ガルニエの工業都市の中央公共施設の模型製作

課題名
ガルニエの工業都市の中央公共施設の模型製作
指導教員
中西
章
研究の目的
鉄 筋 コ ン ク リ ー ト が 実 用 化 さ れ た 最 初 期 の 20 世 紀 初 め に 建 築 家 ト ニ ー ・ ガ ル ニ エ が 鉄
筋コンクリート造の建物を用いて工業都市を構想し、図面を残している。この工業都市の
中心施設を、ガルニエの残した図面をもとに模型制作し、彼が考えた初期のコンクリート
造建築の特徴について考察する。
研究の方法
ガルニエが描いた図面をもとに工業都市
の 中 央 施 設 の 1/400 ス ケ ー ル の 模 型 を 作 る 。
その際、図面にあらわれない建物の裏側の
窓や柱の位置は、建物の外観や機能を考慮
して推測した。模型制作した中央施設は、
幅 156m、 長 さ 480m の 大 き さ で 、 建 物 の 高
さ は 40m ほ ど で 、 中 央 に は 高 さ 110.4m の
塔が建てられている。
トニー・ガルニエと工業都市について
図1
工業都市中央施設の透視図
ト ニ ー ・ ガ ル ニ エ は 、1869 年 フ ラ ン ス の リ ヨ ン に 生 ま れ た 建 築 家 で あ る 。
「 工 業 」と「 都
市」の共存という理想的な都市計画をゾーニングの理念から考えた人物であり、近代的な
都市計画の先駆者とされる。今回対象とした工業都市の計画は、実現されることはなかっ
たが、故郷リヨンで多くの建築物の設計を手がけ、ワールドカップのスタジアムとして使
用 さ れ た 「 ス タ ッ ド ・ ジ ェ ル ラ ン 」 や 、 エ ド ゥ ア ー ル ・ エ リ オ 病 院 ( 1915 年 ~ 1930 年 )、
織 物 工 場 ( 1930 年 )、 モ ン セ ッ ク ス 電 話 セ ン タ ー ( 1923 年 )、 J・ ド ゥ バ = ポ ン サ ン 、 ジ ャ
ン ・ プ ル ー ヴ ェ ら と 協 働 し て 設 計 し た 市 庁 舎 (1931 年 ~ 1934 年 )な ど 、 建 築 作 品 も 多 く 残
したことが知られている。
ガルニエが提案した工業都市は、それ以前のハワードの田園都市の想定人数とほぼ同じ
人 口 35000 人 と 想 定 さ れ て い る 。 主 要 構 成 要 素 は 、 市 街 地 、 工 業 地 区 、 保 健 衛 生 地 区 の 3
つである。これらの地区は立地と交通網(サーティキュレーション)のパターンの面から
独立し、機能によるゾーニングの概念が用いられている。
考察
工業都市のなかで、住宅など周辺の建物は壁面線などを揃えたデザインとなっているの
に対し、中央公共施設は大きさや見た目にも変化をつけた造りになっていて機能性だけで
なくモニュメンタルな作品となっており、意識
的に目立つデザインとしていたと考えられる。
この建物で目立つ点は、円柱で支えられた施
設全体を覆う一枚の大きな鉄筋コンクリートの
天井である。このような構造は、より大きな荷
重に耐えられる鉄筋コンクリート造とすること
によって可能になったと構造考えられる。
また、天窓や斜めの桟が入る窓など、形状を
自由に作ることができる鉄筋コンクリートの特
徴を生かして、窓もデザインの一部として自由
に造られるようになった。
しかし、中央公共施設の象徴のような時計塔
(図2)のデザインなどを見ると、当時の煉瓦
造や石造のデザインを踏襲しており、いまだ鉄
筋コンクリートという新しい材料の特徴を十分
に生かしたデザインとはなっていないとみられる。 図2
中央公共施設の正面の時計塔
まとめ
鉄筋コンクリートという新しい材料を使用することによってこの中央公共施設のような
広い建築構想の方向性が開けたといえる。また、壁だけでなく天井や窓などさまざまな部
材が建築デザインの一部として自由に造られる可能性が示されている。しかし一方で、こ
の新しい材料の特性を十分に生かしきったデザインにはまだ至っていないといえる。
なお、ゾーニングなど彼の都市計画の理念は今日の都市計画に受け継がれている。
参考資料
TONY_GARNIER -Une_Cite'_Industrielle-
図3
模型全景