義震災善策も御計画の如く実
施云々 新版図経営に付、施政改良の好結果が顕れたことと信ずる 杉山氏云々。
封筒 巻紙墨筆
一昨日寺内来荘につき、杉山氏の家事の善後策についての御高見所在の概要を話したこと。
封筒 巻紙墨筆
「今朝は久し振りに山荘に来訪下され国家上活動につき御高話拝承 其節内話の別冊鄙見を差し出すので
ご一説下されたし 十月椿山荘」
封筒 巻紙墨筆
先刻御来訪の節に内話した財政整理の一点は、桂公爵の外他人には寸毫も漏さぬよう依頼。
封筒 巻紙墨筆
病気見舞に対するお礼。
封筒 巻紙墨筆
首相に面会したところ、出兵論は大体否決にまとまった由、別冊は鄙見を取りまとめ認めさせたもので、参考ま
でに高覧に供すること。
封筒 巻紙墨筆
先般御来訪の節に御約束した比公演説集翻訳を送付する、これは初期帝国議会開会に先立ち参考として故
井上子爵等の好意に基き翻訳したものであること等。
封筒 巻紙墨筆
兵器問題は深重に御注意、露国に対し信義を欠くことになるかと憂慮、先日御送付の印度領事報告一読、日
露両国の近情については拝晤に譲ること。
封筒 巻紙墨筆
只今別紙到達、情勢一変云々申し来る、ついては今後彼と直に御面談になるか、または他に適当の人物を媒
介者とするしか手段はなく、先方へは別簡の如く回答したこと。
封筒 巻紙墨筆
先日御来訪の時に大勢の近況拝承本懐の至り、その節借覧の支那真情の談話書一読、大いに参考となるこ
と。
封筒 巻紙墨筆
内相就任に対する祝辞。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 校正刷6枚奉呈御一読されたし、石塚英蔵氏は自分の従兄の友人、藤田嗣章は台北において面識あり
云々。
封筒 便箋墨筆 新聞切 小著広告文を一瞥してほしいこと。
抜
96
来翰
来翰
来翰
来翰
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
(大正8年)2月26日
(大正8)年12月10日
(大正8)年12月12日
(大正9年?)11月15日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
(明治40年~大正11年)10月17日
(大正11年)10月21日
(大正12年)2月15日
(大正12年)10月12日
(大正15年)6月7日
(大正15年)9月7日
(昭和3年)9月2日
(昭和3年)10月22日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口四郎
山口透
山口透
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちしろう
やまぐちとおる
やまぐちとおる
(大正12年~昭和3年)1月1日
(大正12年~昭和3年)1月18日
(大正11年~昭和3年)10月23日
(大正11年~昭和2年)11月24日
1908/7/24
1922/10/20
来翰
山口透
やまぐちとおる
1927/7/25
来翰
山口秀高
やまぐちひでたか
(明治)(9月21日)
来翰
山座円次郎
やまざえんじろう
(明治44年)9月1日
来翰
山座円次郎
やまざえんじろう
(明治35年~41年)8月22日
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 原稿用紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
『ビスマルク演説集』外2冊郵送に対する礼状。
昨日佐藤知恭氏御引見下された趣有り難し、同氏は幕末の兵学者長沼澹霄の外孫にて一個有数の経営者
云々。
本日到着の「漢口日報」に閣下に関する記事があり、御一瞥下されば有難いと考え封入する、昨夜今関天彭
氏と会談云々。
自分は依然当地に放浪、10日前豊島捨松氏と会談、同氏が福州領事時代、「北京大毎」特派時代閣下より贈
られた尊影を拝見し、当時の御心労を想像、自分などは20年前台湾を放浪し今なお衣食に窮し、地下の秀高
に霊があれば苦笑するであろうこと、昨冬狸穴へ参邸した自分の親友佐藤知恭氏云々。
封筒 巻紙墨筆
別添御講演筆記は、自分の友人大阪工業会書記長長谷川柳太郎が大阪にて発行の雑誌「商工帝国」に掲
載のもの、御一覧下されたし。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆 雑誌切 悪文一章拝呈、文中閣下御母堂様に及んだ箇所あり、御一覧下されば有難き仕合せ云々 別紙「上海婦人」
抜
2月号切抜、菜花野人「賢母」。
封筒 巻紙墨筆
震災後両度早川鉄治氏を往訪、恐れながら早川氏来書二通御一覧下されたし、天下多端の秋、もし早川氏
に活動の舞台あらば御推挙を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
東西御遊説欣頌の至り、封入悪文、御一覧下されたし。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
政界混雑、田中氏も案外対支問題には勇気なく、この際是非とも閣下の御出馬ありたし云々。
封筒 巻紙墨筆
一昨夜朝日講堂にて御講話拝聴、政治の腐敗、社会の墜落長大息云々、「黄人事情」一部拝呈、御一覧下
されたし、日支交渉も進行の容子、しかし、日本の外交官は貧乏人の生娘同様、先方は役者が一枚上でしか
も宿場女郎のアバズレという振合、相手が悪く日本はまた失敗せずやと痛心罷在云々。
封筒 罫紙墨筆
別添尊文、念のため御一覧下されたし。
封筒 巻紙墨筆
亡姉に対し香料を賜わり有り難し、目賀田男爵夫人は亡姉30年来の知己にて、山岡鉄舟の令嬢嶋子刀自
共々葬儀に列せられ亡姉の逸事を物語られた云々。
封筒 巻紙墨筆
悪文一章拝呈御一覧下されたし、親友高橋天豪10月11日大連にて急病永眠、同人は北京にありし時に御知
遇を辱くし云々。
封筒 巻紙墨筆
親友上海宮田信一意見書『日支親善を実現する方法』1部、その他3部御参考まで拝呈、御一閲を仰ぐこと。
封筒 巻紙墨筆 罫紙墨 台南館建設出願につき御詮議を煩わしたいこと。
筆
封筒 和紙墨筆
飯森袖海は先年当地を去り東京へ移住後専売局編纂事務を委嘱され若干の手当を受けているが、同人は漢
文学者として希有かつ人格高潔につき、この際帝大あるいは学習院講師として相当の月俸を得られるようお
願いしたいこと。
封筒 巻紙墨筆
去る5月に、24年ぶりに上京して後藤邸に伺ったが、西南地方御巡視中にて拝謁が出来ず、その後旬日にて
帰途につき誠に失敬、賀来氏より御近況拝承、一居御壮健にて国家に御貢献の御様子にて感激云々。
封筒 巻紙墨筆
出張の事内定したものの同行者決まらずぐずぐずしていたが本日決定、台湾の制度変更にて総督更迭ある
様新聞にあるが如何、内部の官吏は皆及び腰、衛生も同様、しかし衛生会とか空騒ぎしているが小生は傍
観、疑獄事件は実につまらなき様にて、ただ官吏の争いより起った様である云々。
封筒 便箋墨筆
いよいよ一休となり、いずれ永いこともないであろうから御自愛を祈る、林董伯の逓相は少々意外「広軌デモ狭
軌デモイイサ」と申されはせぬかと思われる、小生も来年初鰹の頃には帰京云々。
封筒 巻紙墨筆
今般外務書記生天野恭太郎汕頭分館主任を命じられ、赴任の途次貴地へ寄港して拝晤の希望あり云々との
紹介状。
97
来翰
山崎林太郎
やまざきりんたろう
1921/5/24
来翰
山崎林太郎
やまざきりんたろう
1922/1/22
来翰
山崎林太郎
やまざきりんたろう
(大正11年)5月30日
来翰
山崎林太郎
やまざきりんたろう
1926/6/9
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
山路愛山
山下亀三郎
山下亀三郎
山下亀三郎
山下亀三郎
山田顕義
やまじあいざん(やまじ
やきち)
やましたかめさぶろう
やましたかめさぶろう
やましたかめさぶろう
やましたかめさぶろう
やまだあきよし
(明治)2月14日
(大正10年)7月9日
(大正12年)6月28日
(明治40年~大正11年)3月23日
2010/7/18
(明治)7月24日
来翰
来翰
山田義之助
山田義之助
やまだよしのすけ
やまだよしのすけ
(明治41年)6月9日
(大正9年)4月9日
来翰
山田義之助
やまだよしのすけ
(大正9年)4月15日
来翰
山中重太郎
やまなかしげたろう
1922/8/3
来翰
来翰
山根正次
山之内一次
やまねまさつぐ
やまのうちかずじ
2010/11/2
1927/1/4
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
山本悌二郎
山本安夫
山本安夫
湯浅倉平
結城豊太郎
結城豊太郎
やまもとていじろう
やまもとやすお
やまもとやすお
ゆあさくらへい
ゆうきとよたろう
ゆうきとよたろう
(明治39年~大正11年)12月
(昭和2年?3月?)24日
(昭和2年?3月?)25日
(明治40年~大正11年)3月12日
(大正13年)4月5日
(大正12年~昭和3年)5月17日
封筒 罫紙ペン筆
市政全般に対する大策綱目御発表に対し、市会議員中に賛成の意を表しない者あるが、これらは旧来の東
京市会の除くべからざる弊習、この種の人をも味方にできなければ、敵にしても真摯に計画に翼賛する人々を
招いて事を共にすべし、市務刷新調査機関は実に機宜を制せられた御高案と敬服云々。
封筒 巻紙墨筆
名古屋の状況は、大喜多市長辞職にともない小生も辞表を提出するも知事等より留任をすすめられ、後任市
長決定までは留任となるかもしれず、憲政派の一部には、小生を留任させ、目下欠員の助役一名を選定し
て、他日の市長問題に両派の妥協を実現しようとする動きあり云々。
封筒 巻紙墨筆
佃氏に委曲申述べたところ、該事業は今日未だ緒を開くに到らざるも、もちろん著手の機到達すべく閣下の御
紹介の事ゆえ、新機会において更に通告致すべしとのこと、帰後小生調査の報告書一部を同氏へ郵送するこ
と。
封筒 巻紙墨筆
今回東京市会議員選挙の結果として市長助役の辞職と共に多数の辞職者あると伝えられているが、数年にわ
たりて気脈を張ってきた者を今一朝にして総て局を退くか如きは甚しき短慮云々。
封筒 巻紙墨筆
別冊は蘇峰が洋行中に作ったものと記憶するが年月は失念、品川氏等の君主内閣論を破るために責任内閣
論を主張したもの。
封筒 巻紙墨筆
過般は御染筆をたまわり御礼申上げる、また賀来閣下には非常に手厚き待遇を賜ったこと、同氏は実に近来
の偉人、数理的対事業上の手腕は天下無敵云々。
封筒 巻紙墨筆
伊藤公那翁詩に対する箱書きを、7月11日までにお願いしたい、12日小田原にて披露の予定であること。
封筒 巻紙墨筆
米国より社員持帰りの菓物を送る、御奨味下されば光栄であること。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
先日来数度の電報、御焦慮の程拝察、何とか都合をつけ暫時間にても参上したい、来る金曜の内閣会議の
模様にて決まるが午後3時までに終るので、すぐに列車に乗るつもり、その時は電信を差出すはず、長与君も
病気は未愉につき是非参上して衆意に酬いたい云々。
封筒 巻紙(裏印刷あり) 御地方競馬会の義 同志団体の方は段々進行、大連の方も此方へ許可を得たいと希望していること。
墨筆
封筒 巻紙墨筆
この度小新聞引受け革新発展の経営に従事する場合にて立候補する等の野望に対し、微力を顧りみざること
と御叱笑されるかもしれないが、敗残の余命最後の奉公を期すの裏情やむ難く云々。
封筒 巻紙墨筆
選挙はいよいよ激戦無援孤軍、何分貧乏にて政党政派以外の立場で出陣したが民心の安定善導覚醒等に
関しては、小生の愚論は多少国家に貢献するものあり、現政府は好感を以て迎える筈で干渉圧迫などは免れ
ると考える、今回は小生生涯最後懸命の活動につき、小新聞経営の方へ云々。
封筒 罫紙墨筆
大日本帝国は今や多望多難、まことに千載一遇の秋、先生は師主親の御人格を以て国と世と人のために
云々、御自愛御自重最善の御努力の程を祈る、不詳重太郎は、決死殉道の覚悟を以て、天皇の赤子たる天
民500万の為め特に臥薪嘗胆万苦万難万辱甘受の事情始末を別紙中現内閣各大臣へ呈上云々。
封筒 巻紙墨筆
御地横山事務室の姪宮城環なる者、御地に奉職の目的にて出向くので何とぞ御引立下されたし。
封筒 巻紙墨筆
いかに考えてもこのまま放任して議会解散となることは諒闇の始めに紛擾を来し、国民の皇室に対する年を薄
弱にするだけでなく各方面に悪結果を生ずる恐あり云々、時局切迫し、右に対する御高見も承りたく近々拝眉
の機を得たく、御予定御教示を願うこと。
巻紙墨筆
司馬未亡人住所通知、冨直線工事の件、新年にもなれば御取極を願うこと。
封筒 罫紙墨筆
明日議会最終日、陸軍粛正決議提出の事に決定、提案は革新にして本・憲これに付和するの形式云々。
罫紙墨筆
昨夜申上げたる陸軍粛正決議案は否決云々。
封筒 巻紙墨筆
来る3月14日の采女町精養軒での会合は差支が有り参上できないこと。
封筒 巻紙墨筆
来8日御寵招をうけたが相憎同日は都合が悪いこと。
封筒 巻紙墨筆
一昨日御話の少年団の儀は、安田善次郎の名を以て金1万円寄付の事を承諾したこと。
98
来翰
来翰
来翰
湯目補隆
湯目補隆
湯目補隆
ゆのめすけたか
ゆのめすけたか
ゆのめすけたか
明治25年11月26日
明治26年1月1日
(明治43年)4月18日
罫紙墨筆
洋紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
湯目補隆
ゆのめすけたか
(明治45年)6月27日
封筒 巻紙墨筆
来翰
湯目補隆
ゆのめすけたか
(大正5年)10月6日
巻紙墨筆
来翰
来翰
湯目補隆
湯目隆治
ゆのめすけたか
ゆのめりゅうじ
1918/4/9
(明治28年?)9月24日
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
来翰
横井時雄
よこいときお
1917/1/7
封筒 便箋ペン筆
来翰
来翰
来翰
横井時雄
横井時雄
横井時雄
よこいときお
よこいときお
よこいときお
(大正6年)4月17日
(大正6年)10月17日
(大正7年)3月13日
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
来翰
来翰
横井時雄
横井時敬
よこいときお
よこいときよし
(大正7年)5月17日
(大正9年)4月29日
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
来翰
横井時敬
よこいときよし
(大正14年)11月19日
封筒 巻紙墨筆
来翰
横井時敬
よこいときよし
(大正15年)6月28日
封筒 巻紙墨筆
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
横澤次郎
横山健堂
芳川顕正
芳川顕正
芳澤謙吉
よこざわじろう
よこやまけんどう
よしかわあきまさ
よしかわあきまさ
よしざわけんきち
(明治38年)5月14日
(大正7年)2月9日
(明治40年~大正11年)1月15日
(明治39年~大正11年)6月22日
(大正14年)1月27日
封筒 カーボン複写
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
99
富籤の資料送付、約束の維也納貧民冨講の調書類一切一纏めとなし、書留郵便にて送付したこと。
1893年の春を万里異域にむかえたこと、自分も公使館の変動の為め1月1日を以て同館を引払って浪人となっ
たので、御明案を至急一報してほしいこと。
御蔭様を以て先頃小松原文相にも拝晤を得て身上の儀を御依頼したこと、松村普通学務局長よりも同大臣迄
小子の身上を宜敷願置きたるとの話なり、実は森秋田県知事よりの申出は、充分優遇して県下の中学教育界
の改善を図り度く、相当の人撰頼むとの趣きに基けるとの事と云々。
先頃は満韓御旅行、又来月上旬には桂公と御一緒に欧州列強の政況民化御巡視とのこと、国家のため大慶
の至りであること、秋田市において赤十字社支会大会が開催され、閑院宮殿下同妃殿下等の御成を機として
衛生展覧会を開くに付き何か出品せよと催され、付近野生の有毒植物を採蒐して陳列の云々。
寺内元帥を補佐せられ新内閣設施のための御奔走は国政の慶事であること、閣下は桂公の新政党即同志会
創立に際し一領袖となり大に御尽力されたるも、桂公没して後に同会を脱したる真意は知る人は知る事なる
も、趨勢は閣下に利ならず云々。
和子夫人病死の弔詞。
過般広島要局に御就任以来内務の要局に御転任のことは、仙台人のためだけではなく国家のためにも大慶
であること、元仙台藩医師眼科専門医中沢は免状なきが、眼病者に対して親切で手術治療又巧妙にて市中
の開業医中本人の右に出でる者は無いので、仙台市中各郡村眼病者のためにも云々。
大正5年12月9日横浜出帆、24日サンフランシスコ、元日にタフト前大統領に面会、3日ワシントン着、7日
ニューヨークに帰り、明後日の9日にリバプールに向け出帆の予定、欧州大戦におけるウィルソン米大統領の
平和勧説の動機について。
欧州情勢の急変と我国の政界問題について。
欧州戦争の推移と欧州各国の必需品窮乏状況などアイルランド問題について報告。
小生の在外費用が当分引続支弁されるのは後藤の口添の結果であり感謝すること、後藤の賛成を得て製鉄
等大計画を立て資本金募集のため山本氏が渡米する由であるが、小生も尽力致すつもり、戦局の発展は朝
夕変遷極なく露国の崩壊は遂に帝国の陸上出兵とも成る形勢となっていること云々。
和子夫人逝去吊詞。
①後藤宛書簡 碑文彫刻の儀については別紙の通り小沢源太郎が病気のため工程延引は致方無し、11月に
着手すれば明年春には間にこと。②横井時敬宛4月29日付小沢源太郎書簡 病気全治せず、本年11月には
悴も陸軍より除隊するので父子共に石碑に従事必らず責任を果たすこと。
貴諭に従い先方へ申し遣したところ、別封の通り返事があり、いかがすべきか、摺本50枚はずいぶん困難のよ
うに存するが矢張り50枚を命ずべきか、もしそうであれば紙本を買い求めて差送るので折返し御返事を願いた
いこと。
①後藤宛横井書簡 石碑につき小沢より代金支払について。②横井時敬宛小沢真美書簡 福島県安達郡塩
沢村休石小沢真美 当地普通石工職人賃金は1日2円60銭、但し特殊な技能ある職人はこれ以上を給す
云々。
昨日、澎湖島を除く台湾全島及びその沿岸を臨戦地境と定め発布の日より戒厳を行うとの勅令が出たことと、
露国バルチック艦隊の情報について。
①横山の後藤宛書簡 佐々木復介の紹介。②後藤男爵宛佐々木復介書簡 横山達三の紹介6月12日。
昨日懇話の事は、今朝青木を招致して申聞かせたところ、欣然御請けいたすべしと大いに喜んでいたので、
不日民政長官出京の上、然るべく斡旋願いたいこと。
森谷平吉の紹介状。
多年の懸案であった日ソ基本協定の成立は、後藤が終始朝野を鼓舞激励して促進の機運を進展するに努め
た賜であり誠に感激に堪えない次第であること、今後基本協定の活用及び細目協定の締結に付いてはなお
慎重なる考慮を要するものも尠くないが幸に後藤の後援により迅速円満なる解決に至るであろう。
来翰
来翰
来翰
来翰
芳澤謙吉
芳澤謙吉
芳澤謙吉
芳澤謙吉
よしざわけんきち
よしざわけんきち
よしざわけんきち
よしざわけんきち
(大正14年?)2月15日
(大正14年)3月9日
(大正14年)3月29日
(大正12年~昭和3年)4月17日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
吉武源五郎
吉武源五郎
吉武源五郎
吉武源五郎
吉武源五郎
吉武源五郎
吉武源五郎
吉野作造
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしたけげんごろう
よしのさくぞう
(明治40年)8月13日
(明治42年)10月28日
(大正11年)6月8日
(大正11年)6月26日
(明治39年~大正10年)11月29日
(明治39年)13日
(大正11年~昭和3年)9月4日
(大正5年)7月28日
来翰
吉野作造
よしのさくぞう
(大正5年)9月14日
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
吉野作造
吉野作造
陸宗与
梁啓超
留守景福
留守景福
よしのさくぞう
よしのさくぞう
りくそうよ
りょうけいちょう
るすかげやす
るすかげやす
(大正7年)5月8日
(大正13年)11月23日
(明治39年~大正11年)4月15日
(明治39年~大正11年)
(明治32年~39年)4月15日
(明治29年~31年)1月9日
来翰
来翰
来翰
留守景福
留守景福
留守景福
るすかげやす
るすかげやす
るすかげやす
2010/2/28
2010/3/19
2010/9/3
来翰
留守景福
るすかげやす
2010/9/15
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
若槻礼次郎
若槻礼次郎
若槻礼次郎
鷲尾順敬
鷲尾順敬
わかつきれいじろう
わかつきれいじろう
わかつきれいじろう
わしおじゅんけい
わしおじゅんけい
(大正2年?)10月9日
(大正2年10月31日)
(大正3年?)9月25日
1920/12/8
大正15年4月(3日)
封筒 洋紙鉛筆
封筒 便箋鉛筆
封筒 便箋鉛筆
封筒 巻紙墨筆
芳沢の負傷に際しての後藤の配慮に対する礼状。
閣下本月末御出発 小生尚病床に呻吟罷在候得共若し当地方へ南下の場合には出来る丈歓迎仕度御回示
下され度云々。
治療に関するお礼と、3月9日の書簡に対する後藤の返事へのお礼。
昨日ベルギー大使館において御申聞の電報計13通を同封して送るので査収願いたいこと、賠償金の請求権
を抛棄する件は支那側の解釈は多少恐張たる傾向も有るが、議会においても或は支那側に都合好き質問も
提出せらるることなきやとの懸念も有ること云々。
封筒 原稿用紙墨筆 印 「国民新聞」「韓国鉄道の将来」の記事は、小生の聞込み研究の上書き綴ったもので、寺内陸相はこれを見て
刷物
幾分か驚いたと徳富社長が言っていたこと。
封筒 巻紙墨筆
伊藤公遭難に対する韓廷・在留民団・韓国官吏たる本邦人有力者の動向について。
封筒 巻紙墨筆
高橋是清内閣後継問題に関する政友会等の動向情報。
封筒 巻紙墨筆
後藤著「東京市政調査会寄付に関する安田勤倹翁の真意」を拝読、安田翁への辞、東京市政調査会発会
式。
封筒 巻紙墨筆
「大鵬」と命名下された上に巻頭言をも執筆してもらえるのは、誠に光栄の至り云々。
封筒 巻紙墨筆
教書拝見、唯恐縮のほか無く、御校訂通りに組版を進行するので、向後は御使立は御無用であること。
封筒 便箋ペン筆
自分は目下満州旅行中にて、敢て粉飾せず耳にしたままを開陳すること。
封筒 巻紙墨筆
かねて御意を得ておいた通り8月の懇話会は休会であること、戴天仇は帰京後腸胃を害し引籠居りし模様で、
予定の出発期日が迫っているが多分拝趨は叶わないとおもうこと、黄興と一所に拝趨仕した張孝準は、数日
来滞京、自分が同道して御面会を願う考えであること云々。
封筒 巻紙墨筆
懇話会は本月中に一会を催すも、また来月第一月曜に致すも、当方には不便は無いので、この点は後藤の
指図に従って取計らいたいので、避暑先より御帰りに成ったら高意を示教願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆
先日来、加藤義倫君より依頼を受けていたところ、同君が男爵の鑑識に叶い特別の庇護の下に新に事業開
始の運に立到ったことについて、友人として御礼申上げる云々。
封筒 便箋ペン筆
笹川良一の紹介状。
封筒 便箋墨筆
来日中のお礼。
封筒 罫紙墨筆
孫宝琦の紹介状。
封筒 巻紙墨筆
御尽力いただいた山林の下戻は、青森大林区農より指令書が廻送され、引渡は来30日頃と云々。
封筒 巻紙墨筆
予て拙者より出願していた鉄道倉庫事業に関する書類を後藤の手許に差上るので、至急御採用願いたいこ
と、本件に対しては早川鉄弥氏とも昨夏以来協議を遂げ、種々画策している次第であること。
便箋墨筆
祖母のことについて。
巻紙墨筆
兼て心配されている東京表の事につき、不平連が日々やって来るので困却しているので、何卒東京表のこと
をよろしく頼みたいこと。
巻紙墨筆
過日岩手県へ御出張の途次、台湾名産数品を頂戴し深謝云々、昨日の新聞によると先生には御用相済み御
帰館の由、よろこばしく存ずること、次に先生御出発の後両日経過後、絶て無かった程の強震があり、盛岡・花
巻辺も頗る困難を極め、かつ破損の場所甚敷死傷者も出たが、水沢は若干の被害。
巻紙墨筆
先生には未だ御滞京中なのか、新聞には本日頃は御出発の事と掲載していること、またこの頃中申上げた戸
坂の一件は、一両日中に督促の考えであるので、何か御手元へ延期の事にても申してきたならば、自分に談
じ方もあるので、知らせてほしいこと等。
巻紙墨筆
(前半部破損)同志会結成、桂公万一のときの取扱方。
巻紙墨筆
後藤の同志会脱会理由書。
封筒 巻紙墨筆
故桂公爵の墓前に記念物の寄進を計画しているので、28日5時永田町蔵相官邸の打合わせに参集してほし
いこと。同席者は有地・岡市之助・柴田家門・豊川良平・朝吹英二。
封筒 巻紙墨筆
東京市会が後藤を市長に選んだので、就任を願いたいこと。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 東方仏教協会趣意書并に規則書送付方及び本事業(日本仏教の研究宣揚)の協賛を得更に協賛会員に御
列名之を御承諾被下候の件 ①巻状書簡(墨筆プリント版)宛名のみ墨筆 ②「東方仏教協会趣意書並会則」
(活版印刷8頁)。
100
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
鷲尾順敬
鷲尾順敬
渡辺国武
渡辺千秋
渡辺千秋
不明
不明
わしおじゅんけい
わしおじゅんけい
わたなべくにたけ
わたなべちあき
わたなべちあき
ふめい
ふめい
1926/4/29
1927/7/6
(明治38年)2月21日
(明治39年)12月11日
(大正年)2月15日
(1908年12月31日)
(1922年)5月21日
来翰
来翰
来翰
不明
カラハン
Karakhan
クルツ
ふめい
からはん
くるつ
1928/12/11
2010/2/3
来翰
ココフツオフ
ここふつおふ
1908年7月8、21日
来翰
ココフツオフ
ここふつおふ
(明治44年)9月12日
来翰
ココフツオフ
ここふつおふ
1912/1/18
来翰
来翰
来翰
来翰
ココフツオフ
ジョン・A・スツーク
John. A. Stook
ロバート・セシル
Robert Cecil
セミヨノフ
ここふつおふ
じょん えー すつーく 1907/4/29
ろばーと せしる
1919/8/23
せみよのふ
大正9年6月
来翰
来翰
タフト
Taft
チール
たふと
ちーる
1923/1/21
1916/10/30
来翰
来翰
来翰
来翰
チチエリン
G. Tischelin
ルードルフ・ビー・トイス
ラー
ノースクリフ
Northchieffe
ハウス
Edward M. House =
Colonel House
ちちえりん
るーどるふ びー とい
すらー
のーすくりふ
はうす
1925/9/15
1913/12/19
1921/11/12
1919/8/1
封筒 巻紙墨筆 ビラ
