シンシア・レノン

The Extension Course of the Beatles
Part 6
Cynthia Lennon
Instructor : Toshinobu Fukuya
(Yamaguchi University)
Women Whom The Beatles Loved
The 1st Session : Cynthia Lennon
7/06 2009
1
1. シンシア・レノンの略歴
1939 年:
1957 年:
1958 年:
1962 年:
1963 年:
1968 年:
2005 年:
イギリス、リバプールに生まれる。
リバプール・カレッジ・オブ・アートに入学する。
リバプール・カレッジ・オブ・アートでジョン・レノンに出会う。
ジョンと結婚する。
長男ジュリアンを出産する。
ジョンと離婚、息子ジュリアンを引き取る。
自伝 John (邦題『ジョン・レノンに恋をして』)を出版する。
現在69歳、4番目の夫とスペインで暮らしている
ロンドンの書店で、
著書を手にするシンシア
2.ヴィクトリア二ズム(Victorianism)とは何か
ヴィクトリア二ズムとは、ヴィクトリア朝期の勤勉、禁欲、節制、貞淑などを特徴とする価値
観や道徳のことである。19世紀に成長著しかった中流階級の理想を反映し、ピューリタニズ
ムが強く表れている。文学や絵画、彫刻などに強く影響を与えた。行きすぎた厳格さから二重
規範を生み出すこともあり、偽善的といったニュアンスを持つこともある。
2-1 ヴィクトリア朝時代
ヴィクトリア朝時代とは、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた 1837 年から 1901 年の
期間を指す。その時代は、イギリスが最も輝かしい時代であり、世界各地を植民地化して一
大植民地帝国を築き上げていた。それゆえに、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号を得た。
この時代は、いわゆる衣装革命が起こった時代でもある。イギリスのインド征服により、イ
ンドからモスリン等の軽い布地が入ってきたこと、そして文学・芸術などにおける簡素・自然に
重きをおく時代風潮と相俟って、18世紀後半の豪華で重厚な衣装が姿を消して、より自然で
簡素な衣装が一般的となった。具体的に言えば、襟元を深く括り、ウエスト位置が高く、袖丈
は半袖、スカート丈は足首が見えるくらいのデザインのドレスが一般的となった。
ヴィクトリア女王
ヴィクトリアン・ドレス
建築においては、ゴシック様式が復興し、国会議事堂や大英博物館などのロンドンの主
要な建築の多くが、ヴィクトリア時代に建てられている。また、建築家 R・ノーマン・ショウがロ
ンドンの中心部に集合住宅、タウンハウスを沢山出現させたのもこの頃であった。住宅の正
2
面は、それぞれの住宅に個性を加えるために、少しずつ趣が違うようにデザインされていた。
そしてそれは、ロンドンの絵画的(picturesque)な街並みを形成するのに一役買っていた。ロ
ンドンの人々は、現在でも、ヴィクトリア朝時代の街並みの維持になみなみならぬ情熱を傾
け、近代的建築物群の拡大を拒否している。
ロンドン市内のタウンハウス
芸術においては、ヴィクトリア女王は、英国の芸術家をたいそう手厚く支援した。数多くの
芸術家が貴族と同等の人間関係をもって上流社会と交わるという名誉ある地位を占めた。そ
の結果、ヴィクトリア朝期のイギリスは、これに先立ついかなる偉大な芸術時代にも劣らない
創造性の開花を見ることとなる。
2-2 産業革命
産業革命は、1760 年頃、リバプールとその背後の地マンチェスターの周辺で始まった。
そしてそれは19世紀のヴィクトリア朝時代になって開花した。イギリスが世界に領地を増やし
ていけたのは、この産業革命による経済力が下支えとなっていた。
加えて、産業革命は、それまでの貴族階級と民衆という社会構造の中に、中産階級の台頭
を促がした。この中産階級は、20世紀には民主主義確立のトップランナーになっていくわけ
