2009年 1月

THE REVIEW OF TAKUSHOKU UNIVERSITY:
POLITICS, ECONOMICS and LAW
Vol. 11 No. 1
January 2009
Articles
Hideo HATADA
拓
殖
大
学
論
集
拓殖大学論集 (273)
政
治
・
経
済
・
法
律
研
究
ISSN 1344 6630
政治 ・ 経済 ・ 法律研究
第 11 巻
第 1 号
The Means of Reforming Social System in
Hidetaka KOBAYASHI
2009 年 1 月
( 1 )
J.-B. Say’s Olbie
Determinants of Democratic Consolidation:
Economic and Institutional Factors
( 21 )
第
11
巻
第
1
号
(
Study Note
Rintaro MURAKAMI
On The Recent Behavior of McDonald’s Japan
( 47 )
)
拓
殖
大
学
論
集
273
Essay
Kazuaki KOBAYASHI
China: A Thought of “The Tian an men Accident”
論
文
英夫
( 1 )
秀高
( 21 )
マクドナルドの最近の企業行動について ……………………………………村上倫太郎
( 47 )
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革 …………………………畠田
デモクラシーの定着とその要因
経済要因と制度要因 …………………………………………………………………小林
研究ノート
( 55 )
in Peking
随
Submission of Manuscript to The Journal of Politics, Economics and Law ………………( 71 )
想
一秋
( 55 )
「拓殖大学論集
政治・経済・法律研究」 投稿規則 ………………………………………
( 71 )
「拓殖大学論集
政治・経済・法律研究」 執筆要領 ………………………………………
( 74 )
中国北京
天安門事件
雑感 ……………………………………………………小林
Instructions for Contributors …………………………………………………………………………( 74 )
Edited and Published by
INSTITUTE FOR RESEARCH IN POLITICS & ECONOMICS
TAKUSHOKU UNIVERSITY
Kohinata, Bunkyo-ku, Tokyo 112 8585, JAPAN
拓
殖
大
学
政
治
経
済
研
究
所
拓殖大学政治経済研究所
Vol. 11 No. 1, pp. 120
政治・経済・法律研究
J.-B. セー
January 2009
オルビー
における社会制度の改革
畠
田
英
夫
はじめに
フランスの経済学者ジャン バティスト・セーが, 彼の主著
の執筆に着手したのは 1800 年のことである (Blanc et Tiran 2003, 185)。 その同じ
politique
年に
経済学概論 Trait
e d’
economie
オルビー, または国民の習俗を改善する方法に関する試論 Olbie, ou essai sur les moyens
de r
eformer les murs d’une nation
(以下,
オルビー
と略記) は出版された。
はセーが本格的に経済学に取り組み始めた時期の論考である。 しかし,
オルビー
オルビー
が論じてい
るのは, 国民をどのようにして幸せにするかという問題であり, 経済学よりも広い枠組みをもっ
ている。 その中でも, 経済学への言及をたびたびおこなっている。
経済学概論
執筆に取り組
みはじめた時期に, 経済学についてどのようにセーは考えていたか。 セーの経済学に対する視角
を, 広い枠組みで社会制度の改革を議論した
さて, この
オルビー
オルビー
を対象にして検討したい。
は, 国立学士院 「道徳と政治の科学類」 の懸賞論文コンクールに応募
した論文を出版したものである。 1795 年, 王立アカデミーに代わる組織として国立学士院は設
立された。 国立学士院は学問分野で 3 つの類 (クラス) に分かれており, その 1 つが 「道徳と政
治の科学類」 である。 それはさらに下位区分として 6 つの部門に分かれていた(1)。 「道徳と政治
の科学類」 は 1803 年にナポレオンによって解体されるが, その 4 年 3 か月余りの間に全 6 部門
で 29 回の懸賞論文コンクールが開催された。 セーが応募した道徳部門では 4 種のテーマで 5 回
開催された (Staum 1996, 2449)。
オルビー
は, その応募論文に序文を付して出版された。 全 144 ページの原著は, 懸賞論文
の経緯等を述べた序文・本文の要約・本文・後注からなっている。 そのうち 52 頁が, 本文中 26
箇所に付けられた後注であった。 1800 年の版以降の諸版, セーの死後出版された
纂
(1848 年) 所収の版, 1971 年 Jean-Pierre Frick 編集版では, この後注が削除された。 後注
を含む完全なものは, 1999 年
と, 2003 年
本稿では
と
J.-B. セー雑
ジャン バティスト・セー全集
全集
版を使用し,
オルビー 」 では,
の経緯と
ジャン バティスト・セーの社会経済学
オルビー
オルビー
オルビー
所収の英語版を除く
第 5 巻所収の版となる。
の特徴を明らかにする。 「Ⅰ. 国立学士院懸賞論文
序文を中心に検討する。 序文では, セーが応募した懸賞論文
の方法上の意図を述べている。 序文の検討により
―1―
オルビー
を解釈する
うえでの留意点を明らかにしたい。 「Ⅱ.
本文・後注を対象とする。
オルビー
オルビー
にみる社会制度の改革」 では,
オルビー
については書名こそ知られているものの, 全体の内容に
ついてはほとんど紹介されてこなかった(2)。 そこで, セーの議論を紹介・検討したうえで, その
主旨を明確にしよう。 「Ⅲ.
オルビー
の特徴」 ではⅠ・Ⅱの議論を踏まえて
オルビー
の形
式上・内容上の特徴を明らかにする。
Ⅰ. 国立学士院懸賞論文と
オルビー
オルビー
序文では, 国立学士院の懸賞論文コンクールの経緯と, その結果を受けて応募論
文をなぜ出版したかについてセーは述べている。 しかし, このコンクール経緯の説明は誤解を与
えやすいものだ。
経緯について
オルビー
オルビー
学類」 の研究には
を評価するうえでの留意点を明らかにするため, 本コンクールの
序文と実際の経緯とを比較・検討する。 国立学士院 「道徳と政治の科
ミネルバのメッセージ
ても詳しい。 本書を主な手がかりとして
(Staum 1996) があり, 懸賞論文コンクールについ
オルビー
序文を検討しよう。
1. 第 1 回コンクール経緯
J.-B. セー遺稿集
経済学雑纂と経済学関係往復書簡 M
elanges et correspondance d’
economie
politique, ouvrage posthume de J.-B. Say
はセーの娘婿シャルル・コントによって出版された。
その巻頭にコントはセーの伝記を付した。 そのなかで, 本節で問題にする
緯に関する箇所は,
オルビー
オルビー
の出版経
序文を要約したもののようだ。 そこでは, 学士院による懸賞課
題は 3 度提起され, 第 3 回コンクールにセーは応募した, と記されている (Comte 1833, ix)。
コントがその説明に用いたであろう
[1]
オルビー
序文の該当箇所を見てみよう。
国立学士院は, 共和暦 5 年, 懸賞課題として次の質問を提示した。 すなわち, 「国
民の道徳を確立するのに最も適切な方法は何か」 である。 これは, いままでいかなる学会に
よっても提起されたことのない優れた設問のひとつである。 共和制の実現にあたり, 君主制
の習慣になじんできた人材しか持たないフランスにおいては, とりわけ高度な有用性をもた
らすものである。 だが残念なことに, この課題は学士院が賞に値すると判断しうるようない
かなる論文をも生み出すことはできなかった。
[2]
そこで学士院はこの課題を再提示したが, その取り扱いをさらに困難にするような
条件を付したのである。 「方法は何か」 ではなく, 「制度は何か」 を学士院は求めた。 あらゆ
る方法が用意されているにもかかわらず道徳を確立することができないというのに, 「制度」
ではない 「方法」 を処理する能力を奪われたら, 成功の確率はさらに低くなるだろう。
[3]
さらに, 新たな実施条件では, 応募者に認められる裁量の余地がさらに狭められ,
―2―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
そして逸脱を許さないガイドラインが設けられたのである。 学士院は, 委員会の報告書に基
づき, 今回もまたコンクールに応募してきた著作のいずれもが実施条件を満たしていないと
判断し, 課題を撤回した。
[4]
以下に掲げる試論がこのコンクールに送付されたものであるとはいえ, 私は学士院
決定にまっさきに賛同する 1 人である。
Say [1800] 2003 [以下, Olbie と略記], 191. [ 1 ]
∼[ 4 ]は段落番号の指示であり, 引用者による。
国立学士院による懸賞論文課題の変更と懸賞論文結果の推移をセーは述べて, [ 1 ]・[ 2 ]・
[ 3 ]のコンクールはすべて別のもののように書いている。 コントの説明もこれによったのであろ
う。
しかし, 実際の経緯は次のようなものであった (Staum 1996, 2449 : Blanc et Tiran 2003,
1856)。
1797 年 7 月 3 日 (共和暦 5 年メシドール 15 日) の一般公開会議において, 国立学士院第 2 類
「道徳と政治の科学類」 道徳部門は 「国民の道徳を確立するのに最も適切な方法は何か」 をコン
クールの課題とした(3)。 提出期限は 1798 年 4 月 4 日 (共和暦 6 年ジェルミナール 15 日), フラ
ンス語での提出が義務づけられた。
この課題の 「方法」 の語は 「制度」 とすべき箇所の筆写ミスであったため, 正しくは 「国民の
道徳を確立するのに最も適切な制度は何か」 である旨, 学士院は新聞に訂正記事を出した。 学士
院賞記録簿には, 第 1 回懸賞論文の文面訂正が残されており, 「方法」 が横線で消され, その上
に 「制度」 の語が書き加えられている。
1797 年 10 月 6 日 (共和暦 6 年ヴァンデミエール 15 日) に開催された次の一般公開会議で,
論文審査委員の 1 人であるレドレルが訂正を再度告知した。 その演説は 「本会議で訂正を告知し,
コンクールに応募するかもしれない書き手に注意をうながす」 (Rderer [1797] 1999, 192) 趣
旨で行われた。 「方法」 と 「制度」 の違いについては次のように説明された。 コンクールで求め
られている議論は一般的な原理だけでなく実証的で実践的な提言である。 「方法」 の語はあいま
いで抽象的な議論を招きやすいため 「制度」 とする, と。 さらには, 課題の 「制度」 を検討する
うえでの留意点についても説明がなされた。 すなわち, 市民制度・政治制度・宗教制度といった,
あらゆる社会制度が国民の道徳に例外なく影響を与える。 しかし…と以下のように続ける。
しかし, これらの制度に加えて, 狭い意味で道徳制度があり, その他の諸制度の下位に分
類される。 市民・政治・宗教制度は, 道徳以外にも安全・繁栄・一般的あるいは特殊な福祉
といった目的をもっているかもしれない。 この 1 点で, これらは道徳制度と区別される。 そ
して, ひとつの特別な目的そしてしばしば唯一の目的として, 市民の道徳性という目的を道
―3―
徳制度はもつのである。
国立学士院が 「国民の道徳を確立する制度は何か」 を求めたときに意図しているのは, こ
れら道徳制度であることは明らかである。
(Roederer [1797] 1999, 1923)
レドレルのこの演説はほどなく 10 月 11 日 (ヴァンデミエール 21 日) の
Journal d’
economie politique
一定の見解が
政治経済学雑誌
に 「所見」 として掲載された。 また, 1798 年には本件に関する
哲学・文学・政治学旬報 la D
ecade philosophique, litt
eraire et politique
にも
掲載された (Blanc et Tiran 2003, 185)。 このように懸賞課題の訂正の周知が図られた。 そして
提出期限は変更されなかった。 これが, 国立学士院第 2 類 「道徳と政治の科学類」 道徳部門が実
施した第 1 回のコンクールである。 結果は, セーの引用[ 1 ]にもあるように, 懸賞受賞者は出ず,
3 名が選外佳作とされた。
以上の経緯を見ると, セーの引用[ 1 ]・[ 2 ]は同じ第 1 回のコンクールでの話だということに
なる。
2. 第 2 回コンクール経緯
セーの引用にもあるとおり, セーが応募したのは第 1 回コンクールではない。 しかし, コント
が記したように第 3 回コンクールでもない。 1798 年 10 月 6 日 (共和暦 7 年ヴァンデミエール 15
日) に発表され, 翌年 10 月 6 日 (共和暦 7 年ヴァンデミエール 15 日) の 1 年の募集期間を設け
た, 第 2 回コンクールへの応募である。 課題は 「社会の人間が幸福になりうる習慣を身につけさ
せるのに最も適切な制度は何か」 であった。 課題の文言は前回コンクールと大きく異なっている。
しかし, 前回と同じく 「道徳と政治の科学類」 道徳部門が同一テーマで第 2 回コンクールとして
出した課題である。 この改訂は課題を明確にするための変更であった(Staum 1996, 245)。
1800 年 1 月 5 日 (共和暦 8 年ニヴォーズ 15 日) の一般公開会議で, 第 2 回コンクールの審査
結果が出された。 今回のコンクールには, セーを含む 6 人の応募があった。 全集版
オルビー
編者イントロダクションから, 審査委員の 1 人であったジャングネの審査報告を引用する。
ジャングネはその報告書の中で, 政治制度・市民制度・宗教制度・純然たる道徳制度を区
別すべきであったと述べ, 以下のように続ける。 「しかるのちに, 道徳制度を主要テーマと
して取り上げ, 次の考察を行うべきであろう。 すなわち, a) 心を照らす制度 (公教育・国
立学校・教育協会・書籍や定期刊行物の出版・図書館, 演劇など), b) 魂に温もりを与え
る制度 (記念碑・美術・オベリスク・彫像・祭典), c) 習慣を支える制度 (家庭制度)」。
これらのさまざまな側面を才能と方法論とを駆使して論じ, 最終的には 「 所見
の執筆
者が正当にも家庭的習俗の大いなる調節装置, 個人の道徳の偉大なる教師と呼んだこれらの
―4―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
制度を, 必要な補完要素として提示しえた論文こそが, 最も高い評価をもって迎えられ, 学
士院に賞の授与の希望を抱かせるものとなったであろう」。
(Blanc et Tiran 2003, 186)
レドレルの 「所見」 に言及し, 「所見」 で述べられた道徳制度の 3 つの分類を用いて審査結果
を報告していることから, 第 2 回コンクールは前回の審査基準を踏襲していることが伺われる。
第 1 回・第 2 回のコンクールでの課題文から受ける印象は大きく異なるが, 国立学士院の取り扱
いとしてもその選考方式にしても同一テーマの 2 つのコンクールだったことが確認できる。
セーの序文に戻ると, [ 3 ]で述べている 「逸脱を許さない」 ガイドラインとは, ジャングネの
報告にもあったレドレルの 「所見」 を指すと考えるのが妥当だろう。 そして, このガイドライン
である 「所見」 は第 2 回のコンクールでも踏襲されたとはいえ, 第 1 回コンクール向けにその募
集期間中に示されたものである。
オルビー
序文におけるセーが応募した国立学士院懸賞論文
の経緯の説明は, 第 2 回コンクールの 「課題を撤回した」 という表現も含めて正確さを欠いた説
明であろう。
また,
オルビー
本文の議論は, 以上のような実際の経緯を踏まえて解釈されねばならない。
第 1 回・第 2 回ともに 「国民の道徳を確立するのに最も適切な制度は何か」 を大きなテーマとし
て募集したコンクールであるとはいえ, セーが応募した懸賞論文課題は 「社会の人間が幸福にな
りうる習慣を身につけさせるのに最も適切な制度は何か」 である。 また, その論じ方についても
レドレル 「所見」 の制約を受けていた。 そして
オルビー
の副題は 「国民の習俗を改善する方
法に関する試論」 である。 これらの点にあらためて注意しておこう。
3. セー論文に対する評価と出版の意図
セーが応募した第 2 回コンクールの結果でも受賞者は出ず, 3 名が選外佳作となった。 セーの
論文はこの選外佳作の 1 つに選ばれた。 国立学士院 「道徳と政治の科学類」 道徳部門が実施した
コンクールの受賞者は全 5 回のうち 1 名のみである。 同部門の懸賞論文コンクールは狭き門だっ
た(4)。 審査委員ジャングネの報告書にはセーの論文に対して以下の論評が加えられている。
道徳規範を認めかつ一般的にそれを守る国民は, 最も恵まれた国民であることをまず基本
原則としたうえで, 執筆者 [J.-B. セー] はこの原則を想像上の国民, すなわち幸せの国の
住民オルビアンの歴史にあてはめる。 以前は奴隷であったこの人々は, 革命によって解放さ
れ, それから半世紀のあいだにみずからの習俗や習慣を良い制度によって変えることにより,
自由の体系をより確固たるものとし, 完全な幸福を享受していると考えるのである。
これは一種のユートピアであり, その枠組みは見ての通り斬新なものではないにせよ, あ
る程度までは, 実践的およびスタイル的な長所を有している。 提示されているものは論理で
―5―
はなく, 絵画 [タブロー tableaux] である。 そして, 他の者が理論と体系のなかに収めた
ものを行動に置き換えている。 しかしながら, 要求されているものはまさしく体系であり理
論なのである。 この多様かつ複雑なテーマが, こうしたまったく皮相な方法によって掘り下
げることができないのは明らかである。
(Ginguen
e [1800] 2003. 1867. 下線は引用者による。)
セーによる応募論文をジャングネは端的にまとめたうえで, 「ユートピア」・「絵画」 と特徴づ
け, そのアプローチを批判する。 ジャングネの論評の通り, 本論の大半が想像上の国オルビーを
舞台にした議論であり, その歴史・制度・生活の話である。 「絵画 (タブロー)」 は, 絵画・情景・
描写・劇中のシーンなどを意味する語だが, オルビーでの生活・政治だけでなく, ローマやスパ
ルタといった歴史のエピソードや卑近な具体例がいろいろと取り上げられる。 このような生活場
面・エピソード・具体例のことを絵画といっているのであろう。
これらの特徴についてはⅢ1 で検討する。 まずは, 以上の評価をセーはどのように受け取っ
ていたのだろうか。 ジャングネによる論評をセーは引用しつつ (上記引用下線部), 自身の方法
論上の意図を
オルビー
序文で説明している。 なお, 以下の引用はⅠ1 での
オルビー
引
用に続く段落である。
[5]
委員会によれば, 私の方法によって 「提示されているものは論理ではなく, 絵画
[タブロー tableaux] である。 そして, 他の者が理論と体系のなかに収めたものを行動に置
き換えている。 しかしながら, 要求されているものはまさしく体系であり理論なのである」
という。
[6]
まず, 私は自分の絵画にそれぞれの理由を理解してもらえるよう充分な論理づけを
したと考えている。 これは読者が判断するだろう。 次に, ある学会によって開催されたコン
クールに応募する著作は, その学会のみを対象としているものではないと私は考えた。 学会
のメンバーが応募者に望むことは, 彼ら自身を啓蒙してくれることではなく, 一般的な意見
に影響をおよぼし, 有益な真実を普及させ, そして危険な誤謬を打破しうるような著作に取
り組むことであったろう。 であるならば, その目的に到達するのは抽象概念によってではな
く, もし私が間違っていなければ, 理性の教えを優雅な話法と魅力ある感性とで包み込むこ
とにより達成されるであろう。 おそらく, 私は到底その域に到達していなかったであろう。
しかし, 私がそうありたいと願ったことをもって, 学士院の委員会は私を非難すべきだった
のだろうか。
[7]
この論文を作成するにあたっての私の主たる願いは, 自分を役立てたいということ
であった。 それを肝に銘じた。
(Olbie, 1912. [ 5 ][ 7 ]は段落番号の指示であり, 下線は引用者による。)
―6―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
[ 5 ]は見ての通りほぼジャングネの論評の引用である。 その中でも, ジャングネが 「絵画」 と
評価する部分を取り上げている。 セーは 「絵画」 の手法が意図的かつ妥当なアプローチだと主張
したいようだ。 課題テーマについて十分な論拠をもって話を進めている。 一般の読者を啓蒙する
には, 文学的な魅力を備えた議論でなくてはいけない。 「絵画」 の手法は, (おそらくユートピア
を用いた議論も含めて) 一般読者向けの工夫であるとセーは主張したのである。 そして, 一般読
者に自分の論文の審判を仰ぎ, 一般読者を通じて論文を有益なものにしたいと考えた。
Ⅱ.
