CAJ中部 NL March 2015 5号(1-13、26-28頁)

中部支部
CAJ 中部支部
ニューズレター
2015年3月発行 第5号
ご挨拶:藤巻光浩
目次
昨年の6月から、支部長になりました。
よろしくお願いいたします。
支部長になったからといって、特に目
新しいことはできるわけではありませ
ん。前支部長の福本明子先生の路線を
継承し、支部が会員のみなさまの研
究・教育活動の一助となるべく、持続
可能な方法を模索していきたいと思い
ます。支部の活動に参加いただける方
は、是非メーリングリストに登録され
てください(下記「連絡」欄を参照)
。
支部の年間スケジュールを記します
と、6月に年次大会で集まりがありま
す。ここではその年度の新しい体制を
発足させたり、方針を確認したりしま
す。その後、毎年9月には勉強会をやっ
ております。会員が興味がある図書を一
冊程度選び、討論します。自分の教育・
研究への思わぬフィードバックがあるこ
ともあり、知的刺激に満ちています。
12月には、支部大会を開催。小さいな
がらも、充実感いっぱいの内容を提供し
ています。そして、2月から3月にかけ
ては、ニューズレターの編集作業があり
ます。書評の紙面があったり、支部大会
を振り返る紙面もあり、小粒でもピリリ
と辛い内容を目指しています。
まだ支部の活動にいらしていない方、是
非一度集まりをのぞいてみてください。
「コミュニケーション」について、語り
ましょう。
活動報告①
9月 勉強会
2
活動報告②
12月 支部大会
(合評会セッション・
基調講演)
4
書評
14
CAJ年次大会 学術
シンポジウム~続編~
28
会計報告
26
編集後記
28
ハイライト
* 充実の活動報告!
* NL編集新体制!
連絡
* 書評10本!
1.
2015年度のCAJ年次大会は、6月13日(土)~14日(日)南山大学
(名古屋キャンパス)にて「コミュニケーションとジャーナリズム」の
テーマのもと開催されます。ご参加をお待ちしております。
2.
中部支部会議が、年次大会初日の昼に例年設けられております。是非、
皆様、お越しください!会計報告や支部大会の調整なども行います。
3.
中部支部ML(メーリングリスト)が昨年のYahoo! Groupサービスの
停止に伴い「Google Group」に変更になりました。CAJのHPで「会
員各種手続き」にて、メールアドレスをご登録ください。CAJのNLも
電子化されます。ご登録くださると、支部のMLにも追加され、CAJか
らの連絡、公募情報、非常勤の募集、講演会やワークショップなどの連
絡を回しております。是非、会員間の情報交換にもご活用ください。
ML担当:森泉 哲 ≪moriizum(アットマーク)nanzan-u.ac.jp≫
活動報告①:CAJ中部支部 勉強会
2014年9月12日(金)
愛知淑徳大学(星ヶ丘キャンパス)にて開催
CAJ中部支部の勉強会は、2014年9月12日(金)に
愛知淑徳大学の星が丘キャンパス内で実施された。参
加者は指定された書籍を事前に読み、自由に発言・議
論するという堅苦しさをなくしたスタイルで、当日の
勉強会参加者は7名であった。今回は藤巻光浩先生(静
岡県立大学)の推薦で、フィールドワークの方法論に
関する論文集「好井裕明・山田富秋編 (2002) 『実
践のフィールドワーク』 せりか書房」が指定書籍に選
ばれている。
最初に、今井達也先生(南山大学)による応答ペー
パーの朗読から始まり、同時に宮崎新先生(名古屋外
国語大学・当日欠席)の応答ペーパーも紹介された。
両先生とも、フィールドワークの場に立つ研究者たち
の葛藤に、自らの論文執筆時を通じて同感している。
指定書籍のテーマである差別問題に関連して、付随的
な情報を公開するか否かで話が進む中、佐藤良子先生
(愛知大学)や近藤恵梨奈(愛知淑徳大学院修了生)
から、フィールドワーカーの立ち位置・距離の取り方
について質問が挙がった。ここで論文執筆経験の少な
い近藤のために、福本明子先生(愛知淑徳大学)と平
田亜紀先生(愛知淑徳大学)が、研究者の持つバイア
スなど質的研究の論文作法を補足・説明している。
続いて、研究者・研究対象者間の隔たりに大きな指
針や決まりは特にないと回答をしたのは、実際に
フィールドワークを行っている藤巻先生である。先生
は、指定書籍の題名が『“実践の”フィールドワー
ク』であることこそ、フィールドに巻き込まれざるを
得ない研究者たちや、同じテーマでも十人十色の答え
が出てくるフィールドワーク実践の状況を端的に示し
ていると前置き、「誰かが何かをした」・「彼ら彼女
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らの問題」と他者の問題を切り離すように他者化する
のではなく、自分たちの問題としようと働きかける、
指定書籍編者の主張を再確認する形で答えた。
更に、森泉哲先生(南山大学)・平田先生が論文作
法における分野差を、藤巻先生・佐藤先生が閉じられ
たフィールドワークの話題を出すことによって、議論
が深まっている。そして、森泉先生が文化人類学の視
点変遷の話を、福本先生が民俗学者・宮本常一の論調
の話を挙げたことで、その幅も広がりを見せた。そこ
からは、指定書籍編者の所属する社会学と、参加者た
ちが主に所属するコミュニケーション学の住み分けに
関する話題に発展した。すなわち、一般には客観性に
重きを置いている人類学に対して、多分野に広く共通
点のあるコミュニケーション学は、どのように線引き
をして他学問と明確な区別をするかである。先生方か
ら、論文執筆目的や先行研究文献、思想と実践のバラ
ンス、研究にある信条といった様々な意見が出ただけ
でなく、研究目的が誤解された時の体験談も取り交わ
された。
最後に、論文や発表で研究対象についてのイメージ
を問われた時に、その中での定義や目的を明確に示す
ことが大事であると藤巻先生と今井先生が締めくく
り、勉強会は終了した。和やかな中にも白熱した時間
はあっという間に過ぎ、多岐に渡る内容が充実した勉
強会であった。
近藤恵梨奈
(愛知淑徳大学大学院 グローバルカルチャー・コミュ
ニケーション研究科 博士課程前期2011年度修了生)
好井裕明・山田富秋編(2002)
『実践のフィールドワーク』せりか書房
応答ペーパー:宮崎新(名古屋外国語大学)
フィールドには様々は巡り合わせや思いもかけない出逢いが
ある。本書に描かれる差別に関する諸問題を見つめ直す論文に
おいても、既存の理論や概念を強固にすることのみに重点を置
くのではなく、生きられた声や生きられた経験を語り手から残
さずに汲み上げようとする研究者の努力と苦悩が見て取れる。
もちろんフィールドワークを主軸にした研究は、壮大なカタル
シスと喜びで締めくくれるようなものばかりではない現実があ
ることを再確認もさせてくれる。しかし、それぞれの論文の中
で、フィールドワーク実践の真骨頂ともいえるような、人々の
営みを〈いま、ここ〉の視点から向き合う中で湧き上がってく
る偶然とも必然とも言えるような気づきが語られている。
私にとって本書を読むことになったのもそんな偶然の出逢い
の喜びを得るものだった。本書が勉強会の課題図書として指定
された時、たまたま学生に推薦図書として貸し出していた新書
が手元に返ってきた。「普通であること」や「当たり前」とさ
れることをコミュニケーションの視点から批判的に考えてみよ
う、と、少し読みづらさはあるかな?と心配したものの、その
学生に奨めていたのが著者の一人である好井氏の『「あたりま
え」を疑う社会学―質的調査のセンス』光文社新書(2006)
だった。『実践のフィールドワーク』から数年後に出版された
この新書では、より詳細に好井氏自身のフィールドワーク研究
に対する考えや、実践の記録、(この研究手法を用いる研究者
には共感を得やすいような)失敗談などが語られており、改め
てこの新書と本書を読み進めることでフィールドワーク実践に
対する考えや姿勢を新たにすることが出来たように思う。
本書を読み進めるにあたり、テーマである「差別」を扱う研
究の難しさは、社会問題という、何かなされるべきである問題
としての明白さと、逆説的に生まれる不透明さの共存関係にあ
るのではないかと感じた。差別が良いか悪いか、と問われれば
「悪い」という反応が起こるのは至極当然だろう。本書の表紙
に載せられたタイトルを一瞥するだけで、仮に「差別」という
言葉がそこになくても、なんらかの差別問題が扱われているで
あろうことは容易に想像出来るだろう。この明白さは、研究者
が差別問題の研究を始めるに当たってはこの上なくありがたい
方位磁石のようなもので、社会の中で差別がどのように起こ
り、誰が加害者(差別するもの)で、誰が被害者(差別される
もの)で、何が原因でその解決にはどのような手段があるの
か、と研究者を導き研究に駆り立ててくれるものになる。先行
研究を進める中でマスターナラティブを獲得し、それに沿って
研究デザインを描くのも、研究の常套手段として必ずしも間
違ったものでもない。しかし、この明白さそのものがフィール
ドワーク実践を行う研究者の姿勢を硬直させてしまう可能性が
あり、また差別の問題に取り組もうとする際に芽生える正義感
による盲目的な思い込みを生む危険性もはらんでいる(好井
「啓発映像を解読する」)。
この差別問題の自明性は、好井氏(2006)も『「あたりま
え」を疑う社会学』の中で、自身の失敗談として紹介し、
フィールドワーク実践の難しさと、研究者が常に柔軟な姿勢を
保つ大切さを述べている。大学院生であった好井氏は、被差別
部落研究を進める中で、社会一般に言われるような差別がそこ
にあるものであって、当事者はそれを経験しており、それを相
手の語りから丁寧に吸い上げれば問題の解決(理解)に繋が
る、という硬直した姿勢から、「これまでどのような差別を受
けてきましたか?」という問いを相手にぶつけてしまう。この
ような、皮肉にも結果として相手を差別的に一定の枠組みに落
とし込むことで理解しようとする問いに対し、語り手の女性に
「差別なんか受けたことおませんわ」といなされ、想定外の返
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
答を受けた大学院生好井氏はそこで言葉に窮し、見事にフィー
ルドワーク実践に失敗してしまう(pp.121-122)。
差別の対象となる人々は往々にして社会のマイノリティとし
て、マジョリティの基準から外れる「異なるもの」としてラベ
ル付けをされてカテゴリー化され、そこにどのような差別問題
がある(あった)のか一括りにして扱われる。結果として「○
○だから○○だ」という、差別をカテゴリーそのものに帰結さ
せた理由づけを可能にしてしまう。フィールドワークの原則に
則って客観的に見れば、なぜこの好井氏がしてしまった「決め
つけ」が失敗であったかを理解するのはさほど難しいことでは
ない。しかし、実際にフィールドに出て当事者と向き合う際
に、このような些細な、しかしながら決定的なミスはフィール
