ベルツ記念館展示品紹介(PDF文書)

ベルツ博士を紹介するパネル
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ベルツ記念館 ご案内
ここから、ベルツ博士を訪ねる旅が、始
まります。 ベルツ博士について、簡潔に
紹介していきます。
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ベルツ博士の年譜
ベルツ博士の軌跡を追うこ
とができます。
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1-3 お雇外国人として招聘されたベルツ博
士と日本の関係、家族を含めた日本での
生活の一端を知ることができます。
ベルツ博士 (1903年)
1-4 この案内は、平成17年3月31日現
在、ベルツ記念館展示室の常設展示
品の一部を紹介することによって、ベ
ルツ記念館の様子をご案内いたしま
す。
皆様のお越しをお待ちしております。
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ベルツ博士の、日本での
職歴や、業績を一覧表にし
たものです。
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1-5 製作:ベルツ記念館
草津温泉とベルツ博士の関係を知ること
ができます。日本が大好きなベルツ博士を
思い浮かべることができます。
写真でたどる、ベルツ博士と日本のかかわり
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ライプツィヒ大学時代
(ベルツ27歳のころ)
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明治9年1月1日『暮の最
後の日に、自分の前途いっ
さいを決めてしまうような通
知を受取った。日本政府は
東京へ招くことについてのこ
ちらの条件を受諾したので
ある。』
1月3日(ベルリン)『今
日、日本帝国公使青木周蔵
氏のさし示す契約書に書名
した。』ベルツの日記(岩
波文庫)より
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荒井はつ18歳
徳之助とうた
(後の花夫人)
(長男 長女)
徳之助幼児期
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花 30才
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大仏の上
(明治13年頃)
明治33年4月6日 『午
後、エルウィン・トクを送っ
て船に乗るため、横浜へむ
かう。自分たち両親は重苦
しい気持で、教育のため息
子をドイツにやる決心をした
のである。』
4月8日『夜10時、たった
一人の子供との悲しい別れ
の時刻となった。あの子は
痛ましく泣いた。自分も眼
をうるませずには居られな
かった。』ベルツの日記
(岩波文庫)より
ベルツ一家
花晩年
明治13年11月8日『ある
若い僧が、随意にこれを撮
影する権利を獲得した。そ
して外人や日本人が大仏を
訪れると、その手や、ひざ
の上にのって写真をとらせ
る慣例になっている。けし
からん冒涜行為だ、ことに
それが僧侶の発案であるだ
けに、なおさらよくない!
白状するが、自分も一度、
一杯きげんでそんな写真を
とらせたことがある。』ベ
ルツの日記(岩波文庫)よ
り
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雇用人達
(中央がベルツ一家)
人力車
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ベルツは、箱根の冨士屋旅
館に泊まったとき、そこの
女中さんが水仕事のために
手があかぎれになっている
のを見て同情し、これを治
すために、薬品をつくり、こ
れを与えたところ、良く効く
とよろこばれたという。これ
がいわゆるベルツ水のおこ
りである。『ベルツ花 エ
ルウィン・フォン・ベルツ夫
人の生涯』 より
駕籠の脇
(箱根 宮の下)
箱根冨士屋ホテル
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ベルツ26歳の頃
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胸像除幕式
(明治40年 東京大学)
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明治41年4月16日 『食
