多くを愛する人

多くを愛する人
ルカによる福音 31
多くを愛する人
7:36-50
表題の典拠は 47 節にあるお言葉です。「この女は多く愛したから、その多
くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか
愛さない」
今の讃美歌にもありましたように、「もっともっと多く愛する人になりた
い。主よ、愛をまして下さい」というのは私たち誰しもの願いです。“More
love to Thee, O Christ!”「増させ給え、主を愛する愛を」。そして人を愛
し赦す愛をも、もっと強く、豊かに持ちたい。……私どもの持つ切なる願い
に、この物語はどんな光を投げるでしょうか?
この時の出来事は、主があるファリサイ人の家に招かれて、食事の席につ
いていらした時に起こりました。ファリサイ人がイエス様を招いた……不思
議ですが、こういうケースは他にも一二度あったようです。大体ヤダヤでは
ナザレのイエスのような巡回教師を、特に安息日の食事に招くのは、その人
の功徳になるという考えが一般的でしたから、このファリサイ人はナザレの
教師に対する好奇心も手伝って、ひとつドサ廻りのラビにメシでも食わせて
点数を上げておこうという根端だったのかも知れません。
招いておきながら、客人の足を洗う水も出さず、賓客に対してなら食前に
上質のオリーブ油を、ちょうど詩篇 23 篇にあるように注いで敬意を表すはず
の所、それも省略した……というのは、やはりイエスをそんな高貴な客人と
として尊重していなかったためで、乞食坊主にメシをやる、と言えば言い過
ぎにしても、本人自身の憐れみの心や善行をまわりに印象付けたい気持ちの
方が強かったのでしょう。「シモン様はまことに心の広いお方で、イエスの
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ようないかがわしい教師にだって親切になさった」と、そういう評判を当て
にしたのでしょうか。
玄関でイエスに接吻しなかったという所だけは、ちょっと理解に苦しみま
す。これは普通のヤダヤ人なら誰でもすることだからです。「屋根の上のヴ
ァイオリン弾き」なんかでご存知の方も多いでしょう。どうしてそれを避け
たのか? これは私の想像ですけれど、多分イエスが取税人や罪人と常に接触
していらっしゃることから、警戒したのではないかと思います。罪人の汚れ
が自分に移るのを恐れて、イエスと接触しなかったのでしょう。そういう風
に考えると、イエスがおっしゃったお言葉の陰にあった事情が分かります。
「わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれな
かった。」(44 節)とおっしゃっていますから、そういう何となしによそよ
そしい、お恵みと施しの食卓がこの招待だったと考えて下さい。
1.罪の女の挿話
36-39.
36.あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパ
リサイ人の家にはいって食卓に着かれた。 37.するとそのとき、その町で罪
の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、
香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、 38.泣きながら、イエスのうし
ろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐ
い、そして、その足に接吻して、香油を塗った。 39.イエスを招いたパリサ
イ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自
分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女な
のだから」。
この時の食事の席で、罪の女がイエスの足に香油を注いだ事件です。この
罪の女というのは、英語では単に sinner ですけれど、この時のファリサイ人
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の言い方から見て、これは悪名高い娼婦か何かだったのでしょう。とに角、
不道徳に身を持ち崩した、鼻つまみ者の女だった。
ところでこんな女性がどうして、この食事の席に、咎められないで入り込
んで来たのか? これはユダヤの習慣になじまない我々にとっては、どうも納
得がいきません。
でも実際は、こういう食事の席というのは、見世物とというと言い過ぎで
しょうけれど、近所の人の眼になるべく触れるように、門を開けて丸見えに
したものだそうです。「憐み深いカペナウムのシモン様が、ナザレのラビ、
イエス風情に食事をお恵みなさる……」という PR になるのですね。もっと
もカペナウムとはどこにも書いてありませんので、これは推測に過ぎません。
