「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋で - Tama Art University

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋です。無断
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多摩美術大学大学院
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2002年 修了論文
ニキ・ド・サンファル
Niki de Saint Phalle
−幻想の庭《タロット・ガーデン》をめぐって−
2000 年入学
多摩美術大学大学院修士課程
美術学科 芸術学専攻
齋藤 桃子
学籍番号 30051104
指導 建畠 晢 先生
ニキ・ド・サンファル
−幻想の庭《タロット・ガーデン》をめぐって−*目次
はじめに・・・5
第1章 《タロット・ガーデン》への道
第1節 ガウディ・シュバルからの啓示・・・7
第2節 城・・・9
第3節 理想宮を求めて・・・11
第2章 《タロット・ガーデン》遠景
第1節
領域を越えて・・・15
第2節「私」だけの場所をつくる −アウトサイダーの作品を例に−・・・17
第3節
挿入された世界 −フンデルトワッサーの作品を例に−・・・20
第3章 《タロット・ガーデン》近景
第1節
タロット・カードの図柄と《タロットガーデン》の比較・・・23
第2節 様々なシンボル −タロット、手相、占星術、宗教…−・・・52
第3節 フェミニスト、ニキ・ド・サンファル・・・55
第4章 《タロット・ガーデン》内部
第1節 ジャン・ティンゲリーとニキ・ド・サンファル・・・60
第2節 マリオ・ボッタとニキ・ド・サンファル・・・63
第3節 多くのコラボレーター達・・・65
結び・・・67
年譜・・・68
参考文献・・・79
はじめに
精神病の治療として絵画を描いていた時代、パフォーマンス性の強い射撃絵画の時代を
経て生み
出された「張りぼて」、「色彩彫刻」の名で呼ばれているニキ・ド・サンファルの作品群の
なかに
は、内側に人間が入ることを前提とした作品がいくつかある。作品には瞑想のための小部
屋のよう
なものから、実際の生活に耐えうるものまであり、その集大成として《タロット・ガーデ
ン》があ
る。この《タロット・ガーデン》は 1955 年彼女が 25 才のときにガウディ、シュバルの作
品を見た
ことがきっかけとなり、イタリア、トスカーナ地方につくられた。1998 年の一般公開を
迎えるま
で 40 年あまりをかけての作品はいまだ完成形ではなく手を加えられていく予定である。
この庭の存在はニキ・ド・サンファルという一人の女性の創りあげた象徴体系を示して
いる。そ
のような象徴体系を創りあげてしまうこと、奇行と呼ばれかねない一人の人間のとりつか
れた制作
が芸術作品としての昇華をみせ人々を引きつけること、そこにこの庭に魅せられた一人で
ある私は
関心を持った。この庭に近づくために私は、思いつく様々な要素を探ることにした。この
庭は彼女
の集大成作品と言われるように、多くのものとの関連、無意識のものも含む影響関係が認
められる
ため、その範囲はとても広がった。そのため、あまりまとまりのなくなった断片的な文章
に少しで
も統一感を持たせるため、少々強引にも第1章から第4章までのタイトルを「《タロット・
ガーデ
ン》への道」、「《タロット・ガーデン》遠景」、「《タロット・ガーデン》近景」、「《タロッ
ト・ガーデン》内部」とし、含みと、徐々に近づく感じを持たせることにした。
第1章「《タロット・ガーデン》への道」ではこの幻想の庭をつくることを思いつく直接
のきっ
かけとなったガウディ、シュバルの影響を境として、一つは啓示を受ける以前、一つは啓
示を受け
てから彼女自身の理想宮を実現するまでを辿った。
第2章「《タロット・ガーデン》遠景」は、遠くから見て《タロット・ガーデン》のよう
見える
ものを対象とし《タロット・ガーデン》とに比較を試みた。そこには、アウトサイダーと
呼ばれる
作家達のつくった作品や、フンデルトワッサーの作品が含まれている。
第3章「
《タロット・ガーデン》近景」は、
《タロット・・ガーデン》そのものに触れた。
園内
22の建造物一つ一つについてタロット・カードとの比較を行い象徴体系の一つであるタ
ロットが
ニキ・ド・サンファルというフィルターを通し、別の象徴体系となっていることを示そう
とした。
第4章「《タロット・ガーデン》内部」は《タロット・ガーデン》を内側から支えた人物
たちと
ニキ・ド・サンファルとの関係を考えたものである。
それぞれが前後したり、同じことが何度か繰り返されたりという構成の不備や、重要な
部分を見
逃しているという恐れがないわけではないが、この断片的な文章が、園内の建造物を覆う
鏡の破片
のように様々な角度から複雑な一人の女性の象徴体系を映し出したものであることを信じ
たい
第1章 《タロット・ガーデン》への
第1節 ガウディ、シュバルの作品からの啓示
*《タロット・ガーデン》
「25歳の時、バルセロナでガウディの公園を見た。そのとき私は、神の光を見たという
あ
の聖パウロのような気持ちにおそわれた。人間が幸福でいられるような空間を、いつの日
か
自分が作り上げることが予感された。」*1
1955年に受けたこの感覚をニキ・ド・サンファルは決して忘れることがなかった。
これから
取り上げようとしている《タロット・ガーデン》(図 1)は1998年にオープンをむかえ
た。実
質的な作業に入ってから22年、啓示を受けてから43年もの歳月が流れていた。
イタリア、トスカーナ地方、海にほど近いガラビッキオの丘に彼女が「喜びの庭」と呼
ぶ《タロ
ット・ガーデン》はある。様々な色の細かいガラスが、彫刻の表面装飾に多く用いられて
いるため、
遠くから見ると一つの丘がカラフルに光かがいているように見える。何があるのかと思っ
て丘のふ
もとに近づくとしかし、見えていたはずの輝くものは見えなくなっておりあるのは素っ気
なくさえ
感じる頑丈そうな門だけである。門を通り抜けてもまだ先ほどの光はみえない。カーブを
描く砂利
道を上っていった先にようやく輝きの正体を見ることができる。しかも、あざやかな輝き
だけでは
なく、その装飾が施された形態の奇妙さと2重の驚きを覚えるはずである。
この庭の光り輝くものの正体は、この庭の名でもあるタロット・カードの大アルカナ(大
神秘)
22のシンボルをモティーフとした建造物や、巨大彫刻である。丘の斜面にこれら建造物
や巨大建
築が点在している。
*グエル公園
すべてのきっかけは最初にあげた言葉の通り、ガウディのグエル公園を訪れたことだっ
た。25
歳のニキ・ド・サンファルは、友人の薦めでここを訪れたのだという。芸術家として生き
てゆく決
心をし、独学のため熱心に美術館に足を運んでいた彼女は、ここで美術館にはなかったも
のを見た
のではなかったろうか。
グエル公園(図 2)はもともと分譲住宅地として計画されたものであったが、ほとんど
売れず、
グエルの後継者が市へ寄付したことで1922年公園として生まれ変わった。蛇行するタ
イルのベ
ンチに囲まれた大テラスは、野外劇場を想定したもので、このテラス下部、列柱の並ぶ空
間には市
場が想定されていた。天井は、スペイン初期の鉄筋コンクリート工法による。もちろんこ
れは綿密
な計画と、伝統的技術の上にたった建築であるのだが、その造形はダイナミックで独創的
であると
共に細部の豊穣性がぬきんでている。石、レンガ、木、ガラス、セラミックといった素材
が持つテ
クスチュアが強められ、結果として単なる建築には感じることのないだろう、遊技的、グ
ロテスク、
生命感、官能性といった言葉で表されるような印象を与えるものとなった。1958年の
ニキ・
ド・サンファルの作品には、コップや陶器の破片がランダムに張り付けられたもの(図 3)
がある
が、これはこのグエル公園のモザイクの影響を感じさせる手法である。この時代、ロバー
ト・ラウ
シェンバーグの「コンバイン・ペインティング」をはじめマルセル・デュシャンの「レデ
ィー・メ
イド」の系譜を継承するスタイルが生まれつつあり、少なからずニキ・ド・サンファルは
この影響
を受けたと言えるが、この《無題》の作品をはじめこの頃の彼女の作品は、物の集積や構
成によっ
てある意味やある雰囲気といった物を表そうとしており、デュシャンの系譜が行った絵画
という手
段への抗議、反芸術理論とは異なる意味を持っている。ニキ・ド・サンファルの場合どち
らかとい
えば、ダリやミロなどのシュルレアリストの用いたオブジェやコラージュの方法に近い。
*シュバルの理想宮
グエル公園を訪ねたのと同じ年、ニキ・ド・サンファルはフランス、オートリーヴにあ
る《シュ
バルの理想宮》(図 4)を訪れ個人の城、理想宮というスタイルを知る。《シュバルの理想
宮》は
ガウディのグエル公園とは異なり、辺鄙な場所にひっそりとある。これは、郵便配達夫で
あったフ
ェルディナン・シュバルが配達の途中小石を集めながら33年もの月日をかけて一人で作
り上げた
城だ。そこには、ミニチュア化した東方の住宅やアフリカ原住民を思わせる像が配置され
ている。
ニキ・ド・サンファルは、ティンゲリーへの手紙のなかでこのように語っている。
「私は、ガウディとそのころ見つけたばかりだったシュバルのことを話しました。彼らは
私
の英雄だということ、そして仲介者も美術館もギャラリーもなしで、人から見れば馬鹿げ
た
大建築に一人で取り組むのは美しいことだと。あなたは反論しました。芸術は社会の外で
は
なく中にあるべきだと。それで私は、シュバルはあなたなんかよりずっと偉大な彫刻家だ、
と挑戦的なことを口にしました。「そんな間抜けの名前なんか聞いたこともないな」といっ
たあなたは、「今からそいつに会いに行こう」と主張。本当に一緒に行ってみて、あなたは