オルビー
にみる社会制度の改革
前節Ⅰで見たとおり,
オルビー
の議論は一般読者に分かりやすい議論を意図してユートピ
アを想定し, さまざまなエピソードを盛り込んだ議論となっている。 その一方で, ユートピアの
議論も十分な理屈をともなったものだとセーは述べていた。
オルビー
本論での議論がセーの
いうとおりであれば, ひとつひとつのエピソードも論理的な全体としてとらえ直すことができる
だろう。 本節Ⅱでは, 絵画のようなエピソードが多く含まれる議論を順に追って辿ったあとに,
セーが懸賞論文課題にどのように答えたのかを問題にする。 Ⅱ1 では原理的な考え方を, Ⅱ2
ではオルビーでの具体化を, Ⅲ3 では懸賞論文課題にそったセーの解答を検討する。
1. 習俗を改善するための 2 つの制度
教育と矯正の制度
習俗 (murs) という言葉は, 人や国民の生活上の行動における恒常的な習慣を意味してい
る。 その習俗の科学が道徳学 (morale) である。 道徳学の目的は, 人間の本性と両立する幸福
のすべてをもたらすことである。 その目的を果たすために, 人や国が従うべき道徳規範を整備す
るのが道徳学者 (moralist) の仕事である。 道徳規範にしたがって行動をするような習慣を道徳
性 (moralit
e) というが, 道徳規範を知り道徳規範を全般的に守る国こそ, もっとも幸福な国と
なるだろう。 以上のように基礎的な概念をセーは定義する。
そして, 道徳学者によって道徳規範は整えられているものとセーは想定し, どのような方法で
人々を道徳規範に従わせるかについて考察する。
国民の習俗を改善するためには 2 種類の制度が必要であるという。 1 つは子どもの世代に対す
る教育に関連する制度であり, もう 1 つは大人に対する矯正の制度である。 子どもの世代は未来
への種まきである。 教育によってすべての国民が道徳性をもてば習俗は改善するだろう。 しかし,
現状では教育の時期をすぎた大人の世代も存在する。 現状の大人の世代に対しては別に, 彼らを
正しく導く矯正の制度が必要である。
さて, 教育には, 肉体的・精神的指導と知識教育の 2 つの目的がある。 ルソーは肉体的・精神
的指導の側面を重視した。 肉体的・精神的指導は良い習慣の形成を目的としており, 良い習慣は
良い習俗に他ならないからである。
―7―
しかし, 知識教育の側面もまた習俗に影響をおよぼすとセーは考える。
第 1 に, 知識教育には習俗を穏やかにする効果がある。 一般に, 知識教育を受けた者は悪事を
犯したり, 害を与えたりすることが少ない。 農業を学び, 植物の栽培やその経済的な利用法を知っ
ている者は, それを切り倒そうとしない。 それと同じように, 社会秩序や国民の幸福を築く基礎
について学んだ者は, それを大切にする。 第 2 に, 知識教育はわれわれ自身の利益に関して啓蒙
してくれる。 たとえば, 労働者は真の利益を理解していれば, それを考慮して貯蓄し老後に備え
ることができる。 これらの意味で習俗に影響をおよぼす知識教育もまた, 習俗にとって重要であ
る。
教育の原理についてはルソーらによって確立しているものとセーは考えた。 そのうえで, どの
ようにしたら遅れた国民に教育が受け入れられるかという問いをたてる。
ここでセーが問題にしているのは, 悪い習慣に染まった国民の中で子どもたちの教育の成果を
あげるためにはどのような環境が必要かということだ。 そのためには, 偏見を助長するような制
度自体をなくすことが必要だとする。 そして, すぐれた教育者とすぐれた著作があるのであれば
心配する必要はないという。 読書教育に全力を挙げるべし, と主張する。
ただし, 生活が窮乏する者にとっては, 書物は無益なものにしか映らないだろう。 彼らに子ど
もの教育を求めるのではなく, できるだけの平穏と物質的な充足をもたらすに足る分け前を与え
なければならない。 生活のゆとりを国民に与えることが教育の前提となるのである。 したがって,
出発点は物質的な充足をもたらす所得である。 所得分配は経済システムの成果に他ならない。 そ
れゆえ経済学は重要な学問である。
国民の習俗を改善するための 2 つめの制度は, 大人に対する矯正の制度である。 教育を受けぬ
ままに成長した者に正しく振る舞うようにさせるにはどうすればよいだろうか。 法律が正しい生
活を命じない国はない。 罪人には神罰を, 善行にはすばらしい褒美を約束しない宗教はない。 に
もかかわらず, 犯罪や欺瞞といった悪事が絶えないのは, 人間の法も神の法も習俗を確立するの
には無力であることを示している。
この問題に対するセーの解答はこうだ。 習俗を確立するための方法は心の中にある。 人は幸せ
を, しかも手近ではっきりと感じ取れる幸せを望む。 犯罪によってそれが得られるなら犯罪に手
を染める。 であれば, 徳行が幸福に通じるようにすればよい。 人間の欲望を抑えようとはせずに,
それを利用し, 人がそうしたいと望むようにし向けることで解決できる。 徳行を好ましいものに
するとともに, 利益になるものにすべきなのだ。 利益によって動機付けを行い徳行に人を向かわ
せるようにする。 これが国民の道徳を確立するのに適した制度を考えるうえで重要な原則である。
2. オルビーの社会制度
このように制度改革の原則をセーは提起する。 そしてこの原則を実行に移した国としてオルビ
オスという国, フランス語でオルビーを取り上げる。 オルビーは絶対君主制を革命によって打ち
―8―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
倒し, 政治的自由を確立し, 習俗を全面的に換えることによって自由の体系を打ち立てた。 その
国民はオルビアンという。 オルビアンは約半世紀前から正しい法律に基づく自由を享受している。
さて, このオルビーでの社会制度の改革はどのようにしておこなわれたか。
革命後, 国の指導者は財産の不平等の是正に着手した。 大多数の家庭がそこそこのゆとりをもっ
て生活しうる状況, 極端な貧困や富裕がほとんどない状況を, 良い習俗が育まれるのに最も好ま
しい状況と考えた。
国民を極端な貧困や贅沢から守るためには, 立法・行政の全体が経済システムに合致していな
くてはならない。 それゆえ, オルビアンにとって第 1 の書は良き経済学概論の書であった。 経済
学の知識無くして行政の重要な地位にはつけないようにした。 そのおかげで, 重要な問題に対し
て良い決定がなされるようになり, 経済学に合致したシステムができ, すべての政府機関の活動
はそれにしたがった。 その結果, そこそこのゆとりがごく普通となり, 行き過ぎた富裕も貧困も
ほとんどなくなった。 市民は適度な労働に携わるようになり, 性格は穏やかになり, その他すべ
ての美徳の母である, 正義と慈善とに心が向けられた。
このように習俗を改善する基礎を築いた後に, それを維持し向上させる制度がオルビーにはあ
る。
労働への愛着の涵養
無為は諸悪の源の 1 つである。 無為を源に生まれる諸悪から国民を守るために, オルビーでは,
生活手段などを各市民に申告させ有益な活動に携わるよう促した。 これはアテネにあった法律だ。
それを改変し, 収入がなくとも有益な活動をしていれば, その申請を受け入れることにした。 た
とえば, 生活手段の代わりとして申請された活動としては, 研究・実験・教育活動などがある。
このようにして, 全市民が金銭収入の有無にかかわらず有益な活動に携わるようにした。
貪欲さは危険な障害になる。 収入を生まない活動を正式に認めるとともに, 労働の動機が利欲
だけにならないようにした。 幸福の維持や社会の維持にとって, 科学・美術・文学に専心する人々
の存在が必要とされる。
また, 労働への愛着を労働者階級に促すため, 共済金庫を設立した。 少額から貯蓄することが
でき, 退職時には一定の財産や終身年金を保有できるようにする制度である。 この制度によって,
職人たちは将来の生活を考慮に入れて, 給料のかなりの部分を貯金するようになり, 退職後も家
族でのんびりと生活を楽しめるようになった。
反道徳的制度の廃止
立法・行政の道徳性なくして人々の道徳性をあてにすることはできない。 オルビーでは, 道徳
に反する宝くじを廃止し, 賭博場を禁止した。 オルビーは宝くじの廃止に伴う財政収入の減少よ
りも習俗の悪化による不利益を重んじた。 宝くじやギャンブルは金銭欲を刺激し, 怠惰や窃盗を
―9―
も引き起こし, 国家の繁栄にとって有害な風潮, すなわち自分の財産を築くのに勤勉さより運を
あてにするような風潮を助長するからである。 このようにしてできるだけ堕落の原因を取り除い
ていった。
褒賞制度と価値観の変革
品行の良さや善行には褒賞を授与した。 権力や報酬を伴う役職・兵役免除・名誉ある使命など
あらゆるものが褒賞の手段となった。 褒賞の対象も広く設けられた他, その選考結果も透明なも
のとした。
共和制における選挙は徳行の真の褒賞の機会とみなされるようになった。 そして住民同士がお
互いによく知り合う場を作り, 全体の利益に好ましい選挙が行われるような環境を整えた。
人民が良い選択をしたのは, 指導者が模範を示したからである。 道徳性の模範を示した政府の
もとでは国民もまた道徳性を欠くことはない。 有権者は, 誠実で教養があり公共心が深く不偏不
党の人が顕職を占めるのを見て, 資質を評価するようになった。 また, 候補者は黄金よりも功績
が有利な手段であることに気づき, 功績を重視するようになったのである。
黄金が役に立てば立つほど, 人は徳を犠牲にして黄金を選ぶ。 黄金の力を抑制するために, オ
ルビアンの主要な人たちは奢侈に対して深い軽蔑の念を表明した。 そして国の指導者たちは服装・
娯楽・社交に関するものを全般的に簡素にした。 それによって人々も同じ習慣を身につけるよう
になった。 贅沢は世論の攻撃を受け, より広範なゆとりに席を譲ることになった。 このようにし
て習俗が改善されるとともに, 幸福が増大した。
また, 奢侈の風潮が衰えていくにしたがって, より賞賛に値する, より生産的な方向に貨幣は
用いられるようになり, 製造業が活性化した。 金持ちたちは慈善家と呼ばれる栄誉を求めて私財
を公共的な事業に投げ打つようになった。
女性の徳の涵養
女性が有徳でなければ, われわれがそうなろうとしても無駄である。 われわれは生まれて最初
の知識と慰めを女性からを受け, 子どもは女性の手による作品である。 成人してもなお女性の慈
しみと喜びの帝国の中で支配され続けてわれわれは人生を終える。 女性は習俗に大きな影響をお
よぼすのであり, 人間の教育は, まず女性の教育から始めなければならない。
女性にふさわしい 2 つの徳, 優しさと貞操を女性は育まねばならない, とオルビアンは考えた。
優しさを育むためにいくつかの職業を女性に禁じた。 そして, 政府は女性に慈善事業の実施を
委ねた。 このような施策によって, 彼女たちは自分の時間や労力を家事や家族の世話に割くこと
ができるようになった。
貞操の主要な障害は性欲と貧困である。 性欲については結婚・離婚に関する優れた法制度があ
り, オルビーでは結婚制度自体が変化することによって社会秩序を維持した(5)。 貧困は売春へも
― 10 ―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
女性を追いやる。 この最も恥ずべき堕落から女性を守るために, もっとましな境遇を用意した。
その 1 例が, 女性協会である。 女性同士で女性のための職業訓練を施し, 女性の熟練者の面倒を
みる施設である。 建物は国から提供されるが, 運営は協会に任されている。 このようにして生活
の場を保障し, 貧困からの堕落を防止している。 また, 女性を貧困から守るために, 女性に適し
た仕事は女性にのみ許可して, 女性のための職場を確保した。 たとえば, 女性の衣服や調髪に関
わる仕事, 縁飾りの材料の製造, 楽譜複製, 料理などの仕事である。
道徳監視員
個人の私生活の行動結果の適不適を判断する機関として, オルビーには 「道徳監視員」 と呼ば
れる監察官制度がある。 監察官は, 職務を全うし引退した者から選挙によって 9 名が選ばれる。
道徳監視員は私生活上の物事の善悪を全員で審理し, 「功績の書」・「譴責の書」 にその結果は残
された。 彼らは習俗の監督をするだけで, それ以上のものではない。 古代ローマの風紀取締官と
は異なり, 政治的に大きな権限をもってはいない。 彼らが処罰を決めたにせよ, 少額の罰金刑を
科せるぐらいである。 ただし重大なケースでは公の場で弾劾した。 とはいえ, 審理の過程は非公
開であり, 功績にせよ罪科にせよ, 道徳監視員の審判から身を隠すことはできず, その決定は絶
対であった。
善行に対しては公的な祭典で栄誉と褒賞を道徳監視員が授与した。 地方の隅々にいたるまで情
報網を広げ, 公共の役に立つ活動を地道な活動を含めて顕彰した。
美術・演劇・公的祭典
有益な活動に人を従事させつづけるためには, 娯楽や気晴らしが必要である。 娯楽や気晴らし
は非道徳的なものでなければ, それでよい。 これらはそれだけで有益な活動を続ける活力を与え
る意義をもつ。
そのような観点から美術や演劇や公的祭典をオルビアンは考えた。 誠実な方法で, 心を楽しま
せ感動させ魅了することを第一義に考えた。 それを満たしたうえで, 可能な場合には, 道徳的・
有益な目的に導くことも考慮に入れる。 人心をつかむことなくして人を指導することはできない
からである。 オルビアンは公的祭典が魅力あるものになるよう努めた。 そのために, 国民主体の
祭典を催すことを原則とした。 祭典期間は, 各村で弓・的当て・水上槍試合などさまざまな競技
が行われ, 参加者たちの能力・体力・技術が競われ賞賛された。 道徳監視員による褒賞の授与と
顕彰も公的な祭典で大きな役割を果たした。 こうして公的祭典は能力・技術・徳行等さまざまな
かたちで栄誉と賞賛を国民に与える機会となった。
生活空間の整備
オルビーの住まいは清潔で簡素ながらも優雅さを保っていた。 町には多くの噴水や公園があり,
― 11 ―
地域間の交通は容易だった。 遊歩道が整備され, 一定の距離ごとにベンチや避難小屋が設けられ,
徒歩の旅行者に利用された。
賞賛されるべきことや有益な教訓をさまざまな場所で目にすることができた。 偉人たちを祀る
パンテオンは 1 つしかなかったが, 徳に捧げるパンテオンはいくつもあった。 友情のための神殿
が建てられ, いたるところに石像や彫像がある。 それらには, 無意識のうちに道徳を学ぶことの
できる碑文が添えられた。 また, 家の中では家庭内で適用されるべき格言が掲げられた。 「そう
した格言で育てられた子どもたちはそれらを行動の基準として身につけ, […] 自分の子どもに
も伝えるようになった。 人は幸せであった。 なぜなら人は賢明になったから。 人も国もそれ以外
になりようがなかった」 (Olbie, 222) 。
3. 国民の習俗を改善する方法
セーの議論は以上の通りである。 さて, セーが応募した第 2 回コンクールの課題は 「社会の人
間が幸福になりうる習慣を身につけさせるのに最も適切な制度は何か」 であった。 以上の議論か
ら, セーはどのようにこの問いに答えたのかをまとめておこう。
道徳の目的は人間に幸福をもたらすことであり, 道徳規範は自分とともに他人の幸福のための
義務を課す。 したがって, 道徳規範が一般的に守られれば, 誰もが他の人の徳性を享受すること
になる。 道徳規範を知り全般的にそれにしたがう国は最も幸福な国となるだろう。
さて, 習俗とは人や国民の生活上の行動における習慣を意味する。 道徳規範を参照する習慣,
すなわち道徳性を個々人でも国民でも高めることを 「習俗の改善」 と呼べば, 習俗の改善は国民
全体を幸福にする。 したがって, 国民を幸福にするためには, 道徳性が参照すべき道徳規範が明
らかにされることが必要である。 そして, 国民が道徳規範に全般的に従う習慣を形成すること,
すなわち習俗の改善が必要である。 習俗の改善は社会の人間を幸福にする習慣形成を意味する。
「社会の人間が幸福になりうる習慣を身につけさせるのに最も適切な制度は何か」 という懸賞
論文の問いは, 習俗を改善する制度はなにかという問いになるだろう。 こうして,
オルビー
の副題 「国民の習俗を改善する方法に関する試論」 と懸賞論文課題はつながる。 ただし,
ビー
オル
序文で次のように述べていた。
「方法は何か」 ではなく, 「制度は何か」 を学士院は求めた。 あらゆる方法が用意されてい
るにもかかわらず道徳を確立することができないというのに, 「制度」 ではない 「方法」 を
処理する能力を奪われたら, 成功の確率はさらに低くなるだろう。
(Olbie, 191)
「制度」 について, そしてレドレル 「所見」 の指示どおりに道徳制度についてもセーは議論す
るものの, 彼の議論の重点は, 道徳 「制度」 の立案・改変とは別のところにある。 副題に表れて
― 12 ―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
いるように, セーの問題設定は, あらためて 「制度」 から 「方法」 に置き換わっている。 この点
に注意してセーの議論をまとめると次のようになる。
セーは, 習俗を改善するためには, 子どもに対する教育, その前提となる生活水準の確保, そ
して大人に対する矯正が必要だとした。 中でも生活水準の確保をセーは重視している。
生活水準の確保が出発点に据えられなければならない。 良い教育が行われるためには, 生活の
ゆとりが前提となるからだ。 生活水準の確保を達成するために, 所得分配の不平等の是正にオル
ビーは取り組んだ。 オルビアンは道徳の第 1 の書は経済学概論の書であるとみなし, 経済学の研
究を振興し, 官吏登用制度に経済学の試験を取り入れた。 官吏が経済学に精通することによって
経済学に合致した立法・行政システムが形成され, 所得分配の不平等が是正される。 そして, 生
活水準の確保については女性に対する政策としても重視し, 性別によって職業を制限することに
よって女性の職場を確保することも行われた。
所得分配の不平等が是正され, 生活にゆとりができるとそれを維持・拡大する制度を考えた。
労働を奨励するために, 生活手段の申告制度を採用し, 少額貯蓄を受け入れる労働者向けの共済
金庫を設立した。 道徳に反するものとして宝くじを廃止し賭博場を禁止した。 国の指導者は質素
な習慣の模範を示して奢侈の風潮を是正すべく努めた。 それによって生活に必要な物の生産に資
源が配分されると考えた。
大人に対する矯正は, 利益によって動機付けをおこない徳行に人を向かわせるようにすること
を原則とした。 道徳監視員が市民生活の行動の善悪を裁判する。 公的祭典は善行の顕彰の場とし
て活用された。 美術・演劇・公的祭典は日常の有益な活動に活力を与える気晴らしと位置づけら
れた。 また, 公衆の場におけるパンテオン・寺院・記念建造物・彫像には, 道徳や生活の教訓が
自然と目にはいるように記され, 無意識のうちにそれを学ぶ機会を充実させた。
このように, まず生活のゆとりを国民に確保する。 そのうえで, 労働・徳行を奨励する制度を
工夫する。 指導者・有力者は, 贅沢より質素を, 金銭よりも功績を重視する時流を作るべく模範
を示す。 このような制度や取組が習俗を改善するのであり, 国民を幸福にするのである。
レドレル 「所見」・ジャングネ報告書にあった, 「a) 心を照らす制度 (公教育・国立学校・教
育協会・書籍や定期刊行物の出版・図書館, 観劇など), b) 魂に温もりを与える制度 (記念碑・
美術・オベリスク・彫像・祭典), c) 習慣を支える制度 (家庭制度)」 (Blanc et Tiran 2003,
186) といった道徳制度の議論も見られるとはいえ, セーの議論は道徳制度が中心の議論ではな
い。 そして, 習俗の改善に大きな役割を果たすのは, 国の指導者の模範や経済的な要因である。
なかでもセーの関心は, 習俗の改善の前提となる生活水準の保証や所得分配の不平等の是正にあっ
た。 こうした経済的な問題で, 経済学がどのような役割を果たしているのか。 次節で オルビー
の特徴の 1 つとして取り上げて検討しよう。
― 13 ―
Ⅲ.
オルビー
本節では
の特徴
オルビー
の主要な特徴として以下の 2 点を指摘する。 1 つは
オルビー
の形式
面に関わるものとして, ジャングネが指摘したユートピアと絵画 (タブロー) という特徴につい
てである。 もう 1 つは, 内容面に関わるものとして, Ⅱで取り上げた経済学を重視する視点であ
る。 経済学に関しては, 前節で取り上げた以外にも経済または経済学 (
economie politique)
に対する言及がたびたびある。
1. ユートピア・絵画 (タブロー)
Ⅰで見たとおり, 審査委員ジャングネはセーの応募論文を 「ユートピア」・「絵画 (タブロー)」
と特徴づけた。
オルビー
序文でセーが反論したことから分かるとおり, ユートピアはもちろ
んのこと 「絵画 (タブロー)」 というスタイル上の特徴は意図的なものであった。
オルビー
本文は確かに, 原理的な議論 (本稿Ⅱ1) を当初はしている。 しかし, その後の
本文全体の 2/3 程度を占めるのは, オルビーとその国民オルビアンのエピソードをはさみなが
らの議論である (本稿Ⅱ2)。 次の引用がオルビーの物語の導入である。
私はここで, 絶対君主制度の廃墟の上にその政治的自由を確立し, みずからの習俗あるい
は習慣といってもいいだろう, それを全面的に変えることによってのみこの自由の体系を強
固なものにすることができたひとつの社会に, 同じ原則をあてはめてみようと思う。 人々は
オルビオス, フランス語でオルビー, と呼ばれる国に住んでいる。 彼らは約半世紀前から正
しい法律に基づく自由を享受している。 かつての退廃の記憶が呼び起こす非難にも屈しない
ほどに, 彼らは知恵の道を前進している。
(Olbie, 201. ただし後注の指示は削除した。)
「オルビオス (Olbios)」 はギリシア語で 「幸福」 を意味する言葉である (Forget 1999, 183)。
想像上の国, 幸せの国オルビーのさまざまな側面を描写しながら, セーは議論していた。 「これ
は一種のユートピアであり, その枠組みは見ての通り斬新なものでない」 とジャングネの評にあっ
た。 このユートピア小説やユートピアに言及しながら社会を論じるスタイルは 18 世紀半ば以降
多く見られた(6)。 このようなスタイルをセーが採ったのは 「理性の教えを優雅な話法と魅力ある
感性とで包み込む」 ことによって広く読者を啓蒙する意図であったことはⅠ3 でみた。 さて,
当時の, そして 18 世紀の代表的なユートピア作品はルイ セバスチャン・メルシエ著
2440 年
紀元
である。
1771 年に匿名で
紀元 2440 年
は公刊された。 出版後まもなくフランスでは販売禁止になる
― 14 ―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
が, それがかえって人気に火を付け, 地下出版のベストセラーとなった。 翌年には英語・ドイツ
語に翻訳された。 その後 1774 年, 1786 年, 1799 年と改訂されるが, 作者名が明らかになるのは
1799 年の版である (Darnton 1995, 409/訳 364)。 作者存命中の発行部数は推計 63,000 部にも
およぶ大ベストセラーとなった (原 1997, 93940)。 物語は主人公が夢の中で 672 年後の西暦
2440 年のパリに迷い込んで, 考古学者に案内されながら周遊する。 それをルポルタージュ形式
で描写する未来小説である。 本作品はユートピアが 「架空の場所に設定された理想とすべき社会」
を指すとすれば,
紀元 2440 年
はユークロニア (はるか遠い不可知の未来, いまだ存在せぬ時
代) 小説であり, ユートピア小説の舞台を空間から時間軸へと視点を転じた作品としても知られ
ている。
作者ルイ セバスチャン・メルシエ (17401814) は小説家・劇作家であるとともに国立学士
院 「道徳と政治の科学類」 道徳部門の設立当初からの会員の 1 人でもあった。
当時のユートピア小説のベストセラーだからといって,
オルビー
が
紀元 2440 年
の影響
を受けているとはいえないし, またその証拠はない。 しかし, ユートピアが議論に取り入れられ
ている以外にも,
紀元 2440 年
と
オルビー
には特徴的な形式上の類似がある。 その類似と
は, 断章を積み重ねていく形式と 「注」 の多用である。
オルビー
では, オルビーの社会・政治・経済的なさまざまな制度が広く説明される。 その
中で, 女性協会の説明では, 女性協会に勤める女性が登場しセーと会話をしたり, 道徳監視員に
よる判決の公開文書を紹介したり, といろいろなエピソードが盛り込まれている。 紀元 2440 年
も断章形式をとって未来の社会の光景や諸制度を述べていく。 その中で, 新聞記事の引用を交え
て未来の世界情勢を描写したりしている。 この断章の積み重ねはメルシエに特徴的な手法であり,
18 世紀パリ生活誌
タブロー・ド・パリ
でも同様の手法で同時代のパリをメルシエは活写し
た。 パリに生活するさまざまな階層・職業の人々, その風景や文化, 制度といった, 大都市の諸
相を断章形式で記述し, それが集められたものをメルシエは 「タブロー (絵画)」 と呼んだ。 セー
の描き出したオルビーもまたこのような意味でのタブローだったのである。
もう 1 つの形式的な類似は, 注の多用である。
オルビー
には脚注が 31 付されている。 それ
とは別に 26 の後注が付けられた。 「あまりに長い注釈は文末に送った。 著作の流れに関連する注
には大文字のアルファベットを振った。 注のほとんどは, 主題と無関係ではないものの, 思考の
流れを中断しかねないような余談や引用を欄外で処理するためのものである」 (Olbie, 192)。
ルビー
序文の最後にこのような但し書きを書いている。 しかしこの後注の分量は全体の 1/3
以上におよんでいる。 このような注の多用とその分量の多さは,
や, メルシエのその他の著作には,
紀元 2440 年
紀元 2440 年
紀元 2440 年
18 世紀パリ生活誌
徴である。 ただし, 断章の積み重ね方式では同じ
セーが
オ
にも見られる特
タブロー・ド・パリ
に見られる注の多用は見られない。
を参考にした証拠こそ明らかではない。 しかし, 内容上はともかく,
形式面では一般読者にも魅力をもって読んでもらう意図で
― 15 ―
オルビー
を書くうえで,
紀元
2440 年
の手法がセーに役立ったものと考えられる(7)。
2. 経済学の重視
Ⅱで取り上げたように,
えば,
オルビー
オルビー
の議論は経済学の役割を重視していることがわかる。 例
序文と本文の間には短い 「要約」 が付けられている。 そこでセーは 「良い経
済学概論の書が道徳の第 1 の書でなければならない」 と述べる(8)。
本文では, 経済学は 「重要な科学であり, 人間の道徳性と幸福とが研究の最も価値ある目的と
見なされるのであれば, あらゆる科学のなかで最も重要な科学である」 (Olbie, 197) としている。
また, その脚注では次のようにも述べる。 「公立学校で教えるのに適した, 最下級の公務員や地
方の人々や職人たちが理解するのにふさわしい, 基礎的な経済学概論を書く者は誰でも祖国の恩
人となるだろう」 (Olbie, 197fn.) と。
経済学は研究分野としても, 国民が学ぶべき学問としても重要である。 しかしそれは政策を担
当する官吏にとってはより重要性をもつとセーは考える。 以下の引用は, 「要約」 にあった 「良
い経済学概論の書が道徳の第 1 の書でなければならない」 の本文該当箇所である。
オルビアンにとって, 道徳の第 1 の書はよき経済学概論の書であった。 彼らは 1 種のアカ
デミーを創設し, その納本受入機関とした。 行政の最高官による任命職に就くことを望むす
べての者は, この科学の原理に関して公開の場で試問を受けなければならなかった。 自分の
選択にしたがってその原理を擁護することも, 攻撃することもできた。 原理を熟知している
ことをもって, アカデミーは教育証書を付与したが, それなしでは, 重要な地位への道は閉
ざされていた。
やがて, こうしたポストは卓越した者, または少なくとも重要な問題に関して良い決定が
できるだけの知性を備えた者によって占められるようになった。 大部分の意見は最良の原理
にもとづいて合意され, その結果, 経済学に合致したシステムが形成され, すべての政府機
関の行動はそれにしたがって律されるようになった。
(Olbie, 203)
オルビーはセーが理想の社会として作り出した想像の国である。 その国の住人がオルビアンで
ある。 彼らは, 道徳の第 1 の書として経済学の書を選んだ。 そして, 経済学の文献を収集し保管
する機関を作り, オルビーの官吏の要職は経済学の知識をもった者でなくてはなれない。 経済学
の試験を官吏登用制度に取り入れることによって, 正しい判断ができる人材が意志決定をするよ
うになる。 それによって, 行政・立法制度のシステムは経済学の原理を反映するようになり, 経
済学の原理にしたがって統治されるようになる。
ここでは, 経済学という学問が単に知識を与えるものではなく, 社会制度の改革・構築の基準
― 16 ―
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革
