バブル時代 トーマスの同級生に、ある証券会社に勤めていた友人がいた

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バブル時代
トーマスの同級生に、ある証券会社に勤めていた友人がいた。バブルの頃は
とても羽振りが良かった。仕立のいいスーツを着て、同窓会では、ちょっとし
たスポンサーきどりであった。
二次会ではいきつけの銀座の店に連れていってもらったこともある。高価な
洋酒を、平気でオーダーしていた。フルーツ盛り合わせが一万円もしたのに驚
いた。キスチョコでも三千円だった。そんな時代だったのだ。
店では、ミニスカートの女性がとなりにはべる。トーマスは、目のやり場に
困った。彼女らは、自分用のドリングも注文する。もちろん、そのつけは客に
まわす。というよりも、店の売り上げが増えるように、せっせと高価なカクテ
ルを注文するのである。
貧乏人のトーマスは、いったいいくらになるのだろうと、ハラハラしながら
横で見ていたが、友人はまったくお構いなしである。どうやら会社の交際費が
使えるらしい。
「俺達の飲み代に会社の接待費なんか使って大丈夫なのか?」
こう聞くと、友人は
「お前は、異業種交流というのを知っているか?」
と聞いてきた。恥ずかしながら、その時は、知らなかった。
「トーマスのような優秀な研究者と意見交換をするのも、重要なことなんだ。
なにしろ、証券マンは、いろいろな情報を常にキャッチしていなきゃならない
からな。株価変動につながるような面白い話も聞けるかもしれないじゃないか。
もちろん、インサイダーはだめだがな」
と豪快に笑った。
優秀な研究者という形容には、少しむっときたが、交際費を使うには、それ
くらい書いておかないとだめらしい。
「と言っても、このご時世、領収書さえ出せば誰も文句は言わないがな」
と、また笑った。
しかし、まだ三十代の若造が、銀座の店で飲めるだけの交際費を自由にでき
るというのはすごい。
「いったい証券会社はいくら儲けているのだろうか?」
トーマスは気になった。すると、友人は、こちらの腹のうちを読んだように
「気にするな。うちの会社は、今日の支払いなど問題にならないくらい稼いで
いる。こんなものは、はした金にもならないんだよ」
と言う。
しかし、貧乏人のトーマスには理解できない世界であった。それに、その席
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は、あまり楽しくなかった。
横に座った女の子は、友人の
「こいつは研究者なんだ」
という紹介に、何をやっているかをしきりと聞きたがったが、本当に知りたい
という様子がみえない。社交辞令であろう。それに、よしんば説明したとして
も分からないにちがいない。場がしらけるだけだ。
友人は、結構、有名な経済評論家や政治家の名前を出しては
「あいつらは世の中が見えていない」
と非難していた。
そして、自分の経済観を披瀝した。要は、株価はどんどん上がっていく。不
動産の価値も上がり続ける。地道に働いている人間はバカで、これからは金融
こそが日本の生きる道なのだと。
「もともと、資源のない日本が技術で世界を牛耳ろうと思っても、資源の輸出
を止められたら終わりだろう」
とも言った。
トーマスは、自分がバカにされているようで、ちょっと不愉快だったが、友
人には、そんな意図はないようだった。
友人の高説を聞いた店の女の子たちは、羨望のまなざしで彼を見ていた。な
にしろ、現に金をたくさん稼いで、せっせと店にお金を落としていってくれる。
これ以上の説得力はない。
その店には 2 時間ほどいて会計を頼んだ。レジで、横からのぞいたら、支払
いはなんと 20 万円以上であった。尋常ではない。しかし、友人は何事もなかっ
たようにカードで払った。もちろん、アメックスのゴールドである。
「ところで、トーマスお持ち帰りはどうする?」
「お持ち帰り?」
「ああ、だれか気に入った子がいたら、おれが手配してやるよ」
最初は意味が分からなかった。
「もちろん、その後のことはお前の腕次第だ」
しばらくして意味が分かった。
「いや俺はいい」
ちょっと、強い口調だったので、友人は気分を害したようだ。
それでも、トーマスが帰ると言い張ると、タクシーを手配してくれた。もちろ
んタクシー券つきだ。
「これで自宅まで帰ってくれ」
「いや電車で帰る」
「そんなけち臭い事を言うなよ。店の女の子達にも分けているんだから」
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そう言うと、友人はポケットから分厚いタクシー券の束を見せた。
結局、タクシーのお世話になったが、支払いは 2 万円以上であった。降りる