その創造的なアウトサイダーにご満悦でした。そして言いました。「君は正しかったよ。彼
は僕より優れた彫刻家だ」と」*2
人に知られることもなく、ひっそりとした場所にたてられたこの作品は、その場所故に
異境的な
感じを与える。そこはシュバルだけの世界であり、個人がたった一人でどんなことができ
るのかを
示している。独学のアマチュアで、自分はアウトサイダーだという自覚があったニキ・ド・
サンフ
ァルにとって素朴で自由な表現者への共感があったのだろう。ガウディの作品から受けた
啓示はこ
の《シュバルの理想宮》を訪れたことで強化され、幻想の宮殿を建設する夢へとつながっ
た。19
56年の絵画《城》(図 5)や、《コンポジション》(図 6)には城が描かれた。ニキ自身自
分の
作品を「自叙伝」と呼ぶようにこの絵画は様々な出来事を綴る日記であるかのように描か
れている。
物語風な絵の中には幻想と日常が展開されているのだ
第2節 城
*幼少の体験
ニキ・ド・サンファルの祖父母は、父方、母方ともに城を所有していた。彼女は生まれ
てすぐか
ら3歳になるまでを両親と離れフランスの父方の祖父母の元で暮らした。その後一旦は両
親の元へ
戻るも、11歳の頃には、通っていた女子修道学校を放校となり転校を余儀なくされ、再
び父母の
元を離れ、当時第2次世界大戦の影響で所有していた城をドイツ軍に取り上げられ、アメ
リカへ避
難してきていた母方の祖父母とともに暮らしている。彼女は自伝の中で、祖父母の思い出
と共に城
の思い出も語っている。その中には、厳格で鞭をふるい城を訪れる者をおびえさせる父方
の祖父、
スポーツマンでニキに詩のおもしろさを教えた母方の祖父、優しく絵本を読んでくれる母
方の祖母、
美しい庭、そこで咲くたくさんの花、多くの部屋のことが著されている。特に母方の祖父
母との関
係は父親とも母親ともうまくやれなかったニキ・ド・サンファルにとって重要だったよう
である。
孫に甘い祖父母のようすが自伝からは伺えるが、彼女が甘えられる場所は父や母からは与
えられな
かったものであった。
おそらくこの幼少の頃経験した2つの城は、特別な場所としてニキ・ド・サンファルの
記憶にと
どまったのだと思う。一つは、幸せな空間、美しく、穏やかで自分が肯定される場所であ
り、もう
一つは恐ろしく、ひどい目に遭う場所として。初期の絵画に登場する城が一見華な色彩で
暖かみを
感じさせるのに、どこか鬱的な雰囲気を持っていることに彼女の城に対する相反する2つ
の感情が
読みとれる。
*公と私の空間
ニキ・ド・サンファルがまだ、ガウディやシュバルと出会う前の作品を見てみることに
しよう。
この頃の彼女は、独学で学んでいる最中であり、クレー風、マチス風など様々なスタイル
の作品が
あるが、それらは室内風景または閉ざされた空間を描いていることが多い。例えば《フル
ーツとワ
イン》(図 7)や《祭り》(図 8)では奥行きがなくすべてをローラーでつぶしたかのよう
な室内
や空間のなかに人物やテーブルが見える。
《フルーツとワイン》の中に登場する女性2人は、はっきりとした顔の表情はわからな
いものの
その仕草からくつろいでいる様子がうかがえるが、《祭り》は必ずしもそうではない。真ん
中にダ
ンサーが、画面上部にはいくつかのグループで祭りを楽しむ人物が描かれているが、画面
下の方に
いるカップルの様子はこの祭りを楽しんではいないと感じさせる。特に女性は隣の男性の
方へ身を
寄せ、手を握り不安な面もちだ。この下のカップルに注目すると、楽しげな祭りの様子は
一変して
しまう。ダンサーはこのカップルに襲いかかろうとし、周りで祭りを楽しんでいる人物た
ちはカッ
プルをあざけ笑うかのようにさえ見えてくる。
精神病からの回復後間もないこの頃のニキ・ド・サンファルにとって私的な空間と、公
的な空間
は全く別の意味を持っていたというのは想像に難くない。例えば自分の部屋のような私的
空間では
彼女はくつろぐことが出来るが、公的な空間ではそうではない。そこは自分の領域ではな
いからだ。
自分の領域ということに関して、彼女は自伝で「私の部屋」についてを書いている。
「私は私の部屋を持つようになった。・・・私の部屋、他のだれのものでもない。私は母の
望むとおり部屋をいつもきれいにしておかなければならなかった。・・・だけどそれを忘れ
てしまった!そのおかげでいつもトラブルに巻き込まれることになるのだけれど、その価
値
はあった。私の部屋は息づく。私の、私だけの場所になる。私の人生にはずっとすべてが
私
のもので、だれにも侵されない場所が必要だった。」*3
ニキ・ド・サンファルのなかには、おそらくガウディやシュバルからの啓示を受けるまえ
から私空
間を求める強い欲求があったに違いない。自分の所有物が転がっていて、私らしい夢のス
ペース。
しかしその欲求とその欲求をうまく現実化してゆくこととは結びついてはいなかったのだ
ろう。そ
れがいくつかの体験の中で結びついたとき彼女はそれを啓示として受け取ったのである。
第3節 理想宮を求めて
*2次元から3次元へ 1949−1965
城が描かれた絵画から理想宮を求める旅は始まったが、すぐに理想宮や城として形にな
ったわけ
ではなかった。《無題》の作品は、ガウディのベンチのようで、それは城の一部分をなすも
のであ
るかのようではあったが、この後彼女がコラージュしていったものは、鉄、金槌、ナイフ、
ロープ、
ピストルで、作品は暴力や破壊、不穏な空気を持ち始める。(図 9)
1960年、ニキ・ド・サンファルはワイシャツと、ダーツの的を張りつけた画面にダ
ーツの矢
を投げることで完成する作品《サン・セバスチャン、あるいは私の愛人のポートレート》
(図
10)を発表する。2次元(3次元に近いがキャンバスという支持体にすべては張りつけら
れて
る)にプラスしてアクションを起こすことを始めたのだ。これは1961年、すぐに「射
撃絵画」
のアイディアへとつながった。絵の具入りの缶やスプレー、時には卵やスパゲッティとい
った食品
までも白い石膏で塗り固めそこに22口径のライフル銃で弾をを撃ち込むことで作品は完
成する。
弾を打ち込まれた絵画はその穴から絵の具を流し、スプレーをまき散らし自動的に彩色さ
れてゆく。
(図 11)破壊的なもののコラージュ、ダーツを投げる行為、射撃と攻撃性が増してゆく様
子を見
ることができる。岡部あおみ氏はこれら射撃絵画作品に
「無垢な絵が血を流す饗宴は、絵画という伝統的な古いメディアの偶像破壊であり、同時
に
リアルな爆発的ムーブメントを授ける生成の儀式となった。静的なレリーフは、突如、爆
発
音、煙、匂い、カラフルな色彩の噴出と共に、生物のように動きはじめる。射撃絵画は、
シ
ュルレアリスムの自動記述、ポロックの行為を介した絵画に似た自動性を追求しながら、
幻
覚的なまでのスピード感によって一挙に作品自体の自立性と生命力を獲得する特異な手法
を
編み出した。・・・作者と観客が忘我的興奮の中に昇華する行為の攻撃性は、死によって新
たな生を誕生させる解放の契機となる。射撃絵画は作者にとって、規制された女性の枠を
破
壊する通過儀礼であった。」*4
と解説を付けている。この射撃には批評家ピエール・レスタニーが参加しニキ・ド・サン
ファルは、
彼の元で「ヌーヴォー・レアリスム」の一員として認められる。実質的な意味で彼女のデ
ビューで
あった。ピエール・レスタニーに限らず、この射撃にはジャン・ティンゲリー、ロバート・
ラウシ
ェンバーグ、エドワード・キーンホルツ、ジャスパー・ジョーンズら多くの人が参加した。
ニキは
このような言葉を残している。
犠牲者のいない殺戮。犠牲になったのは自分の絵。
絵が泣いている。絵が死んでいる。
私は絵を殺してしまった。けれどそれは再生なのだ。*5
純白のレリーフに広がる赤く、黄色く、青い血の海の散乱。
それは、絵を死と復活の神殿へと変容させた。
私は、自分自身を、そして不正だらけの社会を撃っていた。
自分自身の暴力を撃っていた。
自己の暴力を撃つことで、重荷のように内に抱え込まなくてよくなったのだ。
撃ち続けた2年間、体の具合が悪い日は一日もなかった。
私にとってこの上もないセラピーだった。*6
「射撃絵画」による開放の後ニキ・ド・サンファルは、女性像を作り始めた。作品は立
体、3次
元へと移行してゆく。彼女が始め作ったのは例えば、花嫁、娼婦、魔女、出産する女性た
ちといっ
た巨大な女性像(図 12)で、射撃絵画のレリーフのように様々なもののコラージュで出来
ている。
真っ白で血の気のない花嫁、無表情にまるで男性器のようにもみえる子どもを出産する女
性、両手
を切断された娼婦はやがて「ナナ」
(図 13)の誕生へつながる。それはアトリエの隣人で、
友人
の画家ラリー・リバースが妊娠していた妻クラリスを元に描いたドローイング(図 14)が
元にな
っている。初期の「ナナ」は紙粘土で作られ、その表面に毛糸や布などの素材が張られて
いた。
「ナナ」はアクロバティックなポーズをとり、ニキによれば「あらゆる方向に動くことの
できる女
の能力を示すため」だという。ナナはポリエステルという素材をえることによって屋外へ
飛び出し
ていった。
ある人は一目でナナ達を好きになり、また別の人は嫌悪をした。
私はとても大きなナナをいくつかつくった。
大きなナナと並んだ男達は、とても小さく見えた。*7
古典的な理想の女性像ではなく、不完全な、躍動的カオス、天真爛漫なエロスの集合体
としての
女性像「ナナ」は以後何度も繰り返し制作される。理想の宮殿、城の前にまず彼女は、自
分自身を
肯定するための作業を行わなければならなかった。その最終的な形をこの「ナナ」にみる
ことがで
きる。
*3次元のなかの4次元 1966−
3次元の作品は内側に入れる構造を持つことで新たな次元に到達する。1966年スト
ックホル
ム近代美術館の館長ポンテュス・フルテンの提案でニキ・ド・サンファルは、ジャン・テ
ィンゲリ
ー、ぺル・オロフ・ウルトヴェットと共に長さ28.70メートル、高さ6.10メート
ル、幅9.