ドワーカーなら誰しもが身に覚えのある耳に痛い話の一つであ
ろう。なぜなら、これはまさに差別問題の持つ自明性(と思わ
れる側面)によるところであると考えられるからだ。
『実践のフィールドワーク』で紡がれるさまざまな語りから
は、研究者が再度自分と研究対象であるテーマ、そして語る
「一個人」としての相手と向き合いながら、差別の諸問題を自
明性の光の下に一元化するのではなく、〈いま、ここ〉に起こ
る対話の中から不安定さ・不透明さも請け負おうとする姿勢の
重要さが繰り返し強調されている。山本氏が述べるように、差
別の諸問題に対して、マジョリティの腑に落ちるような【答え
を見つけ理解する】という分かり易さを追い求める姿勢ではな
く、むしろ分かりにくさ、不透明さを原語のまま詳細に記述す
る事で、その原因の所在を明らかにする営み(〈帰国/定住〉
ではなく、「居場所」を求めて、p.184)こそがフィールドワー
クの持つ大きな力であることが、各論文の中で鮮明に描かれて
いる。そして、このような記述の活動は、研究者が一方的に決
まりきった差別の理解や理論的枠組みを当事者にあてはめ、都
合のよい語りの取捨選択でその構造理解を補強していくのでは
ならない。抽象的な表現をあえて用いれば、研究者と語り手が
同じフィールドに立ちながら、共に語りの記述という活動に参
加することが必要不可欠なのである。
フィールドワークの醍醐味とその難しさは、研究者もその差
別の問題の当事者(関係者)になることを請け負いながら、<い
ま、ここ>の営みに参加していくという点だろう。本書に論文を
寄せた研究者が随所で内省的に語るように、自分をその場から
一歩引いて、達観して、上から目線で理解を試みるような
フィールドワークの実践では、諸問題の表面をなぞるような結
論に終始し、むしろ差別の再生産に加担する危険性もはらんで
いる点も、改めて気付かせてくれる。
本書は明確さと不透明さが共存する差別の問題に対して、
常に安定を求めるかたちでの参加(実践)ではなく、不安定さ
を受け入れ、さまざまな基軸から見つめなおす(または、実際
には、見つめられている、という事に対しての気付きの)重要
性を再確認させてくれた。【了】
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活動報告②:CAJ中部支部 支部大会:2014年12月20日(金)
愛知淑徳大学 星ヶ丘キャンパスにて開催
畑山浩昭(桜美林大学)
2014年12月20日、日本コミュニケーション学会中部支部大会
(愛知淑徳大学)において、「柿田秀樹著『倫理のパフォーマ
ンス』を読む」と題した合評会が行われた。討論者は三熊祥文
氏(広島工業大学)と師岡淳也氏(立教大学)で、両氏の質疑
や論評に対し、著者である柿田秀樹氏(獨協大学)が応答する
形となった。この本は副題として、「イソクラテスの哲学と民
主主義批判」と付されており、「哲学」という漢字に「レト
リック」というルビが振られている。つまり、「哲学=レト
リック」を前提としたイソクラテス論である。この認識の提示
が、今回、レトリック研究としての公開討議を設ける理由及び
大義があったのであろう。90分という限られた時間の中で柿
田さんの大著すべてについて議論することはできなかったが、
「哲学=レトリック」という前提と「イソクラテスを読む」こ
との意義を基本的なテーマとして、いくつかの重要な論点が討
議されたので筆者の所感も含めてここに書き留めておきたい。
最初に、師岡さんが日本国内における近年のレトリック研究
の書籍を紹介しながら『倫理のパフォーマンス』の位置づけや
意義を説いた。そして、イソクラテスが口頭弁論を文字化した
ことについての疑問や、レトリックという語が有する多義性の
問題等を提示した上で、柿田さんが日本語でこの本を書いた動
機や理由、米国におけるイソクラテス研究との関係、著述中に
出てくる「語りの倫理性」の解釈、教育や政治的判断に対する
示唆などについて質疑を提示した。日本国内外におけるレト
リック研究という大きな体系の中で、イソクラテスを読み直す
この本がどのような意義を持ち得るが師岡さんの大きな関心で
あったように思う。
続いて三熊さんが登壇した。英語/スピーチ教育を実践する教
育者としての立場からその「読み」を紹介し、自身の教育実践
と照らし合わせながら論評を行った。三熊さんは教育現場にお
いてレトリックの5部門を活用し、独自のアプローチを加えな
がら「納得をもたらすスピーチ」の研究と開発を学生と一緒に
行っている。その上で「祭り」とスピーチコンテスト、イソク
ラテスによる口頭弁論の「文字化」と現代のプレゼンテーショ
ン教育、「他者」と現代的な意味におけるオーディエンス、
「政治性」と教育など、『倫理のパフォーマンス』に出てくる
概念と、現在の三熊さんの教育研究実践の重要な概念を比較対
照させながら、この本の現代的な読みを試みる具体的な質疑と
コメントであった。教育実践からの視点が三熊さんにとってか
なり重要であると感じられた。
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合評会セッション①
「柿田秀樹著
『倫理のパフォーマンス』
(彩流社)を読む」
応答者:柿田秀樹先生
(獨協大学)
ふたりの論評を受けて、柿田さんが応答に立った。最も重要
な批判的ポイントはやはり哲学をレトリックとルビを振って読
ませることとしながら、それはその意味づけではなく「言及の
欠如」であると柿田さんは言う。言及されないことは意識下に
その概念がないことであり、批判の対象にもなり得ない。そう
考えると、イソクラテスがレトリックという言葉を使わなかっ
た、つまり言及しなかったことは確かに面白い。これは、「哲
学として構想することに価値を見出した無意識の現前」だと柿
田さんは言う。一方で多くの人々が、レトリックとは説得の技
術だと言い続けてきたことは対照的である。つまり柿田さん
は、この本を著することによって、イソクラテスがレトリック
という語を使わなかったところを、哲学という意味のレトリッ
クとしてあえて言及する行為を選んだことになるからである。
「哲学=レトリック」の意図を概説した上で、柿田さんは歴
史とテクストの問題を論じた。この論について筆者は次のよう
に理解した。ひとつの時間や場所における空間を客観的事実と
すると、この事実は実際に起こったこと、実存したことである
ものの、言語等によって記号化され、一貫性を要求されるテク
ストになると、事実そのものではなく表象された記号となる。
歴史学においてそれは史実とされるが、その解釈を試みる人々
の記号やテクストの認識、インターテクストの効果によってし
か意味は発生せず、つまり、事実そのものへアクセスする手が
かりにはなるものの、事実そのものの認識ではない。柿田さん
の言葉を借りると、それは「主観的な歴史の物語」であり「イ
デオロギー的な影響」を必ず受けることになる。ここに倫理的
な介入が必要になると彼は言う。逆説的に、イソクラテスを記
号化、テクスト化することでイソクラテスの実存やイソクラテ
スのレトリックの可能性を可視化する作業がこの本で、現代に
おいて遂行する意義を感じたということであろう。
さらに柿田さんはオーディエンスと教育の問題についても言及
した。オーディエンスの問題を考えるためには、主体から見た
「レトリック空間」や「説得性」の概念を一旦括弧付きにし、テ
クストのなかで主体が構成される「差延の運動」を考慮するべき
であると主張する。これは記号の問題に基づくものの、差異化に
よって開かれるレトリックの空間は、説得される対象としての
オーディエンスという理解から全く異なる空間として認識される
からである。現代のレトリック研究の重要概念である「レトリカ
ルシチュエーション」や「エイジェンシー」をどのように理解す
るべきか、ということが、オーディエンスの理解に関係すること
になる。また、教育については、言語の問題と密接な関係がある
ことを柿田さんは指摘した。「自分には全く他なるものでしかな
い言語というシステムに自らを委ねなければ、自分であることが
できないというパラドクス」と説明する。感情や思考は他者も有
する言語でしか形にすることができず、また、他者の言語を学習
していくことで文化に自分自身を合わせることであろう。ここ
で、『倫理のパフォーマンス』につながるわけだが、それは、
「表象や記号としての他者との関係をどのように把握することが
倫理的であるかを考えることである」と柿田さんは述べた。
合評会の最後のあたりで浮き彫りになってきたことは「記号と
してのディスコース」の正体であったと思う。記号そのものがレ
トリカルで、イデオロギーから逃れられない、つまり、客観的、
中立的ではありえないことからすると、自己や他者の表象、歴史
や文化の表象そのものが、実際や実存、事実といった概念から離
れ、それらを再現できるものではなく、また、解釈の対象という
考え方だけでも不十分で、我々が記号で行う行為そのものが重要
な批判の対象となると感じた。これはもちろんスピーチアクトや
プラグマティックスの中でなされてきた議論に近いが、それ以上
に「言及しないこと」が「意識の欠如」につながり「批判の対象
にさえもならない」ことが問題であることを、『倫理のパフォー
マンス』は教えてくれたと思う。コミュニケーションで介入する
ことの意義や、コミュニケーションを教えることの意義を考える
上で、これはその土台となる思想であり、師岡さん、三熊さん、
柿田さんの議論をつなぐ共有のトポスとなった。今後の継続的な
討議を期待する。
以上
田島慎朗(神田外語大学)
『倫理のパフォーマンス』は2012年の出版以前から、柿田
先生のかねてからの研究テーマを著書にしたものと伺ってい
ました。個人的に出版後に拝読していたのですが、今回の中
部支部会は、改めてイソクラテスを読むことの魅力、古典レ
トリックの文献の現代レトリック論への意義づけの仕方な
ど、様々なことを学ぶ機会となりました。
発表では、まず立教大学の師岡先生からレトリック研究者
の立場からの質疑が行われました。著書が古典レトリックを
現代的のレトリック研究の文脈の中に位置づけた意義深い研
究であることの確認と、そこで必然的に発生するレトリック
という言葉や他者認識に対する両義性・二重性が指摘されま
した。また、広島工業大学の三熊先生より、教育者の立場か
らの知見が示されました。そして、両先生方からの個別の質
問が寄せられました。その後、柿田先生より両者の立場への
応答が行われました。応答は①歴史研究とテキスト分析の問
題、②オーディエンス(読み手・聞き手)と表象の問題、そ
して③教育現場と「作者の死」の問題という3点を手掛かりと
してなされ、陳述の中で師岡先生、三熊先生の立場を踏まえ
た再応答と、個別の質問への回答がなされました。
現在、古典レトリック研究の大著を研究対象とするのは骨
の折れる作業です。それは、レトリック研究が現代思想とと
もに発展させてきた既存の理論体系に基づいた研究のフレー
