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 『政治思想研究』第4号
目 次
近代日本のアジア認識
― 連帯論と盟主論について ―
和田 守 ………………… 1
「福本イズム」と「正友会宣言」
― 植民地下の韓国における「社会主義」理念受容の一局面 ―
金 錫根 ………………… 17
‐アルケー)」の位相
アリスト テレスにおける「統治(arche
E.バーカー、H.アレントの「統治(アルケー)」理解との対比において ―
― 荒木 勝 ………………… 39
公募論文
明治初期知識人における宗教論の諸相
― 西周と中村敬宇を中心に ―
大久保健晴 ………………… 59
ソクラテスとアテネ帝国主義
― ソクラテスの活動の再検討 ―
米澤 茂 ………………… 79
ヒュームにおける国際秩序思想
高橋 和則 ………………… 99
規範の法と例外の法
― カント民主主義論のラディカルな再構成のために ―
大竹 弘二 …………………121
マルクスにおける政治否定のロジック
― 初期マルクス法・政治思想の新地平 ―
小島 秀信 …………………141
ヘルマン・ヘラーにおける政治的なるものの概念
― 「数多性における統一性」の視点から ―
高橋 良輔 …………………163
東洋的専制主義の位相
― K・ウィット フォーゲルの場合 ―
石井 知章 …………………185
書評
福田有広・谷口将紀編『デモクラシーの政治学』を読む
半澤 孝麿 …………………207
「可能性の技術」
― 木村俊道著『顧問官の政治学』を読む ―
宇羽野明子 …………………215
2003年度政治思想学会研究会の報告と議論の要旨
飯田 泰三 …………………219
自由論題 鷲見 誠一 …………………226
執筆者紹介
…………………229
政治思想学会規約
…………………231
論文公募のお知らせ
…………………232
政治思想学会役員名簿
…………………234
編集後記
…………………235
近代日本のアジア認識
― 連帯論と盟主論について ―
和田 守 一
近代日本のアジア認識について、とくにアジア諸民族との連帯論とそのなかにおける盟主論との組み
合わせを通して検討しようとするとき、日清戦争(1894∼95年)は大きなエポックであったといえよ
う。第1に、圧倒的に盟主論優位の組み立てになったことであり、第2に、連帯論のべースとなる東アジ
ア諸国家間の秩序原理として中国中心の宗藩関係原理が解体し、西欧型の主権国家原理による再編が進
行したということである。そして第3に、アジア・ナショナリズムの勃興をあげることができるであろ
う。
すなわち、アジア連帯論は、アヘン戦争での清国の大敗と南京条約(1842年)・虎門条約(43年)、ペ
リー来航と日米和親条約(1854年)・日米修好通商条約(58年)によって、屈辱的な開国を強制されて
以降、欧米諸列強による侵略と植民地化の危機に対抗するためアジア諸民族、とくに東アジア地域に位
置する日本・清国・朝鮮の団結を求める主張として展開されてきたが、朝鮮をめぐるヘゲモニー争いの
なかで日本が中国に勝利したのであり、対清開戦にあたって「野蛮」に対する「文明」の戦い=「義戦」との
大義名分が掲げられたように、その勝利はアジアにおいて、唯一いち早く西洋文明を導入して近代化に
成功した新興国としての自負となり、そのうえで遅れたアジア諸国を開導するという使命観が喧伝さ
れ、盟主論が圧倒的に優位になったのである。開導とは日本の膨脹主義=アジア侵略がその実態であっ
たことはいうまでもない。
1880年代後半に自由主義・平等主義・平和主義を基調とする平民主義を唱えて中央論壇に登場した
徳富蘇峰(1863∼1957)は、日清戦争中に『大日本膨脹論』(1894年)を刊行しているが、そのなかで対
清開戦にあたって、
「世界に於ける頑迷主義に一大打撃を与へ、文明の恩光を、野蛮の社会に注射せしめ
んが為め」と論じ、
「文明の案内者」「人道の拡張者」「光明の使者」として、宗主権を楯に朝鮮を属邦視
し清鮮宗属関係破棄などの要求を聞き入れないような頑迷野蛮な「清国を教化」するものと、開戦の大
義名分・正当性を鼓吹した。その一方で、
「之を己に取りては、日本国の開放解脱のため」
と、自国の国
家的要請そのものを包みかくさず赤裸々に提唱していることに注目する必要があろう。大日本膨脹論の
主張である。「日本国の開放解脱」とは何か。それは「三百年來収縮的日本が、一大飛躍して膨脹的日本
となるの機、這の一刹那にあらずして何ぞ」(1)と述べているごとく、「収縮的日本」から「膨脹的日
本」への国家目標・国民的課題の一大飛躍を意味した。すなわち、「開国進取」を宣明した明治維新が幕
藩体制の地域的割拠主義と身分的階層制から国家的国民的統一に向けての第一の飛躍であったとすれ
ば、日清戦争は廃藩置県や大日本帝国憲法発布と国会開設などを経て達成した国家的国民的統一の成果
を承けて「世界に雄飛す可き」第二の飛躍であった。「国民的生活」から「世界的生活」への飛躍とも謳
われている。
「国民的精神を土台として、世界的経営に入るを謂ふ」と。まさに対清戦の意義は、東洋の
地において「国民的膨脹の根拠を作る」こと、そして西洋諸列強と対等な地位を占め「世界の大競争場
に於て、角逐する」ための第一歩だったのである。
このような蘇峰の大日本膨脹論に典型的なように、日清戦争は「日本国民が帝国的に覚醒したる時
1
期」(『大正の青年と帝国の前途』1916年)とのエポックをなしたのである。
第二に、日清戦争による中国の敗北と日本の勝利は、東アジア地域における中国を中心とした伝統的
な華夷秩序観に基づく冊封体制=宗藩関係の解体と西洋型主権国家システムによる再編をもたらし
た。すなわち、1854年の日米和親条約に続いて、58年に米・蘭・露・英・仏との間に修好通商条約(安
政条約)を結んで開国した日本は、68年の維新後さっそく「対外和親・国威発揚の布告」と「国威宣揚
の宸翰」を発して、旧幕府締結の条約履行・不平等条項改革と「宇内之公法」にのっとった外国交際の
推進を宣言するとともに、東アジア近隣諸国との国交・国境問題にとりくみ、先ず対馬藩を通じて朝鮮
政府に王政復古を通告したが、朝鮮側はその書契(外交文書)に「皇」
「勅」の文字があるなど、従来の
交隣の慣例に反するとして受取りを拒否した。ここに、主権国家間の外交関係樹立要求と中国との宗藩
関係による冊封体制維持との間に軋轢が生じ、征韓論争(1873年)や江華島事件(1875年)、そして壬午
軍乱(1882年)や甲申事変(1884年)の緊張が続き、日清戦争へと発展したのであった。日清講和条約
(下関条約)第1条で「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコト ヲ確認ス。因テ右独立自主ヲ
損害スヘキ朝鮮ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と、朝鮮の独立をうたって清
国の宗主権を否定した。中国を中心とした宗藩関係の解体であり、原理的には、独立平等の主権国家か
らなる近代西欧の国家体系による東アジア地域における国際秩序がうちたてられたのである。しかし、
実態としては、「主権線」守禦を名文とする「利益線」(山県有朋「外交政略論」1890年)としての朝鮮
支配の進行と中国からの台湾の割譲など、日本の覇権確立という構造が形成されていったことはいうま
でもない。
このように近代日本におけるアジア連帯論の基調は、日清戦争をエポックとして日本の盟主論と覇権
確立の構造的色彩を強めていったが、中国や朝鮮における近代化への動きが本格化し、あわせて民族的
覚醒が醸成されていったことも注目すべきことである。この点、後年のことではあるが、中国革命運動
の指導者孫文(1886∼1925)が1924年に日本の神戸で行った講演「大アジア主義」のなかで、「アジアは
衰微してこの極点に達したとき、ここに別に一つの転機が生まれました。その転機こそ、アジア復興の
起点であります。アジアは衰微したが、三十年まえにいたって、またふたたび復興したのです」と、日
清戦争開戦直前の1894年7月16日調印の日英通商航海条例によって領事裁判権廃止・法権回復を成就し
たことを称え、
「日本が不平等条約を廃棄して独立することができたのだから、われわれも当然それにな
らったらいいと考え、これより勇気が湧きでて、種々の独立運動を起こしてヨーロッパ人の束縛からの
がれようとし、ヨーロッパの植民地とならずにアジアの主人公となろうとするようになりました」(2)
と、「ヨーロッパの奴隷」から「アジアの主人公」へとの「アジア復興の起点」としてとらえている。不
平等条約の全面的改正は、1911年の関税自主権の回復まで待たねばならなかったが、部分的であれ1894
年の法権回復を、孫文は「アジア最初の独立国になった」証として称え、それが「永遠にヨーロッパの
奴隷とならなければならない」という「悲観的な思想」から「アジアの主人公となろう」とする「楽観
的な思想」への「転機」をなしたと力説しているのである。
日清戦争を巡って、日本における対西欧ならびに対清という構造は、中国からすれば対西欧ならびに
対日本という構造になるが、孫文はあくまでヨーロッパとアジアという対抗関係を基軸としたアジア連
帯論の有意性を強調している。それは、日本に「覇道」を突き進むか「王道」に立ち戻るかと詰問しつ
つ、日清戦後に隆起した民族的覚醒の歴史的意義を評価しているのである。アジアにおける覇権国家日
本に対する批判・抵抗とともに西欧型「模範国」日本への連帯のアピールでもあったといえよう。
ところで、覇道と王道との関係について、『三民主義』(1924年)では「民族は天然の力によって形成
されており、国家は武力によって形成されている。
(中略)自然力が王道なのです。王道で形成されてい
2
る団体、それが民族です。武力は覇道であり、覇道で形成される団体が国家です」(3)と説明されてい
る。この王道=自然力=民族、覇道=武力=王道という対比の妥当性如何はともかくとして、蘇峰が
「帝国的覚醒」を強調しているのに対して、歴史的伝統や生活力、そして道義性に期待した「民族的覚
醒」に依拠した連帯論の可能性を説いていることには注目すべきであろう。日清戦後に引き戻しても、
蘇峰は「今や絶東の地、幸ひに政治的組織の能力を有するもの、独り我が大日本国民あるのみ。国家的
観念あるもの、独り我が大日本国民あるのみ」(4)と、政治的組織力と国家的観念の強弱こそが国民性優
劣の判断基準であるとみなし、日本の優位性への自負と中国・朝鮮の劣位性への侮蔑が表白されている
のに対して、勝海舟(1823∼99)は『氷川清話』
(1897年)のなかで、こうした風潮を戒めているのであ
る。
「朝鮮といえば、半亡国だとか、貧弱国だとか軽べつするけれども、おれは朝鮮も既に蘇生の時機が来
ていると思うのだ。およそ全く死んでしまうと、また蘇生するという、一国の運命に関する生理法が世
の中にある。朝鮮もこれまでは、実に死に瀕していたのだから、これからきっと蘇生するだろうよ。こ
れが朝鮮に対するおれの診断だ」(5)。
「シナ人は、一体気分が大きい。日本では戦争に勝ったといって、大騒ぎをやったけれども、シナ人
は、天子が代わろうが、戦争に負けようが、ほとんど馬耳東風で、はあ天子が代わったのか、はあ日本
が勝ったのか、などいって平気でいる。それもそのはずさ。一つの帝室が滅んで、他の皇室が代わろう
が、国が滅んで、他国の領分になろうが、一体の社会は依然として旧態を存しているのだからのう。社
会というものは、国家の興亡には少しも関係しないよ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝ったなどと
いばっていると、後で大変な目にあうよ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国
は仕方がなくなるよ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とてもシナ人には及ばないだ
ろうと思うと、おれはひそかに心配するよ」(6)と。
幕末の海舟は西洋諸列強に対抗するために軍事同盟として中国・朝鮮・日本の提携を構想してい
た。もちろん、その提携論は実現することもなく、日清戦争は日本の軍事的勝利で終わったが、徳川幕
府の崩壊と維新政権の誕生・近代国家構築に身をもって対処してきた海舟には、戦勝熱に浮かれた風潮
にむしろ危機感を覚えていたのであり、この点ではリアリストであると同時に、国家を支える社会のあ
り方についての問題関心から新たな提携の可能性を探っていたともいえよう。恐らくこの点は、日清戦
争をエポックとする「帝国的覚醒」と「民族的覚醒」のはざまで、主権国家原理をどのように理解する
のか、それも外交関係の問題にとどまらず、文明観の問題にゆきつく問題であった。そこで、次に日本
の近代国家形成期にさかのぼって連帯論と盟主論の組み合わせについて検討してみたい。
二
明治初年の最も有力な文明論者福沢諭吉(1835∼1901)は『学問のすゝめ』初編(1872年)で、「人の
一身も一国も、天の道理に基て不覊自由なるものなれば、若し此の一国の自由を妨げんとする者あらば
世界万国を敵とするも恐るゝに足らず、此一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足ら
ず」と、「外は万国の公法を以て外国に交り、内は人民の自由独立の趣旨を示」すことを求めている。国
民国家形成における天賦人権の尊重と国家主権の相互尊重という外交関係の樹立を主張しているので
あり、ここでの国際秩序観には「天理人道に従て互の交を結び、理のためには「アフリカ」の黒奴にも
恐れ入り、道のためには英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず」(7)との「天理人道」にのっとった万国公
法の世界への信頼と期待が込められていた。
3
その一方で『通俗国権論』
(1878年)においては、「和親条約と云ひ万国公法と云ひ、甚だ美なるが如
くなれども、唯外面の儀式名目のみにして、交際の実は権威を争ひ利益を貪るに過ぎず。
(中略)百巻の
万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊の和親条約は一筐の弾薬に若かず。大砲弾薬は以て有る道理を主
張するの備に非ずして無き道理を造る器械なり」との現実が語られている。ここでは「世界古今の事
実」を直視することが強調され、
「貧弱無智の小国がよく条約と公法に依頼して独立の対面を全うしたる
の例なきは、皆人の知る所ならずや」と、弱肉強食の論理が貫徹する国際社会のなかで一国の独立は
「唯兵力強弱の一点に在るのみにして、他に依頼す可き方便あることなし」(8)との激越な論調で一貫し
ている。それも、弱小国と強大国との間のみならず、強大国間においても同様であるとするシニカルな
国際社会観の表白であった。道理の支配の否定である。
前者における万国公法にのっとった道理の支配への期待と後者における力の支配の是認、その転回は
福沢における国権論優位への傾斜を物語るものではあるが、少くとも国際社会の現状認識に関するかぎ
り、当初より複合的に依存していたものであろう。それは、西欧近代国家原理を受け入れた開国にあ
たって領事裁判権・治外法権と協定関税率制・関税自主権の喪失という不平等条項を強要された現実
からして、福沢のみならず明治日本の共通認識であったともいえよう。そもそも、独立平等な主権国家
間を規律する近代的国際関係は、西洋世界内部において適用されたとはいえ、非西洋世界に対して、基
本的には、武力によって不平等条約を押しつけて主権を侵害し、さらには市場・原料供給地として植民
地化することによって成り立っていたのが歴史的現実であった。
したがって、近代化の歩みにおいて、文明論には国家的独立=国権の回復・拡張への熱烈な意欲が織
り込まれることになり、西洋諸列強への条約改正交渉が主要な外交課題となったが、国権論の展開にあ
たって、他方では、アヘン戦争以降同じく被抑圧的環境に置かれていた東アジア近隣諸国との関係をど
のように規律するのかという重要問題が横たわっていた。外交関係としては主権国家原理をどのように
適用するのかという問題であったが、より広くは、アジア諸国の現状認識と関係しつつ展開されたアジ
ア連帯論と日本盟主論、興亜論と脱亜論などが入りまじった文明論をめぐる問題であった。
外交関係における主権国家原理の適用という点では、1876年に締結した日朝修好条規と同付録・通商
章程にその基本構造が典型的に表われている。すなわち、修好条規第1款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ、
日本国ト 平等ノ権ヲ保有セリ。嗣後両国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ、彼此互ニ同等ノ礼儀ヲ以テ相
接待シ、毫モ侵越猜嫌スル事アルヘカラス」と自主対等の関係をうたったが、第10款で日本の領事裁判
権を認めさせ、さらには往復文書で朝鮮の関税自主権を奪い、無関税を強要した。自主対等な主権国家
関係の適用は朝鮮の清国への宗属体制からの離脱を求めるものであったが、領事裁判権や関税自主権の
収奪は日本が西洋諸列強から押しつけられた不平等な関係を一転して朝鮮に押しつけるものだったの
である。
そして、このような不平等条項の強制をともなった主権国家原理の適用は、日本の先進性・優位性を
自負する日本誘導論・盟主論を基軸としてアジア提携論・連帯論と連動している。福沢の『時事小言』
(1881年)と「朝鮮の交際を論ず」(1882年3月)は、その典型例であろう。すなわち、『時事小言』での
提言は次のようなものであった。
「今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊に
我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。
故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非ずして自から為にするものと知る可し。武以
て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に倣て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざ
るの場合に於ては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。輔車相依り脣歯相助るとは、同等の国と国と
4
の間には通用す可しと雖ども、今の支那朝鮮に向て互に相依頼せんことを望むは、迂闊の甚しきものと
云ふ可し。何ぞ之を輔と為し又脣と為すに足らんや。今日の要は何等の方便を用ゆるも、唯これを誘導
して我と共に運動を與にする程の国力を附與し、以て其輔たり脣たるの実効を奏せしむるに在るのみ。
若しも然らずして、今の成行に任せ、今の有様に放却し、我より之を助けず、彼亦自から奪はず、不幸
にして一旦此国土が西洋人の手に落ることもあらば、其時の形勢は如何なる可きや。我ためには恰も火
災の火元を隣家に招きたるものにして、極度の不祥を云へば日本国の独立も疑なきに非ず」(9)と。
趣旨は、日本の独立維持のための類焼予防論ともいうべきものであるが、ここでは「西洋の諸国が威
勢を以て迫る」危機感のもとで、
「我と共に運動を與にする程の国力を附與し、以て其輔たり脣たるの実
効を奏せしむる」という日支朝の提携論が力説されている。ただし、文明化に先進国たる日本による遅
鈍なる中国・朝鮮への武力干渉も辞さない誘導が条件となっている。先の『通俗国権論』の延長線上で
の日支朝提携論の提唱だったのである。
「朝鮮の交際を論ず」においては、「日本は既に文明に進て、朝鮮は尚未開なり」という実況下にあっ
て、
「我日本の国力を以て隣国の文明を助け進るは、両国交際の行き掛りにして、今日に在ては恰も我日
本の責任と云ふ可きものなり」、あるいは「此時に当て亜細亜州中、協心同力、以て西洋人の侵凌を防が
んとして、何れの国かよく其魁を為して其盟主たる可きや。我輩敢て自から自国を誇るに非ず、虚心平
(10)
との日本
気これを視るも、亜細亜東方に於て此首魁盟主に任ずる者は我日本なりと云はざるを得ず」
盟主論が鮮明に打ち出されているのである。
とくに、1882年7月の壬午軍乱において日本公使館が襲撃され、花房義質公使が反乱軍包囲のなかを公
使館員とともに京城から仁川に脱出し、英国の測量艦に搭乗してようやく日本に帰国し、改めて軍艦数
隻を率いて朝鮮に赴くという事態の衝撃を引き金にして、武力干渉を伴うような日本盟主論が勢いを増
していったのである。
しかし、立憲改進党の指導者小野梓(1852∼1886)が壬午軍乱直後の「外交を論ず」(1882年10月)
で、
「我れ韓人を威服せり、我が武是れ揚ると謂ふに至らば、韓人は愈々怨み、清人は愈々疑ひ、其極や
東洋の大局を誤るに至らむ」
と憂慮し、
「支那に与ふるに疑を解くの便を以てせよ、朝鮮に与ふるに怨を
散ずるの便を以てせよ」と、「日清韓は共同して其関係を正し」て「東洋の大局」に処するべきだとの
「大智謀」を求めている。小野も「我邦は実に東洋文明の先導者たり」(11)との自負の念と使命観を語っ
ているが、あくまで外交的方便を以てする日清韓の友好関係の樹立を強調したのである。
このように緊迫する東アジア情勢のもとで武力干渉をも辞さないような強硬論と友好的外交関係樹
立論の振幅をともなってアジア連帯論と日本盟主論は推移したが、民間交流による連帯強化の動きも始
まっている。1880年3月に結成された興亜会がその魁である。渡辺洪基「興亜会創立大会における演説」
によると、各国交際は「独り官府公然の交際を以てのみこれを能くすべき者にあらず、必らず彼国の志
士此国の志士と居常相交わり意気相通ずるに因らざるべからざるなり」なのであって、
「アジア諸邦の人
(12)
して興亜会が結成されたのであった。その淵源は日清修好
士と親交し且つ形況を互に相知らんと欲」
条規(1871年)に基づき1877年に初代駐日公使として赴任してきた何如璋と大久保利通が親交を結び、
東京に日清両国の語学校を開設して「両国の洪益」を謀らんと合意したことにあったが、会員数は創立
当社から百名を超え、会長の長岡護美、副会長の渡辺洪基はじめ曽根俊虎、宮島誠一郎、柳原前光、大
久保利和(利通の子息)ら政府高官を含めた錚々たるメンバーを擁し、中国・朝鮮からの参加者もあっ
た。
「欽差大臣何公使と曽根氏の談話」(1880年4月)によると、「興亜の二字は我がアジア衰靡の大局を
挽回せんことを要するの意なり、すなわち該全州の衰頽を挽回せんと欲するときは亜州の諸邦合従連衡
相共に心志を同じうし緩急相扶け苦楽相共にするにあらずんば勢可ならざる也」(13)との主意に基づく
5
命名であった。具体的活動の主眼は興亜学校を開設し中国語に堪能な人材養成にあったが、中国・朝鮮
から来日した外交使節や随行員たちとの交流を重ねていることは重要である。とくに日朝間の緊張が高
まっていくなかで、発足後間もなく興亜会は朝鮮からの第2回修信使金弘集に対して招待状を送ってお
り、翌81年に62名からなる紳士遊覧団(政府視察団)が来日した際には、魚允中や洪英植らを神田開化
楼に招待して宴会を開くなど、開化派=独立党グループとの交流を広げていったことは注目すべきであ
る。
外交論としては朝鮮問題で強硬論を唱えていった福沢は、紳士遊覧団の魚允中との協議で兪吉濬と柳
定秀を慶応義塾に入学させており、興亜会には小幡篤次郎・中上彦次郎はじめ慶応義塾関係者も多数参
加していた。福沢はこのように親日的な開化派メンバーとの交流を深め、かれらの手による中国からの
朝鮮の独立運動と内政改革に多大の期待を寄せ、その支援策として強硬論を提唱していたのである。
その極点が1884年12月の甲申政変であった。すなわち、金玉均・朴泳孝・洪英植ら急進開化派グルー
プは日本公使竹添進一郎指揮の日本軍の援護を受けて親清派=事大党政権打倒のクーデターを起し独
立党政府を樹立したが、清国軍の出動によってわずか3日目に崩壊した。洪は殺害されたが、金らは福沢
が派遣していた井上角五郎らの尽力で日本に亡命したのである。
福沢はこの甲申政変の衝撃と朝鮮の国内改革支援断念から1885年3月に「脱亜論」を発表している。そ
のポイント は「左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可ら
ず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特
別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を
免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(14)ということにあった。福沢は
中国や朝鮮との提携論を断ち切った。しかし、武力干渉をも辞さない強硬論をとっていたとはいえ、一
貫して主権国家原理を通しての提携関係を求めていた文明論者福沢は、宗藩関係による冊封体制に固執
して自主対等な外交関係を否定するような旧体制政府側の決定的勝利と独立党=開化派の壊滅に深刻
な打撃を受けたのであって、その意味では朝鮮改革の当面の可能性に絶望し、肯て「脱亜」を宣言した
のである。したがって、金玉均ら開化派メンバーへの同情と支援を断ち切ったのではなかったが、それ
にしても、主権国家原理と宗藩国家原理が交錯する東アジア地域において連帯論は、現実的には、日清
のヘゲモニー争いを伴って困難な状況におかれていたといえよう。
この点で、福沢が「脱亜」を宣言した1885年に初稿がなされ、1893年に公刊された樽井藤吉(1850
∼1922)の『大東合邦論』は、これら2つの原理を使い分けながらの連帯構想としてユニークなもので
あった。先ず日本と韓国(地域の旧称を用いている)が対等な関係で合同して大東という合邦を創り、
次いで大東国と清国が合縦するという構想であった。すなわち、日本と韓国との合邦については「彼此
同等は交際の通義なり。ゆえに万国公法を説くものは、土地の大小、人民の多寡をもって階級を立て
ず」(15)と、主権国家間の平等原則が忠実に適用されている。大東という名称を冠したのも、両国の旧称
を用いることによる差別の疑念を避けるためであった。そのうえで中国と朝鮮に現存する宗藩関係に配
慮して大東国と清国との間における合縦関係を提言しているのである。
このような合邦と合縦関係の組み合わせによる連帯論は実現性においては乏しかったとはいえ、発想
が独創的である。そのユニークな発想は、1882年東洋社会党結成を企てて投獄され、壬申軍乱や清仏戦
争に刺激されて朝鮮・中国への関心を強め、1884年末広重恭を館長として杉田定一・日下部正一らが上
海に渡って設立した東洋学館に協力し、朝鮮の金玉均とも往来しながら85年11月発覚の大阪事件に連座
して起訴されるなど波乱に富んだ体験のなかから生まれているのであろう。民権活動家や大陸浪人を通
しての日支朝の民間交流の事例であり、そこには時々の外交政略にふりまわされないより広い視野から
6
のアジア連帯論の可能性が秘められていたのかも知れない。
三
日清戦後の東アジア地域の国際環境は一変した。日清戦争の勝利によって日本は台湾領有、朝鮮への
進出など東アジア諸国のなかでの主導的地位を確立した。そして、清国の敗北に勢いを得た西洋諸列強
の中国侵略は一段と激しさを増した。1897年11月ド イツの膠州湾占領(翌年3月租借)、98年3月ロシアの
大連・旅順租借と南満州鉄道敷設権獲得、4月フランスの広州湾占領(翌年11月租借)、6月から7月にか
けてイギリスの九竜・威海衛租借と、主要地域における「中国分割」が進行し、中国は半植民地化され
たのである。
日清戦争を「膨脹的日本が、膨脹的活動をなすの好機」ととらえ大日本膨脹論を提唱した徳富蘇峰は
「東洋に於て国民的膨脹の根拠を作る」べく、以後一貫して朝鮮・中国への進出を鼓吹したが、このよう
な西洋諸列強の中国分割の進行について「欧州列強の勢力が如何なる威迫を以て我東洋を圧し来りつつ
ある乎を悟るべ」(16)きであると語り、「世界権力平均の中心点が極東に移るに従つて国家生存の問題が
(17)
と、中国を中心に東アジア地域が西洋諸列強による世界支配の焦点になって
重要の度を加へ来りし」
きているなかで、
「国家生存の問題」が一段と厳しさを増しているという危惧の念をもらしている。日本
の東アジア地域への膨脹と西洋諸列強の圧迫、その意欲と危惧の念が交錯するなかで、蘇峰は1897年5月
の「東方に於ける平均と偏重」において、「民族の同情は国家を超越するあり」、「民族の盛衰は国家の消
長に至大至重の関係を有す」とのべ、日清韓三民族が提携して西洋諸列強に対抗し、アジアにおける東
西勢力の均衡をはかれと説いている。
「友国は日本をして東方勢力の主地に置くに非ざれば、其国勢を保
つこと能はず」との日本盟主論が前提にはなっているが、西洋諸列強に対抗するため日清韓の民族提携
「真個の経世家は
論の主張であった(18)。ところが、その4ヵ月後の9月に発表した「憎黄的悪感」では、
更に人道的大眼界をひらき、世界人類の共通的性情を看取し施設する処あり。況んや我国の如きは、一
時の権道よりするも、人種的猜疑心を挑発鼓舞するは皆害絶利なる今日に於てをや」と説いている。こ
こでは、「人種的猜疑心を挑発鼓舞する」ようなアジア民族提携論は斥けられ、「世界人類の共通的性情
を看取」する「人道的大眼」が求められている。明らかに、それは西洋諸列強に寄り添う姿勢であっ
た。1902年1月の日英同盟協約の報に、世界第一の強国イギリスが「我に向けて求めた」同盟関係の締結
は「始めて具体的に我が国民をして、世界的政治の一部に参与することを自覚せしめたる」(19) 快挙で
あると随喜しているのは、そのことを物語っている。
これに対して「或は日英同盟といひ、或は日露同盟といふ是れ畢竟は事大的の卑劣なる根性に本く愚
論のみ」として「東亜の大同盟」(1897年)を提唱したのが田岡嶺雲(1870∼1912)である。
「彼ら虎狼
の国、東亜を一魂の肉視して互に其爪牙を磨くなり」との急迫した状況のもとで、
「日清同盟して先づ韓
国より露国の勢力を駆りて日韓清三国の同盟を造らん。而る後着々歩を進めて暹羅安南より仏国を駆り
インド より英を駆り、而して終に東洋より全く白人の勢力を攘はん」と、日清同盟から日韓清同盟へと
拡大し、さらには全アジアの解放を展望したのである。ここでも、
「日本は東洋の先覚者なり、東亜連衡
の主道者たるべし。此をなすは日本の天職なり、嗚呼日本の天職なり」との日本盟主論が顔をのぞかせ
ているが、当時一般化した中国蔑視の風潮に対して民族的覚醒に期待しつつの東亜合同論であったこと
に注目すべきであろう。
「彼の二十七八年の役なるものは、彼の近視なる当局者、軽浮なる国民が謬信せ
る如く単に支那を撃砕して快哉を呼ばんが為めに幾万の骨を枯らせしにはあらざるなり。其目的は啻に
朝鮮の独立を扶殖せんが為めのみにはあらず、更に進んで東洋平和の維持の為めに、此に依て支那国民
7
の頑迷を覚醒せんとせしのみ。支那を弱めんとせしにあらず、吾封彊を拡めんが為めにせしにはあら
ず、支那国民を興奮せしめんが為めに刺激の劇剤を投ぜしのみ。当時国民の意向は謬り、当局者の措置
は誤りたれども其効験は確かに著はれて、今や此帝国猛然としてその長眠より覚めて将に開進の途に就
かんとし、一道の光、彼国土を照すを見る。嗚呼東亜合同の機は将に熟せんとす」と、民族的覚醒を前
提にした、少くとも期待可能性を持した東亜合同論だったのである。
ところで、嶺雲は「今日の大勢が既に国と国との争奪にあらずして、人種間の競争にあり」として
「二十世紀以後はそれ黄人種と白人種との角逐乎」(20)と予測している。西洋諸列強の一丸となっての
「中国分割」を眼前にしての危機感から生まれたものであろうが、これを更に一歩進めて人種闘争史観に
立つ「東洋モンロー主義」を提唱したのが東亜同文会を組織して会長になった近衛篤麿(1863∼1904)
であった。1898年1月号の『太陽』に発表した「同人種同盟 附支那問題研究の必要」によると、「欧州
政略に原因せる列国自身の競争」から「黄白人種の競争」への進展が日清戦後の特色であった。それ
は、白人種の黄人種の蔑視・侵略だけではなく、
「日清戦争に於ける日本人の伎倆を見て俄かに黄人種の
侮り難きを悟り、反つて大に之れを畏るゝの色」
を呈しつつあるからでもあった。そして、
「最後の運命
は、黄白人種の競争にして、此競争の下には、支那人も、日本人も、共に白人種の仇敵として認らるゝ
の位置に立たむ」と覚悟したうえで、「総ての黄人種国は大に同人種保護の策を講ぜざる可からず」と主
張したのである。具体的には「日清同盟論」、中国領土「保全」論の提唱であったが、それは「東洋モン
ロー主義」の構想であった。すなわち、変法自強改革(1898年6月)に対する戊戌の政変(同年9月)で
日本に亡命した康有為に会った際(同年11月)
、近衛は「東洋は東洋の東洋なり。東洋人独り東洋問題を
決するの権利なかるべからず。米州モンロー主義、蓋し此意に外ならず。東洋に於て亜細亜のモンロー
主義を実行するの義務、実にかゝりて貴我両邦人の肩にあり。今日の時局容易に此事を行ふべくもあら
ず。而かも我最終の目的此辺にあらざる可らず」(21)と、アメリカのモンロー主義に模してアジアのモン
ロー主義を打ち出しているのである。
東亜同文会は対外硬派代議士グループ、政教社グループ、玄洋社グループ、大陸浪人たちの寄り合い
世帯で国権主義的色彩が強かったが、上海に東亜同文書院を設立して中国との民間交流に努め、張之洞
はじめ改革派グループとのつながりもあり、革命運動の指導者孫文を支援する宮崎滔天も会員であっ
た。これらのネットワークを形成しつつ日清同盟論が提唱され、東洋モンロー主義が構想されたところ
に特色があったのである。
やや図式的にまとめるならば、体制派言論人を代表する徳富蘇峰の提携論は、政府間の外交関係を
ベースとしたいわば国家的提携であり、西洋諸列強との協調・提携を優先させながら主権国家原理の帝
国主義的再編への参入を狙ったものであったのに対して、近衛篤麿ら東亜同文会グループのそれは、基
本的には帝国主義的再編の枠内にあったとはいえ、西洋諸列強と対峙する姿勢のもとで、民間ベースで
の友好的提携関係を志向しようとするものであったといえよう。
さらに、
「アジアは一つ」(『東洋の理想』英文、1903年)との標語を掲げて独自の立場からアジア連帯
論を唱えたのが岡倉天心(1863∼1913)であった。天心は「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である!
歴史の進行は、西洋がわれわれに敵対するのを避けがたくする歩みの記録である」と断じ、そのために
は「東洋の民族はめいめいが、その再生の種子をみずからの内部に求めねばならない。汎アジア同盟は
(22)
と訴
それ自身はかり知れない力であるが、まず個々の民族が自分自身の力を感じなければならない」
えている。では、自己実現の根源であり、アジア諸民族の紐帯たりうるものは何か。
「アジアは一つであ
る。二つの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド 人とを、ヒ
マラヤ山脈がわけ隔てているのも、両者それぞれの特色を強調しょうがためにすぎない。雪を頂く障壁
8
といえども、すべてのアジア民族にとっての共通の思想遺産というべき窮極的なもの、普遍的なものに
対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない」(23)。その「窮極的なもの」「普遍的なも
の」とは「美」であり、芸術と常に結びついている「宗教」であった。そして、文明はこの窮極的・普
遍的価値を自己実現する手段であった。
こうして近代西洋文明は相対化され、人間の本性に根ざす美的・宗教的価値の窮極性・普遍性が強調
され、アジア諸民族それぞれの自己実現と連帯の源泉とされることになったのである。
このような天心のアジア連帯論はロマン主義的であり、合理主義的西洋近代文明への対抗原理とし
て、後に日本ファシズムに悪用されることになった。しかし、
「西洋のやましい良心は、しばしば黄禍の
幻影を呼び招いた。それならば東洋の静かな凝視を白禍に向けようではないか。私は諸君に暴力ではな
く、男らしさを求めているのだ。攻撃をではなく自覚を呼びかけているのだ」(24)との訴えは、力による
「白禍」への対決ではなく、本来的には、覚醒による共生を希求していたものとみなすことができよう。
四
徳富蘇峰流にいえば、日露戦争(1904∼05年)は、日清戦争が「日本国民が帝国的に覚醒したる時
期」であったうえに、
「帝国的に世界より承認されたる時期」(『大正の青年と帝国の前途』)としてのエ
ポックをなした。西洋諸列強の一角を占めていたロシアへの勝利によって、日本は西洋諸列強による帝
国主義的国際秩序の担い手に参入し、韓国併合(1910年)、関税自主権の確立(1911年)、そして第一次
世界大戦(1914∼18年)において連合国の一員として参戦し、大戦後成立した国際連盟では常任理事国
の地位を占めるにいたり、五大国の一つとして国際政治における発言権を強化したのであり、アジアに
おいては「東洋の覇者」たる地位を確立したのである。
他方、先の孫文の講演「大アジア主義」によれば、
「日本がロシアに戦勝した日より、全アジア民族は
ヨーロッパを打倒しようと考えて、独立運動を起こしました。だからエジプト に独立運動が起こり、ア
フガニスタン、アラビアに独立運動が起こり、インド 人もこれより独立運動を起こすようになりまし
た。日本がロシアに戦勝したことの結果は、アジア民族の独立という大きな希望を生み出したのであり
ます」(25)ということになる。隣国中国では1911年に辛亥革命が起こっている。日清戦争を機としたアジ
アにおける「民族的覚醒」は、日露戦後の20世紀初頭に独立運動の潮流を形成していったのである。
したがって、日露戦後のアジア連帯論は、蘇峰的にいえば、「帝国的覚醒」から「東洋の盟主たる大責
任」の「自覚」へと進展するなかで、現実の独立運動へと展開するアジア・ナショナリズムにどのよう
に向きあうのか、どう理解するのかという課題に直面していったのである。内においては大正デモクラ
シーの運動として現出した民衆的潮流をどのように受けとめたのかという問題と重なりあうことにも
なったのでもあった。
その一つの代表的な形態として蘇峰の東西文明調和論から白閥打破論、アジア・モンロー主義への展
開をあげることができるであろう。日露戦後に登場した東西文明論は大隈重信(1838∼1922)が主唱し
たものであったが、蘇峰も一時期同調していた。それは、相対立している東西文明は本来融合調和すべ
きものであり、そうしてこそ初めて黄白人種間の割拠が除去され世界の平和も達成されるとする主張で
あって、それは東洋に位置しながらも西洋文明の摂取融合に成功した唯一の国である日本の使命であら
ねばならないと説かれた。しかしその意図するとろは、アジア諸国民の民族的個性や自主性の尊重に
あったのではなく、現実的にはそれを切りすてることにあった。
「脱亜入欧」を果たし、アジアにおける
「欧西文明の先駆」と自任する日本が、西洋諸列強と相提携して「東洋諸国を開導」し、「宇内共通文明
9
(26)
の範囲を拡充する」
ことにあったのである。したがって黄禍論に示されるような西洋諸列強の猜疑の
眼には、
「我が大和民族が、黄人同盟の覇主となりて、白皙人種と対抗せんとするものにあらず」(27)と
弁明しつつ、蘇峰はアジアへの国家的膨脹を東西文明を調和させ「宇内共通文明の範囲を拡充する」も
のとして正当化せんとしたのである。
しかし、1913(大正2)年ごろより「白閥打破」論を高唱するようになった。
「世人徒らに藩閥を説
き、学閥を説き、財閥を説き、軍閥を説き、党閥を説き、甚しきは閨閥を説く。而して未だ白閥に及ば
ざるは何ぞや」と「白閥」への注意を喚起し、「吾人は単に大和民族の為めと云はず、世界の為め、人道
の為に、白閥を退治するの必要を感ぜずんばあらず」(28)と、「白閥退治」を訴えている。そして、1913
年12月に刊行された『時務一家言』では、国際社会における「白閥の跋扈」の脅威を力説し、
「世界兄弟
の論」のごとき「平和主義」は西洋諸大国の強大な力に屈服し「其の保護色の下に、隠れんと欲する」
ものであり、日露戦争直後蘇峰自身も唱えた東西文明調和論も西洋諸列強との対決を逡巡する「体の善
き遁辞を作りたる」(29)ものと排斥しているのである。
このような「白閥打破」論が「藩閥打破、憲政擁護」を求める護憲運動(1912∼13年)の波を排外主
義的に誘導しようとする意図のもとで唱導されていることは明白であるが、対外的にも日英同盟関係の
冷却化や米国における排日運動の進行など蘇峰が身を寄せてきた「宇内共通文明」への信頼感に亀裂が
生じてきていることも事実であろう。それと並んで、ここでは蘇峰における辛亥革命の衝撃に注目して
おきたい。辛亥革命ペスト 論である。すなわち、辛亥革命勃発後蘇峰は、
「吾人は清国の現状を見て、頗
る同情に禁へざると同時に、清国に向て教訓せんよりも、自ら教訓せらるゝの已む可らざるを覚ゆ。何
となれば、是れ皆一種の実物教育なれば也」(30)と、日本にとって大きな「教訓」「実物教育」であると
注意を喚起している。では、その内容は何か。それは、
「国家的観念」と「国家的結合力」の欠如という
「内部の弱点」がひきおこした国家秩序の動揺であった。そして、そこに「東洋人種にして未曾有の共和
政体」樹立に向う趨勢を看取して「ペスト は有形の病也、共和制は無形の病也」(31)との警戒心・恐怖心
を表白しているのである。直接的には革命運動が、立憲君主制への改革の枠を超えて共和制樹立へと進
展しつつあることへの危機感であったが、そこに見られる民族的覚醒が膨脹日本の前に大きく立ちはだ
かることになるのではないかという警戒心でもあった。しかも、このような警戒心の昂進にともなっ
て、「清国事件を対岸の火として、勝手に評判するの外、何等の抱負も、経綸を無きものに似たり」と、
確固たる「大陸経営」策の欠如を憂えながら、「大和民族は、世界の於ける民族中、殆んど孤立孤行の民
族也」との「孤憤」が吐露されるようになっているのである。もちろん、それは「他の同情の如きは、
半文銭にも値ひせず、我は只た我が見る所を決行し、遂行するにあるのみ」(32)という断固たる決意のも
とにおいてである。中国は「提携」どころか「離反」しようとしている、そこに生まれる「孤憤」をも
とに、1916年に著述された『大正の青年と帝国の前途』において、アジア・モンロー主義が称揚された
のである。
「亜細亜モンロー主義とは、亜細亜の事は、亜細亜人によりて之を処理するの主義也。亜細亜
人と云ふも、日本国民以外には、差寄り此の任務に膺るべき資格なしとせば、亜細亜モンロー主義は、
即ち日本人によりて、亜細亜を処理するに主義也」(33)と。ここには、アジア・ナショナリズムを受けと
めようとする姿勢は全く見られない。「日本人によりて、亜細亜を処理するの主義」として「東洋自治主
義」が説かれているのである。この姿勢は『時務一家言』において、時の桂内閣を倒壊にいたらしめた
護憲運動での民衆勢力の台頭を前にして、「勢力は既に人民に推移せり」と「事実は事実」として「平民
主義の旺盛」を認めつつも、
「いさと云へは、市民大会は、開催せられ、いさと云へは、焼打事件は出て
来る」といった「街頭の物語」(34)として噴出する民衆運動への恐怖心と不信感を表明していることと軌
を一にするものであったが、「民衆国家主義」を提唱した大正デモクラット 永井柳太郎(1881∼1944)は
10
中国の革命運動と日本の民衆運動を結びつけようとする姿勢で「日支提携論」を提唱している。
すなわち、永井は辛亥革命の進展を「支那を以て支那人の支那とせんとする自主的運動の序幕」と受
けとめている。
「今日の支那に於ける革命の如きも、これを以て歴代の革命に比せんは甚敷き誤解なり。
過去の支那に於ける革命は、その禅譲に依れるものも、その放伐に依れるものも、またその騒乱に発し
たるものも、凡て目的は主権者の変更にありき。その政治制度に至ては数千歳を通じて同一の専制主義
を繰返したるのみ。然るに此度の革命は、その主眼とする所、決して王朝の変更といふが如き小事にあ
らず、支那の政治制度を根本より改革して、かの日露戦争時代より引続き国民の熱望しつつある変法自
強の実を挙げんとするにあり」と。まさに、「支那を以て支那人の支那とせんとする」(35)民族的覚醒の
政治的表現として受けとめたのである。
辛亥革命の意義をこのように受けとめた永井は、翻って「現時の日本人は僅かに二三回の戦争に勝ち
たりとて、忽ちに世界の大国民を以て自負し、自己を省みるを知らず、また敵を学ぶを知らず、支那革
命の如きも、これを目して支那人の自力を弁明せざる冒険なるが如く冷笑」するような「皮相の見解」
(36)
に反省を促している。辛亥革命への共鳴を通して「名のみ一等国」の虚名に酔い痴れている日本人へ
の警告と大正デモクラシーの民衆的潮流への声援を送っているのであるが、蘇峰が提唱したような東西
調和論やアジア・モンロー主義への批判も手厳しい。すなわち、東西文明調和論は、
「東西文明の調和を
日本民族のみに独特なる事業である」とみなす点で「余りに民族的個性を無視した議論」(37)であった。
永井によると、それぞれの民族が、あるいは「意識的」に、あるいは「無意識的」に東西文明の調和に
貢献しつつあるのであって、この現実あるいは可能性を無視するような東西文明調和論は、いわば「世
界的帝国主義」に寄り添いながら、自国の独善的優越感を喚起し、アジア諸民族を蔑視してその自己解
放に向けての主体的エネルギーを評価しようとしない点に問題があったのである。
これに対し、いわば東西文明対決論として、
「日本民族が東洋人の盟主となり西洋人と天下の覇権を争
ふを以て其天職である」と主張するようなアジア・モンロー主義も、第一に、人種・宗教・思想・感情
など「共通の系統」なく、むしろ「多種多様」なることを特色とするアジア世界において、日本が「盟
主」
としてこれらの民族的個性を封殺せんとする点で、さらには、
「西洋人が天下の覇権を私する事の不
正なる如く、東洋人が恣に天下に号令する事も正義でない」という点で、「一種の誇大妄想狂」(38)以外
の何物でもないと糾弾したのである。
五
辛亥革命をはじめアジア・ナショナリズムの衝撃は、更に第一次大戦後1919年の朝鮮における三一運
動や中国での五四運動によって一段と深刻化した。植民地下の武断統治への憤怒を爆発させた三一運動
は「独立宣言」のもと200万人以上が参加した朝鮮近代史上最大の民族運動であり、中国における民族的
覚醒は、21カ条要求(1915年)を突きつけるような日本帝国主義に対して排日・抗日運動を展開するよ
うになり、それも青年・学生・労働者・農民への民衆的広がりを持つようになった。こうしたアジア・
ナショナリズムの進展にどのように対応したのか、アジア連帯論と日本盟主論はまさに正念場を迎えた
といえよう。
大正デモクラットのなかで、最も徹底した日本帝国主義批判を行い、アジア連帯の可能性を追求した
のが、「小日本主義」を唱えた石橋湛山(1884∼1973)であった。すなわち、第一次世界大戦への参戦に
あたっても「青島は断じて領有すべからず」(1914年11月)と主張し、「対華21カ条要求」で国論が沸騰
した際も「禍根をのこす外交政策」
(1915年5月)と、その「露骨なる領土侵略政策の敢行」と「軽薄な
11
る挙国一致論」を糾弾した。そして、戦後の国際協調主義のもとで軍備縮小とアジア・太平洋地域の秩
序安定を目的としたワシント ン会議に際し、改めて「大日本主義の幻想」からの覚醒を求めている。「日
本本土以外に、領土若くは勢力範囲を拡張せんとする」大日本主義は、アジア諸民族の反撥を招くだけ
でなく西洋諸列強からの理解を得ることも困難であり、国民経済発展の点からしても利益にならない。
むしろ、西洋諸列強に率先してアジア植民地を解放し、また既得権益を放棄してアジア諸民族からの信
頼を回復し友好関係を樹立せよとの主張であった。朝鮮の独立運動、台湾の議会開設要求運動、そして
中国での排日・抗日運動など東アジア地域での民族的覚醒が進展するなか、「彼らは結局、何等かの形
で、自主の満足を得るまでは、その運動をやめはしない」
と断言し、
「何うせ棄てねばならぬ運命にある
ものならば、早くこれを棄てるが賢明である」(39)と、「大日本主義の幻想」からの開眼を迫ったのであ
る。要は、三一運動について「鮮人暴動に対する理解」で指摘しているように、「先ず以て鮮人の暴動を
如何に理解すべきか」という点こそ問題であった。その統治政策がいかに「善政」を標榜しようとも、
根本的には「被征服民族に対する征服民族の掠奪」以外の何物でもなく、「鮮人の生活(生活の根本義は
自治)を奪い居ることに気が注かぬ」限り、
「鮮人は結局其独立を回復する迄、我統治に対して反抗を継
続するは勿論、而かも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、其反抗は愈よ強烈を加うるに相違な
い」(40)と警告しているのである。
このように湛山は、近代日本のナショナリズムにまとわりつき、とくに日清戦後から強調された対外
的膨脹主義からの脱却を求めた。アジア連帯論が常に前提としていた日本盟主論の幻想を断ち切ろうと
したといっても良い。そして、このことは西洋諸列強にも反省を促し、新らたな国際協調への道を切り
拓くことを期待するものであったが、この期待をブロック間共存というかたちでアジア連帯と国際社会
の安定秩序を結びつけようとしたのが、浮田和民(1860∼1946)の「新亜細亜主義」(1918年7月)で
あった。蘇峰のアジア・モンロー主義が日本盟主論と白閥打破論によって構成されていたのに対し、先
ず「新亜細亜主義の積極的要件は亜細亜の列国をして其の内治上に各々完全なる自治独立を保持せし
め、而して其の外交上には亜細亜全体の正義と平和とを確保するに足る一種の協同を成立せしむること
である」と、
「自治独立」と「協同」の二原理による連帯を打ち出し、そのうえで「先ず新世界は米国を
中心として、欧羅巴は英仏独墺伊等の連合、又た東洋は日支協同を基礎として各々部分的に一種の平和
協同を為すのが世界の平和を確実ならしむる最捷径路である」という構想であった。アジア諸民族の
「自主独立」論をどこまで徹底したものであったかとの問題は残るが、アジア・ナショナリズムの進展を
積極的に受けとめ「日露戦争前と全然其の方針を一変する」ことを求めた連帯構想として評価できるで
あろう(41)。
ところで湛山は、アジア・ナショナリズムの高揚を示す三一運動に直面して、
「鮮人暴動」を「いかに
理解すべきか」ということが先決的問題だとしたうえで、人間存在の根源たる「生活」=「自治」の視
座からその理解を進めるよう主張した。それは、岡倉天心がアジアの再生=自己実現の「種子」を人間
の本性に根ざす美的・宗教的価値に見い出し、日清戦後の勝海舟が「国家の興亡」を超えた人間生活の
場である「一体の社会」への着眼を求め、延いては近代国民国家形成の出発にあたって福沢諭吉が「一
身独立して一国独立す」
(『学問のすゝめ』)
と説いた文明原理の問題に改めて立ち戻る地点に立たされて
いたことを物語る提言であったといえよう。
この点、大正デモクラシーの理論的指導者であった吉野作造(1878∼1933)が、「我国の東方経営に関
する三大問題」で、国防問題・経済問題・文化問題の三者をあげ、文化問題の重要性を指摘しているの
は注目に値する。すなわち、吉野によると、
「我国の官民は、従来支那といふものを考へる時に、其の頭
の中を支配して居つた九部通りの思想は、恐らく皆、意識的に又は無意識的に、国防といふ立場からで
12
あつたらうと思ふ」としたうえで、その立場が行きついた「偏狭なる帝国主義的見地を棄てゝ掛らねば
ならない」(42)と主張している。さらに経済問題においても「特殊権益」に固執するような「排他的・閉
鎖的の嫌」からの脱却を求め、より根本的には東洋諸民族の文化的・精神的覚醒を受け入れる開かれた
「広い立場」
を持つよう訴えている。政治的・経済的レベルのみに囚われない文化的・精神的基底からの
相互理解を土台とした「国民的親善」の提言であった。
したがって、五四運動に直面して吉野は「北京大学学生騒擾事件について」において、「北京に於る此
の最近の出来事を、是迄 々起つたものと同様に単純なる盲目的排日運動とみてはいけない」と「支那
膺懲」論を批判し、その正当な理解を求めたのである。それは「文学革命」を端緒とする「有為なる青
年の覚醒の結果」であり、
「旧式外交を否認して、能く公明に、能く合理的に国家政策を指導せんとする
其の熱心なる意図」の発露であった。したがって、問題は「対支政策の人道的転換を決行」することで
あり、
「官僚軍閥同士の親善は、断じて似而非の親善である。真個の国民的親善は、之から我々の燐邦開
明の諸君と共に、打ち解かなければならない」(43)という「宿題」を提起したものと受けとめたのであ
る。吉野が李大 はじめ新文化運動のリーダーたちとの提携を深め、日中両国の改善・解放運動の提携
を具体化すべく学生間の交流に尽力したのも、この「宿題」への回答の一つであった。また、ワシント
ン会議での中国全権団の活躍についても、
「ヴエルサイユ会議にしても又華府会議にしても、日本の新聞
では敵方の故を以て痛烈に罵倒を加へたのだけれども、実際のところ支那委員の見識は列国の使臣に比
してさう見劣りするものではなかつた。此点に於て日本の全権は位や官歴などばかり偉くて実際の腕の
頗る怪しかつたのは、我々の甚だ遺憾とする所だつた。支那の全権は年こそ若けれ、皆文明の教育を受
け、世界の気分に能く浸み込んで居る。列国の使臣はどうしても彼らの見識に接して此上彼等の要請に
面を背けるを得なかつた。支那が今度の諸会議に於て多くの意外な獲物を得たのは、一つには之等青年
(44)
と、ヤング・チャイナの代表者たちの国際舞台で発揮された見識と
代表者の賜だと謂わねばならぬ」
力量を高く評価しているのである。
さらに、こうしたヤング・チャイナへの注目は国民革命に向う中国ナショナリズムの潮流を「愛国革
命」であると同時に「社会革命」であると受けとめる視点をもたらしている。辛亥革命を「支那を以て
支那人の支那とせんとする自主的運動の序幕」と受けとめた永井柳太郎は、1924年成立の加藤高明内閣
の外務参与官に就任し、幣原外交を補佐する責任ある地位に立った時、例えば同年11月号『改造』に掲
載された吉野作造・長谷川如是閑らとの座談会「対支国策討議」において、国民革命への潮流を「可な
り有望なもののやうに思つて居る」とのべ、この「自主的運動を出来るだけ自然に発達させるやうに、
日本の支那に対する方針を立てなければならぬといふ風に僕は考へて居る」との所信を開陳している。
そして、この根本姿勢に立つ限り内政不干渉主義の外交姿勢は当然のことであり、
「不干渉であるといふ
ことが、日本に取つて利益があるとかないとかいふことは、それは第二の問題」であるとさえ言い切っ
ている。そして、
「革命の潮流」の性格について、軍閥と大資本家が帝国主義列強と結託して売国・買弁
化しているので、
「支那では、民族的自覚を基礎にした支那人の解放運動といふやつと、それから経済上
の独立を要求する資本主義からの解放といふものが、同じ人間に依つて、同じ人に対して、行われるの
だ。だから支那の革命は、愛国革命であり同時に社会革命だ」と、その構造的特色を見事に指摘してい
るのである。そして、1928年6月の国民革命の達成は
「即ち商工業者、農民、労働者、学生等の如き大衆
其者の人間として生きんとする意欲より迸り出づる力は、軍閥の仍つて以て起つ所の兵力、権力、金力
よりも尚ほ一層偉大であると云ふことを、事実に於て、天下に示したのであります」(45)と、「民衆共和
政治」への第一歩を祝しているのであった。
13
六
「大衆其者の人間にとつて生きむとする意欲より迸り出づる力」への信頼に基づく不干渉政策は、日本
国内において軟弱外交として批判を浴び強硬外交が主流になっていったが、
「不干渉」という基本姿勢は
単に外交上の問題だけではなく、アジアを見る目、あるいは交流においても重要な問題ではなかった
か。
中国革命派とほとんど常に一心同体となって活動しつづけ、孫文からの信頼もとりわけ厚かった宮崎
滔天(1871∼1922)は、辛亥革命にあたって、
「已に今日迄多少の力を支那革命に到し来れる吾等浪人
は、余り出しや張らず新らしき真志士軍人を紹介して、彼等に功を為さしむが肝要と心得居候」(46)との
妻あて書簡をしたためており、1919年2月から3月にかけて『上海日日新聞』に連載した「炬燵の中よ
り」では「遺憾ながら最早私共は支那に於て無用の長物なのです」(47)との自己認識を表白している。一
心同体となって革命運動を支援する行動と「無用の長物」と一歩引き下る姿勢、そこに盟主論と連帯論
が調和しうる鍵があったのかも知れない。
アジアにおける民族的覚醒の進展のもとで、もはや「無用の長物」と自己規定した滔天は、日本の進
路について、同じく『上海日日新聞』に連載した「東京より/大正8年」のなかで次のような予言を残し
ているのである。
「何処までも国家主義を以て押し通すべきか、倒れて後已の覚悟あるか。それとも列国と協調を保ち、
若しくばそれ以上の高処に立ち、博士リシャール君の言の如く、徹底せる人道主義を基礎とせる亜細亜
聯盟の主唱者となり、朝鮮を解放し台湾を解放し、更に支那に対する外交を一変して親善の実をあげ、
爾余の諸弱国を助けて平等組織の下に聨邦を組織し以て白人に対抗すべしとなすか。抑も又過激派と提
携して欧米の国家主義に当るべしとなすか。我国家民族の取るべき道、恐らくは此の三者の外に出でざ
るべし」(48)と。
あまりに「出しや張」りすぎた日本の進路が、どの方向に進んだか、もはやいうまでもないことであ
ろう。1943年11月に東京で開催された大東亜会議で採決された「大東亜共同宣言」の欺瞞に満ちた一節
だけを引いておこう。
一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す
一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ、大東亜の親和を確立す
実態から大きくかけ離れた虚偽イデオロギーの宣揚以外の何物でもなかったのである。
注
(1)
徳富蘇峰『大日本膨脹論』
(植手通有編『明治文学全集34徳富蘇峰集』筑摩書房、1974年、所収)
255頁。なお、以下徳富蘇峰に関する言及については、拙著『近代日本と徳富蘇峰』御茶の水書房、
1990年、を参照されたい。
(2) 孫文「大アジア主義」(小野川秀美編『中公バックス世界の名著78孫文 毛沢東』中央公論社、1980
年、所収)256頁。
(3) 孫文『三民主義』(同前、所収)77頁。
(4) 徳富蘇峰「羅馬人と日本人」『国民新聞』1895年7月、
『蘇峰文選』396頁。
(5) 勝海舟『氷川清話』
(勝部真長他編『勝海舟全集』14、勁草書房、1974年、所収)145頁。
(6) 同前、144頁。
(7) 『福澤諭吉全集』第3巻、岩波書店、1959年、所収、32∼33頁。
(8) 同前、第4巻、637頁。
14
(9)
同前、第5巻、187頁。
(10)
同前、第8巻、1960年、28,30頁。なお、この時期の福沢の対外論については、坂野潤治
『明治・思
想の実像』創文社、1977年、とくに同書第1章壬午・甲申事変期の対外論を参照。
(11)
小野梓「外交を論ず」
『内外政党事情』1882年10月、
『東洋論策』(1885年)に収録、
『小野梓全集』
第4巻、早稲田大学出版部、1981年、23∼25頁。なお、当時の自由民権論者はじめ新聞論調について
は、芝原拓自他編『日本近代思想大系12対外観』岩波書店、1988年を参照。
(12)
伊東昭雄『アジアと近代日本』社会評論社、1990年より重引、同書21頁。
(13)
同前、23∼24頁。
(14)
『福澤諭吉全集』第10巻、1960年、240頁。なお、福沢の脱亜論については、丸山眞男「福沢諭吉の
「脱亜論」とその周辺」
『丸山眞男手帖』20号、2002年1月、飯田泰三『批判精神の航跡』筑摩書房、
1999年所収「インテルメッツォ(和辻哲郎/福沢諭吉)」参照。
(15)
竹内好編『現代日本思想大系9アジア主義』筑摩書房、1963年所収、109頁。なお、樽井藤吉『大東
合邦論』の画期的意義については、山室信一『思想課題としてのアジア』
(岩波書店、2001年)第3部
投企としてのアジア主義、参照。
(16)
山路愛山「第二十世紀の論」
『信濃毎日新聞』1901年1月、岡利郎編『民友社思想文学叢書3山路愛山
集(二)
』三一書房、1985年、所収、289頁。
(17)
同「再び徳富蘇峰を論ず」『世界之日本』1901年9月、同前『山路愛山集(一)』1983年、所収、423
頁。
(18)
この徳富蘇峰のアジア連合論については、本山幸彦「アジアと日本―アジア観の変遷を中心にー」
(橋川文三・松本三之介編『近代日本政治思想史Ⅰ』有斐閣、1971年、所収)参照。
(19)
徳富蘇峰「日英同盟の国民的性格に及ほす影響如何」1902年2月、
『蘇峰文選』610頁。
(20)
田岡嶺雲「東亜の大同盟」『万朝報』1897年11月(西田勝編『田岡嶺雲全集』第2巻、法政大学出版
局、1987年、所収)431∼435頁。
(21)
『近衛篤麿日記』第2巻、鹿島研究所出版会、1968年、195頁。なお、近衛篤麿のアジア主義について
は、山本茂樹『近衛篤麿―その明治国家観とアジア観―』ミネルヴァ書房、2001年、参照。
(22)
岡倉天心『東洋の覚醒』1901∼02年稿、死後1938年初刊。『岡倉天心全集』第1巻、平凡社、1980
年、136、163頁。
(23)
同『東洋の理想』
、
『岡倉天心全集』第1巻、13頁。
(24)
同『東洋の覚醒』、
『岡倉天心全集』第1巻、136頁。なお、岡倉天心のアジア連帯論については、竹
内好「日本のアジア主義」
『竹内好全集』第3巻、筑摩書房、1980年、および松本三之介「国民的使命
観の歴史的変遷」
『近代日本の政治と人間』創文社、1966年、参照。
(25)
前掲『中公バックス世界の名著78孫文 毛沢東』258頁。
(26)
徳富蘇峰「東亜の日本と宇内の日本」1904年6月、『蘇峰文選』773∼774頁。
(27)
同「黄人の重荷」1906年1月、『蘇峰文選』892頁。なお大隈重信の東西文明調和論についたは、野村
浩一『近代日本の中国認識―アジアへの航跡―』研文出版、1981年、所収の「近代日本における国民
的使命感・その諸類型と特質―大隈重信・内村鑑三・北一輝―」参照。
(28)
徳富蘇峰「白閥」1913年5月、
『蘇峰文選』1303頁。
(29)
前掲『明治文学全集34徳富蘇峰集』332頁。
(30)
徳富蘇峰「隣邦の教訓」1911年11月、
『蘇峰文選』1144頁。
(31)
同「対岸の火」1911年11月、
『国民叢書36第十二日曜講壇』13∼14頁。
(32)
同「孤憤」1912年2月、『蘇峰文選』1153∼1154頁。
(33)
神島二郎編『近代日本思想大系8徳富蘇峰集』筑摩書房、1978年、所収、230頁。
(34)
前掲『明治文学全集34徳富蘇峰集』330頁。
15
(35) 永井柳太郎「非天下泰平論」『新日本』1912年1月。
(36) 同「支那人に代わりて日本人を嘲る文」『中央公論』1913年1月。
(37) 永井柳太郎『改造の理想』1920年、185頁。
(38) 同前、185∼186頁。
(39) 石橋湛山「大日本主義の幻想」1921年7∼8月、
『石橋湛山全集』第4巻、東洋経済新報社、1971年、
20,24頁。
(40) 同「鮮人暴動に対する理解」1919年5月、
『石橋湛山全集』第3巻、1971年、78∼80頁。
(41)
平石直昭「近代日本の国際秩序観と「アジア主義」
」
、東京大学社会科学研究所編『20世紀システ
ム。
構想と形成』東京大学出版会、1998年、所収、神谷昌史「
「東西文明調和論」の三つの型―大隈
重信・徳富蘇峰・浮田和民―」『大東法政論集』第9号、2001年3月、参照。
(42) 吉野作造「我国の東方経営に関する三大問題」1918年1月、
『吉野作造選集』8、岩波書店、1996年、
301,307頁。
(43) 同「北京大学学生騒擾事件について」1919年6月、
『吉野作造選集』9,1995年、239,242∼244頁。
(44) 同「支那近時」
『中央公論』1922年3月
(45) 永井柳太郎「婦人の人間性解放」1928年6月、
『永井柳太郎氏大演説集』第二集1930年所収、46頁。
なお、永井の中国観については、拙稿「
「民衆国家主義者」永井柳太郎の中国認識」(田中浩・和田守
編『民族と国家の国際比較研究』未来社、1997年、所収)を参照されたい。
(46) 宮崎槌子・長江清介宛宮崎滔天書簡、1911年12月12日、
『宮崎滔天全集』第5巻、平凡社、1976年、
379頁。
(47) 宮崎滔天「炬燵の中より」
『宮崎滔天全集』第3巻、1972年、249頁。
(48) 同「東京より」1919年4月25日の項、
『宮崎滔天全集』第2巻、1971年、128頁。なお、宮崎滔天のア
ジア主義については、上村希美雄『宮崎兄弟伝』アジア編(上)
(中)
(下)、葦書房、1987年、96年、
99年、および同「アジア主義―宮崎滔天を例として―」(西田毅編『近代日本のアポリア』晃洋書房、
2001年、所収)参照。
(本稿は、2003年3月28日・29日、韓国・梨花女子大学にて開催された韓国・東洋政治思想史学会第2回国
際学術大会での第6会議報告原稿を一部補訂したものである)
16
「福本イズム」と「正友会宣言」
― 植民地下の韓国における「社会主義」理念受容の一局面 ―
金 錫根 Ⅰ 社会主義の 「起源」―「後進国の早熟性」
丸山眞男はかつて「後進国の早熟性」の問題について次のように述べたことがある。
翻訳の問題で興味深いことは、共産主義や社会主義の紹介が早いことである。
「後進国の早熟性」
と
でもいうべきか、明治10年代にすでに翻訳・紹介されている。たとえば、
『魯国虚無党事情』(1882
年)とか、ウールセー(Theodore D. Woolsey、1801−89)『古今社会党沿革説』
(1882年)で、「コン
ミュニズ厶・アンド ・ソシアリズム」とルビが振られている。ほかにも、加藤弘之が非常に早く紹介
しており、また福沢諭吉も『民情一新』(1879年)のなかで社会運動、社会主義という恐るべきものが
ヨーロッパには出現してきた、と書いている(1)。
「後進国の早熟性」がある程度一般化できる特性だとするならば、旧韓末そして日本植民地時代の韓国
知識人たちが新しい流れとしての「社会主義」に早くから接していた可能性も無きにしもあらずだ。特
に日本に留学していた知識人たちがそれに接するようになった時期は、相当早くにまで遡ることができ
る。彼らが日本の思想界の流行に関心を持つことは自然なことであった(2)。 韓国人留学生たちによって
起こされた「同盟休校事件」は、
「民族」問題と絡まっているといわれるが、そこには彼らの思想的な早
熟さの片鱗すら窺える(3)。
早くも1950年代に著された先行研究は、朝鮮における「社会主義運動の誕生」について、次のように
述べている。
「朝鮮における社会主義運動の抬頭は、ごく最近のことに属し日、韓合併後上海に亡命した
申奎植らが大正6年上海で『朝鮮社会党』を組織して、朝鮮独立運動をはじめたのが最初のようである。
その翌7年11月には、李東輝がハバロフスクで『韓人社会党』を組織し、いずれも朝鮮独立運動を展開し
ている。そのほか日本留学生のなかには、そのころから社会主義運動を研究していたものはあったが、
実践運動はなんらみられなかった。ところが、大正8年4月、京城で検挙された『大同団事件』は、安昌
浩の影響をうけた崔益煥、全協(元一進会員)らが李 殿下を上海に誘い出して、臨時政府の首脳にす
えようとし、安東まで連行したところを検挙された事件であるが、この『大同団』はその三大綱領の一
項に『社会主義を徹底して実行すること』をかかげていた。おそらく安昌浩の発案によるものであろう
が、朝鮮内では最初の社会主義団体といえるであろう」(4)。
新しい思潮としての社会主義が韓国に「本格的に」紹介、受容されたのは、やはり植民地時代のこと
であり、ロシア革命(1917年10月)以後、就中3・1運動(1919年3月)以後ではないかと思う。朝鮮総督
府警務局で部内用として作成された対外秘資料やその他の関連資料を集めた資料集も、やはり大部分が
3・1運動を起点としている点では、それほど違いがない(5)。 先行研究もやはり、「1920年代」をひとつ
の始発点としてとらえているようである(6)。
1920年代に入り、
「武断統治」から「文化統治」への大々的な支配政策の転換が行われた(7)。そこに
生じたわずかな隙に乗じて植民地下の韓国では「社会主義」が急速に新しい思潮として紹介、受容され
17
はじめた。その時より初めて韓国における社会主義受容の歩みを跡づけることが可能となる。雨後の筍
のように次々に登場した新聞や雜誌などの関連記事から当時の状況を汲み取ることができるようにな
るのである(8)。 例えば『東亜日報』は、4度に渡って掲載した「仏国における社会主義の三大潮流」(1920
年6月22、27、29、30日)
そのほかの記事で、各国の社会主義の潮流を断片的ではあるが紹介し続けてい
る(9)。そのような流れが一種の時代精神として広く社会的な雰囲気を醸し出していたとみられる。その
ような状況の変化は、おそらくつぎのような要因によって、加速度的に進んだものと考えられる。
まず、ロシア革命がもたらした衝撃の反映として一種の希望が抱かれたことが挙げられる。資本主義
社会でない後進国ロシアで急激な革命が展開されたという事実、およびそれに続いて結成されたコミン
テルン(1919年3月)の存在により、社会主義思想を民族解放の理念的基盤として受け入れる基礎がつく
られた。ロシア革命は、従来のヨーロッパ中心の認識から脱し、非ヨーロッパ地域、特にアジア地域に
対する関心を呼び起こしたという点で重要な意味を持っている。アジアの特殊な状況、すなわち大部分
が帝国主義国家の植民地、半植民地に置かれているという状態が「民族」と「民族解放」を焦眉の関心
事とさせ、またコミンテルンもアジアの民族主義運動へ目を向けずにはいられなかった。コミンテルン
による一連の民族テーゼ「民族および植民地問題に関するテーゼ」(1920)、
「東洋問題に関するテーゼ」
(1922)などは(10)、そのような期待と希望を実現可能なものとして信じさせた。
さらに、伝統的な支配階級、あるいは右派ブルジョア民族主義者たちにより展開され、民族主義運動
が、すでにその限界を露呈していた3・1運動で絶頂に達した。このことは思想史的な脈絡における大韓
「帝国」から大韓「民国」への移行とも噛みあっている。もはや「復辟」や「懷古」は居場所がなくなっ
たのであった。「君主」の廃止と「民主共和制」への展望が謳われるようになった(11)。 そのような点か
ら、
「3・1蜂起は韓国民族解放闘争の発展にとって新しい転機となった。この蜂起は韓国ブルジョア民族
運動の絶頂を意味すると同時に、ブルジョア民族主義の旗下では奸悪な日帝との闘争に勝利できず、真
の民族的または階級的な解放が不可能であるということを確認させた。また3・1蜂起はブルジョア民族
主義の優柔不断さと無能力さを明白に暴露しただけでなく、西欧の資本主義国に憧れ、それにすがるこ
とによって国の自主独立を実現しようとするブルジョア民族主義の破産を顕わにした」という指摘(12)
は、妥当する一面をもっていると言えよう。
先に指摘したふたつの要素が絡んではいるが、西欧列強の力を借り又植民地解放と民族独立を達成し
ようとした「外交的な」努力の挫折を、コミンテルンは心理的にではあるが、ある補填してくれた。3・
1運動以後一部の民族主義者たちは、ベルサイユ会議およびワシント ン会議に参列し、韓国の状況に対す
る理解を求めたが、惨憺たる挫折を味わった。その反面、ベルサイユ会議やワシント ン会議に対抗する
かたちでコミンテルンが開催した第1回極東被圧迫民族会議は、彼らを大いに支持してくれた。どのよう
な国際組織も、彼らをそのように熱烈に受け入れたことはなかったのである。ベルサイユ会議に首席代
表として参席していた金奎植も、「あれほど偉大なアメリカ共和国さえも、『利他的』
な見せかけと 世界
の『民族主義』原理について大騷ぎしながらも、ワシントン会議で世界の悪名高い吸血鬼のような帝国
主義国家と恐怖の4か国条約を締結し、すっかりその本性を現していた。しかし、今回の第1次会議では
東アジアの民衆たちが『団結』する必要性を説いている。……韓国の独立は、ロシアの援助で間違いな
く成就するであろう」と言ったほどである(13)。
こうした評価は、社会主義が民族独立、そして民族解放闘争を展開するための理論と運動の特性を明
らかにし、また具体的な戦略を示すとともに、さらには現実的にも国際的な援助を与えてくれるもので
あると信ずるに足るものだと思われたがゆえに生じたものであった(14)。すでにブルジョア民族運動が
限界を見せており,それに満足できなかった若い世代、特に新しい可能性を摸索していた青年知識人た
18
ちが、社会主義にのめり込んでいくのは自然なことであった。彼らによって社会主義は急速に導入され
始めた(15)。
Ⅱ 社会主義 ― 運動、理念、体制
すでに「起源」のところで示唆しているとおり,その頃社会主義を受け入れる通路はおおよそふたつ
あった。ひとつは日本で学んだ留学生たちのルート であり、もうひとつは沿海州で早くから社会主義に
接していた人士たちのそれであった(16)。 社会主義の党組織に直接に加わった動機は多様であるが(17)、
社会主義の「理念」の導入という側面から見ると、やはり日本(東京)留学生が重要性を帯びていたと
言える。社会主義に直接コミットするにいたる動機としては、何よりも理念に対する哲学的な理解が必
要だったからである。他の哲学用語と同じく、「社会」「社会主義」のような訳語もまた日本の知識人た
ちによって作られたものと見られる(18)。 当時それらは留学生たちに無理なく受け入れられたであろ
う。反面、彼ら日本留学生たちに比べて、沿海州の「社会主義者」たちは、国内に活動基盤をもってい
なかったのみならず、国際的な連帯の下に社会主義的革命を志向する、職業的な革命家または活動家に
近かったのであった。
社会主義の紹介と導入が、主に植民地本国の日本で学んだ留学生たちによってなされたという事実
は、それ自体逆説的であるが、さらに一定の限界と特徴を有していた。社会主義との接触とその受容
は、最初、支配階級に属する家門(地主または伝統的な官僚)出身の子弟たちの一種の知的好奇心から
始まったのである(19)。当然、社会主義は革命的な実践という意味よりも、むしろ知的観念の対象として
受容された側面が濃厚なものとなった。さらに彼らが社会主義を理解し、受け入れる過程では、日本に
おける社会主義理解とその受容の様式に少なからぬ影響を受けていた。コミンテルンやロシアと直接的
な関係を通して受け入れられたのではなく ―― 全くないわけではないが ―― 、日本の知識人たちが社
会主義を受け入れ、日本に適用していく過程を見守ることによって、あるいは彼らとの連帯の一環とし
て成り立っていたのである。
ところで、ここで問題は、そのような状況に関する概括的な叙述を越え、社会主義「理念」の受容過
程を具対的に追跡し、述べなければならないという点であり、これは思うほど容易ではない。
「紹介、導
入、受容」という過程は漠然としたものとしては確認できるものの、誰が、どのように「社会主義」と
いう用語を最初に導入して使ったのか、それは「共産主義」とはどのように違った概念として認識され
たのか、また、似たような意味で使われる「主義」「主義者」はいつ、誰が使い始めたのか、といったこ
となどを具体的に把握することは難しいからである(20)。これらの問題については、今後の課題として残
しておくことにし、以下ではかような問題と関連するいくつかの側面を指摘しておくことにとどめる。
まず、韓国の社会主義「研究史」を振り返ると、相当な研究が蓄積されてはいるものの、大部分は
「理念」よりも「運動」に焦点を当てた研究であるという点があげられる。
「思想」と「理念」の実質的
な内容よりは、
「人物」
「組織」
「派閥」による離合集散の退屈な記録であるという感じさえするものであ
る。それらは、「思想史」というよりは一種の「政治史」に近いものであると言える。原因としてはま
ず、思想と理念の内容を追求することの困難があったものと考えられるが、それとともに現象的に韓国
社会主義者たち内部の「分派主義」ないし「派閥」問題が際立っていたという事実も、それなりに作用
したと思われる。派閥問題は、コミンテルンによりたびたび指摘され、韓国社会主義者たち自らもまた
認識していた。これと関連して、派閥と分派の問題は、社会主義の理論的、イデオロギー的な見解を実
践する手段や基本原理に対する論争とは、多かれ少なかれ縁の遠い事柄であったという点も見逃せない。
19
つぎに、韓国で社会主義を受容していた社会主義者たち、あるいは「土着社会主義者たち」は、解放
以後の政局、それに続く分断の過程で、
「政治的失敗」と「没落」の道を歩み出していた点があげられ
る。当時胎動していた冷戦の構図と噛みあっていた解放政局は、互いに異なるイデオロギーを根幹とす
る「体制」を固めていった。解放と分断の時点を境として、社会主義の意味もまた大きく変わらざるを
得なかったのである。解放以前の社会主義は、民族主義または民族解放という要素をある程度加味した
ものであったとみるべきであろう(21)。 しかし,そのような性格は南韓(現、韓国)社会においては、
まともに評価されなかった。理念、運動とは区別される、「体制」としての社会主義のなかでさえ、「土
着社会主義者」たちは身の置きどころを見出すことができなかった。
「韓国共産主義運動の挫折と敗北を
耐え抜き再起した『土着共産主義者』の指導者たちが、解放された韓国で彼らの革命運動をひとつの政
治勢力として現実化することに失敗し、さらに比較的知られていなかった明らかな『偽物』に韓国共産
主義運動の主導権を手渡したとき、
『土着共産主義者』たちの失敗は完結したのであった」(22)。 そのよ
うな政治的没落に加え、彼らが試行錯誤を行いながらも持ち続けていた、歴史的意味と位相もまた片隅
に追いやられてしまった(23)。 さらにいえば、その結果として、彼らは自らの考えと立場を詳しく述
べ、後世に伝えるための記録もほとんど残せなかったのである。
そして、
「土着社会主義者」たちが示していた基本的な社会主義「理論」やその「理念」に対する姿勢
と立場もまた問題になる。
「基本的な共産主義イデオロギーの訓練が彼らに欠如していた」という点と、
「結果的に彼らの諸般の活動は韓国において諸々の共産主義的理想を実現させることよりは、むしろ彼
らの反日感情を表現する傾向が強かった」という点が(24)、指摘できる。併せて、理論、理念に対する創
造的な解釈が可能であったかどうかという疑問も提起される。結果的には、独自な ―― それが仮に試行
錯誤であったとしても ―― 社会主義理論と理論家を輩出できなかったという点も、残念ながら、認めざ
るを得ない。
「彼ら自身が属するグループの内部で理論的な討論に熱心であったとしても、そのような理
論を韓国の具体的な状況に創造的に適用しようとするよりは、むしろマルクス・レーニン主義の基本教
理だけを研究し続けたのではないかという疑問が湧いてくる。……彼らが新しいイデオロギーにより影
響を受けたのは明らかであるが、彼らが理論を充分に渉猟し、その理論に対する創造的な立場をとって
いたかどうか、その点は疑わしい。……その当時韓国のマルクス主義的知識人たちのなかには、思想家
よりも追従者、活動家たちが多かった。韓国共産主義者たちは福本和夫、山川均、李立三、毛沢東など
のような人物を輩出することができなかった。その反面、福本主義者、山川主義者、李立三主義者など
は存在していた」という(25)、辛辣な指摘も出ている。
この他にもいろいろと考えられるが、大体以上のような点が複合的に絡み合って、解放以前には社会
主義「運動」が、以後には社会主義「体制」が浮かび上がってくることによって、社会主義に関する研
究もまた彼らを中心にしたものがなされてきたのだといえる。その当然の帰結として、社会主義「理
念」に対する関心と研究は相対的に疎かになったとのである。
Ⅲ 「事例」としての 「福本イズム」― 偏見と誤解
この時期を対象とすることと関連して我々は、これまで述べてきた社会主義「理念」研究の必要性に
対する認識のほかに、つぎのような直截的な問いをしばしば投げ掛けられる。すなわち「植民地下韓国
の社会主義者たちは、何も考えずに社会主義『理論』を受け入れ、それに依存しつつ、単に『行動』す
ることのみに出ていたのか。つまり、彼らにとっては単なる『行動樣式』としての『主義』のみが考え
られていたのか。彼らから何らかの独自な思想、あるいは理論の片鱗を見つけることはできないのか」
20
というものである。このような疑問に対する妥当な答えを見つけるという点からも、社会主義「理念」
の受容に関する研究は充分に有意義なものであるといえる。
ここで筆者が、社会主義「理念」の受容の歴史を再構成していく作業の一環として、ひとつの検討事
例に選んだのは、1920年代の日本で福本和夫(1894−1983年)(26)によって唱えられ、一時流行した「福
本イズム(福本主義)
」である。それをとりあげる理由は何よりも、日本社会主義思想史上における「福
本イズム」の独特さを勘案した結果である。「福本イズム」は、「時期的には1925年10月を起点として登
場し始め、1926年12月の日本共産党再建大会のイデオロギーとしてその頂点を極めたが、1927年7月にコ
ミンテルンの『日本問題に関するテーゼ』により批判されたことにともない、その権威を失なう」
、「約
2年間日本の社会主義運動界を風靡したが結局歴史の中に消えてしまった、挫折した、日本的マルクス主
義のひとつの形態」であるとされる(27)。そのように「短い」期間に、ド ラマチックな展開を示した理念
であったことから、その受容と影響に関する検討の対象としてふさわしいと考える。
また時期的にも、
「1920年代中葉」に登場した日本社会主義のひとつの分岐点であるので、それを受け
入れた「主体」と、その「過程」をほぼ無理なく追跡、再構成できるという利点がある。さらに、より
重要なことは、「福本イズム」が植民地下の韓国社会主義運動に与えた影響 ―― あらかじめ言っておく
と、
「新幹会」の創立(1927年2月)の契機になった「正友会宣言」(1926年11月)の理論的な背景 ――
如何をめぐり、互いに異なる、あるいは正反対の見解が出されており、理念の受容と影響を議論するに
当って必ず検証しなければならない争点となっていることがあげられる。こうしたことから我々は、
「福
本イズム」の影響を受けたと考えられるいくつかの局面を集中的に検討することにより、韓国社会主義
の「福本イズム」の受容の「当否」と「程度」が、逆に確認できると期待する。
しかし、ここでは具体的な検証作業に先立ち、一種の予備作業として、
(1)本稿の問題意識と関連す
る範囲で、「福本イズム」の歴史と特性について整理しておき、(2)「福本イズム」が 韓国社会主義運動
に与えた影響についての先行研究を整理しておくことにする。
(1)
「福本イズム」の「特性」について(28) 福本は当時名声を博していた山川均(1880−1958年)(29)
の理論、すなわち①方向転換論(30)と②協同無産政党論(31)を中核とするいわゆる「山川イズム」に対
する辛辣な批判を通じて、左翼論壇に彗星のごとく登場した。福本は、単一無産政党結成の方向につい
て真っ正面から批判し始めた(32)。 無産運動がなすべきことは政党的な結集以前に、マルクス主義的な
政治意識を分離させてから再結晶させること、すなわち「結合以前の分離」が必要であり、そのために
無産階級内部の非マルクス主義的な要素との間に、徹底した理論闘争を展開するべきであるとした
(33)
。 続く批判では、山川の基本的な立場は「俗学主義とマルクス主義の混合であり折衷」であるとし、
山川の方向転換論は「折衷主義の方向転換論」であり、協同戦線党論は「経済闘争からの政治闘争への
弁証法的発展を理解できない両者の折衷主義」であるとした(34)。
福本は現実認識、労動者階級に対する認識、戦略論、革命論など、すべての側面で、山川の考えとは
かけ離れていた。レーニン主義をマルクス主義の唯一、かつ正統な発展であり、継承であるとする福本
は、職業革命家で構成された少数精鋭の前衛党、すなわち日本共産党の必要性を喜んで認めただけでは
なく(35)、その前提作業として徹底しない不純なマルクス主義者たちを分離させる作業が必要であると
した。分離作業、すなわち激烈な理論闘争を経た後にこそ、真のマルクス主義者たちが現れ、そのよう
な者同士において初めて結合できるというものであった。
このような立場に立つ福本が、日本共産党の再建 ―― 1924年3月に日本共産党は党の解体を決定した
―― に同意するのは当然の帰結であった。
「福本イズム」は、日本共産党再建大会(1926
ことがある(36) 21
年11月)の理論的基礎となり、福本自ら日本共産党再建宣言文を起草した(37)。このようにして日本共産
党は再建された。
しかし、こうして新しく出発した日本共産党の路線はコミンテルンの「承認」を得られなかった。コ
ミンテルンは日本問題委員会を設置し、何ヵ月もの審査を行った結果、日本共産党に対する立場をよう
やく整理していた。「7月テーゼ」または「1927年テーゼ」と呼ばれる「日本問題に関する決議」が、そ
「27年テーゼ」は、「山川イズム」は言うまでもなく、「福本イズム」もまた辛辣に批判し
れである(38)。
た。日本共産党の解体を受け入れていた「山川イズム」に対しては、
「共産党の役割の過小評価、それに
対する無理解並びに労動運動に於けるその特殊なる重要性の過小評価にあった。共産党が多少なりとも
左翼労動組合フラクション並びに大衆的労動者農民の政党によって代置され得るといふ考へは徹底的
「此の『分離結合の理論』が純粋
に誤謬であり日和見主義」であるとし(39)、「福本イズム」に対しては、
な意識的な方面だけを過度に不相当に強調し、経済的、政治的、組織的方面を完全に無視したのは偶然
ではない。これは又インテリゲンチャの許すべからざる過重評価、労働大衆よりの遊離宗派主義党は
『マルクス主義的に思想する人々』 ── 従って勿論第一に知識階級の集団 ── であって、労働階級の闘
争的組織ではないと言ふ考へを生み出すに至った」と批判した(40)。
日本の社会主義運動を導いてきた「山川イズム」と「福本イズム」は順に批判され、とりわけ再建日
本共産党の理念的基盤であった「福本イズム」は大きな打撃を受けた。「理論闘争至上論」、「左翼分離主
義」、
「知識階級の行き過ぎた評価」、
「レーニン主義のカリカチュア」、
「革命的な大衆闘争ないし労働運
動から遊離したセクト主義」などの批判が加えられ、
「福本イズム」は歴史の舞台から消えてしまった。
こうしたコミンテルンの批判が適合性を有していたかどうかはさておき、日本人により形づくられたマ
ルクス主義が、その独自性と独創性を認められず挫折した点に注目する必要があると思う。その後、日
本のマルクス主義者たちに残された道は、コミンテルンの権威に対する依存と盲従を一層深化させるこ
とのほかになかったのである。
(2)「福本イズム」の影響について 「福本イズム」が韓国の社会主義運動史に登場した最初の時点
は、「新幹会」創立(1927年2月)の契機とみなされており、
「方向転換論」を唱えたことで有名な「正友
会宣言」(1926年11月)においてその「転換」の理論的背景を論じた部分に見出すことができる。
「正友
会宣言」の理念的な背景に関しては、特に「福本イズム」が強く影響を及ぼしたとする見解が早くから
提示されていた。それは具体的には、「正友会宣言」を通して「福本イズム」の影響を受けた「日月会」
の幹部たちによってなされた。つぎの一文がその代表的な例である。
「正友会宣言」は、第1、2次の「朝鮮共産党」検挙事件による韓国社会主義運動界の全般的な沈滞と
凋落を克服するために、第一に分派闘争の清算と思想団体の統一を主張し、第二に大衆の無知と自然
成長性の退治のための組織および啓蒙力運動を提起し、第三には従来の経済闘争の形態から政治闘争
形態へ転換することを要求した。これを「方向転換論」とも言う。この「方向転換論」は、その理論
的な背景を日本の「福本イズム」に置いている。「福本イズム」とは、1920年代中葉の日本思想界に衝
撃的な存在として現れた福本和夫教授の理論を指すものである。
この理論の要諦は、
「無産大衆の経済闘争はただ組合主義運動であるため、それでは労働階級の解放
は不可能であり、従って、従来の経済闘争を政治闘争に方向転換しなければならないとするものであ
り」
、
「日本では大衆運動が経済主義的に相当成長していたため、今やその過程を越えて政治闘争に転
換し、かつすべての選挙闘争で勝利をおさめ、議会を掌握しなければならない」というものである。
22
また 、「当時の日本では大山郁夫(早大教授)が労農党委員長で、安部磯雄(早大教授)が名高い穩
健派社会主義者であったが、福本教授はこれらに反対した」ということである(41)。
こうした解釈はその直後に、錢鎭漢・李 根などの当時直接運動に従事していた人々へのインタ
ビューが付け加えられ、そこでも肯定、認識されたために(42)、一層説得力を持っているように見える。
要するに、
「福本イズム」に魅了されていた韓国人留学生の一部、つまり安光泉、河弼源、金三奉、韓偉
健らの「日月会」幹部たちがそれを受容し、「正友会宣言」として具体的に表現したのである(43)。この
ような見解は、朝鮮総督府側が早くからとっていた解釈であり(44)、また当時知識人たちの間でも一般に
認められていたものであった(45)。
しかし、少数の異なった見解が、このような従来「通説」とされてきた見解に対して挑戦と懐経を投
げかけている。それは深刻で、より根本的な問いかけである、といえる。すなわち、このセクト(正友
会一派を指す ―― 引用者)の主張は、「福本イズムというよりむしろ山川均の理論に刺激を受けつつ出
「福本イズム」は、当時の日本社会主義運動において
発したと思われる」という主張が(46)それである。
主導的理論の地位を占めていた「山川イズム」に挑戦し、それを克服するために登場した。従って、「福
本イズム」はすべての側面において、「山川イズム」とは正反対の内容を持っていただけに、問題は深刻
にならざるを得ないのである。
また「第三の立場」とも言える、もう少し距離をおきながら客観的に見ようとする一連の立場と見解
も、長い間提示され続けてきた。すなわち、(1)
「正友会宣言」が「福本イズム」に刺激され鼓舞された
のは明らかであるが、日本と韓国は環境が全く異なっており、従って「方向転換論」が支持されたの
は、
「朝鮮」民族内部の協同戦線論の成長が反映された結果であるという見解(47)、(2)「新幹会」結成と
(3)「福本イズ
その急速な発展の最大要因を、
「独立」に対する民衆の志向から探ろうとする試み(48)、
ム」の影響を認めながらも、当時の韓国の状況と経済発展段階で「福本イズム」を受容し適用するのは
(4)「方向転換論」で主張された「政治闘争」の論理は「福本イズム」
不可能であったとする批判(49)、
ではなく、コミンテルンの「反帝連合戦線術」であったとする主張(50)などがそれである。一方、彼ら
は「福本イズム」と「山川イズム」を区別できず、両者が混合された形態で存在していたという解釈も
生まれてきた(51)。こうした多様な見解は、若干の差こそあれ、「方向転換論」と「正友会宣言」が「福
本イズム」の直接的な影響によるものでないとする点で、ほぼ一致している。
以上述べてきたところから、「福本イズム」と「正友会宣言」
、そして「方向転換論」との関係に対し
ては様々な解釈が提示されており、いまだ統一の見解に至っておらず、またその関係も明らかにされて
いないことがわかるであろう。
Ⅳ 「正友会宣言」― 分析と解釈
今や問題の核心は、「福本イズム」は、果たして「日月会」の幹部たちによって受容され、「正友会宣
言」に影響を及ぼしたのかどうか、ということである。そこで、ひとつの方法として考えられるのは、
受容主体に当る「日月会」とその幹部たちの理念的な性向と活動を検討してみることである。しかし、
それは「傍証」にはなり得るが、「確証」にはならない。やはり「正友会宣言」を条目ごとに批判的に分
析し、かつ整理しながら、「福本イズム」の影響を「確認」または「検証」するより仕方がない。従っ
て、
「日月会」とその構成員たちの理念的な性向を紐解いた後、引き続き「正友会宣言」と「福本イズ
ム」の関連性の有無を検討するのが自然な順序になるであろう。
23
(1)「日月会」とその理念的性向について 「日月会」の淵源を遡ると、日本滞在の韓国人たちが 社
会主義思想を研究し、紹介した社会主義運動団体の「黒濤会」に至る。「黒濤会」は、無政府主義を志向
する朴烈の一派と、社会主義を志向する金若水の一派の対立により解散し、のちの1923年、金若水一派
は「北星会」を組織した。「北星会」は、民族独立と社会主義思想の普及を目的とする機関紙『斥候隊』
『前進』を発行した。また「北星会」は、韓国内に新思想を伝播することにも力を入れており、メンバー
の一部が帰国、韓国内本部ともいうべき「北風会」を組織した(1924年11月)。同会は月例集会を開き、
堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、佐野学など、日本の著名な社会主義運動家を招聘、講演会を開
催している。このように日本の社会主義から直接的、間接的に影響を受けていたということから考えて
「山川イズム」に対する充分な認識があったといってよいと思われるが、「北星会」は1926年に発展的に
解消し、「日月会」に名称を変更した。
「日月会」は安光泉、李如星が中心となり、その他に金泳植、宋彦弼、温楽中、孫宗珍、朴洛鍾、韓偉
健、河弼源、方致規、金鐸、金吉燮、白武、金光洙、河鎔植、金正奎、李相昊、金世淵、そして崔益
「日月会」は、(1)大衆本位の新社会の実現を図ること、(2)階
翰、韓林、李友狄などが参加した(52)。
級的、性的、民族的差異を問わず、すべての圧迫と搾取に対し組織的に闘争すること、(3)厳正な理論
を闡明し、民衆運動に提供することを綱領に掲げた。そして、綱領を実現するための活動方針として、
(1)朝鮮内の社会運動の派争に対して絶対中立を守り、積極的に戦線の統一を促進すること、(2)在日
朝鮮人の労働運動および青年運動を指導し、援助すること、
(3)国際運動としての東洋無産階級の団結
を図ること、(4)無産者教育のために地方遊説、組合巡回講演、機関紙を発行することを立てた。実際
に「日月会」は、朴洛鍾、金世淵などの努力により印刷所「同声社」を設立し、マルクス主義文献を出
版すると同時に、機関誌『思想運動』など各種パンフレット を発行しただけでなく、その他にも活発な
活動を展開した(53)。
当時「日月会」の幹部たちは、「在日本朝鮮労働総同盟」、「在東京朝鮮留学生学友会」の幹部を兼任し
ていたが、
「在東京朝鮮無産青年同盟」
「三月会」などとも関係を保ちながら、在日韓国人運動の中核的
役割を担っていた。彼らは、
「在日朝鮮労働総同盟」、
「三月会」、
「在日東京無産青年同盟」、
「日月会」の
四団体名義で、韓国社会主義運動に関する共同声明文を発表した(1925年11月)。その核心となる主張
は、日本での運動は韓国民族全体の運動の一環であること、従って運動の統一を追求すべきであるこ
と、であり、そのためには、韓国内の派閥抗争の影響を排除する必要があるとともに、さらに加えて在
日韓国人運動の統一を堅持しなければならないというものであった(54)。
彼らは、韓国内の社会主義運動者たちの派閥闘争に対し、一種の「不満」に近いものを抱いていた。
派閥闘争を越え、
「運動戦線の統一」
をなして進んでいかなければならないと考えていたのである。在日
韓国人団体の共同闘争の成功と、それによる大衆性の確保および運動継続の必要性が、そのような不満
を彼らに抱かせたのであろう。すでに綱領の実現方針で、
「朝鮮内の社会運動の派争に対して絶対中立を
守り、積極的に戦線の統一を促進する」としていたし、声明文でも党派的な軋轢を越えて統一を望むと
して「単一戦線を結成しよう」と呼びかけていた。創立1周年を迎えて発表した声明文にも、
「単一運動
戦線を編成しよう」とあり、「全朝鮮的に強力な単一思想運動を編成しよう」というスローガンも掲げら
れていた。また、在日朝鮮労働総同盟第2回大会(1926年4月)でも、
「朝鮮運動統一促進」の件を決議し
た。運動戦線が統一されなければならないという考えには、民族運動との協同までも含まれていた。
「日
月会」の前身である「北星会」が、国内の活動本部として設立した「北風会」については先に簡単に触
れたが、同会の綱領は、すでに「我々は階級関係を無視した単純な民族運動を否認する。しかし、朝鮮
が民族運動さえもまだ展開できない現実におかれている以上、我々は特に両大運動、すなわち社会主義
24
運動と民族運動の並行に対する時間的 (しばらくの間 ―― 引用者)協同を期す」と述べていたのであ
る(55)。
このように「日月会」は、国内の社会主義運動が早くから見せていた派閥闘争に対して批判的な立場
を取ると同時に、運動戦線の統一を基本路線としており、またそこで言われる運動戦線の統一は「民族
運動との提携」さえも含むものであった。「全朝鮮的に強力な単一思想運動を編成しよう」ということ
が、1926年にスローガンのひとつとして立てられたことから考えて、このような立場は1926年初頭まで
持続されていたと推定される。
「日月会」のメンバーたちが、実際に韓国の社会主義運動に登場するのは1926年8月頃である(56)。 夏
期休暇を迎えて国内に戻ってきた安光泉、河弼源らは、当時「第2次朝鮮共産党」事件により勢力が衰え
ていた「正友会」に加入し、11月15日「正友会宣言」を発表した。「日月会」は、同宣言に示された民族
協同戦線の結成と大衆的政治運動の積極的推進という方針にすすんで賛同を表した後、総会で解散を決
議した(1926年11月28日)。
では、当時の状況を振り返りながら、
「日月会」とその幹部たちの理念的な性向を整理してみよう。ま
ず、彼らは当然日本社会主義運動の潮流と理論について関心を持っていたはずである。なぜならば「日
月会」の前身である「北星会」は、月例集会を開いて社会主義理論家を招聘、その講演を通して理論学
習をしており、
「日月会」
もまた社会科学講習会を開き、研究していたからである。そうした活動を通じ
て、彼らは「山川イズム」にまず接したであろうし、続いてそれを批判しながら登場した「福本イズ
ム」にも接することができたはずであると考えられる。しかし、このことは、「福本イズム」の「受容の
当否」については何も語ってくれない。
つぎに、時期の問題、すなわちタイミングもまた重要である。
「福本イズム」は1924年末に登場し、
1925年10月「山川イズム」を批判した論文によって本格的に姿を現した。「福本イズム」は1年余りにわ
たる論争と批判を土台に、日本共産党再建大会(1926年12月)において指導的な理念として採択され
た。
「日月会」の中心メンバーである安光泉などは、1926年2月に一時帰国をしており、その後夏期休暇
を利用して8月に再び韓国へ戻っていた。彼らは「正友会」と「朝鮮共産党」に加入し、11月には「正友
会宣言」を発表している。時期的に「福本イズム」に充分に接することができ、その威勢と魅力に惹か
れていたかも知れない。しかし、
「正友会宣言」が出された時点は、日本共産党の再建より早かったとい
う点に注目する必要がある。
「福本イズム」が日本共産党の指導的な理念として公認された事実を知るこ
とに先立って、その理論への傾斜を示している「正友会宣言」を発表することがどうしてできたのかと
いう疑問が浮かんでくる。もしこの疑問が正当なものであったとすれば、その理論の適合性に対し、彼
らは彼らなりの「独自な」 判断を下したということになる。しかし先述のとおり、「福本イズム」は
「日本問題に関する決議」(1927年7月)により、影響力を失ってしまった。「日月会」のメンバーたちが
「福本イズム」の影響下で何らかの路線を決定していたのであれば、その後にやはり何らかの「矯正」作
業が行われていたはずではなかろうか(57)。
第三に、「福本イズム」は資本主義社会としての日本社会に関する認識を基盤に構成されていただけ
に、その分「民族解放闘争」という問題意識は、初めから欠如していた。「日月会」のメンバーたちの関
心事が民族解放闘争のための民族協同戦線を構成することであったとすれば、
「福本イズム」から得られ
るものはごく少なかったはずである。そこでは、何らかのアイディアを得ることはできても、絶対的な
「信頼」や盲目的な「追従」などは事柄の本質からはずれるものであった。さらに「福本イズム」登場以
前から、
「日月会」はそれなりの独自な路線を追求していた。国内の社会主義運動において見られた派閥
闘争の止揚、運動戦線の統一、そして社会主義者たちと民族主義者たちの連帯等を追求していたのであ
25
る。このような路線は、「福本イズム」の影響を受けても変わることはなかった。その路線の延長線上
に、「日月会」は1926年11月に解散を決議したからである。
このように見てくると、我々としては、「民族解放闘争のための民族協同戦線」を追求していた「日月
会」の構成員たちが、
「結合以前の分離」を唱えていた「福本イズム」をそのまま受容、あるいは適用し
たと判断することには多少無理があると考えざるを得ない。しかし、これはあくまでも外形的な検討に
過ぎない。以下においては「正友会宣言」の内容を本格的に検討していくことにする。
(2)「正友会宣言」と「福本イズム」の関連性について 「日月会」の主導的なメンバーたちは、当時
第2次朝鮮共産党事件によって勢力が弱化した「正友会」に加入し、11月15日にいわゆる「正友会宣言」
を発表した。続けて「日月会」が、総会で解体を決議したことはすでに述べたとおりである。
彼らが加入した「正友会」は、当時社会主義運動団体として頭角を現していた「火曜会」、
「北風会」、
「朝鮮労働党」
、「無産者同盟会」が統合してできた「4団体合同委員会」を発展的に解消、再結成したも
のであった。それは分裂と対立を経ていた社会主義運動団体が、統一に向かって第一歩を踏み出したこ
「ソ
とを意味していた(58)。 しかし、すべての社会主義運動団体が完全に統合されたものではなかった。
ウル青年会」が、自派所属の「前進会」を根幹とする「朝鮮社会団体中央協議会」の創立を計画してい
たためである(59)。 こうして社会主義運動団体は、「火曜会」と「北風会」が中心をなしている「正友
会」、ソウル系中心の「前進会」の並立という様相を呈するに至った。そのような状況下にある最中、
1926年7、8月の「第2次朝鮮共産党」崩壊に加え、
「正友会」の主導的な人物たちが大量検挙された。当
時の状況を打開し、威勢を回復するためには新しい人物を迎え入れる必要があった。
非合法前衛組織としての「朝鮮共産党」は1925年4月に結成されたが、まともに活動できず、「新義州
事件」により崩壊し、
「第2次朝鮮共産党」もまた「6・10万歳事件」によって崩壊してしまった。検挙か
ら逃れた幹部たちは組織の再編成に取りかかった。主要グループであった「火曜会」の構成員たちがほ
ぼ全滅状態に陥ってしまったため、中央機構の編成に当ってはやはり新しい人的資源が必要とされた。
当時そのような空白を埋めることができる勢力としては、東京で活躍していた「日月会」の幹部たちと
ソウル系の人々があるだけであった。ここに、彼らは従来運動の統一を主張してきた人々との協同の必
要性を感じたのであった。実際に、
「第3次朝鮮共産党」を再建した金綴洙は、党再建の組織方針を「排
他的な派閥主義の止揚と派閥糾合の同志組織」に置くとした。「朝鮮共産党」としても新しい人的資源が
必要であったのである(60)。
「日月会」のメンバーたちが帰国したのはこうした状況においてであった。彼らは、国内の社会主義
運動に対し、「派閥清算」という批判とともに、「運動戦線の統一」という望みを持っていた。彼らは帰
国直後に「正友会」に加入し、
「朝鮮共産党」の入党勧誘を受け、そこに加わることになった。
「火曜
会」系のメンバーたちが拘束された状態であったので、彼らは短期間のうちに中心的な人物として浮か
び上がっていった(61)。そこでは、彼らの政治的色彩が、どの派閥にも大きな抵抗感を与えなかったとい
う点も、一部作用したであろう。
このようにして、新しく陳容を整えた「正友会」が社会主義運動の新しい方針として発表したもの
が、まさに「正友会宣言」であった(62)。「正友会宣言」は、大きく4ヶ条から成る(63)。以下では、条目
別に取りあげながら、「福本イズム」との関連性を検討、確認することにする。
最初の条目では、まず運動を過去の分裂から救い出さねばならず、そのためには「運動を少数の派争
的な陰謀の籠絡として売られる商品から解放し、朝鮮内の大衆団体の自主的な奮闘に進展させなければ
ならない。つまり、従来の中傷遊説の代わりに公然とした討論を展開するべきであり、運動全体の利益
26
のためには分派的または団体的利益を服従させなければならない」
(
『運動史』第3集、9頁)
、とした。引
き続き、進むべき方向を遮って並立する各思想団体の統一を掲げ、
「故に我々は先ず僞善思想団体の統一
から主張するが、並立している他の思想団体が誠意をもって応じてくれるなら、
『正友会』は如何なる譲
歩をしようとも合同に対しては躊躇しない。思想団体が運動上の役割を果たす間、すべての前衛分子は
ひとつの旗下に集まり、一方で公然と具体的に前衛的運動を行いつつ、他方では野心的な陰謀の顕現を
駆逐しながら、全運動の整理促進に努力すべきである」
(同上)
として、他の思想団体が誠意を持って応
じるのであれば、合同のために譲歩する用意は充分にできているという立場を明らかにしている。これ
は「前衛分子」、すなわち社会主義者たちを狙ったものと見られる。
このような主張が、「福本イズム」のすべての部門における、理論闘争を通した分離作業(結合以前
の)と少数精鋭の共産党の必要論と、掛け離れたものであることは言うまでもない。
「日月会」のメン
バーたちは、早くから国内の運動の派閥闘争を批判し、それを越えた運動戦線の統一を主張してきた。
そのような「統一戦線」論を「正友会宣言」に持ち込んだつなぎ目の役割を、同宣言の成立を主導した
安光泉ら「日月会」のメンバーを通して、探ることができるのである。
第二の条目では、
「大衆の中へ」歩み出し、彼らを組織し訓練させること、およびその具体的な実践を
主張した。
「運動の将来は何よりも大衆の団結如何、意識如何にかかっており、我々は我々の現状に照ら
して大衆の組織および教育に一層努力せずにはいられない。組織された大衆の質的な整理向上を図ると
ともに、無組織大衆を組織して量的領域を広げ、そのうえに組織団体は意識的覚醒を注入し、その性質
を開発しなければならない。そして、そのための教育的努力を加え、大衆の無知と自然成長性を退治し
なければならない。……実際的奮闘では、固まった組織だけが真実の組織であり、大衆自体の実践と結
びつけられた教育だけが真実の教育である。故に組織と教育は、結局活発な日常闘争において、初めて
その盡善が期待できるものである」(
『運動史』第3集、9頁)(64) 。
他の側面との連関性はさておき、この部分は「山川イズム」が少数の前衛分子の運動から、「大衆の中
へ」
入り込んだ運動への転換を主張して掲げていたことと一致している。
「我々は、組織運動であろうと
教育運動であろうと、それが観念的努力にのみ尽きてはならないことを看取する者であり、それらを実
際的な奮闘と密接に連結すべきである」
(同上)と主張した部分も、こうした解釈を支えてくれる。この
点に注目するならば、「正友会宣言」が「山川イズム」(「福本イズム」ではなく)の影響を受けていたと
する見解も、全く根拠のない主張ではないということになるのではなかろうか。しかし、
「山川イズム」
が追求したものが、ブルジョア支配に反対する勢力を結集した協同戦線党であったのに対して、
「正友会
宣言」が目指したものは、他でもない「民族協同戦線」または「民族単一党」であった。前者には民族
という要素が含まれる必要がなかったのである。さらに、安光泉らは前衛党の確立を否認しなかった。
彼らが「第3次朝鮮共産党」に参与したということが、その決定的な証拠となる。もうひとつ注意すべき
点は、
「福本イズム」もまた、前衛分子、特に知識人たちによる大衆の意識化および教育、そして組織を
重視していたという点である。両者の間に差があるとすれば、
「山川イズム」
がそのような作業を通して
大衆的で合法的な協同戦線党組織、または単一無産政党を結成することを主張したことに対して、
「福本
イズム」の場合は、逆に、まず前衛政党を結成し、しかる後に実行すべき作業としてにそれらを見てい
たということであった。
第三の条目では、まず「民主主義的努力の結集により展開される政治的運動の傾向に対しては、それ
がひとつの必然的な過程の形勢である以上、我々は冷然と眺めていることはできない。いや、それより
もまず我々の運動自体が、既に従来の局限された経済的闘争の形態から一層階級的であり、かつ大衆的
である意識的な政治的形態に飛躍しなければならぬ転換期に達したのである。故に我々は、我々自身の
27
従来のすべての小児病的な姿勢を止揚し、我々の勝利への具体的な前進のために実現可能なすべての条
件を充分に利用しなければならない」(
『運動史』第3集、10頁)とし、従来の「経済的闘争」から一層階
級的、大衆的、意識的な「政治的な」形態に飛躍しなければならない転換期に来たことを、明らかにし
ている(65)。続けて、「民族主義的勢力に対しては、そのブルジョア民主主義的な性質を明白に認識する
と同時に、また過渡的、かつ同盟者的な性質も充分に承認し、それが堕落形態として現れない限りは積
極的に提携し、改良によってもたらされる大衆の利益のためにも従来の消極的態度を捨て、奮然と闘わ
なければならない」(同上)とし(66)、ブルジョア民族主義勢力を充分に認知したうえで、彼らとも提携
するべきであるという意を明らかにした。
この部分は「正友会宣言」で、最も重要な内容であると言える。再びあげると、「従来の局限された経
済的闘争の形態より、一層階級的で大衆的である意識的な政治的形態に飛躍しなければならない、転換
期に達した」とあるように、
「経済的闘争から政治的闘争へ」と運動方針を転換すべきであるという「方
向転換」を主張し、さらに非妥協的なブルジョア民族主義者たちとも提携することを主張していたため
である。従来、「正友会宣言」が「福本イズム」の影響を受けたものであると看做されてきたのも、この
条目のためである。しかし、厳密に言うと、
「方向転換」という用語を先に使用したのは、福本ではな
く、山川であった。山川は1922年8月、
『前衛』に発表した「無産階級運動の方向転換」で、
「経済闘争」
から「政治闘争」へ転換しなければならないと主張していた。ところが、山川が使っていた「方向転
換」 、「経済闘争」、
「政治闘争」などの用語を、福本がそのまま借用してから事態は一層複雑になっ
た。用語は同じものであっても、そこに込められた意味は違っていたからである。ふたりとも「経済闘
争」から「政治闘争」へ「方向転換」することを主張したが、その実際の内容は明白に異なるもので
あった。政治闘争を、山川は経済闘争(具体的には労働組合運動)の戦線拡大として見ていたのに対
し、福本は共産党により推進される全体的で統一的な政治闘争として見ていたのである。そのために福
本は、山川の経済闘争と政治闘争を同じ延長線上のものとして見ており、従って山川を経済闘争から政
治闘争への弁証法的発展を理解できない折衷主義であると非難したのである。
以上の理由から、「正友会宣言」で表明された「方向転換」、つまり経済的闘争から政治的闘争への
「方向転換」がいったいどこから影響されたものであるかを突き止めることは難しくなってくる。そこで
は、前述のとおり、
「階級的であり、かつ大衆的である意識的な政治的形態」
と、曖昧に表現されている
のみである(時期的には「山川イズム」の影響が先であると見られる)。純経済的な闘争範疇をはずれる
程度で問い詰めれば、同宣言は「福本イズム」に近いと言える。しかし、筆者としては、それよりも後
の部分、言い換えると、
「非妥協的なブルジョア民族主義者たちとも提携する」という一節にもっと注目
すべきと考える。これは、
「山川イズム」でも「福本イズム」でもなく、民族運動と提携することを掲げ
ていた「日月会」の政策と路線を同じくするものであるからである。
第四の条目では、当時の社会的情勢および状況から、運動をさらに大衆化し、現実化する必要がある
が、根本的な目標を見誤ってはならないということがあげられる。そこでは、
「妥協に終始する妥協、改
良に終始する改良は、明らかに堕落と敗北を意味するものであり、我々は運動の現在を代表すると同時
に、また未来をも代表しなければならない。妥協と敗北が抗争を分離させてはならず、改良と批判を対
立させてはならない」(
『運動史』第3集、10頁)としていた。そして、正しい路線を探るための方向につ
いては、
「理論的闘争を力強く展開し、大衆の真正な進路を絶えず指示しなければならない。その一方で
は、大衆が実践した結果を理論的に整理すると同時に、目先の改良のみに満足を見出そうとする、すべ
ての幻想に対し、無慈悲な批判を加えるべきである。そのようにしてこそ、現実と我々の主義とを連結
するための奮闘としての重大な任務を果たすであろう」
(『運動史』第3集、10−11頁)と述べていた。こ
28
のように、理論闘争を重視した点では、
「福本イズム」の影響が比較的に明瞭な形で現れていると見られ
るが、当然のことながら、正しい理論の模索はなにも「福本イズム」だけに限られたものではない。
従ってこれは、一般論の範疇を大きくはずれるものではないと見ることができるのではないかと考える。
このように見てくると、我々は、「福本イズム」が「正友会宣言」に与えた影響はごく少なく、またそ
の影響は皮相的なものに過ぎなかったという結論に至らざるを得ない。
「正友会宣言」
が駆使する用語も
また、必ずしも「福本イズム」のそれを倣っただけであるとは言えない。コミンテルンから「福本イズ
ム」
は、
「理論闘争至上論」、
「左翼分離主義」、
「知識階級の過度な評価」、
「革命的な大衆闘争ないし労働
運動から遊離したセクト 主義」という批判を受けた点は、示唆的である。これに反し、同じ社会主義系
列の「前進会」から「正友会宣言」が受けた批判は、
「改良主義的右傾化」、
「朝鮮の現実をきちんと見
ず、ブルジョア勢力を恐れた者であるだけでなく、妥協運動の代弁者または賛美者」、というものであっ
た(67)。 コミンテルンが「福本イズム」を批判した内容は、極左ないし左翼偏向主義というものに近い
反面、「前進会」による「正友会」批判は、改良主義的右傾化ないし妥協運動であるというものであっ
た。このように、両者への批判内容は違っていたのである。また、
「福本イズム」の核心的な主張は、い
わゆる「結合以前の分離」であったのに比べ、
「正友会宣言」の要諦は、「分離」よりはむしろ「結合」
を強調するものであった。さらには、民族主義勢力に対してさえ、前述したように、
「ブルジョア民主主
義的な性質を明白に認識すると同時に、また過渡的、かつ同盟者的な性質も充分に承認し、それが堕落
形態として現われない限りは積極的に提携し、改良によってもたらされる大衆の利益のためにも従来の
消極的態度を捨て、奮然と闘わなければならない」と、主張していたのである。
しかしながら、そうした皮相的な影響を根拠に、彼らが「福本イズム」を正確に理解できずにいたと
断言してしまうわけにはいかない。
「山川イズム」や「福本イズム」は、日本資本主義社会という土台に
おける自己認識を基礎にして展開されたものであった。それらは、民族の独立と解放という問題を一次
的な課題としていた植民地下の韓国に、そのまま受容されるはずはなく、また受容されてはならないも
のであった。注意して「正友会宣言」を読むと、彼らの関心事は「階級」より、むしろ「民族」にあっ
たことが確認される。そこでは、「民族協同戦線」を結成するために、派閥を止揚し、民族ブルジョア
ジーたちとの提携が提案されていたのであった。ここで我々は、
「正友会宣言」においてまさに全体的骨
組みとして掲げられた、大衆の意識化および教育、経済闘争から政治闘争への方向転換の必要、正しい
路線を探るための理論闘争の展開ということを、彼らは自らの理念として持っていた、と見ることはで
きないものであろうか。
我々は、
「正友会宣言」が単にどのイズムの影響を受けたかについて語るよりも、むしろそれらの理論
的要素を「受容」し、植民地下の韓国社会にふさわしいように「変容」させた可能性を、注意して読み
取ることはできないであろうか。言い換えれば、少なくとも「正友会宣言」は一部社会主義者たちが植
民地下の韓国の客観的な情勢に鑑み、当時日本で流行していた理論的潮流およびコミンテルンが掲げた
戦略と戦術の中で(68)、戦略的要素として利用価値のあるものを適切に受け入れ、盛り込んだものと見る
ことができるということである。そこからは、当時の社会主義者たちが見せた、または享受していた、
「相対的自律性」と「独自性」の片鱗すら確認できると言えないものであろうか。
Ⅴ 結び ― 受容と変容、そして自律性
本稿は、植民地下の韓国に新しい思潮としての社会主義が、いつ、どのようにして「受容」されたか
という問題意識から出発し、ひとつの事例として「福本イズム」の受容および影響について分析し、整
29
理してきた。
「福本イズム」を事例にあげた理由は、一次的には当時活動していた社会主義者たちが残し
た著述が少ない点、そして今日までのところ社会主義の「理念」よりも「運動」と「体制」に関する研
究が多くなされてきた点を、勘案してのことであった。また、「福本イズム」の場合、非常に短い期間
(約2年)に社会主義運動を風靡した後、歴史の中に消えてしまった、挫折した、日本的マルクス主義の
ひとつの形態であったことから、その受容と影響を追跡することは比較的に困難ではないだろうと考え
たこと、それに加えて「福本イズム」と「正友会宣言」との関連性につき、その理論的影響関係の問題
をめぐって、互いに異なる見解が出されており、そのことが筆者の知的好奇心を強く刺激したためで
あった。
検証作業は、二段階に分けてなされた。まず「福本イズム」が持っている歴史と特性について一瞥し
た後、そのことが韓国社会主義に対して与えた影響をめぐって提起された樣々な見解を整理した。その
あと、
「福本イズム」の受容主体としての「日月会」と、その幹部たちの理念的性向を追跡し、引き続き
「正友会宣言」を条目別に分析してみた。
その結果、「福本イズム」と「正友会宣言」との間には、それほど大きな受容・影響の関係は見られ
ず、かつその影響の程度は皮相的なものに過ぎなかったという結論に至った。この結論は、受容主体と
しての「日月会」およびその幹部たちの理念的性向から見ても、また「正友会宣言」の内容においても
妥当するものであると考える。そのなかで強いて「福本イズム」の影響を探すとすれば、「福本イズム」
が日本社会主義運動に新しい風を起こし、その雰囲気を扇っていた「方向転換」の外形的な受容、とい
う程度にすぎなかったと思われる。また部分的には、「福本イズム」のみならず、「山川イズム」の影響
も受けたような感じがしないわけでもない(69)。 けれども事実上、「山川イズム」や「福本イズム」は、
日本資本主義社会という土台における自己認識を基礎にして、展開されたものであり、従って、
「民族」
の「解放」と「独立」が一次的な課題とされていた植民地下の韓国に、そのまま受容されるはずはな
く、また受容されてはならなかった。「正友会宣言」の核心はどこまでも、「民族協同戦線」を結成する
ために派閥を止揚し、民族ブルジョアジーたちとの提携を作り上げることにあったのである。
これらの諸点から注意深く読み取らねばならないものは、植民地下の韓国社会主義者たちは「派閥争
い」、「独創的な理論と理論家(思想家)の欠如」など、多くの問題と限界を抱えていたにもかかわら
ず、「正友会宣言」において社会主義理論を主体的に「受容」していたということであり、また社会主義
理論を、植民地下の韓国社会に適合するものとすべく「変容」させていたということである。あるい
は、韓国社会主義者たちが、少なくともそうした可能性を示していたということである。その鍵は、や
はり「民族問題」、すなわち民族の「解放」と「独立」にほかなかった。ここに、我々は、当時の社会主
義者たちが示した、あるいは享受していた、「相対的自律性」と「独自性」の片鱗を確認できたと言える。
このような解釈は、「福本イズム」と「正友会宣言」の影響如何に対する「第三の立場」に属する見解
(1)
の一部(70)、例えば「正友会宣言」が「福本イズム」に刺激され、鼓舞されたのは明らかであるが、
日本と韓国とでは環境が全く異なり、
「方向転換論」が支持されたのは朝鮮民族内部の協同戦線論の成長
が反映された結果であるとする見解、
(2)
「福本イズム」の影響を認めながらも、当時の韓国の状況と経
済発展の段階において、「福本イズム」を受容し適用することは不可能であったとする批判、
(3)そうし
た見解を一定部分は共有しながらも、当時の社会主義者たちが見せていた、
「独自性」、
「自律性」に、特
に注目するという点において、ニュアンスを異にする見解、
(4)
「方向転換論」で主張されていた「政治
闘争」の論理は、
「福本イズム」ではなく、コミンテルンの「反帝連合戦線戦術」であったとする主張と
も一脈通じる部分がなくもないが、コミンテルンが1927年5月の11ヶ条指令を下すまでは、韓国の社会主
義者たちは一定の「相対的」な自律性を保持していたとする見方である点で、それらとは明らかに異な
30
るものである(71)。
では、その後、韓国の社会主義はどうなっていったのであろうか。筆者は、社会主義者たちのそうし
た「相対的」自律性と独自性が、保持され続けていたとは見ない。そのように考える理由は、何よりも
コミンテルンの「指令」が伝わって来るに伴い、自律性と独自性の位置は、「外部の権威に対する盲目的
な追従」および「指令の実践」に取って代わられていったからである。
「正友会宣言」と前後した時期
は、ともすれば植民地下の韓国社会主義史における、
「美しいひととき」であったかのように映るかもし
れない。だが、コミンテルンの「27年テーゼ」が、
「山川イズム」と「福本イズム」にどのような結末を
もたらしたかということは、単に「日本」社会主義の問題のみに当てはまるものではない。コミンテル
ンの権威の確立によって日本の社会主義運動にもたらされた状況は、植民地下の韓国社会主義運動を考
える際にも示唆するところが大きいと思われるからである。言うまでもなく、韓国社会主義において
「独創的な」理論が不在であったということも、このことと決して無関係ではなかったと考える。
注
(1)
丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、2000年、170∼171頁。
(2)
日本における社会主義の受容および展開過程に関する概略的な紹介は、宮川透(他)・李スジョン
訳『日本近代哲学史』センガゲナム、2001年、 第5章「社会主義哲学の受容と展開の様相」および鹿
野政直『近代日本思想案内』岩波文庫、1999年、「11 社会主義」を参照のこと。
(3)
上垣外憲一・金ソンファン訳『日本留学と革命運動』振興文化社、1983年、 107∼9頁。金淇周『韓
末在日韓国留学生の民族運動』ヌティナム、 1993年、参照。
(4)
坪江汕二『
(改訂増補)朝鮮民族独立運動秘史』厳南堂書店、1966年、130頁。
(5)
金正明編『朝鮮独立運動 V: 共産主義運動篇』原書房、1967年は、第3篇を「3・1運動後の朝鮮人
共産主義運動の発生と展開」に割いている。
『現代史資料(29)朝鮮(5)』みすず書房、1968年もま
た、1920年代の共産主義運動と関連した資料と、それについての解説を載せている。
(6)
例えば、金森襄作『1920年代朝鮮の社会主義運動』未来社、1985年。呉ジャンファン「1920年代初
期の国内社会主義受容期のアナキズム的傾向に関する一考察」自由社会運動研究会『アナキズム研
究』創刊号、1995年。全ミョンヒョク「1920年代共産主義運動の起源と朝鮮共産党」
、歴史学研究所編
『韓国共産主義運動史研究―現況と展望』亜細亜文化社、1997年。柳シヒョン「1920年代前半期朝鮮の
社会主義思想の受容と発展」
、碧史李佑成教授定年退職記念論叢『民族史の展開とその文化(下)
』創
作と批評社、1999年、など。
(7)
姜東鎭『日帝の韓国侵略政策史―1920年代を中心に』ハンギル社、1980年、参照。
(8)
新聞は『東亜日報』『朝鮮日報』『時事新聞』
、 雑誌は『開闢』『現代』
『共済』
『青年』
『啓明』 『東明』『我声』『新天地』
『新生活』
『朝鮮之光』
『思想運動』『新生命』などが、刊行された。
(9)
この時点で「社会主義」という用語と概念は、すでに定着していたという確実な証拠となる。
(10)
テーゼの内容は、いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義―コミンテルン全資料・解説』社
会評論社、1980年、で見られる。
(11)
姜在彦「思想史からみた三一運動」『植民地期朝鮮の社会と抵抗』未来社、1982年、35∼45頁。
(12)
金インゴル『1920年代朝鮮におけるマルクス・レーニン主義の普及と労働運動の発展』朝鮮労働党
出版社、1964年、18頁。本稿では、1989年イルソンジョンより刊行されたものを用いた。
(13)
Communist Reviewに載った記事。“The Asiatic Revolutionary Movement and Imperialism,
”Communist
Review,Ⅲ,no.3(1922. 7)
,pp.137∼47.徐大肅 / 現代史研究会訳『韓国共産主義運動史』理論と
実践、1985年、50頁、より重引。
31
(14) 『東亜日報』1922年10月3日付けの社説は、「朝鮮思想界の将来」というタイトルで、
「民族主義と社
会主義」を扱っている。1923年8月1日付の社説は、
「二大解放運動の一致点」というタイトルで「主義
的運動と民族的運動」を論じている。12月21日付の英文欄には、
“Two Significant Movements”という
タイトルの読者投稿を載せている。“The Present Korea is controlled by two movements―the Nationalist
and the Socialist.”