となるような学問であると位置づけられている。
さて, セーは経済学を道徳の第 1 の書と考え, 国民全員が学ぶべき学問であると考えた。 経済
学が国民の知識と国家の運営に重要であることは明らかである。 では, 一国の習俗との関係にお
いて経済学がどのように重要なのか, を検討しよう。
ところで, 物質的充足をもたらすにたる充分な配分とは全体の富の賢明な分配の結果にほ
かならず, 賢明な分配自体が優れた経済システムの成果以外の何ものでもない。 経済学は重
要な科学であり, 人間の道徳性と幸福とが研究の最も価値ある目的と見なされるのであれば,
あらゆる科学のなかで最も重要な科学である。
ものごとのこの自然な歩みを, 強制的に加速させようと願っても無駄である。 良い教育,
知識教育の源泉はゆとりにあり, その成果は良い習俗となって表われる。 したがって人民に
ゆとりがあってはじめて良い教育が生まれる。 まず取り組むべきはこの点にある。 出発点か
ら始めることを拒む者は, 名ばかりの制度しか作ることができないだろう。 最初のうちこそ
堅固な制度としての見かけと輝きを示したとしても, 間もなく, 祝祭を飾りつけるために森
から切り出される葉飾りやツリーのような運命をたどる。
(Olbie, 1978)
ここでの要点は, 経済学は一国の習俗の基礎をなす経済システムを研究する学問として重要で
あるということだ。 経済システムによって一国の富の分配は左右される。 その分配が物質的充足
をもたらすに足るもの, 言い換えればゆとりあるものであって初めて, 良い教育や知識教育が可
能になる。 良い習俗は, この教育・知識教育の成果である。 したがって, 経済システムは, 一国
の習俗の良し悪しを決める出発点であり, 客観的条件でもある。 その客観的条件を研究対象とす
るのが経済学だ。 この意味で経済学は, 人間の道徳と幸福を追求するうえで最も重要な科学とい
う位置づけを与えられる。
以上のように, 富の分配を左右し, それが教育や習俗に影響を与えるような対象をあつかうと
いう点で経済学が重要であると述べた。 それは研究対象としてだけでなく, 経済学が社会制度を
構築するうえでの基準を与え, 実践的な性格をもつ学問として重視されたことは, 先に述べたと
おりである。
おわりに
オルビー
は経済的な問題に関心を寄せながらも, より広い視野で社会制度の改革を模索し
た論考だった。 それゆえ, セーの経済学の著作には見られないスタイル上の特徴や議論の内容が
オルビー には盛り込まれていた。 オルビー の特徴を明らかにするために次のような議論を行っ
― 17 ―
た。
まず, オルビー 序文の検討では, セーが応募した懸賞論文の経緯を明らかにし, オルビー
解釈の条件を明確にした。 セーが検討した実際の課題は 「社会の人間が幸福になりうる習慣を身
につけさせるのに最も適切な制度は何か」 であった。 そしてこの課題を検討する際には, 道徳制
度を中心に検討することをレドレルの 「所見」 は要求した。 これらの点に留意して
を解釈し, その意義を検討しなければならない。 また, レドレルの要求が
オルビー
オルビー
の視野の
広さと特徴を生み出した。
道徳規範に合致した習慣が社会に広まり, その質が向上することによって社会の幸福が増大す
るとセーは考えた。 そのために教育・矯正の制度が必要であると説いた。 このようにして, レド
レルが提示したガイドラインに沿って課題に答えようとした。 しかし, 道徳制度の個々の要素に
目を向けつつも, セーの議論の重点はそれらの前提となる経済的条件を重視することになった。
教育が効果を発揮するためには経済的なゆとりが前提となる。 女性の徳を育むにも生活の確保が
最低限必要である。 その上に立ってこそ, 道徳を改善する諸制度は意味をもつ。 中心論点とすべ
き道徳制度といった制度の検討から若干離れつつも, 市民制度・政治制度・宗教制度・道徳制度
といった諸制度の基礎となる経済的な基盤に目を向けて, セーはそれを重視した議論を行った。
経済的な基盤に着目した結果, 経済学それ自体も
オルビー
では重視されている。 研究対象
として, 全国民が学ぶべき学問として, 政策決定に必要な実践的な学問として, 経済学の重要性
をセーは説いた。
にはセーのその後の経歴を予告するような記述がある(9)。 「公立学校で教えるのに
オルビー
適した, 最下級の公務員や地方の人々や職人たちが理解するのにふさわしい, 基礎的な経済学概
論を書く者は誰でも祖国の恩人となるだろう」 (Olbie, 197fn.)。
後に, セーは
経済学概論
オルビー
でそう述べた 3 年
を出版する。 その副題は 「富が生産・分配・消費される仕方につい
てのやさしい解説」 (Say 1803) であった。 1815 年には経済学の原理を対話形式で説明した入門
書
経済学問答
オルビー
論
を出版する。
オルビー
の出版後セーは経済学の研究と教育に生涯携わる。
で, 経済学が科学の中で最も重要だとセーは宣言し, その出版の年 1800 年に
概
の執筆に取りかかる。 本稿では経済学の必要性や重要性について検討した。 しかし, なお
オルビー
の時点で経済学についてどのような理解をもっていたのかは明らかでない。 今後の
検討を要する課題の 1 つである。
《注》
(1)
1795 年 10 月 25 日に制定された包括的な公教育組織法に基づき, 発明・発見を収集し技術・科学
を発展・完成させる機関として国立学士院は設立された (松島 1975, 183, 188)。 国立学士院は 3 類
(第 1 類 「物理と数学の科学類」・第 2 類 「道徳と政治の科学類」・第 3 類 「文学と美術の類」) に分か
れていた。 第 2 類 「道徳と政治の科学類」 は, さらに 「観念と感覚の分析」・「道徳」・「社会科学と法
学」・「政治経済」・「歴史」・「地理」 の 6 部門に分かれていた (赤間 1995, 579)。
(2)
Forget (1999) には, 後注を含む
オルビー
― 18 ―
の英文訳とその論考がある。 日本では, 山口
J.-B. セー
(1948) が
オルビー
見 (2005) が
(3)
オルビー
における社会制度の改革
の詳しい紹介を行っている。 また近年では, 東 (1996)・高橋 (2001)・喜多
オルビー
を取りあげて論じている。
Staum (1996, 245) には, 発表前の課題として 「政治革命後において, 道徳の原理を一国民に取
り戻させるうえで, いかなる手段が最も適切か」 という課題の記載がある。
(4)
「道徳と政治の科学類」 全体で見ると全 29 回のうち 8 回のコンクールで全 7 名の受賞者が出ている。
そのうちの 1 回は 2 名の受賞者を出し, 2 名が 2 回受賞している。 この 2 回受賞した 2 名はメーヌ・
ド・ビラン (Maine de Biran) とカナール (Canard) であった。
(5)
「結婚および離婚に関する優れた法律がオルビーにおける求愛行動を少しずつ抑制してきた。 …結
婚自体が社会秩序の維持と両立するあらゆる変化を遂げてきたのである。 徳への道を容易なものにし
ようではないか」 (Olbie, 211)。
(6)
18 世紀中葉以降, ユートピア作品群はユートピア物語よりユートピア的な社会理論が中心になる。
部分的にユートピア的記述を含むもの, ユートピアの設定自体は導入のみで実質的には理論書である
ものなど, ユートピア作品のバリエーションは様々であった (野沢 1996, vviii)。
(7)
Forget (1999) は 紀元 2440 年 と オルビー の内容を比較検討している。 しかし, 紀元 2440
年
第 2 版 (1786 年) のページ数は初版の 3 倍にまで膨らんでおり, その内容は初版と矛盾する記
述を多く含んでいる (原 1997, 940)。
(8)
「要約」 の全文は以下の通りである。 「習俗・道徳・道徳性の定義。 道徳の目的。 習俗を改善するた
めには 2 種類の制度が必要とされる。 すなわち, 新しき人または子どもに働きかける制度と一人前の
人に働きかける制度である。 前者と後者はどのような性質のものでなければならないか。 想像上の人
民であるオルビーの人々が, これらの原則の適用例を示してくれる。 詳細な各原理は例示とともに展
開される。 良い経済学概論の書が道徳の第 1 の書でなければならないが, それはなぜか。 金銭の力。
模範の力。 知識教育の効果。 女性の影響力。 祭典・記念碑について。 道徳監視員。 手段として考えら
れた幸福。 結果」 (Olbie, 193)。
(9)
経済学だけでなく, セーの子どもに対する教育の重視, 共済金庫の提案についても同じことがいえ
る。 1815 年, 子ども向けの教育の場として民間の教育団体, 初等教育協会 (la soci
et
e pour l’inst-
ruction el
ementaire) の共同設立者となり, その協会の副会長に就任している (喜多見 2003, 17)。
また, 橋本 (2001, 69) によれば, セーは 1818 年のフランス貯蓄銀行の設立者の一人である。
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(原稿受付
― 20 ―
平成 20 年 9 月 19 日)
政治・経済・法律研究
Vol. 11 No. 1, pp. 2145
January 2009
デモクラシーの定着とその要因
経済要因と制度要因
(1)
小
林
秀
高
はじめに
民主主義の定着と発展を促進する要因はなにか。 冷戦構造という政治的要因を背景としながら,
1950 年代以降, 発展途上諸国におけるデモクラシー定着の条件およびその要因を探求する比較
研究は大きく進展した。 1990 年以降は, 冷戦の終結にともなう新たに独立する国家の増加から,
現実的な要請としても, また, 民主制という制度がある国には定着し, ある国には定着しないの
はなぜかという知的なパズルを解くための学問的な背景から, 膨大な予算と国家, 国際機関, 研
究者がこの分野には従事している(2)。
それらの一連の分析は大きく二つの潮流に分けることが出来る。 一つは主に経済発展に注目し
た国家体制のマクロ構造に注目するアプローチである。 それによれば, デモクラシーが導入され,
定着するには, ある程度の経済発展および成長, 文化的慣習, 教育水準, 産業構造の発展のよう
な一定の社会的条件が整うことが必要であるとされる (Lipset, 1959 ; Curtright, 1965 ; Przeworski, 2000) というものである。 もう一方は, 社会階級の配置や勢力 (Moore, 1966), 民主化
に携わるアクター間の交渉や戦略性を重視する立場であり主にゲーム理論のアナロジーを使った
分析が行われてきた (O’Donnell and Schmitter, 1986 ; Przeworski, 1991)。
この二つのアプローチが民主化研究の中心に位置してきたが, 1970 年代以降, とりわけ米ソ
の冷戦が終結した 90 年代以降, 民主化は先進国および途上国の両者での政策的な関心ともなっ
ている。
その中でも, 今日注目されているのは, 民主制の定着を促進するための制度的要因と経済的要
因の関係である。 民主制の定着と経済要因に関しては, リプセット (Lipset, 1959) 以来の膨大
な研究が存在する。 また近年では, 民族的な紛争などを経たあとに民主化が行われるケースが多
いため, 一国の民主化は国際的な注目を集め, 当事国だけではなく国際機関などが選挙制度の設
計に積極的に介入する傾向にある。 そのため, どのような制度を設定するかも民主化の重要な課
題の一つと考えられ, 民主化の独立変数として分析に組み込まれるようになっている (Reilly,
2001 ; Reynolds and Ellis, 2005)。
本稿では, 先行研究を元に, 主に選挙制度を中心とした制度的な要因と, 経済水準を中心とし
― 21 ―
た経済的要因が民主制の定着に及ぼす影響を分析する。 そのための作業として, まず 1 では本稿
の分析において使用される民主制および民主化という用語の定義を行う。 ついで 2 で, 比較民主
化研究の中で, 第 1 に経済と民主化の関係が, 第 2 に制度と民主化の関係がどのように分析され
てきたのかを先行研究から検討する。 3 では, 先行研究の検討から本稿の分析において使用され
る変数と仮説を提示する。 4 において分析モデルと分析結果を示し, 5 において分析結果から得
られた知見の検討を行う。
1. 民主制および民主化
分析に当たり, まず民主制および民主化の定義を行う。 民主制には必ずしも一致した定義が存
在するわけではなく, 近年, 「民主主義とは何か」 をめぐる議論は活発になっている。 本稿では,
分析の便宜上, 制度的な側面に着目した民主主義の定義を採用する。 そのため分析上扱う民主主
義を 「民主制」 として言及することとする。
民 主 制
民主主義 (democracy) という言葉は時代や場所に応じて様々な意味を持っている。 例えば,
古代ギリシャでは人民が統治行うという, 直接民主政治を意味していた。 一方, 近代以降では,
自由主義と結びついた自由民主主義 (Liberal Democracy) を意味することが多い。 また同時
に, 思想的な側面を表す言葉として使われることもあれば, 制度の側面として言及される場合も
ある。 このように, 民主主義の一般的意味を明確に定義することは困難である。
民主主義を定義する試みは, 比較民主化研究のための操作化という形で様々な試みがある。 例
えば, 民主制ないし民主化の国際比較を行ってきた研究者たちは, 制度という点に着目した民主
主義を以下のように定義している。 リプセットは民主制を 「政府を交代させるための憲法的な規
制が存在する政治システム」 と定義した (Lipset, 1959 : 71)。 ハンティントンは 「統治される国
民による競争的選挙を通じて指導者を選抜すること」 と定義する (Huntington, 1991 [邦訳
1995 : 6])。 またプシェヴォスキは 「様々な政党が選挙で敗北するシステム」 と定義する (Przeworski, 1991 : 10)。
本稿では, 民主主義の本質自体は主題ではないため, とりわけ比較民主化研究で用いられるこ
との多いダールの定義を使用する(3)。 ダールによれば, 民主制とは①選挙により選ばれた公職者
のみが公共政策をコントロールする憲法上の権利を有すること, ②自由, 公正かつ定期選挙のみ
が, これら公職者を選出する唯一の手段であること, ③選挙権がほとんどすべての成人に認めら
れていること, ④ほとんどすべての選挙民が公職に立候補することが可能であること, ⑤もっと
も基本的な争点についても, 自己の政治的見解を表明する市民の権利が守られていること, ⑥市
民は, 政府のバイアスを反映しない情報源へのアクセスを認められていること, ⑦市民は政党,
― 22 ―
デモクラシーの定着とその要因
利益集団, その他の相対的に独立した団体を作る権利を有していることが保証されている制度で
あるとする (Dahl, 1971 ; 1993 [邦訳 1999 : 106108])。 ダール自身はこれらによって定義される
民主主義を, 理念的側面から分けるためにポリアーキーと呼んでいるが, 本稿では, このダール
の定義を民主主義の制度的側面を表す 「民主制」 として使用する。
民 主 化
民主主義の定義が場所や時代に応じて異なることと同様に, 民主化の定義も時代や場所に応じ
て異なる。 歴史的に見れば, 民主化には長い期間がかかることが多い。 ハンティントンの有名な
「民主化の波」 の議論に従えば, 19∼20 世紀初頭に民主化した 「民主化の第一の波」 に分類され
る西欧諸国では, 民主主義を達成するのに比較的長い時間がかかっている。 一方で, 「第三波の
民主化」 およびそれ以降の民主化研究では体制転換が急速に起こることが所与のものとされてい
る。 竹中は, 「(O’Donnell and Schmitter, 1986 以降の) 多くの研究では短期間に民主体制に移
行できることを半ば所与のものとして, 民主化の条件についての議論がなされている」(4) (竹中
治堅, 2002 : 1819) ことを指摘している。
なぜハンティントンの指摘する第二のおよび第三の波の民主化以降の民主化が, それ以前の民
主化と比べ短期間でなされるのか。 その原因のひとつは, 民主化が国内的な要因だけではなく,
冷戦におけるアメリカおよびソ連の戦略をはじめとした, 外部からの援助や圧力などの影響を強
く受けていることがあげられる。 第三の波以降, とりわけ 1990 年代以降は, OECD 諸国の援助
政策などに民主化が条件として盛り込まれている(5)。
民主化 (democratization) 研究には, 大きく分けて二つのプロセスが存在する。 一つは非民
主体制から民主制への移行 (transition) の過程を対象とした研究と民主制の定着化 (consolidation) を対象とした研究である。 移行研究は, ある体制が崩壊し別の体制が確立される過程
を対象とする。 移行研究では, 体制の移行が完了したか否かを, 独裁制が解体され, 自由で競合
的な選挙が平和裡に実施されたか否かで判断することが多い(6)。
定着化の研究は, 樹立された体制が安定的に機能するための体制や市民社会の成熟する過程を
対象とする。 定着化の研究で現在注目をあびているリンスとステパンは, 定着化には, ①自由で
活発な市民社会, ②自立的な政治社会, ③法の支配, ④新しく誕生した民主主義的政府によって
利用可能な政治機構 (官僚制), ⑤制度化された経済社会, という 5 つの領域が必要であるとす
る (Linz and Stepan, 1996 : 315)。
本稿では, 近年民主化しつつある, ないしは民主化を達成した諸国における定着化の過程にお
いて, 経済水準と制度が果たす役割を対象とする。 今後, 民主化といった場合は通常定着化の研
究を意味する。
― 23 ―
2. 民主制定着の要因:先行研究から
経済的要因
経済要因と民主制の関係を, 比較民主化論的な立場から論じた初期の業績はリプセットのもの
であるだろう (Lipset, 1959)。 彼をはじめとして, 経済的な要因が民主主義を生み出すとの立場
の研究者たちは, 当初経済水準と民主主義は共変量であると考えた。 リプセットは, いわゆる
「近代化」, すなわち高い水準の経済的発展に伴う工業化, それにともなう都市化の進展, さらに
は教育水準の向上が民主主義のための条件を整えると論じ, ヨーロッパ, 北アメリカ, 中央アメ
リカ, 南アメリカから選んだ 48 カ国における発展と民主主義の間の関係を分析した。 その結果
から工業化, 福祉, 都市化, 教育の 4 つの次元で民主主義諸国は権威主義諸国よりも高い水準に
ある傾向を提示した (Lipset, 1959, 7677)。 これは, リプセット仮説として研究者の関心をよ
び, その後の経済要因が民主制に寄与するとの立場からの研究の呼び水となった。 これらの研究
の中心は, 経済成長が民主制を支持する市民階級を形成することであり, その結果として国家が
民主化を促進すると説明した。 つまり経済成長は, 一国における様々な階級の相対的権力と階級
構造を, 民主制に好ましい方向へ変化させる。 この立場に立つローシュマイヤーらの研究は, 資
本主義の発展が土地所有階級の力を弱め, 民主化要求の中心となるような労働中産階級の勢力を
強化することを事例研究から論じている (Ruechemeyer, Stephens and Stephens, 1992)。
そして, より広範な地域を調査することによって経済水準と民主主義の因果関係を検証する試
みが成された。 ボイシュは経済成長が政治的アクターの選好を変化させることを論じた (Boix,
2003)。 ボイシュは, 国が発展するにつれ, 所得は平等に配分されるようになり, 資産も流動的
になるという含意から, 合理的なアクターは民主化を支援する意見を形成すると論じた。 富裕層
にとっては, 民主的な再配分を行うコストを下げることが出来, 貧困層は, 革命や内戦を起こす
ことから生じる潜在的な損失の拡大および利益の減少が予期される。 結果として, 経済発展は独
裁制を維持する, あるいは体制を覆す暴力的な手段をとろうとする個々のアクターの誘因 (incentive) を減少させる。
これらの議論は, 経済的要因が社会的な変動をもたらし, アクターの意識を変化させることに
よって, 時間の経過とともに政治的な民主化をもたらすという議論としてまとめることが出来る。
一方で, 経済的要因が民主制の定着に寄与しない, もしくはネガティブな影響をもたらすとの
指摘もなされている。 ハンティントンは, 発展途上諸国における急速な経済成長は政治システム
へのインプットを過大にし, 結果として政治システムの機能障害をもたらし民主制の定着よりも
崩壊を導くことを指摘した (Huntington, 1965 : 406)。 オドンネルは, ラテンアメリカ諸国の観
察から, 経済成長が一定レベルに達すると強力な権威主義支配の形態が出現することを論じた
(O’Donnell, 1979)。 オドネルによれば, 政治システムを安定させるためには市民の要求に対抗
― 24 ―
デモクラシーの定着とその要因
しうるだけの強力な安定装置が必要であるとする。 そのため, 経済がある程度発展し, 政治シス
テムへの要求が増加し始めると, 軍部と資本家が同盟した強固な権威主義政権が登場すると論じ
た。
これらのように, 経済的要因が民主制の定着に与える論理は, 必ずしも明確にはなっていない。
シロウィとインケレスは, 1990 年の包括的なレビュー論文において, 経済成長と民主主義の間
に決定的な因果関係はみられないと結論づけている (Sirowy and Inkeles, 1990)。 また, プシェ
ヴォスキとリモンギは, 従来の経済成長の政治体制への影響を検討した 18 の研究を取りあげ, 8
の研究が経済発展は民主主義に好ましく, 同じく 8 の研究が経済発展は権威主義体制に好意的で
あるとの結論づけていることをまとめた (Przeworski and Limongi, 1993)。 1990 年代以降,
新たに民主化された諸国は増加によってサンプルが増えた事から, 経済成長と民主化の関係は再
び分析の対象として注目されている(7)。 しかしながら, これらの再検証の結果は従来の議論をそ
のまま更新しているといえる。
経済的要因が民主制の定着に及ぼす影響
従来の研究から暫定的に得られている結論は, 高い経済水準にある諸国は民主主義を定着させ
やすい (Lipset, 1994)。 また同時に, その体制が民主主義であるなしに関わらず, 高い経済水準
はその体制を安定させ, 低い経済成長は体制を崩壊させる (Przeworski, 1996) というものであ
る。
プシェヴォスキらは 2000 年の研究で, 1950 年から 1990 年の期間を対象とした経済成長の水
準と政治体制の関係に関する大規模な分析を行った。 そこで得られた知見では, 民主制でも独裁
制でも, 経済成長はほぼ同じ水準で行われるとした。 しかし民主制国家において一人あたり
GDP が 6,000 ドルを超えた場合, 6,000 ドル未満の国と比べて体制が長期にわたって崩壊するこ
となく存続することを統計的に示している (Przeworski, et al., 2000)。 また, アセモグルとロ
ビンソンは, 所得格差と社会コストから, 民主制の定着と崩壊をフォーマルモデルによって定式
化した (Acemoglue and Robinson, 2005 ; McCarty and Meirowitz, 2007)。 彼らのモデルでは,
富者と貧者という二つのアクターを想定する。 所得格差が大きくなれば, 政治体制に対する貧者
の不満は大きくなり, 貧者は不満を受け入れてその体制下で生活するか, 革命を起こすかの選択
を迫られる。 革命が成功すれば, 貧者は革命のコストを引いた富を入手する。 しかし, 革命のコ
ストが高ければ, 我慢してその体制下で生活する。 一方富者は, 革命が成功すれば全ての富を失っ
てしまう。 よって富者は, 貧者を抑圧するコストを勘案し, 抑圧が可能であれば抑圧という選択
を行い, 革命の成功の可能性が高ければ, 不平等を解消し富者は自ら民主化を選択するというも
のである(8)。
これらの研究は, 経済要因の民主制の定着への影響は, 単線的な関係ではなく, 一定の敷居と
しての役割を持っていること, とりわけ不平等や, 経済の水準の程度が問題となっているといえ
― 25 ―
る。
制度的要因
1970 年代から再登場した制度論は, 政治的制度の相違がアクターの行動に与える影響を強調
する。 制度論の主要論者であるマーチとオルセンによれば, 制度研究で注意されるべき点は 「
政治アクターは, 計算づくの自己利益だけでなく (あるいは自己利益の代わりに) 制度上の義務
や役割に駆られて行動しており, 政治は, 選択ばかりでなく (あるいは選択の代わりに) 意味
の構築・解釈を軸に展開されているものであり, ルーティン・ルール・型は, 歴史に従ったプ
ロセスを踏んで進化していくが, そのプロセスは確実に素早く単一の均衡点に達することはなく,
政治制度は社会的諸力の単なる反映物ではなく, 政体はしのぎを削る利害の競技場とは違っ
たそれ以上のもの」 であるとされる (March and Olson, 1989 [邦訳 1994, pp. 233234])。 そし
て民主的な政治には, 経済および社会条件だけではなく政治制度の設計にも依存することを指摘
している (March and Olsen, 1996)。
主にラテンアメリカの民主化を研究しているオドンネルによれば, 制度とは 「相互作用の規則
化されたパターン」 である。 議会・法律・憲法の様な公式な要素だけでなく, その地域に独特の
排他主義 (Particularism) や恩情主義 (clientelism) のような非公式な要素も含まれる。 そし
てそれは, 「そのパターンが具現化したルールのもとで, 継続的に相互に影響を与えようとする
社会集団によって, 認知され, 慣習化され, 受け入れられているものである」 (O’Donnell, 1994 :
57)。 彼によれば, 発展途上諸国において民主主義が定着しないのは, それらの諸国が制度を欠
いているからではなく, 民主制の制度に矛盾する多くの非公式的な制度が多数存在するからであ
ると論じる (O’Donnell, 1996 : 40)。
両者の制度の理解に関して共通しているのは, 制度が個人の行動を拘束し, さらには政治過程
に影響を与えるというものである。
民主化と制度の関係について, プシェヴォスキは, 民主主義が社会における様々なアウト
プットへの不確実性を制度化し, 不確実性を排除するという点で重要であることを論じている
(Przeworski, 1991 : 1014)。 ダイアモンド, リンスおよびリプセットは制度が民主主義の安定
をもたらすことを, 次の 4 つにまとめている。
1. 制度は行動を安定させ, 予測可能にし, 再現させるため, 制度化されたシステムは不安定
さを減らし, より持続的となる。 そしてそれは制度化された民主制において行われる。
2. 経済的なパフォーマンスに関わりなく, 一貫して効果的な政治制度を持つ民主制は, 政治
秩序だけではなく, 法の支配という点でも政治的に良好なパフォーマンスを持つ。 それ故
に, 市民の権利を保証し, 権力の乱用を監視し, 意味のある代表, 競争, 選択を責任を確
保し続ける。
― 26 ―
デモクラシーの定着とその要因
3. 長期的見れば, 確立された民主制は効果的で持続的, 実効的な経済と社会政策を生み出す。
なぜならば, 民主制は諸利益を代表するための効果的で安定的な構造を持ち, 諸政策を採
用し, 維持するための効果的な議会の多数派ないし連合を生み出す傾向があるからである。
4. 一貫した民主制度は政治における軍隊の関与をうまく制限, ないし軍隊に対する文民統制
を主張することができる。 (Diamond, Linz and Lipset, 1995 : 33)
彼らの主張によれば, 民主主義の確立とは, 制度の確立とほぼ同義ととらえることが出来る。
レイリーとレイノルズは, (現在民主化している地域の多くがそうである) 紛争地域における新
興民主主義国の制度化を重視する。 なぜならば, 西欧社会とは異なり, 分極化した社会におけ
る諸勢力は, 政治以外のコミュニケーションのチャンネルを欠いていることが多いからである
(Reilly and Reynolds, 1999 : 3)。
民主主義と制度研究の出発点は, 行政制度の特徴が民主主義に与える効果を一つの中心的なテー
マとしていた (Lijphart, 1977)。 これらの研究は, 行政制度の違いが民主主義の安定性に (増に
せよ減らすにせよ) 影響を与えていることを検証しようとするものである。
初期の研究では, 議会制か大統領制か (ないしは半大統領制か) という相違が民主主義の定着
に影響を与えることが論じられた。 レイプハルトによれば, 大統領制の国家は多数決を重視する
システムである傾向が強いため, とりわけ社会に多様性が存在する場合は, 対立を減らすよりは
むしろ助長すると指摘する (Lijphart, 1984)。