ムワークを敷くことと、イソクラテスのテキストとそれにつ
いた今まで世界中の研究者の「手あか」、つまり既存のイソ
クラテスの解釈、分析、理解との付き合いを要する作業で
す。つまり、一方で現代思想、批判的・文化的アプローチに
よるコミュニケーション研究への知見を下敷きとしたうえ
で、イソクラテス研究の文献を読みこみ、それらをつきあわ
せつつ自分の独自のイソクラテスの「読み」を独自かつ意義
のあるものとして提示する必要があります。
このセッションの主要な焦点の一つが、レトリックの日本
語表記に関するものでした。著書では主にレトリックを哲
学、弁論術という言葉にルビを振ることで表していますが、
それはレトリックがイソクラテス哲学の中心的課題として彼
の教育理念に通底する概念だったからという理由からという
訳ではありません。むしろ、現代日本語で書かれたこのテキ
ストは、このような今までの一般的なイソクラテス理解(と
それを下支えするレトリック理解)に対しての挑戦として理
解できます。つまり、イソクラテスの賢慮の実践としてのレ
トリック(哲学)を行為遂行的なレベルで再評価すること
で、現在のレトリック理解そのものを組み替えようとするも
のです。
セッションではこのほかにも活発な意見交換が行われ、レ
トリックや批判的・文化的アプローチによるコミュニケー
ション研究を志す人にとって大きな収穫となりました。違う
支部にもかかわらず快く見学の許可をいただいた中部支部の
先生方には、この場をかりて深く御礼申し上げます。【了】
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
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柿田秀樹(獨協大学)
レトリック
私が書くとき、神が筆を動かし、私の手を動
かし、筆を動かす私の意志を動かす。書くこ
とはそもそも神の運動なのである。「人間が
ペンを動かすとき、人間は決してペンを動か
すのではなく、ペンの動きは神がペンのなか
に生ぜしめた偶然である。[quando homo
movet calamum, homo nequaquam illum movet,
sed motus calami est accidens a Deo in calamo
creatus.](原文ラテン語)」(カール・シュ
ミット「Ⅱ.ロマン主義精神の構造」『政治的
ロマン主義』)


それらは応答せずに応答し、諾とも否とも言
わず、受け入れもせず反対もせず、それでも

話すことは話すけれど何一つ言わない、諾と

も否とも言わない、『書記バートルビー』の
ように。どんな要求にも、問いにも、圧力に
も、要望にも、命令にも、彼は応答せずに応
答する、能動的でも受動的でもなく。《I
would prefer not to》、せずにすめばありがた
いのですが…。(ジャック・デリダ「抵抗」
『精神分析の抵抗』)
最初に、本企画を構想してくださった藤巻先生、拙著にレスポンスを
下さった三熊先生、師岡先生、及び司会の畑山先生、そして、大会運営
をされている中部支部の諸先生方に心より感謝申し上げます。
今回拙著を取り上げて頂いたことに心より感謝しているのですが、出
版後は研究の興味が視覚レトリック論に移り、今では美術史家のような
ことをしております。必然的に経年した現時点からの省察となります。
この点、ご容赦頂きたく存じます。
お二人の先生方の貴重なコメントを拝聴いたしました。様々なアイデ
アを頂戴した気がします。わざわざ、私が応答しやすくご配慮頂いたご
様子、感謝申し上げます。私が十分にお二人のご指摘にお答えできるか
どうか、心もとない限りですが、可能な限りでお答えさせて頂きます。
応答せずにすめばありがたいのですが、まずは言葉を発してみようと思
います。
拙著『倫理のパフォーマンス』は、ご指摘のように、2010年度CAJ年
次大会のセッションを出版のきっかけにしています。このセッション
は、今はないようですが、他分野の著名な先生をお招きしてその分野の
学問についてインタビューし、その分野が(いかにコミュニケーション
研究と異なるかではなく)いかにコミュニケーション研究と同調してい
るかを知り、コミュニケーション学はどのように学術的な貢献ができる
のかを探るシリーズ企画でした。2010年は、東京大学の小林康夫先生を
お招きしました。表象文化論についてのインタビューでありました。
インタビューの中で、私は小林先生にとっては哲学に特権性があるの
ではないかとお尋ねしております。その際、小林先生がしばしば言及さ
れ、表象文化論において最も重要な理論家の1人でもあるミシェル・
フーコーの重要性についてもお尋ねしました。そして、晩年のフーコー
が理論化を試みた統治性の概念や『性の歴史』における権力の問題で
は、イソクラテスが中心的なモチーフとなっている可能性に触れた上
で、表象文化論におけるレトリックの重要性についての質問をぶつけて
みましたが、その時の感触でイソクラテスの学術的な重要性があると感
じたことが拙著の端緒です。どうすればレトリック研究を表象文化の研
究に押し上げ、学術的貢献を果たすことができるのか。これが可能であ
れば、イソクラテスの論考をまとめる価値があると思えたのは、この
セッションと小林先生のおかげでした。
がふられた、あまり一般的ではない記号「 哲学 」への言及の欠如であ
ります。まさにこの欠如にこそ、拙著が問題を提起し批判するイデオロ
ギー的認識が現前しています。言い残しや欠如、不在は無意識の表出で
す。拙著の何を批判しているのかではなく、何を批判しないのかという
認識の欠如こそが、レトリック研究のイデオロギー的問題であり、イソ
クラテスの理論的な重要性もそこにあるはずです。
拙著『倫理のパフォーマンス』は、イソクラテスのレトリック理論を
再構築する試みです。すなわち、哲学はレトリック論であり、レトリッ
クの知は哲学に値するという、イソクラテスの「哲学=レトリック」と
いう命題を論じることにあります。そのレトリック理論は、彼の「哲学
(フィロソフィア)」を弁論の実践の中に再配置し、そこに媒介されて
いると想定できる賢慮の働きと共に、行為遂行性に内在するレトリック
を構築することで可視化できるはずです。
この研究方法は、後世に生きる我々、レトリックの歴史家にとっては
不可避でもありました。なぜならば、イソクラテス自身は、「レトリッ
ク」という言葉を使用していないという確固たる事実があるからです。
この点の重要性は、しかしながら、欠如が事実=史実であることにとど
まりません。イソクラテスがレトリックという言葉を使わないことは、
彼がレトリックに興味がないことを示すのではありません。レトリック
が記号である限り、この欠如そのものに価値を見出すことができるはず
です。記号としての言葉の意味にはレトリカルな次元がある以上、仮に
イソクラテスがその言葉を使用していたとしても、やはりその言葉を字
義通りには受け取ることはできないはずです。「レトリック」という記
号の欠如は、イソクラテスにとっては、それを「哲学」として構想する
ことに価値を見出した無意識の現前とも考えられます。
しかし、記号的欠如は大きな問題を抱えてもいます。記号は解釈に開
かれているため、勝手に解釈されてしまう可能性が常にあるという問題
です。この問題の重要性を考えることなしに、ポストモダン以後の人文
学の研究はこの先の理論的な発展が望めないのです。「イソクラテス」
という作者の記号もそこには当然含まれます。
拙著の根底には、哲学によってイソクラテスが領有されてしまうこと
は避けねばならないという問題意識があります。それは必ずしも既存の
哲学者の問題ではなく、むしろその領有に手を貸しているのがコミュニ
ケーション研究者やレトリック研究者なのではないかという疑いが払拭
できないのです。とりわけこれ迄レトリックを説得の技術として定義し
てきたアリストテレスの伝統は、哲学者によって無理矢理押し付けられ
てきたのではなく、その定義を鵜呑みにすることで、レトリック研究者
自らがそのヘゲモニーを発動してしまっている可能性があり、この分野
の(ひいては西洋の)歴史がそれを証明しています。自らもその支配の
なかに身を置きつつ、このヘゲモニーに挑戦するのは一筋縄ではいかな
いのです。その批判のための立脚点が拙著でのイソクラテスです。
そもそも、拙著はイソクラテスというテクスト空間からどのような
「レトリック」概念を紡ぎだせるのか、その限界に挑戦しています。イ
ソクラテスという一連のテクストが持つ可能性の中心をレトリックとし
て描き出す試みです。ソフィストやアリストテレスではなく、なぜイソ
クラテス研究なのかという問いは、シェイクスピア研究者になぜエリザ
ベス朝の研究でないのかと問う事と同義であり、シェイクスピア研究が
文学や人文学という制度への学術的貢献がある限り、それは愚問でしょ
う。
以上を射程としつつ、拙著がどのような前提で批判的レトリックを遂
行したのか、拙著ではあえてテクスト化していない(テクスト化できな
い)前提を、ここでは以下3点に絞って発話してみます。
①
②
③
歴史研究とテクスト分析の問題
聴衆と主体構成の問題
教育現場と作者の問題
この3点に争点を絞るなかで、レトリック・ルビの哲学、すなわち「
レトリック
今回お二人の先生に頂戴した批判的コメントで最も重要な点は、拙著
の副題にも含まれる、「哲学」という言葉に「レトリック」というルビ
Page 6
哲学 」への認識論的欠如が、拙著の主張を逆説的に実証していること
を示唆してみたいと思います。
①
歴史研究とテクスト分析の問題
師岡先生は拙著をテクスト分析として読んで下さったように思いま
す。そして、テクスト分析を史実の検証の手続きとして読んでいらっ
しゃるように思えます。
イソクラテスという古代ギリシアに実在した人物を扱う拙著は、1つ
の歴史研究と言えるはずです。確かに歴史は過去を掘り起こす研究課題
でありますが、歴史研究は客観的な史実を実証することだけに限られま
せん。視点を変えてみれば、それは現在から過去を振り返ってみた物語
でもあり、その語りは必ずしも史実と一致しないかもしれないだけでな
く、物語である限り、偏りを伴った特定の位置からの視点を含むはずで
す。史実を研究している歴史家の現在の立ち位置こそがイデオロギー的
な影響を受けているのであり、(史実が古文書というテクストに媒介さ
れているか否かに関わらず)事実として認識される過去は、現在の位置
からそのように見えた過去としてあります。あえて逆説的に言うなら
ば、現在のイデオロギーの影響を受けなければ、過去はそのようには見
えてこないという結論がここに必然的に導きだされます。歴史家は制度
的な教育や文化の中で初めて見える過去のあり方を、史実という実証さ
れた歴史として提示していると言えます。
しかしながら、これをもって歴史はイデオロギーであり虚偽であると
批判するのも拙速です。歴史家は客観的な過去に触れた確証など誰も持