(15) 当時の代表的な知識人のひとりとして、ボルシェビズム批判もしていた(韓国史料叢書第十九『尹
致昊日記』第8卷, 国史編纂委員会、177∼8頁、1920年12月6日付)尹致昊(1865−1945年)は、
“Why
do the Korean take to Bolshevism so easily”という疑問を提起したあと、それなりの原因を分析してい
る(同書、197頁、 21年1月22日付)。引き続き彼は、社会主義が若者の間で「まるで野火が拡がるよ
うに」
(like a wild fire)急速に拡まっているのを指摘している。
“Socialism-worse still-Bolshevism is
spreading among the Korean youth like a wild fire. Cause (1) Socialism is rapidly progressing among the
student class in Japan-as a fad. The Korean students 99% of whom take to the studies,or rather dabblings,
in sociology,philosophy and politics,find in socialism a congenial field for the exercise of their idle tongues.
(2) Parasitism-living upon the earnings of others-has been curse of Korea. So,communism or feeding on
each other has a charm for the average Koean almost irresistable because he hopes to be fed and clothed
without hard work . (3) The Korean looks toward Bolshevism as his promised land . Why? Because
Bolshevism will gratify his passions of envy of covetousness,of parasitism by wholesale confiscation of the
lands and home of the so called rich people. (4) The greatest cause,however,for the pro-Bolshevism of
the Korean is the alarming increase of the number of the destitute owing to the grabbing policy of the
Japanese. The Japanese policy in Korea seems to be aimed at two things and two things only,so far as the
Korean is concerned; To make him sell out as quick as possible and to reduce him to mere serfdom. (5)
Many of Koreans seemed to favor Bolshevism just because he thinks its triumph might overthrow the Japanese
domination or damnation.”
(同書、305∼6頁、21年12月1日付)
。
(16) 1918年にはすでにハバロフスクで韓人共産主義党が結成されており、また別の一群の韓国人により
1921年イルツクーツクでも韓人共産主義党が結成された。『韓国独立運動史研究』第1集1988年(以
下、
『運動史』と略記)。權熙英『韓人社会主義運動研究』国学資料院、1999年、などを参照。 朝鮮民
主主義人民共和国科学院歴史研究所編『朝鮮近代革命運動史』新日本出版社、1964年、は、「日本帝国
主義の弾圧により、韓国ではマルクス・レーニン主義の書籍が合法的に出版されなかった。従って、
先進的インテリは、初めはソ連、中国および日本などで発刊されたマルクス・レーニン主義の古典な
どを通して、マルクス・レーニン主義を学習し始めた」
(225頁)と述べている。
(17) 日帝時代の初期社会主義者たちが党組織運動に加担した動機を見ると、「留学中に社会主義書籍を
通して共鳴」
、
「 興味から研究して共鳴」
、
「共産主義に対する信念と研究のため」、
「民族解放は共産革
命によってのみ可能であると信じる」
、
「独立運動に失敗し日帝に対抗するため」
、
「日帝に対する民族
的敵対感から日帝に対抗するため」、
「社会運動団体で活動する共産主義者」
、
「先輩、友人など周囲の
勧誘」 など、様々である。全上淑
『植民地時代の国内左派知識人に関する研究―社会主義党組織活動
を中心に』梨花女子大学校政治学博士学位論文、1997年、85∼86頁、参照。
(18) 柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、の「社会」の 項目参照。姜ヨンアン『我々にとって
哲学とは何か―近代・理性・主体を中心に繙いた現代韓国哲学史』窮理、2002年、は、この点を強調
している。そこで著者は、つぎのように述べている。
「この作業をしながら私は、我々が19世紀後半と
20世紀初期の翻訳作業を通して、西洋文化を受容しようと努力した日本の知識人たちに大きな借りを
つくっているという事実に気づいた」
(序文、7頁)
。
(19) 陳徳奎「韓国民族運動におけるコミンテルンの影響に対する考察」
『運動史』第2集、395頁。
(20) 韓稚振『最新哲学概論』(1936年)には、すでに「社会」
「社会思想家」
「社会主義」
「社会学」が 登場していることが明らかにされている。姜ヨンアン、前掲書、189頁。
32
(21)
「1945年以前に、運動と関係をもったり、運動の一員になったりした人たちの大部分は、その運動の
なかに韓国が独立を取り戻すための方法を見ていたために、運動に加わるようになったと見るのがよ
り正確であろう。そうした意味から、1945年以前の韓国共産主義運動は部分的にレーニンの反帝国主
義闘争要求に応ずる民族主義運動のひとつの分岐点であった。従って、……1945年以前の韓国共産主
義運動史を韓国の独立運動という脈絡から眺めるべきである」
。李庭植・金ソンファン訳
『朝鮮労働党
略史』理論と実践、1986年、14頁。
(22)
徐大肅、前掲書、295∼6頁。
(23)
前掲朝鮮民主主義人民共和国科学院歴史研究所編『朝鮮近代革命運動史』の場合、 第7章第3節「金
日成同志の革命的活動の開始」
に続き、第8章反日民族解放闘争のより高い段階への発展、東満革命根
拠地を中心とする抗日武装闘争の展開、第9章武装闘争と反日民族統一戦線運動の拡大発展、第10章朝
鮮人民革命軍の小部隊活動、抗日武装闘争の偉大な勝利、とまとめられている。
(24)
徐大肅、前掲書、304頁。
(25)
李庭植、前掲書、40頁。
(26)
1924年12月雑誌『マルクス主義』に発表した「経済学批判における『資本論』の範囲を論ず」を始
めとする、河上肇、福田徳三、櫛田民蔵などの諸学説を批判した経済学の方法に関する論文と、北條
一雄名義で、レーニン・ローザ論争を含む組織論「欧州における無産階級政党組織問題の歴史的地
位」などを『マルクス主義』に続けて発表し、左翼論壇に登場した。1925年10月号の同誌に、
「
『方向
転換』はいかなる諸過程をとるか、われわれはいまいかなる過程を経過しつつあるか―無産者結合に
関するマルクス的原理」という長い題の論文を発表。1926年には、山川均の協同戦線党論は経済闘争
から政治闘争へという弁証法的発展を理解していない、両者の折衷主義であると批判した。同4月に
は、コミュニストグループに加盟、
『マルクス主義』の副主筆になり、5月には個人雑誌『マルクシズ
ムの旗の下に』を発行、無産運動に関する「理論闘争」を続けた。1927年のいわゆる「27年テーゼ」
により、理論的指導者としての地位を失う。著書に、
『社会の構成=並に変革の過程』
『唯物史観と中
間派史観』
『経済学批判の方法論』
『理論闘争』
(1926年)
、
『方向転換』
(1927年)
などがあり、全4巻か
らなる『福本和夫初期著作集』
(1971―1972年)がある。詳しくは、
『日本社会運動人名辞典』青木書
店、1979年、481∼482頁、および『現代史資料(20)
社会主義運動
(7)』みすず書房、1968年、所載の
「福本和夫聴取書」を参照。
(27) 金錫根 「福本イズム(福本主義)と植民地下韓国の社会主義運動」
『亜細亜研究』第58巻第2号、
1995年、24頁。
(28)
この項は金錫根、前掲論文、第2章「福本イズム」の部分を圧縮、要約したものである。
(29)
1922年日本共産党の創立に参与し、当時の理論的指導者として数えられた。その年の8月に雑誌『前
衛』に「無産階級運動の方向転換」を発表し、当時の社会運動に大きな影響を与え、
「山川イズム」と
して一世を風靡した。第1次共産党弾圧事件で起訴され(1923年)、共産党の解党を主張するに至っ
た。1925年以後福本和夫により批判される。著書に、
『無産階級の政治運動』
(1924年)
、
『単一無産政
党論』
(1930年)
、
『日本民主革命論』
(1947年)
、
『山川均自伝』
(1961年)などがあり、『山川均全集』
20巻(1966―2003年)がある。詳しくは、
『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年、582∼584頁、
および、小山弘建・岸本英太郎編著『日本の非共産党マルクス主義者―山川均の生涯と思想』三一書
房、1962年、川口武彦『日本マルクス主義の源流』ありえす書店、1983年、の年譜を参照。
(30)
「方向転換」
論の核心は、①日本の無産階級運動がより大きな大衆的基盤の上に立たなければならな
い時期に至ったということ。それは、無産階級の前衛分子の運動を大衆的な運動に拡大させなければ
ならないということであり、あるいは無産階級大衆をそのような運動水準に引きあげるということで
あった。そのために、②無産階級の前衛分子運動は、これまでのように一般の無産者大衆から多かれ
少なかれ遊離した運動であってはならないということ、すなわち無産階級の前衛と本隊である大衆の
間には緊密で有機的な関係が不可欠であるということである。
33
(31) 山川はコミンテルンの統一戦線戦術を参照し、労働者・農民を中心に、すべての反資本主義勢力を
政治的に結集するという協同戦線党論を主張した。ここで注目すべき点は、協同戦線党論は前衛党の
確立を前提にしていないという点である。この点が、コミンテルンの統一戦線構想とは区別されるも
のである。
(32) 前掲「
『方向転換』はいかなる諸過程をとるか、われわれはいまいかなる過程を経過しつつあるか―
無産者結合に関するマルクス的原理」。同論文は近代日本思想大系の第35巻『昭和思想集1』筑摩書
房、1974年、にも収められている。
「福本イズム」の全体的な内容は、
『理論闘争』
(白揚社、1926年)
、
『方向転換』(白揚社、1927年)、そして『福本和夫初期著作集』第3巻(こぶし書房、1972年)を通し
て、知ることができる。
(33) 前掲『方向転換』、29∼31頁、参照。
(34) 前掲『理論闘争』、3∼46頁の「折衷主義の批判」
、参照。
(35) 労働者たちをただ放っておけば、組合主義、経済闘争の水準にまで至ることはできるが、政治闘争
まで発展することは期待できず、やはり知識人による革命意識の注入、および意識化作業が必要であ
るとした。
(36)
協同戦線党論の立場に立つ山川は、前衛政党たる日本共産党の解体を自然に受け入れたのみなら
ず、敢えて再建する必要性も感じていなかった。
(37) 『現代史資料
(14)社会主義運動
(1)
』みすず書房、1965年、65頁。
(38)
このテーゼは、①日本帝国主義と戦争、②国内情勢、③日本の革命の推進力、④共産党とその役
割、⑤共産党と社会民主々義、⑥共産党と労働組合、共産党と大衆的労働者組織、統一戦線の問題、
という6項目で構成されている。テーゼの内容は、前掲『現代史資料(14)』
、84∼95頁にある。これ
は、林ヨンテ編『植民地時代韓国社会と運動』四季、1985年、207∼222頁にも翻訳されている。
(39) 前掲『現代史資料(14)
』
、90頁。
(40) 同上、93頁。
(41) 前掲『運動史』第3集、6∼7頁。
(42) 「韓国人留学生のうち、少なくない人びとが、日本共産党に従いマルクス主義を崇めていたのは事実
であるが、そのときの傾向としては、マルクス主義は、すなわち政治闘争の原理として受け入れら
れ、マルクス主義を知らない人はまるで馬鹿者扱いされるような状況であった。まさに、そのような
時期にド イツ留学から戻った大学教授の福本和夫はレーニンの『結合する前にまず分離せよ』という
主張を掲げてきたが、韓国人留学生のなかにも左派学生たちが『福本イズム』に従った。『日月会』が
主動であった左派には、理論家として安光泉、李友狄、韓林、姜哲、韓偉健などがおり、特に鋭い理
論家は河弼源であった。安光泉は彼らのリーダー格であった。安と河は、韓国内に戻りML党組織に深
く関わるようになったのだが、まさに彼らにより『福本イズム』が韓国に移植された」 錢鎭漢インタ
ビュー、1970年3月8日。前掲『運動史』第3集、8頁。
(43) スカラピノ・李庭植 / 韓洪九訳『韓国共産主義運動史1』
(トルベゲ、1986年)も、このような立場
から大きくはずれていない(134∼136頁)。
(44) 「1926年8月に夏期休暇を利用して帰国中であった東京『日月会』の安光泉、河弼源らは、この状況
を看取し、いわゆる派閥清算を標榜し、
『正友会』に加入した。その後、この会を奪取すると同時に、
日本の福本一派の理論闘争を模倣し、従来の極限的な経済闘争の形態から大衆的・意識的な政治闘争
形態に飛躍、進展させ、朝鮮民族の歴史的使命に対しては、自ら先駆けて統一的単一政治戦線の具体
的な結成が必要であるという意味の、いわゆる社会運動の方向転換に対する『正友会宣言』を発表し
た。続けて思想団体と民族単一党の結成を思い通りに…」、京畿道警察部『治安状況』
、1928年5月、8
頁。
(45) 「従来の極限的な経済闘争の形態から大衆的・意識的な政治形態に飛躍発展しなければいけないと
する『正友会宣言』は、いわゆる福本主義を設計図として立てたものに過ぎなかった。が、これによ
34
りソウル派内部に新旧両派の対立が生まれた」
、 「この時、安光泉、河弼源らは、福本主義を輸入し
社会運動の方向転換の新理論を提唱しつつ、自派の勢力拡大を図っていた」、
「派閥を清算した各派統
一党の結成を目標にしたML党も、各派の覇権獲得運動により内紛に卷き込まれた。北風、火曜の両派
の残党を糾合した『日月会』の党員は、福本主義を掲げながら、ソウル派および上海派を除外しよう
としたが、一撃で粉砕され、一時全朝鮮を風靡した福本主義は衰えてしまった」
。李盤松
『朝鮮社会運
動沿革略史』
、18∼20頁。韓デヒ編訳『植民地時代社会運動』ハンウルリム、1986年、に翻訳されたも
のを参照した。
(46)
梶村秀樹「朝鮮の社会状況と民族解放闘争」、
『岩波講座世界歴史』27、1971年、249頁。しかし彼は
「新幹会研究のためのノート」においては、
「この方向転換論は、一般に日本の福本主義の流行に触発
されたとされている…… 直接的には、そのような点もあったであろう。しかし、その具体的な方向が
必ずしも福本イズムと直結したものではなく、
『民族協同戦線』
の追求にあったのは、当時コミンテル
ンのイラン路線であった植民地・従属国の民族ブルジョアジーに対する過大評価の影響、および韓国
内の主体的・客観的条件の結果であろう」とする。スカラピノ・李廷植他編『新幹会研究』トンニョ
ク、1983年、196∼197頁。
(47)
李均永『新幹会研究』
、漢陽大学校博士学位論文、20頁および216頁、参照。
(48)
水野直樹「新幹会運動に関する若干の問題」
『スカラピノ、李前掲編書』、70∼71頁。
(49)
徐大肅、前掲書、88頁。
(50)
金明久「コミンテルンの対韓政策と新幹会」
『スカラピノ、李前掲編書』所収、参照。
(51)
Yoo Se-Hee,The Korean Communist Movement and the Peasantry under Japanese Rule, Columbia
Univ.Ph.D.dissertation,1976,pp. 298∼299.
1926年当時、会員は全部で37名であった。水野直樹
「新幹会東京支会の活動について」
『朝鮮史叢』
(52)
第1号、1979年、参照。
(53)
高峻石『日本の侵略と民族解放闘争』社会評論社、1983年、51頁。
(54)
『思想運動』 第3巻第1号、1926年1月。水野前掲「新幹会東京支社の活動について」、116∼117頁を
参照。
(55)
『東亜日報』1924年11月29日付。前掲『運動史』第2集、40頁から重用。
(56)
「日月会」
は、1925年夏に起こった国内水害の救援を名目として、在日朝鮮労働総同盟および日本の
労働団体と共同で、
「朝鮮水害罹災自救諸委員会」
を結成、募金運動を展開した。安光泉らは、1926年
2月、その募金をもって帰国、
「朝鮮飢饉救済会」
に寄託した。国内の4団体合同委員会、前進会、朝鮮
農民総同盟など、あらゆる社会主義運動団体によって歓迎会が催されたのだが、安光泉はその席で、
国内の各思想団体間の親睦を強調し、彼自らもまたこれから国内の思想団体と手を取って行くと述べ
た。『東亜日報』1926年2月19日付。
(57)
日本の社会主義運動においては、いわゆる「福本イズムの清算」が始まった。
「正友会宣言」が「福
本イズム」の影響をそのまま受けたならば、その路線の具現として案出された民族協同戦線にもやは
りそれを「消毒」する作業が必要となったろう。「新幹会」の「任実支会」で「福本イズム」の排撃を
決議している事例が見えることは見えるが(
『東亜日報』1928年1月8日付)、枝葉的なものに見える。
韓国の社会主義運動グループにも「清算論」が台頭したが、それは「福本イズム」を批判した「7月
テーゼ」の路線を勘案して出たものであった(李均永前掲書、60∼62頁)
。つまり、民族協同戦線とし
ての「新幹会」と、そこに参加していた社会主義者たちに大きな影響は与えられなかったのである。
コミンテルンもまた、
「福本イズム」と韓国の民族協同戦線を完全に別のものとして把握していたよう
である。韓国の社会主義者たちに伝えられたコミンテルン11ヶ条や、李廷允が上海で手に入れてきた
「コミンテルン決定書」は、
「新幹会」の立場を追認する形を取っていた。
(58)
「1926年4月15日に京城で思想団体『正友会』が組織された。これは内容において、4団体合同委員会
を構成することが不可避なことであった関係上、それらの解体を前提とし、その他にも新しく入会す
35
る多数の会員を包括し、創立したものであった。すでに約1ヶ月前から創立を準備していたが、その創
立過程で、最も円満な合同を要求する彼らの見解からして多少の支障がなくもなかったが、内容的に
は、合同は満1年ぶりにすでにその目的を達成するに至ったのである」
。 成龍「朝鮮社会運動小史」
『朝鮮思想通信』第877号、1929年2月15日、91頁。
(59) 「4団体合同委員会を解体して『正友会』を新しく作った理由は、初めの頃には4団体合同を正式に成
立させられず、ただ便宜上の合同事務室で各派の代表が仕事をしており、その矛盾を打破しようと
し、また4団体合同委員会の綱領は実行不可能な誇大綱領であった事情もあって、綱領がない方がいい
という意見もあり、他方ではソウル系の、いわゆる社会団体中央協議会が新しく出ており、それが攻
勢をかけてきたので、それに対抗する措置としても必要であったために設置しようというものであっ
た。が、私自身は積極的な態度をもっていなかった」
。金綴洙インタビュー、前掲『運動史』第2集、
450頁。
(60) これは、相当な成果を収めた。
「日月会」
の安光泉らと一部のソウル系の人物を引き込むことができ
たためである。
「第3次朝鮮共産党」を「派閥清算の統一的党」と呼ぶのも、このためである。
(61) 安光泉は、1926年11月「正友会宣言」の起草をしただけでなく、「朝鮮共産党」で金俊淵が責任秘書
になるまで
(1927年9月下旬)
、責任秘書として活躍していた。安光泉は、1926年9月20日前後に朝鮮共
産党に入党した。
「私の考えでは、我々は遅かれ早かれ逃げなければいけない体であったため、後の事
を任せられる人物を一人選んで、中央幹部に据えて置かなければならなかった。ソウル系の人物を入
れておけば火曜系側から不平を言われるであろうから、できる限り無所属の人を入れなければならな
かった。そうすると安光泉が適任者となってきたので、その他の人の承諾を得た後、次の10月中旬か
下旬頃に安光泉と交渉して、宣伝部の責任者になってもらうようにした。梁名は安光泉の紹介によ
り、安が入党した頃、安と一緒に入党したが、梁名も中央幹部になった。……私が責任者に就任した
後、安光泉が責任秘書になるまで、前述した山中で約10回に渡って(中央執行委員会)を開催した
が、もっとも重要な決議は、党員の募集およびソウル系同志の入党勧誘のことであった。すべては、
自由に活動できる安光泉に任せた。その結果、10月14日の中央執行委員会で、金俊淵、權泰錫らを入
党させ、この人たちを中央幹部にした。この他に、第2回朝鮮共産党大会を早々に開催することを決議
した」
。
「金綴洙外20人調書」
(2)
、415∼418頁。前掲『運動史』第3集、180頁から重引。安光泉の経歴
と活動は、 ソンチャン編『植民地時代社会運動研究』トルベゲ、1987年、389∼398頁を参照。
(62) 『東亜日報』1926年11月6日付。
(63) 「正友会宣言」の原文は、『朝鮮日報』1926年11月17日付に掲載された。ここでは、前掲『運動史』
第3集、 9∼11頁に掲載されているものを利用した。
(64) 第三条の最後の部分でも、大衆の組織と訓練および教育を重視している。
「しかし、我々がそこから
得る最大の収穫は改良によって得られる実用的利益であるというよりも、むしろそのために奮闘する
中で得られる大衆の組織と訓練及び教育であるので、大衆自体の奮闘を去勢し、外面的な理解だけに
終わろうとする形態の政治的勢力に対しては、最初から闘わずにはいられない」。前掲『運動史』第3
集、10頁。
(65) 結びの部分でも再び「我々は、以上のような運動方針で政治運動期に転換し、現在から脱皮しよう
とするが、この方針の正不正は闘争的実践をもって証明しようと思う」と言明している。前掲『運動
史』第3集、11頁。
(66) 意味のうえからすると、民族主義的勢力と対抗するということではなく、堕落していない民族主義
勢力と積極的に提携し、反動団体を対象に共闘すべきであるということである。
(67) 「正友会宣言」が発表されるや否や、対立関係にあったソウル青年会系の「前進会」は、それに反対
する決議文と検討文を発表した(
『東亜日報』1926年12月17日付)。それはひと言でいえば、「改良主義
的右傾」という批判であったが、「ソウル青年会」
「京城無産青年会」などはソウル系組織ながら支持
を表明した。
「正友会宣言」は多くの呼応を得、ひいては「ソウル青年会」の一部少壮派の支持も得た
36
のである。さらに、
「正友会」は執行委員会を開催、
「前進会」の決議(反対)に答える決議を公式に
採択、 発表した(『東亜日報』1926年12月22日付)
。続いて1927年2月、一種のショック療法として
「正友会」自らの解体を決議することで(解体声明)
、模範を示した(
『東亜日報』1927年2月4日付)。
これに力を得、単一協同戦線は初めて可能となった。
「前進会」の批判と「正友会」の反駁、解体の過
程に対する検討は、今後の課題とする。
(68)
1922年11月コミンテルン第4回大会では、アジア各国の状況変化を考慮して
「東洋問題に関するテー
ゼ」が発表された。同テーゼは、帝国主義に反対するすべての階級の、いわゆる「反帝連合戦線戦
術」を提起し、具体的な戦略まで立てていた。中国に対しては国共合作に対する指導、インド に対し
てはブルジョアとの協力問題、韓国に対しては伝統的支配勢力との連帯を論議した。Macmachon W.
Ball / 孫ジュンギ訳『アジアの民族主義と共産主義』学問と思想社、1984年、126∼128頁、参照。
(69)
実際に「福本イズム」と「山川イズム」を区別せず、混合した形態であるという指摘もあった。し
かし、
「山川イズム」は前衛党(日本共産党)の確立を前提にしていなかったという点を看過してはい
けない。
(70)
本稿Ⅲの(2)を参照。
(71)
コミンテルンと朝鮮共産党との関係は、高峻石『コミンテルンと朝鮮共産党』社会評論社、1983
年、で詳しく扱われている。
「コミンテルンが朝鮮共産党に対して持っている影響力」を基準にすると
き、コミンテルンと植民地韓国の関係は、次のような四つの時期に分けられる。すなわち、①1919年
コミンテルン創設から朝鮮共産党が承認される時点の1926年4月まで、②1926年4月から1927年5月コ
ミンテルンが11ヶ条の指令を下す時点まで、③1927年5月に11ヶ条指令を受領して以後、1928年12月の
いわゆる「12月テーゼ」が出される時点まで、④「12月テーゼ」以後、新幹会が解消される1931年ま
で(金錫根、前掲書、103頁)
。ところで、
「正友会宣言」が出された時点は、第2の時期に当る。コミ
ンテルンが「朝鮮共産党」を支部として認めていた時期ではあったが、まだ具体的な指令が下る以前
の段階であっただけに、ある程度の独自性と相対的自律性を保持できたと言えよう。
※本稿は、2002年5月18日に行われた韓国政治思想学会と日本政治思想学会の第1回共同学術会議
(
「西洋
近代思想受容に対する韓日比較」、韓国西江大学校茶山館国際会議室)
で発表した内容を修正、補綴し
たものである。当日討論させていただいた崔丁云先生
(ソウル大学校)
、そして貴重なコメントをいた
だいた飯田泰三先生(法政大学)に心から感謝申し上げたい。
37
‐アルケー)」 アリストテレスにおける 「統治(arche
の位相
― E.バーカー、H.アレントの 「統治(アルケー)」 理解との対比において ―
荒木 勝 一 はじめに
二 E.バーカーのアリスト テレス理解
三 H.アレント のアルケー理解
四 アリスト テレスのアルケー理解
1 原理的理解
2 国家体制への適用
五 結びにかえて
一 はじめに
筆者は2001年から2003年にかけてアリストテレス『政治学』の翻訳を試みたが(1)、その際痛感したこ
とは、アリスト テレスの用いる政治学用語の翻訳の困難性であった。
『政治学』第一巻の冒頭からポリス
polisの訳語になにを当てるか、が問題であったし、わが国では共同体の訳語で統一されているコイノー
‐niaの訳語も英語では3種類の訳語(community,partnership,association)が存在している。こう
ニアkoino
した訳語問題の困難性と重要性は、欧米の翻訳者によっても同様に指摘されているが(2)、とりわけこの
点について立ち入った論点を提示しているのが、今日でも英語訳の基本とされているE.バーカーの翻訳
である。バーカーはその翻訳の序文にわざわざ「『政治学』の語彙」の1章をもうけて、アリスト テレス
の政治学理解における訳語の困難性を強調し、彼なりの訳語の意味を説明している。筆者の翻訳もそう
したバーカーの問題提起を踏まえて、筆者なりの視点でいくつかの政治学タームに独自の訳語を与える
ことになった。
しかしながらこの訳語問題は、筆者にとって単なる翻訳上の技術にとどまらない問題を提起すること
になった。バーカーの訳語がバーカー自身のアリストテレス政治学理解と結びついている以上、筆者に
とっても訳語の問題は筆者自身のアリスト テレス政治学理解の基本にかかわる問題となってしまった
のである。以下、そのような訳語類のなかで根幹となる若干の語、とりわけ政治学の中心的テーマであ
‐
るアルケーarche
(統治または支配と訳される)を取り上げ、筆者自身のアリスト テレス政治学理解の一端
を提示してみよう。
ただ一言付け加えておけば、以下の論述は、このバーカーのアリスト テレス理解との比較を念頭にお
いて展開されている。それは、バーカーによるアリストテレス『政治学』の翻訳とその注解が、現代政
治にたいする政治哲学的考察を行った学者によるアリスト テレス政治学の翻訳・注釈としてはほとん
ど唯一のものであるだけでなく(3)、今日までアングロサクソン系の政治学の展開におおきな影響を与え
続けているからである(4)。
39
二 E.バーカーのアリステレス理解
バーカーはその学問的出発を『プラト ンとアリストテレスの政治学』の出版から始めているが(5)、生
涯を通じてアリスト テレス政治学の研究を続け、晩年70歳前半に達していたにもかかわらず、第二次大
戦中に準備されたと思われるアリストテレスの『政治学』の翻訳と注釈を1946年に発表している。また
バーカーの政治哲学の総決算とも言うべき『社会政治学理論の原理』を1950年、かれの77歳の時に発表
しているが、最晩年に書かれたこのアリスト テレス『政治学』の翻訳・注解およびこの『社会政治学理
論の原理』は彼のアリスト テレス理解の到達点であると思われる。その『政治学』翻訳の序文のなか
で、バーカーは、アリストテレス政治学の意義について次のように述べている。
アリスト テレスの政治学は、長い忘却の後、ト マス・アキナスによるアウグスティヌスの思想との融
合を通じて、ヨーロッパの一般的政治思想の潮流のなかに流れ込み、それ以来常に政治思想の発酵要素
となった。その中心的内容は、以下の点にある。すなわち国政への参与権を有する市民の集合体である
市民体およびその集合的意志の表明である法こそは、真の主権者(sovereign)であり、政府は法の僕で
あり、法に基づいて統治する君主と自分の恣意によって支配する僭主との間には根本的相違がある。人
民には、その集合的判断力によって、彼らの支配者を選び、彼らにその統治の説明責任を要求する固有
の権利がある。アリスト テレスとアウグスティヌスとのこうした融合によってアリストテレスの政治理
論は現代政治思想の中に、とりわけJ・マリタンの思想に継承され、ピウス11世の『クアド ラジェシモ・
アンノ』の中で提起されたアソシエーションの理論に生かされている。かくしてアリスト テレスの政治
理論のなかでヨーロッパ政治思想にとって共通の遺産を挙げるとすれば、それは特に『政治学』第3巻に
登場する「コンスティテューショナリズム(constitutionalism)」ということになろう。そしてこの思想に
よって、アリスト テレスはイギリスの政治思想の伝統においても、ト マス・アキナスの政治思想をイギ
リスにおいて展開したR.フーカーを介して、またフーカーを受け継いだロックを介して、またロックの
思想に影響されたバークを介して、ホイッグ的伝統の起点に位置づけられるといってもよいであろう(6)。
以上が、アリストテレス政治学の普遍的意義としてバーカーが強調するところであるが、その中心的
論点は、アリスト テレス政治学の基軸をコンスティテューショナリズムとして理解するという点にあ
る、といってもよいであろう。多元的な社会を構成する多様な個々人が、正義の保障を求めてともに
(コン)形成する(コンスティテゥート )法的な結社(アソシエーション)こそが国家である、という思
考は、バーカーが自らの政治思想の基礎とするところのものであるが、ほかならぬこの視点をバーカー
はアリスト テレスの政治思想の中心的骨格とみなしているのである。
このようなアリストテレス理解は、バーカーの翻訳・注解のなかに明瞭に読み取ることができる。
第一に、これまで英訳ではコミュニティと訳されてきたコイノーニアの語をアソシエーションと訳した
ことである(7)。バーカー自身この語を、なんらかの意識的行為を含意するものとして、またある種の契
約行為(ホモロギア)によって形成されるものと解している(8)。
このような視点からバーカーは『政治学』第一巻冒頭を次のように訳し、それを自らの国家規定と重
ねているのである。
「観察はわれわれに、最初に、あらゆるポリス(すなわち国家ステイツ)はある種のアソシエーショ
ンであることを示している。そして第二には、すべてのアソシエーションはなんらかの善を獲得する
ために組織されたものであることを示している。というのは、すべての人間は自らの考えにおいて善
いと思われることを達成せんとしてすべての行為を為すからである。それゆえわれわれは、すべての
アソシエーションはなんらかの善を目的として志向するものである、と言うことができる。そしてま
40
たわれわれは以下のことを主張することができるであろう。すなわちすべてのアソシエーションのう
ちで至高sovereign(サヴェレン)のもので、かつ他のすべてのアソシエーションを包摂している特別
のアソシエーションは、この目的をもっともよく追求し、かくしてすべての善のうちでもっとも至高
な善に向けられていくであろう、と。この至高かつ包摂的なアソシエーションこそポリスであり、す
なわちいわゆるポリティカル・アソシエーションである。」
バーカー自身の国家規定は、『社会政治学理論の原理』第一章に以下のように述べられている。
「《国家》は、共同(コモン)の目的の実現において仲間(socii)つまりパート ナーとして行動する
という目標のために組織された人々の結合体という意味においては、他のアソシエーションと同様な
一つのアソシエーションであるが、それはまた、次のような意味においては、他のアソシエーション
とは異なったアソシエーションである。つまり一定の領域に住むすべての人々を強制的に包含すると
いう独特の範域と、法を制定し法的強制力を行使するという固有の権力とをそのアソシエーションに
与えるところの固有の目的(法秩序の強制的体系を維持するという目的)を有するという意味におい
て、である。」
以上のように、至高かつ包摂的アソシエーションの意味を法的アソシエーションと規定する点を除け
ば(9)、バーカーの国家論がアリストテレスの国家規定をほぼ踏襲していることは明らかであろう。
さらにバーカーは、国家がアソシエーションであることを、アリストテレスの「自然(phusisフュシ
ス)
」理解の観点からも補強している。アリストテレスの政治学の基本命題の一つに、人間は「自然本性
において(フュセイ)」ポリス的動物であること、国家は自然的なものであること、を挙げることができ
るが、この命題をバーカーは次のように解する。人間は国家において人間の本性的力量を可能態から現
実態にまでもたらすことができ、したがって人間は国家のなかでこそ自己完成を遂げることができる。
したがって人間の自然本性のなかには、動物的自然的衝動と正義をもとめる道徳的力量とが内在してお
り、後者の力が国家を作り出すのである。
「人間本性の内在的な衝動と、これと等しくまたそれ以上に同
じ人間本性の一部である意識的作為conscious artの間には何の矛盾もない。」(10)
こうしてバーカーにおいては、アリストテレスにおける国家は、人間の意識的作為によって作り出さ
れたものであり、かつ人間を自己完成にまで導くアソシエーションであった。
しかしさらに、アリストテレス国家論の本質をコンスティテューショナリズムと解するバーカーの根
拠を挙げるとすれば、アリストテレス政治学にしばしば登場するキーターム「アルケー(支配、統治と
訳される)」の独特の解釈であろう。バーカーの解釈は以下のようなものである。「アルケー」は当時の
ギリシャ人において支配ruleあるいは統治governmentを意味していた。そこからアルコンは支配者、統治
者、行政官を意味することになったが、もともとの意味は「始まり」
「イニシャティヴ」を意味している
言葉である。そこから権威を持っている人々は、一連の政治的実践の始まり、起点、イニシャティヴと
看做された。そして権威の本質がイニシャティヴであるならば、このイニシャティヴに承認を与えるこ
とが、ギリシャ人における「キュリオスkurios(主権sovereignty、あるいは権威authorityと訳される)
」で
‐ ブーレー deliberative body)
あった。通常このイニシャティヴに承認をあたえるものは評議機関(boule
である。
以上がバーカーのアリスト テレス政治学のアルケー理解であるが、それはポリス=国家における市民
間の政治的実践とそこから生ずる統治の形成を理解する場合には十分に整合的な理解であろう。市民と
して同じ資格を持つ者のなかに統治する者と統治される者が生ずるのは、このイニシャティヴ提起能力
とその後に続く討論上の説得力、評議機関におけるリーダーシップにあるとされる。こうしたアルケー
理解は、市民の合意に基づく法的統治を根幹的内容とするバーカーのコンスティテューショナリズムに
41
きわめて整合的なものといってもよいであろう。他方、バーカーとは異なった視角から古典ギリシャ人
およびアリスト テレスのアルケー理解にアプローチしている現代政治理論家にH・アレント がいる。ア
リスト テレスのアルケー把握の今日的意義を明らかにするためにも、以上のバーカーの見解との比較を
念頭におきつつ、このアレントのアルケー理解の骨子を整理してみよう。
三 H・アレントのアルケー理解
アレント にとって、アルケーの語はギリシャ政治だけでなく、およそ政治的事象の特質把握に欠かせ
ないキータームであった(11)。まず最初に指摘しておかねばならないことは、アレントにおいても、バー
カーと同じく、アルケーは、「始まり(beginning,initiative)」の語義を持つものであったことである。そ
してこの「始まり」の語は、アレントにおいては、人間が真に相互に人間たる存在を表す場を意味して
いる。
「言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式である。
この現われは、単なる肉体的存在と違い、人間が言論と活動によって示す創始(イニシャティヴ)にか
かっている。しかも人間である以上止めることができないのが、この創始であり、人間を人間たらしめ
るのもこの創始である。」
「活動するというのは、最も一般的には、イニシャティヴを取ること、始める
こと、を意味している。
(たとえばギリシャ語のアルケインarcheinというのは、
『始める』、
『導く』、そし
てその結果としてeventually、
『支配する』という意味である。
」(12)したがってまたこの「始まり」によっ
て作り出されるものは、アレント における公的政治空間そのものであり、そこにおいてこそ、真の意味
の権力powerが形成される、とされる。
「私たちは以前に、権力(power)は、人々が共に集合し『協力して活動する(act in concert)』とき生
まれ、人々が分散する途端に消滅すると述べた。人々が集合する出現の空間やこの公的空間を存続させ
る権力と異なり、人々を一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。」(13)また
アレント においては、真の権威authorityも、「始まり」、「創設」に結びついている。(14)
しかしながら、アレント によれば、このアルケーの語は、ギリシャ政治思想、とりわけプラト ン、ア
リスト テレスにおいては、確かに活動と結びついていた「始まり」を意味していたが、最後にはその意
味を喪失し、
「支配」の意味に転化した、とされるのである。創始者は支配者に転化され、同輩者と同輩
者中の第一人者の関係は、命令権者と服従者の関係に転化された、とされる。
‐》だけが支配rule
「プラトンが『法律』の終わりのところではっきりと述べているように、《始まりarche
する権利を与えられているということは、彼にとって極めて重要である。このように、『支配するrule』
ことと『始めるbegin』ことは、もともと言語的には同一なのである。このため、プラトン的思考の伝統
では、
『始まり』はすべて支配を正当化するものとして理解されるようになった。しかし最後には、『始
まり』の要素が支配の概念から完全に消滅し、それとともに、人間的自由にかんする最も基本的な本当
の理解も政治哲学から消えた。
」さらに、アレント によれば、こうして意味転化されたアルケーは、プラ
トンにおいて、支配そのものを意味する言葉として家族関係の支配・被支配の関係に重ねられることに
なった、とされる(15)。
「ギリシャ人の理解では、支配と被支配の関係、すなわち命令と服従の関係は、本性上、家の奴隷主
と奴隷の関係と同一であり、したがって、そこには活動の可能性がまったくなかった。だから、プラ
ト ンが、公的な諸問題における行動の規則は、よく秩序づけられた家の主人=奴隷関係に求めなけれ
ばならないと主張したとき、それは、事実上、人間事象において活動はいかなる役割も果たすべきで
はない、という意味であった。」(16)
42
さらにアレント によれば、アリスト テレスもまた、プラト ンとは方法が異なっていたが、このアル
ケーを支配ruleの意味に理解し、しかも同様にこの支配を家における支配と同一視した、とされる。
「アリスト テレスが、先行するプラト ンと同じく、公的事柄の取り扱いとポリスの生活に一種の権威
を導入しようとしたことは疑いの余地はないし、それもきわめて政治的な理由からだったのもはっき
りしている。しかしかれもまた、支配者と被支配者、命令する者と服従する者の区別を政治の領域に
導入することに真実味を与えるために、窮余の一策のようなものに頼らざるをえなかった。かれがそ
の例とモデルを引き出せたのは、やはり前政治的領域、つまり家という私的領域と奴隷経済の経験か
らだけであった。そのためにかれは、かれ自身が家共同体での行動と生活にのみ妥当すると随所で説
明している基準を、ポリスでの行為と生活に押し付けるというあからさまに矛盾する言明に陥ってい
る。」(17)
アレント によれば、「アリストテレス自身にとって、ポリスに支配があることなどおよそ考えられな
い」
ことだったし、「政治の領域が家という『オイコス』の領域から区別されたのは、ポリスが平等の原
理に基づき、支配するものと支配される者との区別を設けないことによる」のであるから、アリストテ
レスの「すべての政体は支配する者と支配される者からできている」という発言は、彼のポリス観とあか
らさまに矛盾している、とされるのである(18)。
こうして、アレントの理解によれば、アルケーは、ギリシャ人において、そしてまたプラト ン、アリ
スト テレスにおいても、当初「始まり」の意味をもち、したがって公的政治空間における「指導」の語
義(たとえば同輩者中の第一人者)をもっていたが、直ちにその意義は、とりわけプラトン、アリスト
テレスの支配の意義に取って代わられ、そこから家の家長の支配の意味に転化した、とされるのであ
る。この理解は、確かにプラト ン、アリスト テレスの政治学における僭主制成立の主張を説明するには
適しているであろう。しかしまた他方で、この理解では、僭主制が、アリスト テレスにおいてなお国家
体制の一つとして位置づけられていることが説明しがたくなるであろう。僭主が絶対的支配者としてポ
リスの公的領域を完全に支配し、一個の奴隷主として、奴隷に対するごとく市民に対するならば、そこ
には市民の共同的結合体(コイノーニア)としての国家体制は存在しないからである。
「プラト ンとアリスト テレスが依拠でき、またそこからかれらの政治哲学が由来する支配ruleは二種
類であった。一つは、かれらが公的―政治的領域から知っていたものであり、もう一つは、ギリシャ
の家政と私的領域から知っていたものであった。ポリスにとって、絶対的支配absolute ruleは僭主制の
ことであった。僭主の主な特徴は、もっぱら暴力によって支配し、護衛隊によって身を民衆から守ら
ねばならず、また臣民は自分自身の仕事に専念して公的領域の配慮は自分に任せろと主張することで
あった。この最後の特徴が意味したのは、ギリシャの世論では、僭主はポリスの公的領域を完全に破
壊し、そのことによって市民が自由の本質そのものであると感じている政治的権能を市民から剥奪す
ることであった。
」(19)
さらにまた、このようなアルケー理解は、とりわけアリスト テレスの王政、貴族制、
「国家体制」
(寡
頭制・貴族制と民主制の混合体制)成立の論理を整合的に理解することを著しく困難にするであろう。
アリスト テレスにおいては、これらの国家体制は、1人、少数、多数の者が、市民全体のために統治ア
ルケインする体制であったから。
他方、コンスティテューショナリズムの線でアリスト テレスを理解するバーカーにおいては、アリス
ト テレス政治学におけるアルケーは、権威ある市民のイニシャティヴとして理解され、そのイニシャ
ティヴが市民の評議の場で承認されることによって権限を付与される、と解されている。こうした理解
においては、政治への参加を認められた市民は、政治指導者のもとに自らのポリスの政治に、被統治者
43
として関与するのであって、そこではアルケーは、むしろアレント的な意味での支配・被支配の関係を
意味するもではなく、今日的用語でいうところの、参加を内包するガバナンスの関係を意味する、とさ
れるのである。他方こうした理解においては、君主制(モナルキア)は、君主に最高の権限が付与され
る国家体制であるから、この君主制を市民のリーダーによるイニシァティヴ、参加と評議、そこでの承
認を特質とする政治体制の一つと解することに困難を生ずるであろう。事実バーカーにおいては、アリ
スト テレスの君主制とりわけ絶対的王政パンバシレイアは、ポリテイアとしての国家体制として把握さ
れず、単なる人的体制として位置づけられているのである。またとりわけ僭主制は、バーカーにおいて
は、例外的事象、あるいは一個の病理現象として理解されざるを得ないのである(20)。 こうしてアリスト テレスのアルケー理解において、バーカーとアレント はいわば対照的な見解に立っ
ているように思われる。それゆえ、今ここで問われるべきは、アリストテレスに即したアルケー理解そ
のものであろう。
四 アリストテレスのアルケー理解
1 原理的理解
アリスト テレス自身のアルケー理解を確かめるためには、まず『形而上学』第五巻冒頭の定義の吟味
から出発すべきであろう。その箇所でアリスト テレスは、アルケーの語義を六つ挙げている。すなわち
①運動の起点、②行為の最良の出発点、③物の内在的基礎、内在的起動因、④物を生じさせる外在的原
因、外在的起動因、⑤人々を動かす意志、統治、建築士の術、⑥認識の前提、の六つであるが、全体に
共通しているラディカル・センスは、「始まり」
「起点」という意味であり、この点は、バーカーもアレ
ント もともに指摘するところである。しかしさらにアリスト テレスの叙述を追っていくと、アルケーの
語義の総括として、次の文が記されている。
「こうして、これらのアルケーすべてに共通しているのは、事物が存在したり、生成したり、認識さ
れたりする場合の第一の起点であること、である。しかしこれらのもののうち、或るものは、そのも
のに内在しており、他の或るものは、その外にある。
」(『形而上学』第五巻1012b34−1013a19)(21)
この箇所でアリストテレスは、アルケーを、事柄に内在する起動因としてのアルケーと事柄の外にあ
る外在的起動因としてのアルケーとに分けている。そしてこの観点から、⑤にあたる文章を読み直して
みると、アリスト テレスのアルケー理解が、政治のレヴェルに適応された場合にも、やはり二重の意味
をもっていると解することができる。
「或る者の選択的決断によって、動かされるものが動かされ、転化するものが転化する場合の、その
或る者がアルケーと呼ばれる。たとえばポリス(国家)における統治職(アルケーの複数形)がアル
ケーと言われ、また閥族政や王政や僭主政がアルケーと言われる。」
(『形而上学』第五巻1013a10−13)
この文章において、アリスト テレスはポリスにおける統治職のアルケーと、閥族政、王政、僭主政の
アルケーとを区別しているが、この区別をアルケーの二つの区別と関連させているように思われる。す
なわちポリスの統治職は、市民から選ばれ、民会、評議会の意志を踏まえて統治するという意味におい
てポリスを内的に動かすのに対し、閥族、広義の王、僭主は、自らの意志のみによって統治するという
意味においてポリスを外から動かす、というように理解することができる(22)。
しかしながら、アリスト テレスの政治学的なアルケー理解をもっとも明瞭にしめしているのは、やは
り『政治学』であり、ほぼ全巻にわたってアルケーについての言及がなされているが、とりわけ第一巻
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(第五章、第七章)、第三巻(第四章、第六章)
、第七巻(第三章、第十四章)においては、アルケーの二
重性が集中的に論及されている。アリスト テレスはこれらの箇所でアルケーを、奴隷主(デスポテー
‐ arche
‐ デスポティーケー・アル
ス)が奴隷をアルケインする場合に成立する奴隷主的統治(despotike
‐arche
‐ポリティー
ケー)と、自由人が自由人をアルケインする場合に成立する市民的政治的統治(politike
ケー・アルケー)とに分けているが、この二つのアルケーの相違を以下のように描いている(23)。
第一に、統治目的の相違に関して。奴隷主的統治は、統治者である奴隷主の利益のためになされ、奴
隷は、たとえその統治が彼のためになる場合であっても、それは間接的なものにとどまる。それに対し
て、市民的政治的統治は、被統治者の利益を図るものである。
「統治(アルケー)には、一方において、統治者の益になる統治があり、他方において、被統治者の
益になる統治がある。前者は奴隷主的統治であると我々は言っており、後者は自由人達への統治であ
る、と言っている。」(
『政治学』第七巻第十四章1333a3−6)
「しかしながら、他方では、人々が問題にしている統治(アルケー)の諸形態を区別するのは容易で
ある。実際、われわれは、これについてしばしば一般向きの議論の中でも明確に規定している。確か
に、奴隷主的統治(デスポテイア)においては、本当は、自然本性的に奴隷である者と自然本性的に
奴隷主である者との間に、同一の利益が存在しているのだが、それにもかかわらずその統治はそれに
劣らず奴隷主の利益を目当てに行われ、奴隷の利益は副次的にしか考慮されない。」
(
『政治学』第三巻
第六章1279a30−36)
第二に、統治方法に関して。アリスト テレスにおいては、この二つの統治は、ただ統治目的において
異なっているだけではなかった。統治方法においても、両統治は、決定的ともいえるほど異なってい
た。この点をアリスト テレスは、次のような文章で描いている。
「こうして、我々の主張するように、まず第一に、生き物において、奴隷主的統治(デスポティケー・
アルケー)も市民的政治的統治(ポリティケー・アルケー)も観察することができる。すなわち、一
‐プシュケー)は肉体(so
‐maソーマ)を奴隷主的統治によって統治するのであり、他
方で、魂(psuche
‐
方、知性(nousヌース)は欲求(orexisオレキシス)を市民的政治的統治あるいは王制的統治(basilike
‐バシリケー・アルケー)によって統治する。そしてこれらにおいては、肉体にとって魂に統治さ
arche
れることが、また感情的部分にとって、知性や理性(ロゴス)を有する部分によって統治されること
が自然本性に即したことであり、また有益なことであることは明らかなことである。」
(
『政治学』第一
巻第五章1254b2−9)
ここでアリスト テレスは、奴隷主的統治を、魂が肉体を統治する方法に従って統治するものとして描
いているが、アリスト テレスにおいては、肉体は魂の道具として位置づけられている。
「すべての自然的
身体は魂の道具(オルガノン)である。
」(『魂について』第二巻第4章415b18−19)(24)事実またアリス
ト テレスにおいては、奴隷は奴隷主にとって、生きた道具であって、道具の使用者の意図を実現するた
めのものとして描かれている。
「すなわち、人間でありながら、その自然本性上、自分自身のものでなく他の人間のものである者、
これが自然本性の奴隷たるものである。そして人間でありながら財産でもあるような人間は他人の所
有に属するものである。その財産は実践のための道具であり、しかも所有者から分離されるものであ
る。」
(『政治学』第一巻第四章1254a14−17)
したがって魂が肉体を統治する仕方で統治するという、この奴隷主的統治の方法とは、統治される者
を統治する者の道具として使用することを意味するであろう。それゆえ、この統治を道具的統治方法と
呼んでもよいであろう(25)。
45
それでは、
市民的政治的統治の方法とされる、
知性が欲求を統治する方法とはいかなるものであろうか。
アリスト テレスにおいては、欲求(オレキシス)は、欲望(epithumiaエピテュミア)
、気概(thumos
‐sisブーレーシス)から成り立っている、とされるが(26)、その中でも、願望には
テュモス)
、願望(boule
理性(ロゴス)が宿り、気概、欲望にはロゴスが宿らない、という区別が存在している(27)。その上で、
アリスト テレスは、理性と理性を分有する欲求の関係を、説得者と被説得者の関係と看做している。
「こうして魂の非理性的部分も二様であるように思われる。すなわち魂の育成的(植物的)部分は、
いかなる点においても理性に与らないが、欲望的な部分、一般的にいって欲求的部分は、理性に耳を
傾け、理性に従う限りにおいて、理性に関与する。従って我々は、父や友人の言うことがわかる(ロ
ゴスを分け持つ)というのであり、それは数学の理屈(ロゴス)がわかるというような場合とは異な
るのである。非理性的部分がなんらかの仕方によって理性に説得されるということは、戒告やあらゆ
る叱責や勧告が示しているところである。」(『ニコマコス倫理学』第一巻第十三章1102b28−35)
こうして説得者と被説得者の関係は、理性が欲求に能動的に働きかける場合に生ずるが、逆に欲求が
理性に能動的に働きかける場合はどのように規定されるのであろうか。
この点に関して、アリスト テレスは、人間生活における実践(プラクシス)を成り立たしている諸契
機の分析のなかで次のように述べている。
「我々の魂の中には、実践(プラクシス)や真理認識(アレテイア)を統御する三つのものがある。
知覚(アイステーシス)と知性と欲求がそれである。‥‥‥そして思考における肯定と否定に相当す
るものが、欲求における追求と回避である。したがって人の倫理的な卓越的力量は、選択的決断を左
右する魂の状態如何に関わることがらであり、選択的決断が熟慮に基づく欲求である以上、そのこと
の当然の帰結として、選択が優れたものであるためには、理性的判断(ロゴス)も真なるものでなけ
ればならず、欲求も正しいものでなければならない。すなわち同じものを前者が肯定し後者が追求し
なければならない。」
(『ニコマコス倫理学』第六巻第二章1139a17−26)
こうして実践生活においては、正しい欲求が理性と結びつくと選択が生じる。したがって欲求と理性
の関係は選択という場において結びついている、といってもよいであろう。それゆえ理性と欲求の関係
は、先に述べたことを併せると、説得と選択という二つの特徴を持っている、ということができよう。
言い換えれば、理性が欲求を統治する場合は、説得・選択の統治方法に拠っているといってもよいであ
ろう。
こうして統治方法という点において、アリスト テレスによれば、奴隷主的統治は、道具的統治という
方法を採り、市民的政治的統治あるいは王制的統治は、説得的・選択的方法を採る、ということができ
よう(28)。
さて、アリストテレスのこのアルケー(統治)の二重性は、これまでのところ、アルケー(統治)そ
のものの性格の相違の指摘にとどまっている。それゆえ一方に奴隷主的統治があり、他方に市民的政治
的統治がある、といっても、もし前者の奴隷主的統治が家の中の奴隷に対する統治を指し、後者の市民
的政治的統治は国家体制(ポリテイア)において行われる統治を指すものというのであれば、この二つ
の統治は、家とポリスの政治的国家的空間という二つの領域に並存しているということを意味するにす
ぎないであろう。しかしながらアリストテレスにおいては、後に指摘するように、この奴隷主的統治と
いう言葉は、国家体制の統治の特徴付けにも拡張・転用されて用いられているのである(29)。その意味に
おいて、統治の二重性の視角は、アリストテレスの国家体制論そのものにおいても決定的に重要な位置
を占めているように思われる。
「従って、国家体制(ポリテイア)が、共通の利益(ト・コイネー・シュンフェーロン)を目指すも
46
のであれば、それは、端的な正義に基づいて存在する公正な国家体制ということになり、他方、国家
体制が統治者だけの自己利益を追求するならば、それはすべて誤りを犯した国家体制であり、公正な
国家体制からの逸脱であることは明らかなことである。というのは、このような統治は、奴隷主的統
治(デスポティケー)であるが、国家は自由人の共同的結合体であるから。」
(『政治学』第三巻第六章
1279a17−21)
そこで以下、この奴隷主的統治が国家体制の特徴づけにどのように用いられたか、を検討してみよう。
2 国家体制への適用
今、奴隷主的統治という語が、家における奴隷主による奴隷の統治を意味することを越えて、国家体
制(ポリテイア)の特徴づけに拡張・転用されている、と述べたが、その具体例を列挙するまえに、ア
リストテレスにおける国家体制の語の意味を確定しておこう。
これまでのわが国における翻訳においては、国家体制(ポリテイア)はしばしば国制と訳されてきた
が(30)、バーカーも指摘するように、国家体制はアリスト テレスにおいては、単に国家の制度・機構を表
示しているだけではないことに注意すべきであろう。アリスト テレスは国家体制を次のように規定して
いる。
「国家体制は、国家の中に住む人々の、ある種の秩序付け(taxisタクシス)である。」
(『政治学』第
三巻第一章1274b38)
この箇所のタクシスはこれまで「組織」と訳されてきたが、バーカーの英訳は、スキームscheme,
ジョウェット の英訳はアレンジメント arrangement、シュツルンプの独訳はオルド ゥヌンクOrdnung、オボ
ネの仏訳はオルガニザシオンorganisationまたはオーデゥルordreであり、タクシスは、単なる組織という
よりも広い語意をもつ語である。この点はさらにアリスト テレスの次の定義の中でより明瞭に表示され
ている。
「国家体制というのは、国家における統治職について、それらがどのように配分されるか、また何が
国家体制の最高権限を有するものか、またそれぞれの共同的結合(体)の目的は何であるか、を定め
秩序づけるもの(タクシス)である。」
(『政治学』第四巻第一章1289a15−18)(31)
この叙述によれば、国家体制(ポリテイア)とは、①審議、行政、裁判、軍事等の統治全般に関わる
人的組織の体系、②最高権限を有する人的あるいは法的な体系、③国家の目的を明示する価値体系ある
いは信念体系、の三つの領域において、国家の中にいる人々を秩序づけるもの(タクシス)といっても
よいであろう。事実アリスト テレスは、一方では、国家体制を最高の権限を有する市民体、あるいは統
治体(ポリテウマ)と等置しているし(32)、他方では、それぞれの国家体制に固有の精神的態度がある、
という。「実際、それぞれの国家体制に固有の精神態度(エートス)こそ、その国家体制を維持するのを
常とし、またそれこそがもともと国家体制を確立するのである。たとえば民主的精神態度が民主制を、
寡頭制的精神態度が寡頭制を、維持し確立するというように。」(『政治学』第八巻第一章1337a14−16)
さて、国家体制を以上のように規定するとすれば、奴隷主的統治という語は、この国家体制をどのよ
うなレヴェルで特徴づけているのであろうか。次の文章を見てみよう。
「他方で、国家体制の、奴隷主的統治の方法(ト ロポス)や僭主的統治の方法だけが幸福をもたらすも
のだ、と主張する人々もいる。」(
『政治学』第七巻第二章1324b1−3)ここでは「ホー・デスポティコ
ス・トロポス」
(奴隷主的統治の方法)
という表現で、国家体制の統治の方法のあり方如何が問題になっ
ていることが明示されていて、国家体制の組織、人的法的権限体系、価値体系の全体に(部分的にでは
47
なく)奴隷主的統治が導入されることは問題にされていない。もし全体的全面的に国家体制が奴隷主的
統治の原理に依拠し、統治者が国家の成員を奴隷として統治するならば、そこでは国家としての本質は
失われていることになろう。なぜならアリスト テレスの国家理解によれば、国家は自由人の市民的政治
的な共同的結合(体)であるから、である。(33)この点は、またこの奴隷主的統治の用語が副詞として用
いられている文章の中にも表示されている。
「ある人々は、次のように考えている。すなわち隣人を統治する(アルケイン)ことが、もし奴隷主
的統治の方法で(デスポティコース)行われれば、それはある種の最大の不正をともなうこととなる
が、市民的政治的統治の方法で(ポリティコース)行われたとしても、それは不正を伴うことはない
が、統治者自身の日々の幸せを妨げるものをもっている、と。」
(『政治学』第七巻第二章1324b35−
38)
すなわちここでは、いわば国家体制における統治の機能の側面に光があてられているといってもよい
であろう。そしてこの統治方法、統治の機能という観点から奴隷主的統治の特質を表現したものが、先
に言及した、説得的・選択的統治方法に対比された道具的統治という統治方法であろう。以下、この奴
隷主的統治の機能が国家体制のより具体的な形態にどのように関わっているか、を例証してみることに
しよう。
さて、アリスト テレスが国家体制を、六つに分類し、その内、良い国家体制を、王制、貴族制、
「国家
体制」とし、悪い国家体制を、僭主制、寡頭制、民主制としたことは周知の事柄であるが、この後者の
国家体制のいずれに対しても、アリスト テレスは奴隷主的統治の特徴を付与している。今その具体像
を、それぞれの国家体制に即して検討してみよう。
① 僭主制に関して。
最初に注目すべき点は、アリストテレスが、この奴隷主的統治の言葉を、僭主制の一般的規定に用い
ていることである。
「僭主制は、君主制(モナルキア)であり、市民的政治的な(ポリティーケー)共同的結合体(コイ
ノーニア)に対する奴隷主的統治(デスポティケー)である。
」(『政治学』第三巻第八章1279b16)
これは、アリストテレスの国家体制の二分法を支える基本的視点と相応している。アリスト テレスに
おいては、正しい国家体制は、統治者が「共同の利益(ト ・コイネー・スンフェーロー)
」を目指して統
治するものであり、逆に逸脱した国家体制は統治者の自己利益のみを目指して統治するものであったか
ら、僭主が自己自身の利益を目指して統治する国家体制は、逸脱した国家体制であり、それはまさに統
治方法としては奴隷主が自己の利益のみを図って奴隷を自己利益実現の道具として統治するという統
治と同じ性格をもつものとされるのである。しかしながら、僭主の統治の対象は、奴隷ではなく、市民
的政治的な共同的結合体すなわち国家の成員たる市民であることに注意せねばならない。
さらにアリストテレスにおいては、この僭主制という言葉すら、国家体制そのものを意味するのでは
なく、統治の方法の特質として、いわば統治の機能の性格づけの言葉として用いられ、しばしば奴隷主
的統治の言葉と並列して使用されている。たとえば、
『政治学』第三巻の第十四章において、王制の例と
してアリストテレスは、法に基づくスパルタの王制、非ギリシャ人のもとに見出される世襲的かつ法に
基づく王制、昔のギリシャ人のアイシュムネーテス型の選挙王制を挙げたあとで、これらの三つの王制
を以下のように特徴づけている。
「したがって、これらの君主制は、一方において、奴隷主的であることによって僭主的であるし、ま
たかつてそうであったが、他方において、選ばれるという点および信服している者を統治するという
点において、王制的であるし、またかつてそうであった。
」(『政治学』第三巻第十四章1285b1−3)
48
このような僭主制の描き方は、
『政治学』第四巻第十章の僭主制の種類を列挙する場合にも、ほぼ同じ
ような表現で再現しているのであって、僭主制の第一形態と第二形態は、王制と僭主制の双方の統治方
法を備えているのである。
「これらは相互にいくらかの相違を持っているが、一方では法に基づいていることで、また進んで服
従する者達を君主として統治する(モナルケイン)という点において王制的であり、他方、自分自身
の思いどおりに奴隷主的に(デスポティコース)に統治するという点において僭主制的である。」
(『政
治学』第四巻第十章1295a14−17)
② 寡頭制に関して
寡頭制に対する奴隷主的統治の関わりについては、アリストテレスの叙述は多くはないが、以下のよ
うな記述が存在している。寡頭制もまた、その統治方法、その統治の機能において、しばしば奴隷主的
統治に固有の、道具的統治の方法を用いた、といってもよいであろう。
「しかしまた、クニド スやキオスの寡頭制のように、多くの寡頭制は、その統治があまりに奴隷主的
であったために、その国家体制の内部において不満を抱く者達によって解体された。」
(
『政治学』第五
巻第六章1306b2−5)
③ 民主制に関して
アリストテレスの規定によれば、民主制は、自由人が、貧しく多数である時に統治の最高権限を握っ
ている場合に生ずるとされているが、その場合でもその種類は五つあるとし、その最後の形態の民主制
は、デマゴーゴス(民衆指導者)によってコント ロールされる民会の評決が法の力を凌駕した時に生ず
る、とされる。そしてまさにこのように民衆の力が最高のレヴェルに達したとき、統治は、奴隷主的統
治の特徴を帯びることになる。
「法が最高の権限を持たないところでは、民衆指導者が登場する。というのは、そこでは、民衆(デー
モス)は、多数の者が一人の人間のように組み合わされて、一人の君主(モナルコス)になるからで
ある。‥‥‥しかし、ともかくもこのような民衆は、君主となるのであるから、法によって統治され
ないことによって君主のように統治する(モナルケイン)ことを求め、やがて奴隷主的統治者(デス
ポティコス)になるのである。したがってそこでは追従者が尊敬される。このような民主制は、君主
制の中でも僭主制に比せられる。それゆえ精神態度(エートス)も同じで、両者とも、自分たちより
も優れた人々に対して奴隷主のように振舞い……」
(『政治学』第四巻第四章1292a10−19)
④ 国家の対外政策に関して
アリストテレスは、
『政治学』第七巻第二章および第十四章で、繰り返し国家の対外政策を論じている
が、そのなかで、隣国を力で征服する行為を、「奴隷的統治を行う(デスポゼイン)
」ことだと述べ、ま
たそのような行為は自由人を統治する仕方とは根本的に相違している、とした上で、スパルタの崩壊の
原因を、この隣国を「奴隷主的に統治する(デスポゼイン)」するための軍事訓練に市民を動員したこと
の中に見出している。
「他方で、国家体制においても奴隷主的統治(デスポティコン)や僭主的統治の方式だけが幸福をも
たらすものだと主張する人々もいる。実際、いくつかの国においては、諸々の法や国家体制の目的
が、隣国を奴隷主的に統治する(デスポゼイン)ことに置かれているのである。それゆえ、大部分の
国々では、大多数の法律がいわば無秩序に制定されているのであるが、もしどこかに法律が何か一つ
の目標に着目しているところがあれば、それはすべて、力による征服を目的としている。たとえばス
パルタやクレテがそうであり、そこでは、教育や大部分の法律がほとんど戦争のために整えられてい
るのである。」
(『政治学』第七巻第二章1324b1−9)
49
i 統治される者の利益を図るために指導
アリスト テレスにとっては、軍事訓練が正当化されるのは、○
ii 奴隷であることに値する者を統治する場合、だけであって、自らをすべての
的地位を確立する場合、 ○
者を統治する奴隷主の地位に置くことは、軍事訓練の正当化の理由から排除されているのである(34)。こ
こでは、奴隷主的統治は、国家の対外政策の不法で不正義な方法の特質を描く言葉として用いられてい
る、といってもよいであろう。
「すなわち自由人を統治することは、奴隷主的に(デスポティコース)統治することよりもいっそう
品位があり、よりいっそう人としての卓越的力量と関係するからである。さらにまた隣国の人々を統
治するために征服する訓練を施したことをもって、その国家を幸福な国家であると考えるべきではな
いし、またその立法家を称賛すべきではない。なぜならこれは大きな害悪を持っているからである。
‥‥‥戦争のための訓練も、奴隷の地位に値しない者を隷属させるためではなく、第一に自らが他人
に隷属することのないように、さらにすべての人を奴隷主的統治(デスポテイア)の下に置くのでな
く、被統治者の益になる支援的覇権を追求するために、第三に奴隷的統治を受けるに値する者を奴隷
主的に統治する(デスポゼイン)ために、行われるべきである。」(『政治学』第七巻第十四章1333b
27−1334a2)
以上のように、アリスト テレスは、奴隷主的統治の語を、かれの国家体制の特徴づけに用いている
が、あくまでも奴隷主的統治という統治方法がもつ固有の性格に着目し、自由な市民から構成された国
家体制を分類する時の基本的視座として拡張・援用しているのである。そこで使われる奴隷主的統治の
語は、とりわけ被統治者を統治者の利益実現の道具とする統治方法を意味していた。国家体制の中でも
とくに僭主制はこうした道具的統治方法に冒された君主の統治として描かれ、民主制のいわば極北とも
言うべき第五の民主制は、民衆自体がこの統治方法に骨の髄まで冒され、民衆それ自体が一個の奴隷主
として君臨する統治として描かれているのである。またアリストテレスは、ポリスの対外政策について
も、とりわけアテナイやスパルタの対外政策の根本問題も、この奴隷主的統治方法の問題と関連させて
分析している(35)。
しかしながら、この奴隷主的統治の語は、他方では、国家体制そのものの解体をひきおこす事態をも
描くことができる、という側面も持っているということができる。この点を具体的にいえば、次のよう
にいうことができるであろう。僭主制はアリスト テレスにおいては、君主制のうち、市民的政治的な共
同的結合体を奴隷主の如く統治する国家体制であった。もしこの僭主が、統治職の配分、法体系、国家
目的の設定のすべてにおいて奴隷主のごとく振る舞い、それらの一切を自己利益のために再編するとこ
ろまでその奴隷主的統治方法を貫徹させるならば、そのときには僭主制は国家体制としての本質を失
い、頂点に奴隷主としての君主が君臨統治し、配下にその奴隷としての臣民が支配されるという事態に
なるであろう。したがってこの奴隷主的統治の語は、またしばしば国家体制解体の局面を描くところに
登場することとなるのである。
事実アリスト テレスは、僭主制にかんする規定を論ずる始めにおいても、僭主制は君主制の奴隷主的
形態とした上で、この形態は他の国家体制の中で最も国家体制的でないもの、と述べているが(『政治
学』第四巻第八章1293b29−30)、そうした言及に止まることなく、僭主制のもっとも極端な形態、いわ
ゆる僭主制の第三形態を論ずる時、この統治は、統治者の自己利益を極端に追求するものであるとし
て、このような統治に自由人はもはや耐えることができない、と結論付けている。つまりこの僭主制の
奴隷主的統治の原理と、国家体制存立の基本原理である自由人の共同性の原理とは、両立しえないとこ
ろに立ち至った、というわけである。
50
「しかしまた第三の僭主制があって、それは最も僭主制的であるように思われるもので、絶対的な王
制に対応するものである。このような僭主制が、一切責任を問われることなく、自分と同等の者か、
あるいは自分より優れた者達すべてを、統治される者の利益のためでなく、自分自身の利益のために
統治する君主制となるのは必然的なことである。それゆえ、この国家体制は統治される者の意志に反
する国家体制である。というのは、自由人なら誰も心からこのような統治に耐えようとはしないから
である。」
(『政治学』第四巻第十章1295a17−23)
奴隷主的統治の極端までの追求は、国家体制を解体にいたらしめる、という見地は、先に引用した民
主制の第五形態に関する叙述の中にも登場している。この民主制の形態では、民衆指導者(デマゴーゴ
ス)が民衆に決定的影響力を行使し、彼らによって民会の評決が法を超える最高権限を有する体制が打
ち立てられる。このような事態においては、すべての統治職は解体される他ないであろう。アリストテ
レスがこの民主制を、僭主制に類比的なものとしたのは、こうした観点からでもあった。すなわちアリ
スト テレスにおいては、極端な僭主制と極端な民主制は、その奴隷主的統治の極端なまでの追求のゆえ
に国家体制の解体の臨界点に立っているのである。
「民会の評決は、僭主の命令のようなものであり、民衆指導者(デマゴーゴス)は僭主の追従者と同
じか、それに似た者である。そしてその双方のいずれもが、そのいずれに対しても、すなわち追従者
たちは僭主達に対して、民衆指導者はこのような民衆に対して最も強い影響を及ぼすのである。……
さらに統治職を非難する人々は、民衆が採決を下すべきだと主張する。民衆はその主張を喜んで受け
入れる。その結果すべての統治職が解体される。それゆえ、このような民主制は国家体制ではないと
主張する人は、正当な批判をしていると思われる。なぜなら、法が統治していないところでは、国家
体制は存在していないからである。」(『政治学』第四巻第四章1292a19−32)
こうして奴隷主的統治(デスポティケー・アルケー)の語は、アリスト テレスにおいては、政治的市
民的統治(ポリティケー・アルケー)の語と対比的に用いられて、国家体制の良し悪しを分ける基準と
なり、また国家体制の解体をもたらす統治方法とも描かれている。たしかにこの奴隷主的統治の語は、
アレント も指摘するように、家の奴隷主と奴隷の関係から採られた言葉ではあったが、アリスト テレス
政治学においては、その語義が拡張転用されて、国家体制の機能、その統治方法を、また国家体制解体
の原理を示すものとして登場しているのである。アリストテレスが、奴隷主的統治を道具的統治方法と
し、市民的政治的統治を説得的選択的統治と描いたこともそうした転用的使用の試みであったと思われ
る。また『形而上学』におけるアルケーの語義の二重性の指摘(内的アルケー、外的アルケー)もそう
した試みに通じているのではなかろうか。そしてこのような想定が許されるならば、アリスト テレスの
政治の世界は、いわば市民的政治的統治原理と奴隷主的統治原理の緊張・相克の世界と措定することが
できるであろう。事実『政治学』第五巻第十一章では僭主制の維持策を論ずる際に、アリスト テレス
は、王制が採る維持策を僭主制においても採用すべきことを主張し、その具体策を列挙している。その
策のいずれも、基本的には市民的政治的統治の原理の具体化と考えることができよう。そしてそうした
策が追求されれば、僭主制は優れた統治に転化する可能性を持つ、とされるのである。アリスト テレス
政治学においては、僭主もまた、みずからの責任において奴隷主的統治方法を取るか、市民的政治的方
法をとるか、の選択の場に立たねばならないし、立つことができるのである。
「なぜなら、僭主のめざすべき目標は明らかであるから。すなわち被統治者には僭主のように見える
のではなく、家の管理者あるいは王であるように見えなければならず、横領者ではなく、管理者(36)
のように見えるべきであり、行過ぎた生活ではなく節度ある生活を追求すべきであり、さらに一方で
51
は名望家達と親しく交わるべきであり、他方では大衆の人気を得なければならない。というのは、こ
のようなことから、卑しむべき人々ではなくより優れた人々を統治することとなり、いつも憎まれた
り恐れられたりすることがなくなることによって、その統治はよりいっそう立派なものになり、より
いっそう羨望に値すべきものとなるにちがいないから。いやそればかりではなく、その統治がいっそ
う長期にわたるものとなり、さらに僭主自身が、その性格において、人としての卓越的力量に関して
優れた状態に達するか、あるいはそれほどでなくとも半ば良好という人物になるか、つまりすくなく
とも劣悪というのではなく、半ば劣悪という状態になるに違いない。」
(『政治学』
第五巻第十一章1315
a41−1315b10)
五 結びにかえて
以上述べてきたことから、バーカーとアレント のアルケー理解についても次にように言うことができ
よう。すなわちバーカーの理解もアレント の理解も、アルケーが原義としては「始まり」
「イニシァティ
ヴ」を指す言葉であり、アルケーが統治という意味を取ったときも、アルケーはその語の原義を失うこ
となく、政治的イニシァティヴという意味を持つもの、とされている。ポリスの政治が、基本的にはこ
の政治的イニシァティヴから始まり、市民の討議・説得・評議を含み、法的規範に従って実践される、
という政治理解は、コンスティテューショナリズムの観点に立つバーカーにおいても、
「政治的であると
いうことはポリスで生活することであり、ポリスで生活することはすべてが力と暴力によらず言葉と説
得によって決定されるという意味であった」と理解するアレント にとっても前提的命題であった。しか
しながら、両者とも、アリスト テレスにおけるアルケーの二重性を明確には把握していないこと、さら
に奴隷主的統治の拡張的・転用的使用、統治の体制的レヴェルと方法・機能的レヴェルの区別に無自覚
であったこと、によって、アリスト テレス政治学の理解に不十分さを残さざるを得なかった、と思われ
る。ただしアレントは、先にも見たように、アリスト テレス政治学における市民的政治的アルケー概念
の存在にたいしては自覚的ではなかったが、アルケー概念の二重性そのものを事実上指摘しており、さ
らにポリスの政治が奴隷主的統治に転落する可能性を、アリスト テレスの僭主制論への理解において把
握しており、ギリシャにおけるポリスの政治が家の奴隷主的統治から無縁なものではなかったことを
バーカーよりもはるかに明確に指摘していたことは特筆されてもよいであろう。しかしながら、彼女に
おいては、僭主の採る奴隷主的統治を直ちに国家体制のレヴェルに還元したために、僭主制はただちに
ポリスの国家体制の解体を意味するものとされてしまうのである。そうした理解においては、アリスト
テレスの指摘する僭主制のよき方向での改革は到底望みうるものとはなりえないであろう。
しかしながら問題は残されている。アリスト テレスが、ポリス=国家の政治それ自体のなかに市民的
政治的統治の方法と奴隷主的統治の方法の二つの可能性を指摘したとすれば、そのような二元的な統治
方法を生じさせる原因もまたポリスの政治の担い手たる市民の人間性の中に探らざるを得ないであろ
う。この点についてアリスト テレスはどのように考えていたのであろうか。それに関しては、
『政治学』
の中で注目すべき論点が二つ指摘されている。
一つは、人間の欲望の際限の無さについての指摘である。
「飽くことを知らないのが人間の浅ましさであり、‥‥‥欲望の本性は際限が無いということであ
り、大多数の者はそれを満たそうとして生活しているから。」(
『政治学』第二巻第七章1267b1−5)
もう一つは、無制限の自由は、人間の中に存在する悪を防ぐことができない、という指摘である。
「何であれ、欲することはなんでも為すことができる自由は、各人に内在する悪を防ぐことができな
52
いからである。」(
『政治学』第六巻第四章1318b39−1319a1)
これらの問題は、アリストテレスが、
『ニコマコス倫理学』
で指摘するところの人間における奴隷的精
神の問題と深く関わっている問題であり(37)、また『形而上学』で言われているところの「人間本性に内
在する奴隷的精神」
と通ずる問題でもあろう(38)。ここで再び奴隷的なるものの拡張・転用の問題に我々
は出会うことになる。それゆえこの問題の具体的探究が次なる課題となるだろう。
注
(1)
岡山大学法学会雑誌の第50巻2号(2001年3月)
、第51巻1号(2002年1月)
、第51巻2号(2002年2月)、
第52巻1号(2002年10月、第52巻2号(2003年3月)にそれぞれ、『政治学』第一巻、第三巻・第四巻、
第五巻・第六巻、第七巻・第八巻、第二巻を、ロス校訂のギリシャ語テキスト を基とし、インミッ
シュ、ド ライツェンターの各版を参考として訳出した。なお本稿で引用されるアリストテレスの訳文
は、この翻訳に多少手を加えている箇所もある。引用箇所の数字,a、b、それに続く算用数字は、
ベッカー版アリストテレス全集のページ数を表記している。テキストはオックスフォード ・クラシカ
ル・テキスト(o.c.t.)に拠った。アリストテレスの他の作品についても同様である。
(2)
古典的には、W.L.Newman, The Politics of Aristotle ,4vol.(Oxford,1887−1902)
においても指
摘されているが、今日においても以下の翻訳、注解を参照。
J.Aubonnet, Aristote Politique ,5vol.(Paris,1960,1971,1973,1986,1989)
E.Schutrumpe, Aristoteles Politik ,B.1,2,3,4,5,6(Berlin,1991−1996)
Clarendon Aristotle Series,Aristotle Politics ,4vol.
(Oxford,1995−1999)
(3)
バーカーとほぼ同時代に自らの政治哲学の展開の基礎にアリストテレス政治学を置いた学者とし
てJ.マリタンとJ.ダバン、M.プレローその他を挙げることができるであろうが、プレローを除い
て、彼らはアリストテレス『政治学』の翻訳・注解そのものには携わらなかった。プレローの仏訳の
意義については、稿を改めて論ずる予定である。
(4)
R.ダールの
『現代政治分析』
( Modern Political Analysis ,1991)のアリストテレス理解を参照。彼のア
リスト テレス理解は、政治の領域を、したがって公的領域を国家の領域に限定するという点でバー
カーのアリストテレス理解を前提としている。他方で、社会の多元的展開の意義については両者とも
同一の発想に立っているように思われる。この点を踏まえて、バーカーの多元的国家論とダールのポ
リアーキーにおける多元性の異同の析出は今後の課題としたい。しかしすくなくとも社会の多元性、
政治行為における影響力の重視という点は、バーカーにおける国家権力の法的主権性の主張を別にす
れば、かなりの程度の重なりを両者において見出すことができるであろう。
(5)
バーカーにおけるアリストテレス研究の出発点としての『プラトンとアリストテレスの政治思想』
については、佐野稔幸「E.バーカーの政治学とギリシャ政治思想」(一)
(二);『名古屋大学法政論
集』156号、71−111ページ(1994年7月)、同誌158号、293−321ページ(1994年10月)参照。
(6)
E.Barker, The Politics of Aristotle(Oxford,1946)
,p.lx−lxii.
(7)
オックスフォード 英訳アリスト テレス全集におけるB.ジョウェット訳参照。以下に示されるよう
に、コイノーニアの語に、筆者自身は共同的結合体という訳語を与えているが、それは個と共同体の
近代主義的二分法理解を避けるためである。コイノーニアは、アリストテレスにおいては、個々人
が、なんらかの善を、共同で(コイネー)志向し共同のもの(コイノン)を持つとき成立する。こう
した社会理解が、今日のコミュニタリアン・リバタリアンの論争においていかなる意味を持っている
か、については、B.Yack、Community:An Aristotelian Social Theory; Aristotle and Modern Politics(Notre
Dame,Indiana 2002)
, p.19−46.
(8)
バーカーがここで指摘しているホモロギアの理解は、
いわゆる法律学上の契約という意味ではなく、
く、社会形成の根拠として論理的に要請される一般的な相互的合意、約束の意味である。そしてその
53
ような契機を国家形成にみようとした点で、バーカーは社会契約説に一面の意義をみている。しかし
他方でバーカーは、国家形成の歴史的事実としてはこの契約的要素をむしろ否定している。
「それでは
われわれは、この政治契約の本質をどのように考えるべきであろうか。われわれはまず、それは《国
家》一般の、つまりそのあらゆる表現におけるすべての時と場所における《国家》の年代的な先行事
実を説明するのには役立たないし、また一瞬たりともそれを説明しようとするものではない、という
ことを認め、あるいはむしろ主張しておかなければならない。それは、特定の《国家》つまり現在存
在し、しかも西欧世界―西ヨーロッパ、英連邦、およびアメリカ諸国―に現在存在している《国家》
の論理的前提を説明するのに役立つだけであり、またそうしようとしているにすぎない。もしわれわ
れが、過去の過程において出現し成長していった《国家》一般をみるならば、われわれは、それは契
約という風土の中で出現したものでもないし成長したものでもないということを認めざるをえな
い。
(E.Barker, Principles of Social and Political Theory ,1951,Oxford,p.190.E.バーカー『政治学原
」
理』堀豊彦他訳、1969年、勁草書房、236ページ参照。ただし引用訳文は筆者によって多少変えられて
いる。
)ここにバーカーの国家論の西洋偏向的傾向と事実と論理・規範の二元主義を指摘することが
できるであろう。またここにバーカーのアリストテレス理解における自己限定を指摘することができ
るかもしれない。他方、この国家形成における契約的要素の意味を、バーカーとは違った角度からア
プローチしているベルギーの法哲学者J・ダバンの説を以下紹介しよう。
「すなわち、社会契約
(政治契約と名付けるほうがいっそうよいであろう。というのは、国家の起源
を論じているのであって社会の起源を論じているのではないから)の観念は、想像や空想を内包して
いるにすぎないのか。けっしてそうではない。もし人が、この説が依拠している長い伝統を参照する
ならば、また契約ということを厳密な意味での民法上の契約―会社や団体の契約―のような意味では
なく、国家形成の過程に現れる自由意志的、同意的要素を表示するものとして理解する限りでは、
けっしてそのようなことはない。‥‥出発点と基底においては、人間を、その同類とのあいだに様々
な意思疎通を形成するように傾かせる自然本性的傾向のみならず、さらに正確には政治的社会を、そ
れを特徴づけている支配権や強制とともに設立することに傾かせる自然本性的傾向が人間には存在
している。‥‥しかしながらこの傾向は現実態に移されなければならない。政治社会を打ち立てるこ
とへと人間を運ぶものは人間の自然本性である。その樹立を現実化するのは人間の意志である。‥‥
人間の秩序においては、堅固で持続的な構成物という意味においては、いかなるものも強制のみに
よって基礎づけることはできないのだから、実力の手段によって築かれた国家の生命維持は不安定な
ままにとどまる危険性がある。一度形成された国家が堅固になるためには、人民のすくなくとも暗黙
の同意が必要である。
」J.Dabin, L’état ou le Politique ,1957, Paris,p.200−203.
(翻訳においては水
波朗訳『国家とは何か』創文社、1975年)を参照した。
(9)
バーカーは、この法治主義の方向でアリストテレスの国家体制論を把握している。The Politics of
Aristotle,p.128,148.それゆえ、バーカーにおいては、君主制、とりわけその最高の形態である
絶対的王制パンバシレイアは法治主義になじまないゆえに、国家体制としては例外として、ある
いは単なる人的体制として理解されている。しかし筆者はここにアリスト テレス政治学とバー
カーとの乖離を見るものである。アリストテレスにおいては、国家は現世における最高善、すな
わち共同善を追求する政治的・市民的な共同的結合体(コイノーニア)であるから、法的共同
性、法的善の実現はその一つの活動にとどまるものである。
(10) Barker, The Politics of Aristotle ,p.l.アリスト テレスの国家論における「自然と作為」の問題は、
長い論争の歴史を持っているが、最近の論争については、D.Keyt,The Basic Theorems in Aristotle’s
Politics ; A Companion to Aristotle 's Politics, Edit., by D.Keyt and F.Miller,Jr., Oxford/Cambridge,
1991, p.118−140.F.D.Miller,Jr., Nature, Justice, and Rights in Aristotle's Politics, Oxford,1995,
p.27−66.拙稿
「アリスト テレスにおける『自然』
と『作為』」名古屋大学法政論集、第154号(1994
54
年)参照。ホッブス的自然観からアリストテレスの国家論の自然性を批判する論者が今なお存在する
こと自体が注目に値する。
(11)
アレントのアルケー論の存在論的意味、とりわけアウグスティヌスの「始まり」との関連における
アレントのアルケー論については、別に論じられるべきテーマであるが、その点については、千葉眞
『アーレント と現代』
( 1995年、岩波書店)
、T.Gutschker, Aristotelische Diskurse ,Frankfurt am Main,
2002, p.130−183参照。
(12)
H.Arendt,The Human Condition,1998,Chicago,p.176−177.ハンナ・アレント 『人間の条
件』(筑摩書房―ちくま学芸文庫、1995年)287−288ページ。ただし訳文は多少変更した。
(13)
Arendt,ibid.,p.244−245.アレント 『人間の条件』382ページ。
(14)
Arendt, Between Past and Future ,Penguin Books 1993, p.122. アレント『過去と未来の間』
(みすず
書房、1996),166ページ。アレントの権威の定義は、力による強制と論議による説得の双方に対立
し、ヒエラルキーと服従を要求する、権威者と服従者の関係には共通の理性的関係は存在しない
とされる。ここには、服従者の理性的判断に基づく、君主への服従の余地は存在しない。アレン
トにおいてはしたがって、彼女自身の権威の定義から必然的に、君主、さらには僭主の支配は、
ポリスの政治体制とは両立しないものとされている。Idid.,p.92−93.前掲書125ページ。
(15)
アレント のプラト ン解釈の位置については、佐々木毅『プラト ンと政治』(岩波書店、1984年)
の序章「20世紀におけるプラトン論の一側面」参照。
(16)
Arendt, The Human Condition ,p.223−224.アレント『人間の条件』
353ページ。
(17) Arendt, Between Past and Future, p. 118. アレント「権威とはなにか」
(『過去と未来の間』みすず書
房、1996年)、160−161ページ。
(18)
Arendt,ibid.,p.116.前掲書、158−159ページ。
(19)
Arendt, Between Past and Future ,p.104−105.アレント、『過去と未来の間』
142ページ。
(20)
バーカーのアリスト テレス『政治学』第5巻の注釈では、君主制は、単なる人的体制であるか
のごとく解釈されている。アリスト テレス政治学の君主制に対するバーカーの理解の揺れについ
ては、拙稿「アリスト テレス政治学における『コイノーニア』と家と王の統治」
(岡山大学法学会
雑誌、第50巻第3.4号2001年3月)参照。また僭主制は、ポリスの国家体制における一種の病
理として、生物学者アリスト テレスの病理解剖好みの対象として理解される、にとどまってい
る。バーカーの『政治学』翻訳の序言および第五巻注解参照。
(21)
Aristotelis,Metaphysica(Oxford Classical Texts),p.87、アリストテレス『形而上学』
(出隆訳、岩
波文庫)、153−154ページ参照。訳文は筆者のもの。
(22)
この箇所に王政が置かれている点が明確ではない。アリスト テレスにおける王バシレウスの意
味は多義的であるが、ポリスをこえた広大なエトノス的領域を支配している王をここでは想定し
ていると考えられる。こ の箇所のト マス・ア キナスの注解は、この支 配権をインペリウム
imperium と 解 し て、普 遍 的 に 誰 を も 支 配 す る 命 令 権 とし て い る。“Imperia autem illi ,qui
universaliter quibuscumque imperant”.ト マスは、この箇所において、国家(civitas)におけるアル
ケー(principium)と、帝王と僭主のアルケーとを対比的に捉えている。前者においては、裁判官
のような統治職による統治が実現されるとし、後者、とりわけ僭主政においては、暴力による、
法的秩序を超えた、自己利益追求の統治が実現される、とされる。Thomae Aquinatis Opera Omnia
(Stanislai Eduardi Frette,1875)
,vol.24,In Aristotelis Stagiritae libros nonnunllos commentaria ,p.51.