であるが、ヴィクトリア朝時代には、人間の本能を極度なまでに抑制するピューリタ二ズムと
結びつき、厳しい倫理観による公序良俗的社会形成を指向した。一方で、貴族社会への憧れ
を払拭し切れていなかったため、ヴィクトリア朝時代の中産階級文化は、偽善的とのそしりを
甘受せざるを得ない側面をも有していた。
節約が貯蓄を生み、それが資本主義を支える重要な財源となっていった過程は、マックス・
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく述べられている。
紡績工場で働く女性たち
1830 年にマンチェスターとリバプールの間に開通した鉄道
3
3.ヴィクトリア朝的価値観で育ったジョンとシンシア
3-1.ジョンの育った環境
ジョンの母ジュリアは、中産階級の裕福な家庭に、五人姉
妹の四女として生まれた。ジュリアは、姉妹のなかでも一番
の美人で、一番変わった人であった。ようするに、人生は楽し
むべきものであり、それには自分の感性に合うことだけをす
べきという快楽主義者であった。それは、ヴィクトリア朝の道
徳観が社会を支配していた当時のリバプールにあって、十分
ジュリア
すぎるくらい変わっていた。
父のアルフレッド・レノンは、船乗りであった。5歳のとき孤児となり、
以来、孤児院で育った。ハンサムではあったが、ジュリアの家族からす
れば、娘の相手としては好ましくなかった。
結局、二人の結婚は長続きせず、ジョンが5歳のとき、叔母のミミが
ジョンを引き取ることとなる。ジョンの両親は、二人とも子育てには向か
ない性格であった。ジョンは、「マザー」の中で、自分が必要とするとき
に両親がそばにいてくれなかったトラウマを絶叫している。
ミミは、ジョンの両親とは正反対で、ヴィクトリア朝の倫理観の権化の
ような人であった。両親の血を引いて、ロマンティックな夢を抱くジョンに、
「ジョン、ギターは楽しむならいいけど、それで食べていくことはできない
のよ」と繰り返し注意したことは、有名な話である。彼女は、ジョンをグラ
マー・スクールに入れ、将来は、彼女の概念からみた全うな仕事に就く
ことを望んだ。それを窮屈に感じたジョンは、よく生き別れたジュリアの
アルフレッド
ところに遊びに行っている。
このようにジョンは、極端に性格の違う二人の女性の間を行ったりきたりしながら育ったの
である。すなわち、ミミという「母親」とジュリアという「叔母」の間をさまよったのであった。ミミと
一緒のときは、いつでもきちんとした身だしなみで、忠実で、従順でいるように期待された。ジ
ュリアといるときは、笑ったり、遊んだり、ふざけたりすることができた。
ミミと幼い頃のジョン
3-2.シンシアの育った環境
シンシアの育った家庭は、ジョンのそれのように複雑ではなかった。マージー川の「川向こ
う」に家があり、その地区は、リバプールの人たちなら誰でも抱く、取り澄ましたイメージを持っ
ていた。ジョンの家庭のように、中流ではあるがいつ下層に落ちるかわからない不安定な中
流ではなく、誰もが認める安定した中流家庭に育ったわけである。
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母のリリアンは、ジュリアほどではないが、家事には向いていない性格であった。それでも、
家のインテリアには並々ならぬ情熱を傾けたり、スコットランドに伝わる幾何学模様のフェア・
アイル・セーターを編んだりした。父親は、イギリスでも大手の電機メイカーである GEC に勤め
ていて、収入は安定していた。
父親と長兄チャールズ
と5歳の頃のシンシア
リリアン
3-3.大学時代のジョンとシンシア
1950年代後期は、過酷だった世界大戦の日々も、戦後の貧困も過ぎ去り、灰色の耐乏生
活が、きらめくほど多岐にわたるチャンスや可能性に取って代わられたような時代であった。
特に、若者にとってはそうであった。一方で、伝統的価値観も親の世代には依然として意味を
持ち続けていた。いわゆる新旧の価値観が混在する状態であった。
当時のリバプール
ジョンとシンシアは、1957 年、リバプール・カレッジ・オブ・アートで入学している。シンシアは