てないことなど既に織り込み済みです。しかし、その上であえて客観的
な姿勢を貫くことを可能にさせている制度や歴史学という知の(言説
の)あり方は、その客観的な認識こそが、中立性や実証性に基づく(長
く西洋的伝統の中で培養されてきた西洋中心主義の)1つのイデオロ
ギーに過ぎない証左となります。認識可能な過去がイデオロギー的であ
るならば、その外側に見出された別の過去も異なるイデオロギーなので
す。そうなると、今度は過去を可視化することができれば何であっても
歴史ということになってしまいます(これが相対主義の陥る不可避な誤
謬です)。これではあらゆる可能性が正しい歴史となり、そこには何の
真理もなくなってしまうことになります(そうなると、例えば歴史修正
主義への批判も不可能となってしまうということです)。
客観的な史実も(あらゆる可能性を認めてしまう)現在から眺めた主
観的な歴史(の物語)も、共にイデオロギー的認識にすぎず、むしろ同
じコインの両面にすぎません。ここで重要なことは、歴史にとっていか
に真理の次元を担保できるのかが問われている点です。史実の客観性で
真理を担保するのも、人種、階級、ジェンダー、国家等のポストモダン
で重要とされる現在の価値を過去に透過して見えてくる新たな史実とな
り得る要素の発見を基準とするのも、どちらも真理を自明のものとして
います。これにより、それらは共に真理の次元を担保することを困難に
させています。
問題は、歴史家や批評家が、自らの認識によって、過去の真理を知る
ことが可能であることを知っているつもりになっているという点であ
り、そこに倫理的な介入の必要性を感じるのです。歴史の真理は想定さ
れるのであり、それは知った瞬間に、露となって消え去り手からこぼれ
落ちるようなもので、知ることができないはずなのです。しかし、同時
に、そこに過去の真理はあったと仮定することも可能なはずです。その
仮定は事実として知りえるのではなく、今の学術的な認識とは異なる他
でもあり得た可能性として存在しています。その可能性を可視化してみ
たいのです。それには、あえて積極的に矛盾した関係の中にイソクラテ
スを置く必要がありました。史実としてのイソクラテスでもなければ、
今の我々が幻想として想像できるイソクラテスでもない、レトリックと
哲学を分節化することで可視化可能となる、当時の言説環境の中で育ま
れたイソクラテスの可能性をいかに想定可能とさせるのか、その読みを
21世紀の<今>で遂行してみたのが拙著です。イソクラテスの真理
は、この認識の彼岸に可視化される(とテクストや現在残された史料、
そしてイソクラテス研究という知の言説から想定できる)対象として、
 
無視することができない、どうしても知りたいと思う何かなのです。
したがって、拙著におけるイソクラテスは1つの可視化可能な記号で
す。しかし、その記号は、ハンプティダンプティが考えるような、どの
ような意味にでもすることが可能な言葉でも、史実として過去に実在し
た人物の代理でもありません。否、客観的には存在したかもしれない
が、今のわれわれには計り知ることもできないあり得た可能性として、
その記号の指示対象は記号の意味内容とは一致することなく存在してい
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
ると想定できます。この想定しえる対象の次元が「イソクラテス」とい
うシニフィアンの運動を駆動させるのです。この意味で、イソクラテス
は存在すると同時に存在しません。実在してはいるが決して知ることは
できず認識することもできないという意味で存在しますが、認識する時
には常にイデオロギー的誤認の中でのみ認識可能であるという意味で存
在しないのが「イソクラテス」という歴史的記号なのです。
この記号としての「イソクラテス」を扱う大前提となるのは、そのテ
クストに表象された「イソクラテス」こそが、記号の対象の次元にアク
セスを可能とさせる不活性な窓(媒体)となっていることにあります。
テクスト抜きで歴史を扱うことができないのは、まさに想定される対象
が、無媒介に存在することができないという事実があるからです。テク
ストは(アンケート調査のように恣意的に設定される言説とは異なり)
歴史上に残された弁論や文書等、対象と主体を媒介する史実の痕跡で
す。テクストという媒介を通じて想定可能となるイソクラテスは、あり
得べきシニフィエとしてテクストの背後に幽霊のごとく張り付き、従来
の(領有された)意味を反復しています。このシニフィエをずらしてみ
たい気持ちにかられるのです。プラトンやアリストテレスという既存の
知との隣接関係の中で認識されるイソクラテスは、そのシニフィエも既
存の知が認識可能な範囲で配置されています。その配置をずらしてみる
ことが、「イソクラテス」の他でもあり得えた認識の可能性とその真理
としての新たな実在=指示対象の偶有性を提示することになります。
この作業は過去の史実に基づいてテクストを解釈することでも、史実
を前提としたテクストの正しさや、その効果によって解釈の効力を担保
するのでもありません。すなわち、俗にいう解釈学的なテクスト理論や
テクスト批評とは、テクストの扱い方やステータスが異なります。確か
に、拙著は1章から4章でイソクラテスのテクストに綿密な分析を施し
ています。しかし、それはテクストの真意を探求した訳ではありません
し、当時のギリシア語の意味内容を特定した訳でもありません。更に、
拙著のテクスト分析は実在した聴衆に向かってコミュニケートされたテ
クストの効果を前提として、その効果を生み出したレトリックの機能を
抽出したのでも決してありません。
そもそも、イソクラテスを扱う際に、もう1つの重要な大前提がある
はずです。それは、イソクラテスが弁論を口頭で発していないという事
実です。イソクラテスの書かれた弁論は、口頭伝達というコミュニケー
ションではありません。書記という当時の新たなメディアは文字という
対象を自己から視覚的に分離し、自己省察と思考を効果として生み出し
ました。文字は新たな思考とコミュニケーションのあり方を創造し、レ
トリックを新たな哲学に押し上げるのに貢献したはずです。イソクラテ
スはその力に乗じて彼のレトリック理論を構築したと考えられるので
す。史実に基づくレトリックの効果を前提としたパブリック・アドレス
や、ターゲット・オーディエンスを考えるアリストテレス主義、更には
アリストテレスとも親和性の高いテクスト批評の前提からイソクラテス
を読むことは、イソクラテスの持つ可能性を大幅に狭めてしまうことに
なるでしょう。
テクスト分析について付言するならば、それは、字義に基づく1つ1
つの単語のペダンティックな語源や同時代の間テクスト性に基づいて意
味を探る文献学的手法だけでなく、テクスト全体をくまなく引用しつつ
換骨奪胎して、理論を構築する為の材料を提供する方法論にもなりま
す。この考え方は、シュライアーマッハーからガダマーに至る解釈学的
な手法として確立されたテクスト理論の範疇には収まりません。この方
法論によって議論の発見(invention)をするのであり、その分析から理
論的批判を展開させるバックボーンとなります。ここに、(本来不可能
ではあるが、可能な限り首尾一貫していると、とりあえず想定されう
る)テクストの配置(disposition)によって、新たなトポスの発見を可
能にさせる読みのレトリックが発揮されるのです。
② 聴衆と主体構成の問題
スピーチの場での主体構成について、三熊先生のご質問がありました
が、ここでの省察が小生のお答えとなります。三熊先生から、演説を単
なる口頭発表の場とするのではなく、「祭り」の一部として考えるとい
う主旨のご発言がございました。祭りの重要性が1つのレトリック空間
としてあるということだと存じますが、その場合には、話者が話す以前
にその舞台がひとつの危急(exigency)であるとしたビッツアーによる
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レトリック空間(rhetorical situation)の定義に即しているのだろうとお
見受けします。
三熊先生は空間性の中で初めて立ち上がる演説の意義を認めていらっ
しゃいますが、そこには別の問題も見え隠れします。ビッツアーのレト
リック空間は、話者とは関係なく生じる(例えば戦争のような)現実的
危急であり、その危急に応える形で演説が発されるという構図で捉えて
おり、あまりに現実主義に即している為、話者がレトリック空間を構成
する機会はほとんどありません。アリストテレス主義者のビッツアーに
従うならば、レトリックが行使される場や機会を持ち得るのが、そもそ
も発話の機会が与えられた特権的な話者に限定されるだけでなく、その
機会は現実的な空間の問題(例えば、国民に向かって発言する大統領の
ように)に矮小化されてしまい、その物理的空間に実在する説得対象と
しての聴衆が既に存在することになります。この場合、主体構成の必要
性はさほど重要ではなく、その場面は聴衆をレトリック空間として考察
する重要性が削がれてしまいかねません。
拙著の1章で論じた様に、説得という概念そのものをとりあえず括弧
に入れない限り、主体構成の場面を前景化することは難しいのではない
かと感じます。そもそも、イソクラテスの演説に説得の効果などなかっ
たのであり、説得という目的を自らが否定している訳です。更に、『民
族祭典演説』は、好機に発された発話というよりも、好機そのものを産
出するテクストとして、主体の構成をしていく差延の運動そのもので
す。この運動を考慮に入れない限り、聴衆の問題を考えることは難しい
はずです。
拙著の主題の1つは、政治的市民はいかなる条件の下で可能となるか
を考えることであり、それにはいかなるレトリックが有益であるかを志
向しています。拙著はイソクラテスにその答えを求めている訳ですが、
そのスタンスは表象や記号一般の問題として考え直す事で可能となる
「イソクラテス」という記号を差延として考えるものです。差延は同一
性を常に先送りする時間的延期に基づいています。この延期がある故
に、世界には差異しか存在せず、記号は絶えず繰り延べられる何かの痕
跡にすぎないのです。すなわち「イソクラテス」は、アリストテレスや
   
ソフィストではないという差異の運動の痕跡にすぎません。どのように
痕跡を残せるのかは分節化の仕方によって変わってくるし、領有されな
いようにいかに先延べるのかが問題なのです。
同様に、『民族祭典演説』で構成される同一性としての「アテネ」
は、記号の運動としての差延、すなわち「スパルタ」、「ヘレネス」、
「ペルシア」との差異化の痕跡です。構成された主体としてのアテネ人
やスパルタ人は、同時にヘレネスと呼ばれるギリシア人でもあります。
この二重性は単にヘレネスからスパルタを外部に差異化した結果生じた
のではありません。もし(差延ではなく)単なる差異が問題であれば、
ヘレネスとペルシアの本質的な差異によって、アテネとスパルタを同一
にすれば良いはずです。しかし実際には、イソクラテスはアテネとスパ