カペナウムではなくベッサイダかコラジンたろうと言う人もいます。いずれ
にせよ、ガリラヤの小さな町中に噂はとんで、かなりの人の眼が外から覗い
ておったでしょうか。それにイエスという人を見物するにも恰好のチャンス
です。イエスがパンを食う所を覗いてみたいという手合いもいたでしょうし、
済んでから余り物のお相伴を当てにする貧者も集まっていた。
けれども、実際にこの家の中に入って、食卓のすぐ後ろまで近づくことは、
誰にもできたことではありません。それにこの種の女性が中に入ろうとすれ
ば、
「お前、ここをどこだと心得ておるファリサイ人シモン様の邸であるぞ。
身分と場所柄を考えよ!」ということで通せんぼを食うはずです。
それをノーチェックでイエス様の足元まで来たというのは、この女の思い
切った行動も行動ですが、多分アッという間の出来事で、気が付いたらイエ
スの傍にくっついていた。つまみ出そうにも、触れば汚れに触れるし、「さ
あ困った、どうしよう」と言っている間に、女は持ってきた石膏の壺から高
価な香油をイエスの足に注いだ。その前に溢れる涙をイエスの足にこぼして
しまったのを、自分の髪の毛をほどいて、これを拭ったと言います。
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大体ユダヤの食卓は椅子式でもアグラでもなくて、低い台に左肘をつきま
して、体重は左肘と左の腰にかけて、両足を右へ投げ出して座ったものです。
従って女はイエス様の右後ろに膝をついたのでしょう。そしてその時に、感
動のあまり大粒の涙を御足の上にボトボトとこぼしてしまったのでしょう。
別にこれは前もって涙で濡らして拭こうと考えてしたことではない。タオル
を持っていなかったので、慌てて自分の髪の毛をほどいて雑巾代わりに使っ
た、というのが真相でしょう。
思わぬハプニングは自分の髪の毛で始末したので、とりあえずイエス様の
足に口づけして、高価な香油を足に注いだ。本来は頭にふりかけるものです
が、自分の身分を考え、恐れ多いと思ったのでしょう。足に口づけをすると
いうセンスは、我々日本人には分からぬ部分もありますが、最大の尊敬とへ
り下りの表現です。こういうのは昔からの中近東やギリシャのセンスが分か
りますと不思議ではないのですが……。
私はある時にギリシャ正教の司教が手を出したのを、握手するつもりで握
り返したら、平手打ちを食わされた経験があります。平信徒は司教様に対す
る礼としては、手の甲に口づけして膝を屈しなければならないわけです。
「相
手は自分とはケタ違いにエライ方だ」という最大の敬意の表現ですが、この
場合は彼女は奴隷のように足に口づけすることによって、それを表したので
しょう。
これが主人のファリサイ人には甚だ不愉快だった。預言者イエスに人を見
る眼がない、ということです。しかも、預言者というからには、人の本性、
素性をたちどころに見抜けてこそ当然……。これはまあユダヤ式の俗信です
が、イエスが処刑される直前に、厳粛なるべき法廷の場で、イエスに目隠し
をしてぶん殴ったという話がありますが、「打ったのは誰か、当てて見よ」
……あれも大真面目でテストをしているのでして、本物のキリストであれば
超能力を持っていて当てられる筈だ、というこの国の考えです。
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シモンは二つの点で、大きな間違いをしています。その一つは、この女が
どんな女かをイエスが見抜けなかった、と思ったことです。もう一つは、本
当に神の預言者なら、汚れた者は近づけず、自らの清さに女が泥を塗るよう
なことを許さない筈だと考えたことです。
2.イエスがなさった負債者の譬え話
40-43.
これに 44-50 の敷衍とエピローグが付きます。
40.そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことが
ある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。 41.イエスが言わ
れた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、
もうひとりは五十デナリを借りていた。 42.ところが、返すことができなか
ったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼
を多く愛するだろうか」。 43.シモンが答えて言った、「多くゆるしてもら
ったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
44.それから女の方に振り向いて、
シモンに言われた、
「この女を見ないか。
わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかっ
た。ところが、
この女は涙でわたしの足をぬらし、
髪の毛でふいてくれた。45.
あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった
時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。 46.あなたはわたしの頭に
油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。 47.
それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされ
ているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。 48.
そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。 49.すると同席の者
たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いった
い、何者だろう」。 50.しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなた
の信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
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「シモン、あなたに言うことがある」という切り出しで、イエスは一つの
譬え話をなさいます。この話で、自分はこの女の素姓はよく知っておるが、
この女が何故この行動に出たのか、それをあなたが本当に知ったら、あなた
のその考えは改めなければならなくなる……というのが主の御意図です。
譬えは非常にシンプルで誰にも分かります。ある金貸しから 500 デナリ借
りている人と、50 デナリ借りている人とがいたが、二人ともその借財を棒引
きにしてもらったとすれば、一体どちらがこの恩人を大事に思うか……。
500 デナリは今の通貨に換算しようがありませんが、まあ普通の人が一年
半かかって稼ぐお金です。それを棒引きにしてもらった。50 デナリは 2 ヵ月
分で返せる程度の借金。イエスがおっしゃった趣旨は、罪の赦しを多く受け
たと意識する人と、少ししか受けていないと考える人と、どちらがその赦し
を与えた人を大事に思うか―このことをよく考えて見よ、ということです。
これは実は、あの時大粒の涙をイエスの足に落としてしまった女の心理と、
彼女のそれまでの体験を想像させるわけですが……、これは本当は物語の本
文には直接は現れておりません。何故、石膏の壺を持ってイエスに近寄った
のか、何故、高価な香油をイエスに注いだのか、これもルカは何も書かない
のですが、イエスのお言葉で間接的に暗示するのでしょう。ここに一人の女
が、返しようのない位の罪の負債を赦す人を見出した。
この時のシモンの答えようを見ますと、どうやらシモンはこんな形で返答
を引き出されることへの不満を少しもらしております。
という
言葉は「それ位のことは私にも分かりますが」というような響きを感じさせ
るのですが、英文は普通 I suppose ……と訳していますが、「それは、多く
赦してもらった方だと思いますがね……」という感じでしょうか。
このファリサイ人はしかし、自分では赦しを受ける必要も感じなければ、
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そんなに多く赦して頂いた実感も別に無かったのでしょう。まして目の前に
おられる方がその赦しを托された方だとは考えなかったのです。
それではこの罪ある女の方は何処までイエス様のことが分かっていたのか、
それはよくは分かりません。人によっては、この女の流した涙は安っぽい、
感傷的な涙だったろうとも言います。自分のような女を軽蔑しないで、汚ら
わしいとも思わないで、一人の人間として見て下さる方はこの人だけだ。こ
んな温かい方はいない―ということだけで胸が一杯になって、それが涙の
大洪水を作ったまでだと言います。ある程度、当たっているのでしょう。
一方、イエスのおっしゃったお言葉から考えて、決してそんなことはない。
彼女の涙はそんなセンチメンタルな程度の低い、次元の低い肉的なものでは
ない。彼女は既にイエス様が自分の罪を引き受けて十字架へ行かれることを
直感的に知っていたのだ……そう見る人たちもいます。今までの汚い醜い自
分を咎めずに、この方は私の代わりに神の怒りに打たれに行く。この人こそ
神の子、私の仰ぐべき主なんだ! そう信じた日から彼女の生き方は、別人の
ように変わったのだ……とこの人たちは見ます。少しく買いかぶり過ぎかも
知れませんけれど、真実を含んでいるのかも知れません。
正直に言って私自身は、この女の人の信仰はそのちょうど中間あたりの、