15メートル、重さ6トンという巨大な寝そべった「ナナ」《ホーン(スウェーデン語で彼
女を意
味する)》(図 15)を制作した。その内側には、バーや贋作ギャラリー、プラネタリウムが
あり、
観客は「ナナ」の足の間から胎内巡りをする仕掛けとなっていた。
ホーンは、私にとって初めての建築制作でした。ホーンは、巨大なる女神を表していまし
た。
母なる大地、あらゆる売春婦の母、鯨、大聖堂であり、全能の善き母でした。*8
母の胎内に帰ること、その居心地の良さを彼女は実感したようである。1967年には
《ホー
ン》のミニチュア版とも言える、人一人が「ナナ」の中に入ることができる大きさの《ナ
ナの家》
が、南フランスのマーグ財団に設置される。
初めてナナの家をつくったのは、1967年のこと。大人のための人形の家。
それは座って夢を見るのに丁度よい大きさ。*9
立体作品と平衡して彼女は、同様の形態と色彩の立体の内側へと入り込むことのできる
建造物を
次々に造りだし始める。そのフレームワークはジャン・ティンゲリーによって行われた。
1969
−71年にかけては南フランスにライナー・フォン・ディエズのために住居としての作品
を、71
年にはイスラエルのラビノヴィッチ公園に3つの滑り台がついた子どもの遊び場《ル・ゴ
レム》
(図 16)を、1973年にはベルギーのコレクター、ネレンス夫妻のために《ドラゴン》
(図
17)と呼ばれる子ども部屋を完成させた。いずれも外部だけではなく内部にまで手が加え
られ、
ニキの小さな城、空想の実現である。理想宮へのステップはこうして徐々に踏まれていた
が決定的
な形にはなっていなかった。つづく1974年ニキは肺を患い、療養中に偶然旧友との再
会を果た
す。友人は、ニキの理想宮を創り上げたいという夢を聞き、所有の土地を提供することを
約束した。
ついに理想宮を実現させるときがきたのだ。それはスポンサーのいない、口を挟む者のい
ない彼女
だけの世界の実現の時だった。
第2章
《タロット・ガーデン》遠
第1節 領域を越えて
建築的な要素を持つ作品は、美術と建築の割合をそれぞれに異なった具合にもちながら
存在する。
ニキ・ド・サンファルの作品が3次元、つまり立体となった後、その立体には内側に空間
が生まれ
た。子宮を意識させるようなその空間によってニキの作品は建築の側へ一歩近づいた。い
や本当に
そうだろうか。私は第1章で彼女の立体作品が内側へ入れる構造を持ったことに対し、「3
次元の
なかの4次元」という言葉を使った。それは、建築の側へ近づいたということではなく、
建築が持
つのとは全く異なる空間を彼女が産み出したことを表現しようとしたためだったのである。
建築は
いわばある目的を持った空間を産み出すための囲いを作る作業だ。しかし彼女の作る空間
とは人体
や、想像上や、幻想の生き物といった具体的な形の立体物の内側に入り込むことで生まれ
ており、
そこにはそれらと同化したいという欲求、一体化する作者の姿勢が反映されている。その
ような姿
勢はすでに彼女の2次元の世界つまりドローイングやキャンバス上に展開されていたもの
である。
例えば《わたし》(図 18)という絵巻物を思わせる横長の作品は様々なモティーフがひと
つの物
語性をもって描かれており、時間軸を発生させている。その時間の流れは一つの奥行きで
あり、現
実的な空間ではないものの、この作品を見るときに鑑賞者は立体的な見方を要求される。
それはつ
まりこの作品のタイトルでもある「わたし」に寄り添う行為であり、3次元のなかの4次
元、立体
の内側に入り込むことと同じなのである。
ニキ・ド・サンファルが初めて内側にはいることのできる作品を作ったのは、前述の《ホ
ーン》
においてであった。巨大な女性像「ナナ」の足の間、女性器を出入り口とした胎内巡りの
案はスキ
ャンダラスであり、この制作に乗り気である一方で、ニキは「薄氷を踏む思い」だったと
いう。結
果としてこの世界最大の娼婦は3ヶ月で10万人の客を受け入れ、ある精神科医は、「その
年の出
生率を上げ、市民の夜の夢を変えた」とさえ報告した。*10 観客はこの胎内巡りに何を見
たのだろ
うか。エロス、自然、巨大な母、何かしらこの作品から共有できるものを鑑賞者が見つけ
だしたな
らば前述の精神科医の分析は笑って済ませられるようなものではなくなるはずだ。鑑賞者
は潜在的
に自分の中にあった豊かな想像の世界を発見したのだから。
近代社会の中で理論的でないもの、合理的でないものは社会的には排除されてきている
のかもし
れないが、個人のレベルではそうではない。個人差はあるにせよ私たちは自分のを取り囲
む世界を
認識してはいながらそれをそのままには受け取らない。個人的ビジョンがそこには立ち現
れてくる
はずだ。誰かに言われた言葉に、鏡に映った姿に、目に映る景色に私たちは何を見ている
のだろう
か。もしかすると「私」を見ているのかもしれない。精神や欲望の深淵のかけらに私たち
は日常的
に触れているのだ。しかし、私たちはそのことに意識的ではない。ニキの《ホーン》のよ
うな並は
ずれたものとであったときようやく我々は、それらが表現しようとしている個人的であり
ながら普
遍的である問題が自分の内にもあったのだということを知るのだ。
《タロット・ガーデン》はニキ・ド・サンファルにとって最初からの目標であり、最後
の目標で
もあったということができるだろう。それは建築と言うにはその言葉が示す、「ある目的を
持った
空間を作りだす囲い」とは異なる意味を持ち、アートというには従来のものと規模、形態
の異なる
ものとなった。しかし、これまで全くなかったものではない。例えば第2節で扱うニキ自
身の姿で
もあり、ニキに多大な影響を与えたアウト・サイダーの作家達の作品、イタリア−ボマル
ツォに1
550年代領主オルシーニ公の命によりつくられた《怪物公園》、同じ頃ローマ枢機卿イポ
リッ
ト・デステが莫大な財産をつぎ込んだ、様々な、時には奇妙とさえうつる噴水で有名なイ
タリア−
ティボリのエステ家別荘、いまでも各地に残るグロッタといったもの系譜をこの《タロッ
ト・ガー
デン》はひくのである。近代の進歩史観が前提となってまとめられてきた美術の鑑賞態度
が忘れて
きたもの、異端視してきたものから脱却すること、いままでの領域を越えることが必要な
のだ。と
いっても難しいことではないだろう。領域を越えることで見えてくるものは、いままでに
触れたこ
とのないような変わったものなのではなく、常に身近にあって身近すぎるために見えなか
ったもの
なのだ
第2節 「私」だけの場所をつくる −アウトサイダーの作品を例に
−
*「私」の存在場所
ニキ・ド・サンファルの《タロット・ガーデン》をはじめ、建築的要素を備えた巨大な
芸術作品
を眺めると、それは、「私」という存在の確認場所であるのだと感じる。幼い頃から母親、
父親双
方と関係にそれぞれ問題を抱え、自分のエキセントリックな行動のために何度かの放校を
させられ、
ついには精神を病んだニキにとっての避難所は、想像の力である。ニキ・ド・サンファル
は、長年
にわたる支援者であり、後援者ポンテュス・フルテン宛の手紙の中の文によると、ニキは、
「私の
魂のふるさと」と呼ぶ「私以外だれも見たことのない小箱」を「ベッドのしたに隠し持っ
ている」
のだという。その中には、「見たこともない色とりどりの魚、魔物、いい匂いのする野の花
など」
が入っていて、ニキはその箱との孤独な対話をつづけてきた。手紙の最後はこう結ばれる。
「この
箱があるおかげで私は皮肉屋にもならず、幻滅もせずに生きてこられた。」、「これはパンド
ラの
箱。ありとあらゆる災厄が生まれた後で、最後に残ったのは、希望」*11 想像すること、
そして創
造すること、それこそがニキ・ド・サンファルが生き残るために必要なことだったのであ
る。そし
てそのパンドラの箱は《タロット・ガーデン》という形をとってあらわされた。最後に残
った希望
を歌い上げる庭として。
*アロイーズ・コルバス
「アール・ブリュット」の研究家であるミシェル・テヴォーはその著書『不実なる鏡−
絵画・ラ
カン・精神病』*12 のなかでアロイーズの作品をあげ、彼女自身と彼女によって作り上げ
られた絵
画世界との関係についてを述べたが、それはおそらくニキとニキの作品にも共通する関係
であり、
アウトサイド、インサイドというものを越えた一つの創造の秘密であるように思う。以下
テヴォー
の論を少し追うことにしよう。
アロイーズ・コルバスは、1886年スイス−ローザンヌに生まれた。恵まれたとは言
えない家
庭環境、あこがれていたオペラ歌手へなることへの挫折、生涯一度限りの恋人と引き離さ
れたこと
が彼女の身にどんな影響を及ぼしたかは定かではないが、彼女は周りの人間とうち解ける
ことなく
想像の世界へと羽ばたき始めるようになる。そのきっかけとなったのは、1911年、祖
国を離れ
職に就くためドイツへ渡った彼女がどのような状況下であったかは判別しないが、ポツダ
ムの皇帝
ヴィルヘルム二世と出会う機会をえて、一目見た皇帝へのプラトニックな愛に恋い焦がれ
たことだ
った。1913年故郷に戻ったアロイーズは、このころより行動障害や、興奮による発作
におそわ
れローザンヌ近くの精神病院に収容された。早発性痴呆と診断された彼女の病状は自閉症
へと進行
したが、次第に病院での生活になれ、彼女は1920年頃から著述とデッサンを始める。