ルタとの差異を(同一性と同様に)更に導入します。これにより、ヘレ
ネスは永遠に同一性など持てない主体となります。これこそが主体の本
来の矛盾したあり方なのです。そこでは、スパルタが共通性を持つペル
シアとは異なると同時に、共通した歴史を持つアテネとの隣接性によっ
て、ヘレネスの一部に組み込まれます。同時に、アテネはライバルのス
パルタをヘレネスの一部として承認することで、過去の栄光を捨て去
り、新たなヘレネスの一部として、自らの位置を引き受けることができ
るように構成されます。この差延によって、アテネの精神分析とも呼べ
るレトリカルな空間が開かれるのです。拙著は差延を利用したアテネの
主体構成の分析なのです。
③ 教育現場と作者の問題— — 『ニコクレスに与う』の教育現場
三熊先生のコメントで首尾一貫しているのは、演説における主体構成
の重要性と、教育現場での応用の可能性の2点です。主体構成について
は既に述べたので、教育現場との連関性を考えてみたいと思います。
「現場にいる者が『祭りのお膳立て』を考える必要」があるというご発
言に、イソクラテス的な教育の機会を感じます。教育機会としての熟考
がスピーチ作成の段階にあることは、熟慮の段階に機会があるのかもし
れません。
しかしながら、イソクラテスにとっての熟考は、別の次元にあるよう
に感じます。イソクラテスにとっての教育現場が、どのような意味で倫
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理的であったのかを示すことで、コメントに応答してみたいと思いま
す。その現場の実例は、イソクラテスが王に助言を与える『ニコクレス
に与う』を分析した3章にあります。
実際に、3章の『ニコクレスに与う』の分析を提示する前に、我々が
記号の次元で言葉や文化を学ぶことの意味について簡単に触れておきま
しょう。例えば、1歳半の幼児に母親が言葉を教えるとき、その母親は
子供に一種の翻訳作業を教えていると考えられます(i)。言語や文化の習
得はもともと言葉で言い表せない感情や思考等を言語システムに付随す
るジェスチャーなどの記号に翻訳することから始まるのです。母親は子
供に言葉そのものではなく、自分が何をしたいのか、何をしてもらいた
いのか等を伝えるやり方、すなわちコミュニケーションを教えていると
考えられます。子供は感情、気持ち、欲望などを、身振りや仕草など、
言語システムに付随するジェスチャーの体系の中で了解可能な仕方で表
現しなければ、他者(この場合母親)に理解してもらう事ができず、し
たがって自分の欲望を満たす事はできないだけでなく、不必要なパニッ
ク状態に陥ることになるでしょう。それを避けるため、幼児は自分に
とって理解不可能な、いわば「外国語」でしかない言語を受け入れるこ
とを強いられる訳です。
ここにあるのは1つのパラドクスです。つまり子供は自分には全く他
なるものでしかない言語というシステムに自らを委ねなければ、自分で
あることができないというパラドクスなのです。これは主体構成のパラ
ドクスであり、そこでは自己同一性への他者の不可避的侵入が主体の成
立条件となっています。究極的には同一化できないのですが、同一化す
るしかないのが習得すべき異物としての言語です。本当の意味で言語を
しっかり身につけるとは、ある言語と一体化するという意味となります
が、我々が幼児期に行っているのはそもそも外国語のような異物を翻訳
しつつ取り込むことです。母語と言われる自国の言葉の取得でさえも、
翻訳の仕方の習得そのものなのです。それは自己の外部に自らの身を委
ねることであり、その外部の力によって、自らを他なるものへと変容さ
せることです。このように、翻訳によって可能となる自己と言語のパラ
ドキシカルな関係は、あらゆる実際的経験に先立つアプリオリな関係を
保っています。
このアプリオリな翻訳の問題は言語習得という教育の場面に限られた
ことではありません。あらゆる教育の場面においては、教える教師側
(母親)が教わる学生側(子供)を、このパラドキシカルな関係におか
なければ真の教育が困難となります。文化の習得にはその規範を教える
事が必要でしょうが、それは文化を知識として教えるのではなく、教え
る側の欲望を真理として知ってもらうことが必要なのです。その場面
は、イソクラテスがニコクレスに助言を与え、それが伝達される瞬間に
あります。
ニコクレスが教育されるには、イソクラテスの助言を自
らのものとすることが不可欠である。それは、助言の真
実性を受け入れることである。しかし、助言が真実であ
るかどうかは、ニコクレスには確認の仕様がない。助言
の内容が正しいか否かを予め判断する認識があれば、助
言そのものが必要とされない。イソクラテスの真実の語
りが義務であるのは、助言の内容が真理だからではな
く、義務である真理の語りを遂行するイソクラテスの行
為に真理があるからである。率直な語りをあえて君主に
与えるイソクラテスは、それを自らの義務として引き受
けていることがニコクレスに理解されなければならな
い。
真実性を受け入れるには、助言を他人事ではなく、自
らの問題として引き受ける契機が必要だ。他者の助言が
まさに自分の為にあることを納得し、それを自らの問題
として引き受けて始めて助言の真実性は理解される。イ
ソクラテスの語りが真理であると理解するとき、ニコク
レスが自らをイソクラテスに委ねる瞬間がある。イソク
ラテスが真理を語る義務があることをニコクレスが知っ
た時、始めてニコクレスの魂は導かれ教育される。
他者としてのイソクラテスによる介入の困難は、ニコ
クレスが助言を再帰的に反省し、遂行的なメタの次元に
ある語りの真実に到達する瞬間に解消される。パレーシ
アが行使される時、主体は自分自身を言表や言表行為、
そしてそれがもたらす結果に結びつけている。ニコクレ
スが君主としての自らのあり方を変容させ、哲学を修得
した君主として自らの主体を決定できるのは、彼自らを
イソクラテスの一部とする、助言の我有化の作業の過程
を通してである。主体が言表を生み出す時、語る者とし
ての自らのあり方を変容させる再帰的な遡及効果が働
く。その時、
「ニコクレス」と「ニコクレスに与う」は、
まさに彼の主体を構成する演説という出来事になる。し
かし、それはニコクレス本人が助言に身を委ねるか否か
にかかっている。(ii)
規範は汎用性があるが故に、主体自らが我有化(appropriate)しなけれ
ばならない訳ですが、それは勝手に規範を解釈することでは決してあり
ません。むしろ、助言の真理に到達するために、外在的な規範を自らの
ものとして我有化するのであって、ニコクレスが自らを上手くイソクラ
テスに委ねてその欲望に気づくこともあれば、失敗することも当然あり
ます。その失敗の次元こそが担保されなければなりません。
したがって、イソクラテスの行為が教育であるならば、それは教わる
側の子供の意見を尊重したり、自由な意見を彼らに発言させることでは
ありません。イソクラテスの教育は、発言であれば何でも等しく価値が
あるという相対主義とは対極にある考えです。翻訳不可能な自らの思考
を、自分の言葉ではなく、他者である教師の言葉に置き換えるという行
為の遂行によって(実際には言葉は完全には置換されはしないし、一致
しないのですが)、学生は初めて規範を知ることができるようになりま
す。教師が考えていることを知ることは、それを考えることそれ自体に
意義があるのではなく、失敗を繰り返す中で、想定された真理に到達す
ることのはずです。人を殺すことが正しいと考えれば正しい訳ではない
様に、自分の頭で考えれば何でも良いという訳ではないのは容易に理解
できるはずです。思考そのものに価値がある訳ではないのです。
では、思考の真価はどこにあるのでしょうか。それは正しいことを思
考できることではありません。むしろ、様々な思考を巡らす中で、思い
込みによる間違いに気づくことです。しかし、この場合には、学生が分
からないからといって、答えを直接教えることは有効ではないし、各個
人が考えた事には価値があるという相対主義に基づいて評価するのでも
学生は何も学ばないでしょう。助言者が間違いを受入れないという忍耐
強い姿勢が重要となります。その姿勢が学生に転移することができれ
ば、助言は成功するでしょう。教員が学生の顔色を伺ったり、迎合を気
遣いと勘違いしたりすれば、間違っていても良いという学生の誤った考
えを助長させることになるでしょう。転移を成功させるには、学生が自
らの力で真理に気づくことができるように外堀を埋めて演繹させる遠回
しな方法を考えるのも有効かもしれません。
しかしながら、そうはいっても、転移が上手くいかないことが多々あ
ることも事実です。以前、帝塚山大学の北本晃治先生に拙著のコメント
を頂戴したことがありましたが、その際北本先生から3章の意義をご指
摘頂きました。北本先生のご専門である精神分析の視点からは、3章が
分析の重要な局面を示していると仰っていました。それは、叱るという
教育にとって重要な好機です。精神分析では、単に患者を肯定するだけ
でなく、いざという時に叱ることも必要です。最も重要な好機を見計
らって厳格に対応することが分析医の腕の見せ所とのことです。叱る際
には、当然「率直に発言すること」、すなわちパレーシアが肝心となり
ます。これによって、患者は一瞬分析医の真の姿を垣間みることにな
り、分析医が患者と真剣に向き合っていることを確信できるのです。こ
こで患者が分析医という他者と出会います。
拙著で考えたかったことは、倫理としての哲学=レトリックであり、
表象、もしくは記号としての他者との関係をどのように把握することが
倫理的であるかを考えてみたかったのです。そこでは、他者はいかに表
象可能であるかについての熟考がなされています。それは、どのような
言葉を使えば良いかというような、単なる語りの倫理ではありません。
換言するならば、我々はイソクラテスといかに倫理的な邂逅ができる
のか、という問いです。それは、我々がイソクラテスという作者とどの
ように出会うのかということです。それには、作者とは何かを今こそ考
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
え直す必要があると強く感じます。
ポストモダンの1つの潮流でもあった、「作者の死」という言葉の流
布は、1990年代以降の理論的展開においては既に終わった話題であ
ることは皆様ご存じの通りです。
「作者の死」の要点を述べるならば、
次のようになります。無意識や文化的前意識の存在が前提となったこと
で、言語は不透明なものとなりました。同時に、不安定で変容する主体
によって生産される知識は、西洋の啓蒙主義の伝統に則った超越論的か
つ普遍的で客観的に固定されえる実証的な知識ではありえません。知は
政治性が必然的に伴う諸形式の解釈となったはずです。これにより、歴
史解釈が認識論的な正しさを根拠とすることに終焉が訪れました。普遍
性へのアピールとしての真理ではなく、