レイプハルト自身の研究は, 途上国の民主化自体を対象としたものではないが, その後, 多く
の論者によって途上国における制度パフォーマンスの研究が行われた。 リンスは, 議会との民主
的妥協が必要な大統領制は, 安定した民主主義の確立を妨害すると論じている (Linz, 1993)。
また, リッグスも, 合衆国にみられるような安定した大統領制はむしろ例外であることを指摘す
る (Riggs, 1997)。
発展途上諸国における民主主義の定着と行政制度のタイプを分析した結果, 大統領制よりはむ
しろ議会制が民主主義の安定をもたらすことが検証されている (Przeworski, et al., 1996 ;
Gasiorowski and Power, 1998)。 しかし一方で, シュガートとカレイは, 1900 年以降に起こっ
た 39 の民主主義国の崩壊を観察した結果, 議会制よりも大統領制の方が民主主義を維持する傾
向が強いことを検証している (Shugart and Carey, 1993 : 3943)。 もちろん, この結果は絶対
的なものではなく, 国内の利益の多様性や政党システムのあり方, 民族的な分化の数や規模によっ
て影響を受けることが指摘されている (Sartori, 1976 ; Lijphart, 1984)。
シュガートとカレイもその点には同意し, 政党システムの破片化によって, 行政制度の安定性
が異なることを認めている (Shugart and Carey, 1993 : 283286)。 政党システムの破片化は,
当然のことながら選挙制度によって影響を受ける。 つまり, 選挙制度のあり方によって国内の政
党システムの配置は異なり, 行政制度が持つパフォーマンスが異なるということになる。 ここで,
― 27 ―
選挙制度が持つ民主化への影響を考察する価値がある。
選挙のあり方が民主主義と密接な関係を持っていることはしばしば論じられてきた。 また, デュ
ベルジェ以来, 選挙制度と政党制に関する研究や選挙制度自体の研究には膨大な蓄積がある。 最
近では先進諸国における選挙制度と政策パフォーマンスに関する研究も行われている (Powell,
2000)。 しかし, 民主化の過程における選挙制度に関する研究は少ない。 これは, 民主化および
新興民主主義国における選挙が, 最近の現象であることが原因の一つであるだろう。 表 1 は
1950 年以降の国家数と民主制国家, そしてその年に行われた選挙の回数である。 民主制国家お
よび選挙の数が 1990 年代以降に増加しているのが分かる。
表1
選挙は民主化のための手段ない
20 世紀後半の民主化状況と選挙数 (1950∼2000 年)
年
民主主義国
国家総数
国家総数に占める
民主主義国の比率
(%)
1950
1975
1990
1995
2000
22
39
76
117
120
130
142
165
191
192
14.3
27.5
46.1
61.3
62.5
し目的であるであるとの議論は広
選 挙 数
21
11
45
60
48
出典:武田康裕 (2001, p. 2) および IDEA (2006) より筆者作成。
く認知されている。 ハンティント
ンは, 選挙を繰り返すことによっ
て独裁制や権威主義は弱まること,
そしてしばしば選挙によって体制
の転換が生じることを指摘する
(Hutington, 1991)。 選挙制度の
設計が政治体制に与える影響は多くの学者たちによって論じられている (Cox, 1997 ; Lijaphart,
1977, 1994 ; Sartori, 1968, 1994 ; Tagapera and Shugart, 1989)。
しかし同時に, とりわけ 90 年代以降の民主化の研究においては, 選挙の実施が, 人種, 宗教
的な民族的な分断との関連で民主主義の定着に否定的な影響を持つことも指摘されている。 一部
の例外はあるものの, 旧ソ連・東欧地域やアフリカの多くの国では, 民主化後に民族的な紛争を
経験している。 これは偶然であるだろうか。
プシェヴォスキは, 民主的体制への移行後に行われた選挙において, エリート間の競争が,
民族的アイデンティティの覚醒を促し国家を分断の方向へと動かす場合があることを指摘する
(Przeworski, 1995 [邦訳 1999 : 38])。 またスナイダーも, 文化的に異なる人々が自分たちの国
家を求め, さらに同一地域で暮らしているとすれば, 仮にそれまで両者に暴力的な紛争の歴史が
なかったとしても, 選挙を行うことは両者の対立を深めることを指摘する (Snyder, 2000 : 33)。
なぜ選挙が対立を深めるのかは, 選挙制度の持つ機能を考えることで明らかになるだろう。 選
挙制度は, 主に三つの機能を果たすよう設計されている。 第一は, 議会選挙における票を議席数
へと変換する機能である。 大きく分ければ, 比例代表制か多数代表制かによって票の議席への変
換のされ方は大きく異なる(9)。 第二に, 選挙制度は有権者の投票行動に影響を与える。 有権者が
何票投票できるのか, 投票は何回行われるのか, 選挙区の規模などに応じて有権者の行動は変化
する。 第三に, 選挙制度は政党の行動に影響を与える。 異なる言い方をすれば, 選挙制度は利益
の配分と競争のルールに影響を与える。 サルトーリは選挙制度の影響をまとめ 「選挙制度は, 選
― 28 ―
デモクラシーの定着とその要因
挙制度は政治においてもっとも操作的な道具であるのみではない。 それは政党システムを形成し,
代表の分布に影響を与える」 (Sartori, 1994 [邦訳 2000:ii]) と論じている。
短時間で体制転換を達成した新興民主制諸国においては, リンスとステパンのいうところの,
民主主義の定着の条件が整っていないため, 競争のルールを注意深く設計する必要があるだろう。
時には民主化の名の下に恣意的な制度設計がなされる場合もある(10)。 また, 仮に制度に従った形
で選挙が行われたとしても, 結果への不満が暴力的な形で表明されるケースも少なくない。 とく
に, 内戦や民族紛争が行われていた地域では, その傾向が強いだろう。 そのため, これらの地域
では選挙制度の設計は重要な意味を持つ。
制度的要因が民主化に及ぼす影響
民主制の定着化の過程において, 制度, とりわけ選挙制度が重要であることを論じてきた。 す
なわち, 選挙制度のタイプが, 政党システムのパターンを決定し, 政党システムのパターンが行
政府の安定性に影響を及ぼす。 本節では, 民主化の過程において選挙制度がもたらす影響に関す
る理論を, 先行研究からまとめる。
選挙制度の設計がもたらす効果は, デュベルジェの研究以来 50 年にわたり多くの論者によっ
て議論されてきた。 そこで行われてきた分析は, 第二次大戦後の安定した民主制諸国における選
挙制度の違いと, 票の議席への配分, 政党システム, 投票行動, 行政府の安定性, 政策過程の相
違などが中心であった (Cox, 1997 ; Lijphart, 1977 ; Lijphart, 1994 ; Lijphart and Waisman,
1996 ; Powell, 2000 ; Sartori, 1968 ; 1997)。
90 年代に入り, 数の上で比べれば, 安定した民主主義諸国よりも新興民主主義諸国における
選挙の方が多くなっている。 表 2 は, 1990 年から 2000 年の間に世界各国で行われた全国レベル
の選挙の数を比較したものである。 選挙は, かつては安定した民主主義諸国において行われるも
のであったが, 現在の世界ではそうではなく, いまだ政治的に安定していない諸国における選挙
の数の方が圧倒的に多い。 しかしながら, 安定しているとはいえない状況の諸国における選挙の
頻度が高く, 選挙制度が民主制の定着化と関わりがあるにもかかわらず, 選挙制度と民主化の関
係を比較民主化研究の立場から考察したものはそれほど多くはない (Birch, 2005 ; Reynolds,
1999)。
前節でも指摘したように, 新興民主制諸国において選挙
表2
世界の選挙数 (19902000 年)
選挙回数
制度が重要視される理由は, 選挙が国内の紛争の契機にな
るという事実によってであり, 安定した民主制諸国におけ
る関心とは多少の相違がある。 しかしながら, 選挙制度は,
安定した民主制諸国でも新興民主制諸国でも同じ機能を果
たす。 すなわち 「制度の相違が, どんな条件でどのような
帰結を導くか」 である (Norris, 2002)。
― 29 ―
OECD 加 盟 国
その他の諸国
総
数
117
516
633
出典:(L
opez Pintor and Gratschew
2002) より筆者作成。
レイノルズによれば, 現在の世界で採用されている選挙制度は大きく多数代表制と比例代表制
に分類される。 多数代表制は, 勝利した政党の議席を過大に代表する制度であり, 比例代表制は,
得票に比例した形で議席を配分する制度である。
これらの選挙制度と政党システムの関係に関する研究は, デュベルジェを契機として始まる。
デュベルジェは選挙制度の持つメカニズムを機械的効果と心理的効果から説明し, 多数代表制は
2 党制を, 比例代表制は多党制をもたらす傾向があることを指摘した (Duverger, 1959)。 機械
的効果とは, 制度自体の持つ特徴や, 票の数え方などフォーマルに決まるものであり, 心理的効
果とは, その制度の下で行動するアクターに対して, 制度の持つ特徴が心理的に与える効果であ
る。 それによれば, 戦略的状況下で, 有権者は自らの票を死票にすることを避けるため, 自らの
選好には合致するが当選する確率のない三位以下の候補者よりも, 自らの選好とは一致しなくて
も, 当選確率の高い候補者に投票する。
また, レイプハルトは, 1946 から 1996 年の間の 36 カ国の得票と議席の間の非比例性指数
(disproportionality)(11) と選挙制度との関係を分析し, 比例代表制をとる諸国の票と議席の間の
非比例性が低く, 多数代表制をとる諸国の非比例性が高いことの間に, 明確な関係があることを
示している (Lijphart, 1999)。
3. 変数および仮説
以上の先行研究のまとめから, 本稿での分析に使用するモデルと変数と仮説を提示する。
経済的要因は, 民主化研究の中で主要な変数として注目されてきた。 その中でも, とりわけ社
会の中の再配分に注目が集まっている。 よって, 本稿では経済要因として 1 人当たりの GDP に
着目し, 制度要因として, 人々の選考を政治的に配分する選挙制度に注目する。
民 主 制
従属変数である民主制はガシオロスキによる 「政治体制変動データセット」 (Political Regime Change Dataset, 以下, PRC) を利用する (Gasiorowski, 1996)(12)。 PRC は, 発展途上
諸国 97 ヵ国を対象にした, 独立以後の政治変動の年をコード化した指標である。 多くの指標が,
民主主義を連続的な変量として扱っていることに対して, PRC は民主主義をカテゴリによって
コード化し, 体制の変動が, いつ起こり, その後どのような体制がどのくらいの期間存続したの
かを見ることに適している。
PRC では, 政治体制を民主制 (Democratic regime), 準民主制 (Semidemocratic regime),
権威主義体制 (Authoritarian regime), 移行体制 (Transitional Regime) の 4 カテゴリに分
けている。 このうち, 民主制を, 「①有効な行政権を求めての, 定期的かつ暴力を伴わない実質
的な競争が個々人および集団間に存在し, ②指導者および政策の決定に際して, いかなる社会集
― 30 ―
デモクラシーの定着とその要因
団も除外されない包括的な政治参加が存在し, ③完全な政治的競争と参加を保証するために十分
な水準の市民的および政治的自由が存在する」 (Gasiorowski, 1996 : 471) 体制と定義する。 そ
して, 準民主制を, 「実質的な政治的競争と自由は存在するが, そこでは選ばれた公職者の権力
は非常に制限され, 選挙における自由と公正さが怪しいため, 選挙結果は人々の選好からかなり
逸脱している。 あるいは市民的および政治的自由が制限されているため, 人々は自らの政治的志
向や利益を組織化ないし表明することができない」 (Gasiorowski, 1996 : 471) 体制と定義する。
この定義は, 本稿における民主制の定義に一致する(13)。
データは, 1973 年以降の準民主制に移行した年を開始年とし, 民主制に移行した年, または
準民主制が崩壊した年を終了年とし, 移行または崩壊が起きた年を
従属変数とする。 期間は, 2004 年までとし, それまでに定着もし
表3
デ ー タ
従属変数
19732004
くは崩壊が起こらなかった場合は打ち切りデータとする。 いったん
国
年
596
定着もしくは崩壊した後に, 再度準民主制となった国は別のケース
データ系列
72
崩
壊
18
定
着
22
として扱い, データの系列数は 72 となる。 1973∼2004 年までの 30
―
年を扱い国―年で 596 になる。 また, 民主主義の定着が 22 事例,
体制の崩壊が 18 事例となり, 定着も崩壊も起こらなかったケースは 32 である。 表 3 は従属変数
を一覧にしたものである。
また, 表 4 (次ページ) は分析対象国と体制の定着および崩壊イベントの年を一覧にしたもの
である。 項目中 「準民主体制」 は, 分析のスタート地点としてデータに組み込まれた年を示す。
「定着」 は準民主制から民主制に移行した年を示す。 「崩壊」 は準民主制が崩壊した年を示す。
「定着」 も 「崩壊」 もおこしていない場合を 「―」 で示してある。
選挙制度
本稿における主要な独立変数の 1 つは選挙制度である。 選挙制度は, 大きく分ければ比例代表
制か多数代表制かに分類できる。 先行研究の検討から, 経済的要因との関係で考察した場合, 比
例代表制が国内の多様な利益を代表し, 人々の不満を和らげる作用があると考えられる。 また,
小選挙区制は多数派を過大に代表し, 社会内の不満を増大させる影響があると考えられる。 よっ
て, 本稿では選挙制度が多数代表制か比例代表制かという違いのみを問題とする。 その際, コー
ディングを行うのは国政レベルの議会の選挙制度のみであり, 地方議会の選挙制度は含まない。
国によっては, 比例代表と多数代表制を組み合わせた制度を採用している国もある。 しかしな
がら, ほとんどの国の選挙制度はどちらか一方により大きな比重が置かれている。 たとえば, ど
ちらも比例代表制と小選挙区制を利用しているが, 日本の並立制は小選挙区が中心の制度である
ため多数代表に, ドイツの混合制は比例代表が中心であるため比例代表に分類される。
データは 「政治体制データベース」 (Database of Political Institutions) を利用する (Beck,
et al., 2001)。 これは, 世界銀行の調査グループによって編纂されたデータで, 行政府, 議会,
― 31 ―
表4
国
名
準民主制
分析対象国別移行データ一覧
定着
崩壊
国
名
準民主制
定着
崩壊
アルジェリア
1990
1992
タンザニア
1995
―
―
アルゼンチン
1973
1976
チャド
1996
―
―
アルバニア
1992
―
―
中央アフリカ共和国
1993
2003
アルメニア
1995
―
―
トーゴ
1994
ウクライナ
1991
―
―
トルコ
1983
エクアドル 1979
1984
ナイジェリア
1979
エクアドル 2000
―
―
ナミビア
1998
―
―
エチオピア
1995
―
―
バーレーン
2002
―
―
エルサルバドル
1992
1994
ハイチ 1990
1991
ガーナ
1992
2000
ハイチ 1994
2000
ガボン
1995
―
―
パキスタン 1973
1977
カンボジア
1993
―
―
パキスタン 1993
―
ガンビア
2001
―
―
パナマ
1989
1994
韓
国
1974
1988
パラグアイ
1989
―
グアテマラ
1986
1996
バングラデシュ 1979
グルジア
1992
―
バングラデシュ 1994
―
―
クロアチア
1990
2000
フィジー
2001
―
―
ケニヤ 1979
ブルキナファソ
1992
―
―
ケニヤ 1992
ブルンジ
1993
コートジボワール
1995
2002
ペルー
1995
―
コンゴ 1993
1997
ポーランド
1989
1990
コンゴ 2000
―
ボスニア・ヘルツェゴビナ
1996
ザンビア 1990
1991
ボリビア
2003
―
ザンビア 1993
―
―
ホンジュラス
1982
1996
シンガポール
1973
―
―
マダガスカル
1993
―
―
ジンバブエ 1980
1990
マレーシア
1973
―
―
ジンバブエ 1995
―
メキシコ
1994
2000
スーダン
1986
モザンビーク
1995
―
―
スリナム 1988
1989
モルドバ
1994
―
―
スリナム 1990
2000
モロッコ
1998
―
―
スリランカ
1983
―
ユーゴスラビア
1999
2002
スロバキア
1993
1998
ヨルダン
1992
―
スロベニア
1989
1990
レソト
1993
2002
セネガル
1978
1998
レバノン 1973
タ
イ
1986
1992
レバノン 1992
台
湾
1991
1996
ロシア
1994
―
1982
―
―
―
―
1989
―
出典:Gasiorowski (1996), 1994 年以降は Karatnycky (2007) より筆者作成。
― 32 ―
1998
―
―
1983
―
―
1982
1996
―
2000
―
―
1975
―
―
2004
デモクラシーの定着とその要因
選挙などに関する様々なデータをコーディングしたものである。 現在は 2004 年までをあつかっ
たデータが公開されている(14)。 比例代表制と多数代表制は, それぞれダミー変数として表される。
また, 両制度を併用している場合には, 議会においてどちらの制度によって過半数の議席が選出
されるかを考慮してコーディングされている。
仮説 1 :比例代表制を採用する国では, 民主制が定着しやすい。 多数代表制を採用する国では
民主主義は定着しにくい。
本稿では, それぞれの選挙制度を表す比例代表制と多数代表制の各ダミー変数と, 両制度が採
用されている場合に, 多数代表制が主要な制度として利用されていることを示す多数代表制ダミー
を使用する。
民族的多様性
新興民主制諸国の多くが, 国内に民族的・言語的多様性を持つ。 これらの分極化は, その国が
採用する選挙制度に影響を与えると考えられる。 そのため, 統制変数として民族・言語的多様性
を投入する。
民族, 宗教的な分断が民主主義の定着に否定的な影響を持つことが, とりわけ 90 年代以後強
調されている。 一部の例外はあるものの(15), 旧ソ連・東欧地域やアフリカの多くの国では, 民主
化後に民族的な紛争を経験している。 プシェヴォスキは, 民主的体制への移行後に行われた選挙
において, エリート間で行われる競争的選挙が, 民族的アイデンティティの覚醒を促し国家を分
断の方向へと動かす場合があることを指摘する (Przeworski, 1995)。 またスナイダーも, 文化
的に異なる人々が自分たちの国家を求め, さらに同一地域で暮らしているとすれば, 仮に, それ
まで両者に暴力的な紛争の歴史がなかったとしても, 選挙を行うことは両者の対立を深めるであ
ろうことを指摘している (Snyder, 2000)。 これらの指摘からも, 民族的多様性が民主化にとっ
て何らかのネガティブな効果をもたらすであろうことが推測できる(16)。
福味によれば, 民族的分断を表す指標は現在 2 種類ある (福味敦, 2004)。 一つは, 一国内に
おける民族の多様性を表すもので 「細分化指標」 と呼ばれるものである。 もう一つは, 社会内が
二つに二分化されたときに対立が最大化するとの考えに基づいた 「二極分化指標」 である。 本稿
においては, 一国内での民族の多様性を問題とするため 「細分化指標」 を用いる。
民族の多様性を示すデータは, エステリーとレヴィンの 「民族言語分極化指標」 (ethnolinguistic fractionalization, 以下 ELF) が代表的なものとしてあげあれる (Easterly and Levine,
1997)。 このデータは, 「一国内において無作為に選ばれた 2 名が同一の集団に属さない確率」 と
して定義される(17)。 一国内に存在する集団の数が多いほど, この数値は大きな値をとることにな
る。 本稿では, このデータを修正・拡張したアネットの ELF 指標を利用する (Annett, 2001)(18)。
― 33 ―
仮説 2 :国内の多様性が大きいほど民主制は定着しにくく, 多様性が小さいほど民主制は定着
しやすい。
経済発展
民主制の定着と経済状態の関係に関する研究は, リプセット以来の膨大な蓄積がある。 先行研
究で見てきたように, 両者の決定的な因果関係を証明するには至らないものの, 所得の再配分
や, 一定程度の経済水準が, 民主制の定着に好ましい影響をもたらすことには一定の合意がある
(Acemogle and Robinson, 2006 ; Boix, 2003 ; Przeworski, 2000)。 また, 少なくとも民主制
と経済成長・水準の間に何らかの関係が存在することを否定するものはいない (Sirowy and
Inkeles, 1990)。 経済水準と民主化の間の関係を議論するために, 独立変数の一つとして経済発
展をモデルに組み込む。 一人あたりの GDP を対数変換したものを経済発展の近似値として利用
する(19)。
仮説 3 :一国における高い水準の経済は民主制を促進する。
これらの三つの仮説から得られる結果を予測したものを表 5 にまとめている。 選挙制度は, 準
民主制下においては人々の不満コントロールする変数として投入される。 比例代表制は人々の不
表5
満を和らげ, 定着に対してプラスの影響をもたらし, 崩壊に
仮説と予想される結果
定
着
崩
壊
対してマイナスの影響を与えることが想定される。 他方で多
数代表制は人々の不満を増加させるため, 定着に対してはマ
制度要因
比例代表
+
−
イナス, 崩壊に対してはプラスの影響を与えると想定される。
多数代表
−
+
経済的要因は, 経済成長が低い状態の場合に国内の圧力が高
+
−
経済要因
まり, 体制移行が生じることを想定すれば, 高い経済成長は
定着に対してプラスであると同時に, 崩壊に対してもマイナスの影響をもたらす可能性がある。
4. 分
析
本節では, 計量的手法を用いて民主主義の定着過程における選挙制度の効果の分析を試みる。
選挙制度の違いは, 本当に民主化の過程に影響を及ぼしているのだろうか。 仮説の検証のため,
イベント・ヒストリー分析 (以下, EHA) を用いて体制の崩壊と定着を分析する。
デ ー タ
分析の対象とするのは, 現在の民主化の潮流が始まったとされる 1973 年以降, 2004 年までに
体制移行を開始し, 準民主制の段階に入った諸国である。 移行を開始した年を分析の開始とし,
― 34 ―
デモクラシーの定着とその要因
その国が安定した民主制へと移行するか, 準民主制を崩壊させた時点で分析は終了となる。 デー
タは 「国―年」 の形で一年ごとに集計する。 この期間中, 実際に準民主制となり, 移行を開始し
たケースは 72 あり(20), 国−年データで 683 になる。 ここから, 選挙は行われているが, 選挙制
度に関するデータを入手できないケースに関しては今回の分析から除外し, 最終的に 596 ケース
が分析の対象となる。 そのうち 2004 年までの民主制の定着数は 22 あり, 反対に準民制を崩壊し,
権威主義体制へ移行したイベント数は 18 である。 移行も崩壊も起きていないケースは 32 である。
データの基本統計量は表 6 に示している。
表6
変
数
従属変数
年
定 着
崩 壊
独立変数
多数代表制
比例代表制
多数代表ダミー
民族的多様性
一人あたり GDP
一人あたり GDP (log)
観測数
変数の記述統計量
平
均
標準偏差
最小値
最大値
596
596
596
1994.496
0.0342262
0.0267857
7.316558
0.1819451
0.1615769
1973
0
0
2004
1
1
596
596
596
596
596
596
0.7366071
0.5044643
0.639881
0.5110967
1955.032
2.940343
0.4408018
0.5003525
0.4803923
0.2689152
3410.837
0.5208138
0
0
0
0.003
90
1.96
1
1
1
0.919
23636
4.37
分析手法
本節での分析には EHA という統計手法を利用する。 元々は臨床医学や信頼性工学の分野にお
いて適用されてきた手法であるが, 近年, 社会学や国際関係, 比較政治の分野でも使われるよう
になっている (Box-Steffensmeier and Jones, 2004)。
この分析方法は, 「何らかの事象が起こるまでの時間について()そのパターンを推定し, ()
そのパターンについての比較を行い, あるいは()それに説明変数が与える影響を分析する統計
手法」 (清水剛, 2000) である。 この期間のことを生存時間 (suvival time), また対象とする事
象をイベント (event) と呼ぶ 。
この手法を使うメリットは二つある。 第一に, ある一定段階までにイベントが生じなかったケー
ス, もしくは, ある段階で何らかの理由で観察が不可能になったケースを分析に含むことができ
ることである。 今回の分析である民主制の定着ないし崩壊をイベントとすると, 分析期間が終了
した時点 (2004 年) でイベントが生じていないケースが存在する。 このようなケースを, 打ち
切り (censor) が生じたという。 打ち切りを受けたケースは, 生存時間がある値を超えたこと
がわかるのみで, 正確な生存時間を知ることはできないため, 通常は分析から除外される。
実際に, 今まで数多くの民主化の計量的な分析が行われてきたが, その多くは, 民主化が生じ
たケースだけを分析対象とし, 民主化が生じなかったケースは除外される場合が多かった。 もと
― 35 ―
もと, 従属変数が変化したケースだけを分析対象とするため, 分析にバイアスが生じることにな
る。 EHA では, このようなイベントの生じなかったケースも含めて分析を行うことが出来る点
に利点がある。
第二に, 本稿の分析では, 民主制が定着する, もしくは崩壊するまでの時間に対して独立変数
が及ぼす影響を分析する。 計算上は可能だが, 時間は負の値を取り得ないため, OLS などの正
規性を仮定した回帰分析では適切な推計を行うことが出来ない。 そのため, 分布の形に依存しな
い手法を取る必要がある。 EHA では, 従属変数に特定の分布を仮定しないセミパラメトリック
な手法を使うことが出来る。 そのため時間だけに依存した形でパラメータを推定できるため, こ
の種の分析には適している。
本稿の分析では, 選挙制度という時間と共変関係にない独立変数を含み, また GDP といった
時間と共変関係変数を含むため, TVC を含む Cox の比例ハザードモデルを使用する。
分析のモデルは次のようになる。
モデル 1・3
定着 or 崩壊 (多数代表制+比例代表制+民族的多様性+一
人あたり GDP)
モデル 2・4
定着 or 崩壊 (多数代表制ダミー+民族的多様性+一人あたり
GDP)
このうち, は体制の崩壊ないし定着 (イベント) が発生する確率, は基準となる
イベントの発生確率, は各変数の係数の値となる。 モデル 1 では, 選挙制度の変数として, 多
数代表制と比例代表制を投入する。 この場合, 両制度を採用する国では, どちらの変数も存在す
ることになる。 モデル 2 では, 選挙制度の変数として, 多数代表制が主要な制度として使われて
いるか否かを示す多数代表制ダミーを使用する。
分析結果
表7
崩
壊
定
着
移行せず
選挙制度ごとのイベント数
以上をふまえた分析の結果は, 表 7∼9
多数代表制
比例代表制
代表制ダミー
に示されている。 表 7 は, 単純に各選挙制
15 (13)
16 ( 6)
23 (17)
5 ( 3)
17 ( 7)
16 (10)
14
11
23
度の下でどの程度体制移行が起こっている
注) 両方の選挙制度を採用している国は, 重複してカウントし
ている。 ( ) 内の値は片方の選挙制度のみ採用している
国のイベント数。
― 36 ―
かをカウントしたものである。 これを見る
と, 数の上では, 民主主義の定着に, 制度
による差があまりみられないことが示され
デモクラシーの定着とその要因
ている。 しかし一方で, 体制崩壊のほとんどが多数代表制を採用する諸国で生じていることが見
て取れる。 多数代表制が優位な形で, 比例代表制と多数代表制を組み合わせて使っている諸国で
も (多数代表制ダミー), やはり体制崩壊の数は相対的に多くなっている。
表8
モ
No. of failures=22
Coef.