それは、
彼女が実に献身的に奉仕したこの病院のリネン類の繕いやアイロンがけと同じく彼女の精
神安定に
役立ったと推測される。彼女は芸術面においてかなり調和のとれたきわめて創造性豊かな
存在に生
まれ変わった。
アロイーズの絵や文章に現れる一連の人物群は、王、王妃、伝説的英雄でアロイーズは
それらの
人物に同一化する。その人物達は、すべての諸制約から解き放たれており、時間、空間、
色彩、フ
ォルムといったものは、彼女自身の幻想の世界の決まり事に従っている。(図 19)テヴォ
ーは言
う。「彼女は、自ら進んで消滅へと向かい、非現実化を継続し、宇宙的な規模で非実在を押
し広げ
ていかねばならなかった。アロイーズは、彼女を否定した世界を、絵画を利用して否定し
ようとし
たのである。」なぜなら彼女にとって描くことは「収容された病人の手慰みとしてではなく、
生き
残るための唯一の解決策としてであった。彼女は二重の挑戦に応じ返さなければならなか
った。ま
ず第一に、自らの妄想を外在化させ、しかも、自分が作ったものに十分な客観性と輝きを
与えるこ
とで世俗の現実を追い出すこと。しかし同時に、想像的な捕縛という暗礁を避け、肖像が
代替的存
在として「捕らえ」、圧倒するのを妨げ、そうすることによって生成と回避の体系の流動性
を保持
すること*13」であったのだと。「アール・ブリット」の提唱者ジャン・デュビュッフェは
アロイ
ーズについて「彼女自ら自分を治療したのだが、その療法とは、病と闘うことをやめるの
ではなく
逆に、病をはぐくみ、利用し、それに驚嘆を感じることで病を情熱的な生き甲斐とするこ
とであっ
た*14」と述べている。これらの言葉はニキの姿勢とも響き合ってくる。幅広く用いられ
る象徴、
歪形、改造された神話といった奇抜な思いつきが産み出されるきっかけとなる「ポジティ
ブな妄
想」の存在を私たちは認めないわけにはいかないだろう。それらはある分離のような体験
を契機と
して現れることが多いようである。分離は、世界をずらした形で捕らえることをもたらす。
*ずらされた様々な世界
ニキ・ド・サンファル、アロイーズ・コルバスに限らず、人々の中には突如として部屋、
庭、家
等の自分の身近な物を飾り立てたりし始めるものがいる。折々に発見され注目されたもの、
いまだ
発見されていないもの、忘れ去られたもの、壊されてしまったものを含め、おそらくこう
いった作
品は世界中数多くの場所に存在したし、現在も存在するであろう。様々な理由から、時に
ははっき
りとした理由を見いだせない状況で、しかし、そうせずにはいられない衝動に従ってこれ
らは作ら
れている。様々にずらされた世界だ。この世界は、それぞれが全く別の様相を呈している
のではな
く物の集積、文字の書きこみ、明るい色彩、曲線の多様、具象的、物語性といった共通点
を感じら
れることが多い。逆に言えば、個人が世界を把握しようとするとき、そこで求められてい
るのは合
理性や、厳密さなのではなく流動的で、象徴的で謎めいているということなのかもしれな
い。これ
から紹介する世界について詳しいことは調べられなかった。しかし、私は非常にこの様々
な世界に
引きつけられる。機会があるならばいつかこの現実世界からずらされた、作者にとっての
もう一つ
の現実というべき作品についてを考えたいと思ってる。今回は、以下4作家の簡単な紹介
と図版を
挙げるにとどめることとする。
・Le Musee Robert Tatin
(Cosse-le-Vivien, France)(図 20)
Robert Tatin(1902-1983)は様々な職業を経験した後50年代からセラミックの作品をつ
くりはじめ
た。1962年から彼はこの庭を作り始めた。庭には、寺院のような建物、池、口を開け
たドラゴ
ン、巨人の通りなどがある。彼の死後、彼の妻によってこの庭は完成され美術館となった。
・Der Weinreben Park
(Dletion, Switzerland)(図 21)
Bruno Weber(1931-)は1962年チューリッヒにほど近い場所にこの公園を作る以前に
は、ファイ
ンアートやグラフィックデザインを学んでいた。妻とともにスタジオの装飾を始めたこと
をきっか
けにこの庭は広がっていった。そこには、ギリシャ神話、ゴシックや東洋の建築の影響が
見られる。
・The Salvation Mountain
(Niland-California, America)(図 22)
Leonard Knight(1931-)は砂漠の尾根からペンキを流すというやり方でこの山を作り上げ
ていたが、
後にはコンクリートを用いるようになった。ここには「GOD IS LOVE」というメッセー
ジが描き
込まれ装飾が施されている。1994年環境に対する問題で抗議を受けるが、友人や支持
者の援助
で制作は続けられることとなった。
・Le Jardin humoristique
(Fye-France)(図 23)
Fernand Chatelain(1899-1988)はパン焼き職人を引退後にこの庭を作り始めた。ワイヤ
ー、新聞紙、
セメント等で出来ている。動物や、笑顔の人物などその数は60ほどにもなるが、年月と
共に崩壊
しつつある。
第3節 挿入された世界 −フンデルトワッサーの作品を例に−
作者のもう一つの現実、ずらされた世界に色、形がにているものを街の中で見かけるこ
とができ
る。フリーデンスライヒ・フンデルトワッサーの作品である。
《フンデルトワッサーハウス》
(図
24)
、《クンストハウス・ウィーン》(図 25)その他、高速道路用レストラン、教会、焼却
場、
保育所、温泉村などはっきりとした機能を果たすための空間は作者の個人的世界の反映と
は違う。
しかし、フンデルトワッサーのデザインは都市の人工的な環境の中にあって異質で従来の
ものとは
全く異なった印象を与えるものである。フンデルトワッサーは言う。
かつて画家達は家を描いた。
今日、画家は家を考案し、建築家はその絵にならって家を建てねばならない。
なぜなら、もう美しい家がないのだから。*15
この言葉の通りフンデルトワッサーは、自ら建築を考え、また建築医と名乗り、数多く
の建築や、
都市に関する宣言を発表しつづけた。例えば「木の間借人」という考えに従った活動や建
築医の仕
事とは、彼によると「既存の醜くて病気の建物を自然と人間各自の夢と調和する創造的な
改修を行
うこと」*16 だという。(図 26)実際建築医として彼は、建築家ペーター・ペリカンと共
に既存
の建物をすっかり別のものに造り替えている。彼は合理主義の思想が生んだ画一的で味気
ない大量
生産の住まいを否定する。合理性のある直線を否定する。
T 定規でひかれた直線は、人間性の喪失につながる。今私たちは滑らかな状態にある。そ
の
上ですべてが滑る。親愛なる神までもが災難とつまずきに出逢う。直線には神は宿らない
か
ら。直線は唯一創造力のない線である。神の似姿としての人間にふさわしくない唯一の線。
直線はまさしく悪魔の線である。その使用を生む彼は人間の堕落を示す。*17
それはニキの発言ととても近いものを感じさせる。
夢を見るのが好き。空想するのが好き。夢見るのは円のこと−円、カーブ、ウェーブ、線。
世界は円。世界は乳房。直角は愛さない、私を脅かすから。直角は私を殺そうとする。直
角
は殺人者。直角は刃物。私はシンメトリーを愛さない。不完全を愛する。私が描く円は、
正
しい円ではない。それが私の選択。完全は寒々としている。不完全は命をもたらし、私は
命
を愛する。・・・*18
正規の美術教育や建築教育をまともに受けなかった*19 ことでニキ・ド・サンファルや
フンデル
トワッサーは教え込まれる美の伝統、建築の伝統というものを受け取らなかった。しかし
彼らは独
自のやり方で、ひとつの結論に達している。そこでは人間の生命力や創造性に重きが置か
れている
ようだ。その姿勢は共通するカラフルな色使いや有機的な形となり現れている。ただ違う
ところが
あるとすればそれは、ニキをはじめとする2節であげた作り手達が、想像力の世界に自己
を分離し、
現実とはずれたもう一つの現実を作り上げようとしたのに対し、フンデルトワッサーがし
たことは、
ずらすことではなく挿入だったということである。全く別の次元に想像の世界を繰り広げ
るのでは
なく、現在の世界の中に滑り込ませてゆくこと。そのことによっていつの日か目の前の世
界を変え
てしまうこと、それが彼の行ってきたことのように思える。
第3章 《タロット・ガーデン》近
第1節
タロットカードの図柄と《タロットガーデン》の比較
*タロット・カード
タロットカード*1 について、その詳しい起源は明かではない。起源ではないかと考えら
れる国
として中国やインドやエジプトの名が上がってはいるが、確かにな証拠はない。現在のト
ランプ等
のカードゲームの先祖にあたるものだとされるが、標準的なタロット・パックはトランプ
とは様々
な点で異なるものでもある。例えば、タロットカードはトランプのように52枚ではなく、
小アル
カナ*2 と呼ばれる56枚のカード・パックと大アルカナと呼ばれる22枚のカード・パッ
ク2組
が組み合わされたものである。このうちの小アルカナには1から10までの番号の振られ
たカード
に、王、王女、ナイト、ジャックと呼ばれる4枚の絵札が加わったものが、棍棒(クラブ)
、