(23) このデスポティケー・アルケーとポリティケー・アルケーの対比的理解は、トマス・アキナスに
55
おいても、principatus despoticus と principatus politicusとの 対比と いう形 で再現し ている。Summa
Theologiae,PP.Q.81 A.3,PS.Q.56.A4.また奴隷主的統治はprincipatus dominativusとも呼ばれ、ド
ミナティオdominatioは奴隷主的統治の語感を引きずることになったと思われる。それに対してプ
リンキパト スprincipatusは、第一人者の統治の語感を引きずっている。ただし、ト マスにおいて
は、ド ミニウムdominium自体が二重の意味(奴隷主的統治と、市民的政治的統治)で用いられて
いる場合もある。Summa Theologiae. PP.Q96. A4. またこのド ミナティオとプリンキパト スの対比
は、英語のauthorityとdominationの対比に対応している。統治・支配の訳語をめぐるこのような問
題は、M.ウェーバーのヘルシャフト Herrshaftをauthorityと訳すべきか、dominationと訳すべきか、
の論争のなかにも再現している。この点については、高城和義『パーソンズとウェーバー』
(岩波
書店、2003年)122ぺージ以下を参照。
(24) 『魂について』
の中でアリストテレスは、肉体にたいする魂の関係を、①運動の始動因、②目的
因、③肉体の実有(ウーシア)
、肉体に存在(生命)を付与するもの、可能態の根拠としての現実
態
(エンテレケイア)、として把握している。肉体を魂の道具とする理解は②の論理の中で展開さ
れる。ただしこの論理は、道具と使用者の分離した関係と、肉体と魂の非分離の関係を捨象して
いる(もちろん魂におけるヌースの分離性をひとまず措くとして)。
(25) プラト ン『パイド ン』80a(Platonis Opera. [O.C.T.]T. I. p. 125)、『法律』726(Platonis Opera,
T. V. p. 141)参照。ここでは、プラト ンは、魂が肉体を支配するとしているが、その「支配」の
語にデスポゼインを用いている。統治の二重性への認識ではなく、統治を奴隷主的統治に還元す
るプラトンの思考の特質は、アレントもまた指摘するところである。Arendt, The Human Condition,
p. 223−4. アレント 『人間の条件』353ページ、397ページ。
アリストテレス『魂について』第二巻第三章414b1−2
(26) Aristotelis De Anima.[O.C.T.]p. 31. (27) Aristotelis De Anima. p.78. アリスト テレス前掲書432b5−6
(28) 王制的統治は、アリスト テレスにおいては、自由人を、自由人の利益のために統治する国家体
制の一つである。王制的統治と市民的政治的統治とのちがいは、前者が一人で、交替せずに統治
するのにたいして、後者は市民的指導者が交替で統治する、という点にある。しかしアリストテ
レスによれば、その統治方法は、説得的選択的方法において同一である、とされる。
(29) この「拡張・転用」は、新しく転用された事柄への比喩に留まらない。一定の体制に特定の機
能・方法が貫徹すれば、その体制自体に根本的変化がもたらされる場合も想定される。国家体制
の文脈に即して言えば、奴隷主的統治の方法の貫徹は、市民から成る国家体制を崩壊させる可能
性を持つ、ということをも意味している。したがってこのデスポティケーを専制的統治、あるい
は僭主独裁的統治と訳すのでは、デスポテース(奴隷主)の持つ含意が失われるであろう。なお
一言付言すれば、英語のデスポティズム(専制、独裁と訳される)は、このギリシャ語の原意を
留めている。アジア的専制Asian despotismは、近代西洋がアジアの王朝支配に与えた名称である
が、それは、君主が住民を奴隷として支配する国家体制を意味しているが、アリストテレス的に
厳密にいえば、住民を文字どおり奴隷として支配する場合は、国家体制は崩壊しているのであ
り、奴隷の<ごとく>支配すると解釈すれば、その場合には国家体制は存在しているのである。な
お「拡張・転用」extensioの意味については、Summa Theologiae, PP. Q14.A1.参照。
(30) 山本訳、牛田訳は国制、田中監修訳では、国制、国家体制の訳語が与えられている。
(31) この引用文の最後の共同的結合(体)がなにを指すか、については、明瞭ではないが、オボネ
は家や村としているが、バーカーは国家的アソシエーションを指していると解している。いずれ
56
にしても、国家体制が、国家とその下にある諸共同的結合(体)の目的設定に深く関わっていること
は確かであろう。しかしそのかかわりの程度については、見解の分かれるところであろう。Aubonnet,
ibid.,t.2.Livres3−4,p. 295. Barker, The Politics ,p. 156.
(32)
「国家体制と統治体(ポリテウマ)とは、同一の事柄を意味しており、そして統治体は国家に対する
最高権限の主体であり……」
(『政治学』第三巻第七章1279a25−27)
。このポリテウマの訳語をめぐる
問題については、拙稿「アリストテレス政治学の基本用語『ポリテウマ』について」
(岡山大学法学会
雑誌、第49巻第3・4号、2000年3月)参照。
(33) ここで共同的結合(体)に( )をつけたのは、ギリシャ語のコイノーニアの語が、共同的活動
と、その活動の結果形成される共同体という組織体との双方を指しているからである。アリストテレ
スにおいては、国家は、市民の政治的活動それ自体のなかに存在しているのである。アリストテレス
の哲学用語を用いれば、国家は一個の現実態であった。J.Dabin, L’état ou le Politique ,Paris 1957, p.
60.
(34)
アリストテレスにおいて、奴隷に値する者とは、一般的にはバルバロイとされた非ギリシャ人のこ
とを指している、と考えられているが、事柄はそれほど単純ではない。むしろ筆者は、国家を形成す
る能力をもたない民族(エトノス)を指しているように思われる。アリストテレスにおいては、ギリ
シャ人にとってはバルバロイにあたるカルタゴや、エジプトには国家が、したがってまた国家体制が
存在した、とされており、場合によってはカルタゴの国家体制は賞賛の対象になっている。第二巻第
十一章、第七巻第十章参照。アリストテレスの非ギリシャ的世界に対する姿勢については、オボネの
注釈の序文が詳しいが、この問題の検討については他日に期したい。
(35)
アテナイの対外政策批判については、
『政治学』第三巻第十三章1284a40参照。
(36)
ここで管理者と訳した語はoikonomosオイコノモスであり、原義は家長、家の管理者である。ジョ
ウェット、バーカーは執事、家管理人steward、オボネは管理人administrateur、シュツルンプは家管理
人Verwalter eines Hausesと訳している。オイコノミアはアリストテレスにおいては家政術である。注
意すべきは、この家政術には、奴隷の管理の他、自由人たる妻、子供への統治が含まれていることで
あり、アルケーの観点でいえば、家のなかにもアルケーの二重性が存在していることである。した
がってアリストテレスにおける家長オイコノモスは、奴隷主デスポテースとは異なっており、とりわ
け王制と並列して用いられる場合は、家の中の自由人への統治者としての意味を持っている。前掲の
拙稿「アリストテレス政治学における『コイノーニア』と家と王の統治」参照。
(37)
『ニコマコス倫理学』
(第三巻第十一章1118a24−25)
「節制と放埒は他の動物も共有している快楽に
属し、そのためそれらは奴隷的で獣的であると思われる」
、
(第四巻第三章1224b31−1225a2)
「誇り高
き人は、‥‥友人を別にすれば、他人を気にして生きるなどということはありえない。というのは、
それは奴隷的だからである」
、
(第四巻第五章1126a7−8)
「自分が侮辱されても我慢し、親しい人々が
辱められてもそれを見過ごすという態度は奴隷的なことと思われる」
、(第十巻第一章1172a31−32)
「多くの人々は快楽の方に傾き、さまざまな快楽の奴隷になる」等。
‐sisフロネーシス)の獲得は人間の業では
(38)
『形而上学』第一巻982b28−30「このような知恵(phrone
ないであろう、と考えられるのも当然のことであろう。なぜなら人間の自然本性は多くの点にお
いて奴隷的であるから。」
57
明治初期知識人における宗教論の諸相
― 西周と中村敬宇を中心に ―
大久保健晴 Ⅰ はじめに
本稿は、
「近代日本における儒教とキリスト教」
という主題を念頭に、明六社同人として、西洋学術の
先駆的導入を通じて明治初期の思想界をリードした二人の代表的知識人、西周(1829−97)と中村敬宇
(1832−91)
の宗教論を検討し、彼らによる宗教をめぐる問題への取り組みが日本の近代国家形成期に有
した政治思想史的意義を探ることを目的とする(1)。
ここでまず、二つの言説を取り上げてみよう。
「天は即ち理なりと云ふは理は即ち理なりと云ふも同きか、而天理の字は之を理理と云ふに同しき
か、蓋し天とは理の由て出る所を指す者にして、天と理と同一たるに非す、今之を譬ふる天は猶国王
の如し、理は猶詔敕法令の如し」(N1:505、M9:7表)
「けだし上帝あらざる所無し、天即ち理なりや、(
「上帝の二字を」−筆者註)講じ得て壊るなきを要
す。もし解して理外に天なしとなさば、すなわち大いに謬る」(SS)
前者は、「宋儒の迷巷」を批判して「上帝あるを信し之を推尊奉戴す」と説いた西周の「教門論」(明
治7(1874)年)の一節、後者は「上帝につかへて虔敬を致す」と説く中村敬宇の『請質所聞』
(明治2
(1869)年)からの一節である。ここにはともに、天を非人格的な理法と捉える朱子学の「天即理」観を
批判しながら、「天」を理を越えた信仰の対象となる超越的「主宰」として提示しようという、二人の宗
教論に共通する試みが見て取れる。
周知のように、明治新政府にとってキリスト 教問題は、近代国家として最初に直面した、国内政治上
の、そして外交上の最重要課題の一つであった。開国和親を掲げ、居留民の信教自由と教会設立の容認
を含む条約遵守を確約しつつ、キリスト 教禁制を踏襲することによって、設立当初よりキリシタン問題
を抱え込んだ明治政府は、条約改正交渉を通じて諸外国より執拗な抗議をうけるなかで、明治6(1873)
年、高札撤去による事実上のキリスト教黙認へと踏み切るに至る。このような明治初年の政治状況のな
かで、実際の西洋見聞や書物による西洋文化総体との取り組みを通じて旧来のキリスト 教邪教観からい
ち早く脱し、様々な宗教論を展開したのが、明六社の知識人達である。
彼らが宗教論を通じて取り組んだ思想的課題の性格を、特徴的な形で示しているのが、津田真道と森
有礼の論争である。発端は『明六雑誌』第3号に掲載された津田の「開化を進る方法を論す」である。そ
のなかで津田は、信教の自由を前提としつつも、「今や宇内人民一般の開化を賛くる者基教に如く者な
し」
(M3:8裏)として、日本の文明化のためにはキリスト 教による「教導」が必要であると説く。それ
に対して森は第6号掲載の「宗教」のなかで、津田の議論はキリスト 教を「我邦の公教となす」(M6:6
表)ものと批判し、ヴァッテルらの国際法論の訳述を通じて、信教自由に基づく法的規制の在り方を論
じている。この津田と森の議論はともに信教自由を基本的前提とし、同時期の神道国教化による祭政一
致体制創出を企図する政府内部の動きを牽制している点で共通性を持つ。しかし同時にそこには、日本
が近代国家として成立するためには、西洋諸国との関係を含め、国際法を念頭に信教自由を法的に確立
することが緊要となるのか、それとも外形的な制度整備とともに西洋諸国の富強を支える文明の宗教と
59
してのキリスト 教による国民教化が必要となるのか、という相対的後進国固有の文明化と宗教をめぐる
深刻な論争的課題が横たわっている。そしてこの大きな対立構図の狭間で、津田のように文明化の手段
として外形的にキリスト 教受容を説くのではなく、むしろ西洋思想上における‘God’観に内在的な接近
を試みたのが、西と中村による一連の宗教論である。
ところで従来の研究では、西と中村の宗教論は、ともに「‘God’とは何か」、伝統的な儒教の天観念か
ら理解を試みる、明治初年の代表的宗教観とみなされてきた(2)。しかし西、中村が宗教をめぐる問題に
取り組むなかで、いかに西洋思想と格闘し、同時代の思想的課題に応答したのか、彼らの主体的意図に
即した研究は十分になされていない。
西と中村の宗教論を検討する上で見逃せないのは、第一に、両者の議論がともに儒教の思想的伝統へ
の応答を含んでいることである。彼らが批判した朱子学の「天即理」の観念は、儒教の側からキリスト
教を批判する際に頻繁に使用された論理でもあった。例えば明治6(1873)年、聖書の「妄誕不経」を論
じた儒者・安井息軒の『弁妄』には、「それ耶蘇教は上天を拝するを以てその道となす。天は即ち理の
み。子の親を拝し、臣の君を拝するは、これ即ち理なり。
(中略)今、臣子にして天を拝し、君父をある
ことなきに置きて、以て福を求めんと欲するは、これ天を誣ふるなり」(3)という島津久光による序文が
付けられている。このように「天即理」の観点から、忠孝に基づく政治的秩序を乱す危険思想として、
或いは非合理的な来世論等によって人心を惑わす妖術としてキリスト 教を批判する見解は、議論の精粗
はあれ、広く徳川期の儒者に共有されたものであった。こうした点で西と中村の宗教論は、一面で反耶
蘇という徳川期からの儒教の知的伝統への反逆を意味している。しかし他方で、彼らが提示する「天即
理」批判や敬天思想は、荻生徂徠ら徳川期の儒者達が繰り返し論じてきた主題でもあった。西洋思想と
の取り組みを通じて儒教の捉え直しをはかった西と中村の宗教論には、単なる‘God’論の受容にとどま
らない、多様な思想的意義が含まれている。
第二に、
「天即理」
批判を通じて敬天思想を主軸化した西と中村の宗教論は、西洋文明総体との正面か
らの出会いを通じて改めて争点化した幕末明治初期における儒教とキリスト教をめぐる論争、ひいては
近代日本における「宗教」概念の成立過程においてきわめて重要な位置を占めている(4)。この点におい
て興味深いのは、徳川末期からの後期水戸学を中心としたキリスト 教への対応との鋭い対照性である。
周知のように後期水戸学は、會澤正志斎の『新論』に見られるように、儒教における国家祭祀論を再構
成し、古代日本の神道と中国における天子の祭天儀礼や祖先崇拝を重ね合わせた神儒一致論に基づく天
皇を中心とした祭祀体系を構想することよって、邪教キリスト教への対抗を図った(5)。こうした後期水
戸学と西及び中村の活動との対比において注目すべきは、単にキリスト 教排撃か積極的受容かという問
題以上に、キリスト 教の有する「宗教」性に直面するなかで、儒教自身に本来的に内包される祭祀論と
敬天思想が二つの要素として思想的分岐を示していることである。
‘religion’の観念がいまだ流動的な形
で受け止められた幕末明治初期において、後期水戸学のように祭祀論を前面に押し出すのではなく、敬
天思想から接近を試みた西と中村の活動は、キリスト教の体現する世界観や真理観、倫理観を高度に総
合した教義に基づくその特徴的な信仰体系を、西洋文化総体との関連のなかで理解し、そこから自らの
思想的伝統の捉え直しをはかる、先駆的かつ自覚的な取り組みと言える。
さらに西と中村は、このような儒教の捉え直しを通じて、幕末明治期を通貫する中心的争点の一つで
ある、西洋諸国と対抗するなかでいかに日本国家を支える精神的基盤を形成するかという国民教化をめ
ぐる政治課題に対しても、後期水戸学とも、また津田真道のような一元的なキリスト 教教導論とも異な
る、深い洞察を提示している。天皇を中心とする祭祀体系を背景に儒教における「教」の再編を行い、
「忠孝」に基づく国家統合を企図した會澤正志斎『新論』を一源流とする国民道徳思想は、特に明治10年
60
代以降、キリスト教に対抗しながら、しかし同時に西欧諸国の政治体制を支える社会倫理としてのキリ
スト 教をモデルとすることによって強化され、教育勅語成立へと結実する。こうして国民教化という主
題を中心にキリスト教と儒教とが複雑な絡まりを見せる幕末明治期の思想潮流のなかで、西と中村は宗
教論を通じて、政治的領域と「教」との関係をめぐる根源的な視座からの応答を試みている。
そして何よりも彼らの宗教論が興味深いのは、ともに西洋思想との取り組みを通じて超越的な上帝へ
の信仰を唱えることで、逆に同時代ヨーロッパ哲学との間に深刻な対立軸を抱え込んでいることであ
る。というのも、例えば「世外教」キリスト 教に対する「世教」
「理教」としての日本道徳論を展開した
西村茂樹は、「法国の哲家坤篤実理哲学の説」など近代西洋哲学の成果は「日本道徳の基礎」を補強する
と指摘している(6)。コント 実証主義をはじめとする19世紀ヨーロッパ哲学は、一面で鋭い宗教批判を有
しており、それは時に儒教における耶蘇批判とつながり、国民道徳思想を強化する側面を持っていた。
こうした点に注目するならば、むしろ、ともにオーギュスト・コント やジョン・スチュアート ・ミルな
ど同時代ヨーロッパ哲学に取り組んだ西と中村が、なぜ上帝への信仰を説いたのか、そして19世紀ヨー
ロッパ哲学の提示する宗教批判やキリスト 教道徳批判をどのように克服したのかという点こそ、問い直
されねばならないであろう。両者は宗教論を中心とするヨーロッパ思想との格闘を通じて、独創的な学
問的営為を展開している。
本稿では以上の問題状況を念頭に、
「文明化と宗教」
「国民教化」
「西洋哲学の受容」、そして「‘religion’
とは何か」という同時代的な政治思想課題が重なり合うなかで展開された、西周、中村敬宇それぞれの
思想的活動を内在的に解明し、比較することで、明治初年における宗教論の多様な可能性を掘り起こす
ことを最終目的とする。そこからは、同様の課題に取り組み、一見同じ解答を導き出しながら、互いに
相対抗する二つの営為が浮かび上がってくるだろう。
〈テクスト に関する註記〉
大久保利謙編『西周全集』第一−四巻、宗高書房、1960−81年からの引用は、(N1: 8)という具合に、
巻数と頁数を略記する。同様に中村敬宇『敬宇文集』吉川弘文館、1904年からの引用は(BS)
、『明六雑誌』
ミ
ル
は復刻版、立体社、1976年を使用し(M)
、彌爾著・中村敬太郎訳『自由之理』は、慶應義塾大学図書館所蔵
(星文庫)の明治5年2月より出版された刊本を使用し(J)
と記した上で、それぞれ巻数と頁数を略記する。
なお『自由之理』同刊本には、第二巻下と第五巻の奥付に同人社蔵版(明治6年2月発足)と記されてい
る。また中村敬宇「請質所聞」
(静嘉堂文庫所蔵自筆稿本)からは
(SS)、
『敬宇文稿』
(静嘉堂文庫所蔵自筆稿
本)
からの引用は
(BK)
と略記する。なお、引用は原則として原文に従うが、漢文は書き下し、適宜旧字体を
新字体に、カタカナはひらがなに改めた。
(1)
本稿は、2003年5月、法政大学にて開催された日韓共同学術会議
「日本と韓国の近代化過程における
宗教の問題」第三会議における同名の報告を敷衍したものである。司会の大東文化大学・和田守教
授、討論者のSeoul大学校・張寅性教授、同志社大学・伊藤彌彦教授をはじめ、貴重なコメントをくだ
さった参加者各位に深く感謝申し上げる。
(2)
例えば安丸良夫「近代転換期における宗教と国家」
(
『日本近代思想大系5 宗教と国家』岩波書店、
1989年)では、西周、中村敬宇の宗教論はともに「欧米の「富強の原由」がキリスト教の信仰にある
として、キリスト教の信仰の自由を求め」
(544頁)る議論として括られている。西、中村の宗教論につ
いては、小泉仰氏による一連の研究がある。小泉仰『明治思想家の宗教観』大蔵出版、1975年、
『西周
と欧米思想との出会い』三嶺書房、1989年、『中村敬宇とキリスト 教』北樹出版、1991年、
「中村敬
宇」、
『講座 比較思想―転換期の人間と思想― ②日本の思想を考える』
北樹出版、1993年。小泉氏は
両者の宗教観を詳細に分析しながらも、結論としては両者の「天信仰」をともに「啓蒙思想家の共通
61
特色」と捉えている。本稿は、
「儒教」「キリスト教」といった大枠を一旦取り除いた上で「天即理」
という具体的な接点に着目し、西、中村それぞれの問題関心に即して考察することによって、従来の
研究でほとんど触れられていないオランダ哲学や18世紀道徳哲学との取り組みに光を当て、明治初年
という時代状況の中で彼らが宗教論を通じて何を主張しようとしたのか、その営為の政治思想史的意
義を解明することを目的とする。
(3)
安井息軒「弁妄」
、中村幸彦他校注『日本思想大系47 近世後期儒家集』岩波書店、1972年、246
頁。
(4) ‘religion’の訳語形成過程をめぐる近年の宗教学研究の成果として、磯前順一『近代日本の宗教言
説とその系譜―宗教・国家・神道―』岩波書店、2003年がある。
「宗教」ないし‘religion’概念の自明
性への懐疑を出発点とする同研究では、安政5(1858)年の日米修好条約交渉以来、‘religion’の訳語
をめぐって、当初は主に近世寺請制度に基づいて葬祭儀礼の執り行いを許可された仏教各宗派を指す
「宗旨」
の語が用いられながら、明治期に入りキリスト教の受容が進むなかで、仏典を出自としながら
も「究極の真理とそれを人に伝えるための教え」を意味する、より「ビリーフ」としての性格の強い
「宗教」という訳語が定着するに至ったことが指摘されている。
(5) 會澤正志斎「新論」、今井宇三郎他校注『日本思想大系53 水戸学』岩波書店、1973年、52−70頁、
94−106頁。なおこの点は、Ⅱ註23も参照のこと。
(6) 西村茂樹「日本道徳論」
、日本弘道会編纂『西村茂樹全集』第1巻、思文閣、1967年、22頁。
Ⅱ 西周の宗教論
1 「知」「信」二元論とオプゾーメル哲学
まず西周の「教門論」の概要について簡単に触れておこう。冒頭でも触れたように、西は「天即理」
を「宋儒の迷巷」と批判し、「知」の及ばない不可知な超越的「主宰」である「天」
「上帝」を「信し」
「畏敬愛慕」
(N1:505−506、M9:6裏−7表)することの重要性を唱えている。この議論が一見漢文脈の
用語を用いつつも、
‘God’の観念に基づく西洋新思想の普及を念頭に置いたものであることは、
「此園荒
蕉蓁々蔓々吾之を欲せす、汝墾闢して旧根を芟夷し、以て此新種を播せよ、吾将に奇萼の春に競ひ異香
の園に満つるを見むとす」
(N1:509、M12:3表)という語に示唆されている。しかし他面で、西の「教
門論」は津田の論説とは力点が異なり、「神教政治」を否定し、明確な政教分離に基づく信教自由論を説
いている。特に西の政教分離論の特質は「教門は信に因て立つ者なり、信は知の及はさる所に根さす者
なり」
「所謂政府なる者、亦人に非るなし(中略)己既に知らす而て人をして己か信する所を信せしめむ
と欲せは其理なきこと明かなり」(N1:493−494、M4:5裏−6表)として、
「知」「信」の分離に根ざし
ていることである。そしてまた津田が「教導」を唱えたのに対し、西は「凡百学術は人智を開明にする
者なり、教門は人智の及はさる所に根さし信に発する者なり」(N1:500、M6:2裏)と「知(智)」「信」
の区分から学術と宗教を分離した上で、
「知るの大いなる者は其信する所亦従て高し」
(N1:501、M8:
6裏)として、
「知」の発展こそ信仰形成の基盤になると主張している。
それでは、「知」と「信」をめぐる議論を特徴とする西の宗教論は、いかなる西洋思想との格闘のなか
で形成されたのか。西は「哲学」という訳語を作り、コント 実証主義やミル論理学及び功利主義論に取
り組んだことで知られる。しかし西の説くような上帝信仰論は、三段階論を説くコント 哲学において
は、神学的状態の精神とみなされ、実証的精神に至る前段階として退けられるべきものであった。また
62
ミルが宗教について論じた『宗教三論』は西の蔵書目録に残されておらず、彼がミルの宗教論に直接取
り組んだ形跡も見出せない(1)。そして何よりも西の「知」「信」二元論は、後述するように『宗教三
論』出版(1873年)以前のオランダ留学前後に記された文章に既に見出すことができる。そこで、宗教
論の構築に至る西の西洋思想との取り組みを検討するためにも、その基礎を形作った徳川末期のオラン
ダ留学経験から掘り起こしていこう。
文久2(1862)年、徳川政府留学生としてオランダに渡った西は、約二年間、津田真道とともにライデ
ン大学法学部教授シモン・フィッセリング(Simon Vissering)から自然法学より国法学、国際法学、経
済学、統計学に至る五科講義を受け、講義の合間を縫って西洋哲学の摂取に励む。オランダ留学中の西
洋哲学との取り組みについて、
『明六雑誌』掲載の論説「人世三宝説」冒頭で西は次のように記してい
コント
る。
「余十年前和蘭に遊ひし時和蘭にて其頃有名の哲家たるは阿伯曾米爾氏なり、此人なとも坤度、
フ エ エ ル
ミ
ル
不為拉、彌爾等を推尊せられたりと見ゆ」
(N1:514、M38:1表)。ここには西による明治期以降のコン
ト やミルの哲学との取り組みが、オランダ留学中に触れた「阿伯曾米爾氏」の学説との出会いに由来す
ることが示唆されていよう。それでは「阿伯曾米爾氏」とはいかなる哲学者なのだろうか。
まず、フィッセリング法学講義の特質を簡単に概観しておこう(2)。西が留学中のオランダ法学界は、
19世紀初期自然法学の成果を受け入れつつも、その非歴史的、演繹的な議論を斥け、ド イツ歴史法学の
影響を取り入れながら、法学の関心をナショナルな実定法へと向ける、大きな転換期にあった(3)。そこ
では、フィッセリングの指導教官であり教授職の前任者である法学者、ヨハン・ルド ルフ・ト ルベッケ
(Johan Rudolph Thorbecke)を中心に、自然法をア・プリオリに捉える自然法学派の議論が退けられ、自
然法は歴史の発展に内在した実定法の理念として捉え直されていく。そしてこのトルベッケこそ、その
立憲主義理論を背景に国王による専制支配を批判し、1848年の憲法改正を通じて立憲君主制に基づく自
由主義政体を創設した、オランダ自由主義の中心的指導者であった。自由主義運動を支え「ト ルベッケ
政治のプロパガンディスト 」とも呼ばれたフィッセリングによる西達への法学講義には、ト ルベッケ法
学の強い影響が見て取れる。とりわけ「善」と「正」の区別から道徳と法を分離する自然法学講義の成
果を背景に、国家の義務を「国民の権利平安を護り国中の礼序を正し衆力を統合し相済相養の道を長じ
て以て国益を増殖す」(4)と定めた「有限君主の国制」論には、48年憲法の特徴的性格が色濃く反映して
いる。
ここで興味深いのは、こうして自由主義改革を画期として、抽象的推論に基づく自然法学から、実定
法学、法実証主義へとオランダ法学界が地殻変動をむかえるなかで、ライデン大学法学部を中心にトル
ベッケの弟子達ら自由主義知識人のなかで、経験主義的な視座から具体的事物を探究する気運が高まっ
たことである。オッタースフィアやコッスマンらはその典型として、ト ルベッケの弟子であるオプゾー
メルによるコント 及びミル哲学の受容と、フィッセリングの経験主義的な統計学を挙げている(5)。ここ
に「阿伯曾米爾氏」、19世紀オランダを代表する哲学者・コーネリス・ウィレム・オプゾーメル(Cornelis
Willem Opzoomer)が登場する。実際フィッセリング統計学は、事実の収集・大量観察によって社会にお
ける自然法則の探究を説いたケトレーの統計学理論に依拠しており、西達は「相生養する人間仲間の事
実を歴験して以て吾人の生活と作業の上にも亦之を統管する所の自然の天律ある事を覚知する」「社会
的生活の事実に関する学問」としての統計学を学んでいる(6)。こうして西は留学中にフィッセリング講
義を通じて同時代のオランダ自由主義知識人達の実証主義的学問思潮に触れ、その延長線上としてオプ
ゾーメル実証主義哲学に取り組むに至るのである。
ライデン大学法学部でト ルベッケより法学を学び、1846年よりユトレヒト大学哲学教授についたオプ
ゾーメルの名を一躍世に知らしめたのが、1851年出版の『学問の方法―論理学ハンド ブック―』であ
63
る。西周の蔵書にも残されるこの書の序文には、
「この論理学研究の大部分において私が手本とした人物
として、ハーシェル、ヒューウェル、ミル、コントの名を挙げる」(7)と記されている。これはまさに先
の「阿伯曾米爾氏」に関する西の発言の典拠とも言うべきものであり、この『学問の方法』こそオラン
ダ留学中よりコント 、ミルの哲学に接した西周の思想的営為の重要な知的源泉であったことを示唆して
いる。
この序文に見られるように、『学問の方法』はミル論理学とコント 実証主義、特にミルの『論理学体
系』(A System of Logic,1843)に依拠した作品である。オプゾーメルの説く実証主義は、ミル論理学に
見られる経験主義的要素が強く、同書の主題は『論理学体系』と同様、「新しい学問」としての帰納論理
学の導入によって「自然科学の方法を精神科学に適用する」ことにあった。「哲学とは、実証性を第一義
とするものであり、その原理は感覚の範囲を越えるものを評価せず、真理の唯一の源泉を経験に求め
る」(8)と説くオプゾーメルがこの書で論敵とするのは、思弁的哲学、或いは真の知識はア・プリオリな
理性的認識にあると捉え生得的な道徳観念の存在を認める合理主義である(9)。彼は「真の知識は経験に
基づく」と主張し、「知覚、快苦の感覚、美的感覚、義務及び道徳的自由の感覚、宗教的感覚」という五
つの感覚が認識の主源泉であると唱える(10)。そしてこの経験論に基づいて真の知識へと到達するため
の新しい学問方法論として提示されるのが、ミルに依拠した帰納論理学である。19世紀前期オランダで
は、カント 哲学をキリスト 教神学と重ね合わせ、その理想主義的側面を評価する思潮が形成されてお
り、こうしたオプゾーメルによる実証主義の導入は、合理主義とともに、カント 哲学を背景とする思弁
的哲学、そして正統派プロテスタントの説く啓示や奇蹟論への批判を意味していた(11)。
しかし同時に、オプゾーメル哲学の持つ固有の理論的特質も見逃せない。既にファン・テ・ヴィーア
らも指摘するように、ミルの経験主義哲学やコント実証主義と、
『学問の方法』との大きな相違は、「ミ
ルとコント によるキリスト教への攻撃を採用せず」に、むしろ宗教や神学を正面から取り上げ、実証主
義との関連のなかで「宗教の場所を見つける」作業に従事していることである(12)。このことは、五つの
源泉のうちに宗教的感覚が含まれていることにも見て取れる。
オプゾーメルは同書で一貫して、自然科学の進展と精神科学における自然科学的方法の導入が、時に
物質主義や無神論を生み出すことに強い危機感を抱いている。そうした問題関心のもとに導入されるの
が、「知(weten)
」と「信仰(geloof)」の区別に基づく「学問及び哲学」と「宗教」の分離論である。彼
は「実証主義は、全ての知識の諸源泉―しかし宗教的感覚は除く―を取り上げるときに、形成される」
(13)
と定式化し、
「自然科学、歴史学、政治学、道徳学」という諸学問と、「信仰」に基づく「神学」を明
確に区別する。
「真の知識は経験に基づく」と説く彼によれば、神学によって諸学問を基礎づけることは
「誤り」である。しかしだからといって「全ての信仰を拒絶することは、馬鹿げた非現実的なこと」であ
る。諸学問が現象の内にある因果論的法則性の探究によって「確実」な知識に至るのに対し、神学は宗
教的感覚、信仰に基づいて神の存在についての、学問的知とは異なる「蓋然的」な認識を提供する(14)。
ただしこうして擁護される神学は、もはや当時の文脈で言う正統派プロテスタント 神学ではない。経
験論に基づいて神の啓示や奇蹟に懐疑を抱くオプゾーメルが擁護するのは、「時代遅れのorthodoxie」で
はなく、「学問の成果に従った」「確実な(possitief)宗教的かつ倫理的原則」に基づく「現代神学(moderne
「ただ一つの神的存在につ
theologie)
」(15)である。彼は文明の発展によって人類の宗教的水準は向上し、
いての普遍的確信」(16)が深まると説いている。「知」と「信仰」の区分をめぐる洞察は、時に正統派プ
ロテスタントの教義が紛れ込む思弁的哲学や合理主義から、経験主義的な「知」の領域を確保するとと
もに、その行き過ぎを排し、学問的知の成果を取り入れながらも「信仰」に基づく宗教固有の領域を擁
護するという意図に根ざすものであり、オプゾーメル哲学の一つの思想的到達点であった。
64
さらに、「知」と「信仰」との区分に基づいて「政治学において神学の占める場所はない」(17)と説く
オプゾーメルは、西周の蔵書に残る『国法研究』のなかでは、
「いかなる者も、全く自由に信仰を告白で
「其神に敬事するる自
きねばならない」(18)と明確な信教自由論を説いている。フィッセリング講義でも
在なのは文明理発なる人々自己性中の蘊権にて外暴絶て之を犯す可らす」と教授されるように、信教自
由、政教分離は、トルベッケ自由主義体制が強く推進した政治課題であった。オプゾーメルの「知」と
「信仰」をめぐる洞察は、経験主義を主唱し、政教分離を重視したオランダ自由主義の一特質を体現し、
理論化したものと言えよう。
2 西周における宗教と哲学との間
こうしてオランダ自由主義体制下の思想文化のなかで、その代表的知識人であるフィッセリングから
五科講義を受けるとともにオプゾーメルの哲学書に触れた西周の哲学的成果は、留学中の作品と推定さ
ポ
ジ ティヴィ ズ
ム
れる「開題門」に見て取れる。西はそこで同時代西洋哲学の状況について、「孛士 非士謨」の「據證確
エン ビ リ
イン ダ ク ティ ヴ
ジョン・スチョアート・ミル
実、辨論明哲」な卓越性と、「晏比離之方」
「因数矩知否之術」を説く「 稠亜杜美爾」哲学の重要性を
ヒ ロ
ソ ヒ
テ
オ ロ ギ
指摘している(N1:19−20)。そして「斐魯蘇比」と「抵於盧義」について、両者は「相反」すると唱
ヒ ロ
ソ
ヒ
テ
オ ロ
ギ
え、
「斐魯蘇比の主とする所は天を知り神を究るに在」るのに対し、「抵於盧義は則ち専ら古典に據りて
天を敬し神に事ふるを主とす」「先ず信じて後これを踐む」として、哲学が「知」に基づくのに対し神学
は「敬天」「信」に基づくと区分している。なおここで哲学についてはその直後で、「聖人と雖も知らざ
る所有り、焉ぞ神を謾説し天を妄論する者と、同日にして論ずべけんや」
(N1:22)として、一種の不可
知論の視座から、「知」に基づく哲学は妄りに「天」を論ずるものでないと記している。ここには、留学
を経てオプゾーメルを中心とするミル論理学に基づくオランダ実証主義哲学の展開に触れるなかで、
「知」と「信仰」に基づく哲学と神学の区分論が形成されたことが窺える。
さらに、明治2(1869)年に記された津和野派国学者に対する批判の書「復某氏書」でも同様に、「五
官の感覚によりて知を生し、其知によりて信を生する」という視座から議論が展開されている。西はそ
こで、「徒らに信」じ「頑なに己のか道とする所を墨守」して「信」の側から「知」の領域を侵食する旧
来の学問観を批判し、「天授の五官に本く実際の学」を唱えた上で、「学識既に広く造化の妙機に参し、
造物の微妙に達すれは、畏敬の心日に日に深うして自ら已むこと能はす」と説いている(N1:293−
307)。ここにはオランダ留学の成果を実践に移し、旧来の学問観を退けて「五官の感覚」に基づく経験
論的な「知」「実際の学」を興隆させ、そこに国学や神道の「信」とは異なる、新たなる「信」の領域を
切り開こうとする西周の哲学的営為が見て取れよう。そしてこの「知」と「信」をめぐる議論こそが、
「教門論」に流れ込んでいる。
「教門論」では、先述のように、「信」「知」論を背景に「教門」の領域を、「知」に基づく「政府」の
活動から切り離された、
「知の及はさる」
「信に因て立つ者」と捉えることによる政教分離論が唱えられ
ている。西はそこで「政府の義務」を、「公正の法度」を立て「不正をして正を犯すことを得さらしめ、
以て其の治安を保す」と定め、人民の「内心」への介入を許さず、「外形に顕はるる者に就て之を制す」
(N1:494−499、M4:6裏−7裏, 5:3裏−6表)と限定している。これはまた「任意に法教を信じ法礼
を行う権」を認めた上で、
「敬神の儀礼行祭等に至ては人々国律を遵守して違背す可らす、祭祀等敬神の
儀礼を監督して由て以て通国の治安を害する端を開しめざるは是国家に長たる人の職務なり」と教授さ
れたフィッセリング講義の政教分離論と連関している(19)。「神教政治」批判は「我国制度」にも向けら
ペルー
れ、
「言を日神に託するか如き頗る秘魯の旧王室と相類す」(N1:499−500、M6:2表)として神道国教
65
化への批判も提示されている。
なお、「公正の法度」を立てることを国家の国民に対する「義務」と定める西の議論はまた、『百一新
論』(明治7年刊行)に示されるように、「教門」とは切り離された「人道の教」に基づく「政教一途」
論、特に「オルトド キ」としての儒教的政治観への批判をも含んでいる。西が青年時代より徂徠学に親
しんでいたことは、20歳の時に記された草稿「徂徠学に対する志向を述べた文」
(ただし題名は、『西周
全集』第1巻収録に際して編者・大久保利謙氏によって付けられたものである)に窺えるが、この『百一
新論』において彼は「徂徠が先王の道は礼楽耳とか道は先王の道だとか申したも爰の意味でござる」(N
1:242)と引証しながら、<為政者の道徳的完成が被治者を自然と教化する>として道徳と政治を連続
的に捉える朱子学的な「政教一途」論を退ける。特に西がここで「民と共に法を立て」る西洋政治制度
との対比で批判しているのは、儒教的政教一致が孕む「黔首を愚にする」政治観である(N1:257)。こ
うした批判を通じて、彼は「正は智に基づ」くと定め、フィッセリング法学講義に依拠しながら、権利
義務観念に基づく「正」「公平」な「法」による統治の在り方を「文明の統治」として導き出すのである
(N1:272−273)
。さらにここで興味深いのは、その孔子論である。そこでは、孔子は「尋常説話の心
得」のみを説いたり、また「釈迦や耶蘇の様に説法をして人を教化した」のではなく、何よりも「天下
国家を治る綱紀になる所謂制度典章」に深く達した「政事学者」であったと指摘される(N1:239−246)。
西はオランダ留学の成果を背景に、徂徠を媒介として、孔子の学問のうちに、道徳的教化でも宗教的教
化でもない、制度探究の法学的精神を見出すことで、「知」に基づいて「公平の法度」を定める政治固有
の領域を確保するのである。
しかし他方、西の「知」と「信」をめぐる洞察の含意は、信教自由・政教分離論にとどまるものでは
ない。
「教門論」に立ち戻れば、彼は「狐」「狸」への信仰を政治的には認めながらも、「知」の発展に
よって「其の妄即ち著はる」(N1:500、M6:2裏)と指摘している。経験論に基づく実証主義に立つ西
において、
「徒らに信する」信仰は、
「実際の学」の進展によって退けられるものであった。だが彼はコ
ント 実証主義のように宗教自体の排撃を行うのではない。オプゾーメルの実証主義に触れた西は、
「復某
氏書」と同様に「教門論」でも、
「知るの大なる者は其信する所亦従て高し」と述べている。ここで改め
て問題となるのは、「教門論」における「凡百学術は人智を開明にする者なり、教門は人智の及はさる所
に根さし信に発する者なり」という「知」と「信」の区分がいかなる意味を持つのか、なぜ彼は超越的
な上帝への「信」を打ち出すことで朱子学の「天即理」を批判したのか、という点である。
ところで、留学期の哲学的考察「開題門」のなかで、西が「我が亜細亜の未だ見ざる」ものとして、
コント の実証主義とミルの経験主義の卓越性を唱えていたことは先に触れた。ここで注目すべきは、同
ラ シ ョ ナ リ ズ ム
じ文書のなかで彼が朱子学について「余謂らく宋儒と羅 奈 士謨と、その説出入有りと雖も見る所頗
エ ン ビ リ
る相似たり」と指摘し、「晏比離の方」を取らずに「蓋し理を胸臆に取り、垠際有ること無」き思弁的な
エ ン ビ リ
哲学であると批判していることである(N1:19−20)
。さらに西は「一は晏比離と曰ひ実験を物に本づく
ラ シ ョ ナ ル
せ
なり。二は羅 奈爾と曰ひ実理を心に折むるなり」とも唱えている。ここには、従来の支配的な学問知
としての朱子学の内に合理主義の要素を見出し、オプゾーメルが『学問の方法』で展開した、生得観念
を唱える合理主義の有する思弁性への批判を援用することで、
「我が亜細亜の未だ見ざる」経験主義的な
実証主義を定着させようという西周の戦略が見て取れる。オランダより帰国後の「哲学者」西周による
実証主義に依拠した哲学活動は、まさにここを起点として、朱子学の合理主義的側面に批判を加えるな
かで成立する。その批判は大別して二つ、朱子学的な「理」に対する批判と、格物致知論への批判に分
けられる。前者は『百一新論』に見られる。彼はそこで、
「自然の理」と「理の当然」、物理と倫理をと
もに「先天」の理として混同する朱子学的な「理」の観念を問題視し、「ア・プリオリ」な「物理」と
66
「ア・ポステオリ」な「心理」の明晰な区分を通じて、「理」の再編をはかっている(N1:277−288)。後
者は『致知啓蒙』序文に示される。そこでは朱子学の学問方法論である格物致知が、致知の前に格物を
重視し、知の明証性に達する過程で「豁然貫通」という飛躍の契機を介在させていることを批判し、「致
知」を「手解きの学」としての論理学として独立させることで、「知」を誰にでも開かれた到達可能なも
のとして再提示している(N1:390−391)。そしてこの二つの朱子学批判は、『致知啓蒙』本文を通じて
「演繹」法との関連のもと、
「物理」
「心理」という二つの理を探究する「帰納」法が提示されるなかで、
一つの統合を見る(448−450)
。こうして西は、オプゾーメルによる合理主義批判を媒介に朱子学的な
「知」を解体することで、「徒らな信」に「惑溺」しない「五官に本く実際の学」としての経験主義的な
実証主義を提唱するに至るのである(20)。
そして宗教論との関連で何より興味深いのは、こうした哲学的活動における朱子学批判が、宗教論に
おける「天即理」批判によって支えられていることである。注目すべきは、「開題門」における「朱子
ラ ショ ナ リ
ズ ム
学=羅 奈 士謨」批判のなかで記された「蓋し理を胸臆に取り」という一節である。というのも、そ
れはまた西の傾倒する荻生徂徠が朱子学批判のなかで使用する表現でもあった。徂徠は次のように論じ
ている。
「後世の儒者は、私智を逞しくし自ら用ふるを喜び、その心傲然として自ら高しとし、先王・孔
子の教へに遵はず、その臆に任せて以てこれを言ひ、つひに「天はすなはち理なり」の説あり。その学
は理を以て第一義となす。その意に謂へらく、聖人の道は、ただ理のみ以てこれを尽くすに足れりと。
(中略)理はこれをその臆に取れば、すなはちまた「天は我これを知る」と曰ふ。あに不敬の甚しきに非
「それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る」(22)として天の不可知性と
ずや」(21)。
敬天思想を説く徂徠はここで、朱子学の「天即理」論を、理を自らの心中に思弁的に捉えることで「知
天」と説く、不敬な教説として描いている。
むろん、西が実証主義を「我が亜細亜の未だ見ざる」と捉える以上、西の説く「理」や「天」の観念
が必ずしも徂徠と合致するわけではない(23)。しかし少なくとも、徂徠学に親しんでいた西にとって、朱
子学の有する「理を胸臆に取」るその思弁性は、その根底にある「天即理」の観念と不可分なもので
あった。そしてその儒教的文脈のなかで、朱子学の「格物致知」の根幹に「天即理」から導き出される
「知天」観があることを熟知していた西にとって、この現在支配的な「亜細亜」の合理主義を退け、「我
が亜細亜の未だ見ざる」経験主義的な実証主義を確立する作業は、天を「知」の及ばない不可知な信仰
の対象と捉え、「天」から「理」の観念を切り離すという宗教的営為を伴うものであった。
「教門論」で
「其知以て主宰の在るを推して之を信するに足る」(N1:502、M8:7裏)と説かれるように、
「亜細亜」
における実証主義的な「知」の進展は、朱子学的合理主義を支える「天即理」観の解体を不可避的に伴
うものであり、「知」の研鑚と不可知な超越的「主宰」への信仰「敬天」の契機とは相即不離なものとし
て理解されるのである。こうして西はオランダで学んだ、合理主義を批判し信仰の領域を擁護する「知」
「信仰」
二元論のうちに、徂徠が敬天思想に基づいて展開した朱子学批判との対応性を見出し、儒教的コ
ンテクストのなかでより積極的な意義付けを行なう。ここに「天即理」批判に基づいて超越的な上帝に
対する信仰を説く「教門論」が成立するのである。
以上のように、「天即理」批判を通じで超越的「主宰」への信仰を説く西周の宗教論は、合理主義とし
ての朱子学への哲学的批判を媒介にした、彼の「哲学者」としての活動と内的に連関するものであっ
た。その意味で西の宗教論において、その関心の中心は「知」のあり方にある(24)。こうして西の哲学論
ラ ショ ナ リ
ズ ム
は、単に外在的な実証主義受容ではなく、
「朱子学=羅 奈 士謨」
批判を媒介に、ヨーロッパ思想史上
において合理主義に対抗して実証主義が登場したことの思想的意味について、儒教思想史の内側から捉
え直すところに成立する。そしてそこで何より重要な役割を果たしたのが、敬天に基づく「天即理」批
67
判であった。冒頭で触れたように、ヨーロッパ実証主義が時にそのキリスト教批判という点から儒教道
徳や朱子学的な理の観念と結びつけて理解されがちな明治初期の思想状況のなかで、オプゾーメルとの
出会いの契機を通じて儒教的伝統における「天即理」批判へと辿り直すことで、そこに合理主義対実証
主義という思想的対立軸を析出しえたところにこそ、西周の哲学的営為の、そして宗教論の画期性を見
出せるだろう。
(1) 『西周遺書目録』
、国立国会図書館憲政資料室所蔵。ただし「百學連環」のなかでは、コントの三段
階論について説明がなされるなど(N4:28−29)、決して西がコント の宗教批判について知識がな
かったわけではない。
(2) 西周によるフィッセリング法学講義への取り組みについては、拙稿「西周の初期体制構想―近代日
本立憲思想の形成とオランダ法学―」
『東京都立大学法学会雑誌』第44巻、第1号、2003年。
(3) この点については、W. J. A. J. Duynstee, Geschiedenis van het Natuurrecht en de Wijsbegeerte van
het Recht in Nederland, in Geschiedenis der Nederlandsche Rechtswetenschap, deelⅡ, Amsterdam,1940,
E . Poortinga,De Scheiding tussen Publiek‐en Privaatrecht bij Johan Rudolph Thorbecke (17981872):Theorie en Toepassing, Nijmegen, 1987、及び拙稿「西周の初期体制構想」を参照のこと。.
(4) シモン・ヒッセリング著、津田真一郎真道訳「泰西国法論」
、大久保利謙他編『津田真道全集』上、
みすず書房、2001年、141頁。
(5) W. Otterspeer,De Wiekslag van hun Geest, De Leidese Universiteit in de Negentiende Eeuw, Den Haag,
1992, blz. 227−232, E.H.Kossman,The Low Countries 1780−1940, Oxford,1978,pp.259−263.
(6) シモン・ヒッセリング著、津田真道訳「表紀提綱」
、前掲『津田真道全集』上、226頁。フィッセリ
ング統計学講義の特質と明治初期日本への受容については、拙稿「明治初期知識人と統計学―『文明
論之概略』と『表紀提綱』との間―」
『東京都立大学法学会雑誌』第41巻、第2号、2001年。
(7) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap. Een Handboek der Logica, Leiden en Amsterdam, 1851,
blz.Ⅷ.
(8) C. W. Opzoomer,De Twijfel des Tijds,De Wegwijzer der Toekomst, Leiden en Amsterdam, 1850,
blz. 29.
(9) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap., blz.24−26, 54−56.
(10) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap., blz.27−39.
(11) オプゾーメルによる
‘Orthodoxie’批判は、例えばDe Wijsbegeerte der Ervaring en De Moderne Theologie,
Amsterdam, 1863に見て取れる。カント受容を中心とした19世紀オランダ哲学史については、F.Sassen,
Geschiedenis van de Wijsbegeerte in Nederland: Tot het Einde der Negentiende Eeuw, Amsterdam,1965.
(12) Wim van Dooren, Inleiding, in Cornelis Opzoomer, Het Wezen der Kenis, Baarn, 1990, blz. 23, Hendrik
van't Veer, Mr.C.W.Opzoomer als Wijsgeer, Assen, 1961, blz. 173−177.
(13) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap.,blz.48.
(14) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap.,blz.19−22, 39−42.
(15) C. W. Opzoomer,De Wijsbegeerte der Ervaring en De Moderne Theologie, blz.15−17. その背景に
は、当時のオランダの自由主義神学(
「現代神学」と呼ばれる)と正統主義との間の緊張関係が存在す
る。19世紀後期オランダにおける現代神学の展開とオプゾーメルの果たした役割については、K.H.
Roessingh,De Moderne Theologie in Nederland: Hare Voorgereiding en Eerste Periode, Groningen,1914.
(16) C. W. Opzoomer,De Godsdienst, Amsterdam,1864−67,blz.202.
(17) C. W. Opzoomer,De Weg der Wetenschap., blz.42.
(18) C. W. Opzoomer,Staatsregtelijk Onderzoek, Amsterdam, 1854, blz.150−161. ただしオプゾーメル
が当時のカトリック教区問題等を背景に、政教分離に向けたその実践的な制度設計においては慎重な
68
態度を取っていたことも記しておく。
(19)
津田訳、前掲「泰西国法論」
、148−91頁。
(20)
本研究は、
「天即理」
批判を主題とするため、西による朱子学批判に光をあてているが、他面で彼は
「性理学」をめぐって、朱子学(宋学)について「性理を以て、其学の一大要旨として(中略)其淵源
いと遠く、其傳もいと廣くして」(N1:29)と一定の評価を与えている。西の哲学的営為は、朱子学
の学問的到達点を評価し、「性」
「理」という概念を援用しながら、経験主義的な哲学の成立に向けて
その概念を内側から変革する営みであったと言えるだろう。
(21)
荻生徂徠「弁名 下」
、吉川幸次郎他校注『日本思想大系36 荻生徂徠』岩波書店、1973年、120頁。
なおこの点については、本稿と議論の視角を異にするが、小泉仰、前掲『西周と欧米思想との出会
い』、55頁で触れられている。
(22)
荻生徂徠、同上書、123頁。
(23)
西の説く政教分離論を含めた宗教論は、決して徂徠の学説に全面的に依拠しているわけではない。
例えば徂徠は他面で、
「三代の天子の一政を出し一事を興すがごときも、またみな祖宗を祀りてこれを
天に配し、しかうして天と祖宗との命を以てこれを出し、卜筮を以てこれを行ふ。古の道しかりとな
す」(
「弁名」
、同上書、73頁)と論じ、また「先王の道」から日本の神道を評価して「天祖天を祖と
し。政は祭祭は政にして。神物と官物と別無し」と述べている(
「旧事本紀解序」
、同上書、489頁)。
興味深いのは、こうして「宗教的儀礼という一種の制度のもつ政治的機能」に着目した徂徠の「祭政
一致の思想」こそ、後期水戸学がキリスト教への対抗イデオロギーとして提示した祭政一致論の一源
流になっているという、尾籐正英氏の指摘である。
(
「水戸学の特質」、前掲
『水戸学』
、
「国家主義の祖
型としての徂徠」
『日本の名著16 荻生徂徠』中央公論社、1983年)
。むろん尾藤氏のように徂徠学を
後期水戸学に通じる「国家主義の祖型」とみなすことについては、例えば「徂徠にみられるような内
外両面の峻別」や「超越的な「天」と人為の(聖人の立てた)「鬼神」という明確な区別」が後期水戸
学には欠けていることなどから、徂徠学を後期水戸学の国体論と同一視することはできないという平
石直昭氏による鋭い批判が存在する。しかしそこでもなお「後期水戸学が徂徠の「祭政一致」という
着想をうけているのは事実であろう」という点は認められている。(
「戦中・戦後徂徠論批判―初期丸
山・吉川両学説の検討を中心に―」
、東京大学社会科学研究所『社会科学研究』第39巻、第1号、1987
年、89頁)。少なくとも西の宗教論は、そうした「祭り事」と「政り事」とを一致させる政治論に対し
て批判を加えるところに成立する。
(24)
本稿では紙幅の関係もあり十分には論じられなかったが、むろん西周においても宗教の有する道徳
的機能についての着目がないわけでない。例えば西は「教門論」のなかで、上帝への信仰の「功徳」
として、
「信は衆徳の元百行の本なり」
(N1:507、M12:1表)と述べている。しかし西は「哲学者」
として、
「道徳」それ自体の在り方に関しても、一旦信仰の問題から切り離し、哲学的「知」の側から
の基礎付けを試みている。それが、彼の一連の功利主義への取り組みである。西はミルの Utilitarianism
を訳した『利学』の自序のなかで、コントの「実理哲学」
、
「実理を講明する方法を示」したミル「致
知軌範」の成果の延長線上にこの書が成立していることを指摘し、
「誠よりして明なる道」を説く「教
(N1:
門之道徳」と対比させながら、
「今此書乃道徳の大本を論するものにして正に哲学の一部たり」
162−163)と唱えている。筆者は、オランダ留学以来の一貫した問題関心のもと、実証主義に依拠し
た「性理学」及び「致知学」の成果を背景に、人間の「意」に根ざした道徳的領域における「理法」
の探究を試み、その作業を通じて改めて「権利」観念の哲学的基礎付けを行い、新たなる法学の地平
を切り開いたところに、西周によるミル功利主義との格闘の政治思想史的意義があると捉えている。
この点については、近々別稿の形で報告する予定である。
69
Ⅲ 中村敬宇の宗教論
1 敬天思想と「孔子の宗教」
それでは、西周と同様に「天即理」批判を通じて上帝・天への信仰を説いた中村敬宇の宗教論は、ど
のように理解できるであろうか。西の宗教論では、上帝・天への「信」仰は哲学論及び政教分離論のな
かで、とりわけ「知」との関連において重要な意味を持ちながらも、
「信」仰それ自体のあり方をめぐる
考察は後景に退いている。それに対し中村は、西には欠けている上帝・天への信仰の問題について、正
面からの取り組みを見せている(1)。
「西国の強きは、人民篤く天道を信ずるによる」(2)。昌平黌御儒者でありながら、慶応2(1866)年か
らの英国留学を通じてビクト リア中期の思想文化の根底にキリスト教を見出した中村のキリスト 教と
の取り組みは、明治1、2(1868、9)年の「敬天愛人説」と「請質所聞」に示されている(3)。原始儒教
にみられる人格神的性格の強い天観念を引き合いに出し、「天」「上帝」「神」
「造化の主宰」を全て「名
は異にして義は一なり」と定めた上で展開される彼の神学的議論の特質は、
「天地の帥、わが性なり。心
を存して性を養ひて、懈りあらずと為す」(SS)と、一貫して超越的「主宰」への信仰をめぐる「心」の
在り方へと関心を注いでいるところにある。そしてこの「心」への関心は、徳川末期の学問活動に根差
すものであった(4)。
文久2(1862)年、西周がオランダに留学した年に昌平黌御儒者に就いた中村敬宇の、英国留学に至る
前半生は、儒者としてのものであった。彼の儒教思想の一特質は、
「今の時既に古の時と異なり、今の政
獨り古の政と同じくす可けんや。唯だ心を綱常倫理に留むれば、則ち恃む可きもの有りて存す」
(「穆理
宋韻府鈔叙」BS5:1裏)という言説に窺えるように、可変的な時代状況(「宇宙の変」)のうちに「綱常
倫理」に基づく不変的な道徳律を見出し、それを探究する「心」の在り方を重視したことにある。徳川
末期、その時代状況を多くの儒者が「変」
「勢」と捉えるなかで、例えば會澤正志斎が「時勢の変」の根
底に不変的な「国体」を提示してキリスト 教批判を展開したことと対比すれば、その根底に「綱常倫
理」を求めたところに、中村のその後の活動につながる重要な思想的契機が見いだせよう。
中村は「心」について、「道の大原天より出づ」と『漢書』『中庸』に依拠しつつ「夫れ道なるは天下
公共の物にして、事物自然の理なり。天より出て心に具はる(中略)凡そ人天地の気を禀けて以て形と
為す。天地の理を禀けて以て性と為す」(「廣原道」BS14:8表−8裏)と説いており、それが朱子学の影
響下にあることは明らかである。ただし、
「口を開けば輙ち太極を曰」うような実践から乖離した哲学論
に拘泥することを批判(「日蓮画像」BK)する彼は、これ以上存在論を深めることはない。むしろ中村
が重視したのは「敬者一心之主宰、而万事之根本也」という朱子学の心法を背景とする、
「敬して以て心
を治む」(「摂生説」BS3:13裏等)、「敬」を中心にした「用心」の実践であった。その関心は政治論にも
反映され、
「風俗正しければ則ち国本固し(中略)これ先ず教化を以てす」
(「固国本」BS3:4裏)として
「風俗教化」の重要性が説かれている。
「聖人の教、就ち人々固有の性、之を啓発拡充するのみ」
(「怡齋
記」BK)。徳川期の中村は、人々の心に具わる「徳性」を「啓発拡充」する、道徳的主体の形成をめぐ
る心の実践倫理の探求を、自らの中心課題とするのである。
中村は留学直前に、従来の西洋学受容が「物質上のみ」にとどまってきたのに対し、「性霊の学即形而
上の学」を「熟察」できるのは、孔子・朱熹の流れを汲む自分のような者だけであると論じている(5)。
そして彼が留学を通じて最も関心を払ったのがキリスト教であった。今一度「敬天愛人説」「請質所聞」
に立ち戻れば、中村のキリスト教への積極的な取り組みが、徳川期からの、人々の心には「天」に依拠
70
した徳性が具わるという問題関心の延長線上にあったことは、
「霊魂は天理の心の由て生ずる所なり」
「人々の天良の心は、これを上帝の一分といふも可なり」
(SS)としてキリスト 教の「霊魂」を、徳川期
以来の「理一分珠」に近い発想で「天理の心」「天良の心」と捉えているところに窺える。
しかし他面で、そこには思想的飛躍の契機も伏在している。中村は「詩に曰く、神の格る、測るべか
らず。矧や射るべけんやと。亦曰く、神之に弔りて、爾に多福を詒けりと。これらの神の字、けだし宗
廟社稷の鬼神をさす、余章を断って義を取らんと欲す。解は(真一)無形の神なり。すなわち造化の主
宰なり」(SS)と述べている。ここには、原始儒教へと遡り、祭祀をめぐる鬼神を指す「神」のうちに、
あえて「断章取義」を掲げてまで信仰の対象としての「真一無形の神」を読みとることで「
‘God’とは
何か」の理解に努める中村の格闘の跡が見て取れよう。そしてこうした取り組みのなかで生じた、これ
まで依拠してきた儒教思想とのズレを示すものこそ、朱子学的「天即理」論への批判である。「三代以上
天を説き、上帝を説くこと、活けるがごとし。漢唐以下天を説くこと死せるがごとし。漢唐以下、上帝
の二字を抹殺す。ゆえに多く筆墨に流露せず。
(中略)
けだし上帝あらざる所無し。天即ち理なりや、講
じ得て壊るなきを要す。もし解して理外に天なしとなさば、すなわち大いに謬る」
(SS)。中村は、天を
理法化して「理」の概念へと解消する朱子学の「天即理」テーゼを批判することで、「知」の対象でな
く、
「理」の外に存在する「人智窺ひ難き」不可知な超越的存在としての上帝・天を定立するのである。
「天を敬す故に人を愛す」(
「敬天愛人説」BS3:16裏)
。中村の「敬天愛人」思想は、こうして徳川末期
における自らの心の「工夫」としての「敬」を、超越的存在である上帝・天という信仰対象への「敬」
へと転回させるなかで成立する。むろん、「霊魂」を「上帝の一部」である「天良の心」と置き換え、あ
くまでも儒教における「主宰」としての「天」観念を基盤に‘God’の理解に努めた中村の議論からは、
キリスト 論や原罪・救済といったキリスト 教の中心的教理が抜け落ちている(6)。しかし少なくとも「常
に天の眼前にあるを見」て「良心の是非を原ねて、天心の黙許に合せんことを求む」(「敬天愛人説」BS
3:16裏) として、
「常」に上帝に相対しながら天良是非の心の存養を説く彼の言説からは、「敬」とい
う実践倫理が、道徳の次元から、上帝・天への信仰に基づく宗教的次元へと昇華しているのが見て取れ
よう。
以上の中村敬宇の営為を西周と比較するならば、両者はともに「天即理」批判を通じて、
「知」の領域
を越えた不可知な超越的「主宰」への信仰を説いた点で共通する。しかし西においてその作業は、
「知」
と「信」の区別を通じて「天即理」に基づく朱子学の「合理主義的」思弁性を暴露し、新たなる経験主
義的な「知」の構築を企図する契機であった。それに対し中村においては、三代における「天」観念へ
と遡及し、儒教が本来的に持つ「敬天」思想を内在的に拡張し再構成する契機であり、
「心」の実践倫理
を補強する過程であったと言える(7)。両者の相違を窺う上で象徴的なのは、中村の説く「孔子の教」の
内容である。彼は後年、当時安井息軒ら儒者達から「異端を助くる者」と批判されたが、自らの「孔
子」への「敬仰」は終始変わらなかったと回顧し(8)、さらに「孔子の教」について次のように定式化し
ている。
「孔子の教たる、日用彜倫の道を明かにする所以にして、其道の本源は、天より出づ、是故に孔
子の頭上及び胸中に常に天ありて暫くも忘れず。
(中略)吾の漢学に取る所のものは、その主要は、孔子
の宗教の分なり」(9)。彼は続けて、この「孔子の宗教」のうちに「教法上に具ふる所の真理」を見出
し、それを古今東西の宗教に共通し「他ノ学術ノ真理」を支える、より高次の真理として描いている。
西が政治を宗教や道徳的教化から分離させ、孔子の学を政治的領域における法制度の探究に求めたのに
対し、中村はそれを「孔子の宗教」のうちに見出すのである。そしてこのことは第一に、キリスト 教と
儒教とが「教」をめぐって交錯するなかで、西とは対照的に、中村の思想的営為においては政治におけ
る教化の問題が中心的な主題となることを示している。そして同時に、西がオランダ留学を通じて「信」
71
と「知」を切り離すなかでコント、ミルら同時代哲学を受容しえたのに対し、全ての学問の背景に「教
法上に具ふる所の真理」を定める中村においては、それだけ同時代19世紀西洋哲学との衝突面が大きく
なることを示唆している。では、中村はいかなる形で同時代西洋思想と取り組んだのか、次節では彼が
訳述を試みたジョン・スチュアート ・ミルOn Libertyの翻訳書『自由之理』から検討しよう。
2 『自由之理』と「西學一斑」との間 ―スコットランド 啓蒙思想との邂逅―
中村敬宇は19世紀西洋思想を代表する書物、ミルOn Libertyをどう読み解いたのか。明治5
(1872)年より
刊行された『自由之理』を一つの思想作品として読み解くとき、まず興味深いのは、同書には原文にな
い中村の手による幾つかの文書が挿入されていることである。第一に「巻之一」の最後に、「訳者曰く余
近ごろ『エンサイコロペヂア。ブリタンニカ』英国博物字書の巻首に載たるヂュガルド ・ステューアル
フェーネーロン
ト人名の論文を読み」、
「自由ノ理に関係すること」として、そこからの抄訳「費氏法教の自由を論ずる
文」という信教自由論を載せている。また書の扉の部分には、原文と関係なく、ベーコンのEssaysから
「浅小なる理学は人心をして上帝を信ぜざらしめ深奥なる理学は人心をして天道に帰せしむ」という言
葉が引用されている。さらに『自由之理』第2巻の自序では、「上帝は人を愛する、限量有ること無し。
故に人亦た当に上帝を愛し人を愛し、限量有る無かるべし」とした上で、
「開化の民」は「霊魂の真を全
くし」人を愛する心を持つのに対し、「東洋諸邦の人民」は「往々神を知ずして、唯だ務めて人と角す」
と唱えている(J2:1表−2裏)(10)。
い ま だキ リ スト 教 禁制 が 踏 襲 さ れる 明 治 5 年 段階 に お い て、中 村は、The Japan Weekly Mail に
“Memorial Addressed to the Tenno”(「擬泰西人上書」)という「異教の解禁」を要求する文章を無署名で
発表している。こうしたコンテクストに目を向けても、中村にとって、信教自由を制度的に確立し、上
帝への信仰を広く浸透させることが『自由之理』訳述の中心的動機の一つであったことが窺える。しか
し中村の翻訳に伴うこの問題関心は、On Libertyで展開されるミルの政治理論と必ずしも合致するもの
ではない。というのも、ミルのOn Libertyは、ビクト リア期のキリスト 教的道徳主義のド グマティズムへ
の批判を一つの主題として成立する。こうした視座から中村の訳文を検討するとき、そこには宗教観を
はじめ、原著者ミルの見解との間に見逃すことのできない齟齬や衝突が浮かび上がってくる。
例えば「信教の自由」をめぐる両者の相違は、宗教的迫害をめぐる次のような議論に見て取れる。そ
こでは、
「夫れ或は日曜日に、蒸気車通行を禁ぜんと欲し、或は日曜日に博物館を閉んと欲し、 々これ
を行はんとせり。かくの如き心情は、その根源を推せば、昔時教法を窘遂する人の心情と同一なり」と
した上で、
「余思ふに、上帝かくの如き誤信の人の所行を嫌悪し玉ふのみならず、もし誤信の人をそのま
ま捨て置きて、駁難を為ざれば、必ず我輩を罪し玉ふべきなり」
(J4:30 表∼裏)と続ける。注目すべ
きは、最後の一文である。原文と対照させれば(11)、ミルはここで宗教的迫害を加える人々の精神状態の
根底には、
「<神は、信者である私が不信心者を迫害せずに放任したら、私自身のことも無罪とは考えな
い>という信仰」があることを指摘している。しかし中村訳では、‘It is a belief 'を「余思ふに」と「誤
訳」され、直前とのつながりが切れることで、ミルの「宗教的迫害を生み出す精神を支える<悪しき信
仰>」に対する批判的描写が、全く逆に「宗教的寛容を生み出す精神を支える上帝への信仰」への肯定
的描写へと読み替られている。同じく「信教の自由」を唱えながら、
『自由之理』では、積極的な上帝へ
の信仰に支えられた信教自由論が展開されているのである。
これが表層的な「誤訳」の次元に止まらない、両者の宗教観及び自由観の相違に起因することは、
<自由な政体を支える、公共的動機に基づいた行動を導くような能力・習慣は、
「自発的な結合団体」と
72
いった「自由な民衆の政治教育の実践部分」のなかで生まれる>というOn Libertyの中心的テーゼを提示
「公共的動機」を「衆心一和」と訳した上で、「衆心一和、法
する箇所にも見られる(12)。ここで中村は、
ド ダイ
教の然らしむるに由る」という割注を補い、
「この慣習なく、この勢力なければ、自由の政体に根基な
く、つひに永続する能はざるなり」(J5:19裏)と続けている。すなわち中村の訳文では、「法教・宗
教」こそが自由の政体の土台づくりをするという議論が提示される。ミルが「自由」それ自体の持つ民
衆陶冶の教育的機能に着目したのに対し、中村においては、そうした自由の持つ教育的側面は見落さ
れ、代わりに「自由の政体」の基盤を作るために宗教の有する教育的機能の重要性が唱えられるのであ
る。
こうした相違は、その根底をなす人間論の相違につながる。ミルの自由論は、先験的な道徳的能力を
想定する道徳哲学論を排し、個性を形成するさまざまな「諸能力」(faculties)を自由に‘cultivate’する
ことを幸福の本質的要素とする人間主体観の上に成立する。中村が実践倫理の観点からこの議論を積極
的に評価していることは、『自由之理』の表紙に「人世の大道理」は「自由に其の才性を発展」させるこ
とにあると記していることに窺える。だがこの共感の背景で、彼は‘faculties’を「天賦の才能」「天良
是非ノ心」と訳し、原文にない「天賦」という語を付与している(例えばJ3:6表−裏)。すなわち『自
由之理』では、
‘faculties’を上帝・天から賦与された先験的な道徳的能力として読み替え、その「修
養」
(cultivate)を求めるのである。そして、このミルと中村のズレは、キリスト教道徳をめぐる議論で
一気に表面化する。以上の人間主体観に立脚するミルは、因習的な制度化したキリスト教道徳を、公共
的精神よりも私的な精神を鼓舞して人々の自由な精神の発露を抑圧する、本質的に消極的・受動的な教
ミル
義として批判する(13)。敬宇はたまらずこの箇所に「訳者曰く、彌氏政治学に長じ、上帝道に邃せず、此
一段の如き、余服ざる所也」
(J2:52表)と注釈をつけている。
以上のように、文明社会の一員として自己規律的精神をもちながら、自発的選択をせずに慣習に埋没
する人々への警告を主題としたOn Libertyでは、先験的道徳能力の存在が否定され、個性を支える諸能力
の発展は、個性と個性がぶつかる自由な社会それ自体のなかで初めて可能になると説かれた。それに対
し中村の『自由之理』では、ミルが主張したキリスト 教道徳批判や自由な社会状況が有する教育的側面
への洞察は抜け落ち、むしろ自由な社会を支える主体の形成をめぐって、一貫して上帝・天から具えら
れた「天良是非の心」に基づく「修養」の重要性が主張され、そのための宗教教育の必要性が唱えられ
ている。その意味で中村による挿入や解説、あるいは誤訳を伴う『自由之理』訳述は、単なる直訳的翻
訳作業を超え、「心」の実践倫理をめぐる一つの思想的格闘を表した作品として成立する。同じ「天即
理」批判を展開しながら、西周が「信」から区分された「知」の領域において経験主義的なミル論理学
を自らの内に積極的に取り込んだのに対し、上帝のもとでの内面的な規範に関心を払う中村の営為にお
いては、経験主義的・功利主義的視座から形成されたミルの人間観及び自由観との間に見逃すことので
きない相違が生み出されるのである(14)。
果たしてそれでは、中村敬宇はいかなる西洋思想世界のうちに、時代状況に対するアクチュアルな有
効性を見いだしたのだろうか。中村の読書を通じた西洋経験に目を配り、彼の格闘した西洋思想世界に
広く光をあてる時、興味深いのが、明治7−8(1874−75)年に『明六雑誌』に連載された、西洋思想の
歴史的叙述を試みた論稿「西學一斑」である。文中に典拠は挙げられていないものの、この論稿はThe
Encyclopaedia Britannica 8th ed(1853−60)第1巻第1論文、後期スコットランド 啓蒙思想の代表的哲学
者、ド ゥーガルド ・ステュアート(Dugald Stewart)よる“DISSERTATION FIRST Excibiting the progress
of Metaphysical, Ethical, and Political Philosophy, since the Revival of Letters in Europe”(「ヨーロッパ
の文芸復興以来の形而上学および倫理学の発展に関する一般的展望」
、以下「一般的展望」)を典拠とす
73
る(15)。初出は1816年のBritannica第5版で、第8版に再録された作品である。中村の蔵書には他にも、
リード やマッキント ッシュらスコット ランド 道徳哲学者やアメリカ道徳科学者の書籍が多数残されて
いる。そして先述の、『自由之理』で中村が「余近ごろ・・・読み」「自由之理ニ関係スル」と引用した
「ヂュガルド ・スチューアルトの論文」こそ、この「一般的展望」である。中村はこのテクスト を『自由
之理』訳述と平行して読んでいたのであり、『自由之理』の訳述への影響も考えられる。「西學一斑」
は、中村の西洋思想世界との格闘を探る大きな手がかりとなる作品と言えよう。
この「一般的展望」は、中世よりスコット ランド 啓蒙に至る、壮大な学問思想史としての性格を持
つ。ステュアート道徳哲学の特徴は、神の道徳的支配に基づく「自然神学」を背景に展開されるところ
にある。彼はニュートン物理学やイギリス経験論の成果を基盤に「根拠のない啓示的な神の意志をふり
(16)
を批判し、人間の知性は部分的で限界があるとしながら、しかし
かざす神学者の有害で不敬な教義」
リード らとともに‘Matter of Fact’の次元における直覚的真理に立脚し、ヒュームに代表される懐疑論
の克服を試みる。そして、人間の知性を越えた無限の存在として「神」を定立し、「この世界には神によ
る仁愛のデザインが存在し、いわば世界は神の道徳的支配(moral government of God)のもとにある」
という見解を導くことで、
「我々が神から与えられた道徳感覚」を養う実践倫理学を提示する(17)。中村
が訳述した箇所は、中世から、ステュアートが自らの学問の先駆とするベーコンに至る叙述だが、そこ
にはステュアートの中心的見解が十分に提示されている。
例えば、ステュアート が「実践倫理学」の萌芽としてメランヒト ンの言葉を引用する箇所を(18)、中村
は自らの言葉を加えて次のように記している。「上帝の生たまふ人々に良知の心あること恰も上帝その
手を以て命令を心中に鐫録するか如し、ゆへに聡明の學士ありて稟受する是非の心に本き教誡を設ける
こと即ち上帝の命令なり」
(M11:6裏−7表)
。ここには自然神学を背景としたステュアート の「実践倫
理学」と、儒教を介して上帝の道徳的支配に基づく「心」の実践倫理を展開した中村の議論との親縁性
が窺えよう。さらに中村は、ステュアート 道徳哲学に触発され、次のような長文の注釈を付けている
ベーコン
(M16:4表−裏)。そこでは西洋の学問を「形而上形而下の二項」に分類した上で、「倍根の理学」を中
心に「格物學ます々精微に至るにしたがひ至上造化主の効用ます々顕れ無形の真神即造化主天地萬物を
管轄するものの必ず有ることを信じ」るに至ると論じている。英国留学に際して「形而上」の学の探求
を孔子の徒としての自らの課題とした中村は、こうして神学的見解を基盤にした実践倫理学を中軸に、
統一的な世界認識へと到達する。ここでの中村のベーコン「理学」の解釈はまた、『自由之理』の扉につ
けられた言葉と連続していよう。
そして「西學一斑」は、以上の道徳哲学論から自由論へと至る。「徳の所在」が「シヴィックなものか
らシヴィルなものに」(19)移動したスコット ランド 啓蒙の一特徴を体現する形で、「神の慈悲深く体系的
なデザイン」に基づく社会の自然的・漸進的発展を説くステュアート は、政治的自由(political liberty)
の実現を目的化してきたマキァヴェリの政治理論を批判する一方、市民的自由(civil liberty)及び信教
自由(religious liberty)の確立を重視し、ベーコンに即して宗教教育を含めた道徳教育による徳性の涵養
を唱えている(20)。中村は「上帝を信し天道を畏れその心を虔誠にし善行に進ましむるの教育」と注釈
し、
「シヴィルリベルテイ」
「レリヂアスリベルテイ」をめぐって次のような解説を加えている。
「人民リ
ベルティを得て、人々その中心の好むに従ふことを得て、無益の管轄箝制を受ることなく各々その志を
伸ることを得て、ひとしく公同の益をはかり人心日に祥善に赴き右文左武の俗とはなりにけり」
(M12:
9表−裏)。中村がこうした洞察のもとに『自由之理』にステュアート の論文から信教自由論を引用した
とすれば、彼が『自由之理』「西學一斑」を通じて描き出そうとしたのは、市民的自由及び信教の自由が
社会的に確立されるなかで、人々が上帝への信仰を抱き、上帝より付与された「天良是非の心」を啓発
74
拡充するという、「敬天愛人」の徳性論に基づいた「リベルティ」であったと言えるだろう。
ミルにとってステュアート は一世代前の代表的思想家であり、ステュアート に代表される「神の道徳
的支配」と人々に具わる道徳的能力を前提とした18世紀直覚主義・常識哲学派の道徳哲学を批判し、自
己利益追求をいかにして公共精神へと高めるか模索した所に、ミルの自由論は成立する。西周が朱子学
的な「理」を批判する上で用いたのもまた、この経験主義の側からのア・プリオリ論批判であった。こ
の思想的交錯点において、しかし徳川期より一貫して「心」の実践倫理を追求してきた中村は、むしろ
同時代のミルの思想的世界から18世紀的道徳哲学を体現したステュアート の思想的世界へと遡及する
なかで、儒教と西洋思想とを通底する、「孔子の宗教」に基づく徳性論の核心を探り当てたのである。
(1)
本章の議論は部分的に、拙稿「明治エンライトンメントと中村敬宇―『自由之理』と「西學一斑」
の間―」
(一)
(二・完)
『東京都立大学法学会雑誌』第39巻、第1、2号、1998−99年に依拠する。
(2)
サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳『西国立志編』
、明治4(1871)年、静嘉堂文庫所蔵、第1冊
第1編序、5丁表。
(3)
イギリス留学が中村敬宇の思想形成に果たした思想史的意味を検討し、そこから『西国立志編』と
『自由之理』との思想的関係について解明した研究として、松沢弘陽「西洋経験と啓蒙思想の形成―
『西国立志編』と『自由之理』の世界―」『近代日本の形成と西洋経験』岩波書店、1993年がある。
(4)
中村敬宇の儒学思想についての先行研究としては、源了圓「幕末・維新期における中村敬宇の儒教
思想」
『季刊日本思想史』第26号、ぺりかん社、1986年、また儒学思想の検討を含めた中村についての
包括的研究として、荻原隆『中村敬宇研究―明治啓蒙思想と理想主義―』早稲田大学出版部、1990年
がある。
(5)
中村敬宇「留学奉願候存寄書付」、大久保利謙編『明治文学全集3 明治啓蒙思想集』筑摩書房、1967
年、279頁。
(6)
敬宇は後の明治17年、ウォルター・デニングの『生死論』の序を記した際に、
「嘗て基督教士の説を
聞く。曰く「信者救ひを得、不信者は罪に擬す。信者は永生を得、不信者は永苦を受く」と。嗚呼、
其の人の善悪を問はず、特に信不信を甄別して以て賞罰を為す。是れ豈に公平の道ならん耶」
(
「生死
論序」
(同上『明治啓蒙思想集』
、292頁)と述べている。
(7)
溝口雄三氏は、中国における「天」観念について、
「唐から宋にかけて天観に変化が生じた」と述
べ、それを具体的に「主宰者的な天から理法的な天への変化」と捉えている(
「中国の天」
(上)『文
学』第55号、1987年)。敬宇の「天即理」をめぐる議論は、いわばこの溝口氏の言う「天観の変化」を
逆転させ、さらに古代三代へと遡ることで、儒教における「天」観念から超越的「主宰」への<信
仰>の契機を救い出す試みであったと言えよう。なお他方で相良亨氏の指摘するように、近世日本に
は「天即理説を受容しない一つの土壌」があったという指摘(
「日本の天」
、同上『文学』)もある。例
えば徳川末期、横井小楠の儒学思想にも人格神的な「天帝」の理念を見出すことができるが(例えば
平石直昭「横井小楠」
、相良亨、松本三之介、源了圓編『江戸の思想家たち』
(下)、研究社出版、1979
年、参照)、小楠を含めた徳川期の儒者達による「天」観念と中村の宗教論との関係をめぐる詳しい検
討は、別の機会に譲りたい。その他「天」観念をめぐる研究として、平石直昭『一語の辞典 天』三
省堂、1996年、柳父章『
「ゴッド 」は神か上帝か』岩波書店、2001年など参照。
(8)
中村敬宇「加藤翁年譜序」
(BS15)。
(9)
中村敬宇「漢学不可廃論」
、前掲『明治啓蒙思想集』
、321頁。
(10)
ただしその後明治10年に出版された『改正自由之理』では、ベーコンのエピグラムや、本章註(13)
で触れる割注が抜け落ちている。また『自由之理』においても、刊本間で、序文の位置などに微妙な
相違がある。なおこの問題については、苅部直「
「不思議の世界」の公共哲学―横井小楠における「公
論」」
、佐々木毅他編『公共哲学10 21世紀公共哲学の地平』東京大学出版会、2002年、68−69頁に指摘
75
がある。
(11) ‘Though the feeling which breaks out in the repeated attempts to stop railway traveling on Sunday, in
the resistance to the opening of Museums, and the like, has not the cruelty of the old persecutors, the
state of mind indicated by it is fundamentally the same. It is a determination not to tolerate others in doing
what is permitted by their religion, because it is not permitted by the persecutor 's religion. It is a belief that
God not only abominates the act of the misbeliever, but will not hold us guiltness if we leave him unmolested '
(John Stuart Mill, On Liberty, London, p.54). 『自由之理』の表紙には「一千八百七十年倫敦出
版」と記されており
(On Libertyの初版は1859年)
、本稿ではOn Libertyの引用に際して、中村敬宇が底
本にしたと推定されるロンドン・ロングマン書店1870年版を利用した。
(12) J. S. Mill, Ibid ., p.65,
(13)
J. S. Mill, Ibid ., p.29.この点については、既に松沢弘陽、前掲書、267頁に指摘がある。なお、
ミルの「人間主体観」については、主に関口正司『自由と陶冶―J・S・ミルとマス・デモクラシー』みす
ず書房、1989年を参照した。
(14) 中村は論稿「杞憂ヲ誤ル勿レ」
(前掲『明治啓蒙思想集』
)のなかで、トクヴィルの『アメリカン・デ
モクラシー』の一部を訳述し(317‐8頁)
、
「米国に於ては教法の精神と自由の精神と一致してこの二者
並んで全国を支配せり」と論じている。ミルのOn Libertyがトクヴィルの同書における「多数者の専
制」批判に影響を受けながら、
「民主的体制のなかに自由が存在するためには、宗教が必要である」と
いう議論を受容しなかったことに鑑みれば、中村がOn Libertyを本稿で検討したように訳述しなが
ら、
『アメリカン・デモクラシー』の「教法の精神」と「自由の精神」の一致を論じている箇所を訳し
ていることは、思想史的に興味深い意味を持つ。
(15) ド ゥーガルド ・ステュアートの道徳哲学については、Donald Winch&John Burrow eds.,That Noble
Science of Politics, Cambridge , 1983 , K . Haakonssen ,Natural Law and Moral Philosophy, Cambridge,
1996,S.A.Grave,The Scottish Philosophy of Common Sense, Oxford,1960,A.Broadie ed.,The Cambridge
Companion to the Scottish Enlightenment, Cambridge, 2003, 篠原久「ド ゥーガルド ・ステュアートの道
徳哲学」、田中正司編『スコットランド 啓蒙思想研究』北樹出版、1988年など参照。なお、この「西學
一斑」が「
『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の一部を翻訳・翻案した」ものであることについて
は、荻原隆、前掲書、261頁で指摘されている。
(16) D. Stewart, DISSERTATION FIRST, in The Encyclopaedia Britannica 8th ed, Edinburgh, 1853‐60,
p. 20.
(17) D. Stewart, The Philosophy of the Active and Moral Power of ManⅡ, in The Collected Works of Dugald
Stewart vol Ⅶ , Reprint, Bristol, 1994, p.120, The Philosophy of the Active and Moral Power of Man。,
vol.Ⅵ , p.75‐76.
(18) D. Stewart, DISSERTATION FIRST, p.20.
(19) J. G. A. Pocock, Cambridge Paradigms and Scotch Philosophers, in Hont and M. Ignatieff eds.,Wealth
and Virtue: The Shaping of Political Economy in the Scottish Enlightenment, Cambridge, 1983,p. 240
(水田
洋他訳『富と徳』未来社、1990年、403頁)
。
(20) D. Stewart, DISSERTATION FIRST, p. 36.