多数代表ダミー
多数代表制
比例代表制
民族的多様性
GDPPC (LOG)
定
デ
着
デ
ル
1
ル
Haz. Ratio
0.653*
0.937*
−0.254*
1.092*
モ
モ
Std. Err.
1.922
2.552
0.776
2.981
Coef.
0.568
0.536
0.984
0.427
Number of obs =
596
Log likelihood = −122.65857
Time at risk
Prob>chi 2
デ
ル
2
Haz. Ratio
Std. Err.
−0.294*
0.745
0.450
−0.789*
1.035*
0.454
2.815
0.912
0.397
=
=
1189062
0.0245
* =5%水準で有意
表 8 は, 従属変数を民主制の定着ととったモデルである。 モデル 1 は, 制度変数として比例代
表制, 多数代表制をそれぞれ個別に投入している。 これによれば, 多数代表制も比例代表制も体
制の定着に対してプラスの影響を持っている。 しかし, 比例代表制が統計的に有意な値を示して
いる一方で, 多数代表制は統計的に有意ではない。 また, 民族的多様性は, 当初の予測通り民主
主義の定着にマイナスの符号を示しているが, これも統計的には有意ではない。 モデル 2 は, 選
挙制度を多数代表ダミーとする。 このモデルでは, 多数代表ダミーが有意にマイナスの影響を持っ
ている。 係数がマイナスを示しているのは, 多数代表制が体制の定着に対してマイナスの影響を
持っていることを示している。
経済変数として投入された一人当たり GDP は, どちらのモデルでもプラスの方向に有意に影
響を持っている。 これは, 経済水準が民主制の定着にプラスであるという仮説通りの効果が得ら
れていると考えられる。
定着モデルでは, 経済水準と比例代表制がプラスに効いていることを合わせて考えると, 国内
で多様な利益が表出され, 同時に経済的に高い水準が達成されれば, 民主制を定着させる選択が
表9
モ
No. of failures=18
Coef.
多数代表ダミー
多数代表制
比例代表制
民族的多様性
GDPPC (LOG)
0.155*
−1.186*
−1.379*
−0.602*
崩
デ
壊
ル
Haz. Ratio
モ
デ
ル
3
モ
Std. Err.
0.856
0.305
0.252
0.548
Number of obs =
596
Log likelihood = −99.447427
0.923
0.780
0.838
0.503
Time at risk
Prob>chi 2
* =5%水準で有意
― 37 ―
Coef.
デ
ル
Haz. Ratio
4
Std. Err.
0.787*
2.197
0.567
−1.107*
1.035*
0.331
0.495
0.834
0.397
=
=
1189062
0.2049
なされることが分析から含意される。
表 9 のモデルは, 従属変数を体制の崩壊ととっている。 モデル 3 は, 1 と同じく選挙制度を個
別に投入している。 定着モデルとは従属変数がほぼ反対を意味するため, 係数の解釈も反対にな
る。 多数代表制が崩壊に対してプラスであり, 比例代表制はマイナスであるため, 予想通りの値
を得られているが, どちらも統計的には有意ではない。 また, 民族的多様性もマイナスであるが,
これも統計的に有意な値を示していない。 モデル 4 は, 多数代表制ダミーを投入する。 このモデ
ルでは, 多数代表制ダミーが有意にプラスの影響を及ぼしている。 すなわち, 多数代表制の諸国
では, 体制崩壊が起きやすい可能性を示している。
経済変数は, モデル 3 ではマイナス方向に有意である。 崩壊に対してマイナスの影響を持つと
いうことは, 体制の崩壊を経済水準の高さが食い止めていることを意味する可能性が示唆されて
いる。
以上の結果をまとめると, 体制の定着に関して, 経済水準および比例代表制がプラスの影響を
持ち, 本稿で想定した仮説と同じ方向性を示している。 また, 多数代表制が体制崩壊に対してプ
ラスの影響を持ち, 崩壊を促進している可能性が示唆される。 比例代表制は安定的な政治をもた
らし, 多数代表制は体制を不安定にする。 一方で, 民族的多様性はいずれのモデルにおいても統
計的に有意な値を示さず, 仮説 2 を確認することは出来ない。
経済水準は, 体制の定着にはプラスに有意な影響を, 体制の崩壊にはマイナスに有意な影響を
もたらしていることが確認される。 このことはどのように解釈できるだろうか。 経済水準の高さ
は, 民主化とプラスの関係にあることが従来指摘されてきた。 また, 近年の経済要因に着目した
研究では, 所得の不平等が問題となっている。 そして, 所得の不平等が問題になるのは, 一国の
経済が拡大しているときではなく, 縮小しているときである。 本分析における結果は, 高い水準
の経済は所得の不平等を国民の関心から除外し 「現在の政権」 に支持を与えていると解釈する,
従来の先行研究に沿った結果を再確認しているといえるのではないだろうか (Acemoglue and
Robinson, 2005 ; Przeworski, et al., 2000) 。
通常, 国内が成長を続けている限り, 国内の不平等や経済格差が大きくても国内の紛争はそれ
ほど激化しない。 先進国であれ途上国であれ, 格差や不平等が問題になるのは経済が縮小に向か
うときである。 この結果の示すのはそういった傾向を示しているとも考えられるだろう。
5. 議
論
発展途上諸国において, とりわけ民族的な多様性を含む諸国において, 政治を安定させること
は重要である。 政治の安定性や民主化には様々な要因が影響し, どれか一つで決定されると言う
ことは出来ないが, 本稿の分析において, 経済水準の高低と選挙制度の相違が体制の定着と崩壊
に影響を持っていることが確認できた。
― 38 ―
デモクラシーの定着とその要因
経済水準の高さは比例代表制が採用されている国 (すなわち国内が多様である場合) に, プラ
スの影響を持っている(21)。 経済水準が高く, 比例代表制が採用されることによって, 国内の少数
派の政治への参加を促し, 自国の政治システムに支持を与えるというロジックが働いていると考
えられる。 しかし, この検証には選挙制度だけではなく, 議会や政党制, 行政府のあり方も同時
に検討する必要があり, 今後の課題としたい。
民族的多様性が影響を及ぼしていなかったことに関して, 比例代表制か多数代表制かの違いが,
民族的多様性と重複しているとの指摘が出来るかもしれない。 すなわち, 民族的に多様な国家は
もともと比例代表制を採用し, 国内の多様性が少ない国が多数代表制を採用しているという指摘
である。 しかし, 多数代表制の下で体制の崩壊が多く起こっていることを考えると, それはむし
ろ逆である可能性がある。 すなわち, 国内が民族的に多様であるにもかかわらず, 多数代表制を
採用しているため, 体制が安定しないという論理である。 新興諸国は国内の状況よりも, 旧宗主
国の影響によって選挙制度が決定されているとの指摘である。 また, 比例代表制を採用している
諸国の民族的多様性の平均値と, 多数代表制を採用している諸国の民族的多様性の平均値を比べ
ると, 前者が 0.44 であるのに対し, 後者が 0.68 と, 多数代表制の国のほうが, 民族的に多様性
が高いという結果が得られる。
さらに, 植民地時代の経験が, 新興民主主義国の選挙制度の選択にとって比較的大きな影響を
与えている。 例えば, 53 の旧イギリス植民地のうち, 37 の諸国が現在でもイギリスの選挙制度
である単純小選挙区制を採用している。 27 の旧フランス植民地のうち, 11 の諸国が 2 回投票制
を採用している。 また, 残りの 16 の諸国の多くで, 名簿式比例代表制が採用されている。 この
制度は, 1945 年以降, フランスの議会選挙および地方選挙でしばしば採用されてきた。 17 の旧
スペイン植民地のうち, 15 の諸国でスペインと同様の比例代表制を採用している。 また, 旧ポ
ルトガル植民地の 6 の諸国は全て, ポルトガルと同様の名簿式比例代表制を採用している。
この事実は新興民主制諸国の多くで, 各国の実態がそれほど考慮されずに選挙制度が採用され
ている可能性が考えられる。 仮にそうだとするならば, 各国の実態に合うような形で選挙制度の
改革を進めることは, 政治の安定性に良い影響をもたらすであるだろうし, また, 新興諸国の選
挙制度と政治的安定性, 民主化の研究はますます重要な分野となっていくだろう。
また, 本稿における分析では, 経済要因が重要な変数であることが再確認された。 しかし, 経
済水準の高低が, 体制の定着ないし崩壊の起点となるならば, 経済水準の高低がどのように起こ
るのかのメカニズムは, なお重要な検討課題と残っている。 とりわけ, 民主制が根付いていない
段階の諸国は, 市場が未発達であり, 対外的な援助を受けている場合も多く, 国際市場の中では
自立的なアクターでは無いケースが多いと考えられる。 これらの国の体制転換に関する議論は,
それらの諸国を取り巻く環境を何らかの形でコントロールする必要があるだろう。
― 39 ―
おわりに
新興民主主義諸国にとっては, 国内経済の安定および選挙制度の選択は重要な政治的事項であ
る。 しかし, 経済は国際環境に依存することが多く, また選挙制度が意識的かつ計画的に選択さ
れない場合もある(22)。
制度の選択は, その国の将来の政治生活に強い影響をもたらす。 一度選択された制度は, 変更
されないままにある程度継続するという特徴を持つ。 また, オルセンとマーチが指摘しているよ
うに, 通常, 制度はその国家の歴史に従ったプロセスを踏んで進化していくものであり, それに
よって初めてその社会にとって適切な制度が形成される。 もちろん, 人為的に制度を設計し, そ
れが適切に作動することもあるが, それには慎重な制度の設計が必要である。 植民地から独立し
た諸国で現在採用されている選挙制度が, そのような慎重な検討を経た結果採用されているもの
かどうかは, 重要な検討課題である。
現在, 多くの新興民主主義国や, 民主化への以降を経験している諸国で紛争が頻発するのは,
国内の民族問題等があるにせよ, 制度の選択の問題があるということは指摘することが出来るだ
ろう。 今後のさらなる民主化の進展のためには, 制度にさらに目を向ける必要があるだろう。
《注》
(1)
本稿は, 2006 年度日本選挙学会
分科会 J 「ポスターセッション
選挙研究のフロンティア」 (上
智大学, 2006 年 5 月 20 日) において報告された内容を加筆・修正したものである。 コメントを頂い
た皆さまに感謝します。 また, 投稿にあたり匿名レフリーから多数の有益な指摘を頂いた. 重ねて感
謝します.
(2)
1961 年にアメリカ国際開発庁 (United States Agency for International Development) が設立
され, 共産圏の封じ込めの一環として民主化支援が目的として組み込まれている。 また, 1995 年に
は持続可能な民主化を支援する 「国際民主化選挙支援機構」 (International Institution for Democracy and Electoral Assistance) が設立され, 現在は 24 カ国が参加している (武田美智代, 2007)。
また, 近年民主化支援として頻繁に行われているある国への選挙に他国が介入することは, 内政干渉
にあたるとの指摘もなされていたが, 1989 年の国連人権委員会では肯定的な見解を示している (橋
本敬一, 2006:34)。
(3)
「民主主義とはなにか」 をめぐる議論は現在様々な場所で継続中であるが, ダールのこの定義を採
用する利点は, 操作化された指標として公開されているものが多数あるためである。 例えば, Freedom House (http://www.freedomhouse.org/), Polity Project (http://www.systemicpeace.org/
polity/polity4.htm) が有名である。 本論文では, 統計的な分析を行うため, この定義を採用する。
(4)
括弧内は筆者による追加である。
(5)
たとえばアメリカではクリントン政権の 1994 年の年頭教書にみることができる。 “Exerpts from
President Clinton’s State of the Union Message,” The New York Times, Jan. 26, 1994, p. A17. 日
本においても, 1999 年版
ODA 白書
の中で援助条件ないしは目的としての民主化の必要性が強調
されている (日本外務省経済協力局編, 1999:9091)。
(6)
近年では選挙の実施だけでは民主主義体制への移行としては不十分であり, 非民主主義と民主主義
― 40 ―
デモクラシーの定着とその要因
体制の間に準民主主義といった中間的な体制を想定する場合がある。 簡単な要約としては Larry
Diamond (1999)。 日本語での研究書としては竹中治堅 (2002)。
(7)
最近では, 経済発展が民主主義を促進した例として韓国や台湾, 反対に, 権威主義体制かで経済成
長を達成した中国やシンガポールなどがあげられる。 甲斐信好は, 近年のアジアの民主化の分析から
「民主化と関連するのは人間の開発指標に代表される, 国民生活の 「質的な部分」 であり, 「量的な部
分」 (1 人当たり GNP や所得配分) ではない」 とまとめ, 質的な側面に注目をした分析を行っている
(甲斐信好, 2006:32)。
(8)
モデルに関する詳細は, 日本語では山形大学の浜中新吾 (2008) が分析および紹介をしている。
(9)
挙制度のもつ特徴は後述する。
(10)
先進国においても, ゲリマンダーなど, 恣意的な区割りが行われることがあるといわれている。
ここではギャラガー指数 (G) を使用。 G の計算式は各政党の得票率 と議席獲得率 の
(11)
差を 2 乗した後に加算し, その合計を 2 分した後, その値の平方根をとる。
本稿におけるギャラガー指数の説明は Lijphart (1999) による。
Gasiorowski (1996) においてコーディングされているのは 1992 年までであるが, データ作者よ
(12)
り, 1998 年までコーディングされたデータを頂いた。 また, 98 年以降 2004 年までは筆者が拡張を行っ
た。 その際参考にしたデータはフリーダムハウスの指標にある。 具体的には, partly free の段階を
準民主制として分析の起点とし, ステータスが not free に変更された場合を崩壊イベント, free に
変更された場合を定着イベントとした。
(13)
本稿において使用される民主主義の定義は, 民主主義の理想型や唯一の民主主義を想定しているの
ではなく, あくまでも現在, アメリカを中心としたいわゆる 「欧米流」 と称される民主主義の定義で
あることに留意されたい。 本稿の目的は, あるべき民主主義の姿を追求するのではなく, 現在進めら
れている民主化の潮流の中で, 選挙がいったいどのような効果を持つのかに焦点を合わせている。 そ
のためこれらの定義を使用する意味がある。
(14)
World Bank Research : Database of Political Institutions
http://econ.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/EXTDEC/EXTRESEARCH/0,,contentMD
K:20649465~pagePK:64214825~piPK:64214943~theSitePK:469382,00.html (2005 年 11 月 2 日アクセ
ス)
(15)
モザンビーク, 南アフリカ, バルト三国など。
(16)
レイプハルトは, オランダやスイスなどの事例から, 民族的に分断された社会において, エリート
間の交渉によって安定的な民主主義が維持されるとする, 多極共存型民主主義のモデルを提出してい
るが, このモデルも, 現在の進行民主主義諸国に単純に適用することは出来ない。 というのも, スイ
スやオランダにおいては, 少なくとも, 政治的対立点を暴力によらない手段で解決することに合意が
あったためである。 ただし, 現在の選挙支援活動のデザインでは, 多極共存型民主主義のモデルを積
極的に活用しようとの方針がとられている (Lijphart, 1977)。
N は人口総数。 は i 番目のグループに属する人口である。 以下の式は福味 (2004)。
(17)
(18)
データは Annett (2001) 掲載のほか, Annett 氏より直接データの提供を受けた。 この場を借り
て感謝したい。
(19)
データは各年度の World Development Indicators (WDI Online) より入手した。
http://devdata.worldbank.org/dataonline/
(20)
民主主義を定着させた, または崩壊させた後, 分析期間内に再度, 準民主主義国に移行した国は,
別のケースとして分析対象に組み込まれる。 ケース数=国家数ではない。
― 41 ―
Przeworski (2000) で得られた知見に従えば, 例えば 1 人当たり GDP で 6,000 を区切りとした分
(21)
析を行う必要も考えられる。 しかし, 今回の分析では, 6,000 ドルで区切った場合にサンプルに偏り
が大きくなりすぎてしまうので除外している。
(22)
先に指摘した旧宗主国の影響に関する議論があることに加え, 近年は紛争地域における紛争解決語
の選挙では, 先進諸国などチームが選挙制度の作成から実施まで様々な支援活動を行うことが多い。
ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争後支援の国際機関であった OHR は, 現地の政治勢力との対立が深
くなり, 選挙や政府の人事に介入し, 情勢に困難を来す (篠田秀朗, 2004)。
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本稿は, 拓殖大学政治経済研究所研究助成・平成 19 年度個人研究の研究成果である。
(原稿受付
― 45 ―
平成 20 年 10 月 22 日)
政治・経済・法律研究
Vol. 11 No. 1, pp. 4754
January 2009
研究ノート〉
マクドナルドの最近の企業行動について
村
上
倫太郎
はじめに
ハンバーガーレストラン事業を展開している日本マクドナルドホールディングスは, 2007 年 6
月 20 日から, 従来の全国一律商品価格体系を見直して県単位の地域別価格を導入した。 また,
2008 年春には, 2006 年からの中長期的方針である直営店舗のフランチャイズ店への切り替えを
加速させる方針を発表した(1)。 この二つの企業行動は, マクドナルドの従来の商品価格付け変更,
新商品開発, 24 時間営業の拡大, 店舗改装といったものとは異なった新しい戦略である。 本稿
では, この地域別価格導入とフランチャイズ化比率の上昇加速という二つの現象を取り上げ, マ
クドナルドの企業行動について若干の考察をしてみたい。
1. マクドナルドをめぐる現況
2006 年 4 月 19 日公表の 「 今後の成長戦略
について」 (2) の冒頭では, 「日本マクドナルド株
式会社 [本社:東京都新宿区, 代表取締役会長兼社長兼 CEO:原田泳幸] は, 過去 2003 年まで
の 7 年間に亘る厳しい業績のトレンドを, この 2 年間で大きく転換してまいりました」 と述べら
れている。 バブル崩壊後, 1994 年のマクドナルドの値下げを皮切りに価格破壊が引き起こされ
たが, 円高など経済環境の悪化もあって, マクドナルドは収益が悪化, 持ち株会社制に移行した
2002 年には創業以来初の赤字となった。 また, 価格破壊の結果, ハンバーガーは安物とのイメー
ジを与え, マクドナルドのブランドイメージも大きく損なわれた。 そのため, 1971 年の創業以
来マクドナルドを引っ張ってきた立志伝中の人物藤田田氏は戦略失敗による責任を取って 2003
年に引退し(3), 建て直しがスタート, 原田氏が社長になった 2004 年を再生の年とした。
上述 「 今後の成長戦略
について」 では, 今後の重点分野として, 1. 既存事業の成長戦略,
2. フランチャイズ事業の再構築, 3. 新事業への展開, の 3 つが挙げられている。 「1. 既存事業
の成長戦略」 では, バリュー戦略の継続的発展のための戦略的な商品開発, 店舗運営の強化,
戦略的な店舗開発, より経済的・効率的な事業展開, を課題とし, の一つとして 「包括的
新価格体系の導入が検討中」 であるとしている(4)。 また, 「2. フランチャイズ事業の再構築」 の
― 47 ―
目標として日本マクドナルド及びフランチャイズオーナーオペレーター自身の財務体質を改善向
上させることを挙げ, その具体的施策の第一を 「フランチャイズによる売上げ比率向上 (現在は
直営:フランチャイズ= 7:3)」 としている。 また, 「3. 新事業への展開」 とは, 既存のビジネ
スのままでは成長が望めない店舗の活性化の問題である。 このように地域別価格制もフランチャ
イズ問題も成長戦略の重要な一環であるので, 以下これらについて考える。
2002 年以降の持ち株会社制によって日本マクドナルドホールディングス株式会社 (大親会社
は米国マクドナルド・コーポレーション) は, 日本マクドナルド株式会社, 株式会社エブリデイ・
マックの持株会社として, グループ企業の連結経営戦略の策定業務と実行業務及び不動産賃貸業
務を主たる事業としている。 日本マクドナルド株式会社は直営店方式による店舗運営とともにフ