聖杯
(カップ)、剣(ソード)、貨幣(コイン)といった4つの組札に分かれており今日の遊技
カード
の源泉となっている。残りのタロットつまり、大アルカナ22枚のうちの1枚「愚者」だ
けはトラ
ンプカードの中のジョーカーとして生き延びていると考えられる。
大アルカナ22枚は特に美術的、図像的に様々に解釈されるが、その図像の源泉は単一
の伝統の
産物ではない。西洋神秘思想、占星術、カバラ、数秘学、錬金術、魔術、神話学、エジプ
ト学、宗
教、キリスト教神秘主義、東洋哲学、心理学、形而上学、の伝統を要約したものである。
このカー
ドの複雑な性格が、単なる運勢占い以上のものとして教養人たちに受け入れられてきたの
である。
タロット・カードはイタリア、フランス、ドイツで14世紀後半までには定着したが、
その創造
のときと場および状況は依然として謎である。現存する最古のカードはフランスにあると
考えられ
てきた。1392年にフランスのシャルルⅥ世のためにつくられたというカード17枚(う
ち16
枚は大アルカナである)が現在もパリの国立図書館に残っている。これらの手描きのカー
ドは、1
392年2月の王の出納方の帳簿に記録されたカード・パックの一部となったと長い間考
えられて
きたが、現在ではこの記録とカードの間に関係はないとされる見方が強くなってきている。
また、
このカードに見られる芸術的様式と、凝った衣装は、これらが1392年以降のものであ
ることを
示している。カードが確かにな存在を示すのは1415年のことである。この年、手描き
のタロッ
ト・パックが若きミラノ公フィリッポ・マリア・ヴィスコンティのためつくられたのだ。
*3 しか
し、現在知られている最古のタロットよりタロットの起源はずっと昔にさかのぼるという
意見は多
い。カードは、15世紀初頭ドイツにおける木版印刷により一般に普及しているが、この
カードを
用いること(ゲームとして用いることを含む)はしばしば禁止の対象となっている。
これより22枚の大アルカナについての一般的解釈と、《タロット・ガーデン》内の建造
物とを
比較してゆくこととする。はじめに小さいフォントでタロット・カード図柄の解説とその
解釈*4
をあげ、そのあとでニキ・ド・サンファルの《タロット・ガーデン》内の建造物と比較し
た。
*0
寓者
The fool
タロット・カードにおいてこのカードには数字自体が割り振られていないことがある。
このカー
ドには宮廷の道化が描かれている。道化または愚者は中世およびルネサンスのヨーロッパ
でごく身
近な存在だった。道化の中には、せむし、小人、クレチン病者もいたが、宮廷の中で特別
の位置を
占める才能に恵まれたアクロバット、歌手、踊り子もいた。彼ら愚者は、しばしば主人へ
の風刺や、
普通の人があえて行おうとはしないような非道なトリックの行使を許されていた。
しかし、タロット・カードに描かれた愚者が傑出した存在を表しているようには見えな
い。多く
のパックで愚者は、犬に足を噛みつかれながら目の前が崖であるにもかかわらず、前に進
もうとす
る若者として表される。彼は、棒の先に付けた袋を背負っており、ここには現世の財産が
入ってい
るのだともいわれ、また愚者のうち目の前を舞う明るい色の蝶を追う姿で描かれたもので
袋は実際
彼が獲物を捕まえようとする捕虫網になるのだとされてきた。
愚者は、秩序ある生の周縁に生きる放浪者、自らの内に天才の種子をもつ狂人、新しい
生命と新
たな始まりの使者、理性以前の混沌、善でも悪でもない純粋な衝動と解釈される。
タロットガーデンの「愚者」(図 27)は、現在では向かって右手の森の中に設置されて
いるが、
かつて、正面の噴水の中に置かれたこともあるようだ。それは「スキニーズ」と呼ばれる
ニキによ
って作り出された造形スタイルで出来ている。「やせっぽち」という意味の「スキニーズ」
は肺病
の療養のため訪れていたスイスで、その自然を遮らないような透明な彫刻を生み出したい
と、19
78年に考え出された。線形の彫刻の隙間からは背景の自然が見え、これまでの膨張した
彫刻(例
えば「ナナ」のような)が自然の中にあってもその存在感を失わないのに対して、スキニ
ーズはそ
の中にとけ込んでいる。
「愚者」は青い体にカラフルな衣装を付け、左足を茶色い犬にかまれながらそのことに
気づいて
いないかのように前へ進もうとする姿で表されている。これは上記にあるような伝統的な
タロッ
ト・カードの図柄に従っている。ニキ・ド・サンファルはこのカードに対しこう語ってい
る。
愚者の番号は0である。番号なしだ。しかし、私にとって0は番号なのである。タロ
ッ
ト・デッキの中で、愚者は最も強いカードである。なぜか?なぜなら彼は彼自身の魂の欲
求
に従う人を表現しているのだから。どこへゆこうとしているのかわからずに、愚者には発
見
の用意が出来ている。彼は愚かなように見えるけれど、他の人には見つけられなかった「宝
物」を見つけることが出来るおとぎ話のヒーローである。彼は少しだけ財産を持っている。
彼は身軽に旅をする。*5
さらに《タロット・ガーデン》に関するドローイングの中では、
ある日、もう何年も前のこと、ある夢を見た。
それは私が彫刻公園をつくる夢だった。
「タロット」
メジャーアルカナ−神秘
光、闇−象徴−エジプト?
モーゼ−カバラ−十字架、知恵−マジック
シークエンス−トランプ遊び
私は「愚者」*6
との記述がある。彼女はタロット・カードの愚者の解釈にある言葉、例えば「愚者は、秩
序ある生
の周縁に生きる放浪者、自らの内に天才の種子をもつ狂人、新しい生命と新たな始まりの
使者、理
性以前の混沌、善でも悪でもない純粋な衝動」といった言葉に自分を重ねたのだと思われ
る。
*Ⅰ
魔術師または奇術師
The magician
大きくはためく縁の付いた帽子をかぶった男が、様々な器具や、道具の並んだ机の後ろ
に立って
いる。緑の帽子はいくつかのパックでは無限大のマーク(∞)となって表される。いくつ
かのパッ
クでは、机の上のものは小アルカナの組札の記号と見なされてきた。すなわち棍棒(クラ
ブ)、聖
杯(カップ)、剣(ソード)、貨幣(コイン)である。また別のパックでは、靴職人の道具
だとさ
れた。そのためこのカードには多くの名が付けられており、魔術師、奇術師の他に吟遊詩
人、手品
師、靴屋といったものがある。
またこの人物はプロメテウスとも見なされる。神々から火を盗んだ後、それを天から運ん
だウイキ
ョウの茎を手にしていることがあるからだ。
奇術師は旅の見せ物師、愚者のようなエンターテイナーを表すよう意図されたのかもし
れない。
町から、町へと見せ物をしながら、運勢を占いながら、怪しげなものを売り歩く人々。彼
らは、時
の権力者からは疑いの目で見られ、しばしば不安定な生活を送っていたが、非正統的教義
や異教的
思想の海外伝播の媒介者ともなりえたのである。その奇術師には1という最初の数字が与
えられた。
奇術師は、愚者に続いて、意識的な存在の最初の段階、子供の自意識の発生、自分自身
で存在の
秘密を解きかす者、精神世界と人間世界を意識的に結ぶ者、自分の前の4つの道−4つの
基本物質、
剣(風)、聖杯(水)、棍棒(火)、貨幣(土)を支配する者である。
「魔術師」(図 28)は、
《タロット・ガーデン》に着手し始めてすぐにつくられたものの
一つ
であり初期のマケットの中にも、はっきりとその姿を見ることが出来る。その設置場所は、
《タロ
ット・ガーデン》のエントランスから小道をのぼった先に開ける《タロット・ガーデン》
と最初に
出会う場所で、《タロット・ガーデン》の中心を成すいくつかの建造物の内のカードⅢ「女
教皇
(カードⅢ)」の上に設置されており、テラスになっている。その姿は、眼鏡をかけたかの
ような
人物の頭部であり、頭部からは鏡のモザイクでできた銀色に光る大きな手が空に向かって
突き出し
ている。この眼鏡状の部分をタロット・カードにしばしば無限大のマーク(∞)としても
表される
魔術師のかぶっている帽子、と見ることができるかもしれないが、全体として伝統的なタ
ロット・
カードの図柄とは異なっている。しかし、そのカードの意味するところの魔術師は、その
手からな
いものを取り出したり、取り出したものを消し去ったりする人物であり、このカード、「魔
術師」
に対するニキの注目する視点が取り出された結果の表象がこのような形をとったのではな
いだろう
か。ニキはこのカードをこう考えている。
偉大なるペテン師。私にとって魔術師は、宇宙の創造主である神のカードである。私
た
ちの矛盾に満ちた世界の素晴らしいジョークを作り上げたのは彼なのだ。これは現に活
動中の知性のカード。純粋な光、純粋なエネルギー、悪戯と創造。*7
神のカードである、とこのカードをとらえた彼女は、魔術師に大きな銀色の手を与えて
いる。こ
のガーデン内で最も高い位置に設置されたこの手は、鏡のモザイクに覆われ小高い丘の上
太陽の光
をうけ輝いてる。それは、原始キリスト教において、神の力の印として雲から手だけがで
ている図
が描かれていたことを思い出させる。この手というモティーフは彼女の作品の中によく用
いられる
ものである。魔術師と同様、《ペスト》という作品のの画面左側の山の上に現れる手は、手
による
神の表象を思わせる。また、1991年ニキ・ド・サンファルのパートナーであり、この
《タロッ