(普遍を装う西洋の)知が局在
的(local)な諸形式の1つとして定義されるのです。
しかし、この新たな理論的局面では、不安定な主体のあり方を指摘す
るだけでは不十分なのです。この主体(死んだ作者)とは何かというこ
とこそが理論的に論じられる必要があります。この問題をアーネスト・
ラクラウが主体の「2度目の死(second death)
」として次のように論じ
ています。
Thus once objectivism disappeared as an “epistemological obstacle,” it became possible to develop the full implications of
the “death of the subject.” At this point, the latter showed
the secret poison that inhabited it, the possibility of a second
death, “the death of the death of the subject,” the
reemergence of the subject as a result of its own death; the
proliferation of concrete finitudes whose limitations are the
source of their strength; the realization that there can be
“subjects” because the gap that “the subject” was supposed to bridge is actually unbridgeable. (iii)
現在の理論は、「
『作者の死』の死後(after the death of “the death
of the author”
)」(iv)の段階に移っています。「
『作者の死』の死後」にお
いては、作者が再登場するということです。ただし、
「『作者の死』の死
後」に登場する作者は、作家の意図や超越論的主体ではありません。作
者は作者機能やエージェンシーという形によって再登場するのです。作
者は真理の代替です。作者がいなくなったからと言って作者そのものが
消えた訳ではなく、それはエージェンシーとして残っています。それが
真理と一緒のステータスにあります。
エージェンシーとしての作者は梃子の様な力を発揮します。梃子とし
てのエージェンシーは、支点の位置の置き方によって力点と作用点の関
係が変わります。関係性を決定する支点は、(解釈者が勝手に持ち込む
視点ではなく)テクストに規定される限りにおいて、その空間内で無限
に位置付けられています。作者がエージェンシーであるならば、その位
置を決めるのが(言及の欠如を含む)テクストであり、その位置は多様
となります。
「『作者の死』の死後」において、絶対的な真理は想定でき
なくなりましたが、しかし、真理はエージェンシーの位置にあるので
す。 この意味でエージェンシーとしてイソクラテスを理論化する試み
が拙著と言えます。
応答せずにすめばありがたかったのですが、以上で拙著に頂戴したコ
メントへの応答とさせて頂きます。
脚注
i)
翻訳と言語、そして教育の関係については、以下を参照。若森
栄樹「文化の翻訳と『物語』の問題」『文化の翻訳 報告書』
(獨協大学外国語学研究科 2011年)35-36頁.
レトリック
ii)
柿田秀樹『倫理のパフォーマンス イソクラテスの 哲学 と民主
主義批判』(彩流社 2012年)169-170頁.
iii) Ernesto Laclau, “Universalism, Particularism, and the Question of
Identity,” in The Identity in Question, ed. John Rajchman (New
York: Routledge, 1995), 94.
iv) Keith Moxey, The Practice of Persuasion: Paradox & Power in Art
History (Cornell UP, 2001), 124-142.
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宮崎新(名古屋外国語大学)
合評会セッション②
「日高勝之著
『昭和ノスタルジアとは何か』
(世界思想社)を読む」
応答者:日高勝之先生
(立命館大学)
今回の支部大会(2014年12月20日、於 愛知淑徳大学)、二つ目の合評会セッションは、「日高勝之著『昭和ノスタ
ルジアとは何か』(世界思想社)を読む」と題し、福本明子先生(愛知淑徳大学)と藤巻光浩先生(静岡県立大学)が討
論者として、大会開催時には在外研究で英国(ロンドン)に滞在中の日高勝之先生(立命館大学)とをSkype中継で結び
ながらのセッションとなりました。セッション開始時には多少の機材トラブルにも見舞われたり、対面の発表とは異なっ
た雰囲気での難しさ(そして、独特の楽しい緊張感)もある中でしたが、日高先生には(現地時刻で)5時という早朝か
ら日本の会場と活発な議論を交わして頂きました。
まずは福本先生より、この大著に対する4つの貢献が述べられました(詳細は「書評」をご覧ください)。その中でも
特に、続く藤巻先生からのコメントにも共通するように、いかにこれだけの「分厚い」内容を読み手に読みやすく、分か
りやすく、それでいて緻密で網羅的な分析がなされていることから生まれてくる関連分野研究に携わる人間への恩恵な
ど、本書の学術的・教育的意義が述べられました。また、セッションの中で福本先生より提示された、ジェンダーの視点
から批判的に本著の分析対象を見た際に見えてくる今後の課題点に関しては、日高先生もさらに考察を進める余地ありと
お認めになられた点でもあり、さまざまな発見の生まれる非常に有意義なディスカッションとなりました。
やり取りの中で伝わってきたのは、取り上げられたメディア(多数の映画作品や、いわゆる大ヒット番組の「プロジェ
クトXー挑戦者たちー」)の身近さからも福本・藤巻両先生が述べられたように、批判的アプローチへの教育的導入の架
け橋にもなる要素が多い点などに対して先生方の期待も大きかったように感じられました。短い時間ではありましたが質
疑応答も活発に行われ、盛況のうちに終了となりました。
90分という短いSkypeによるセッションのため、通常ならば、発表後に雑談の中でさらに質問をしたり掘り下げてお
話をするような機会が今回はなかったので、自分が先生に伺いたかった質問の一つを勝手ながらこちらでしたいと思いま
す。プロジェクトXの東京タワー建設に携わった2人の「技術者」を扱った放送を、さまざまな角度から批判的に分析
し、いかに東京タワー建設時には実際には東京タワーが忌み嫌われる存在であり、今のような「象徴」としての意味合い
は存在していなかったか、この第5章はそれだけでも読み応えがあり、ある種の緊迫感があります。その緊迫感を増すも
のが、当時の番組プロデューサーを取り巻く状況を非常に深くまで掘り下げ、その一個人の思惑と「東京タワー」という
「象徴」が番組を通じて作り上げられた背景を分析していく点だったのですが、先生ご自身もNHKの報道局ディレクター
という経歴をお持ちであり、エソノグラフィを研究手法にする自分にとっては、この時の日高先生ご自身が研究対象とし
てのテクスト、またそれに関連する「他者」にどのような姿勢で向かっていたのか、ややもすればただの野次馬根性のよ
うな質問に陥りかねない危険性も自覚しながら、お考えを伺ってみたいと思いました。
今回のセッションではこのようなSkype中継がゆえのイレギュラーな部分も含ま
れたため、全体として「もっともっと」という後ろ髪を引かれるような点もあり
ましたが、引き続きの議論を大いに期待しております。日高先生、お忙しいな
か、さらには国外・早朝からの中継参加どうもありがとうございました。
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福本明子(愛知淑徳大学)
セッションへの所感や当日の裏話などを書かせていただき
ます。
まずは、Skype中継についてです。会場校として環境を整
える必要があったものの、私自身がSkypeを使用したことがな
く、自分のパソコンで使えるのか?!から準備がはじまりまし
た。しかもこのSkype中継について藤巻支部長からうかがった
のが、かなり時期も遅かったような…。お願いしやすい平田
先生に頼み込み、夜子供をほったらかしにしてSkypeをつなげ
るものの、こちら側の声が届かないと。焦りました。PCをい
じりなおして、音声が出るようになり、やっと無事に平田先
生とつながったのが11月下旬。日高先生と打ち合わせをして
自宅でつなげて、子供を紹介しあい、接続の確認がとれたの
が12月に入っていたような…。支部大会の1週間前に念のた
めと、大学で接続テストをしてみると、うちの大学ではセ
キュリティーの関係上、学内LANから接続できないというこ
とが発覚(汗)。たまたまその時、別件で同じ教室におられ
た学部の先生に助けを求め、スマホのテザリング機能を使用
するとつながることを発見。なんと自宅でくつろぎモードの
平田先生は耳付き帽子をかぶっている姿で、教室内にいた学
生と「声聞こえますか?」と突如やり取りをすることに…。↗
↘るので、CAJ中部の年次大会参加者がアマゾンで購入した
か、検索をかけたか、その影響力?!の大きさに興味深かった
です。裏を知らずにページを見た方は、「イソクラテスと昭
和ノスタルジーの関係性」についてさぞ考え込まれているこ
とでしょう?!どなたかCAJの方が本を出されたら、お呼びし
て、再度この現象を起こしてみたいと思いました!情報化社
会の付きまとわれるマーケティングに対する撹乱作戦を決行
ということで!オーディエンスとして学びを得た現象でし
た。
最後は、『プロジェクトX―挑戦者たち―』の日高先生の
読みです。ショックでした。曲がりなりにもビジネス学部に
籍を置いているので、ビジネス系のネタを仕入れねば…と、
『プロジェクトX』のDVDを見ていた時期がありました。基
本、物語が好きなのでしょうね、私は。違和感なく、DVDを
個人の活躍の歴史だと信じていました。そこに表象やイメー
ジの「節合」を「敵対性」という観点から再構築し、番組
ディレクターの人生なども入れ込み分析すると、こう読むの
か!と。日高先生の経歴だからこそアクセスのある情報と、
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
↘しかし私はスマホを持っておらず、支部運営委員の先生方に
助けを求めるも、スマホをお持ちでないか、テザリング機能
のないスマホをおもち、という返信が。どうしよう…(汗)
スマホに買い替えるか?!とまで真剣に考えていたとき、藤巻
先生が、Wi-Fiルーターありますよ、それでつなぎましょう~