ランチャイズ方式による店舗展開を通じてハンバーガー事業を展開している。 同社はマクドナル
ドコーポレーションから許諾されるライセンスに対するロイヤルティを支払っており, また, 日
本国内においてはフランチャイズ店舗を経営するフランチャイジー (フランチャイズオーナー)
に対してノウハウ及び商標等のサブ・ライセンスを許諾し, フランチャイジーからロイヤルティ
を収受している。 さらに, 株式会社エブリデイ・マックは日本マクドナルドに店舗サポート事業
をしている(5)。 このようにマクドナルド企業集団は重層構造になっているが, 我々は持ち株会社
と子会社の意思決定構造に立ち入ることはしないため, 以下では, 日本マクドナルドホールディ
ングスと日本マクドナルドなどの区別をすることなく, 日本国内でハンバーガーレストラン事業
を展開する企業を便宜上マクドナルドないしマクドナルド (本部) と呼ぶことにする。
2. 地域別価格制の導入
マクドナルドは従来の全国一律商品価格体系を見直し, 2007 年 6 月 20 日から県単位の地域別
価格を導入した。 これは, 他県とは異なった価格をつけるが, 同一県内では同一価格をつけると
いうものである。 対象は, 低価格商品の 100 円マックを除き, 単品ハンバーガーのほか, セット
メニューを含むほぼ全商品である。 事前の新聞報道(6) によれば, 地方に比べて大都市部では近年,
人件費や店舗賃料が高騰しており, したがって, 東北, 中国地方 (以下, 地方県) の価格は平均
して 2 ∼ 3 %値下げし, 逆に, 東京, 神奈川, 大阪, 京都など大都市 4 都府県 (以下, 都市県)
の価格を 3 ∼ 5 %引き上げるとした。
以上の導入理由は供給側の要因だが, 後日, 日本マクドナルドの CEO 原田泳幸氏はインタビュ
ー(7) に答えて, 都市部の店舗賃料, 人件費の高騰に加えて, 「地域ごとに消費者の所得も購買力
も違う」 と新聞報道にはなかった導入理由を挙げ, さらには, 「(日本マクドナルドは) 価格への
消費者の反応を分析する世界的なパートナーを持っており, 今回も協力を得た。 海外でも成功し
証明された手法だ」 と述べ, 需要側の要因もあることを明らかにした。 そこで, まず需要側の要
因から取り上げる。
― 48 ―
マクドナルドの最近の企業行動について
需要側の要因の考察は, 価格差別における第三種の価格差別 (the third degree price discrimination) 理論の定式化に帰着する。 マクドナルドは 2008 年 2 月末の時点で 3,730 余の店舗
を持ち, その 7 割が直営店, 残り 3 割がフランチャイズ契約を結ぶ約 340 社のオーナーが運営す
るフランチャイズ店である(8)。 フランチャイズの問題は後で触れることとし, ここではまずマク
ドナルド本部の直接統制下にある直営店のみを考察の対象とする。 実際, フランチャイジーが決
定権を持つフランチャイズ店よりは直営店のほうが地域別価格制導入は容易であり, まずは直営
店から先に導入されたと思われる。 簡単のため, マクドナルドは需要曲線について二つの対称的
な特徴を持つ二つの県 (市場) でそれぞれ一つの直営店を持ち, 一つは都市 (urban) 型県, い
ま一つは地方 (rural) 型県に立地しているとしよう。 また, 実際のマクドナルドでは多数の製
品 (メニュー) を提供しているが, 単純化のために一種類のハンバーガーを販売しているものと
しよう。 同業・同種他店の存在によって飲食業は独占的競争の典型とされるので, マクドナルド
の各直営店はそれぞれ右下がりの需要曲線 (および ) に直面している。 を都市型県の
販売量, を地方型県の販売量とし, 都市型県の逆需要曲線を , 地方型県の逆需要曲線
を とする。 次に費用関数である。 ハンバーガーという製品の性質上, マクドナルドでは
第三種の価格差別理論が想定するように本部で製品を生産して各市場に輸送・販売するわけでは
ない。 しかし, 実態的には各県で直営店ごとにハンバーガーを生産・販売するものの, バンズ・
パン類, ハンバーガーパティなど, 食材の共同仕入れを行っているため, 表面的には, マクドナ
ルド本部が一体的に生産したものを各県の直営店に運び, 県ごとに異なる価格をつけることと同
じである。 本部が統括する直営店である限り, 生産をコントロールすることと投入をコントロー
ルすることは同じである (本部の直営店完全コントロール)。 したがって, マクドナルド (本部)
の費用関数は
となり(9), マクドナルド (本部) の問題は
となる。 製品の性質から再販売 (ハンバーガー製品の他県移送) は考えられないので, この定式
化は価格差別における第三種の価格差別の理論の定式化と全く同じものである。 結果は既にわかっ
ているが, 後の比較のため, ここで一応の展開をしておく(10)。
上の問題の一階の条件は次のようになる。 費用関数の定式化から限界費用 は二式で同じ
である。
― 49 ―
ここで, 都市の需要の価格弾力性を , 地方のそれを として二式は次のようになる。
都市のほうが地方に比べて見栄を張る, 多忙であるなどの理由で価格変化に鈍感であるとすると,
であるから, となり, 二式が同じ限界費用 を持つ
には でなければならない。 つまり, 価格変化に対する需要が非弾力である都市
型県市場では地方型県市場よりも高い価格を設定するべきである。 こうして, 需要側だけの考慮
によって地域 (県) 別価格制の導入が正当化される。
日本マクドナルドホールディングスのホームページを見ても, 地域別価格導入の理由が明確に
説明されているわけではない。 しかし, 前述のように, 新聞報道や原田 CEO へのインタビュー
から伺えるのは, マクドナルドが重視したのは, どちらかといえば, 需要要因よりも供給側の要
因のようである。 そこで, これを上の第三種の価格差別の枠組みに取り込むことにしよう。 前述
の通り, 地域別価格導入を一面で報道した新聞記事では, 「主力の大都市部では近年, 人件費や
店舗賃料が高騰している」 とある。 マクドナルド本社による食材の共同仕入れよりも, このよう
な各県の直営店舗の費用事情のほうが重要であるとすれば, それぞれの地方の状況に応じた費用
関数 および を個別に設定して, マクドナルド (本部) の費用関数はもはや上述の
ように ではなく,
とすることができよう。 従って, マクドナルド (本部) の問題は
となる。
この問題の一階の条件は次のようになる。
ここで, 都市の需要の価格弾力性を , 地方のそれを として二式は次のようになる。
― 50 ―
マクドナルドの最近の企業行動について
今回は第三種の価格差別の前提とは異なり都市型県と地方型県の限界費用は同じでなく, であるから, となる。 そして, 第三種の価格差
別の場合と同じく, 都市型県の需要の弾力性が地方型県よりも小さいとの前提を維持すれば,
であるから, となるので, 第三種の価格差別の場合と
同様 が成立するばかりでなく, 両価格の乖離幅は第三種の価格差別の場合より
も大きい。 限界費用が一定の場合の状況が下図に描いてある。 供給要因を考慮しない第三種の価
格差別のときの価格差は縦軸の ab, 供給要因をも取り入れたときの価格差は cd である (無理な
く と想定)。 したがって, 供給側の費用要因は, 都市型県と地方型県の価格
差別導入理由をさらに強化することになる(11)。
3. フランチャイズ化の加速
上の 2. では直営店だけのケースを考えてきたが, マクドナルドの店舗には直営店とフランチャ
イズ (FC) 店の二種類がある。 新聞報道によれば, マクドナルド (本部) は現在 3 割のフラン
チャイズ比率を中長期的に 7 割に引き上げる計画を 2006 年に策定したが, 「ここにきて原料高な
どで店舗コスト上昇傾向が鮮明になったと判断, FC 店化の速度を上げる」 (12) という。 原田 CEO
はインタビューで 「あと約二年で FC 化は完了するだろう。 …材料費など負わずに一定の収入が
えられる。 消費低迷下でも有効だ。 直営店だけだと固定費比率が高くて, 売り上げが減るとすぐ
赤字になる」 と述べている(13)。 ここでは, フランチャイズ化の意味を経済学的に考えてみる。
価格
地方型市場
都市型市場
c
a
b
d
0
量 (地方)
― 51 ―
量 (都市)
フランチャイズ化の問題を地域別価格導入と整合的に考えるために, 需要要因と供給要因を同
時に考慮した上の 2. での定式化を振り返ってみよう。 そこでは各直営店の個別費用関数を
および , したがって, マクドナルド (本部) の費用関数を としたために, マクドナルド (本部) の利潤は であったが, これは括り直すと
と書き換えられる。 つまり, マクドナルド (本部) の利潤は, 各直営店の利潤の合計であり, こ
こに本部は, 前節の第三種の価格差別理論の定式化におけるような直営店への完全コントロール
を失うこととなったのである。 各直営店が利潤最大化をしてくれれば, マクドナルド (本部) の
利潤も最大となるが, しかし, それには以下の問題がある。
直営店はマクドナルド (本部) が所有・運営し, 直営店従業員に賃金を支払う。 これに対して,
フランチャイズ店はマクドナルド (本部) 以外のオーナーが所有・運営し, 本部にロイヤルティ
を支払う。 これまでの記号を改めて, を全直営店の従業員へ支払われる固定賃金とし, を
その賃金を含む全直営店の利潤とすると, マクドナルドの店舗が全て直営店であるとした時のマ
クドナルド (本部) の利潤は である。 これに対し, フランチャイズ全店からマクドナル
ド (本部) に入る固定ロイヤルティ収入を , をそのロイヤルティを含むフランチャイズ全
店の利潤とすると, マクドナルドの店舗が全てフランチャイズ店であるとした時のフランチャイ
ズ全店の利潤は である。 ここで および は変動しない確実な値であり, それに対し
て および は変動する。
したがって, 第一に, 直営店の場合, マクドナルド (本部) は収益面で の変動のリス
クを被るのに対し, フランチャイズ店の場合, マクドナルド (本部) は確定収入 を受取るだ
けだから収益上のリスクを被ることはない。 さらに, フランチャイズの場合, フランチャイズ店
のオーナーは, 一定のロイヤルティをマクドナルド (本部) に支払った残りは全て自分のものに
なるので, 事業インセンティブは高く, それを損なわない範囲でマクドナルド (本部) は を
高く設定できる可能性がある。 また第二に, 直営店の場合, 店舗の業績にかかわらず従業員は一
定の賃金 が保障されているのであるから, 本部の監視の目が届かない場合, モラルハザード
によるサボタージュの可能性を排除できない。 必ずしも直営店の利潤は最大とはならない。 経済
環境, 破壊的価格競争に多くの責があったとはいえ, マクドナルド (本部) は 2004 年以前の業
績不振の状態に戻ることを望まないであろう。 ここ数年の努力はまさにそのためであった。 よっ
て, これら二つの理由から, 安定した確実なより多くの収入を得るべく, 全店を直営店にするこ
となく, 店舗の一部をフランチャイズ店にする動機が発生する。 ましてや, 少子化に伴う消費の
長期的低迷が現実のものとして存在する状況下, その動機はますます強まる。 フランチャイズ比
率を 3 割から 7 割に引き上げるという計画は, マクドナルド (本部) の安定収益増加指向の強さ
― 52 ―
マクドナルドの最近の企業行動について
を示すものである。 それでもなお 3 割とはいえ直営店を維持するのは, 本部の監視・コントロー
ルがうまくいけば大きな利潤 を得る可能性があるからである。
ここで, 直営店とフランチャイズ店の混合の意味をさらに考えてみる。 直営店比率を (した
がって, フランチャイズ比率は ) とすると, マクドナルド (本部) の利潤は
であり, また, マクドナルド (本部) 以外の収入 (直営店従業員の賃金とフランチャイズ店オー
ナーの利潤の合計) は
となる。 両者の合計は
となり, これは, とおくと,
となる。 この最後の式の意味するところは, 直営店とフランチャイズ店の混合は, あたかもフラ
ンチャイズオーナーがマクドナルド直営店を借りてハンバーガーを生産・販売して利潤 をあ
げ, 店の賃料として %をマクドナルド本部に納め, 残り %を獲得することと同じとい
うことである(14)。 直営店のみ, あるいはフランチャイズ店のみの場合, 生産量変動のリスク負担
はマクドナルド本部, フランチャイズオーナーともに 100%で, リスク回避は不可能だが, 直営
店とフランチャイズ店の混合の場合は, それぞれの混合比率でリスク負担することとなり, 全体
としてリスク分担効果が出てくるということである。 フランチャイズ比率を高めるということは,
直営店からフランチャイズ店にリスクをより多くシフトさせることを意味し, マクドナルド本部
の収益を安定させることになる。
おわりに
本稿では, 最近のマクドナルドの地域別価格制の導入とフランチャイズ化の加速の二つの戦略
を取り上げ, 統一的に理解するように努めた。 費用関数の地域性を強調することによって地域別
価格導入の理由が強化されると同時に, 各直営店の地域性即独自性強化から, 安定した利潤確保
のためにフランチャイズ比率を高めることの必然性を論じた。 2004 年の再生の年以降, マクド
― 53 ―
ナルドは地域の事情を重視せざるをえなくなったのである。 これは裏を返せば, 直営店の監視・
コントロール中心の中央集権的藤田田体制からの決別である。
他のいくつものマクドナルドの戦略の整合性も検討する必要があるが, もはや本稿の範囲外で
ある。
《注》
(1)
日本経済新聞 2008 年 (平成 20 年) 3 月 27 日。
(2)
http://www.mcd-holdings.co.jp/news/2006/release-060419b.html
(3)
Wikipedia の 「日本マクドナルド」 の項参照。
(4)
直後の 2006 年 5 月 13 日に導入された新価格体系は地域別価格制ではない。 後者は一年後に導入さ
れたが, 「今後の成長戦略」 の枠内で検討されたものと思われる。
(5)
日本マクドナルドホールディングス㈱平成 19 年 12 月期中間決算短信 (http://www.mcd-holdin
gs.co.jp/pdf/2007/2007_half_j.pdf)。
(6)
日本経済新聞 2007 年 (平成 19 年) 6 月 12 日。
(7)
日本経済新聞 2007 年 (平成 19 年) 7 月 15 日。
(8)
日本経済新聞 2008 年 (平成 20 年) 3 月 27 日。
(9)
実際には共同仕入れした食材の本部から各県への輸送費がかかるが, ここでは無視する。 第三種の
価格差別理論でも製品の輸送費はゼロと想定されている。
(10)
例えば, [ 3 ] 参照。
(11)
地域別価格導入直後ではビッグマック単品の場合, 東京, 神奈川, 大阪, 京都の都府県 (1,255 店)
で 290 円に, 宮城, 福島, 山形, 鳥取, 島根 (130 店) で 260 円, その他の現状維持県 (2,439 店) 280
円と, 引上げ県と引下げ県の価格差は 30 円であった。 また, ビッグマックのセットでの価格差は 80
円であった。 日本経済新聞 2007 年 (平成 19 年) 6 月 21 日。
具体的には, 2008 年中に前年の 3.5 倍にあたる 500 店を直営店からフランチャイズ店に転換, 全店
(12)
に占めるフランチャイズ店の比率を 30%から 40%程度に引き上げるとしている。 日本経済新聞 2008
年 (平成 20 年) 3 月 27 日。
(13)
日本経済新聞 2008 年 (平成 20 年) 9 月 20 日。
(14)
開発経済学の農業契約問題では, 生産関数が一次同次で取引費用がない時, 固定レンタル契約と固
定賃雇用契約の一次結合として, 分益小作契約と同じリスク分担度が生成されるという議論がある。
例えば, [ 2 ], [ 1 ] を参照。
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(原稿受付
― 54 ―
平成 20 年 10 月 9 日)
政治・経済・法律研究
随
Vol. 11 No. 1, pp. 5569
January 2009
想〉
中国北京
天安門事件
雑感
小
林
一
秋
中国は (その現状や政情がどうであれ) 日本にとって重い存在である。
中国を避けて日本は進めない国である。 中国は今世紀には世界の重い存在となる。 したがって,
感情的な好き嫌いで中国に対応してはならない。 中国に対処するに当たって大事なことは, その
最も基本的な特徴である 「地大 (国土面積が日本の 26 倍), 物博 (資源が豊富), 人多 (人口が
13 億突破), 時長 (長久な連続性をもつ歴史)」 といわれるものの中で, とりわけ中国が歴史の
古い国だということへの配慮である。 ということは, 歴史が古く長いほど, その重みは大きいと
いうことである。 そういう重みを引きずっている国の変化には, それ相応の時間を必要とするの
である。 ゆえに, 中国社会の体制を新しい秩序 (例えば経済的には市場経済体制の建立) に移行
させるには, 大変なエネルギーと時間と紆余曲折が必要なことを, まず理解することである。 要
するに, 過去を忘れると, 現在にも盲目となり, 将来を見誤ることになる。 こうしたことをしっ
かりと念頭に置きながら, まことに言語に絶する悲痛な惨劇として世界を震撼させた, いわゆる
1989 年 6 月 4 日の首都北京での《天安門事件》の経過を振り返ってみることにする。 この惨劇
をもたらした中国の歴史的風土的土壌, 指導部内の権力闘争の由来, 1978 年以降の経済開放と
政治改革の乖離などの観点から, 改めてこの事件を再検討する必要がある。 以下の文章はあくま
でも筆者の雑感ないし所感である。
1. 天安門事件の経過
ことの起こりは, 1989 年 4 月 15 日の胡耀邦 (中国共産党元中央総書記)(1) の死去にはじまる。
彼の追悼大会が 4 月 22 日に北京の人民大会堂で挙行されたが, その 「弔辞」 の中では総書記解
任 (1987 年 1 月 16 日) にも触れず, 名誉回復にも言及していない。 この死去を追悼しようとし
て, 天安門広場に集まった学生や市民が, これを機会に政治家の腐敗を非難し, 政治の民主化を
要求するデモならびにハンストに発展していった。 こうした請願要求とか平和的示威とかは, 先
進国においてはごく普通の常識的な行為である。 ところが中国政府は, 「学生を中心とした追悼
活動は, 計画的な陰謀であり, 動乱である。 その実質は, 中国共産党の指導と社会主義制度を根
本から否定することにある」 (同年 4 月 26 日 「人民日報社説」) と即座に学生デモの性格を反革
命と断定したのである。 この社説は, 趙紫陽総書記 (当時) の北朝鮮訪問時 (2330 日) に公表
― 55 ―
されたため, このことが後に共産党指導部内の意見対立の発端とされている。
さて社説発表後には, 学生を中心とするデモは沈静化するどころかさらに規模を拡大化していっ
た。 とりわけ 5 月 4 日 (1919 年の 「五・四」 運動 70 周年記念日) には大規模なデモが行われた。
そうした天安門周辺での約 50 万人のデモ情勢下にあって, 5 月 15 日に国賓としてソ連のゴルバ
チョフ書記長が中ソ関係正常化のため中国を訪問した (同月 18 日に上海から帰国)。 翌 16 日に
は趙紫陽総書記との会談が行われたが, この会談内容が後の戒厳令の実質的な引き金となる。 そ
れは趙紫陽が 「中国共産党は最重要課題については, 引き続き小平氏の指導を仰いでいる」 と
いう秘密決議 (1987 年 11 月 2 日の第 13 期 1 中全会の決定) の中身を述べたことによる。 その
翌日の 17 日になると局面は急展開し, 事態を如何に収拾するかについて中央政治局常務委員会
拡大会議 (正式の決定機関ではない) が開かれ, 次のことが同意された。 すなわち, 北京市の一
部に戒厳令を実施するというものである。 因みに, この拡大会議には正規の常務委員である趙紫
陽 (中央総書記), 李鵬 (国務院総理), 喬石 (中央紀律検査委員会書記), 胡啓立 (中央書記処
書記) および姚依林 (国務院副総理兼国家計画委員会主任) の 5 人のほかに, 小平 (中央軍事
委員会主席), 楊尚昆 (国家主席), それと薄一波 (中央顧問委員会副主任) が出席したといわれ
ている。 この拡大会議の同意 (戒厳令実施) を正式決定するために, 中央政治局常務委員会会議
(最高指導機関) が同日夜に開催されたが, 事態解決の最終的な意見調整はなされず, かえって
戒厳令実施に関して支持 (李鵬・姚依林) と不支持 (趙紫楊・胡啓立), ならびに保留 (喬石)
といった 3 つの意見に割れてしまうことになった。 このことが趙紫陽総書記の事実上の失脚とな
る (彼自身は失脚=解任ではなく, 自ら辞任の道を選択したといわれる)。
一方では学生のハンストが続いていた。 この局面打開にあたって趙紫楊は, 5 月17 日未明に,
中共党中央を代表して 「書面談話」 をビラにして散布した。 この談話の要点は, 第 1 に学生達へ
の絶食中止の呼びかけ (学生側代表の北京師範大学心理学部大学院生・柴玲女史が 5 月 19 日午
後 9 時に絶食を中止すると宣言), 第 2 に学生達への 「秋后算帳 (暴動後の処分)」 は絶対にしな
い (実際には 6 月 13 日に公安部が首謀者とされる 21 名を全国に指名手配), というものであっ
た。 さらに 19 日午前 5 時頃, 趙紫陽は温家宝 (党中央弁公庁主任・現国務院総理) とともに突
然ハンスト学生達の面前に現れ, その境地と窮状を訴え, 来るのが遅すぎたと謝罪した。 だが,
この謝罪は単純な挨拶程度のものではないはずである。 これを小平側から見ればどうなるか?