ト・ガーデン》のフレームワークを担当していたティンゲリーが亡くなった際、彼女がテ
ィンゲリ
ーへのオマージュとして初めてつくったキネティック・アート作品《メタ・ティンゲリー》
(図
29)の中にはやはり、この魔術師のようなまっすぐに伸ばした手が描かれている。物が産
み出さ
れる現場としての手は彼女のマケットを忠実に巨大化させるティンゲリーの手と結びつい
ているよ
うだ。
また仮面のような頭部は、テラスとなっている。内側に鑑賞者が入り込むことで、鑑賞
者は、魔
術師の視点を持つことが出来る。以後続いて紹介する建造物の中にも内側にはいることが
できる物
は多く、彼女の作品においてこのことはとても重要な意味を持つのだと考えられる。
*Ⅱ
女教皇または女司祭
The high priestess
女教皇、あるいは女司祭は入念な衣装を纏い、王冠をかぶっている。膝の上には開いた
本、ある
いは巻物をかかえ、後ろにはヴェールかカーテンのようなものがかかっている。いくつか
のカード
では、2本の柱に挟まれて座っている。女教皇という名は9世紀の伝説的な女教皇ヨハネ
スⅧ世を
連想させる。この人物は、ドイツのマインツ生まれの女性で、イギリス人と恋に落ち、少
年に変装
し、彼と共にアテネ、ローマへと旅をし、そこでヨハネス・アンジェリクスの名で修行を
積んだ。
彼女はその才能と聡明さにより、教皇の座に上り詰めヨハネスⅧ世を名乗った。レオンⅣ
世とブノ
ワⅢ世の間にあたる854年から、856年までの時期を無事に統治したと信じられてい
たが、妊
娠し不運にも厳粛な行進のさなかに出産し、コロセウム近くでなくなった。この話に根拠
はない。
異教的神話から、作り出されたものあろう。他にもこの女性が青い衣装を身に付け、足下
に三日月
が置かれていることがあるため、エジプトの女神とみられることもある。また、ローマ神
話のユノ、
とも月の神ハタルともいわれる。いくつかのパックでは、胸に太陽の十字架を付け、持っ
ている書
物は律法書トーラーだとされることがあり、女司祭あるいは女教皇は古代の異教から、エ
ジプト神
話、ユダヤ教、キリスト教まで種種の権威を身に付けている。
女教皇あるいは女司祭は、「対立物同士の1対」の均衡を表す2という数字があたられて
いる。
対立する活力を吸収し、統一する存在、意識と無意識の柱をつなぐ者、生の源泉を支配す
る大いな
る女性的力の保持者。
青い色をした巨大な頭部がその上に「魔術師」
(カードⅠ)を乗せている。青という色は、
カー
ドに描かれた女教皇の衣装の色であり、エジプトでは不死を表す色である。「女教皇」(図
30)
は、その口から水を吐き出しており、階段状の傾斜を流れた水は円形に囲まれた池に注い
でいる。
その傍らには青い蛇が寄り添う。「魔術師」(カードⅠ)と共に最も初期の頃に着手され、
マケッ
トにもはっきりその姿が見て取れる「女教皇」は、生命を産み出す元である水を吐き出す
泉として
つくられた。それはカードの解釈にあるような、「生の源泉」から意図されたのかもしれな
い。ま
た2という数字が与えられたこのカードは、数字の意味上、対立物の統一を表すと考えら
れている。
「魔術師」(カードⅠ)がティンゲリーの手につながっていることを考えると、この「女教
皇」は
ニキであるとも考えられるのではないだろうか。ニキとティンゲリーはその人生、作品に
おいて対
立する存在であると同時に、統一する存在でもある。ニキは、こう述べる。
直感という女性的力を持つ女教皇。この女性の直感は英知の「鍵」の一つである。彼
女は、
大いなる潜在能力を秘めた非合理な無意識を表している。直感的視点や、創造力なしで理
由
や論理によって出来事を説明しようと願う者は、物事の表面に取り残される。*8
直感の力という言葉は、ニキ・ド・サンファル自身のたどってきた姿を思わせる。この《タ
ロッ
ト・ガーデン》にしても、1955年バルセロナのグエル公園を訪れたときに、ガウディ
という師
と自分の運命に出会ったと感じ、後に自分が人間と自然が出会う喜びの庭を作り上げるこ
とが予感
されたことがもとになっているのだとニキは語っており*9、また、自身の制作スタイルに
ついて、
「エモーションに従ってエモーションのおもむくままにつくっている」*10 という言葉か
ら「女教
皇」はニキ自身を思わせるのである。
「女教皇」の口の内部は、まるで、洞窟やグロッタを思わせるうねった壁をもち、青く
塗られた
中にモザイクで表された星が輝いている。カードの解釈の中に見られる月の神としての資
質もこの
女教皇の中には表されている。
「女教皇」というには、あまり女性的でない表象がされたことは、この建造物がニキ自
身を表し
ていることを示すまた別の証拠となるのではないかと私は考えている。ドイツでの回顧展
のカタロ
グの中で、シュルツ・ホフマンは、この「女教皇」と、この《タロット・ガーデン》から
そう遠く
はない町ボマルツォにある怪物庭園*11 内の大仮面(マスケローネ)などとと呼ばれる石
の彫像
(図 31)との類似を指摘した。確かにその大きな頭部の口を開けた姿、口から続く階段は
《タロ
ット・ガーデン》内の「女教皇」の姿と一致する。ニキ・ド・サンファルがこの大仮面と
いう怪物
にになぞらえて女教皇を制作したとするならば、次にあげるようなニキの言葉が、ニキ自
身と女教
皇を結ぶ助けとなるだろう。
そこに地獄はあり 私は地獄を散策する
地獄 それは物語 私は物語 日々の記録は地獄の鏡 私は鏡
地獄 それは肉体から離れた首 私は肉体のない1個の首
地獄 それは有罪 私は有罪
地獄は罪を産み 私は罪
地獄 それは充満にして 私は窒息
地獄 それは怪物 私は怪物
地獄 それは飢餓 私は貪欲なる母
地獄 それは答えのない叫び 私には叫びへの答えもなく
地獄 それは凍え 私はすなわち氷の眼
地獄 それは畏怖 私は地獄を恐れ
地獄 それは誇張 私は誇張
地獄 それは私 私は地獄*12
中世において地獄は海獣レヴィアタンの巨大な口の中にあるとかんがえられてきた。(図
32)自
分は怪物なのだとニキは述べる。それは、「射撃」やグロテスクな女性像などの初期の作品
に見ら
れるような攻撃性、衝動的な傾向をネガティブにとらえた言葉なのかもしれない。裏返す
ならば、
怪物は直感力に従い本能的に行動する女教皇となるのだ。
*Ⅲ
女帝
The empress 女帝は屋外で、玉座に座っている。王冠をかぶり、権杖を掲げ、足下または彼女の腕の
中に鷲の
紋章付きの盾があることが多い。この女性は、ギリシャ人の穀物の女神デーメーテールと
その娘で、
ハデスあるいは、プルートーの花嫁として下界に連れ去られ、夏が戻り生命が維持するよ
う1年の
内8ヶ月だけ地上に戻ることを許された、ペルセフォネや、シュメール人のイシュタルを
思わせる。
母なる女神は、自然の創造力を具現化する。彼女は地上の楽園の支配者でもある。
女帝には統合と調和の数3が与えられている。それは2元性によってつくられた緊張の
統一的原
理、第3番目の者の誕生による解決を示す。
女性的な力を強く信じるニキ・ド・サンファルにとって古代母系社会はとても興味がそ
そられる
ものであるようだ。この「女帝」(図 33)は、このタロットガーデンに貫かれる女性的な
力の表
象の中核を成す。
女帝は偉大な女神であり、空を、母を、すべてを、感情を、神聖な魔術と文明を司る女
王で
ある。女帝を私はスフィンクスの形につくった。私はこの保護してくれる母の中に4年間
住
んだ。彼女はまた、仲間とのミーティングの本部としても使われた。私たちは皆彼女の決
定
的魅力にドキドキさせられながらここで休憩をとった*13。
ニキはなぜこの女帝をスフィンクスの形で表現したのだろうか。女性としてのスフィン
クスは、
エジプトのピラミッドの前に立つあの守り神のような姿というよりは、道行くものに謎か
けをした
というスフィンクスを思わせる。また「女教皇」(カードⅡ)と同様、ボマルツォの《怪物
公園》
の影響があるのかもしれない。《怪物公園》の園内でまず迎えてくれるのは、女の顔を持つ
スフィ
ンクス(図 34)なのだ。
ニキの言葉にもある通り、この女帝のカードは《タロット・ガーデン》制作中の彼女の
住居とな
り、内部にはバスルーム(女帝向かって左胸下)、キッチン(女帝向かって右胸)、ベッド
ルーム
(女帝向かって左胸)が備え付けられている。女帝の背中はテラスになっており、テラス
に埋め込
まれたモザイクは、伝統的タロット・カードの図柄を描いている。女帝の肌は黒く、青い
髪には星
が描かれている。ニキがつくってきた女性像は、青や、白、ピンクと様々な肌の色をして
いるが、
黒は彼女にとって特別な色である。黒い肌は、彼女にとって特に母権社会を思わせる色な
のである。
そして、女帝の表面には、様々に表されてきた女性像がはめ込まれた。古代の遺跡から発
掘される
人型のような女性像や、エジプト風の女性像、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》を
思わせる
ものもある。
住居として使われていたこの建造物は、このガーデン内で、最も建築らしいものといえ
るかもし
れない。しかし、その構造は他の建造物と変わるところはなく、ワイヤーによるフレーム
にコンク
リートが付けられ、その表面をタイルや、鏡でモザイク状に覆ったものだ。ほぼマケット
や、ポリ
エステル作品通りの仕上がりのその表面は床意外すべてが曲面に仕上がっている。その曲