優等生であり、ジョンはとんでもないほどの劣等生であった。しかし、そんなことに関わらず、
大学時代は、二人には輝かしい青春時代であった。
シンシアは、当時を振り返って、「アンサンブルとツイードのスカートでコンサバティヴに身
支度を整え、きちんと削った鉛筆を持って、毎日遅刻せずに大学に通った。大学で一番の優
等生になってやろうと、意気揚々としていた。私の夢は、美術の教師になることだった」と語っ
ている。家庭でも、シンシアは従順であり、当時の規範に何の疑問をもつこともなく、家事を引
き受けていたという。
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一方ジョンは、当時 の規範、すなわちミミ叔母さんから
押し付けられた伝統的イギリスの生活倫理にことごとく反
発する青年であった。テディー・ボーイ(イギリスの不良少
年)ふうに髪はリーゼントにして、極端なほど細くてぴっち
りしたドレインパイプ・ジーンズをはいていた。そして、授業
中は、教師をからかう辛らつな発言をしたり、ジョークを飛
ばしたりして、それが授業にでる唯一の目的であるような
学生であった。シンシアのことを、「おかたいお嬢さん」と
か、「ミス・パウエル」と呼んで、彼女のきちんとした服装や
山の手風(リバプールでは川向こう風の)アクセントをから
かったらしい。
シンシアは、ジョンに初めてからかわれたとき、顔を真っ
赤 にし、「あんな人、どこかへ消えてしまえばいい」と思
大学生だった頃のジョンとシンシア
った。しかし、いつからか、ジョンの不思議な魅力に捕ら
えられて行き、ジョンと一緒のレタリングの授業が楽しみに
なったと言う。
その頃のジョンの理想の女性は、ブリジッド・バルドーだったらしい。
友人たちにも、そう漏らしていた。バルドーは、パリ生まれの女優で、
1956 年、ロジェ・バディム監督作品『素直な悪女』で、男たちを翻弄す
る役で話題をさらった。
その後、瞬く間に世界のセックス・シンボルになり、ハリウッドの
マリリン・モンローと比較されることが多かった。バルドー自身は、
「私はマリリンのファンで、対抗意識なんてないわ」と語っているが 、
世間は二人が比較された記事やニュースに興味を持った。
ヴィクトリア朝の厳しい倫理観の反動として、世間の男たちは、小
悪魔的な魅力を湛えたセックス・シンボルを求めたのであろう。ジョン
も、その意味では普通の男であった。
ブリジッド・バルドー
4.シンシアの回想
シンシアは、ビートルズが世界を熱狂させたこと、
いわゆる「ビートルマニア」と呼ばれた社会現象を、
陰で見守った女性である。彼女は、ジョンとの結婚
が、ビートルズのトップ・シークレット的扱いを受けて
も、何一つ不満を漏らさず、すべてを受け入れた。
彼女の手による自伝のなかで、以下のように、そ
の頃の心情を吐露している。
「私自身、人から注目を浴びることに、これっぽっ
ちも興味がないので、ジョンと一緒にいられるな
ら、喜んで陰に徹しようと思った」。
「ツアー中のジョンからの手紙を読むと、彼を抱き
しめて、安心させてあげたくなるのだ」。
「ジョンが逃げ込んだり、自分を取り戻したりでき
るような場所を用意するのが、私の役割だ」。
この間シンシアは、出産も秘密裏にされ、辛い思
いもしたが、耐え抜いた。
自伝の表紙
6
シンシアと息子のジュリアン
シンシアがこのように日陰の存在に徹しきれたのは、
確かに彼女の資質もあったが、ヴィクトリア朝の道徳を基
盤にしたし社会通念がより大きい影響を及ぼしていたこと
は間違いない。
加えて、シンシアは、ブリジッド・バルドーが理想だとい
うジョンの好みに合わせて、バルドーのようなセクシーな
ドレスを探して、何件ものブティックを歩き回ったという。
そんなこともあって、シンシアの学生生活は一転してし
ま う。課題をするのに時間をかけ骨身を惜しまず取り組
み、必ず期日までにきっちり仕上げる熱心な学生だった
彼女は、急激に成績を落とした。それでも、彼女は幸せ
であった。
5.ジョンとシンシアが思い描いた家庭像
シンシアは、自伝の中で、「ジョンと私は、妻は家で夫の帰りを待っているものという考えが