76
Ⅳ おわりに
本稿では西周と中村敬宇の宗教論を取り上げ、彼らの宗教を主題とした議論が儒教と西洋思想との狭
間で有した思想的含意に光を当ててきた。西と中村の宗教論は、ともに信教自由論の視座から新政府の
推進する祭政一致論を批判するのみならず、同様に「天即理」批判を唱え、超越的「主宰」への信仰を
説いた点で、明治初期の思想状況において希有な一致を見せている。だが他面で、西の「天即理」批判
が、天から理を切り離すことを契機として朱子学的な理の観念を問い直し、その学問方法論である格物
致知論の解体を迫るものであったとすれば、中村敬宇の「天即理」批判は、天と理を切り離すことで朱
子学的な「敬」をめぐる心法を問い直し、「敬」という実践倫理を宗教的な次元へと昇華させる試みで
あった。その意味で両者は同一課題に取り組みながらも、そこから生み出される思考の射程は、むしろ
対極的な方向性を示している。
「知」の発展こそが「信」を深めると説く西の宗教論は、オランダ留学の成果を背景に、旧来の学問体
系を支える「亜細亜」の合理主義・朱子学の思弁性を批判し、経験主義的な実証主義の確立を試みる、
その哲学的営為と密接不可分なものであった。政治社会を「知」によって基礎付けたその政教分離論
も、この「知」と「信」をめぐる洞察に基づく。西は「世界の知」を「結構組織の知」と置き換えなが
ら、
「結構組織の知の発して而て学術となり、又発して国家の治術とな」(N1:457)ると指摘している
が、まさしくその宗教論は彼が明治初期に「哲学者」として切り開いた「知の世界」の延長線上に成立
したと言える。それに対して中村の思想的特質は、儒学思想を背景に「心」の問題を一貫して追求し、
キリスト 教への接近を通じて、むしろ西がそしてミルが批判を加えた生得的な徳性の啓発拡充をめぐる
実践倫理について探求を深め、スコットランド 啓蒙に体現される18世紀的道徳哲学へと辿るなかで「徳
の世界」を切り開いたところにある。
西が「徒らな信」が「知」の領域、そして何よりも政治の領域へと侵入することを一貫して批判する
なかで提示した、公正な法に基づく立憲政体論や実証主義哲学論の契機は、中村において欠落してい
る。だが、中村が提示した「敬天」という宗教的倫理を伴った道徳的陶冶に基づく「リベルティ」論
が、西の批判する「黔主を愚にする」儒教的政教一致論や「神教政治」論とは性格を異にするものであ
ることも見逃すことはできない。その意味で中村の唱えた<政治のモラル化>をめぐる議論は、確かに
一面で、明治10年代以降、近代国家形成に伴う「国民教化」がより積極的に希求されるなかで、後の国
民道徳論につながる動きのうちに取り込まれていく側面を持っていた。中村自身が晩年に教育勅語の原
案を執筆したことは象徴的であろう(1)。しかし他方で、市民的自由、信教の自由の確保とそれに基づく
道徳的主体の形成を唱え続けた彼の思想的営為は、山路愛山によって明治初年「精神的革命」の中心的
担い手と称され、次世代の愛山や徳富蘇峰、北村透谷らに多大な影響を与えていく(2)。彼らの中村に対
する高い評価は、中村が西洋思想との格闘のなかで形成した徳性論の文脈を抜きには語ることはできな
いであろう。
そして何よりも重要なのは、中村による教育勅語草案「徳育大意」(明治23年)が、「忠孝」の徳目を
掲げながらも、なお「天を畏るるの心は人々固有の性に生ず」として、政治社会を超えた天によって基
礎付けられた「敬天敬神の心」に基づく道徳的陶冶の必要性を強く説くものであったこと(3)、そして井
上毅の手によって次のような理由で廃案に追い込まれたことである。井上は中村案に対し「此勅語には
敬天尊神之語を避けざるべからず。何となれば此等の語は忽ち宗旨上の争論を引起すの種子となるべ
し」と述べ、さらに「道之本源」が「天」によって基礎付けられていることについて「近世哲学之多く
は擯斥する所たり。即ちダルウィン派の運命説、スペンサーの不可識説、オーグスト 、コント 派の物証
77
説は、天神之存在を信ぜず」と、
コント 実証主義の宗教批判を引き合いに出しながら批判を加えている(4)。
こうして中村案が斥けられるなか、
「忠孝」を機軸とする徳の根本を万世一系の天皇に求め、国家の正当
性を天皇の絶対的な権威のもとに置く、個別宗教の次元を越えた非宗教的領域における国家的義務とし
ての公的道徳を定めた教育勅語が成立する。
「天即理」批判を通じて「天」「上帝」への明確なる信仰の領域を確立することによってこそコント・
ミル流の経験主義的な実証主義に基づく新たなる「知」の成立が可能になると説き、「実理」を探究する
「知」に根ざした政治社会の在り方を模索した西周と、自由な社会を支える人民の精神の倫理的根拠を、
国家を超えた「天」「上帝」への信仰のうちに求めた中村敬宇。彼らが明治初年より宗教論を通じて提起
した思想的課題をめぐって、しかしその検討が政治社会レベルにおいていまだ十分な成熟をみせないま
ま、明治23(1900)年、むしろそれらを骨抜きにする形で成立した教育勅語を国民教育の柱とした明治
国家体制が確立する。ここにおいて、西洋近代との思想的取り組みを通じて近世以来の「天」観念をめ
ぐる思想的伝統をいかに再編し、新たなる国家構想のうちに積極的に位置付けていくかという試みは後
退し、近代日本における宗教的言説をめぐる位相は大きく変貌を遂げるのである。
(1)
教育勅語成立過程及び中村敬宇の教育勅語草案「徳育大意」についての研究としては、稲田正次
『教育勅語成立過程の研究』講談社、1971年、副田義也『教育勅語の社会史―ナショナリズムの創出と
挫折―』有信堂、1997年、梅渓昇『教育勅語成立史―天皇制国家観の成立(下)―』青史出版、2000
年などがある。なお教育勅語発布後、井上哲次郎が記した『教育勅語衍義』には、中村敬宇の名によ
る「勅語衍義序」が付され、さらに校閲者に名を連ねている。しかしこの点について井上哲次郎自身
『釈明教育勅語衍義』
(廣文堂、1925年)のなかで、「中村正直閲」について、
「是れはホンの名ばかり
で、実際は文書上なり解釈上なり、先生是れといふ意見があつたわけではない」と述べ、さらに中村
が書いたとされる「勅語衍義序」についても「多分代作であろう」と指摘している。
(2) 山路愛山「現代日本教会史論」『史論集』みすず書房、1958年、北村透谷「明治文学管見」
、勝本清
一郎校訂『北村透谷選集』岩波書店、1970年、徳富蘇峰「新日本之青年」
、植手通有編『明治文学全集
34 徳富蘇峰集』筑摩書房、1974年。
(3) 「中村正直草案」
、山住正己校注『日本近代思想大系6 教育の体系』岩波書店、1990年、373−4頁。
(4) 「山県有朋宛井上毅書簡」明治23年6月22日、25日、同上『日本近代思想大系6 教育の体系』
、376−
377頁。
※なお脱稿の後、本稿とは議論の位相及び問題関心を大きく異にするが、「教門論」における「智」の役割
に着目した論文、菅原光「「宗教」の再構成―西周における啓蒙の戦略―」が『日本思想史学』第35号、
2003年9月に掲載されている。
本稿は、平成15年度(2003年度)日本学術振興会科学研究費補助金・若手研究(B)に基づく研究の成
果である。
78
ソクラテスとアテネ帝国主義
― ソクラテスの活動の再検討 ―
米澤 茂 プラトンの対話篇に見られるソクラテスは(1)、民主主義国家アテネの繁栄の時代に、平和に暮らす
様々のアテネ人たち(また、時には、外国人たち)と共に、哲学的真理の探求に没頭していたかのよう
に見える。しかし、彼が語りかけたアテネ市民たちは、本当にそのように無害で平和な人々であったの
だろうか。従来の研究は、彼が生きた社会や、彼が活動の対象とした人々については余り注意を払って
こなかったように思われるが、当然の事ながら、彼の活動の意義は、彼の活動の対象のあり方を知るこ
とから、一層よく理解できると思われる。以下で明らかにするように、ソクラテスの活動の主たる対象
であるアテネの人々は、アテネの帝国主義を担った政治家たちや市民たちであり、彼らは偉大なアテネ
国家を築いたと言われているが、それは他の国々を従属国化し、時には残虐な手段を用いてまで、その
富を奪うことによってであった(2)。このような人々に対するソクラテスの活動は、彼らの物質至上主義
的生き方とそれを支える政治に対する批判であり、彼の哲学は批判のための道具であった。さらに、彼
自身は、彼をアテネ国家に遣わし、市民に対する活動を行わせているのは神であるという強い信念を抱
いていた。彼の活動は極めて真剣なものであったので、彼は彼の裁判や死刑に至るプロセスさえも市民
たちに対する批判の機会として用いている。ソクラテスは確かに哲学者であったが、彼はそれ以上に、
アテネ帝国主義の批判者であった。当論文の目的はこのことを明らかにすることである。
Ⅰ 『ソクラテスの弁明』におけるソクラテスの思想と活動
今日、多くの研究者の間で、史的ソクラテスの思想を知る上でもっとも依拠するに足る資料と考えら
れているのは、プラト ンの初期対話篇、とりわけ、『ソクラテスの弁明』(以下、『弁明』と略す)である
(3)
。それゆえ、ソクラテスの政治思想を考察するうえで、あらかじめ『弁明』で描かれているソクラテ
スの思想と活動を見ておきたい。ソクラテスが法廷で自伝風に語っているところによると、市民たちに
対する彼の活動を引き起こした原因は、デルフォイの神託である。ソクラテス以上の知者がいるかどう
かを尋ねたカイレフォンに、デルフォイの巫女は「より知恵ある者は誰一人いない」(21a6−7)と答え
た。少しも知者であるとは思っていなかったソクラテスは、長い間、
「神は何を意味しているのか」
(21
b3−4)と迷ったが、最後に、自分以上の知者を見つけることにより、神託を反駁しようとした(4)。彼
が訪ねた評判の高い政治家は、人々にも、そして、「とりわけ自分自身に」(21c7)知者であると思われ
ていた人物である。この政治家と話した結果、ソクラテスは、「立派で善きこと」
(kalon kagathon,21d
4)、つまり、「徳」(5)については、彼自身もこの政治家も、ともに知っていないことを発見した。しか
し、彼の観察によると、この政治家の方は、本当は知っていないのに知っていると思っていたのに対し
て、彼自身の方は、知っていないのでその通りに知っていないと思っていた。それゆえ、自己の無知を
自覚しているという点で、ソクラテスはこの政治家よりも自分自身の方が一層知恵があると判断するに
至った。そして、他の政治家たち、詩人たち、手職人たちのところでも同じ経験をしたので、あの神託
は「反駁しがたいもの」
(22a7−8)となったとソクラテスは語っている。
79
ソクラテスの解釈によると、あの神託は神からの人間たちへの伝言であり、それによると、人間の知
恵などというものは何の価値もなく、ソクラテスのように、自己の無知を悟った者こそ人間の中で「もっ
とも知恵がある者」
( sopho
^tatos, 23b2)である。このような認識に到達して以降、彼は神の伝言を人間た
ちに伝える活動を行った。つまり、知者と見える者を探し出し、その知恵の状態を調べ、本当は知って
いないのに、知っていると思っているなら、彼らの無知を暴き、無知を自覚させようとした(23b4−7)。
彼はこのような活動を、
「人間たちの吟味」(23c4, 33c3)として性格づけている。それは、「本当は
そうでないのに、知恵があると思っている者たち」(33c3, 23c6−7)を対象に、彼らが「何も知ってい
ないのに、知っているふりをしていることが暴かれる」
(23d8−9)ような活動である。この活動は別の
箇所では、馬とアブの比喩を用いても説明されている(30e−31b)
。ここで、アブとしてのソクラテスの
活動は、すぐに眠り込もうとする愚鈍な馬のような市民たちを突き刺し、
「目覚めさせようとする」
(30
e7)活動である。これは、市民たちに彼らの無知を自覚させようとするソクラテスの活動を、比喩的に
表現したものであろう。このような活動は、「生き方の吟味」(39c7)とも呼ばれ、人々が「正しく生き
ていないと非難する」(39d4−5)活動でもある。ブリックハウスとスミスが言うように(6)、ソクラテス
は、徳について問うことにより、人々の善き生についての考えや信念を吟味し、このことによって、彼
らの「生き方の吟味」を行っているのである。なぜなら、人々は徳についての信念に従って生きるから
である。
先に見たように、神託の意味を探求するためにソクラテスが真っ先に訪れたのは、政治家たちのとこ
ろであった。彼は、誰よりも政治家たちこそ「立派で善きこと」の知者であるはずだ、と考えたのであ
ろう。
「立派で善きこと」
の知とは徳の知であり、それをもてば、国と家を立派に運営し、また、市民と
して優れた生き方をすることのできる知である。政治家たちを吟味したソクラテスは、
「もっとも名声を
馳せている者たちこそ、思慮あるという点で…ほとんどもっとも多くを欠いていた」
(22a3−6)と述べ
ている。ソクラテス的無知の自覚をもった者が、人間の中で「もっとも知恵がある者」(23b2)とされて
いるので、ここでソクラテスの言う「思慮ある」という意味は、ソクラテスの勧める無知の自覚を意味
「立派で善きこと」についての無知
すると考えられる(7)。従って、政治家の評判が高ければ高いほど、
の自覚を欠き、自分こそは知者であるという自負心、知の偽装が強かったと言うことであろう。彼ら
は、
「もっとも名声を馳せている者たち」と述べられているので、この当時、つまり、アテネ帝国主義の
最盛期に活躍した政治家たちであることは確実であろう。
ソクラテスは「正しく生きていない」(39d4−5)として、アテネの人々を非難する活動を行ってきた
と述べている。では当時の市民たちはどういう生き方をしていたがゆえに、ソクラテスによって非難さ
れたのであろうか。彼は、魂がいかにすれば可能な限り最善となるかを熱心に配慮するよりも前に、身
体や財産を配慮してはならないと市民たちを説得してきたと述べている(30a8−b2)
。このような説得を
必要とする市民たちの関心は、魂の善さよりも、身体や財産などの物質的なものにあったということに
なろう。当時の人々が関心を もったものとし て彼が挙げているのは、金儲け( chre
^matismou )、経済
(oikonomias )
、
軍事
( strate
^gio
^n )、大衆演説(de
^me
^gorio
^n )、官職( archo
^n )、デーロス同盟の事柄( suno
^mosio
^n )、
党派争い( staseo
^n )である(36b7−9)。これらの多くは、帝国主義国家アテネの運営にかかわることであ
る。当時の市民たちは、魂がいかにすれば最善となるかではなく、このようなことに熱中していたので
ある。そして、このような事柄への関心が、人々を
「正しく生きていないこと」へと導いたと考えられる。
ソクラテスによると、神命による彼の活動以上に、
「大きな善きこと」
( meizon agathon, 30a6)が国家に
生じたことはなかったという。彼の活動は、しかし、公人としての活動ではなかった。彼は、もし善き
人にふさわしい仕方で公的政治( de
^mosia, 32e3)をなしていたなら、これほど長く生きることはできな
80
かったであろうと述べている
(32e2−4)
。従って、
「真剣にあなた方や他の大衆に反対し、多くの不正・
不法行為が国の中に生ずるのを防ごうとすれば」
(31e2−4)誰一人救われないのであり、本当に正義の
ために戦おうとする者は、
「私人として活動する」
( idio
^teuein, 32a2)べきであると述べている。その証拠
として、ソクラテスが公的政治に関わり、実際に命を落としそうになった二つの事件を挙げている。一
つは、アルギヌーサイの十将軍事件であり、他の一つは、レオン逮捕事件である。いずれにせよ、国の
中で不正、不法行為が生ずるのを防ぎ、正義のために戦い、それを実現しようとする行為が政治である
なら、ソクラテスは少なくとも、私的な仕方で政治に携わっていたことになろう。
Ⅱ アテネ帝国主義の批判者としてのソクラテス
1 『弁明』と『ゴルギアス』のソクラテス
『ゴルギアス』はプラト ンの初期作品に属するが、オルフィック・ピタゴラス教的宗教思想(493a−
e, 508a)や巻末の死後の審判など、中期的モチーフがすでに現れているので、中期に近い作品である
『ゴルギアス』のソクラテスは、徳についての自己の無知を繰り返し主張す
と考えられる(8)。確かに、
る『弁明』のソクラテスとはかなり違っている。『ゴルギアス』のソクラテスを史的ソクラテスの探求に
用いることについての警告は、ブリックハウスとスミスにも見られる(9)。
それにもかかわらず、少なくとも政治思想に関する限り、『ゴルギアス』のソクラテスの思想と『弁
明』のソクラテスの思想は、大枠において共通している。なぜなら、
『弁明』のソクラテスは、不正をな
すことは不正を受ける者よりも不正をなす本人を一層害し(30c6−8)
、不正に人を殺そうとすること
は、不正に殺されるよりも、不正をなす者自身にとって大きな悪である(30d1−5)と述べている。この
思想は、
『ゴルギアス』にもそのまま見られ、ソクラテスは、不正をなすことは不正をなす者自身にとっ
て最大の害悪であると語り(469b, 475e, 508e)、不正をなすよりは不正を受ける方を選ぶ(469c,
475e)と述べている。また、アテネの政治状況について、『弁明』のソクラテスは、アテネは不正・不法
行為で一杯である語っている(31e4)。同じ認識を『ゴルギアス』のソクラテスも示しており、彼による
とアテネは「腫れて、膿んでおり」
(518e4)、「病気の発作」(519a4)に苦しんでいるとされている。そ
して、彼はこのことの責任者として、アテネ帝国主義期の政治家たち、テミスト クレスやキモン、ペリ
クレスを名指しで非難している(519a5−7)
。さらに、これらの政治家たちが徳や政治の知を本当はもっ
ていないのに、もっていると思い、政治に携わったという非難も両対話篇で共通のものである。ソクラ
テスは、『弁明』で、評判の高い政治家たちが「立派で善きこと」について本当は知っていないのに知っ
ていると思いこんでいたと述べているが、
『ゴルギアス』においても、ペリクレスやキモン、ミルティア
デス、テミストクレスの名を挙げて、彼らが「立派で善きことは何も知らない」
(518c4−5)のに、知っ
ていると思い政治に携わり、
「節度や正義なしに」(519a1−2)アテネを港湾や船のド ック、城壁などで
一杯にして、結局はアテネを破滅に導いたと断罪している。さらにまた、ソクラテスは、
『弁明』(29d
7−e3, 30a8−b2, 36c5−d1, 41e4−5)の中で、身体や財産、名声など物質的なものより以上に、魂
がより善くなるよう配慮することを、人々に助言したと述べているが、『ゴルギアス』
(503a7−9, 504
d1−e5, 513e5−7, 515b8−c1)においても、真の政治家は国民の快ではなく、魂の善を目指して語り
行動すると述べて、魂の善を何よりも優位に置いている。
以上のように、『ゴルギアス』に見られるソクラテスの政治思想は、そのまま『弁明』の中にも見られ
81
るのであり、これらは『弁明』で描かれている史的ソクラテスの思想を、まっすぐに受け継いだ思想で
あると考えられる。従い、
『ゴルギアス』に見られるソクラテスの政治思想は、『弁明』と同様、基本的
には史的ソクラテスの思想と考えてよいと思われる(10)。
2 アテネ帝国主義のイデオロギー:「自然の正義」
『ゴルギアス』第二部に登場するポーロスによると、「優れた弁論家たち」
( hoi agathoi rhêtores, 466a
「専制君主のように誰でも望む者を殺し、財産を奪い、国から追放す
10)、つまり、政治家たちは(11)
る」
(466b11−c2)
ことができるので、
「もっとも力量ある」
( megiston dunantai, 466b4)
者たちである。ポー
ロスは専制君主に強いあこがれを抱いているが、現実には専制君主になることはできないので、代わっ
て、弁論術を修得すれば、専制君主のように何でも望むとおりのことができると考えている(12)。ポーロ
スは、
(1)不正を受けることは、不正をなすことより一層悪い、
(2)不正をなすことは、不正を受けるこ
とより一層醜い(474c4−8)と主張する。ソクラテスは、ポーロスの主張(2)からの帰結(475c7−9)が
(1)と矛盾することを示し、ポーロスを反駁する(474d3−475c9)。ポーロスはアルケラオスのごとき専
制君主を羨望しているので、主張(1)
はそのような立場に沿ったものである。だが、彼の主張(2)は、ソ
クラテスの第三番目の対話相手カリクレスが明らかにしているように(483a6, c6−8, 488e7−489a1)
、
世間の通念や法習(ノモス)に従ってなされている。結局、ポーロスがソクラテスに反駁されたのは、
専制君主の立場に立とうとしているにもかかわらず、なおも世間の通念を捨てきれず、それを引きずっ
ているポーロスの立場の不徹底性のためである。
ポーロスがソクラテスによって反駁されるや、第三番目の対話相手であるカリクレスが議論に介入す
る(481b6)。彼は当時のノモス(人為的約束事、法習)とピュシス(自然本来)の対立概念を利用し
て、次のように主張する。不正をなすことは不正を受けることより醜いとポーロスが述べたのは、ノモ
スに従ってのことである。彼はここから、不正をなすことは不正を受けることよりより悪いとソクラテ
スによって認めさせられたが、これはあくまでノモス上のことである。これに対して、不正を受けるこ
とは不正をなすことよりより悪い、というポーロスの主張はピュシスに従ってのものである。ソクラテ
スはそれを知りつつ、このノモスとピュシスの対立を悪用して、ポーロスを反駁したのである
(482e2−
483a4)。このように述べたうえで、カリクレスは、ピュシス上は、不正を受けることは、不正をなすこ
とよりより醜く、かつ、より悪いと主張する。そして彼は、徹底して強者の立場に立って、「自然の正
tes phuseo
to dikaion…to kata phusin, 488b2−3)論を展開する。
義」
( to ^
^s dikaion, 484b1; カリクレスによると、法(ノモス)を制定したのは弱い大衆である(483b4−6)。彼らはより強力な者
たちや、
「より多く取る」
( pleon echein, 483c2)能力ある者たちを恐れ、他人より多く取ることは醜く、不
正であると言い、等しいものを取りさえすれば満足する (483c)(13)。しかし、自然(ピュシス)それ自
身が、
「より優れた者」
( ton ameino
^, 481d1)がより劣った者よりより多くを取り、より能力ある者がより
能力無き者より多くを取ることが正しいことを明らかにしている。このことは、他の動物たちや人間た
ちのすべての国家間、民族間でもそうである。そこでは、正義とは、「より強い者」
( ton kreitto
^, 483d5)
がより弱い者を支配し、より多くを取ることである(483d)。我々はもっとも善く、もっとも強力な者た
ちを、ライオンをそうするように(483e5−6)
、若いときから調教し、「等しいものを取るべきであり、
立派で正しいことはこのことである」
(484a1−2)と言って、呪文にかけてしまう。だが、十分な素質を
もった者が生まれたら、このような呪縛を振り払い、我々の法文や策略、ピュシスに反するすべての法
を踏みにじり、我々の主人として姿を現すであろう。ここに、
「自然の正義」は輝き渡るとカリクレスは
82
主張する(484a2−b1)
。
ソクラテスはこの「自然の正義」の主張を以下のように要約し、カリクレス自身もソクラテスのこの
要約を肯定している(488b7)。
「それは、強者( ton kreitto
^ )が弱者の持ち物を力づくで奪い去り、優者( ton beltio
^ )が劣者を支配し、立
派な者( ton ameino
^ )がつまらない者より多く取るべきであるということなのだろうか。まさか正義がこ
れとは何か別のことだと君は言うのではないだろうね。」
(488b3−6)
ここで言う「強者」は、カリクレスが「優者」
、「立派な者」と主張する者たちと同一の者たちである。
tes poleo
カリクレスは少し後の箇所で、 この者たちを「国事にかけて知恵ある者たち」
( hoi an eis ta ^
^s
pragmata phronimoi ^
osin, 491b1)と同一視している。そして、このような者たちが国を支配し、より多く
所有するべきと主張する(491c7−d3)
。このような「自然の正義」に表れている、動物同士の関係、国
家内における市民同士の関係、そして、民族と民族、国家と国家の関係についての説明は、現実を正確
に描写していることを我々も認めなければならないと思われる。これはカリクレスの口を通じて語られ
るが、ソクラテスによる政治的現実の正確な描写 ― それをカリクレスのように肯定するか否かは別に
して ― であると考えられる(14)。
以上のカリクレスの「自然の正義」論で表現されている考えは、国と国との関係で、アテネがデーロ
ス同盟の諸国を自分の従属国にし、帝国主義国家アテネとなった時の、政治家や市民たちが暗黙のうち
に抱いていたイデオロギーであり、ソクラテスがそれに対して「自然の正義」という形で明確な表現を
与えたものである思われる。なぜなら、第一に、このようなカリクレスの考えは、カリクレスに特殊な
考えではなく、むしろ、アテネ市民たちの考えである。なぜなら、ソクラテスはカリクレスの考えを評
して、「他の人々が心の中で思っていても、口に出して言おうとはしないこと」(492d2−3)と述べてい
るからである。第二に、ポーロスは、
「誰でも望む者を殺し、財産を奪い、国から追放する」ことのでき
る専制君主のような者として、弁論家たちを挙げている
(466c)
。そして、そのような弁論家としてカリ
クレスが名指しで挙げているのはテミスト クレスやキモン、ミルティアデス、ペリクレスである(503c
1−2, cf. 515d1, 519a5−6)。彼らは、アテネ国家内では他の市民たちより、
「より強い」
、
「より優れ
た」
、「より立派な」
、「国事にかけて知恵ある」者たちであり、カリクレスの言う意味で「大きな力量あ
る者たち」であった。彼らはアテネの帝国主義期の代表的政治家たちであり、カリクレスから見れば、
誰よりも彼らこそ自然の正義の体現者である。第三に、このような政治家たちに率いられた帝国主義国
家アテネは、他の国々との関係で、望むとおりのことをなし、より多くを取り、他の持ち物を奪う国家
であった。アテネ国家は、他の国々との関係で、強者であり、また、後に見るように、自らをより知恵
ある国と自負していたのであり、自然の正義の体現者であった。
結局、カリクレスの口を通じて語られる「自然の正義」の考えは、帝国主義期のアテネの政治家たち
や市民たちが暗黙のうちに抱いていたイデオロギーであり、ソクラテスはカリクレスの口を通じてそれ
に明確な形を与え、批判の俎上に載せようとしていると考えられる。
3 アテネ帝国主義下の幸福観とその批判
ソクラテスは、『ゴルギアス』491d4−e1において、他者を支配する強者は、自分自身の快楽や欲望を
支配し、節度や克己心をもっているのか否かを問う。これに対してカリクレスは「自然に即した美と正
83
義」
( to kata phusin kalon kai dikaion, 491e7)を語る。それによれば、正しく生きようとする者は、自分自
身の欲求を最大となるように許し、抑制するべきではない。そして、可能な限り最大となったこれらの
欲求に、勇気と知恵によって奉仕し、欲求が生じるたびに欲求を十分に満足させるべきである。これは
大衆には不可能なので、彼らは強者を非難し、放埒は醜いと主張し、節度や(ノモス上の)正義を賞賛
する(491e−492b)。しかし、真実には、贅沢、無抑制、自由が強力な基盤をもつなら、これこそが徳で
あり、幸福である。他のもの(節度とか克己心)は飾りに過ぎず、人間たちのピュシスに反する約束事
であるとされる(492c)。
カリクレスが讃える強者の人生の目的は、欲望を最大にして、最大の快を得ることである。そのため
に、他者を支配し、また、他国を支配し、他のものを奪い、
「より多く取る」のである。彼らにあっては
「勇気」や「知恵」は、より大きな欲望を満足させて、より大きな快を得ることを実現する手段である。
贅沢、無抑制、わがままな自由こそが徳とされ、節度やノモス的な正義は、人間のピュシスに反する約
束事であるとされる。カリクレスはこの節の始めに、ソクラテスの質問に答えて、
「人が何であれ何かに
隷従していて、どうして幸福であり得ようか」(491e5−6)と述べて、彼の「自然に即した美と正義」を
述べている。しかし、彼が「人」
( anthro
^pos )という場合の主体は、結局、人間の欲望、あるいは、欲望的
部分を指し、最大となった欲望が充足された状態が幸福であると考えている。
以上のような考えは、ソクラテスによると、人々が「心の中では思っているが、口に出して言おうと
はしないこと」
(492d2−3)
である。自分の欲望を最大にして、最大の快を味わうことが幸福であるとい
う考えは、いつの時代においても、多くの人々が内心で抱いていた考えであろう。しかし、帝国主義国
家アテネでは、国内では市民の中の強者たちが、他の市民たちとの関係で、
「他より多く取る」、
「他のも
のを奪う」
ということを行っていただけでなく(15)、彼らに率いられたアテネ国家が他の従属国との関係
で、「他より多く取り」、「他のものを奪う」ことを行っていたのである。従って、国家全体として見れ
ば、帝国主義期のアテネは他のどの国に比しても、市民たちが欲望を最大にし、最大の快を味わい、カ
リクレス的な意味で幸福となることがもっとも可能な国家であった。
カリクレスはどういう仕方であれ、快楽を感じさえすれば幸福であると考えている(494e10−495a
1)。これに対して、ソクラテスは何も必要としない者こそ幸福である、というオルフィック・ピタゴラ
ス教的生の理想を対置させた後(492e−494b)(16)、カリクレスの考えの基底にある思想を取り出すため
に、カリクレスに、
「快楽と善は同じものなのか、それとも、快いもののなかには、善でないものもある
のか」
(495a2−4)と問う。これに応えて、カリクレスは495c−dにおいて、快は善と同一であるという
立場を主張する。結局、カリクレスが代弁している帝国主義期のアテネの社会と人々の幸福観の根底に
は、無自覚ながら、快=善という快楽主義の思想が強固に根付いているのである。
ソクラテスはカリクレス的快=善の立場を495e−499bにおいて反駁している。第一の議論(495e−497
d)によると、幸福や不幸、善悪は両方を一人の人が同時に得たり失ったりすることはできないが、快苦
は同時に得たり失ったりすることができるので、善悪と快苦は同一のものではないとされる。第二の議
論(497d−499b)において、善人が善く、悪人が悪いのは、彼らに善と悪が現在するからであることが
まず同意される。そして、カリクレスによると、善=快、悪=苦であり、また、知恵ある者、勇気ある
者、善き者は同一の者であり、知恵のない者、臆病者、悪しき者は同一の者である。ところで、敵が退
却する時、勇気ある者も臆病者も同様に、あるいは、臆病者が一層快を感じる。従って、敵が退却する
時、善人も悪人も快を感じるので、善人に劣らず悪人にも快(=善)が現在するので、悪人は善人であ
り、また、悪人が一層快を感じるので、悪人に一層快(=善)が現在し、悪人は善人より一層善人であ
るということになる。このようなことは不合理なので、善悪と快苦は同一ではないとされる。これらの
84
議論の妥当性には当然様々の議論があり(17)、それへの論評は差し控えるが、ソクラテスはアテネ帝国主
義のイデオロギーを「自然の正義」として記述し、その根底に快楽主義的立場がひそんでいることを明
るみに出したうえで、以上のような議論によって批判している。
4 弁論政治家たちに対するソクラテスの批判
ソクラテスに反論されて、カリクレスは突如として快=善の快楽主義の立場を、
「戯れで語った」
(499
b5)として放棄し、快には善きものと悪しきものがあると主張する。ここからソクラテスは真の政治家
とは何であるかに答えようとする。彼によると、善き快楽とは有益な快楽であり、悪しき快楽とは有害
な快楽である。例えば、飲食の快で言えば、身体に健康、強さ、他の徳を作るのが善き快楽であり、こ
れらと逆のものを作るのが、悪しき快楽である。そして、このことは苦痛についても同様である(499d
1−e2)。従って、彼は、
「快楽も苦痛も有益なものを選び、なすべきであり、有害なものはそうすべきで
ない」(499e3−5)と主張する。そして、この立場は、結局、
「善がすべての行為の究極目的であり、善
のために他のすべてのことを為すべきである」
(499e8−9)
と言い換えられる。しかし、彼によると、快
いことのうちでどれが善く、どれが悪しきものであるかを判断することは、誰にでもできることではな
く、
「技術をもつ者」
( technikos )
を必要とする
(500a4−6)。そして、真の政治家とはまさにそのような技
術をもつ者であり、結局のところ、
「市民たちの魂が可能な限り善くなるよう計り、聴衆にとって快いこ
とであれ、不快なことであれ、もっとも善きことを語り、戦い通す」
(503a7−9)
ような者であるとされ
る。
カリクレスはそのような真の政治家の候補として、ペリクレスやテミスト クレス、キモン、ミルティ
アデスを挙げる(503c1−3)。しかし、ソクラテスは彼らについてまったく異なった見方を示している。
ソクラテスによると、粗暴で無教育な支配者が支配している国において、不正を受けないためには、若
い頃からその支配者と「同じ性格の者」
( homoe
^the
^s, 510c8)となり、その支配者に支配され、服従すること
を望むような人間となることである(510c)
。ここで言われている「粗暴な支配者」とは、明らかに「ア
テネ民衆」
( to
^i athe
^naio
^n de
^mo
^i, 513b5, cf. 502d10)を指す。そして、このような粗暴な支配者を「まね
るこの者は、望むなら、あの模倣しない者を殺したり、財産を奪うことができる」
(511a5−7)とされて
いることから、このような支配者を「まねる者」
( ho mimoumenos )とは、弁論家たち、つまり、アテネ帝
国主義期の政治家たちを指すのは明らかである。従って、政治家たち自身は真の権力者ではなく、粗暴
な支配者であるアテネ民衆からの権力のお裾分けに与っているにすぎない。彼らは結局のところ、公共
のことは無視し、「自分たち自身の私的利益のために」(502e6−7)活動する者たちである。また、もし
彼らが真の政治家たちであったなら、彼らの世話により、国民はより劣悪な状態からより優れた状態に
なったはずであるが、彼らは、彼らの活動の後期に、彼らによってより善くなったはずの市民たちから
告発されたり、国外追放にされている。ソクラテスによると、もし動物の飼育者が、最初穏やかだった
のを凶暴にしたなら、彼は悪しき飼育者である(516a)
。このようにして、ペリクレスたちは優れた政治
家ではなかったと結論されている(516e−517a)。
( diakonous…poleo
ソクラテスによると、彼らは「国家の召使い」
^s, 517b2−3)であり、国家が欲求するも
のを供給するのに巧みな者たちであった(517b4−5)。彼らは「軍船や城壁、造船所」(517c2)、あるい
は、
「デーロス同盟税」
( phoro
( phluario
^n, 519a3)などの「たわけたもの」
^n, 519a3)で国家を一杯にした者た
ちである。人々は彼らを「大きな国家を作った」(518e3−4)と讃えるが、彼らのせいで現在国家は、
「腫れて、膿んでいる」
(518e4)とソクラテスは非難する。ここには明らかに、帝国主義期のアテネの軍
85
事的拡張主義と、それを担った政治家たちへの批判が見られる(18)。帝国主義アテネは、国家と国家の関
係で、他の従属国を支配する強者であり、より弱い国々のものを奪い、より多くを取り、物質的欲望を
最大限に満たし、カリクレス的「幸福」を実現することのできる国家であった。しかし、ソクラテスに
leistou bion, 507e3)を送っていたとされる(19)。あの弁
よると、アテネ国家もその市民たちも「盗賊の生」
(^
論政治家たちは、そのような国家と市民たちの欲望に仕える有能な奉仕者たちであった(20)。
5 真の政治家としてのソクラテス
『弁明』によると、ソクラテスは市民たちに対して、彼らが「財産や評判、そして、名声が可能な限り
多くあることは心がけるのに、思慮や真理、そして、魂が可能な限り最善であることを心がけも、考え
もしないで恥ずかしく思わないのか」
(29d8−e3)と非難してきた。従って、ソクラテスは市民たちが
「正しく生きていないと非難し」
(39d4−5)、市民たちの魂の最善をめざして語りかける者であった。市
民たちに対するソクラテスの活動の時期は、アテネ帝国主義の絶頂期に向かう時期から、ペリクレスの
死と共に衰退への芽を宿しつつ、なおも絶頂期の余韻を引きずりながら、ペロポネソス戦争というスパ
ルタとの覇権争いの時期を経て、衰退が決定的となった時期である。市民たちに対する彼の活動は、こ
のような時代のアテネの民衆、政治家たち、政治、社会に対する批判、非難であった。
さて、
『ゴルギアス』において、帝国主義期の政治家たちは、市民たちの快をめざし欲望を満たすこと
に長けた召使いとされていた。彼らは、ちょうど身体の世話において、身体の最善を目指す医者や体育
家に対する、身体の快を目指す料理人たちに対応する者たちである。魂の世話をする「立派で善き市民
であった人たち」
( anthro
^poi kaloi kagathoi…politai, 518a7−b1)、つまり、真の政治家は誰であるかという
ソクラテスの問に対し、カリクレスはペリクレスやテミストクレス、キモン、ミルティアデスを挙げて
いるが、ソクラテスによると、この答えは身体の場合の料理人を答えるようなもの(518b)である。む
しろ、真の政治家たちは、アテネ人たちが「可能な限り最善の者となるために彼らと戦い通す」(521a
3−4)ような者である。あるいは、市民たちの魂に「正義が生じ、不正が取り除かれ、節度が生じ、放
埒が取り除かれるよう」注意をはらい(504d9−e3)
、市民たちが「可能な限りもっとも善くなるよう」
(513e5−7, 515c1)心がける者たちである。
このような活動は、
『弁明』で述べられていたように、アテネ市民たちに対して現実のソクラテスが私
的に行っていたことと一致する。しかし、
『弁明』
のソクラテスは、自分を真の政治家であるとまでは述
べていない。これに対して、
『ゴルギアス』のソクラテスは、帝国主義期の弁論政治家たちを国民の快楽
に仕える召使いとして批判した後、
「真の政治的技術に着手しているのは、私一人であると言わないにせ
よ、私もそのような少数のアテネ人の一人なのであり、現代の人のうちでは私のみが(真の)政治を
行っている」(521d6−8)と述べている。この言葉は、徳の知(これは政治の知でもある)を欠いている
と繰り返し告白していた、
『弁明』のソクラテスには強すぎる言葉であるように思われる。これらの言葉
は、私見によれば、ソクラテスに対する弟子のプラトンによる評言であると思われる。しかし、言葉の
強弱は別として、ソクラテスが実際に、帝国主義期のアテネ社会とその政治家や人々に対して、鋭い批
判を行ったことには変わりはない。彼は、欲望を最大限に大きくさせて充足し、最大の快を味わう生き
方、そして、それを実現するために強者の立場に立ち、他のものを奪い、弱肉強食の自然の正義を内心
で信奉する当時のアテネの社会と人々を批判した。そして、魂が可能な限り最善となるよう心がけるこ
とを人々に勧め、正義や節度が人々の魂に生じるよう働きかけた。その意味で、プラトンは彼こそ真の
政治家 ― 私的にではあるが ― であったと考えたのであろう。
86
Ⅲ トゥキュディデスによる証言
ソクラテスによるアテネ帝国主義の批判に関連して、次に、ト ゥキュディデスの『歴史』の中から、
ペリクレスの演説とメロス島対話を見ておきたい。前者においては、アテネ帝国主義期の代表的な政治
家であるペリクレスの思想が直接に見られ、後者においてはメロス島住民に対して残虐行為を行ったア
テネ人たちがどのような思想をもっていたかが歴史家の目を通して再構成されている。これらの箇所に
おいても、ソクラテスが批判したアテネ帝国主義のイデオロギーが現れているなら、ソクラテスのアテ
ネ帝国主義の分析と批判は、哲学者による一方的な歪曲ではなかったことになる(21)。
1 ペリクレスの演説
(1)
「自然の正義」
ペリクレスの追悼演説によると、彼の父たちの世代は苦労して領土を拡張したが、彼の世代はさら
に、
「受け継いだ支配圏よりも多くのものを増加させた」
(2.36)のであり、父子二世代に渡る領土拡張
主義により、アテネは「大国となった」(2.36)のである。そして、彼はアテネの繁栄を誇って、「この
国の大きさのゆえに、あらゆる土地からあらゆるものが輸入される。そして、他国の人々の産物も、自
国の産物とまったく同様に自分のもののごとくに享受できる」(2.38)と述べ、「我々はギリシア人とし
てもっとも多くのギリシア人を支配した。…そして、すべての者たちにとってもっとも豊かな都市に住
んだ」(2.64)と語る。しかし、このような豊かな物質的享受は、強国アテネの他国に対する従属国化、
植民地支配、収奪、あるいはデーロス同盟税などによってまかなわれていたのである。以上のペリクレ
スの誇らしげな言葉は、
『ゴルギアス』の「自然の正義」で言われていたことの美しい言い換えである。
疫病の発生により弱気になったアテネ人たちに対して、ペリクレスは民会を召集し、目下の情勢を恐
れて消極主義により
( apragmosune
^i )善人ぶるとしても、もはやこの支配から身を引くことは不可能であ
(22)
としてもっているの
ると述べる(2 .63)
。なぜなら、アテネ人はそれを「専制君主の地位」
( turannida )
で、それを得ることが不正
( adikon )であると思われても、それを手放すことは危険であり(2.63)
、そし
て、そのような地位から降りるのは「善人ぶること」
( andragathizetai )
であるからである。むろん、これら
の言葉は『ゴルギアス』の自然の正義と矛盾するわけではない。なぜなら、そのような地位に就くこと
は、カリクレス的な自然の正義の観点からは正しいことであるが、ノモス的立場からは不正である(483c
3−5)からである。従って、このような地位から自ら降りることは「善人ぶること」であるばかりか、「危
険である」
(2.63)
。
なぜなら、
このような地位にあるアテネは、
収奪された国々から
「憎まれ」
( ape
^chthesthe,
2.63)、「妬まれている」
( to epiphthonon lambanei, 2.64)
からである。このことは、
『ゴルギアス』におい
て、物質的欲望を満足させることのできない弱者は、それができる強者を妬むと言われていたことを想
起させる。だが、ペリクレスは疫病により弱気になった市民たちに語りかけて、
「他の者たちを支配する
のが当然と考える限りのすべての者たちは、当座は憎まれ嫌われる。しかし、最大の目的のために妬ま
れる者は、正しく熟慮しているのである」
(2.64)と述べている。ペリクレスは、
『ゴルギアス』のカリク
レスと同様、
弱肉強食の自然の正義を肯定し、
その状態を持続するよう市民たちを励ましているのである。
(2)
第一人者意識
ト ゥキュディデスによると、アテネでは言葉のうえでは民主主義が行われていたとされるが、現実に
はペリクレスによる「第一人者による支配」
( hupo tou prôtou andros archê, 2.65)が行われていた。ト ゥ
87
キュディデスは彼を、「見識において卓越していると思われ、評判において第一番の者」(2.34)と述べ
ている。ペロポネソス戦争の開戦まもなく疫病が発生し、ペリクレスは人々の非難にさらされる。その
時、ペリクレスは自己を弁護する中で、自分について「必要なことを認識し、それを解釈するのに誰に
も劣らぬ」
(2.60)と自負している。つまり、彼は他の人々にも、「見識において卓越していると思われ
た」者であるが、彼自身の自己評価もそのようなものであった。『弁明』でソクラテスが調べた「評判の
高い」
( eudokimountes, 22a3)政治家たちも、人々に(そして、とりわけ自分自身に)
「知者であると思われ
る」(21b9)政治家たちであった。当然、この者たちの筆頭にペリクレスを考えるべきであろう。
さて、ペリクレスの評価によると、彼の率いる民主主義国家アテネは、他国の「模範」
( paradeigma,
2.37)である。このようなアテネの第一人者意識は、ペリクレスたちよりも一世代前に、二次にわたる
ペルシア戦争で、アテネの決定的な貢献によりギリシア側がペルシア戦争に勝利したことから生じた。
teras
この戦争において、ヘロドト スの評言によると、アテネ人は、「ギリシアの救い主となった」
( so
^^
genesthai ^
tes hellados 『歴史』 7,139)とされる。さらに、その後、デーロス同盟の盟主として君臨し、同
盟国を従属国化することによって、アテネの第一人者意識はますます高まった。
ten dunamin paraschomenoi, 2.41)、その結果、
ペリクレスはアテネ帝国が強大な
「権力をもち」
(^
「現在
のみならず、未来の人々をも驚嘆させるであろう」
(2.41)と述べている。さらに、彼は過去をも振り返
り、現在のアテネ人たちは、「賞賛者ホメロスなど必要ない」(2.41)と述べている。なぜなら、ト ロイ
アの英雄たちをホメロスが華々しく讃えているが、現実には、彼らは小アジアのトロイアという一都市
を攻略したに過ぎないのである。それに較べて、現代のアテネ人たちは、ギリシア世界の東半分を勢力
圏とする大アテネ帝国を打ち立てたのである。従って、ペリクレスは、現実のアテネの人々が伝説上の
トロイア戦争の英雄たちをはるかに凌駕しているのであり、詩人によって英雄とされている彼らより
も、自分たちこそ真の英雄であると自讃しているのである(23)。要するに、彼は過去・現在・未来にわた
りアテネ帝国とアテネ人たち以上の者はいなかったし、いないし、今後もいないであろうと誇っている
のである。
アテネ人たちは、自分たちを他よりも知力においても優れていると信じ、他の人々を見下げていた。
なぜなら、ペリクレス自身が語っているところによると、
「他を見下げる心」
( kataphrone
^sis, 2.62)は、敵
対者よりも「知において優れていると信じる」
( gno
^me
^i pisteue
^i…periechein, 2.62)者がもつのであり、そ
れをアテネ人は「もっている」(2.62)とされる。これらの言葉は、政治知をもった者こそ強者であり、
他を支配するべきという『ゴルギアス』の「自然の正義」の言葉と対応している。そして、『弁明』のソ
クラテスがその活動の対象とし、その無知を暴いたのは、このような人々であった。
2 メロス島対話
ペロポネソス戦争中の前416年、アテネがメロス島住民に服従を迫ったが、彼らはそれを拒んだ。アテ
ネ側は攻撃し、メロス側は自発的に降伏を申し入れたが、アテネ人たちはメロスの成年男子全員を虐殺
し、婦女子を奴隷にした。アテネ側がこのような行為に及んだ論理が、服従を迫るアテネ側の使節とメ
ロス島住民代表との対話の形で、トゥキュディデスによって再構成されている。そして、ここには明ら
かに、
『ゴルギアス』で見られたのと同様の強者の論理、「自然の正義」の主張が見られるのである(24)。
(1) 「自然の正義」
アテネ人たちは自分たちをメロス人に比して「はるかに強い者」
( tous kreissonas pollo
^i, 5 .101)と自称
88
し、メロス人に対して「最大の国に服従すること」
(5 .111)
は不適切ではない( ouk aprepes )と説得する。
ここには、明らかに、アテネ人たちの強者意識が見られ、強者が弱者を支配することが適切なことであ
るとする考えが見られる。メロス人の主張では、アテネ人は「正義」(5 .90)を度外視し て、
「益」
( to ksumpheron )を判断の基準にしている。むろん、この場合、
「益」は物質的利益を意味する。メロス人
に服従を迫るアテネ側の強者の論理によると、アテネがメロスを「労苦なく( apono
(5.
^s )支配すること」
91)が、強者のアテネ、弱者のメロスの両方にとって益となる。なぜなら、アテネ側は戦うことなく支
配し、
「収奪できる」
( kerdainoimen, 5.92)が、メロス側は戦わないことで残虐な目に会わずに済むからで
ある(25)。
メロス人たちは、
「不正な者たち」
( ou dikaious, 5.104)に対抗しているので、自分たちに神の計らいが
あると主張する。これに対してアテネ側は自分たちにも「神の好意」(5.104)があると主張する。なぜ
なら、アテネ人たちの言うところでは、
「我々は神界( to theion )については推測により、人間界について
は明確にこう考えている。すなわち、必然的な自然
( phuseo
^s anankaias )により、力をもつ者が常に支配
する」
(5.105)。ここで、
「力をもつ者が支配する」
( hou an krate
^i,archein )ことが「自然」であり、必然であ
る と 語 ら れ て い る。こ こ の「必 然 的 な 自 然」は、
『ゴ ル ギ ア ス』に お け る、「自 然 の 正 義」
『ゴルギアス』では、このことは他の動物たちと
( to ^
tes phuseos dikaion, 481b1)を想起させる(26)。しかも、
人間世界のことであった
(483d3)のに対して、ここでは、
「神の世界」
( to theion, 5.105)
もこのような論理
で貫かれているとされている。さらに、アテネ人たちは、このような弱肉強食の「掟」
( ton nomon, 5.105)
(27)
は、すでにあるものを彼らが採用したにすぎず、また、「将来もつねにあるであろうもの」(5.105)
であり、「我々と同じ権力の座につくなら」
( en te
^i aute
^i dunamei he
^min, 5.105)誰でも同じことをすると主
張する。このように、アテネ人たちは弱肉強食の「自然の正義」が過去・現在・未来を貫き、人間界の
みならず神界にも妥当する普遍的な法則であると主張している。
Ⅳ 神とアテネ帝国主義
1 神の憂慮
ソクラテスが『弁明』の中で繰り返し述べているところでは、アテネの人々に対する彼の活動は、神
の命令による( tou de theou tattontos, 28e4,30a5)。そして、彼は自己自身を「あなた方への神からの贈り
物」
(30c7−e1)と述べている。神がソクラテスをアテネの人々に贈ったのは、神が彼らを「憂慮して」
( ke
^domenos, 31a7)である。では、神は人々のどんな状態を憂慮してソクラテスを遣わしたのか。ソクラ
テスがデルフォイの神託を得て、彼の使命に目覚めていく過程を振り返ってみよう。ソクラテスがデル
フォイの神託の意味を探求するために訪れた人々は、
「立派で善きこと」について本当は知っていないの
に、知っていると思っていた。このような、本当は知者でないのに知者であると思い込んでいる状態
は、明らかにデルフォイの格言「汝自身を知れ」に違反している。それゆえに、デルフォイの神はソク
ラテスを遣わして、人間の知恵などというものはほとんど何の価値もないのであり、人間の中では知恵
にかけて何の価値もないことを認識した者が、「もっとも知恵がある」(23b2)という伝言を人間たちに
与えたのである。知者であると思われる者を探しては、彼らの無知を暴くソクラテスの活動について、
彼は「私は神の手助けをして、(知者と思われる者が)知者ではないことを示すのです」
(23b7)と述べ
ている。このことが意味するのは、彼の活動はあくまで神への手助けとしてなされているのであり、こ
89
のような活動の主体は神自身であるということである。先に見た、馬とアブの比喩で言えば、馬を刺す
べくアブを送り込んだのは神であり、神こそこのような活動の主体なのである。
アテネ帝国主義期の市民たちや政治家たちが、
「知っていないのに知っていると思っている」状態にあ
るという指摘は、『弁明』以外にも、他の初期対話篇に繰り返し現れる。例えば、『ゴルギアス』におい
て、ソクラテスはペロポネソス戦争末期のアテネの惨憺たる政治状況の「諸悪の責任者」(519a6−7)と
して、アテネ帝国主義期の大政治家たち、テミスト クレス、キモン、ペリクレスなどを挙げている。彼
らがこのような事態を引き起こしたのは、結局、彼らが「立派で善きことを何も知らない」(518c4−5)
のに、知っていると思い込み、政治に携わったからである(28)。しかし、知っていないのに知っていると
思いこんでいる精神状態は、当時のアテネ人に共通のものであった(29)。『プロタゴラス』の中で、ソ
フィスト のプロタゴラスが主張するところでは、アテネ人すべてが「政治術」を心得ており、
「正義と他
の政治的徳」(323a6−7)を与りもっているのであり、従って、アテネ人は「市民全員が徳に与っている
と考えている」(323c4)ので、市民全員に政治に関与することを許しているとされる(30)。この考えは、
プロタゴラスの口を通じて語られているが、
「アテネ人たち」
(328c4)の思想として語られている。むろ
ん、ソクラテスの思想は、
『弁明』から明らかなように、このようなアテネ人たちの思想と正反対のもの
であった。しかし、現実には、ソクラテスが吟味したかぎりのすべてのアテネ人たちは、本当は知って
いないのに、知っていると思っている状態にあったのである(31)。
次に、
「立派で善きこと」
について、知っていないのに知っていると思っているということは、より具
体的にはいかなることなのか、また、いかなる結果をもたらすのかを考察したい。ソクラテスが人々に
説得してきたのは、魂がいかにすれば可能な限り最善となるかを配慮する以前に、身体や財産を配慮し
てはならないということであった(
『弁明』30a8−b2)。このことが意味するのは、アテネの人々は魂の
善さよりも、身体や富などの物質的な価値を追求していたということである。さらにまた、先に見た
『ゴルギアス』やト ゥキュディデスの『歴史』から窺えるように、アテネの人々が他の国々を服従させた
のは、何よりも自らの欲望を満たすためであり、魂の善さよりも物質的なものを優先させた結果であ
る。ソクラテスが『弁明』の中で述べているように、彼がアテネの人々を「正しく生きていない」と非
難(39d4−5)したのは、そのゆえである。あるいは、
『ゴルギアス』で、ソクラテスがアテネの人々を
「盗賊の生」
(507e3)
を生きていると非難しているのは、従属国や他の国々から彼らの産物や戦利品を奪
い、あるいは、同盟税を取り、物質的繁栄を築いたことを指しているのであろう。
「立派で善きこと」に
ついて、知っていないのに知っていると思う状態こそ、魂の善さについては配慮せず、何よりも身体や
富などの物質的価値を追求するという結果を生じさせたのである。
神はソクラテスに哲学することを命じた。ここから、ソクラテスの活動の最終目的は哲学であったと
人は考えるかもしれない。しかし、神は人々を「憂慮して」ソクラテスを人間たちへの贈り物として遣
わしたとされている。そして、ソクラテスは彼に独特の哲学の方法であるエレンコスにより、アテネの
人々の知の状態を吟味し、彼らの無知を暴き、彼らの生き方を批判した。ここから、ソクラテスの活動
の最終目的は、哲学することそれ自体にあるのではなく、むしろ、そのことを通じてアテネの人々を批
判し、物質的な価値から魂の善さ(徳)へ向け、生の目的の転換を促すことであったと考えられる。
2 神の怒り
ソクラテスに神託を与えたデルフォイの神は、周知のごとくアポロン神であり、彼は光明の神、医
術、詩歌、音楽、予言の神である。この神はまた、人間の不正を懲らしめるために疫病をもたらす神で
90
ある(ホメロス『イリアス』
、ソフォクレス『オイディプス王』参照)。次に、疫病をもたらす神という
観点から、ペリクレスとアテネ帝国主義が絶頂を極めていたまさにその時(前430年)に、アテネを襲っ
た疫病について考察したい。
前480年、ペルシアの二度目の侵攻に際して、デルフォイの神託は、アテネがペルシアに滅ぼされるの
で、すぐに逃げるように勧告している(32)。恐らくは、テミスト クレスの裏工作により与えられた第二の
( teichos xulinon, ヘロドト ス『歴史』7,141)に依拠すれば救われると言う。
神託は(33)、アテネが「木の砦」
テミスト クレスの神託解釈に従い、アテネ人たちはアテネを捨て、
「木の砦」つまり、彼が長期間かけて
整備した三段櫂船に依拠し、サラミス沖でペルシア側と戦うことになる。ここに顕著なのは、テミスト
クレスの神的なものへの軽視と、自己の知への信頼である。
同様の態度は、アテネ帝国主義の最盛期の政治家ペリクレスにも見ることができる。彼はかなり早い
時期からスパルタとの全面対決が不可避であると予見していたので(34)、アテネの海軍力を増強し、制海
権を握ると共に、アテネ市と外港ピレウスを結ぶ長い城壁を完成させ、アテネとピレウスを要塞化し
た。前432年にペロポネソス戦争が始まると、彼は田園の住民を城壁内に避難させ、籠城作戦をとった。
しかし、その間に、ピレウスを使って食料を海外から輸入し、海軍を使いペロポネソス同盟の拠点都市
を攻撃した。長期的視点に立てばペリクレスのこの作戦は必ず成功すると思われたので、前431年の冬に
行われた彼の追悼演説では、彼もアテネ人たちも、この作戦の破綻など考えもしないで、アテネ帝国の
偉大さと繁栄を誇っている。しかし、その直後にペリクレスの戦略は予想を越えた事態に直面する。
ト ゥキュディデス『歴史』(2.48)によると、エチオピアに発生した疫病は、エジプトからリュビア、
ペルシアに移り、ギリシアではピレウスに最初に発生し、またたくまにアテネで猛威を振るった(35)。し
かし、この疫病はペロポネソス同盟の諸国には被害を及ぼさず、被害はアテネに集中した。その大きな
原因は明らかにペリクレスの戦略にあった。なぜなら、アテネ側は制海権を握っており、外港ピレウス
を使い、活発に小アジアと交流していた。従って、ピレウスの人々が真っ先に感染してしまった。逆
に、ペロポネソス同盟側はアテネ海軍に海上の動きを封じられ、感染地域との接触をもてなくなってい
たので、疫病の被害を受けずに済んだ。さらに、アテネで疫病が蔓延したのは、ペリクレスの籠城作戦
のため、田園からの人々が城壁内に移住したため、小さな地域に人口が密集し、衛生状態が極度に悪化
したためである。そして、結局は、彼自身もこの疫病で命を落とすことになったのである。このような
わけで、彼は自分自身の軍略によって、自分自身のみならず、アテネをも滅ぼしたと言えよう。
疫病発生後、アテネ人たちが戦争に弱気になっていた時、ペリクレスは民会を召集し、人々を励まし
た。この時、疫病に触れているので、彼の疫病についての見方を知ることができる。ペリクレスは、
「こ
の疫病は我々の予期を越えて生じた。実に、それのみがすべての人々の予期よりも強いものとして生じ
た」
(2.64)と述べている。つまり、彼の考えでは、この疫病は「それのみが」彼やアテネ人たちの知恵
に よ っ て 予 期 で き な か っ た 唯 一 の も の で あ っ た。そし て、彼 は 疫 病 に つ い て、「天 変 地 異 の 類
( ta daimonia )は不可避なものとして耐えるべき」
(2.64)と述べている。ここで彼は「天変地異の類」とい
う言葉に、ダイモニア( daimonia )
という言葉を用いている。この言葉は、当時の無神論的傾向の自然哲
学者たちが、古来の神話的説明に代えて、自然現象を自然現象それ自体によって説明する時によく用い
た言葉である(36)。その言葉をペリクレスは疫病について用いている。つまり、彼は疫病をもっぱら、自
然現象と見ているのであり、ここには、無神論的自然哲学者アナクサゴラスとの交流から推測できるよ
うな「合理的」思考法が見られる(37)。しかし、疫病はギリシアの伝統的な考えでは、人間の不正に対す
るアポロンの神罰であった。この場合、人間は自らの行為を改めるべきである。しかし、ペリクレス
は、疫病をもっぱら自然現象であると見て、人間の忍耐で耐えるべきであると考えている。
91
ソクラテスが前430年の疫病をアポロンの神罰と考えていたという明確な証拠はない(38)。しかし、ソ
クラテス(ないしプラトン)がこの疫病を神罰と見ていたことを示唆する言葉がプラト ンの『饗宴』の
中に見られる。
『饗宴』201dで、ソクラテスはこの疫病に触れ、マンティネイアの神官女ディオティマが
アテネ人に供犠を捧げさせたので疫病の発生を十年遅らすことができたと述べている。ここで、供犠が
実際に何を意味しているかは不明であるが、少なくとも供犠の対象が神であり、供犠により神からの疫
病を遅らすことができたと考えているので、この疫病が神の意志によるものであるとソクラテス(ない
しプラト ン)が考えていたことがわかる。もしそうなら、前440年ごろからすでにアテネ人に対する神の
怒りがあったが、ディオティマの助言でアテネ人たちが供犠を捧げたので、神の怒りを和らげることが
でき、神の罰を延期することができたということになる。しかし、アテネ人が態度を改めなかったの
で、神は罰として、前430年に疫病を生じさせたということになろう。
3 ソクラテスと神の最後の方策
ソクラテスは『弁明』の中で、お金や財産を配慮するより以前に魂ができる限り優れたものとなるこ
とを配慮するよう、アテネの人々に助言してきたと述べている(29d7−e3, 30a8−b2, 36c5−d1, 41
e4−5)。そして、ソクラテスは、
「私が息をしているかぎり」
( heo
^sper an empneo
^ )、神に命じられた活動
をやめないであろうと述べている(29d2−7)
。従って、アテネ市民たちに対するソクラテスの活動は、
彼が生きているかぎり行われていたと考えるべきである。そのように考えると、ソクラテスは彼の死の
機会を、アテネ人に対する批判的活動の最後の場として用いているように思われる。
ソクラテスは法廷で弁明するに当たり、「法に従って弁明するべきである」
(19a6−7)と考え、また、
「真理を語ること」
(18a6)のみを心がけた。しかし、当時、多くの人々は告発された場合、子供や家
族、友人たちを裁判に出席させ、涙ながらに陪審員たちに嘆願するのがしきたりであり(34b7−c5)、ソ
クラテスもこのような仕方で弁明すれば助かることができたと考えられる。しかし、ソクラテスは「裁
判官に嘆願したり、嘆願して無罪にしてもらうことは正しいこととは私には思われない」
(35b9−c1)と
述べている。従って、
「正しいこと」を優先させた彼の弁明のやり方は、身体や財産を何よりも優先する
アテネ人たちの生き方への批判となっている。
ソクラテスが獄中にいる時、クリト ンの勧めに従って脱獄を決心しさえすれば、彼は確実に助かるこ
とができた。しかし、ソクラテスは、考察してみて最善と思われる言論以外の他のいかなるものにも従
わないと宣言する(『クリトン』46b4−6)。そして、「アテネ人が許さないのに、私がここから脱獄する
ことを試みることが正しいか否かを考察するべきである。そして、正しいと思われたなら試みるべきで
あるが、そうでなければ、やめることにしよう」(48b11−c2)と語り、脱獄は不正であるとするこの考
察の結論に従い、脱獄を拒否し、刑に服した。つまり、彼にとっては、脱獄の正・不正のみが考慮すべ
きことであった。ソクラテスは長年にわたりアテネ人たちに、何よりも魂の最善や徳、正義を配慮する
生き方を勧めてきた。そして、彼は彼の死の機会を用いて、彼がアテネ人たちに勧めてきた生き方を生
きることによって、そのような生き方が現実にありうることを、彼自身の生と死によってアテネ人たち
に実証したと言えよう。逆に、もしソクラテスがクリト ンの勧めに従って脱獄したなら、アテネの人々
は、結局はソクラテスも、彼のそれまでの言葉にもかかわらず、正義や徳よりも、身体や財産、そし
て、ただ「生きること」を優先する者であったと考えたであろう。そのことによって、ソクラテスはこ
れまでのすべての活動が、真剣なものではなかったと証明することになってしまうのである。
自らの死によって、彼の語ってきた生き方を実証することは、神も是認するところであったと思われ
92
る。
『弁明』によると、ソクラテスに現れたダイモニオンの合図は、彼が何か正しくないことをしようと
すると、どんなに小さな事柄にも彼に反対した(40a4−6)。ソクラテスと神との交わりは、ダイモニオ
ンの合図に限られるのではなく、
「神託や夢のお告げやあらゆる仕方で」
(33c5−6)行なわれた。このよ
うに、ソクラテスと神は絶えざる交流のうちにあったのであり、ソクラテスは自己自身に関わるすべて
の事柄が、神の配慮のうちにあると信じていたのである(41d1−6)。さて、先に述べたように、彼は法
廷で弁明するにあたり、他の人々のように陪審員たちに嘆願したり、同情心に訴えたりせず、自分に正
しいと思われるような仕方で弁明し、その結果、彼に死刑が宣告されることになった。ところが、あれ
ほど頻繁にソクラテスに現れたダイモニオンの合図は、この裁判に関しては、ソクラテスにまったく反
対しなかった(40a8−b3)。このことから、ソクラテスは死へと至る一連の彼の行動を神が是認している
と考えている(40b7−c3)。さらにまた、牢獄で処刑を待つ間も、また、クリト ンとの議論の結果、脱獄
しないで死を選ぶことについても、ダイモニオンの合図は反対しなかった。ここから、
『クリト ン』の巻
末で彼が述べているように、このような結果となるように、「神が導いている」(『クリト ン』54e1−2)
とソクラテスは考えている。先に述べたように、これらの機会においてソクラテスは、身体や富、さら
に死よりも、魂の善さや徳、正義を優先しているので、彼が日頃アテネ人たちを批判してきたことを実
践していると言えよう。従って、彼は彼の死の機会を、アテネ人たちの生き方への最後の批判のために
用いているのであり、神もそれを是認していると彼は考えていたと思われる。
Ⅴ 結び
思想家とその活動を正確に知るためには、彼の発言や書物を注意深く考察することは重要であるが、
それだけでは不十分である。思想家とその活動の意味は、思想家がその活動の対象とした人々や社会の
あり方、そして、彼らの意識的・無意識的思想を知ることにより、よりリアルなものとして理解できる
と思われる。このようにして、史的ソクラテスの活動とその思想の実像を追求するために、まず、多く
の研究者によって史的ソクラテスの思想を知るためのもっとも信頼できる資料と考えられている『弁
明』を取り上げ、法廷における彼の自伝的発言から、彼の基本的な思想と活動を確認した(第一節)。次
に、プラトンの『ゴルギアス』を取り上げて、ここに現れるソクラテスの政治思想が、第一節で見たソ
クラテスの思想と基本的に一致することを確認したうえで、
『ゴルギアス』第三部に登場するカリクレス
の口を通じて語られている「自然の正義」論が、アテネ帝国主義のイデオロギーを正確に描写したもの
であり、ソクラテスがこれに対して根本的な批判を行っていることを明らかにした(第二節)
。さらに、
前節で見た、当時のアテネの社会と人々が暗黙のうちに抱いていた自然の正義論についてのソクラテス
的・プラトン的描写が、哲学者による一方的な歪曲ではなく、史家トゥキュディデスの『歴史』からも
支持されることを見た(第三節)
。最後に、第四節では、アテネ帝国主義期の社会と人々の生き方に対す
るソクラテスの批判活動が、神に起源をもつことをソクラテスは確信していたこと、そして、彼は彼の
死を、アテネ人たちに対する最後の批判の機会として用いていることを明らかにした。総じて言えば、
ソクラテスの活動は、アテネ帝国主義期の人々の物質至上主義的生き方とそれを支える政治に対する批
判であり、彼の哲学は批判のための鋭い武器であった。彼は確かに哲学者であったが、それ以上にアテ
ネ帝国主義に対する神与の内在的批判者であった。
93
注
(1) ソクラテス自身は何も書き残さなかった。直接ソクラテスを知っていた者たちのうちでは、クセノ
フォン、プラトン、アリストファネスの著作と小ソクラテス学派の人々の断片が今日まで伝えられて
おり、直接ソクラテスを知らない者たちのうちでは、アリストテレスのソクラテスへの言及をわれわ
れは知ることができる。これらの証言のうち、どの証言が真実のソクラテスの思想を含んでいるかの
論争が「ソクラテス問題」である。十八世紀半ばから現代に至る学説史を振り返るなら、ソクラテス
の思想に関する信頼できる資料として、クセノフォンが全面的に信頼されていた時代から、プラトン
の時代へ、さらに、彼の初期作品が優位になる時代への移行の歴史として見ることができる。この問
題についての詳細は、米澤茂『ソクラテス研究序説』、東海大学出版会、2000年、1−12頁を参照され
たい。
(2) ミテュレーネーは成年男子全員処刑という残虐な運命を何とか逃れ、首謀者と考えられた千人ばか
りの処刑で済んだが(トゥキュディデス『歴史』 3.49−50)
、スキオネ(5.32)やメロス(5.116)で
はそうはいかなかった。G.Vlastos, Socrates; Ironist and Moral Philosopher, p.181−190; M. McPherran,
The Religion of Socrates, p.109,n.71参照。
(3) プラトンの『弁明』が公刊された時、実際のソクラテスの思想を知っている弟子たちや、法廷で彼
の弁明を聴いた市民たちが多数生存していたので、実際のソクラテスの思想と矛盾するようなことや
無関係のことを、プラト ンがソクラテスの弁明演説の中でソクラテスに帰したとは考えがたい。ま
た、プラトンには、自己自身の思想を実際のソクラテスに仮託して公表したいとする執筆動機より
も、犯罪人として処刑された敬愛する師が法廷で語った彼自身の思想や活動を、事実そのままに公表
することにより、ソクラテスを処刑した人々を告発し返すとともに、後世にソクラテスの真実を伝え
たいとする動機の方が、彼のソクラテスへの敬愛と傾倒から考えると、より真実であると思われる。
このような理由で、プラトンの『弁明』には、史的ソクラテスの思想が大筋において表れていると考
えられる。この問題についての詳細はブリックハウスとスミス(Thomas C. Brickhouse and Nicholas
D. Smith,Socrates on Trial,Princeton,1989,p.2−10)を見られたい。
(4)
ネハーマス(A . Nehamas,“Socratic Intellectualism”,in J . Cleary (ed.), Proceedings of the Boston
Area Proceedings in Ancient Philosophy,Vol.3,1987,Lanham,p.307)は、ソクラテスが神託に真剣
に反論しようとしたと考える。しかし、ソクラテスが敬虔な者であること、および、神は「何の謎を
かけているのか」
(21b3−4)と彼が問うていることから、彼は神託の表面の意味を反駁することに
よって、神託の真の意味を明らかにしようとしたと考えられる。
(5) ソクラテスが「立派で善きもの」と語っているものは、
「もっとも重大な事柄」
(22d7)と言い換え
られている。これは、ソクラテスがもっとも重視し、
「何であるか」
の問により、アテネ市民たちの無
知を暴露した「徳」を指すと考えられる。
(6) Th.C.Brickhouse and N.D.Smith,Plato’s Socrates,Oxford,1994,p.12−14.
(7) 米澤茂『ソクラテス研究序説』東海大学出版会、2000年、139−142頁参照。
(8) 対話篇の巻末に魂の死後の神話を置くことは、
『パイド ン』や『国家』
、
『パイド ロス』のような中期
作品に見られる特徴である。また、『ゴルギアス』のオルフィック・ピタゴラス教的モチーフは、
『パ
イド ン』と共通している。
『ゴルギアス』の巻末で語られているような魂の死後の存在とその運命を、
『ゴルギアス』のソクラテスは真理であると語っている(523a2−3)が、
『弁明』
(40cff.)のソクラテ
スは、魂が死後に存在する可能性と消滅する可能性の二つを挙げ、どちらかに限定していない。
(9) Th.Brickhouse and N.Smith,Socrates on Trial,p.12−13.
(10) その相違は、
『ゴルギアス』においては、プラトンによる議論の緻密化、劇化、そして若干のソクラ
テス美化が見られることである。
94
(11)
David Stockton,The Classical Athenian Democracy,Oxford,1990,p.118によると、ペリクレスの頃
には「弁論家」
( rhe
^to
^r )という言葉は、我々が政治家(politician)と呼ぶ者を表す通常の用語(regular
term)であった。実際に、
『ゴルギアス』455eでは、テミストクレスやペリクレスが弁論家として語ら
れている。
(12)
例えば、ペリクレスについて、トゥキュディデスは『歴史』の中で、「その名は民主主義と呼ばれた
にせよ、実際は秀逸無二の一市民による支配が行われていた」
(2.65)
と述べている。また、ロド スの
詩人ティモクレオンは、テミストクレスを批判する詩の中で、
「不正にもある人々を呼び戻し、ある
人々を追放し、ある人々を殺しながら、自分は銀貨を一杯ためた」と述べている(プルタルコス『テ
ミストクレス』21)
。
(13)
ここで、大衆はノモスの立場、強者はピュシスの立場というふうに、固定的に考えてはならない。
むしろ、大衆であれ、強者であれ、すべからく、「より多く取り」
「他の持ち物を奪う」ことをめざし
ているのである。しかし、結果として弱者となった者たちは、他の者たちにより多く取られないため
に、心にもなく平等主義を唱えるのである。彼らも本心では、機会があれば強者の立場に立ち、より
多くを取ることを渇望しているのである。
(14)
後のⅢ−2節で触れるように、
『ゴルギアス』の自然の正義論と類似の思想が、トゥキュディデスの
『歴史』のメロス島対話に登場するアテネ人使節の発言にも現れている。J.de Romilly(Thucydides
and Atheninan Imperialism,Blackwell,1963,repr.1988)は、哲学者たちがトゥキュディデスにこの
ような思想を示唆したのではなく、むしろ、歴史家や哲学者たちにこのような思想を示唆したのは、
「それは政治的事実である、そして、とりわけアテネ帝国主義の大いなる事実である」(p.304)と述
べている。
(15)
例えば、テミストクレスは政治生活に入る前は、財産は三タラントン以下であった。しかし、彼が
ペルシア王との内通の罪で財産を国庫に没収された時、その額は100タラントン、あるいは、80タラン
トンあったとされ、しかも、没収前に財産の大半は海外に運び出されていた(プルタルコス『テミス
トクレス』25)
。ペリクレスは個人的には金銭的に清廉であったと言われている。しかし、国家内にお
ける社会的地位や名声、アテネ国家と他の従属国との関係も考慮に入れるなら、やはり、強者として
「他のものを奪い」、
「他よりより多く取る」ことを行っていたと考えられる。
(16)
『弁明』
のソクラテスは、死についての無知の知の立場から、死後の魂の存在を否定も肯定もしてい
ない(40c)
。しかし、
『ゴルギアス』で、ソクラテスの口を通じて語られるオルフィック・ピタゴラス
教的立場は、明らかに死後の魂の存在を前提しているので、この部分はプラトンのよる追加であるよ
うに思われる。
(17)
T.Irwin,Plato : Gorgias,Oxford,1979,p.201−206;E.R.Dodds,Plato : Gorgias,Oxford,
1959,p.309−316.
(18)
ペリクレスや帝国主義期のアテネの政治家たち、そして、当時のアテネ社会に対する辛辣な批判
は、P.Green, The Shadow of the Parthenon, Berkeley and Los Angelos,1972,p.11−46にも見られ
る。
(19)
シンクレアー(T.A.Sinclair,A History of Greek Political Thought, London,1951)
は、
『ゴルギア
ス』に見られるペリクレスたちへの非難は、
「明らかにフェアーではない」
(p.131)と述べている。
グロート(G.Grote,Plato and the Other Companion of Sokrates, Vol.Ⅱ.London,1865,repr.1992)
は、ペリクレスがペロポネソス戦争において、アテネ人を説得し、彼らの威厳、祖国の安全というよ
うな善なるものを得るために、田畑が破壊されたり、籠城するという苦しみに耐えさせので、
「快に反
対し、善を強いた」
(p.149)
真の政治家であると弁護する。しかし、ペリクレスは陸軍力に優るスパ
95
ルタに勝つためには、籠城作戦がもっとも優れていると考え、早くから長城の完成を急ぎ、海軍力を
増強していた。籠城作戦は確実に勝つためのペリクレスの軍略の一つに過ぎない。この戦争はアテネ
にとって植民地支配、帝国主義支配を全ギリシアに及ぼすためのものであり、ソクラテスの言うとお
りペリクレスは国民の快に奉仕する政治家なのである。
(20) アテネ帝国主義期の政治家たちとその政治についてのソクラテスの見方は以上のとおりである。で
は、これに対するプラトン自身の態度はどうであろうか。注
(8)で述べたように、
『ゴルギアス』は初
期対話篇に属しはするが、すでにその中にプラトンの中期対話篇と共通するプラトン的要素が多く見
られる。それにもかかわらず、アテネの政治や政治家たちに対する見方は、『弁明』と『ゴルギアス』
では完全に一致することから、アテネ帝国主義に対する見方も、ソクラテスとプラトンは完全に一致
しているのであり、ソクラテスの見方をプラトンが受け継いでいると考えられる。佐々木毅『プラト
ンと政治』
(東京大学出版会、1984年、p. 126)は、
『メネクセノス』篇におけるアテナイ海上帝国への
完全な沈黙のうちに、プラトンの「アテナイ帝国主義への拒絶反応」を見ている。
(21) このことは、トゥキュディデスがアテネ帝国主義に批判的な立場にあったということを意味するわ
けではない。Greenはトゥキュディデスについて、
「物質的成功と国家の安泰が歴史家の判断を決定す
る唯一の基準であるように思われる」
( op. cit., p. 79)
と述べている。また、de Romillyによると、トゥ
キュディデスはアテネ帝国主義が犯した不正行為には注意を向けず、道徳的観点から帝国主義を判断
する意図はもっていなかった
( op. cit., p. 98)
のであり、彼の観点はアテネ自身の観点であり、アテネ
帝国主義のギリシア全体にとっての危険や道徳性への危険には、彼は無関心であったとされる
( op. cit., p. 101)
。
また、これらの中で表明されている思想が、本当にペリクレスやアテネ人たちに帰することができ
るのかという点で、議論があろう。トゥキュディデス『歴史』(1,22)において、トゥキュディデス
自身が彼の方針を語っている。
「各人が…演説で述べたことは、私自身が聴いた場合でも、各地から私
に報告してくれた人々にとっても、語られたとおりに正確に思い出すことは困難であった。それゆえ
に私は実際に語られたことの全体的な主旨に可能な限り迫りながら、各人がその時々に直面した問題
について最も必要なことを述べたと私に思われたとおりに記述することにした」
(藤縄謙三訳、ト ゥ
キュディデス『歴史』京都大学学術出版会、2000年、23−24頁)。
(22) 『ゴルギアス』において、カリクレスが「自然の正義」論の中で、強者としてテミストクレスやペリ
クレスなどの弁論家を挙げていたことと、その弁論家たちをポーロスが「専制君主」
( turannis )になぞ
らえていたことを考えると、ペリクレスがアテネ国家を他の国々に対する「専制君主」の立場にある
ことを明言していることは、アテネ国家が国と国との関係で、
「自然の正義」
の強者の立場にあること
を示している。
(23) このことは、吉田敦彦『オイディプスの謎』
(青土社、1995,196−197頁)がすでに指摘していると
おりである。
(24) カリクレスの主張とアテネ側使節の主張の間の類似を指摘しているのは、Dodds,op. cit., p. 268や
de Romilly,op. cit., p.299 ff., p.365であり、我が国では、佐々木毅『プラトンと政治』
、70−71頁で
ある。
(25) また、当時、戦争の目的の一つは、戦利品にあった。例えば、アテネはスパルタと戦った時、
「多く
の戦利品」
( polle
^n leian, 5.115)を獲たと述べられている。
(26) Dodds,op. cit., p.268も、この箇所を引き合いに出して
『ゴルギアス』
との類似を指摘している。ま
た、Ch.Rowe and M.Schofield(eds)
,The Cambridge History of Greek and Roman Political Thought,
Cambridge U.P., 2000,p.113も「明白な関連」を指摘している。
96
(27)
ここで、ノモスという言葉が使われているが、これは『ゴルギアス』では、ピュシスにあたるもの
である。
(28)
彼らが政治知をもっていなかった証拠として、彼らが徳や政治の知をもった政治家だったら、彼ら
が世話をし、より優れた者にしたはずの市民たちから、後になって告発されたり追放されたりするこ
とはあり得なかったということを、ソクラテスは指摘している。政治家たちに対する同様の批判は、
『メノン』
(93a−94c)や『プロタゴラス』
(319e−320b)にも見ることができる。
(29)
もちろん、このような精神状態は帝国主義期のアテネ人に限られているわけではないが、彼らがは
なはだしかったということである。
(30)
『弁明』
35b1−3では、徳にかけて優れた者と優れた政治家が同一の者と見られている。
『エウテュフ
ロン』 2c8−d2では、正しい仕方で政治に着手することは、若者たちを徳に向けて配慮することであ
るとされている。
(31)
『ラケス』186b8−c2、
『メノン』71c3−4,71d7−8,89e6−7を参照。
(32)
ヘロドトス『歴史』(7,140)
(33)
テミストクレスは、アテネ人たちにアテネを放棄させ、海戦に向かわせるために、アクロポリスの
アテネ神殿の神官女に言い含め、アクロポリスを守護している蛇がいなくなったと言わせた(プルタ
ルコス『テミストクレス』10;ヘロドトス『歴史』8,41)。デルフォイの第二の神託についても、「テ
ミストクレスがあらかじめデルフォイに手を回していたと見る人が多い」
(仲手川良雄『テミストクレ
ス』中公叢書、2001、114−5頁)。
(34)
Cf.Louis E.Lord, Thucydides and the World War, New York,1945,rep.1967,p.4−95.
(35)
この疫病については、トゥキュディデス『歴史』(2.47−54)に詳述されている。ビューリー(J.
B.Bury, A History of Greece, Vol.1,London,1902,p.444)は、この時、市民たちだけで二万人
以上が死んだと推測している。
(36)
Brickhouse and Smith,Socrates on Trial, p. 35, n. 128を見よ。また、アリストファネス
『雲』
(253)
を
見よ。
(37)
ロード (Lord op. cit.)によると、ト ゥキュディデス本人も、ペリクレスやアナクサゴラスと同じ
サークルの者であり、その特徴は「科学的懐疑主義の精神」
(p.45)にあるとされる。また、ビュー
リーによると(op. cit., p. 332)
、アナクサゴラスの影響が、ペリクレスを大衆の抱いていた迷信から
解放したとされる。
(38)
彼が神の意図を断定的に語ることを避けているのは、一つには、神の業
( ergon )
は人間には知り得
ない、という彼の思想(
『エウテュフロン』13d−14aの含意)から来ていると思われる。
97
ヒュームにおける国際秩序思想
高橋 和則 はじめに
Ⅰ ヒュームの落胆?
Ⅱ 普遍的君主国と勢力均衡
Ⅲ 均衡という善と文明社会
おわりに
はじめに
国際秩序をいかにして構築するか、という問題は、現在の国家にとって重要な問題である。それは国
内秩序の構築とともに平行して問題にされてきたといっていい。むろん、古典古代からそれは問題にさ
れてきたのだが、とりわけ近代に入って顕著になったことは明らかである。その契機は主権国家の形成
であった。中世の教会の権威は宗教改革によって決定的に後退したが、それはとりもなおさず、ヨー
ロッパ全体の秩序の担い手が消滅したということであった。こうした秩序の真空をいかに埋めることが
できるか、という問題が喫緊の問題として浮上したのである。このときに秩序の担い手として登場した
のは個々の国家であった。つまり、国際関係における中心的アクターとして国家を位置づけることに
なったのである。その意味で、主権国家が完全に確立してから生まれた問題ではなく、まさに主権国家
の国内秩序の構築と平行して発生した問題だったということができるであろう。
こうした国家の位置づけは、現在様々な見直しを迫られている。国家の地位は相対的に低下したと理
解する立場も一定程度の説得力を獲得しており、秩序の独占的な担い手であることは否定されつつある
が(1)、国家は、独占的ではないにしても、主要なアクターのひとつであることは否定しえないであろ
う。つまり、近代以降の国際関係における秩序の担い手としての国家、という認識枠組みは、比重の変
化を伴いながらも、いまだに相対的な有効性を維持しているのである(2)。
ここで考慮しなければならないのは、現実がどのような秩序に基づいているのか、ということと、ど
のような秩序に基づくべきか、ということの違いである。この違いに関しては、政治思想というディシ
プリンにおいては常に意識される論点であり、今更この論点を持ち出すのは屋上屋を架す試みであろう
が、ここで確認しなければならないのは、国際関係においても同様の論点が存在しているということで
ある。本稿の表題にあるように、
「国際秩序思想」は、まさにこうした論点に関わるもので、現実に諸国
家がどのような秩序に基づいて行動しているか、という問題と、諸国家はどのような秩序に基づくべき
か、という問題を峻別した上で、後者について考察することを目的としている。無論、峻別するので
あって、遮断するわけではない。前者の問題は認識の問題として重要であり、それは後者の、構想の問
題と密接に関わっている。その意味で、現実がどのような秩序に基づいているのか、という問題を完全
に閑却することは不可能であるし、不適切であろう。前段までの必要最小限の現実の秩序についての叙
述は、そうした意味を持っている。
99
近代以降、今現在まで、アクターとして国家が行動する、国際関係というフィールド のひとつの大き
な特徴は、無政府状態だということである。つまり、中世の教会というような秩序の中心はいまだに存
在していないと考えられるのである。こうした中で構想されてきた秩序思想として、17、18世紀に普及
した、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)という秩序原理に基づく構想が存在する。この原理は第一
次大戦まで「無政府的な国際システムを維持してきた」ともいえる(3)。しかし、ウッド ロー・ウィルソ
ンによって、第一次大戦勃発の原因として、この勢力均衡原理は告発され、以来否定的に論じられるこ
とになった。しかし、核兵器の登場とその配備という点からして、冷戦を支配していた秩序原理は「恐
怖の均衡」であるとしばしば理解されている(4)。この「恐怖の均衡」は、むろん、勢力均衡の特殊な形
式であり、その意味で勢力均衡原理は現代においても秩序原理として認識されることがあるのである
(5)
。こうした認識がなされるのは、勢力均衡原理に基づく国際秩序「思想」が存在していることを示し
ている、と解釈することができるであろう。
本稿の目的は、この勢力均衡原理に基づく国際秩序思想がいかなるものであったか、その輪郭を明ら
かにすることである。この秩序思想が普及した時期では、どのように考えられていたか、という問いを
足がかりにして、その考察を進めたい。当時のこの秩序思想の捉え方には大略二つの流れがあることは
知られている。大陸型アプローチとイギリス型アプローチである。前者は客観主義的に均衡とは何かを
探ることで、この秩序思想を形成したが、後者は主意主義的に均衡をいかに操作するかを探ることで、
この秩序思想を形成した(6)。本稿では、素材として後者に属するデイヴィッド ・ヒュームの議論を取り
(Ⅰ)現在の視点から見た勢力均衡というものの理解と、ヒュー
上げることにする(7)。それにはまず、
ムの理解を比較検討し、
(Ⅱ)そうしたヒュームの理解が当時どのような文脈の下で形成されたのかの考
察に入る。そして最終的に、
(Ⅲ)
ヒュームがこうした国際秩序思想を抱く論拠がいかなるものであるか
ということを検討するという形で議論を進めたい。ここではヒュームの国際秩序思想を中心的に扱う
が、当時の国際秩序思想の流れと、そこにおけるヒュームの思想の位置関係を把握することを通じて、
前述の目的を達成しようとすることになるであろう。その次元からすれば、本稿は、ヨーロッパの国際
秩序思想全体を理解するための一つの各論であることを目指すものである。
注
(1) こうした見方に関しては、例えば、スーザン・ストレンジ、櫻井訳『国家の退場』岩波書店、1998
年、が参照されるべき文献である。
(2)
こうした見方に関しては、サスキア・サッセン、伊豫谷訳『グローバリゼイションの時代』平凡
社、1999年、が参照されるべき文献である。
(3) ジョセフ・S・ナイ、田中・村田訳『国際紛争―理論と歴史』有斐閣、2002年、第3章、とりわけ72
頁参照。
(4) 高柳先男『パワー・ポリティクス』有信堂、1991年、131頁、または、ナイ、前掲書、170頁を参照。
(5) このことは無論、現在において勢力均衡原理が妥当している、とか、妥当するはずだ、とすること
を意味するものではない。いわゆる「現実主義」がその妥当性を主張しているのだが、その前に、こ
の原理はどのような原理であったかをまず確認する必要があると思われる。こうした勢力均衡原理の
現代における妥当性についての議論については、例えば、坂本義和「
『力の均衡』の虚構―ひとつの
『現実主義』批判」
『核時代の国際政治』岩波書店、昭和42年、を参照のこと。
(6) 大陸型アプローチは「勢力」はいかに計量されるか、「均衡」とは何かという、概念の本質に客観的
な表現を与える方向で探求を進めた。ド イツのカーレ、ユスティなどの仕事がそれを象徴している。
こうしたアプローチは最終的に勢力均衡という概念そのものの捉えがたさを論ずる流れにも繋がっ
100
ている。親英派でもあったカーレはともかく、とりわけユスティは「自らが均衡という原理のいかに
不条理であるかを明らかにしえたと考えた。この原理は諸国家によって認識された利益を合理化する
ものに他ならないと彼は強く示した」のである(F. Parkinson, The philosophy of international relations:
A study in the history of thought, Sage, 1977, p.50.邦訳初瀬・松尾訳『国際関係の思想』岩波書店、
1991年、47頁)。イギリス的アプローチではこうした概念そのものに対する分析は探求の対象とはな
らない傾向にあった。以下で論ずるヒュームも例外ではない。本稿ではこのイギリス的アプローチを
中心的に検討することとする。
(7)
ヒュームの国際関係についての思想に触れたわが国の議論としては、以下の文献が先駆的であろ
う。高坂正尭「古典外交の成熟と崩壊」
『高坂正尭著作集 第6巻』都市出版、2000年(初出は1978
年)
Ⅰ ヒュームの落胆?
ヒュームの勢力均衡に関する見方(1)を理解する上で、彼の認識枠組みを考察することは、通常以上の
重要性を持っている。それは一般的に勢力均衡という原理が近代のものとされているためである。
近代のものということが意味するのは「近代の学者が古代史から演繹したものではない」ということ
である。
「この概念ほど、近代人の経験の明確な成果であり、また生じた出来事と実際に経験された苦し
みに対する考察の結果として出てきた政治的概念は他にほとんどない(2)」のである。一般的に、勢力均
衡の概念は15世紀のイタリア都市国家の政策に原型が求められている(3)。したがって、勢力均衡という
概念は「古代世界には存在していなかった(4)」と理解されている。
このことが問題となるのは、ヒュームが勢力均衡について考察する際に、まず初めに次のように述べ
ているからである。
勢力均衡という理念が完全に近代の政策に基づくものなのか、それともその言葉が後で生み出され
ただけ(であって、そのものは古代から存在していた)のかというのは、一つの問題である(5)。
ヒュームのこうした枠組み設定は、前段での勢力均衡の定義を前提としているかのように思われる
が、実際にヒュームはそうは議論していない。
ギリシャの政策の全てに、勢力均衡をなんとか求めようとしていることが現れており、それは古代
の歴史家によってすら明確に指摘されている(6)。
このように、ヒュームは、勢力均衡という理念は「完全に」近代のものであるわけではないと考えて
いるのである。
しかし、勢力均衡という概念は「近代の学者が古代から演繹したものではない」とすると、ヒューム
は、現在一般的とされる勢力均衡の定義に当てはまらない議論をしているということになるのだろう
か。ヒュームは、我々が勢力均衡という言葉で表しているものとは異なるものを指して議論しようとし
ているのだろうか。この問題に解答を与える前に、この見解がどのように対立しているのか、より詳細
に確認しておきたい。
勢力均衡という概念が近代のものであって、古代には存在しなかったと考える場合、ヒュームの主張
101
はどのように解釈されるのであろうか。ヒュームは、古代に関しては誤解が多いものの、勢力均衡が全
くの近代の産物ではないとしている。
古代人は全く勢力均衡をしらなかったとする場合、その論拠はギリシャ史からよりも、ローマ史か
ら引き出されることが多いように思われる(7)。
しかし、ローマ時代でも誰一人勢力均衡をしらなかったというわけではない。その唯一の例として
ヒュームはポリュビオスを引用している。
ポリュビオスは次のように言っている。「シチリアにある自らの領土を保全するためにも、また、
ローマとの友好関係を維持するためにも、シラクサ王ヒエロンは、カルタゴが安全であるべきだ、と
考えた。カルタゴが倒れてしまった場合、勝ち抜いた勢力は、何の反対、抵抗もなく、いかなる目的
も企図も遂行することができる、ということになってしまうのである。ここで彼は偉大な知恵と慎慮
をもって行動した。なぜなら、こうしたことは決して看過されるべきではないし、またそのような力
が一国の手中に帰し、近隣諸国が自らの権利をその国から守ることができなくなってしまうことが
あってはならないからである(8)」
しかし、勢力均衡が完全に近代のものだとする立場からすると、こうしたポリュビオスの歴史解釈
は、ヒュームが考えたような勢力均衡という概念が存在したという例ではないと理解されることにな
る。つまり、ここで「ポリュビオスが提示しているのは次のような格率なのである。つまり、他の国が
抵抗できなくなるほどの優位を求める国を援助するのは正しくない、ということである。したがって、
もし今日の我々が持っている近代的理念をもとにポリュビウスを読んだとしたら、こうしたテーゼでポ
リュビウスが主張しているのは、以下のようなことでしかないと思われる。つまり、勢力の配分がなさ
れるべきだ、ということである(9)」。したがって、ヒュームによるポリュビウスの引用はヒュームの主
張を正しく正当化しうるものではないとされるのである。
これはローマの例であるが、ギリシャはどうであろうか。勢力均衡概念は完全に近代のものだと考え
る場合、ギリシャにおいても存在していなかったということになる。
「ヒュームは、勢力均衡の考えは、
その起源が古代ギリシャにまでさかのぼることを示そうとした。しかし彼は、近代人に勢力均衡を類推
させる状況について古代ギリシャ人は考え始めてはいたが、勢力均衡概念には思いいたっていなかった
ことを発見した(10)」と解釈されるのである。ヒュームはギリシャ諸国がローマの拡大を阻止することが
できなかったことに気づき、古代の著作家たちが勢力均衡について十分な注意を払っていないことを認
めざるをえず、それに落胆した(11)、というところにヒュームの真意は見出されることになるであろう。
こうしたヒューム解釈は妥当なのであろうか、という問題が存在するであろう。このヒューム解釈は
ヒュームに現在の視点を押し付けすぎているのではないか、という懸念も浮かぶ。もちろん、この懸念
が妥当であるかも合わせて検討の対象とされなければならないことはいうまでもない。
こうした考察からすると、ヒュームの勢力均衡論を理解する際に、まずもって留意しなければならな
いことが明らかになる。つまり、ヒュームが古代の勢力均衡の例を持ち出した、その理由は何か、とい
うことである。もちろん、古代と近代の比較は当時の議論の主流であったことは疑いない。ここで留意
すべきであるのは、そのことではなく、古代の例を持ち出してヒュームはどのように勢力均衡を論じよ
うとしていたのか、ということである。結論を先取りすると、この点に留意することで、以下のことを
102
明確にすることができる。つまり、ヒュームが勢力均衡をどのように評価していたのかということ、ひ
いては、勢力均衡に基づくことで、ヒュームはいかなる国際秩序思想を構想していたのか、ということ
である。前段で述べたヒューム解釈の妥当性も、その過程で判断することができると思われる。
注
(1)
ヒュームは1752年に『政治論集』を出版している。そこには「勢力均衡について」と題されるエッ
セイが収録されている。本稿ではこのエッセイを中心的に取り扱うことにする。参照したのは次の版
である。David Hume, ed. Eugene F. Miller, Essays Moral,Political and Literary, Revised Edition, Liberty
Fund, 1985. 「勢力均衡について」以外のエッセイも随時参照するが、いずれもこの版に基づいてい
る。邦訳は小松茂男訳『市民の国について(上下)』岩波書店、1952年、及び田中敏弘訳『ヒューム政
治経済論集』御茶の水書房、1983年、があり参照した。
(2)
ハーバート・バターフィールド 「バランス・オヴ・パワー」
『西洋思想大事典』
、平凡社、1990年。
(3)
こうしたことの詳細については以下の文献が参照されるべきであろう。 Garrett Mattingly , Renaissance Diplomacy , Dover, 1988.
(4)
Herbert Butterfield,The balance of power, ed. Butterfield and Wight, Diplomatic Investigations, George
Allen and Unwin, 1966, p.133.
(5)
Hume, Of the balance of power, Essays, p.332.
(6)
Hume, Of the balance of power, Essays, p.332‐3.
(7)
Hume, Of the balance of power, Essays, p.335. バターフィールド は、ヒュームが古代にも勢力均衡
があったと主張することで、当時の論者からも反論されるとわかっていた、としている(Butterfield,
op. cit., p.132)が、それはヒュームの議論のこの部分を指していると思われる。
(8)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.337.
(9)
Butterfield, op. cit. p.132.
(10)
バターフィールド 、「バランス・オヴ・パワー」
、530頁。
(11)
Butterfield, op. cit. p.133.
Ⅱ 普遍的君主国と勢力均衡
まず整理しておかなければならないのは、ヒュームの古代についての評価である。もちろん、前節に
おいて触れたことであるが、ギリシャとローマについての評価を確認しておこう。
ヒュームは確かに古代に勢力均衡がなかったとは考えていない。しかし、古代でもギリシャとローマ
とが区別されていることは注意しなければならないであろう。とりわけ、ギリシャと帝政ローマであ
る。前節で引用した通り、
「ギリシャの政策の全てに、勢力均衡をなんとか求めようとしていることが現
れており、それは古代の歴史家によってすら明確に指摘されている」とヒュームは考えている。この記
述でも明らかなように、ヒュームは実際の政策と、それを分析叙述した歴史家双方について考察し、評
価を下しているのだが、ギリシャの場合は、現実の政策にも認められ、またト キュディディスやクセノ
フォンなどの歴史家たちによっても、それが知られていると論じているのである。
それに対して、ローマについては勢力均衡という概念はほとんど知られていなかったとしている。
103
ロード ス共和国およびアカイア共和国は、その知恵と堅実な政策が古代の歴史家によって非常に評
価されている。しかし、ローマがフィリップやアンティオクスと戦ったときに、双方が加勢したの
は、ローマなのであった。当時、この(勢力均衡という)格率が一般的に知られていなかったという
証拠でこれ以上に有効なものがあるであろうか(1)。
このように、実際の政策に勢力均衡が反映されていないことを論ずると同時に、歴史家も勢力均衡原
理を知らないことを論じている。
古代の著作家はこうした政策が慎慮を欠くものであると言及しなかったし、また上記のフィリップ
がカルタゴ人と締結した条約が馬鹿げたものだとして非難していない。君主や政治家は、出来事が起
きる前にはそれについての推論に盲目である。それはどの時代でもそうなのだが、歴史家が事後にそ
れらについて適切な判断を下せなかったのかもしれないと考えることには、やや常軌を逸したものが
ある(2)。
ここでヒュームが主張したいことは、むろん歴史家についてである。この部分でヒュームが議論を進
める前提としているのは、以下のようなことであろう。つまり、歴史家が勢力均衡という原理を知って
いたならば、このロード スとアカイアの行動が、勢力均衡の原理から逸脱していたと述べたはずであ
る。しかしそうした叙述がなされていないということは、したがって歴史家も、勢力均衡という原理を
知らなかったということになる。
ヒュームはこのように、実際の政策と、その評価叙述を行う歴史家について検討し、ローマには一般
的には、勢力均衡という原理が知られていなかった、と結論付けた。むろん、ここで「一般的には」と
するのは、ヒュームが例外を見出しているからである。これも前節で引用したが、それはシラクサ王の
ヒエロンのみであって、ローマではないことは注意しなければならないであろう。つまり、ローマその
ものは勢力均衡原理を一切知らないということになる。
ヒュームの古代についての議論は、大まかには、こうした枠組みの下になされていると理解すること
ができるが、では、このようにギリシャと帝政ローマを区別し、帝政ローマには勢力均衡原理が存在し
ないと論ずることはいかなる意味を持っているのであろうか。
それを理解するには、ギリシャのアレクサンド ロスの後継者たちについてのヒュームの検討が鍵とな
るであろう。つまり、ディアド コイ時代の各所領の関係が検討されている部分である。
アレクサンド ロスの後継者たちは、互いに強い猜疑心を持ち、勢力均衡を維持していたことがわか
る。この猜疑心は真の政策と慎慮に基づいており、そのためにあの有名な征服者(アレクサンド ロ
ス)の死後になされた分割がしばらくは維持されたのである。
(このディアド コイのひとりである)ア
ンティゴノスの幸運と野望のために、彼らは新たに、普遍的君主国(universal monarchy)の脅威にさ
らされた。しかし、彼らは団結し、イプソスの戦いで勝利したために、助かったのである(3)。
ここから読み取れるのは、普遍的君主国(universal monarchy)の脅威と勢力均衡原理との関係であ
る。ここで明らかにされているように、普遍的君主国という状態に陥らないように、勢力均衡原理が必
要となるのであり、この原理によって、分割した所領の境界が安定的に維持される、ということであ
る。
104
ヒュームは帝政ローマを明確に普遍的君主国であるとは言及していない。しかし「人間の本性を破壊
してしまう傾向をもつ」統治体制としての「巨大な君主制諸国家(enormous monarchies)」のひとつとし
て帝政ローマを位置づけている。ヒュームによれば、
「ローマ帝国にもし利点があるとすれば、それは次
のようなことだけである。つまり、この帝国が構成される前、人類は一般的に極めて無秩序で非文明的
な状態にあったのだ、ということ(4)」なのであり、この「巨大な君主制国家」が普遍的君主国に当たる
ものと理解することができるのではないか。
この普遍的君主国とはいかなるものであるか、ということを考察すれば、このように理解することが
適切であることがわかるであろう。
普遍的君主国とは「一つの大国が残りの国家に不法な権力政治を行うのではないかと考えられる状
況」において、その大国を指す概念として用いられる(5)。この概念は、統治や主権、至高の普遍的権力
に関してなされた長期間に及ぶ考察によって導き出されたものであり(6)、その起源は中世に求められ
る。
中世における教会は、その最盛期(グレゴリウス七世の教会改革期)において世俗に対しても権力を
行使しており、その意味で、教皇は政治的にも各領域の君主たちの上に立っていた。この教権と王権の
関係は、具体的には、十字軍の派遣という形で実現されるものである。中世で国家と呼べるものはキリ
スト 教会だけであったとされるのは、このことを踏まえてのことである(7)。しかし、この教皇の政治的
権力は、現実的にも理論的にも、常に安定していたわけではない。現実的には、確かに、教権が相対的
優越を維持していたものの、とりわけ理論的には、王権の優越を主張する「国家派」によってしばしば
挑戦されていたのである(8)。「教会と世界の結びつきが11世紀に破壊された時、俗人と聖職者が論じた
のは、教会的秩序と世俗の秩序の関係がいかなるものであるべきか、ということ、そして、世俗の政治
が独立して組織されるとしたらどのようにしてなのか、ということであった。普遍的君主国は、普遍的
権力による統治を表すものであり、この文脈においては教皇権と帝国のことなのである」(9)。つまり、
教皇権と王権が、いずれも普遍的君主国として、つまり世界を普遍的に支配する資格をもつものとして
競合したのであった。
このような概念として登場した普遍的君主国は、当初の教会と世俗の争いという文脈から離れ、普遍
的支配の是非という文脈において使用されるようになって行く。これまでに見たように、帝政ローマの
当時はまだ普遍的君主国という概念は存在していないが、ヒュームは帝政ローマがそれに該当するもの
であると認識したことは言を俟たない。
このような認識はヒュームに限ったことではない。モンテスキューは『ローマ盛衰起源論』とほぼ同
時期に、普遍的君主国論を発表しており(10)、モンテスキューもこの普遍的君主国に関心をもっていたこ
とは知られている。モンテスキューもやはり、この普遍的君主国論を次のような疑問から始めている。
現在、ヨーロッパにある国において、ローマ人のように、ある人民が、他の国に対して恒常的に優
越性をもつというようなことが起きうるものかどうか、ということは一つの問題である。私は、この
ことは道徳的に不可能になり、いまやそれが正しいと思う(11)。
このモンテスキューの関心から解釈すると、
『ローマ盛衰起源論』は普遍的君主国についての考察とし
て、より詳細にいえば、普遍的君主国がどのように拡大して、どのように衰退していったのか、その原
因を考察したものとして、位置づけられなければならないであろう(12)。こうした点を見ても、普遍的君
主国としての帝政ローマという認識は一定程度共有されたものであったことは理解できる。
105
当時のヨーロッパではローマ史研究が発展していたことは知られているし、政治思想的にみても、マ
キアヴェッリの『リヴィウス論』を引くまでもなく、ローマは重要な研究対象であり続けていた。この
研究は様々な角度でなされたのであり、むろん、ポジティヴな評価からネガティヴな評価までを含んで
いる。そこからすると、この普遍的君主国としての帝政ローマは、まさにそのネガティヴな評価の代表
である。ヒュームがとりわけこうしたローマに対してはネガティヴな評価を下していることは前述の通
りである。
以上から、ヒュームが、ギリシャとローマを、勢力均衡に基づく国際秩序の世界と普遍的君主国に基
づく国際秩序の世界として認識していることは理解できよう。無論、こうした分類は、ただ古代史理解
のためだけになされたわけではない。ヒュームは同時代の世界を理解するために、この分類を行ったの
である。
帝政ローマが衰退した後に普遍的君主国を目論む勢力がなくなったわけではないことを、ヒュームは
述べている。
封建的君臣関係と民兵制が廃棄された時、人類はまた新しく、普遍的君主国の危機に脅かされた。
それは多くの王国、公国が皇帝カール5世のもとに統合されることから起きたのである(13)。
しかし、このハプスブルグ家という勢力が崩壊し普遍的君主国は実現しなかった。それは帝国に対し
て「立ち上がった全ての砦を打破する」前に「自らが内部的欠陥によって崩壊した」ためである(14)。そ
れは「広大ではあるが、分割された支配領地であった」ことと「主に、金や銀の鉱山から富を得てい
た」ためである。この勢力は「ばらばらにされ、富は浪費される」結果となったと分析されている(15)。
そして「新しい強国がその後を引き継いだ。この強国はヨーロッパの自由にとって、より恐るべきも
のである。それは前者の(ハプスブルグ家の)利点を全てもっており、偏狭と迫害の精神を除けば、欠
点を共有していないのである」と述べている(16)。この「強国」とはもちろんフランスのことを指してい
る。当時のフランスが普遍的君主国を目指すものであるという認識をヒュームも理解していることは疑
いないであろう。
ヒュームの古代に関する議論はまさに、当時の諸国間の状態を適切に認識するためのものであった。
こうして、フランスが普遍的君主国を目指す勢力であることが歴史的に位置づけられたのである。
ここでヒュームが述べていることは、ウエストファリア条約以後に形成された、主権国家体制とそれ
に対する挑戦のことと解釈することができる。ウエスト ファリア条約が意味するのは、教皇に代表され
る教会が担っていたヨーロッパ全体の秩序を、一括して一つの主体に担わせることを放棄したというこ
とである。このウエストファリア条約を契機に個別の主権国家が、互いに突出することを抑制しながら
並存するという主権国家体制が構築された(17)。この主権国家体制をいかにして支えることができる
か、ということは、常に問題であった。その一つの回答が勢力均衡原理であったのである。むろん、こ
の対立は覇権国か多元的秩序かという現在までの大きな流れの中に位置づけられるものであるが、普遍
的君主国は単なる覇権国家ではなく、その極端な一形態であることはこれまでの議論から明らかであ
る。
この場合の、突出しようとする国家こそが、ヒュームの議論において、いやヒュームに限らず、当時
の議論において普遍的君主国と呼ばれた国家であった。17世紀以来、
「貿易が権力と支配の鍵である」と
いう信念が存在しており、その意味で「海洋を制することが普遍的君主国の鍵である」と考えられてい
た(18)。オランダの後にはフランスが、その普遍的君主国を目指すものと捉えられていたのである(19)。
106
ヒュームの議論もそれを前提にしたものであると言えるであろう。モンテスキューもフランスを念頭に
おいて普遍的君主国を論じている(20)。モンテスキューは、好戦性(bellicisme)と専制体制への傾向ゆえ
に、普遍的君主国を批判したのであった。ヒュームにおいてもそれは同様であり、したがってヒューム
やモンテスキューは、現在から見れば、主権国家体制の擁護論を展開したと理解することができる。
このように普遍的君主国を批判するのは、むろん現実に普遍的君主国を目指す勢力が存在していたか
らであるが、それだけでなく理論的に普遍的君主国による国際秩序を論ずる流れが存在していたことは
無視できないであろう。前述のように、教会の支配から国家が自立していく過程で生まれた普遍的君主
国という概念は、例えばゲラシウス派の流れを受け継いだダンテによって擁護される。ダンテは世俗を
統治するものは教会ではなく普遍的君主国であるとした。この議論の力点は世俗の教会支配からの脱出
にあるのであり、教会と国家という「並立する二つの組織は、究極的に神に対して答責があるのであ
り、相手に対してはない(21)」のである。つまり教会の支配を国家が受けるべきではないと考えたのであ
る。こうして、「共通した基準を有し、法が全て生来備わっている人類は普遍的君主国によって治めら
れ、その共通の法によって平和に導かれなければならない(22)」。こうした形で普遍的君主国は擁護され
たのである。しかし、教会から国家が脱却するという形でなく、国家が教会に服従する形で普遍的君主
国を求めるという議論が後に展開される。カンパネッラがこうした議論を代表するのであるが、それは
むろん、イタリアの混乱をいかに解決するか、という問題が直接的な問題であった(23)。「カンパネッラ
は、スペインという極めて巨大な君主制ですら、世界を統合し、カト リック信仰を広めることが不可能
である傾向にあることを強調はしたが、彼にとっては、普遍的君主国は成功した政治的支配の示すもの
で、古代からの偉大な帝国によって人類史の過程において使われてきた概念であった」のである(24)。
こうした普遍的君主国擁護論は、当然、当時では主権国家体制に対する理論的挑戦として現れる。主
権国家体制は形成されたばかりで、体制としての安定を確保しているとはいえない時期であったことを
考えると、主権国家体制を理論的に定式化することもまた要求された時期であったといえよう。こうし
たことを考慮すると、ヒュームの議論の位置は明らかになる。つまり、古代から断続的に現れた普遍的
君主国と、それを理論的に擁護する議論に対してなされた、主権国家体制の正当性を定式化する議論の
一環として、ヒュームの議論は理解されるであろう。この普遍的君主国に基づく世界秩序を主張する理
論に対して、主権国家体制を正当化する議論は、勢力均衡に基づく国際秩序を主張し、両者は競合関係
にあったと理解することができる。なぜなら「普遍的君主国は個々の国家が自らの権力の本来的な範囲
を越えようとする試みであり、この試みは勢力均衡を通じて作り出された国際関係の安定を破壊する暴
力的かつ強制的な措置である」と認識されることになるからである(25)。ヒュームの勢力均衡論は、まさ
にこうした認識に依拠していることは明確なのである。
「実際には現在ですら、推論家には一般的に知ら
れ認識されてはいるが、勢力均衡原理は実践においては世界を統治する人々には権威として十分に普及
してはいない(26)」とヒュームが言及しているのは、この二つの秩序思想が競合状態にあり、いずれも完
全な優勢を獲得していないと認識されていることを示しているものである。
以上から、二つの秩序思想の競合の中にヒュームの議論が位置づけられることは明らかになった。と
すると、次に問題となるのは、ヒュームの議論の独自性である。つまり、ヒュームの議論は、この勢力
均衡に基づく国際秩序思想の流れの中に埋没してしまうものなのだろうか、ということである。
この点に関しては、ユトレヒト 条約を歴史的にどのように位置づけるか、ということが重要になる。
スペイン継承戦争の終結をもたらしたユトレヒト条約が意味したのは、まずもって、フランスの拡大政
策が失敗したということであった。モンテスキューはこの条約の意義を理解していた。そして普遍的君
主国は成功しないことを論じたのである。「ヴェルサイユの政治経済学者が、1670年から(1713年の)ユ
107
トレヒト の講和の間に行った外交政策批判を越えて、モンテスキューは普遍的君主国という概念を用い
て次のことを示したのである。つまり、諸国民の法が『普遍的な平和』を必ずや構築することになる、
ということである。なぜなら、どの国家も他国に対して恒久的な優越を行使することはできないからで
ある」(27)。モンテスキューはこのようにユトレヒト 条約以降の国際関係を認識し、フランスの拡大政
策、つまり普遍的君主国を目指すことが適切でないことを、可能性と正当性の両面から論じたのであっ
た。
当時のフランスをいかに評価するかは当時一つの問題であった。フランスは普遍的君主国を目指して
いるのか否かという点で議論は分かれるのである。ユトレヒト 条約以降、フランスは拡大政策を放棄し
たと評価する見方は、「
『法の精神』が出版された時点で、フランスがイギリスにとって再び脅威となっ
たということによって」批判されることになる(28)。
ヒュームは前述のようにフランスが普遍的君主国であるという認識を理解していたし、現実にヨー
ロッパから普遍的君主国が消え去ったとは考えていなかった。しかし、ヒュームは後にフランスが普遍
的君主国であるとは認識しなくなった。ここでヒュームが念頭に置いたのは実はイギリスである。ユト
レヒト 条約で最大の受益国はイギリスであり、イギリスは商業帝国と化していったことがヒュームの認
識の中では重要性を増したのである。前述のように、貿易が権力と支配の鍵であり、海洋を制すること
が普遍的君主国の鍵であった。イギリスがその可能性を持っていることをヒュームは重要視したのであ
る。ヒュームが自らの勢力均衡論の最後部において「我々の犯した行き過ぎ」を論じているのは、その
ことを現していると理解することができよう(29)。ユトレヒト条約以降は、商業的な秩序が拡大し普遍的
君主国に対抗するものとなった。しかし、ヒュームはその秩序からも普遍的君主国が生まれる可能性を
認識していたということになる。こうしたことを前提とすると、ヒュームの議論は、当時の普遍的君主
国論に対して独自の視野からアプローチしたものであると解釈することができる。
ウエスト ファリア条約以降形成された主権国家体制は、国際秩序として完全な確立を獲得しておら
ず、その思想的表現が普遍的君主国に基づく世界秩序思想と、勢力均衡に基づく国際秩序思想の競合状
態であったといえよう。ユトレヒト条約がもたらした普遍的君主国の現実的失敗は、しかし完全な消滅
とは認識されなかった。普遍的君主国に基づく世界秩序思想の衰退を意味するとは考えられなかったの
である。これまでの考察によれば、その中でヒュームはその競合関係の存続を認識していたと理解する
ことができると思われる。ヒュームはこの商業的秩序が発展した時期において、新たな普遍的君主国の
出現可能性を認識していたのである。このヒュームの勢力均衡論は、こうした国際秩序思想の競合関係
において理解されなければならないであろう。
注
(1) Hume, Of the balance of power, Essays , p.336.
(2) Hume, Of the balance of power, Essays , p.336.
(3) Hume, Of the balance of power, Essays , p.335.
(4) Hume, Of the balance of power, Essays , p.341.
(5) Franz Bosbach, The European debate on universal monarchy, ed. by David Armitage, Theories of
Empire,1450‐1800, Ashgate, 1998, p.81.
(6) Ibid., p.82.
(7) このことについては、様々な文献において論じられていることだが、とりあえず以下の文献を参照
のこと。Pierre Manent, Histoire intellectuelle du libéralisme , Calmann‐Lévy, 1987, p.21. Carl Schmitt,
Der Nomos der Erde , 4 Aufrage, Dunker und Hunblot, 1997,S.27,(邦訳、新田訳『大地のノモス』
108
上巻、福村出版、1976年、27頁)
(8)
こうし た王権の優越を主張する「国家派」については、以下の文献を参照。Otto von Gierke ,
Das Deutsche Genossenschaft , Dritter Band, Akademische Drucke‐U. Verlagsanstalt, 1954, S.533.
(邦訳阪
本訳『中世の政治理論』ミネルヴァ書房、52頁)。また、こうした教権についての変容に関しては、
J.B.モラル、柴田訳『中世の政治思想』平凡社(ライブラリー版)、2002年、の第7章も参照されるべ
き基本的な議論であろう。
(9)
Bosbach, op., cit., p.82.
(10)
Réflections sur la monarchie universelle en Europe, 1733.である。これは、1727年頃に執筆された
とする説もあるが、いずれにせよ、1734年に出版された『ローマ盛衰原因論』と執筆時期は大き
く変わらない。本稿で参照し た版は以下のものである。Montesquieu , Introduction et notes par
Michel Porret, Réflections sur la monarchie universelle en Europe , Librairie Droz, Genéve, 2000.
(11)
Montesquieu, monarchie universelle , p.71. このモンテスキューの立論の仕方はヒュームのそれ
と酷似しているといってよいだろう。このことは以下の文献でも僅かに触れられている。Michel
Porret , Introduction , Montesquieu , op . cit ., p .43 . 時 間的 関 係 か らし て モ ン テ ス キ ュ ー の
monarchie universelle の方が早いが、このパンフレット は出版直後に、販売中止とされているた
め、ヒュームが直接目にしている可能性は極めて低い。しかし、この立論の酷似ぶりはその可能
性をゼロとし がたいものがある。こうした議論はともかく、このモンテスキューのmonarchie
universelle の議論は後の『法の精神』の中に織り込まれており、ヒュームはそれを読んだことは
間違いない。その意味でヒュームがモンテスキューの議論を参照していることは疑いないもの
の、ヒュームが論じているのは、やはり独自なことだと思われる。このヒュームの議論の独自性
については後述する。
(12)
Michel Porret, Introduction, Montesquieu, op. cit., p.31. こうしたモンテスキューの議論につ
いては、押村高「モンテスキューの国際関係思想―18世紀ヨーロッパの構造的変動と国家理性観
の修正(上下)」
『青山国際政経論集』31号,1994年,35号,1995年、が全体的な見通しを与えてお
り、参照されるべきであろう。
(13)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.338.
(14)
Ibid.
(15) 神聖ローマ帝国の衰退の原因として「金銀の鉱山から富を得ていた」ことを挙げているが、
ヒュームはその説明をあまり詳しくはしていない。それはおそらく、詳細な説明が不要だと考え
たからであろうが、この議論についてはモンテスキューが詳論している。つまり金銀はモンテス
キューによれば「標識の富」であり、量の多寡によって価値が変動する。そして実際にアメリカ
貿易によってヨーロッパに金銀が多量に流入してきた時に、ハプスブルグ家の財産の価値は減少
する こ と に な っ た の であ る。こ の こ と を モ ン テ スキ ュ ー は 1728 年 に Considérations sur les
Richesses de l 'Espagne という論文で述べたが、同様の議論を繰り返し用いている。Montesquieu,
monarchie universelle , XVI,
(pp.96‐103)または『法の精神』21編22章を参照のこと。
(16)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.338.
(17)
しばしばウエスト ファリア体制とも呼ばれるこの体制に関しては、様々な文献で言及されてい
る。例えば、ナイ、前掲書などを参照のこと。現代のグローバリゼイションに向かう国際関係の
流れの中で、比較的詳細に論じたものとしては、田口富久治、鈴木一人『グローバリゼーション
と国民国家』青木書店、1997年、とりわけ第3・4章を参照のこと。
109
(18)
Steven Pincus, The English debate over universal monarchy, ed . John Robertson,A union for empire:
Political thought and the British union of 1707, Cambridge U.P.,1995, p.40‐42.
(19) Ibid., p.44‐45. フランスはコルベールの重商主義政策によって、台頭してきたものである。
(20) このことがモンテスキューの普遍的君主国論が回収される原因となったとされている。
(21) John Ehrenberg, Civil society:the critical history of an idea , New York University, 1999, p.50.
(22) Ibid., p.50.
(23)
カンパネッラについては以下の文献が参照されるべきであろう。フリード リヒ・マイネッケ、菊
盛・生松訳『近代史における国家理性の理念』みすず書房、1960年、第4章。
(24) Michel Porret, Introduction, Montesquieu, op. cit., p.31.
(25)
Franz Bosbach,Monarchia Universalis: Ein politisher Leitbegriff der frühen Neuzeit, Vandenhoek und Ruprecht,
1988, S.123.
(26) Hume, Of the balance of power, Essays , p.338.
(27) Michel Porret, Introduction, Montesquieu, op. cit. p.58.
(28) John Robertson, Universal monarchy and the liberty of Europe, ed. Nicholas Phillipson and Quentin
Skinner, Political discourse in early modern Britain , Cambridge U.P. 1993, p.368.