たとえば, 国賓としてのゴルバチョフの歓迎式も満足に挙行できず, しかも秘密決議まで暴露さ
れ, そのうえ学生にも謝罪する, といった行為は許容範囲をすでに超えていたとも解釈できよう。
中国と共産党と自分を含めた長老達の面子を丸潰しにされたと感じても決しておかしくあるまい。
その激怒ないし憤慨の様子は, 容易に想像することができよう。 要するに, 最高権力者としての
小平の政治的権威は著しく傷つけられたことになる。 そしてその後, 趙紫陽は総書記として公
的な場に姿を見せることはなかったのである。
1989 年 5 月 19 日夜, 国防大学 (北京市西北郊外) で開かれた中共党・政府・解放軍の幹部大
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中国北京
天安門事件
雑感
会で李鵬総理が演説し, 学生運動への反対を表明し, 4 月 26 日のいわゆる 「動乱社説」 の正当
性を再確認した。 ここに中国共産党指導部内の分裂が明確になったわけである。 そして小平の
既定方針どおりに, 5 月 20 日午前 10 時を期して 「北京市の一部地域に戒厳を実施することに関
する命令」 (憲法第 89 条第 16 項の国務院職権規定に基づく) が発布された。 この国務院命令に
したがって, 北京市政府は, その第 1 号命令で戒厳令下の禁止事項を次のごとく定めた。 すなわ
ち, 示威行動およびストライキ, 演説やビラの配布, 共産党・政府機関・テレビ局に対す
る攻撃, 外国大使館への騒乱や取材活動などである。 それと同時に人民解放軍戒厳部隊指揮部
(実質的責任者は中央軍事委員会副主席の楊尚昆・国家主席) も成立した。 この李鵬演説に対し
て, 5 月 24 日・25 日になると, まずすべての一級行政区と人民解放軍の 7 大軍区からそれぞれ
支持表明がなされた(2)。 また, 同月 26 日には党中央顧問委員会 (主任は陳雲) の常務委員会が
開かれ, 上記李鵬演説の支持が表明され, 翌 27 日にはカナダ外遊から上海に帰国した万里 (全
国人民代表大会常務委員会委員長・中央政治局委員) が書面談話で支持を発表した。 そうした中
で, 同月 25 日には北京放送がデモ隊を初めて 「反革命分子」 (敵対勢力) と呼称し, これで名実
ともに彼等は打倒 (武力制圧) の対象となった。 こうして党・政・軍の戒厳令支持の意思統一が
図られていったのである。
一方でデモ隊は, 5 月 23 日に戒厳令実施後では最大の数 10 万規模のデモを行ったが, 翌 24
日以降になるとその参加者は急速に激減していった。 その数は, 天安門広場の人民英雄記念碑前
に 「民主の女神」 像が建立された時点 (5 月 30 日) では, およそ5,000 人にまで減っていた。
1989 年 6 月 3 日夕刻, 戒厳部隊指揮部は 「緊急通告」 を発布した。 それは 「全北京市民は警
戒心を高め, 今から外出しないよう, 天安門広場には行かないよう勧告する」 というものである。
しかし実際には勧告とはいっても, その中身は武力行使 (「掃除」 ないしは 「清場」) という断固
たる措置をとるといった極めて厳しい決意表明と警告である。 この日から, 学生運動の 「動乱」
規定 (前述の人民日報社説) が 「反革命暴乱」 と統称されるようになる。
同年 6 月 4 日 (日曜日) 午前 0 時 30 分頃, すでに戒厳令下の北京市内を東・西・南・北から
包囲する形で平定作戦の準備体制を整えていた各部隊は一斉に発砲を開始した。 天安門広場とそ
の周辺は短時間のうちに戒厳部隊にほぼ制圧され, 残るは学生達のシンボルである 「民主の女神」
像のみであるが, これも直ちに引き倒された。 午前 5 時 30 分から 6 時にかけて学生達は完全に
退去した。 午後 12 時 15 分の新華社は 「学生を撤去し, 最終目標を達した」 と報じている。 胡耀
邦死去からわずか 50日でいわゆる 「天安門事件」 (中国では現在 「政治風波」 と呼ぶ) は終焉し
た。
その翌日 (6 月 5 日), 中共党中央と国務院は連名で 「全党員, 全国人民に告げる書」 を以下
のように発布した。 すなわち, 「6 月 3 日払暁から, この動乱は驚くべき反革命暴乱に発展した。
暴乱のネライは, 党の指導を否定し, 社会主義制度を否定し, 中華人民共和国を転覆することに
ある」 と今回の事件の性格を明確に規定した。 これは非常に重要な規定である。 なぜなら, この
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規定には共産党の基本路線や政治原則に関わる大問題が含まれているからである。
その意味するところは, つまり 1979 年 3 月 30 日の小平講話の中の《四つの基本原則》の堅
持を最も重要な政治原則 (政権問題) として再確認したことである。 四つの基本原則》の堅持
とは, 中国がどんな道を, どのような国家体制のもとで進み, また中国を誰がどんな思想によっ
て, 指導するのか, といった国家社会の根源的な問題に答えたものである。 小平の答えは, 中
国は社会主義の道を歩み, 人民民主主義独裁の下で, 中国共産党がマルクス・レーニン主義, 毛
沢東思想 (後に小平理論を追加) を拠りどころとして指導するというものである。 そしてその
後《四つの基本原則》は, 中共党第 13 回全国代表大会の政治報告 (1987 年 10 月 25 日) におい
て, 「一つの中心, 二つの基本点」(3) として統括され, 共産党の基本路線 (基本任務) ないし総方
針として確定されたのである。 さらにこの《原則》は, 現行憲法前文にも明記(4) されている。 こ
のことは中国の国家的性格と方向性 (方途) を決定づけるものである。 ゆえに, それは今でも立
国の基とされている。 したがって共産党としては, この《原則》と抵触するようなあらゆる政治
的・思想的・社会的言動等については決して譲歩や妥協などはしないと断言できよう。 こうした
中共党の基本的な考え方は, 現在 (2008 年 9 月) においても何ら変わってはいない。 学生デモ
は, この共産党の虎の尾を踏んでしまったことになる。
ここで天安門広場とその周辺の 「清掃 (武力行使による掃討)」 終息後の状況を以下に簡潔に
記しておくことにする。
1989 年 6 月 5 日 (事件翌日) には, 民主化運動の指導者的存在であった方励之 (中国科学技
術大学元副校長) ・李淑嫻夫妻が北京の米国大使館に保護を求める。 これに対して北京市公安局
は 「反革命煽動罪」 の容疑で逮捕令状を発布する。
6 日には, 国務院スポークスマンの記者会見によって, 初めて事件による死傷者数が公表され
た。 それによると負傷者は解放軍将兵 5,000 余人, 民間人 2,000 余人であり, 死亡者は軍人と民
間人で 300 余人 (そのうち大学生は 23 人) であった。
8 日には, 人民解放軍 7 大軍区の各党委員会が先の 「告げる書」 に対する支持表明を中共党中
央, 国務院および中央軍事委員会に打電している。
6 月 9 日になると, ソ連共産党書記長ゴルバチョフとの会談 (5 月 16 日) 以来, 公式の場に姿
を見せなかった小平が 24 日ぶりに現れ, 中南海懐仁堂で戒厳部隊幹部と会見した。 ここで
小平は, 今後とも共産党の路線・方針・政策は不変であることを改めて明言している。 因みに,
この会見時の主たる同席者は楊尚昆, 李鵬, 喬石, 姚依林, 万里, 秦基偉 (以上党 13 期中央政
治局委員), ならびに李先念, 彭真, 王震, 薄一波, 洪学智, 劉華清などの長老達(5) である。 な
お趙紫陽と胡啓立の両中央政治局常務委員は欠席し, また陳雲 (中央顧問委員会主任) と田紀雲
(国務院副総理) も欠席した。 この会見直後に, 小平への呼称は 「全軍の最高統帥者, 国家建
設と経済改革の総設計師, 共産党と国家の舵取り」 (6 月 11 日 「人民日報」) という最大限の敬
称が冠せられた。
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天安門事件
雑感
12 日には, 中央テレビ局のアナウンサー杜憲女史 (第 7 期全国政治協商会議委員・中華全国
青年連合会所属) が, 6 月 4 日と 5 日のニュースで喪章付帯を理由として番組から外されている。
翌 13 日には, 国家公安部が北京市学生自治連合会のリーダーおよび中心的人物 21名を全国に
指名手配した (当時の人民日報には学生の氏名・略歴・写真が掲載されている)。 同日, 中共党
中央と国務院は各部門責任者会議を開催し, そこで李鵬総理が談話を行った。 その要旨は今回の
動乱と暴乱について, 人民解放軍, 武装警察部隊と公安部門の幹部・警察が天安門広場に対し
て武力を行使し, 長期にわたったブルジョア自由化思潮が氾濫した結果であり, とりわけ重
要なのは, 相当長い期間にわたり精神文明の建設ないし思想政治工作をゆるがせにした, という
ものである。 この談話の中には武力行使という権力発動それ自体に対する反省の弁はみられず,
むしろブルジョア自由化 (四つの基本原則》の対極に位置する政治的概念)(6) を放任し, 思想政
治工作を強化してこなかったことへのいわば “反省” が強調されていると言えよう。
1989 年 6 月 2324 日の 2 日間にわたり, 中共党 13 期 4 中全会が北京で開催された。 この会議
の主要目的は, 中央政治局の提起した報告 (趙紫陽同志が反党, 反社会主義の動乱の中で犯し
た誤りに関する報告) を審議, 採択することである。 それは 「天安門事件」 についての中国共
産党の公式な評価表明(7) でもある。 会議は最後に中央政治局常務委員会の人事を以下のごとく調
整して閉幕した。 すなわち,
【1987 年 11 月 2 日・第 13 期 1 中全会】 【1989 年 6 月 24 日・第 13 期 4 中全会】
趙紫陽 (総書記)
江沢民 (総書記)
李
鵬 (総理)
李
鵬 (総理)
喬
石
喬
石
胡啓立
姚依林
姚依林
宋
平 (党中央組織部部長)
李瑞環 (党天津市委員会書記)
そして中共党は 11 月 69 日にかけて第 13 期 5 中全会を開き, ここで小平は中央軍事委員会
主席を辞任し (満 85 歳), 後継として江沢民総書記を選出した。 そのことは小平が, 表面上な
いし組織上は政治的引退を果たし, ひとりの平党員になったことを意味しているが, それでもな
お実際には中国の最高指導者であることに変わりはなかった。 その後の彼の精力的な行動や幾多
の講話 (1992 年 12 月かけての 「南巡講話」 はその最たる例) などがそれを証明している。
2. 諸外国の反応と経済的措置
それでは中国の武力行使に対して各国はどのように反応し, いかなる措置を取ったのか?
― 59 ―
ま
た中国では何が起きていたか?
次にそれらを参考までに列挙しておくことにする。
1989年 6 月;
4日
サッチャー英首相:「最近の東西関係の進展にもかかわらず, 民主主義社会と共産主
義社会の間には深い溝があることを再確認させられた」
ミッテラン仏大統領:「中国政府に未来はない」
5日
東ドイツ社会主義統一党の機関紙:「中国の武力制圧を正当化」
6日
イギリス政府の措置:「中国向け武器売却の全面禁止」
スイス政府の対応:「中国向け武器売却の一時停止」
フランス政府の反応:「中国との関係を全面凍結」
8日
オーストリア, スイス, スウェーデン, フィンランドの中立 4 ヵ国政府の外務次官級
会議の同意事項:「中国との外交面での接触を当面凍結」
12日
世界銀行 WB のスポークスマン:「対中国融資約 2 億 3,000 万$について審査の延期
を決定。 すでに農業プロジェクト向けの 6,000 万$の融資条件も見送られている。 現在
までの借入残高は国際開発協会 (IDA) 分と合わせると 35 億 6,000 万$となる」
14日
チェコスロヴァキアの政党機関紙:「中国当局の武力鎮圧支持の論文を掲載」 (ハンガ
リーやポーランドは武力行使に批判的)
20日
中国の四川省成都で 8 人処刑。
21日
上海市で労働者 3 人に銃殺刑執行。
山東省済南で労働者 17 人を処刑。
22日
湖南省長沙で 13 人に銃殺刑。
北京市で労働者・農民ら 7 人が処刑。
オーストリア政府:「北京駐在大使の召喚を言明」
23日
西ドイツ政府の決定:「西独・中国経済貿易合同委員会の開催を拒否」
(初の制裁措置の実施)
イタリア政府の決定:「対中開発援助の承認延期」
ベルギー政府の決定:「中国と合意済みの 3 億ベルギーフラン (約 9 億円) の借款供
与の凍結」
26日
世界銀行 WB の決定:「中国政府に対する 7 億 8,000 万$の借款を延期」
27日
欧州共同体 EC 首脳会議の合意事項の骨子:中国の民主化要求運動弾圧に対する非
難声明の発表, EC 加盟国 (当時は 12 ヵ国) は対中軍事協力を停止し, 中国への武
器輸出を禁止する (この制裁措置は今現在でも続いている), 閣僚など高級レベルの
接触は行わない, 新規の経済協力案件を延期する, 文化・科学技術協力を制限する,
在欧州中国人留学生のビザ延長には応ずる。
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天安門事件
雑感
カナダ政府の対中制裁措置の発表:総額 910 万$の経済開発プロジェクトの援助
30日
中止, ダム工事の実地調査の停止。
1989年 7 月;
6日
金日成 (北朝鮮主席):「中国天安門の武力行使を全面的に支持する」
15日
第 15 回サミット (主要先進国首脳会議・パリ) の政治宣言 (中国に関する宣言):
6 月 27 日の EC 首脳会議の合意事項を確認し, 中国当局の孤立化回避と早期協力
関係の復帰条件の創出努力に期待し, 香港の人々の懸念を理解する。
1990年 1 月11日
北京市の戒厳令解除。
6 月 4 日(天安門事件一周年) の人民日報社説:「あの風波 (小さな事件) は, ………ブルジョ
ア階級自由化と四つの基本原則の鋭い対立であり, 平和的演変 (社会主義体制の平和的
移行) と反平和的演変との激烈な闘争である」
12月 5 日世界銀行 WB の決定:「対中経済制裁措置 (借款停止) の解除」
こうした流れの中で, 中国に対する経済封鎖は次第に解除されていった。
3. 天安門事件の背景
それでは次に, あの北京での惨事はどうして起こったのか?
その原因は複雑で多岐多様にわたるが, その幾つかをここに抜き出してみることにする。 まず
初めに頭に浮かぶのは, 中国の指導部権力者達の心身の老化であり, これが最大の理由である。
それは, 老化に伴う思想の硬直化と思考力の弾力性喪失を物語っている。 中国は事件当時, 「八
老治国」 (デモ学生達の陰口) といわれた。 つまり, 8 人の老人 (長老=後見役) が国を支配し
ているという意味である。 その老人とは, 以下にあげる 8 人である (人名のあとの数字は当時の
満年齢と肩書き)。
小平 (84)
中央軍事委員会主席
1997年 2 月19日没
楊尚昆 (82)
国家主席
1998年 9 月14日没
王
震 (81)
国家副主席
1993年 3 月12日没
陳
雲 (84)
党中央顧問委員会主任
1995年 4 月10日没
薄一波 (81)
党中央顧問委員会副主任
2007年 1 月15日没
宋任窮 (80)
党中央顧問委員会副主任
2005年 1 月 8 日没
李先念 (80)
中国人民政治協商会議全国委員会主席
1992年 6 月21日没
彭
全国人民代表大会常務委員会前委員長
1997年 4 月26日没
真 (86)
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このいずれも 80 歳を超えた保守的な老人集団 (長老グループ) が, 人民解放軍 (PLA) と人
民武装警察部隊 (1983 年 4 月 5 日新設) の武力を使用して, 民主化要求のリーダー (学生や知
識人) を弾圧し, 党内部の学生同情派 (趙紫陽・胡啓立等) の職務を剥奪して, 李鵬総理等の政
府官僚機構の守備ないし防衛に成功したのである。 これは保守派長老達の共通の利益を固守する
勝利である。 その利益とは, 共産党・政府 (行政権)・人民解放軍 (統帥権) の権力の維持,
地位の利権化, 幹部子弟 (中国では 「太子党」 と呼称) の優遇, 支持派官僚の利得などを
指している。 このことは終身栄誉とその世襲化, 保守派官僚の特権階級化を意味する。 まさに民
主的改革とは全く相反する時代への逆行であり, 錯誤でもある。 そのことは個人独裁の下に (
小平は自らを第 2 世代の中核と位置づけた), 中共党の一党独裁を助長し, 拡大することにほか
ならない。
それでは次に, そうした長老達の思想的拠り所とは何なのか?
それは結論から言えば, マルクス・レーニン主義のプロレタリア階級独裁である。 あるいはス
ターリン型の社会主義である。 すなわち, マルクス・レーニン主義は弁証法的唯物論という哲学
の上に論理構成がなされている。 それはプロレタリアートの抵抗・抗議の哲学として実践され展
開された。 その哲学がやがてスターリンのソ連型になるに及んで, マルクス主義的社会主義は
(自称=科学的社会主義), そのイデオロギー (思想的価値体系) を科学的真理であって, 社会の
矛盾を解決する唯一絶対の方法であると規定し, さらに極限の拡大解釈を行ない, それを 「教条」
にまで昇華させたのである。 その時点において, すでにそれは宗教的狂信と等しいものとなる。
このことが社会主義の悲劇の幕開けとなった。 そして, それは 「個人崇拝」 を育むことになった
のである。 つまり, カリスマ的指導者 (神の使徒) の存在を容認するのである。 それがソ連では
レーニン, スターリンであり, 中国では毛沢東であり, 毛沢東以後は, 小平がその亜流となっ
た。
中国では, この個人独裁は当時も現在も 「人治主義」 と呼ばれている。 毛沢東もその例外では
なかった。 毛沢東は 1956 年からその死 (1976 年 9 月 9 日) に至るまで, 反右派闘争 (知識人に
対する弾圧), 大躍進・人民公社化政策, および文化大革命 (1966 年 5 月1976 年 10 月) 等によっ
て, 人民大衆は塗炭の苦しみを舐めさせられたのである。
(8)
小平は, そうした毛沢東の路線や方針や政策を批判・総括し , それまでのスターリン型の
指令的計画経済に修正の手を加え, 資本主義世界に窓を開く経済開放政策に踏み切った。 それは
当然のことながら, ある程度の自由化・民主化の導入を意味する。 つまり, 政治的には民主化,
経済的には自由化, 対外的には開放化, ならびに思想的には解放化 (実事求是) ということにな
る。
小平は, その後の 10 年間 (19791989 年), カリスマ性をもった実力者, 独裁者として君臨
した。 彼の経済政策は, 農業集団化 (農村人民公社) の解体と土地の請負経営などで農民に支
持され (いわゆる 「三自一包」 政策), 国営経済の自主権 (経営上の自由裁量権) を認め, 私
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中国北京
天安門事件
雑感
営・個人経済の拡大などで労働者市民に支持され, 外資導入や合弁企業建設などで知識人や技
術者等に支持された。 その成果を経済規模の観点で見ると, 10 年間に GDP 絶対値は約 5 倍に成
長した。 ただし, この 10 年間には成果ばかりではなく, “負” の欠陥も発生し, 多くの社会的矛
盾をも醸成したのである。
要するに, マイナス面を挙げれば, 改革・開放・市場経済化の進展と経済法規類の整備の遅
れなどによる経済的混乱が諸々の矛盾や問題を発生させてきたこと, 官僚主義への反発や政治
改革の不徹底や 「党政分離」 の不実行などによる政治的不満が生じたこと, さらにインフレに
伴う社会的不公平, 地域間所得格差の拡大, あるいは特権行使による共産党員や幹部の腐敗・堕
落現象などによる社会的不安が惹起されたことである。 こうした経済的, 政治的, 社会的要因が
複雑に絡み合った状況のもとで天安門事件は起こったのである。
それでは, どうして小平は, この事件を暴力的手段で扱ったのか?
それは一方では, 彼が大所高所から広く世界の情勢を見極め, 中国の現状を客観的に分析し,
多くの新旧知識人や技術者 (専門家) の欲求不満に対処し, 若い活力を建設的発展方向に導くと
いった, リーダーシップをとることができなかったためである。 すでに彼には, 1978 年 12 月の
政策大転換を決めた当時のような柔軟な思考力は失われていたといえる。 他方では, 後継者の選
択を誤り, 胡耀邦に続いて趙紫陽をも切り捨て, 保守派長老達と妥協し, 政治的にはスターリン
型の旧式社会主義に逆行させてしまったといえる。 それは, 中国を再び 1950 年代に引き戻すこ
とである。 これでは中国の新世代の若者達を到底納得させることは不可能であるといわねばなら
ない。
4. 東欧への影響 (歴史的大潮流)
天安門事件は, その後の東欧 (旧ソ連衛星国) に大きな影響を及ぼすことになる。
以下はその簡単な例示である。
1989年 9 月
ポーランド:非共産勢力主導型の連立政権の樹立。
10月
ハンガリー, ブルガリア, チェコスロヴァキア:一党支配体制の放棄。
10月 3 日
東ドイツ:冷戦の象徴とされてきたベルリンの壁の崩壊。
12月25日
ルーマニア:チャウシェスク書記長夫妻の銃殺 (一党独裁体制に終止符)
1990年 5 月
12月
1991年12月31日
ユーゴスラヴィア:複数政党制への移行実施。
アルバニア:一党独裁体制の廃止。
ソ連:共産党独裁政権の崩壊。 ソビエト社会主義体制の解体消滅。
こうした東欧での激変 (まさに歴史的大潮流) は, 何を意味しているのか?
― 63 ―
それは端的にいえば, 政治的には共産党の一党独裁体制の破綻から複数政党制へ, 経済的には
中央集権的な指令的計画経済体制から市場経済体制へ, 社会的には極端な管理規範体制から自由
化・民主化への移行であり, 思想的にはマルクス・レーニン・スターリン主義の哲学からの精神
的解放を意味している。 誰にも歴史の流れを止めることは, 決してできなかったのである。
旧ソ連を含む東欧の社会主義経済は, 資本主義経済との競争に敗れたのである。 社会主義がい
かなる強弁や弁解をもってしても, それら諸国の現実は, 社会主義が失敗であり, 人民大衆への
裏切りであったことは覆うべくもない。 少なくともマルクスの予言は “経済的” には外れたので
ある。
この東欧に見られた歴史的転換のように, 中国も劇的な変化を遂げるであろうか? それとも,
中国はあくまでも例外的存在であり得るであろうか?
その答えは未だ出ていないが, その見通しは必ずしも明るくはない。
それは何故か?
5. 中国の現状と方向性
それは, 次のような理由による。
中国は対内的には, 政治は 「四つの基本原則」 を堅持し, 経済は国有国営企業を主とする国家
管理で運営し (政企分離=国家所有権と企業経営権の分離が実行されるようになってはいるが),
対外的には外国の資金・技術・ノウハウを利用して経済建設を進める, ということである。 これ
について, かつて小平は, 「西側の資金は必要だが, 思想はいらない」 (1989 年 6 月 9 日) と
述べていた。 これはまことに都合のよい考え方ではあるが, しかし経済は個人の思う通りに動く
ものではない。
このように, 中国共産党ならびに中国政府の方針や政策は, 最初から矛盾に満ちたものとして
スタートしているのである。 たとえば, 四つの基本原則 (実は党権力の維持問題) と改革開放
政策 (実際は資本主義利用政策), 共産党の引き締め強化 (思想政治教育による統制) と民主・
自由, 社会主義経済 (権力の他律性) と欧米型市場経済 (価格の自律性) などである。 これら
の相互関係は, いずれも矛盾し対立する概念である。
これをどのような方法や方式によって解決するのか?
かつて, イギリスとの香港返還交渉 (1984 年 12 月) では, 「一国家二制度」 といった考え方
で, 香港問題の解決を諮り成功した。 これは一党独裁の 「一国家」 で, 社会主義と資本主義の
「二制度」 を実行しようという考えである。 中国では社会主義を, 香港では資本主義を, という
わけである。 本来は, 台湾問題解決に予定された方式が, 香港に適用されたのである。 また, 上
記の関係については, 1992年 10 月に, 「社会主義市場経済」 という新概念を作り出して, その
矛盾払拭に努めている。 だがそれは, 中共党の権力 (政権構造) を脅かさない範囲においての経
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中国北京
天安門事件
雑感
済活動の 「自由」 を法的に保障しているだけである。 したがって, そうした方法が根源的な解決
を中国にもたらすとは, 決して思われない。 つまり, 政治 (求心力) と経済 (遠心力) との矛盾
が, ますます乖離し, それにともない問題解決の回答も, ますます遅れているのが現状である。
それでは次に, 中国の今後の方向性はどうか?