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 便箋ペン筆
東方仏教協会講演会の案内。
及川智雄氏の追吊会の発起人に御列名願いたいこと。
後藤より贈られた『露国皇室之内幕』の礼状。
法学士佐竹準と申す者は松浦伯の子にて、卒業後判事となり満州地方も出張しているので、この度創立の満
州鉄道会社へ採用方依頼のこと。
過日来御不快のお見舞。
封筒のみ。
高峰譲吉博士功績表彰の件 既に塩原又策氏より御高聞に達したことと思うが目的を達するため必要な勢力
を具えられているのは閣下をおいて他になく相当の御心添を賜わりたい 米国到着後各地巡歴の上 5月16
日紐育発モレタニア号にて渡英目下航海中とのこと。
電報
SINNENNI ATARI KOKOROKARA ETC
電報
Suis heureux vous feliciter chaleureusement et vous Prie agreer mes meilleurs voeux Karakhan
和文タイプ印字
今夏ミュンヘンにおいて開催を予定している都市建造会議において、大都市問題を其国際的関係に就いて
明瞭ならしめんとし、独逸国以外における事業を比較するため、貴下が計画中の大東京計画の抜粋を送付下
され度且又この立案の標準となりたる重要なる眼目を指示する簡単なる説明をも希望致候。
封筒 洋紙ペン筆 罫紙 露国蔵相ココフツオフより後藤新平の6月10日付と23日付書簡に対する返書 後藤より満鉄総裁として訪露
鉛筆
し露国皇帝への拝謁と下賜された白鷺大綬章への礼状に対し、その趣旨を奏上したる旨と後藤が逓信大臣
に就任したることに対する祝意の返書。
謄写版複写
9月4日付後藤の書簡に対する返書 桂内閣総辞職に伴う辞職は「恰モ一時ノ小憩」 遠からず後藤がシベリ
ア鉄道を経由して欧州に来遊するとの報告を聞き鶴首翹望している。過般創立の日露協会は両国善隣の好
誼 ストルイピン伯遭難に際しての後藤の弔電へのお礼。
封筒 電報 罫紙ペン筆 ココツオフ電文添付し訳文送付 亀一の書簡部分(明治45年6月6日) 「奉啓 御道中何んの御障りも無之候
哉窃かに憂慮罷在候奉天にて御教示に相成候通りコヽフツオフ大臣宛打電仕り候処別紙の通り早速コ氏より
返電あり早速暗号電報を以て馬関山陽ホテル及び神戸御門ホテル宛転電致し置候云々。」
封筒 便箋ペン筆
会談(東清鉄道問題)は不調で中止になったが、後日、再会を実現する必要がある。
封筒 便箋ペン筆 罫紙 1907年4月3日から7日に東京で開催された万国基督教青年大会に出席したるは残念なるも、芝罘にミッショナ
印刷物 写真
リーホームを営んでいるのでこの事業に幇助せんがため寄付を願うとのこと。
封筒 洋紙タイプ印字 後藤の8月20日付手紙に対する返書。
封筒 罫紙ペン筆
シベリア白系政府に属する親日家のセミヤノフ将軍から西伯利亜駐屯軍司令官大井成元がウエルフネルジン
スク政府代表者とウラジオ政府と妥協的交渉していることに対する批判と①ウエルフネ政府との交渉断絶、②
時においてシベリア各地の反過激派機関の成立を認めること、③日本政府は②に関する不干渉云々。菊池
忠一郎の訳。
封筒 便箋タイプ印字 後藤のクリスマスカードに対するお礼。
便箋ペン筆
寺内内閣成立の報に接し故青木子爵の一官として且つ故子爵の抱持せられし政見の賛成者として貴国に於
ける新内閣の成立を衷心喜ぶ所以は小生に対し今後日独両国の関係が如何に相成るべきやの問題が関連
致す為めに御座候 目下両国は交戦状態に有之候云々。
封筒 便箋ペン筆
日本とロシアの社会について述べ、今後日ソ関係を深めようという内容。
謄写版印刷
鶴見氏に托した後藤の伝言傾聴適当な機会し、拝眉 聖路加病院設立の計画に関する英米における進捗の
経過について。
封筒 便箋タイプ印字 新聞王 在北京 東京で後藤邸に招かれての接待を感謝する内容。
封筒 便箋タイプ印字 明2日、グリーン・ウッド・ゲートにてランチに招待する内容。
101
来翰
来翰
ハウヒ
Soum Hauch
バルトン
来翰
チャールズ・エー・ビアー ちゃーるず えー び
ド
あーど
Charles A. Beard
カリ・ヘルフェリヒ
かり へるふぇりひ
ロバート・ピー・ポーター ろばーと ぴー ぽー
たー
F・J・L・マクレー
まくれー
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
来翰
はうひ
ばるとん
1919/7/17
明治31年5月10日
便箋タイプ印字
罫紙墨筆
1923/11/3
洋紙タイプ印字
1906/9/20
1910/4/3
洋紙ペン筆
罫紙墨筆
1923/9/20
チャールス・エム・ミヒニッ ちゃーるす えむ みひ 1928/11/24
ク
にっく
リプリー夫妻
りぷりー
(明治43年)12月22日
Edward H. Ripley
ローレンス・モット
ろーれんす もっと 1918/7/21
Laurence Mott
来翰
来翰
ロヌツソ
ワルレンベルグ
G. Warrenberg
ろぬつそ
わるれんべるぐ
1912/3/10
1918/10/19
来翰
往翰
ワルレンベルグ
G. Warrenberg
後藤和子宛
わるれんべるぐ
ごとうかずこ
1922/8/7
(明治28年)8月14日
往翰
後藤和子宛
ごとうかずこ
(明治32年)5月13日
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤和子宛
後藤和子宛
後藤和子宛
後藤和子宛
ごとうかずこ
ごとうかずこ
ごとうかずこ
ごとうかずこ
(明治32)年5月23日
(明治32)年5月24日
1907/5/15
(明治40年)7月4日
往翰
往翰
後藤和子宛
後藤和子宛
ごとうかずこ
ごとうかずこ
(明治40年)8月3日
(明治40年9月28日)
ベルギーで再会できたことをよろこぶ。コンゴに関する書類を送る旨。ベルギー植民地省用箋。
台湾の衛生上の処見陳述すべき旨御話あり 本島の気候風土に準拠して模範的な衛生的家屋の設計の件
は医学者・建築学者・技師等を以て委員となしてから調査設計すべきもの 支那風家屋の軒下側道は大雨や
炎天等を防禦を得たるもの 模範家屋建築は日本支那両国を折衷しそこに欧州風を補うものとすべきもの。
内相・復興院総裁としての後藤の使命の重要性を説く内容。
拙著『日露戦資』の翻訳2部と旧著『植民地行政組織』に対する後藤の懇情を感謝 森孝三の訳書贈進への
謝状 現在 レガチオンスラート小亜細亜鉄道会社社長。
後藤より台湾に関する書籍を御恵与下され感謝 三好氏より台湾統治一班を恵与され同書掲載の統計に関し
て問合せ (ポーターは明治28年に来日)明治28年より本年に至る迄の間後藤の台湾に対する施設経営事業
に関する記事を恵贈されたいなど。
罫紙タイプ印字
後藤の好意により習志野廠舎に参り朝鮮避難民の状況を視察できたこと感謝併せて此等不幸なる鮮人は極
めて懇ろに待遇せられ居るを見全く幸福なりと思惟する 政府が朝鮮人を保護せらるる努力に於ては小生が
御役に相立ち候はゞ小生は喜んで助力支度云々。
和紙和文タイプ印字 後藤陞爵に対するお祝い 今般御陞爵遊され候由且又愈御健祥ノ由御愛督鶴見氏より拝承お慶び申上候
日米間の距離がかくの如く遠隔なる…将来においては航空術の進歩によりて太平洋渡航時日を四分の一に
短縮するを得るに至るべくと相信じ居候云々。
封筒 クリスマスカード クリスマスカード
便箋タイプ印字 罫紙墨 小生の一大希望は我等により我小雑誌に依り日米両国を一層緊密なる友好関係及相互了解に導かんが為
筆
全力を尽す可き事に有之候 現戦争終了し文明界未曾有の大敵の終局的に永遠に征服せられたる後は日
米両国へ共に世界平和保持に貢献する所少なからざるべく云々。
電報
大黒はとうとう参内してしつかり申上ることに決心したとのこと。
封筒 洋紙ペン筆 原稿 ①後藤男爵殿 ワルレンベルグ書簡 洋紙1枚裏表ペン筆 ②後藤宛封筒(洋紙ペン筆)切手なし ③ワルレ
用紙ペン筆
ンベルグの談話要領 予は日本に駐在すること茲に十有一年 日独戦争開始以降の日本の国際的立場につ
いて 対独戦争の如きも畢竟日英同盟に基き其責務を果す云々。
原稿用紙ペン筆
東京市長の職にある後藤への書簡 コンスタンチノープルの地勢的位置などについて。
巻紙墨筆 後藤新平伯 浦島へは金20円でよいこと 自分は今朝広島へ帰ってきて20日頃にはここを引き揚げると大臣へ電報したの
伝記編纂会罫紙鉛筆 で22~23日頃には帰宅すること 静子の帰名についての自分の意見。
封筒 巻紙墨筆
和子が一蔵・愛子共に無事旅行していると安心していること、安場保和の病気は日増に悪くなっているとの橋
本よりの電報があったので案じていること オレンジ・ザボンを病人が望んでいるとのことがあったので神戸へ
注文しておいたが間に合わなかったかどうか云々。
巻紙墨筆
岳父安場保和が危篤との電報を受けて、今度は安場の様態も難しいだろうから、後年は末喜様と相談して取
り計うように申送ったものとのこと。
巻紙墨筆
安場保和逝去の電報に接し今更の様に驚き悲歎にくれていること 一本松においても皆同様であろうと思って
いること この後のことは安場の平生の遺志を継いで計画していきたいこと。
巻紙墨筆
先刻の書中別紙封入の事に関する件
絵葉書ペン筆
6月29日定期総会を終え、30日夜東京出発、京都・神戸に1泊、7月3日天草丸にて出航、今4日正午に馬関
着。この船は露国のアムールと申した捕獲船にて大連行の船舶の中では第一等なり。新渡戸夫人の御母堂
様御機嫌如何、夫人ならびに御母堂様によろしく。一蔵も追々よろしき云々。
巻紙墨筆
新渡戸夫人始め御厚情小生に於ても同慶感謝之至に候御身は世界の後藤男となりし以来 欧米漫遊するの
幸福を領せられたるものなり 一蔵も其後快復葉山に静養候由云々。
絵葉書ペン筆
唯今朝鮮海峡通過 横浜丸船中晩餐後一筆 御健康を祝し候。
102
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤和子宛
後藤和子宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
ごとうかずこ
ごとうかずこ
ごとういちぞう
ごとういちぞう
(明治年)9月30日
(明治40年9月)日
(明治38年)7月31日
1907/5/8
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとういちぞう
1907/7/13
(明治40年)7月16日
(明治40年)8月7日
(明治40年)8月8日
(明治40年)9月6日
(明治41年)3月21日
(明治41年4月23日)
(明治41年)5月1日
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤一蔵宛
後藤新平宅(利恵・伯
母・初勢宛)
後藤一蔵・愛子宛
往翰
往翰
ごとういちぞう
(明治)41年5月3日
ごとういちぞう
(明治41年5月)
ごとういちぞう
(明治42年5月3日)
ごとういちぞう
1909/10/2
ごとういちぞう
(明治43年7月10日)
ごとういちぞう
(明治43年)8月5日
ごとういちぞう
1910/10/7
ごとういちぞう
(明治44年11月6日)
ごとういちぞう
(明治45年)1月9日
ごとういちぞう
(大正2年6月6日)
ごとういちぞう
(明治40年)3月21日
ごとういちぞう
(明治4?年)7月26日
ごとういちぞう
ごとういちぞう
ごとうしんぺいたく(ごと (明治42年)5月3日
うりえ・おば・ごとうはつ
せ)
ごとういちぞう・ごとうあ (明治39年)5月25日
いこ(つるみあいこ)
姉弟妻(初勢・和子・彦 ごとうはつせ・ごとうかず (明治23年)4月7日
七)
こ・ごとうひこしち
巻紙墨筆
便箋ペン筆
絵葉書墨筆
罫紙ペン筆 新聞切抜
丸山菱三より申来候此書類は他日古市へ仲人依頼候節にも入用に付写一通御願致置候静子写真至急菱三
へ送付候庸ニヘ御依頼可被成、此地清涼健全なり御安神可被下。
欧州行のこと 好機会あれば新渡戸夫人の断行に任せるべき、金5000円近日送付云々。
昨日有馬温泉に着 45日静養の後入京の筈 母は本日午後3時此地発夜行にて帰京 御身も遊泳にて健康
と練熟との養成に専心一意なり事歓ひ居候とのこと。
無事に大連に到着し市民の歓迎を受けたこと、母親の和子が渡米するので何かと大変であろうと察しているこ
と、留守中は学事に励んでもらいたいこと、船中の新聞で読んで黒田如水と長政の記事が面白かったのでそ
の切抜を送るとのことなど。
電報
十善回復まで入院すべし病気に退屈する様では平生精神鍛錬足らざるによるよろしく忍耐修養に努むべしと
のこと。
封筒 巻紙墨筆
退院を祝う無病にて病室にあるも忍耐修養の工夫を積むなど、子を思う子を励ます親心を十分にあらわした
手紙。
封筒 巻紙墨筆 罫紙ペ 退院後葉山にて養生中とあり安心 石黒男爵への訪問を勧める 新渡戸夫人の和子夫人近況を知らせる書
ン筆
翰の翻訳文を見た 母上の近況を知るべしとの翻訳文を添付。
封筒 巻紙墨筆 便箋ペ 養生専念のこと満州来遊を勧める 返事・気分よろしき運動もしている ただし石黒男爵への訪問は平井副院
ン筆
長に咎められ果たさなかったとのこと。
罫紙ペン筆
病気養生中の一蔵へ修養を高めるため手紙と訓誡和歌後切抜の練胆法を送付とのこと。
絵葉書ペン筆
挨拶文。
絵葉書ペン筆
出立後精神爽快に候君も快濶敏活にして且奮励更に奮励し能く遊ひ可申候。
絵葉書ペン筆
昨夜奉天を出発し今朝長春着、今晩[東憲]城子車站より露国鉄道に乗込、此汽車は世界第一の大なるもの
ハルピンより12日間にて聖彼得堡に着可致候身体は頗る健康に付御安心可被下候也。
絵葉書ペン筆
昨朝ハルピンに到着 露国より特別汽車殊に皇族用の分を出し歓迎懸篤昨夜停車場内にて此汽車中に1泊
致候上等ホテルよりも遙に優り居り万事何等の不都合なし云々。
満鉄社章付のメモ用紙 5月6日午後2時イルクック車站に安着 一行皆健康に候此市府金礦により繁栄を致せし処にて人口5万余 シ
ペン筆
ベリア第2の都府に候云々。
絵葉書ペン筆
裏面南州翁臨終云々。
絵葉書ペン筆
本日午後四時長尾半平君郷里越後村上町に着 同君の老父右門翁拝顔致し候云々。
絵葉書ペン筆
本日鉄道巡視の途次当地に来り一行犬若の風景をながめ涼を納め云々。
絵葉書ペン筆
天気日々上々北陸道線大吉関東甲府線は出水昨夜電報は起され明日小浜発 来10日帰京の心算とのこと。
絵葉書ペン筆
唯今大分県下海地獄という温泉湧出地に廻遊致候昨日は馬関より別府に達し候速く秋晴快事云々。
絵葉書ペン筆
古人も楓葉紅於2月花と申候云々。
巻紙墨筆
昨夜安着今日も好天気にて梅林に散歩致候明日より付近へ遊獵相試み度と存奉候江崎より写真一閲之処、
先上出来之方に有之裏面に壱打又は弐打と記し置候間云々。
絵葉書ペン筆
此養生会事所は維新前伊藤某という碩儒の居宅にして吉田松陰先生云々。
絵葉書ペン筆
晩餐に生かきがあったので、御覧に入れます云々。
絵葉書ペン筆
皇太子殿下行啓のこと。
絵葉書墨筆
父母乃あしきをすてゝ善をとるとの一とふしよさても学ふとし云々。
絵葉書墨筆
東京京橋区築地岸病院の後藤一蔵へ「昨日此地安着夜来雨今朝に到て快晴一同入浴」云々 新平・和子。
絵葉書墨筆
宇品より宮嶋に入り厳嶋神社に参詣致候 今日午後下関へ向け出帆之筈に御座候皆々御健康を祝し奉存
候。
封筒 巻紙墨筆
和子が無事に台湾に到着し日本の様子をくわしく聞いて安心したこと この夏には一蔵も台湾に来るとのこと
なので待っていること 先日の帰台の途中で1人で台湾に行く13歳の少年と同船し感心したこと 愛子には母
親の留守中極別に心懸けてほしいとのことなど。
巻紙墨筆
ドイツ留学に向かう途中 神戸より船中の様子 留守中に処置しておくこと 留守家族に書き送ったもの。
103
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
往翰
往翰
後藤実崇宛
後藤実崇宛
往翰
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう
じゅうえもん)
(慶応3年)9月4日
(慶応3年)11月10日
(明治1年)6月13日
(明治1年)7月4日
(明治6年)5月10日
(明治6年)6月13日
(明治6年)6月22日
封筒 巻紙墨筆
折紙墨筆
折紙墨筆
折紙墨筆
包紙墨筆
包紙墨筆
巻紙墨筆
(明治7年)1月16日
(明治7年)5月25日
巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治7年)8月25日
じゅうえもん)
封筒 巻紙墨筆
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤実崇宛
後藤十右衛門(実崇)宛
後藤実崇宛
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治7年)9月6日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治7年)9月8日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治7年)9月21日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治7年)12月26日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治8年)2月1日
じゅうえもん)
ごとうじゅうえもん(ごとう (明治8年9月28日)
さねたか)
ごとうさねたか(ごとう (明治9年)5月18日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治9年)8月17日
じゅうえもん)
往翰
後藤実崇宛
封筒 巻紙墨筆
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治9年)10月2日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治10年)1月21日
じゅうえもん)
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
104
仙台勤仕中の父親に宛てた御機嫌伺及び郷里の近況報告。
仙台勤仕中の父親に宛てた御機嫌伺及び郷里の近況報告。
仙台勤仕中の父親に対する御機嫌伺及び昨今の状勢により自分も南部藩との境まで出向くこととなったの
で、胴〆・韮山笠・太刀帯等をほしいこと。
千葉貞治・佐藤安五郎などと申す者は一延の内へは罷越していないのでその様に承知しておいてほしいこ
と。
福島県下第一大区木邨一貫寄留邱 後藤新平 水沢県下第十四大区小一区瑞皐にて 後藤十右衛門。
福島県下元郭内第二番官舎 後藤新平 水沢県管下第十四大区小一ノ区塩竈邨水沢騎士小路にて 後藤
十右衛門。
自分は苦辛勉励しているので必ず煩慮しないよう願っていること 追々自分よりは手紙を送っているのに返事
がないが是非返答がほしいこと 自分は当分旧県少属今村師のところへ食客となること 過日学校より富国強
兵に関する策問があったこと 彦七の学問について。
阿川光裕宛の父親の書状を誤って火中に落して焼いてしまったのでもう一度認めてほしいこと。
富沢の叔父が岩城よりの帰りに水沢へ寄るとのこと 自分は4月に理学、当月に化学の大試問があり別紙写の
通り免状を受けたので安心してほしいこと 亀代姉より承ったところによれば祖母が自分のことを心配している
とのことであるが気遣い無く体を厭ってくれる様祖母に伝言してほしいこと云々。
斉藤富王郎へ托した父の書簡を読み郷里の情実も委細 富王郎より聞いたこと、自分の方は解剖学と生理学
を10月初旬迄には卒業する予定で、そうすれば病理学と薬剤学に入りかつ病床を実験診察するようになるの
で安心してほしいこと。病床実験に入れば衣服を清潔なものにする必要があること云々。
先の便で申し上げた衣類の件は早く送ってほしいこと 阿川も近々上州草津より帰省する筈であるので、後金
5円を送ってほしいとのこと。
阿川は当月15日頃に帰省する筈であるので後金5円を早速送ってほしいこと、コレラ及び痢疾予防法を送るの
で見てほしいこと云々。
なんとか金7円を送ってほしいこと 阿川の草津よりの帰省は延期となったが、遠からず帰ってくるであろうこと
など。
封筒のみ。 従福島県須賀川病院書生寮 後藤新平 陸中国胆沢郡塩竈邑水沢吉小路にて 後藤十右衛
門。
種痘を勧めたもの 須賀川医学校の講議の時間割や日課等について。
阿川が転任するので祝文を遣してほしいこと 水沢の田地の様子や松前の姉の帰郷、彦七の学問の様子など
手紙で知らせてほしいこと等。
今般、庄内の鶴岡県病院へ月給25円で勤めないかとの話があるが、40円以内にては出向かないと申し遣し掛
合中であること 若しかすると鶴岡の病院に勤めることとなるかもしれないが父親はどう思うか窺いたいこと
云々。
自分は8月8日に須賀川病院に辞表を提出し10日にそれが認められたこと、病院よりの慰労金や帰国の旅費
手当、諸片よりの餞別等で金33円余が手に入ったので、諸方よりの借金をすべて返済したこと、11日須賀川を
発し生徒をはじめ21名が人力車にて矢吹駅まで送ってくれたこと云々。
自分は10月1日より愛知県病院の副教師兼通弁兼医学所教師である司馬盈之(凌海)の家に同居することと
なったこと、名古屋は衣裳に美麗を飾るところであるが絹布類が非常に高価なので、水沢で秋田八丈を一疋
7、8円位で求められるならば買求めて送ってほしいこと云々。
1月2日の病院及び医学所の改革により自分は二等授学生となり月給12円を支給されることとなったので安心
してほしい。過日送ってもらった衣服料の返済が遅くなり申し訳ないこと。2月以降は毎月金3円を父親へ送る
ので肴料の一部にでもしてほしいことなど。
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう 明治13年2月18日
じゅうえもん)
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治13年)3月26日
じゅうえもん)
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治13年)11月1日
じゅうえもん)
往翰
後藤実崇宛
往翰
後藤実崇宛
往翰
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治13年)12月11日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治14年)1月23日
じゅうえもん)
ごとうさねたか(ごとう (明治14年)4月20日
じゅうえもん)
往翰
往翰
後藤十右衛門(実崇)宛 ごとうじゅうえもん(ごとう (明治15年1月22日)
さねたか)
後藤実崇宛
ごとうさねたか(ごとう (明治15年)1月28日
じゅうえもん)
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤十右衛門(実崇)宛
後藤十右衛門(実崇)宛
後藤実崇宛
後藤利恵・初勢宛
後藤利恵宛
後藤利恵宛
後藤利恵宛
後藤初勢宛
ごとうじゅうえもん(ごとう (明治15年2月13日)
さねたか)
ごとうじゅうえもん(ごとう 2010/7/17
さねたか)
ごとうさねたか(ごとう (明治15年11月4日)
じゅうえもん)
ごとうりえ・ごとうはつせ (明治15年)10月11日
ごとうりえ
(明治24年)3月16日
ごとうりえ
明治26年11月21日
ごとうりえ
明治26年12月16日
ごとうはつせ
(明治9年)8月30日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治9年)9月28日
往翰
往翰
後藤初勢宛
後藤初勢宛
ごとうはつせ
ごとうはつせ
(明治13年)11月1日
明治14年1月28日
巻紙墨筆
時候の挨拶及び兄の後藤新平は多忙なので弟の自分(彦七)が書状を送るということ 教師老烈氏への書状
は慥に届いたこと 横井先生が上京し病気も全快したこと、此頃は父親の御気象も宜しいようで受け取った書
簡の文字の形も暢々表々としていて兄も私も欣喜雀躍していること等。
巻紙墨筆
過日来、自分は院校長代理を申付けられているが、来月の県会に病院医学校定額を付する為に予算に苦心
しているが、先ずは七、八分は調理できたので安心してほしいこと、彦七より新聞を添えて上申した通り自分が
設立した愛象社も首尾よく開業式も済み、持続の方法も立ち評判もよろしいこと云々。
和紙墨筆
自分は来春には辞職して帰国する心組でいたが、諸般の事情もあり、当分はこちらで勤務することとなったの
で申訳けないこと、近日の内に岐阜・三重・静岡を始め西京大阪の病院を巡視するために出張の予定である
こと、それにより増々当地に落付くはめになってしまったこと云々。
封筒 巻紙墨筆
自分も彦七も変わりないので安心してほしいこと、一昨日姉より羽織地をもらったので新春から着用しようと
思っていること。彦七の事は先日専断を以て当地の沼浪龍蔵という医者の家へ養子に出したこと 沼浪家は
金満家であるので彦七は東京へ遊学させることになったこと云々。
封筒 巻紙墨筆
彦七の送籍を受理し受籍証書を送ったので戸長役場へ出してほしいこと この度「四季医報」という書を出版
したので送るから見てほしいこと、その他にも小冊子であるが「養生一班」という書も送るので親戚にも廻してほ
しいとのこと。
巻紙墨筆
自分は今般東京で聞き込んだ日本鉄道会社創立の件については安場議官等の発論したもので、現今は株
主も集まり設立のはこびとなったので数百里隔ったところでも2日に費やさずして往返できることになることは欣
然の至りであること熊吉はこの度参議兼外務卿井上氏に随行して京阪に周遊し中旬頃東京へ云々。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
石原は不敬の至りにて自分も堪え兼ねている次第である。その理由は自分が上京した後に半田茂吉という者
が尾張・美濃地方を奔走し、帰京後自分が医士を辞て尾州辺在の代言人をしている等と水沢出生の諸生へ
言い触らしているがこれも坂野長三郎の事より生じたものに間違いなく不満の至りに堪えない云々。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
9月25日に四日市から荷物を3つ送ったが到着したかどうかまた10月にも荷物を1つ送ったが何の沙汰もない
のはどうなっているのか伺いたいこととのこと。
封筒 巻紙墨筆
来る11月中旬頃上京するよう内命があったのでその節に両親と姉を東京へ招きたいことなど。
封筒 和紙墨筆 原稿用 ドイツ留学中にベルリンより福岡の安場保和邸に居る留守家族に宛てたもの 自身の近況や留守家族に対す
紙ペン筆
る細かな配慮など。
封筒 罫紙墨筆
獄中より自分は無事で心身共に健康であるので安心してほしいこと。
封筒 罫紙墨筆
近来母親の持病が急変し難儀している事を安場と北里よりの保釈願により知り驚いたこと、保釈願は不日許可
になるであろうこと、自分の事については安心していてほしいことなど。
封筒 巻紙墨筆
郷里滞在中世話になったことへのお礼、自分は8月20日に名古屋へ到着し25日に愛知県病院三等医を拝命
し医局出仕で診察所専務となったので安心してほしいこと、自分は身を慎み勉学し金銭にも不自由しないの