面に関し
ても、画一的なところがなく、まるで大きな手で粘土細工をしたように有機的な曲面に連
なりにな
っている。
*Ⅳ
皇帝
The emperor
皇帝は王冠をかぶり、玉座に座っている。手にはアンク十字が付けいた権杖と球をもち
パックに
よっては、鷲の紋章入りの盾が置かれていることがある。この男性は、混沌から宇宙を創
造した天
の王、ギリシャのウラノスといった父親的人物を思わせる。女帝の配偶者でもある皇帝は、
女帝同
様、創造を表すが、彼はむしろ権力の創造を表す。皇帝は、母の原始的な農耕文化に取っ
て代わっ
た好戦的な父権制社会の象徴である。
皇帝には4という数字が与えられた。それは堅固な組織の数でもある。絶えざる努力と、
疲れを
知らぬ占有によって自分の世界を支配する者、理論的で、均衡のとれた性格の持ち主。
ニキ・ド・サンファルにとって「女帝」は、理想の母権制社会を表すものであり、そこで
は一つ
の理想の形態が表されているのに対し、「皇帝」(図 35)が表す父権制社会への感情は複雑
であ
り、その表し方は単一のものではなく、様々なもの組み合わせて一つの広場を形作るとい
う方法が
とられた。タロット・カードに見られる「皇帝」の面影は、このニキの建造物の中には見
あたらな
い。
皇帝は、善きにせよ、悪しきにせよ男性的力のカード。皇帝は組織と攻撃性のシンボルで
あ
る。彼は、科学や医療において我々を導くと共に武器や戦争ももたらした。彼は、家長ま
た
は、男性擁護者を表現している。また、彼は支配と征服を望む。*14
なぜ人物の形をとった男性像として「皇帝」が表されなかったかは、ニキのこの言葉に現
れている
だろう。
どうして自分の作品の中に男がほとんど登場しないかを考えてきました。男が思いやり深
け
れば動物や鳥で現れ、ひどいと怪獣になるのです。*15
他のカードを表す建造物とは違い様々なモティーフの組み合わせの「皇帝」は、塀に囲ま
れた広場
となっており、それはまるで閉じられた世界である。そこには影響を受けたというグエル
公園のよ
うな印象を与える壁面や手すり、様々な装飾の施された柱がある。広場を囲むタロット・
カードの
枚数と同数の22本の柱には、男根状の突起、立方体、数字、どくろ、などそれぞれに違
う装飾が
施され、ニキ・ド・サンファルにとっての男性を示すシンボルと見ることができる。その
柱の奥の
壁には、上記の言葉にあるように、「傷ついた動物」シリーズのレリーフとして動物、鳥、
怪物が
いる。、また柱の上には、科学の進歩の結果作り上げられたロケットとも、原子爆弾ともと
れる、
ロケット形の塔と男根を思わせる塔がおかれた。
「皇帝」には女性の姿も見ることができる。それは例えば、柱に囲まれた中庭の中央に
置かれた
《ナナの噴水》である。4人の女性が仰向けに輪になって寝そべりその手や乳房から水を
噴き出す
《ナナの噴水》はニキに言わせると、皇帝の愛人なのだそうだ。*16 ほかにも、柱の奥の
壁にはめ
込まれたレリーフでは、女性が泣いていたりする。この様々なモティーフの寄せ集めの中
には、好
戦的な父権制社会の面影はない。
*Ⅴ
教皇または司祭 The hierophant
2本の柱の間に置かれた玉座に教皇は座っている。3重の王冠をかぶり、手には3重の
十字架の
付けいた権杖をもち、2本の指をおった右手で、足下にかしずく2人の剃髪僧に祝福を与
えている。
女教皇が秘儀的なものを表していたのに対し、教皇は、組織的な宗教の力を表す。
教皇は、5という数字をああえられた。5は、霊感、創造的思考、道徳的法則、知的統
合の数と
いわれる。教皇の霊感を通じて人と神の絆は絶えず更新され、解釈し直される。
それまでにない巨大なスキニーズによるみつ目の頭部と、その頭部の上に、3重の十字架
を掲げ
る男女によって「教皇」(図 36)は表された。同じ頭部だけの像であるという点で「女教
皇」と
対の要素を見ることができるかもしれないが、全体としては、「女帝」と「皇帝」がそうで
あった
ように別々のものという印象の方が強い。タロット・カードの図柄とは、3重の十字架、
床面のモ
ザイクに現れる教皇の持ち物等の共通点が見られる。例えば写真のモザイクは、タロット・
カード
に表されている教皇の特徴的な帽子、祝福を与える手、教皇の両脇を囲む2本の柱を示す
と考えら
れる。
ニキはこう述べる
このカードを通して人は、神聖な自然の英知を身に付ける。彼は、ある種の指導者、グル、
教祖、法王を表している。教皇は、謎を解読する。それは、教典、シャーマン、ラビ、信
心
深い男性または女性かもしれない。*17
この「教皇」に対する彼女の言葉は、興味深い。一つに、ニキは、この「教皇」をグル、
法王、
ラビという言葉で言い換えている。グルは単に指導者という意味だけでなく、特にヒンズ
ー教の指
導者を指す言葉であり、法王は、通常ローマ法王を、ラビはユダヤ教の牧師を指す。タロ
ット・カ
ード同様複数の源泉を意識した発言なのである。また一つに、この「教皇」が、グル、法
王、ラビ
といった人物であると同時にその指導を受ける信仰者かもしれなく、その信仰者は男性と
は限らず
女性かもしれない、そしてそういった人物なのではなく教典かもしれないという発言は、
様々な宗
教の違いだけでなく、人や物の違いも越えた無性または両性具有の一つのエネルギーのよ
うな物を
ニキが意識しているのではないかと思わせる。
ニキは「教皇」に金色の第3の眼を付けた。この第3の眼は、彼女の初期の頃のアッサ
ンブラー
ジュ作品、例えば、《エヴァ・エプリの肖像》や、《ジル・ド・レ》といったこれもまた頭
部だけ
の作品の額にはっきり眼としてではないけれど、何らかのアクセントを施したことに始ま
り、彼女
の作品に時々現れる物である。《メタ・ティンゲリー》の中のティンゲリー像や、この《タ
ロッ
ト・ガーデン》を意識してつくられたと思われる、《正義の女神》《スフィンクス》もみつ
目であ
る。また、1998年初来日したニキが京都で見た仏像にヒントをえてつくったとされる
《ブッ
ダ》(図 37)は、体の中心を縦に目玉が並べられ、またエジプトの「ホルスの眼」と呼ば
れる図
像からヒントをえたといわれる「マジックアイ」のような眼に関する作品もある。
*Ⅵ
選択または恋人
The choice
このカードには2つのタイプがある。一つには2人の女性に挟まれた男性の姿が描かれ
ている。
どちらの女性も自分の方へと男性を誘うかのように見えるが、男性は2人の間で心を決め
かね、立
ちつくしている。3人の頭上には翼を持つキューピッドが舞い、下にいる者たちに狙いの
矢を定め
ている。ここに描かれた女性2人は、恋人と、母親というようにもとれ、母親への忠誠と
恋人への
欲望、伝統的権威と独立的行動との間で選択しなければならないというジレンマを示して
いるとも
とれる。
また一つには、エデンの園にいる最初の男女と生命の樹、蛇、が描かれ、その頭上に翼
を付けた
人物が描かれているものもある。どうやらこちらの方は、のちの解釈よりできたものであ
るらしい。
早い時期につくられたカードには、一つ目のタイプの図が描かれていることが多い。
このカードの数は6である。6は、2と同様緊張とアンビヴァレンスを意味する数だ。
また6は、
『創世記』に記録された天地創造の6日間と関係しているため、前進や進化という思想と
も結びつ
いている。
タロット・カードの2つのタイプの図柄のうち、ニキ・ド・サンファルがもとにしたのは、
アダム
とイヴのタイプであるようだ。(図 38)ニキはこう述べている。
いくつかのタロット・デッキはこのカードを、「恋人たち」と呼んでいる。アダムとイ
ヴは
最初のカップルであり、最初に選択をしたのだ。それで私はこのカードをこのように表現
し
た。カードは、正しい選択と間違った選択があることをほのめかしている。間違いは、自
分
自身の真実へと人が近づくことを可能にする。*18
林の中で、2人は向き合って座っている。アダムとイヴが描かれる場合過去の絵画では
イヴと蛇
が近い関係に描かれることが多いが、この像では男性の後ろに蛇がいる。蛇はリンゴを勧
めている
わけでもなくただ後ろからのぞき込んでいるだけだ。その様子は、ピクニックの最中にお
昼ご飯を
食べているといった風である。腰掛けともなっているテーブルの上には、チキンと、ワイ
ンと、二
つに割られたリンゴがのっていて、リンゴの中にはドクロのマークが浮き上がっている。
ドクロマ
ークのないリンゴにはかじった跡がついている。リンゴを食べたということは、2人は、
もう選択
してしまったのだろうか?過去の絵画のなかにはこれにつづく絵として楽園追放の図が多
く残って
いる。追放される2人は悲しみや、絶望感をただよわせていることが多い。しかしこの「恋
人た
ち」の像は、むしろこの状況を楽しんでさえいるようだ。
Ⅶ
戦車
The chariot
戦車には、2頭の馬、またはスフィンクスに引かれた天蓋付けの戦車に乗る若者が描か
れている。
若者は冠をかぶり、手には杖を持つ。両肩には三日月が付けいている。
戦車の若者には、定かな祖先はいない。しかし、象徴的には、太陽の戦車に乗るヘリオ
ス神、あ
るいは生と光の守護神アポロに似ているかもしれない。
この戦車のカードに与えられた数字は7である。この数字は、7つの美徳と7つの悪徳、
人の7
つの段階、1週間が7日からなることと、きわめて影響範囲の広い象徴に重要な数である。