この問題を考えるにあたって, 忘れてならないことは, 中国が今なお農民の国であり, 農村と
農業の国だということである。 中国のほとんどが農山村 (国土面積の約 88%) であって, 総人
口のおよそ 70%が農民である。 だからこそ, 小平の改革も農村から始まった (人民公社体制
下での農業生産請負制の実施)。 さらに, 胡錦濤 (現総書記) も就任直後に, 「三農」 問題をとり
あげている。 これは, 農村社会体制の変革, 農業, とりわけ食糧生産の持続的発展 (1 億 2,000
万ヘクタールの耕地で 5 億トンの食糧確保), および農民の就業問題のことである。 このことは,
いかに中国にとって農業が重要であるかの証左でもある。 中国がどんな政権であろうと, 人口と
食糧の圧迫から逃れることはできない。 そして, 建国 (1949 年 10 月 1 日) 以来, 60 年近くを経
過するというのに, 今日に至っても, その実体は基本的に何ら変わっていないのである。
しかも, こうした事実に加えて, 中国は, 今でも封建的思想文化の影響が根強く生きて, か
つ作用している国であり, 商品経済の発展がいまだ立ち遅れている広大な国であり, およそ
2 億弱の文盲・半文盲が 21 世紀になってもなお存在しているという国であり, 法律とか, 人
権とか, 権利とかに対する自覚も擁護感も余り強くない国である。 そうした社会的基盤の上に,
中国の社会主義政治も, 社会主義経済も組み立てられ, 中国共産党の一元化指導の下に置かれて
いるのである。 したがって, 農民がその我慢の限界を超えて, 共産党を離れ, 現政権に反対しな
いかぎり, 中国共産党の地位は簡単には揺るがない。 そして現在までのところ, 農村では, 土地
の徴用や地域官吏の不正腐敗や所得格差などによる農民の不満が, 時に実力行使となって表面化
することがあるにしても, それは地域ぐるみの組織的行動によるものではなく, ここが都市の知
識人や学生青年とは違っている。 中国は, 目ざましい発展を遂げている沿海地方や大都市ばかり
ではなく, その後方には現在もなお貧しい広大な農村が控えていることを忘れてはならない。 そ
れでも農民は, まだまだ共産党に正面からは反対しておらず, 政府離れも起こしてはいない。 こ
このところを見落とすと, 中国問題の判断を誤ることになる。 それゆえに, 中国の現代化 (建国
以来の悲願) という改革・開放問題も, こうした現実を前提にして考えていくことが肝要となる
のである。
つまり, 中国の現代化改革には, まず農業社会の現実ないし実際からスタートし, 工業の基盤
作りをやって, 工業建設を一歩一歩進めていく以外にない。 そしてそのプロセスにおいて, 初歩
的教育 (義務教育) を全国的規模で普及し, 熟練労働者を増やし, 科学技術分野のインテリを養
成訓練する。 それによって中間階層が初めて生まれる。 そうした社会的基盤を整えてこそ, 中国
の現代化の芽が育まれ, はじめて民主化の前進が始まるのである。 しかし, こうした改革にはか
なり長い時間を必要とする。 その 「時間」 を十分に考えてやらねばならない。
― 65 ―
6. むすびにかえて
中国は, 短期的観点 (戦術) から見ると, 経済改革と調整が常に交錯し, 2020 年までには社
会主義市場経済体制の建立 (社会主義の 「大木」 に資本主義の 「接ぎ木」 ) を目標としているが,
そのスピードは目まぐるしいほど早い。 一方, 長期的観点 (戦略) からは, 今世紀半ばの中国的
社会主義建設の達成ないし完了を目指している。 だが, それには何よりも, まずまずの経済的に
安定した社会を実現し (小康社会), あるいは胡錦濤が 2004 年 9 月に掲げた調和のとれた格差縮
小社会 (和諧社会) を現実のものとし, 持続的発展可能な社会 (「科学的発展観」 とよんでいる)
を形成できるかにかかっている。 しかし, 小康や和諧の実現は, 既述の 「三農」 問題解決がその
“鍵” となる。 ゆえに, 中国は急いだら恐らく失敗するだろう。
中国は総じて, 古くて, 大きくて, 複雑な, 奥の深い “老大国” である。 しかも, 何が起きて
もおかしくない国でもある。 そのうえ, 中国人の精神構造を, 日本人を含む外国人が変えること
は, ほとんど不可能である。 そうした国に対応するには, あくまでも冷静に, 騒がず, 激さず,
慌てずに, 公正に解釈し, 落ち着いて接することである。 しかし, 客観的な厳しい批判も忘れて
はならない。
以上が, 私の 「天安門事件」 についての雑感である。
(2008 年 9 月 9 日脱稿)
《注》
(1)
胡耀邦・1981年 6 月29日中国共産党中央主席 (第 11 期 6 中全会)
1982年 9 月11日主席制廃止 (党第 12 回全国代表大会)
中央総書記制の復活。
1987年 1 月16日総書記解任 (中央政治局拡大会議)
趙紫陽が総書記代行に推挙される。
1989年 4 月15日没 (73 歳)
死去後, 李昭未亡人の希望により火葬にされ, その遺骨と遺灰は, 江西省共産主義青年団の専用墓
地に埋葬された。 因みに, その解任 (実質的には失脚) の理由については, 必ずしも明らかではない
が, いまだに名誉回復はなされていない。
(2)
①天安門事件当時の一級行政区の党と政府の指導者は以下の通り。
[党委員会書記]
[市長・省長・主席]
北京市
李錫銘
陳希同 (後に党籍剥奪)
天津市
李瑞環
李瑞環
上海市
江沢民 (事件後総書記)
朱鎔基 (後に総理)
遼寧省
全樹仁
李長春 (現中央政治局常委)
吉林省
何竹康
王忠禹
黒龍江省
孫維本
邵奇惠
河北省
崇智 (2000, 3, 3. 没)
岳岐峰
― 66 ―
中国北京
天安門事件
山西省
李立功
王森浩
江蘇省
韓培信
陳煥友
浙江省
李沢民
沈祖倫
安徽省
盧栄景
傅錫寿
福建省
陳光毅
王兆国 (現中央政治局委員)
江西省
毛致用
呉官正
山東省
姜春雲
趙志浩
河南省
楊析綜
程維高
湖北省
関広富
郭振乾
湖南省
熊清泉
陳邦柱
広東省
林
海南省
許士傑 (1991, 7,21. 没)
若
雑感
葉選平
梁
湘
四川省
楊如岱
張皓若 (2004, 3,27. 没)
貴州省
劉正威
王朝文
雲南省
普朝柱
和志強 (2007, 3,21. 没)
陝西省
張勃興
侯宗賓
甘粛省
李子奇
賈志傑
青海省
尹克升
宋瑞祥
内蒙古自治区
王
布
広西壮族自治区
陳輝光
韋純束
西蔵自治区
胡錦濤 (現中央総書記)
多傑才譲
寧夏回族自治区
沈達人
白立忱
新疆ウイグル自治区
宋漢良
鉄木爾・達瓦買提
群
赫
②天安門事件当時の 7 大軍区の司令員と政治委員は以下の通り。
7 大軍区は, 1985 年 7 月に従来の 11 大軍区を改変して成立した。
軍隊の階級制度は《中国人民解放軍将校階級条例(1988 年 7 月 1 日発布) で規定されている。 最
上位の階級は一級上将になっているが, 実際には上将である。 因みに, 「上将」 階級の授与者は,
1988 年 9 月 14 日の 17 名から現在 (2008 年 7 月 10 日) までに合わせて 115 名に及んでいる。 小
平は 17 名, 江沢民 (1989 年 11 月 9 日−2004 年 9 月 19 日) は 79 名, 胡錦濤 (2004 年 9 月 19 日−
現在) は 19 名である。
総 参 謀 長
遲浩田 (上将)
総政治部主任
楊白冰 (上将)
総後勤部部長
趙南起 (上将)
[司令員]
[政治委員]
瀋陽軍区
劉精松 (中将)
宋克達 (中将)
北京軍区
周衣冰 (中将)
劉振華 (上将)
(1995, 9, 17. 没)
*張
工 (少将・政治部主任・戒厳司令部報道官)
南京軍区
向守志 (上将)
傅奎清 (中将)
広州軍区
張万年 (中将)
張仲先 (中将)
済南軍区
李九龍 (中将)
宋清渭 (中将)
(2003, 11, 19. 没)
成都軍区
傅全有 (中将)
万海峰 (上将)
― 67 ―
蘭州軍区
趙先順 (中将)
李宣化 (中将)
(2002, 2, 2. 没)
(3)
「一つの中心, 二つの基本点」 の総方針とは, 中国共産党第 13 回全国代表大会 (1987 年 10 月 25
日開催) において, 当時の趙紫陽総書記がその 「政治報告」 の中で提起したものである。 つまり,
「一つの中心」 とは, 経済建設ないし生産力の発展を中心に据えることであり, また 「二つの基本点」
とは, 一方で経済体制改革と対外経済開放 (強国の道) を実行し, 他方で 「四つの基本原則」 (立国
の基) を堅持する, というのが基本的な考え方である。 この総方針を 1 世紀にわたって続けるという
のである。 そして, その全期間を 「社会主義初級段階」 (遅れた社会主義) と規定した。 その起点は
1956 年 9 月である。
(4)
「四つの基本原則」 の法的保障は憲法にある。 その憲法は 1982 年 12 月 4 日 (第 5 期全国人民代表
大会第 5 回会議) に制定公布された。 その後 4 回にわたって修正が行われている。 そのいずれの修正
においても 「前文」 には, この政治原則が明記されている。 因みに, 4 回の修正憲法とは, ①1988 年
4 月 12 日 (私営経済の合法化と土地使用権の譲渡容認), ②1993 年 3 月 29 日 (社会主義初級段階へ
の現状認識, 社会主義市場経済の実施, 国有企業の自主権是認と農業生産請負制など), ③1999 年 3
月 15 日 (小平理論の明記と法治国家の建設) および④2004 年 3 月 14 日 (三つの代表重要思想の
付加, 土地徴用への補償など) である。
(5)
戒厳部隊幹部との会見時の同席者の当時の肩書きは以下の通り。
[同席者]
楊尚昆・中央政治局委員, 国家主席, 中央軍事委員会常務副主席。
李
鵬・中央政治局常務委員会委員, 国務院総理。
喬
石・中央政治局常務委員会委員, 中央紀律検査委員会書記。
姚依林・中央政治局常務委員会委員, 国務院副総理。
1998年 9 月14日没 (91 歳)
1994年12月11日没 (77 歳)
里・中央政治局委員, 第 7 期全国人民代表大会常務委員会委員長。
万
秦基偉・中央政治局委員, 国防部部長 (上将)
1997年 2 月 2 日没 (82 歳)
李先念・中国人民政治協商会議全国委員会主席。
1992年 6 月21日没 (83 歳)
彭
真・第 6 期全国人民代表大会常務委員会委員長。
1997年 4 月26日没 (94 歳)
王
震・国家副主席 (上将)
1993年 3 月12日没 (85 歳)
薄一波・中央顧問委員会副主任。
2007年 1 月15日没 (99 歳)
洪学智・中央軍事委員会副秘書長 (上将)
2006年11月20日没 (93 歳)
劉華清・中央軍事委員会副秘書長 (上将)
[欠席者]
趙紫陽・中央総書記, 中央軍事委員会第 1 副主席。
2005年 1 月17日没 (85 歳)
胡啓立・中央政治局常務委員会委員 (6 月 24 日中央委員に降格)
陳
1995年 4 月10日没 (99 歳)
雲・中央顧問委員会主任。
田紀雲・中央政治局委員, 国務院副総理。
(6)
ブルジョア自由化とは, 「四つの基本原則」 の堅持と相対立するものであり, それは共産党の指導
と社会主制度の否定を目的としている, と認識されている。 その主張のポイントは, 政治的には多元
化, 経済的には私有化, 文化的には西洋化, さらに思想的には非マルクス化というもので, いわば
「民主化」 要求そのものである。 因みに, このブルジョア自由化という政治的概念は, 1986 年 12 月 5
日の安徽省での民主化要求の学生デモに対する中共党の公式見解の提示時 (1987 年 1 月 6 日の人民
日報社説《旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対する) に明らかになったものである。 胡耀邦総書記
は, この社説発表の 10 日後に解任されている。
(7)
1989 年 6 月 24 日の中国共産党第 13 期 4 中全会の決定。
1.趙紫陽同志が党と国家の生死存亡に関わる肝要な時に, 動乱支持と党分裂という誤りを犯したため,
動乱の発生と発展に逃れることのできない責任を負っており, その誤りの性質とそれによってもた
― 68 ―
中国北京
天安門事件
雑感
らされた結果が極めて重大なものであると認めている。
2.党と国家の重要な指導的職務に就いていた期間に, 彼は改革開放と経済活動の面で有益な仕事をし
たとはいえ, 指導思想の上でも, 実際活動の中でも明らかな過誤を犯した。
3.とくに彼が中央の活動を主宰してから, 四つの基本原則の堅持とブルジョア自由化反対の方針に対
し消極的な態度を取り, 党の建設, 精神文明の建設, 思想政治工作をひどくゆるがせにして, 党の
事業に重大な損失をもたらした。
4.趙紫陽同志の中央委員会総書記, 中央政治局常務委員会委員, 中央政治局委員, 中央委員会委員,
党中央軍事委員会第 1 副主席の職務を解任し, 彼の問題を継続審査する。
以上が決定の内容であるが, 現在でも, この決定の評価は変わっていない。 趙紫陽死後 (2005 年 1
月 17 日) においても, 彼の名誉はいまだに回復していない。 その理由は, あくまでも推察の域を
出ないが, 恐らく彼の名誉回復が, そのまま中国のいわゆる 「民主化」 要求の是認に直結するであ
ろうし, また当時の事件関係者 (多くの人が健在) から見れば, 彼の名誉回復は逆にそうした人々
にとって, 党の決定が実は瑕疵であったことを認めることに他ならないからであろう。
(8)
中国共産党第 11 期 6 中全会 (1981 年 6 月 2729 日) で採択された《建国以来の党の若干の歴史的
問題に関する決議》において, 毛沢東の歴史的地位とその思想は肯定されたが, 文化大革命は徹底的
に否定されている。 後に毛沢東の功罪を 「是」=70%, 「否」=30%と評価している。 現在もこの評価
は生きている。 なお, この会議で小平を中央軍事委員会主席に選出した。
(原稿受付
― 69 ―
2008 年 9 月 12 日)
拓殖大学政治経済研究所
拓殖大学論集
1. 日
政治・経済・法律研究
投稿規則
的
拓殖大学論集
政治・経済・法律研究
(以下, 「紀要」 という) は, 研究成果の発表を含
み多様な発信の場を提供し, 研究活動の促進に供することを目的とする。
2. 発行回数
本紀要は, 原則として年 2 回発行する。 その発行のため, 以下の原稿提出締切日を厳守する。
9 月末日締切−12月発行
11月末日締切− 3 月発行
上記の発行に伴い, 政治経済研究所 (以下, 「研究所」 という) のホームページにも掲載す
る。
3. 投稿資格
投稿者 (共著の場合には少なくとも 1 名) は, 原則として研究所の研究員とする。
ただし, 次の者は, 政治経済研究所会議 (以下, 「会議」 という) が認めた場合, 投稿する
ことができる。
拓殖大学 (以下, 「本学」 という)・拓殖大学北海道短期大学の専任教員
研究所の元研究員
本学・拓殖大学北海道短期大学の元専任教員
本学・拓殖大学北海道短期大学の客員研究員・講師
なお, 会議は上記以外の者に, 投稿を依頼することができる。
4. 著作権
掲載された記事の著作権は, 研究所に帰属する。
したがって, 研究所が必要と認めたときはこれを転載し, また外部から引用の申請があった
ときは研究所で検討のうえ許可することがある。
5. 執筆予定表の提出
紀要に投稿を希望するものは,
拓殖大学論集
政治・経済・法律研究
執筆予定表を, 毎
年 4 月の決まられた日までに研究所に提出する。
6. 投稿原稿
投稿原稿は, ①論文・②研究ノート・③判例研究・④解説論文・⑤講演・⑥シンポジウ
ム・⑦書評・⑧随想・⑨通信・⑩報告・⑪資料・⑫抄録・⑬その他のいずれかとする。
研究所研究助成金を使用して学会等で既発表のものは, 既発表であることを投稿原稿に
抄録として掲載することができる。
― 71 ―
記事の区分・範疇については別に定める拓殖大学政治経済研究所 拓殖大学論集 政治・
経済・法律研究
執筆要領 (以下, 「執筆要領」 という) に従って投稿者が指定するが,
編集委員会は, 投稿者と協議の上, これを変更することができる。
研究所からの研究助成を受けた研究成果の発表に係わる原稿は, 論文に限る。
投稿原稿の分量は, 本文と注及び図・表を含め, 原則として, 以下のとおりとする。
なお, 日本語以外の言語による原稿の場合もこれに準ずる。
①
論文
40,000 字 (200 字詰=200 枚) 以内
②
上記以外のもの
20,000 字 (200 字詰=100 枚) 以内
A 4 縦版・横書
投稿者の希望で, 本紀要の複数号にわたって, 同一タイトルで投稿することはできない。
ただし, 編集委員会が許可した場合に限り, 同一タイトルの原稿を何回かに分けて投稿
することができる。 その場合は, 最初の稿で全体像と回数を明示しなければならない。
執筆に際しては, 別に定める執筆要領に倣うものとする。
投稿原稿の受理日は, 編集委員会に到着した日とする。
投稿は完成原稿の写しを投稿者が保有し, 原本を編集委員会宛とする。
投稿原稿数の関係で, 紀要に掲載できない場合には, 拓殖大学政治経済研究所長 (以下,
「所長」 という) より, その旨を執筆者に通達する。
7. 原稿の審査・変更・再提出
投稿原稿の採否は, 編集委員会の指名した査読者の査読結果に基づいて, 編集委員会が
決定する。 編集委員会は, 原稿の区分の変更を投稿者に求める場合もある。
提出された投稿原稿は, 編集委員会の許可なしに変更してはならない。
編集委員会は, 投稿者に若干の訂正あるいは書き直しを要請することができる。
編集委員会は, 紀要に掲載しない事を決定した場合は, 所長名の文書でその旨を執筆者
に通達する。
8. 校
正
投稿原稿の校正については, 投稿者が初校および再校を行い, 所長が三校を行う。
この際の校正は, 最小限の字句に限り, 版組後の書き換え, 追補は認めない。
校正は, 所長の指示に従い, 迅速に行う。
校正が, 決まられた期日までに行われない場合は, 紀要に掲載できないこともある。
9. 投稿 (原稿) 料, 別刷・抜刷
投稿者には, 一切の投稿 (原稿) 料を支払わない。
投稿者へ別刷を, 50 部までを無料で贈呈する。 それを超えて希望する場合は, 有料と
する。
10. 発行後の正誤訂正
印刷の誤りについては, 著者の申し出があった場合にこれを掲載する。
― 72 ―
印刷の誤り以外の訂正・追加などは, 原則として取り扱わない。
ただし, 投稿者 (著者) の申し出があり, 編集委員会がそれを適当と認めた場合に限り
掲載する。
11. その他
本投稿規則に規定されていない事柄については, その都度編集委員会で決定することとする。
12. 改
廃
この規定の改廃は, 会議の議を経て, 所長が決定する。
附
則
この規則の規程は, 平成 21 年 1 月 1 日から施行する。
― 73 ―
拓殖大学政治経済研究所
拓殖大学論集
1. 用
政治・経済・法律研究
執筆要領
語
用語は, 日本語又は英語とする。
ただし, これら以外の言語での執筆を希望する場合は, 事前に政治経済研究所編集委員会
(以下, 「編集委員会」 という) に申し出て, その承諾を得たときは, 使用可能とする。
2. 様
式
投稿原稿は, 完成原稿とし, 原則としてワープロ原稿 (A 4 用紙を使用し, 横書き, 1 行 43
字×34 行でプリント) 2 部を編集委員会宛に提出する。
数字は, アラビア数字を用いる。
ローマ字 (及び欧文) の場合は, ダブルスペースで 43 行。 1 行の語数は日本語 43 文字
分。
3. 表
上記以外の様式にて, 投稿原稿の提出する場合には, 編集委員会と協議する。
紙
原稿提出期日までに,
拓殖大学論集
政治・経済・法律研究
投稿原稿表紙に必要事項の
記入, 捺印し, 投稿原稿に添付する。
投稿分野・区分については, 以下に付記する。
4. 要
旨
投稿論文には, 研究目的・資料・方法・結果などの内容がよくわかる要旨を, 日本語の場合
は 800 字以内, 日本語以外の言語による場合は 200 words 以内とする。 その際, 投稿論文キー
ワードも 5 項目以内で記載する。
また, 要旨には, 図・表や文献の使用あるいは引用は避ける。
5. 図・表・数式の表示
図・表の使用は, 必要最小限にし, それぞれに通し番号と図・表名を付けて, 本文中に
挿入位置と原稿用紙上に枠で大きさを指定するする。 図・表も分量に含める。
図および表は, コンピューター等を使って, きれいに作成すること。
数式は, 専用ソフトを用いて正確に表現すること。
6. 注・参考文献
注は, 本文中に (右肩に片パーレンで) 通し番号とし, 原則として後注方式により本文
の最後に一括して記載する。 また, 引用, 参考文献の表記についても同様とする。
英文表記の場合は, 例えば, The Chicago Manual of Style 等を参考にする。
7. 投稿原稿の電子媒体の提出
― 74 ―
投稿者は, 編集委員会の査読を経て, 修正・加筆などが済み次第, A 4 版用紙 (縦版, 横書
き) にプリントした完成原稿 1 部と電子媒体 (FD 等) を提出すること。
完成原稿の電子媒体 (FD 等) での提出時に, コンピューターの場合は使用機種と使用 OS
とソフト及びバージョン名を明記すること。
なお, 手元には, 必ずオリジナルの投稿論文データを保管しておくこと。
8. 改
廃
この要領の改廃は, 政治経済研究所会議の議を経て, 政治経済研究所長が決定する。
附
則
この要領の規程は, 平成 21 年 1 月 1 日から施行する。
付
記:
投稿分野・区分の定義について
①
②
論
文:
研究の課題, 方法, 結果, 含意 (考察) について明確になっている。
方法, 技術, 表現などが一定の水準に達している。
項目の事項について独自性がみられる。
研究ノート:
研究の中間生産物として考えられるもの。
論文に準じる形式のもの。
③
判 例 研 究:裁判事案の判決 (要旨) の紹介とその解説及び批評等。
④
解 説 論 文:他の専門分野の人々にも分かるように, 研究内容を解説したもの。
⑤
講
⑥
シンポジウム:研究所が主催するシンポジウムの記録を掲載するもの。
演:研究所が主催する講演会の記録を掲載するもの。
紙上のシンポジウムを含む。
⑦
書
評:専門領域の学術図書についての書評。
⑧
随
想:(研究室・教室の窓から) 自由な形式で教育や研究の課程で得た着想を述
べたもの。
⑨
通
信:個人, 特定の団体に向けて書かれた通信文。
教育・研究に関する主題に限る。
⑩
報
告:学界展望など。
⑪
資
料:上の範疇以外で教育・研究上有用であると考えられるもの。
⑫
抄
録:政治経済研究所研究助成要領第 10 項に該当するもの。
― 75 ―
執筆者紹介 (目次掲載順)
畠田
小林
拓 殖 大 学 北 海 道 経済学史
短期大学准教授
殖大学北海道
秀高 (こばやし・ひでたか) 拓
短 期 大 学 助 教 政治学, 比較政治学
英夫 (はただ・ひでお)
村上倫太郎 (むらかみ・りんたろう) 政 経 学 部 教 授 理論経済学, 経済発展論
小林
一秋 (こばやし・かずあき) 政 経 学 部 教 授 中国経済, 中国政治
編集委員
高久泰文
拓殖大学論集
阿部松盛
池田高信
清水洋二
村上倫太郎
第 11 巻第 1 号
政治・経済・法律研究
ISSN 1344 6630
(拓殖大学論集 273) ISSN 0288 6650
2009 年 1 月 25 日
印
刷
2009 年 1 月 31 日
発
行
編
集
拓殖大学政治経済研究所編集委員会
発行者
拓殖大学政治経済研究所長
発行所
拓殖大学政治経済研究所
泰文
東京都文京区小日向 3 丁目 4 番 14 号
Tel. 0339477595
Fax. 0339472397 (研究支援課)
〒112 8585
印刷所
高久
㈱外為印刷
THE REVIEW OF TAKUSHOKU UNIVERSITY:
POLITICS, ECONOMICS and LAW
Vol. 11 No. 1
January 2009
Articles
Hideo HATADA
拓
殖
大
学
論
集
拓殖大学論集 (273)
政
治
・
経
済
・
法
律
研
究
ISSN 1344 6630
政治 ・ 経済 ・ 法律研究
第 11 巻
第 1 号
The Means of Reforming Social System in
Hidetaka KOBAYASHI
2009 年 1 月
( 1 )
J.-B. Say’s Olbie
Determinants of Democratic Consolidation:
Economic and Institutional Factors
( 21 )
第
11
巻
第
1
号
(
Study Note
Rintaro MURAKAMI
On The Recent Behavior of McDonald’s Japan
( 47 )
)
拓
殖
大
学
論
集
273
Essay
Kazuaki KOBAYASHI
China: A Thought of “The Tian an men Accident”
論
文
英夫
( 1 )
秀高
( 21 )
マクドナルドの最近の企業行動について ……………………………………村上倫太郎
( 47 )
J.-B. セー
オルビー
における社会制度の改革 …………………………畠田
デモクラシーの定着とその要因
経済要因と制度要因 …………………………………………………………………小林
研究ノート
( 55 )
in Peking
随
Submission of Manuscript to The Journal of Politics, Economics and Law ………………( 71 )
想
一秋
( 55 )
「拓殖大学論集
政治・経済・法律研究」 投稿規則 ………………………………………
( 71 )
「拓殖大学論集
政治・経済・法律研究」 執筆要領 ………………………………………
( 74 )
中国北京
天安門事件
雑感 ……………………………………………………小林
Instructions for Contributors …………………………………………………………………………( 74 )
Edited and Published by
INSTITUTE FOR RESEARCH IN POLITICS & ECONOMICS
TAKUSHOKU UNIVERSITY
Kohinata, Bunkyo-ku, Tokyo 112 8585, JAPAN
拓
殖
大
学
政
治
経
済
研
究
所
拓殖大学政治経済研究所