で心配を無用であること、彦七の事は来年の春までには名古屋へ呼び寄せ学問をさせたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
自分は当時にて変わりなく病院へ出勤しているので安心してほしいこと、初勢の病気も日ましに良くなっている
由であるが本服したわけではないので次便で体の様子を教えてほしいこと、また椎名弁七郎についても次便
で一書にその体の様子を知らせてほしいことなど。
和紙3枚墨筆
父親の病気の様子を伺いたいこと、初勢がこちらに出てきて自分と一緒に住み養子をむかえた方が良いと思う
が初勢の存念を聞かせてほしいこと、彦七の縁談についてのことなど。
封筒 送達紙鉛筆書 雪が深いので急には行けないのでそちらの様子を至急知らせてほしいこと。
105
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治14年)6月17日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治14年)11月15日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治14年)12月18日
往翰
往翰
後藤初勢宛
後藤初勢宛
ごとうはつせ
ごとうはつせ
(明治15年)2月21日
(明治15年)4月26日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治15年)5月12日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治15年)6月19日
往翰
後藤初勢宛
ごとうはつせ
(明治15年)7月22日
往翰
往翰
往翰
後藤初勢宛
後藤初勢宛
後藤初勢宛
ごとうはつせ
ごとうはつせ
ごとうはつせ
(明治15年)7月23日
(明治15年)9月13日
(明治15年)11月8日
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤初勢宛
後藤初勢宛
後藤彦七宛
後藤広宛
ごとうはつせ
ごとうはつせ
ごとうひこしち
ごとうひろし
(明治17年)4月16日
(明治40年)8月20日
(明治23年)2月3日
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
後藤広宛
青柳栄司宛
阿川辰子宛
阿川彦七宛
阿川彦七宛
ごとうひろし
あおやぎえいじ
あがわたつこ
あがわひこしち
あがわひこしち
(明治23年)2月21日
(大正14年)3月17日
2010/1/24
1912/7/12
2010/1/6
巻紙墨筆
その後父親の病気が快方に向っていると聞いて安心したこと、椎名家の1軒はどう片付いたのか、弁七郎は
帰ってきたのか承りたいこと、彦七の養家は非常に流行っていて1日に60~80名程の看者がくること、長三郎
も勉学のため東京へ出したいと思っていること、熊吉が音信不通となっており心配。
巻紙墨筆
過日自分は医学校長准九等に任じられ病院長兼務となったこと、般来坂野家より言って来ている件について
秀とは離縁で長三郎の世話は断り、自分は坂野家へは一切出入しないのでこの旨を両親に伝えてほしいこ
と、秀に対しては気の毒ではあるがあきらめてもらう外なく云々。
巻紙墨筆
過日二度金10円を送ったのでこの書簡が着くまでには受取っていることだろうと思うこと、この度の事について
はもう申し上げることもないので左様承知してほしいこと、自分は来春は東京へ行くことなど。
封筒 巻紙墨筆
愛知県では自分の事は一寸した事でも新聞に書くので悪い事は出来ず箱に入れられた様な状態であること、
それ故に自分の親類も注意してほしいことなど。
巻紙墨筆
父が自分の帰国を望んでいる事は有難いが仕事のためにままならないこと、坂野家のことや秀の引取につい
てはその後どうなっているのか、この後は父親の意見に随わない事は悪いことだと思い込み御意のままに従う
ことは本筋の孝道を失い、祖先に対して目面を失うので父の意見に反しても名を立て云々。
巻紙墨筆
姉からの文を拝見 坂野秀は誠に感服の至りであり如何様にも考えて程良く致し遣したいと考えてはいるが最
早計略も尽きはてたこと、山本薫に金200円程立替たが返却してくれる様子がなく困っていることなど。
封筒 巻紙墨筆
最早、差上げた金円も無くなっているのだろうから逓送しようと思っているのだが山本薫より金が返ってこない
上に音信不通となっておりようやく伯母より通信があり今野はペテン師であるというので警察に照会しようかと
思っていること、沼波彦七は言語道断で自分の顔に泥を塗る人物で誠に困っている云々。
巻紙墨筆
当地(名古屋)へ家族がすぐに引移ってくるのは叶わないと承知していること、それ故坂野秀の送籍の件は至
急取計ってほしいこと、戸主の名前を自分のものに改めたいこと、彦七の事については先方(沼波家)より離縁
したこと、水沢の家屋敷は全て売払う決心でいること、山本よりの金円を前沢の今野屋が返してくれないこと
等。
巻紙墨筆
坂野長三郎よりの書面のこと、秀のことなど。
巻紙墨筆
坂野家のこと 秀へは家作と田地の半分を遣したい決心であること、彦七は八月下旬に上京させた云々。
封筒 巻紙墨筆
来る3月に父親が当地へ引移というのは至極よろしいと思われること、水沢の諸道具類は全部売渡してくれるよ
う取計ってほしいこと、また芝居用の弁当箱を送ってほしいこと、刀剣類は売ってはならないこと、本家の三郎
の二女を高野長学の跡取りにしたい云々。
巻紙墨筆
春の内は運動が大に体に薬となるので母を始めとして散歩をしてもらいたいこと、留守中は万事世話になって
いること、良き頃に麻布の祖母を招いてほしいことなど。
封筒
封筒(表)御姉様 おてもとへ参る 後藤新平
巻紙墨筆
葉山行御健勝の趣恭賀云々、一蔵の病気もあまり大切に失せぬ様運動十分のスペンサー氏なども幼年薄
弱、学校を休みの人伝記買求めて一蔵へ渡して下さい云々。
罫紙謄写版複写 後藤 第1回帝国議会議員選挙に水沢より立候補しないかとのさそいに対する謝絶のこと。
新平伯伝記編纂会用箋
ペン筆
封筒 巻紙墨筆
帝国議会議員選挙に立候補してほしいという勧誘に対して種々の理由を挙げて謝絶してほしいこと。
巻紙墨筆
家庭電気普及会 青柳栄司殿 3月13日付の書面拝読、来る26日東京出発、ハルピン行きのため、残念なが
ら名古屋の会へは出席できないとのこと。
和紙墨筆
鰤二匹恵送に対する礼状。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
中村是公より交付に付彦七へ受取方を指示。
106
往翰
愛久澤直哉宛
あくざわなおや
昭和4年3月某日
往翰
荒井泰治宛
あらいたいじ
1913/10/28
往翰
往翰
新井真道宛
有松英義宛
あらいまさみち
ありまつひでよし
(明治41年)2月22日
(大正7年1月16日)
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
五百木良三宛
いおぎりょうぞう
伊沢平左衛門宛
いざわへいざえもん
石黒忠悳・三宅米吉宛 いしぐろただのり・みや
けよねきち
石堂重徳宛
いしどうしげのり
伊集院彦吉宛
いじゅういんひこきち
往翰
往翰
伊集院彦吉宛
伊集院彦吉宛
いじゅういんひこきち 1909/4/12
いじゅういんひこきち (明治43~44年)4月8日
往翰
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
(明治36)年5月19日
往翰
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
1907/2/5
往翰
往翰
伊藤博文宛
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
いとうひろぶみ
(明治40年4月6日)
(明治40年)5月23日
往翰
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
(明治40年)6月9日
往翰
往翰
伊藤博文宛
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
いとうひろぶみ
1907/10/7
1908/2/1
(明治41年)2月22日
1928/5/15
(大正12年9月)
1926/6/2
(明治42年)1月5日
原稿用紙ペン筆 メモ用 露国外交首席チーリン氏より贈られたる嗅煙草入を愛久澤へ転呈す。昭和2年の臘尾余病余私人の身を以て
紙ペン筆
極寒を冒して北地労農の露都を訪問したるを外交首席チーリン氏は両国親善の使として潁待至らざる而して
友愛の記念として本品を余に贈り来る云々。
便箋墨筆 後藤新平伯 桂公死後の同志会について 脱退せざるを得ない旨を記す 当分静養する積りとある。後藤新平伯伝記編纂
伝記編纂会用箋ペン筆 会の写しあり。
罫紙ペン筆
対台湾経営問題成功は付帯条件云々何等心に覚あるかとのこと。
罫紙墨筆
病気お尋に対する感謝の言、(1月14日の有松からの書簡に、身辺の警戒を促す文があり、そこに神奈川県
知事からの内報として後藤に短銃入り菓子折を送ったと記されている)ことに対し、後藤は菓子折の件は有松
の内示により始めて知ったこと、内通者こそ虚報の製造者ではないかと云々。
罫紙ペン筆
明治41年2月22日付新井真道宛の後藤新平書簡に新井氏の台湾経営成功付帯条件説に不徳義呼ばわりし
も心配はいらないとのこと。
原稿用紙ペン筆
東北産業博覧会会長伊沢平左衛門への拝復 来20日(21日)発便車を以て参上の事など。
巻紙鉛筆書
『国家衛生原理』が出版から30余年すぎて絶版となっていたこと、第3版は三宅の家に残されていた第1版をも
とに再刊したことなど第3版出版に至る 経緯を記した石黒と三宅に対する感謝文。
原稿用紙ペン筆
其後実社会に御邁進御成功の趣御同慶の至…義金御寄付の御思召御知友中に被為在候に就ては受否如
何云々。
封筒 巻紙墨筆
湯河原滞京中清国の光緒帝・西太后崩御による清朝政府の動静と満州経営に関する後藤の意見等について
の伊集院公使の見解聴取並に近々北京にて執行される大礼に際し満鉄会社より代表を簡派し慶吊を表する
ことにつき伊集院公使の意向問合せなど12月22日付伊集院公使書翰に対する返書。
罫紙墨筆
清朝大葬の節満鉄代表者簡派取り止めのこと、対清政策における露国の真意、満州案件及び統監入京を機
とする対韓政策について。
罫紙墨筆
客月30日付恵函接到 端前督弟錦氏之件に付御丁寧の御挨拶痛入候小生は両国の親善は啻に両政府間
に於けるのみを以て足れりとせず双方個人の親善が寧ロ基礎とならざれば終局の親善を見難からんとの宿説
を抱き居候に付世間往々変転常なき清国人に対しては無用の沙汰と冷視する者も有之候。
巻紙墨筆
昨夜来政友会の形勢は紛擾を極めていて総務委員は伊藤の趣意を貫徹させることができず、遂に本日に到
り予算委員会で地租案を否決ということになる様で、たとえその後公債案の審議となっても到底伊藤の内意通
り円満に終るとは思えず、却って伊藤の威信を損し政友会の分裂を来し将来の事も覚束ない。
罫紙墨筆
ポーツマス条約に基く諸般の協定が逐次解決していくにしたがい、日露の関係はようやく融和を兆しているこ
とは時代の為めによろこばしいことであること、これに対して日本の対清政策の主題は満州経営の上にあるの
に日露戦後の日清関係は憂慮すべきものであること云々。
巻紙墨筆
対外的に日本は不利であり清国は有利であるという状勢の中で対支外交をどう進めるかについての意見書。
罫紙ペン筆
大連に着任後会社内外の実況を見て撫順、旅順にも行ったが何分にも創業の際であるので諸事その緒に就
きかねている有様であること、出発前に林駐清公使と約束した件は諸般の事情によりうまく行きそうにないが、
自分は取りあえず北京に伺うこと、日本の対清政策についての呈言。
罫紙ペン筆
6月1日に北京を発し天津に3日間滞在して袁世凱等と会談を重ね6日に営口に到着したこと、営口では清国
の官商と重なる日本の商人や欧米領事と面会し概ね今回の用務を負えたので今朝大連に帰還すること、北
京の状況は対しの特派は急を用すること。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし。9月28日厳島会談後、満州政策を主として対清国問題に関する意見を開陳して入京し中央巨頭
用箋ペン筆
と交渉し進展を見られない状況を報告するとのこと。
罫紙ペン筆
清国が鉄道を延長しつつある いずれ満鉄経営が影響される 現階級対清政策を確定せねばならないと伊藤
公に催すとのこと。
107
往翰
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
(明治41年)4月30日
巻紙墨筆
往翰
伊藤博文宛
いとうひろぶみ
(明治41年)7月1日
罫紙墨筆
往翰
往翰
犬養毅宛
今村秀栄宛
いぬかいつよし
いまむらしゅうえい
(大正6年)2月21日
(明治15年)7月13日
巻紙墨筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
往翰
今村秀栄・中村利恭宛 いまむらしゅうえい・なか (大正15年)2月26日
むらとしやす
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
往翰
往翰
往翰
岩原謙三の弁護団宛
内田嘉吉宛
内田康哉宛
いわはらけんぞうのべん
ごだん
うちだかきち
うちだやすや
(大正12年)4月21日
巻紙墨筆
巻紙墨筆
原稿用紙墨筆
往翰
往翰
海野勝珉宛
大隈重信宛
うみのしょうみん
おおくましげのぶ
1908/10/5
1915/8/30
巻紙墨筆
罫紙墨筆
往翰
大隈重信宛
おおくましげのぶ
大正4年8月
罫紙ペン筆
往翰
大谷尊由宛
おおたにそんゆう
(大正2年)8月15日
巻紙墨筆
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
大山厳宛
尾崎元次郎宛
小野多門宛
お秀宛
河西医学博士宛
片山国嘉宛
桂太郎宛
桂太郎宛
桂太郎宛
おおやまいわお
(明治44年)11月27日
おざきもとじろう
おのたもん
(明治1年?)12月10日
おひで
(明治15年2月)
かさいいがくはくし(かさ 大正甲寅(3)年初春
いけんじ)
かたやまくにか
(明治27年)12月11日
かつらたろう
(明治38年9月6日)
かつらたろう
(明治43年8月1日)
かつらたろう
1911/2/23
罫紙墨筆
原稿用紙鉛筆書
巻紙墨筆
和紙短冊墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
108
聖彼得堡に参り不申ては不相成都合に付滞在日期1週間とし急ぎ帰途に就き候様可致云々 英大使に対し
てシンジケート買収の交渉別紙の通相試候旨報し来り云々 佐藤少佐を北京に行かせて状報を得候様尽力
致させべく候云々。
外務内務両大臣に面会の節幸に内謁見にても被仰付候はば既往1年間の経過並に将来の計画及近者露国
一話之梗概等上聞に相達度由云々。露国行は両国政府間以外の接近を実際に顕し、社交的経済的関係を
して更に密邇せしむるの端緒を啓き得たる商議の結果としては寛城子以北之接続を云々。
欧州の形勢交転しドイツの勢力が漸く支那に侵入してきているのに、久しく公使の駐箚地を離れていた本人
に訓戒を加えて留任とすることなどが触れられている。
原文書なし。この度は久しぶりの帰省で内外ともに御用繁多であると推察していること。佐々木復介も四、五日
前に福島県へ帰り頻りに今村の帰院を希望していたこと。それについての今村の都合を至急知らせてほしい
こと、福島県も巡行があるので官員は多忙なことと思うが郡長はどうなのか云々。
原文書なし。内務省衛生局御用掛に採用するとの内命があったので帰県後は辞職すると一旦決めたが、突
然辞職したら病院・学校共にどうなるのかわからないので、帰県後後の計画を立ててから内務省へ転任するの
が良いと考えていること。中村氏には尽力を蒙ったこともあり帰院後はまず自宅開業して返済する云々。
湯河原より 小生前日来当湯河原て恬養中一友人来訪近自岩原謙三君の覆審開候云々。
農学士高橋昌と申す者朝鮮拓殖会社へ推薦致し置候処台湾在職中並免官の理由に付総督府に問合ある筈
に付可然返電ある様御注意を乞う 内田長官宛。
昨日内田外相に面会した際、ヨッフェとの交渉について内田の意見が不明瞭であるばかりか不承認を意図し
ていると受けとめられたこと、松平局長首相代理と会見した時も文字の羅列に過ぎなかったこと、ヨッフェの提
出した3条件に対する政府態度はヨッフェに1日も早く退去を迫るものであることなど。
在台湾母国人より紀念に花瓶を贈られる海野氏の彫刻非凡に対して謝状を出したとのこと。
大隈が党弊の改革に努めてきたことを評価、党派の外に身を置いてきた自分は大正2年ハンザ同盟の翻訳を
して配布した 国家政治の根本である自治体の発達のために微力を尽す所存であることなどを表明。
政党政治の実情、弊害を指摘し、大隈がその改革に当ってきたとしたうえで自分が立憲同志会を退会した理
由を述べ、立憲政治の根本となる自治体の発展に自ら尽力することを宣言しているとのこと。
巻紙①この件(内容不明)は極めて簡単な問題で先方の為すがままに放任しておくのも上策と思われるが裏
面の消息を揣摩憶測すると複雑な情実もありなど ②辻嘉六の身元調査書について連絡。
大山元帥への面会を求める書簡。
麻布区長松崎章太郎今回静岡市長の候補として推薦せられたるため応援の依頼文。
属類滞留中の御厚愛と拝領物について若殿様への礼状。
(表)於秀様 おてもとへ参る (裏)東京より 「横浜相生町」。
去猟勅令廃止の結果として予備役となった河西に対し遺憾の意を表明しているとのこと。
後藤の拘留中に新聞や雑誌等に「後藤新平誣妄の弁」等と題して掲載された片山国嘉の文章に対する反
論。
奉天の児玉を訪問し台湾の状況について会談した内容及び桂より内命された三ヶ条に対する児玉の回答に
ついての報告。
原文書なし。台湾民政長官の人選に関するもの 大島・宮尾・長尾に対する評価 佐久間総督への批評。
原文書なし。本日は先以無上好結果を得邦家の為め敬祝し奉り候小生健康また十分ならず1歩御先に退出
致候多罪御寛恕可賜候にてはがため本夕の御祝意も申述兼遺憾千万閣下1月中旬卓見尋常ならさるものあ
り御英断相成、本日の逆浪を平気に凌駕せられ上宸襟を安じ奉り度民を安泰におかれ候云々。
往翰
往翰
その他
往翰
桂太郎宛
桂太郎宛
加藤学兄宛
加藤高明宛
かつらたろう
かつらたろう
かとうがっけい
かとうたかあき
1912/8/28
1912/9/5
(大正15年)
1925/6/4
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
加藤高明宛
加藤高明宛
加藤高明宛
加藤友三郎宛
加藤友三郎宛
加藤友三郎宛
かとうたかあき
かとうたかあき
かとうたかあき
かとうともさぶろう
かとうともさぶろう
かとうともさぶろう
(大正14年)7月16日
(大正14年)7月17日
(大正14年)9月24日
(大正11年)8月7日
(大正11年)9月9日
(大正11年12月8日)
往翰
往翰
加藤友三郎宛
加藤友三郎宛
かとうともさぶろう
かとうともさぶろう
1923/2/18
(大正12年)4月9日
往翰
往翰
兼井林蔵宛
金子直吉宛
かねいりんぞう
かねこなおきち
(大正15年)6月2日
1914/5/14
往翰
金子直吉宛
かねこなおきち
1925/10/2
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
鎌田弥助宛
亀井六郎宛
川上俊彦宛
川村竹治宛
菅節也宛
関東庁宛
菊池忠三郎宛
北里柴三郎宛
清浦奎吾宛
金田一国士
瀬川弥左衛門宛
串田健之助宛
かまたやすけ
かめいろくろう
かわかみとしひこ(かわ
かみとしつね)
かわむらたけじ
かんせつや(すがせつ
や)
かんとうちょう
きくちちゅうざぶろう
きたざとしばさぶろう
きようらけいご
きんだいちくにお・せが
わやざえもん
くしだけんのすけ
2010/10/18
2010/10/10
(大正元年11月11日)
(昭和3年7月末)
(明治4年)1月6日
(大正15年秋)
(大正3年3月17日)
(明治28年1月23日)
(大正13年)6月2日
(大正15年7月末)
1926/12/10
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし。内府より借覧中の書冊を返還し最近入手の政界情報を参考として呈上するもの。
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし。昨夜は長坐御疲労のところ無心の行動乍毎度後にて恐縮千万云々政界情報2通参考まで御覧
用箋ペン筆
に入れ候云々。
原稿用紙ペン筆
今日の感や如何と問はれ候処衛生の事亦生涯の志政治の倫理化畢竟別名同義に出つるもの而して宿志の
未成に至ては今猶昨日の如し云々。
封筒 巻紙墨筆 印刷物 過日面会の際に陸軍中佐前陸軍航空部々員安達堅造の航空輸送会社設立計画について尊慮をお願いした
こと その後わかったことはアメリカの会社が上海に航空機を飛ばしており東洋における航空権は危機的情況
にあるとして、日本人による航空輸送事業が急務であること云々。
巻紙墨筆
別紙の覚書や口頭で後藤が述べたことに対する回答がないのでその回答を促しているとのこと。
巻紙墨筆
加藤からの回答を得た返書 斯急用問題とあり、自分も必要方面に交渉を試みることが記されている。
原稿用紙ペン筆
後藤の提案した極東拓殖会社要綱について加藤の見解を求めている。
封筒 巻紙墨筆
臨時外交調査会委員辞職のこと。
巻紙墨筆
臨時外交調査会委員辞職願について。
和紙墨筆 和紙謄写版 帝都中枢の美観地区に250尺の高塔3基建設中に反対、我国の制度が壮麗なる都市の発達に対する根本的
弱点を包蔵することを暴露するものと非難 工事中止を願い出ているとのこと。
巻紙墨筆
外交問題に関して最大級の苦言を呈したるもの。
封筒 巻紙墨筆
日露の接近は日本の対米・対中関係を有利に展開せしめること、日露の接近が中国人の妄動を抑えることを
指摘し、ヨッフェとの非公式交渉を進めるかどうか、彼に暗号を許可してモスクワ政府との連絡をさせるかどうか
などの決断を加藤に迫っているとのこと。
原稿用紙ペン筆
貴著恵与の礼状。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、先日巽来次郎と会談中、米国が中華民国に援助を申し込んだ事を知る。これは載絢殿下が渡米
用箋ペン筆
の際に、駐米公使張蔭桓と米国政府が結んだもので、米国が清国の国防方針などを援助する内容。
巻紙墨筆
ジョージ・スワンは永年日本にあって青年会事業に従事してきた 前は神戸、現在は京都・大阪の青年会のた
めに努力している ウィルバン氏は中華民国基督教青年会から応援のために来朝し関西における青年福祉な
どに尽力しており、あなたからも力添をしていただきたいとのこと。
巻紙墨筆
撫順興京間鉄道布設合弁の件。
巻紙墨筆
亀井六郎君への返書。
罫紙ペン筆
来春、露国の経済人が来日の計画があるとの件 この件については寺内伯爵の意見も聞いた上で宴を作りた
い云々。
和紙墨筆
伊沢総督更迭の事情既に御承知之通り同氏台政之上に付ては聊カ横暴のきらいなきにあらず云々。
折紙墨筆
早忙中英話を遂げることが出来ず甚だ遺憾であること便船の件については尽力してもらったが遂に乗船でき
なかったことなど。
原稿用紙ペン筆
下書き、関東庁始政20年記念挙式の節銀盃一組御受領相成り候趣。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、昨日から母が熱海の別荘に入り自分の平生の不孝の償いをしているとのこと。
用箋ペン筆
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
辞表提出の時期について、臨時議会に臨み一応施政演説をした後に進退を決することが理にかなうなど意見
を述べているとのこと。
原稿用紙ペン筆
金田一国士・瀬川弥左衛門宛礼状(写)。
原稿用紙ペン筆
下書き、去る四日付の貴翰小生月初来旅行相続き候為め漸く少閑留守中接受の書類整理に取懸り候中に不
図貴翰を見出し候云々。
109
往翰
国貞廉平宛
くにさだれんぺい
(明治)3月17日
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
国沢新兵衛宛
小池国三宛
郷右近清四郎宛
辜顕栄宛
辜顕栄宛
くにさわしんべえ
こいけくにぞう
ごううこんせいしろう
こけんえい
こけんえい
1908/12/28
2010/3/4
(明治22年)4月23日
昭和3年9月
1929/3/19
往翰
児玉源太郎宛
こだまげんたろう
(明治32年)1月10日
往翰
児玉源太郎宛
こだまげんたろう
(明治37年)9月5日
往翰
児玉源太郎宛
こだまげんたろう
(明治39年)7月9日
往翰
こだまげんたろう おお 7月
ひら いわながこうじ
往翰
往翰
児玉源太郎
大平駒馳
岩永浩宛
後藤武夫宛
西園寺公望宛
ごとうたけお
さいおんじきんもち
(大正15年4月)
(明治39年9月)
往翰
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
1907/7/7
往翰
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
1908/3/3
往翰
往翰
往翰
西園寺公望宛
西園寺公望宛
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
さいおんじきんもち
(明治41年3月)
1916/10/14
(大正13年5月初旬)
往翰
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
(大正14年)9月24日
往翰
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
(大正15年12月初旬)
巻紙墨筆
過日昇堂の後、速に薬品を差上げようとしたが、行き違いあり申訳なし。是迄、鈴木孝之助が国貞の治療を
行っていたのを知り本人の同意を得ようと思ったが、鈴木と面談した時には忘れてしまい、不敬の次第となって
しまった。誠に申し訳ないこと、薬は15日分程あり毎日3回に分けて服用してほしいなど。
罫紙墨筆
満鉄副総裁に陞りたることへの祝意を表し種々の忠言を呈したるもの。
巻紙墨筆
東京瓦斯会社社長小池国三へ長与程三(元衛生局長長与専斎の三男)の紹介。
封筒 巻紙墨筆
自筆、50円返付について。
原稿用紙ペン筆
辜顕栄から送られた独逸大使訪台歓待に関する8月23日付書簡に対する返書 但し屏東開墾地に関する返
答なし。
罫紙ペン筆
下書き、往昔辜顕栄より寄贈された彫刻宮中へ献納につきその旨報ずる件 往昔貴贈に相係り御彫刻の希品
は真に支那工芸美術の精華とも称すべきもので長く私愛にとどめておくことは小生の心裏安からざる故機会を
得て宮中に献納致し度が御嘉納故この事を貴下に専報してその光栄をご分ち申度云々。
封筒 巻紙墨筆
祝事務官が帰府したので東京の近況は知ってもらえたであろうこと。鉄道技監として長谷川謹助・増田礼作を