(29) こうしたヒュームの認識の変化について、ヒュームの勢力均衡論の改稿を綿密にたどり、論証
したものとして、ロバートソンの研究は説得力を持っている。Robertson, op. cit. なお、こうした
海洋国家イギリスの問題はバランサーとしての問題であり、大陸型ではない、まさに勢力均衡に
関するイギリス的アプローチ特有の問題でもある。このようにヒュームの関心はイギリスに収斂
していくが、具体的にイギリスがどこと同盟関係を形成していくべきかといった政策提言はほと
んどない。それはヒュームがイギリスについて論ずる理由が、
「自国」のことだからではないこと
と関わりがあるであろう。ヒュームは新しい普遍的君主国の誕生を危惧しているのである。バラ
ンサーが商業関係から周辺諸国に余りにも深く関与しすぎ、自らの商業的版図の普遍的君主国と
なる可能性をもってしまったことがヒュームの議論の焦点である。その点から、ヒュームの議論
の状況論的性質と非政策論的性質が浮かび上がってくるであろう。
Ⅲ 均衡という善と文明社会
Ⅱの議論では、ヒュームの議論がどのような文脈で理解されなければならないか、ということに焦点
を合わせてきた。しかし、これまでの議論で前提とされ、議論のないままに素通りされてきたことがあ
る。それは、勢力均衡に基づく国際秩序思想というものがいかなる思想的基盤をもっているか、という
ことである。
ウエスト ファリア条約以降形成された主権国家体制において、それを支持する政治的原理として現れ
たのが勢力均衡であった、ということはすでに述べたが、その結びつきが、何の疑問もなく理解される
べきものであるかどうか、というのは一つの問題であろう。少なくとも、主権国家体制はその支持原理
として勢力均衡を必然的に選択する、ということは自明のことではない。当時から勢力均衡に関して
は、ポジティヴな評価からネガティヴな評価まで様々な議論がなされていたのである。つまり実際に
は、勢力均衡原理に対しては批判的意見も少なからず存在していたことを念頭に置かなければならない
であろう(1)。時間的に見て後のことになるが、カント は明確に次のように述べている。
110
互いに他国を征服し、その所有物を奪い取ろうとする意思は、いつの時代にもある。だから、防衛
のための軍備は、決して弱めるわけにはいかない。そのために平和が何と戦争以上に重苦しくなり、
国内の福利を破壊することがしばしばあるとしてもである。さて、このような事態に対する対抗手段
としては、威力を伴っていて、全ての国家が服従せざるをえないような公法に基づいた国際法以外に
は不可能である。というのも、いわゆるヨーロッパにおける勢力均衡によって維持される普遍的平和
は、スウィフト の話に出てくる家と同様に、単なる妄想に過ぎない(2)。
こうした批判はカント ばかりでなく、いわゆるイギリス理想主義の流れ、とりわけ、コブデンやブラ
イト によってもなされており、これが第一次大戦後のウィルソンによる国際連盟という集団的安全保障
体制へと結びついてゆく(3)。こうした批判の存在を鑑みるに、前述の問題、つまり、主権国家体制は必
然的にその支持原理として勢力均衡を選択するのかどうか、ということには否定的な回答がなされざる
を得ないように思われよう。
しかしヒュームはこうした集団的安全保障体制についての論議は念頭においていない。まず彼にとっ
て、いや少なくともその時代にとって優先的な問題であったのは、Ⅱにおいて論じたように、普遍的君
主国という脅威であった。その点からするとヒュームの議論を検討するに当たっては、こうした集団的
安全保障体制論を視野に入れた勢力均衡批判はひとまず棚上げにすることになる(4)。だが、そうである
としても普遍的君主国に基づく世界秩序が忌避されるべきであるとする明確な論拠は何であるか、とい
う議論が、勢力均衡に基づく国際秩序思想を主張する論拠と直結するかどうかは検討が必要であろう。
したがって、ここでは次のような視角からヒュームの議論を解釈しなければならないということにな
る。つまり、当時の主権国家体制を構築する秩序として妥当であるのは、勢力均衡に基づく国際秩序で
あるとヒュームが論ずる論拠は何であるか、ということである。しかし、結論から述べると、ヒューム
の認識において普遍的君主国に基づく世界秩序であるべきではないとする論拠と、勢力均衡に基づく国
際秩序であるべきだとする論拠は表裏の関係にある、と思われる。ここでは、その論理がどのようなも
のであるか、ということを順次検討することとしたい。
このことを検討するためには、一旦、勢力均衡がいかなるものであるのかということを確認しておか
なければならないであろう(5)。
勢力均衡原理は、前述のように、個々の国家が並存した状態において機能する原理である。これは実
際には主権国家体制において機能する原理であることを意味していたのだが、こうした状態は、換言す
れば、教会の権威が衰退したままの状態と本質的には変わらない状態であるといえよう。というのは、
世界秩序という面から見れば、教会は最終的な秩序の担い手であったからである。教会の権威の衰退は
ヨーロッパの一元的な秩序の担い手の喪失を意味するのであって、それは各領主の並存も意味したので
ある。その地平から見れば、主権国家体制は、教会の権威の衰退した前後と本質において何ら変わりは
ない。つまり、混乱を内包した状態であることは否定できないのである。実際に、その混乱が表面化す
ることもあったことは言を俟たない。勢力均衡原理は、この状態そのものの変革をもたらしたわけでは
なく、単に内包された混乱の表面化を防ぐための原理なのであった。それは均衡(バランス)という概
念によって可能になるとする原理なのである。つまり、均衡が認められれば、その状態は安定するであ
ろう、という定式化が、勢力均衡という政治原理の本質に存在しているのである。大陸型のアプローチ
でもこの定式化そのものが否定されているわけではなく、この定式化の内実を探るために、均衡とは何
かが問われることになったのである。例えばカーレはそれを領土的均衡とも捉えている。
こうした定式化は次の二つの形式をとって論じられた。つまり、安定をもたらす均衡は必ず実現す
111
る、という形式と、安定をもたらす均衡は自動的には達成されないために、均衡実現への努力が必要で
ある、とする形式である。前者の、自動的に達成されるという機械論的形式をもった議論はルソーに代
表されるものであり、それなりに根強いものであったが、ヒュームはこうした機械論的形式は採用して
いない(6)。ヒュームは、むろんのこと、後者、つまり均衡実現のために努力が必要であるという形式を
もって論じている。こうした議論は勢力均衡に関するイギリス型アプローチの特徴であり、バランサー
という概念を生み出したのだが、こうした議論の前提には、均衡は実現されるべきだとする認識が潜ん
でいる。つまり、均衡は、ヨーロッパにとって、達成されるべき善であると思惟されているのである。
そして、このように「均衡は自然的かつ優越的な善である」とすることは、当然、劣位の善を設定す
ることになる。つまりヨーロッパの安定を維持するためには、均衡という善が優先され、そのためには
犠牲にされるであろう善が存在することになる(7)。それは端的にいって、戦争がないという意味での平
和である。逆説的なことだが、勢力均衡は、安定をもたらすために戦争を要求する場合がある。この戦
争は、むろん普遍的君主国の台頭を防ぐための戦争を意味するのである。「支配大国(帝国)の出現をお
さえ、大国がその生存を保障しあう」ためには「戦争もあったし、中小国を併合、分割することもあっ
た」のである(8)。
となると、なにゆえに均衡が善とされるのか、ということは重要な問題であろう。この問題はヒュー
ムの時代においては、次のように換言することもできる。つまり普遍的君主国による安定は、なにゆえ
に求めるべきではないのか、という問題である。このことをヒュームはどのように理論化していたかが
検討されなければならない。この際にも、古代と近代における勢力均衡の比較が手がかりになる。
ヒュームによれば古代、つまりギリシャの戦争は勢力均衡のためになされたものが多い。
ギリシャ人の戦争は、歴史家によると、政策(politics)に基づいた戦争というよりは、競争心
(emulation)に基づいた戦争とされたが、それは真実である(9)。
ここで注目しなければならないのは、ヒュームが勢力均衡の原動力として認識しているものは何か、
である。ここでは「政策」と「競争心」という概念が、原動力として対立的に述べられている。この区
別は何を意味するのであろうか。このことは、ヒュームの以下のような言及から、より明確になるであ
ろう。
我々は以下のように結論づけるべきであろう。つまり、ギリシャにおいては、勢力均衡は守られた
のだが、それは、他の時代では必要とされたであろう慎重さは必要とされなかった。しかし、ギリ
シャの共和国はどこも、味方する陣営をしばしば変えたが、その理由が、
『猜疑による競争心(jealous
emulation)
』からであれ、『慎重な政策(cautious politics)』からであれ、その結果は同じであった(10)。
ここでヒュームが「他の時代」として言及しているのは、これまでの行論からして、むろん「近代」
のことであることは疑いない。とすると、ここでヒュームの念頭にあるのは次のようなことであるとい
えるであろう。つまり、古代における勢力均衡は、
「猜疑による競争心」
によるものであり、近代におけ
る勢力均衡は「慎重な政策」に基づくものである、ということである。このことは前段における区別と
明らかに対応している。つまり、「競争心」は「猜疑心」と密接な関係を持った概念であり、また「政
策」は「慎重さ」と密接な関係を持った概念である。
この「慎重さ(caution)」という概念は、ヒュームにおいては「慎慮(prudence)」という概念と等価で
112
ある。例えば、本稿のⅡですでに引用した次のような言及が、それを示していることに気づく。
当時、この(勢力均衡という)格率が一般的に知られていなかったという証拠でこれ以上に有効な
ものがあるであろうか。古代の著作家はこうした政策が慎慮を欠くもの(imprudence)であると言及し
なかったのである(11)。
これはローマに関する言及であり、それゆえにギリシャの場合と区別される。このように「慎慮」が
ないということは、勢力均衡原理が起動しない理由なのである。
こうした議論からすると、
「猜疑心」、「競争心」と「慎重さ」、
「慎慮」(政策)は対立的な情念であ
り、古代と近代にそれぞれ対応するということ、またこうした情念にしたがって勢力均衡という原理に
基づいた政策が実行されたということのように思われる。さらにそれに加えて、「猜疑心」や「競争心」
に基づいた古代の勢力均衡政策と、「慎重さ」や「慎慮」に基づいた近代の勢力均衡政策とは、同等なも
のとして認識されているわけではないことは注意すべきであろう。
時の流れが生み出す様々な変化、あるいは政治の領域に関して生み出すであろう変化について、私
は以下のようなことを見て取ることができるといわざるを得ない。つまり、自由な政体であれ、絶対
主義的政体であれ、あらゆる種の政府が、近代においては非常な改善に向かっているということであ
る。それは対外政策、国内政策の両面において言える。勢力均衡は、政策上の秘訣であるが、それが
十全な形で理解されているのは現在のみである(12)。
こうしてヒュームにおいては、明確な進歩の観念が想定されているのであり、勢力均衡原理について
も、近代において完成したと認識されている。この点からしても、古代の勢力均衡原理は不完全なも
の、少なくとも萌芽的形態において存在していたものと認識されているのである。
しかし、このように定式化したときに、ヒュームの次のような言及は混乱をもたらすことになる。
アレクサンド ロスの後継者たちは、互いに強い猜疑心を持ち、勢力均衡を維持していたことがわか
る。この猜疑心は真の政策と慎慮に基づいており、そのためにあの有名な征服者(アレクサンド ロ
ス)の死後になされた分割がしばらくは維持されたのである(13)。
むろん、上記の定式化にとって問題なのは、「真の政策と慎慮に基づいて」いる「猜疑心」がヒューム
によって認識されている、ということである。これまでの対立的な情念による定式化は全くの誤りなの
であろうか。
この問題は「猜疑心」という情念についてヒュームがどのように理解していたのか、ということの解
明によらなければならないであろう。実は、近代にあっても「猜疑心」というものがなくなるはずはな
い。また、なくなるべきものでもないのである。それは、支配と自由というテーマを考察する際に、重要
な局面で機能する情念なのである。
これをヒュームは帝政ローマとイングランド との比較で論じている。
帝政ローマの統治は専制と自由が混交しているが、そこでは専制が勝っていたと考えられる。それ
に対しイングランド の統治は、同様の混交が存在するが、そこでは自由が勝っていると考えられる。
(中略)ローマ皇帝たちは、その多くが、人間本性を貶める、極めて恐るべき暴君であった。そして、
113
彼らの残忍さは彼らの猜疑心によって高揚させられたのである。
こうしてローマにおいては「猜疑心」が極めて不適切に機能していたとヒュームは認識する。他方イ
ングランド の「猜疑心」はどうか。
それに対して、イングランド においては、君主制の要素も多分に交えているものの、共和制的な統
治が勝っているが、これを維持するために、為政者に対して用心深い猜疑心を抱きつづけ、自由裁量
的権力を排除し、一般的で不変の法によって全ての人の生活と財産を保護するということになる(14)。
イングランド の統治において「自由が勝っている」のはこうした理由なのである。この場合の「猜疑
心」という情念は、出版という形で表現されるが、支配と自由というテーマにおいては、不可欠なもの
と認識される。しかしこうした出版という形式を取った「猜疑心」も全面的に肯定されるわけではない
ことに留意する必要がある。
しかし以下のようなことは認められなければならない。つまり、出版の無制限な自由には弊害があ
り、その弊害に対する適切な処方箋を提出することは困難である。それどころかおそらく不可能と
いってもいいが、こうした自由は統治の混合形態を採用することに伴う害悪のひとつである、という
ことである(15)。
このことが意味しているのは、明らかに、出版という形式をとった「猜疑心」の使われ方の問題であ
る。使われ方によっては「猜疑心」という情念は、やはり害悪をもたらすのであって、そのことは帝政
ローマの場合と同様なのである。こうした出版の自由も「無制限」であってはならない。これを換言す
れば、「猜疑心」も度を過ぎてはならないということになろう。このことは、「猜疑心」という情念を
「穏やかな」ものにすることを意味している、と理解することに困難はない。
この「穏やかな」ものにすることというのは、まさにヒュームの情念論のキー・ワード であり、繰り
返す必要すらないであろう(16)。「穏やか」にされた「猜疑心」こそがイングランド の自由を保護するの
である。
また、このことは支配と自由というテーマにおいてばかり問題になるわけではなく、学問や芸術の進
歩というテーマにおいても重要となる。
多数の隣接しあった国家において、諸技術や商業の交流が盛んである場合、相互に猜疑心を抱くた
めに、趣味や推論についての基準、規範をやすやすと受け入れるというようなことはしなくなる。そ
してどんな作品であれ、極めて注意深く正確に検討しようとするようになるのである(17)。
「猜疑心」はこのように学問や芸術の批判、批評精神の進歩を促すものとして理解されている。この意
味で「猜疑心」がなくなることは、その進歩の停滞する理由を増やすことと認識され、近代になってな
くなったものでもなければ、もとよりなくなってよいものでもない、ということになるであろう。
こうした考察から振り返ってみると、古代の勢力均衡はいかなることになるであろうか。古代の勢力
均衡の原動力である「猜疑心」は、まだ十分には穏やかにはされていない「猜疑心」であり、近代の勢
力均衡の原動力である「慎重さ」は、穏やかにされた「猜疑心」であると理解することができると思わ
114
れる(18)。このことを前提とすれば、「慎重さ」に基づいた「猜疑心」という認識を理解することができ
よう。
こうしたことは「猜疑心」と並んで、古代の勢力均衡の原動力とされていた、「競争心」という情念に
ついても当てはまる。「競争心」という情念をヒュームがどのように捉えていたかを確認してみよう。
隣接しあった国家の間で自然的に発生する競争心は、明確に、進歩の原因をなす(19)。
やはり「競争心」も、「猜疑心」と同様に、学問や芸術の進歩を促すものである。ヒュームは「人民に
よる統治」と「専制的統治」を比較してみると、こうした進歩の原因である「競争心」は「人民による
統治」のもとでの方が「活気付き、鼓舞される」と論じている。もちろん、重要なのは「自然的に発生
した」競争心が進歩の原因であることにある。特殊な、あるいは人工的な競争心はヒュームの念頭にな
い。
「競争心」を越えたものとして「野望」という情念が挙げられるが、これは国際的な文脈で言えば普
遍的君主国を突き動かす情念なのである。
以上の議論をまとめると、近代においても「猜疑心」や「競争心」は存在しており、このことからす
れば近代の勢力均衡を支える「慎重さ」あるいは「慎慮」というものは、「猜疑心」や「競争心」を排し
たものではなく、こうした情念を抑制すること、つまり「穏やかな」情念とすることを意味していると
理解するべきであろう。まさにヒュームの理解においては、
「ヨーロッパは、ギリシャという小さなパ
ターンの拡大コピーなのである(20)」がゆえに、全く切り離されているとは考えられないのであって、そ
れはいかなる局面においても該当するはずのものなのであることを念頭におけば、こうした理解の妥当
性は明らかである。
ここでヒュームが近代の勢力均衡を論ずる際に、念頭においていることがわかる。それは、当然なが
ら、
「猜疑心」や「競争心」に関して言及するときに、ヒュームの念頭にあるものである。それはいずれ
の情念も適切に機能する条件、ないし土壌として示されている、「隣接しあった国家」という状態であ
る。
「猜疑心」であれ「競争心」であれ、「隣接しあった国家」において機能するのであり、そうした異
なる政治的単位が存在しなければ、「猜疑心」も「競争心」も適切には機能しないであろう。
「猜疑心」や「競争心」が機能しなければ、学問や芸術の進歩を促す要因がなくなる、あるいは減少す
ることは疑いないのであって、ヨーロッパの停滞は回避できないことになるのである。
多数の国家が隣接しあい、かつ独立を保っていながら、商業と政策によって結ばれている、という
状態ほど礼儀や学問の生成にとって好ましい状態はない(21)。
ヒュームはヨーロッパのあるべき姿をこのように描写している。この「政策」の中に「勢力均衡」が
含まれていると考えることにさしたる困難はないであろう。こうしたあるべきヨーロッパ像を、
「文明社
会」と呼ぶことができる(22)。
ヒュームは文明社会というあるべきヨーロッパ像をなによりも優先的な価値としているのであると
すると、本節の当初の問題が理解できるであろう。つまり、なにゆえに均衡が善となされるか、という
問題である。戦争がないという意味での平和、という価値を劣位の善として犠牲にしてまでも、均衡と
いう善を優先すべき論拠は、ここに見出すことができるであろう。つまり、文明社会というあるべき
ヨーロッパ像を価値として認めているがゆえに普遍的君主国による世界秩序は認められないのであ
る。そして個々の「国家が隣接しあい、かつ独立を保っていながら、商業と政策によって結ばれてい
115
る、という状態」は、
「猜疑心」や「競争心」を適切に機能させ、その結果、学問や芸術の進歩を促す。
このことによって文明社会と呼ばれるヨーロッパの状態が達成されうるのである。こうした文明社会を
支持しうるがゆえに、適切に抑制された情念を基盤としている勢力均衡こそが、国際秩序のあり方とし
て積極的に評価されるのである。
このような論理をもって、ヒュームは自らの国際秩序思想を、勢力均衡に基づく国際秩序として位置
づけたのである。こうした考察を前提とすると、以下のヒュームの言及は十全に理解できるであろう。
第一に、我々は、近代的政策である慎慮に基づいた見方によってよりも、古代ギリシャの精神であ
る、猜疑による競争心に取り付かれてきたと思われる(23)。
このイギリスの対外政策についてのヒュームの懸念は、まさに「猜疑心」や「競争心」の適切な抑制
に失敗してきたことを論拠としている。つまり、ヒュームの勢力均衡論においては、勢力均衡の失敗
は、「猜疑心」や「競争心」といった情念の抑制の失敗として認識されることになる。そしてイギリスが
その失敗を犯そうとしていることを、
「野望」という情念に基づいたフランスという普遍的君主国よりも
懸念しているのである。そのことは、以下の言及が端的に示しているであろう。
したがって今や以下のことが理解される。つまり、フランスとの戦争の半分と、全てのわが国の公
債の原因は、隣国の野望よりも、我々の、慎慮を欠いた熱狂に帰される、ということである(24)。
ヒュームのイギリスに対する懸念は、このように彼の勢力均衡論の帰結であった。ヒュームはフラン
ス革命を目撃することがなかったが、これまでの議論からすると、ヒュームがフランス革命をどのよう
に理解するかは、問うことが禁じられていると知ったうえでも、関心を持たざるを得ない事柄ではあ
る。バークはこのフランス革命に際して、フランスを明確に普遍的君主国と位置づけ、それに対抗すべ
きことを、勢力均衡に基づく国際秩序の立場から主張した。バークがヒュームから多大な影響を受けた
ことはよく知られているが、もとよりバークはヒュームとは異なる思想家であり、バークの理解を直接
ヒュームの理解に重ね合わせることはできない。しかし、バークの国際秩序思想の検討をなす文脈とし
ても、ヒュームの議論は念頭に置かれるべきものである(25)。
注
(1)
当時の議論の流れを概括的に論じたものとしては以下の文献が参照されるべきであろう。 Martin
Wight , The balance of power , ed . Butterfield and Wight , Diplomatic investigations , George Allen and
Unwin, 1966. とりわけ勢力均衡論批判についても述べられている。Ibid., p.170, 例えば前述の勢力
均衡に対する大陸的アプローチはこうした批判に向かうものであった。
(2)
Immanuel Kant, Über den Gemainspruch ,Schriften zur Anthropologie, Geshichts‐ philosophie, Politik
und Pödagogik 1, Suhrkamp, S.171‐2 (邦訳「理論と実践」
『カント全集』14巻、岩波書店、222頁。
なお引用に当たって訳文に変更を加えた)
(3)
Wight, op. cit., p .171 , この点に関しては次の文献も参照のこと。Martin Wight, The balance of
power and international order, ed. Alan James, The bases of international order Oxford U. P. , 1973, p.110.
また、本稿では深く論じないが、集団的安全保障体制と勢力均衡原理との関係には、その連続性と断
絶性について議論がある。連続性に関してはWight, The balance of power and international order あるい
は、ハンス・モーゲンソー『国際政治』福村出版、1986年、とりわけ206―7頁、を参照のこと。その
116
断絶については、高柳、前掲書を参照のこと。
(4)
たとえこうした集団的安全保障体制の議論をヒュームが視野にいれていたとしても、それをヒュー
ムが支持したかということは疑問である。というのは、ヒュームはこうした契約という側面をもつも
のについては、懐疑的であって、自然的にあるいは自生的に構成された秩序というものを評価してい
るからである。その意味で勢力均衡に基づく国際秩序はヒュームの考えるコンヴェンションに近いも
のであって、ヒュームがこれを支持した理由はこうした点にもあると考えることができよう。この点
は以 下 の 文献 を 参 照 のこ と。Frederick G . Whelan , Robertson , Hume , and the balance of power ,
Hume Studies , Vol.XXI, No. 2, 1995, p.322.
(5)
勢力均衡という言葉の内実が、実は多種多様であるということは良く知られている。このことにつ
いて網羅的に整理され考察が加えられたものとしては以下の文献が参照されるべきであろう。Ernst
Haas , The balance of power: Prescription , concept or propaganda?, World Politics, Vol .5 , 1952‐3 ,
Wight, The balance of power, 初瀬龍平「勢力均衡の理論と検証」日本国際政治学会編『国際政治』第
74号、1983年。ただしここでは、こうした精緻な分析には深入りしない。
(6)
こうした「見えざる手」という概念素材は存在したにもかかわらず、ヒュームはこの「見えざる
手」による均衡の構築という理論によって勢力均衡を論じていない。こうした点については以下の文
献によっても指摘されている。Whelan, Robertson, Hume, and the balance of power , p.319.
( 7 ) M . S . Anderson , Eighteen‐century theories of the balance of power , ed . Hatton and Anderson ,
Studies in diplomatic history , Archon Books, 1970, pp.190‐191.
(8)
初瀬、前掲論文、18頁。
(9)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.334.
(10)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.334.
(11)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.336.
(12)
Hume, Of civil liberty, Essays , p.93. ヒュームのこの言及は極めて興味深い。なぜなら、ここでの
「勢力均衡」
という言葉には二つの意味が想定されうるからである。つまり、ここで論じている対外的
な勢力均衡と、国内的な勢力均衡、つまり権力分立の意味合いである。前者の意味合いが含まれてい
ることを疑う余地はないが、問題は後者である。「国内事象に関して均衡の原則(三権分立)を認識し
ている立憲国家は、対外政策において勢力均衡を採用する傾向がある」と当時は考えられていた
(Wight,
The balance of power and international order, p. 109)
。ヒュームは、前節でも検討したように、モンテス
キューの議論を十分に理解していたこともあり、まさにこうした国内事象と対外事象とのアナロジー
を認識していたことは十分にありうる。その意味で、ヒュームの勢力均衡論が国内事象からの類推を
基盤としていると推測することは故なしとしない。この引用部分の解釈如何で、類比的発想があった
と考えることは可能であり、それは本稿の趣旨とも矛盾しない。ここでは以下のことを確認しておけ
ばよいであろう。つまり、勢力均衡について正面から取り組んだ「勢力均衡について」というエッセ
イではこのことについて何ら明確な言及がなく、こうした類推のみで対外的勢力均衡をヒュームが正
当化していたわけではないということである。
(13)
Hume, Of the balance of power, Essays , p.335.
(14)
Hume, Of the liberty of the press, Essays , p.12.
この部分は最終版において加えられたものであ
(15)
Hume, Of the liberty of the press, Essays , p.13. る。ウィルクス事件を目撃したヒュームが付け加えたと言われており、ヒュームの立場が自由主義的
なものから、自由主義的でないものに変化したと考えられる例である、とする意見もあるが、それに
は反論もなされている。こうした指摘とその反論についての詳細は、神野彗一郎『モラル・サイエン
スの形成』名古屋大学出版会、1996年、250頁以降を参照すべきであろう。ただし、本稿ではこうした
ヒュームの立場の問題には触れない。
(16)
例えば、神野、前掲書、第2章第6節「穏やかな情念」を参照のこと。
117
(17) Hume, Of the rise and progress of the arts and sciences, Essays , p.120.
(18) こうした「穏やか」さをもたらすものは、まさに引用文中にあるように商業であると考えられてい
るであろう。この点においてヒュームの経済論と国際秩序論は結節する。しかし、この関係を論ずる
ことは本稿の目的から逸脱する面をもつばかりでなく、論点の重要さからしても別稿をもって論ずべ
き内容を持っていると思われる。このことについてはさしあたり以下の文献の手際よい整理が参照さ
れるべきである。アルバート・ハーシュマン、佐々木・旦訳『情念の政治経済学』法政大学出版局、
1985年。
(19) Hume, Of the rise and progress of the arts and sciences, Essays , p.119.
(20) Hume, Of the rise and progress of the arts and sciences, Essays , p.121.
(21) Hume, Of the rise and progress of the arts and sciences, Essays , p.119.
(22) こうした文明社会というヨーロッパ像については、近年のヒューム研究において著しい発展を見せ
ている。このことについては、ヒュームの思想の展開とともにこの概念を十全に跡付けている、坂本
達哉『ヒュームの文明社会―勤労・知識・自由』創文社、1995年、が参照されなければならない。
(23) Hume, Of the balance of power, Essays , p.339.
(24) Hume, Of the balance of power, Essays , p.339.
(25) バークの国際秩序思想については、こうしたヒュームの議論を必ずしも踏まえてなされたものでは
ないが、以下のものがある。Jennifer M. Welsh, Edmund Burke and international relations , St. Martins
Press , 1995 , Welsh , Edmund Burke and the Commonwealth of Europe , Clark and Neumann ed . ,
Classical theories of international relations, Macmillan Press,1996.(押村・飯島編訳『国際関係思想史』新
評論、2003年、第8章)、高橋和則「エド マンド ・バークと主権国家」池庄司編『体制擁護と変革の思
想』中央大学出版部、2001年など。
おわりに
本稿を閉じるに当たって、これまでに明確な回答を与えていなかった問題に言及しておきたい。それ
はⅠにおいて提示した問題、つまり勢力均衡という原理は、優れて近代の概念であり、古代には存在し
なかった、とする現在の認識についてである。こうした認識によれば、ヒュームは古代に勢力均衡原理
を求めたが、それを見出せずに終わり、近代に創出された概念であることを消極的ながら認めざるをえ
なかった、とヒュームの勢力均衡論は解釈される。こうしたヒューム解釈の妥当性について、幾通りか
の答え方が可能であろう。
こうした解釈は、国際関係についての当時の文脈、つまり勢力均衡に基づく国際秩序思想と普遍的君
主国に基づく世界秩序思想との対立関係についての理解を前提としていないために、ヒュームの議論を
誤って解釈している、と答えることも不可能ではない。ヒュームの議論は明らかにこうした対立関係の
文脈に即して展開されているのであり、帝政ローマを普遍的君主国として理解することは、この文脈に
おいては通常の議論となる。前述のようなヒューム解釈においては、確かに、この文脈が考慮されてい
るとは言い難い。
しかし、いわゆる普遍的君主国というものが教会と国家の関係において構成された歴史的概念である
ことを重視すれば、歴史を遡行して帝政ローマを普遍的君主国として位置づける、こうした当時の文脈
そのものの妥当性も翻って考察の対象とされなければならないであろう。近代の産物としての勢力均衡
を唱える立場からすれば、こうした点で、果たして帝政ローマを普遍的君主国と位置づけることができ
るのか、ギリシャの勢力均衡を勢力均衡と呼べるのか、というそれなりに妥当性のある懐疑を抱くであ
118
ろう。こうした懐疑に応えるために当時の文脈をナイーヴに受け止め、余りにも強固にギリシャと帝政
ローマを勢力均衡と普遍的君主国との構図に当てはめようとすれば、逆にヒュームの議論のもう一つの
主眼を見失うことになりかねない。ヒュームの古代と近代の峻別は、ギリシャの勢力均衡を現在のヨー
ロッパのそれと同一視するものではないし、ローマをフランスや将来のイギリスと同一視するものでも
ない。たとえ「オリジナル」と「コピー」の関係であるにしても、少なくとも「拡大コピー」なのであ
る。
このような考察からすれば、問題は、つまり、萌芽的なものであって完成した形態ではない、とする
古代についてのヒュームの認識を、いかに評価するかにかかっているといえよう。Ⅲでも述べたよう
に、ヨーロッパをギリシャの拡大版として認識するとき、ギリシャという文明とヨーロッパという文明
との違いを強く捉えるか、それとも連続性の面を強調するか、ということで違いが出ることになる。勢
力均衡という概念は優れて近代の概念であるとする認識は、当然前者の立場にたつ。しかし、これまで
の議論からすれば、ヒュームは後者の立場に立っていると理解することに妥当性があるであろう。いず
れにせよ、ヒュームが主張することは、近代において勢力均衡原理は完成形態に至ったことであり、そ
れについては、いずれの立場を採用しようとも異論はないと思われる。
以上のことからも明らかなように、近代という時代がヒュームの勢力均衡論においては重要な要素な
のである。それは近代ヨーロッパが文明社会として性格づけられているからであり、そして、この文明
社会は確立され安定したものではなく、常にその崩壊の危機を伴っているからである。それは国際秩序
の点においても当てはまる、ということがヒュームの国際秩序思想の根幹にあるであろう。ヒュームの
認識においては、文明社会としてのヨーロッパの自由は「猜疑心」や「競争心」という情念がなければ
成立しないのであり、これらの情念を排除することなく適切に抑制することで成り立つ、勢力均衡とい
う原理が、文明社会を維持しながらヨーロッパに安定をもたらすことのできる国際秩序なのであった。
こうしたヒュームの議論は、当時確立期へと向かっている主権国家体制を、文明社会というひとつの
ヨーロッパ像に依拠することで擁護しようとする論理であったと位置づけることができるであろう。
(本稿は2003年3月22日に慶応義塾大学で行われた「近代思想研究会」における同題の報告を元として
いる。同研究会に出席して下さり、コメントを下さった方々に感謝申しあげたい。)
119
規範の法と例外の法
― カント民主主義論のラディカルな再構成のために ―
大竹 弘二 Ⅰ.はじめに
カント 政治哲学における諸々のテーマのなかで最も議論を呼んできたものの一つに、抵抗権の問題が
ある。1797年の『人倫の形而上学』でカント は抵抗権を明確に否定する。彼によれば、統治者の不正に
(1)
。「最高権力の耐えがたい誤用す
対して「臣下が抵抗によって対峙してはならない」(VI:319/11:163)
らも耐える」のが「人民の義務」であり、「権力の誤用を口実として、君主の人格や生命を犯そうとす
る」
ほんのわずかの試みさえ、
「死より軽い刑罰では済まされない」
(VI:320/11:164)。同様の認識は1793
年の『理論と実践』でも述べられていた。「最高の立法権力に対するすべての反抗、臣民たちの不満を暴
力行為へと転化させるためのすべての煽動、暴動の発生をもたらすすべての蜂起、これらは公共体にお
いてこの上ない犯罪行為であり、最も罰すべき犯罪行為である」
(VIII:299/14:201)。これらの著作が出
版された時期を鑑みて、ある解釈では、急進化するフランス革命への拒否反応からカントはこう言明す
るに至ったとされている(2)。だが、臣下の服従義務を説くカントの立場はフランス革命以前からのもの
である。すでに1784年の『啓蒙とは何か』では、国家への服従こそが自由の条件であると言われている(3)。
しかしその一方、カント がフランス革命を最も急進化したジャコバン期にすらも一貫して支持していた
というのもまた、有名な話である(4)。それだけにいっそう、抵抗権の否定と革命への賛同とがカントの
うちでどう両立しているのかという問題は、多くの論者を悩ませてきた。だが少なくとも、カント には
民主主義への明白な性向があるという理解は共有されている。では一体、カントにおける民主主義の契
機はどのように抽出できるのか。
本論考の目的は、抵抗権の問題を手掛かりとしてカント のラディカルな民主主義の契機を探ることで
ある。その場合、さしあたり参照するのは、カント 倫理学を民主主義原則へと再定式化したJ・ハー
バーマスの討議倫理、および彼と比較的近い立場にあるⅠ・マウスのカント 解釈である。まず、カント
の抵抗権否定は近代主権概念の原則に則ったものであったこと、しかしそれが民主主義なき法治国家論
に至る可能性を孕んでいたという事情を概観する(Ⅱ節)。次に、討議倫理が、ラディカル・デモクラ
シー的な立場からカント 倫理学の普遍化原則を再解釈することで、いかにしてカントにおける民主主義
の契機を取り出したのかを検討する(Ⅲ節)。だが最後に、カントの宗教論における悪の問いを参照する
ことで、カントのうちには討議倫理以上にラディカルに政治的な可能性が潜在していることを明らかに
したい(Ⅳ節)。
(1)
以後、カントからの引用は、原文と邦訳の巻数と頁数を本文括弧内に示す。原文に関してはアカデ
ミー版全集を参照。 Kants gesammelte Schriften.
Hrsg . von der Königlich preußischen Akademie der
Wissenschaften und von der Deutschen Akademie der Wissenschaften. Berlin 1902‐. 邦訳は岩波版カント
全集を参照。坂部恵・有福孝岳・牧野英二編集『カント全集 全22巻』岩波書店、1999年‐。
(2)
Vgl. Dieter Henrich, Kant über die Revolution, in Zwi Batscha(Hrsg.), Materialien zu Kants Rechts‐
121
philosophie, Suhrkamp 1976, S.360f.
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(3) そこでは「君たちは何に関しても好きなだけ議論してよい、ただし服従せよ!」
(VIII:37/14:27 u.
VIII:41/14:33)という語が挙がっている。ここで問題となっている言論の自由と国家との関係につい
ては、第Ⅲ節の註12を参照。
(4) Vgl. Karl Vorländer, Immanuel Kant:Der Mann und das Werk, Bd.2, F.Meiner 1924, S.214ff.
Ⅱ.近代的法治国家の構築
1.契約思想と抵抗権
カント は、法則に従って人民が統一した法的体制においては、その最高意志もしくは最高権力への抵
抗は「全く許されず、処罰されて然るべき」
(VI:371f/11:230)と述べている。なぜなら、そうした対抗的
暴力が許されると人民が正当化するなら、「自己自身を破壊する最高の意志をもたらすことになるだろ
う」
(VI:372/11:230‐1)からである。このような自己破壊は、
「自己矛盾」
とも表現される。
「この権力の
完全性に対してさらに(この最高権力を制限するような)抵抗を許容することは自己矛盾である」(VI:
372/11:231)
。抵抗することが許されるような最高権力など、およそ最高権力ではないというわけであ
る。
とはいえ、一見極めて保守的なカントのこの言明から、彼が人民による抵抗の可能性をすべて否定し
ていると結論するのは早計である。というのも、カント がここで否定しているのは、一義的にはあくま
ヽ
で抵抗権、つまり「法権利(Recht)」として認められた限りでの抵抗だからである。カント の言う「最高
権力」とは、
「何が公的に正もしくは不正であるかを最初に規定する権力」
(VI:372/11:231)
であり、法
権利の体系はこの権力とともにはじめて現れる。とすると、最高権力を否定する抵抗が「抵抗(のため
の)権(利)
」という性格を持ちえないのは当然であり、「国家において立法を行なう元首に対して、人民
ヽ
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の適法的な抵抗というものはない」(強調引用者 VI:320/11:164)というのも自明のト ート ロジーであ
る。W・ヘンゼルがカント の抵抗権に関するその先駆的著作のなかで指摘するように、カント にとって
問題なのは、「そうした[抵抗の]権利は実定的措定によって可能なのか」(1)ということである。そし
て、
「実定的に定められるか、ありうべき実定的規則の対象と考えられる場合には、抵抗権は国家権力の
分裂もしくは二重の主権という思想に立脚している」以上、
「実定的抵抗権は語の本来的意味では論理的
ヽ ヽ
ヽ
に不可能」(2)なのである。カント は抵抗の適法性を否定しているのであり、これはむしろ近代主権理論
の到達点なのだ。そしてそれは、上述のカント の言明が与える印象とは逆に、国民主権理論の徹底化と
いう性格も有しているのである。
近世における契約思想の変遷は、統治契約あるいは支配契約から、結合契約あるいは社会契約への移
行であると言える。これは国家権力についての二元論から一元論への転換である。そして、抵抗権とい
うのは支配契約的二元論に特有のものであり、封建身分制的な権利であると言えるのである。支配契約
が二元論であるというのは、契約当事者としての支配者と人民とを想定するからである。支配契約はこ
れら二当事者間で結ばれる相互的義務付けの契約である。抵抗権が発生するのは、支配者の契約違反が
行なわれた場合であり、いわゆるモナルコマキの理論(暴君放伐論)
はここに基づいている。
「支配契約論
という形式は、暴君放伐論者が君主の権利を攻撃する際に携えた主たる武器であった」(3)。しかし、暴
君放伐論者の抵抗権理論がいかに近代民主主義の国民主権に類似しているように見えようとも、それは
表面的なものでしかない。ここでの問題は、支配者と人民の権利との間には競合関係があって、
「人民は
122
全能ではなく、支配者の権利が人民の権利の限界になっている」(4)ということだ。「この[支配契約
の]二元論は、必然的に統一的な現在の国家概念とは完全に矛盾する」(5)。人民の権利を至上のものと
する国民主権は、そもそも支配契約とは根本的に異なる契約カテゴリーである社会契約に基づいている
のである。
自然状態における個々人の間で結ばれる社会契約は、個人主義化された水平的契約である。これに
よって契約思想は支配者と人民の封建身分制的二元論から解放される。ホッブズにおいて明確な形を取
る社会契約論によってはじめて、統一的・一元的な近代的国家主権が理論化された。ここでは主権者
は、もはや契約上の法権利を保持する契約当事者とは見なされない。主権とは法権利の基礎をなす不可
分の統一なのである。ただホッブズにおいては、個人は自己保存という物理的動機によって契約を行な
うとされるがゆえに、支配者と人民の二元論はなお許容されている(6)。他方、ルソーとカント において
は、主権者と国民とのこうした競合関係はかなりの程度縮減される。というのも、ここでは社会契約
は、物理的・生物学的含意を払拭して完全に理性主義化されるからだ。つまり、社会契約は市民的個人
の私的自律と国家公民の政治的自律とを等しく規定する理性原理となる。理性法(自然法)に基づく個人
の権利が必ずしも政治参加のための民主的権利にならないロックに対し、ルソー・カント では、私的権
利を有する個人は同時に政治的主権者としての国民でもある。私的自律と公的自律は同じ一つの自己立
法の表現に他ならないというわけである(7)。
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
したがって、「単なる理性の理念」
(VIII:297/14:198)
とされるカント の「根源的契約」においては、そ
れが市民状態もしくは国家を創設する際に、各人生得の主観的権利は一部なりとも犠牲にされることは
ない。カント によれば、根源的契約に従って国家を形成する人民は、
「およそ自分の自由というものを、
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ある法則に服従することによって、つまり法の支配する状態において、減らされることなく再び見出
す。というのは、こうした法則への従属は、立法を行なう自分自身の意志から生ずるからである」
(強調
引用者 VI:316/11:158)
。つまり市民状態は、自然状態の個人が有すると仮設された主観的権利を(一部
であれ)断念させるのではなく、むしろ実現するということである。客観的法秩序が主観的権利の実現で
あり、前者のうちで後者が「減らされることなく」保証されるというカントの想定からすれば、国家と
個人との間に競合が存在しないのは当然である。強制法としての公法は、そもそも各人の「断じて喪失
することのない権利」(VIII:303f/14:208)である主観的な自由の法則に対応しているのである。
主権を分割するような抵抗権をカントが認めない理由は、ここでより明確にすることができる。つま
り、
「カント においては、主権の分割不可能性には、自由の分割不可能性が対応している」(8)のであ
る。他方、
「封建身分制的契約思想にとっては、唯一偉大なる自己立法の自由を譲渡して、それと引き換
えに個別的な『諸々の自由』を手に入れるといった交渉が典型的である」(9)。抵抗権とは、国家創設に
あたって自由の一部が分割・譲渡可能であると見なす契約思想に基づいている。国家とは理念上、各人
の主観的権利の損なわれることなき実現に他ならぬと考えるカント にとって、国家の主権の分割は同時
に自由の毀損をも意味する。国家主権の分割不可能性と、あらゆる人間が有する主観的自由への権利の
分割不可能性とを結合したところに、国民主権の観点から見たカント の意義がある。この点からすれ
ば、抵抗権の不在を、単純にカント の保守性の指標と見なすことはできない。逆に、抵抗や革命を法権
ヽ
利として認めていないという理由でカント を非難したり、カントのうちに何とか抵抗権を見出したりし
ようとする試みこそ、マウスの言うように「契約カテゴリーの再封建化」(10)として難詰されるべきなの
である。
カント が抵抗権を否定するに至った以上のような理論的事情を前提とした上で、マウスはカント のラ
ディカル性を、抵抗や革命を法権利という規範性の領域から追いやって「事実性」のうちに置き換えた
123
という点に見出している。主権への抵抗は、法権利によって正当化されることのない法外的・事実的性
格を持ったものにとどまるのである。こうして事実的なものを相対的に独立させることは、合法性から
ヽ
正統性を分離することを可能にする。つまりこの場合、確かに抵抗権は否定される一方で、
「国家権力か
「国家による権力行使の独占は、それ自身で
らも高次の正統性は剥奪」(11)されるのである。ここから、
『正統』であるのではなく、単に法の遂行のための手段に過ぎず」(12)、「国家権力が国民の非合法的暴力
(13)
という帰結が導かれることになる。たとえある
に対して正統性の点において何ら優るわけではない」
抵抗や革命が法権利としての合法性を持ちえずとも、一定の正統性を持ちうる可能性はあるのだ。
「人民には国家元首に対して強制権ではありえないとしても、断じて喪失することのない権利もあ
る」(VIII:303/14:208)というカント の言明は、客観的強制法に対する主観的権利の先行性を示してい
ヽ ヽ
ヽ
る。強制法は理念上、主観的権利を完全に保証するものであるはずだが、もし実定的な強制法の秩序が
それに違うなら、その秩序は合法的ではあっても正統性は持たない。国民主権に適う法の理念(理性法)
と実定法とをこのように区別することで、既存の法秩序への抵抗に何らかの正統性が認められる余地は
あるはずである。実定法の合法性と国民主権の正統性との区別に沿って、マウスのカント 解釈は行なわ
れる。
「カント は理性法によって国民主権を正統化するのであるが、権力の独占はそうした正統化からは
排除されたままである。権力の独占は上層部に、国民主権は社会的底辺層に位置付けられる。その際こ
うした分離独立化の本来の意味は、国家権力を純然たる国民意志の執行へと還元する点にある」(14)。
とはいえ、マウスの解釈とは裏腹に、カント 自身は法権利としての抵抗のみならず、そもそも国家元
首へのいかなる抵抗も認めていないと解釈できることも事実である。カントの国家は「絶対国家」とも
言える「完全な法治国家」(15)、「純粋法治国家」(16)であり、「いかなる絶対主義国家がなしえた以上に
厳格に抵抗権を排除」(17)する。カント が構築したのは閉鎖的な法治国家であり、そこでは、規範性と並
ぶ事実性、あるいは法秩序と並ぶ国民主権の領域に独自の意義が割り当てられているとは必ずしも言え
ないのではないか。そして実際、19世紀の法哲学は、正統性を合法性に還元し、主観的権利を客観的法
に比べて二次的なものとする方向へ進んだ。これはH・ケルゼンの法実証[=実定]主義に代表され
る、相対的に民主主義の希薄な法治国家論を形成することになる。
2.法実証主義の法治国家論
カント 自身においてすでに、主観的権利は客観的法において実現すると前提されている以上、前者を
後者に還元する形で法理論が展開する可能性が孕まれていた。ハーバーマスは、主観的権利の概念から
カント の理性法的な道徳内実が徐々に失われ、それが単に客観的法秩序の反映へと縮減されていく過程
を追っている(18)。これはいわば「法治国家の理念による理性法の代替」(19)の過程である。主観的権利
はそれ自体道徳として存立するというカント 的見解は法実証主義のもとで解消され、その権利は法秩序
によって客観的に規定された限りでの個人の権利に過ぎないとされていくのである。ハーバーマスは、
B・ヴィントシャイトによる次の定義を引き合いに出している。
「権利とは、法秩序によって付与された
意思の力もしくは意思支配のことである」(20)。法的に規定されたこのような「意思支配」は、カントの
主観的権利とは異なり、もはや法を能動的に根拠付けるような正統化の力を持たない。ここでは正統化
を行なう主観的権利の道徳的核心は空洞化され、単に合法性のうちへ回収されてしまっている。これが
法実証主義による法治国家論の帰結であり、ケルゼンがその終着点を示している。
国家を法秩序と同一視するケルゼンにとって、主権の在り処は法の内部にしかありえない。この法主
権論的な立場からすれば、正統化は合法性を通じてのみ行なわれうる。そしてこの場合、法は徹底して
実定法として解釈され、カント の法論がいまだ有していた自然法的な含意は完全に排除される。
「いわゆ
124
る国家の力とは、単に法――もちろん観念的な自然法ではない――の力、しかも実定法の力に過ぎな
い」(21)。
ところでケルゼンは、自然法から法実証主義への転換を語る際でもなお、実定法秩序の限界もしくは
その効力根拠としての「根本規範
(Grundnorm)
」というものを挙げている。ただし、これはそれ自体で正
義の秩序を打ち立てているような、超実定的な高次の自然法規範を指すのではない。実定法規範の効力
は、それがモデルとしての自然法に対応している程度に応じて与えられるわけではない。ケルゼンの法
実証主義は、規範内容を自然法的な正義によって絶対的に根拠付けることを放棄している。根本規範は
超越的・形而上学的ではなく、超越論的・批判的であるという点に、その実証主義方法論上の意味があ
る。根本規範は、いかなる実定法であれその内容には一切顧慮せずに、単にそれが実定的に存在すると
いう理由だけで効力を認めるような、実定法の純形式的な仮設なのである。
「根本規範の内容は、根本規
範によって最初の法創設要件と性格付けられる特殊な歴史的所与の事実であるが、この内容はまったく
実定法として理解されるべき素材いかんによって決まる」(22)。つまり法実証主義では、法の効力は、あ
らゆる法規範を打ち立てる憲法制定の歴史的事実から、すなわち力を法に変える法創設の事実から導出
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
されるのである。ゆえに、「根本規範はある意味では力の法への転化ということができる」(23)。
この根本規範概念のうちに、ケルゼン的な法治国家論の逆説を見て取ることができる。すなわち、法
実証主義は国家の権力行使を法規範のうちに取り込む一方で、法規範の根拠としては前‐規範的な単な
る事実性を持ち出すことしかできない。それは、ある法秩序を、専制的であれ何であれ、実定的に存在
しさえすれば有効なものと認めることを要求する。とすると法実証主義は結局、規範理論を装った権力
理論に過ぎないのではないかというのが例えばC・シュミットの疑義である。「
[ケルゼンにおいては]
実定規範が妥当するのは、適切な仕方で妥当すべきだからではなく、合理性や正義等の属性に関わりな
ヽ ヽ
ヽ
く、ただそれらの規範が実定的だからである。ここで突然、当為はやみ、規範性が断絶する。代わって
現れるのは、或るものは、それが妥当しているならば、また妥当しているがゆえに妥当するという、な
(24)
。法外的な事実性は実定的合法性の単なる前提として受け入れら
まの事実性のトートロジーである」
れるだけで、そこには民主主義的な主権の能動的作用が見られないというのがこのケルゼン批判の趣旨
だが(25)、同様の疑念はマウスやハーバーマスもある程度共有する。このような事実性のアポリアを抱え
た法実証主義が規範性を失うことで、法についての機能主義的解釈への道を開き、法実証主義の「ルー
(26)
たるシステム論に至ったとハーバーマスは見る。法治国家論は最終的に法のオー
マン的バージョン」
ト ポイエーシスになったというのである(27)。
法論が前‐規範的な法創設の事実を仮設としてそのまま受け入れざるをえないというのは、すでにカ
ント 自身に見られる問題である。カント は抵抗や革命への権利を否定しつつも、それが成就した後の事
情について次のように言う。
「革命が成功して新しい体制が設立されたとすれば、その革命の開始と遂行
が適法ではなくとも、臣民はこの新しい秩序に善良な国民として服従するという拘束を免れることはで
きない」
(VI:323/11:167)。ここから、フランス革命に対するカント の支持は、すでに成功した革命の事
後的な正当化であると解することも不可能ではない。ある法秩序は、その起源としていかなる前‐規範的
ヽ ヽ
ヽ ヽ
事実を有するにせよ、ひとたび設立されたならばその合法的な成り行きのうちで自ずから正統性を獲得
するはずだから、非合法な抵抗は禁じられるということである。例えばR・シュペーマンは、ひとたび
法的体制が確立したら正統化は合法的な仕方でのみなされねばならないというのを、
「カント のテー
ゼ」であると考えている(28)。これを受けてN・ルーマンも、カントの立場をこう特徴付ける。「政治的
独占を要求する自己貫徹的権力は法の基礎となる。それは確かに正統化を可能にするものではないが、
己自身を正統化する法秩序の発展を可能にする。まず最初に服従が保証されねばならない。しかも規範
125
内容とは無関係に。その上で、権力は己自身を制限することができる。……革命以前やその最中にはこ
の権力は法に対する権力として不法である。革命後に権力は自己自身に法を与える(しかもその起源を
正当化することによってではなく、自己制限によって!)
」(29)。自律的な法システムの自己制限そして
自己産出の過程に正統性を還元するこれらの解釈では、民主主義的な正統化の契機は著しく縮減されて
しまうのだ。法外的事実性を法のオート ポイエーシスのうちに回収する法治国家論のこうした非民主主
義的帰結は、確かにカント 自身に一定の責がある。しかし、マウスやハーバーマスは、ラディカル・デ
モクラシーの立場から、カント のうちに法治国家的合法性に還元不可能な民主的正統化の契機をも見出
そうとするのである。
(1) Werner Haensel, Kants Lehre vom Widerstandsrecht, Pan‐Verlag 1926, S.69.
(2) Ebd., S.70.
(3)
Rudolf Treumann, Die Monarchomachen, Dunker & Humblot 1895, S.53f.(小林孝輔・佐々木高雄訳
『モナルコマキ』学陽書房、1976年、66頁)
(4) Ebd., S.62.(74頁)
(5) Ebd., S.58.(70頁)
(6) これについては、Armin Adam, Despotie der Vernunft?:Hobbes, Rousseau, Kant, Hegel, Verlag Karl
Alber 1999, S.192f および S.196ff 参照。ホッブズの契約論は、
「市民状態における実存に生(き残
り)
の確保を結びつける」ような「生物学的実存主義」
(S.198)
に依拠しており、それゆえ、「契約の目
的である端的な生き残りを保証できない」
(S.192)
主権者に対する
「端的な自己保存のための個人的な
権利」
(S.197)
として抵抗権(伝統的意味のそれではないとしても)
を導出することができる。
(7) ただしハーバーマスは、ルソーおよびカントの社会契約では、私的自律
(人権)と公的自律(国民主
権)
との競合関係がやはり残っていると述べている。ルソーでは政治的自律としての国民主権という
(アリストテレス的な)共和主義の観点が、カントでは私的自律としての人権という
(ロック的な)
自由
主義の観点が相対的に優位であるという。Vgl. Jürgen Habermas , Faktizität und Geltung, Suhrkamp
1994, S.121ff u . S.130ff.(河上倫逸・耳野健二訳『事実性と妥当性(上)
(下)』未来社、2002‐3
年、上巻119‐121頁および128‐131頁)
(8) Ingeborg Maus, Zur Aufklärung der Demokratietheorie, Suhrkamp 1994, S.55.(浜田義文・牧野英二
監訳『啓蒙の民主制理論』法政大学出版局、1999年、39頁)
(9) Ebd.
(10) Ebd., S.43.(29頁)
(11) Ebd., S.66.
(48頁)
(12) Ebd.
(13) Ebd.(49頁)
(14) Ebd., S.69.(52頁)
(15) Adam, S.204f.
(16) Ebd., S.206.
(17) Ebd., S.194.
(18) Habermas, Faktizität, S.112ff u. S.592ff.(上巻111‐113頁、下巻233‐238頁)
(19) Ebd., S.592.(下巻232頁)
(20) Bernhard Windscheid,Lehrbuch des Pandektenrechts, Bd.1,Frankfurt/M 1891,S.88. Vgl.Habermas,
126
ebd.,S.113f.(上巻112頁)
(21)
Hans Kelsen , Allgemeine Staatslehre, J .Springer 1925 , S.17 .(清宮四郎訳『一般国家学』岩波書店、
1971年、29頁)
(22)
Hans Kelsen, Die philosophischen Grundlagen der Naturrechtslehre und des Rechtspositivismus, Pan‐Verlag
1928, S.65.(長尾龍一・黒田覚訳『自然法論と法実証主義』木鐸社、1973年、90頁)
(23)
Ebd., S.65.(91頁)
(24)
Carl Schmitt, Verfassungslehre, Dunker & Humblot, 1928, S.9.(尾吹善人訳『憲法理論』
創文社、1972
年、12頁)
(25)
シュミットは、合法性に収まらぬ正統性の契機は近代では民主主義に存すると述べるが、この場合
の民主主義は
「国民的同質性」
(Ebd., S.231(285頁)
)
に依拠する実体的民主主義である。
「このような
同質性を欠いた国家は、異常なもの、平和を脅かすものを持つ」
(Ebd.)
とする彼にとり、民主主義的
正統性は結局は秩序の維持に帰せられるのであって、討議倫理の場合とは違い、個人の主観的権利に
根差す抵抗や異議申し立てなどは民主的正統化の構成要素たりえず、ただ内乱に等しいものとなる。
主観的/客観的という法権利の近代的区別が、秩序と安定をもたらすホッブズ的リヴァイアサンを侵
食し た と い う シ ュ ミ ット の 議 論 は、Schmitt, Der Leviathan in der Staatslehre des Thomas Hobbes,
Hamburg 1938, S.79ff(長尾龍一訳『リヴァイアサン』福村出版、1972年、84‐100頁)参照。
(26)
Habermas, Faktizität., S.584.(下巻226頁)
(27)
Vgl., Habermas, ebd., S.114.(上巻113頁)
(28)
Robert Spaemann , Moral und Gewalt , in Manfred Riedel(Hrsg .), Rehabilitation der praktischen
Philosophie, Bd.1,Freiburg 1972,S.223f.シュペーマンは、カント は「法的(rechtlich)」と「適法的
」を区別することで合法性と正統性を区別していると見なしている。ここでは、正統
(rechtmäßig)
性が適法性と同一視されてしまっている。
(29)
Niklas Luhmann, Ausdifferenzierung des Rechts, Suhrkamp 1981, S.75f.
Ⅲ.カントと討議倫理的民主主義
1.普遍化原則
ハーバーマスの討議倫理は、カント 倫理学の討議理論への再定式化と見なすことができる。つまり、
カントの道徳法則を討議原理として再解釈することで、それを民主的正統化の原理にするのである。こ
の場合、道徳法則は実体的にではなく、手続き的に解釈されている。つまり、道徳法則の普遍性は、そ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
れが普遍化という手続きを行なうための形式的原理であるという点に存するのである。マウスはこれ
を、
「実体的自然法から手続き的自然法への転回」(1)と呼ぶ。注意すべきは、ここでは道徳法則は、実
定法よりも高次の自然法規範とは見なされないということだ。マウスによれば、道徳法則に従う正統化
過程は、単に自然状態で万人が保持する自然法に従って生じる理性道徳の過程ではなく、実定的な法制
化のための公共実践を必然的に要請する(2)。よってカント の自然法はもはや単なる超実定的な理性法と
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
しては考えられておらず、むしろ「道徳と法に対してなお中立的であるような抽象化の地平に存在す
る」(3)ものとして、法と道徳を媒介するのである。マウスとハーバーマスは、こうしてカント 自然法を
単なる正義の過程にではなく、民主主義的立法過程に定位させる。討議倫理は、こうした民主的正統化
のための討議手続きを理論化するに際し、カント 道徳法則が含意する二つの原則、つまり〈普遍化原
127
則〉と〈公開性の原則〉を受け継ぐことになる。
自分の格率が同時に普遍的法則となるように、という有名な定言命法が要求しているのは、格率の無
矛盾性である。つまり普遍化したときに自己矛盾を生じない格率のみが、普遍妥当すなわち倫理的であ
る。これと相対するのは、普遍化したときに自己矛盾を起こす格率、普遍化不可能な自己破壊的格率で
ある。例えば、嘘によって人を欺くことを自身の行為の格率とする場合が典型的である。もしこのよう
な格率が普遍化される、すなわちすべての人がこの格率を採用するならば、誰も他人の言明を信ずるこ
とがなくなり、かくしてそもそも嘘によって欺くということ自体が不可能になる。嘘による欺きは、言
明の真正性という、自身が依拠する普遍的地平から逸脱することで自己破壊を起こす。自身を普遍的法
則の例外にしようとするこうした格率は、いわば「行為遂行矛盾」に陥って解体するというわけであ
る。カントの定言命法は、およそ妥当性を獲得するためにはいかなる格率もこのような普遍化のテスト
を受けるべきことを要請しているのである。
ところで、H・アレント によれば、こうした無矛盾性の公理はソクラテスによって倫理的かつ論理的
なものとして発見された後、「アリスト テレスとともに思考の第一原理、ただし思考のみの原理となっ
た」が、
「カントではその全道徳的教義がこの公理に基づいており、カント とともにそれは再び倫理学の
一部となった」(4)という。倫理学的原則となった無矛盾性は、もはや単純な形式論理上の無矛盾性では
ヽ ヽ
ない。つまり、
「普遍化原則は決して、道徳的規範が無条件の普遍的な当為文の形式を持たねばならない
という要求に尽きるわけではない」(5)。カントの形式主義的な誤解からこうして身を引き離すなら、意
志もしくは格率の普遍妥当性の検証は、形式的・論理的首尾一貫性とは異なる仕方で遂行されねばなら
ヽ
ない。すなわち、倫理的な普遍性は、ただ他者の立場からのみ検証できるのである。カント 自身、「首
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
尾一貫した考え方の格率」は「理性の格率」であって「達成されるのが最も困難」であるから、人間が
ヽ
その主観的・個人的諸条件を乗り越えて普遍的立場に立つには、
「他人の立場へ自分を置き換える」
「拡
ヽ ヽ
ヽ ヽ
張された考え方の格率」としての「判断力の格率」を取らざるをえないと言う(V:294f/8:181‐2)。アレ
ント は普遍化原則の核心を『判断力批判』に見出すことで、道徳判断は独白的になされる単なる理性的
過程ではなく、一定の間主観性を要求することを主張するのである。これによって、普遍化原則を実践
的な討議の原則へ再定式化するための端緒が開ける。
ハーバーマスもまた、普遍化原則は他者の視座のもとでの格率の検証原理であると見なす。彼によれ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ
ばこの原則は、「普遍的役割交換を強いる」
、つまり「関与者すべての人に利害関心を考慮するに際して
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
他のすべての人の視座を採るように強いる」
ことで、
「非党派的な判断形成」
をもたらす原則だとされる(6)。
その上で彼は、カント 自身ではなお独白的な道徳原理という性格を有していた道徳法則を討議理論に
よって解釈し直すことで、「カント の場合であれば私的個人によって引き受けられるとされた理想的な
役割委任を、万人に共通して実施される公共的実践へ移し替える」(7)ことを目指している。他者の視点
ヽ
ヽ
ヽ
のもとでの普遍化の手続きとは、各々の格率が現実に実践的討議に曝されることを要求するのであり、
決して単に内なる法廷で行なわれる検証過程ではない。討議倫理は、J・ロールズ的な正義の手続きで
ヽ ヽ ヽ
はないのであって、格率の普遍妥当性の検証のために必然的に現実の討議の手続きを要請する。
「定言命
ヽ ヽ
ヽ
法はそれ自身の意味に従うなら、現実の対話への移行を要求する。つまり、現実のコミュニケーション
と討議を媒介としてのみ、私が正しい仕方で他者の立場に身を置いたのかどうかが解明されるのであ
る」(8)。討議倫理の手続きはもはや単なる理性原理には還元できないという点に、道徳的でありながら
政治的でもあるという討議倫理の特徴がある。ここでは普遍化原則は政治と道徳を媒介する原理となっ
ている。そして、普遍化原則を単に道徳的ではなく、このような媒介原理として解釈することを可能に
するのが、カントにおける〈公開性の原則〉である。
128
2.公開性の原則
公開性(Publizität)の原理は、カント 自身が政治と道徳とを一致させる「公法の超越論的概念」
(VIII:
381/14:306)として提起していたものである。公開性と一致しない格率、すなわち公表したらその意図が
挫折してしまうがゆえに秘密のままにしなければならぬ格率は、不正であるとされる(9)。公開性の原則
とはいわば、政治と公法に関わる原理として再定式化された普遍化原則なのである。この原則の要は、
諸々の政治的行為や出来事を公開的批判に曝し、それらがこの批判に耐えうるだけの普遍的な意味を持
ちうるかどうかを検証するという実践的意義にある。このとき、政治と道徳の媒介原理である公開性
は、
「現実に政治に関わる行為者と判断を下す観察者」(10)との区別を前提としている。この行為者と観
察者の区別は、さしあたりカントを保守的な帰結に導くことになるようである。そのことは、彼の規定
ヽ
ヽ ヽ
ヽ
する「言論の自由(Freiheit der Feder)」が「消極的な」権利として限定的な役割しか持たず(VIII:304/14:
209)、そうして公開性の批判的力を縮減してしまっている点に見ることができる。彼は抵抗権を認めな
い一方で、確かに「言論の自由」を擁護する。しかし、この「言論の自由」は、各人が政治的行為者と
して持つべき権利では決してない。言論の自由とは、政治を公開性の光のもとで検証するために、各人
が観察者として、政治的行為者である国家元首の行なう政治に対して公的に判断を下す権利である。こ
の権利が保証するのはせいぜいのところ、
「行動のためではなく、少なくとも意見を闘わせるための公共
空間」(11)である。つまりそれは、国家元首の代わりに政治を遂行したり、体制を取って代えるような権
利であってはならない。それは元首の政治に抵抗する権利ではなく、ただ「苦情を申し立てる」
(VII:
89/18:122)ためだけの権利である。すなわちこの権利の役割は、あくまで観察者としての立場から客観
ヽ ヽ ヽ
ヽ
ヽ
的な判断を行なうだけに制限されねばならない。「言論の自由は人民の権利の唯一の守護神である──
ただし我々は体制のなかに生きているのであって、言論の自由は臣民のリベラルな考え方……によっ
て、その体制に対する尊重と愛という限界を超えることはない……」
(VIII:304/14:209)
。カント の警戒
は二方向を向いている。一方で彼は、元首による政治が国民の批判的検証を受けることのない無制限な
「絶対君主制」
(VII:364/18:123)となることを回避しようとする。他方では、こうした公開的批判のため
の言論の自由が、それ自体政治の原理となってしまうような越権を防ごうとする。だからカント は言論
の自由を擁護しつつも、政府による検閲の役割を認めるのである。こうして彼は、政治を行なう君主
と、彼に勧告を与える国民(あるいはより限定して言えば、哲学者)との分業に基づく「制限された君主
制」
(VII:364/18:123)を唱えるに至る(12)。これは、市民の政治的自由に一定の制限を加えることこそが
精神の自由を育むという考えに基づいており、理性の自己制限というカント批判主義の保守的な政治的
帰結をここに見ることは難しくない。
しかしその反面、カント においては、政治的行為者よりも観察者の方に優位が与えられていることも
事実である。アレント はこうした観察者の優位に、カントの公開性の普遍主義的な意義を見出す。つま
り、政治的当事者たちの前反省的な行為は、それを眺める非党派的な観察者の判断によってはじめて意
味が与えられるというわけである。
「観察者のみが全体を見ることのできる位置を占めている。行為者は
演劇の一部分であるがゆえに、自分の役を演じなければならない――つまり行為者は定義上、不公平で
ある。これに対し、観察者は定義上、公平である――なぜなら観察者にはいかなる役も割り当てられな
いからである。……行為者は観察者の意見に依存しており、それゆえ
(カントの言葉で言えば)自律して
いない。……基準となるのは観察者であり、この基準こそが自律的なのである」(13)。実際カント は、フ
ランス革命そのものよりも、革命に対して「非常に普遍的で非利己的な共感」を示す「観客の考え方」
ヽ
ヽ ヽ ヽ
(VII:85/18:116)のほうを、人類の道徳的進歩を証する「歴史の徴(Geschichtszeichen)」(VII:84/18:115)
と見なしているが、ここに実践に対する観想の優位を見ることは可能である。事件に直接巻き込まれて
129
いない観察者の客観的な判断によってこそ、出来事は世界史的意味を獲得し、普遍史的進歩の一部とし
て位置付けられるというのである。
「普遍的観点ないし立場は、『世界市民』あるいはむしろ『世界観察
者』たる観察者によって占められる。そうした観察者こそが、全体についての理念を持つことで、個々
の特殊な出来事のうちに進歩がなされているか否かを判断する」(14)。こうしてカント における公開性
は、歴史哲学的な意味を与えられる。公開性とは、事態から距離を置くアイロニカルな観察者の普遍的
立場を可能にするのであり、これが歴史哲学的進歩の基礎をなすのである。
ところで、カントやアレントのように公開性の機能を非党派的観察者の普遍的役割に見出すならば、
結局のところ公開性の政治的・実践的意義が看過されてしまい、政治的判断力が公共的な活動的生活に
ではなく、観想的な精神内部の生活に属するとされてしまうという疑念はありえよう(15)。つまり、そも
そも政治的行為者のメタレベルに立つ観察者の普遍的視座など、究極的に保証されているのかという疑
義である。このような疑義に基づいて、道徳判断を最終的に理論的観察者にではなく実践的行為者に定
位させる場合、これはこの実践的な道徳判断に、合理的で認知的な真理要求を断念させることを意味す
ることになるだろうか。理論と実践、知識と意見の区別を固持するアレント は、実際、実践的判断から
真偽の認識の問題を排除する。しかしハーバーマスは彼女のこうした立場を批判する。
「アレントは理論
と実践との間の古典的区別に固執する――実践は、厳密な意味では真理たりえない意見と確信に支えら
れているのである。……究極的明証性に基づく理論的認識という今日では古びた概念のために、アレン
トは実践的諸問題に関する了解を合理的な意志形成として捉えることができないのである」(16)。ハー
バーマスはここで、アレント が政治的実践のうちに合理的な討議の構造を見て取れないことを難詰して
いる。政治的判断力を最終的に実践から観想へ追いやってしまうようにも見えるアレント の曖昧さは、
実践が果たしうる機能をこのように制限してしまっていることに由来すると言える。これに対しハー
バーマスは理論と実践の統一を図るのだが、それは、実践的な道徳判断のうちに認知的な真理妥当要求
が内在しているのを示すことによってである。このときハーバーマスは、「真理の合意理論」の立場を
取っている。つまり語用論的なアプローチを通じて、命題の真理性という認知的問いそのものが、合
意、すなわち命題の普遍化という道徳的要請を伴うことを示すのである。こうして認知的・理論的構造
自体が、実践的討議の合理的構造の必要性を指し示すことになる。よってハーバーマスの公共性は単な
る実践ではなく、こうした合理的討議を理論上の基礎とする。そしてこの討議は、前反省的な日常的行
為を反省する観察者の客観的視座を持ちながらも、それ自体、行為者的な実践として特徴付けられる。
3.普遍的合意の地平
ハーバーマスの討議倫理において討議が合理的であるといわれるのは、その参加者が必然的に合意へ
と合理的に動機付けられるからである。つまり討議において論証を行なう者は、その論証がそもそも有
意味性と妥当性を持つことを主張する限り、自身の論証が普遍化可能であることを、つまり他者の視座
によって普遍的に受け入れられることを不可避的な前提とする。普遍化原則はここで、討議参加者がつ
ねにすでに承認し合っている論証規則として捉えられるのである。他者の合意を得ることが可能である
と前提しない論証など、およそ妥当性も有意味性も失った空疎な発話となってしまうだろう。ハーバー
マスはK・O・アーペルに倣って、普遍的な合意可能性を拒否する懐疑主義者が、いかに行為遂行矛盾
に陥るかを示している。発話に普遍妥当性が内在することに反駁しようとする懐疑主義者は、
「自らの反
論を提起するに際して、少なくとも論理的規則の妥当性を前提するのは不可避で、この規則は、提起さ
れた論拠を反駁として理解したいと考える限りかけがえのないものである。批判者もまた、彼が論議に
参加するときには、批判を行なうために拒否しえぬ規則の最小限の枠組みを、はじめから妥当なものと
130
して受け入れている」(17)。ここで重要なのは、論議において何らかの「論理的規則」が前提されるとい
うことより、そもそも論証を行なう者は自分の論証が妥当するということを最小限の前提としなければ
ならないということである。したがって合意可能性とは、決して逃れることのできない、論証の普遍的
ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
地平である。かくして「非党派性の理念は、論議の構造そのもののうちに根差している」(18)と言われ
る。
いかなる強制や外的状況からも自由で平等な参加者が、普遍化可能な利害関心についての合意のみを
志向する合理的討議は、
「理想的発話状況」と呼ばれる。ただし、この理想的発話状況は事実として要請
されているわけではないし、決してそれ自体として実体化されてもならない。
「我々は純化された発話を
ヽ ヽ
想定せずには論議を進められないし、
またその一方で、
『汚染された』
発話に甘んじなければならない」(19)。
つまり、理想的発話状況はあくまで抗事実的な想定としてとどまるのである。他方でハーバーマスは、
この理想化的想定を脱超越論化しようともする。ここで重要となるのが、法制化という側面である。つ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
まり、「想定されていた理想的条件が少なくとも十分近似的に満たされうるようにするには、制度的な
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
(20)
なのである。経験的条件下での理想的発話状況の有効性は、ただ討議が実定的に
予備的措置が必要」
法制化されることでのみ保証される。ハーバーマスにおける民主主義的法治国家は、討議と法制度の不
可分な結びつきをその前提とする。
「討議原理は、法の形式による制度化という方途によってはじめて民
主主義原理の形を取るとされ、そのうえでこの民主主義原理が法制定の過程に正統性産出力を提供する
のである。民主主義原理が討議原理と法形式の結合に由来するということこそ、決定的な要となる思想
である」(21)。法、具体的には憲法が、討議を通じた手続き的民主主義を確保すると共に、逆に後者に
よって前者が産出・正統化されるというのが、彼の言う「憲法愛国主義(Verfassungspatriotismus)」を特
徴とする政治文化である。ここにおいて、普遍化原則は、単なる道徳原理から、討議原理への再定式化
を通じて、民主主義的な立法手続きの原理となる。
その存立をひとえに法制化に負っているとされる、討議の普遍的地平は、そうした法制化が遂行され
る特定の生活連関もしくは生活世界に根差したものでしかありえない。この意味で討議倫理は、カント
」の観念をも取り入れている(22)。
的な「道徳性(Moralität)」のみならず、ヘーゲルの「人倫(Sittlichkeit)
とはいえハーバーマスにおいては、具体的な生活世界に対し、それを根拠付ける普遍的討議の手続きに
優位が与えられていることは否定し難い。善や価値といった内容に関わる抗争は、普遍性を構成する原
理としての討議の地平によって、合意へ向けて統御されているのである(23)。そうして、既存の妥当請求
を疑い問題化するという、批判的な合意拒否としての討議の側面は縮減されてしまうことになる(24)。
ハーバーマスにおける普遍性は、何人もそこから離反することはできぬような、合意を志向する討議の
地平そのものであり、この地平そのものを拒否することは端的に行為遂行矛盾に他ならず、不可能とさ
れるのだ。討議の普遍的地平を構想することでハーバーマスは、確かに、単なる法治国家的合法性を超
えた民主主義の構築に一定の成果を上げている。しかし、普遍化の地平とされる討議を拒否する可能性
は、単なる行為遂行矛盾なのだろうか。A・ヴェルマーは、
「いかなる例外、不決定、不和、解決しえぬ
抗争も存在しえない」ような形式的普遍主義という批判は討議倫理にもカント 倫理学にも妥当すると見
なしているが(25)、実のところカント は、普遍化原則の合意理論的還元を裏切るような極めてラディカル
な普遍化拒否の可能性を見通していた。それは、悪の問い、すなわち例外への問いのなかに垣間見るこ
とができるのであり、ここでカント の道徳法則は、それが政治的な原理となる可能性を顕わにすること
になる。
131
(1) Maus, S.159.(135頁)
(2) Vgl. Maus, S.148ff.(125‐132頁)
(3) Habermas, Faktizität., S.138.(上巻135頁)
(4)
Hannah Arendt, Lectures on Kant's political philosophy, The University of Chicago Press 1982, p.37.
(浜口義文監訳『カント政治哲学の講義』法政大学出版局、1987年、52頁)
(5)
J. Habermas, Moralbewußtsein und kommunikatives Handeln, Suhrkamp 1983 , S.74 .(三島憲一他訳
『道徳意識とコミュニケーション行為』岩波書店、1991年、105頁)
(6) Habermas, Moralbewußtsein., S.75.(108頁)
(7) Habermas, Faktizität., S.141.(上巻138頁)
(8) Albrecht Wellmer, Ethik und Dialog, Suhrkamp 1986, S.47.
(9) このような不正な格率の例としてカントが挙げるのが、反乱の格率である。
「反乱の不正なことは、
反乱の格率が、ひとがその格率を公に告白すると、その途端に彼の意図そのものを不可能にしてしま
うということから明らかになる。したがってひとはこのような格率を必然的に秘密にせねばならな
。
い」
(VIII:382/14:309)
(10) Arendt, p.48.(71頁)
(11) Ibid., p.50.(73頁)
(12) 実のところ、カントにおける言論の自由の担い手は、国民ではなく哲学者である。哲学者は理性を
公的に使用しつつ、国民にではなく、国家に向かって語る。つまり哲学者の語りは、国民を感化して
国家を脅かすことのないよう、国家の検閲を甘んじて受けねばならないとされる。国家と哲学者のこ
うした関係は、
『諸学部の争い』
では上級学部
(神・法・医学部)
と下級学部
(哲学部)との関係として論
じられる。ところでこの場合、理性の私的使用の方が国民に向けられる知で、公的に使用される理性
の批判は国民には隠されねばならないという逆説が生じている。公開性と民主主義をめぐるカントの
こうした複雑さについては、Hent de Vries , State, Academy , Censorship: The Question of Religious
Tolerance, in Religion and Violence, The Johns Hopkins University Press 2002 参照。
(13) Arendt, p.55.(82頁)
(14) Arendt, p.58.(87‐88頁)
(15) この種の批判としては、Ronald Beiner, Hannah Arendt on Judging, in Arendt, Lectures ., p.139‐140.
(210‐211頁)参照。これに対し、アレントの公共性は普遍的観察者の単一な視座には還元されず、む
しろ他者の複数的な視座を可能にするという立場から、アレントの可能性を再検討しているのが、斎
藤純一『公共性』岩波書店、2000年。
(16) Habermas, Philosophisch‐politische Profile, Suhrkamp 1971, S.247.(小牧治・村上隆夫訳『哲学的・
政治的プロフィール(上)
』未来社、1984年、349頁)
(17) Habermas, Moralbewußtsein., S.91.(131頁)
(18) Ebd, S.86.(124頁)
(19) J. Habermas, Der philosophische Diskurs der Moderne, Suhrkamp 1985, S.376.(三島憲一他訳『近代
の哲学的ディスクルスⅡ』岩波書店、1990年、561頁)
(20) Habermas, Moralbewußtsein, S.102.(147頁)
(21) Habermas, Faktizität., S.154.(上巻151頁)
(22) ヘーゲルのカント 批判と討議倫理との関係については、J . Habermas , Treffen Hegels Einwände
gegen Kant auch auf die Diskursethik zu?, in Erläuterung zur Diskursethik, Suhrkamp 1991, S.9ff.
(23) ハーバーマスの討議倫理では事実上、理想的発話状況が、抗争なしに理性的合意が達成される
のを保証する普遍的な構成的原理とされることで、抗争の側面が合意理論に回収されてしまうと
いう疑念に関しては、Wellmer ,S .122ff および、Wolfgang Schluchter ,Religion und Lebensführung Bd.
132
1, Suhrkamp 1988, S.314ff(嘉目克彦訳『信念倫理と責任倫理』風行社、1996年、147‐167頁)参
照。
(24)
既存の合意を限界解除するという討議倫理の批判的機能については、Habermas, Der philosophis che Diskurs., S.375.(560頁)
(25)
Wellmer, S.123.
Ⅳ.例外性の政治学
1.根元悪と悪魔的な悪
定言命法を定式化する際、カント は同時に、人は必ずしも普遍化原則を遵守するわけではないとも述
べている。つまり、我々は定言命法の義務に従わず、自分の格率を普遍的法則の例外として取り置こう
とする傾向がある。我々は「本当は自分の格率が普遍的法則となるべきことを意欲していない」のであ
ヽ ヽ
り、
「自分のために(あるいはまた今度だけはと)恣意的に法則に例外を設けて、自分の傾向性に有利なよ
うにする」(IV:424/7:58)。ここから善悪の概念が規定される。つまり、普遍的法則に適った格率は善
く、普遍化不可能な例外にとどまる格率は悪い。カントは『実践理性批判』では、人間の意志の規定根
拠は普遍的な道徳法則でしかありえないのだから、自然的傾向性や感性の動機によってもたらされたよ
うに見える悪しき格率は自ずから解体する仮象であると考えているようである。だが、1793年の宗教論
(『単なる理性の限界内の宗教』)
で彼が直面したのは、悪は単に感性的観点からの仮象ではなく、それ自
体叡智的な根拠を有するという問題である。
根元悪(das radikale Böse)という概念はこのとき導入される。
宗教論では、悪が「叡智的行い」
(VI:31/10:41)
によってもたらされること、つまり人間の自由な行為
に伴うものであることが述べられる。これが意味するのは、人はその責を自然衝動などに帰すわけには
いかないということだ。実際、道徳的な善と悪との違いは、行為の動機が普遍的法則であるか感官刺激
ヽ ヽ
であるかという点にはないことは強調されている。人がある格率を採用するときには、必然的に道徳法
ヽ
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ヽ ヽ
則と感性の両動機が作用しているのであり、問題はむしろ「両方の動機のいずれを他方の制約にする
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
か」の「従属関係にある」(VI:36/10:48)。したがって悪しき格率は、道徳法則と感性との「動機の道徳
的秩序を転倒すること」
(VI:36/10:48)を意味するのであって、感性の動機のみによってもたらされたの
では決してない。(善であれ悪であれ)格率の採用自体は、人間の「自由な選択意志」に基づくのであ
り、人間こそがその「最初の根拠を含む」のである(VI:21/10:28)。そしてこの際、道徳法則の他に感性
の動機を紛れ込ませてしまうという人間の性癖も、格率の採用という自由な行為の一部なのであり、こ
の意味で「道徳的悪は自由に源を発しなくてはならない」(VI:31/10:41)
。人間が悪だというのは、「人
間は道徳法則を意識していながら、しかも道徳法則からの(その時々の)逸脱を格率のうちに採用してい
る」
(VI:32/10:42)ということなのである。
悪においても依然として道徳法則は作用しており、この法則は「そもそも我々が失うことは決してあ
りえなかった」
(VI:46/10:62)というところから、悪の克服可能性が出てくる。それは、道徳法則は単に
感性と並ぶ動機ではなく、より根源的で、そもそも人間の自由な行為がそれに基づいているような動機
だからである。よって、
「善への根源的素質が力を回復すること」
(VI:44/10:59)すなわち「道徳法則の
純粋さを打ち立てること」
(VI:46/10:62)は、なおも可能である。かくしてカントにおいては、悪に対す
る善の優位は固持される。自然的傾向性がそれだけで自由な選択意志を規定することは決してありえな
ヽ
ヽ ヽ
いが、道徳法則のほうは、
「まったく純粋な形で、それだけで選択意志を規定するのに十分な動機」
(VI:
133
46/10:62)
となりうるという。道徳法則は格率の普遍化可能性の地平であって、道徳法則そのものに逆ら
う格率などは不可能であるとされる。したがってカントの根元悪は、必ずしも「根元的
(ラディカル)」
と見なすことはできない。
実際カント は、道徳法則そのものへの反抗は人間には不可能と繰り返し強調する。もし可能であると
ヽ
ヽ ヽ
すれば、人間は「悪魔的存在者」(VI:35/10:47)
となってしまう。このように「悪魔的」と呼ばれている
悪を「根元悪」と混同してはならない(1)。それはいわば、根元悪以上に「根元的な」悪の可能性なので
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ある。道徳法則の地平をも逃れるような悪魔的な悪とは、
「悪としての悪を自らの格率に採用する」
(VI:
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
37/10:49)
ことを意味している。このような「端的に悪しき意志」は「悪意ある理性」とも言え、
「あた
かも理性が法則そのものの威信を自らのうちで抹消し、法則からくる拘束性を、理性が拒否できるかの
よう」である(VI:35/10:46‐7)。そのようなことは「自己矛盾」であり、「端的に不可能」だから、
「人間
には適用できない」
とされる
(VI:35/10:46‐7)。つまり、格率の採用という自由な行為が、それなしには
人間的自由も存在しないであろう自由の法則たる道徳法則に逆らうというのは、端的に論理矛盾だとい
うことである。このような反逆は、道徳法則に従って道徳法則に逆らうことを意味する以上、そもそも
(2)
というわけである。
不可能であるとされる。
「極端な悪は単に非人間的なだけでなく、論理的に不可能」
この悪魔的な悪の問いは、ルイ16世の処刑を考察した『人倫の形而上学』の中の註で決定的に重要と
ヽ ヽ
ヽ ヽ
なる。つまりカント は、国王に対する
「正式の死刑執行」
(VI:321/11:165)のうちに、こうした悪魔的な
ヽ ヽ
可能性を見ているのである(3)。単なる「君主の殺害」ならば「まだしも最悪のものではない」(VI:321
/11:165)。
「正式の死刑執行」の問題は、「感性的ではなく、道徳的な感情、すべての法概念がすっかり
転倒したという感情」
(VI:321/11:165)
を喚起するところにある。こうした感情が戦慄すべきものである
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
根拠は、
「殺害は人民が格率にしている規則の例外に過ぎないのに対し、死刑執行は、主権者と人民の関
ヽ ヽ
係における諸原理の完全な転倒(その生存をもっぱら主権者の立法に負っているはずの人民を、主権者
に対する支配者にする)として考えられる」
(VI:322/11:166)という点にある。単に規則の例外であるな
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ら、
「正式に法則への服従を取り消すことなしに」
「規則から逸れるに過ぎない」
(VI:321/11:166)
。だが
正式な死刑執行は、人民が主権者への反抗を格率に高めたこと、法則に従って法則に逆らうことが示さ
れているのであり、それゆえ
「国家自身の自殺であって、いかなる贖罪も不可能な犯罪に思われる」
(VI:
322/11:166)のである。ここでもまたカントは、
「正式の
(まったく無益な)悪意によってそうした犯罪を
犯すことは人間には不可能」
(VI:322/11:166)と言うのだが、とはいえこの悪魔的な可能性を首尾一貫し
て否認できているわけではない。というのも、国王に対する正式の死刑執行が悪魔的な格率によってな
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
されたということはありえないと言いつつも、
「処罰という手続き、つまり法的手続きを踏んでいるとい
う外観」そのもののうちに、すでに「崩壊した国家の再建すら不可能にしてしまう原則が含まれてい
る」
(VI:322/11:167)と認めているからであり、かくしてこの死刑執行を断罪するからである。論理的自
己矛盾ゆえにそもそも不可能とされた悪魔的な悪の実在を、カントは図らずもここで暗に認めてしまっ
ているかのようである。
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ
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ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
根元悪と悪魔的な悪の違いは、単なる規則の例外か、それとも例外そのものが規則に高められるかと
いう点にあると言える。別言すれば、前者においては、普遍化テスト の単なる例外として格率が留保さ
れているだけだが、後者においては、例外自体を普遍化するという普遍化原則の倒錯の結果、そもそも
普遍性というもの自体が否定され、かくして普遍化原則自体が無効化する可能性を孕んでいるのであ
る。この意味で、宗教論と正式の死刑執行の問題は、カント倫理学の躓きの石となっている。しかし悪
魔的な悪とは、端的に否定されるべき道徳法則の自己破壊を意味するにとどまるのだろうか。悪魔的な
悪とは、道徳法則のラディカルな政治的含意を明らかにしているのではないか。
134
2.道徳法則から政治的行為遂行へ
既に見たように、自らを普遍性の例外として留保する行為の典型は〈嘘〉である。バンジャマン・コ
ンスタンへの反駁である『人間愛からの嘘』
(1797)
で、倫理的原則は決して嘘をつく余地を許容しては
ならないとカント が主張するのは、ただ真理のみが普遍的でありうるからだ。その場の状況によって嘘
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
をつくことはありうるが、真理のほうは「どんな状況においても妥当する無条件の義務」(VIII:429/13:
258)なのである。
(コンスタンとカントの挙げる例で言えば)
友を殺害者から助けるためという人間愛を
動機とした嘘であっても、そのように無条件な義務への例外をなすことは、潜在的には「人間性一般に
対して加えられる不正」
(VIII:426/13:255)
を犯しているとされる。
ところで、状況に応じて嘘をつくこと、つまり権謀術数を遂行するために自身の格率を秘密にするこ
とは、政治の原理である。それゆえ嘘と真理の関係は、政治と道徳の関係として見なすことができる。
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ
状況依存的な「条件付きの義務」である政治原理に対し、「無条件の端的に命令する義務」を優越させる
ことで(VIII:385/14:314)、カントは、嘘と秘密を原則とする政治的道徳から、真理と公開性を原則とし
た道徳的政治の可能性を救い出そうとする。そして、アレントが「真理と政治」について語る際には、
カントのこうした認識を受け継いでいる(4)。確かに彼女は、カント のように政治を道徳に還元する傾向
は廃し、嘘を語る者としての政治的行為者の活動領域を認める。しかし、政治領域が何らかの意義を持
つのは、「政治領域の外の立場」である「真理を語る者の立場」(5)に関係する場合のみである。つまり
政治的行為は「その偉大さにもかかわらず」
、観察者の眼差しによって制限されていなければならない。
「我々が自由に行為し変えうるこの政治領域が損なわれずに、その統一性を保持し約束を果たすことが
できるのは、もっぱら政治自身の境界を尊重することによる」(6)。政治は、自分自身の条件を成す真理
の領域を犯すことがあってはならないのである。「非政治的、また潜在的には反政治的でさえある」(7)
真理もしくは客観性とは、いわば本質的にコミュニケーション行為である政治をそもそも可能にする
(8)
「伝達可能性」
という条件であり、ハーバーマスにとっては、合意を可能にする討議の地平なのである。
アレントは、現代の政治における嘘はこうした真理を抹消してしまう危険があると見ている。
「伝統的
な嘘」(9)は、政敵等の相手を欺くことを目的とした制限された嘘であり、少なくともこの嘘つき自身
は、何が真理で何が虚偽かを知っていた。だが、
(マス・メディア、プロパガンダ等による事実操作とい
う条件下で生じる)
「現代の嘘」は、嘘つき自身、何が真理かを判断できなくなるという「自己欺瞞」を
特徴とする。「伝統的な嘘と現代の嘘の違いは、[真理を]隠蔽することと破壊することとの違いにほぼ
等しい」(10)。つまり自己欺瞞においては、嘘自体が依拠していた真正性の基盤が取り去られることで、
そもそも真理と虚偽が区別不可能となるのだ。他人のみならず、自分をも欺くこの徹底した嘘の帰結
は、
「我々が現実の世界において方位を定める感覚……が破壊される事態である」(11)。アレント にとっ
てこれが意味するのは、伝達可能性およびその基準たる「共通感覚」が破壊されることで、判断力の基
盤が喪失するということである。こうした判断力の喪失が、全体主義社会の歯車として行動する人間の
「凡庸な悪」をもたらす。有名な「悪の凡庸さ」は、普遍性の地平そのものを破壊する悪魔的な悪に基づ
いているとも言えよう(12)。ところでカント もまた、他人への「外的嘘」と自分自身への「内的嘘」を区
別する際、後者を「最も厳しい非難を受けるに値する」と述べているが(VI:429f/11:304‐5)、その理由は
おそらくアレント の場合と同様であろう。カント、アレント そしてハーバーマスにとっては、伝達可能
性もしくは合意可能性が普遍的な真理の地平として、公共実践たる政治的行為を統御していなければな
らない。政治原理の全面化は、例外を普遍化し、反法則性を法則にするという自己破壊的な矛盾を含む
とされるのである。
だが、普遍的法則の破壊というカント が恐れる事態は、道徳法則の普遍化原則に内在的な帰結ではな
135
いだろうか。道徳法則とは、政治的行為に優越すべき道徳原理として政治を統御するのではなく、むし
ろそれ自体が、自由な実践的行為を命ずる政治的な原理なのではないか。法則の自己破壊とは、そもそ
もこの法則が、単に事実確認的(コンスタティヴ)
ではなく、行為遂行的(パフォーマティヴ)
な性格を持
つことに由来すると言えないか。カント は悪魔的な悪を、完全に法に則って行なわれる純粋に道徳的な
行為であるかのように見なしている。
「悪魔的な悪という観念は、それがいかなる善の種も、善き意志さ
えも含まぬ限りで、それ自体全く純粋な何かである。天使の如き天上の善があらゆる悪の痕跡からまっ
たく純化されているのと同様である」(13)。いわば道徳法則においては、最高善と悪魔的悪の完全な対称
的関係が、そして究極的無矛盾性と自己破壊的矛盾との等根源性が示されるのである。とすると、法則
が自己破壊を起こすというよりは、自己破壊することが法則であると解することもできる。J・ロゴザ
ヽ ヽ
ヽ
ンスキーはこの逆説を指摘している。「つねに法則に反して行為するという自由な決断は……絶えず法
則を侵犯するという決断そのもののうちで法則との本質的な関係を前提している。法則の普遍性は悪魔
(14)
。法の遵守が同時に法の侵犯を意味するというこ
的意志を抱くことを許さないわけでは決してない」
とは、普遍化原則自体に含意されているのだ。というのも、この原則は、何が普遍的であるかの基準や
規則を前もって与えるのではなく、あらゆる格率に開かれた自由な行為の地平なのだから。与えられて
いるのはつねに例外だけである。したがって我々は、所与の普遍的な地平において行為するのではな
く、行為によって普遍的な地平を切り開くのである。だから道徳法則は人間的自由の法則なのである。
この法則は、普遍的に矛盾なく行為することをではなく、普遍が与えられていないところで自由に行為
することを命じ、さらには行為遂行矛盾を犯すことすら命じるだろう。法の遵守がすでに法の普遍性の
侵犯を意味するという点に、自由の法則たる道徳法則の逆説がある。ここでの道徳法則は、普遍的・客
観的な真理の地平を保証する原理ではなく、常態となった例外状態において行為遂行的に実践するため
の政治の原理となるのである。よって厳密には、悪魔的な悪とは、「悪魔的」とか「悪」とかいった道徳
的呼称がもはや意味をなさないような、善悪の彼岸にある行為遂行性を示している。こうして、カント
自身における政治と道徳との関係を逆転し、例外を規則と見なすような、視座の転換が行なわれる。
3.例外状態における秩序と法
ところで、以上のような例外の規則化について、マウスはシュミット批判の文脈でカントの件の脚注
を参照し、次のように述べている。
「カント の厳しい表現は、正式の死刑執行によって例外そのものが規
則へと高められ、それによって法の基盤が破壊される場合には、この死刑執行を殺害よりも重大な犯罪
であると宣告する。こうした厳しい表現は、全体として、恒常的な例外状態を法秩序へ高めてしまうシ
ステムに対して向けられている」(15)。ここでマウスが矛先を向けているのは、法概念を極端な例外状態
にも適合するよう拡張したシュミット 、および、国家の例外措置を許容するような法によって「合法的
に」超法規的措置を積み重ねていったナチス体制である。しかしながら、ここでは例外の常態化に関す
る二つの相を区別すべきなのだろう。すなわち一方では、シュミット の例外状態論は秩序を志向してい
る。他方、カント の道徳法則が含意する例外状態は、秩序を超えて、個人の無制限な権利としての政治
的行為遂行性を示すのである。
マウスが示しているように(16)、法実証主義的な合法性へのシュミット の批判は、単なる政治的決断主
義にではなく、法創設過程の没形式なダイナミズムを捉えうるような「憲法上の創設理論」を構想して
いたことに起因する。シュミットは、法実証主義にとっての限界である憲法制定権力
(構成的権力)をな
お法現象として記述しようと試みるのである。しかし、シュミットが現行憲法の維持というスタティッ
クな要求をも有していることに見られるように、彼においてはこうした憲法制定権力のダイナミズム
136
は、憲法を守るための通常の法実践へと回収されてしまう(17)。そしてこの場合の憲法とは、まさに秩序
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の安定を意味するのだ。
「第48条に基づくライヒ大統領の委任独裁は、公共の安全と秩序、すなわち現行
(18)
。秩序の維持のために馴致された没形式的
憲法を保護し防衛するという目的に仕える」
(強調引用者)
な法制定の力を表すのが、ライヒ大統領による命令としての「措置
(Maßnahmen)」である。ヴァイマー
ル憲法第48条で規定された「措置」は、例外状態における様々な状況下で特定の目的に従って下される
という事態即応性を特徴とする(19)。しかしシュミットは、この「措置」と「法律」が実践上区別できな
「措置」概念は、狭義の秩序防衛の
くなる「行政国家」へ向かう傾向について述べている(20)。つまり、
みならず通常の法実践における大統領の一般的諸命令にまで拡大されることで、実質的に「法律」と同
こうして、いわゆる
「措置国家」への移行が理論的に基礎付けられる(22)。
等の効果を獲得するのである(21)。
ここでは、永続的な例外状態を認識した行政権力が、公共の安全と秩序のために無際限に措置を拡大す
る。しかもこうした措置はなお「合法的」とされるのである。措置概念のこのような拡大が意味するの
は、秩序のうちへの法の回収である。法は究極的に秩序の維持に還元されてしまう。シュミット におい
ても例外は規則となるが、それは没形式で無際限な法である措置を通じて、秩序と治安を防衛するため
なのである。
シュミット が見ていたのは、秩序というものが単なる法形式主義的な合法性を離れ、例外を洞察した
無定形な法を通じて治安の維持のために合法的行為の範囲を無際限に拡大していくという事態である(23)。
そのような例外の規則化は、そもそも法秩序というものの本質なのではないだろうか。こうして秩序へ
と高められた永続的な例外状態に抗しうるのは、単純な実定的合法性ではなく、例外の法である。この
法は、その背後に隠れて決断の責任を放棄できるような、単に遵守すべき規範ではなく、いかなる義務
や命令をも超えたところで、自律的に判断することを要請する。ラディカルに個人に引き受けられたカ
ント の道徳法則こそが、このような例外の法となるのである。Ch・M・コースガード は革命への決断
を、手続き的に正当化されぬ「倒錯した正義」の事例であるとするが(24)、同時にこの決断は道徳法則の
否定ではなく、
「道徳法則を己自身の手に引き取る」(25)ことを意味すると正しくも指摘している。つま
り、ここでは道徳法則はいかなる法権利の体系や制度をも超えた行為遂行の命法となるのであり、決し
てカント が難詰するような道徳法則の自己破壊を意味するのではない。アレント は、カント の定言命法
が信条であったアイヒマンがホロコースト に加担したのは、それを国法への義務に読み替えてしまった
ことによると見ているが(26)、仮にそうだとすれば、こうした「凡庸な悪」に対してこそ、永続的な例外
状態への認識に基づく定言命法、すなわち政治的な行為遂行性の法をつきつけねばならないだろう。
ハーバーマスの公共性概念は合意を志向する普遍主義に基づいているとされるが、しかし例外への洞
察を欠いているわけではない。彼は自身がホッブズ主義的もしくは権威主義的リーガリズムと呼ぶ法学
思潮に抗して、民主的法治国家の正統性は、制度化された民主的手続きに収まらぬような例外性をも必
要とすると主張したことがある。それは市民的不服従に代表される。彼はその際、市民的不服従という
一種の不法行為を行なう市民こそが民主的法治国家の
「正統性の番人」(27)であると述べている。不服従
を行なう市民たちの判断力は、
「過渡的状況や例外状況においては必須であり、それによって人々は、正
統性が合法的に侵犯されていることを知り、必要な場合には道徳的洞察に基づいて違法な行動を取るこ
ともできるのである」(28)。この文脈で彼は、明確にシュミットを意識しつつ、正統性というものは決し
て人民の同質性を保つ秩序の維持に存するのではなく、むしろ秩序からの離反という試練を経ねばなら
ないこと強調する。つまり、ハーバーマスの公共性は決して実定的な法的‐政治的制度化に尽きるのでは
なく、むしろそれが拒否され批判されるという否定的な「危機」の経験にこそ、その潜在力がある。こ
137
れは、既存の合意や支配的な「公共性」を拒否する政治的な行為遂行性に公共性のラディカルな可能性
を見出す「サバルタン的対抗公共圏」(29)の認識へ繋がっていくだろう。例外とは普遍からの単なる逸脱
ではなく、例外こそが真に普遍への試金石となる。道徳法則を普遍化原則として定式化したとき、カン
トは近代の民主主義の最もラディカルな可能性を開いたのである。
(1) シェリングやハイデガーの観点と照らし合わせながらカントの根元悪と悪魔的な悪を比較して、後
者の悪のうちにカント 自身は無自覚的であったカント倫理学のラディカルな深淵を見る論考はすで
に数多くある。例えば、Jean‐Luc Nancy, Le kate
`gorein de l 'exce
`s, in L 'impératif catégorique , Flammarion
1983, p.5‐32 あるいは、J.‐L. Nancy, Le mal. La décision, in L 'expérience de la liberté , Galileé 1988.
(澤田直訳『自由の経験』未来社、2000年、207‐242頁)など。ここでは特に、Jakob Rogozinski ,
Ca nous donne tort(Kant et le mal radical), in Kanten, Éditions Kimé 1996, p .95‐111 および、J.
′
Rogozinski , Le don de la Loi:Kant et l 'énigma de l 'éthique, Presses Universitaires de France 1999 , p .
266‐305 参照。
(2) Rogozinski, Le don ., p.279. 初期著作『負量の概念』との関係で見た悪の論理学的問題について
は、Rogozinski, Le don ., p.17‐43 および p.273‐274 参照。
(3) マウスは、国王への正式の死刑執行を「道徳哲学における根元悪と類似するもの」(Maus, S.
65、47‐8頁)と述べているが、これは不正確である。これに対し、マウスがこの箇所で参照してい
るヘンゼルは、そうした死刑執行が「根元悪をさらに超えていく」(Haensel, S.94)ものであるこ
とを正しく見抜いている。この死刑執行と悪魔的悪との関係について指摘した論も多くあるが、
ここではRogozinski, Kanten, p.108‐109 参照。
(4) H. Arendt, Truth and Politics, in Between Past and Future , The Viking Press 1968, p.227‐264.(「真
理と政治」引田隆也・斎藤純一訳『過去と未来の間』みすず書房、1994年、307‐360頁)カントと
アレント における政治と嘘の問題については、J. Derrida, History of the Lie, in Richard Rand(ed.),
Futures of Jacques Derrida, Stanford University Press 2001, p.65‐98 参照。
(5) Arendt, Truth., p.259.(354頁)
(6) Ibid., p.264.(360頁)
(7) Ibid., p.260.(355頁)
(8) Arendt, Lectures ., p.69.(106頁)
(9) Arendt, Truth., p.253.(344頁)
(10) Ibid.
(11) Ibid., p.257.(351頁)
(12) アレントもまたカントの根元悪概念の不徹底を指摘する。そして根元悪という不可解な悪は、全体
主義システムのなかで凡庸な悪として現れると考える。Cf. H. Arendt, The Origins of Totalitarianism ,
Harcourt, Brace & World 1968, p.459.(大久保和郎・大島かおり訳『全体主義の起原3』みすず書
房、
1974年、
266頁)
「悪の凡庸さ」
に関わる彼女のアイヒマン報告とカントの根元悪との関係を論じた
ものとしては、Henry E.Allison,Reflections on the banality of(radical)
evil,in Idealism and Freedom, Cambridge University Press 1996, p.169‐182 参照。
(13) I. Kant, Eine Vorlesung über Ethik , Fischer 1990, S.103.
(14) Rogozinski, Le don., p.280.
138
(15)
Maus, S.90.(70頁)
(16) I. Maus, Bürgerliche Rechtstheorie und Faschismus , Wilhelm Fink 1980.(今井弘道他訳『カール・シュ
ミットの法思想』風行社、1993年)
(17)
Vgl., ebd., S.107ff.(176‐195頁)
(18)
Schmitt, Verfassungslehre, S.112.(144頁)
Vgl., Schmitt, Die Diktatur, Dunker & Humblot 1928,
S.242f.(田中浩・原田武雄訳『大統領の独裁』未来社、1974年、62‐64頁)
(19)
Vgl., Diktatur, S.248.(72‐73頁)
(20)
Schmitt, Legalität und Legitimität, Dunker & Humblot 1932, S.87.(田中浩・原田武雄訳
『合法性と正
当性』未来社、1983年、122‐123頁)
(21)
Vgl., Diktatur, S.249f.(74‐75頁)
(22)
Vgl., Maus, Bürgerliche., S.119ff.(193‐194頁)
(23)
このことを特に後期フーコーとの関連で検討しているのは、酒井隆史『自由論』青土社、2001年、
364‐419頁。
(24) Christine M . Korsgaard , Taking the Law into Our Own Hands: Kant on the Right to Revolution, in
Andrews Reath , et al .( eds .), Reclaiming the history of ethics:essays for John Rawls, Cambridge University
Press 1997, p.319.
(25)
Ibid., p.322.
(26)
H. Arendt, Eichmann in Jerusalem, The Viking Press 1963, p.135‐138.(大久保和郎訳
『イェルサレム
のアイヒマン』みすず書房、1969年、107‐9頁)
(27)
J. Habermas, Die Neue Unübersichtlichkeit, Suhrkamp 1985, S.86 u. 88.(河上倫逸監訳『新たなる不
透明性』松籟社、1995年、118頁および121頁)
(28)
Ebd., S.87.(119頁)
(29)
Nancy Fraser, Rethinking the Public Sphere, in Justice interruptus, Routledge 1997, p.81.
139
マルクスにおける政治否定のロジック
― 初期マルクス法・政治思想の新地平 ―
小島 秀信 Ⅰ.はじめに
九〇年代のソビエト の崩壊は、社会の構成原理としてのマルクス主義の崩壊を意味していたと言って
も過言ではない。実際、それに伴って、マルクス主義法・政治学研究は確実に衰微している。しかし、マ
ルクスを無視して今日の法・政治学を論ずることもまた不可能であろう。真に偉大な思想こそ、多面的な
解釈の余地を残すものなれば、マルクスもまた、新たな解釈によって、現代の法・政治学に活かしうる可
能性を包含していると言えるのではないだろうか。ここでマルクスの法・政治思想を改めて吟味してみ
ることは無駄ではあるまい。
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マルクス主義法・政治学を吟味するにあたって、ここでマルクス自身の法・政治理論は果たして存在し
たのかと問うてみることは重要である。実際、マルクスの法・政治理論は膨大な著作数にもかかわらず、
断片的にしか存在しておらず、最終的な共産社会への移行に伴い、法と政治的国家は死滅すると考えら
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れていたのであるから、法・政治学の批判はありえても、積極的な法・政治理論は不在であったというの
は当然ではある。膨大なマルクス主義法・政治学の研究文献も、法・政治現象における階級性や、それを
規定する下部構造としての資本制の暴露、批判に終始しており、マルクスから法や政治の歴史的、経済
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構造的分析という方法論は継承しつつも、マルクス思想の要諦たる政治的国家無き共産社会という理想
は結局のところ論外とせざるをえなかったのである。
マルクスにおける積極的法・政治理論の欠如が、逆説的にも、法・政治の廃絶を帰結するのではなく、
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むしろ統合原理としての法及び政治的なるものを強力に要請し、ソビエト の政治的全体主義を帰結して
しまったのだとすれば、これは歴史の皮肉であろう。マルクスが最も否定していたものこそ、政治的な
るものであった。
本稿は、初期マルクスのバランスの良い解説を企図したものではない。主にマルクスの初期著作にお
ける政治論的断片を再構成し、マルクスにおける政治否定のロジックを明らかにしてゆくことを目的と
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した一試論である。また、法・政治学批判としてマルクスを読むのではなく、マルクスの思想から、積極
的な要素、つまり政治無き社会における社会統合原理としての規範要素、特に慣習的規範についても付
言する。
凡例
・原典については、以下の略記号、巻数、ページ数のみを記す。
MEGA : Marx Engels Gesamtausgabe, Dietz Verlag Berlin, 1975‐.
MEW : Marx Engels Werke, Dietz Verlag Berlin, 1956‐1990.