当たり前の時代に育った」と書いている。ロンドンでは、共働きの夫婦も増えていたが、リバプ
ールでは、そんなことは他の惑星かどこかでの出来事であった。主演映画の挿入曲「ア・ハー
ド・デイズ・ナイト」は、リバプールの労働者階層の辛い一日とプライドが歌いこまれている。
A Hard Day's Night
*
It's been a hard day's night
And I've been working like a dog
It's been a hard day's night
I should be sleeping like a log
But when I get home to you
I find the things that you do
Will make me feel alright
辛い一日だった
犬みたいにあくせく働いた
辛い一日だった
丸太みたいに眠りこけたい
だけど君の待つ家に帰ると
君がいろいろと世話をしてくれて
僕を癒してくれる
You know I work all day
To get you money to buy you things
And It's worth it just to hear you say
You're gonna give me everything
日がな一日働きづめだ
君にいろんなものを買ってやるためさ
それも君の一言で報われる
「あなたのためなら何でもするわ」という一言で
**
So why on earth should I moan
嘆くことなんて何もない
'Cos when I get you alone
君がいてくれるだけで
You know I feel OK
気分が癒されるんだ
When I'm home everything seems to be right 家ではすべてが上手くいくみたいだ
When I'm home feeling you holding me tight
家に帰れば君が抱きしめてくれるから
対訳:福屋 利信
映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」
からのワン・カット
7
6.Cynthia に捧げられた曲
ジョンは、明らかに身の回りの女性に捧げた曲を二曲書いている。母親のジュリアに捧げ
た「ジュリア」と、二番目の妻オノ・ヨーコに捧げた「オオ・ヨーコ」である。「ジュリア」はビートル
ズ後期の『ホワイト・アルバム』に収められている曲であり、「オオ・ヨーコ」はジョンがソロにな
ってからの曲である。いずれも、社会にフェミニズムが芽生え始めた後の曲である。ジョンが
シンシアと幸せに暮らしていた頃は、実名を挙げて女性に捧げる歌を書く行為は、いまだ市
民権を得ていなかった。
しかし、ジョンがシンシアに宛てた手紙の内容は、シンシ
アに捧げた曲は無いとの定説を覆すに十分である。
当時のシンシア
「郵便屋さん、郵便屋さん、のんびりするな、
僕はシンに恋している。だから早く、
お願いだ。早く手紙を届けてくれ」
ここからシンシアの名前を除けば、そのまま「プリーズ・ミスター・ポストマン」の歌詞である。加
えて、デビュー当時は、シンシアの存在は隠されていたので、名前は書きたくても書けなかっ
たと推測できる。そう考えると、「プリーズ・ミスター・ポストマン」は、間違いなくシンシアに捧げ
られた曲だと言えよう。
7.ヴィクトリア朝的価値観でビートルズをコントロールした男
「ビートルズの育ての親」と言われるブライアン・エプスタインの実家は、リバプール最大の
デパートを経営しており、一画に、楽器やレコードを扱う「ノースエンド・ミュージック・ストア」
(NEMS)が店先をひろげていた。レコードの品揃えが北イングランドでは一番であったというミ
ュージック・ストアは、息子のブライアンに任されていた。
ブライアンは、ある日、NEMS から目と鼻の先のライブハウス「キャバーン」に出かけて行っ
た。彼は、そこで繰り広げられるビートルズの荒々しさをむき出しにしたステージに違和感を