候補者としたこと。臨時鉄道敷設部については児玉案を参事官長へ下命してほしいこと。部長から直々に技
術官に委任するのか他の事務官に専任或いは兼任させるのか児玉の考えを知りたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
先月蕃界線を経て苗栗まで行ってきたこと。米の買付運送の件については契約書等を郵便で児玉に送った
のでもう着いているであろうこと。約15万石の買付けが済んでいて天候も平穏なので今後の買付も困難はない
であろうこと。昨日遼陽占領の電報に接し一同児玉の成功を祝したこと云々。
巻紙墨筆
先月27日より佐久間総督にしたがって南部巡視を行い今月4日に台北に帰ったこと。この巡視で佐久間も台
湾の状況を理解したと思われること。佐久間の健康にも問題がないこと。台湾の統治も一見成功の様に見える
が官吏にも民間にも安心できない点が少なくないことなど。
原稿用紙ペン筆
下書き、児玉源太郎 大平駒馳 岩永浩宛一括例文。土方与志氏この度植民地娯楽機関の調査研究の為め
南北満州を一訪ぜられ候に就ては同氏参上の節諸事御心添御指教の程奉願上候近頃は追々芸術に国境な
しの実現を見れると相成候へは此際同氏の視察旅行は必す収穫多大と存し候云々。
原稿用紙ペン筆 印刷 下書き、日本魂社長後藤武夫から雑誌「日本魂」の高山彦九郎持輯号への寄稿を求められたことに対し体良
物
くことわりの書状。
巻紙墨筆
台湾では自分の辞職は公然の秘密となっていて官民共に不安を起したる一時騒然は鎮静したけれども種々
の事件を自分の辞職以前に決定してほしいと願書が続々と来て後任者の意見によるべきものは排斥するとし
ても甚だ紛雑を醸し易いので一旦早く日本に引上げたいこと。
巻紙墨筆
部下の昇進は内務官僚の異議に阻まれ経営も官僚群議政府食言に会い自分も本当はこの鉄道職を全うする
ことができないと発表したいが社債募集のため控えている等。西園寺に愚痴をこぼした書翰。
罫紙ペン筆
下書き、台湾及関東庁の顧問辞任を申出したもの 顧問は過渡期の変速制度で昨年6月すでに辞任を考え
其の時期の不可を思いおもいとどまったが11月佐久間総督の諒諾を得、大島都督も異議ないと考えての書翰
を出したこと、中村都督と府民政長官も辞任の考えがあること云々。
罫紙墨筆
速に台湾及び関東都督府の顧問辞任を聞き届けられるよう催促。
便箋ペン筆
下書き、寺内内閣の内相に就任し決意表面を含む挨拶状。
巻紙墨筆
西園寺公望公爵へ奉呈する後藤新平の建白書草稿 中国の現状を共和国といいながら実態は群雄割拠で
統一の英雄は望むべくもない、呉も張作霖も中国統一の器ではないこと、米国は20世紀のローマなりヨーロッ
パの歴史家は日米が中国問題で開戦するとみている云々。
原稿用紙ペン筆
下書き、極東拓殖案がようやく完成したこと、要旨はすでにご存知のことと思うが、付録の表を除けばそれほど
膨大なものではないし重大な問題なので是非読んでもらいたいこと、帝国の現状と将来を憂慮して黙してはい
られなかったことなど。
原稿用紙ペン筆
第1草稿文 近頃政治の新教化運動を鑑み各地を巡遊将来政治上に起るへき改進の為めには何等か効果を
斎すを信じ自ら慰め居候、第2草稿文 小生政治の倫理化を提唱し東西奔走一応小生の見聞する所を御聴
に入れ親しく高諭を尽し度云々。
110
往翰
西園寺公望宛
さいおんじきんもち
(昭和3年12月8日)
原稿用紙ペン筆
往翰
往翰
往翰
往翰
斉藤高行(久米之助)宛
佐多愛彦宛
佐藤覚弥宛
佐藤竜三郎宛
さいとうたかゆき・さいと
うくめのすけ
さたあいひこ
さとうかくや
さとうたつさぶろう
(明治23年)1月1日
(大正15年秋頃)
(明治9年)3月9日
(明治15年)2月12日
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
原稿用紙ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用罫紙ペン筆
巻紙墨筆
往翰
往翰
往翰
佐野静子宛
佐和正宛
椎名彦七宛
さのしずこ
さわただし
しいなひこしち
2010/10/13
(明治17年3月)
明治26年11月24日
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
往翰
往翰
往翰
椎名彦七宛
椎名彦七宛
椎名弁七郎宛
しいなひこしち
しいなひこしち
しいなべんしちろう
(明治26年)12月12日
明治27年3月14日
(明治9年)6月2日
葉書墨筆
葉書墨筆
封筒 便箋墨筆
往翰
椎名弁七郎宛
しいなべんしちろう
(明治9年)8月30日
封筒 便箋墨筆
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
椎名弁七郎宛
椎名弁七郎宛
島村久宛
下村当吉宛
徐世昌宛
しいなべんしちろう
しいなべんしちろう
しまむらひさし
しもむらとうきち
じょせいしょう
(明治11)年1月15日
明治12年6月10日
(明治24年6月)
(昭和3年11月下澣)
(大正8年7月1日)
便箋墨筆
封筒 墨筆
罫紙墨筆
原稿用紙ペン筆
封筒 便箋ペン筆
往翰
往翰
往翰
往翰
末広重恭宛
鈴木春治宛
関屋龍吉宛
高野亀久寿(長運)宛
往翰
往翰
往翰
すえひろしげやす・すえ (明治26年)10月11日
ひろてっちょう
すずきはるじ
1926/1/24
せきやたつきち(せきや 2010/10/20
りゅうきち)
たかのきくじ(たかのちょ (明治)23年1月4日
ううん)
高野亀久寿(長運)宛 たかのきくじ(たかのちょ (明治25年)6月22日
ううん)
高野亀久寿(長運)宛 たかのきくじ(たかのちょ (明治25年)7月15日
ううん)
高野亀久寿(長運)宛 たかのきくじ(たかのちょ (明治25年)8月9日
ううん)
封筒 巻紙墨筆
原稿用紙ペン筆
原稿用紙ペン筆
便箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
111
下書き、伯爵記拝受につき西園寺公望公爵宅へ挨拶に参り度きも京都博覧会へ出席する為帰京後改めて都
会を伺へ趨伺するとのこと、小生儀昨7日陞爵記拝受早速拝参御礼申上げるべき処明9日京都博覧会褒賞授
与式執行の為め西下仕り事に相成居候云々。
原文書なし、10年以上も前の事になるが自分は斉藤が病気になった時に塩谷院長に同行してあっているこ
と、相馬事件に対する自分の考えを述べ錦織剛清を紹介したもの。
佐多愛彦博士へ日独協会の理事就任に仕依頼。
原文書なし、山内家の封書が病院へ到着したが既に本人は退院しているので当惑していること、急ぎの要件
であるのでお手数ながら届けてやってほしいこと。
佐藤より懇切なる返答書に対する返書 坂野家と縁談を結ばない詳細な理由、秀自身については自分も不満
はないがこれも仏家の因縁と思ってもらうしかないこと、秀の戸籍については坂野家の引取方について尽力し
てほしいことなど。
原文書なし、父後藤新平より娘の淑子をなくした娘佐野静子へ悟道を説いて慰める書翰。
華族相馬誠胤之一件警視官の公明正大なる御判決にて檻禁となりたる処彼家令により不服を申立てたことに
ついて。
獄中より菅野虎太に係る負債整理の為借入れた公正証書が期限であるから倉田軍治へ談じて取計らってほ
しいこと、金原明善よりの借用金も本月が期限なので鈴木真一の添書をもって延期を申し入れてほしいことな
ど。
獄中より家事の上で急用があるので至急面会に来てほしいこと。
獄中より宅下願が済んだのでこの書状を持って来監してほしいこと。
椎名の宿痾が駆除の期に至らず難渋している由は察していること、椎名よりの書中にあった薬は適当の様に
思われるが今度は自分の呈土する薬方を用いて効験を見てみたらどうかということ、また過度の飲酒は無用で
あることなど。
自分は8月20日に名古屋に到着し、医局診察専務となったので安心してほしいこと、郷里帰省中は毎日拝謁
し失礼したこと、餞別等を頂戴し感謝していること、椎名の病気は容易ではないので薬用専一にしてほしいこ
と、眼薬については速に売広めてほしいこと。
新年の挨拶。
封筒のみ。
本年8月に英国倫敦で開催される万国衛生会議に出席を命じられたのでプログラム及び関係書類を独文のも
ので送ってほしいこと。
下村当吉へ譲りたる小宅翠雲画の由緒書き原稿下書きだが廃案された。
昨30日ロンドンからパリに来て講和条約調印に中華民国全権が欠席したことを知った、両国間の小紛議とは
別のこととして全権欠席は痛惜のことであり国際連盟を含む全条約に調印するように命令してほしい。
芝区に伝染病研究所を設立する件について、「国会」紙を送られた御礼。
下書き、鈴木からの書簡に対する謝状。
少年団に関すること。
原文書なし、依頼のあった外套は本日適当な地質を見付けて申し込んだこと代価は20円50銭であること、来
る10~12日迄には出来上るので水沢より仕入にくる商人がいたなら託すること、高野家の紋所について教え
てほしいことなど。
原文書なし、至急金員が必要となったので都合してほしい旨。
原文書なし、先日借用を依頼した金円を受け取った旨、及びその尽力に対する感謝。
原文書なし、先日高野の周旋によって拝借した金円を元利共に返済する旨。
往翰
高野亀久寿(長運)宛 たかのきくじ(たかのちょ 明治
ううん)
往翰
高野長運宛
たかのちょううん(たかの 明治24年1月1日
きくじ)
往翰
往翰
高野長運宛
武下伯父宛
たかのちょううん(たかの (明治25年)12月11日
きくじ)
たけしたおじ・たけしたし (明治7年)6月19日
んじょう
往翰
往翰
たけしたおじ・とみざわ (明治15年)5月4日
おじ・たけしたしんじょ
う・とみざわしょうたろう
武下信譲・富沢正太郎 たけしたしんじょう・とみ (明治15年2月17日)
宛
ざわしょうたろう
呉工友信用購買組合呉 たけもとしょうざぶろう 大正14年8月21日・31日
官業労働組合海工会政
治部理事竹本鍾三郎宛
竹由三之介宛
たけよしさんのすけ 1927/1/12
往翰
往翰
田島道治宛
田中義一宛
たじまみちじ
たなかぎいち
2010/11/25
(昭和3年2月末)
往翰
往翰
往翰
田中義一宛
田中都吉宛
田辺実明宛
たなかぎいち
たなかときち
たなべさねあき
(昭和3年7月)
(昭和3年11月中旬)
5月22日、12月5日
布政司張大人宛
ちょうたいじん
(明治33年7月)
珍田捨巳宛
珍田捨巳宛
ちんだすてみ
ちんだすてみ
(大正10年5月)
(昭和3年2月)
往翰
往翰
往翰
往翰
武下・富沢両伯父宛
便箋ペン筆
原文書なし、貞雄の入京について申越しの趣は承知したこと、星松郎が肺患のため帰郷したので自分も診察
したが症状はすでに順を追って進んでしまっていること、薬品は対症の処置を是迄の通り願いたいこと、近来
の薬品の処方その他喀血等には臨時適当の処方で薬を投与してやってほしいことなど。飯塚巌宛昭和12年7
月13日付高野長運書簡(高野長運より後藤新平伯伝記編纂会に送られてきたもの、昭和12年7月13日消
印)。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、高野長運が高野長英建碑の発起人に加わることは当然の事と思うこと、水沢風の首があって尾
用箋ペン筆
のなき建碑騒動は長英に対して不敬であること、この節下飯坂が国会議員として出京しているので同人で十
分であると思うが大槻修二・勝安房・華族の伊達等も尽力させるようになるならば良いと思うことなど。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、高野長英の書簡を返付する旨及びその際に勝安房の奥書を切抜いて返してくれることについて
用箋ペン筆
は異存がないこと。
巻紙墨筆
自分は現在内科学の研究をしていること、一昨年帰郷した際に陳べた様に自分の様な者にとって医学を修め
るのは困難であるので辞めようと思ったが、阿川の言により思い止まり今迄医学に従事してきたが黄金力に乏
しいため良い先生に就くことができず悲歎の至りであることなど。
巻紙墨筆
坂野家との離縁の件。
封筒 墨筆
封筒のみ。
罫紙ペン筆と原稿用紙 後藤に対し2万有余の労働者の政治的針路を打開するために以下の質問、無産政党への参加の可否、已成
墨筆
政党へ新有権者の清き票を投じて汚染する可否、後藤が適当と認める代議士候補の派遣など後藤の回答。
封筒 巻紙墨筆
戦時普選準備会は御承知の通り有志人より成り皆各自支弁にして当方より給料支払不致皆々ブロンテール人
のみに御座候従って御上京相成り候共御目的に不相添事、普通選挙準備会は政治の倫理化より成立したる
ものにして政治的教育運動に無之政党政治的運動に無之此点深く御諒承願度候云々。
封筒 巻紙墨筆
御令弟百ヶ日に際し仏教聖典お送り下され有難く拝受読誦を以て実弟の御冥福をお祈り可致候。
原稿用紙ペン筆
下書き、初めての普通選挙実施後の田中義一首相に与うる者に擬すと題した書簡。首相に与ふる書に擬す
今次閣下内閣に首班として我が憲政史上に特筆せらるべき最初の普通選挙実行に当られたるは云々。
原稿用紙ペン筆
下書き、会合に伊東伯欠席にかかれた問題について。
罫紙墨筆
下書き、帰朝した田中都吉駐露大使を夜餐に招待の書状と関係者への招待状。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、書簡写し2通、①書簡写、服部知事(岩手県)へ面話の折専ら本省に差出す書類の整理の助勢
原稿用紙ペン筆
相願知事顧問と御依頼候哉に承り申候県治全体の事に関し整理上事務熟練の人を要すとはいえ書中にある
鈴木は迚も参り兼候 ②書簡写 御来示の岩崎虎吉氏のことなど。
罫紙墨筆
北清事変が起こったのは千秋の憾みで、許総督や張曽敭においても遺憾に思っているであろうこと、日本の
出兵は列国協議の結果であり南清地方が平穏であるのは慶賀の至りであること、また近来台湾総督府が厦
門・福州井旁へ出兵するという流言があるが全くの誤りであることなど。(株式会社台湾日日新報社用罫紙に
墨筆されている)。
巻紙墨筆
下書き、ロンドンで東宮には帝国の新進産業奨励上からもロンドン在住の日本人の中から有力商店の支店長
を拝謁させてもらいたいとして、鈴木商店の高畑誠一を推薦。
原稿用紙ペン筆
草稿2件、①訪露報告 奉答書序文草稿、②別案 珍田捨巳侍従長への言上書上呈依頼書 先般小生露国
訪察帰朝後復ひ天顔に咫尽し彼地首脳要人と面談による彼等の意向や田中首相の嘱に依る漁業条約に関
することや最新経済政策の業績等の概略。
112
往翰
(陳宝琛)宛
ちんほうちん
(明治33年7月)
往翰
往翰
往翰
往翰
角田真平宛
後藤(鶴見)愛子宛
後藤(鶴見)愛子宛
鶴見愛子宛
往翰
鶴見愛子宛
往翰
鶴見愛子宛
往翰
鶴見祐輔宛
つのだしんぺい
(明治42年)7月8日
ごとうあいこ(つるみあい (明治38年4月30日)
こ)
ごとうあいこ(つるみあい 1908/4/23
こ)
つるみあいこ(ごとうあい 1919/3/14
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正8年8月初旬)
こ)
つるみあいこ(ごとうあい (大正9年)9月26日
こ)
つるみゆうすけ
(大正8年)10月27日
往翰
往翰
鶴見祐輔宛
鶴見祐輔宛
つるみゆうすけ
つるみゆうすけ
(大正9年)9月24日
(昭和3年5月5日)
往翰
寺内正毅宛
てらうちまさたけ
(大正4年)5月6日
往翰
寺内正毅宛
てらうちまさたけ
(大正5年6月末頃)
往翰
往翰
往翰
寺内正毅宛
寺内正毅宛
唐紹儀宛
てらうちまさたけ
てらうちまさたけ
とうしょうぎ
(大正5年8月)
(大正6年)11月14日
(明治40年8、9月)
往翰
土岐嘉平宛
ときかへい
(昭和3年6月29日)
往翰
時松元俊宛
ときまつもととし
1926/9/1
罫紙墨筆と後藤新平伯
爵伝記編纂会用罫紙ペ
ン筆
巻紙墨筆
絵葉書
絵葉書
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
原稿用紙ペン筆
今回の北進事変について別紙の意をくんでそれを張之洞に致すか又は福州布政司張大人と謀議してこれを
致すかいずれにしてもその書意を張之洞に致して東洋の平和回復の為めに充分の効果を収めることを希望し
ていること。
東京市長と電車会社との紛争に仲裁を頼まれたが熟慮の上断るとのこと(編纂会の解釈による)。
写真絵葉書
大坂商船株式会社汽船天草丸の写真入葉書 下関東局の消印
ハワイに向う船中で愛子宛に記したもので、95才の母親への気遣い、昨年母親を失った子供達への配慮など
を記し、後藤家の柱として活躍してきた姉はつせに留守中のことは依頼することなど。
イギリス国王の園遊会参列、フランスの戦跡を巡り、ブリュッセルで勲章を国王から拝受したこと、来月3日モリ
タニア号で鶴見祐輔とニューヨークに行く予定であること、一行のメンバーの新渡戸博士はイギリスに残ること
などを伝えている。
一蔵は無事帰朝したこと 結婚相手も長短あり選択中のこと、6月下旬に胆石で痛苦の堪え難かったこと、15
日新邸に引越したこと、日本は不景気で人心不安が極に達しているが豊年とのことで一安心など。
サクラメントやフレスノ地方で日本からの農業移民を視察したこと、米や葡萄を栽培しており活気があり排日論
に対しても閉口していない様子、アメリカはおもしろい所で排日論もあるが、日本移民の活躍を評価する声も
あることなど。
新邸に引越したこと、政友会全盛で政権移動もなく調査会も海のものとも山のものともわからない、政府は現
状延長策しかなく自分も傍観するしかないことなど。
下書き、済南方面の動乱事不容易と後の成行に付憂う此国家の至艱に面して内政争に熱中し政局の安定望
むべからざる有様、出兵回避の通を講ずるにも正奇両途共に利あるべし此際明政会の如き純公中正を旨とす
る団体は個々の分立を戒め一致の力を以て指導の任に当たるべきは必至の道筋と存候云々。
巻紙墨筆
下書き、大戦に参加した日本の現状、将来に危機感を覚え、対中国には至誠を尽し、列国には正理の疑う余
地をなからしめ国運の発展とはかることを強調 立憲同志会の内にも現内閣に大事を托するのは危険とする
者もいる また後藤は政府は新聞を極力利用すべきであることなどを指摘している。
原稿用紙ペン筆
日本政府が中国南北の両党に資金を提供し利権を得ていることは公然の秘密 このような政策は中国の各党
の誠意を得られない 後藤は中国上下の信頼を得るに足る政府の成立を希望するとして寺内の奮起を促す
現役・予備役の武官による革命党との関係の黙認と支那保全に反する革命党を援助ほか。
巻紙墨筆
下書き、明日大隈と会見予定の寺内に対し、従来の大隈の手練手管を述べ、欺瞞・厚顔などを表現し、寺内
に心するように忠告している。
巻紙墨筆
下書き、内相として天皇に扈従して11月6日に入洛、7、8、9日の3日間大阪・京都と滋賀県の巡視、洪水の惨
状を親しくみて大阪有志府市議員と善後策の検討をしたことなど。
罫紙墨筆
先日法制度について話したことがあり、参考として今回台湾総督府編纂旧慣調査報文・日文・英文訳本合計9
巻を送る この調査報文の由来を説明し、日本は中国の学問と欧州新進文明の長処を取入れたからいまの日
本がある、中国はそのまま真似することができない云々。
原稿用紙ペン筆
海軍技師溝尻房蔵氏は多年太陽集熱の方法を以て将来我国の避け難き燃料若くは水力に依る動力の欠乏
を済はんとして身家を傾けて国家民生の福利に寄与せんとする特志家にして今春東京博覧会の開催に当り
金3000円の補助を得て急速の太陽集熱機を工業研究館の側に出品云々。
封筒 巻紙墨筆 原稿用 少年団日本連盟の為にキャンプ用地として貴村々有地五万坪御寄贈相成猶接続地拾万坪永代御貸与被下
紙ペン筆
候件者今日の時勢無比の御善根御美挙と唯々感佩致候 飯田村々長時松元俊宛謝状下書 少年団日本連
盟総長。
113
往翰
徳川家達宛
とくがわいえさと
(大正11年)1月23日
往翰
往翰
往翰
徳富蘇峰宛
戸坂万六宛
豊川良平宛
とくとみそほう
とさかまんろく
とよかわりょうへい
2010/2/15
(明治23年)2月20日
1909/3/27
往翰
往翰
往翰
内藤順太郎宛
永井松三宛
永田天丁宛
ないとうじゅんたろう
ながいまつぞう
ながたてんちょう
2010/1/29
大正15年5月以降
1928/9/2
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
中村円一郎宛
中村是公宛
中村是公宛
中山尊台宛
長与専斎宛
長与専斎宛
南部千里宛
野方次郎宛
野瀬修蔵宛
野間清治宛
長谷川天渓宛
花房宛
浜口蔵相・幣原外相宛
浜村与吉宛
なかむらえんいちろう
なかむらこれきみ
なかむらこれきみ
なかやまそんだい
ながよせんさい
ながよせんさい
なんぶちさと
のかたじろう
のせしゅうぞう
のませいじ
はせがわてんけい
はなふさ
はまぐちおさち・しでは
らきじゅうろう
はまむらよきち
(昭和3年)5月14日
(明治43~44年)4月8日
明治44年11月
(大正14年)3月20日
(明治15年)3月7日
明治16年10月4日
(明治1□年)8月31日
1928/6/23
1928/4/14
1926/9/15
明治1月15日
往翰
林茂香宛
はやししげか
(明治22年)4月7日
往翰
往翰
往翰
林茂香宛
はやししげか
明治28年3月30日
林茂香宛
はやししげか
(大正3年)7月28日
林茂香・四竈彦四郎宛 はやししげか・しかまひ (明治28年)8月6日
こしろう
(大正14年)9月24日
1926/10/27
封筒 原稿用紙 方眼紙 ワシントン会議に全権委員として参加した徳川家達が会議の終結前に帰朝したことを非難 後藤はワシントン
に墨筆及びペン筆 会議における日本の立場を、恰も数人の原告の前に立ちたる1人の被告の如き、と表現している。
巻紙墨筆
蘇峰文選未た全篇を通して拝読不仕候へ共云々。
封筒 巻紙墨筆
極内密御座候へ共来月中旬洋行可致内命。
封筒 巻紙墨筆
三菱合資会社と愛久澤直哉とが明治42年3月27日付にて締結(愛久澤が台湾に所有又は所有せんとする地
所約5千甲抵当金45万円乃至70万円貸借)に関する契約書、同年月日付締結の長期年賦払金円貸借契約
成立報酬に係る約定書等に付その成立を認め愛久澤直哉君の身元を保証など。
原稿用紙ペン筆
下書き、パンフレット御恵寄被下難有云々。
巻紙墨筆と活字印刷物 在瑞典の永井松三よりの挨拶文(葉書印刷)と、これに対する返書下書き。
原稿用紙ペン筆
下書き、永田天丁の書簡(8月5日付)に対する返書 「青年立国」における老生に関する数行貴社中に可否
論争所詮評騰はむづかしきものと被存候猶普選準備会の始末に付き御高批を有之候様に候へども是は議論
めきて面白からず。
原稿用紙ペン筆
下書き、静岡市追手町静岡茶業組合連合会議所会頭中村円一郎に与うる返書 過日は御寵招をうけ牧之原
茶園視察するを得云々。
罫紙墨筆
下書き、北京訪問 清野理事 伊集院公使 流行性感冒症に罹り執筆見合せる 献品土産物等の用意に付
ても一切万事公使より老兄へ註文云々。
和紙墨筆
安東奉天間鉄道開通祝電報の電文案。
原稿用紙ペン筆
下書き、愛市心を訴ふという小冊を読んだ中山からの来翰に対し、意気投合して山県の内相時代の思出など
を記した感謝状。
罫紙墨筆
内務省衛生局に転任するに当り、局長長与専斎に対して自分の経歴を共にその決意を述べたもの。
罫紙墨筆
内務省衛生局所務順序草案を呈するに当っての上申書。
巻紙墨筆
自分の診察した眼病患者松岡雄次郎を入院治療してほしい旨。
原稿用紙ペン筆
地方議会選挙に当選した野方次郎(横浜医師)への返書。
原稿用紙ペン筆
下書き、此度は特に老生の為に祈願せられ月余の時日を貴し御手写相成候云々。
原稿用紙ペン筆
下書き、政治の倫理化の出版についての謝状。
罫紙墨筆
下書き、瀬川博士の近著西洋全史を恵贈下され読後所感一言すへき様仰されたるにより応需のこと。
巻紙墨筆
下書き、昨夜当港着便船の都合 後藤勝造方へのこと。
原稿用紙ペン筆
下書き、自分の提議している東洋(極東の誤り)拓殖会社創立は国策として急務であることを強調し早急な対
処を求めている。
原稿用紙ペン筆
下書き、10月9日付浜村書簡に対する返書等 本月9日付を以て御意見書の事項は国利を恵念せられ候御
誠意に出候事と拝誦致候へとも御意見の如き重大案件に関しては慎重調書を遂け云々。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、長与局長へ長途の随行にお疲の事と察していること、東京では後藤象二郎が黒田内閣に逓相と
用箋ペン筆
して入閣したこと、自分は落馬したこと、華族への書状の件は直ちに決行すること、衛生官練習所は遂に成立
しなかったこと、国会議場より攻撃論が起った時を好機としなければ衛生局は隠居官吏の集会場・恩給所とな
る云々。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、自分は無罪で出獄した後は各地を漫遊したいと思っているのだが、相替らず俗事多くしようがな
用箋ペン筆
いこと、林氏の近況を知らせてほしいことなど。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、大牟田で病気静養中の林茂香に対し旧情を述べ慰安したもの。
用箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
陸軍検疫のために馬関行が決定した事に関して通達。
114
往翰
林董宛
はやしただす
(明治39年末)
往翰
原敬宛
はらたかし
(大正8年7月)
往翰
原敬宛
はらたかし
(大正8年8月)
往翰
往翰
原敬宛
坂西利八郎宛
はらたかし
ばんざいりはちろう
(大正9年8月18日)
(明治45年)2月25日
往翰
往翰
往翰
往翰
韓相龍宛
馮玉祥宛
(福沢諭吉)宛
本間光弥宛
はんさんよん(かんそう
りゅう)
ふうぎょくしょう(ひょう
ぎょくしょう)
ふくざわゆきち
ほんまみつや
1928/4/13
1925/9/5
(明治26年)9月27日
1925/12/18
往翰
牧野伸顕宛
まきののぶあき
(大正14年)9月24日
往翰
往翰
往翰
往翰
牧野伸顕宛
牧野伸顕宛
益田宛
増田次郎宛
まきののぶあき
まきののぶあき
ますだ
ますだじろう
(昭和3年7月)3日
(昭和3年7月中頃)
2010/3/19
大正9年4月
往翰
松方幸次郎宛
まつかたこうじろう
1925/10/2
往翰
往翰
松木善右衛門宛
松崎章太郎宛
まつきぜんえもん
まつざきしょうたろう
大正15年6月1日)
(大正13年)2月4日、6日
往翰
松田武一郎宛
まつだたけいちろう
1908/12/28
封筒 和紙墨筆・南満州 一括綴り込み、①南満州鉄道株式会社総裁から外務大臣への書翰下書き、南満州鉄道株式会社は東清鉄
鉄道株式会社用罫紙に 道会社の後継者であるので同社に属する鉄道・権利・特権・事業は一切満鉄に引継かれるべきであり、若しそ
ペン筆・後藤新平伯伝記 の中に政府が必要とするものがあるならば政府が相当の料金をもって借上けるのが当然と考えていることな
編纂会用箋ペン筆・東京 ど。②満鉄総裁として外務大臣への申達書(後藤新平伯伝記編纂会用箋墨筆の表紙と国沢新三郎から日露
市政調査会用罫紙に墨 協会田中溝次郎への書翰原本)、③外務大臣宛総裁上申書下書き2点。
筆
CLARIOGE'S HOTEL 戦後5大国の一員となった日本ではあるが、明治維新当時の各藩が国際情勢に疎いことに例えそれが歴代政
用紙ペン筆