〔大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』大月書店,1959‐1991.〕
・傍点については、涙点は小島の強調、丸点は原著者の強調を示す。
・引用文中の[ ]は小島の補足である。
141
Ⅱ.人間的解放と市場社会
・
・
・
基本的に、マルクスは人間を共同存在として捉えていたと考えてよい(1)。『ミル評注』では「人間的
・ ・ ・
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・ ・
・
本質とは、人間の現実の共同的本質(das wahre Gemeinwesen)にある」(2)と述べられ、
『経済学・哲学
草稿』では人間が「類的存在」として捉えられていたことからも明らかであろう。ただ、政治という観
点から見た場合、この共同存在としての人間観を踏まえて、
「人間は本源的には―けっして政治的意味
・
・ ・
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・ ・
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・
・ ・
・
(politischer Sinn)での『ポリス的動物』としてではないにしても―類的存在、部族的存在、群棲動物と
して現われる」(3)とした『経済学批判要綱』における記述は、奇妙に思える。なぜなら、高畠通敏氏の
述べるように、政治とは「人間が社会の中で統一的秩序をつくり、社会全体を律しようとする働き」(4)
であるというのが現代政治学的定義なれば、政治はある種の共同性・社会性を前提にしているはずだか
らである。したがって、アリスト テレスは共同存在たる人間を、ポリス的(政治的)動物であるとした
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わけである。ところが、マルクスは人間を共同存在として把捉していながら、それは非政治的なもので
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あるとして捉えている。マルクスにおける政治的なるものと人間的なるものとの対立は如何に理解さる
べきであろうか。
マルクスの政治に対する否定的視座は小論『ユダヤ人問題によせて』において非常に纏まった形で展
開されている。周知のように、そこでマルクスは、ユダヤ人とキリスト教国家との対立を、キリスト教
国家の否定、つまりは政治的国家を宗教から解放する政治的解放によって解決させようとしたバウアー
・ ・
・ ・
・ ・ ・
・
を批判し、政治的解放そのものの批判に進み、問題を「時代の一般的問題」に昇華させる。この場合の
政治的解放とは信教の自由化をはじめとする自由主義革命であり、具象的には近代市民革命を指す。マ
ルクスによれば、政治的解放が完成しているアメリカなどの非国教制国家においても、宗教は現に生気
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に満ちた形で世俗的に存在しているのであり、政治的解放は必ずしも市民社会における宗教そのものの
廃棄を意味しない。換言すれば、近代社会においては、政治的論理と市民社会的論理が決定的に分裂し
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ているのである。信教の自由は政治的国家において宗教の区別(差別)を廃棄しているが、市民社会
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における個々人の宗教の区別を廃棄するものではないのと同様、普通選挙制においても、政治的国家に
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おける貧富の区別は廃棄されているが、市民社会における現実の個々人の貧富の区別を廃棄するもので
・ ・
・
・ ・
・
は全くない。
「ただ、そうした特殊な諸要素を超えたところでのみ、国家はみずからを普遍性として確立
するのである」(5)。
この政治的国家における普遍性、共同性の領域と、市民社会における特殊性、個人性の領域、という
近代的分裂態においてこそ、政治的国家の全秘密が内包されている。
近代市民革命=政治的解放は、中世の封建制を打破したのであるが、マルクスによれば、封建制にお
・ ・
・
・
・
・
・
いては、
「昔の市民社会は直接的に(unmittelbar)、政治的性格を持っていた」(6)。しかし、身分や職業団
体、同業組合といった形で、市民社会に自生的に散在していた公共的要素や共同的要素、マルクスの言
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に従えば、
「政治的精神」を、近代市民革命は粉砕し、市民社会から公共性や共同性の領域を剥離させ、
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政治的国家の領域として凝結させてしまった。「
[政治的解放]は、[政治的精神]をこの散在状態から寄
せ集め、市民的生活との混合態から解放して、それを国家的領域(die Sphäre des Gemeinwesens)とし
・
・ ・
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て、
つまり、市民的生活のあの特殊な諸要素から観念的に独立した普遍的な国民的業務の領域として、確
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立したのである」(7)。これによって、市民社会は純粋な利己的領域として確立され、公共性や共同性は、
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市民社会から独立した政治的国家が幻想的な形態で独占するものとなった。「国 家 の 観 念 主 義 の 完 成
は、同時に、市民社会の物質主義の完成でもあった」(8)。政治的解放たる近代市民革命は、個人性と共
同性が不完全ながらも共存していた中世的封建社会を破壊し、個人性と共同性を、それぞれ市民社会と
142
政治的国家の領域に純化させることで分立させ、その対立を極限にまで推し進めたのである。政治的国
家というカテゴリー自体が近代社会の産物であり、それは市民社会との対立においてのみ存在しうるも
・ ・
・
・
のとされる。「ただ[近代国家]は[私的生活]との対立においてのみ存在する」(9)。
近代市民社会における矛盾を隠蔽するイデオロギーとして、共同性や普遍的利益等々を体現する政治
的国家=「幻想の共同態」が要請され、人々の現実の矛盾からの幻想的逃避を可能にする。個人は、現
実の市民社会においては不平等でも、普通選挙制度等によって政治的国家においては平等の主体として
・
・
扱われるのである。よって、宗教と同じく政治的国家とは「人民の阿片(das Opium des Volks)」として
捉えられるべきものであった。その観点からすれば、
「キリスト 教徒が天国においては平等で、地上にお
・
・
いては不平等であるのと同様に、個々の国民が、その政治的世界という天国においては平等であり、
・
・
社会という現世における存在においては不平等である」(10)ということから、政治的生活を「天上の生
活」とし、市民社会的生活を「地上の生活」と比喩した点はよく理解できよう。つまり、近代社会にお
いては、人間の生活も「二重の」生活に分裂しているのである。一つは政治的国家における生活であ
・ ・
・
り、ここでは人間は「シトワイアン」(公民)として「普遍的利益」(公益)を体現し、普遍性の領域と
・
・ ・
・
・ ・
・ ・
して「類的生活」を営み、自己を「共同存在」として考えている。また、もう一つは市民社会における
・
・
生活であって、そこでは人間は「ブルジョア」として「私利」にとらわれ、他者を手段に貶めるような
「物質的生活」を営んでいる。政治の普遍性及び共同性の領域と、市民社会の特殊性及び個人性の領域と
の近代的対立が、人間の在り方にも反映されているのである(11)。
このように近代社会の問題点を整理した後で、マルクスはバウアーの限界を超え、この公と私、共同
性と個人性の分裂態としての近代社会を止揚する「人間的解放」を唱える。ここで極めて重要なこと
・ ・
・ ・
・ ・
・
は、マルクスが、ブルジョアたる「市民社会の成員(das Mitglied der bürgerlichen Gesellschaft)
」を、政
・
・
・ ・
・
治的国家におけるシト ワイアンに対して、特に「人間(homme,“Mensch”)」
、「本来の人間(der eigentliche
・ ・
・
「政治的人間がただ抽象された人
Mensch)」
と措定していることである(12)。マルクスがその理由として、
・
・
・ ・ ・
・
・ ・
為的人間にすぎず、比喩的な教訓的な人格としての人間である一方、
[市民社会の成員としての]人間
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・ ・
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は、感性的な、個人的な、最も近い存在における人間だからである」(13)と述べるとき、政治の人為性に
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対して、市民社会の自然性(自生性・現実性)を対置させているのである。ここに、政治は人工的抽
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象物であり、市民社会をこそ自生的感性世界として捉えるマルクスの唯物論的視座が明確に現れている
と言えるだろう。
『ヘーゲル国法論批判』では、近代社会において、市民社会の成員が政治に参加するこ
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とは、市民社会における具体的存在から、地位や財産などの一切の属性を捨てた抽象的存在になること
であるとされ、それをマルクスは「化体(Transsubstantiation)」(14)と呼んで批判している。マルクス
・ ・ ・
・
・
・
・ ・
・
・
が、市民社会における「人間の権利」を「自然の権利(droits naturels)
」(15)として論じていたように、
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人間は市民社会においてこそ、化体せず、ありのままの自然体でいられるのである。
これを踏まえて、マルクスは、共同存在、類的存在としての人間の本質が、いかに政治的領域に観念
・ ・ ・
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・ ・
・
・
的に体現されていたとしても、「現実の人間(Der wirkliche Mensch)はエゴイスティックな個人(das
・
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・
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・ ・
・ ・
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・
egoistische Individuum)の姿ではじめて認められ、真の人間(der wahre Mensch)は抽象的なシト ワイアン
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(der abstrakte citoyen)の 姿 で はじ めて 認 め ら れ る」がゆえ に、ル ソ ー や ヘ ーゲ ル と は 逆 に、この
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分裂の止揚は、シト ワイアンの、ブルジョアへの止揚でなくてはならないとしたのである。確かに、政
治的国家における人間は「類的生活」を送っており、共同存在としての人間が共同存在として生きてい
・
・
るがために、人間の真にあるべき姿、つまり「真の人間」として存在している。よって、政治的国家
ヽ ヽ
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は、市民社会の「疎外の肯定態」なのであるが、近代社会においては、政治的国家の「類的生活」はあ
くまで幻想態でしかなく、市民社会の「現実の人間」は、共同存在性が疎外された利己的個人としての
143
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み現存している。唯物論的視座に立脚したマルクスが、現実の人間を機軸として、この分裂態を解決さ
せようとしたのはむしろ自然であったと言えよう。周知のように、ルソーは『社会契約論』において、
ブルジョアを「シト ワイアン」への原義回復によって止揚せんとし(16)、一方で、その問題意識を継承し
たヘーゲルは、市民社会と政治的国家の分裂を看取していながら、それらの分裂を立憲君主制国家にお
いて観念的に止揚せしめようとしていた。しかしマルクスは、そうしたルソーやヘーゲルのごとき現実
的な個人性を幻想的な公共性・共同性に解消させようとするロジックに抽象性を見てとり、シトワイア
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ンをブルジョアに、つまり、公共性・共同性の幻想的領域を個人性の現実的領域に解消させようとした
ヽ
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わけ で あ る。真 の 解 放、つ ま り 分 裂 の 止揚たる「人 間 的 解 放」と は、「人間 の 世 界 を、諸関 係 を、
・ ・
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・
・
・ ・
・ ・
・
・
人間そのもの(der Mensch selbst)へ回帰させることである」(17)とマルクスが述べるとき、先述の、シ
トワイアンに対して、ブルジョアこそを「人間(
“Mensch”)」としていたことを想起すればよい。無論、
ヽ
ヽ
このロジックは、公共性の独占体として、利己的社会たる近代市民社会に対して対他的にのみ存立して
いた政治的国家の止揚を伴うはずである。「歴史的な使命とは、[政治的国家を市民社会が]取り戻すこ
と(Revindication)にあったのである」(18)。
この観点からすれば、マルクスの理想社会観が、逆説的ながら、個人の自由なる主体性がそのままで
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
公共性を実現させるという市場社会の理念型的秩序原理(19)と酷似してくることは明らかであろう。
「現実の個人的人間が、抽象的な公民(Staatsbürger)をみずからの中に取り戻し、個人的人間のまま
・
・ ・
・
で、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で、類的存在となったとき、つまり人間
・ ・
・
・
・
・ ・
・
が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し、まとめ、したがって社会的な力をもはや政治的な力
という形態で自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放は完遂されたことになる」(20)。
人間的解放の最も総括的な論述部分であるが、ここでは、共同存在たる人間が、社会性、共同性を政治
的領域に奪われ、利己的存在に堕してしまった近代市民社会を止揚し、現実的主体(主語)として措定
ヽ ヽ
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さ れ て い る 市 民 社 会 に お い て 再 び、個人的人間が、政治的国家における社会性、共同性をみずから
ヽ ヽ
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の内に取り戻し、そこにおいてはじめて、公と私、共同性と個人性が止揚された真の人間的本質が開花
するのだとされている。個人的な労働が、個人的な関係が、そのまま社会的な力として接続される社会
というマルクスの理想社会とは、政治的解放によって生起せしめられた純粋な「エゴイズムの領域、
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
・
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(21)
たる近代市民社会に、公共性・共同性を再埋め込みしたものとして
万人の万人に対する闘争の領域」
ヽ ヽ ヽ
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の公と私の統一態、換言すれば、市場社会の理念型的秩序原理の回復を企図したものであったと解する
ことは不可能ではあるまい。理念型としての真の市場社会においてこそ、個人性と共同性、私悪と公益
ヽ ヽ
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ヽ ヽ
ヽ
が自生的に、国家に依ることなく融和されるのである。章の冒頭で述べた、人間の共同存在性と政治的
なるものとの相反的位置付けも、ここに理由があったわけである。
・
・ ・
・
・
実際、『聖家族』において、マルクスは「私悪即ち公益(悪徳の弁護 Apologie der Laster)」として市場
社会の理念型的秩序原理を見事に表現したマンデヴィルを「唯物論の社会主義的傾向(die sozialistische
Tendenz des Materialismus)の特色を示している」(22)と高く評価している。しかし、その後に続いてマ
ヽ ヽ
ヽ
ンデヴィルの思想は「決して今日の社会(die heutige Gesellschaft)を弁護(Apologie)したものではな
ヽ ヽ
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かった」としているのは、現実の市場社会こそがまさしく利己主義にのみ純化され、私悪のみの闘争の場
ヽ ヽ
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ヽ ヽ
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と 化 し て い た か ら に 他 な ら な い。マ ン デ ヴ ィ ル が 述 べ た よ う に、市場社会の本来の原理とは
ヽ ヽ
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私悪と公益の融和態であったにもかかわらず、現実の市場社会、近代市民社会は、「私」のみに純化さ
れ、「公」は政治的国家によって独占されていたのである。マルクスの「人間的解放」とは、まさしく現
ヽ ヽ
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実の物象的市場社会を止揚し、抽象的国家において現実性を剥奪されていた公共性・共同性を本来の市
ヽ ヽ
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場社会の秩序原理として再獲得すること、つまり、私悪と公益が接続された理念型としての真の市場社
144
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ヽ
会に還帰することに他ならない。
『経済学・哲学草稿』
において述べられていたように、そのような、公
と私、普遍性と特殊性、共同性と個人性の止揚態こそ、人間的解放後の来たるべき「人間的発展の目標
(das Ziel)―人間的社会(die menschliche Gesellschaft)の形態」(23)に他なるまい。したがって、少なく
ヽ
とも『ユダヤ人問題によせて』における人間的本質の再獲得としての「人間的解放」とは決して、市
ヽ
ヽ ヽ
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場社会そのものの全面的打倒ではない(24)。むしろ、市場社会の理念型的秩序原理への高次的環帰を志向
するものであったと考えてよいだろう。次章ではヘーゲルとの対比を通じて、この点を深く見ていくこ
とにしよう。
(1)
我々とは異なり、個人主義者としてマルクスを捉える議論もあるが、ここでは扱わない。参考とし
て、Louis Dumont, From Mandeville to Marx , The University of Chicago Press, 1977.を挙げておく。
ただ、その際、出口勇蔵氏が吐露するように、
「類的存在」の取り扱いが難しくなってしまう。出
口勇蔵『経済学全集・社会思想史 第2版』
、筑摩書房、1976年、参照。
(2)
MEGA Ⅳ/2 S.452.
(3)
MEGA Ⅱ/1.2 S.399‐400.〔資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(2)
、大
月書店、1993年、150頁。〕
(4)
高畠通敏『政治学への道案内』増補新版、三一書房、1984年、11頁。
(5)
MEGA Ⅰ/2 S.148.
(6)
MEGA Ⅰ/2 S.160.
(7)
MEGA Ⅰ/2 S.161.
(8)
MEGA Ⅰ/2 S.161.
(9)
MEGA Ⅰ/2 S.456.
(10)
MEGA Ⅰ/2 S.89.
(11)
周知であろうが、ここでマルクスは、人間の権利形態も対応して二重に分裂すると言う。一つ
・ ・ ・
・
・
は、シト ワイアンに対応する「公民の権利(droits du citoyen)
」であり、もう一つは、ブルジョア
・
・ ・
・
・
・
・ ・
・
・
・
・ ・
・ ・ ・
・
に対応する「人間の権利(droits de l 'homme)」である。この「人間の権利」とは、「市民社会の成員、
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
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ヽ
つまりエゴイスティックな人間の、人間と共同体から分かたれた人間の権利」=「他人を害しな
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ヽ
い全てを行ったり行わせたりできる権利」であり、つまりは他者危害原則のリベラリズム的人権
ヽ ヽ
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ヽ
理念である。したがって、この「自閉的で孤立したモナド としての人間の自由」の権利は、「人間
と人間との分離」に基づく私的所有という排他的人権に実際上は適用される。(MEGA Ⅰ/2 S.
157‐158.)
ヽ ヽ
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(12)
ここで、「ブルジョア」が「プロレタリア」との対比ではなく、ヘーゲル的に、「シトワイアン」
ヽ ヽ
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ヽ ヽ
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との対比においてのみ用いられている点に留意していただきたい。本稿で用いる「ブルジョア」
は、この意味で使用してゆく。
(13)
MEGA Ⅰ/2 S.162.
(14)
MEGA Ⅰ/2 S.86.
(15)
MEGA Ⅰ/2 S.162.
(16)
ルソー(井上幸治訳)
『社会契約論』、中公文庫、1974年、188‐189頁、を参照。ヘーゲルの人倫
概念とともに、
「この結合形態によって各構成員は全体に結合するが、しかし自分自身にしか服従
することなく、結合前と同様に自由である」
(前掲訳書24‐25頁)というルソーの公と私の止揚態
としての国家理念はむしろマルクスによっても承認されている。ただ、そのルソー的共同態をマ
145
ヽ ヽ
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ルクスは政治制度 においてではなく、市民社会において自生的に実現させようとするのである
(第Ⅲ章参照)。南原一博「ヘーゲル批判と政治認識の問題」
『政治哲学の変換』所収、未来社、
1988年、も参照。
(17) MEGA Ⅰ/2 S.162.
(18) MEGA Ⅰ/2 S.32.
(19) ここで論点先取になってしまうが、本稿における二種類の「市民社会」ないし「市場社会」概念に
ついて区別しておこう。
ヽ
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本稿における「市場社会の理念型的秩序原理」ないし「理念型としての市場社会」とは、社会内的
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交換を通じて、各人が欲求に従って自由に行動すれば、自生的に公益が実現されるという本来の市場
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社会の理念型的秩序観を指す。マンデヴィルが定式化したように「私悪即ち公益」の予定調和的秩序
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観であると言ってもよい。したがって、この社会秩序の観点から市場社会の理念型的原理を定義した
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本稿においては、貨幣や価値(交換価値)といった流通形態における問題は副次的なものでしかない。
公益を自生的に生成させる交換体系の場=理念型としての市場社会は、その交換が使用価値的交換で
あろうと交換価値的交換であろうと、経済効率や社会規模等の差は生じるものの、私悪と公益を結び
つける交換体系としては理論上機能しうる。後者のように、貨幣や価値が介在した物象的交換を原理
ヽ ヽ
とする間接的交通形態を、特に「資本制社会」と呼ぶことができよう。第Ⅳ章で詳述するが、マルク
スが理想とする貨幣や価値を揚棄した直接的交通形態としての社会とは、確かに貨幣や価値を前提に
ヽ
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する我々の一般通念的な市場社会形態(資本制社会)とは異なるものの、社会秩序としては、依然と
して市場社会の理念型的秩序原理、つまり、予定調和的な「私悪即ち公益」のロジックを基底的には
保持しているものと考えられる。換言すれば、マンデヴィルやスミスらによって明らかにされた、
ヽ
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私欲に基づく社会内的交換を通じた予定調和的市場秩序は承認しつつも、そこから貨幣や価値などの
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物象的契機を揚棄したものが、マルクスの「人間的社会」であったと言えよう。マルクスの理想社会
観に伏在する市場社会の理念型的秩序原理を浮き彫りにすることが、本稿の主たるテーマの一つであ
る。
ヽ
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一方、これに対置される「現実の市民(市場)社会」ないし「近代市民社会」とは、マルクスの観
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察した現実の市民社会、つまり、私悪のみの闘争場であり、しかも、一切の公益の実現とは分断され
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
た市場社会を指す。これは既述の通り、近代市民革命によって、公益の実現は政治的国家が独占的に
担い、また、私悪の実現は近代市民社会が独占的に担い、本来の予定調和的市場秩序であるはずの
「私悪即ち公益」のロジックが、私悪と公益に完全に分断されていたからであった。この私悪と公益の
分裂態を止揚する人間的解放とは、政治的国家の領域たる「公益」を、「私悪」のみの近代市民社会の
領域に再埋め込みすること、つまり、
「私悪即ち公益」
の予定調和的市場秩序原理に環帰することを意
味する。
留意すべきは、この理念型としての予定調和的市場秩序観を、初期のマルクスはスミスからという
よりも、極度に抽象化されたヘーゲルの市民社会論を経由して間接的に受け継いでいたと思われる点
・
・
」としたヘーゲルのロジッ
である。マルクスが、市民社会的存在(ブルジョア)=「人間(Mensch)
ク を そ の ま ま 継 承 し て い る こ と か ら も、こ の こ と は 推 察 さ れ る〔Hegel , Grundlinien der
Philosophie des Rechts,(Werke 7), Suhrkamp, 1986, S.348.藤野・赤沢訳『法の哲学』
、中公バッ
クス、1978年、
(§190)参照〕。そのために、マルクスの市民社会観は非常に観念的で、錯綜した
ものになっている。これを踏まえた上で、ヘーゲルの国民経済学に対する積極的評価が「私悪即
ち公益」のロジックにあり、市民社会(市場社会)の原理としては承認されていたことを想起せ
146
られたい。特にヘーゲルの『法哲学綱要』
(§189追加、199)参照。
(20)
MEGA Ⅰ/2 S.162‐163.
(21)
MEGA Ⅰ/2 S.150.
(22)
MEW 2 S.138‐139.〔石堂清倫訳「聖家族」『マルクス=エンゲルス全集』(2)所収、大月書
店、1960年、137頁。
〕
(23)
MEGA Ⅰ/2 S.399.
(24)
よって、ここでは政治的解放=ブルジョア革命、人間的解放=プロレタリア革命という単純な
等式は立てない。長谷川正安「ユダヤ人問題によせて」『マルクス主義法学講座第8巻』所収、日
本評論社、1977年、23頁。廣松渉「青年マルクス論」『廣松渉著作集第8巻』所収、岩波書店、
1997年、127頁。
Ⅲ.真の民主態と市場社会
ヘーゲルとの対比で考察してみると、市場社会とマルクスの関係は、よりクリアになる。
ヘーゲルの『法哲学綱要』における、人倫の普遍態たる「家族」から、特殊態たる「市民社会」への
止揚プロセスは、マルクスの「政治的解放」に相当し、個別態たる国家への止揚プロセスは「人間的解
放」に相当すると言えよう。無論、マルクスの個別態は国家においては体現されず、市民社会において
ヽ
ヽ
ヽ
実現されることは既にみたところであるが、これはマルクスが市民社会をこそ感性的世界であるとし、
唯物論的視座に立脚したために生じたヘーゲルとの決定的隔絶であった。マルクスは、『経済学批判要
・ ・
・
綱』において、自然生的関係、つまり「人格的な依存諸関係」の領域としての前近代社会から、「物象的
依存性の上に築かれた人格的独立性」の領域としての近代社会へ、そして近代社会の止揚態としての
「諸個人の普遍的な発展の上に築かれた、また諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能と
して服属させることの上に築かれた自由な個体性」(1)の領域としての「人間的社会」へというスト ー
リーを構想していたが、ここに端的に示されているように、家族−市民社会−国家というヘーゲルの三
段階論はそのまま維持されており、実際上はヘーゲルの国家理念としての人倫的共同態の理念は、
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
別様の具象的形態で論じられるものの、基本的には承認されていると言ってよい。マルクス自身、
『資本
論』第二版後記で、自分が「あの偉大な思想家の弟子」であったと「率直に」(2)認めている通りであ
る。
ヘーゲルは、
「国家は現実的であり、そして国家の現実性は、全体の利益が特殊的諸目的のうちへ実現
されるということにある」(3)と述べていたように、人倫としての理性的国家において、はじめて公益と
私悪、普遍性と特殊性の現実的統一性が達せられるとし、さらにそれは主体性の全面的開花の上に、つ
まりは市民社会の最高度の発展の後に、築かれるべきだとしていた。その意味で、政治的解放によって
引き起こされる十全な主体性の解放を経ることによってのみ、高次的共同態への社会的条件が生み出さ
れるとしたマルクスとロジックを共有していることは容易に察せられるところである。イッポリットが
「ヘーゲルがある点で、マルクス以前にすでにほとんどマルクス的であった」(4)と述べたのは、レト
・ ・ ・
・
リックとして正鵠を得ていると言える。もっとも、レーヴィットは端的に「マルクスの理念において人
・
・
・ ・
・
間が解放さるべき目標となった自由」とは、
「ヘーゲルの国家哲学の意味における自由」であり、
「最高の
・
・
・
共同体における自由」(5)であったと論じている。
加えて、『精神現象学』におけるヘーゲル弁証法の原理が「円環」
「環帰」(6)であった以上、家族(普
147
遍態)―市民社会(特殊態)―国家(個別態)の三段階論における第一段階たるギリシア的な家族原理
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
にヘーゲルが非常に親近感を抱き、国家を、むしろ家族原理の高次態として構想し、市民社会の物象的
特殊性をそうした国家に止揚せんとしたロジックに対応して、マルクスも、前近代社会−近代社会−人
間的社会の三段階論における、第一段階としての普遍態たる古典古代や中世には非常に好意的な態度を
とっていた。ヘーゲルは『精神現象学』においても繰り返し古典ギリシアの家族原理への愛着を表して
いたし、『エンチュクロペディ』(§535)においては、端的に「[国家の]本質は、家族における愛の感
情として存在しているものと同じ統一である」(7)とすら述べている。同じくマルクスも、「人間の自負
心たる自由」は「ギリシア人」(8)とともに世界から消え去ったとし、ギリシア世界への郷愁を棄て切っ
てはいないし、中世についても、『経済学・哲学草稿』において、封建的関係とは「主人にロマンティッ
・
・
・
クな栄光を投げかける気高い地主関係である」とし、封建貴族の農民に対する態度は「直接に政治的で
・ ・
・ ・
・
・
あり、また同様に人情味のある一面」(9)をもっていたと論じていたように、資本家と賃労働者の近代的
敵対関係に比して、社会関係が融和な時代であったとされている。というのも、「中世では人民的生活
(Volksleben)と国家的生活(Staatsleben)とは同一であった」(10)としているように、中世的世界におい
ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ
ては、政治的解放による社会の分裂態が生起していなかったがために、その意味で、マルクスの理想と
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
する公と私の止揚態、公共性・共同性を再獲得した市民社会としての「人間的社会」の理念が、不自由な
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
形態ではあったものの、一定度実現されていたからである。ヘーゲルの国家がギリシア的家族原理への
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
高次的環帰であったのと同様、前近代への高次的環帰こそ、マルクスの人間的解放であったとも言える
のである。これを踏まえれば、マルクスが、後に述べる「真の民主態(die wahre Demokratie)」概念を、
公と私の止揚態、共同性と個人性の止揚態たる「人間的社会」の別様の表現として捉え、その一方で中
・ ・
・ ・ ・
・ ・
世を「不自由の民主態(die Demokratie der Unfreiheit)」(11)と評した真意をよく理解することができるで
あろう。
・
・
ただ、マルクスは、中世の生来的身分制は「支配的な原理としての社会の分離に基づくだけでなく、
それは人間を自分の普遍的本質から分離し、人間を直接的に自分の確定性と一致するところの動物」に
・ ・
・
するため、中世は「人類の動物史であり、その動物学」(12)であったとして批判している。したがって、
ヽ
ヽ
ヽ
あくまで中世は不自由なのであって、マルクスはそれを打破した近代市民革命(政治的解放)を高く評
・
・
価するのだが、「近代、つまり文明は、逆の間違い(der umgekehrte Fehler)をしている」のであって、
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
先述のように、それは政治的国家と市民社会との分裂、つまり、公的生活と私的生活、抽象的な共同態
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
的政治社会と現実的な物象態的市民社会との決定的対立を生起させ、市民社会を利己主義の領域とし
て、非人間的社会として現出させてしまうのである。これに対して、ヘーゲルは国家を「即且対自的に
」であるとし、国家による市民社会の包摂をもって解決するので
普遍的(
“An und für sich Allgemeine")
あるが、マルクスはそのロジックを「政治的国家が、市民社会によって規定されるのではなく、逆にそ
れを規定することを欲している」(13)と批判し、市民社会と国家の主語−述語の転倒をつく。ヘーゲルに
とっての市民社会とは、人倫的普遍態たる「家族」から人倫的個別態たる「国家」への止揚過程におけ
る過渡的段階にすぎず、本源的実在は人間外の抽象的概念に求められていたために、市民社会の成員は
現実的存在とされることはなかった。「理念が主体化」されており、市民社会という「真の諸主体」が
「客体的契機」(14)に転倒されていたのである。
国家が市民社会を包摂するというヘーゲル的視座は、具象的に言えば、政治的国家が市民社会(市場
ヽ ヽ ヽ
ヽ
社会)を統制するということをも含意しよう。ハイエク的に言えば、「理性主義的設計主義」の思想系譜
に立つことになる。『法哲学綱要』(§185追加)では、市民社会における「この放埒な享楽と窮乏との紛
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
糾状態は、この状態を制御する(gewältigend)国家によってはじめて調和に達することができる」と述
148
べられ、また、『エンチュクロペディ』(§537)では国家は市民社会を「導く(leiten)
」のだとされてい
る。実際、『法哲学綱要』(§236)では日用品の価格統制や公共の福祉に対して営業の自由の制限を唱
え、一方で、民間企業は海外事情を見晴るかすことができないために、公的機関による「事前の配慮と
指導(Vorsorge und Leitung)」が必要であるとしていたことに端的に示されているように、ヘーゲルが、
ヽ
ヽ ヽ ヽ
ヽ
市民社会における局所的知識を国家における全知的理性がすべて知悉しうるとする理性主義的知識観
に陥っていたことは明らかであろう。
ヽ ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ
ヽ
しかし、逆説的ながら、マルクスが拒絶したものこそ、まさしくこのヘーゲル的な政治主義、理性主
ヽ
ヽ ヽ
ヽ ヽ
ヽ
義的設計主義に他ならなかったのである。なぜならば、先述のように、国家ではなく市民社会こそを実
在的主体(主語)であるとし、ヘーゲルの政治的国家と市民社会の主述転倒を批判し、唯物論的視座に
・
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・ ・
・
・ ・
・ ・
・
立ったマルクスにとって、
「人間が公民より、そして人間的生活が政治的生活より無限である」(15)とい
うのが真実なのであり、そうした現実感覚は必然的に、社会的知識が政治的知識に包括されえぬ遥かに
多様な複雑性を持つという結論を導出せざるをえない。実際、
『ヘーゲル国法論批判』では、ヘーゲルが
国家を理念の自己産出行為として描くことを批判し、
「事実は、家族の成員や市民社会の成員として存在
(16)
と、唯物論的現実を踏まえ、いかなる人間をもって
している多くの人々から国家が生まれでるのだ」
しても、国家を構成する全主体(市民社会)を吸収し尽くすことはできないのであるから、そのような
多数の主体から成るはずの国家主権を君主が一身に体現することは不可能であると論じていた。つま
り、多くの現実的諸主体から成るはずの市民社会は、いかなる政治的主体をもっても包摂し尽くすこと
はできないのであり、それを可とするヘーゲルは、「君主を実在する神人(der wirkliche Gottmensch)と
・
・ ・
・ ・
・
して、理念の現実的な化身として措定すること」(17)を欲しているのだと、ハイエクの「神人同型同性
説」批判を彷彿とさせるかのように、ヘーゲルの全知的理性主体の想定を、政治的知識を社会的知識に
ヽ
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対して優位せしめる理性主義的知識観を、いずれをも拒否しているのである。その意味では、確かに
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ヘーゲルの政治思想は、暗黙のうちに理性主義的設計主義を前提にしてしまっている。全社会を包括
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し、通覧しうるような神的な理性主義的存在(神人)を国家統治者に据えなければ、市民社会を統御する
という設計主義的発想は成り立ちえないであろう(18)。
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このようなマルクスの統制主義批判、政治主義批判は、随所に現れている。例えば『批判的論評』に
・
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・ ・
・
おいては、
「政治の原理は意志である。政治的理解力が一面的であるほど、つまり、それが完成している
・
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・
・
・
ほど、意志の万能をますます信じ、意志の自然的で精神的な制約が分別できなくなり、社会的欠陥の根
(19)
と述べ、
政治的知識が社会的知識よりも普遍的であるとした、フランス革命期
源が発見できなくなる」
・
・ ・
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・
のロベスピエールの独裁主義を批判している。ロベスピエールは「純粋民主主義(dir reine Demokratie)
」
・
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の阻害要因として、市民社会の貧困や巨富を見出し、国民にその「純粋民主主義」を貫徹させるために
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を普及させようとした。つまるところ、市民社会のブルジョア
「スパルタ式倹約
(spartanische Frugalität)」
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を純粋民主主義におけるシト ワイアンに教化しようとしたわけである。「国家の原理の中に社会的窮乏
の根源を見ることは全くせず、フランス革命の英雄は、むしろ社会的窮乏の中に政治的な障害の根源を
見いだしている」のであり、換言すれば、ブルジョアをシトワイアンに止揚せんとし、よって、政治は
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市民社会よりも普遍的であり、市民社会は政治に規定されるとしたロベスピエールのヘーゲル的認識こ
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そをマルクスは批判しているのである。このマルクスの認識が、その後のソビエト の政治的全体主義と
は非常にかけ離れたものであることは論を待たないであろう。政治が市民社会(市場社会)を統御する
という認識は、マルクスの思想とは真逆のものであったと言ってよい。先述の通り、マルクスの要諦
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は、むしろ政治的なるものを拒否したことにあり、その政治的機能を市民社会が再獲得し、果すべきだ
としたことにある。ここにマルクスの政治否定のロジックにおける全秘密が内包されていたと言えよう。
149
ヽ
ヽ
したがって、むしろマルクスがヘーゲルから直接継承したものは、市民社会にある種の公共性を見出
したヘーゲルの国民経済学的視座であったと言うこともできる。既にヘーゲルは、『精神現象学』の諸
章、特に「徳と世の中」や「自己疎外的精神、教養」などの諸章において、市民社会の中に、ある種の
道徳性や公共性を見いだしていた。実際、『精神現象学』の「徳の騎士」と「世の中」の決闘などは、徳
の騎士=公共的な政治的国家、世の中=利己的な市民社会として捉えなおせば、徳の騎士の敗北と市民
社会の一般性的側面を帰結している点から見ても、人間的解放のロジックと酷似してくる。
これは、ヘーゲルがフランクフルト時代に吸収した私悪と公益を結びつけるスミスらの国民経済学研
究が結実したものであり、公共性の契機が市民社会において包含されていればこそ、市民社会から、司
法やポリツァイ、職能団体といった国家への重要な過程的契機が導出されるのである。よって、ヘーゲ
ルは、
『法哲学綱要』(§189追加)で、市民社会の普遍的機能を見出した国民経済学を「思想の栄誉にな
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る学」として高く評価している。その意味では「ヘーゲルは近代国民経済学の立場に立っている」(20)と
マルクスが看破したのは正しい。まさしく公と私、共同性と個人性の止揚態=人倫的共同態が、国民経
済学の市場社会観においてこそ自生的に成立していたのである。ロザンヴァロンが、ヘーゲルの人倫的
国家観を市場のユートピアであると論じたのは慧眼であったと言えよう(21)。しかし、ヘーゲルは、市民
社会の公共的要素を、国家を導出するための過程的契機としてしか見ず、市民社会(特殊態)を国家
(個別態)の従属的要素、「述語」としてしか認識していない。ここに、唯物論者マルクスと観念論者
ヘーゲルとの市民社会観における決定的隔絶があるのであるが、前章で論じたように、マルクスにとっ
ヽ
ヽ
ては、市民社会こそが現実的主語なのであった。
よって、マルクスは、ヘーゲルとは逆に、市民社会(私)においてこそ、政治的国家(公)を包摂す
るとしたのであるが、『ヘーゲル国法論批判』では、ヘーゲルの立憲君主制に対して、「真の民主態」に
おいてこそ、公と私、共同性と個人性が止揚されるとしていた。無論、廣松渉氏も指摘するように、こ
れが先述の「人間的社会」に通ずるものであることは言うまでもない(22)。
では、その「真の民主態」とは何であろうか。マルクスは、
『ヘーゲル国法論批判』において、「ヘー
ゲルは、市民社会と政治的国家の分離を知っている」が、「国家の内において」(23)その分離の統一を行
おうとしていると批判し、君主制や官僚制、身分制議会等によって、政治的国家と市民社会との融和が
達せられるとしたヘーゲルの『法哲学綱要』における国家論を逐条批判している。これらの諸論点につ
いて深く立ち入る紙幅はないが、マルクスは、市民社会を形式態とし、国家こそを現実態であるとした
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ヘーゲルを批判し、むしろ人間は市民社会における「類形態(die Gattungsgestaltungen)」(24)として現実
性を獲得するのだと論じ、
「真の民主態」においてのみ、人間は類として、
「全デモス(der ganze Demos)」
(25)
として、共同存在として、全市民社会として、公共性を実現できるのだと言う。君主という一部分が
全体 を 規 定 す る 君 主 制 と は 異 な り、「真 の 民主 態」に お い て は、公共 性 が 市 民 社 会 の「自 己 規 定
(Selbstbestimmung)」として現れ、「人間の自由なる産物(freies Produkt des Menschen)
」(26)として現れ
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るというのである。プロイセンの君主制もアメリカの共和制も、市民社会と政治的国家の完全なる一致
には達しえないという点では、同根なのである。「真の民主態」においてのみ、私人(ブルジョア)は
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無媒介に公民(シトワイアン)として公共性を実現しうるのであり、「
[真の民主態]がはじめて普遍的
なものと特殊的なものとの真の統一」を実現できるのである。
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この「真の民主態」を通常の意味での国家制度の問題として捉えるのは決定的に誤りであろう。「真の
民主態」とは、普通選挙制度など何らかの具体的制度を意味するものではなく、私的個人がそのまま
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「社会化された人間(der socialisirte Mensch)」(27)となるような様態を指すのであり、人間の類性、社会
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・
性が全面的に開花する状態なのである。
「真の民主態においては政治的国家は死滅する」
と述べられるの
150
も、
「制度として(als Verfassung)」(28)の政治的国家が死滅するという意味にすぎない。それは、『ライ
・ ・
・ ・
・ ・
・
ン新 聞』時 代の マ ルク ス が、「『ライン 新聞』は、決し てあ る一つの 特殊な国家形式(eine besondre
・
・ ・
・ ・ ・
・ ・
・ ・
・
Staatsform)
を特別に偏愛するものではなかった。重要なのは、ある人倫的で理性的な共同態
(ein sittliches
und vernünftiges Gemeinwesen)に関することであった」(29)と述べていたことを想起していただければよ
い。また、『ヘーゲル国法論批判』では、
「人倫」を「社会的生活(das sociale Leben)」(30)以外の何物で
もないとしていた。マルクスが到る所で「民主的国家」、「真の理性的国家」
、「人倫的国家」等々、国家
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の理想的な在り方を現実の社会に対置し、論じていたとしても、ここでの「国家」とは、逆説的ながら、
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国家形態や制度としての「政治的国家」ではなく、人倫的な理性的共同態としてのヘーゲル的「国家」=
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社会(市民社会)を論じていたのであり、その限りで、国家制度や国家形態としての「政治的国家が」
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死滅したとしても、なお、マルクスにとっての「国家」
(=理想的な社会形態)
は存在しうるのである(31)。
ここを踏まえれば、マルクスが「ヘーゲルは、人民の存在の全体として(als das Ganze des Daseins eines
Volkes)の国家を、政治的国家と混同している」(32)と述べたのも容易に理解されうる。人倫としての
ヽ
・
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・
「国家」を、立憲君主制という「政治的国家」の制度(国家形式 Staatsform)において実現させようとし
ヽ
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たヘーゲルを批判し、マルクスは逆に、人倫としての「国家」理念を、人民の存在の全体としての「社会」
として捉えたわけである。つまり、「国家の本質的部分(Inhalt)は、これの制度の外に(ausserhalb dieser
Verfassungen)あるのである」(33)。
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したがって、マルクスにとっては、制度としての代議制も直接民主制も「数(die Zahl)
」の問題にす
・ ・
・
ぎず、無論、その数の差は無意味ではないのだが、どちらも
「抽象的政治問題」(34)にすぎないのであっ
ヽ
ヽ
て、政治への制度的参与形式が論じられること自体、市民社会と政治的国家の分離という近代的認識パ
ラダイムから抜け出ていないのである。問題は、制度的甲殻ではなく、人間にとっての根本たる「人間
そのもの」にある。そこでマルクスは以下のように述べるのである。
・ ・
・ ・
・ ・
「真の理性的国家において、人は次のように答えることができよう。
『万人が個々に、国家の普遍的
・ ・
・
事項の協議と決議に参与すべきではない』
。なぜならば『個々人(“Einzelnen”)
』は、『万人(
“Alle”
)』
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・ ・
・
として、つまり社会の内部において、そして社会の成員として、普遍的事項の協議と決議に参与する
のだから。万人が個々にではなく、万人としての個々人がである。(Nicht Alle einzeln , sondern die
Einzelnen als Alle. )」(35)
抽象的なシトワイアンに「化体」することによって、ブルジョアとしての人間が普遍的事項に参与す
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るのではなく、社会において、つまりは市民社会において、具体的なブルジョアのまま普遍的公共的事
項に参加する。この「公」
(政治)を自生的に実現する「私」
(市民社会)というマンデヴィル的構成原
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理を基底に持つ「真の理性的国家」=「真の民主態」とは、無論、理念型としての市場社会に他なるま
ヽ ヽ
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い。そこでの人間存在は、現実の市民社会における排他的(個人的)利己主義者=「個々人としての万
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人」とし て で はな く、ハ イ エク の「真の個人主義」(36)に当該するような社会的共同存在、社会性 ・
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共同性に埋め込まれた個人=「万人としての個々人」として存在しているものでなくてはならない。ま
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さしくこれは共同性と個人性の止揚たる人間的解放後の人間像なのであるが、社会的共同存在としての
ヽ
ヽ
私人は、「真の民主態」(理念型としての真の市場社会)においてこそ、その意識的定在によって自生的
・
・
に 公 共 性(公益)を 実 現し う る。
「彼 等 の 社 会 的 存在(sociales Dasein)が 既 に[普 遍 的 事 項 へ の]
・
・ ・
・ ・ ・
・
彼等の真の参加となる」(37)。
「真の民主態」=理念型としての真の市場社会において、
「私」が無媒介に「公」を実現しうるという
・ ・
・
のであれば、近代的な問題設定、つまり、市民社会の「代表的権力」としての立法権への参与(参政)
ヽ ・
・
ヽ
ヽ
(38)
。国会制度を媒
という問題自体の意義が消滅する。そこでは「市民社会が真の政治的社会なのである」
151
介せずとも、マルクスの象徴的な言葉に従えば、既に
「靴職人が一つの社会的需要(ein sociales Bedürfniß)
を満たす限りで私の代議士(mein Repräsentant)なのである」(39)。社会的要求を政治において体現する
のが代議士ならば、社会的需要を市場において体現する靴職人は既に代議士である。各人が、社会にお
・
・
・
いて「靴職人」などの「各人の機能(jede Funktion)」を担うことで、市場社会の社会的交通の一端を構
成し(類的活動 Gattungsthätigkeit)、類的存在たる「私の本質の一規定を代表する」ことになる。こうし
て「真の民主態」においては、各人の定在と各人の個人的行為がそのまま他者を代表するような社会的
構成をとるとされているのである。まさに、ここでマルクスが述べている社会の構成原理とは、市場社
会の理念型的秩序原理そのものであると言えよう。ロザンヴァロンが的確に指摘しているように、
「市場
社会実現のなかに真の民主主義の姿を見るマルクス思想の自由主義的地平を」(40)看取することも可能
なのである。
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よって、この「真の民主態」を普通選挙制という制度的問題に矮小化したロザンヴァロンには同意し
・ ・
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かねるが、
「普通選挙制は市場と同じものになる」とし、「真の民主態」を理念型としての市場社会とし
て理解したのは、ロザンヴァロンの卓見であったと言えよう。私的個人が、無媒介に社会的共同存在と
して、公共性を実現しうるという「真の民主態」のロジックは、「私悪即ち公益」のロジック、つまり、
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理念型としての市場社会のロジックに通底するものとならざるをえない。国家無き自由なる市場社会の
ヽ ヽ
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ヽ
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理念型的秩序原理とは、公共性・共同性を再獲得した市民社会としての人倫的共同態=「人間的社会」
ヽ
ヽ
に他ならず、これこそ「真の民主態」なのであった。ラディカルな無政府主義的市場主義者の一面を、
ここでマルクスは垣間見せるのである。
しかし、公と私、共同性と個人性の統一態としての市場社会の理念型的秩序原理とは異なり、マルク
ヽ
ヽ
・
ヽ
・ ・ ・
スによれば、「現在の市民社会(Die jetzige bürgerliche Gesellschaft)とは、個人主義の徹底した原理」(41)、
「利己主義の領域」
に他ならないものであった。それは既に論じたように、公共性・共同性が、市民社会
に対立する彼岸としての「政治的国家」によって剥奪され、独占されていたからなのであるが、市民社
会における利己的形態(私的本質 privates Wesen)が「
[政治的]制度ないしは政治的国家の彼岸的本質
ヽ ヽ
ヽ
とともに死滅する」(42)とマルクスが述べたのも、まさしく現実態としての利己的市場社会が、共同性の
幻想態たる政治的国家の公 共性を自ら の内に再獲得し、個人の共同 的本質を高次的に回復させ、
ヽ ヽ
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私と公を再び接続させるからに他ならない。市民社会が利己的=公共的(私悪即ち公益)の原理に環帰
ヽ ヽ
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する なら ば、公共性の独占体としての政治的国家 は 確か に 死 滅 する で あ ろ う。逆 説 的 で は あ るが、
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マルクスの国家死滅のロジックは、市場社会の理念型的秩序原理と表裏一体なのである。ここに、階級
国家論に基づく国家死滅論とは異なるロジックが見出されよう。
(1)
MEGA Ⅱ/1.1 S.90‐91.〔資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』
(1)、大月書
店、1981年、138頁。
〕
(2) MEW 23 S.27.〔岡崎次郎訳『資本論』
(1)
、国民文庫、1972年、41頁。〕
(§270追加)〕
(3) Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts , S.428.〔訳512頁。
(4) イッポリット(宇津木・田口訳)『マルクスとヘーゲル』、法政大学出版局、1970年、139頁。
(5) レーヴィット(柴田・脇・安藤訳)『ウェーバーとマルクス』、未来社、1966年、108頁。
(6) Hegel, Phänomenologie des Geistes,(Werke 3), Suhrkamp, 1986, S.23.〔樫山欽四郎訳『精神
現象学』(上)
、平凡社、1997年、33頁。
〕
(7)
Hegel, Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1830,
(Werke 10)
, Suhrkamp,
1986, S.330.〔樫山・川原・塩屋訳『エンチュクロペディー』、河出書房、1968年、400頁。訳文
152
は変更した。
〕
(8)
MEGA Ⅰ/2 S.475‐476. ギリシアへの還帰願望は『経済学批判要綱への序説』にも見られる。
(MEGA Ⅱ/1.1 S.45.〔訳66頁。
〕)
(9)
MEGA Ⅰ/2 S.360.
(10)
MEGA Ⅰ/2 S.33.
(11)
MEGA Ⅰ/2 S.32‐33.
(12)
MEGA Ⅰ/2 S.91.
(13)
MEGA Ⅰ/2 S.100.
(14)
MEGA Ⅰ/2 S.8.
(15)
MEGA Ⅰ/2 S.462.ここでの「人間」も、
「政治」と対比された意味での「市民社会」の成員、つ
まり、
「ブルジョア」を指すものであることは言うまでもない。(第Ⅱ章参照)
(16)
MEGA Ⅰ/2 S.9.
(17)
MEGA Ⅰ/2 S.25.
(18)
同様に、マルクスは、検閲官が市民社会における自由なる出版を全て監視しうるというプロイセン
政府の考えを批判し、それは、検閲官を「全知(Allwissend)
」と見なすことだと論じ、「類の完成を特
殊な個人に帰するとは、全くあつかましい」と批判している。
(MEGA Ⅰ/1 S.110.)
(19)
MEGA Ⅰ/2 S.457.
(20)
MEGA Ⅰ/2 S.405.
(21)
ロザンヴァロン(長谷俊雄訳)『ユートピア的資本主義』
、国文社、1990年、208頁。
(22)
廣松渉、前掲書、139頁。我々とは異なり、
「真の民主態」と「人間的解放」の間に理論的転換をみ
る見方として、渡辺憲正『近代批判とマルクス』、青木書店、1989年、がある。
(23)
MEGA Ⅰ/2 S.80.
(24)
MEGA Ⅰ/2 S.28.
(25)
MEGA Ⅰ/2 S.30.
(26)
MEGA Ⅰ/2 S.31.
(27)
MEGA Ⅰ/2 S.31. よって、本稿においては旧来の「真の民主主義」
、
「真の民主制」という訳語を
用いない。
(28)
MEGA Ⅰ/2 S.32.
(29)
MEGA Ⅰ/1 S.351.
(30)
MEGA Ⅰ/2 S.117.
・ ・
・
・
・
・
」であり、市場
(31)
因みに、マルクスにとっての「社会」が「市民社会(die bürgerliche Gesellschaft)
社会であるのは『経済学・哲学草稿』で示唆されている。(MEGA Ⅰ/2 S.429.)
(32)
MEGA Ⅰ/2 S.87.
(33)
MEGA Ⅰ/2 S.32.
(34) MEGA Ⅰ/2 S .126 . ここで明確に制度だけの直接民主制が否定されていることは留意すべ
きである。残念ながら「真の民主態」を直接民主制とのみ解する研究書は多い。
(35)
MEGA Ⅰ/2 S.126.
(36)
ハイエクは、合理的アトムとしての人間観を「偽の個人主義」、社会的共同存在としての人間観
を「真の個人主義」として分類し、
「真の個人主義」の想定する人間存在をもって市場のアクター
としている。通念的には市場主義=アトミズムと理解されるが、ハイエクの思想は、そうした新
153
古典派経済学的思考に対しては鋭く対立するものであった。F.A. Hayek, 'Individualism : True and
False ',1946,in Individualism and economic order, Routledge & K. Paul, 1949.〔嘉治元郎・嘉治佐
代訳『個人主義と経済秩序』新装版ハイエク全集第3巻、春秋社、1997年〕参照。
(37) MEGA Ⅰ/2 S.127. さらに同じ頁で、「社会(die Societät)」は、個人を他の人々のためにな
るようにさせ、また他の人々をも個人のためになるようにさせていると述べている。
(38) MEGA Ⅰ/2 S.129.
(39) MEGA Ⅰ/2 S.129.
(40) ロザンヴァロン、前掲訳書、213頁。
(41) MEGA Ⅰ/2 S.90.
(42) MEGA Ⅰ/2 S.32‐33.
Ⅳ.人間的な市場社会の構造
では、現実の物象的市場社会を止揚する人間的社会とは、マルクスの中でどのような社会構造を取り
うるものなのであろうか。残念ながら、マルクスは詳述していないが、おそらく『ミル評注』における
「人間的生産」こそ、この人間的社会の秩序原理として理解しうるものなのではないだろうか。
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「生産そのものの内での人間活動の交換も、人間の生産物の相互的な交換も=類的活動と類的享受
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であり、それらの現実の意識的な真の存在が、社会的な活動と社会的な享受である」(1)。
この記述に示されているように、人間を社会的共同存在として捉えたマルクスにとって、直接的生産
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過程における協業と、社会的に拡がる広汎な交換体系とは、人々を自然的に結びつけるための、人間的
本質に適った営為として捉えられていた。この記述は、森田桐郎氏が指摘するように(2)、交換一般を生
産手段の私的所有と結びつけて全否定する通俗的思考に対して再考を迫るものとなろう。実際、マリノ
フスキーやモースなどが観察したように、社会の存立基盤として、交換体系が伏在しているとするなら
ば、交換無き社会形態は、もとよりありえないであろう(3)。マルクスによれば、社会を広汎に覆い、
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人々を自然的に結びつける協業・交換体系=市場社会の理念型的秩序原理は、人間の社会的共同本質の
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現象形態として捉えられ、
「あの真の共同的本質は、反省によって生じるのではなく、それゆえ諸個人の
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必要(die Noth)とエゴイズム(der Egoismus)によって、つまり、直接に彼らの存在そのものの活動に
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よって、生み出されたものとして現れる」(4)と言うのである。細谷昂氏のように、ここに「広汎な分業
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と交換の体系の展開というスミス的世界への視野」(5)を見出すのは全く正当であろう。したがって、交
換の動因として「必要」や「欲望」を見出したスミスらの国民経済学は、その意味では正しいのだが、
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マルクスによれば、私的所有を前提としているために、
「社会的交通の疎外された形態」(6)をそのまま
承認してしまっている。
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ここで、マルクスが、社会的交通ないし社会秩序の形成動因を個人間の相互的「欲望」に求めたスミ
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スらの「市場社会の理念型的秩序原理」を基本的に受容していることは、明らかであろう。『経済学・哲
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学草稿』においては、私的所有が積極的に止揚された段階における「豊かな人間(der reiche Mensch)」
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とは「自己実現が内的必然性として、必需のものとして彼のうちにある人間」であるとされ、そこで
・
・
は、「[欠乏]とは、人間に、最大の豊かさである他の人間を必要だと感じさせる消極的紐帯(das passive
Band)である」(7)として「欲望」が肯定的に規定されている。マルクスによれば、本来、人間は相互
に、自己の定在の完成と本質の実現にとって必要なもの、つまり、自分は持っていないが、自分にとっ
154
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ては不可欠であるようなものを他者から享受せねばならず、その欲望(豊かな人間的需要 das reiche
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menschliche Bedürfniß)に駆られて社会内的交換を行うことで、市場社会という交換体系の形態で人間的
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な共同的本質を現象せしめるというのであるが、私的所有の下では、これは疎外された形態として現象
せざるをえない。私的所有は、労働者の人格の対象化活動としての労働を疎外させ、労働者が自己の生
産物を享受することができない、つまり、主体と客体とを剥離させ、生産していない者でも生産物を享
受しうるようにしてしまう。また、他者が他者の私有物を享受しうるようになると、私有物間の交換の
コード 体系としての「価値 Werth」(交換価値)が発生し、労働者の個性の対象化物たる労働生産物は、
・ ・
・
・
「単に相対的な存在」にすぎないものとなってしまう。こうして、生産労働は、ただ交換価値を生産する
ためだけの「営利労働」と化し、労働生産物に、労働者の人格性が対象化された使用価値を見出すので
はなく、交換価値とその具象的形態としての貨幣しか見ないようになる。自分の労働生産物は貨幣や他
者の生産物を獲得するための手段に貶められ、自己の人格性を対象化するという本来の労働の在り方が
疎外されてしまうのである。労働生産物が価値あるか否かは交換価値の具象的形態たる貨幣によって代
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表されるか否かで決まり、「本来は[貨幣が諸対象を]代表するかぎりで、[貨幣]が価値をもつように
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見えていたのに、いまや[諸対象が]価値をもつのは、[諸対象が貨幣を]代表するかぎりでのことにす
ぎない」(8)という物神的転倒が起きる。
ここでマルクスは、このような物象的生産を止揚する人間的な生産形態とは何かを論じる。
『経済学・
哲 学 草 稿』に お い て、ヘ ー ゲ ル の『精 神 現 象 学』に お け る「偉 大 な も の」を、
「人 間 の 自 己 産 出
(Selbsterzeugung)を一つの過程として捉え、対象性奪還として、外化として、そしてこの外化の止揚と
して対象化を捉えているということ」(9)にあるとマルクス自身認めていたように、マルクスの生産労働
観は基本的にはヘーゲルを継承したものであると言ってよい。よって、マルクスにあっては、真の労働
とは、ヘーゲル的に、自己の人格性や個性の対象化であり、対象化物たる生産物の自己享受による人格
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の確証である。また、自己の人間的欲望を充足させるとともに、自己の個性的本質の対象化物によって
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他者の人間的欲望が充足されることで、自らを他者に認証してもらい、喜びを得る生産でもある。こう
して、互いを互いにとっての不可欠の一部分として認めあい、
「私の個人的な生命発現の中で、直接に君
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の生命発現を成し遂げ、よって私の個人的な活動の中で直接に私の真の本質を、私の人間的、共同的本質
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を、確認し現実化したという[個人的な喜び]」(10)を相互に「直接に」得る生産行為、交換行為こそが
「人間的生産」なのである。
常に 生 産 は 個 々 の 人 間 存 在 の 相 互 的 関係 の 中に 位 置 づ け ら れ て い な けれ ば な ら ず、不可 欠 の
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相互的認証行為でなくてはならない。自己の対象化活動としての本源的な生産は常に個性の発露であ
り、商品としての一般的抽象性、つまり交換価値を持ちえないだろう。そして、そうした労働は「喜
び」であるに違いない。しかし、現実の市民社会における物象的生産では、
「強制された活動」であり、
外的必要によって、自己の個性が徹底的に「外化」されているために「苦悩」となる。そこでは、労働
者と労働生産物、そして他者とが疎遠な関係に置かれているのである。
この人間的生産が、この時点でどのように実現されるかは述べられていないが、個人性と共同性が止
揚された「人間的社会」に繋がるものと考えてよいだろう。労働によって自己の人格性を対象化し、自
らその対象化物たる労働生産物を享受することで自己の満足を得、さらに、その自己の対象化物が他者
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にも享受されることで、他者に自己自身が認証されたという自己の満足と、他方で、その生産物によっ
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て自己の定在が完成に近づくことで、社会内的交換体系の「類的活動」と「類的享受」とを実感すると
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いう他者の満足とが直接接続されるような社会なのである。そしてマルクスが、この社会においては、
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個人的労働が共同的本質の確証行為になりうると述べ、
「必要とエゴイズム」によって「真の共同的本
155
・
質」が現象するのだと論じるとき、そこに、各人の私欲に基づく自由なる活動によって、自生的に共同
性、公益性が生み出されるとした市場社会の理念型的秩序原理のロジックを垣間見ることは不可能では
あるまい。マルクスによれば、
「だから、私が自分から何かをつくるにしても、私は社会のために自分か
らつくるのであって、社会的な本質としての私の意識をもってつくるのである」(11)。
無論、この共同的本質、類的本質というマルクスの人間把握がフォイエルバッハに由来するものであ
ることは言うまでもないが、廣松渉氏が指摘するように、フォイエルバッハの用法そのままではなく、
明らかにマルクスは「社会経済的な規定をかなり具象的に読み込んだ上で論考して」(12)おり、その意味
で、類的本質を「市民社会の本質」と解釈したミシェル・アンリの洞察(13)は首肯しうるものとなろう。
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人間自らの自然的な「必要とエゴイズム」に従うことで、社会的分裂をもたらすことなく、むしろ
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自生的に社会的共同性(公益)を実現する、このような社会状態=理念型としての市場社会とは、換言
すれば、人間の自然的定在がそのまま社会的存在としての人間的本質の発現ともなっている社会状態に
他ならず、これをマルクスは「この共産主義は完全な自然主義として=人間主義であり、完全な人間主
(14)
と規定したわけである。人間の自然的欲求の抑制と理想的人間像を接続
義として=自然主義である」
させるプラトン的共産主義とは、この点で好対照を成す共産主義であると言ってよいだろう。マルクス
の共産主義とは、まさしく人間の自然性の全面的回復を企図するものなのであって、そこに至っては、
自己の自然的欲求の実現と他者の自然的欲求の実現とが無媒介に接続される社会となるのである。ここ
に、市場社会の理念型的秩序原理を看取することは可能であろう。
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マルクスが、国民経済学的な疎外された市場社会観を批判的に摂取する中から、私欲に基づく社会内
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的交換を通じた予定調和的市場秩序=「私悪即ち公益」という市場社会の理念型的秩序原理を、人間の
社会的共同存在性を実現させる「人間的社会」の秩序原理として掴み取っていることは明らかであろう。
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換言 すれ ば、マルク ス は、貨幣や交換価値を媒介とする国民経済学の物象的交通形態を批判する一方
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で、その国民経済学の、国家を媒介とすることなく、私欲と公益とを接続させる市場社会の理念型的秩
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序原理をむしろ承認し、貨幣や交換価値を媒介としない、直接的交通形態としての人間的な市場社会を
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構想していたのである(15)。ルソー、スミス、ヘーゲルらが三者三様に解決を試みてきた個人性と共同性
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の止揚、私人性と公共性の止揚という問題意識をマルクスは明らかに継承しているが、相互承認や自己
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実現の「欲望」をもって国民経済学の動因たる貨殖欲や利潤欲に代え、使用価値や人格を介する直接的
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交通形態をもって貨幣や価値を介する間接的交通形態に代え、つまり、物象的契機を同等の秩序生成機
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能を有する人間的契機に置換した形で、「私悪即ち公益」という市場社会の理念型的秩序原理を再構成
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し、このアポリアを最終的に解決させようとしていたのである。
しかし、現前の近代社会においては公共性・共同性の領域は政治的国家が独占し、市民社会は私有財
産、価値、貨幣などの物象的関係によって規定され、利己主義の領域、万人の万人に対する闘争の領域
に成り下がっていた。現実の市民社会を覆い尽くす交換価値や貨幣を媒介とする物象的交換は、必ず、
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労働者の人格の対象化物たる労働生産物を相手に正確にありのまま表象し、コミュニケートさせること
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はできない。シェイクスピアやゲーテが透察していたように、貨幣はそれを持つものには全てを与え、
持たざるものからは全てを奪うのであって、信頼できず、愛されない者であっても、貨幣を持っていれ
ば、信頼され、愛されるのと同じように、貨幣を持つか否かがその人の個性を社会的に決定してしま
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う。交換価値もそれは「単に相対的な存在」であるにすぎないのであって、人格の対象化物たる労働生
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産物をそのものとして全体的に伝達させることはできないのである。人間の自己対象化物としての生産
ヽ
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物を社会的に交換し、相互的認証行為として完全にコミュニケート させるためには、
「例えば、君は愛を
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ただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ交換することができる」(16)ようにしなくてはならない。個性の発
156
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露たる労働生産物、労働者個人そのものたる労働生産物が、そのものとして、抽象化された交換価値に
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おいてではなく、使用価値において他者に認証され、享受され、社会的に相互交通してゆく、この人間
的な社会内的交換体系においてはじめて、「現実的存在」と「本質」、「対象化」と「自己確認」、「自由」
と「必然」
、「個」と「類」との闘争が真の解決を見るのである。これは明らかにヘーゲルの人倫的共同
態の原理に他ならないが、マルクスは市場社会の理念型的秩序原理に依拠することで、この人倫的共同
態を実現させようとしていたのである(17)。
*
ここまでの結論を再度確認しておこう。このように、疎外を生み出し、私利によって公共性を歪める
ような私的所有や貨幣などの物象的媒介が止揚され、人間的に構成された市場社会の理念型的秩序原理
ヽ
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が、そのまま公共性を達成しうるのだとすれば、公共性の独占態としての政治的国家が無用となるのは
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当然の帰結ではある。こうした市場社会の理念型的秩序原理こそが、マルクスの政治否定、国家死滅論
のロジックを支える重要な根本原理なのであった。
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次章で検討するが、むしろマルクスにとって、制度としての国家なるものは、特定利益集団の私利を
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強制するための市民社会の抑圧機関でしかなく、市民社会(市場社会)が本来有する公共性の自律的生
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成作用を疎外し、歪曲してしまうものに他ならないものであった。本来の市場秩序は無媒介で公共性・
公益性を実現しうるという国民経済学的楽観を、その意味ではマルクスも継承していたと言ってよいの
であるが、それがマルクスの国家廃絶という政治的楽観主義にも接続していた。グラムシのヘゲモニー
理論などは、この克服を企図したものであったと言えよう。
(1)
MEGA Ⅳ/2 S.452.
(2)
森田桐郎「ジェームズ・ミル評注」
、現代の理論社編集部編、『マルクス・コメンタール』
(1)、現
代の理論社、1972年、244頁。
(3)
同書、231頁、も参照。ここで森田氏は、社会主義を展望するにも交換のカテゴリーを排除すること
はできないとしている。
(4)
MEGA Ⅳ/2 S.452.
(5)
細谷昂『マルクス社会理論の研究』、東京大学出版会、1979年、62頁。
(6)
MEGA Ⅳ/2 S.453.
(7)
MEGA Ⅰ/2 S.397.
(8)
MEGA Ⅳ/2 S.448.
(9)
MEGA Ⅰ/2 S.404.
(10)
MEGA Ⅳ/2 S.465.
(11)
MEGA Ⅰ/2 S.267.
(12)
廣松渉、前掲書、196頁。廣松氏はここで類的本質を国民経済学的人間関係からというよりも、ヘー
ゲル的市民社会観に由来するとしているが、それはマルクスの理解した国民経済学的人間関係がヘー
ゲル経由であったことを鑑みれば、おそらく正しいと思われる。第Ⅱ章脚注(19)参照。
(13)
ミシェル・アンリ(杉山・水野訳)
『マルクス』、法政大学出版局、1991年、93頁。
(14)
MEGA Ⅰ/2 S.263. 人間主義=自然主義の解釈は様々あるが、特に藤原保信「マルクス」
『西洋
政治理論史』所収、早稲田大学出版部、1985年、は参考になった。
(15)
ここでマルクスが想定しているような直接的交通形態としての社会は、実際には、互いがよく知り
合った原始的な「対面社会(face‐to‐face society)
」においてしか実現しえない。よって、ハイエクが
社会主義原理を現代の「大社会(Great Society)
」に適用しようとすることを「先祖帰り(atavism)
」と
ヽ
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
して批判するのは、この意味でも正しい。F.A.Hayek, New studies in philosophy, politics, economics
157
and the history of ideas, Routledge & K.Paul., 1978.を参照。
(16) MEGA Ⅰ/2 S.438.
(17)
ヘーゲルが国家の原理に人倫の普遍態としての愛の家族原理を見ていたのとは逆に、マルクスが
・
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・
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・
・
・
・
「むしろ市民社会においてはじめて家族生活が、家族の生活に、愛の生活に至る」
と述べていたことは
象徴的である(MEGA Ⅰ/2 S.108.)
。ここにも、ヘーゲルの人倫的国家概念を市民社会に見出すマ
ルクスのロジックを看取することができるであろう。
Ⅴ.マルクスの慣習的規範論についての一試論
ヘーゲル市民社会論および国民経済学から抽出し た市場社会の理念型的秩序原理に政治否定のロ
ジックを見出したマルクスが、無媒介にそうした社会秩序が維持されると考えていたとは想定しにく
い。スミスも各人が自由に私益を追求すれば「簡明な自然的自由の体系(the obvious and simple system
of natural liberty)」が生成すると述べた中で、
「正義の法を侵さない限り」(1)という留保をつけたよう
に、明確には論じられていないが、マルクスの政治的国家無き「人間的社会」においても規範的ルール
が存在しているように思われる。藤田勇氏も指摘するように(2)、共産社会における「法の死滅」とは、
一切の規範ないしルールの死滅を指すものではなく、むしろそれらの規範やルールが現在の法概念では
把捉できないものになるという意味で解するべきであろう。本章では、その規範的ルールが慣習的ルー
ヽ
ヽ
ルであるという試論を展開してみたい。
実際、『ライン新聞』時代のマルクスの「木材窃盗取締法」に関する論文は慣習法主義で彩られてい
る。そこでは、富者による山林の排他的私有に対して、貧農による山林の慣習的共同利用を擁護してい
る。ライン州議会が、これまで農民が山林から慣習的に枯枝を拾い集めていたことを違法とし、山林所
有者の私的所有権の侵害として処罰するよう求めたのであるが、マルクスは枯枝の取得をゲルマン的な
「貧民の慣習法(権利)」として擁護する。山林の枯枝のような、
「あるものの所有権は、私的所有とも断
定できないし、また、共同所有とも断定できない、不定的な性格(ein schwankender Charakter)を保持し
ていて、中世の全ての制度に見受けられるような私法と公法の混合態であったというところに基づい
て、全ての貧民の慣習法が基礎付けられていた」(3)とし、中世的な公と私の止揚態として、慣習法を捉
えていた。無論、ここでの「中世的」という意味合いがマルクスの理想社会の展望にとって必ずしも否
ヽ ヽ
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定的なものではなかったということは既に述べた。この場合の慣習法とは、貧民が生存のために枯枝を
ヽ
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共同利用することで自生的に形成され、貧民の中で無意識的に体得されてきた慣行としてのルールなの
であり、個人間の共同的アクションの伝統によって形成されたルールなのであるから、個人的自由に対
して外在的に措定された強制的なルールではない。実際、マルクスは貧民の慣習的法権利を「自然的」
ないし「本能的」なものであるとしている。別言すれば、諸個人間の共同的行為が自生的に生み出した
ヽ
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内生的なルールであるがゆえに、個人性と融和的な共同体内在的ルールであるとして捉えられているの
である。ここでは、個人性と共同性が、また、私人性と公共性が、この慣習的ルールにおいて見事に接
続されている。したがって、この内在的な慣習的ルールを政府が成文法化(対象化)したとしても、個
人的自由とは対立せず、社会的自由とも調和しうる。マルクスによれば、「真の法律」とは「行為そのも
のの内的な生活法則(die innern Lebensgesetze seines Handelns selbst)」であり、その「自由という無意識
的な自然法則(das bewußtlose Naturgesetz der Freiheit)」の意識的国法(bewußtes Staatsgesetz)化の産物
に他ならない(4)。したがって、立法者は法を創出するのではなく、「言語化して表現する(formulirt)」
158
だけであり、「精神的な関係の中の内的法律を、意識的な実定的法律の形で公言する」(5)にすぎない。
・
・ ・
・
・
「法権利は、実定法として制定されても、慣習でなくなるのではなく、ただ単なる慣習として存在するの
をやめるにすぎない」(6)。ここでマルクスは、ゲルマン法と対置させ、ローマ法を批判しているが、そ
れはまさしくローマ法こそが人間の共同性から遊離した個人主義的、外在的、強制的な実定法であった
からであり、ゲルマン法的な、人々の相互行為が生み出す共同体内在的規範としての非強制的慣習法と
原理的に対立していたからに他ならない(7)。無論、ローマ法の抽象性、外在性は既に『精神現象学』等
に見られるように、ヘーゲルが批判していたところであった。
・ ・
・
ここで、マルクスがこの慣習法を「貧民の慣習法」と「富者の慣習法」とに分別し、後者を「不正な
・
・
・
慣習法(Gewohnheitsunrechte)
」と呼んでいたことに留意しておこう。つまり、貧民の枯枝取得の慣行
ヽ ヽ
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ヽ ヽ
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は、
「本能的法権利感覚(ein instinktmäßiger Rechtssinn)」に基づくとされていたように、自然的な生存の
ヽ
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ためであり、必然性を有するにもかかわらず、富者の枯枝取得禁止は何らの生命的切迫も必然性もな
く、
「瑣末な娯楽(die menus plaisirs)」にすぎず、私利に起因するものに他ならない。逆説的ながら、木
ヽ ヽ
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材窃盗取締法等における「富者の慣習法」とは、つまるところ富者の私利によって創出された人為的な
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非自然的実定法なのである(8)。マルクスが「利害は思考せず、見積もるだけである。その動機は[利害
の]勘定であり、法的根拠を台無しにする動因なのである」(9)と述べるように、この私利こそが法の精
神を根底から浸食するものなのであった。同時に、富者が支配する立法議会とは、まさしく富者の「特
殊的利害の代弁者(eine Vertretung der Sonderinteressen)」に他ならず、その立法議会がアウト プットする
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「実定法」とは、個人主義的単独所有権理論を産み出したローマ法的な富者の私利のための「抽象的私
法」
(実定法)とならざるをえず、理性的な法の精神と決定的に対立するものであった。後に『ユダヤ人
問題によせて』で定式化されるような、政治の人為性と、市民社会の自生性ないし自然性が既にここで
対置されていたのである。このマルクスの法思想が、法実証主義やリベラリズムの述べるような普遍的
抽象的法の外在性を批判するものであったことは言うまでもない。
ここで、紙幅の関係上詳述できないが、慣習法との関係で、ド イツ歴史法学、ヘーゲル法哲学との関
連について付言しておこう。マルクスが慣習法擁護の歴史法学派、とりわけサヴィニーに対して批判的
であったことは周知の通りであるが、河上倫逸氏の指摘するように(10)、マルクスの歴史法学批判とは、
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歴史的方法論そのものの批判には達しておらず、学者サヴィニーではなく、検閲等でマルクスを苦しめ
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たプロイセン司法大臣サヴィニーに対する怨恨に似た「政治的批判」を含むものであったと言えよう。
つまり、マルクスの歴史法学批判は慣習法理論そのものの批判には直結していないのである。
また、マルクスをその影響下におくヘーゲル法哲学が慣習法を否定し、実定法を称揚したとされるこ
・
・
とについても、一定の留保が必要であろう。ヘーゲルは『哲学入門』において、「法律は即且対自的に存
在する一般的意志の抽象的表現」であるとし、法律は立法者の勝手気侭に制定されうるものではなく、
その一般的意志は「風習(Sitte)
」として、「慣習(Gewohnheit)」として成立し、政府とは「この無意識
的な慣習の意識された力(die bewußte Macht der bewußtlosen Gewohnheit)」(11)に他ならないとされてい
た。問題は、歴史法学が慣習法を全て意識的実定法化できない(そのためには超人的立法者が必要とさ
れる!)として法典論争で法典化に反対したのに対して(12)、ヘーゲルは、その政治主義、理性主義の思
想的立場から、国家理性は社会内在的慣習法を全て知悉しうるとしたがゆえに、ヘーゲルは実定法主義
者として現れたということにある。これは、
『法哲学綱要』(§211)で、
「法典を作るといっても、問題
・
・
・ ・
・
になりうるのは、内容上新しい法律体系を作ることではなくて、現存の法律的内容をその規定された普
・ ・
・ ・
・ ・
遍性において認識すること、すなわちそれを、―特殊なものへの適用をも加えて―思惟によってとらえ
ること」にあるとされていたことからも明らかであろう。ヘーゲルの実定法主義とは、実定法が慣習法
159
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を包括しうるというヘーゲルの政治的理性主義の帰結に他ならず、換言すれば、社会内在的慣習法を全
て意識的宣布化しうるという理性主義的知識観に由来するものなのである。ヘーゲルの慣習法批判は、
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慣習を慣習のまま、法と見なすことに対する批判なのであり、実定法の内在的一要素としての慣習的
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ルール自体を否定しているわけではない。
「一国民の現行の諸法律は、それらが成文化され収集されてい
るからといって、その国民の慣習であることをやめるわけではないのである」(13)。ヘーゲル自身も吐露
しているように、モンテスキューから法の歴史性については学び取っているはずなのであり、このこと
を考慮すると、マルクスは、これら歴史法学派やヘーゲルの慣習法論からあまりに大きな影響を受けて
いたと言わざるをえまい。
立法機関による人為的実定法を否定して、共同体の自生的慣習法を擁護したマルクスが、慣習法を、
政治的国家から離れて(対立して)、非強制的に人々の内面と融和して拘束しうる規範として掴み取り、
また、市民社会における人々の相互行為によって生成される自生的ルールとして高く評価していたと解
するのは完全な間違いとは言えまい。実際、それを踏まえれば、国家の課す恣意的な検閲法に反対し
・
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て、出版の自由の下における市民社会の、自由なる相互的「批判」によって出版物の適正化を図ろうと
したマルクスのラディカル・リベラリスト的発言も容易に理解しうるところとなる。つまり、マルクス
は、市民社会におけるルールの自生的形成作用に全幅の信頼を置いていたのであり、その自生的ルール
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こそ、立法者の恣意的制定物ならぬ「自由という無意識的な自然法則」
、「行為そのものの内的な生活法
則」として擁護された慣習法なのである。このルールは、人々の相互行為から内生的に生成したルール
であるがゆえに、外在的な立法議会の恣意的法律とは異なり、一切の暴力的強制力(端的には政治的国
家)を伴うことなく実効性を有しうる法規範となる。マルクスの政治否定=市民社会の自律性信仰の根
本原理がこの自生的ルール観とリンクしていたのであり、このルール観は当然、歴史貫通的に政治的国
家廃絶後の「人間的社会」においても、自由なる人々の規制的紐帯として構想されていたと考えること
ができるのではないだろうか。
おそらく、レーニンは明確にこのことを透察していた数少ない政治思想家であったと言えよう。
『国家
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と革命』において、レーニンは「系統的な暴力行使のための組織」としての国家が「死滅」する時、人
間は「数百年来にわたって周知徹底され、数千年にわたってあらゆる処世の格言でくりかえし反復され
てきた公共生活の根本規則の遵守に、暴力がなくとも、強制がなくとも、服従がなくとも、国家と呼ば
れる強制のための特殊装置がなくとも、だんだんに慣れてゆくであろう」と論じ、国家による暴力的社
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会統合原理に代わって、非強制的社会統合原理としての慣習的規範の生成に期待していた(14)。よって、
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レーニンは、国家の死滅に関して、過程の急進性ではなく「過程の漸進性」を、過程の人為性ではなく
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「過程の自然成長性」をこそ重視し、それは「慣習」によってのみ成されうるとしたのである。
このように、マルクス、レーニンの慣習規範論は政治(国家制度)否定のロジックと表裏一体を成し
ていたのであるが、その意味でハイエクの慣習法論、市場論、
「自生的秩序(spontaneous order)」論、
「政治の廃位(dethronement of politics)
」論との比較を論ずることも可能であろう(15)。マルクス、レーニ
ンの理想社会における規範としての慣習法理論はその膨大な著作の中でも不十分な展開しかなされて
いないが、ここにこそ、マルクスの法思想を法学批判方法論としてのみ取り出すのではなく、積極的な
規範理論として展開する余地が存すると言えるのではないだろうか。この方面の研究はこれまで軽視さ
れてきたが、これからの進展が望まれるところである。本稿はそのための一試論にすぎない。
(1) Adam Smith, The Wealth of Nations, 1776, Bantam Classic, 2003, p.873.〔玉野井・田添・大河内訳
『国富論』
、中公バックス、1980年、478頁。
〕
160
(2)
藤田勇「社会構成体と法的上部構造」
『マルクス主義法学講座』
(3)
、
日本評論社、
1979年、80‐81頁。
(3)
MEGA Ⅰ/1 S.207.
(4)
MEGA Ⅰ/1 S.150‐151.
(5)
MEGA Ⅰ/1 S.288.
(6)
MEGA Ⅰ/1 S.206.
(7)
マルクス主義の立場から、ローマ法とゲルマン法を比較したものとして、平野義太郎『民法に於け
るローマ思想とゲルマン思想』増補新版、有斐閣、2000年、がある。
(8)
実際、
『経済学・哲学草稿』
では、セーの文章を引用して、資本家は、私的所有の神聖化のためには
「実定法 das positive Recht」の協力が必要なのだとしている(MEGA Ⅰ/2 S.338.)
。また、地代論の
箇所では、土地所有者が当該地所から採集できる自然物にまで地代の賦課対象を広げているこ
とを批判し、同じくセーを引用して「地主の法権利は強奪(Raub)からはじまっている」と論難して
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いる(MEGA Ⅰ/2 S.351.)。つまるところ、富者の私的所有権とは、自然的な権利ではないのであ
り、人間主義=自然主義の立場に立脚したマルクスにとって、非人間的な、唾棄すべきものであっ
た。粗描すれば、私的所有=実定法=反自然性(人為性)⇔共同利用=慣習法=自然性(自生性)と
いう構図になる。
(9)
MEGA Ⅰ/1 S.224.
(10)
河上倫逸「歴史法学とマルクス」
『京都大学法学論叢』102巻3‐4号、参照。
(11) Hegel,Texte zur Philosophischen Propädeutik,(Werke 4),Suhrkamp,1986, S.247‐248. 〔武市健人訳
『哲学入門』
、岩波文庫、1952年、81‐82頁。
〕
(12)
Savigny,Vom Beruf unserer Zeit f ür Gesetzgebung und Rechtswissenschaft,Georg Olms Verlagsbuchhandl‐
ung,1967. を参照。特に第11章。
(13)
Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, S.362. 〔訳439‐440頁。(§211)
〕
(14)
レーニン(菊地昌典訳)『国家と革命』、中公バックス、1979年、556頁。
(15)
ハイエクの法思想については、嶋津格『自生的秩序』
、木鐸社、1985年、を参照。マルクスとハイエ
クの比較論では、近年、Chris Matthew Sciabarra, Marx, Hayek, and utopia , State University of New
York Press, 1995.などがあるが、本稿との直接的な関連では、拙稿「市場社会における共同性」
『千葉
大学法学論集』第17巻第2号、2002年、を参照。
Ⅵ.おわりに
このように、初期マルクスの「人間的社会」としての共産社会、政治的なるもの無き理想社会の思想
を、その断片的記述から再構成し、そこに市場社会の理念型的秩序観と慣習法思想を見出したわけであ
るが、こうしたマルクスの理想は、やはりあまりにユート ピア的であったと言わざるをえないであろ
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う。人間的解放の思想が、公共性とは全て市民社会に再吸収しうるものであるという前提、つまり、
ヘーゲルの「政治」主義とは対照的な、マルクスの「社会」主義を前提とするものである以上、その社
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会万能論は極端なリバタリアニズムにも通ずる問題点を孕むことになるであろう。アダム・スミスは、
あくまで公的領域が私的領域に全面的に吸収されるとは夢想だにせず、公的領域と私的領域、政治的生
活と市場社会的生活との「ズレ」を確実に把捉しており、そのズレを埋めるロジックとして、国防・司
法・公共政策という国家の三つの領域を残していたわけであるが、社会が政治を完全に吸収しうるとす
るマルクスの夢想は、社会を代表する権力が全てをなしうるという政治的全体主義に容易に転化しうる。
161
まさにケインズが述べるように、アジェンダ(Agenda)とノン・アジェンダ(Non-Agenda)を区別する
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のが自由社会の経済学者の主要課題なのであれば、それには「ベンサム的推定」としての政治否定主義
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を排除しなくてはならないはずであろう。そしてケインズが政治学者の役目が「アジェンダを遂行しう
・
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・
る政府形態を、民主政体の枠内で工夫する」(1)ことであると指摘するとき、政治学者の責務はあまりに
重いと言わざるをえまい。ソビエト の崩壊から我々が学ぶべきことはマルクス研究の放棄などではな
く、その政治否定のロジックを吟味することにより、自由社会の政治学者の責務を再確認することにあ
ると言えるのではないだろうか。
(1) J.M.Keynes, Essays in persuasion , 1931 ,(The collected writings of John Maynard Keynes ; v.9),
Macmillan, 1972, p.288.〔宮崎義一他訳『ケインズ全集』(9)
、東洋経済新報社、1981年、345頁。〕
162
ヘルマン・ヘラーにおける政治的なるものの概念
― 「数多性における統一性」の視点から ―
高橋 良輔 Ⅰ.問題の所在
本論文の目的は、ヘルマン・ヘラー(Hermann Heller 1891−1933)における政治的なるものの概念の
解明を通じて、民族的同種性を基盤としない主権国家のあり方を考察することである。
近代国家の黎明期にボダン、ホッブズ、ルソーが一致して絶対権力と見なした主権の特性は(1)、主権
者の至高の立法権であった。フランス革命以降、人民主権と大衆民主主義の理念が浸透するなかで、こ
の主権概念を最も尖鋭化したのは、おそらくカール・シュミットであろう。周知の通り、彼は「主権者
とは例外状況にかんして決定を下す者をいう(2)」と述べて、主権の内実を主権主体の決断へと展開し、
また民主制を支配者と被支配者の同一性によって定義した(3)。彼によれば、民主制は政治体内部におけ
る 実 質 的 平 等( substanziellen Gleichheit )を 前 提 と し て お り、そ れ は 本 質 的 に は 人 民 の 同 種 性
「同一民族への同一的帰属により、万人が同様に、本質的に、同一のこ
(Gleichartigkeit)を意味する(4)。
とを欲する(5)」ことなくしては、民主制は成立しない。すなわち、分割不能な同質性(Homoginität)こ
そが、民主的な国民主権の絶対性・至高性を維持するために不可欠と見なされたのであった(6)。
しかし21世紀を迎えた今日、こうした主権主体の同質性の確保は急激に困難になっている。国境を越
えるグローバリゼーションと国境内部の民族紛争が多発するなかで、国民の同質性は「想像の共同体」
であることが露呈した。問題なのは、こうした時代状況のなかで、国家主権に代わり得る有効な政治装
置が存在しないことである(7)。個々の市民が主体的に政治的選択を反映できる最大の実効機関は、いま
だに主権国家しかない。ここに、主権主体の民族的同種性を前提することなく、いかに主権国家を把握
するべきかという問題が提起されてくるのである。
まさにこの点で、混迷の続くヴァイマール共和国においてヘラーが抱いていた「政治的なるもの」の
概念は、有益な示唆をもたらす。彼の政治理論が現代にもたらすものは、社会的法治国家の理念だけで
はない(8)。「政治的なるもの」を友−敵の区別、すなわち同質性と異質性の分断にみたシュミット とは
反対に、ヘラーはそれを「数多性における統一性」と考えた。つまり彼は、社会的現実として国民内部
にある多様性を認めつつ、なおも主権国家の基盤となり得る統一性を模索したことで独特の理論的立場
を築いていたのである。
それゆえ以下では、まずヘラーの学問観・民主主義観・人民観を通じて、彼の政治的なるものの概念
における数多性のあり方を把握し(Ⅱ)、続いて国家観・主権観を検討することで政治的なるものの概念
における統一性の側面を明らかにする(Ⅲ)。その考察は、ヘラー国家学の歴史性や発展史ではなく、む
しろその政治理論としての概念構造に注目し、現代の主権国家論への示唆を求めるものである。
163
Ⅱ.政治的なるもののダイナミクス
1.ヘラー国家学の背景
近現代のド イツ政治思想史の観点から見るならば、たしかにヘラーはひとつの時代状況につよく拘束
された理論家である(9)。彼が活躍したヴァイマール共和国は、ゾントハイマーの表現によれば「ド イツ
史の他の時代に見られないような、政治的・社会的現実に対する精神の突撃(10)」が生じた時代であっ
た。1919年、革命によって瓦解した帝国に代わり誕生した新しい国家は、プロイスにより起草された憲
法のもとで立憲君主制から議会民主共和制へと移行し、歴史上最も民主的かつ進歩的とさえ呼ばれる。
だが他方で、その名声とは対照的に、新しいド イツライヒの政治的・社会的基礎は極度に不安定であっ
た(11)。すなわちそれは、ボルシェヴィズム革命への恐怖から、消極的に同盟を結んだ保守的・資本主義
的勢力、政治的カト リック勢力、改良的社会主義勢力の妥協の産物でしかなかったのである。
このような政治的・社会的不安定性を内包した共和国にあって、当初その理論的擁護を期待されたの
は、国家を法学的見地から研究した国法学であった(12)。すでにビスマルク帝国憲法下において、歴史
的・政治的・哲学的考察を廃していたラーバント の厳密な法実証主義は、新カント 派に従って社会学
的・政治学的考察と法学的考察を峻別するイェリネックの『一般国家学』に引き継がれ、ケルゼンの純
粋法学において頂点を極めることになる。ケルゼンは、一方で社会的現実性としての国家の存在を認め
つつ、なおも社会学的国家概念と法学的国家概念をそれぞれ事実と規範、あるいは存在と当為に対応さ
せ、「国家は、規範的秩序つまり規範の体系として捉えられるものである(13)」と述べた。つまり彼に
とって、国法学はあくまで法律・規範・当為のみを対象とすべきと考えられたのである(14)。
こうしたケルゼンの国法学は、マウスによれば「そもそも法主権と国家主権を一致させるかたちで、
主権の国内における『場所』についての問いを回避し、法の民主的な由来を明らかにするすべての基準
を――価値相対主義的に――失してしまう(15)」ものであった(16)。それゆえ、すでに早くから政治活動
に深く関わっていたヘラーから見るならば、従来からの国法学はまさに現実から遊離した国家学の危機
を象徴していた。彼によれば、政治理念は決して純粋に理論的な思念の産物ではあり得ず、常に歴史
的・個性的な多くの非論理的契機を含む(17)。この点で、ケルゼンの国法学は「国家なき国家学」であ
り、同時に「法的権力と事実的権力との結びつき」のうちに存する「主権をめぐる真の問題」を無視す
るものであった。ヘラーにとっては、法学は自立性をもつものではなく、むしろ社会学的所与、なかで
も国家的秩序に対応するべきものだったのである(18)。
こうして純粋法学への批判により、政治・社会的な現実性の観点から国家学を構築する必要性が生じ
てくる(19)。ヘラーによれば、それは空虚な定式に達する論理主義的実証主義や、歴史内容に幻惑されて
抽象化を断念する歴史的実証主義ではなく、国家の社会的関係と法的関係を一連のものとして把握する
経験的社会科学によって達成される(20)。ここに一般国家学は、マックス・ヴェーバーの理解社会学を上
下に拡張した営みとしてイメージされ、それは政治的行為の没意味的条件を組みこむ国家社会学と、国
家の哲学的正当化理論としての国家哲学との結合を意味していた。政治的現実のなかで国家学を考え抜
いたヘラーにとって、国家の正当化はいかなる世代にも課された問題であり、全く無前提的で没価値的
な文化認識は不可能かつ有害なものとして、放棄されるべきだったのである(21)。その遺稿において、ヘ
ラーは「政治学の一部門としての国家学」を構想したが、『国家学』の編者ニーマイヤーによれば、それ
はケルゼンの国家なき規範論理学とシュミットの規範なき決断主義との「真中を貫く」方向線を示すも
のであった(22)。
164
2.「数多性における統一性」と民主制の擁護
こうして社会的事実性と哲学的規範性の統合を目指す国家学の追求は、ヘラーの政治理論に豊饒さと
曖昧さをもたらすことになる。そしてその学的要請は、ケルゼンにおける新カント 主義やシュミットの
決断主義と同じく、ヘラー独自の政治観と通底していた。すなわち彼は、事実的多元性と規範的一元性
を統合するために、政治的なるものを「数多性における統一性 Einheit in der Vielheit」として把握したの
である。彼の国家学全体を貫くこの政治的なるものについて、彼自身は次のように述べている。
…政治的なものの本質は、様々な方向性をとり無限の数多性と多様性をもつ諸々の行為を弁証法的
に調停し、秩序を与えると同時に与えられる統一体にもたらすことにある…(23)
ヘラーは、諸々の行為の数多性・多様性をはっきりと認めつつ、それらの調停・秩序の付与と受容に政
治的なるものの本質を見出していた。方法論上、社会的現実性と概念的抽象性の双方を結合しようとし
た彼にとって、
「数多性における統一性」という政治観はいわば必然的なものだったのである。シュルフ
ターが詳細にあとづけているところによれば、彼のヘーゲル哲学に対する態度はアンビバレント なもの
であったが(24)、その政治観は明らかに、ヘーゲル的な弁証法のダイナミクスを継承するものであった。
このことから、ヘラーの政治理論は、現実の政治性と社会性を重視する点で共通の志向性をもってい
「すべての政治の本質は、
たシュミットのそれと決定的に袂を分かつことになる(25)。一方でヘラーは、
この統一体の形成と維持にある(26)」と明言し、友‐敵の区別を受け入れて、緊急事態には、政治が内外
の敵の物理的殲滅を犯してでも自らの統一体への攻撃に対抗しなければならないと説く。しかし他方で
彼は、友‐敵の区別が政治に固有のものであり、全ての政治的行為と動機がそこに還元されるという見解
には異を唱える(27)。何故なら、友‐敵の区別は循環論法であると同時に、必ずしも政治に特有の関係で
さえなく、何よりも内政的な統一形成の側面を全く政治と見なせないからである。仮に友‐敵の対立にし
たがって政治的なるものを規定すれば、政治的統一体の成立は極めて非政治的な現象になってしまう。
そのラディカルな装いとは裏腹に、シュミットの想定する政治状態は、友‐敵が完全に固定された状態で
あり、弁証法的なダイナミクスとは無縁であった。これに対してヘラーが描く政治状態とは、かかる静
態的なものではなく、むしろ「日々新たに形成されるもの、日々の人民投票(28)」だったのである。
こうして彼はシュミット を意識しつつ、自らの政治観を次のように述べる。
構成員の数多性のなかでの統一体としての国家の生成と自己主張というダイナミックな過程もま
た政治である。それは外部に向けての自己主張と意味的には少なくとも等価値のものである。政治
という概念はポリスに由来し、ポレモス即ち戦争に由来するのではない(29)。
ヘラーから見るならば、シュミット の友‐敵対立は、異なる性質を抱く原始的な「こうであって他ではあ
りえないもの」同士の生命的な対立へと行きつく。それは到底、統一体としての国家の意味づけをなし
得るものではなかった。
こうして、ヘラーにとっては「人民による支配」としての民主制もシュミットのそれとは異なる意義
をもつことになる。彼によれば、民衆が支配すべきである場合、民衆はいかなる事情においても決定と
行為の統一体を形成していなければならない。だがその一方で、いかなる意志統一システムにも常に少
数支配の法則が妥当する以上、民主制もその例外ではあり得ない。このため民主的な支配形式の特徴
は、その代表者がゲノッセンシャフト的に選任され、また代表者の立場が主権的ではなく委任的である
165
ことに求められる。なるほどリベラルな議会制からレーテ・システムまで、民主的な代表者選任方法は
様々であり、その具体的形態は歴史的変遷に委ねられている。しかし「かような媒介システムをもた
ず、従って多数性の中におかれた媒介されざる対立が直接統一されているというあり方を民主的だと考
えることはできない(30)」のであった。
かくしてヘラーは、その政治観ゆえにはっきりと独裁を批判する。独裁は自らの独占的支配を正当化
するために、
「数多性における統一性」
という政治的なるものの本質を隠蔽するような腐敗を招くためで
ある。
つまり西ヨーロッパの現在の独裁は、何がしかの重要な案件についてはどんなものであれ、すべて
国民全体の意志決定がただ一人の人間の意志、つまり独裁者の意志と完全に一致しているという虚
偽のうえに創りあげられねばならない…(31)
独裁は、つねに軍事的・政治的・経済的な圧力を用いるが、資本主義体制下のヨーロッパでは、これら
の手段は人々の日常生活を圧迫し、国民全体を政治的な欺瞞と虚偽へと駆り立てる。そこでは、あらゆ
る政治的・経済的圧力がジャーナリスト や知識人に加えられ、腐敗を撲滅する独裁という虚偽の神話の
もとに、政治的なるもののダイナミクスが隠蔽されるのであった。
ヘラーは「服従が支配をつくる oboedientia facit Imperantem」というスピノザの言葉をしばしば引用し
たが、まさにこの理由から、独裁者は自らが「真の」民主主義の体現者であると主張し続けなければな
らない。だが実際に独裁のもとで行われるのは、民主主義を民主主義によって超克するという言葉の裏
「数多性における統一性」に政治の本質を見ていたヘ
で、その事実的内容を否定することである(32)。
ラーにとって、こうした独裁は到底受け入れられるものではなく、そのため彼は議会制民主主義を擁護
し続けたのであった。
このように、ヘラーにおいては、民主主義的正統性は当時の文明諸国の世論に受け入れられ得る、ほ
ぼ唯一の正統性を意味している(33)。彼は、社会的支配関係を承認させ説明することのできる様式とし
て、非合理的・超越的なそれと、合理的・内在的なそれという二つの極を考えていたが(34)、民主主義的
正統性認証こそは、国家的支配の「人民による内在的正当化」を表示していた。すでに18世紀以来、
「<
人民 Volk>はあらゆる政治的規範および形態を正当づける最高価値として、世論によって一般に認めら
れて来た」
のであり、
「今日、国家的な支配統一体の超越的・宗教的正当化が試みられるところでも、支
持的な価値としてその基底に置かれているのは、神の意志ではなく、<人民>であることが、極めてた
やすく証明される」とヘラーは考えていた(35)。
3.人民‐民族の社会的同質性
こうしてヘラーの考える民主制は、単に「人民による支配」に留まるものではなく、さらに「下から
上へ向けて行われる自覚的な政治的決定」でなければならない。それと同時に、政治が「数多性におけ
る統一性」の達成であることから、民主制は「数多性としての人民を統一体としての人民へと自覚的に
形成していく」ものとして捉えられた(36)。
もちろん、社会的現実性を重視するヘラーにとって、このような政治的統一体は無から生じるもので
はない。彼によれば、政治的統一体の形成には、すでに一定程度の社会的同質性が先立っている必要が
あった。何故なら、なんらかの同質性が想定され、それが現実に存在すると信じられているときにはじ
めて、物理的暴力による抑圧が断念され、敵対者との議論によって政治的一致に達する可能性が存在す
166
るからである。ここでもまたシュミットに対抗して(37)、ヘラーは次のように述べている。
議会制の精神史的基礎をなすのは、公共的な討論そのものへの信念ではなく、討論の共通の基礎の
現実存在についての信念であり、従って、裸の暴力の排除という条件下でなら意見の一致に至るか
もしれない内政上の敵に対して、フェア・プレイをもってする可能性なのである(38)。
人民が政治的統一体のなかに自らのアイデンティティを見出すことが出来ないとき、
「話し合う政党」
は
「命令する政党」へと変貌し、内戦・独裁・外国による支配の危険性が生じるのであった。
このためヘラーの政治理論においては、人民の社会的同質性がいかに形成されるかという問題が決定
的な重要性をもっている。『国家学』のなかで国家的統一体の自然的条件と文化的条件を検討しながら、
彼は自然形成体と文化形成体、それぞれの民族観をはっきりと峻別していた(39)。
それによれば、民族概念の自然主義的解釈は、
「精神に対する血」
という、反啓蒙主義的で一面的な標
語の産物である。自然人種とは、本質的な性質が遺伝した自然のままの血縁共同体を意味するが、人種
信仰は、この特定の身体をもった人種に「人種心」なる傾向性を結びつける。だが社会的現実を重視す
るヘラーにとって、
「純粋な」
人種などは事実上存在せず、また人種心なるものの生物学的遺伝性は常に
疑わしいものであった。むしろ人種信仰は、エセ自然科学によって特定の内政的・外政的闘争を隠蔽す
るイデオロギーであり、国民的文化共同体と政治的民族統一を完全に破壊しさえする。
何と言っても、人種が数百年、ないしさらには数千年間不変な身体的・心的素因の統一体であると
するならば、そのような人種なんてまったく自然的事実であったためしがないし、ましてや、文化
的現実、ないしは政治的動向の統一体であったためしはなおさらない…(中略)…人種論は国家を
分裂させ、そしてその領土内住民を差別的に評定する結果、民族の政治的統一体としての国家を正
当づけることができないが故に、正統性のイデオロギーとしてもまったく不十分なものである(40)。
なるほど文化的・政治的業績は自然的・社会的・歴史的諸状態の無限の多様性によって規定される
が、遺伝的な人類学的性質はそのうちのごく一つに過ぎず、政治的人種論は恣意的な妄想の産物なので
あった。
こうしてヘラーは、「…政治的およびその他のあらゆる文化的業績の主体は決して人種(Rasse)では
なく、とにかく民族(Volk)である」と述べる(41)。それは一面的に自然人種とも精神形象とも規定でき
ず、自然と精神の弁証法的二元論のもとで捉えられるべきものであった。すなわち一方では、あらゆる
民族は肉体的身体をもっており、それは自然的生殖によって保持されるが、また他方では、自然そのま
まの血縁共同体は存在せず、むしろ全ての文化民族は人種的に雑多な血統から合成されている。それゆ
え、長い間に身体的世代連関を形成してきた民族は、宗教的・言語的・政治的・文化的連関によって結
合され、しばしば政治的境界のなかでの近親結婚も伴なって第二次的人種ないし文化的人種とも呼ぶべ
き血縁・気質を凝固させる。それは生物学的にではなく文化的に生じた自然(kulturbewirkte Natur)であ
り、その刻印の強さに応じて異質なものを多かれ少なかれ同化できる。まさにこのために、
「ここでは、
民族と国家を生み出すものは、血ではなく、その逆である(42)」。血統と地理的環境以上に、言語・宗
教・習俗・芸術・科学の共有性は、民族の形成に重要性をもち得るのであった。
このようにヘラーの想定する人民-民族とは、自然形成体というよりも文化形成体である。通常、民族
の共属性は、無意識的なものの刻印であり、主観的な意識によって獲得したり、変更したりはできな
167
い。彼にとって、
「民族も、作用し・作用を受ける現実であり、そして民族の共属性は、精神的な伝統連
関によって刻印された存在がこの連関を自己のなかに生き生きと現実化することによって生み出され
る」のであった(43)。
そのため、政治的にアモルフな文化民族が国民(Nation)となるのは、単なる種族的な共同感情の存在
ではなく、共属意識が政治的意志のつながりへと発展することによってである。
ある民族がその特質を相対的に統一的な政治的意志によって保持し、かつ広めようと努めるときは
じめて――例えば、こんなことはいわゆる自然民族の場合は考えられないことである――国民と言
える。こうした政治的意志は同一の国家に結合することを目指す必要はまったくない(44)。
ある民族がその独自性と他民族との相違の意識を共同体感情・「われわれ」意識にまで発達させると
き、彼らは「民族共同体」になり、政治的領域においては国民となる。言いかえれば、文化的共属性を
刻印された民族は、その特質を政治的意志によって保持するときに国民になるが、しかしド イツ系スイ
ス人やアルザス人に示されるように、彼らはいつも同一の国家に接続される必要はない。このようにヘ
ラーは、民族・国民・国家をはっきりと区別していた。
それゆえ彼から見るならば、ルソーやロマン主義によって、民族に民族人格が付与され、それに感情
と意識、さらに加えて政治的意志と政治的行動力までが重ねられたことは、国家学に混乱をもたらすも
のであった。なるほど彼にとっても、
「民族は、変化の中で継続性を保ち、我々が歴史的事件をそれに帰
。しかし民族的特質は、歴史の流れのただ中で
属させることができる出来事統一体を形成している(45)」
周囲の自然と文化に対して同化と独自性の主張を繰り返すダイナミックな継続性――歴史的形態――
なのであり、不変な民族精神としてまつりあげたり、形而上学的な民族意志に実体化されてはならない
のであった。
こうしてヘラーは、民族をまったく先天的な意志共同体や虚構の政治的統一体に還元することにはっ
きりと反対する。社会的現実と明らかに矛盾する統一的な政治的民族精神や、単一の意志をもった社会
的・政治的に同質な民族共同体という考えは、国家固有の法則を民族の形而上学のなかに解消してしま
う。それは彼にとって、あの「数多性における統一性」を隠蔽するものに他ならなかった。
しかし民族と国民の現実は、通常統一を示すどころか、政治的意志方向の多元性を示しており、一
般的な国民的高揚が見られる最も稀な瞬間にさえも、やはり国家的行為に表現される国家的統一に
反対する、当該民族内部での目的または手段について意見を異にする数多性が例外なく存在するの
である(46)。
このように、ヘラーにあっては人民の同質性は文化的民族によって担保されるが、しかしその同質性は
ダイナミックな数多性をはっきり含むものであった。それは、不変の生物学的人種や静態的な形而上学
的な民族精神によってではなく、具体的歴史のなかで継続する文化として刻印される。この同質性は、
時間的にも空間的にも周囲の環境と応答を繰り返すことによって、しばしば変化したり、他者を同化さ
せることができる開放性をもっていたのであった。
168
Ⅲ.統一性形成の相貌
1.活動統一体としての国家
このようにヘラーの政治理論では、民主制の規定においても、また人民の社会的同質性についても、
「数多性における統一性」という政治観が一貫して維持され、それらは多元的な社会的現実から生じる弁
証法を示す。彼にとって、「数多性における統一性」は、「他の一切の問を同時に含んでいる問題(47)」で
あった。だがそれならば、こうした数多性が何らかの統一性を達成するのは、いったいどのようにして
であろうか? すでに触れたように、民族・国民・国家を明確に区別したヘラーにとって、数多性を統一性にもたら
すことは、民族や国民ではなく、むしろ国家の役割であった。たしかに、自然や文化における相対的な
同質性は国家的統一の原因の一つであり得るが、これらはまた国家的統一の結果でもある。
民族と国民のどちらも、国家的統一体の成立以前に存在し、かつそれを自動的に創設する、いわば
自然的統一体とみなしてはならない。逆に…(中略)
…民族と国民という「自然的」
統一体を初めて作
り上げるものは、あまりにもしばしば国家的統一体である。国家は、その権力手段をもって、自
ら、
言語的、
人類学的に相異なる諸民族を一つの民族に作り上げることがまったく可能なのである(48)。
たしかに国家的統一体は人民をその実体としているが、国家は民族や国民の単なる機能として把握する
ことはできない。むしろそれぞれの瞬間に、共同的かつ有機的な意志内容が実際どの程度に存在してい
るのか、そして合理的統一性の支配的組織化がどの程度にまで可能か、あるいはこの組織化を行うべき
か、という問いこそ国家の課題であった。
それゆえ社会的現実の多元性を把握しようとするその学的要請から、ヘラーは国家を次のように位置
づけている。
国家的統一体は、人間という身・心統一体によって実現された現実であるから、必然的に、社会生
活のすべての自然および文化の諸条件の全体連関の中に埋め込まれている(49)。
なるほど国家が埋め込まれている「全体連関」は、国家的統一の諸条件を示す。だが同時にここでは、
何らかの単一の要素に国家を還元することは慎重に回避されている。すなわちヘラーは、国家を地理的
諸条件から派生させたり、人種・民族精神・国民の表現とみなしたり、あるいは階級分裂的経済社会・
世論・法・理念の機能へ国家を還元することをはっきり拒絶していたのだった(50)。
むろんこうした規定は、いまだ国家の外面的・消極的な側面に過ぎない。
「問題は、国家を、それを実
現する人間から切り離された独立した実在であると主張することをせずに、また国家を単なるフィク
ションとして説明することをせずに、いかにして国家を数多性における統一性として把握することがで
きるか(51)」なのである。
このため『国家学』においてヘラーは、政治的なるものの概念が国家的なるものの概念よりはるかに
広いことを認めつつ(52)、しかし同時に、ポリスの発展形態である国家と関連づけることで政治的なるも
のがより明確になると述べている。すなわち、
「典型的な意味において政治的であるということは、領土
社会的な共同活動の自主的な組織化と行動化である(53)」というのである。ここから彼は国家の積極的な
規定を次のように行う。
169
実際に、国家的統一体は、
「有機体的」、ないしは擬制的な統一体のどちらでもなく、特定の性質を
持った組織された人間の活動統一体である…(中略)…国家的統一体は、行為構造という現実的統
一体であり、人間の共同活動としての行為構造の存在は、特殊な「機関」の意識的に有効な統一体
形成を目指す行為によって可能になる(54)。
国家は、統一体形成に向けられた意識的な人間の行動の結果として、すなわちひとつの「組織」として
のみ把握される(55)。
ヘラーから見るならば、全ての組織には、①多数の人間の共同活動 ②秩序の定立と維持 ③特殊な
機関 という三つの要素がある。つまり、
「構成員と機関が、一つの秩序を基礎として、統一的な成果の
ために共同活動すること(56)」によって、活動統一体としての組織が現実の存在になる。その統一性は、
構成員によってではなく、彼らの行動に目的と手段を指示する機関の統一性と、規則に体現された継続
的な秩序の統一性によって構築される(57)。つまり組織は単に規範的な秩序としてではなく、機関と規則
のもとに構成員を包摂する事実的な秩序である。このことから、ひとつの統一体としての国家は、環境
に関与しまた環境から影響をうける現実的な行為統一体としてとらえられる(58)。
そしてもちろん、国家はそれを下から支える意志の共同性を必要とする。特に、多元的かつ基本的な
対立を総括する国家は、
「その自己保持のために間接的な意志統一化のシステムをも、常に新たに創り出
。このためヘラーによれば、国家において個々人を結合する意志の統一化は、
さなければならない(59)」
社会的共同生活が強要する規則づけや、教育が全世代にわたって行う順応化によって担われる。なるほ
ど、しばしば国家の法規や措置に反対する人間がいるのは事実であるが、しかしまたこの人間は、その
国家の別の法規や措置に服することで国家を理論的に承認し、時にはその意思形成に参与してすらい
る。この意味で、組織された全体のなかにいる個人には、
「国家への具体的意志」
が現実に存在する。共
通意思は、
「内容からして目的を共有する意志」ではなく、
「すべての諸個人のなかで実現された諸対立
の弁証法的調停」として把握されねばならない。
共通意思は確かに、自我意識としては理解できない。しかし、多かれ少なかれ明らかな我々意識の
習慣的な状態としては例外なくあらゆる個人に作用している(60)。
こうした共通意思に基づく個人間の意志の一致こそ、それなしにはいかなる組織も不可能であるような
心理的に現実的な契約を示すものであった(61)。
ただしヘラーによれば、意志の一致だけでは国家は実現されない。彼にとって、
「国家組織という統一
体は単なる意志の統一体としてではなく、とりわけ支配の統一体として把握されねばならない(62)」。そ
れゆえ、国家に必要とされる多数決と代議制は、すでに支配の契機を含んでいると見なされる。
多数決原理と代議制による意志の統一は、それによって統一体としての人民が数多性としての人民
を支配し、それによって人民が主権の主体となることができるための技術的手段である。両者はし
かし、最終的には、少数者をも、多数者によって任じられた代表者に従うよう唆すことができる一
般意思の現実的な実在を前提としている(63)。
このようにヘラーは、多数を支配の機関と見なす。シュミットが民主的多数決を潜在的な一致の確認と
見なしたのとは異なり(64)、彼はそこに「多数という機関」による支配をはっきりと認めていた。
170
それゆえ、こうした国家の組織性・支配性のあり方に基づいて、ヘラーは次のように述べている。
…法的意味でなく、社会学的意味において、権限を与えられた 機関は、あくまでも一般拘束的な決
定を行うことができ、かつ組織の全権力を反対者に対して統一的に現実化することにより、その決
定を遵守させることができる。したがってこうした組織は、なるほど意志統一体ではないが、しか
しそれにも関わらず、現実的な決定および活動の統一体なのである(65)。
彼にとって、国家は共通意思の十全性によって保証された組織などではない。むしろそれは、必要があ
れば組織権力を用いてでも一般拘束的な決定を遵守させる、現実的な決定と行為によって統一された組
織を意味していた。
ヘラーによれば、この国家的組織権力が他のすべての組織権力から区別されるのは、強制の仕方とそ
れがもつ地縁性によってである。国家的諸機関が下す諸々の決定は、国家組織の法的成員に対してばか
りでなく、領土内居住者の全てに対して一般的拘束力を持っている(66)。このため、国家はあらゆる人的
団体と異なって、領土的支配団体と呼ばれるのである。
そしてさらに、国家が他の領土的支配団体から区別されるのは、それが主権的な決定と活動の統一体
という性質をもつからに他ならない。国家においては、権限をもち規則どおりの成果を収める機関が、
その領域内部における物理的強制力の独占的使用を要求し、また必要な場合には、国家的組織が統一的
に現実化する全ての物理的強制力を用いて、反対者にその決定を貫徹する。まさにこうした点におい
て、国家は「主権的な領土支配団体」なのであった(67)。
これらのことから、彼は国家を次のように定義している。
我々が国家と呼ぶのは、領域的決定機関を構成する諸々の行為の統一体である。従って、全ての政
治の根本問題は、領域的決定の統一体を、一方ではそれを形成する意志行為の数多性の中で、他方
ではそれを取り巻く他の領域支配の数多性の内部において、成立させかつ存続させることである(68)。
いまや国家の領土の内部と外部において、数多性の契機が露出する。国家は、領土内においては統一を
形成する意志行為の数多性に直面し、領土外においては他の統一体の意志行為の数多性に相対する。こ
れら内部と外部における数多性に向き合いつつ、そのなかで主権的な決定と行為の統一体を形成・維持
することこそ、すぐれて政治的な活動なのであった。
このように、その学的要請と政治観から、ヘラーは国家的統一体がその要素のどれか一つと混同され
ることを徹底的に拒否した。彼にとって、国家は規範的秩序ではなく、また人民でもない。むしろ国家
は、人々の業績から成り立つ。また国家は、その決定と活動の統一体を現実化する支配機関と同一視さ
れてはならない。何故なら、スピノザに倣ってヘラーが述べるところでは、最初に追従者が指導者を作
り、服従が支配者をつくるからである。
国家的組織は、関与者によって絶えず新たにされる状態(status)であり、そのなかで組織するもの
と組織されるものとは互いに向き合っている。国家という現実的統一体は、ただ政府が国家的自己
主張のために必要な合成せる業績を統一的に処理することによってのみ成立するのである(69)。
こうしてヘラーにおける国家概念は、諸々の要素から弁証法的に規定される(70)。決定と行為を現実化す
171
る組織が、領域における主権的な活動統一体であるとき、それは国家となる。しかしこの統一体は、決
して静態的なものではなく、支配者と被支配者の弁証法的統一体として、常に更新されるダイナミクス
を内包しているのであった。
2.結節点としての主権概念
このように「国家とは、特定の領域において普遍的な、それゆえ必然的に他と比べるものなき主権的
決定統一体(71)」である。ヘラーにとって、遍在する数多性のただなかで、国家に領域的に普遍的な支配
団体としての地位を確定するメルクマールこそ、主権性であった。このため彼の政治理論では、主権概
念は政治的なるもののダイナミックな弁証法の結節点に位置している。
その『主権論』のなかで、ヘラーは「主権の本質は至高の力にもとづく支配し、殺す法にある」とい
うボダンの言葉を引用し(72)、「我々は主権を法概念として理解せねばならない(73)」と述べている。彼が
主権概念にまつわる諸々の誤解を避けるためには、立法権としての主権を正確に把握しなければならな
かった。
ヘラーによれば、法とは共同体権威によって制定された社会的秩序であり、それぞれ異なった方向性
をもつ複数の意志の担い手の社会的行為を規範的に限界づけるものである。この間主観的な規範的意志
拘束としての法は、ただ時空内に存在する法共同体の内部でのみ、妥当性・社会的実在・現実性を付与
される(74)。
それゆえ法がいつも具体的共同体と結びつくことは、ヘラーにとって法原則と実定法命題が区別され
ることを意味している(75)。なるほど、法原則は純粋な法形式の構成原理であり、それは人間に普遍的な
法論理的妥当性か、各々の文化圏に制約された人倫的妥当性を要求する。しかしこの両者は、歴史のな
かで力関係によって現実化される実定法と比べれば、あくまでその潜在的な可能性に過ぎない。つま
り、法として歴史的で個体的な客体性を持ち得るのは、ただ実定法命題だけであり、
「実定法だけが法の
現実性(76)」なのであった。
この現実性としての実定法は、はっきりと個別的決定としての確定性を持たねばならず、それゆえ具
体的で個体的な決定統一体を必要とする。この統一体は人間の意志というかたちではじめて把握でき、
法原則は意志の個体性を通じてのみ、法命題へと決定され実定化された。この意味で、超実定法規範と
意志の個体性とは、ともに実定法の必要条件であり、実定法は、いかなる場合にも人間の意志過程に
よって定められたり、支えられたり、無効とされる(77)。つまりヘラーにとって、この意志統一体こそ
が、法原則の下にある無数の可能性から法命題を実定化し、法の現実性を可能にする能力をもつので
あった(78)。
そしてこれらの観点から見るならば、国家が領域的に普遍的な支配団体である以上、そこに編入され
た全ての意志主体は、国家の法秩序の実定性を尊重せざるを得ない。むしろヘラーによれば、国家内部
にいる団体の規約の実定性は、国家的法秩序の実定性から引き出されている。それは諸々の規範の法律
学的妥当性が、最終的には国家が制定する規範の実定性に基づくことを意味していた(79)。
こうしてヘラーは、近代国家の「主権の本質は共同体を拘束する最高の法命題を実定化する能力のう
ちにある(80)」と述べる。彼は、事情によっては自らに抵抗するあらゆる秩序の実定性を法律上否定し得
ることによって、現代国家の統一性が構成されると考えていた(81)。言いかえればそれは、国家の統一性
が、最高の法命題を実定化する能力つまり主権の本質に基づくことを示している。それゆえ、至高の立
法権としての主権は、国家がその領域に最終的な実定法秩序を制定することを可能にし、それによって
諸団体の数多性のなかに国家的統一性を見出させるのであった。
172
そしてさらにこの一方で、最高の法命題を実定化する能力としての主権は、人間をはるか高みから規
定する自然の秩序(ordre naturel)の属性ではあり得ず(82)、人間の主体的・意志的活動に帰属していた
(83)
。ヘラーによれば、すでに、全ての個人のうえに例外なく法規範が支配力を行使するべきと考えた古
典的法治国家思想以来、一般意思、意志の統一体としての人民は、法によって現実化されるべき社会的
価値の担い手とみなされている(84)。ルソーはもちろんヘーゲルでさえ、人民を主権主体として認定する
ことで、実定法の客観性を主観的国家意志の普遍性によって基礎づけていたのである(85)。
このことからヘラーによれば、しばしば対照的に用いられているとはいえ、国家主権の概念はすでに
人民主権を含意している。
しかし国家主権の真の意味は、歴史的にも体系的にも専制君主主権に対するアンチ・テーゼ以外の
何物でもない。国家が主権者であると主張される場合、それが意味しているのは、まさにこの<国
家>、<団体>が決定主体であるべきであり、個人が至高の決定の主体であってはならない、とい
うことなのである。国家はここでは、意志の数多性から帰結する意志の統一性としてイメージされ
ており、それはいかなるより高い決定統一体にも基づいていない(86)。
このように彼は、国家主権が論ぜられる場合には常に、人民主権もなんらかの形で一緒に考慮されてい
ると考えていた。
そのためヘラーによれば、人民意思に見出される歪みや曖昧さにも関わらず、民主制は法律によって
拘束された執政官による一般意思の代理を示している。
主権的な代表者と違って、民主制における代表者はその権力をたんに憲法の枠内で行使するのでは
なく、一般意思によって理解された通りの憲法の枠内で行使する(87)。
すでに見たように、彼にとって、人民の共通意思は「国家への具体的意志」としての現実性を持ってい
た。それは、民主主義的な国家機関から加えられる最終的な個別化によって実効的な決定の統一体を形
成し、国家的支配秩序の意志つまり国家意志を構成する。民主制における代議的決定機関は、統一した
意志へと結合された共同体の諸価値とその諸力を代表するものであった(88)。
それゆえヘラーにとって、法体系の統一性は、現実の支配的な意志統一体の表現として理解される。
むろん彼にとって、この意志統一体は多様な意志をもつ諸個人からなる、矛盾を伴なった統一性を示す
ものである。
…数多性における統一性は、煉瓦が積み重なるようにできているのではなく、命令を常に自発的に
解釈することができ、またそうすべきである諸個人から構成されている…(89)
こうして現実に存在し代表され得る一般意思を想定しつつ、数多性をもった人民こそ国家主権の主体で
あると確認することによって、ヘラーは国家主権と人民主権を整合的に解釈している。ここにおいて主
権概念は、一般意思の想定のもとで、人民の数多性のなかに国家意志の統一性を見出させていた。
このように、ヘラーにおける主権の概念は、一方では最高の法実定化能力として、諸団体の数多性の
なかに、国家による実定法秩序の統一性を出現させる。そしてまた他方で、それは国家主権と人民主権
を整合させるかたちで、数多性としての人民を統一的な国家意志をもった主権主体として召喚する。ま
173
さしくこの二つの意味において、ヘラーの主権概念は、数多性のただなかに統一性をもたらす結節点を
示していた。
3.弁証法の終着点
こうしてヘラーは、
「すべての人格をむさぼる国家主権という観念にはほとんど正しい点はなく、まさ
しくその反対こそが、解明された主権概念に不可欠の前提である(90)」と述べる。なるほど彼にとって、
法は、最高位の人格から、憲法と法律を経て、最後の執行行為で完結する段階構造のなかで弁証法的に
実現される。たとえ全てが主権的立法者に決定されているように見えても、段階構造のなかで各人格の
計算不可能な意志を締め出すことはできない。むしろ国家主権は、それを構成する数々の人格性の行為
からその豊饒さを受け取っている(91)。この意味では、主権的な法の実定化でさえも、「数多性における
統一性」を維持していた。
しかしヘラーにとってさらに重要だったのは、こうした主権国家が、場合によっては「実定法に反し
てでも」法を創造することである。この国家主権の絶対性は、彼の見るところ、国家がもつ秩序づけの
機能の帰結であった。
ヘラーによれば、領域に普遍的な決定統一体としての国家は、そこでの諸々の社会秩序が機能不全を
起こした場合、自ら介入して秩序を維持・回復すると請け合うことで、共同生活を保証し、法的安定性
を保持している。人間の生活は、秩序づけられた共同生活としてのみ可能である以上、こうした活動は
物理的にも形而上学的にも自己保存に関わっていた。特に堅固な伝統的社会から文明社会に移行すると
き、交易の拡張とともに紛争が生じる側面も拡大するが、近代の主権国家は共同活動の安全性と計算可
能性を確保するため、徹底的に合理化された組織によって、ときには強制力を行使してでも、秩序づけ
を達成しなければならない(92)。
それゆえ、他でもなく自己保存に関わるこの秩序づけの要請から、主権国家はしばしば実定法に反し
てでも、普遍的で最終的な実効性を持たねばならない。
国家による決定の普遍性は、当然のことながら潜在的な普遍性に過ぎず、現実的な普遍性ではな
い。しかし領域社会的な共同活動の統一に関わるすべての問題を、場合によっては実定法に反して
でも、最終的かつ実効的に決定でき、この決定を全員に、つまり団体の構成員だけでなく原則的に
はその領域に居住するすべての者に、義務づけうるところにこそ、主権の本質が求められるべきで
ある。領域的決定の統一性は、ある領域において人間がなす多数の社会的行為の弁証法的な調整で
あり、その限りでは事実上の権力関係の表現なのである(93)。
ヘラーの見るところでは、自らの支配領域にふりかかる全ての利害紛争を最終的に決定する資格は、主
権国家にのみ与えられていた。主権国家が自らを廃棄しようと望まない限り、その決定と実効性によっ
て、自己保存に必要な最低限の秩序が確保されねばならないのである。
こうしてヘラーにとって、最高の法命題を実定化する能力をもつ主権国家は、まさに法的安定性の確
保という理由から、いかなる法的規則も期待できない紛争状況のなかでも実効的な決定を下さなければ
ならない。
政治的決定行為は、法秩序に妥当性を与え、それを維持する。法秩序の現実存在、実定性、あるい
は妥当性は、だからこそ行為統一体――事情によって実定法に反しても自己主張を貫徹しなければ
174
ならない行為統一体――の現実存在に絶えず依存している(94)。
まさにここにおいて、法創造的な国家活動が法に反してなされるという事態が生じる(95)。彼の言葉によ
れば、
「…このような事例においてはじめて、普遍的決定統一体としての最高権力(summa potestas)が今日
でもなお、事情によっては法から解放されており、また人間と歴史とを完全に予測可能なものにするこ
とに成功しない限り、法から解放され続けるだろうことが分かる(96)」のであった。
こうしてヘラーは、真の威厳は全体のなかにのみ見出されることを確認しつつ、イェリネックの言葉
に基づき、主権を次のように規定する。
主権は単一の代表者に定位することができず、その本質からして領域に普遍的な決定の権利と権力
とを構成する意志行為の統一体を示す概念的象徴であって、この統一体を実定法のなかに解消する
ことはできない(97)。
衝突する利益をバランスさせ、場合によっては法に反してでも決定を下すことができるのは、その領域
で最高度の意志行為の統一性だけである。主権は、個人に帰することも、実定法に解消することも、ま
して法原則から導き出すこともできず、その領域において最大級の「数多性における統一性」を表示す
るシンボルでもあった。
こうして、主権国家を特定領域に普遍的で比類なき決定統一体とみなすヘラーにとって、それはもは
やいかなる他の意志統一体にも服従しない絶対性をもつ。例えば、連邦制における支分国と連邦国家の
関係は、まさに主権のこの側面を示している。
支分国の自己決定権がどんなに大きいものであれ、われわれが国家と呼んでいる意志統一化のヒエ
ラルヒーの中では、裁量の自由という点では、個人から支分国にいたるまで、単に量的な相違があ
るだけである。ピラミッド の最後の点で初めて、そしてその最後の点においてのみ、つまりもっぱ
ら普遍的な決定統一体の中でのみ、それまでは量的な相違であったものが質的な相違に転換する(98)。
意志統一体は、ただ普遍的領域決定においてのみ主権的であり得る。意志統一体の決定が部分的である
場合、それは「下に向かっては支配者、上に向かっては服従者」であるほかない。ヘラーは、ただ主権
国家のみが「上に向かってもはや服従者ではなく、下に向かって支配者であるだけ」と見なしていた。
さらにヘラーにとって、このような主権の自律性は、国家の内部だけでなく、その外部にも妥当す
る。主権と国際法の関係について考察する際、彼はまず次のように述べた。
国家が主権的である、というのは、その国家が内に向かっても外に向かっても実効的な普遍的領域
統一体であるということを意味する。領域的決定の普遍性を潜在的に有しているということは、国
家が法律学的に最高の存在であると同時に独立した存在であるという意味を含んでいる(99)。
こうして主権国家は、自らの上にいかなる普遍的で実効的な決定統一体も持ち得ない。なるほど、もし
も諸国家のうえにかかる決定統一体が存在するならば、その時にはこの統一体こそが主権的であり、国
際法は国内法へと転化する。つまり彼にとって、どんな国際法的考察であれ、主権的な意志統一体が多
元的に存在するところから出発しないものは、原理上、間違っているのであった(100)。
175
そのため、国際法に対する主権の絶対性は、まず国家が存在するか否かについて、前もって決定する
実定法規が存在し得ないことから説明される。ヘラーによれば、一つの国際法規が存在するためには、
その妥当性を実効的に維持する複数の国家が必要である。つまり、条約を実定化する主権国家なくして
は(101)、いかなる国際法規も成立できない。この意味で、主権性の多元的な存在は、国際法の妨げでは
なく不可欠の前提であった。
しかし他方ではまた、この主権の多元的存在から、「国際法上の穴」が開くことになる。
…この穴の深い淵には、次のように警告する看板が立っているはずである。すなわち国際法は、全
ての国際法主体に対し、別のある国際法主体を完全に無きものにすることによって、これに対する
自己のすべての法的義務から解放されるという可能性を提供しているぞ、と(102)。
主権国家は、国際法によっては各々の実存が他の主権国家によって脅かされる可能性を根絶できない。
ヘラーによれば、この穴は権力渇望や臆病によるのではなく、それを閉じる普遍的な法や力の欠如の証
左であった。
こうしてヘラーにとって、国際法の実定性も国際法主体の概念も主権概念なしには構成できず、実効
的な国際法主体は主権的な領域決定統一体のみである(103)。主権国家には自らに先立つ実定法規も、よ
り上位の実効的な決定統一体も存在しないために、国際法上の自助の必要性は決して消えなかった。
…このような世界国家はなく、国家の絶対的自己維持要求は国際法的にのみ保証されている。その
限りであらゆる国家の主権も国際法と国際連盟に対して死活の事例では法より解放された権力
(legibus soluta postestas)にとどまらざるを得ない(104)。
彼は、諸国家の社会的相互依存の存在(105)や主権的なヨーロッパ連邦国家の可能性(106)を認めていた
が、主権国家の自己維持権に全ての法的妥当性の前提をみる思考を手放すことは決してなかった(107)。
こうしてヘラーは、主権の絶対的性格をこうまとめている。
主権性とは普遍的な領域決定統一体と活動統一体たる性質であり、この性質ゆえに主権は法のため
に場合によっては法に反してでも絶対的に自己主張する(108)。
戦間期の政治的現実を注視した彼にとって、主権国家の自己維持要求は絶対的であり、そこでは法のた
めに法に反するという逆説すら承認されていた。
こうして彼が絶対性を認めた国家主権の概念において、
「数多性における統一性」
の弁証法はひとつの
頂点を迎えている。諸々の主権国家はすでに絶対的な自己主張の主体であり、もはやそこから数多性に
おける統一性へと展開することはない。すなわちここにおいて、ヘラーの政治的なるものの弁証法はひ
とつの終着点に辿りついていたのであった。
176
Ⅵ.おわりに
以上、本稿では、ヘルマン・ヘラーにおける政治的なるものの概念を「数多性における統一性」と捉
え、それが彼の政治理論の諸概念をつよく規定していることを示してきた。彼の論文・著作はいくつも
の言替えや重複した定義に満ちているが、この観点から再構成するならば、国家学・民主主義論・人民
‐民族観・国家概念・主権概念における含意は、ほぼ一貫している。そのユニークな視点によって、彼は
戦間期の社会的現実を余すところなく把握しようとしたのであった。
ではその独特の弁証法を内包した諸概念は、現在の主権国家の危機に際して、いかなる示唆をもたら
すのだろうか?