とメールが。天からの声のようでした。当日のセッション中
には、映像と声を出そうとすると、画面が止まる現象が発
生…(汗)。Skypeに詳しい方が多かったレトリック研究会の
先生方から「画像を消せばよいよ。」とアドバイスもいただ
き、必要に応じて日高先生の画像と音声を切り替えて何とか
無事にセッションを実施できました。多くの方にお手伝いい
ただき、ドキドキのセッションでしたが、支部大会でできる
ことの幅が広がる良い機会でした。
次は、アマゾンと日高先生の本についてです。セッション
当日、日高先生から「アマゾンの『昭和ノスタルジアとは何
か』のページを開くと、『よく一緒に購入されている商品』
として、柿田先生のご著書『倫理のパフォーマンス』が上
がっています」と聞き、会場中が大爆笑でした。この所感を
書いている3月の時点でも、日高先生または柿田先生のご著
書のページをアマゾンで開くと、そのような表示となってい↙
広い目配りと、鋭い分析に感嘆するとともに、メディアリテ
ラシーだとか授業で話しているのに、NHKの番組だからと、
フレーミングについてあまりにも意識できていなかった自分
を深く反省しました。と同時に、物語なのだから、それでも
いいのでないか、組織が優先され、個が埋もれていた時代だ
からこそ視聴者は個人の活躍の物語が見たくて、見せたい製
作者側と見たい視聴者側のニーズがマッチし、他に癒しや慰
めの手段がない中で、オーディエンスの希望だったのではな
いだろうかとも。自分でももやもやした気持ちでした。テレ
ビ局やテレビ番組の役割について考え込んでしまったのでし
た。
総じて、刺激的で、時間がもっとあれば、
日 高 先 生 が こ こ に お ら れ た ら、更 に 盛 り 上
がったであろうセッションでした。非常に勉
強になりました。ご著者の日高先生、企画の
藤巻先生、有難うございました。
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平田亜紀(愛知淑徳大学)
はじめに
池上重弘先生をお招きし「在日ブラジル人の四半世紀~地域
課題として、地域資源として~」と題して、静岡県浜松市に在
住する第二世代にあたる在日ブラジル人の子ども達(以降「移
住第二世代」)の現状とそこに秘められた可能性について講演
をしていただいた。
実践的な多文化共生や地域介入を専門としていない会員への
配慮がありつつも、文化人類学者でおられる池上先生の地域社
会に向けられる深く鋭いまなざしの一端を学べる講演であっ
た。ここでは密度の高かった今回の基調講演を、池上先生のHP
上で入手できた資料の助けを借りつつ、欠席した会員にも全体
象がつかめるよう努めたい。
基調講演
池上重弘先生
(静岡文化芸術大学)
「在日ブラジル人の四半世紀
~地域課題として、地域資源として~」
にみる人のつながりと実践的研究の在りかた
日本に在住する「外国人」を取り巻く現状―「前提となる外国
人の動向」と「多文化共生をめぐる課題群」
1990年の改訂入管法施行以来順調に伸びた在留外国人数は、
リーマンショックや続く東日本大震災の影響で減少したもの
の、それでも200万人超に上る。一般永住者、特別永住者や日本
の配偶者等とともに地域社会の担い手として定住志向のある者
(実質的に「移民」と呼べる者)は、全体の3分の2を占め
る。静岡県浜松市の場合、市人口約81万人に対して外国人が約2
万1千人。ブラジル人はピーク時の6割ぐらいで、フィリピン人
が増え始めている(1)。
上の統計は次のような様相となる。90年代に移住してきた第
一世代は容姿こそ日本人だが言語や習慣などの内面は社会化さ
れた国(ブラジル)の人々であった。それがリーマンショック
以降は、日本語能力が比較的高く先の見通しがきく人々へと変
化する。しかし必ずしも知識層に限定されず、例えば静岡文化
芸術大学を例にとると、入学者してくる移住第二世の家庭は教
育に関心の高い工場労働者が多い。
労働環境や社会保障、地域生活への不安など多くの課題と向
き合いながら在日外国人たちは生活している。とくに移住第二
世代である子どもたちは日本で社会化され日本文化を継承する
にもかかわらず、周囲の大人たちが当たり前のように彼らの
ルーツとなる国の習慣を継承していると期待し接することに心
を痛めている。また彼らにとって親(移住第一世代)の言葉は
必ずしも母語ではなくヘリテージランゲージ(heritage language、継承語)でしかない場合もある。なかでも、生活言語は
可能であるものの年齢相応の高次で抽象的な思考を要する学習
言語がままならないダブルリミテッド(double limited)という問
題を抱えている子どもたちも少なからずいる。そんな彼らが親
となり子育てをする世代へと成長していることから、対策を講
じる必要がある。
池上先生の御活動の1つである「第5回多文化子ども教育
フォーラム~当事者学生が物申す~」(2)では、進学に対する身近
な大人の影響力の強さが報告され、「絵本プロジェクト」の聞
き取り調査からは、第二世代の子ども達が将来への不確実さや
不安を感じている点や、第一世代の保護者が「宿題を見てあげ
られない」ことを不安として抱えている点などが浮かび上がっ
た(3)。また、保護者が日本の教育制度をよく理解していない点も
浮き彫りにされ、第二世代を取り巻く教育の課題の輪郭が明ら
かにされた。
実践、介入研究と地域への関わりについて―「静岡文化芸術大
学における2012年までの展開」と「2013年度の「多文化環境に
生きる子どもの教育達成支援策をめぐる研究」」
池上先生は、浜松市という在日ブラジル人の多い土地柄に着
眼した実践を数多く行っている。2008年度には「ブラジルの中
の日本・日本の中のブラジル」、2011年度と12年度には交流支
援と学習支援を体系化させた『文化をつなぐ橋づくり~学生に
よる実践の試み~』が行われた。また12年度は日本からブラジ
ルへ移住した人々が日本文化として発信している「ブラジルよ
さこいソーラン」の発表も行われている。そして同年以降定期
的に開催されている「多文化子どもフォーラム」は、会場を飛
び出し各家庭へ入り込む「絵本プロジェクト」へと繋がる。こ
の「絵本プロジェクト」についてもう少し丁寧に紹介したい。
この企画では、日本への小学校就学にあたって必要とされる基
本情報が記載されたバイリンガル絵本を配布しつつ、訪問面接
調査を承諾してくれた家庭では子どもの教育に対する姿勢の聞
き取りが行われた。日本語とポルトガル語の両言語を使用し愛
らしく柔らかな色彩でまとめられた絵本は、親子で囲みながら
コミュニケーションを取りつつ学ぶことが想定されており、就
学へ前向きな気持ちを育ててもらうように配慮されている。
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浜松市教育委員会の協力を得て市内の全小学校と学区によって
は各家庭へ配布された実績をもつ1。この、ユニバーサルデザイ
ンを実現する試み(あるいは「ユニバーサル絵本」)は第二世
代学生たちを多くの場面で起用している。そこには「ロールモ
デルのデリバリー」という意図があり、一般的に想像される資
料作成や聞き取り調査以上の意味合いが込められていた。地域
帰る場所が必要だ。しかし奴隷制度によってアフリカからアメ
リカへ連れてこられた人々の例が示すように、ブラジルを帰る
場所とするには彼らはあまりに遠いところまできてしまってい
る。さりとて日本を「私の国」と呼ぶとき、周囲から得られる
承認がそれを成立しづらいものにさせている。だからこそ池上
先生が御活動に在日学生たちを登用することには大きな意味が
でいきる在日外国人には同じ立場にいる学生の体験談が重宝さ
れ、学生自身には他者への貢献という体験を通して自身が社会
的貢献の可能な存在であるという価値を見出すエンパワメント
という教育的側面もあった。上にあるように、池上先生の御活
動は介入研究であると同時に学生教育としての側面もあること
がその特徴としてあげられる。
ある。守られた身分のうちから地域社会へ自分の力を分け与え
る体験は、その時々で何語を話していても、彼らが愛着をもっ
て浜松を故郷と呼ぶ日への道筋が描かれているのだから。
ご講演終了後、二点ほど、子ども達の間でいじめが発生して
いる件と子ども達の親(第一世代)の現状についてもう少し詳
しくお話を伺いたかった。とくに親たちの現状を伝えるなかで
出た「宿題を見てあげられない」という言葉の裏には、単に日
本語能力の壁があるという以上のメッセージ性があるように感
地域介入型の研究とは―「むすびにかえて―実践的研究と成果
の還元―」
研究の還元方法は一般的に考えられる手法に加えて、在日ブ
ラジル人を対象としている池上先生の場合、バイリンガル報告
書や在学生によって発信されるバイリンガル報告会を重要視さ
れている。地域への介入活動が行われ、その成果を地域の人々
が理解できるような言語や表現で届けるところにその意義があ
る。
まとめ、それから所感。
浜松に定住する外国人の子ども達が輝いて生きているお話に
深い感銘を受けた。特にそれが個人の資源をすり減りへらし日
本経済に都合の良い部分だけを搾取された末の輝きではなく、
地域の中で育った輝きである点が素晴らしい。池上先生が「プ
ロデュース」されているものは、ひとびとがコミュニケーショ
ンから得られる資源(ソーシャルキャピタル)を蓄える機会そ
のものであるといえよう。
御活動はnothing about with without usを連想させるが、池上先
生のそれはさらに一歩さきを行っている。特定の住人の直面す
る課題に焦点を当てつつも地域社会全体の柔軟性を求める点や
活動に関わる学生の意識に変化をもたらす点において、その影
響力は関わる者すべての意識に変革をもたらし、より包括的で
愛情深い。
両親の母語が第二世代にとってheritage languageであるとのご
指摘が、新鮮な驚きでもって私の中に響いた。親との会話も困
じた。わが子が目の前で日本の宿題に取り組む姿を見て漏らさ
れたこの言葉は、日本社会で成功するための努力と歓迎しつつ
も自分たちが親から大切だと授けられたもの(文化)の継承を
絶つ姿の象徴ととることもでき、その複雑な心情が吐露されて
いるのではないかと行間を探ってしまう。文化人類学者として
の目をもつ池上先生はこれらにどのような構造因子を(そのよ
うなものがあるのならば、だが)ご覧になったのだろう。
池上先生、お忙しいなかご講演有り難うございました。
参考文献
1: 池上重弘.2014.「浜松市における多文化子ども教育
フォーラムとバイリンガル絵本プロジェクト」『国際人
流』27(6):4-11
http://wwwt.suac.ac.jp/~ikegami/
pdf/140605_kokusaijinryu_2014_06_ikegami.pdf
2: 池上重弘.2014.「SUAC多文化プロジェクトシンポジ
ウム 文化をつなぐ橋づくり―学生による実践の試み」
報告書.