府の責任にあることを指摘、その上でアメリカ議会対策上、早急に中国政府と山東問題の交渉を開始すること
などを提案。
CLARIDGE'S HOTEL用 下書き、講和会議における日本の力不足を実感したこと、アメリカ上院にて山東・朝鮮問題を対日外交の課題
紙6枚ペン筆
とする動きがあることを警戒し、日本は中国に対し書面をもって明確に山東還付交渉を提案した方がよいこと、
日本は孤立している現状からして各国と協調し少しでも実利を得ることを提議している。
巻紙墨筆
下書き、調査会(大調査機関のことか)についてなかなか意の如くならないこと、セミヨノフから後藤に書簡があ
り大要は以前と同様のことなど。
罫紙 墨筆
下書き、清国顛覆後の中国を如何に見ているかの好資料 列国をして清国を窺はしむる論多の機会を与えた
ると枚挙に遑あらざればこれが為に清国の価値減すとも帝国に何の獲る所がある寧ろ帝国は清国と共に価値
を墜すの不利を被り…袁世凱の知己とも見える 龍居氏起草 氏が青字で訂正。
原稿用紙ペン筆
4月5日付の韓書簡への返書案 銀行の方御身上都合を以て御辞任相成候処云々。
罫紙墨筆
下書き、馮玉祥が中日関係を憂慮して鄧顧問を派遣し各方面と接触させたが、自分は旅行中で会えなかった
ことを伝えている。
罫紙墨筆
下書き、研究所の一件については自分の進退をかけて必ず断行する旨。
巻紙墨筆
下書き、(最初の部分は破れてなくなっている)有志と図って日本農村連盟を組織したこと、農村は国民食料
の供給者であり、商工繁栄の源泉地である 地方農村文化の向上発展を企図し、殊に地主・小作の協調相愛
の精神に立って農作物価格の匡正、農家負担の軽減なども解決したい云々。
原稿洋紙ペン筆
下書き、先日加藤首相に面会した際 東洋(極東の誤り)拓殖会社創立について縷々説明したが、その後音
沙汰なしであること 百年洞察の大観から決定してほしいことなど至急の対応を求めている。
原稿用紙ペン筆
一昨夜突然訪問 張作霖爆殺事件について。
原稿用紙ペン筆
下書き、但し、廃案1点あり、済南事件解決早期撤退、張作霖爆殺の真相帝国自ら公表張学良への対応につ
いて 当面支那問題に対し最大注意。
後藤新平伯伝記編纂会 原文書なし、原本は古今堂の武者仲次郎の所蔵したもので伝記編纂会が筆写したもの 台湾製糖会社取締
用箋ペン筆
役丸田君の件安場男爵より御相談いたしたいこと。
巻紙墨筆
控文か、今般日露郵報社出版部において両国の親善福利に資せんが為めに本邦の現状を各方面より記述
せる露文「日本の現状」と題する書籍の刊行計画の概要を紹介し援助方を依頼。
巻紙墨筆
下書き、ジョージ・スワン君は永く日本で青年会事業に従事してきたこと、以前は神戸青年会のため、現在は
京都・大阪青年会のために尽力してきており、殊に大阪青年会建築の為寄付募集に骨を折っている 同行の
ウィルバー氏は中華民国基督教青年会より応援に来朝した者で、関西における青年福祉のため努力云々。
原稿用紙ペン筆
下書き、(松木から)浮世絵版画などを恵贈され、浮世絵に関する蘊蓄を披露した感謝状。
巻紙墨筆
下書き2点、麻布区長松崎章太郎から義捐金の残額、五万余円の預金の使途として問合せがあったことに対
するもの、更にまだ義捐していない紳士から寄付を集め、小公会堂建設の質とすることを提案しているもの。
罫紙墨筆
控文2点、満鉄東京支社と帝国鉄道庁用罫紙のもの、今後一層新正副総裁を輔けられた老兄の双肩に荷わ
れ候の頃者御帰郷の趣義及び候に付従来の御懇親に任せ聊か鄙懐を愬へ候事。
115
往翰
往翰
松田武一郎宛
松田武一郎宛
まつだたけいちろう
まつだたけいちろう
1908/12/26
(明治)41年12月29日
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋鉛筆
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
松田武一郎宛
松田武一郎宛
松田武一郎宛
松田武一郎
三沢吉治宛
宮川保之宛
まつだたけいちろう
まつだたけいちろう
まつだたけいちろう
まつだたけいちろう
みさわきちじ
みやがわやすゆき
明治7月25日
(明治)7月25日
(明治)11日
1911/3/3
(大正15年6月末)
(明治11年)12月11日
往翰
往翰
宮川保之宛
宮川保之宛
みやがわやすゆき
みやがわやすゆき
明治15年4月29日
(明治27年)12月10日
往翰
目黒三郎宛
めぐろさぶろう
(昭和2年1月9日)
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
巻紙墨筆
原稿用紙ペン筆
罫紙墨筆と後藤新平伯
伝記編纂会用箋ペン筆
2点
原稿用紙墨筆
巻紙墨筆と後藤新平伯
伝記編纂会用原稿用紙
ペン筆
巻紙墨筆
往翰
往翰
往翰
往翰
もとのいちろう
もとやまひこいち
もとやまひこいち・むら
やまりょうへい
もりぶんじろう・こばやし
なみごろう
やすだぜんじろう
(大正元年)10月12日
大正3年8月末
(大正3年)2月9日
(明治27年)7月9日
便箋ペン筆
罫紙墨筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
往翰
本野一郎宛
本山彦一宛
本山彦一・村山龍平宛
森文次郎・小林浪五郎
宛
安田善次郎宛
(大正2年)12月16日
巻紙墨筆
往翰
往翰
安田善次郎宛
安場保和宛
やすだぜんじろう
やすばやすかず
(大正10年7月7日)
(明治32年)5月13日
封筒
巻紙墨筆
往翰
柳沢保恵宛
やなぎさわやすえ
1924/10/13
罫紙墨筆
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
山県有朋宛
山県有朋宛
山県有朋宛
山県有朋宛
山県有朋宛
山県有朋宛
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
やまがたありとも
(明治38年)2月2日
(明治39年)6月9日
(明治39年8月2日)
(明治44年)11月20日
(大正4年)9月1日
(大正5年3月下旬)
巻紙墨筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
後藤新平伯伝記編纂会
用箋ペン筆
罫紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
116
撫順炭坑予定の計画予期以上の効果を収めつつあり欣躍の至、今回中村新総裁、国沢副総裁就任、一層の
助力を乞う。
中村・国沢新任に関し、貴兄が国沢の下に立つは三菱会社の体面に関する懸念があるがいかが、社長の言う
には満鉄に貸すという条件にて決定したが今日はほとんど無効、今日彼是言うには不利益、万一忍びがたき
成行の場合は談判を願う。
明後日は安東県へ出発、本月末帰連の予定。 法制局参事官真村君撫順巡視につき紹介
山越陸軍工兵少佐紹介。
封筒のみ。
故松田武一郎への後藤新平の弔辞。
下書き、後藤が長野県上水内郡富士見村への巡遊帰途に再見を望まれたことに関するもの。
下書き用文書1点と編纂会写本文書1点、自分は愛知県病院及び医学校へ兼務し過日来衛生事務改革を委
任され、今般衛生事務取調のため上京することとなり、12月3日に東京に着き内務省衛生局をはじめ病院や医
学校を巡覧したりして多忙を極めていること またこの結果を整理するのに苦慮していることなど。
控文書、板垣遭難往診の模様について。
原文書と写文書、昨年来は獄中に旅行し漸く帰って来たこと この際慰問に対する感謝 自分の外国行につ
いて何者かが新聞に投書したために迷惑していること 今月末より大坂行と試みる心組でいることなど。
下書き、返書 高橋蔵相の政策放漫と称せられし事も是独り高橋氏の又政友会の罪のみに無之、政友会その
ものに於て財政経済の政策無之によるもの、同時に憲政会に於ても経済上の定見なくして反対せんか為めの
反対説として緊縮政策なるものを唱へ出したまでのことなど。
控文書、駐露公使本野からの問合せに対し桂公の宮中入りの事情を説明したもの。
下書き、第一次大戦が勃発し日本も対ドイツ宣戦布告となって挙国一致が叫ばれ不平も圧迫されていること
への不安を表明している。
原文書なし、2月7日シーメンス事件で山本内閣が不信任案を提出されたことを受けて新聞に投稿した文章。
先月末四万温泉から帰京したところ新聞記者其他の来訪者には面会しない方が良いとの勧告があったので
再度房州へ出発しようとした間際に至急転宅の必要が生じたため、その節に兼て差押さえられていた長持の
封印を破損してしまったのでその後の後始末についてなど。
控文書、編纂会の封筒に「安田善次郎翁への発信扣書」と墨筆あり 赤ペン筆で「翁ノ暴死セシハ大正十年
九月十日ナリ伯ト契合セシ一番近キ年トスレハ其前年ノ大正九年ナリサスレハ書中ニ在ル退会概要トハ何ノコ
トカ 寄贈ノ大会概要トハ同志会退会ノコトナルカソレトスレハ大正二年ナリ・・・」とある。
安田善次郎翁へ書翰を致したる受取証なり(後藤新平伯伝記編纂会の解釈)。
家事上の都合があるので安場保和の病気見舞に行っている和子を一時帰京させたいこと、尿中に蛋白が出
ているので十分に休養してほしいこと、自分も病例に侍したいが遠路のためかなわないので和子を行かせる
ので十分に用事を言い付けてほしいことなど。
控文書、柳沢に東京市議会議長の辞任を思い留まることを説得している 昨夜復興クラブ総会においても一
同の希望を代表して市会議長の辞任を思いとどまるように直接願い出たこと、市会の経過は柳沢の責任では
ないことなど。「書状の控」とある。
下書き、以前に出した意見書に対して山県の返事がないことについての問い合わせ。
原文書なし、韓国及び満州経営に関する呈言及び台湾統治についての現状報告。
原文書なし、昨日山県の教示を得た後に西園寺首相に面会し満鉄総裁就任を内諾した旨を報告したもの。
下書き、山県公に会見申込のこと。
控文書、病気治療中で小田原に行けず、前月山県から借りた秘書の返却が遅くなることなど。
下書き、大隈内閣の対支政策について何ら傾聴すべき点もなく満州において袁世凱の討伐軍結成の噂があ
ること大隈には対支政策の定見がないことなど書き連ね、その政策について厳しく批判している。
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
山県有朋宛
山田益彦宛
山本権兵衛宛
山本三有宛
湯川寛吉宛
若槻礼次郎宛
やまがたありとも
やまだますひこ
やまもとごんべい
やまもとさんゆう
ゆかわかんきち
わかつきれいじろう
往翰
往翰
往翰
イワノフ宛
ジョン・A・スツーク
(John A. Stook)宛
バトラー総長宛
いわのふ
(昭和3年2月)
じょん・えー・すつーく (明治40年5月)
ばとらーそうちょう
1921/8/9
往翰
ジョン・アール・モット宛 じょん・あーる・もっと 1924/12/17
往翰
モット(John R. Mott) もっと・めーびー・のー 1916/9/13
メービー(H. W. Mabie) いす
ノーイス(Mrs. Noyes)宛
ヨッフェ宛
よっふぇ
1923/3/23
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
往翰
関係者
関係者
関係者
関係者
関係者
(御母堂利恵子・天寿院
葬儀関係者)
大日本雄弁会講談社講
談倶楽部編輯局宛
貞寿院一周忌参列遠慮
関係者
日本士風会主事井上鑲
宛
晩餐会招待者
普選準備会関係者各位
宛
某学校長宛
かんけいしゃ
かんけいしゃ
かんけいしゃ
かんけいしゃ
かんけいしゃ
ごぼどうりえこ・てんじゅ
いん
だいにっぽんゆうべん
かい
ていじゅいんいっしゅう
きさんれつえんりょ
にほんしふうかいしゅじ
いのうえじょう
ばんさんかいしょうたい
しゃ
ふせんじゅんびかいか
んけいしゃかくい
ぼうがっこうちょう
(大正5年)10月14日
1925/10/12
(大正15年9月19日)
(明治7年2月中旬)
1928/5/3
(大正15年1月29日)
(昭和3年)2月15日
(昭和3年)2月22日
大正15年6月
(大正12年)3月15日
1928/5/13
(大正15年3月)
(明治43年)12月16日
1928/3/1
(明治41年)4月20日
便箋ペン筆
原稿用紙ペン筆
巻紙墨筆
洋紙墨筆
巻紙墨筆
原稿用紙ペン筆
下書き、寺内内閣の内相に就任し、決意表明を示し就任の挨拶状としている 明朝伊勢神宮に出発し17日午
前帰京予定など。
控文書、久邇宮よりの招待への辞退書。
下書き、山本伯爵に呈する書。 関西・九州方面に旅行する件について。
依頼されていた痘種に関する件 須賀川医学校で研究する科目・等級等に関する件。
東京基督教青年会会館復興資金につき湯川寛吉ヘ住友家よりの寄付を仰ぐための斡旋方(依頼文)。
下書き、首相となった若槻に対し、慶賀し一層の辛労を思いやるとともに世間の評価にかかわらず、遠眼遠識
をもって邦家民生の安泰のために新機軸を天下して啓示することを切望するなどとしている。
罫紙和文タイプ印字 洮昂鉄道問題について日支の意図。
罫紙ペン筆
下書き、スツークの書簡を東京経由でようやく受け取ったこと、スツークの切なる希望に副いたいとは思うが自
分は南満州において重大な使命があるので無理であることなど。
洋紙ペン筆
下書き、ニューヨークから欧州を視察して帰国したこと、ワシントン会議における軍縮問題に注目していること、
日本国民の多数も軍備制限には賛成なこと、現在は軍縮して最も時を得ていることなどを表明 昨年12月か
ら東京市長に就任したが、アメリカ滞在中に進歩した市制を学び、それを東京で生かしたいと願っていること
等。
巻紙墨筆
下書き、帝都復興に尽力してきた自分へのモットからの奨励の言葉に感謝、斉藤氏帰朝の際に青年会に多額
の寄付をいただいたことへのお礼、青年に対する事業の重要性に言及しモットが指導している。
封筒 洋紙英文タイプ 一蔵の米国留学につき紹介状 ①1John R Mott 書簡 英文タイプ 1通 ①2封筒 New York ②1H W
Mabie 書簡 英文タイプ 1通 ②2封筒 New York ③1Mrs.Noyes 書簡 英文タイプ 1通 ③2封筒
Minesota
活字印刷
(第二号)ヨッフェに対する返信(活字印刷物5頁)ヨッフェの養病のための来日は、日本の官民間に諒解を勧
めたこと、赤化宣伝恐怖病を一掃した事 シベリアのロシア人と残留日本人との接近協和に資したことなどを
指摘 (同封)(第一号)大正十二年三月七日付 在熱海ヨッフェ氏より後藤子爵に宛てたる書信(活版印刷)。
原稿用紙ペン筆
草稿、訪露の際に餞別などを頂戴した方々へのお礼状
原稿用紙ペン筆
草稿、訪露の際に餞別などを頂戴した方々へのお礼状
原稿用紙ペン筆
草稿、寄贈図書への礼状雛形稿
巻紙墨筆印刷
西郷遺訓刊行にあたっての後藤新平推奨文
巻紙墨筆
草稿、恵贈物に対するお礼状
巻紙墨筆
草稿、御母堂利恵子・天寿院葬儀礼状草稿
封筒 和文タイプと和紙 大日本雄弁会講談社講談倶楽部編輯局より講談倶楽部6月号送呈され、その感想文を送りたるもの。
罫紙墨筆
原稿用紙ペン筆
原文書なし、貞寿院一周忌参列遠慮の旨案内
封筒 巻紙墨筆 和紙墨 「謹ミテ逓信大臣後藤新平閣下ニ呈ス」と題したる明治43年12月14日付日本士風会主事井上鑲より激礼状
筆
(複写版)に対する返書。
原稿用紙墨筆
草稿、晩餐会開催通知
原稿用紙ペン筆
草稿、普選準備会解体について 普選準備会は全国枢要の地に設けられ其数133箇処、会員は30万人、政
治倫理化のパンフレット127万部を販売、準備会の形体は解体するも政治倫理化の精神を何等かの形で後に
貽すを有益なること云々。
罫紙墨筆
下書き、断而敢行鬼神避之の勇気を以て直進するにあらざれば後の成功は望み難き次第云々。
117
往翰
往翰
ぼうだいぎしこうほしゃ
みなみまんしゅうてつど
うかぶしきがいしゃりじ
りっけんどうしかい
ふめい
ふめい
(明治41年)3月27日
1908/12/28
罫紙墨筆
罫紙墨筆
下書き、後藤の面目躍如の書簡
控文2点、満鉄東京支社と帝国鉄道庁用罫紙、新しい満鉄正副総裁を輔けるよう要望。
往翰
往翰
往翰
某代議士候補者宛
南満州鉄道株式会社各
理事宛
立憲同志会宛
不明
不明
(大正2年11月1日)
(大正3年)
(大正12年2月)
便箋ペン筆
巻紙墨筆
罫紙ペン筆
往翰
不明
ふめい
(昭和3年2月末)
原稿用紙ペン筆
往翰
不明
ふめい
巻紙墨筆
往翰
往翰
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
不明
不明
相沢(四竈彦四郎宛)
相沢(四竈彦四郎)
阿川辰(後藤初勢宛)
阿川辰(後藤初勢宛)
阿川光裕(後藤十右衛
門宛)
秋田清(菊池忠三郎宛)
愛久澤直哉(杉山茂丸
宛)
浅羽靖(菊池忠三郎宛)
浅羽靖(菊池忠三郎宛)
阿部彝得(後藤初勢宛)
原稿用紙ペン筆
洋紙ペン筆
封筒
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
第三者
第三者
第三者
第三者
阿部靖之助(後藤初勢
宛)
阿部靖之助(後藤初勢
宛)
石黒忠悳(後藤一蔵宛)
石黒忠悳(後藤一蔵宛)
ふめい
ふめい
(大正8年8月23日)
あいざわ/しかまひこし (明治28年4月25日)
ろう
あいざわ/しかまひこし 明治12月24日
ろう
あがわたつ・あがわたつ 1日
こ/ごとうはつせ
あがわたつ・あがわたつ 30日
こ/ごとうはつせ
あがわみつひろ/ごとう (明治6年1月24日)
じゅうえもん
あきたきよし/きくちちゅ 8月初5日
うざぶろう
あくざわなおや/すぎや 2010/8/15
ましげまる
あさばやすし/きくちちゅ (大正2年)10月29日
うざぶろう
あさばやすし/きくちちゅ (大正2年)10月30日
うざぶろう
あべつねなり/ごとうは 26日
つせ
あべやすのすけ/ごとう (明治39年)4月16日
はつせ
あべやすのすけ/ごとう 2010/10/31
はつせ
いしぐろただのり/ごとう 1920/1/15
いちぞう
いしぐろただのり/ごとう 1921/12/19
いちぞう
下書き、桂没後立憲同志会を退会する意向を示した後藤の退会に際しての謝状。
控文書、第一次大戦が勃発し、大隈内閣の対ドイツ宣戦に至る時期、対中国関係、満州問題などの将来につ
いて不安を表明 文章は途中で切れていて中断されたままになっている。
控文書、ヨッフェの入国、交渉に反対する者への反論の書簡、控、自分は赤でも白でもないこと、ユダヤ=ロ
シア人=共産主義者とは限らないこと ヨッフェの入国を認めたところで日本の国体には全く影響のないことな
どを反論。
下書き、田中内閣の総選挙後中立議員を糾合せんとして呈書したものだが出したか否かは不明 元来政治の
倫理化の趣旨とする所は各般の政治をして至正至善の道に至らしむに存するは今更絮説の要無之而かも倫
理化を急要とする濁世に処る現況は遺憾ながら否むべからざるもの有之云々。
三白 露国の近状、英米の態度、昨夜坂西少将来訪支那近情 三白 露国近状 等閑視する訳には参り難き
もさりとて此方より手を出すことにもならず英米その後の態度如何に御座候哉日米協商は十人十色 昨夜坂
西少将来訪支那近情承り候当方の大計大畧確定するの一点に帰し候へと奉察。
下書き、折柄高橋中尉を通して貴著『近世科学の宝船』と題する一本を御恵贈被下云々。
下書き、米国・英国を経由してヨーロッパ大陸に渡り第一次大戦の戦場を視察してまたロンドンに帰着したこと
帰朝を前に今までの感想を述べる。
封筒のみ。
ミユキ叔母様到留の儀、本年小生出京の砌、御内談、双方へ御届済と心得、町役場に取糺したところ、果たし
て廿八年三月より貴家同居到留之旨記入有之云々。
所藤之助の要望あり藤倉様まで浅草町家をあけわたすよう御差図を願う。
封筒のみ。
一伸 福島県庁中大改制官員数十人免職のこと。須加川支庁在勤被命移転致 二伸 俊平の勉励、学問
の目的委細御申越のこと。
先年内務省衛生局蔵版伝染病図解を改訂再版するので後藤男爵に縣字を巻頭に載せる件。
封筒のみ。
薩人の政界における権力も山本にて絶滅しようとするので天下の事は後藤男と加藤男と原敬ともにすること。
別紙を後藤男爵閣下に御渡被下度。
実は先月6日に出発 鹿児島地方迄出張漸く10日前に帰京仕候 余而恩借之内先月及今月分持参可仕と存
候中固之家事上誠に困難なる事件差起り2週間はかかる見込を以て帰省仕候云々。
後藤授爵に対する祝辞。
日頃の厚情に対する礼状。
(後藤の息子の)一蔵に対して、年頭の挨拶状。
病気赤十字病院に入院した二女のお見舞い。
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
118
第三者
第三者
第三者
石黒忠悳(後藤一蔵・令
夫人宛)
石黒忠悳(後藤和子宛)
石黒忠悳・くが(後藤和
子宛)
第三者 石本恵吉(鶴見祐輔宛)
第三者 和泉幸次(後藤初勢宛)
第三者 伊藤□□(四竈彦四郎
宛)
いしぐろただのり/ごとう 1923/3/23
いちぞう
いしぐろただのり/ごとう 明治26年11月17日
かずこ
いしぐろただのり・くが/ (明治40年)10月1日
ごとうかずこ
いしもとけいきち/つるみ 2010/10/27
ゆうすけ
いずみこうじ/ごとうはつ 2010/12/29
せ
いとう/しかまひこしろう (明治28年)8月29日
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
いとういそうじ/ごとうは 1906/6/4
つせ
うえだきょうすけ/ごとう (大正2年)8月4日
いちぞう
うえだきょうすけ/たなか (大正9年)10月11日
せいじろう
うえだきょうすけ/なかむ (明治39年)11月24日
らこれきみ
うえのすい/しかまひこし 明治28年4月6日
ろう
うえのすい/しかまひこし (明治28年)5月21日
ろう
うちだよしひこ/しかまひ 明治11月13日
こしろう
おうみんせい(わんみん (明治28年)6月11日
しょん)/しかまひこしろう
おおつきじんさぶろう/ (大正3年)9月5日
ごとうはつせ
おかだうめきち/ごとうは 4日、22日
つせ
おかもとしな/ごとうかず (明治41年)11月23日
こ
おぎたじんすけ/しかま 明治27年11月10日
ひこしろう
おくむらとらじろう/ひろ 1918/6/29
たもりのぶ
おさべまさひろ/しかま 明治28年3月14日
ひこしろう
おさべまさひろ/しかま 明治28年5月23日
ひこしろう
おさべまさひろ/しかま (明治28年)7月25日
ひこしろう
伊藤伊惣治(後藤初勢
宛)
上田恭輔(後藤一蔵宛)
上田恭輔(田中清次郎
宛)
上田恭輔(中村是公宛)
上野綏(四竈彦四郎宛)
上野綏(四竈彦四郎宛)
内田好彦(四竈彦四郎
宛)
王民生(四竈彦四郎宛)
第三者 大槻甚三郎(後藤初勢
宛)
第三者 岡田楳吉(後藤初勢宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
岡本しな(後藤和子宛)
荻田甚助(四竈彦四郎
宛)
奥村寅次郎(広田守信
宛)
刑部鉞衛(四竈彦四郎
宛)
第三者 刑部鉞衛(四竈彦四郎
宛)
第三者 刑部鉞衛(四竈彦四郎
宛)
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋墨筆
絵葉書ペン筆
一蔵の出産見舞状。
相馬事件の報を知り後藤が拘引されたことにつき見舞い。台紙による修復あり。
今朝9時新橋駅にて男爵の健康に御着京を迎える 御令息ももはや全快 帰宅したところはがき御手紙届い
ており拝見 ペルリモニュメント拝見 万事せる都合にて大慶 一昨日より米国陸軍大臣タフト氏夫妻一行 芝
離宮に滞在云々。
封筒 レターペーパーペ アメリカ(サンフランシスコ)に滞在している祐輔へ送ったもの。
ン筆
巻紙墨筆
子息への賜わり物に対する礼状。
封筒 巻紙墨筆
四竈が検疫所より帰館した後に本部に出勤するのかどうか教えてほしいこと、こちらも人員が次第に解雇され
て臨時雇の者が四、五人いること、自分も解雇かと思っていたが田村氏と共に依然として奉職しているので安
心してほしいこと、過半数の者が昇級したのに自分はできなかったことなど。
巻紙墨筆
愚息の件 仰せに随い保養後上京させるので御引立を願う。
封筒 絵葉書ペン筆 近況報告。
封筒 巻紙墨筆
満鉄の財団法人化案について。
封筒 巻紙墨筆
満鉄による施設経営に関する現状報告及び意見。
封筒 巻紙墨筆
彦四郎の徴兵検査について検査猶予は重病以外は規則上出来ないため、検査後に召集猶予を願出るしか
なし この為めの方法等について。
封筒 巻紙墨筆
本月9日付と15日付の御書面とも到達云々。
封筒 和紙(紙片)墨筆 紙片の片面に「中六番町四十二番地本間邸 佐藤」裏に「廿四年(六月)第六十六号 追加 第四条」とメモさ
れている。
葉書墨筆
四竃が広陵に出張することを知り大に安心したこと コレラには充分用心してほしいこと 新聞を送ってくれたこ
とに対する感謝 安江正直濃人は岡門の相識で今に記憶があること。
封筒 巻紙墨筆
「御隠居様」病気に対する見舞。
巻紙墨筆
①小生都合により近く会社を辞職 別に奉職の見込みなく先生に御願いして台湾へ渡りたく、何卒助言下さ
れたし②おおせの通り履歴書を認め送るのでよろしくお取りなしを乞う 月俸50円位にて直ちに技手にて御採
用下さるよう御周旋下されたし。
封筒 レターペーパーペ 米国艦隊歓迎記念の絵葉書を送られたことへのお礼 当時は当地の新聞など口をそろえて日本の雅量をほ
ン筆
めたたえ云々。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
上京の際におけるご高配に対する礼状
封筒 巻紙墨筆
長女志津病気危篤の由にて風雪をも顧みず出張、留守にしたところ、敢て危念は別条ないものの、病気はず
いぶん危険途上にて治療困難これまで数医師の治療を受けたが見立違いもありもはや手術は困難の由
云々。
巻紙 封筒墨筆
長女志津の生前及び死後之事柄は今更申すもの無之云々 検疫事務所の月俸は20円 台湾行も随分とよい
が、何分季候の点が内地と異なり気がかりなりなど。
巻紙 封筒墨筆
昨年来御書信落手、あるいは兼て御志願の台湾行きにでもなったのかと思い今日に至った次第、あしからず
御承知下されたし 小生義去る6月23日忰辰雄の任所に参り、忰辰雄も無事凱旋 世間では虎病を催し居り
殊に検疫に御従事とて陰ながら心配云々。
119
第三者
第三者
第三者
刑部鉞衛(四竈彦四郎
宛)
小田切万寿之助(田島
宛)
賀来ぎん(後藤和子宛)
おさべまさひろ/しかま 2010/12/22
ひこしろう
おだぎりますのすけ/た (大正8年)7月4日
じま
かくぎん/ごとうかずこ (明治40年)5月15日
第三者 賀来佐賀太郎(後藤一 かくさがたろう/ごとうい 2010/4/3
蔵宛)
ちぞう
第三者 覚治(後藤初勢宛) かくじ/ごとうはつせ
第三者 覚治(後藤初勢宛)
かくじ/ごとうはつせ
第三者
第三者
第三者
第三者
笠間杲雄(長尾宛)
桂木通之進(四竈彦四
郎宛)
菅野虎吉(後藤彦七宛)
菅野虎吉(後藤彦七宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
きく(後藤初勢宛)
菊池新之介(四竈彦四
郎宛)
菊池忠三郎(釈黙笑宛)
菊池忠三郎(田島道治
宛)
岸本康通(後藤一蔵宛)
北里柴三郎夫人(後藤
和子宛)
金原明善(畔田明宛)
金原明善(畔田明宛)
クボタマサチカ(後藤和
子宛?)