まずすでに随所で触れたように、「数多性における統一性」の観点は、カール・シュミットによる「友
‐敵の区別」の政治観に有効な代替案を提出する。シュルフターが述懐しているように(109)、シュミット
の影響は今日も多方面にわたる巨大なものだが、政治的闘争の目的を、異質なものの殲滅にではなく、
統一体形成に見出すヘラーの視点は、しばしばゼロサムゲーム的な様相を呈する政治・文化・社会的闘
争において、新たな視野を開くものである。
ヘラーの民主主義の捉え方は、そうした例のひとつであろう。すでにその思想形成の初期から一貫し
て、彼は民主主義的正統性認証を「超越的正当化」に対する「内在的正当化」の最たるものと考えてい
る。なるほど彼は、民主制においても少数者支配の法則が適用されることを認めていたが、スピノザに
倣って服従者こそが支配者を創り出すことを執拗に主張してもいた。彼による代議制の擁護は、人々の
数多性から生じる対立の媒介システムという観点によって、民族的同種性がもはや自明でなくなった現
代に、政治的代表制の意義を再発見させてくれる。
また彼の人民‐民族観は、我々に日常的な同質意識の意味を認識させる。一方でヘラーは、はっきりと
人種主義や民族精神なる形而上学を拒否したが、他方で人々が「文化的に生じた自然」を共有し、それ
を意識化することで政治的な国民アイデンティティを形成できることを指摘した。文化形成体としての
民族観は、柔軟な可塑性を示すものであり、外部に対する開放性と内部における多元性をもつ。その人
民観は、日常的に抱かれる同質性の意識が、人種性や排他的民族性に還元される必然性は全くないこと
を示している。
さらにヘラーは、民族・国民・国家をはっきりと区別し、国家を人々が統一的に実現する業績と見な
していた。国家は、まさに数多性のなかに統一性をもたらす存在であったが、それは構成員とも、規則
秩序とも、支配機関とも同一視されない。国家の組織性への醒めた視点は、人々がしばしば陥るショー
ヴィニズムへの処方箋となり得るものである。
そしてヘラーによる主権性への考察は、主権がまずなによりも人民の実定法制定能力であることを思
い出させる。それは、人々の意志の数多性から豊饒さを受け取りつつ、なお実効的で統一的な法秩序を
もたらす政治装置として表象される。その見方は、我々がもはや政治神学的に神秘化された主権概念を
呼び覚ます必要がないことを明らかにしてくれる。
むろんこうしたヘラーの政治理論には、数々の限界もある。例えば彼は、具体的制度の是非を歴史的
変遷の問題へと解消する傾向があった。彼が推奨する民主制・人民主権・国家組織が具体的にいかに実
現されるかは、常に自明なわけではない。
また彼は、議会制の精神的基礎をすでに存在する同質性への信念に見出し、またしばしば一般意思を
想定して議論したが、先行する同質性や一般意思が現実に存在し得るかという問題は、重大な争点であ
る。マウスが鋭く指摘したように(110)、これらの前提は、現代の分裂した社会でそのまま維持できるも
177
のではない。同様に、国際関係における国家主権の絶対性も、すでにヘラー自身が予感していたよう
に、修正を必要とするであろう。
結局、ヘラーは、その政治的なるものの概念をつねに国家と結びつけて展開し続けたのであった。そ
の思考がまさに国家学として形成されたために、「数多性における統一性」の弁証法的ダイナミクスは、
国家主権の絶対性を頂点に停止してしまったのである。彼は、その可能性を認識しつつも、諸々の主権
国家の数多性のなかにさらなる統一性を見出そうとは決してしなかった。
しかし、これらヘラー自身の限界は、必ずしも理論的に超克不可能なものではない。ここで見てきた
ように、
「数多性における統一性」の観点は、政治的・文化的・社会的多元性を殲滅することなく結びつ
ける可能性を指し示している。この意味では、例えば、ハーバーマスによるナショナル・アイデンティ
ティ論や手続きとしての人民主権論などは、
「数多性における統一性」のコミュニケーション論的転回と
見なすことができるかもしれない(111)。20世紀初頭にヘラーが抱いていた政治的なるものの概念は、彼
自身の限界を超えて現代に活かし得る将来性を秘めているのである。
注
(1) Hardt and Negri:85
(2) Schmitt 1922:13=1971:11
(3) Schmitt 1928:235f=1972:288
(4) ただしMaus 1986=2002:117‐146によれば、実質的平等や同質性の概念は、常に生物学的民族に結び
ついているわけではなく、むしろいかなる規定とも結びつく無内容性を特徴としている。
(5) Schmitt 1932:29=1983:40f
(6)
もっともシュミット 自身は、主権国家が危機に瀕していることを洞察していた。その国家観やグ
ロースラウム概念については[古賀 2003]を参照。
(7) 例えば、Hardt and Negri 2001は、「国民国家の主権」から「帝国の主権」への移行を論じたが、そこ
でも主権の概念は用いられている。またSassen 1996=1999:79は、主権の「衰退」よりもその「変形」
を指摘している。
(8) 1920年のド イツ社会民主党入党に際してヘラーは、「国際主義」と「史的唯物論」を留保していた。
彼の独自性のひとつは、社会主義を人間形成の倫理的理想と捉え、それが国民主権と国民文化の増進
と結びつき得ると考えていた点にある。Heller 1925a, 1925b (9) ヘラーの政治理論を包括的に検討したものとしては[南原 2001]および[安 2002]
。また近年のヘ
ラー研究の動向についてはMüller und Staff 1984=1989、
[山口 2002]を参照した。
(10) Sontheimer 1968=1971:326
(11) [安 1989:13‐25]は、帝政時代と同様Das Deutsche Reichという国名を採用した共和国の、憲法上の
問題点を描き出している。
(12) Sontheimer 1968=1971:60ffおよび[安 1989:26‐29]
(13) Kelsen 1928=2001:89
(14) Kelsen 1928=2001:1
(15) Maus 1986=2002:352
(16) 「国家秩序において主権性とされているものは、実定法秩序がもつ排他的妥当性のなかにある。つま
り、法の実定性と国家の主権性は(ある一定の意味で)一つの同じものである。
」Kelsen 1928=2001:
99
(17) Heller 1926a:Ⅰ272=1981:9
(18) Heller 1926b:Ⅱ24=1991:28f 178
(19)
Sontheimer 1968=1971:60‐83は、現実の政治・社会から遊離した従来からの国法学を批判した「新
派」として、シュミットやヘラ―に加え、新カント派を批判したエーリッヒ・カウフマンや、統合を
憲法理論の基礎に据えたルド ルフ・スメント などを挙げている。またSchluchter 1968=1991:21‐107
は、ヘラー国家理論の背景としてケルゼンおよびスメントに注目している。
(20)
Heller 1926b:25f=1991:30f
(21)
Heller 1926b:29=1991:34
(22)
Niemeyer 1934:83=1971:10
(23)
Heller 1928:423=1991:94
(24)
初期の論文Heller 1920,1921, 1924は、いずれもヘーゲル研究である。Schluchter 1968=1991:112‐129
によれば、そのヘーゲル解釈では二つのテーゼが相殺しあっていた。一方は、ヘーゲルはカント的な
人格主義を克服したという理論的テーゼであり、他方は、ヘーゲルはビスマルクの権力国家政治のイ
デオロギー的先駆者であるという政治的テーゼである。ヘラーの研究が進行するにともない、第二
テーゼの問題性が第一テーゼの有用性を陵駕していった。
(25)
Schluchter 1968=1991:273‐298は、例外状況ではなく通常状態を国家理論の出発点に選び、また合法
性と正統性を分断せずにその弁証法を維持し、さらに現実的に同質的な人民からではなく市民から出
発した点で、シュミットよりもヘラーを評価している。
(26)
Heller 1928:Ⅱ424=1991:96
(27)
Heller 1928:Ⅱ425f=1991:96
(28)
Heller 1928:Ⅱ425=1991:97
(29)
Heller 1928:Ⅱ425=1991:97
(30)
Heller 1928:Ⅱ427=1991:99
(31)
Heller 1930:Ⅱ455=1991:135f
(32)
Heller 1930:Ⅱ457=1991:139
(33)
Heller 1934:Ⅲ280=1971:261 こうした見解は一貫して主張されている。
「…民主主義そのもの、す
なわちあらゆる政治的、社会的権力は権力服従者の意志によってのみ正当化することができるとい
う、我々の思考を支配している観念は、その支配において亳も動揺することなく、従って今日、民主
主義的正統性以外の支配の正統性は絶対存在しないと何らためらうことなく主張することができ
る」Heller 1926a:Ⅰ329=1981:103
(34)
Heller 1926a:Ⅰ278=1981:17
(35)
Heller 1934:Ⅲ280=1971:261
(36)
Heller 1928.:Ⅱ427=1991:99
(37)
Schmitt 1923=2000
(38)
Heller 1928:Ⅱ427=1991:100 ただしシュミットは、これと近似した論拠を民主的な多数決投票に
適用している。 Schmitt 1932:29=1983:40
(39)
Heller 1934:Ⅲ246‐258=1971:221‐235
(40)
Heller 1934:Ⅲ257f=1971:235
(41)
Heller 1934:Ⅲ254f=1971:231
(42)
Heller 1934:Ⅲ259=1971:238
(43)
Heller 1934:Ⅲ261=1971:239
(44)
Heller 1934:Ⅲ261f=1971:240
(45)
Heller 1934:Ⅲ262=1971:241
(46)
Heller 1934:Ⅲ265=1971:243
(47)
Heller 1926b:Ⅱ30=1991:36
179
(48) Heller 1934:Ⅲ266=1971:244
(49) Heller 1934:Ⅲ236=1971:209
(50) Heller 1934:Ⅲ236‐304=1971:209‐290
(51) Heller 1934:Ⅲ236=1971:209
(52) Heller 1934:Ⅲ311=1971:297
(53) Heller 1934:Ⅲ311=1971:298
(54) Heller 1934:Ⅲ341=1971:333
(55) ヘラーにとって、「組織する」とは、秩序だった行為構造(組織)の、現存しまた更新される実存に
必要な行いを指示したり、その実現を目指す行為を意味している。あらゆる集合的統一体はこの意味
で組織された行為構造である。Heller 1934:Ⅲ342=1971:335
(56) Heller 1934:Ⅲ342=1971:335
(57) Heller 1934:Ⅲ344f=1971:337f すでにHeller 1926b:Ⅱ30=1991:36でも、同じ見解が示されている。
(58) Heller 1934:Ⅲ345=1971:339
(59) Heller 1934:Ⅲ346=1971:339
(60) Heller 1927:Ⅱ109=1999:74
(61) Heller 1934:Ⅲ345f=1971:339f
(62) Heller 1934:Ⅲ347=1971:340
(63) Heller 1927:Ⅱ97=1999:62f
(64) Schmitt 1932:29=1983:40f
(65) Heller 1934:Ⅲ347=1971:341
(66) Heller 1934:Ⅲ348=1971:342
(67) Heller 1934:Ⅲ348=1971:342
(68) Heller 1928:Ⅱ423f=1991:94
(69) Heller 1934:Ⅲ349=1971:343は、国家=支配の諸機関とみなす「現実主義ぶる」見方と、国家=人民
とみなす理想主義的な見方をともに批判する。両者は、支配組織が、全権を与えられた支配者と全権
を与える被支配者との統一体としてのみ現実化されることを見誤っていた。
(70) Schluchter 1968=1991:235fは次のように警告している。
「機構が秩序と、国家が法秩序と同一視され
る場合には、決定と作用の統一体は『規範的意味連関の観念的統一性』にすりかえられ、国家問題は
法問題にすりかえられてしまう…(中略)…機構が成員と同一視され、国家が人民と同一視される場
合には、決定と作用の統一体は意志的統一性にすりかえられ、国家問題は統合問題にすりかえられる
…(中略)…最後に機構がその機関と同一視され、国家が執行府と同一視される場合には、決定と作
用の統一体は単なる決断統一体へと転換させられ、国家問題は純粋な権力問題に転換させられる。」
簡略化を恐れずに述べるならば、第一の道を辿ったのはケルゼンであり、第二の道を進んだのはスメ
ントであり、第三の道はシュミットが追求したものであった。
(71) Heller 1927:Ⅱ133=1999:99
(72) Heller 1927:Ⅱ68=1999:35
(73) Heller 1927:Ⅱ127=1999:92
(74) Heller 1927:Ⅱ68f=1999:36f
(75) Heller 1927:Ⅱ36f=1999:4fによれば、すでにボダンは、
「ただそれだけで公正の表現である法(lex)
」
と「命じられたものの表現である法律(ius)」を区別し、主権者の命令を法律として扱う一方で、そ
れより上位に神と自然の法の存在を認めていた。命令によって法律を施行する主権者は決して無制約
ではなく、自然や神の法に従う。ボダンにおける主権概念については[佐々木 1973]を参照。
(76) Heller 1927:Ⅱ70=1999:37
180
(77)
Heller 1927:Ⅱ71=1999:38
(78)
ただし実定法の義務づけ能力は、人倫的法原則と共同体権威の双方から生じる。法原則だけでは、
それは人倫的に義務づけられるだけで法的に義務づけられないが、権威的権力命令は恐怖と服従を生
み出すだけで義務づけることができない。Heller 1927:Ⅱ72f=1999:40
(79)
Heller 1927:Ⅱ79=1999:45
(80)
Heller 1927:Ⅱ79=1999:45
(81)
Heller 1927:Ⅱ79=1999:45
(82)
彼にとって、普遍的法法則というブルジョア的観念も、経済の実証的因果法則というマルクス主義
の理想も、そしてまたロマン主義的な有機体理論でさえも、それぞれ非人格的で自律的な自然の秩序
を志向する点で通底している。これら自然の秩序は、人間の手の届かない高みから人々の生活を規定
することで、人間の人間に対する支配の問題を消去するが、そこでは主権の主体も喪失される。この
「主権性概念の故郷喪失」こそ主権ド グマの精神史的危機であった。Heller 1927:Ⅱ34‐56=1999:2‐22
(83)
主権性の問題を意志主体による決定の問題として提起した点で、ヘラーはシュミットの決断主義を
高く評価した。しかし同時に例外状況を一般化するその政治神学ははっきりと批判している。Heller
1927:Ⅱ88‐92=1999:53‐57
(84)
Heller 1927:Ⅱ39f=1999:7f
(85)
こうした一般意思に基礎づけられた法治国家論は、19世紀以降変容していた。
「社会的・政治的権威
を尊重し、自分の国の人倫と法に常に従う人々」であった市民(Bürger)は、
「自らの社会的・政治的
安全にまったく満足しきっている」ブルジョア(Bourgeois)に変質する。この結果、市民的法治国家
思想には、ただブルジョア的な安全保証への欲求だけが残された。
『主権論』から5年後、ヘラーは
「市民層は死んだ」と喝破している。Heller 1932:Ⅱ625‐641=1991:163‐190 (86)
Heller 1927:Ⅱ96=1999:61
(87)
Heller 1927:Ⅱ98=1999:63
(88)
Heller 1927:Ⅱ107=1999:72
(89)
Heller 1927:Ⅱ113f=1999:79
(90)
Heller 1927:Ⅱ122=1999:88
(91)
Heller 1927:Ⅱ122f=1999:88
(92)
Heller 1927:Ⅱ125=1999:90
(93)
Heller 1927:Ⅱ125f=1999:90f
(94)
Heller 1928:Ⅱ423=1991:94
(95)
Heller 1927:Ⅱ123=1999:88
(96)
Heller 1927:Ⅱ126=1999:92 この言葉は、一見カール・シュミットを思わせる。しかしヘラーは、
シュミットとは対照的に通常状態から主権者を定義した。
「主権者とは、通常状態に関して成文ないし
不文の憲法を通じて決定を下した者であり、この憲法を自らの意志をもって通用させることによっ
て、さらに持続的に決定を下す者である。そして、憲法に適合した通常状態に関して決定を下す者の
みが、法律的には例外状況に関しても、場合によっては法に反して(contra legem)さえ決定を下すの
である。
」Heller 1927:Ⅱ127=1999:92f (97)
Heller 1927:Ⅱ128=1999:94
(98)
Heller 1927:Ⅱ139=1999:104
(99)
Heller 1927:Ⅱ141=1999:106f
(100)
Heller 1927:Ⅱ141=1999:106
(101)
彼は、国際法規は全て黙示ないし明示の条約という方法でのみ、国際法主体によって実定化される
という考えに固執していた。Heller 1927:Ⅱ152=1999:119
181
(102)
Heller 1927:Ⅱ142f=1999:114
(103)
Heller 1927:Ⅱ166=1999:132
(104)
Heller 1927:Ⅱ196f=1999:162
(105)
Heller 1927:Ⅱ185=1999:152
(106)
Heller 1927:Ⅱ201=1999:166
(107)
Heller 1927:Ⅱ189f=1999:156
(108)
Heller 1927:Ⅱ185=1999:152
(109)
Schluchter 1968=1991:ix
(110)
Maus 1986=2002:217‐219
(111)
Habermas 1992:600‐660
参考文献
*ヘラーの論文・著書からの引用は、Hermann Heller: Gesammelte Schriften Bd. Ⅰ‐Ⅲ , 1971 . herausgeben
von Martin Drath , Otto Stammer , Gerhart Niemeyer , Fritz Borinski , Redaktion Christoph Müller . A .W .
Sijthoff: Leiden. を使用し、脚注において[初出年:全集巻数 全集頁]
の形式で表示した。なお邦訳がある
ものに関しては可能な限り参照し、必要に応じて一部訳文を変えている。
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183
東洋的専制主義の位相
― K・ウィット フォーゲルの場合 ―
石井 知章 はじめに
1.東洋的専制主義の自然的基礎
(1) 自然と社会
(2) 「第二の自然」の発見
(3) 水力と権力
2.東洋的専制主義の社会的基礎
(1) 水治から国治へ
(2) 社会よりも強力な国家
(3) 村落共同体
3.東洋的専制主義の支配原理
(1) 恐怖と専制権力
(2) 所有と専制権力
(3) 自由と専制権力
おわりに
はじめに
メルヴィン・リクター
(Melvin Richter)は、その論考『専制政治』
(Despotism)においてデスポティズム
の概念的変遷を考察する際、古代ギリシャから中世、そしてボダンを嚆矢とする16、17世紀をへて、
ピークを迎えた17、18世紀フランス、そしてヘーゲルとマルクス、さらにトクヴィルへと至る一連の思
想史として描き出した(1)。しかし奇妙なことに、現代において専制主義を論じたほとんど唯一の社会科
学者であるK.ウィットフォーゲル(Karl Wittfogel:1896‐1988)について、リクターはその主著『東洋的専
制主義』(1957)を参考文献として挙げるだけにとどめ、いっさい本論での言及を避けている。これは
いったい何を意味するのか。もちろん「東洋的専制主義」という概念とは、けっしてウィット フォーゲ
ルの独創や逸脱であったわけでなければ、彼によってこの概念史そのものが不当に歪められたというわ
けでもあるまい。むしろその概念は、アリストテレスとモンテスキューによって代表されるように、本
来的にアジアという地理的・空間的限定の下で語られてきたという意味では、政治政体をめぐる根本概
念の一つとして政治学の歴史とともに古い定式であったとすらいえる(2)。ウィット フォーゲル自身もこ
の概念史を踏まえつつ、現代政治社会の統治概念の一つとして再構成していることはいうまでもない。
そもそもアリストテレスは、バルバロイに対するヘラスの支配を正当化するために、アジアの諸国す
べてを自由によらない政体とみなしていた。北ヨーロッパの人々は気概に富み自由を維持することに長
けているが、それとは逆にアジアの人民は、知能を働かせ技術を工夫する精神を持っているが、気概を
欠き、専制君主に支配され、隷従の生活を送っている(3)。ここでアジアの専制は自然そのものに根ざし
185
ており、いわば自然が人々に与えた運命にも合致しているとされた。しかしアリスト テレスはその一方
で、アジア的専制政治が力にではなく、暗黙の同意に基づいており、それゆえモンテスキューのように
恐怖がその動機としての力になるとする立場をとらなかった(4)。専制政治は、王の専断的意志の単なる
主張というよりも、王による現行法の遵守にもとづく立憲君主政の一形態なのである。したがって、リ
ベラル・デモクラシーというコンテクスト で見た場合、こうしたアジアの専制主義は同意に基づいてい
る限りで多かれ少なかれ民主的であるといえ、仮にそれが自由の対立物であったとしてもデモクラシー
の対立物ではないことになる。
アリスト テレスにおいてアジアの専制政治は、支配者の判断にしたがって専断的に統治される故に、
僭主政
(tyranny)の性質を兼ね備えているものとしてとらえられた(5)。やがて唯一者がその意志と気紛れ
によって統治することであるとしたモンテスキューによる定式化を経るなかで、専制政治が暴政
(tyranny)
に代わり、支配者による権力の例外的濫用とは区別されるようになると、専制政治という言葉
は暴政という言葉と融合することとなった(6)。そしてその統治原理は、名誉(君主政体)や徳性(共和
政体)でなく、君主の常に振りあげた拳固としての恐怖であるとされたのである。だが、近代社会論の
コンテクストにおいて専制権力について考察したトクヴィルは、フランス革命以降の民主的社会を理解
するに際しては、これらのいずれの概念でも十分に表せないとして、多数者による「専制政治」と「暴
政」という二つの言葉を互換的に用いるに至る(7)。しかも、トクヴィルがそのことを多数の全能に対す
る防壁としての宗教との関係で論じる際、もはやアリストテレスやモンテスキューのような地理的な経
験として自らの理論を根拠付けようとする積極的な姿勢はそこには見られない。こうしたことから
ウィット フォーゲルは、ト クヴィルによって東洋的専制政治という不変性(unchangeability)が取り扱わ
れる際に、この現象に関する宗教的解釈もモンテスキューの政治社会的解釈もどちらも正当に評価され
ていないと批判する。
「彼(ト クヴィル――引用者)は、宗教的かつ世俗的な民主主義の条件に関する自分の観点を試す際
に、わざわざ自らの宗教的テーゼを経験的に試そうとまではしなかった。しかも彼は、モンテスキュー
がなぜ東洋的専制政治の自己永続性を説明できたのかについての政治社会的理由を、読者に知らせる
という労も取らなかったのである。全体権力という自己永続的システム(アリスト テレスの『専制政
治(despotism)』)と全体権力の一時的なシステム(アリスト テレスの『僭主政(tyrannies)
』)との間の差
異に対して関心を払いそこねたために、彼はこれらの用語を混同し、そこに横たわる制度的多様性を
覆い隠してしまったのである。マキアヴェリ、ボダン、モンテスキュー、さらにはそれに続くイギリ
スの古典経済学者(とりわけスミス)やド イツの古典哲学者(とりわけヘーゲル)らによって作り上
げられたアジア的社会という古典的概念に無関心であったがゆえに、ト クヴィルは自由と民主主義と
の間の究極的二者択一についての洞察に、マルクスのロシアに対するアジア的な解釈やレーニンのロ
シア革命に対する解釈の意味をその追随者に知らしめるうえでの具体的な像を与えなかったのであ
る」(8)。
ウィット フォーゲルが東洋的専制主義について論じる際、そこで課題としていることの一つはここで
いう「制度的な多様性」の明示化であり、それが「アジア社会」の内在的分析を通してはじめて可能に
なることは彼にとって自明のことであった。したがって、ウィット フォーゲルのみるところ、その作業
を推し進めた直近の先行社会科学者とは「理論と実践」の実例としてアジアに立ち向かったマルクスで
あり、
「当為と存在との緊張」においてそれと格闘したウェーバーであっても、アジアに無関心のまま
186
「徳性」と「名誉」を媒介とした反専制のリベラリズムへ回帰することでヨーロッパ社会を擁護していっ
たト クヴィルではない。つまり、ここではリベラル・デモクラシーの評価をめぐって、
「自由の反対物」
とされたそれまでの伝統的専制の概念が、イギリスによるインド の支配を背景にしつつ、スミスからR・
ジョーンズ、H・メイン、そしてマルクスへいたる過程で形成されたアジア的生産様式とアジア的専制主
義という「停滞論」に関する対概念を経由して、「進歩の反対物」としての専制というもう一つの座標軸
に分岐したのである(9)。ウィット フォーゲルはまさにこの二つの概念枠組の狭間で、マルクスとウェー
バーによる相互に交差するアジア社会論を自らの社会科学的言説構成の基本的な導きの糸としつつ、マ
ルクスが19世紀に置き去りにし、ウェーバーが20世紀の初頭に置き去りにしていったところから研究に
取りかかった。しかもその際ウィットフォーゲルは、ウェーバーの経験しなかった全体主義という20世
紀の問題を専制主義との密接な関係において論じたが、それは彼にとって東洋的専制主義の研究そのも
のが、
「専制的な類型としての共産主義的全体主義の解釈を確立する試み」(10)であったからに他ならな
い。
本稿では、自然−社会観という社会哲学にはじまり、東洋的専制主義という政治経済学へといたる
ウィット フォーゲルの理論形成と展開について、おもに主著『東洋的専制主義』に内在しつつ、とりわ
け中国という具体的経験に即した政治社会論を中心にその論理構成をたどり、専制主義の位相をアジア
的リベラル・デモクラシーという枠組の中で考察することにしたい。
1.東洋的専制主義の自然的基礎
(1) 自然と社会
ウィットフォーゲルが政治・社会と自然との関連について明確な形で論じたのは、その論考「風土政
治学・地理的唯物論並びにマルクス主義」
(1929年)においてである。当時ド イツでは、社会民主主義者
グラーフ(Gg.F.Graf)らを中心に「地理的政治論」 や「風土政治学」が、土地と文化発展との関係を軽
視したマルクス主義の欠陥を補うという名目で盛んに論じられていた。これに対しウィット フォーゲル
は、そうした政治過程が土地に制約されるという「不正確」で「非弁証法的な」固定性に基づいた議論
が、地理的要素は「直接」政治的生活圏に作用するのではなくただ「媒介」されて作用することを見落
としたと厳しく批判した。こうした「風土政治学」の基本的な欠陥を乗り越える方法こそ、「人間と自然
とが社会形態のあらゆる変動における社会的生産の発展のなかで実質的生活過程の究極の不可欠根本
因子として働く二つの競演者である」ところのマルクス主義に他ならない。
「マルクス主義的見解におい
てはじめて社会生活はその真実の基礎・物質的生産の仕方にまで還元される。かくしてこそはじめて自
然の――人間に対する経済的歴史的意義が問題になるかぎりの――本質把握的分析が可能になる。マル
クスにおいては自然は本質的にすなわち物質的生産との連関において把握されている。地理的唯物論に
よるマルクキシズムの『補正』等とは要らざる差出口である」(11)。たしかに人間は自己の歴史を創るの
だが、それは自己の選んだ状態の下でなく、あくまでも彼に見いだされた一定の客観的状態の下におい
てのみである。つまりそこには、
「人間の活動力は動因であり、自然はその実際的構造によってこの活動
力に一定の方向を示す客観的基礎である」(12)という歴史貫通的な基本構造がいつも横たわっているの
である。したがって、こうした条件下で変革が可能であるとすれば、それは自然が社会的生産力の増大
を許容する場合のみである。それ以外の場合にはむしろ、人間の労働では統御しがたい自然関係が先立
ち、自然に制約された生産力によって、潅漑地域の諸種の農業形態とそれに見合った政治的生活形態に
187
とどまることの方が常であった。例えばエジプトと中国では、集中された水利潅漑の大きな役割がその
国土の孤立ゆえに軍国的封建的任務にとって本質的でなく、文官と僧侶からなる官僚をその支配階級と
する比較的純粋なアジア的専制の形式が生じた。ウィット フォーゲルにとってそれはまさに、灌漑地域
における様々な農業生産様式という経済的な土台に対応した上部構造としての政治形態なのであった(13)。
(2) 「第二の自然」の発見
自然と社会をめぐるウィット フォーゲルの基本的立場は、主著『東洋的専制主義』(1957)において
も、かつてのままの形で引き継がれていく。ここでも自然は、人間によって働きかけられる対象である
と同時に、それが許容する生産力を媒介に社会を一定方向へと向わせるよう人間に働きかける客観的基
礎である。人間の自然に対する働きかけは、たしかに不断に自然を転形し、新しい生産力を現実化して
いるが、同時に自然的背景の相違が人間の新しい形態の技術・生活・社会管理の発展を基礎づけてい
る。こうしたプロセスのなかで、
「自然は新しい機能を獲得し、それはまた徐々に新しい外観をとってゆ
くのである」(14)。しかしながら、それが果たして新しい水準の活動に達しうるかどうか、あるいは達し
たとしてもどこへ導くのかといった変革の可能性は、第一には制度的秩序、第二には人間活動の究極的
対象、すなわち「人間が獲得しうる物理的、化学的、生物的世界」(15)のそれぞれに依存している。つま
りウィット フォーゲルは、一方で固定的な所与以上の、人間の働きかけによって変形されうる対象とし
て自然を見ると同時に、他方で労働過程の変化が如何なる方向に行われ得るかを方向づける客観的基礎
としても自然を見ており、ここでも社会に対する自然の第一次性を強調していたのである。ただしここ
では、自然そのものよりも、ある条件下で獲得された制度的、文化的側面の重要性が強調されるように
なっている。このことは、ウィット フォーゲルがもはやありのままの自然の概念を離れて、人間がそれ
に働きかけることですでに獲得された制度、さらには「自然の転形」を経たことではじめて人間の獲得
しうる対象となった物理的、化学的、生物的世界、すなわち作為によって自然そのものの内部に創出さ
れたもう一つの自然=第二の自然を問題にしはじめているといえる。たしかに人間は、ある技術的条件
の下で自然そのものに働きかけることによって自らのコント ロール下に置くことのできる、第二の自然
を獲得できるかもしれない。しかしながらウィット フォーゲルにおいて、いくつかの弾力的な自然的要
因は操作したり必要に応じて変化させることが可能であるとしても、他のいくつかの自然的要因は依然
としてその社会的発展段階における技術的条件の及ばない人間のコント ロールの外側にあるがゆえ
に、停滞論とは区別されつつも、恒常的なもの(constants)とみなされた(16)。
(3) 水力と権力
こうしたなかで、もう一つの自然的必要条件である水は他の自然の景観とは異なり、特殊な性質を
もっていることにわれわれは気づく。水は大部分の作物よりも重たいが、より便利に制御することがで
きる。重力の法則にしたがって、水は自動的にその環境の近付き得る最も低いところに流れ込むという
意味で、
「与えられた農業景観のうちで、すぐれた自然的変数(natural variable)である」(17)。しかし如何
に可変的であるとはいえ、水が欠乏している景観のなかでその巨大な集積を試みようとしたとき人は大
きな困難にぶつかった。これに対し、現在の状況と変更後の状況から得られる双方の利益を比較考量し
た結果十分なメリットがあり、なおかつ自然的かつ技術的条件も許していると見積もられた場合、人は
その試みを敢えて行うこととなる。
このように、乾燥していても潜在的に肥沃である土地を恒久的にかつ収益のあるように耕作すること
を欲したとき、人は水の確実な供給を確保しなければならなくなった。たしかに、古代メソポタミア、
188
エジプト 、インド 、南アメリカ、中国、いずれも乾燥地帯を含む地域であるが、だからといって、これ
らの地域で水の必要性が新たな自然的機会を利用するように一律に強制するわけではけっしてない。む
しろ、湿潤地帯との農業技術の伝播や相互作用によって具体的状況が異なってくるという意味で、
「状況
は開かれており、潅漑農業的コースはいくつかの可能な選択の一つにすぎなかった」(18)のである。たし
かに、
「自然環境が与える全ての課題のなかで、人間に社会管理の水力的方法を発展させるよう刺激した
のは、不安定な水の状況が与えた課題である」(19)。しかし「降水」という直接的な自然に依存する農業
から、
「潅水」という自然への働きかけによって人間の獲得した第二の自然に依存する農業に移行するこ
とは、全くの「純粋の選択」に属する事柄であるとウィットフォーゲルはいう。というのも、一つには
非農耕民集団にとって潅漑農業という選択は、場合によっては近隣の農業国家に対する従属的地位に甘
んずることになるかもしれないという限られた魅力しかもたないからであり、もう一つには実際にそれ
を選択した集団の数は、選択しなかった集団のそれよりも少数であるという事実が、
「選択の自由」の存
在を如実に物語っているからである。このようにウィットフォーゲルは、かつて自然と社会との関係を
論じたときと同様に、かつての自然−社会観にはなかった水力的社会における第二の自然の相対的第一
次性を強調した際にも、自然的条件によって社会のあり方が決定されるというモンテスキューらによる
「地理的唯物論」を慎重に退けていた。
しかしながら、水力的農業へ転換するにせよ拒否するにせよ、それは秩序も指導もなしには行われな
いのであり、すでにしてここから集団的な一つの意思決定が求められることとなる。もしここで潅漑農
業を選択したとすれば、決定をめぐる権力の集中はその水準に応じてさらに二つの道をたどることと
なった。すなわち、一つは共同体内的意思決定であり、もう一つは超共同体的意思決定である。たしか
に、潅漑農耕が降水農業よりも大量の肉体的努力を要するというのは事実だが、水路を掘ったり、ダム
を作ったり、水を分配したりする地方的仕事は、数少ない農民やその家族、近隣の小集団によっても共
同体の内部において十分遂行可能であることが予想される。ここでは小規模潅漑に依拠した農耕は、た
とえ食料供給を増大させたとしても、そのこと自体は水力農業や東洋的専制主義を伴うわけではけっし
てない。これに対して、多くの農民によってすでに様々に小規模潅漑の試みられた共同体が相変わらず
乾燥状態にあり、しかし潜在的には十分に肥沃であるといった地域において入手可能な水資源が見いだ
されたとき、人々は共同体の水準を超えてそれを獲得する可能性を追求することとなる。これこそはま
さに、自然に対する支配の可能性が社会に対する支配の可能性へと転じ、水力的社会において専制的パ
ターンが生じる瞬間であった。ウィットフォーゲルはこの水の統制と専制権力生成のプロセスを次のよ
うに描く。
「潅漑農業が水の大きな供給の効果的な取り扱いに依存しているとすれば、水のもつ独特な性質―
―その大量に集積する傾向――は制度的に決定的なものになる。大量の水は大量の労働によってのみ
水路に流され、また諸境界内に蓄えられることが可能となる。この大量の労働は調整され、規律さ
れ、指導されなければならない。かくして、乾燥した低地や平原を征服しようと熱望する多くの農民
たちは、機械以前の技術的基礎のもとでは一つの成功のチャンスを提供する組織的な装置に頼ること
をよぎなくされる。彼らは仲間たちと一緒に働き、指令する一つの権力に服従しなければならなくな
るのである」(20)。
このように潅漑用水という第二の自然は、それが農民たちにとって死活の条件となるがゆえに彼らを
大規模労働に決定的に駆り立てたのであり、これを唯一組織できた専制権力はまさにそのことを背景に
189
しつつ、自然の支配を社会の支配へと転じていったのである。しかしながらこうした専制的パターンへ
の条件とは、あくまでも一つの地理・歴史相対的な機会であって、けっして歴史貫通的・決定論的な必
然性ではない。なぜ政府の水管理が必ずしも政治の専制的方法を意味するわけではなかったかといえ
ば、
「収奪的な自給自足経済の水準を越え、降水農業の強力な中心部のもつ影響力の外に出たところでは
じめて、また所有権に基づく産業文明の水準に及ばないところではじめて、人間は水不足の景観に特殊
に反応して、特殊な水力的生活秩序へ歩み寄った」(21)にすぎないからであり、逆にこの水力社会の経済
水準を越えた確たる所有権に基づく産業社会が成立したとすれば、そこではもはや既述のような自然的
条件に従属する必要性もなくなるからである。
2.東洋的専制主義の社会的基礎
(1) 水治から国治へ
ウィット フォーゲルが見るところ、水力経済のもつダイナミズムとは、分業(division of labour)、集約
(intensity)、協業
(cooperation)という組織的労働に関する三つの異なった機能から成り立っている。これ
らの機能はそれぞれ、アジア的農業形態において特殊な型の分業が伴い、耕作が集約化されるととも
に、大規模な協業が必要とされるというきわめて密接な関係にある。とはいえ、これら農業経済の要請
する諸作業を最終的に収斂させているのは、統括や指揮、さらに指導といった段階的組織化の基礎とな
る協業
(cooperation)
という概念である。ウィットフォーゲルは、アジア的国家の支配者が協業のもたらす
ノウハウを農業に直接関連する事柄に限らずに、例えば飲料用の水道や貯水池、さらに水運用運河等、
非農業的水力事業にも適用し、その活動を拡げていったという事実にもこの社会の特質を見る。それ
は、中世ヨーロッパの降水農民や封建的支配者がそもそも水路にほとんど注意を払わず、追加的な運河
建設の必要性を感じなかったのに対し、アジア社会の人々が肥沃をもたらす河川にできるだけ接近し、
河堤を強化し、改造することを迫られたという事実に由来している。中国では、春秋戦国以前にまで水
運用運河の発端は遡り、秦朝統一から最初の数世紀は潅漑用、貯水池、防護用河川堤防の建設だけでな
く、徴税目的のための長距離運河の掘削においても大きな前進をみた。このように水力社会の支配権力
と水力機構とは深く結びついており、
「水運用運河の政治的必要をいちじるしく増大させた中国の地理
的、行政的統一はまた、これらを建設する国家の組織力を増大させた」(22)という相互不可分の関係にあ
る。すなわち水力農業は、耕作の集約化、および大規模な協業を必要とするばかりでなく、そこでは本
来の農耕作業からは区別された現場での溝掘り、ダム作り、給水といった潅漑のための準備的な作業
と、その収穫物を周期的な過度の氾濫から守るための防御的作業という二つの分業形態を含んでいたの
である。まさしくこの水力経済における分業形態の発見こそは、
「小規模潅漑を伴う農業経済
(灌水農業
‐hydroagriculture)と、大規模な政府管理の潅漑および治水事業を伴う農業経済(水力農業‐hydrolic
agriculture)を区別した上で、私は伝統的用語よりも『水力社会』の名称の方がより適切に、問題となっ
ている秩序の特殊性を表現していると信ずるにいたった」(23)としたウィット フォーゲルの理論的出発
点であった。
つまりここでは、本来的には経済学的カテゴリーである分業という概念が、労働力の組織的配分とい
う政治学的カテゴリーに置き換えられた。その上でウィットフォーゲルは、当初部族や共同体といった
集団「内」的水準を超えた部分における要請によって進められた水治が、次第に社会の発展とともに共
同体的要請を超えて、間共同体、地域といった集団「外」的要請に基づく周辺領域での支配へと突き進
190
み、その結果最終的に国家全体の統治へいたるという東洋的専制権力の成立過程を描きだしていくので
ある。
(2) 社会よりも強力な国家
ウィットフォーゲルが水力国家の管理者的性格における「社会的側面」の重要性を指摘したとき、そ
こで問題にされているのは、なによりも自治的宗教組織、軍事的集団、ある種の財産所有者などによっ
て構成される非政府的勢力のことであった。絶対主義期のヨーロッパにおいて、その政体は憲法などの
法規範よりも、土地貴族、教会、都市の現実的な諸勢力によって制約されていた。そうした全ての非政
府勢力は、M.ウェーバーによって示されたように、ヨーロッパでは一つの政治的団体にまで結実して
いたのである。たしかに、これらの集団のうちいくつかは、東洋においても貧弱ではあるが継続的に発
展していたかもしれない。しかしそのいずれも、水力的政体を制約できる政治的団体に結晶することが
ないという点で西欧におけるそれらとは決定的に異なっていた。ウィット フォーゲルにとって、対内か
つ対外的秩序維持という権力のもつ決定的な二つの機能がいかに展開されるかは、ひとえに非政府的勢
力という専制権力を取り巻く外的条件にかかっているのである。したがって、
「あらゆる政府は(軍事行
動の組織を通じて)外部の敵に対するコモンウェルスの防衛に、また(司法と何らかの警察的措置を通
じて)内部秩序の維持に気遣うこととなる。政府がこれらや他の任務をどの程度遂行するかは、社会秩
序が一方では政府の活動を、他方では敵対する非政府的勢力の発達を、鼓舞あるいは制約するその仕方
によるのである」(24)。
水力政府は、モンテスキューによってそう理解されたように、自らの権力の存立基盤を脅かすこうし
た非政府的勢力が、独立した中間団体(corps intermediares)として結実しないよう直接的または間接的
に阻止することとなる。もちろん、いくつかのケースでは、強力な氏族の長や宗教団体、あるいは半独
立的指導者が水力専制主義の勃興を阻止すべく挑んだことがあったかもしれない。しかし、古代ギリ
シャ、ローマや中世ヨーロッパにおいて非政府勢力を防衛していた財産的、組織的力が、東洋において
は決定的に欠如していたのであり、だからこそ水力文明において国家は「社会よりも強力に」なりえた
のである。
東洋的専制主義は、水力権力を押さえ得る効果的な社会的抑制が欠如しているがゆえにこそ形成され
得たといえる。ヨーロッパにおける分封貴族、教会、職業団体などの「非政府的諸勢力」は、国家権力
に対する社会的抑制作用を効果的に及ぼしていたにもかかわらず、水力社会における土地財産、宗教、
ギルド のいずれもが専制権力に併存する独立した権威とはなりえず、ウェーバーのいう対抗的「自治団
体」
(Gemeinde)
に集約されることはなかったのである。ウィットフォーゲルはいう。
「武装した、遍在的に組織された勢力として、水力政体は不動産の主要な領域である農村のみなら
ず、動産の戦略的所在地である都市においても優位を占めた。その都市は政府の行政と軍事の拠点で
あって、手工業者と商人は重要な政治的競争者となる機会を持たなかった。彼らの職業団体は国家に
直接に結びつけられる必要はなかったが、中世ヨーロッパの大部分で勃興したようなギルド 的市民権
力の強力かつ独立した中心地を創造することにはたしかに失敗したのである」(25)。
周知のようにウェーバーは、中国の都市には西洋古代におけるような自弁で武装する都市在住の軍事
身分という意味での市民階級が存在しなかったがゆえに固有の政治的諸権利をもつ自治団体たりえな
かったとしたが(26)、ここでウィット フォーゲルは、同じことを水力社会との関係で言い換えている。
191
ウェーバーにおいて中国の都市が軍事的、行政的に国家へ依存するとされたことの根拠は、広大な領土
の自然条件にその統治の基礎を置く官僚制的運河構築行政(Stromverwaltung)への依存にあるとされた
が(27)、ウィット フォーゲルもアジア的国家に対する対抗権力としての都市が存立し得なかった根拠
を、水と権力との関係で説明していたのである。だが、ウェーバーは、既述のようにアジア的な政治権
力のあり方を条件づける非政府勢力の活動する社会的枠組について議論しても、限られた条件の下での
み成立する専制権力との関係については明らかにしていない。そもそも、彼にとってアジア社会での政
治権力とは、近代(=合法)的支配とは区別された前近代的支配形態である伝統的支配とカリスマ的支配
との二つにおいてのみ成立したのであり、このうち伝統的支配の下位概念として想定されている家産制
(Patrimonialismus)こそが、中国をはじめとするアジア社会に共通した支配形態であった。このうち家産
制が家父長制化するという権力のベクト ルの行く末にあるのがスルタン制であり、とりわけここで支配
者の恣意(Willkür)が極限化してはじめて専制政治(Despotie)が行なわれると理解された(28)。したがって
ウェーバーにとっては、アジアにおける中間団体としての非政府的勢力の欠如が必ずしも専制権力の存
立そのものを基礎づけていたわけではなかったのである。
これに対しウィットフォーゲルは、こうしたアジアの歴史的経験にもとづく間接的な段取りはとらず
に、専制権力の存立を20世紀的な全体主義的な権力との関係においてより直接的、原理的に説明してい
る。彼によれば、アジア的都市の非政治性に対する究極的な原因とは、国家権力に直接求める以前に、
非政府勢力内部における権力構造に求められる。すなわち、非政府勢力という中間団体の長がそれぞれ
の権力で均衡を保っている場合はともかくとして、そうでない場合にはただ抑制されない権力の累積傾
向
(cumulative tendency)が生じてくるという政治構造の内的メカニズムがそこには横たわっているので
ある。しかも、非政府勢力の均衡という「外部コントロール」の喪失は、政府内の「内部バランス」と
いう政治力学の破壊によって拍車がかけられることとなった。「この傾向は権威の各部分が多少とも均
等な力をもっているあいだは、抑制されている。それは公共事業、軍隊、諜報サービス、徴税組織の長
たちが組織力、情報力、強制力において多少とも均等な力をもっているならば抑制されうる。このよう
な場合、絶対主義政体は均衡のとれた寡頭制、いわば『ポリトビューロー』
(政治局)の下にあるのだ
が、そのメンバーは実際、多かれ少なかれ平等に最高権力の行使に参画することになるであろう。しか
しながら、いずれかの政府の主要部門の組織力、情報力、強制力がそのように均衡していることは、
あったとしても稀である」(29)。つまり、寡頭制内部での権力のバランスは見かけ上安定しているが、実
際は外部コント ロールによって抑制されているに過ぎず、したがってそれが消失すれば遅かれ早かれ権
力のバランス維持による安定を失いつつ、制約されない権力の累積傾向はいよいよもって組織と意思決
定の単一の独裁制的な中心へと向うことにならざるを得ない。だからこそウィット フォーゲルは、権力
構造内部へと影響を与えている「外部コント ロール」と「内部バランス」という二つの政治力学的モメ
ント の行く末を「絶対主義」(absolutism)と「独裁制」(autocracy)に求めつつ、「その支配が非政府的勢力
によって有効にチェックされていないとき絶対主義となり、絶対主義政体の支配者がその意思決定を政
府内勢力によって有効にチェックされないとき独裁者(autocrat)になる」(30)と定式化したのだった。こ
こで専制主義は、「絶対主義の極度に苛烈な形態」(31)と定義され、autocracyへと向う同じベクトルの延
長線上に位置づけられることとなった。いずれにせよウィット フォーゲルには、ウェーバーのように専
制権力の存立を伝統的支配−家産官僚制―家父長制といったアジア的支配の諸類型を通して引き出す
という視点はなく、むしろ専制権力は、
「ポリトビューロー」という言葉が暗に示すように、スターリニ
ズムという20世紀の全体主義的権力のあり方との関連で基礎づけられているといえる。
192
(3) 村落共同体
水力的専制主義の権力は基本的に無制約的(全面的)であるとはいえ、大部分の個人や集団の生活は
実際には国家によって日常的にかつ完全に管理されているわけではけっしてなく、むしろ逆にそこには
専制権力によって全く管理されることのない、H.アーレント が「専制の砂漠」と呼んだ権力の空白領域
が存在している。ウィット フォーゲルがこのコンテクストで取り上げるのも、専制権力によって全体的
にコント ロールされることのない、いわば国家と諸個人との間に横たわる村落共同体である。
ウィットフォーゲルによれば、水力政府はコストが高くなりすぎると末端までコント ロールしようと
する努力をそれ以上しなくなるという「行政収益逓減の法則」(the law of diminishing administrative
returns)
に基づいて運営されるがゆえに、生活のあらゆる分野にまでその権限を及ぼすことを意図的に
差し控えることによって、権力の空白領域をその都度形成している。
「行政収益逓減の法則が水力国家を
して、諸個人や第二次的組織
(secondary organizations)を全面的に統制しようとする試みをあきらめさせ
るということは、政府がそうする基本的な必要性を感じていないということの別の言い方にすぎない。
もしそうでなければ、すなわち、全面的統制が専制政体の永続のために至上命令であるとすれば、支配
者はその収入の全てを費やしてでも安全であることをはからねばならなかったであろう。明らかに、こ
(32)
。ここで全面的統制の必要性を感じないというの
うした権力システムは実行不可能なものであった」
は、言い換えれば過度の費用のかかる措置に訴える必要のない支配者にとって「正常な」条件が存在し
ているということに他ならず、まさにそれゆえ第二次的組織は結果的に自らの自由を得ることになった
のである。このことは逆にいえば、水力政府を脅かす不穏な動きが生じるといった異常事態には、日常
的全体統制よりはコスト がかからないとはいえ、非日常的集中統制というその限りで高いコスト を支払
いつつ、あらゆる手段を用いてでもこれを封殺することが求められたことを意味している。
「行政収益逓
減の法則にしたがって、農業的機構国家の支配者は時々起きる蜂起の危険を冒すのであり、近代工業社
会での彼らの後継者がする必要のなかったことをしなければならない。すなわち彼らは、大部分の個人
や若干の第二次的組織に一定の自由を与えなければならないのである」(33)。だが、ここでいう自由と
は、権力との対抗関係の中で獲得された「専制の反対物」としての自由ではなく、むしろ専制によって
許容され、与えられ、かつそれによって専制そのものが維持されたところの自由である。アーレントが
指摘したように、人間を「鉄の箍」でぎゅうぎゅうと締めつけるのが20世紀の全体主義であるとすれ
ば、専制君主たちの恣意によって「砂漠」と化し、人間の「自由」が自己を実現するために必要な「空
間の痕跡」をとどめておくのが専制主義なのである(34)。かくしてウィット フォーゲルは、水力社会にお
ける代表的な第二次的組織である村落共同体の存立する領域を、純財政的基礎をもつ専制権力との空間
的な相対関係として描き出した。
しかしながらウィット フォーゲルは、こうした権力の空白領域において成立した民主主義を「乞食の
(35)
とよび、それが権力との対抗関係の中から獲得された「民主的
デモクラシー」(beggars democracy)
制度」とは程遠く、実際には「水力世界を通じて、政府の権威と家族の権威は相互に結びついており、
政治的統制手段は大部分の村落、ギルド 、第二次的宗教組織に影響を及ぼしている」(36)がゆえに、本来
的な意味で自律的かつ独立的であったわけではないとしている。というのも、例えば伝統的中国におい
て、家長の権威はもっぱら専制的国家権力に裏付けられており、村落の長と地方行政官の責任もまた国
家に従属させられていたからである。すなわち、
「家長の命令に対する不服従は政府により罰せられた。
一方、その家族員が法律に背くことを押さえることができない家長は、地方役人によって家長を鞭打
ち、投獄することができたのである」(37)。かくして村落共同体は、国家から相対的に自立しているとは
いえ、そこでの家長の権威は国家の権威そのものと直接結びつくことになった。このようにウィット
193
フォーゲルは、共同体と国家との関係をマルクスのような土台―上部構造論という二元論を取らずに、
ウェーバーと同様に、家長のもつ特殊な権力機能に注目することでその切り結び方について考察した。
こうしたウィットフォーゲルの立場は、マルクスのアジア社会論よりも、むしろ中国の統治が国家的財
政の制約のため地方の実権掌握まで手の廻らないとした「粗放的行政」
(extensive Verwaltung)論によっ
て国家と社会を相互に連関させたウェーバーのそれに近く、ウィット フォーゲルの「行政収益逓減の法
則」は、まさにウェーバーによる「粗放的行政」論を古典派経済学のターミノロジーによって言い換え
たものであるといえる。
3.東洋的専制主義の支配原理
(1) 恐怖と専制権力
ウィット フォーゲルは、水力社会における全面的権力が支配者の築いた上からの制度的側面と被支配
者の抱く下からの心理的側面との二重構造によってなりたち、社会的諸勢力の発展を阻止する制度が外
面的権力として統治すると同時に、威嚇による反応として内面的服従がもたらされることで成立すると
した。そこでは、さらに水力的権力の統治下にある人々は、全体的テロの脅威に適応した思慮ある行動
を求められることとなる。ウィット フォーゲルは、それがコモンセンスとしての「服従」であり、この
消極的態度こそが「良き市民の徳性(citizenship)の基礎」(38)になるとし、モンテスキューが共和政体の
原理とした徳性を逆説的に専制政体の統治原理として置き換えた。例えば、孔子にとって、親と教師へ
の絶対的服従を要求する教育は、社会の支配者への絶対的服従の基礎となるべきものである。
「庶民は何
らの選択の余地を与えられなかった。彼らは問題の所在を理解することができなかったから、お上の権
威と識見が命ずるところに『従うべきもの』とされていたのである。インド や近東の同類社会において
と同様に、良き孔子の社会における良き臣民とは、服従する臣民のことを意味した」(39)。もちろん、儒
教の場合がそうであったように、それが水力的であるか否かを問わず、およそ社会的生活がある程度の
調整と服従を必要とすることはいうまでもない。だが、水力社会における服従が他のそれと決定的に異
なることは、共和制の統治原理とされた徳性との比較において鮮明となる。古代ギリシャの民主的都市
国家でよき市民の徳性となったのは、軍事的勇気、宗教的献身、市民的責任、均衡のとれた判断であ
り、中世の騎士が主君に捧げた忠誠も、全面的服従をもたらすことはなかった(40)。まさに制限政体にお
いてテロルの行使が一定範囲内に限定されていたように、服従という社会的行為も均衡のとれた市民的
徳性の下で同様に限定されていたのであり、それこそが専制政体とも君主政体とも区別された共和政体
の統治原理となったのである。
しかしながら、全面的な服従が全面的権力に対する唯一の思慮ある行動になるという事実を認めると
しても、必ずしもそうすることが上級者の尊敬を勝ち取ることに結びつくわけではない。
「水力社会のよ
うに権力が偏っているところでは、人間関係もまた同様に偏る。その政府を制御できない人たちが、支
(41)
。この歪んだ権力偏
配者との衝突によって粉砕されることを恐れるのは全く当然のことなのである」
在の結果として招来されるのは、庶民、官吏、統治者それぞれのレベルで展開する破壊的な不安、相互
不信、そしてモンテスキューによって定式化された恐怖である。庶民にとってこの偏った権力は、課
税、賦役、裁判の分野で限りない苦境に庶民を引きずり込むかもしれないという恐怖となり、高官に
とってそれは部下に地位を危うくされるかもしれないという恐怖となり、部下にとっては上役に解任さ
れないかという恐怖となる。ここではまさに、ヘーゲルが東洋的専制主義の中に一つの政治体制が存続
194
し得ないとした「否定の感情」を見いだしつつ(42)、この感情こそが恐怖という統治カテゴリーを機能さ
せるとしたことと同じ事態が看取されている。そしてウィットフォーゲルは、これらとの相対関係にお
いてとりわけ重要性を増すとみられる統治者にとっての恐怖のリアリズムに迫る。「支配者は最も華や
かな存在であるが、同時に最も羨望されている。彼に近しい人たちの中には、彼にとってかわることを
望むものがつねに複数は存在している。そして憲政的、平和的変化が問題外であるがゆえに、交替は通
常一つのこと、ただ一つのことだけを意味する。肉体的抹殺、すなわちこれである。だからこそ、聡明
な支配者は何人も信じないのである」(43)。
かくして、自らの地位や利益が侵されるという部分的「否定の感情」は、やがてそれらの権利主体の
「生殺与奪の権」
を究極的に握る支配者に対する全面的=肉体的否定にまで昇りつめる。しかし、ここで
ウィット フォーゲルが注意を喚起しているのは、周囲の取り巻きという
「横から」、さらには完全に被支
配側に置かれた庶民という「下から」向けられる潜在的反権力に対する恐怖である。モンテスキューや
ヘーゲルと同様、ウィット フォーゲルが多くを依拠するウェーバーにおいても恐怖(Furcht)という言葉
は恣意(Willkür)
=気紛れとともに前近代的=伝統的支配の統治概念として用いられていた。しかしモン
テスキューが、「君主の常に振り上げた腕」として機能する「恐怖」という統治概念が、専制主義の風土
化したアジアではより一般的だったとして上から下へと一方向に移される「恐怖」のみをそこに見てい
たのに対し、ウェーバーは「家長の抱くもっともな恐怖心
(Befürchtung)、すなわち、義務と権利の伝統
的な分配関係に不正と感ぜられるような理由のない干渉を加えることによって、伝統的な恭順感情をつ
よく動揺させるときは、彼自身の利益、とりわけ彼の経済的利益も、手ひどい報いを受けるかもしれな
いという恐怖心が働く」(44)とし、なによりも支配者側の主観的な恐怖について述べていたという点で、
モンテスキューやヘーゲルとは立場を異にしている。ここでは被支配者に対する事実上の無力さに由来
する支配者側の恐怖が問題にされても、被支配者が支配者に服従するうえで一つの重要な契機となる上
からの恐怖については問題にされなかった。さらにウェーバーは、皇帝の軍事力の支配に対する意義づ
けをする際にも、
「家産君主の政治的支配者権力が、もっぱら彼の家産制的軍事力に対する臣民の恐怖
(Furcht)
にもとづいているというような例は、ほとんどどこにも存在しない」(45)とし、上から向けられ
る恐怖がもつ権力の存在そのものを否定しており、支配者が自らの権力基盤の脆弱さゆえに恐怖し、そ
れゆえ恣意とともに支配者側の恐怖が専制に対する主要な制約になるとしたのである。
たしかにウィットフォーゲルは、「恐怖」を被支配者の抱く「上から」の統治概念としてだけでなく、
ウェーバーがそうしたように支配者が自らの権力基盤の脆弱さゆえに被支配者に対して恐怖するとい
う「下から」の反権力の契機としても理解していたかもしれない。しかし彼は、全面的権力において現
実化し得る独裁的、官僚的、制度的なテロルよりも、むしろ支配者個人によって専断的に行使される日
常的テロルの重要性の方をより強調していた。非政府的勢力によって制御されることのない専制権力
は、日常的に「自由に動きまわる虎」(46)として上から下へと行使されていたのであり、この点ではむし
ろ、既述のようなウェーバーの理解とは異なっている。しかもこの専制権力は、恣意的に動きまわるこ
とによって容赦なく一般庶民を巻き込んでしまい、さらに制御することも予測することもできない政治
の巻きぞえになることに対する恐怖(fear)が、思慮深い臣民を自分の狭い個人的、職業的営みの世界に閉
じ込め、外部の地域社会における他の構成員から効果的に引き離してしまうとされた(47)。こうした
ウィット フォーゲルの立場は、下からの契機を重視するアリストテレスやウェーバーの専制政治論より
も、むしろ専制権力が上から強権的に行使される面を強調するモンテスキューやヘーゲルのそれの方に
大きく傾いているが、そうした苛酷な認識をウィットフォーゲルにもたらしていたのは、テロルが非政府
勢力によって抑制されずに日常化するという側面をもった20世紀全体主義の経験であったと思われる。
195
(2) 所有と専制権力
所有とは特定の物を処分する個人に認められた権利であり、本来的に物と人との関係を定める権利で
あることはいうまでもないが、ウィット フォーゲルはそれだけではなく、
「その物を処分することにより
排除される他の諸個人との関係を含んでいる」(48)として、そこに人と人との関係、つまり根源的な人間
の支配−被支配関係を見いだしている。それはマルクスの社会理論の基本的カテゴリーを援用しつつ
も、所有論を権力論へ結びつけているという点でウェーバーにもなかった新たな境位である。ウィット
フォーゲルの見るところ、所有と権力とは、水力社会のように権力が異常なまでに強い場合には私的所
有もそれにつれて弱いものとなり、逆に西洋近代社会のように均衡のある権力のもとではそれにした
がって強い所有権が発達するという相互依存関係にある(49)。さまざまに異なった所有形態はさまざま
な社会的発展段階において展開するのであり、ウィット フォーゲルは国家的所有が共同体所有、さらに
私的所有へと段階的に委譲されてゆく過程を財産という所有形態を媒介に論じていくと同時に、弱い所
有権が支配的である水力社会における唯一の例外を動産的積極的財産(mobile and active property)の領
域に求め、これを工業や商業において積極的かつ独立的に使用する場合には制度的にきわめて重要な意
味を持つとした。なぜなら手工業者や商人たちは、その財産を既述のような公的領域で積極的に運用す
るとき、官僚の下での従属的立場から抜け出て、新たに独立した階級として立ち現われうるという可能
性をもったという意味で、アジア的な支配―被支配関係から脱却する大きな契機としても描かれてい
る。しかしこの段階では、可能性はまだ現実性には至っていない。
「こうした前進も、職業的手工業者や
商人たちが政府の官吏階級内の一つの新たな従属的部分を構成する限りは、大きな社会的変化をもたら
すことはない。彼らの財産を職業的かつ独立的に運用するときはじめて、彼らは新しい階級として立ち
現われるのである」(50)。かくして動産的積極財産は、あくまでも「職業的かつ独立的に」運用されるこ
とによってのみ、新たな独立的積極的財産(independent active property)
となったのである(51)。いわばこ
こでウィットフォーゲルは、社会的発展にともなって新たな階級形成が促進される背景に、所有概念の
積極的転換という一つの歴史的契機を発見していたといえる。
さらにウィットフォーゲルは、動産と不動産両方の分野で不均等に発展させるこうした独立的積極的
財産を、工業、商業および農業というそれぞれの産業間の相互関係における進展度合に応じて、単純、
半複雑、複雑という三つの水力的所有形態に分けた。ウィット フォーゲルの見るところ、財産と社会的
諸条件によって「複雑」パターンに位置づけられるようになった中国、すなわち伝統的に規制された農
地制度が廃止された秦朝以降の中国では、マルクス主義者によって通常そう理解されるのとは逆に、私
的土地所有は一般的に優勢となっていた(52)。しかしながらここでの私的所有とは、単純あるいは半複雑
水力社会においてそうであったように、けっして真に私的なものとして獲得されているわけではなかっ
た。「支配階級内における官職をもっている部分ともっていない部分(郷紳:gentry)との関係を大きく
変化させる地主制の拡大は、土地所有権の強化ないし土地所有者の独立的組織化に結果しなかった。私
的土地所有は、財政的、法律的、政治的観点から見れば、その誕生に際してそうであったように、伝統
的中国の最終的崩壊に際しても脆弱であった」(53)。このことは結局、商人のような中間グループの取引
から利益を引き出すにせよ、または官職地や名誉職地などの割当地から収入あるいは給与そのものを受
け取るにせよ、あらゆる統治階級内部の収入が政府の権力に根源を発していることを意味する。つまり
政府の公的収入であったものが、同時に官僚的私有財産ともなり得たのである(54)。ここで官僚は、けっ
して永久に職にあるわけではなく、場合によってはその受動的財産を積極的財産に変えることも必要と
なるがゆえに、最も贅沢を好む場合でさえその収入の一部を貯蓄し、その結果官僚的地主および/ある
いは官僚的資本家となる(55)。たしかに、こうした地主と官僚が重なり合っていたという例は、東洋にお
196
いてばかりでなく西洋の専制主義においても基本的には同じように見られた。だが東洋的社会の官僚地
主は、その政治権力を本質的に絶対主義政府から引き出していたという点で、西洋の専制主義における
それとは根本的に異なっている。というのも、封建以後のヨーロッパや日本では、貴族地主の有する土
地財産は私的レベルでの相続によっていかなる官僚も手をつけられなくなっており、水力社会でのよう
に土地収入のために政府の官職を保持する必要もなかったからである。したがって、ここで導かれる結
論は、次のような所有と権力をめぐる東洋と西洋との決定的な差異である。
「官僚的(東洋的)郷紳(gentry)の土地は、そのあるメンバーのために政府の官職につくことを助
け、かくして再度権力に近づくことを可能にしたのであろう。しかし本質的にこの土地は、収入を生
みだすだけの財産だった。それとは逆に、封建的(西洋的)ジェント リーは、国家権力から独立し、
時には公然とこれと衝突する組織された政治権力の永続性をもたらしていたのである。水力的(官僚
的その他の)財産には比肩できない方法で、収益を産みだす土地であることに付け加えて、封建財産
はきわだってかつ意味深長なことに権力を産みだす財産だったのである」(56)。
このように、中国において私的土地所有がかなりの程度認められていたという事実はウィット フォー
ゲルにとってはむしろ例外であり、大多数の水力社会においては専制権力が私的土地所有を従属的な地
位に押しとどめてきた。しかもその私有財産は、もともと統治階級内部から引き出されたものであるが
ゆえに、その保持者が財産に基礎をおいた組織と行動を通じて国家権力をコントロールするということ
はありえない。それはあくまでも、権力からもたらされた消極的な「収益財産」(revenue property)であ
り、けっしてそれへと結実する積極的な「権力財産」
(power property)ではなかったのである。つまり、
水力政府にとって私有財産を自らの設定したある限度以上に容認するということは、それが積極的な
「権力財産」へと質的に転換し、その既得権益としての「収益財産」を危険に曝すことを意味した。した
がって結局のところ、
「全ての水力社会において専制政体は、それが存在を許容した私的土地所有の自由
を制限する」(57)ことにならざるをえないのであり、ここでも根源的に問題にすべき自由とは、「専制の
反対物」でなく、むしろ国家によって許容され、与えられ、それによって専制権力そのものが補完され
るところの限定的自由と理解されたのである。
(3) 自由と専制権力
既述のように、
「自由と専制」という伝統的座標軸は、イギリス古典派経済学者らによるアジア的農村
共同体―東洋的専制主義論に貫かれた「進歩と停滞」という19世紀西欧的アジア観を経由することに
よって「進歩と専制」というもう一つの座標軸へと分岐したが、これに伴ってリベラリズム擁護の視点
は徐々に後景へと退いていくこととなった。その結果、アリストテレス的な「暗黙の同意」という視点
が再度蘇ってきたが、この下からの「暗黙の同意」の許容範囲を定めるのは依然として支配者の恣意で
あるとはいえ、より合理的かつ制度的には、純粋に財政的な理由によってその政治判断の基本的枠組が
与えられるとされた。すなわち、ウィットフォーゲルの見るところ、村落共同体がどの程度まで自治権
をもち、どの程度まで民主主義や自由を確保するのかを決めるのは、第一義的には支配者による恣意で
はなく、むしろ支配者による価値の権威的配分を方向付ける「行政収益逓減の法則」なのであった。こ
の法則に従えば、農業的機構国家の支配者は時々起きる蜂起の危険を冒さないためにも、大部分の個人
や若干の第二次的組織に一定の自由を与えなければならなかったのである。たしかに、20世紀の全体主
義国家において、収容所や強制キャンプの被収容者は時折グループで集って、気ままに語りあうことも
197
許されており、彼らの中には小さな監督的仕事を与えられることさえあった。しかしながら、それは単
に支配者側にとって、監督業務を必要以上に行うことが不必要な財政的コスト をかけることとなるた
め、それを避けるべく許容したというのにすぎない。つまり、その高いコスト を払わなければ自らの支
配の基盤が脅かされるならともかく、そうでないならば、むしろ一定の自由を与えた方がコストをかけ
ずに政治的安定を得られるという一石二鳥が可能になる。
「行政収益逓減の法則によれば、こうした『自
由』は十分ひきあうのである。人員を節約する一方で、それは指揮官やその護衛兵の権力をおびやかす
ものではないのである」(58)。I.バーリンが指摘したように、支配・統制の「範囲」のみが問題にされ、
そのよってきたる「源泉」が問題にされない限り、自由の概念は必ずしも専制主義と両立しないもので
はなく、例えば、
「デモクラシーが個々の市民から、他の形態の社会においてならもちえたかもしれぬ数
多くの自由を奪うものであるように、自由主義的な専制君主がその臣下にかなりの程度の個人的自由を
許すということもじゅうぶんに考えられる」(59)ことなのである。だが、その自由とは、国家権力の外的
強制から免れ、市民諸個人に権力の源泉があることを法的に保障した積極的自由とは結びついておら
ず、結局は下からの完全な自治権をもたらすことのない、つまり権力の源泉を市民諸個人の内には置か
ない「乞食の民主主義」の下で恩恵として国家によって与えられ、支配者の恣意によって制限された消
極的自由であったことはいうまでもない。
このようにウィットフォーゲルは、アジアにおける限定的自由の実像を行政収益逓減の法則によって
描き出すのに一応は成功したといえるかもしれない。だが彼は、専制主義の権力論を分析する際には、
ほとんど無意識のうちに「自由と専制」というヨーロッパの伝統的座標軸に立ち返ってしまっている。
つまりウィット フォーゲルは、アジアの、とりわけ彼の専門領域とする中国の具体的な歴史的過程にお
いて扱われた専制主義論によって自らの理論的営みを検証、相対化しておらず、その意味でアジアの内
側からその専制主義論を概念化する努力を怠っていた。例えば20世紀初頭、
「恐怖」
を媒介とするモンテ
スキューの専制主義論は、梁啓超においても君主政体と結びついた「君主専制政体」論として理解さ
れ、中国の現実そのものを浮き彫りにする政治理論として受け入れられていた(60)。そこでは君主が賢明
で民衆の要求にいち早く譲歩する場合、イギリスのような立憲君主制となり、専制の抑圧が強烈でしか
も民衆の要求に譲歩しない場合、フランスのように君主制が打倒され共和制が成立するとされた。だ
が、中国では専制に対する抵抗勢力としての貴族制を欠いた君主専制が長期的に持続してきたがゆえ
に、例えば陳天華らの革命派も旧守派の梁啓超と同様に共和制を究極目標としたものの、革命派がこの
君主専制を革命によって打倒し即座に共和制を実現すべきとしたのに対し、梁啓超はその中間に立憲君
主制を介在させつつ、開明専制をおこなうことの意義を強調するなかで革命よりも改革を主張したので
ある(61)。梁啓超によれば、ヨーロッパの君主専制政体が苛酷な圧政下の「直接の専制」であるのに対し
て、中国の君主専制は皇帝の下でのある意味で自由で平等な「間接の専制」であった。ウィットフォー
ゲルにおいて国家権力から自由な社会空間の創出が「行政収益逓減の法則」によって説明されたよう
に、孫文においても中国の君主専制体制は「人民が皇位を侵しさえしなければ、人民がなにをしよう
と、皇帝はいっこうにかまわなかった」(62)という相対的に「自由な」体制と理解されており、このこと
からも「間接の専制」が当時の中国で広く受け入れられたことが裏付けられる。だが、ここではヨー
ロッパの場合のように自由の実現のために共和制が求められたのでなく、「一皿のバラバラの砂」
(孫
文)である諸個人の過剰な自由を抑制しつつ、統一国家建設へ向けた民族全体の統合を実現すべく求め
られたのであり、その限りで専制主義批判はヨーロッパにおけるように「自由の反対物」への批判とし
ておこなわれたのではなかった。それゆえ、孫文による軍政、訓政、憲政という三段階からなる革命構
想 に お い て も、憲 政 へ と 至 る 過 渡 期 に お け る 開 明 専 制 と し て の 訓 政、す な わ ち 事 実 上 の 独 裁
198
(dictatorship)が正当化されたのである(63)。
したがって、仮にこうした温和な「間接の専制」が中国の現実により即していたとするならば、ウィッ
ト フォーゲルのいうテロルを基本原理とし、日常的に「自由に動き回る虎」としての専制主義とは、
ヨーロッパ的「直接の専制」との親和性が認められたとしても、中国の現実政治とのレリヴァンシーは
低いことになる。またウィット フォーゲルは、
「自由と専制」
というオリエンタリズム的な対立軸にとら
われすぎたために、アジア的なリベラル・デモクラシーとは必ずしも矛盾しない間接的専制の問題を軽
視してしまい、テロルという威嚇を背景にした恐怖が「思慮深い臣民を自分の狭い個人的、職業的営み
の世界に閉じ込めた」(64)とするいわば苛酷な専制=直接的専制をアジア的専制主義そのものと誤認し
てしまったのである。中国の専制主義は儒教によって和らげられ、人間性が与えられた(humanized)とす
るWm .T.ド バリーの指摘が正しいとすれば、ウィット フォーゲルはこうした儒教のもつ政治的機能を
見落としていたともいえる(65)。また自由との関連でいえば、この間接的専制は清末当時、ヨーロッパ的
な偏見と無縁でなかった専制
(despotism)の場合とは異なり、規範を喪失した個人主義が暴政(tyranny)
へ
と導かれる際の前提条件としても扱われていた(66)。これに対して、ヨーロッパにおいて市民的な自由の
対立物として扱われてきた専制概念は、中国では必ずしも無条件に自由の概念と対立するものと理解さ
れてきたわけではなかった。というのも、もともと中国における個の概念とは、私=エゴイズムと密接
に結びつけられてきたがゆえに一旦は否定されるべき対象であり、国家を私する皇帝の専制に対抗すべ
(溝口雄
き民権とは、「個々の民の私権いわゆる市民的権利ではなく、国民ないし民族全体の公権」(67)
三)だったからである。したがって、例えば陳天華が反専制の向こう側に自由を求めたとしても、それ
はヨーロッパ的な「個人の自由」とは厳密に区別された総体の自由としての「民族の自由」に他ならな
かった。つまり、アジア的なリベラル・デモクラシーとの関連でいえば、「進歩と専制」という座標軸の
中でデスポティズムの問題が語られるとき、そこで優先的かつポジティブに評価されたのは、専制に対
するデモクラシーであっても自由そのものではなかったのである。
おわりに
翻ってみれば、そもそも専制主義(despotism)の概念は、オリエンタリズムの一表現、あるいは東洋
(=非西洋)という「外部」の問題として始まり、中国の専制政治が十七世紀において啓蒙君主の典型と
して自由の腐敗せる専制政治の一亜種とみなされると、革命前のフランスの政治的対立を反映して、
ヨーロッパ「内部」の問題として変化していった。それは地理的なアジアと部分的に重なり合いなが
ら、しかし本来的には価値的なものとして使われてきたといえる。ホッブスがこの言葉に肯定的な意味
を持たせた以外に、それを必ずしも拒絶の対象とはしない正当な支配関係として扱うボダン、グロティ
ウス、プーフェンド ルフといった人々を除いて、その概念はむしろヨーロッパ人自らが享受する自由と
は対極にある概念として否定的意味合いで用いられたのである。たしかにその限りで専制主義とは、
「ヨーロッパにおける近代的自我意識の自覚過程においてその対置概念として設定されたものであり、
価値の基準を彼ら自身の世界であるヨーロッパに置くことにより、その価値基準に立脚して自己認識を
(西嶋定生)であるといえる。実
可能ならしめるための素材である反対概念として設定されたもの」(68)
際、ウィットフォーゲルがこれまで批判されてきた際の論拠も、こうした西欧中心主義的な範疇をアジ
アに無批判に当てはめることによって展開された地理的決定論やアジア的停滞論であるとするものが
多かった(69)。しかし、これまで見たところからも明らかなように、潅水という自然への働きかけによっ
199
て獲得された第二の自然が仮に「恒常的なもの」であったとしても、ウィット フォーゲルはそれに依存
する灌漑農業に移行することは「自由な選択」にかかわるとし、自然的条件によって国家や社会のあり
方が決定されるという地理的唯物論を慎重に退けていたのである。しかもこうした視点は、ヨーロッパ
において発達した社会科学を最大限に利用した結果得られたものであったとしても、かならずしも価値
基準をヨーロッパだけに置きつつ、アジアの外側から一方的に概念化されたことを意味していない。ま
たウィット フォーゲルは専制権力存立の基礎を直接自然に結び付けることはせず、それが社会的諸団体
や村落共同体という非政府勢力の存在を前提にしており、多様な社会的諸勢力による全体権力のチェッ
ク如何によってその性格も変化しうるという相対的かつ可変的な概念としてとらえていた。そのことは
また、動産と不動産、消極的財産と積極的財産とが織り成す単純、半複雑、複雑という発展段階論的社
会構成体論においても明示的に論じられており、ウィットフォーゲルは弱い所有権が支配的である水力
社会における唯一の例外を動産的積極的財産の領域に求め、これを積極的かつ独立的に使用する場合に
新たな階級形成が促進されるとし、一つの発展的契機を「停滞性」とは区別された「恒常性」の中に見
出していたのである。それは金観濤らによる「超安定システム論」のような、「不変性の点から安定を論
ずるのではなく、また、ただ単に何が事物の発展を遅らせ関係の不変性を保つのかを追求するのでもな
く、システム内部の各部分の間の相互調節、相互適応を明らかにするという角度からシステムの安定性
を考察する」(70)というアプローチにも近似している。こうした意味では、もっぱら政治学的カテゴリー
の内部でのみ専制概念を論じたアリスト テレスやモンテスキューとは異なり、ウィットフォーゲルが東
洋的専制権力の生成過程を自然条件と生産様式との相互関係、政治と経済との相関関係で描いたこと
は、アジア的政治社会論の新たな水準を切り開く上での一つの試みとして評価できる。だが、既述のよ
うにウィットフォーゲルは、アジアの具体的な歴史的過程の中で扱われてきた専制主義の実像を捉えき
れずに、テロルの恐怖が思慮深い臣民を狭い世界に閉じ込めたとする苛酷な専制=直接的専制をアジア
的専制主義そのものと誤認してしまった。つまり彼は、中国における専制政治論という現実政治として
有意な政体論については決定的に見誤り、その研究スタンスのもつポジティブな面の評価をすら貶めか
ねないオリエンタリズムの陥穽に足を掬われてしまったのである。
だが、このことは暴政
(tyranny)としての、あるいは独裁
(autocracy)としての専制主義のもつ一面をも
誤認していたことを意味するわけではけっしてない。トクヴィルが専制政治と僭主政治(暴政)とを混
同していたとするならば、ウィット フォーゲルは両者の峻別によって「制度的多様性」の明示化を試み
る過程で、現実の中国においては必ずしも自由や民主主義とは対立しない専制の概念をヨーロッパ的な
価値判断で把握するという過ちを犯したものの、暴政や独裁としての専制主義が「行政収益逓減の法
則」や様々な社会的諸勢力によって相対的かつ限定的に成立していることを正当に明らかにしたといえ
る。実際、ウィット フォーゲルは、
「東洋的世界の偉大な君主たちはほとんど例外なく“self‐rulers"―独
(agrarian despotism)が「中国の過
裁者(autocrats)
であった」とし(71)、また毛沢東による「農耕的専制」
去の偉大な専制的政権(despotic regimes)
に酷似している」(72)と指摘しているが、こうした中国の現実政
治が伝統的にもつ一側面は、例えばアメリカの中国研究では独裁政体(autocracy)としてとらえる試みの
中で、積極的な議論が繰り広げられている通りである(73)。この意味でウィット フォーゲルの東洋的専制
主義論は、アジアにおける具体的な現実政治の展開とあいまって、今後ともさらに追究されるべき内容
を含んでいることだけはたしかであろう。
200
注 (1)
M. Richter, “Despotism", in Dictionary of the History of Ideas(New York: Charles Scribner 's Sons,
1973).竹中浩訳「専制政治」
(『法、契約、権力』平凡社、1978年所収)を参照。
(2)
ここでいうアジアとは、
「そこに住む人々のなかから生まれ、自ら決定した地理的名称ではなく、あ
くまでヨーロッパ人が作り出した地球の区分によって与えられた空間の名称である」
(山室信一
『思想
課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企』、岩波書店、2001年、1頁)
。
(3)
アリストテレス(山本光雄訳)『政治学』
(岩波文庫、1961年)
、324‐25頁。
(4)
同 162‐63頁。
(5)
同 201頁。
(6)
前掲『法、契約、権力』、203頁。
(7)
松本礼二『トクヴィル研究』
(東京大学出版会、1992年)、54頁。
(8) K. A . Wittfogel, “Problems of Marxism ," Bernard W. Eissenstadt ed ., The Soviet Union: The
Seventies and Beyond(Lexington, Massachusetts, Toronto and London: Lexington Books, D.C.Health
and Company, 1975), p.30.