事のあとで、大学構内にあ
る私の記念碑に案内され
た。私の胸像は本人にかな
りよく似ているが、スクリバ
の方はまったく似ていな
い、とみんなが言う。記念
碑の位置といい、全体の造
りといい、たいへん趣味が
いい。』ベルツ日本再訪よ
り
人類学研究・韓国
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石黒軍医総長と
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東京大学の胸像
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記念碑除幕式(昭和10年8月4日)
人類学研究・沖縄
『昭和10年8月4日には、
西の河原にベルツさんの記
念碑の除幕式が行われ、ベ
ルツ・花夫人をはじめ、ド
イツ大使やベルツさんの教
えを受けた大勢の先生方が
参列なされました。ある医
学関係の雑誌には「これほ
どの効果的な日独親善を草
津のような山奥で取り交わ
すのは勿体ないくらい」と
言うほどに盛大に行われま
した。』ベルツさんより
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寝ながら読書をするベルツ
人類学研究・アイヌ
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勲章をつけたベルツ博士
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徳之助来草時(昭和16年)
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葵の紋章入り太刀
明治天皇下賜花瓶
(ビーティヒハイム美術館) (ビーティヒハイム美術館)
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明治37年9月19日『草津は狭い盆地に
ある。初めてこの地に訪れた者には、日
本の町というよりは、むしろチロール地方
の村落が念頭に浮かぶ。風雨で黒ずんだ
木造の二階家は、周囲に縁側をめぐら
し、往来に面して、正真正銘の枠組みの
破風があり、張り出した屋根、屋根板の
重石など、一般にこの国では極めて珍し
い風景を呈している。町の真中(ドイツの
町の中央広場に相当するところ)には、
湯気を立てて猛烈に臭う,硫黄を含んだ熱
湯の大噴泉がある。』ベルツの日記より
モカ・カップ(花が弟へルマン贈ったもの)ベルツが親友ブルクハルトに贈った浮世絵
村木・眞須美 様寄贈
村木・眞須美 様寄贈
明治中期草津温泉
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花夫人肖像画
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ベルツ博士肖像画
花夫人が集めた小物類
ゲルヒルト・トーマ夫人寄贈
祖母 愛のミニチュア民芸品
トク(徳之助)の一人娘がトーマさんです。
トーマさんは、大正11年花夫人が単身日本に帰国した後に生まれましたので、花夫人(祖母)とは一度も会ったことがありません。
花夫人はドイツに住む女の子の孫がいとしくてたまらなかったようで「日本に来るように」と繰り返し手紙を書いていたと云います。
花夫人はこれらの民芸品を少しずつ、トーマさんに送り、日本の生活を教えられたようです。
そのどれもが、日本人の生活に密着したものばかりであることに気付きます。
ベルツ記念館の開館にあたり、トーマさんは、大切に保管されていた祖母の愛情がこもった思い出の品々を、草津町に寄贈されました。
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ベルツの日記(岩波文庫)
明治37年9月の来草時、草津を詳細に語っている
ベルツの日本への深い理解
は社会情勢を的確に把え、
鋭い批判をあびせかけるこ
とにもなった。しかし、それ
らの批判をいまわれわれが
読み返したと時に、そこに
少しも古さを感じない。ベ
ルツがいかに透徹した論理
で批判していたかがこれか
らも判る。
いま『ベルツの日記』を
読み返してみると、数種類
あるベルツの伝記では得ら
れない新鮮な感動を覚え
る。(エルウィン・ベルツ
のこと『改訳版・ベルツの
日記序文』 酒井シズ よ
り)
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『花が送ってくれた布よ。
困ったとき手内職で稼ぐよう
にって、母に小物入れの作