黒木三次(鶴見祐輔宛)
黒田甲子郎(龍居頼三
宛)
かさまあきお/ながお (大正5年)11月16日
かつらぎみちのしん/し 明治27年12月28日
かまひこしろう
かんのとらきち/ごとうひ 明治27年1月23日
こしち
かんのとらきち/ごとうひ (明治27年)6月17日
こしち
きく/ごとうはつせ
きくちしんのすけ/しかま 明治28年10月10日
ひこしろう
きくちちゅうざぶろう/ (大正)
しゃくもくしょう
きくちちゅうざぶろう/た 2010/12/26
じまみちじ
きしもとやすみち/ごとう (大正12年10月)
いちぞう
きたざとしばさぶろうふじ
ん/ごとうかずこ
きんばらめいぜん/くろ (明治41年)7月14日
だあきら
きんばらめいぜん/くろ (明治43)年4月16日
だあきら
くぼたまさちか/ごとうか
ずこ
くろきさんじ/つるみゆう (大正4年)10月26日
すけ
くろだこうしろう/たつい (明治)40年6月6日
らいぞう
第三者 謙(後藤一蔵宛)
けん/ごとういちぞう
2010/3/29
(明治)8月18日
封筒 巻紙墨筆
ホテルリッツ便箋鉛筆書
き
巻紙墨筆
誣告せられ3ヶ月間拘禁、出監帰宅せりとのことなど。
明後日はフォンテンブローへ出掛けてはどうかと昨夜後藤へ申上げておいた(自動車にて2時間)ので、もし決
定したならばお伴申上げたい。
無沙汰のおわび 此頃東京は大そうにぎやかのよし 当地もこの頃町々にぎやかにて道路も広く便利となった
ことにもとの淡水館のあと広き道となり溝なども立派 新公園もつつじの花など咲き乱れている 台湾もお出立
後何となく物さみしく佐賀太郎と御うわさ云々。
封筒 便箋ペン筆
柳瀬君を経て御委任状4通印鑑証明書1通を拝受。
罫紙墨筆
未だ田郎より何ら音沙汰なくこの先どうなるか痛心の至り 西村よりは相談ありとて訪問を求める書面あり 探偵
を依頼した老人の話によれば今泉の斉藤へ田島より書面を遺したる由云々 先刻製紙会社へ行き命の通り電
話取次ぎを依頼。
巻紙墨筆
彦七の代理として熊本県八代郡下松求麻村の田島巳三郎所有地所購入登記手続のため八代へ赴いた現地
より報告 手続は済ませたが出願書類数通重雄が取り居るため今日中に調査できず止むなく明日まで待つ
長尾は大坂にて別に金主を見出した様子で裏面にて魂胆あり目下二瓶氏と睨み合い云々。
巻紙墨筆
鶴見鉄道院を去り、内閣に転ずるの心底先生より決意翻せしめんこと云々。
封筒 巻紙墨筆
本月23日及25日の手紙で貴兄御申越の300円は小生1人にして到底御引受申上兼候云々。
封筒
封筒のみ。
巻紙墨筆
(後藤家借財に関する内容か)今般並河の代人角筈より掛合の末月々20円宛差入の事ならでは出訴するより
外なし云々に付東京送金50円の内右20円を繰合せる様取計いもらいたしとの談判。
巻紙墨筆
面倒な事をお頼み申し上げたところ、早速御取そろえ下され難有く、またその節結構なるお祝いを賜わり有難
し。
封筒 巻紙墨筆
四竃との面会の申し入れ。
封筒 名刺墨筆
後藤新平の名刺に紹介文を書込んだもの。
封筒 巻物墨筆
庚申倶楽部代議士木村権右衛門、阿野組支配人山口調を大臣御手際の時引合せ願上候。
封筒 罫紙墨筆 新聞切 全国市長会議にて別紙帝都復興に関する建議案を提出、本日決議 委曲御参団の際申上候 閣下へ御伝
抜
声願申上候。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
男爵へ弁天参詣願度。
封筒 巻紙墨筆
近況挨拶、後藤への病中見舞。
グリーティングカード グリーティング・カード Herzlichen Glückwunsch zum neuen Jahre。
便箋墨筆
鶴見の米国での活動ぶりを色々と聞いていること、帰朝の際にはパリに弟が、笠間大使と一緒にいるので会っ
てきてほしいこと、日米問題について日本の近況など。
巻紙墨筆
燕京発の龍居の手紙を奉天でうけとったこと 犬に咬まれた件は別に支障ないので安心してほしいこと 自身
の仕事の状況は非常に多忙でこの半歳の間度の煖るひまがなかったこと 自分が大連に戻るのは本月20日
頃になること その後は遼陽・奉天・鉄嶺の市区計画等の仕事のためふたたび北進する決心。
巻紙墨筆
無事帰国の由拝承、小生は一と足先に帰朝 イタリー旅行は如何なりや
120
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
郷右近商店(後藤初勢
宛)
小梅(後藤初勢宛)
小梅(後藤初勢宛)
小梅(後藤初勢・一蔵
宛)
巨梅(後藤初勢・和子
宛)
後藤愛子(後藤一蔵宛)
第三者 後藤愛子(後藤一蔵宛)
第三者 後藤一蔵(後藤愛子宛)
第三者 後藤一蔵(後藤愛子宛)
第三者 後藤一蔵(後藤愛子宛)
第三者 後藤一蔵(後藤愛子宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
後藤一蔵(後藤初勢宛)
後藤一蔵(桜井彌六遺
族宛)
後藤一蔵(桜井彌六遺
族宛)
後藤和子(戸坂万治宛)
後藤実崇(愛知県病院
ローレッツ宛)
第三者 後藤静子(後藤初勢宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
後藤静子(後藤初勢宛)
後藤静子(後藤初勢宛)
後藤静子(後藤初勢・利
恵宛)
後藤静子(後藤初勢・利
恵子宛)
ごううこんしょうてん/ごと 2010/5/28
うはつせ
こうめ/ごとうはつせ (明治26年)11月17日
こうめ/ごとうはつせ 2010/4/29
こうめ/ごとうはつせ・ごと 2010/4/24
ういちぞう
こうめ/ごとうはつせ・ごと 2010/9/1
うかずこ
ごとうあいこ(つるみあい (大正4年11月10日)
こ)/ごとういちぞう
ごとうあいこ(つるみあい 2010/8/4
こ)/ごとういちぞう
ごとういちぞう/ごとうあ 1905/10/23
いこ(つるみあいこ)
ごとういちぞう/ごとうあ 1910/9/8
いこ(つるみあいこ)
ごとういちぞう/ごとうあ 1905/10/23
いこ(つるみあいこ)
ごとういちぞう/ごとうあ (明治40年)10月4日
いこ(つるみあいこ)
ごとういちぞう/ごとうは 1910/9/8
つせ
ごとういちぞう/さくらい 1929/12/12
やろく
ごとういちぞう/さくらい 2010/12/13
やろく
ごとうかずこ/とさかまん (明治34年)4月23日
じ
ごとうさねたか(ごとう 明治12年12月28日
じゅうえもん)/あいちけ
んびょういんろーれっつ
ごとうしずこ/ごとうはつ (明治37年)8月15日
せ
ごとうしずこ/ごとうはつ 2010/3/20
せ
ごとうしずこ/ごとうはつ 2010/8/16
せ
ごとうしずこ/ごとうはつ 2010/10/27
せ・ごとうりえ
ごとうしずこ/ごとうはつ (明治35年)10月28日
せ・ごとうりえこ
封筒
和紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
洋紙墨筆
絵葉書墨筆
封筒のみ。
今朝何も存せず学校へ行ったところ先生拘引のことを新聞で見て驚く。
昨日は一蔵様御出下されその節は何よりの御品頂戴し誠に有難し云々。
明日は何卒御出いただきたい 外に客は富田の御家内のみであったが同人も病人があるとのことで、おそらく
不参云々。
時候、自他安否の挨拶 先日タマナ・マルナス・ナガナスなど送ったが御返事なくもしや不着ではないか、御
一報下されたし。
大礼参礼のため両親と京都下村邸に滞在中の愛子から兄一蔵に宛てたもの 新築された下村邸の様子など
が記されている。
兄上様其後はいかゝ 今日葉山にまいりました云々。
絵葉書墨筆
明治三八年凱旋観艦式紀念絵葉書
絵葉書ペン筆
大阪より有馬への道中において下車、生瀬三田を通り当地着、治線中々景色宜しく出水せし所も障りなくな
ど。
観艦式紀念絵葉書
絵葉書墨筆
封筒 洋紙ペン筆
東京付近は洪水の為鉄道が不通となったこと、後藤は24日に大連を出発し下関より上陸して宮島に於て伊藤
博文と会い、大阪に立ち寄った後に1日に新橋に到着し林公使と狸穴に帰宅したこと、自分は2、3度北里・金
杉両博士の診察を受けたが肺については心配ないとのことなど。
絵葉書ペン筆
昼大坂を発し夕方福知山着のこと。
電報用紙 ペン筆と墨筆 謹て御逝去を痛む。
封筒 巻紙墨筆
桜井弥六氏御逝世の由にて哀悼に堪えず 遠隔の事故失礼ではあるが電報為替金50円を送付申上につき
御霊前に供されたき旨の依頼。
和紙墨筆
後藤新平の渡欧州の見送りのお礼。
巻紙墨筆
名古屋滞在中の饗応に対する謝辞及び息子の新平が世話になっていることへの感謝。
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
121
御地あしき病い流行のよし、御用心下されたし 先日の荷物にて八丈の羽織のはぎれを御送り下さった由
云々 新聞号外に旅順総攻撃が開始とのこと、日ならず陥落の号外を見ることを皆々申合っている。
当地より千葉と申す者上京につき台南知事よりもらったパイナップルを托す。
一蔵様は日々袴をかけずブランコのり、私は日々仕事と西洋料理のけいこ 父上様は御機嫌日増によろしく
御安心下されたし。
御伯母様御風邪のよし如何、日々御帰りのみ待ち居り候、一蔵様幸子様も御待ち兼ね云々。
今朝母上金杉博士の診察をうけたところ、全治するには入院手術が必要とのこと、父上が帰京されてからでは
とても入院手術は難しく、御祖母様の御帰りを待たずに病室の空き次第入院するので出来るだけ早く御帰りを
願いたい。
第三者 後藤静子・和子(後藤初
勢・利恵宛)
第三者 後藤初勢(後藤和子宛)
第三者 後藤初瀬(後藤和子宛)
第三者 後藤初瀬(四竈彦四郎
宛)
第三者 後藤彦七(後藤愛子宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
後藤彦七(後藤一蔵宛)
後藤彦七(後藤初瀬宛)
後藤彦七(後藤初勢宛)
後藤彦七(姉初勢宛)
後藤彦七(後藤初瀬宛)
後藤彦七(後藤初勢宛)
後藤彦七(姉初勢・一
蔵・愛子宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
後藤彦七(四竈彦四郎
宛)
後藤彦七(四竈彦四郎
宛)
阪谷芳郎(後藤一蔵宛)
坂野貞雄(後藤初勢宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
坂野さだ子(後藤初勢
宛)
坂野長三郎(後藤和子
宛)
坂野長三郎(後藤初勢
宛)
坂野長三郎(後藤初勢
宛)
坂野長三郎(後藤初勢
宛)
第三者 坂野長三郎(後藤初勢
宛)
ごとうしずこ・ごとうかず 2010/10/15
こ/ごとうはつせ・ごとうり
え
ごとうはつせ/ごとうかず (明治33年)7月23日
こ
ごとうはつせ/ごとうかず 2010/7/12
こ
ごとうはつせ/しかまひこ 2010/12/10
しろう
ごとうひこしち/ごとうあ 2010/5/31
いこ(つるみあいこ)
ごとうひこしち/ごとうい (1903年9月20日)
ちぞう
ごとうひこしち/ごとうは (明治14年)3月3日
つせ
ごとうひこしち/ごとうは (明治35年)5月19日
つせ
ごとうひこしち/ごとうは 2010/9/1
つせ
ごとうひこしち/ごとうは 2010/11/20
つせ
ごとうひこしち/ごとうは
つせ
ごとうひこしち/ごとうは 2010/4/14
つせ・ごとういちぞう・ご
とうあいこ(つるみあい
こ)
ごとうひこしち/しかまひ 明治27年8月15日
こしろう
ごとうひこしち/しかまひ (明治27)年8月8日
こしろう
さかたによしお/ごとうい (昭和)(9月29日)
ちぞう
さかのさだお/ごとうはつ 17月7日27月9日
せ
さかのさだこ/ごとうはつ
せ
さかのちょうざぶろう/ご
とうかずこ
さかのちょうざぶろう/ご (明治39年)4月15日
とうはつせ
さかのちょうざぶろう/ご
とうはつせ
さかのちょうざぶろう/ご 13日
とうはつせ
さかのちょうざぶろう/ご 13日
とうはつせ
巻紙墨筆
御道中も御滞りなく御着のよし云々。
巻紙墨筆
絵葉書墨筆
巻紙墨筆
絵葉書ペン筆
4月から7月にかけての詳細な会計報告。
アダムとイブの絵葉書。先日の写真に対する礼状。
初瀬より水沢の四竈彦四郎に宛てたもの 水沢のような田舎にばかりいないで親類の福岡県知事安場方へ食
客にでもなることをすすめる。
「大変ヨイキコウニナリマシタ コチラモ花トキデス」
封筒 便箋1枚
巻紙墨筆
和紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
賀田社長より在独研究の話があったので、来月より明年までベルリンに滞在すること、先に頼んだ衣類等が未
だ到着しないので送ってほしいとのこと、在独中の住所など。
近況報告。
本日神戸に着いて賃金請求願をしたこと 明日は午前大阪に行って乗船のことなど。
(前後が切れており不明)田井氏帰京のことなど
田地売却に不相成様子について。
只今電話拝承 別紙送付につき受取られたし。
9日小田原から帰京したところ、姉からの電話により浅草の様子如何との連絡があり、人夫4、5人を連れて支度
をして出発したが、すでに大火により焼けた後であったことなどを姉に報告。
封筒
封筒 和紙墨筆
封筒 名刺ペン筆
巻紙墨筆
封筒のみ。
千葉県在住の彦七から在京新聞・「中央新聞」・米一俵などの送付を依頼したもの 宛名は後藤新平方四竈
彦四郎になっている。
(男爵阪谷芳郎の名刺に記入)御三女御逝去の由御同情御悔申上候。
①書生の件、御申越の通り当学校長より当人に申させたところ、別紙の通り堀合校長より返事が来たので御申
越次第当人を上京させる ②今朝の御話により早速本人の意見を確かめたところ、何処までも後藤家に随従
いたし奉公したき存念とのこと。
御母堂様御来水の折には態々おたずね下さり また土産物まで賜わり御礼申上候。日付なし。
清国や身内の近況報告について
後藤授爵に対する祝辞。
過日上京の節御話あった勧業銀行の件 斉藤某に御面会下されたか 又右に関する手続等お聞かせ下され
たか、便利な方法をお漏らし下されたし。
過般彦七兄様御出発の際は見送りもせず恐縮 この頃はずいぶん進み、上海辺より便りがあったのではない
か 新平兄上様は何日ころ御上京か、また上京後何日くらいで御渡欧になるか。
先日は洋服を元太郎にまで御送り下さり有難し云々。
封筒 巻紙墨筆
便箋墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
122
第三者 坂野長三郎(後藤初勢 さかのちょうざぶろう/ご 25日
宛)
とうはつせ
第三者 坂野長三郎(後藤初勢 さかのちょうざぶろう/ご
宛)
とうはつせ
第三者 坂野長三郎(後藤初勢 さかのちょうざぶろう/ご
宛)
とうはつせ
第三者
第三者
第三者
佐木市三郎(四竈彦四
郎宛)
佐久間左馬太(桂太郎
宛)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
さきいちさぶろう/しかま 明治28年7月10日
ひこしろう
さくまさまた/かつらたろ (明治)7月9日
う
さくらいぐんのすけ/しか (明治26年)9月9日
まひこしろう
第三者
第三者
第三者
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
さくらいぐんのすけ/しか (明治27年)5月3日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治27年7月12日)
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治27年7月17日)
まひこしろう
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎殿)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
第三者 柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
さくらいぐんのすけ/しか (明治27年10月)28日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治27年10月)29日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治28年)5月12日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治28年)5月16日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治)2月23日
まひこしろう
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
さくらいぐんのすけ/しか (明治)3月最終日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか 2010/6/6
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治)(11月)13日
まひこしろう
さくらいぐんのすけ/しか (明治)(12月)16日
まひこしろう
ささきひさじ/たかみきざ (大正8年)11月20日
ぶろう
さとうかつのじょう/ごとう (大正3年)2月5日
はつせ
第三者
第三者
第三者
第三者
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
柵瀬軍之佐(四竈彦四
郎宛)
佐々木久二(高見喜三
郎宛)
佐藤勝之丞(後藤初勢
宛)
巻紙墨筆
巻紙墨筆
御兄上様海陸無事御帰京大慶 只今鉄道早達便にて雉子餅を送るので御笑納されたし。
彦七兄上様いよいよ来月3日御渡航のよしにて見送りのため今晩上京する心組のところ、止むを得ない事情
にて出来なくなり、御手数ながら餞別を彦七様に差し上げたいので代価10円前後の然るべき品を御購求呈上
下されたし。日付なし。
巻紙墨筆
愚妻着用の絹地単反物を御注文の上送っていただき、去る二日到着したが、門司郵便局の付箋があり、西京
丸遭難のため海水に浸ったとのこと 調べたところ後ろに大変色あり 他にも変色あり 損害金を請求しても多
額はもらえず時間もかかるのでそれは見限り大至急御手許まで小包で送る云々。日付なし。
葉書 墨筆
明より平泉に隠遁の度云々 台湾行は如何に決定か当方は案じらるゝに及ばず云々。
封筒 巻紙墨筆
民政長官後任者問題に関し特別任用令等のこと。
封筒 巻紙墨筆
小生事も客月下旬より旧都城なる松塘と申すまで内地旅行相試み旬日余も費して昨日帰陽仕候 元より人馬
車共に無之土地故馬背を借り候か但しは歩行より別に良方便も御座なく、小生は概ね四馬六歩の割合を以
て返往仕候処久しく怠惰に流候折柄とて中々に昨今は疲労を貰ひ申候云々。
封筒 巻紙墨筆 名刺 後藤氏の無罪放免元より其所なるも今更らの如く雀踊朴舞に堪へず此の喜びの意 相願くは後藤氏一家中
に御伝へ被下度、何れ小生も此中参上御見舞申す考なり。
封筒 便箋墨筆
日清事件は今沈静化しているが結局はこのままでは終わらず、兎に角一度血を見ることになるだろうなど。
封筒 巻紙墨筆
兼て御依頼申上候難北瓢直録中の謄写残之分御不明の由 御尤の至りに御座候、就ては右出版物は非常
に急ぎ居、朝鮮時事の原稿御覧の上御手数恐入候得共幾分大至急御謄写被成下候様程上候 御礼の義は
必ず帰朝の上可差上候間呉々も御取計御打棄てなき様に願はしく候云々。
封筒 巻紙墨筆
昨夜帰京仕候 御身上の義に就き御相談致度義有之候間 明早朝御来車被下度候 小生は明後日面応渡
清可仕候 後藤先生によろしく御伝言を請ふ。
封筒 巻紙墨筆
明朝の参宅を明後日の夜に変える 明朝午前十時から午後三時までの間毎日社に立寄るよう要請。
葉書墨筆
不日広陵行御企ての由御目出度き事に候 御出発前御目にかかりたく候得共 御不都合なれば致方なく残
懐至極。
封筒 巻紙墨筆
先日は留守中両度御尋ね被下候由、生憎引違ひ御目にかゝらず如仰残懐此事に存候 併し多年の御宿願
の通り御出世相成候段は小生に於ても誠に喜ばしく存安心罷在候 猶ほ此上とも折角御勉強御昇進の程千
万の希望に御座候 後藤先生も矢張り御滞広中に候哉云々。
封筒 巻紙墨筆
小生義は福島県第三区即ち是迄河野広中鈴木万次郎2人の選出地なる白河地方に改進党候補者として恒
屋盛服赤坂儀作両氏の応援として去る20日上野一番発にて参り其後毎日各地奔走演説致居候問御一笑被
下度候 25日には是非帰京仕度心算にて目下入院中なる愚姉にも其旨申し残し来り候処云々。
封筒 巻紙墨筆
舞草氏夫婦明日は是非小生にて案内するつもりのところ、白金養生国入院中の仲姉病気等にて案内は難しく
なり大兄にて御繰合せ取り計らわれたし。
封筒 巻紙墨筆
菊池新三郎、野村の退社事情、長田権、花田の事情について。
封筒 巻紙墨筆
御高来の節は何時も御粗末多謝此事に候 菅原も身上の義再応後後藤氏まで頼みたり候間何卒老兄よりも
御話し被下度こと。
封筒 巻紙墨筆
御申越の品本日は未だ用意整はず去りながら追日の寒気御凌き某候義と存候故失礼ながら単衣及シャツの
古物差上候。
封筒 巻紙墨筆
後藤新平に渡すことに関する件
封筒 巻紙墨筆
小作米売払困難な状況 米価暴落 地方の不景況の状況。
123
第三者 佐藤勝之丞(後藤初勢 さとうかつのじょう/ごとう (大正3年)9月6日
宛)
はつせ
第三者 佐藤勝之丞(後藤初勢 さとうかつのじょう/ごとう 2010/5/11
宛)
はつせ
第三者 佐藤勝之丞(後藤初勢 さとうかつのじょう/ごとう 2010/7/14
宛)
はつせ
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治25年)11月23日
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ 明治26年2月21日
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治26年10月)2日
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治26年)(11月24日)
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治27年3月14日)
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四
郎宛)
さとうじょういちろう・てっ (明治27年6月28日)
せきし/しかまひこしろう
さとうじょういちろう・てっ 明治27年8月20日
せきし/しかまひこしろう
さとうじょういちろう・てっ (明治28年)5月27日
せきし/しかまひこしろう
さとうじょういちろう・てっ (明治28年)6月20日
せきし/しかまひこしろう
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
「御隠居様」病気に対する見舞。
御依頼の屋根修繕見積は昨年行ったので不要 作得米の件、昨年の不作にて品質粗悪にて買進める者なく
価格引立たず、したがって兼て親しくしていて八戸地方へ白米を供給する者へ特別に申込み売込んだこと。
去月三十日書留到着、銀行より為替金百三十円受取、直ちに池田方へ本年1月から6月までの利子支払う
云々 御兄様当時の御働き云々。
貴君の進路につき、小生も文官なら司法官を希望する。宮古の方の都合や希望もあるだろうから。都合が悪
ければ、川井学校ヘ奉職を決心しても貴君の為めと思う。学校ならば授業の外は閑隙だから勉学も出来るの
では云々。
畑地の問題について彦四郎の母との紛争の実情を伝えるもの。
封筒 巻紙墨筆
全修学校へ入学の件は、一層勉励を期し御成覚を侍つ。また、一説に工手学校へ入学とも聞くが如何か。屯
田兵志願のため北海道移住の見込で志願の件。さらに、仙台改進党支部の発会式に、同志惣代として小原
東作氏を出席させる件。
封筒 巻紙(断片)墨筆 前部断片のみ 過日、手紙賜り難有く拝読。幸い貴母様、門崎の地芝居興行のおり、御詣人に謁見。同席伝
言し、一通り御達申し上げたとのことなど。
封筒 巻紙墨筆
予審中は御考慮を相煩したところ、去る12日を以て無罪言渡となった旨、執達吏より終決書が送られたので
御安心下されたし 再選の儀は舞草の議員は勿論二三の議員が主張するが例の内田組が反対し再日の選
挙会は実に面白き衝突となった様子、しかし親はあくまで辞任の決心云々。
封筒 巻紙墨筆
先日の劇震には心痛のことと拝察。早速お見舞申上べきところ、21日の新聞が24日に着く有様。大兄より御無
事の報に接し安堵。ただし、家内も目下養蚕最中で多忙なり。岩手硬派大懇会が東山改進党盛岡杜陵館に
て開催。目下、選挙候補者確定せず。
封筒
封筒のみ。
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治)2月15日
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
封筒 巻紙墨筆
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四 さとうじょういちろう・てっ (明治28年)8月2日
郎宛)
せきし/しかまひこしろう
封筒 巻紙墨筆
第三者 佐藤丈一郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 佐藤信(龍居頼三宛)
第三者 佐藤宗三郎(龍居頼三
宛)
封筒
徴兵検査の結果は如何か。日清戦争後の諸情勢(講和条約、軍隊帰朝、三国干渉、遼東半島割譲)の感想。
「滞清日記」を目下編纂中、脱稿の際は御覧に供したい。後藤ならびに政友諸氏への挨拶。陣営の移駐経緯
と清国各地の感想。雑誌送付の依頼など。
広島よりの書簡を拝読。陸軍省検疫部出仕の件了解。日清戦後の情勢、とくに遼東半嶋割譲に対する感想。
凱旋各隊のようすの問い合わせ。徴兵検査不合格に関して、遺憾の意と慰め。花田、権藤、小泉ら友人への
挨拶。近日、大連湾付近に到着予定。新聞雑誌の送付、後藤の揮毫の依頼など。
拙父入檻につき早速之御慰問乍毎度大兄之御親切辱なく奉深謝候 入檻の理由は芦萱卯吉なる点呼不参
之件に付病気届に奥書せし行懸りより某医師と共謀受送カ又は教唆せしやの嫌疑の処過日吉田弁護士を托
し檻中の始末承知仕候処多分無罪ならんとのこと明日中には保釈にて出檻可仕候間御安神被下度候云々。
先月11日台湾ヘ分遣され目下淡水港滬尾予備隊にある台湾島は奇景異木繁茂珍果林をなし稲作も一年二
度あるいは三度の収費 将来は国の宝庫たるべし 台湾兵制は屯田現職最にして暴漢を煽動したもの 劉永
福目下台南にありて兵卒を訓練しつつある 一兵隊の目から見た領有初期の台湾状況。
封筒のみ。
封筒 便箋ペン筆
封筒 巻紙墨筆
佐藤一行はようやく大連に到着したことを伝え今後も勉学にいそしむことの決意を表明しさらに、満鉄の社員
になっても生活できる程度の収入があれば満足と言っている。
北京留学の際の後藤と龍居の後援に対する謝辞。
さとうじょういちろう・てっ
せきし/しかまひこしろう
さとうしん/たついらいぞ 大正元年11月19日
う
さとうそうざぶろう/たつ 大正元年11月19日
いらいぞう
封筒 和紙墨筆
封筒 和紙墨筆
124
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
佐藤平(四竈彦四郎宛)
佐藤平(四竈彦四郎宛)
佐藤平(四竈彦四郎宛)
佐藤平(四竈彦四郎宛)
佐藤平(四竈彦四郎宛)
佐藤徹石子(四竈彦四
郎宛)
さとうたいら/しかまひこ
しろう
さとうたいら/しかまひこ
しろう
さとうたいら/しかまひこ
しろう
さとうたいら/しかまひこ
しろう
さとうたいら/しかまひこ
しろう
さとうてっせきし・さとう
じょういちろう/しかまひ
こしろう
第三者 佐藤安之助(龍居頼三 さとうやすのすけ/たつ
宛)
いらいぞう
第三者 佐野(後藤和子宛) さの/ごとうかずこ
第三者 佐野静子(後藤和子宛) さのしずこ/ごとうかずこ
(明治26年4月)27日
(明治26年)5月4日
(明治)8月18日
2010/1/14
2010/9/15
(明治26年)2月4日
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
(明治)44年10月21日
2010/1/1
(明治39年)8月11日
罫紙ペン筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
第三者 佐野彪太(後藤和子宛) さのとらた/ごとうかずこ (明治40年)11月26日
封筒 洋紙ペン筆
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
さのとらた/ごとうかずこ (明治40年)12月27日
さわだけん/ごとういちぞ (大正14年10月21日)
う
さわだけん/つるみゆう
すけ
さわだすいこく/しかまひ (明治)27年9月18日
こしろう
しいなべんしちろう/ちち 2010/4/1
あて
しかま/ごとうはつせ 2010/1/24
しかま/ごとうはつせ 2010/2/13
封筒 洋紙ペン筆
封筒 洋紙ペン筆
洋紙ペン筆
封筒
封筒 便箋墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
第三者 四竈(後藤初勢宛)
第三者 四竈(後藤初勢宛)
しかま/ごとうはつせ
しかま/ごとうはつせ
2010/4/21
2010/5/27
巻紙墨筆
巻紙墨筆
第三者 四竈(後藤初勢宛)
しかま/ごとうはつせ
2010/9/17
巻紙墨筆
佐野彪太(後藤和子宛)
沢田謙(後藤一蔵宛)
沢田謙(鶴見祐輔宛)
澤田穂国(四竈彦四郎
宛)
椎名弁七郎(父宛)
四竈(後藤初勢宛)
四竈(後藤初勢宛)
125
近況を書き綴ったもの。
昨3日は村長改選の投票あり 村長・助役ともに改選(その他種々村内の情報)。
村内の状況について記したるもの 佐藤定吉失火放火の嫌疑、古川蒙助長女タミ安産。9月28日(陽暦)
述者地処売買之義者御令弟文次郎殿之御執に拠り御母上御承諾之上拙者御用旋申者云々。
上野之勝地への車代を阿部先生に托して御笑納ください 委細阿部先生に聞取りください。
「政治家は貧乏なり。国家のために運動するものは利己主義を採ず。貴兄が、政治家となることが得策か否か
は不明。だが、貴兄が政治社会に立って縦横無尽に活躍するか、北地で一日たりとも安堵の地をなくすかは、
貴兄の責任なり」と、落後生徹石子から四竈彦四郎へ政治界遊出を勧める書面。
新任の地パリの紹介。
年始の祝詞 静子出産近く知らせを今日か明日かと遠方にて待ち居る次第。
後藤が満州の方へ出かけるということを人のうわさや新聞で見受けたが如何なることなのかと思っていること、
自分たちもいよいよ来月船にて出立すること、ついては荷物を送ったので預かっておいてほしいこと。