(9)
17世紀の啓蒙期以降、イギリスの東洋進出にともなって発展したアジアをめぐるイギリス経済学、
歴史法学については、島恭彦『東洋社会と西欧思想』
(筑摩書房、1989年)
、及び今堀誠二『東洋社会
経済史序説』
(柳原書店、1963年)
を参照。同じ学説発展のプロセスを東洋的専制主義の概念形成との
関連で論じたより詳細かつ包括的な研究としては、Marian Sawer , Marxism and the Asiatic Mode of
Production(The Hague:Martinus Nijhoff, 1977)
の第一章、"Prehistory of the Marxian Concept"を参照。
(10)
K.A.Wittfogel, Oriental Despotism(以下OD と略記), p.iii, K.A.ウィットフォーゲル(湯浅赳夫
訳)
『オリエンタル・デスポティズム』
(新評論、1991年)
、5頁。現代における専制主義が全体主義の
概念と密接に関連していることは、例えばE.カールトンによって以下のように説明されている。すな
わち、専制主義(despotism)
、僭主制/暴政(tyranny)、さらに全体主義
(totalitarianism)を包括している
のは独裁/専制(autocracy)
という概念であり、このautocracy(一人の支配)は近代的な意味での独裁
制
(dictatorship)
と大まかに同等なものとして扱われている。専制君主(despot)
とは、恣意的な支配に訴
える人物と関連しており、したがって専制主義
(despotism)とはそのリーダーシップのスタイルまたは
様式を指している言葉であるのに対して、tyrannyとは法に基づかずに権力を獲得し、保持するという
プロセスと結びついており、またポピュリスト的指導者らがしばしば正式な制裁なしで権力を奪取
し、支 配 し た 古 代 ギ リ シ ャ の 都 市 国 家 と の 関 連 が 深 い 言 葉 で あ る。こ れ に 対 し 全 体 主 義
(totalitarianism)
とは、政体の類型に関係しており、その政体を成立させている政党以外の政党も政治
的忠誠も許容しないことを意味し、しかも現代のテクノロジー社会こそが真正なる全体主義を可能に
する手段を有しているという意味で、過去に存在した他の社会への適用可否については議論の余地を
残す言葉である。
(Eric Carlton, Faces of Despotism, London:Scolar Press, 1995, p.10.)ウィットフォー
ゲル自身は、こうした明確な概念規定をおこなっているわけではないが、彼においても専制主義と全
体主義の概念は独裁
(autocracyまたはdictatorship)
の概念を媒介にしつつ、ほとんどの意味領域で指示
内容が重なっているという点で、このカールトンによる整理と大きく矛盾するものではない。
(11)
K.A.ウィットフォーゲル「マルクス主義における風土的契機の意義:風土政治学・地理的唯物論
並にマルクス主義
(続)
」坂田吉雄訳(『思想』
、103号、1930年12月)
、117頁。
(12)
同 119頁。
(13)
同 119‐20頁。
(14)
OD, p.12, 前掲『オリエンタル・デスポティズム』、33頁。
(15)
Ibid., p.11, 同 32頁。
(16)
Ibid., p.13, 同 35頁。なお、このウィットフォーゲルの自然と社会をめぐる議論については、拙稿
201
「K.ウィットフォーゲルにおける第二の自然」(
『明治大学教養論集』通巻367号、2003年1月所収)を
参照。
(17) OD., p.15. 同 36‐7頁。
(18) Ibid., p.16. 同 38頁。
(19) Ibid., p.13. 同 34頁。
(20) Ibid., p.18. 同 40頁。
(21) Ibid., p.12. 同 34頁。
(22) Ibid., p.33. 同 57‐8頁。
(23) Ibid., p.3. 同 21頁。同 78頁。ウィットフォーゲルがこの「水力社会」と「東洋的専制主義」とい
う言葉をほぼ重なり合った意味内容を示すものとして使用しているという事実は、彼が水力社会論を
東洋的専制主義論へと導くうえでの直接的な前提条件として扱っていることを伺わせている。たしか
にウィットフォーゲルは、自然の支配が社会の支配へ向い、とりわけそれが専制的パターンへと導か
れる条件とは一つの「機会」であって「必然性」ではないと強調しているが、ここで水が他の自然
的・社会的条件よりも根源的な初発の動因(アリストテレス)として扱われていることだけは否めな
いであろう。たが、E.カールトンも指摘するように、
「資源の制御」とは仮に一つの死活的に重要な
要因になったとしても、けっして唯一の要因にはなりえないのであり、例えば軍事的なものに対する
位階的な統制も専制主義を支えるうえでの重要な社会的要因になっていたとすれば、水という自然的
条件以外の要因も同様に重要性をもつことになる。また、ある一つのモデルが全体として有効であっ
たとしても、実際的な類型の個々の描写に際して、歴史的例外が生じることになるのはどうしても避
けられず、いわばここで一般理論は具体的事例からの批判にさらされることとなるが、ウィット
フォーゲルは自らの一般理論の擁護に熱心すぎる余り、こうした歴史的例外をもそこに押し込めよう
とするやや強引な敷衍化をおこなっているように思われる(Eric Carlton, op. cit., p.10)
。恐らく、そ
のことが典型的に示されているのが、水力社会を「中心」地域とした場合の「周辺」諸地域に対する
取り扱い、すなわち
「発生」
(genesis)
と
「伝播」
(spread)
との相互関係についての矛盾であろう。ウィッ
トフォーゲルによれば、例えばロシアに本来存在していなかった水力社会システムは13世紀、モンゴ
ルによるロシア侵略(タタールの軛)を契機にして中国からロシアに伝播し、一旦その政治・社会秩序
が導入されると、それ以後ロシアではそれに基づいて自らの専制システム(ツァーリズム)が築かれ
ていった(OD., p.161、邦訳182頁以下参照。なお、A.トインビーはまさにこの点を「証拠のない、た
いへんなこじつけだ」
と批判している。Cf. Arnold Toynbee,“Wittfogel's Oriental Despotism," American
Political Review, No. 52, 1958)
。このロシア的専制システムが、のちにスターリニズムに象徴される
ような全体主義的展開を見ることになるのはいうまでもない。だがここには、二つの異なった学的水
準、すなわち自然的基礎に一般理論の根拠を置く説明と、一つの文明が他の周辺文明に対して文化的
な影響を及ぼしうるとする文明論的な説明とが、一つの学説体系の中で取り扱われるという深刻な矛
盾を孕んでいる。その意味では、B.オーレアリが批判するように、自然的基礎と東洋的専制主義との
因果関係をめぐるウィットフォーゲルの議論は、仮に非決定論であるという本人の弁明を差し引いた
としても、
「せいぜい、誤った歴史的データに基づいた見せかけの相互関係
(spurious correlations)
であ
るか、最悪の場合には、これらのデータの選択的利用による産物にすぎない」
(Brendan O 'Leary, The
Asiatic Mode of Production:Oriental Despotism, Historical Materialism and Indian History, Oxford:Basil
Blackwell, 1989, p. 252)
といえるかもしれない。あるいは、この矛盾こそが水力社会や水力農業を基
礎にしなくても専制的なシステムは成り立ちうるという立論を可能にしているのだとすれば、逆に非
水力的な地域において、なぜ水力社会からの影響なしで専制的システムの発達が不可能なのかを説明
できないことになり、水力社会から非水力社会への「影響」という議論も論理的には無価値になって
しまうともいえる
(Barry Hindess and Paul Q. Hirst, Pre‐Capitalist Modes of Production, London:Routledge
202
& Kegan Paul, 1975, p.217)。しかしながら、中島健一の指摘するように、ウィットフォーゲルの水
力社会論にせよ、東洋的専制主義論にせよ、それは「新しく、研究史上の若い作業仮説」であり、か
つ灌漑農法が「発展の歴史的=地理的条件・諸因子の組合わせが地域的にさまざまである」ことを鑑
みれば、一般理論とは矛盾する具体例の「特殊性」を明らかにすることによって「鬼の首でも取った
ように」批判するのが妥当なことともいえないであろう。
(中島健一『灌漑農法と社会=政治体制』雄
山閣出版、1983年、185頁。
)逆に、とりわけ文化人類学の領域では、様々な実証研究によってウィッ
トフォーゲルによる仮説の有効性が確認されるというケースも数多く報告されており(加藤義喜『風
土と世界経済』、文真堂、1986年、130頁以下、及びG.L.ウルメン<亀井兎夢訳>
『評伝ウィットフォー
ゲル』
、新評論、1995年、703頁以下参照)
、この問題についてはさらなる実証研究とそれに基づく理論
の検証が俟たれるところである。
(24)
OD., p.49.
(25)
Ibid., p.85. 同 118頁。
(26)
Max Weber, Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie ――以下GAzRS と略記―― 1,(Tübingen:
J.C.B.Mohr, 1920), S.291. 木全徳雄訳『儒教と道教』
(創文社、1984年)
、18頁。
(27)
Ibid., S.294. 同 22頁。
(28)
Max Weber , Wirtschaft und Gesellschaft, Gründriss der verstehenden Soziologie(Tübingen: J.C .B .
、41頁。
Mohr, 1956), S.553. 世良晃四郎訳『支配の社会学』I(創文社、1986年)
(29)
OD, p.106. 前掲『オリエンタル・デスポティズム』
、145頁。
(30)
Ibid., p.106. 同 144頁。
(31)
Ibid., p.101. 同 139頁。
(32)
Ibid., pp.112‐13. 同 152頁。
(33)
Ibid., p.113. 同 153頁。
(34)
H.アーレント(大久保和郎・大島かおり訳)
『全体主義の起原』、
(3)「全体主義」(みすず書房、
1981年)
、283頁。
(35)
OD., p.108. 同 148頁
(36)
Ibid. 同。
(37)
Ibid. 同。
(38)
Ibid., p.149. 同 195頁。
(39)
Ibid., pp.150‐1. 同 197頁。
(40)
Ibid. 同 196頁。
(41)
Ibid., p.154. 同 201‐2頁。
(42)
ヘーゲル(武市健人訳)
『哲学史序論』
(岩波文庫、1967年)
、176頁。
(43)
OD, p.155. 前掲『オリエンタル・デスポティズム』
、202頁。
(44) Max Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, Grüntriss der verstehenden Soziologie,(Tübingen:J.C.B.
Mohr, 1956), S.592. 世良晃四郎訳、
『支配の社会学』
(創文社、1986年)、156‐57頁。
(45)
Ibid., S.598. 同 174頁。
(46)
OD, p.141. 前掲『オリエンタル・デスポティズム』
、 186頁。
(47)
Ibid., p.156. 同 204頁。
(48)
Ibid., p.228. 同 294頁。
(49)
Ibid. 同 295頁。
(50)
Ibid., p.230. 同 297頁。
(51)
Ibid. 同。
(52)
Ibid., p.290. 同 358頁。
203
(53) Ibid., p.293. 同 361頁。
(54) Ibid., p.297. 同 366頁。
(55) Ibid., p.298. 同 367頁。
(56) Ibid., p.300. 同 368頁。
(57) Ibid., p.271. 同 338頁。
(58) Ibid., p.126. 同 166頁。
(59) I.バーリン(小川晃一他訳)『自由論』
(みずず書房、1987年)、316頁。
(60) 佐藤慎一「近代中国の体制構想−専制の問題を中心に」
、溝口雄三他編『アジアから考える』、第五
巻「近代化像」
(東京大学出版会、1994年所収)
、229−32頁参照。
(61) 同 236‐37頁、及び横山宏章『中華民国史―専制と民主の研究』
(三一書房、1996年)、19‐22頁を参
照。
(62) 孫文「民権主義」、
『孫文選集』
(社会思想社、1985年)、第一巻所収、157‐58頁。
(63) 猪木正道によれば、独裁
(dictatorship)と専制(autocracy)はしばしばデスポティズム
(恣意的な暴政)
という概念のもとで混同され、プロレタリア独裁やファシズム独裁などと一括するような権力規定が
行なわれるが、それは誤りである。独裁とは、主として権力の集中に力点を置いた概念であり、それ
自体としては権力の内容や階級的内容を含んでいないのに対して、専制は特定の個人や階級あるいは
政党などの単独支配を意味する概念であり、権力を無限にしかも恣意的に運用する支配形態である。
したがって、専制はつねに独裁、つまり権力の集中を伴なうが、独裁は必ずしもつねに専制に導かれ
るとは限らず、また専制がデモクラシーとは両立しない概念であるのに対して、プロレタリア独裁や
人民民主主義という政治形態に見られるように、独裁は必ずしもデモクラシーと対立する概念ではな
い。ここで両者を別けるメルクマールとなるのは、一定期間にだけ当てはまる「具体的例外性」の有
無、つまり「自分自身を無用にすることを目的とする」か否かである。この自己権力の否定という目
的がある限りにおいてプロレタリアートの独裁はdictatorshipとしての独裁だが、それを目的としない
ファシズムの独裁はautocracyとしての独裁=専制であることになる。
(
「独裁」、
『政治学事典』、平凡
社、1954年参照。
)この概念規定によれば、孫文による開明専制や毛沢東による人民民主主義も、
dictatorshipとしての独裁であると理解すべきだが、中国語でも専制と独裁はきわめて類似した概念で
あ る こ と か ら、実 際 に は 混 同 さ れ る こ と が 多 い。デ モ ク ラ シ ー と 対 立 し な い 独 裁 が「専 政
(zhuanzheng)
」であるのに対し、それと対立する場合は日本語と同じ「独裁
(ducai)」であるが、デス
ポティズムの場合はこれらとは区別されつつも、日本語と同じ「専制
(zhuanzhi)
」という言葉が充てら
れている。具体的にいえば、プロレタリアートの独裁が「無産階級専政」である一方、ファシズムの
独裁は「法西斯主義独裁」であるが、他方で旧ヨーロッパの「専制君主」もウィット フォーゲルの
「東方専制主義
(東洋的専制主義)
」も日本語と同じ「専制」であり、ここでは内容の異なる三つの意味
が一応区別されている。しかし、例えば毛沢東は、
「人民民主主義専政
(原語のまま)
を論ずる」
(1949
年)
と題する論文の中で、
「人民民主主義=独裁」であるとする西側の批判に対して、次のように述べ
ている。「
『君たちは独裁(原語のまま)だ』
。愛すべき先生方よ、仰る通りである、われわれはまさに
そうなのだ。中国人民が数十年の間に積んだ一切の経験が、われわれに人民民主主義独裁(原語のま
ま)―それは人民民主主義専政
(原語のまま)ともいう―を実行させるのだが、要するに同じことで、
つまり反動派の発言権を奪い、人民にだけに発言権を与えるということなのである」
(
『毛沢東選集』
第四巻、人民出版社、1960年、1412頁)
。ここでは、
「独裁」と「専政」とが混同されているというよ
りも、両者を区別しつつも、あえて「専政」を「独裁」の概念で理解しようという政治的意図が表れ
ている。また、 小平がアメリカの労組代表との会見で「プロレタリアートの独裁」について言及し
た際には、
「私はかつてフランスに滞在したことがあり、西側が『専政(原語のまま)』を受け入れが
たいことは良く知っている。だが、いかなる国も専政
(原語のまま)の職能を有するものである」
(
「会
204
見美国汽車工会代表団和美国工会領導人訪問華団的談話」
、1985年4月24日)と述べており、ここでは
デモクラシーとは対立しない人民民主主義の「専政」
(独裁=権力の集中)概念と、自由と対立する暴
政としての「専制」概念が混同されているフシがある。だが、これらの事例は、中国における専政/
独裁(dictatorship)と専制/独裁(autocracyあるいはdespotism)との互換可能性を示唆しているともい
える。とはいえ、現代的なデスポティズム権力の「機能」との関連でいえば、その根本的問題は猪木
も指摘するように、
「ヒトラー独裁やスターリン独裁が、単なる独裁(権力の集中)でなくて、tyrannyに
転化していたことを意味するのか、それとも、今日の独裁概念がtyrannyの要素を含まねばならないこ
とを示すのか」(猪木正道『独裁の政治思想』創文社、1984年、12頁)にあるし、またその権力の「目
的」との関連でいえば、既述のように一定期間内で例外的に限定された権力の自己否定という目的が
存在しなければ(あるいは実質的にその目的の実現が担保されていなければ)、dictatorshipは容易に
autocracyに転化しうるという点にあるといえる。ちなみに、ウィットフォーゲルが『東洋的専制主
義』で問題としたのも、まさにこうした意味でのtyranny及びautocracyとしての専制なのであり、その
限りでウィット フォーゲルの専制主義論の意味を問うことは今日においてもなお意義があるといえ
よう。
(64)
OD., p.156. 同 204頁。
(65) W. T. De Bary, “Chinese Despotism and the Confucian Ideal: A Seventeenth‐century View," John
Fairbank ed., Chinese Thought and Institutions(Chicago and London: The University of Chicago Press,
1957), p. 164.
(66)
前掲『アジアから考える』
、237頁。
(67)
溝口雄三『中国における公と私』
(研文出版、1995年)
、34頁。
(68)
西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造』
(東京大学出版会、1961年)、49頁。
(69)
こうした立場からの批判としては、フェレンツ・テーケイ
(本田喜代治編訳)
『アジア的生産様式の
(岩波書店、1967年)
、9頁、ロジェ・ガロディ
(野原四郎訳)
『現代中国とマルクス主義』
(大修
問題』
館書店、1970年)
、19頁、呉大 「従広義政治経済学看歴史上的亜細亜生産方式」、
『中国史研究』
(1981
年第3期)
、28頁などを参照。
(70)
金観濤・劉青峰(若林正丈・村田雄二郎訳)
『中国社会の超安定システム――「大一統」のメカニズ
ム』、10頁。
(71)
OD, p.107. 前掲『オリエンタル・デスポティズム』
、146頁。
(72)
Ibid., p.441. 同 551頁。
(73)
例えば最近の研究では、Anita M. Andrew and John A. Rapp, Autocracy and China 's Rebel Founding
Emperors: Comparing Chairman Mao and Ming Taizu ( Lanham , Boulder , New York , Oxford:
Rowman & Littlefield Publishers , 2000 )や Zhengyuan Fu , Autocratic Tradition and Chinese Politics
(Cambridge: Cambridge University Press, 1993)などがある。ちなみに毛沢東は、人民公社化という社
会主義的集団化(=全体主義化)を推し進めていた1957年、党内の反対を押し切って、大規模な水利
建設運動に乗り出し、広域にわたる大衆動員を「上から」の指導によって強行しているが(小林弘二
『二十世紀の農民革命と共産主義運動』
、勁草書房、1997年、334頁以下参照)、こうした歴史的事実も
ウィットフォーゲルの東洋的専制主義論を考える上で示唆的であろう。
205
書評:福田有広・谷口将紀編
『デモクラシーの政治学』を読む
(1)
半澤 孝麿 Ⅰ 全体的構成について
この本を手にした時、最初の印象は、かつての福田歓一先生還暦記念論文集『民主主義思想の源流』
との強い対照であった(2)。この対照は、一つには外的または形式的なものであるが、同時に実質的なも
のでもあり、その二つは切り離せないと思われるので、そこから話しを始めたい。まず、外的な違いに
ついて言えば、『民主主義思想の源流』(以下『源流』と略称)
は、出版こそ1986年だが、計画されたのは
その数年前であり、今回の『デモクラシーの政治学』との間には二十年間の隔たりがある。また、
『源
流』の執筆者は、すべて西洋政治思想史の専攻者であったが、しかし、執筆者が全員集合して研究会を
組織することも、統一テーマを設定することもなかった。結果として『源流』は、各執筆者がそれぞれ
自分がその時に取り組んでいた問題に集中したモノグラフの集積となった。そこで扱われた主題は、
ホッブズ、ロック、ルソー、カント 、ト クヴィルというように、各人が従来から考え続けてきた問題で
ある場合も、また、リプシウス、フォン・モーザー、コウルリッジ等のように、従来は論じられなかっ
た主題である場合もあった。そして、
『源流』はその最後に、特別寄稿として、東京大学政治学研究会に
おける先生の最後の研究報告「日本における政治学史研究」を改稿されたものを頂いた。
このように、
『源流』
は、一見統一を欠いた構成のようであるが、しかし、今にして思えば、そうした
構成の背後には、私たち執筆者の間に、そこで自分たちは何をなすべきかについて、暗黙裡ではあって
も、少なくとも二つの共通諒解があったと言ってよい。その一つは、ヨーロッパ政治思想史(学史)研究
の世界には、たとえ取り上げる思想家がホッブズやロックやルソーといった、既に古典としての地位が
確立した対象の場合においてすら、いわんや新しい主題については当然、なお問題として未知の領域、
あるいは開拓すべきフロンティアがあるはずであり、それを追求するのが自分たちにとって喫緊の課題
だ、という諒解である。これに対して、今回の『デモクラシーの政治学』の、問題別の構成、あるいは
寄稿された論文の内容を見ると、全体としての方向性は、未知の問題というよりは、すでに十分に(ある
いはあまりにも)複雑化している既知の諸問題について、それぞれ整理していこうとするところにある
のではないかと感じられる。それはそれで、研究史の現在の時点で必然的なものだということは理解で
きるつもりではあるが、同時に、私は、この二十年間の時間が政治学研究にもたらした変化と、その意
味について考えずにはいられない。もちろん、今回の執筆者は思想史研究者だけではないから、ここに
見られる構成は、あるいは執筆者の数の多さ――したがって、一人に許容されるスペースの狭さ――
と、専攻領域の多様性という条件を考慮した結果であるかもしれない。その間の事情について私は何も
知らないし、それを考慮に入れずに、『源流』と比較するのはフェアではないかもしれない。しかし、
『源流』と対応するはずの第一部「政治思潮の歴史的展開」
、第二部「政治哲学の基礎概念」とだけ比較
しても、両者の方向性の実質的差異は明らかである。
私たち『源流』執筆者の共通諒解のその二は、主題についてである。私自身、当時どれほど意識して
いたか定かではないが、少なくとも今から振り返ってみると、
『源流』においては、統一テーマの設定が
なされなかったにもかかわらず、その底を流れる一貫した主題の意識があったと思う。それは、多少奇
207
妙な表現かもしれないが、
「総体としての権力」とでも言うべき問題であった。また、そこでの「権力」
の一義的イメージは、政治、とりわけ国家の最大の特質としての強制装置(暴力装置)であった。
『源流』
の諸論文は、それぞれの対象について、この意味での権力の正当化の論理や、制度論や、権力のエコノ
ミーも含めてその技術論や、
(また、執筆者のいずれもが西洋政治思想史の研究者であったことと対応し
て)キリスト教との関係等に関心を集中した。ここでイメージされている「権力」とは、必ずしも「政
府」という言葉と置き換えることのできない、その意味で、「総体としての権力」である(3)。そして、
こうした共通理解の背後には、中世すなわち自然秩序、近代すなわち作為秩序という、丸山真男先生以
来の近代政治観(または国家観)が控えていた。もちろん、それは、近代日本におけるデモクラティック
な作為秩序の未成熟という認識と裏腹でもあった。それは、言うなれば、圧倒的な強さを誇る近代国家
権力に対して、それを、社会の側から見る、あるいは、社会の側からその再構成を模索する視点でも
あった(ただし、現在の地点に立って、私自身は、この近代政治モデルは歴史認識としては維持しがた
い、あるいは、少なくとも半真理と考えなければならない、という判断に傾いているが、ここはそれに
ついて語る場ではない)。
これに対して、今回の『デモクラシーの政治学』においても、もちろん、暴力装置としての国家の問
題が無視されているのではないし、実際、たとえば第二部の「政治」の項目は、まさにそれと四つに組
んで書かれているが、他方で、
「デモクラシーを――とりわけ権力との関わりにおいて――いかに理解す
べきか」(はしがき)という取り組みを掲げながら同時に、「権力」という項目は意図して外された、と
「あとがき」に書かれている。「権威」という言葉も取り上げられていない。そして、(同じ第二部では)
「共同体」、
「集団」という項目が立てられている。私の誤解でないとすれば、ここでは、「権力」の問題
は「政府」の問題に集約されているかに見える。実際、「はしがき」では、デモクラシーにおいてはその
「政府の活動」にどのようなアクターがどのような場で関わるか、という問題を立てたと述べられてい
る。これは、ネオ・コーポラティズム風の言葉と読める。『源流』が、仮に問題別構成を取ったとして
も、当然のことながら、こうした構成にも内容にもならなかっただろう。それを、政治学という学問世
界における知的ファッションの変化と言ってしまえばそれでオシマイだが、そこにはそれ以上の問題が
含まれているように思われてならない。今回の書物の構成を見て、あるいは、
「政治学上の主要な概念を
検討することで、デモクラシーについて考えようとする」という「はしがき」の言葉を見て、再び私の
誤解でないとすれば、ここにはどこか、政治学をある種自己完結的な体系とするイメージがあるのでは
ないかと感じられて、はたしてそれでよいのだろうか、もしそうでないとすれば、そもそもこうした構
成の理由は何だろうか、と戸惑うわけである。第一部について見ても、そこでは、デモクラシーと深く
関わるはずの、conventionalではあるが重要なテーマである、たとえば「功利主義」、宗教と政治の問題な
どは外されている。また、二十年前と比較して新しい、そして、依然きわめて論争的ではあるかもしれ
ないがある意味では普遍性の強いはずの、genderやgreenの政治思想は触れられていない。もちろん、こ
れはあくまでも全体的印象である。他方で、再び第二部を見ると、「歴史」や「科学」といった、そこで
のそれ以外のテーマとは若干性質の異なる問題も取り上げられており、しかも、「歴史」(鏑木政彦)
は、ここで述べた一般的印象にはとても収まりきらない(4)。だが、そうだとすると、今度は第一部と第
二部の区別または関連はどういうことなのか、という疑問が頭をよぎる。もちろん、書かれたことにつ
いてではなく書かれなかったことについて問題にするのはフェアではない、ということは承知している
つもりであるが、やはり気になる。と言うのは、第三部まで視野に入れると、ここではデモクラシー論
についてある種の分節化が認められ、それはそれで進歩であるのかもしれないが、分節の方向によって
は、
スコラ化の危険と、
したがってまた、逆にオッカムの剃刀の必要も出てくるかもしれないからである。
208
Ⅱ 内容について
以下、内容に進みたいが、これについては、明らかに私の個人的能力が制約となって、どうしても第
一部と第二部(とくに第一部)が中心とならざるをえないし、その場合ですら適切な発言が必ずしもで
きないこと、したがって、個々の執筆者には不本意な、あるいは失礼なことを申し上げるかもしれない
が、お許し頂きたい。私も、すでに半世紀近くを政治学研究の世界に身を置いてきたが、その中で私自
身の個人的関心は、1961年の丸山先生の言葉を借りて言えば、「政治学という専門科学の一つのジャン
ル」としての学説史または教義史であるよりは、むしろ、「学問の独立の分野としての思想史」の一部と
いう意味での、いわば広義の政治思想史またはintellectual historyにあり続けた(5)。私は、ケンブリッジ
発の政治思想史方法論論争には強くコミットした。しかし、過去半世紀、さまざまの政治理論が主とし
てアングロ・アメリカの世界から来ては去っても
(その状況は今も継続しているようであるが)
、それら
の理論についての日本国内での論議には私は自ら加わることはしてこなかった。その意味では、デモク
ラシーについて考えるために政治学上の主要な概念を検討する、という今回の書物の評者としては私は
不適任のはずであるが、何はともあれ報告者の義務は果さなければならない。
さて、先に引用した「はしがき」の文章の後に、次の文章が続いている。「それは決して、複数の詳細
図をつぎ合わせて俯瞰図を一枚集成しようという試みではない。むしろ、いくつかの観測地点に、確固
たる視角を配置しようというのである」。この文章後半の比喩の意味は必ずしもよく分からないが、前半
について言えば、
(言葉尻を捉えるようだが)詳細図をつなぎ合わせても俯瞰図はできないのではないだ
ろうか。両者は、たとえ資料は同じであっても、異なる技法を要求するはずである。そして、第一部の
執筆者の方々は、そのことをよく分かっていて、実はそれぞれ最初から俯瞰図を作成するという、最も
困難な作業を引き受けられたと見える。
「・・主義」という項目で議論する以上、当然そうならざるをえ
ないわけである。因みに私自身、一般的には、
「・・主義」という言葉は、私の側で最初から意味を限定
して仮説的な分析概念として使う場合、または、
「功利主義」者とか、一部の「ロマン主義」者のよう
に、対象とする思想家がそう自称する場合、この二つを除いては、記述概念としては使用しないことに
している。理由は単純で、そもそも思想とは、
「・・主義」一般としてではなく、個々の言説としてしか
存在しないからである(ただし、これは一般原則であって、今回取り上げられている「全体主義」のよ
うに、そう呼ばれる現象の輪郭が比較的ハッキリしている場合、またはルーズな形容詞として用いる場
合は別である)。とすれば、とりわけ「自由主義」のように、ヨーロッパ人の一般的自己意識と言っても
よいほどの言葉の意味に、ほとんど無限の多様性があるのは当然である。より限定的かもしれないが、
同じことは「保守主義」についても言えるだろう。こう考えると、冒頭を飾る「自由主義」(升信夫)の
項目の執筆は、本当に困難ではなかったかと推察する。引用する。
自由主義についての諸類型は枚挙にいとまがない。・・・自由主義についてこのような多様な解釈
が成り立つ理由の一つとして、自由主義的な制度や思想が過去に静止したものではなく、現在も変化
しているということを挙げることができる。現在の自由主義像がその姿を変えれば、過去に求められ
るその淵源も変化せざるをえない。現在の自由主義をどのように捉えたいのかにより、自由主義観念
の生成過程を辿る作業は規定され、恣意性を原理的に払拭することができない(3−4頁)。
まさにそのとおりだと思う(しかしまた、本当にそう言い切ってよいのだろうかとも思う。この点に
ついては後に触れる)。だが、他方でこの論文は、自由主義の概念を17世紀に持ち込むことには批判的
209
で、むしろ「18世紀末の浮動化状況、特にフランス革命の過程で迫られた選択への対応が、急進主義
(社会主義)、自由主義、保守主義の「起点」となった」としている(7頁)。これは、自由主義を新興ブ
ルジョアジーのイデオロギーとする、以前からの一般的見方の継承と思われる。そして(いきなり結論部
分に飛んで恐縮だが)
、時代の進行とともに、それら三つの分界線は次第にぼやけていき、今日では、
「結果として分節の軸は崩れ、自由主義は自己同一性を見失いつつある」と結ばれている(14頁)。とこ
ろでこの論文のこうした構成あるいは判断は、次の「保守主義」(宇野重規)にもほとんどそのまま、パ
ラレルに現れていて、私にはこれはきわめて印象的であった。もちろん、両者がまったく同じなのでは
なく、自由主義の起源について慎重な升論文と異なって、宇野論文では保守主義の起源の問題は、明快
に答えられている。そして、保守主義の理論の形成史がバーク、ド ・メストル、トクヴィルと辿られる
が、二十世紀に入ると、と言うよりはそれ以前から、保守主義と自由主義とは接近し、両者の区別は次
第に曖昧になって行き、そして、時代の進行とともにその「思想的展開にも乏し」くなり(30頁)、1970
年代にアメリカで若干の回復はあったものの、今や、
「保守主義のアイデンティティのゆらぎ」が生じて
いる、それは「近代の自己意識のゆらぎと表裏一体である」と結ばれている(34頁)
。保守主義の歴史的
展開の捉え方といい、叙述の進行のさせ方といい、升論文とよく似ている。ただし、宇野論文について
は、私には納得できない点がいくつかある。たとえばこう書かれている。
保守主義は、フランス革命以後のダイナミックな歴史の展開に、自覚的に対応しようとするもので
ある。すなわち保守主義は、何らかの保守すべき価値が危機にさらされているという歴史認識を前提
に、それらの価値を積極的に選択し、保守しようとする。この高度の自覚性こそが、保守主義の近代
性の現れなのである(20頁)
。
確かに当時のド イツ旧支配層の反応について、マンハイムが『保守主義』の中でそのようなことを
言ってはいるが、『イデオロギーとユートピア』では彼はまた違った言い方もしている。しかし(マンハ
イムはさて措き)、歴史上そうした状況や反応はしばしばあったのであって、「高度な自己反省的性格」
なるものを、保守主義の専売特許あるいはその「近代性」の現れとするのは、論証不足と思われる。ま
た、この文章で「保守主義」という抽象的概念が主語になっているのも気になる点である(この問題に
ついても後に述べる)。
このようなことを言うのは、別に細部の議論をあげつらうためではない。私が言いたいのは、この二
つの論文だけではなく、続く諸項目においても、そこに、日本におけるヨーロッパ政治思想史研究の困
難が、ハッキリと姿を現していると見えるということである(升論文と宇野論文は例示とさせて頂い
た。他意はない)
。さて、私から見てその困難とは、必ずしも語学上の問題でも資料探索の問題でもない
(これらについては、私より後の世代は従来よりもはるかに巧みにこなしていると思う)。本当の困難
は、日本におけるヨーロッパ政治思想史研究は、対象をヨーロッパに取るだけではなく、それと同時
に、実は分析の道具である概念やモデルまでも事実上そこから借りて来ざるをえない、というところに
あるのではないだろうか。これは、日本における従来のド イツ観念論研究者の多くが、たとえばカント
を説明するためにカント の言葉を借りるのが常であったという問題と、若干違うが、しかしどこか似て
いる。この場合、すでに十分カントを知っているのでない限り、私も含めて普通の読み手には、それで
はカント のことはサッパリ分からせてもらえない。この事情は、
「自由主義」
、「保守主義」だけはなく、
「共和主義」
(福田有広)、また、思想史そのものを主題としてはいるわけではないが、第二部での「自
由」
(川出良枝)、
「平等」
(飯田文雄)、
「共同体」
(辻康夫)、
「集団」
(早川誠)、さらに、日本を主たる分
210
析対象とした「政党」
(飯尾潤)、「マス・メディア」(谷口将紀)の二篇を除く、第三部の「参加」(福元
健太郎)、「市場」(内山融)、
「リーダーシップ」(豊永郁子)いずれの論文についても見出すことができ
るように思われる(「全体主義」(川崎修)
、「政治」
(杉田敦)についてはやや異なる印象を持った)。問
題は次のところにあるのではないだろうか。すなわち、アングロ・アメリカも含めてヨーロッパで研究
者の誰かがこれらの主義について語るとき、その表現がどれほど客観的歴史叙述の形を取ろうとも、同
時に彼/彼女は、端的に自己意識または歴史的自己認識を語っている。日本における日本政治思想史研究
と同じく、ヨーロッパにおけるヨーロッパ政治思想研究は本来そのようなものだと思う。そこで問題
は、この事実を、日本にいて私たちはどう処理すべきか、というところにあるのではないだろうか。先
ほど引用した升論文の一節(とくに最後のセンテンス)は、そのことについて問題の本質に触れてい
る。私の手元に、知己になったオランダの若い研究者(Marcel Wissenburg)から送られてきたGreen
Liberalism(UCL Press 1998)という本がある(これはA .Dobsonが激賞しているし、すでにご存じの方
もあるかもしれない)。そこで彼は、greenの思想とliberalismとが従来は相容れない考え方であったことを
歴史的に辿りながら、その二つの両立に賭けようと、懸命の理論的思索を展開している。これを前にし
て私が感じるのは、彼にとって、たんに自由な社会一般ではなく、特定の人間論を前提にした特定の政
治的教義としての自由主義が、greenの問題と等しく、自己の実存と厳しく関わっているということであ
る。だが(升論文の言葉にあえて疑義を呈するとすれば)、そうした問題の立て方を、「恣意性」の一言
で処理してよいものだろうか。
私たちは、デモクラシーであれ何であれ、ヨーロッパ発の政治思想・理論を研究するとき、どこまで
ヨーロッパ製の概念やモデルを借りなければならないのだろうか。この問題について、当たり前のこと
かもしれないが私は、それは不可避である、ただし、それらの使い方までそのまま借りてはならないと
思う。私たちがヨーロッパ、とくに〈近代〉の研究を進めて行く場合、対象の一次・二次情報に対する
態度として、究極の選択肢は二つあり、また、それしかない。一つは、ヨーロッパで誰かが論じた問題
を、文字通り、そのまま自分の問題とすることである。いま一つは、
(たとえ現在進行形で論じられてい
る理論問題であっても)それを徹底的に、広い意味で歴史的研究の対象とすることである。日本におい
て書かれているヨーロッパ政治思想研究のほとんどが、この二つの態度の曖昧な混同の形態を取ってい
て、学界では、長い間それが学術研究として正統的とされてきた、と思われる節すらある。だが、この
二つは、対象へのアプローチの態度においてまったくといってよいほど異なり、そして、本質的には、
両者の間に中間項はないのではないだろうか。まず、第一の方法について言えば、
(これを純粋な形で実
行することは事実上ほとんど不可能であろうが)ここでは、研究者は、少なくとも観念的には自分を
ヨーロッパ人(正確にはその誰か)に100%同化させなければならない。それだけが、生活体験や人間観
すべての合成としてのcultureの差異を乗り越えるための唯一の方法だからである。しかし、実際にはそ
れは不可能だから、現実の結果としては、cultureの差異を必ずしも自覚しないままに、誰かの研究枠組
や概念を借り、そのために弁じ、時にはそのための代理戦争に乗り出すことになる(日本で、政治学者
または政治思想史研究者が自由やデモクラシーを論ずるとき、もちろん私も含めて、この陥穽にはまっ
ていないと誰が自信を持って言えるだろうか)(6)。しかし、そうしたことを、発信元にされたヨーロッ
パの学界ではまったくと言ってよいほど知らないし、仮に知ったとしても、それで彼らの言説が影響さ
れることはない。これは、本質的に、政治思想研究における国際性とはどこまで、いかなる意味で成立
するのかという問題である。日本のヨーロッパ政治思想研究からも学ぼうとするJohn Dunnはその点で
まったくの例外だと思う。
そこで、もしそうした事態を望まないのであれば、第二の方法――徹底した歴史化の方法――を取ら
211
なければならないが、そのためには、対象についての一次情報を集めるのはもちろん、とくに二次情報
(つまり、ヨーロッパにおける研究)について、まず、そこから、当該研究者の個人的信条や状況による
バイアスを可能な限り除き、しかも、同時にその言明のreliabilityを徹底的に検討しなければならない。
これはどんな場合にも当然と言えば当然だが、最近、名の知れた研究者の場合であっても、その歴史的
知識のreliabilityに疑問を感ずることが時にあるので、ここでとくに発言しておきたい(7)。もちろん、問
題はそれだけでは済まない。私は(こう言うのも、結局私は、研究上、自分では基礎の基礎と考えてい
ることを語るほかないからであるが)、デモクラシーも含めて、「・・主義」、または「自由」
、「平等」な
ど一般的な概念を使用する際に一番必要なことは、
〈自分〉は、その言葉をどのような意味と文脈で、ま
た抽象のどのレヴェルで使っているのか、執拗に自分に問い続けることではないかと思う(この作業
は、モノグラフを書く場合にも当然要請されるはずである)
。経験的に言えば、私は、「・・主義」とい
う一般的概念を理解し、使おうとするとき、当該の「・・主義」は、最初は一人の思想家によって抱か
れたかのように想定し、そのようなものとしてその分解作業を進める。その作業の過程で私が気付くの
は、たとえ実際上は特定の一人の思想家の言説を相手にしているときですら、私の眼の前では、一つの
総体としてのその思想家の姿は一度背景に退き、彼/彼女は、その思想を構成するさまざまな教義や論理
――この中にはその心理や動機が組み込まれている――の複合体として姿を現してくる、ということで
ある。こうして私は「・・主義」という言葉を、一つの操作的な、または仮説的な概念に変換する。そ
の時、その「・・主義」という言葉は、一つの普遍性を持った概念となるので、その適用対象は、あら
ゆる時代と社会に見出されるはずである。とすると、ある思想に、ア・プリオリに近代性あるいは前近
代性を帰することは許されなくなる。と言うより、近代とか前近代とかいう言葉は、こうした作業の後
に初めて、帰納的に姿を現すべきものだと思う。もちろん、この作業の全過程を通じて、私は、最終的
には自分の直観に頼らざるをえないし、主たる対象がヨーロッパである限り、ヨーロッパ製の概念やモ
デル、いやイデオロギーからすら、完全に解放されることはないだろう。にもかかわらず、こうした手
続きは、ヨーロッパの理論を借りる限りは、ヨーロッパ以外の(たとえば日本のデモクラシー)を論じ
ようとする時にも、やはり取らねばならないものではないだろうか。そして、この手続きを経ることに
よって初めて、ヨーロッパ政治理論を、culture loadedなままに受け入れたり使用したりすることを、少
しは避けられるのではないだろうか。
以上、内容についても、結局は私の経験からする一般的な印象を述べることになってしまった。最後
に、以上のようなことを考えながら読んだ中で、升・宇野論文の他、私にとって比較的に分かりやす
かったものとして、
「共和主義」、
「全体主義」
、
「政治」について一言ずつ述べて終わりにしたい。先に挙
げたその他の項目の論文は、それぞれ問題を再構成して行こうとする志向は十分理解できたが、今述べ
た一般論の適用以上に、具体的にそれらの問題に入って行く余裕も、立場にもない(「科学」
( 田真
司)についても同様である)。
まず、「共和主義」について。マキアヴェリのordiniと、ハリントンのorderの概念が、それぞれたんに
抽象的ではない、具体的な制度の内容を含んだ上での原理または原則だということはよく分かったが、
それとimperio、あるいはempireとの関係については、私の理解は未だ覚束ないところがある。そこで、
それは別として、「結び」で短く述べられている、共和主義対デモクラシーの問題について一言すれば、
これは、正確にはrepublicanism対pure(absolute)democracyの問題という、アメリカ独立期の特殊問題―
―それも前者の立場からする対比――なのではないだろうか。同じ時期、イングランド には、この二つ
をほとんど同義語とする語法もあった。すると、(これはロック解釈の問題かもしれないが)ロックは
pure democracyの立場なのか、もしそうではないとすれば、そのdemocracyとはどういう意味なのだろう
212
か。
「モナルコマキとロックはdemocracyに、マキアヴェリとハリント ンはrepublicへと割り振って考え
る」と言うとき(50頁)
、アメリカでのイデオロギー論議に取り込まれる危険はないだろうか。
次に「全体主義」について。周到に目配りされたこの論文からは多くを教えられた。考えて見れば
(もちろん川崎氏には最初から分かっているはずだが)、他の「主義」と異なって、おそらく「全体主義
者」は存在しないだろう。にもかかわらず、本来分析概念であるはずのこの言葉についての論争もまた
イデオロギー論争であって、「不毛な政治的対立をも助長してきた」
、というのは意味深い指摘だと思
う。
「ポレミックの「戦線」が移動すれば、概念の意味内容もまた変化する」と書かれていて(75頁)
、
これもまた升論文と共通の判断と見える。だが、検証さえシッカリしていれば、だからと言って、少な
くとも歴史の近い将来の間「全体主義」は「学問上の操作的な概念とはなりえまい」(86頁)、つまり分
析概念としては使えない、と結論する必要は必ずしもないのではないだろうか。私は以前から素朴に、
たとえばカルヴァンのジュネーヴ支配は、全体主義として最も適切に記述できるのではないかと考えて
きたので、あえてこう言ってみるわけである(8)。
最後に「政治」について。実は、私も日頃同じような線で〈政治〉を考えてきたので、政治の問題を
「境界線」boundaryの問題として論じているこの論文には最も素朴に共感できた。ただ、その文脈で政治
を考えると、boundaryは「どこにでも、どうにでも引ける」と言うよりは(103頁)、ことヨーロッパに
関する限り、実は昔から個人と個人の間に引かれているのではないだろうか。だからこそ、
「どこにでも
引ける」のではないだろうか。この場合、個人とは、アイデンティティなどという、形而上学と心理学
の入り交じった難しい概念ではなくて、要するにpropertyの主体という意味である。とすれば、逆に、非
政治の可能世界を、この意味でのboundaryの否定として考えることもできるのであって、ヨーロッパ政
治思想はそこまでも折り込み済みなのではないか。その世界とは、一つには私有財産の否定された世界
であり、いま一つには、個人の中に複数の人格を認め、そして、諸個人の中にあるそれぞれベスト なも
のが、あたかも一人の人間であるかのように一体化しうる世界なのではないか(プラト ン、アリストテ
レス、ルソー、多分キケロも)。もちろんこの二つは両立する。これは私の差し当たりの仮説である。
注
(1)
本書(東京大学出版会、2002年)は、佐々木毅氏の還暦を祝って門下生たちにより企画・共同執筆
された論文集であり、本稿は、2003年2月22日 東京大学政治理論研究会において報告されたその書評
である。研究会では、参加者は本書をすでに読んでいることが前提されているため、通常の書評でな
されるように、内容紹介の手続きは取らず、直接に評者からする問題提起を行った。本稿は、以下の
注およびいくつかの細部の表現を除き、
「先生」
という言葉の使用も含めて、研究会当日配布された報
告原文そのままの再現である。
(2)
有賀弘・佐々木毅編『民主主義思想の源流』
(東京大学出版会、1968年)。私も執筆者の一人として
加わった。
(3)
もちろん、ずっと以前から、多元的国家論など、国家外政治現象の問題は意識されてはいたが、
『源
流』ではそれを取り上げた者はいなかった。デモクラシー論も必ずしも分化していなかった。
(4)
言うまでもないことであるが、そのこと自体は、こうした性格の論文集では当然に許容されること
であり、ここでそれを問題としているのではない。
(5)
『丸山真男集』第九巻(岩波書店、1996年)
、52頁、54頁。
(6)
こうしたアプローチは、文学者や哲学者の議論にしばしば典型的に見られるが、政治理論・思想研
究においても、マルクス、ウェーバーに始まり、ラスキ、アーレントなど、以下群小研究者に至るま
で枚挙にいとまがない。
213
(7) たとえばJ.Grayは、その『自由主義論』で、アリストテレスは、選択行為には人間にとって本質的
価値は何もないと考えたと述べている。アリストテレスを無造作に「自由主義」と対比させる粗雑な
論法は問わないとしても、もしそのとおりだとすれば、これは、さながら『ニコマコス倫理学』はア
リストテレスの著作ではなかった、という発言にも等しい。Liberalism,(1989), (山本貴之訳、
『自
由主義論』
、ミネルヴァ書房、2001年、368頁)
。また、P. King, The Challenge to Friendship in Modernity,
(London, 2000), pp.12‐13は、近代の思想家は総じて「友情」には無関心であり、とくにカントはそ
れに「しばしば文字通りの反感」を示したとしているが、この言明は、明らかに事実に反する。ま
た、
「友情」をそのコミュニタリアニズムの武器としようとしているかに見えるM.Sandelが、友情論の
思想史の深さを認識した上でそう主張しているとはとても考えられない。
(8) 私のこの疑問に対して、研究会の席上、川崎氏から、実際そのような議論も存在しているとの教示
を得た。もちろん、それが対象に即してどこまで妥当な分析であるかは別問題である。なお、本書に
掲げられた項目のうち、あるものは、それ自体では有意な分析概念とはならず、より深い分析が必要
なのではないかという判断が、
「全体主義」以外にも、それぞれ少し異なる意味ではあるが「集団」
、
「市場」の論文で表明されている。妥当な判断だと思う。
「全体主義」に関して日本の歴史的経験が引
照されていないのも、筆者にそれなりの判断があってのことと理解したい。
214
書評:
「可能性の技術」
― 木村俊道著『顧問官の政治学』を読む ―
宇羽野 明子 ルネサンス期の政治思想は、従来、近代への過渡期として、近代政治思想に結びつくその「近代性」
ばかりが着目されてきた。また近年では、リパブリカニズムの文脈にひきつけて、ルネサンス期の人文
主義の政治思想を解釈しようとする傾向もみられる。しかしこれらの視座からでは、ルネサンス期の君
主制国家イングランド の「顧問官」であったフランシス・ベイコン
(1561−1626)の政治思想を明らかに
することはできないだろう。
本書で注目すべきは、これらの視座に依拠するのではなく、あくまでもベイコンを歴史内在的に理解
しようとしている点にある。具体的には、当時の知的背景となる人文主義を手がかりとして、そこにみ
られる実践知としての政治学の伝統を、シヴィック・ヒューマニズムとの親和性へと還元することな
く、君主制国家の
「宮廷」
での活動的生活における思想的支柱として考察対象とする。本書は、この人文
主義固有の政治思考様式に立脚した顧問官ベイコンの政治学の特徴を、当時の彼の政治活動にかかわる
膨大な文献、資料から丹念に裏付け、
「可能性の技術」としてその政治学の意義を明らかにしようとした
意欲的な著作である。
とりわけ本書では、従来必ずしも十分に検討されることがなかった「宮廷」の思想的契機に着目し、ベ
イコンの顧問官としての政治の実践とそれを支える「作法書」
の伝統の存在から、ベイコンにみられる人
文主義固有の政治思想を明らかにしようとしている。ここで本書の構成を概観すると、まず第1章では、
当時の人文主義者たちの活動的生活をめぐる論争の構図とそこでのベイコンの活動的生活への支持
を、そして第2章では、宮廷での活動的生活をいかに実践可能にするか、彼の政治的思慮に立脚した政治
学を明らかにする。第3、4章では、
「ブリテン」
統合問題や輸入品課徴金問題といった具体的な政治問題
における、ベイコンと当時の法律家との思考様式の相異から彼の政治学の特徴を指摘する。第5章では、
人文主義における宮廷「作法書」
の伝統と、この伝統にみられる「洗練された交際」論の政治的有用性へ
のベイコンの着目とその応用を明らかにする。そして終章では、彼の政治思想における晩年の作品『ヘ
ンリ7世治世史』
、『ニュー・アトランティス』の位置づけとなる。以下では、本書の構成に従いつつも、
とりわけ次の3点
(第1、2章より「グレイ法学院の劇」、第3、4章より「ブリテン統合問題」、第5章より「作法
書の伝統」)を中心とした内容紹介から、ベイコン政治学の特徴とその論点などを提示していきたい。
「グレイ法学院の劇」:1595年に上演されたベイコン脚本による「グレイ法学院の劇」とは、6人の顧
問官がそれぞれ異なる政治的ヴィジョンを助言として国王に上奏するという政治劇であった。著者はま
ず、この顧問官劇がたんなる余興ではなく法学院の政治教育の一環であったことを指摘した上で、そこ
にみられるルネサンス期固有の世界認識、「劇場的世界観」に着目する。当時の人文主義者たちは「政治
世界を『虚構の劇場』と認識しながらも、常にその舞台に立ち続けた政治エリート でもあった」(18頁)。
とりわけ所与の現実を冷徹に見据え、当時の活動的生活と観想的生活との矛盾と緊張を踏まえた上でな
おも政治に関与する場合、自覚的に役割演技を遂行せざるをえない。このような状況下、ベイコンは宮
廷社会の現実に即した「演技の哲学」
によって、宮廷での活動的生活の実践を試みたと著者は強調する。
『学問の進歩』のなかで、ベイコンは「政治学」を、倫理学から峻別するとともに、
「交際」
、「実務」、
「統治」の3部門からなる学問とした。この「交際」と「実務」
の学問では、宮廷における役割演技(交際)
215
の必要と、仕事の遂行(実務)を実現可能なものにする知恵として、人間の悪徳に対処できる「ヘビの知
恵」
(101頁)をも必要としていた。著者はここで、これらの学問を実践する主体が「人文主義的教養を背
景に君主に助言する宮廷の『顧問官』であった」
(103頁)点に着目する。そしてこの「グレイ法学院の
劇」には、顧問官の助言による
「開かれた」
政治的営為の持続的実践が提示されていたと指摘する。すな
わち、6人の顧問官が国家の追求すべきものを異なる観点から国王に助言するこの劇では、これらの助言
にそれぞれ批判や評価を下しながらも、最終的な採否よりも、あくまでも最適な選択に向け審議のさら
なる継続が求められる。こうした「他者による助言と異論を踏まえた熟考の過程を重視する」
(109頁)こ
とを内容としたこの劇にこそ、著者はベイコン政治学の原型を見出すのである。
またこの劇に通底する特徴として、ベイコン政治学では「政治的思慮」にもとづき、その一般化、体
系化が自覚的に避けられ、同時代の人文主義的教養を媒介とした「歴史」、
「寓話」、
「アフォリズム」が駆
使されている点を著者は挙げている。
「ベイコンにとって、まさに政治学の叙述形式や伝達方法それ自体
もまた、思慮によって熟慮されるべき対象であった」
(115頁)
。一般的な規則には還元されにくい「政治
的思慮」の学問的な体系化を試みたとしてリプシウスを批判するベイコン政治学は、この「伝達の思
慮」
(116頁)に即した叙述で、現実の流動的な政治世界に−状況変化に応じて臨機応変に−対峙した。そ
の意味で、ベイコンが政治学の実践可能性をより徹底して追求していたと、著者は指摘する。
ここでの指摘は、ルネサンス期の人文主義固有の思考様式を示すものとして大変興味深い。もちろん
著者が後述しているように、リプシウスの『政治学』もベイコン同様、アフォリズムを用いることに
よって当時の現実を動かす実践性を持ちえていた。その点でリプシウスが当時の
「伝達の思慮」そのもの
を看過していたわけではない。むしろここではリプシウスが統一的なヴィジョンをもとに、政治的思慮
を分類し、アフォリズムを用いるその叙述のあり方に、ベイコンは思慮の「体系化」への契機を見てと
り、批判したといえる。
以上のように、本書でのルネサンス期にみられた人文主義的教養、思考様式を背景にした顧問官ベイ
コンの政治学の提示は、当時の思想を理解する上で有効な歴史的視座を提供するとともに、従来の「近代
性」に帰着させるベイコン政治学への理解に再考を促すものであろう。ただし、ここでの人文主義固有の
強調を「政治的思慮」、あるいは政治学の「実践性」に還元してしまうことで、かえってルネサンス期の
人文主義におけるベイコンの政治的独創性を希薄にしてしまったようにも評者には思えた。
「ブリテン統合問題」:著者によれば、イングランド とスコット ランド 両国の統合−「ブリテン」統
合−を目指す、国制再編をめぐる一大論争を機に、顧問官ベイコンは国家拡大による「ブリテン」統合
構想に着手する。その際、ルネサンス期の人文主義者たちの間では「国家の維持か、拡大か」、すなわち
「ヴェネツィア・スパルタ型現状維持国家か、ローマ型拡大国家か」という論争がみられたが、ここでの
ローマ型を理想とする「偉大な帝国」論は、16世紀後半のイングランド では必ずしも積極的には参照され
てはいなかった。しかしベイコンは、この両国間に将来予想される王位継承などをめぐる内乱や革命の
回避といった国内外に対する安全確保の必要、ならびに国家の偉大さの追求という観点からも、
「偉大な
帝国」
のヴィジョンを「ブリテン」統合構想として甦らせたのである。もちろんここで著者が注意を喚起
しているように、マキアヴェリが国民軍の創設によって目指したイタリア統一のヴィジョンとの類似に
よって、「ベイコンを『リパブリカニズム』の『創始者』と評価することはできない」(158頁)。なぜな
らベイコンのヴィジョンは、あくまでも当時の
「多元的君主制国家」
が抱える諸問題への一処方箋に過ぎ
なかったからである。このように彼が、国家の「繁栄」
「維持」
「拡大」という複数の政治的価値を前提に、
一つの価値に固執するのではなく、便宜的に現実の政治状況に対応させながら最適な選択を試みる
点に、著者は、「グレイ法学院の劇」同様、
「可能性の技術」として彼の政治学の特徴を見出すのである。
216
さらにこのような特徴は、
「ブリテン」統合での法の統一問題や、輸入品課徴金問題などをめぐる論争
での、コモンローヤーなどの法律家の思考様式との比較によって一層明瞭になる。本書でのこの論争を
めぐる溌剌とした筆致をここでそのまま再現できないのは残念ではあるが、顧問官として「法」をめぐ
る諸問題に取り組むベイコンは、原理的な「法」の議論に対して、その原理的な正当性よりもむしろ政
治的な「便宜」の観点を優先させた。まさに「法」的な原理論争にコミットすることを極力回避し、政
治的思慮からこれらの問題解決を試み、またあくまでも「運用」面での法改革を遂行しようとした点
に、顧問官ベイコンの政治的思考の特徴がみられると著者は強調する。それゆえ、ベイコンを立憲主義
か絶対主義かへと一定の原理的立場に帰着させようとする従来の研究に対して、そのような原理論争に
還元されない、異なる位相にベイコン政治学があるという著者のここでの異議申し立てに、評者も同意
したい。
「作法書の伝統」:当時の人文主義者たちが宮廷における活動的生活論の読み替えを可能にした背景
として、著者は、16世紀から17世紀はじめにかけて間断なく出版された「作法書」の存在に着目する。
著者によれば、イタリア人文主義にみられた宮廷社会を発信源とする「作法書」
の受容が、とりわけ大陸
に比べて「文明」
後進国イングランド では顕著であった。
「作法書」はいわば「文明」の手引きであり、そこ
では、①人間を、宮廷社会を介した相互依存的な存在として捉え、②他者と相互にかかわるこの宮廷で
の活動的生活が広く支持され、③「洗練された交際」を必要とした点に、その特徴があると指摘する。
とりわけ③について、著者はつぎのように説明する。当時カスティリオーネとともにイングランド の
作法書の典拠となったグアッツォの『洗練された交際』によると、「この『洗練された交際』は『人間の
完成』に『不可欠』であり、
『誠実かつ賞賛される有徳な種類の生活を世界で営むこと』を意味した」
(216頁)。このような交際を営むためには、日常のあらゆる状況に適応するための「演技の哲学」が実践
的な作法の基本として重視された。ベイコンは政治学にこの「洗練された交際」論にもとづく「演技の哲
学」
を導入し、顧問官として宮廷での活動的生活に応用可能な
「洗練された政治哲学」へと編成するので
あった。このように作法書の存在が顧問官の行動様式の形成に寄与していたことは、「グレイ法学院の
劇」
での「複数の他者による助言と熟慮の重視」という観点からも裏付けられると著者は指摘する。すな
わちこの劇が示唆するように、宮廷で国王と顧問官を中心に異なる他者同士が国家意思を安定的に運
営、維持するためには、追従や中傷から峻別される適度な助言と討論といった「洗練された交際」が必
要不可欠であったというのである。
このようにここでの「洗練された交際」論の政治的応用から、当時の人文主義の政治思想の一特徴を
見いだそうとする視角は大変示唆に富む。ただし、「交際」が「人間の完成のため」に必要と説くグアッ
ツオと、外見上のほどよい関係の維持を説くほかの作法書、あるいはデュ・ルフュージュ、ド ゥッチの
ように自己利益を目的とし偽装や追従をも認める作法書、これらの「作法」観には質的相異があるのでは
ないだろうか。すなわち作法書の伝統には、人間形成という内面を規定するものと、人間関係に有用な
外面的な振る舞いを規定する(にとどまる)もの、換言すれば「徳性」そのものを求めるものと、「徳性
に似た」ものとして「上品さ」や「礼儀」を求めるもの、といった異なる契機が内在しているのではな
いか。この点を不問にしたまま、作法書の伝統上にベイコンの「洗練された政治哲学」を議論すると、ベ
イコンの活動的生活における「洗練」の要件が何であったのかが明確にできないのではないかと評者に
は思えた。とはいえ、ここでの作法書への着目は人文主義的背景から当時の宮廷の政治的意義を理解す
る上で、貴重な視角を提供していることを強調したい。
当然ながら宮廷では、党派対立が生じ、寵臣が跋扈する。しかし、そのような現実に直面しながら
も、ベイコンが理想論の見地からではなく、あくまでも腐敗した宮廷政治の現場のなかで「作法」の見
217
地から、助言と説得を通じて党派対立や寵臣政治の弊害を除去しようと試みていたと著者は指摘する。
以上のように本書は、ベイコンが宮廷という政治的コミュニケーション空間の維持運営のために、顧問
官の政治学に宮廷作法をあらたに組み入れて、異なる他者との共存、交際をめぐる「可能性の技術」とし
ての政治学を追求していた点を克明な検証の上、明らかにするのである。
最後に、本書における
「観想的生活」への評価をめぐって評者の抱いた若干の疑問を提示したい。本書
では、ベイコンが「観想こそが自分の『本領』」
(53頁)としながらも、彼の「観想」
的なものには言及せず、
一貫して、彼の宮廷での活動的生活の実践を強調する。そして、ここでの活動的生活への支持をもと
に、晩年の『ニュー・アト ランティス』にみられるユートピア性を過小にしか評価しない。もちろん、
筆者の言うように、確かに当時の人文主義者たちは活動的生活と観想的生活との緊張を鋭く意識し、ま
た活動的生活の尊重か、観想的生活の尊重か、彼らの重心の置き方もそれぞれであった。しかし一方
で、実践知を追求した彼らが、それらを本書のように背反的に捉えていたのだろうか。たとえば、ルネ
サンス期の人文主義にみられる「レト リック(=弁論・雄弁術)の伝統」においては、当時、レトリック
と哲学の綜合を体現する「学識ある弁論家」が理想とされ、「活動的生活と観想的生活との綜合」が目指
されていた。また、
「活動か観想か」といった比較によって優劣を論じることも盛んではあったが、あく
までもそこでは両側から論ずるなかでの「熟慮の過程」が重視されたのであって、たんなる二者択一が
求められていたわけではない。このことは一つのヴィジョンに固執するのではなく、異なる複数のヴィ
ジョンを提示するベイコンの顧問官劇にも反映されているのではないか。その意味で、本書がベイコン
の思想をユートピア思想の系譜など「観想的生活」を理想とするものに還元する従来の解釈に対して、
彼の一貫した活動的生活への支持だけをもとに反論を試みても、評者にはそれがあまり説得的であるよ
うには思えなかった。しかしながら、かつて「人文学の中心にして砦」
ともいわれたルネサンス期の
「宮
廷」の思想的契機、とりわけ作法書にみられる「洗練」の契機に着目し、ベイコンの人文主義固有の政治
思想を明らかにしようとする本書は、従来のベイコン研究、ならびにルネサンス期の政治思想研究にあ
らたな視座を提供するものであると評者は確信する。本書によってさらなる問題関心が喚起され、議論
が深まることを期待したい。
218
2003年度政治思想学会研究会企画について
飯田 泰三 2003年5月24・25の両日、法政大学市ヶ谷キャンパスで開催された第10回政治思想学会研究会は、
「政
治思想におけるアジア」を統一テーマとした。それは一方で、ヨーロッパ思想における「オリエンタリ
ズム」の問題が議論されて久しく、また、啓蒙思想や帝国主義期の政治思想、さらにはマルクス主義に
おける「アジア的専制」概念の果たした役割が、今なお再検討の余地があると考えられたことによる。
(それは同時に、政治思想における風土的位相、ないし空間的位置や落差の位相が、歴史的発展の普遍的
法則性の位相に対して、どの程度独自の意味を持つかという問題を提起する。)
他方で、日本政治思想の
位相をアジアとの関係の中でとらえ直すこと、とりわけ、アジアからの日本への視線と、日本からのア
ジアへの視線とを相互にクロスさせる中から、日本政治思想に固有の位相を浮かび上がらせることに、
今日的な意味があるであろうと考えられたことによる。
そこで、「ヨーロッパ政治思想におけるアジア」というセッション(研究会3)の設営・司会を松本礼
二会員に依頼し、他方、
「アジアの中の日本政治思想」を2つのセッションに分け、中国との関係(研究
会1)の司会を佐藤慎一会員に依頼するとともに、私が韓国(朝鮮)との関係(研究会2)の設営・司
会を担当した。また、自由論題の司会を鷲見誠一会員にお願いした。
その結果実現したプログラムは下記の通りである。
研究会1 「アジアの中の日本政治思想」(Part 1)
司会 佐藤慎一(東京大学文学部)
報告者 李暁東(中央大学)
「筧克彦と近代中国啓蒙思想の形成――『民報』と『新民叢報』との論争を中心に」
神谷昌史(大東文化大学大学院)
「近代日本の中国観の変容――辛亥革命期を中心に」
討論者 高増傑(中国社会科学院日本研究所)
研究会2 「アジアの中の日本政治思想」(Part 2)
司会 飯田泰三(法政大学法学部)
報告者 金錫根(延世大学校)
「韓末開化思想と日本: 兪吉濬、
『文明論之概略』を読む?」
平石直昭(東京大学社会科学研究所)
「韓国保護国論の諸相: 独立と併合の間 ――戸水寛人、竹越三叉、有賀長雄を中心に」
討論者 山室信一(京都大学人文科学研究所)
研究会3 「ヨーロッパ政治思想におけるアジア」
司会 松本礼二(早稲田大学教育学部)
報告者 石井知章(明治大学商学部)
「K・ウィットフォーゲルの東洋的専制主義をめぐって」
三宅麻里(成蹊大学)
219
「ヴィクト リア朝時代における啓蒙的専制について――J.S.ミルを中心として」
討論者 渡辺浩(東京大学法学部)
自由論題
司会 鷲見誠一(慶応大学法学部)
報告者 大中一彌(早稲田大学大学院)
「ルイ・アルチュセールの政治思想におけるマキアヴェリの契機」
鹿子生浩輝(福岡女子大学)
「マキアヴェリにおける実践的意図の一貫性」
田村充代(千葉商科大学)
「クローン人間の政治と倫理」
武田千夏(大妻女子大学比較文化学部)
「スタール夫人の政治思想」
220
研究会1 アジアの中の日本政治思想(パート1)
司会 佐藤 慎一(東京大学) 義和団事件(1900年)から辛亥革命(1911年)に至る20世紀初頭の中国は、一方で、清朝打倒を目指
す革命派と立憲君主制導入を目指す改革派が出現し激しく対立した時期であったが、他方で、政治思想
の領域において日本との間に前例のない規模で緊密な知的交流が行なわれた時期でもあった。知的交流
の拡大を象徴するのは中国人日本留学生の急激な増大で、科挙が廃止された1905年には年間で8000人を
越える中国人が日本に留学している。彼らは日本に翻訳や概説書の形で蓄積された西洋思想を貪るよう
に吸収したが、その過程で、日本人が翻訳のために作った和製漢語が中国人の思想世界に浸透し、中国
人の語彙は一変する。さらに留学生は日本で書籍や雑誌を刊行し、吸収したばかりの情報を中国語に翻
訳して本国に発信した。20世紀初頭の10年間に日本経由で中国に紹介された西洋の思想家は、アリスト
テレスからマルクスにまで及ぶ。研究会1では、こうした20世紀初頭における中国と日本の知的交流を共
通の素材として、中国政治思想研究者と日本政治思想研究者が研究成果を発表した。
李暁東(成蹊大学)の報告「筧克彦と近代中国啓蒙思想の形成―『民報』と『新民叢報』の論争を中
心に」は、開明専制問題をめぐる革命派と改革派の論争を取り上げ、筧克彦の影響を論じたものであ
る。革命派と改革派の争点の1つに、民衆の知的水準が極めて低い中国において革命のような急進的変革
は可能かという問題があり、致命的な混乱をもたらすと考える改革派の梁啓超は、先ず開明専制の手法
で大規模な民衆教育を行って民衆の知的水準を向上させた後、徐々に立憲制に向けて軟着陸すべきこと
を主張した。他方で革命の即時実行を主張する革命派の場合、陳天華や胡漢民のように開明専制という
言葉を肯定的に使う者と、汪精衛のように否定的に使う者とがいたが、革命成功の暁には強力な革命権
力が民衆教育を行うべきだと考える点では一致していた。李暁東氏は、こうした開明専制問題の背景に
筧克彦の影響があると主張する。
筧が中国人留学生に接したのは、梅謙次郎が1904年に開設した法政大学清国留学生法政速成科におい
てであった。東京帝国大学等の著名教授を講師に招き、中国語の通訳付きで短期間に法律学や政治学の
知識を教え込む法政速成科は、留学生教育の一大拠点で、汪精衛や胡漢民、陳天華など革命派の学生も
多く学んでいる。筧は法政速成科で憲法学と国法学を担当したが、国法学の講義の中で開明専制につい
て論及し、
「開明的専制時代とは何ぞ」
という期末試験問題すら課している。筧自身は保守的な学者だっ
たが、彼の開明専制理論を革命派の陳天華がまず肯定的に引用し、それを読んだ改革派の梁啓超が換骨
奪胎する形で開明専制論を革命批判の論拠として用い、それに対して汪精衛が批判を加えるという複雑
な知の連鎖が存在するというのが、李氏の主張である。
神谷昌史(大東文化大学)の報告「近代日本の中国観の変容―辛亥革命期を中心に」は、浮田和民の
中国観を中心に据えて、辛亥革命という中国政治の変動期に直面した日本人の中国観の変動を分析した
ものである。20世紀初頭、早稲田は法政と並ぶ中国人留学生教育の拠点で、早稲田大学教授であった浮
田の著作は多くの留学生に読まれ、特にその帝国主義理論は彼らに少なからぬ影響を及ぼしていたが、
浮田自身の中国観については、これまで殆ど研究がなかった。神谷氏は、一方で福沢諭吉や陸奥宗光な
ど日清戦争期に活躍した先行世代の中国観との比較を行い、他方で内藤湖南や大隈重信ら辛亥革命に際
して活発に発言した同世代人の中国観との比較を行って、浮田の中国観の特質の解明を試みる。
浮田はその倫理的帝国主義の立場から、日本が周辺アジア諸国に文明を扶植する使命を帯びていると
考え、日清戦争に対して肯定的であったが、辛亥革命に際しては、共和制中国が誕生するのは君主制日
221
本にとって危険だから介入せよという意見を厳しく斥け、中国にとってよいものと日本にとってよいも
のは必ずしも同じでないという立場から、あくまで中国自身の政治的・歴史的文脈に即してその共和制
の成否について検討を行っているというのが、神谷氏の主張である。
中国人が日本経由で政治思想に関する多くの知識を吸収し、かつそれを単なる知識や教養にとどめる
ことなく、革命も含めて中国の直面する諸問題を解決するための道具として活用しようとした20世紀初
頭の10年間は、政治思想の分野における日本と中国の知的交流が過去1世紀半で最も多様かつ緊密に展
開された時期であり、それだけに交流の全容はいまだ明らかではない。李氏と神谷氏の報告は、いずれ
も比較的地味なテーマだが、これまでの研究が気づかなかった問題を明らかにしている点で価値があ
る。
(文責・佐藤)
研究会2 「アジアの中の日本政治思想」(パート2)
飯田 泰三 このセッションでは、朝鮮の政治思想と日本の政治思想がクロスする場面を、韓国側と日本側から報
告してもらうことを企画した。両国が「開国」から近代化に向かい、「文明開化」と「一国独立」という
共通の課題を追求する過程で、結果的には、一方が他方をその「独立」と「開化」を助けると称しなが
ら武断的に「併合」するに至った歴史をバックにして、はたして朝鮮側、日本側双方に、別の思想的可
能性はなかったかを探る試みでもあった。
きむそっこん
韓国から来ていただいた金錫根氏(延世大学校)は、韓国政治思想学会の学会誌『政治思想研究』
第2集(2000年春号)に「福沢諭吉における「自由」と「通義」――「独立不羈」の政治学――」(日
本語訳が『福沢諭吉年鑑 28』に掲載)を書かれ、また、昨年の第1回日韓政治思想学会共同学術大会
(於ソウル)で「福本イズムと日本統治下における朝鮮社会主義運動」を報告された人物である(さら
に、丸山眞男『現代政治の思想と行動』『日本の思想』『忠誠と反逆』の韓国語訳者でもある)。同氏に
は「韓末開化思想と日本」というテーマでお願いしたところ、「兪吉濬、『文明論之概略』を読む?」
というサブタイト ルの附された、日本語による完成原稿を準備して臨まれた(この論文は本年度の
『福沢諭吉年鑑 30』に掲載)
。
日本側報告者の平石直昭氏(東京大学)は元来、横井小楠研究から出発し、荻生徂徠を中心とした
江戸儒学史が専攻だが、近年は大アジア主義や福沢諭吉についても論じられているので、
「アジア主義
の諸相――「脱亜論」論争など」というテーマでお願いした。こちらも、テーマをさらに限定・具体
化されて、
「韓国保護国論の諸相:独立と併合の間――戸水寛人、竹越三叉、有賀長雄を中心に」と題
された完成論文を用意して参加された。
討論者には、かつて『法制官僚の時代』
、『キメラ――満州国の肖像』等を著され、最近は大作『思
想課題としてのアジア』を著された山室信一氏(京都大学)に来ていただいた。
金錫根氏の報告は、朝鮮からの最初の日本留学生として慶應義塾に学び
(1881・6−1883・1)
、さらに
ゆ ぎるちゅん
アメリカに留学(1883・9−1885・9)した兪吉濬が、甲申事変後、開化派(独立党)にとっての「冬の
時代」に帰国した直後、逮捕され幽閉中に執筆した『西洋見聞』(1889年成稿、1895年東京交詢社刊)を
主たる素材として行われた。そこにおいて、「文明化(開化)」と「独立」との関係――ないしは、「人間
222
交際」における「独立自由」と、「各国交際」における「独立自由」との対応関係――について、福沢諭
吉の思想――とりわけ、
『文明論之概略』の第10章「自国の独立を論ず」にあらわれた思想――から決定
的な影響を受けつつ、同時に、福沢とは異なる独自の思想をも展開した様相が論じられたのである。
兪吉濬は一方で、
『西洋見聞』第3編「邦国の権利」において、「国法が一国内において各人に与えた権
利を保守し、万国公法が天下において各国に与えた権利を維持するにあたっては、公道は大小の分と強
弱の弁につき異同を立てず」
と言う。そこから、
「天地無偏の正理により一視する道においては、大国も
一国、小国も一国であるが故に、国の上に国はなく、国の下に亦国はあらず」と言い切った。これは、
初期の福沢が「天理人道に従て互の交を結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐入り、道のためには
英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず」(『学問のすゝめ 初編』1872)と言ったときの、啓蒙主義的自然法
思想にもとづく国家平等観念を承けたものであった。
しかし、福沢諭吉自身は、
『文明論之概略』
(1875)
段階になると、
「今日の文明にて世界各国互ひの関
係を問へば、其人民、私の交には、或は万里外の人を友として一見旧相識の如きものある可しと雖ど
も、国と国との交際に至ては唯二箇条あるのみ。云く、平時は物を売買して互に利を争ひ、事あれば武
器を以て相殺すなり。言葉を替へて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり」と言う
に至る(第10章)
。そして、『通俗国権論』
(1878)では、
「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず、幾冊
の和親条約は一筺の弾薬に若かず。大砲弾薬は、以て有る道理を主張するの備に非ずして、無き道理を
造るの器械なり」と、弱肉強食の帝国主義的侵略がグローバルに進む国際社会の現実を強調した。
こうした福沢の新たなリアリスティックな国際社会認識それ自体については兪吉濬は肯定し、自身、
後年の翻訳文に附した序文で『通俗国権論』の上記文言を引用したことさえあった。しかし、当時なお
清国に対する朝貢関係から抜け出すこと(独立)が出来ず、また、富国強兵(自彊)による「文明化」
への展望が容易に見いだせなかった朝鮮の現実の中にあっては、そうした「力は正義なり」のリアリズ
ムにのみ拠ることは、敗北と滅亡しか意味しない。そこで兪吉濬は、師の福沢が新たに選んだ道(国際
政治における自然法的理想主義追求を放棄した「国権論」優位路線)に従わず、あえて初期福沢の「理
想主義的」立場を固守しようとしたのである。また、朝鮮が諸列国(中国、ロシア、アメリカ、日本)
の間にあって「中立国」となって「自国の独立」を図るという構想を示したこともあった(
「中立論」
1885)。
さらに金錫根氏は、そうした兪吉濬の「規範主義的」ないし「当為論的」立場の選択の背後に、彼の
儒教倫理に対する福沢とのスタンスの違いがあったのではないかと見る。福沢にとっては、五倫秩序を
中心とした儒教倫理は、
「人民独立の気風」
の樹立を妨げるものとして、終生、否定の対象であった。そ
れに対して兪吉濬にとっては、「五倫の行実を純篤にして人の道理を知る」ことが、たんに「西洋化」と
等値されない、より普遍的な「開化=文明化」の基礎となりうるものであった。そうした意味での「道
理の再発見」ないし“The Power of Morality"の発見が兪吉濬にはあったのではないか、というのが金錫
根氏の提起した論点であった。
この報告に対し、討論者の山室信一氏から、i報告者が兪吉濬を朴泳孝よりも評価している点は興味
深いし、首肯できる。ii 兪吉濬と福沢との相違点を中心に考察されたが、その他の思想家との関係はど
うか、とのコメントがあった。
それに対し、報告者から、i朴泳孝の「上疏文」などを見ると、朴は福沢の思想の結論部分をそのま
ま受け入れているのに対し、兪吉濬は朝鮮の置かれている状況を独自に考察しながら、福沢の思考方法
を学びつつ、自身の主体的な立場を打ち出している。ii 兪吉濬は福沢からだけでなく、中村敬宇からも
223
影響を受けている。儒教的伝統の中に封建道徳以上の普遍性を見いだし、より肯定的に生かそうとして
いることにも、敬宇からの影響が感じられる。その他にもさまざまの思想から学びながら自らの思想を
深めていった点、金玉均、朴泳孝らと比べて、政治家よりも思想家としての面が強いといえるだろう、
という応答があった。
他方、平石報告は、1860年代生まれの同世代知識人である戸水寛人、竹越三叉、有賀長雄の3人が、
1904年2月から1907年初頭頃までに発表した韓国「保護国」論を、比較検討したものであった。
日清戦争の結果、台湾を領有することになって以後、アジアにおいて「帝国」として進出を開始した
日本は、朝鮮に対しては、日露戦争開始に先立ってその「保護国」化に向け動き出した。そして、1904
年2月の日韓議定書から1904年8月の第一次日韓協約を経て、1905年11月の第二次日韓協約締結によって
韓国の保護国化が確定した。
保護国というのは当時にあっては新しい概念であって、エジプト 、チュニス、ビルマなどがモデルと
されたが、それが結局、
「併合」
(「属国」化)にいたる過渡形態に過ぎないのか、それとも、その「保
護」のもとで文明化と富国強兵化をすすめて再「独立国」化を志向するのかによって、まったくその意
味を異にすることになる。
戸水は明白に前者の意味での韓国保護国化を主張した代表的論者で、
「日本政府が取るようになる対
朝鮮・対満州政策を政府に先駆けて主張し、一種の露払い役を果した」人物である。彼は「韓国皇帝は
存置したまま日本の総督を置き、中央地方の双方で日本官吏が統治する」という構想を示した。その前
提となった戸水の朝鮮人民観は、長く暴政の下にあって文明度が低く、治めやすい存在だというもので
あった。さらに戸水は、日露戦争を「20世紀に起こる大活劇の序幕」と見、次の大活劇の舞台は中国で
あり、その中にあって日本が「亜細亜東部に覇たらんと欲せば必ず満州に割拠せざる可からず」とし
て、朝鮮領有をそのための一階梯と位置づけた。
それに対して竹越三叉は、伊藤博文に対するアド ヴァイザー的立場から、
「朝鮮は弱小と雖も、猶ほ一
定の程度まで発達したる国民にして、排外の心あり、他を恨む心あり、自立の念あり、多少の団結心あ
り。此の如き国民に対しては、日本帝国は唯だ其政治経済の枢権を把持するを以て足れりとし、其他は
一切其自治に一任し、彼等をして屈服の間、猶ほ一条の活路を見て、自ら慰むるの道を有せしめざるべ
からず」と言った。
「保護国と云へば直ちに之を同化せよとか、総ての政治を根本的に変革せよとかいふ
注文を述べる人が朝野とも多い」けれども、朝鮮に対しては内政不干渉を原則とし、
「我邦に宗主権を取
るに止まって、内地は多く彼等の自由に任す」という「妹国」として遇すべきだというのである。こう
した竹越の主張の背後には、
「凡そ一の国家、一の社会は活物である。歴史的有機物である。之を取扱ふ
ことは、菓子屋が新粉細工をするが如く自由自在に行くものではない。……如何なる野蛮の国と雖も、
如何なる野蛮の社会と雖も、之を変革し、之を改革するといふことは、百千年の大事業であつて……」
という社会観があった。
さらに有賀長雄は、その『保護国論』(1906年9月)において、併合と独立という両義的な可能性をも
つものとして保護関係を捉え、しかも、韓国の近代化と再独立の可能性を視野に入れて立論している、
と平石氏は指摘する。さらに、有賀は「国家を超えた道徳規範の存在」を意識し、「条約文言や国家の対
外公約に対する強い被縛感」をもっていたので、韓国の「独立」および領土保全を対外公約してきた事
実と、今次の「保護」条約とを調和させるため、「被保護国は能保護国に対しては独立国ではないが、第
三国に対しては独立国である」とする法理を構成しようとしたという。その有賀の立論の背後には、韓
国文明(さらには伝統的な中国文明)に対する高い評価があった。
224
しかし、こうした竹越や有賀の論は当時の世論には歓迎されず、もっぱら戸水の主張の線でその後の
歴史は動いていった。それは、「他者をその他在において理解しようとする感覚」
(他者感覚)および
「国家を超えた普遍的規範が存在しそれは国家を縛るという思想」
が、急速に力を失いつつあった日露戦
後の状況を物語ると平石氏は言う。
「韓国を植民地化し大国の仲間入りをしたと有頂天になった時、却っ
て日本は目に見えない大事なものを失ったのではなかろうか」というのが結語である。
この平石報告に対し、討論者山室氏からは、i 竹越三叉については、その朝鮮論を見るだけでなく、
彼が南進論者(→ 満州進出を否定)であったことを考慮する必要はないか。ii 有賀長雄には「政治や国
家に対する学問の独立という観点からの接近」があることを報告では重視されたが、袁世凱の政治顧問
を務めたこともある有賀の場合、それはどこまで言えるであろうか。iii 戸水・竹越・有賀が朝鮮につい
ての情報をどのように得ていたのか。ニュース・ソースの問題。iv 今回の「保護国」論からは外れる
が、マレー半島(マレーシヤ・シンガポール)のいわゆる海峡植民地のケースが、朝鮮植民地と比較す
る意味があるのではないか。v戸水寛人の「亜細亜東部の覇権」論を、シーリーの下で「地政学」を学
んだ稲垣満次郎の『東方策』と比較すると興味深いのではないか、等のコメントがあった。
報告者から、iとii については、竹越の南進論、有賀の袁世凱顧問時代のことはまだフォローしてい
ないので、今後の課題としたい。iii についても、大切な問題なので調べたいが、とりあえず『外交時
報』などが重要だろう、等の応答があった。
研究会3 ヨーロッパ政治思想におけるアジア
松本 礼二 「ヨーロッパ政治思想におけるアジア」
をテーマとする本セッションは、ジョン・スチュアート ・ミル
のインド 論を扱った三宅麻理会員の報告とウィット フォーゲルの東洋的専制論の再検討を試みた石井
知章会員の報告、ついで渡辺浩会員による両報告に対するコメント という順で行われた。
三宅報告は、父ミルに比べてインド の伝統を尊重し、人種的偏見からも相対的に免れていたJ.S.ミル
ではあったが、19世紀の段階的文明史観は共有しており、そのため、教育や精神の発達が十分でないイ
ンド には専制統治がふさわしいとして、啓蒙専制の合理化に至ったと論じたものである。さらに、19世
紀ヨーロッパの文明史観からするアジア理解の問題点を、福沢諭吉にも触れて指摘した。石井報告は、
一方で、ウィット フォーゲルの東洋的専制論を直接の理論的源泉たるマルクス、ウェーバーのみなら
ず、ト クヴィル、モンテスキューからアリストテレスにまで遡る西欧思想における専制論の伝統の中に
位置づけ、他方でスターリニズムのような20世紀の全体主義の経験の反映をもそこに見出すものであっ
た。その上で、水力支配を鍵とみなすウィットフォーゲルの中国社会論の内容に立ち入り、村落共同体
と行政権力との複雑な相互依存関係に東洋的専制の社会基盤を見出した彼の理論を批判的に検討し、単
純な地理的決定論という批判からこれを救い出しうると主張した。
渡辺会員は、三宅会員がヨーロッパ研究者として福沢まで論じた点を評価し、今日取り上げられるこ
との少ないウィットフォーゲルの復権をあえて試みた石井会員の「反時代的精神」を称賛した上で、両
報告について批判的コメント を加えた。三宅報告については「啓蒙専制」のごときヨーロッパ製の概念
をアジアについて安易に用いることは問題であり、今日のインド 研究者の専門的知見に基づく検証が必
225
要という指摘があった。石井報告について、ウィット フォーゲルは自然的地理的条件を重視するとしな
がら、灌漑だけに焦点を当てるのでは地理的決定論とさえいえず、「東洋的専制」と仮に言えるとして
も、中国以外のさまざまな形態を無視しており、今日ウィット フォーゲルを研究するのなら、彼の誤り
に学ぶ姿勢こそ大切であって、自然条件が権力のあり方を決定するのでなく、権力を独立変数とみなす
べきだというのが批判の要点であった。
フロアーとの討論では、石井会員が言及した「アジア的デモクラシー」の可能性や、渡辺会員が提出
した「北朝鮮は専制と呼ぶべきや否や」といった現代的問題を含めて、活発な議論がなされた。
自由論題
鷲見 誠一(慶応義塾大学) 本学会の設立時の目的の一つが、若い研究者の育成であった。そしてその目的の実現手段がこの「自
由討論」である。この目的に照らして2003年5月25日に開催された自由論題の発表者4人の方々には、
気の毒なことをしたと司会者・コメンテーターであった私は思っています。先ずは当日、配布されたタ
イムテーブルを以下に転写しますので御覧いただきたい。
司会・コメンテーター 鷲見 誠一(慶応義塾大学)
9:30∼10:00
大中一彌(九州大学)「ルイ・アルチュセールにおけるマキアヴェリの契機」
10:00∼10:30
カ
コ
オ ヒロキ
鹿子生浩輝(九州大学)
「マキアヴェリの政体論における一貫性」
10:30∼10:40 休憩(質問紙提出)
10:40∼11:00 討論
11:00∼11:30
田村充代(千葉商科大学)「クローン人間の政治と倫理」
11:45∼12:15
武田千夏(大妻女子大)
「スタール夫人の政治思想」
12:00∼12:25 休憩(質問紙提出)
12:25∼12:45 討論
以下に私自身の不手際と反省点を明らかにしますので、今後のより良い方策の確立に役立てていただ
きたいと思っています。
①司会とコメンテーターを兼ね合わせるのは多くの点で無理である。私自身は、2002年秋に企画担当者
から両方をやる様に云われた時に、安請合いをしてタイムキーパーをすれば良いと思っていました
が、多様な発表内容を観て、自分が思慮不足だったことを痛感させられました。若い発表者の今後の
学問的伸展のためにも、発表内容に対応したコメンテーターをそれぞれ立てるべきであろう。
②発表時間を1人30分とするなら、討論時間も1人30分は配当すべきであろう。
③発表内容に即したグループ化を計り、発表者の人数が多ければ、2つの分科会を同時進行させる方
226
が、充実した討論ができるであろう。今年度でいえば、大きくマキアヴェリで括くって、大中、鹿子
生両氏の発表を一分科会で拝聴すべきであった。
以上、私自身の予測の甘さ、不手際に依る事態からの反省点を抜き出してみました。今後の企画者の
方々は、これを他山の石として経験を蓄積しつつ、若き学徒の学問の発展に適した方法を確立していた
だきたいと私は強く希望しています。
次に4人の発表内容について私なりの感想を発表順に以下に記してみましょう。
①大中一彌氏「ルイ・アルチュセールの政治思想におけるアキアヴェリの契機」。現在パリ大学に留学中
の大中氏の、これは提出すべき博士論文の一部なのであろうか。フランスの知的世界は、アングロ・ア
メリカのそれ、ド イツのそれとも異なる独特の特徴と構造を持っているものであることは、未経験の者
も森有正のエッセイを始めとする、多種多様な情報に接して知らされている。そこには広く深い「知の
伝統」が存在し、研究者は先ずその伝統を習得した後に破壊して自分の独自性を創造するもののようで
ある。その思想的洗礼を受けて、大中氏の発表内容も情報量が多く、論点が多岐に亘り、理解が容易で
はなかった。しかし何か非常に貴重なものがそこに蔵められていることが感じられた。大中氏にお願い
したいことは、知の日本的伝統(?)につかっている我々にも理解可能な文法とスタイルに「転換」し
て、貴重な知的成果を提示していただきたいものである。近い将来の大成を確信させる報告であった。
②鹿子生浩輝(カコオ・ヒロキ)氏「アキアヴェリにおける実践的意図の一貫性」
。鹿子生氏は、マキア
ヴェリに対する多くの解釈に対抗して、彼は共和主義者であり、彼の祖国フィレンツェにおいて共和制
が維持されるべきとの信条で一貫していたことを強調する。彼の主要テクストに即して、鹿子生氏は自
説を展開していく。その論証には説得力があった。われわれとしては、この論証の究極点を鹿子生氏が
やがて解明されることを期待したい。つまり、アキアヴェリの一貫していた信条・共和主義を根底にお
いて支え、そして彼を突き動かしていた「内的動機」とは何かということである。これは、心理的に解
されるべきではなく、彼の思想構造の根基を成す理念・原理であり、これを中核として彼の思想と行動
が成長と展開を遂げたのである。
③田村充代氏「クローン人間の政治と倫理」。これは、厄介な問題である。田村氏自身も報告書の終章で
対象を「様々な角度から見ているだけで、本体については語ることができない、というもどかしさを覚
えている」と正直に吐露している。クローン人間の問題をも含んでいる生命倫理の問題は、私見による
と(しかし多くの方々の同意を得られるのではないかと思うのだが)、21世紀の人類が解決を迫られてい
る4つの大問題の中のひとつである。他の3つは、
「人権」、
「環境問題」
、
「平和」である。生命倫理の問
題は、
「人権」の問題と通底している。即ち、人間の尊厳を何に依拠させるかという問題である。換言す
れば、理論的根拠の探求である。そして研究者各人が根拠を明らかにしても、その根拠を社会全体の中
に一般化することは不可能であり、ましてや政治権力が特定根拠を全体に強制することは許されるべき
ではない一現在は、価値観多様化の時代なのだから。そうであるならば、この種の問題に対して政治権
力は、「何を為すべきか」「為すべき範囲はどこまでか」の問題に再び出くわすのである。いうまでもな
く、この問いは政治哲学の古くて新しい問題である。われわれはこの問題を「規範的」にも「経験的」
にも考察しなければならぬことを、田村氏は示唆しているのである。
④武田千夏氏「スタール夫人の政治思想」
。フランス革命の「前」と「渦中」と「後」を生きたスタール
夫人は、武田氏によると文学者である前に政治思想家であり、フランス自由主義思想の誕生に大きく貢
献した人であった。報告を聴いていた多くの方々は、フランス自由主義の出発点が多くの問題を抱えつ
227
つ、多元・多様な側面を有していたことに気づかされたことであろう。それ故、逆にみれば武田氏が明
快に結論づけて論を進めていくことに、半信半疑の思いを抱いた人も居たようである。たとえば、ス
タール夫人の道徳的自由論がジュネーヴのカルヴィニズムの影響を受けているという見解において、こ
のことは妥当する。私は正直いって、この時代の歴史的文脈、思想的潮流、政治史的展開について教科
書的知識しか持ち合わせていないので、武田氏の発表内容についてネガティヴにもポジティヴにもなれ
ない。そうであるが故に、ヨーロッパ近代の精神史、文化史、思想史の研究者が質量ともに増々、出現
して欲しいと切に願うのである。フランス革命前後を多角的に研究すること、その成果を政治思想研究
者が虚心に吸収すること、この二つが同時に為されることで、フランス自由主義の揺籃期の姿がわれわ
れの前に明らかにされると私は確信している。
228
執筆者紹介(目次順)
和田 守 1940年生 大東文化大学法学部教授
『民族と国家の国際比較研究』(共編著、未来社、1997年)、
『民友社とその時代』 (共編著、
ミネルヴァ書房、2003年)
金 錫根 1959年生 韓国延世大学校政治外交学科教授
「福沢諭吉の自由と通義──独立不覇の政治学」
(
『福沢諭吉年鑑』
第28号、2001年)
、
「兪吉
濬『文明論之概略』を読む」
(『福沢諭吉年鑑』第30号、2003年)
。韓国語への訳書としては
丸山真男の以下の諸著作。『日本政治思想史研究』、『日本の思想』、
『現代政治の思想と行
動』、『忠誠と反逆』
荒木 勝 1949年生 岡山大学法学部教授
「アリストテレス政治学の基本用語『ポリテウマ』について」
(『岡山大学法学会雑誌』 第
49巻・第3、4号、2000年)
、
「アリスト テレス政治学における『コイノーニア』と家と王の
統治」
(『岡山大学法学会雑誌』
、第50巻・第3、4号、2001年)
大久保健晴 1973年生 明治大学政治経済学部専任講師
「明治初期知識人と統計学──『文明論之概略』と『表紀提綱』との間」(
『東京都立大学法
学会雑誌』41巻・2号、2001年1月)、「西周の初期体制構想──近代日本における立憲思想
の形成とオランダ法学」(『東京都立大学法学会雑誌』44巻・1号、2003年7月)
米澤 茂 1950生
北九州市立大学外国語学部教授
『ソクラテス研究序説』(東海大学出版会、2000年)、"Socrates' Two Concepts of the Polis,"
History of Political Thought, Vol. 12, 1991.
高橋 和則 1970年生 中央大学法学部専任講師
「エド マンド ・バークにおける constitution の概念について」
(『イギリス哲学研究』23号、
2000年)、
「エド マンド ・バークと主権国家──ウェスト ファリア体制擁護の論理」
(池庄司
編『体制擁護と変革の思想』中央大学出版部、2001年、所収)
大竹 弘二 1974年生 東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程
「主権者と亡霊──W. ベンヤミンにおける内在性の問題」(『現代思想』第28巻・第13号、
2000年)、
「自然史とその運命──G. ルカーチとTh. W. アド ルノにおける政治と倫理」
(『相
関社会科学』第10号、2001年)
小島 秀信 1978年生 大阪市立大学大学院経済学研究科博士後期課程
「グローバリズム・イデオロギーと国連の役割」
(
「国際連合大学」
受賞論文、1999年)、
「市
場社会における共同性」(『千葉大学法学論集』第17巻・第2号、2002年)
229
高橋 良輔 1974年生 青山学院大学大学院国際政治経済学研究科一貫制博士課程
「社会国家の構造とその危機──グローバリゼーションと政治的なるものの変貌を背景
に」(
『青山国際政経大学院紀要』13号、2002年)
、「権威と正当性」(押村高・添谷育志編
『アクセス政治哲学』日本経済評論社、2003年、所収)
石井 知章 1960年生 明治大学商学部専任講師
「K・ウィット フォーゲルにおける第二の自然」 (『明治大学教養論集』367号、2003年1
月)、
「K・ウィット フォーゲルにおける国家と社会」(
『明治大学教養論集』380号、2004年
1月)
半澤 孝麿 1933年生 東京都立大学名誉教授 『近代日本のカトリシズム──思想史的考察』
(みすず書房、1993年)
、
『ヨーロッパ思想史
における<政治>の位相』(岩波書店、2003年)
宇羽野明子 大阪市立大学大学院法学研究科助教授
「モンテーニュとレトリックの伝統──人文主義の『寛容』への一視座」(『政治思想研究』
第1号、2001年)、「フランス人文主義の友愛観への一考察──ラ・ボエシの『自発的隷従
論』をめぐって」
(『法学雑誌』第48巻・第1号、2001年)
230
政治思想学会規約
第1条 本会は政治思想学会(Japanese Conference for the Study of Political Thought)と称する。
第2条 本会は、政治思想に関する研究を促進し、研究者相互の交流を図ることを目的とする。
第3条 本会は、前条の目的を達成するため、次の活動を行なう。
1)研究者相互の連絡および協力の促進
2)研究会・講演会などの開催
3)国内および国外の関連諸学会との交流および協力
4)その他、理事会において適当と認めた活動
第4条 本会の会員は、政治思想を研究する者で、会員2名の推薦を受け、理事会において入会を認め
られたものとする。
第5条 会員は理事会の定めた会費を納めなければならない。
会費を滞納した者は、理事会において退会したものとみなすことができる。
第6条 本会の運営のため、以下の役員を置く。
1)理事 若干名 内1名を代表理事とする。
2)監事 2名
第7条 理事および監事は総会において選任し、代表理事は理事会において互選する。
第8条 代表理事、理事および監事の任期は2年とし、再任を妨げない。
第9条 代表理事は本会を代表する。
理事は理事会を組織し、会務を執行する。
理事会は理事の中から若干名を互選し、これに日常の会務の執行を委任することができる。
第10条 監事は会計および会務の執行を監査する。
第11条 理事会は毎年少なくとも1回、総会を召集しなければならない。
理事会は、必要と認めたときは、臨時総会を招集することができる。
総会の招集に際しては、理事会は遅くとも1カ月前までに書面によって会員に通知しなければ
ならない。
総会の議決は出席会員の多数決による。
第12条 本規約は、総会においてその出席会員の3分の2以上の同意がなければ、変更することができ
ない。
付則 本規約は1994年5月28日より発効する。
231
論文公募のお知らせ
学会誌『政治思想研究』の編集委員会では、第5号の刊行(2005年5月予定)にむけて準備を進めて
います。つきましては、それに掲載する論文を下記の条件・要領にて公募いたします。多数のご応募を
期待します。
1 応募時点で、応募者が本会の会員であることを条件とする。
2 応募論文は未刊行のものに限る。但し、インターネット 上で他者のコメント を求めるために発表し
たものはこの限りではない。
3 応募希望者は、可能な限り2004年6月末までに、応募しようとする論文の題目と内容の要旨(A4
用紙1枚程度)を下記の編集委員会宛に送付して、予め応募の意思を示すことが望ましい。雑誌刊
行に支障をきたさないために事前に応募状況を把握しておくことが、必要であるためである。但
し、この手続きを踏んでいない場合でも、下記の締切までに応募した論文は受け付ける。応募の意
思を表明した者に対しては、編集委員会から「応募用紙」と「フロッピーデータ内容連絡表」(下記
参照)を送付する。
4 原稿の締切は2004年8月31日で、厳守する。提出先は以下の通りである。
560−0043 大阪府豊中市待兼山町1−31
大阪大学大学院国際公共政策研究科
米原謙研究室気付
『政治思想研究』第5号・編集委員会
5 応募に際しては、学会事務局ないしは編集委員会で用意している「応募用紙」
(本学会ホームページ
においても提示している)に所定の事項を記入の上で、A4用紙1枚程度のレジュメを添付した論
文2部を提出する。応募用紙の執筆者欄には、氏名・生年・博士以上の学位・現職・主要業績数点
(論文の場合は掲載雑誌名と巻号及び刊行年月、著書の場合は出版社及び刊行年)を150字以内で書
くものとする。但し、提出していただく論文2部には、公平を期するために、著者名を記載せず、
また注記においても著者名が明らかにされないように注意していただきたい。
6 原稿の字数は、注を含めて32000字以内とする。
(厳守のこと)。ワープロ、コンピュータを使用する
場合は、1行30字、1ページ20行で、行間を広くとってプリント アウトする。
『政治思想研究』は横
組みなので、原稿も横組みが望ましい。打ち出した原稿にフロッピーを添えて提出するものとする
が、使用機種・使用ソフト名をラベルに明記の上で、オリジナルの原稿ファイルを加えてテキスト
形式のファイルも添付すること。手書きの原稿も可とするが、ワープロ、コンピュータ原稿が望ま
しい。
フロッピー入稿時の注意
(1)
フロッピーの入稿に際しては、学会事務局ないしは編集委員会で用意している「フロッピー
データ内容連絡表」に記入の上、添付すること。
(2)
改行の場合は、必ず改行マーク(通常はリターン・キー)を入れること。見た目だけの改行
では、改行と認識されないので注意すること。
(3)
テキスト 形式の場合、外字・記号・文字装飾情報は含まれないので、それらに関しては、プ
リントアウトした原稿に朱書きで明示すること。パソコンやワープロで出力できなかった特
殊な漢字や記号についても同様である。
232
7 見出しは、大見出し(ローマ数字 Ⅰ、Ⅱ・・・)、中見出し(アラビア数字1、2・・・)、小見出し
((1)、(2)・・・)を用い、必要な場合にはさらに小さな見出し( i、ii・・・)をつけることができ
るが、章、節、項などは使わないこと。
8 注は、各見出し毎に
(1)
、(2)・・・と付し、プリント アウトしたものに朱書きで明示すること。
9 引用・参考文献の示し方は以下の通りである。
(1) 洋書単行本の場合
K. Marx, Grundrise der Kritik der politischen Ökonomie, Diez Verlag,
1953, S . 75-6 .(高木監訳、
『経済学批判要綱』(1)、大月書店、1958年、79頁)
(2) 洋雑誌掲載論文の場合
E. Tokei, Lukacs and Hungarian Culture, in The New Hungarian
Quarterly, Vol. 13, No. 47, Autumn
1972, p. 108.
(3) 和書単行本の場合
丸山真男『現代政治の思想と行動』第2版、未来社、1964年、140頁。
(4) 和雑誌掲載論文の場合
坂本慶一「プルード ンの地域主義思想」、『現代思想』5巻8号、1977年、98頁以下。
テキスト形式の場合
(5) イタリックの書式情報は認識されないので、プリントアウト のものに赤のアンダーラインを引い
て明示すること。
10 応募論文は、編集委員会において外部のレフリーの評価も併せて慎重に審査した上で掲載の可否を
決定する。応募者には可否の結果を通知するが、公平を期するために不採用の者に対しては評価の
概略を通知する用意がある。また編集委員会が原稿の手直しを求めることもある。なお、応募原稿
は返却しない。
11 校正は印刷上の誤り、不備の訂正のみにとどめ、校正段階での新たな加筆・訂正は認めない。
12 応募論文が本誌に掲載された後に他の刊行物に転載される場合は、予め編集委員会に転載許可を求
めることとする。また、転載にあたっては初出が本誌である旨 を明記するものとする。
13 なお、応募論文が本誌に掲載された場合、原則として同時にホームページ上でも公開されることに
なる。その点についても予めご承諾いただきたい。 以上
『政治思想研究』編集委員会
233
2003−2004年度理事および監事(2002年5月 26 日、総会において承認)
理 事
飯島昇藏(早稲田大学) 飯田泰三(法政大学) 岩岡中正(熊本大学)
小野紀明(京都大学) 加藤 節(成蹊大学・代表理事)亀嶋庸一(成蹊大学)
川崎 修(立教大学) 菊池理夫(松阪大学) 古賀敬太(大阪国際大学)
斎藤純一(早稲田大学) 佐々木毅(東京大学) 佐藤正志(早稲田大学) 鷲見誠一(慶應義塾大学) 関口正司(九州大学) 添谷育志(明治学院大学) 千葉 眞(国際基督教大学) 寺島俊穂(関西大学) 萩原能久(慶應義塾大学) 平石直昭(東京大学) 藤原 孝(日本大学) 松本礼二(早稲田大学)
宮村治雄(東京都立大学) 吉岡知哉(立教大学) 柳父圀近(東北大学)
米原 謙(大阪大学) 渡辺 浩(東京大学) 和田 守(大東文化大学)
監 事
権佐武志(北海道大学) 山田央子(青山学院大学)
234
編集後記
刊行予定の期日より少し遅れをとってしまったが、このたび、学会誌『政治思想研究』第4号(2004
年5月)をお届けできることを嬉しく思っている。本号は、依頼論文3本、公募論文7本、書評2本を
収録することができたが、前号と異なり、政治理論関連の論考よりも政治思想史関連の論考を数多く収
録することができた。応募論文も年々増加しており、今回は全体で16本を数えた。収録した論文以外に
も優れた論考が多く寄せられたこと、審査委員の間で評価が分かれた論考も二、三あったことを特記し
ておきたい。今後とも、年齢を問わず、数多くの会員の積極的な応募をよろしくお願い申し上げたい。
本号の一つの特徴としては、荒木勝会員のアリストテレス論、米澤茂会員のソクラテス論という風に
古典古代ギリシアの政治思想関連の論考を二本掲載できたことを挙げることができると思う。また本号
のもう一つの特徴は、和田守会員の巻頭論文をはじめとして、日本政治思想史関連の論考が三本寄せら
れたことである。そのなかの一本は、韓国延世大学教授金錫根氏による論考「
『福本イズム』と『正友会
宣言』」
であるが、これは韓国政治思想研究会と日本政治思想研究会の第一回共同学術会議において報告
されたペーパーが元になっている。昨年に続いて、韓国政治思想研究会所属の研究者の論文を収録でき
たことは、慶賀すべきことである。仲介の労をお取りくださった飯田泰三会員に感謝を申し上げたい。
また金錫根氏の論文については、大幅な編集と校正の作業を、李英美氏(法政大学・専修大学兼任講
師)と鈴木貫樹氏(法政大学大学院博士後期課程)に担っていただき、大変お世話になった。この場を
お借りして、両氏のご尽力に心からなる謝意を申し上げたい。
本号の刊行が可能となったのは、筆筆者各位のご協力の賜物であり、書評や研究会報告などを快諾く
ださった会員諸氏のご尽力のお蔭である。また今回も7本の掲載論文を決定する作業は大変骨の折れる
ものであったが、編集委員の会員諸氏、ならびに論文審査を委嘱された審査委員の会員諸氏は、労を厭
うことなく、快くその作業をお引き受けくださり、円滑に仕事を進めてくださった。会員諸氏のご愛労
に心より御礼を申し上げたい。
最後になったが、本号の刊行に際しては、本年もまた財団法人櫻田会より出版助成を頂戴した。記し
て謝意を表する次第である。
編集主任 千葉 眞 235
編集後記
刊行予定の期日より少し遅れをとってしまったが、このたび、学会誌『政治思想研究』第4号(2004
年5月)をお届けできることを嬉しく思っている。本号は、依頼論文3本、公募論文7本、書評2本を
収録することができたが、前号と異なり、政治理論関連の論考よりも政治思想史関連の論考を数多く収
録することができた。応募論文も年々増加しており、今回は全体で16本を数えた。収録した論文以外に
も優れた論考が多く寄せられたこと、審査委員の間で評価が分かれた論考も二、三あったことを特記し
ておきたい。今後とも、年齢を問わず、数多くの会員の積極的な応募をよろしくお願い申し上げたい。
本号の一つの特徴としては、荒木勝会員のアリストテレス論、米澤茂会員のソクラテス論という風に
古典古代ギリシアの政治思想関連の論考を二本掲載できたことを挙げることができると思う。また本号
のもう一つの特徴は、和田守会員の巻頭論文をはじめとして、日本政治思想史関連の論考が三本寄せら
れたことである。そのなかの一本は、韓国延世大学教授金錫根氏による論考「
『福本イズム』と『正友会
宣言』」
であるが、これは韓国政治思想研究会と日本政治思想研究会の第一回共同学術会議において報告
されたペーパーが元になっている。昨年に続いて、韓国政治思想研究会所属の研究者の論文を収録でき
たことは、慶賀すべきことである。仲介の労をお取りくださった飯田泰三会員に感謝を申し上げたい。
また金錫根氏の論文については、大幅な編集と校正の作業を、李英美氏(法政大学・専修大学兼任講
師)と鈴木貫樹氏(法政大学大学院博士後期課程)に担っていただき、大変お世話になった。この場を
お借りして、両氏のご尽力に心からなる謝意を申し上げたい。
本号の刊行が可能となったのは、筆筆者各位のご協力の賜物であり、書評や研究会報告などを快諾く
ださった会員諸氏のご尽力のお蔭である。また今回も7本の掲載論文を決定する作業は大変骨の折れる
ものであったが、編集委員の会員諸氏、ならびに論文審査を委嘱された審査委員の会員諸氏は、労を厭
うことなく、快くその作業をお引き受けくださり、円滑に仕事を進めてくださった。会員諸氏のご愛労
に心より御礼を申し上げたい。
最後になったが、本号の刊行に際しては、本年もまた財団法人櫻田会より出版助成を頂戴した。記し
て謝意を表する次第である。
編集主任 千葉 眞 235
(暫定)
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