http://id.nii.ac.jp/1132/00000921/
3: 上田ナンシー直美.2014.「「バイリンガル絵本プロ
ジェクト」から見えてきたもの~ブラジル人学生による
ブラジル人児童家庭訪問調査報告~」(パワーポイント
スライド).http://wwwt.suac.ac.jp/~ikegami/pdf/
fice/140614_fice08_nancy_presentation.pdf
難になるだろうし、形容しやすい自分の母国やアイデンティ
ティと言ったものがないことも意味するのではないか。人には
CAJ 中部支部
CAJ
中部支部 ニューズレター第5号
ニューズレター第5号
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2014年のCAJ第44回年次大会は沖縄の琉球大学で開催
され、この大会のテーマは「コミュニケーションと平和」
でした。講演会の講師は津田塾大学名誉教授のダグラス・
ラミス先生で、その後のシンポジウムのパネリストも務め
られました。藤巻先生と私がパネリストとなり(なんと、
中部支部から登壇2名!)、立教大学の師岡先生の司会の
もと、シンポジウムが進んでいました。しかし、講演の後
半からラミス先生のご様子がおかしく、その後のシンポジ
ウムではパネリストの発言までは聞かれていたものの、ご
体調が回復せず、シンポジウム半ばでご退席されました。
ご様子について心配しておりましたが、翌朝のメールで当
日の夜には体調が回復したことをご連絡いただき安心しま
した。そのメールには、シンポジウムに残っていればパネ
リストへのコメントとして発言しようとお考えだった内容
が手短に書かれていました。中部支部はNLなるものがあ
るので、どのようなコメントをいただいたのか「CAJ年次
大会 学術シンポジウム・続編」として、福本の部分だけ
ご紹介させていただきます(藤巻先生の部分は、後日論文
にまとめられるそうです。福本もその真似をしてみたいと
思い、今回は簡単にご紹介を。)。↙
CAJ年次大会
学術シンポジウム
~続編~
シンポジウムの後半で、「平和という言葉自体が、何か
がないという『欠如の状態』で定義されていて良いのか、
前向きな定義はないのか。」という内容の質問を会場から
受けたが、ラミス先生の今回のご指摘を踏まえると、言葉
だけ前向きにし、積極的なイメージを作り上げても、手段
を問わない場合には「正しい戦争」が正当化されてしまう
福本明子(愛知淑徳大学)
↘私の発言と関連して、ラミス先生がお話しされたかっ
たのは、自民党の「『積極的平和』の『うまい』使い方」
についてでした(ラミス、2014、私信にて)。ラミス先
生は、Galtung(ガルトゥング)の「平和」の定義を、自
民党が言葉をそのままに用いてはいるが、意味は真逆で、
まるでイギリスの作家ジョージ・オーウェルの作品
「1984年」で描かれているように「戦争は平和なり」そ
のままであることを指摘されていました。
このご指摘を補足すると、平和研究の祖として著名な
Johan Galtungは、「平和」を「positive peace」と
「negative peace」として定義を意図的に分けており、前
者は調和、正義、公正などの望ましい心や社会の状態が同
時に豊かに存在する状態で、平和的な手段でこれらが達成
されている状況を指すが、その反対に後者は、戦争や他の
手段による広範な暴力的なもめごとがない状態を指し、必
ずしも平和的な手段で達成されるわけではない状況を指す
という(Barash & Webel, 2014; Grewal, 2003)。即ち、ラ
ミス先生は、安倍首相が2013年に策定し国家安全保障戦
略(NSS)の基本理念として進めている「積極的平和主
義」(北岡、2015)は、言葉はそのままだが、意味的に
はむしろGaltungの「negative peace」(消極的平和)に相
当するとの指摘であった。↗
Page 26
ことになる。Galtungはその危険性をすでに想定してお
り、積極的に「平和」の定義を区分していたようだ。その
辺りが、シンポジウムで質問を受けたあの時点では私の不
勉強さゆえに答えることができなかったのが残念である
(よってこちらのNLで続編となりました)。近年の安倍
首相や自民党の集団的自衛権の閣僚決定で行使できるよう
解釈を変えた点や、憲法改正への意欲や姿勢を考えると、
コミュニケーションの研究者としては、対峙し書くべき課
題が多くみられるのではないだろうかと思う今日この頃で
す。忙しさに負けず…、(おっと、前向きに表現せね
ば!)忙しさと折り合いをつけながらも、研究者としての
仕事にも取組まねばと自分に言い聞かせることができた、
この続編はよい振り返りとなりました。
引用・参考文献
Barash, D. P. and Webel, C. P. (2014). Peace and Conflict
Studies. Thousand Oaks, CA: Sage.
Grewal, B. S. (2003) Johan Galtung: Positive and negative
peace. http://www.activeforpeace.org/no/fred/
Positive_Negative_Peace.pdf(2015年2月28日閲覧)
北岡伸一(2015)「『積極的平和主義』に転換する日本の
安全保障政策」nippon.com, http://www.nippon.com/
ja/simpleview/?post_id=23318
(2015年2月24日閲覧)
中部支部
会計報告(2015年2月23日時点)
予算の説明
● CAJの年度は、6月1日から
翌年の5月31日で設定されて
います。
● 予算書は、年度初めに支部大
会の概要が固まった頃に、前
年度の会計報告とともに、支
部長が申請をします。
● 予算が事務局で承認される
と、助成金が指定の口座に振
り込まれます。
収支報告
● 黄色のハイライト部分が、変
動が予定されている箇所で
す。次年度への繰越予定額
は、現時点では、65300円
です。
● 重要:繰越金について、
2014年3月の理事会で話が
でました。年間予算を大きく
超えて繰越金が発生するよう
であれば、助成金が不要では
ないかと判断されることもあ
る旨の話でした。無駄遣いで
はなく、活発な支部活動につ
ながるよう、活動について検
討していければと思います。
ウェブ版では、会計報告の詳細を
割愛させていただきます。
ご了承ください。
● 次年度運営委員の方にも委員
会参加の交通費をお支払いし
ました。
● 例年通り、運営委員にも交通
費・通信費を支出しました。
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号
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中部支部運営委員メンバー
支部長:
藤巻光浩(静岡県立大学)
副支部長・ML担当: 森泉哲(南山大学)
NL担当:
宮崎新(名古屋外国語大学)
今井達也(南山大学)
平田亜紀(愛知淑徳大学)
会計監査:
佐藤良子(愛知大学)
会計:
福本明子(愛知淑徳大学)
CAJ中部支部
中部支部活動について
●
中部支部はここ4年程次のようなパターンで活動してお
ります。6月支部パネル(ある時のみ)、12月支部大
会、1月~2月下旬書評締切、3月下旬NLの発行、で
す。是非、これまで機会を逃されている方は、ご参加く
ゆるゆると、しかし
建設的に学べる
身近な場であるために
ださい。お待ちしております。会員、非会員共に参加は
無料ですので!お知り合いにもお広めください。
●
運営委員の知り合いであったり、支部大会にご参加いた
だくと、何らかの(寄稿などの)お願いがある場合がご
ざいます。ご協力をお願い申し上げます。
編集後記
NL編集長として初めて活動をしてみて、このような媒体
でどんな貢献や試みができるのか、今後への見通しがつ
いたような心持ちでホッとしています。今回は多くの先
生方に原稿を賜り、ご迷惑をおかけしつつも本当に良い
ものになったと自負しております。特に、畑山先生(桜
美林大学)
、柿田先生(獨協大学)
、田島先生(神田外語
大学)、お忙しいところ本当にどうもありがとうございま
した。
中部支部事務局
〒464-8671
名古屋市千種区桜が丘23
愛知淑徳大学 ビジネス学部
福本研究室内
afkmt(アットマーク)asu.aasa.ac.jp
今後は、今までのNLの流れや雰囲気を引き継ぎつつも、
何か新しいことに挑戦しながら、新NL担当者一丸となっ
て充実した活動の下地作りをしていけたらと思っており
ます。
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支部ホームページもご覧ください
http://www.caj1971.com/~chubu/
CAJ 中部支部 ニューズレター第5号