時、運転手は機嫌よく
「こちらで、全部記入しますから」
といって、何も書いていないタクシー券を受け取った。
数ヶ月して、その友人から、再び飲みに誘われた。相談があるという。
「あの店は、もういやだよ」
そう言うと、料亭の個室をとったという。なにやら大事な話のようだ。
これまた、貧乏人には、信じられないような立派な店だった。料理も最高であ
る。友人はいきなり
「女房と別れることになった」
と切り出した。
「また、どうして」
「他に好きな女ができた」
「でも、お子さんが三人も居るだろう。それに、一番下は、まだ小学校にも上
がっていなかったのではないか」
「養育費はたっぷり出す。だから、あいつも困らないだろう」
どうやら、好きな相手というのは、あの店のチーママらしい。
「だけど、お前が再婚を考えている相手は承諾しているのか?」
「いや、まだ申し込んではいないが、断ることはないと思う。こんないい話は
ないだろうからな。それに、とっくに男と女の関係になっている。たがいに気
心はしれているよ」
トーマスは心配になった。友人は早とちりのところがある。それに、店の女
性は、客としては大切にしているかもしれないが、結婚相手として真剣に考え
ているのだろうか。
「もう少し考えたほうがいいんじゃないか」
いくら給料が高いといっても、慰謝料を払ったうえで、新たな家庭を持つと
なると、負担はけっして軽くはない。確かに、いまは羽振りがよさそうだが、
好景気がいつまで続くかは不透明だ。過去の例でも分かるように、景気が上昇
を続けることはありえない。
それから、二ヶ月ほどしてバブルは、あっけなく崩壊した。結局、友人は彼
女に振られたようだ。金の切れ目が縁の切れ目ということだろう。
幸い、友人は、両親から説得されて離婚までには至らなかった。ただし、家
庭内は崩壊状態だと言っていた。子供たちからも白い目で見られているらしい。
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当たり前だ。一度は家庭を捨てようとしたのだ。
ある日曜日、友人の両親から電話がかかってきた。
「トーマスさん、うちの息子の行き先を知りませんか」
どうやら、朝から一家が行方不明になっているらしい。一家心中ではないかと
親戚が大騒ぎしているというのだ。心配した彼の両親が、家に行ってみると玄
関に鍵がかかっていて、車も消えているという。
「最近は、借金の返済で大変らしいのです。会社もクビになったようですし」
とお父さんは心配そうだ。
「申し訳ありませんが、心当たりはありません。他の友人にも聞いてみましょ
う」
そういうと
「ご迷惑をおかけします」
と心配そうな声が聞こえた。孫が3人もいる。それも心配なのだろう。
幸い、友人の家族は無事だった。もう一度、一からやり直そうと話し合った
らしい。バブルの頃は贅沢三昧であったが、友人も給料は安いものの、ある会
社に就職が決まった。
奥さんもパートに出るという。手打ち式のつもりで、一家みんなでドライブ
に出かけたらしい。子供たちはディズニーランドを希望したが、そんな金はな
いので、伊豆方面に向かったようなのだ。そういえば、当時は携帯電話がなか
ったので、連絡のとりようがなかったのである。
ちょっとした笑い話だったらしい。一家が、夜八時すぎに自宅に戻ってくる
と、家の前はひとだかりである。
「いったい何事だ」
と思って車から降りると、友人の両親と、奥さんの両親が駆け足でやってきて、
3人の孫をしっかりと抱きしめたという。
一家の安否を心配した親戚や近所のひとが集まってきてくれていたのだ。
「伊豆までみかん狩りに行ってきた」
というと、みんなほっとした表情を浮かべたらしい。
友人のお父さんは
「お前がややこしい留守電をいれるからだ」
と友人をしかった。実は、前の晩に
「おやじ、俺も決心した。ちゃんとけじめをつける」
という伝言を残していたらしいのだ。
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友人は、家族に対してけじめをつけて一からやり直すということを言いたか
ったらしいのだが、ご両親は、別の意味にとったようだ。
バブルはひとを狂わした。拝金主義という言葉があるが、まさに、金がすべ
てという風潮をつくった。製造業も、こぞってマネーゲームに走り、本業より
も金融で利益を上げた。そして、マネーゲームという虚業にいそしむ人間が会
社で重用された。日本社会が失ったものは大きい。
友人は、貧乏にはなったが、人間としては再生したと思う。ただし、いちば
ん下のお子さんが社会人になった時にふたりは離婚した。
久しぶりにあった友人は、みるからに安そうなスーツを着ていたが、どちら
かというと表情はおだやかであった。