ニューヨークよりの御手紙にて欧州見物御思立のこと拝承 当地にて久振に拝顔するのを楽しみにしている
日本より静子よりの便りに安場御祖母様腎臓萎縮にて重態とのこと 同便に到着の新聞に御逝去の広告より
驚く 金杉博士は本月22日東京出発シベリヤ鉄道経由にて当地に来るとのこと。
イタリア御同伴の日本人旅行者の件 色々問合せて返事をするが私の考えでは御地あるいはベルリンにて日
本旅行者は多いので御地にて問合せることが尤も肝要。
歌舞伎の誘い状。
12月14日開催の会合への招待案内及び噴出が考えられる鶴見批難の内偵報告。
封筒のみ。
札幌より父親に宛てたる書簡。
(前半欠)佐々木よりも宜敷申し出候、同人も意外に繁昌、昨年末の決算にて病院は二万円の収入あり。
先生御帰任の期日御決定になったならば御一報を願う小生も当地に参って以来、日増に元気 当地は近年
まれなる寒気 インフルエンザ大流行 四国の方はその後何ら申越さず、小生からも書面を遺されずそのまま
にしてあり、もし荒井氏が出京したら、富士紡績の件御相談下され度云々。
台湾の方は御別条なきや 小生も逐々快方今月初旬帰京のつもりのところ過般中風邪気味にて発熱につき
延引、しかし全快したので月末もしくは来月初めに必ず帰京すること。
(前半欠)国許の老人共は昔気質にて世情にも通ぜぬくせに同人を拘束する傾きあり、本人も案外柔弱にて
赴任地決定が長引けば彼是よけいな紛擾が生じついには帰郷の止むなきに到るやもしれず、至急任処を定
め同人の決心を固め将来の計画をさせたく云々。
(前半欠)この度は是非御滞在日数を増して充分養生してほしいこと、後藤が突然の出京で帰宅したのでその
後再び出かけてくるのかと思っていたら一昨夜、馬場・山口両人が立寄り後藤が熱海に出かけて日増に元気
になっていると聞き安心したこと、自分も月末までには帰京する心組であることなど。
第三者 四竈(後藤初勢宛)
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
しかま/ごとうはつせ
2010/11/23
四竈きさ(後藤初勢宛)
四竈きさ(四竈彦四郎
宛)
四竈喜佐(四竈彦四郎
宛)
四竈謙平他(後藤一蔵
宛)
四竈謙平(後藤初勢宛)
四竈謙平(椎名初勢宛)
四竈貞(四竈彦四郎宛)
四竈貞(四竈彦四郎宛)
巻紙墨筆
しかまきさ/ごとうはつせ 丙午旧正月元日
しかまきさ/しかまひこし (明治)正月26日
ろう
しかまきさく/しかまひこ 明治27年6月30日
しろう
しかまけんぺい/ごとうい 1929/9/17
ちぞう
しかまけんぺい/ごとうは 2010/12/24
つせ
しかまけんぺい/しいな (大正11)年1月25日
はつせ
しかまさだ/しかまひこし (明治28年)5月26日
ろう
しかまさだ/しかまひこし (明治27?年)5月26日
ろう
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四 しかまたいざぶろう/しか 明治26年1月16日
郎)
まひこしろう
半紙墨筆
和紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
しかまたいざぶろう/しか (明治26年)1月31日
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか (明治26年3月28日)旧2月12日
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか (明治26年)5月2日
まひこしろう
封筒 巻紙墨筆
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
しかまたいざぶろう/しか 明治26年5月19日・23日
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか 明治27年2月9日
まひこしろう
巻紙墨筆
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
しかまたいざぶろう/しか (明治27年)3月1日・旧正月23日
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか (明治)12月6日
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか (明治28年)4月17日
まひこしろう
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
126
台湾は目下気候不順で小生の病気には最も良くない季節 食事はかゆとたまごぞうすいのみ 渡台後慢性の
頭痛にて今も治らず朝夕は殊に不快 出立の際拝借の金は来春まで御猶予願いたし。
新年の挨拶。
荒川の千田幾郎様夫婦外数名にて東京見物 貴殿を尋ねるとのことなので、面会の節は茶菓子を買って其
人たちに与えて欲しい。
封筒のみ。
さだ子(一蔵の娘)死去に対する悔み状。
祖母天盃御下賜紀念写真撮影につき1枚御手許に送る。
伯母初勢の病状伺い 自分の方は積雪が多く北上川も氷結して交通不通となっていること 別便にて餅を送
ること。
岩切の御祖母様本月23日死去 定通殿の居処不確にてもし広島へ帰り居るならば其旨伝えて欲しい 居村
大洞の正雄殿は旧の23日死去 熊三の次男24日焼死 家内は皆々無事。
度々書面を遣して下さるが大そう無沙汰にていかがお暮しか案じている てるも愛らしく成長、お前様も出られ
から三年になりまことに久しく思われる 田舎では新聞は買えず 母も案じており山田のことも知らせて欲しい
云々。
本月15日出立、舞草の斎藤源太郎、千葉松蔵、佐藤繁之丞、芦萱亥与吉、千葉勇助、蓬田菊助、佐藤酉
蔵、蓬田孝三良、佐藤栄六、渡辺甚蔵等にて伊勢参宮に罷り登るので新田の千葉松蔵に委細を貴殿に通知
するよう母が依頼したので東京の旅宿に着いてから葉書を出すとのことなど。
先達中仰せのあった事件、前畑壱口は東城氏へ金80円にて質入、壱口は広吉へ金15円にて質入の処、母
の云うには東城氏へ金110円にて質入したいとのこと、田は熊蔵・源太郎へ金45円にて質入れの処、これも
東城氏へ金50円に質入云々。
私病気は余程よくなったものの、参り兼ねるので舞草に遣いをやるので母上へ相談仕り新田へ参り松藤殿へ
願上し、金十円借用、内に入用があり七円だけ野村従弟を以て送るので新田ヘ礼状下されたし云々。
御見舞状有り難し 兄以て御安心下されたし我等方にては前後一二人づつ天然痘にて死んだが、我等家内・
舞草の家内は無事、先日中に申し上げた田地一件、佐藤平君、東城君、斎藤源太郎共々三名で登記所に出
願致し後見人代り親類になり云々 増子病気もなおりかげんにつき御安心下されたし。
①増子の病気も平癒、彦次郎へ伝染し心配したがこちらも安心 力は先日はしかに罹るが軽微にて御安心下
されたし 今般達谷窟の御不幸の報知がありここへ御悔状を下さるべし ②達谷窟豪順母死去の通知。書状2
通
当方および舞草の実家一同無事 しかし御祖母様旧十二月中旬ころより風邪にて日増によわるばかりにつ
き、一筆見舞状を送ってほしい 近頃舞川村長佐藤繁太郎殿は一関監獄へ入られ次に笠原の安老も同罪に
て入れられ大さわぎ この事件は芦萱宇吉云々、無病の診断書に奥印露見云々。
舞草の実家も別に変りなく御祖母様も御病気全快、この由を初勢叔母様に御伝え下されたし 水沢よりふち米
の儀は御心配ご無用 国会議員選挙候補者佐藤亮助、達谷窟信敬、平田箴のところ平田代議士と決まる。
御上京後再び御手紙下され有難し ようやく今日御土産物を発送、もし配送料不足があれば貴殿において支
払われたし。
①葬式は旧14日に行う、刑部様へは電報にて報知、13日夜着しかし盛岡より電報にて15日出発 徴兵検査は
5月5日よりとのこと ②をしず叔母様御死去の御悔 今年尋常科卒業につき卒業証書・賞与の写を添える(四
竈力書簡 4月17日付) ③四竈力尋常小学校卒業証書写 ④四竈力賞与写
第三者 四竈泰三郎(四竈彦四 しかまたいざぶろう/しか (明治28年)5月25日
郎宛)
まひこしろう
封筒 巻紙墨筆
第三者
第三者
第三者
第三者
和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
舞草の大洞の正応殿旧4月23日ジフテリアにて死去、中筋根の熊成殿次男養市も23日に死去 私事此間東
京へ参り高木先生の診察を受けたところ、此の病気は2、3ヶ月も治療を受けたらよいとのことであったが東京で
なければ療治は出来ずその内国元より不幸の通知あり 至急帰国のこと。
昨日より弥々病気も大病 刑部様へも報知致候。
御先生様御事無事之事を承り大変にて大万歳と果物到着の有無至急御返事云々。
昨日舞草へ参り右の相談をし、平君、東城先生にお出いただき右の次第を申し上げたところ東城君は御承知
にて金15円拝借、地所登記は旧正月中云々。(後半欠)
姉から弟の安否を気づかう内容。(後半部欠)
封筒 巻紙墨筆
頂戴物のお礼と近況報告。
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
四竈泰三郎(四竈彦四
郎宛)
四竈泰三郎・キサ(四竈
彦四郎宛)
四竈泰三郎・力連名(四
竈彦四郎宛)
四竈力(主税)(四竈彦
四郎宛)
四竈主税(力)(四竈彦
四郎宛)
四竈力(主税)(四竈彦
四郎宛)
四竈主税(力)(四竈彦
四郎宛)
四竈文治郎(四竈彦四
郎宛)
四竈文治郎(四竈彦四
郎宛)
静子(後藤和子宛)
柴田徳次郎(伊藤米次
郎宛)
渋谷(四竈彦四郎宛)
渋谷教史(四竈彦四郎
宛)
しかまたいざぶろう/しか 2010/4/5
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか 2010/12/12
まひこしろう
しかまたいざぶろう/しか (明治)
まひこしろう
しかまたいざぶろう・しか (明治26年2月6日)
まきさ/しかまひこしろう
しかまたいざぶろう・しか (明治26年)9月21日
まちから/しかまひこしろ
う
しかまちから/しかまひこ (明治26年)1月18日
しろう
しかまちから/しかまひこ (明治27年)9月9日
しろう
しかまちから/しかまひこ 明治28年3月19日
しろう
しかまちから/しかまひこ
しろう
しかまぶんじろう/しかま (明治27年4月27日)
ひこしろう
しかまぶんじろう/しかま (明治27年)11月24日
ひこしろう
しずこ・ごとうしずこ/ごと 2010/10/7
うかずこ
しばたとくじろう/いとうよ (大正3年)7月15日
ねじろう
しぶや/しかまひこしろう 2010/7/20
しぶやのりふみ/しかま (明治26年)9月24日
ひこしろう
清水博(後藤和子宛)
下田歌子(飯野吉三郎
宛)
下田歌子(飯野吉三郎
宛)
下村当吉(後藤一蔵宛)
しみずひろし/ごとうかず 1918/4/10
こ
しもだうたこ/いいのきち (大正)5月7日
さぶろう
しもだうたこ/いいのきち 2010/12/26
さぶろう
しもむらとうきち/ごとうい (大正9年)9月5日
ちぞう
封筒
封筒
封筒 和紙墨筆
和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒のみ。
封筒のみ。
叔父様東京より御帰りの時話した手帖と、日清戦争の江戸(錦)絵、日清戦争幻灯絵などを、贈っていただき
たく、もし叔父様が四月に来るなれば手帖をお持ち下されたしこと。
日清事件の本を受贈されたい。
此方も小島にてもかわりなく、広吉も兄上の居た時と変らずつとめ居り御安心下されたし 私も成る丈け働き居
り、内の事は御心配なく御身を大切に御勉強なさるべし云々。
先日は御手紙を下され難有 兄上様首尾よく上京の由賀上 私も伯母様に案内人を頼み仙台へ参り青葉城
の鎮台始め仙台市内見物 先達御依頼の鮭を買い付けたので二三日中には手配して発送の予定。
巻紙墨筆
身内のことについて
封筒 巻紙墨筆
6月6日より8日に至る宗教大会に関して「ジャパン・タイムス」は「宗教大会を計画的に混乱せしめしシレ者あり
そは柴田徳次郎なり」と報しそれに対する反駁を書いたもの 誤解に満ちた記事の訂正を掲載することを要
求。
巻紙墨筆
村部君の一件有無の義は判然せざる哉に聞く云々 高木御学兄の石川光親君が昨年12月下旬職を辞し大
志を希図し上京のことなど。
封筒 巻紙墨筆
四竈が学校に入学し勉励しているのは誠に目出度いことであること 5月上旬に田中が賜暇ということで帰村し
たが出立の際は犯罪者が逃走する様であったこと 郷里の官界の様子 自分はまもなく帰省するが今回は郷
里の父兄より自分の一身上に付き協議の次第が有ると催促されてのことであること。
封筒 巻紙と罫紙墨筆 後藤が多忙を極め面会が叶わない時は和子夫人が代わりに面会、そのお礼及び「問題提供者」なる文章の
送り状。
封筒 巻紙墨筆
愛国婦人会の改革事業のこと。
巻紙墨筆
「黎明会の残党深く先生をねらひ居候由し、何卒十分の御注意切にて願上候」再婚に応じなくて大安に 聖
女をもっと見るべきであるということ。
封筒 巻紙墨筆
帰京途中の事について 箱根湯本に帰途連泊とのこと。
127
第三者 勝田主計(中村是公宛) しょうだかずえ/なかむら (明治)11月2日
これきみ
巻紙墨筆
第三者 杉梅三郎(増田次郎宛) すぎうめさぶろう/ますだ 2010/11/8
じろう
第三者 杉山茂丸(愛久澤直哉) すぎやましげまる/あくざ (明治35・36年)8月15日
わなおや
第三者 杉山茂丸(中村是公宛) すぎやましげまる/なか (明治39年)11月27日
むらこれきみ
第三者 鈴木金治(四竈彦四郎 すずききんじ/しかまひ 明治25年11月23日
宛)
こしろう
第三者 鈴木金治(四竈彦四郎 すずききんじ/しかまひ 明治26年2月9日
宛)
こしろう
第三者 鈴木金治(四竈彦四郎 すずききんじ/しかまひ 明治27年1月16日
宛)
こしろう
第三者 鈴木金治・小野寺甚七・ すずききんじ・おのでら 明治26年10月14日
吉川□□(四竈彦四郎 じんしち・よしかわ/しか
宛)
まひこしろう
第三者 鈴木直四郎(四竈彦四 すずきなおしろう/しかま (明治)年11月26日
郎宛)
ひこしろう
第三者 鈴木松四郎(四竈彦四 すずきなおしろう/しかま (明治28年7月27日)
郎宛)
ひこしろう
第三者 清野長太郎(菊池忠三 せいのちょうたろう/きく 2010/3/8
郎宛)
ちちゅうざぶろう
第三者 清野長太郎(中村是公 せいのちょうたろう/なか 1907/9/2
宛)
むらこれきみ
罫紙ペン筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 和紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
罫紙ペン筆
第三者 曽禰荒助(児玉源太郎 そねあらすけ/こだまげ (明治32年)9月25日
宛)
んたろう
第三者 高野長運(後藤初勢宛) たかのちょううん(たかの 2010/10/24
きくじゅ)/ごとうはつせ
第三者 高橋(後藤和子宛) たかはし/ごとうかずこ (1907年)9月28日
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
第三者
第三者
第三者
(明治26年?)12月11日
明治28年2月10日
(明治28)年2月16日
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
(明治28年)6月4日
封筒 巻紙墨筆
達谷窟信敬(四竈彦四
郎宛)
達谷窟信敬(四竈彦四
郎宛)
達谷窟信敬(四竈彦四
郎宛)
第三者 達谷窟信敬(四竈彦四
郎宛)
たがやしんけい/しかま
ひこしろう
たがやしんけい/しかま
ひこしろう
たがやしんけい/しかま
ひこしろう
たがやしんけい/しかま
ひこしろう
封筒 便箋ペン筆
128
台湾大租権賠償のため、公債証書の価格の件は台湾の事情から極めて困難である 一時賜金とする公債の
時価と大租買収のための公債の時価との間にある理由が見留られず、なお一時賜金公債の価格を下すとの
説もあるが実行できない次官らは台湾事情を察しているが右の次第で90円にて実行云々。
後藤夫人の依頼により後藤市蔵の英語教師を探したので、教師との面会の件に付き夫人と相談してほしい旨
依頼。
台湾民報社は種々の人物の集合体にして主掌野田兵次郎は小生の学友感激性にして他より利用され易く
云々。
満鉄の設立以下、自分の手下の寄生虫が八方より集って来て、このままでは自分の生存が覚束ないのでこれ
を駆除するつもりであるが、やむをえない分については幾分の配慮を願いたいとのこと。
一関へ用の趣きにて参り同所より汽車にて南部地方へ参り、盛岡より宮古街道に日路の道中をなし、川井村
に至る 十八日着の郵便にて承知仕り、宮古裁判所へ奉職相成り候様子承知仕り、右に付村長始め私も吉次
に吉川ヒデ殿への紙面にて巨細承り候云々。
各御老人の御世話を受けられている御様子承知大慶 当分はいかなる職についているのか御報知を乞う 旅
費の金、未だ送金せず申し訳なき次第云々 吉川家の一件は未だ落着せず云々。
近所勘一郎義上京の際御紙面ヲ投じ匕下れ候拝見致候云々 身辺のことを多く語るほかに役場新築、旅費
など。
麻布東町の後藤方に何年位の御勤仕の見込かまたは転職の御見込みか、御安否も伺われず等閑に打過ぎ
たことは情けを知らない者と思われるのは必定であるが貴殿御帰宅なれば此上なく御安心と察する 旧6月24
日タミ子男子無事出産のことなど。
今回初学御手紙有難く与四郎も大いに喜び貴意の如く今より勉強 拙者は来春出京するかも知れない云々。
御帰国の処多忙之餘リ遂に御見舞も不仕遺憾 然に今度広島陸軍検疫部御奉職の事誠に芽出賀候云々
返事を出していないのわびと広島陸軍臨時検疫部奉職を祝賀。
松下・川崎・中橋・土井・藤田氏に評議員の辞令と16日の案内状発送 高田氏より案内状の用紙 評議員の
辞令用紙のこと。
①「七月二十二日付コッホ氏来翰摘録(訳文)」 ②「七月廿日コッホ氏来翰(訳文)」高橋宛 ③「七月十三日
付コッホ氏来翰(訳文)」高橋宛 ④「電文写」新聞が日米関係の困難を惹起せしめ当地人心甚だ不安 ⑤大
蔵省理財局長勝田主計発 南鉄総裁後藤新平宛通牒⑥清野長太郎発中村副総裁事務取扱宛通牒 支文
第六三号
新渡戸稲造を台湾総督府に応聘のことにつき新渡戸書簡を別紙として転送のこと。
着替の衣服、大至急買求め御送付下されたし。
後藤満鉄総裁は去る24日に出発して帰朝し今日宮嶋より東京に向かっている 宮嶋では伊藤博文と会見した
こと 今度帰満後には満州の施設をさらに一歩進めるであろうこと 自分は一書記であるが後藤の苦心の尋常
ではないことは察していること、台湾と違って行政権と会社との間に一致しないものがあることなど。
照井の事件に付き協力依頼のこと。
封筒のみ。
先日は棚瀬氏のおかげで小僧等の督責をまぬがれたこと、兼て情願している件について後藤の意見はどうな
のか教えてほしいこと、支那人張滋昉の住所を教えてほしいこと、次の日曜日に会いたいと思うが都合はどう
かということなど。
広島の臨時陸軍検疫部出張所に詰めている四竃に送りたる書状 維新の敗戦を振り返り時代の変化への感
想を記している。
第三者 達谷窟信敬(四竈彦四
郎宛)
第三者 タケトミ(鶴見祐輔宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(菊池忠三郎
宛)
第三者 龍居頼三(後藤彦七宛)
たがやしんけい/しかま (明治)9月11日
ひこしろう
たけとみ/つるみゆうす (1926年)6月22日
け
たついらいぞう/きくち (大正5年)3月8日
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/きくち 2010/6/5
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/きくち 22日
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/きくち 2010/1/8
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/きくち 2010/3/15
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/きくち 5日
ちゅうざぶろう
たついらいぞう/ごとうひ (大正15年)9月15日
こしち
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
たついらいぞう/ごとうひ (昭和2年)2月9日
こしち
たついらいぞう/ごとうひ (昭和2年)7月5日
こしち
たついらいぞう/ごとうひ (昭和2年)7月18日
こしち
たついらいぞう/ごとうひ (昭和2年)7月28日
こしち
たついらいぞう/ごとうひ (昭和)3月11日
こしち
たついらいぞう/なかむ (明治)
らこれきみ
封筒 便箋墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆
たなかせいじろう/ごとう 2010/12/20
いちぞう
たなかせいじろう/たじま (大正)12年11月10日
たつすけ
たはらていじろう/たつ (明治45年)6月24日
いらいぞう
たはらていじろう/たつ 1917/7/30
いらいぞう
たはらていじろう/たつ (大正7年)1月30日
いらいぞう
ちばさんぺい/しかまひ (明治27年12月13日)
こしろう
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
罫紙ペン筆
第三者
第三者
第三者
第三者
龍居頼三(後藤彦七宛)
龍居頼三(後藤彦七宛)
龍居頼三(後藤彦七宛)
龍居頼三(後藤彦七宛)
龍居頼三(後藤彦七宛)
龍居頼三(中村是公宛)
田中清次郎(後藤一蔵
宛)
田中清次郎(田島達介
宛)
田原禎次郎(龍居頼三
宛)
田原禎次郎(龍居頼三
宛)
第三者 田原禎次郎(龍居頼三
宛)
第三者 千葉三平(四竈彦四郎
宛)
封筒 巻紙墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 罫紙ペン筆
罫紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 電報
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 罫紙ペン筆
封筒 巻紙墨筆
129
至急一時帰県することになったので委曲は棚瀬氏に託したこと 11月迄には出京するので兼て願置いた事を
後藤に依頼する件に尽力してほしいこと、台湾渡航の可否について責任問題の件について。
三井物産桑港支店に勤務する丹治氏に縁談があり、その人物について鶴見より問合わせがあったことに対す
る回答。
高木医学士紹介 日露協会の仕事の進捗状況について 別紙として中国の総督衛門において保安の方法に
関する報告など。
後藤の申付に努力していることなど個人的な近況報告。
葬式には出席するつもりで、龍居自身の今後の予定を述べている。
後藤が永年引立をしていた故沢井市造公伝を台湾日々の高橋が書くこととなり、200ページほどの小冊子で
ある が、ついては後藤に題字をお願いしている。
"Sincerely Congratulate you upon your new appointment Goto"新たな任命をお慶び申し上げます 後藤
築地を一訪したことなどを報告している 問題の件につき御含み置きを依頼している。
過刻の電話にて例の歯科医より八幡宮へ参詣に出かけたこと 葛野先生の件、東北より帰京の頃参上するこ
と 茂原商工会有志と相談した 1回の講演を願い内竟を伺うように申し来たので現在東北旅行中のこと 洋
岡は満州日日新聞社より満鉄へ移ったことなどについて 両国ー茂原間は汽車で2時間20分程。
題字についての今後の予定を報告している。
ドイツ語のゼシール・エンジンは英語のディーゼルエンジンに相当すると考えられるので「デーセル」に訂正す
るようにお願いしている 独逸での船号のことについての所感を述べている。
政治の倫理化運動についての所感。
後藤新平の様子を尋ね、もし何か御用があれば参上することを伝えている。
題字は「霊威神佑」の採用願はしく候 本日お礼参上するつもりであると述べている。
印刷会社の斉藤章達が大連へ向うので工場までの道路補修をお願いしている 後藤新平より中村是公巡回
帰着の上協議報知すべきことを言っているので何卒御指揮奉願上候 満州の風景及び都督府・会社首脳の
肖像について 安斉氏より別紙が送られてきたので小生も返事を出して本人を呼び寄せたことなど。
蜜柑2箱のうち6号の方が美味かった、小林先生の薬を引き続き服用。
「支那」広東省高為府含油頁岩に関する書類を入手したので中村是公氏にも回付を願う。
後藤新平の御揮毫の取計に対する感謝 後藤新平の大連訪問に対する歓迎会の計画について。
段祺瑞政権内部において南方の民党系を入れずに北洋系官僚に偏っているため不統一が生している 林公
使は不干渉主義の解釈が変じ「援助は干渉にあらず」との認識を示し日本は段内閣を援助するべきだと談話
している 西原亀三の借款供与の状況について。
田原禎次郎が「北京新報」発行に踏み切った経緯と発行をめぐる外務省との確執、設備に投資するための資
金不足のことを述べた上で後藤新平に経済的援助を受けたいとの希望を述べる。
小生無聊に苦しみ感ずる所ありて運動を試みんとす 新聞広告に「美術工芸会」「高松貿易商会」無職業にて
も適当な業主を授けるとあるが、ある人が束修を取るのみにて永く職士として雇うというのはウソであるところも
あるという 実否を確かめたいので御探聞をお願いしたい。
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
忠一(後藤初勢・和子
宛)
津田素彦(愛久澤直哉
宛)
鶴見俊輔(鶴見祐輔宛)
鶴見祐輔(小野法順宛)
鶴見祐輔(後藤一蔵宛)
帝国貯蓄銀行飯倉支店
(後藤初勢宛)
東城芳之助(四竈彦四
郎宛)
東城芳之助(四竈彦四
郎宛)
東萍(四竈彦四郎宛)
東萍(四竈彦四郎宛)
東萍(四竈彦四郎宛)
戸板千代(後藤初勢宛)
戸坂よね・万六(後藤初
勢宛)
富沢覚郎(後藤初勢宛)
富沢正太郎(後藤一蔵
宛)
富沢正太郎(後藤初勢
宛)
富沢正太郎(後藤初勢
宛)
富沢正太郎(後藤初瀬・
彦七宛)
なを母(後藤初勢宛)
永井柳太郎(菊池忠三
郎宛)
長尾ナミ子(後藤和子
宛)
長尾半平(菊池秘書官
宛)
長尾半平(後藤一蔵宛)
ちゅういち/ごとうはつ 2010/5/13
せ・ごとうかずこ
つだもとひこ/あくざわな 明治45年3月20、23日
おや
つるみしゅんすけ/つる (昭和2年)4月25日
みゆうすけ
つるみゆうすけ/おのほ (大正15年8月14日)
うじゅん
つるみゆうすけ/ごとうい 1912/6/26
ちぞう
ていこくちょちくぎんこう 1914/6/15
いいくらしてん/ごとうは
つせ
とうじょうよしのすけ/しか (明治26年)1月27日
まひこしろう
とうじょうよしのすけ/しか (明治26年)5月21日
まひこしろう
とうへい/しかまひこしろ 明治26年12月12日
う
とうへい/しかまひこしろ (明治27年1月)10日
う
とうへい/しかまひこしろ (明治27年3月20日)
う
とさかちよ/ごとうはつせ 2010/6/27
とさかよね・とさかまんろ (明治)22年4月13日
く/ごとうはつせ
とみざわかくろう/ごとう (明治32年)5月4日
はつせ
とみざわしょうたろう/ご (大正12年)9月17日
とういちぞう
とみざわしょうたろう/ご (明治26年)8月17日
とうはつせ
とみざわしょうたろう/ご 2010/10/28
とうはつせ
とみざわしょうたろう/ご 2010/12/24
とうはつせ・ごとうひこし
ち
なおぼ/ごとうはつせ
ながいりゅうたろう/きく (大正8年)8月8日
ちちゅうざぶろう
ながおなみこ/ごとうか (明治44年11月23日)
ずこ
ながおはんぺい/きくち (1月)26日
ひしょかん・きくちちゅう
ざぶろう
ながおはんぺい/ごとう 2010/2/12
いちぞう
巻紙墨筆
先日香料として金子を賜わったことに対する礼状。
便箋ペン筆
林数振軍と陳広萼軍の内偵について。
封筒 便箋ペン筆 和紙 子息の俊輔から父への手紙。
封筒 電報 校正原稿 校正を待つようにとの電報送達紙 「普選準備会の主旨」の校正原稿同封。
レターペーパーペン筆 ニューヨークに於ける近況及び大統領候補者予選前の共和・民主両党の様子。
封筒 洋紙
当座勘定利息計算書。
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
封筒 巻紙墨筆
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
半紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
1月9日付四竃よりの書翰に対する返書 日曜会は本月中を以て新年宴会として諸事打合せ可仕事に致し候
得も本月は陰暦正月に接近の故に会費の不揃云々。
無沙汰の詫び及び近況報告。
封筒のみ。
(意味不明の自己回想的文章 以下の見出しあり)「慨又慨」「失望又落胆」「代議士選挙に関して東萍が決
心」(最後に「余が為めに一大案度□手を挙げて第五区選挙后日の吉報を俊て」とある) 是より雑報。
小生又出京を試みる 来る22日、23日には芝愛宕下の多賀におもむき兄と相談したい 棚瀬兄へは当分ダン
マリのこと。
まゆ生糸などの相場などによる生活状況の実感など。
千代の儀種々を仰せ下され拝承 今般先生様・奥様台湾へ御渡り云々。
御依頼のもの送付につき受納ください、いずれ委細は着京の折申上ることなど。
台北から出した、関東大震災の見舞状。
頼母子の件は家賃を以て引き続き懸け金をする様過日坂野氏宅で咄しがあった云々。
彦七様とは別紙にて申上候云々。
前沢遠藤など郷里における金銭周旋の動静報告。
和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
絵葉書ペン筆
封筒 巻紙墨筆
娘御陰様にて首尾よく入学試験に及第、早速青山病院へ入院、ついては保証人が必要につき誰か御一人お
願いしたい。
先日大隈が国府津に避暑にいくと伝えたが、時局の変化に備えるため見送ったこと、後日確定したら連絡す
ること。
旅行先(宮島)よりのあいさつ。
現業員の教訓となるべき語を選んで揮毫を願いたいとの依頼状。
封筒 巻紙墨筆
令嬢の病気見舞状、見舞品を増呈している。
130
第三者 長尾半平(後藤和子宛) ながおはんぺい/ごとう (明治)40年1月17日
かずこ
第三者 長尾半平(後藤和子宛) ながおはんぺい/ごとう 2010/1/22
かずこ
第三者 長尾半平(後藤和子宛) ながおはんぺい/ごとう 2010/10/2
かずこ