宙ぶらりんのものではなかったか、そう思います。ちょうど私たち自身の信
仰の始まりが大抵そうであるように……! そのことをも全部ご承知であり
ながら、彼女を軽蔑もせず、退けもせずに、ファリサイ人の前で全面的に彼
女の味方になって、褒めてやったイエスのお心が分かりますか……。
「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少
しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」
そして女に向かって、もう一度確認するようにこう言われました。それは
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この女に対してだけではなくて、多分「こんな汚れた女を」と軽蔑したシモ
ンへの強烈な宣言でもあったと思いませんか。
「あなたの罪はもう赦されているのだ。いいか、あなたの信仰があなたを
救うことになった。平安のうちに行くがよい」
この言葉をイエスは今日も、同じようにこの方を信じて服そうとするあな
たや私に、もう一度言ってくださいます。
《 結論と勧め 》
昔から 47 節のお言葉は、二つの全く違った角度から、全く別な説明をされ
る、謎の言葉とされてきました。
「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」
この言葉を、この文章だけで額面通り論理的に受け取ろうという人は、彼
女がそれだけのひた向きな愛を、仮に盲目的でもいい、イエスに示したから、
それで赦しを頂く結果になった……と理解しました。その証拠に、多分彼女
はイエス様の十字架のことも、罪の贖いのことも充分に分からないままに、
ただ自分を認めて下さるこの人がありがたくて涙を流した。自分を軽蔑しな
い世界で唯一人の人に、彼女は自分の貴重な宝物を捧げて香油を注ぎ、自分
なりに多くの愛イエスに示した。その多くの愛が赦しを発動させた。その証
拠に、このお言葉の後で「あなたの罪はゆるされた」というお言葉があった
ではないか……と言います。多くの愛を注げる人こそ、赦しを受けることも
多い。ここはこの文章の通り素直に、多く愛したからこそ、多くの罪が赦さ
れたと読むべきであると。
他方、それとは別の角度から見る人たちは、それではイエスが話された 500
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デナリの譬え話が意味を失う、と言いました。多く赦された喜びを持つ人が、
感謝に溢れて多く愛する―というのが譬のポイントではないか。「このふ
たりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」「多くゆるしてもらった
ほうだと思います」。そうシモンの口からも確認させていらっしゃいます。
しかも 47 節の後半は、何故か対句のバランスを破って「少ししか愛さない者
は、少ししか赦されることはない」ではなく、「少しだけゆるされた者は、
少しだけしか愛さない」とあります。この角度から 47 節の前半を見るなら、
趣旨は明らかに「この女はこれだけ多く愛したことから見ても、多くの罪を
赦されていることが分かる」ということである……と言います。罪の赦しの
正味の体験が、愛に先行する! と。多分、正論はこれでしょうし、神学的に
も福音信仰の精神と一致します。
ただ、面白いことに、何故かルカはそこの所、対句のバランスを崩したま
ま「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」という前半
と「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」というアンバランス
なお言葉を、そのまま私たちの前に掲げて、ひとつのチャレンジと深い慰め
を示しております。多く愛することと、多く赦されることとは、ある意味で
鶏と卵のように相互に連なって、追いかけごっこをしながら膨らみ、あるい
は縮んで行くのだと言えるかも知れません。
先日、枚方のミングズさんが上手な日本語で話された短い説教の中で、私
はこの連鎖の輪と同じヒントを見たのです。ミングズさんの話というのは、
「人を赦す」ということについてでしたが、「あなたがためいめいも、もし
心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、
そのようになさるであろう」―つまり罪をお赦しにならないということで
すが、このマタイ 18:35 の言葉を「主の祈り」とを結び付けながら、次のよ
うにたとえ話をされました。
「多分、私たちの心には窓が一つだけあって、神の赦しを入れて頂く窓口
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と、私たちが人に赦しを差し出す窓口が一つになっているのです。もちろん、