覚えながらも、抗しがたい動物的魅力を感じ取った。その日の帰りには、マネージメントをした
い旨を申し出ている。成功するには凄腕の実務家が必要だと痛感し始めていたビートルズの
方も、ブライアンの申し出は渡りに舟であった。以後、ビートルズのマネージメントの一切は、
ブライアンが設立した「ネムズ・リミテッド」(NEMS Ltd.)が取り仕切ることとなる。
ブライアンが、ビートルズを売り出すために最初にしたことは、クリーンなイメージ作りであ
った。レザー・ジャケツトにドレインパイプ・ジーンズというテディ・ボーイ風のいでたちのビート
ルズに、ソフィスティケイトされたイタリアン・スーツを着せた。さらに、時間を厳守し、行儀よく
振舞うことを求めた。さらにブライアンは、イギリス王室からの「ロイヤル・バラエティ・ショウ」
への出演依頼も、ビートルズのイメージ・アップにつながると考えて、快諾している。
ビートルズとミーティングするブライアン(中央)
王女と握手するビートルズ
8
ブライアンは、ビートルズが大衆に人気を得ようとするなら、主流文化に適合しなければな
らないという信念を持っていた。そしてその主流文化を形成していたのはヴィクトリア朝の価
値観、すなわちヴィクトリア二ズム(Victorianism)であった。
ビートルズは、デビュー前のハンブルグでの修行時代に、アストリッド・キルヒヘアという女
流写真家と知り合い、ドイツ実存主義(existentialism)の洗礼を受けていた。実際、全員リー
ゼントだったビートルズの髪を、実存主義者(exis: existentialist)風にカットしたのは、アストリ
ッドであった。ビートルズのハンブルグ時代を、彼女のハーフ・シャドウというカメラ技法で捕ら
えた作品群は、今でも貴重なアートであり資料である。
ビートルズは、アストリッドたち実存主義者から学んだボヘミアン的価値観を押し込め、ブラ
イアンの主張したヴィクトリア二ズムを受け入れた。しかし、唯一抵抗したのが、ヴィクトリア風
の七三分けのヘアスタイルであった。彼らは、アストリッドのカットのままで押し通し、やがて、
それは「ビートルズ・カット」として世界に広まっていくことになる。
アストリッド・キルヒヘア
8.リバプールからロンドンへ
ビートルズの生活の拠点は、彼らの人気が高くなるにしたがって、音楽産業の中心である
ロンドンに移さざるを得なくなってきた。そして、ロンドンへの移動は、ビートルズに単なる生活
する場の変化以上の変化をもたらした。
当時のロンドンは、「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれた文化変容の真っ只中にあった。ス
ウィンギング・ロンドンを一言で表現すると、1960年代、アメリカの若者の間に芽生えた対抗
文化(counterculture)的反体制意識と連動しつつ、イギリスの社会意識に芽生えた、既存権
力(establishment)への屈服を拒否する不遜なスピリットであったと言えよう。
そのスピリットは、映画、小説、絵画、詩にも
影響を与えたが、その中心には、マリー・クワ
ンとのミニスカートに代表されるファッション文
化が据えられていた。
ミニスカートの流行は、ツィッギーというトッ
プ・モデルを生み出し、彼女のユニ・セックスな
魅力は、これまでのモデルへの概念を覆した。
そしてそれは、イギリス社会の意識変革を象
徴していた。ジョージ・ハリスンの妻となるパテ
ィ・ボイドは、ロンドン・ファッションを代表するト
ップ・モデルであったし、ポールの恋人ジェー
ン・アッシャーは舞台女優兼モデルであった。
パティ・ボイド
9
ビートルズは、ロンドンに移ってきて、スウィンギング・ロンドンが社交の場になった。シンシ
アは、この変化について行こうと涙ぐましい努力はしたが、完全に同化することは出来なかっ
たようだ。彼女は、それまで、公の場に出ないように言われ続けてきたし、それに従うことに違
和感を持っていなかったからであった。リバプールの家でジョンを待つことに、純真無垢な幸
せを感じていた。したがってシンシアは、ロンドンの社交界への順応には、想像以上の違和感