り方を教え、材料を送ってく
れたの。それが、戦後お金
のないときに役立ってね。
母と二人で作って売ったの
よ。これは、その残りな
の。』ゲルヒルト。トーマ
夫人は、私の誕生日に古い
小物入れをくれた。
(『[花・ベルツ]への旅』
眞須美・シュミット=村木
より)
信玄袋
村木・眞須美 様寄贈
75-1 ベルツ水
日本薬局方
グリセリンカリ液
販売名
玉置薬局
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今日私は花・ベルツの二つ目のドレスを草津にお持ち致しました。この品物
は、近代史を物語るだけでなく、また私ども一家の歴史を象徴するものでもあり
ます。私の父トク・ベルツが1940年に最後の日本旅行に旅立つ時――父はそ
のまま日本で亡くなりましたが――私に2着のドレスをくれて、次の言葉を残し
て行きました。「栄えあるこの二つのドレスを大切に保管しなさい。これは、お
前の祖母の生涯の最良の瞬間を思い出させてくれるだろう。」白いドレスは、花
が東京で宮中に参内し両陛下の謁見を賜った時に着用したもので、グレーのドレ
スは、ベルツが、帰国後、ヴェルテンベルグの王様の招待を受けたときの装いで
ございます。花の没後、この(白い)ドレスは2回使われました。1度は、19
45年8月12日、唯一の孫娘として、私はこのドレスを着て結婚式を挙げまし
た。また1982年11月13日には、私の娘のウタ(花が幼くしてなくした娘
と同名)が嫁に行くときにきせてやりました。二つのドレスは、この前の大戦の
爆撃も免れ、ブランデンブルグ州にソ連が進駐した時も発見されませんでした。
それだけ入念に隠してあったのです。何回もの移転に耐えて、ドレスは今日、祖
母花・ベルツの祖国へ戻って参りました。それは人生の大きな輪が結ばれようとし
ているようなものです。祖母の二つの思い出の日本とドイツが出会い、理解を深
めていった興味深い歴史を物語ってくれるでしょう。木が年輪を増やして大木に
なるように、ドイツと日本の友情が育ち、人々に、エルウィンと花・ベルツの夢と
期待がどんなものであったか、思い出させてくれますように
2000年8月2日 ベルツ記念館開館式典「ゲルヒルト・トーマ夫人の挨拶よ
り」
79-1 花夫人が愛用したミンクの襟巻
青山芳子 様寄贈
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草津を訪れた人々を魅了させる西の河原公園の一段と
高い丘の上に、二つの胸像と大きな記念碑が訪れる人を
迎えております。左側がエルウィン・ベルツ博士で、右
側がユリウススクリバー博士です。
東京大学医学部の校内に、明治40年4月、赤色花崗
岩の台の上に据えられ半身像のベルツさんとスクリバー
さんの銅像がスクリバーさんの三男ヘンリーによって除幕
式が行われました。
現在西の河原公園に有ります胸像は、草津町において
は二代目にあたります。
初代の胸像はベルツ記念館に設置されておりますが、
昭和32年6月東京大学医学部より贈呈を受けたもので
す。戦時中、兵器を製造するための金物が供出される不
幸な出来事がありました。東京大学医学部ではもしもの
事を考え、原型を保存するために同型の像をコンクリート
で造りました。幸いに供出にならず、関係の深い草津町
に寄贈されたもので、大切に保存をしなければなりませ
ん。
(ベルツ記念館発行 「ベルツさん」より)
エルウィン・フォン・ベルツ博士
ここから、ベルツ博士への旅が始まります。皆様どうぞお出かけ下さい。
ユリウス・スクリバ博士
ドイツ人 医学者 内科医
ドイツ人 医学者 外科医
明治9年(1876)東京医学校に招聘さ
れ来日し、明治38年(1905)までの29
年間、我が国の医学の基礎を築き、『近
代医学の父』としょうせられる。草津温泉
の医学的効用を研究史、内外の学会に発
表し、広く世界に紹介した。又、『ベルツ
の日記』に「草津には、無比の温泉以外
に、日本で最上の山の空気と、全く理想
的な飲料水がある。このような土地が、も
しヨーロッパにあったとしたら、カルルス
バードよりにぎわうことだろう。」と温泉地
として環境の優秀さを絶賛した。
大正2年(1913)8月スツットガルトに
て65歳で没す。
明治14年(1881)に招聘され来日し、
東京大学医学部教授となる。明治34年
(1901)までの20年間、ベルツ博士とと
もに日本の医学のために貢献をした。
特に外科に関する診療にあたり、大津
事件にも活躍する。親友ベルツ博士と草
津を訪れ、町民にもスクリッパさんとして
慕われる。明治34年大学退職後、築地
聖路加病院に就任。明治38年(1905)
56歳で日本の地で没す。