第三者 長尾半平(安場保健宛) ながおはんぺい/やす (大正14年6月13日)
ばやすたけ
第三者 中川虎之助(杉山茂丸 なかがわとらのすけ/す (明治33年5月)10日
宛)
ぎやましげまる
第三者 中川虎之助(杉山茂丸 なかがわとらのすけ/す (明治33年5月12日)
宛)
ぎやましげまる
第三者 中川虎之助(杉山茂丸 なかがわとらのすけ/す 2010/5/10
宛)
ぎやましげまる
第三者 中川虎之助(杉山茂丸 なかがわとらのすけ/す 2010/5/10
宛)
ぎやましげまる
第三者 長島隆二(田島秘書官 ながしまりゅうじ/たじま 2010/11/6
宛)
みちじ
第三者 永田秀次郎(田島秘書 ながたひでじろう/ない (大正12年)9月5日
官宛)
むしょうたじまひしょかん
第三者
第三者
第三者
中浜東一郎(長与専斎
宛)
中村利恭(今西留太郎
宛)
長与称吉(長与専斎宛)
なかはまとういちろう/な 2010/2/2
がよせんさい
なかむらとしやす/いま (大正3年)11月1日
にしとめたろう
ながよしょうきち/ながよ (明治26年)2月19日
せんさい
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
長与専斎(北里柴三郎
宛)
新渡戸稲造(後藤和子
宛)
新渡戸メアリ(後藤和子
宛)
新渡戸メアリ(後藤和子
宛)
新渡戸メアリ(後藤和子
宛)
新渡戸メアリ(後藤和子
宛)
新渡戸メアリ(後藤和子
宛)
沼田ひさの(後藤和子
宛)
沼波彦七(後藤十右衛
門宛)
ながよせんさい/きたざと (明治24年)5月7日
しばさぶろう
にとべいなぞう/ごとうか 1910/3/28
ずこ
にとべめあり/ごとうかず 1906/4/11
こ
にとべめあり/ごとうかず 1906/4/12
こ
にとべめあり/ごとうかず 1908/12/30
こ
にとべめあり/ごとうかず (明治42年3月11日)
こ
にとべめあり/ごとうかず 1909/10/11
こ
ぬまたひさの/ごとうかず (明治40年)4月17日
こ
ぬまなみひこしち(ごとう 明治14年1月(3日)
ひこしち)/ごとうじゅうえ
もん
巻紙墨筆
後藤の台湾以来取り扱った主な事業の報告 打狗貧民の家屋建築工事費不足を補うため各地で活動写真の
観覧を中心とする音楽会の開催、総収入4700余円を得たこと、彰化で得た収入の半額は天刑病収容施設の
基金としたとなど 打狗貧民家屋建築工事のことなど。
巻紙墨筆
(後藤和子が会長を勤める婦人慈善会の活動について)慈善会の活動は年末年始のため一旦嘉義で引上げ
るなど。
封筒 巻紙墨筆
家内がホッペタの落ちそうなものといってとどけるのをおしがるほどの果物をおとどけしますとのこと。
封筒 便箋ペン筆 電報 写真と送付されたことへの礼状、紀州に滞在している後藤子爵へは自分が礼状を引受けすでに発送した 別
紙(英文の手紙)は手許にあった書類と共に然るべく御取計下され度し。
封筒 巻紙墨筆
糖業機械購入に際しての山田の働きに対する報酬に関して同人との交渉の様子及びその中における自分の
立場。
封筒 巻紙墨筆
山田より旅費の欠乏について臨時に杉山へ協議して金策をしてほしいと言ってきたが自分も持合せが無いの
で杉山へ直接本人より依頼する様に申し入れた旨。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
雑誌復興の白井実に、拝願の御高配を依頼。
罫紙ペン筆
後藤大臣の直接の下命により貨物自動車40台乗用自動車20台オートバイ10台の徴用を知事に請求した 各
区に於て学校、寺院または個人の住宅に罹災市民を収容しているが麻布区では収容していない住宅も多い
ので各市会議員を市震災救済委員に嘱託し明日午後召集に極力方法を講ずるつもりである。
巻紙墨筆
コホの結核治療薬をめぐる中央衛生会における石黒と北里との対立を記し、長与へ次回の出席を促したも
の。
封筒 巻紙墨筆
金80円(9、10、11、12月の4ヶ月分)を銀行為替で受領した件と、和子夫人の病状見舞。
封筒 便箋墨筆
北里博士が勲三等に叙せられたことは、学問の価値を知らない無学の政府を考えていたが、意外なことであ
ること、博士がこの特遇を受けることは当然のことである 後藤が衛生局長になったことはこれまた賀すべき祝う
ことである 生理化学などドイツにおける学業について報告。
罫紙墨筆
専門病院設立について反対論もあり、孤立しながらも奮闘しているが、北里の帰国後に具体化したい、ドイツ
からの結核液の輸入について4月25日に60瓶届いたことなど。
封筒
封筒のみ。
封筒 便箋ペン筆 名刺 同封名刺 慶応義塾法律学士 萩野萬之助
便箋ペン筆
後藤の昇進を祝す。
封筒 便箋ペン筆
新渡戸の紹介した家庭教師Harthoneの面接希望日について
封筒 便箋ペン筆
晩餐会招待にたいする礼状。
封筒 便箋ペン筆
Harthoneが一蔵の家庭教師に是非なりたいと言っていること。
巻紙墨筆
過日園遊会招待および紀念品拝領に関する礼状 総裁近々御渡連云々。
封筒
封筒のみ。
131
第三者 野村古梅(四竈彦四郎 のむらこばい/しかまひ (明治27年7月31日)
宛)
こしろう
第三者 野村古梅(四竈彦四郎 のむらこばい/しかまひ (明治27年)8月10日
宛)
こしろう
第三者 長谷川泰(長与専斎宛) はせがわたい
明治28年1月17日
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
長谷川泰(石黒忠悳宛)
原十目吉(後藤和子・初
勢宛)
原十目吉(後藤初勢宛)
原十目吉(後藤初勢宛)
原十目吉(後藤利恵・初
勢宛)
坂西利八郎(龍居頼三
宛)
はせがわたい/いしぐろ (明治26年)6月16日
ただのり
はらとめきち/ごとうかず 2010/5/15
こ・ごとうはつせ
はらとめきち/ごとうはつ (明治32年)5月31日
せ
はらとめきち/ごとうはつ (明治32年6月29日)
せ
はらとめきち/ごとうりえ・ (明治32年)5月11日
ごとうはつせ
ばんざいりはちろう/た 2010/11/11
ついらいぞう
第三者 坂西利八郎(龍居頼三
宛)
第三者 坂西利八郎(龍居頼三
宛)
第三者 坂西利八郎(龍居頼三
宛)
ばんざいりはちろう/た (明治45年)6月21日
ついらいぞう
ばんざいりはちろう/た (大正5年11月5日)
ついらいぞう
ばんざいりはちろう/た (大正7年5月18日)
ついらいぞう
第三者 久枝(後藤初勢宛)
第三者 一松謙太郎(後藤初勢・
和子宛)
第三者 平田東助(曽根静夫宛)
ひさえ/ごとうはつせ
ひとまつけんたろう/ごと 2010/10/1
うはつせ・ごとうかずこ
ひらたとうすけ/そねし (明治30年)12月4日
ずお
第三者 藤田伝三郎(龍居頼三 ふじたでんざぶろう/た 2010/7/12
宛)
ついらいぞう
第三者 藤原咲平(鶴見祐輔宛) ふじわらさくへい/つる (大正12年9月)
みゆうすけ
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう (明治32年)10月9日
はつせ
封筒 和紙墨筆
封筒 和紙墨筆
四竃より申越のあった金員については自分はどうしても工面できなかったので許してほしいこと、棚瀬の所へ
手紙を出す時には自分の手許不如意の様子を伝えてほしいこと。
何度か書面をもらったのに返書を出さなかったことについての詫び、自分の方は理事が不在なので何時でも
遊びに来てほしいこと、御申越の拝借物は幸い手元にあるので送付するので受取ってほしいこと。
蒟蒻版印刷物
中央衛生会会長長与専斎宛中央衛生会委員長谷川泰建議書(同じもの2綴りあり。蒟蒻版)、戦地よりの帰還
者が持ち帰る赤痢が大流行する可能性あり、厳法の制定が必要とのこと。
巻紙墨筆
今朝面会の節お聞きした内務省の医会設立計画には驚いた これを計画した衛生局長の手腕はすばらし
い。
巻紙墨筆
小生彦七様と久留米まで出張、明日は同道 神戸に向う予定 安場老台御病気は如何、小生は本日水天宮
に男爵の健康を祈った云々。
巻紙墨筆
阿川氏の帰京、彦七の謹慎、瓜生氏の樟脳問題について。
封筒 罫紙墨筆
今回賀田氏の手代となり台東に到着、開墾事業に従事を目的、彦七の件恐縮の至。
封筒 巻紙墨筆
彦七様と同道し門司にて奥様と面会 病気重き由。
巻紙墨筆
「別冊の甲乙文書を送った。甲は自分の案、乙は土肥原による起稿。閲覧後は男爵の高閲を請う。ただし、他
人へお示しなきよう、くれぐれも依頼する。男爵にもその旨伝えるように。実は、小生の報告の写しが、他人の
手をへて、とくに支那人(在日本)に漏れたとの情報もあり、大いに閉口している」云々。
封筒 巻紙墨筆
兪々無事御帰朝なされ又々御遠征の準備に御多忙の事とお察しします 京城において分かれ翌日総督と同
車平壌に赴き一寸見物し副総裁と同車旅順迄御伴致候 京城にて御願申上候山県公之御手亟云々。
封筒 巻紙墨筆
新内閣成立を喜ぶ。両閣下が責任ある位置に就かれた以上は、小生としても責任ある具体的な意見を開陳
すべく心得ている。なお、支那の件は、つくづく嫌になってはいるが、首尾良く昇進した際には、前廉に御免
蒙りたし、云々。
封筒 巻紙墨筆
日中軍事協商に関する会議で阪西が書記・通弁・翻訳を務めたことを伝えその間に南北協商問題が浮上し外
交調査会においても元老や外務省と議論があったこと、今回の南北妥協勧告は己惚れから起きたのでは、唐
紹儀や伍建芳などの近況 露独講和条約締結後のヨーロッパ東方は独墺が有利云々。
巻紙墨筆
御老人様御帰京になったまま滞留と承り一同心配 今回はいつもより御到留も長引き台北の奥様、御子様もさ
ぞ御さみしいことと思う云々。
巻紙墨筆
出立の際は一方ならず御厚情をたまわり感謝 18日出立、20日長崎に着き種々奔走したが骨折損の労れもう
け。28日神戸に戻り金子氏に面会したところ同氏の隣家を小生の住宅に決めたとのことで30日に急ぎ引き
移った云々。
封筒 巻紙墨筆
参考のため別冊呈上 本案議決は条約上差支なしとの意味に止まる実施範囲は閣議決定による 小生として
旧慣によるを得ないものは条理によるのがよい 刑法・刑事訴訟法は画一を要する 台湾に法典を敷くにあ
たっては条約上必要の点に止め住民相互関係に旧慣により委員長へ建議。
巻紙墨筆
過般貴地を通行した時には御厚情を受けたが自分は客月22日、無事帰任したので安心してほしいこと 以来
公館の設備等に忙殺されていたがやっと落付いてきたこと、後藤によろしく伝えておいてほしいこと。
封筒 罫紙ペン筆 新聞 大震災における朝鮮人事件は朝鮮統治にも関連して天災以上の不祥事と思われること、こうした事件がやが
切抜
て北海道までも伝播するのではないかと心痛していること、「下野新聞」によれば事件は官憲の煽動によるもの
と見えること、此際まだ事件の起きていない地方に対して朝鮮人の保護を命令してほしい云々。
封筒 和紙墨筆
申越しのあった戸籍謄本下付請求の件は別紙にて差上げること 謄本は紛失しないようにしてほしいこと 初
勢の水沢帰郷のことについてなど。
132
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
2010/6/25
2010/6/25
巻紙墨筆
巻紙墨筆
2010/8/20
巻紙墨筆
2010/10/21
巻紙墨筆
2010/11/21
巻紙墨筆
第三者 古沢文蔵(後藤初勢宛) ふるさわぶんぞう/ごとう
はつせ
第三者 服部(四竈彦四郎宛) はっとり/しかまひこしろ 2010/4/8
う
第三者 正仁(杉山茂丸宛) まさひと/すぎやましげま 2010/7/10
る
第三者 益(後藤利恵・初勢・和 ます/ごとうりえ・ごとうは 2010/1/5
子宛)
つせ・ごとうかずこ
第三者 増田帰寧(後藤初勢宛) ますだきねい/ごとうは (明治33年)7月1日
つせ
第三者 増田次郎(菊池忠三郎 ますだじろう/きくちちゅ 1920/5/24
宛)
うざぶろう
第三者 増田次郎(後藤和子宛) ますだじろう/ごとうかず 2010/5/1
こ
第三者 増田次郎(後藤初瀬宛) ますだじろう/ごとうはつ (明治39年)8月22日
せ
第三者 松浦玉圃(四竈彦四郎 まつうらぎょくほ/しかま (明治28年)7月7日
宛)
ひこしろう
第三者 松岡(後藤初勢宛) まつおか/ごとうはつせ 2010/9/27
第三者 松岡義□(後藤初勢宛) まつおか/ごとうはつせ 明治24年4月30日
第三者 松田武一郎(中村是公 まつだたけいちろう/な (明治40年)7月7日
宛)
かむらこれきみ
第三者 松田武一郎(中村是公 まつだたけいちろう/な (明治41年)7月25日
宛)
かむらこれきみ
第三者 松原日慈(後藤初勢宛) まつばらにちじ/ごとうは (大正3年)2月26日
つせ
巻紙墨筆
封筒 巻紙朱筆
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒
巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
葉書墨筆
巻紙墨筆
巻紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 罫紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
133
正員氏過般京都にて試験を受け首尾よく及第医術開業免状を下付されたこと。
西村輔三より来書、来月7月7、8日ころ愛子と好徳結婚式挙行につき博覧会見物旁々来阪してくれとのこと
後藤長官も当日来阪するとのことで万障繰り合せたいが都合つかず、礼儀として50円送った云々 常雄の失
策、連帯責任の保証人となったことなど。
仙台より御借用の1500円は御姉様、青山様より借用の分などにより返済取りきめ この度御持参の500円余は
各医師への謝礼・看護婦への心付などのため残金 わずかに100余円 本年の収入期までには500円以上の
御金借が必要。
熱海御入浴随分永く、頃日御帰京のよし御手紙にて承知 坂野様方御出入の件、目下御用向にて御上京の
由、御宅に御滞在中なれば御姉様より直接御相談下され度 忠太上京の件、45日中に上京参邸させる。
先日上京の際は丸々御厄介になり感謝 御依頼の件は小生の愚見のように横浜生糸の売買は取り極らず、
引き続き米金借用を申し込んでいるが間に合わず 15000円という大枚にはとても及ばないで一時見合せ 此
頃は農工銀行組織につき株券募集にて料米も出盛りとなり金員はますます逼迫云々。
先生未だ御渡台なく御滞京の由、目下内閣変動にて御繁忙と拝察 常雄よりの来状によると御祖母様死んだ
藤子より病気が感染した可能性があるとのことにて驚愕 下女を探す件も当分見送り。
令閏ご病気の処、養生叶わずご逝去の由、驚愕のみ。ご心痛拝察。数日間ほど引篭らるるも、さしたる差支も
なし。後事はゆっくり御処置されるように。まずはお悔み申しあげるしだい。四月一八日 服部拝 四竃兄
杉山茂丸より委嘱されたが昨今の時態から工夫の途がないと伝えている。
新年祝詞 せんそふと御芽出度事にて御地はさぞかし賑々しき事ならん 旧年は信人の事につきいろいろと
お世話になり誠に有難し云々。
日々天気よく続き誠に心地よき時節に御座候へ共方々水に乏しき為貧農などは田植に困難仕候処幸にも此
頃之降雨にて水も充分につき農民も非常に悦居候 過日彦七殿方より台湾御着後御手紙有之候処何之御
変りも無之由誠に大誠之至りと存居候云々。
封筒のみ。
田畑健三御令息端午の御祝儀として飾鎧兜一領購入発送、御洋行御土産物も購入、送ったので御了知下さ
れたし 明日午前9時発神戸にて中食、それより乗込み午后2時出帆の筈。
滞京中の御礼 布袋の掛物は杉山様へ贈るものの由にてすでに閣下より御手紙を出した趣、為替金之事奥
様は下関よりにて心当なし 大連方面なれば心当りありとの由この件は下関にて再調査して確認すべしと申さ
れているので御承引願いたし。
時計の残金を落手した旨。
在京中お世話になった御礼及び夫婦共々病気にてお礼が遅れたことへのお詫び。
生活困難につき金10円ばかり借用したい。
煉瓦製造人土地事件は佐藤少佐、萩原領事の配慮にて今日は片付く見込み 当地守備隊兵舎敷地につき、
上田参謀来抗し坑長宿舎の東方斜面に変更したいとの申入れあり 立坑火災の際の死体は多分明日ころより
取揚げ 大八木氏の件、技術上事務上常識に反すること多く少しも目が離せない等。
前総裁入閣の事情を詳細御洩し下され感謝 一昨日撫順へ帰坑、留守中病院の設計案岸博士等の注文が
あり、当初予算を超えたが速に着手することにした 6月分石炭原価2円に下ったのは自ら出炭増加した結果。
当地製造の氷豆腐1箱小包にて送る御笑納されたし 老納も存生中に一度上京、所々見物したく都合よく実
現できれば其節は伺候 拝顔したし。
第三者
第三者
第三者
三浦末吉(四竈彦四郎
宛)
三浦比達(四竈彦四郎
宛)
三浦比達(四竈彦四郎
宛)
第三者 三輪規(四竈彦四郎宛)
みうらすえきち/しかまひ (明治27年)11月25日
こしろう
みうらひたつ/しかまひ 明治26年1月22日
こしろう
みうらひたつ/しかまひ (明治)27年12月14日
こしろう
みわただし/しかまひこ 明治(28)年9月6日
しろう
第三者 持地えい(後藤和子宛) もちじえい/ごとうかずこ (明治40年?)4月28日
第三者 茂世(後藤初勢宛) もよ/ごとうはつせ
2010/1/11
第三者 森孝三(菊池忠三郎宛) もりこうぞう/きくちちゅう (大正2年)9月6日
ざぶろう
第三者 森孝三(後藤一蔵宛) もりこうぞう/ごとういちぞ 2010/2/16
う
第三者 森孝三(松木幹一郎宛) もりこうぞう/まつきかん (大正12年)8月20日
いちろう
第三者 守屋善兵衛(後藤一蔵 もりやぜんべえ/ごとうい (大正10年)12月2日
宛)
ちぞう
第三者 守屋善兵衛(後藤一蔵 もりやぜんべえ/ごとうい (大正11年)8月1日
宛)
ちぞう
第三者 靖(後藤家宛)
やすし/ごとう
28日
第三者 安場保和(徳富猪一郎・ やすばやすかず/とくと (明治29年)6月24日
徳富一敬宛)
みいいちろう・とくとみか
ずたか・とくとみそほう
第三者 柳(御老人・姉様・和子 やなぎ/ごとうはつせ 2010/1/5
宛)
第三者 山県有朋(杉山茂丸宛) やまがたありとも/すぎや 2010/9/1
ましげまる
第三者 山県有朋(田中光顕宛) やまがたありとも/たなか (大正6)年6月11日
みつあき
第三者 山田□輔(四竈彦四郎 やまだ/しかまひこしろう (明治)12月1日
宛)
第三者 山田定通(四竈彦四郎 やまださだみち/しかま (明治28年)8月25日
宛)
ひこしろう
第三者 山根虎臣(佐藤安之助 やまねとらおみ/さとうや (明治40年9月)17日
宛)
のすけ
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
封筒 巻紙墨筆 和紙
後藤五位様公判一件へ如何相成候也 一日も早く無罪の言渡しあらんことを祈り候。
時候の挨拶 孫の正親に書物を送ってくれた事に対する謝礼、体に気をつけて勉強してほしいこと、舞草の
太茂右衛門が死去したこと 中尊寺の観知房で火事があったこと。
自分も和田も舞竹館の越も無事であるので安心してほしいこと 先般四竃が立寄った際の土産物に対する礼
その後に三浦を親方へも厚志を送ってくれたことへの礼、後藤が無罪になったことは大万歳であること。
封筒 巻紙墨筆
別後小生は吾ながら吾波瀾に驚く 平松君一件直ちに社長に依頼したが前日社告により入社した者4、5名お
り、欠員があり次第入社然るべしとのこと その内平松君の履歴書が出来ればお送り下されたし。
巻紙墨筆
当地例年になく不順で雨も晴れず、ペスト蔓延 御滞台中とは事変り婦人界物さびしく折りにふれても御愛慕
の念を強める シフトン女史新設寄宿舎にて有志婦人に英語教授のよしボールス夫人方にも45人通学の由
また去年末には高等女学校第1回卒業生19名の小音楽会も拝聴したなど。
巻紙墨筆
借家の払物があり、購入をもちかけられた 随分値が安いようなので御相談したい。
封筒 巻紙墨筆
ミツヒエルの著書は自分は苦手であるため大に閉口し意外に延引を来していること、その為にドイツよりの新材
料が山積となってしまい後藤の帰京後、指揮を仰ぐつもりでいること、またミツヒエルに関する後藤の序文は協
会にて至急もらいたいことなど。
封筒 巻紙墨筆
斉藤家との見合の件につき問合せ。
封筒 原稿用紙ペン筆 報告書を松木の所へ送るので星野に清書させた上で後藤に見せてほしい旨 後藤の書面は昨日到着して目
下翻訳中であり、レヴィン氏に手交する積りであること、ハルピンの露人の様子、今回のヨッフェの帰国に同行
しての旅行の感想。
封筒 巻紙墨筆
一蔵宛 先日喜沢農場の樽柿を少しばかり進呈したが、本日樽開きしたものをまた少々送るので御笑納され
たしとのこと。
封筒 巻紙墨筆
一蔵宛 この巻葉は男爵の口にあうかどうかわからないが暑中見舞として進呈、また組合棚は荊妻の考案した
もので、一組進呈あわせて御笑納くだされたしとのこと。
巻紙墨筆
時候挨拶文
巻紙墨筆
①授爵祝状に対する返翰(6月24日)。
②自身の病状、先師(横井小楠)の回顧など(4月29日)。
巻紙墨筆
罫紙鉛筆
原稿用紙墨筆
封筒
封筒 和紙墨筆
封筒 巻紙墨筆
134
新年祝詞。
一昨日御来訪の節御内話の満州経営前途につき熟考、このまま打ち過ぎては将来大破綻は必然、何れの日
か政府と衝突すべきは免れ難く、この際順序整然とした堂々たる議論を以て攻撃することを大主眼とすること
を切望、そのため老兄は満州に向かって御発途の他良策なく云々(写)。
来る14日老生誕辰、例年の如く小集を開くので御光来を願う、一昨年御相談した御身上の件、宮内大臣は相
当考慮しているが何分遷延して返答がないため、過日面談、あるいは同大臣より直接御相談があるかもしれ
ず御含みまで(筆写原稿)。
封筒のみ。山口諭輔か
渡台中の近衛師団の状況と台湾の模様。
漫文主筆の件は目下の状況では到底手腕のある人物を得ることは難しいと思われること 先年蠻爵より福島
安正を通して台湾に記者をよこしてほしいとの事であったので章炳慶を紹介したところ台湾新聞社長が章を知
らず自分は面目を失した前例があること、章は今日本で革命的雑誌の主筆であることなど。
第三者 山平隆助(四竈彦四郎・ やまひらりゅうすけ/しか (明治28年)3月17日
柵瀬軍之佐・四竈君宛) まひこしろう・さくらいぐ
んのすけ・しかま
第三者 山本安夫(田島秘書官 やまもとやすじ/たじまひ 2010/11/14
宛)
しょかん
第三者 横澤次郎(後藤和子宛) よこざわじろう/ごとうか 2010/8/10
ずこ
第三者 横山源之助(四竈彦四 よこやまげんのすけ/し
郎宛)
かまひこしろう
第三者 横山史郎(佐藤安之助 よこやましろう/さとうや 2010/1/9
宛)
すのすけ
第三者 横山史郎(佐藤安之助 よこやましろう/さとうや 2010/1/20
宛)
すのすけ
第三者 吉本清太郎(後藤和子 よしもとせいたろう/ごとう (明治41年1月21日)
宛)
かずこ
第三者 留守景福(後藤初勢宛) るすかげやす/ごとうは 2010/6/3
つせ
第三者 留守景福(後藤初勢宛) るすかげやす/ごとうは 2010/9/26
つせ
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
留守景福(後藤初勢宛)
留守藤(四竈彦四郎宛)
渡辺太膳(四竈彦四郎
宛)
不明(金子宛)
不明(恵沢正利宛)
不明(後藤和子宛)
不明(後藤和子宛)
不明(後藤和子宛)
るすかげやす/ごとうは 2010/10/10
つせ
るすふじ/しかまひこしろ 明治28年1月4日
う
わたなべたいぜん/しか (明治27年)6月2日
まひこしろう
ふめい/かねこ
22日
ふめい/けいたくまさとし (明治18年)5月25日
ふめい/ごとうかずこ 1907/9/19
ふめい/ごとうかずこ 1907/9/21
ふめい/ごとうかずこ (1907年11月14日)
第三者 不明(後藤和子宛)
第三者 不明(後藤和子宛)
第三者 不明(後藤利恵・初勢・
和子宛)
第三者 不明(後藤令嬢宛)
ふめい/ごとうかずこ 1907/11/15
ふめい/ごとうかずこ (1908年12月7日)
ふめい/ごとうりえ・ごとう 2010/12/20
はつせ・ごとうかずこ
ふめい/ごとうれいじょう (1906年3月22日)
第三者 E. Davis Behrens
(後藤和子宛)
第三者 Marion Bernheim
(後藤和子宛)
でいびす べーれんす/ (1907年)11月24日
ごとうかずこ
まりおん ばーんはいむ (19)07年12月4日
/ごとうかずこ
封筒 巻紙墨筆
「近衛騎兵大隊出征ニ付来ル廿一日休日ヲ以テ留送別会ヲ実行」正午三十分より開会来営されたいとのこと、
入営券差上のこと。
封筒 巻紙墨筆
巻紙墨筆
小生井上蔵相に面議いたしたく云々、今日午後蔵相官邸に御出席の様子、貴下より小生に代わり御面会目
的御伺い下されたし。
帝国婦人会役員推薦の件は下命に基き別紙上申書を作ったので御査閲御加印の上其向きへ御進達御取計
い下されたし 祝夫人は是非加へ置く必要ありと衆議につき加えておいたので何とぞ御手許において御勧誘
の上承認を経るようにしたい。
封筒 巻紙墨筆
(前半欠)文章の校正を願う書面。
原稿用紙ペン筆
支那内地に於ける政情報告。
原稿用紙ペン書
支那内地に於ける政情報告。
封筒 便箋ペン筆
佐野彪太より御帰朝の同伴者につき依頼があり、注意していたところ、幸いに遠山博士が帰朝のことにつき紹
介
巻紙墨筆
出京参館の際には御厚遇を蒙り、帰りには一蔵様が上野駅まで御出下さり結構な陳品を下さり有難く感謝
早速礼状差出すべきところ、眼病を患い遅れたが皆々様によろしく。
巻紙墨筆
小生も督促を見合せているのは、貴姉へ手紙を差し上げたとおり。書面の内容は承知したが、よくよくの考え
であろうから今は差し控える。貴君にはその後何等申すことが出来ず等困し誠に申訳ない。実は頼母子金は
現在全額掛金が纏まらずこれも申訳ない話、本月29日頃までには必ず全て纏めるつもり云々。
巻紙墨筆
戸坂の件 約束の日限を経過したので千葉安兵衛を遣したところ、御姉様へ書面差出すとの話すのみ云々
小生立会の小松へ依頼の手形は好結果 林檎植付けの件。
封筒
封筒のみ。
封筒 巻紙墨筆
自分の弟が今度医学を志して上京するので後藤家に滞在して医学修業をしている四竃に東京で医学を学ぶ
上での諸事について教えてくれるように依頼したもの。
封筒 巻紙墨筆
新政党のこと、支那枢要のことなどについて。
葉書墨筆
本日後藤と参上 帰京の趣 明日早朝より後藤方に手伝云々。
封筒
封筒のみ。
封筒
封筒のみ。
封筒 便箋ペン筆
ニューヨークからヨーロッパに向かうキューネル社の客船ルシタニア号の乗船客となった和子夫人への航海の
無事を祈る手紙。
封筒
封筒のみ。
封筒 クリスマスカードペ クリスマスカード
ン筆
巻紙墨筆
後藤新平およびその家族の安否近況について。
絵葉書墨筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
135
差出人名記載なし、本文ペン筆の跡あるも殆んど消失し判読不能、筆跡の文字は日本語(漢字体)のものと認
められる、写真は襖を背景として扇子と猫2匹のもの、解説文に「1527/1 ”In Far Cathy” Photo London」
とある。
和子が既にロンドンに到着しているので面会のためホテルに出向きたいこと
贈り物に対する礼状
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
第三者
M. G. Brown
(後藤和子宛)
Susan M. Corlies
(後藤和子宛)
Marion Daohwood
(Iuip B. Lewis宛)
Luke K. Davis
(新渡戸メアリ宛)
Caroline Delano
(後藤和子宛)
I. H. Doeye?
(後藤和子宛)
Louise G.
(後藤和子宛)
Helen Hanaek
(後藤和子宛)
Bertha Lewis
(後藤和子宛)
Bertha Lewis
(後藤和子宛)
Lucy Tritton
(D. Bertha Lewis 宛)
Catherine Metcalfe
(後藤和子宛)
Charlotte Ripley
(後藤和子宛)
Corinne Roosevelt
Robinson
(後藤和子宛)
Theodore Roosevelt
(後藤和子宛)
Louis L. Seaman
(後藤和子宛)
Sthel Stevenson
(後藤和子宛)
ぶらうん/ごとうかずこ 1907/9/22
すーざん こーりーず/ 1907/9/5
ごとうかずこ
まりおん だっしゅうっど (1907年)11月26日
/るいす
るーく けい でいびす/ 1907/9/10
にとべめあり
きゃろらいん でらの/ご 1908/11/19
とうかずこ
どい/ごとうかずこ
1908/11/12
るいす/ごとうかずこ 1909/5/10
へれん はねーく/ごとう (19)07年12月29日
かずこ
ばーさ るいす/ごとうか 1908/7/19
ずこ
ばーさ るいす/ごとうか 1908/5/5
ずこ
るーしー とりろん/ばー (1907年)11月29日
さ るいす
きゃさりん めとかーふ/ 1907/11/30
ごとうかずこ
しゃーろっと りぷりー/ 1907/9/7
ごとうかずこ
こりんな ろーずべると (明治43年)5月6日
ろびんそん/ごとうかずこ
せおどる ろーずべると 1907/11/7
/ごとうかずこ
るいす しーまん/ごとう 1908/6/25
かずこ
すてぃーぶんそん/ごと (1907年)12月1日
うかずこ
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
贈り物に対する礼状
贈り物に対する礼状
ルイスが和子とロンドンに来ているので、会いたい、何かできる事があれば知らせて欲しい
贈られた名刺入れと手紙に対する礼状
贈られたリーフレットに対する礼と和子の短期間の米国滞在を残念に思うこと
ハガキの御礼、アメリカ滞在中の親交を懐かしむ。
東京で歓待を受けたのに、別れも告げられず京都に向かったお詫びなど。箱根の富士屋ホテルから。
日本に関する本を贈ってくれたことに対する礼状
昨日到着、和子の好意に感謝するとともに入院中の和子をお見舞いを述べる。
新渡戸夫人とともにランチに来て欲しいこと
ルーシーが後藤に会いに来てくれるか、此方から出向くか尋ねるか問い合わせ
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
封筒 便箋ペン筆
留守の間に訪ねてくれたことへの詫び状
寄贈された写真と本に対する礼状
和子が贈った写真と絵葉書に対する礼状
封筒 便箋タイプ印字 後藤より寄贈された日本の台湾統治に関する図書への礼状と新渡戸の『武士道』について。
カードペン筆
後藤が寄贈した台湾に関する本に対する礼状
封筒 便箋ペン筆
ロンドンについた和子にケンブリッジやオックスフォードを案内したい旨
136