があったに違いない。彼女は、自伝に以下のように当時の心情を吐露している。
私が公の場に出ることこそが、すなわちジョンの仕事の障害になるのだとも繰り返し
言われていた。私は自分が身を隠すことによって支えになれるのなら、それこそが私
のすべきことだと信じていた。
しかし、モダニズムあるいはポスト・モダニズムの中で日々姿かたちを変えていくロンドンに
おいては、ヴィクトリア二ズムの中で静かに佇む街リバプールにおいてと同じ気持ちでジョン
の帰りを待つことは出来なかった。「リバプールでは、ジョンが浮気をするなんて夢にも思わな
かった。初めて疑いが湧いたのは、ロンドンに来てからなの」 と、シンシアは語っている。ジョ
ンに対する不安は、同時に、彼女自身にも向って行く。「ゴージャスに見せることが職業のモ
デルや女優たちに囲まれて、私は到底勝ち目はないと感じていた」 とも告白している。
9.ポストモダンな世界に向けてひた走るジョン
ジョンは、スィンギング・ロンドンの息吹を肌で感じ、さらにはアメリカ遠征の際に遭遇した対
抗文化(counterculture)のエネルギーに魅了され、既存の価値観に別れを告げようとしてい
た。言い換えれば、古い価値観の世界からポスト・モダニズムの世界への変革意識を覚醒さ
せていたのであった。加えて、その覚醒を助長するドラッグの世界にものめり込んでいた。
ビートルズの最高傑作と評価の高いアルバム
『サージャント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラ
ブ・バンド』は、ドラッグが誘うサイケデリックなサ
ウンドを巧みに駆使して出来上がった、ロック界
最良の果実であった。ビートルズは、このアルバ
ムによって、世界のアイドル・グループから世界
のロック・アーティストに成長を遂げたのである。
それは、ライブ会場で嬌声を浴びる存在から、レ
コーディング・スタジオでの創造性を評価される
存在への移行を意味していた。
しかし、ドラッグはビートルズに音楽的創造性
をもたらした一方で、彼らの体を確実に蝕んでい
た。シンシアは、「トリップ中のジョンは、完全に他
人だった。 私からジョンを引き離す LSD を嫌悪
『サージャント・ペッパーズ』のジャケット
した」 と、ドラッグにのめり込むジョンの行く末を
危惧している。加えて、ジョンは、シンシアが気づかないところで、対抗文化のポストモダンな
価値観に魅せられていたのであった。
10.超越瞑想 (Transcendental Meditation) との出会い
ブライアン・エプスタインを突然の死で亡くしたビートルズは、生活面での不安を抱えていた。
いくらビートルズの仕事上のメインパートナーが、ブライアンからレコーディング・プロデューサ
ーのジョージ・マーティンに移っていたとは言え、ブライアンは依然としてビートルズの日常生
活での精神的支柱であった。ビートルズは、そのブライアンを失った不安定さの穴を埋めてく
10
れる存在を希求するようになる。
そこへ、まさに時を得るかたちでビートルズの前に現れたのが超越瞑想 (Transcendental
Meditation) であった。TM は、インド古来のノウハウを基に、マハリシ・ヨギが1950年代に西
洋にもたらしたもので、悟りの境地へと導くための瞑想法である。その手法は至ってシンプル。
まず、その人固有のマントラと呼ばれる単語を与えられる。それを誰にも明かさずに、心の中
で唱えるだけである。そうすることで、頭の中を空っぽにでき、よって頭と体が現代社会のスト
レスから解放されるというのである。
ビートルズは、TM を自分たちのものにするために、マハリシのいるインドで修業生活を送る
ことを決意する。そのキャンプで、ビートルズは、心を完全に解放させたと手放しで喜べるほ
どの成果をあげたわけではなかったが、素晴らしい副次的効果を得た。キャンプ生活を通し
てドラッグへの依存を克服したのであった。
シンシアにとっては、ジョンの東洋思想あるいは前衛芸術への傾倒は、幸せをもたらさなか
った。それどころか、不幸をもたらしたのであった。インドへ行く前に、ジョンは、前衛芸術作家