私たちが人を完全に赦せるということが、神の赦しを頂く条件なのではない
のでしょう。それでは神の赦しを頂ける人は一人もいないことになります。
ただ、私たちが人をどうしても赦したくなくて、その一つしかない窓を固
く閉めてしまえば、結果として神が下さる赦しも頂けなくなるのです。『私
たちも、人の負債を赦しましたから』というあの祈りも、神様に向かってそ
の窓を開けることの告白ではありますまいか? 」
多く愛するということと、多く赦されるということも、それと同じように
追いかけごっこの輪になっているのでしょう。ただ、この鶏と卵の輪は外か
ら入り込めないものではない。たとえささやかでも、正味十字架の赦しを頂
いた人は、そこから信じてこの輪の中へ飛び込めるのです。
私にとって、このお話の一番素晴らしい部分は、やはり主がこの女の人の
愛の理由を詮索なさらず、本当にどこまで赦しを知ったのかをお問いになら
なかった所にあるように思います。それは一部の人が言うように、程度の低
い、不徹底で中途半端なものだったかも知れないのです。でも、不徹底でも
中途半端でも、とに角彼女はイエス様が自分の罪を赦す方、そのために自分
の過去を全部引き受けて下さる方だということを、何か悟ったのです。それ
があの大粒の涙となり、咄嗟に髪の毛で拭うしかない失態ともなり、そして
あの口づけと香料の捧げものとなって表れたのです。
素晴らしいのは、イエスがまるで彼女の不完全な信仰を全面的にお認めに
なるように、彼女の肩を持って、シモンに弁護なさった所です。
「お前はこの女を罪ある女と言うが、この女は涙で私の足を濡らし、髪の
毛で拭いてくれたのだ。この女は多く愛したからこそ、その多くの罪は赦さ
れていることが分からないか!」
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多くを愛する人
私たちが不完全な信仰でも信仰の決心ができるのは、イエスのこの思いや
り、この愛があるからです。「私のようなものがクリスチャンになれるもの
か? それも『多く愛する人』になどなれるのか? 私のこの程度の信仰では、
『多く赦された』とは申し上げられないのではないか?」……そんな、いら
ぬ心配とイイカッコを振り捨てて、私たちは恐れずイエスの御足に大粒の涙
をこぼすことも許されるし、自分の持っている最上の香油を注いで、私たち
の生涯を捧げて主にお仕えすることができます。この物語はそういう勇気を
私たちに与えてくれるのです。
(1982/10/03)
《研究者のための注》
1. 主が最後にこの女におっしゃった言葉は、日本語では大抵「安心して行きなさい」と
訳しております。
―これは「平安の中へ行け」で、多分ヘブラ
~Alv'l. %le
に相当するアラム語でおっしゃったものです。相手が女ですか
イ語の
ら
%le
ではなく
~Alv'l. ykil.
でしょうか。これは普通別れの挨拶でして、「じゃ、お
元気で」と、去る相手を送り出す言葉です。その意味では
には
~Alv'l.
以
上の意味は無かったとも言えます。しかし、パウロの福音の最大の理解者であったル
カのペンによって書きとめられたことを考えるならば、キリストから罪の赦しを受け
た者のみが本当の平安をもって歩むことができる、という信仰をここに読み取ること
も、筆者の意図からそう遠く外れることはないでしょう。
2. 47 節前半の趣旨を「多く愛する者が多く赦されるのだ」という角度から取っているの
は、McLean Gilmore それに Grieve や Creed もそう見ているようです。これに対し、
「多く愛しているという事実こそ、既に多く赦されている証拠である」と見るのは、
Geldenhuys, Leon Morris, Schlatter 等です。
3. シモンという名から、これをマタイ 26 章のらい病人シモンの家での出来事と同一視す
る人も多いですが、ベタニヤでの出来事とこれは別で、多分場所はガリラヤであった
ものと理解します。なお、ヨハネ 12 章とマタイ 26 章は多分同一事件でしょう。
4. この女がどうして食卓の所まで侵入できたかについて、我が家の主婦の申すには、
「宴
会するのに手伝いの仲居さんに雇われてたんとちがうやろか」……私、曰く「町中の
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鼻つまみ者やったとしたら、ファリサイ人がたとえパートでも雇えへんやろう」「ほ
んなら、仲居さんの中に紛れ込んで入って行きはったんやろか」……まあ、どうして
も仲居さんにしてしまいたい所が何とも大阪的で愉快です。
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