ローマ12章3∼8節 「一つのからだ」 石原俊久 先週は礼拝の中で

ローマ12章3∼8節
「一つのからだ」
石原俊久
先週は礼拝の中でファーガソン先生からバトンをわたされました。黄色
いバトン。牧師室においてあります。
幸せの黄色いハンカチ、という映画がありましたが、幸せを願って黄色
にしたのか。聞き損ってしまいました 。風水で金運がいい色とかいうこ
とで、レジに並ぶ奥様方の財布がみんな黄色ということもありましたが、
まさかスコットランドに風水の影響があったとは思えませんし。あと考え
付くのは黄色といえば、信号の黄色。これは「注意」という意味ですね。
注意しろ、というメッセージかもしれません。
バトンをもらいながらそんなことを、いろいろと考えながら、午後の按
手式を迎えました。
緊張の時間でした。いろんな牧師に話を聞きますと、按手式はみんなと
ても緊張した、といいます。
押さえられている手の先から、何か言い知れないパワーのようなものが
注がれているようにかんじました。なんかコンセントを差し込まれて充電
されているような感じでしたが、充電されたにもかかわらず、とても疲れ
たように思います。神の前に立たされるというのは凡人にとっては体力を
消耗するものなのかも知れません。モーセのように神に出会って輝かされ
たいと願います。それでもモーセが真の意味で牧者となったのは 80 歳の
頃でした。めざすべき牧者に近づくのはいつのことやらと思わされます。
しかしそれでも牧師は福音を宣伝え、信徒を牧さなければなりません。
立ち止まっているわけには行かないのです。バトンをもらったらスタート
しなければなりません。まだ知らぬ未来に向かって走らなければなりませ
ん。
そんな私たちのために、2000 年前にバトンをわたした人がいます。パ
ウロがその人です。聖書には不思議なことに教会の困難さが赤裸々に描か
れています。イエスキリストの十字架と復活だけでなく、当時の教会の出
合った問題が福音書とほぼ同じ分量を使って書かれているのです。そして
その大半を書いたのがパウロです。
1.パウロは教会をキリストのからだであることを強調する
今日の箇所はそのパウロが教会を一つの体、として描いている箇所です。
今日の箇所を読んでおや、と思われる方もおられると思います。なんか
読んだ事あるなあと思われるかもしれません。ファーガソン先生も最近豊
富なイラストを使って教会がキリストのからだであることを説教されま
した。
それは同じような書き方がパウロの手紙に多くみられるからです。
このローマ人の手紙、第一コリント 12 章、エペソの手紙 1 章、コロサ
イの手紙 1 章、には教会がキリストのからだ、として表現されています。
ですからパウロの手紙を多く読む人には同じ表現がインプットされて
いるのです。
なぜこんなにもパウロは教会を人のからだに例えようとしたのでしょ
うか。それはもっともわかりやすい例だからだと思うのです。自分のから
だを見ながら、意識しながら、パウロの手紙を読めばどの人にもパウロの
言わんとすることがわかる、というわけです。
今日の箇所はパウロ書簡の筆頭であるローマ人の手紙からこのキリス
トの体について書かれている部分を見てみたいと思います。
2、思い上がってはいけない、という警告
12章3節「 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言
います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、む
しろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え
方をしなさい。
「思い上がってはいけません」とはきびしい言葉だなあと思います。しかしここ
にパウロの考えるあるべきキリストのからだが示されていると思うのです。から
だの器官の中で、どれが大事で、どれが大事でない、ということができない、と
いうことが貫かれているのです。
第一コリントにはこのことが明確に語られています。
第一コリント12章22節「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえって
なくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさ
らに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこ
うになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったと
ころをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。」
脳や心臓や肺、胃袋や腸、肝臓などはその役割もはっきりし、重要な器
官であると私たちは知っています。ここに問題があれば、それは大変だと
いうことになるのです。が、パウロはこれらの器官だけをことさら尊重す
ることの危険性を指摘しています。またこれらの臓器が他の臓器を見下す
ということがあってはならない、というのです。
3.ひとつ一つの器官のように私たちはみんな尊い
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしな
いのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり
互いに器官なのです。
小林姉妹が今週、手術をされます。それは胆嚢の摘出手術です。胆石が
薬などでは除去不能になって、ついには黄疸の症状が出てしまって緊急に
入院されました。胆嚢の働きって知ってますか。私はさっぱりわかりませ
ん。でもこのよく知られていない器官の不具合が、黄疸を発祥させ手術を
必要とする状態になったのです。ちょっと調べましたがとても小さな器官
です。
もちろん本当のからだの臓器はそんなことは考えているわけではあり
ませんが、教会の中でも例えば、とてもよく目立つ働きをしているという
ことで、その人が思い上がって他の人を軽蔑したりすることがあってはな
らないというのです。パウロは人間にその危険性があるので警告します。
そしてそのようなことが教会の中にあれば教会に不和をもたらすという
のです。むしろ多くの賜物、すばらしい賜物のある人は「慎み深くありな
さい」とパウロは言うのです。
少し前に出エジプト記の箇所から、天幕を作る奉仕を募集したところ宝
石を持ってくるもの、すばらしい技術を持ったものと同じく、ヤギの毛を
つむぐ主婦の働きが、同等に扱われたことを学びました。神の目からみれ
ば、きちんと主にむかって行われる奉仕はその内容にかかわらず、尊く用
いられ、評価されるのです。そこには人間の価値観の入る余地はありませ
ん。
コリントの手紙はローマ人の手紙の書き写しのように閉じられています。
「12章:25節 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うた
めです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が
尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
パウロの中には教会がいつもこのことを意識するように、との思いがあっ
たことがここからもわかります。
4.「なさい」の中にある私たちの使命
12章6節から見てみたいと思います。
「12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、も
しそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導
する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」
6∼8 節の中に私たちは,与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っ
ていることが強調されています。キリスト者は、それぞれ与えられている
賜物に対して、責任ある用い方をしなければなりません。なぜなら 6 節か
ら 8 節はすべて命令であるからです。
パウロは賜物を誇ることの警告と同時に、賜物を用いないことにも警告を
発しているのです。
6 節に「与えられた恵みによって」とあるように私たちに与えられた賜
物は神の一方的な恵みであることを今一度確かめたいとおもいます。与え
られたものを用いないことは神の賜物を自分のものにしてしまうことで
あり、賜物を誇ることも賜物を自分の功績にすることになるのです。
どちらも神の目からみれば正しくありません。神は恵みによって与えた
賜物を用いることを期待されているのです。
パウロは教会を建物にも例えましたが、はるかに人のからだに例えること
に多くのページを割いています。それは教会が、そして教会を形成する私
たちが、生きている、ということ、生身の人間の集りということから当然
そのような表現になったことは明らかです。そしてパウロが教会をからだ
に例えたことのもう一つの真意、それは成長ということです。
教会はからだです。すべての人が、大事です。
弱っている部分があれば、癒さなければなりません。
弱ったからだは成長を拒みます。
また教会の一人ひとりはすべてキリストにつながっていなければなり
ません。
そんな器官も脳からの信号を受けて動いているように、キリストから離れ
てはいけません。
キリストから離れればキリストの身丈に成長することはできません。
また教会のひとり一人は互いにつながっていなければなりません。
からだはばらばらになってはならないのです。
キリスト信者は教会の働きにかかわっていなければなりません、それは
キリスト信者が成長するために与えられた恵みです。
小さな働きしかできないから教会にはかかわらないということではな
く、神は小さな働きを求めておられ、その小さな働きを大きく用いられる
のです。そこに一人ひとりの成長があり、全体を成長させるのです。
ローマ人の手紙はまだローマに教会組織が出来上がる前にローマの家
の教会に送られたものと考えられています。パウロはこれからローマで教
会形成をする信者たちにこれからの教会のあるべき姿を示したのです。そ
れは私たちにも送られた手紙です。パウロが手紙を託して 2000 年のとき
を経て私たちに渡した教会形成のバトンです。
私たちも一つのからだとして成長しキリストの身丈に達する教会とな
るよう、一人ひとりの賜物が用いられるよう祈りつつ歩みたいと思わされ
ます。