のオノ・ヨーコがロンドンで開催した個展に赴き、そこで二人は恋に落ちていた。そのことに、
シンシアは気づいていたし、インドへもジョンに宛てたヨーコの手紙が毎日のように届いてい
たと言う。
マハリシ・ヨギ
ジョンとヨーコ
11.まとめ
ジョンにとって、個人生活のパートナーとしての興味の対象がシンシアからヨーコに、仕事
でのパートナーの中核がブライアン・エプスタインからジョージ・マーティンに、それぞれ移行し
た時期は、ビートルズの生活と活動の場がリバプールからロンドンへ移動した時期とほぼ重
なる。ビクトリアニズムの残像の中で古きよき時代の佇まいを見せる地方都市から世界のポ
スト・モダニズムをリードしていこうとする国際都市への移動と、それに伴う意識変革とは、パ
ラレル構造を成していたのであった。
ヴィクトリア二ズム
リバプール(地方都市)
シンシア・レノン / ブライアン・エプスタイ
ポスト・モダニズム(スウィンギング・ロンドン)
ロンドン(国際都市)
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オノ・ヨーコ / ジョージ・マーティン
シンシアは、あくまでリバプールというイングランド北端の都市で育ち、その地域社会が育
んだ社会規範に最後まで忠実であった。それは、柔軟性に欠けるとも言えるし、倫理観が首
尾一貫していたとも言える。しかし、ジョンは、変革を望んだのである。この意識の溝は、広が
るばかりで、シンシアは埋める術を持つほどしたたかではなかった。彼女は、あくまで無欲の
人であった。変わっていくジョンの傍らで、不変で無償の愛を捧げ続けたのであった。彼女は、
「ジョンが生涯に出会ったなかでも、私はだれよりも変わらずにい続けた人間だったと思う。ジ
ョンに対して何も要求せず、批判もせず、命令もせず、しかも無条件でジョンを愛した唯一の
存在だと思う」と語っている。そんなシンシアが、ビートルズを取り巻く世界が急変しても、「唯
一つ変わらない場所がある」と、ジョンがリバプールへの郷愁を歌った「イン・マイ・ライフ」を、
「私にとって一番リアルな曲」としていることは頷ける。
また、両親の離婚で一番傷つき、それを癒す術を知るには幼さなすぎた息子のジュリアン
は、気持ちの整理をつけるには母親より長い時間を要した。ポールの曲「ヘイ・ジュード」は、
悲しみの最中にいたジュリアンに対する励ましの歌である。それは、「ヘイ、ジュード(ジュリア
ンの愛称)、この状況を最悪なものにするなよ。悲しい歌を、少しでも前向きな歌に変えていこ
うよ」(対訳・福屋)と、歌いだされている。
シンシアとジュリアン
Works Cited
Cynthia Lennon. John. London: Hodder & Stoughton Limited, 2005.
John Lennon and Paul McCartney. 'A Hard Day's Night' in A Hard Day's Night. Tokyo: EMI.
Ltd., 1964.
John Lennon and Paul McCartney. ‘Hey Jude’ Tokyo: EMI Ltd., 1968.
References
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beyond 1955-1970. V&A Publications, 2006.
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Madan Sarup. An Introductory
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Rudolph Ackerman. Women’s Fashions in England 1818-1828. New York: Dover, 1978.
マックス・ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989)
12