テクノえっせい - 中国経済産業局

テクノえっせい 327
殻を割って飛躍しよう
広島工業大学名誉教授
中山勝矢
明けまして、おめでとうございます。
正月というと、頭に浮ぶものが多々あります。門松、お雑
煮、おせち料理、凧、羽子板、百人一首など、どれも懐かし
く、まさにわが国の無形文化財のように思えます。(写真1)
三が日は、年賀に訪れる人が少なからずありました。母
の「その度に台所に立たなくて済むよう、お料理を重箱に
詰めておくのよ」という味わいある言葉を思い出します。
●デパート誕生の背景
(写真1)お馴染みの和食「お節料理」
子どもにとってお正月の楽しみは、何と言ってもデパート
のレストランに行くことでした。せいぜいカレーかトンカツで
すが、イス席での洋食が幸福な気分にさせたのです。
いまのようなファミレスのないころ、そこは庶民的な場所
でした。大阪の阪急デパートでは皿に白い飯だけを注文し、
卓上に置かれたソースで食べる客までいたといいます。
著名な実業家である小林一三氏はそれを知り、断るので
はなく、メニューに新しく 「ソーライス」 と書き加えさせた
という話が残っています。さすがという外ありません。
日本で百貨店と呼ばれるデパートメントストア。その最初
は1852(嘉永5)年にパリで開店したボン・マルシェ。発明し
た人はアリステッド・プシュコー夫妻でした。
夫妻が市内に用意した建物は、前年にロンドン万博でク
リスタルパレスと呼ばれて注目を浴びた、鉄骨とガラスから
なる巨大な建造物を模したものでした。(写真2)
(写真2)誕生したころのボン・マルシェ・
デパートの内部。ロビーは豪華絢爛
に作られていた。(参考資料から引用)
旬レポ中国地域 2014年1月号
入るとロビーは吹き抜けで、オペラ座のようなシャンデリ
アが高い天井から下がっていたとあります。そこは単なる
織物類の売り場でなく、各種の専門店が集められていまし
た。
18世紀に英国で始まり西欧に波及した産業革命によって、
必要なものが大量に安価に作られ、市場に供給される時
代が来ていました。庶民の生活レベルは向上したのです。
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その結果として生まれたゆとりのある専業主婦たちは、お
互いに交流する場所を欲していました。織物類を扱う商人
だったプシュコー夫妻は、これを見逃さなかったのです。
それまで貴族の婦人たちは、チュイルリ公園やブローニュ
の森などの社交場に馬車で出かけていました。しかし中産
階級の婦人たちは、そこまでは手が届きません。
また当時、市中にあったバーやカフェ、あるいはレストラン
やクラブは男たちの溜り場になっていて、主婦たちが気軽に
出入りできるところではありませんでした。
●レストランを置いた狙い
夫妻は、お互いがお喋りを楽しめる待合室を兼ねた読書
室を設けて新聞や雑誌だけでなくレターセットも置き、壁面
には庶民が好む絵を売り絵として掲げたのです。(写真3)
そして当初からその隣室には、シロップなどが飲め、とき
には軽く食事ができるビュッフェが用意されていたというの
です。これがレストランに発展するわけです。
従来は必要になったら注文して作らせる方式でした。これ
をやめ、豪華絢爛の場所に人を誘い、まず品物を見せて購
買意欲を起こさせる新しい商法が、ここに始まったのです。
(写真3)人が自由に集まれたボン・マルシェの
読書室。新聞、雑誌、レターセットが用
意してあり、壁面には客が好む風景画
の売り絵が懸けてあった。(参考資料から
引用)
これこそはイノベーションであり、ニュービジネスの誕生で
す。わが国におけるデパートの開業はだいぶ遅れ、1904
(明治37)年の三越呉服店に始まるとされています。
そのとき、「米国で行われているデパートメントストアの一
部を 実現すべく努める」と宣言していますが、プシュコー夫
妻のような狙いを持っていたのか、やや疑問を感じます。
岸恵子さんが著書「私の人生 アラ・カルト」の中で、「卵を
割らなければオムレツは作れない」というフランスのことわざ
を紹介しています。
新しいことに挑むには、古い殻を割ることが必要です。新
しい年には、ぜひ大きな飛躍を試みたいものです。
(参考資料)鹿島 茂著「パリ・世紀末パノラマ館」
(角川春樹事務所1996年4月)
経済産業省 中国経済産業局 広報誌
旬レポ中国地域 2014年1月号
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