また、
7は3と4の組み合わせから出来ている。そのため、この戦車の若者は、女帝(カードⅢ)
と皇帝
(カードⅣ)の間の王族の子孫と見なされうる。
四角い戦車の中の若者は、ペルソナという鎧の中で安全に、人生の道中をなめらかに旅
する個体
である。馬によって象徴される基本的心のエネルギー、あるいはリビドーを彼は手綱でう
まく裁く。
「戦車」(図 39)は《タロット・ガーデン》の他の像に比べて小さく、
「女帝」の内部に置
かれ
ている。この女帝内部には「星」の像も置かれており、こちらは後に屋外に噴水としても
表された
ところを見ると、この「戦車」もこの「女帝」内に置かれたものを元として、後には屋外
に別な形
で表されることがあるかもしれない。
戦車は勝利を表現する。敵にうち勝ち、困難にうち勝った勝利である。カードには、固有
の
危険が潜んでいる。勝利の時人は最も用心深くならなければならない。なぜなら、人は最
も
脆いものだからだ。*19
2頭の馬に引かれる天蓋付きの戦車に手に杖を持つ一人の人物が乗っている。この像は、
タロッ
ト・カードにかなり忠実に基づいている。しかし、タロット・カードでは、若い男性がこ
の戦車に
乗っているのに対し、ニキの戦車に乗るのは女性だ。それは、人物の胸に円で表された乳
房が付け
いていることだけでなく、この「戦車」の真上に女性のマークが付けられていることから
わかる。
この像は単なる像なのではなく、裏側には空間があり、そこへ鑑賞者が入り込めるように
なってい
る。裏側に入ると、鑑賞者はまるでこの戦車に乗る女性と一体化したようになる。
しばしば男性的とされるような黒と白のストライプの柱は、かっちりとした印象でしっ
かりと戦
車を支え守っている。その一方赤と緑の曲線の柱は、女性的といえるだろうもので、柔ら
かさと華
やかさをこの像に添えている。
*Ⅷ
正義
Justice
王冠を戴いた正義の女神は神殿の柱の間に座り、有罪と無罪をはかる天秤と、評決を司
る剣を手
にしている。この女性は冥界に旅立つ人々の魂の重さを量る古代エジプトの神オシリスを
連想させ
る。また、この女性の姿は中世の美術にしばしば登場する4つの徳−他の3つは、節制、
力、思慮
−の一つである。
8はギリシャ人にとって裁判の女神の数である。それは偶数の等しい分割からつくられ、
そのた
め均衡と平衡を暗示するからである。
正義はバランスと統合の源泉が女性原理から生まれることを示している。またこの正義
は、我々
が均衡のもとに裁量されなければならないということ、我々が当然の報いを受けなければ
ならない
という道徳を示す。
黒と白のストライプの衣装を付けた女性が、その胸の部分を受け皿とした巨大な天秤を
かかえて
いる。その女性は、腹部に大きな錠の付けいた扉が埋め込まれており、その中では、ティ
ンゲリー
の手による鉄のオブジェが音をたてながら動いている。(図 40)
「正義」は、個人の知識を暗示する。人は、私たちの暗部と折り合いを付けるため自らを
裁
く能力を身に付けることを必要としている。この眼識によって私たちは、他人を裁いたり、
同情したりする。本当の正義は、盲目的ではなく、普遍的な視点をもたらすものである。
「正義」の内側には、ジャン・ティンゲリーが、「不正義」を表すオブジェをつくった。そ
して、その扉を南京錠で閉じた。*20
その大きさと、モノトーンの色調が、威圧的な感じさえ与える「正義」の像が、内に「不
正義」
を秘めているという発想はタロット・カードには全くなかったものである。タロット・カ
ードに表
された「正義」は、座る台座によって威厳を、片手に持つ剣で不正を許さない厳格さを表
現してお
り、「不正義」を感じさせる要素は一つも見あたらない。しかし、ガーデン内の「正義」の
像は、
しっかりと鍵がかかっているとはいえ、うごめき続ける「不正義」をかかえ、両手で天秤
を支えて
いるため剣を持つことは出来ない。彼女は、天秤でもある乳房をかかえており、「正義」の
カード
ではその人物こそが裁きの天秤を持ち上げていたのに、そこには天秤を持ちあげ、裁く人
物は表現
されてはいない。
彼女の作品の中には、この形と似通った別の正義の像がある。《正義の女神》(図 41)と
題さ
れたその作品は、この像と同じように乳房を天秤とした女性の姿で表現されている。天秤
には、小
さな「ナナ」と骸骨が乗っており、やはりそこにも天秤を持ち上げ裁く人物は現れない。
みつ目の
巨大な人物は、「ナナ」と骸骨の乗った天秤を支えるだけである。その「正義」の像の裏側
には、
蛇が隠れている。蛇たちは、彼女の表現する蛇には珍しく歯が生えているものもおり、何
か不吉な
感じを漂わせている。この蛇たちに私は、ティンゲリーの表現した「不正義」を感じる。
ここでは、
タロット・カードが示すような絶対的な正義が表現されているのではないのだろう。彼女
には絶対
的な正義などあり得ないと感じえられたのかもしれない。個人が自らの内に暗部をかかえ
ながら、
個人の裁量で天秤を動かす様が見えるようである。
*Ⅸ
隠者
The hermit
荒野に外套をきてあごひげをたくわえた老人が立っている。彼は長い杖をもち、右手に
はランプ
を持っている。いくつかのパックではこの老人の杖には蛇が巻き付いている。彼は賢い老
人、混沌
とした外見を持つ人生に織り上げられた意味の糸を示す師を象徴する。彼は高い意識とい
う光によ
って原始的な暗闇を照らし、夜の影を蹴散らす。
隠者には9という数字が与えられた。9は一桁の最後の数である。9の後我々は1ある
いは統一
へと戻る。
「隠者」(図 42)の像は、ガーデン内に3体設置されている。一つはタロット・カードに
かなり
忠実な形で表現された。スキニーズによるこの像は、青い色に塗られ、カードに示された
ように、
あごひげをたくわえた老人であり、片手にはランプを、片手には蛇の巻き付いた杖を持っ
ている。
一つだけカードと違う点をあげると、この「賢者」には、真っ赤なハートが、示されてい
ることで
ある。もう一体は、この像を抽象化したような作品で、細かくしたガラスに覆われ、手や
足、杖や
ランプは省略され、黒くくぼんだ目と鼻、あごひげが賢者の面影を残している。その体に
は、人一
人分が入れるスペースがつくられており、内側もガラス張りのそのスペースにはいると細
かく断片
化した自分自身を映し出すのを見ることができる。もう一体は、女性像である。金色の蛇
に巻き付
かれた女性像は背中にやはり人一人分のくぼみをもち、そこには真っ赤なガラスがまるで
内側の肉
をさらけ出すかのようにはめ込まれている。
賢者は、精神的な宝を探し求める老練な放浪者である。このカードはもっとも重要なレッ
ス
ンは心を通して学ばれなければならないことを暗示する。巫女は賢者の女性版である。彼
女
の内側に入り、彼女のメッセージを聞きなさい。*21
このニキの言葉から、3体目にあげた女性像は、賢者の女性版なのだということがわかる。
そして
「もっとも重要なレッスンは心を通して学ばれなければならない」という言葉の通り、ス
キニーズ
の賢者にはタロット・カードにはない赤いハートが表され、他の2体には、心を通して学
ばなけれ
ばいけないときに自らと向き合うスペースが用意されたのである。
*Ⅹ
運命の輪
The wheel of fortune
このカードでは、特定の人物は登場しない。木製の輪が二本の柱にかかっている。輪の
上には、
おそらく竜と思われる生き物が剣をもち座っている。また別のパックではこの位置にスフ
ィンクス
がいることもある。上昇していると思われる輪に向かって右側にはこれも判別の難しい犬
のような
頭の4本足の生き物がしがみついている。これを、古代エジプトの神テュポンと解釈する
ものもい
る。下降している思われる左側には、猿のような生き物がいることもあれば、悪魔のよう
に見える
生き物がいる場合、蛇の場合もある。またいくつかのパックでは、地上に猿がいて、その
猿がこの
運命の輪と呼ばれる木製の輪を回している場合もある。またパックによっては、カードの
4隅には、
エゼキエル書と黙示録に登場する4種類の生き物−雄牛、獅子、鷲、人間−が座り、それ
ぞれの律
法書を広げている場合がある。このカードの伝統的な解釈によると、輪を下る生き物は、
事物の拘
束へと沈みゆく未進化の魂を表す。輪を昇る生き物は、自らを隷属させる物質的拘束から
次第に抜
け出す進化の過程にある存在である。しかし、その上には剣を持つ竜がおり、この竜が死
がついに
彼の体を彼から解き放つときすぐに彼を回転する輪に戻し、もう一度受肉出来るようそこ
に控えて
いる。最後に、いくつもの生を経験し、物質的宇宙が彼にもは何も教えるものを持たぬ段
階になっ
たとき、竜は恐ろしい形相をなくし、その剣の先で彼を下へと下る道に戻す代わりに、彼
との絆を
断ち切るために鋭い刃を用い、彼を解放するとされる。
運命の輪は生と死を支配する法則、いかなるものも一定ではなく、いかなるものも確実
に掌握し
えぬような変化の原理であり、このカードに与えられた10という数字もまた、最初の2
桁の数字
という点で、新たな始まりと、それまでの完結を象徴する。10は伝統的に完全な数であ
り、完全
の象徴は円あるいは輪である。 運命の輪は、かつて人生の輪(Wheel of life)のシンボルだった。昇ったものは降りなけ
れ
ばならない。ある日、ガーデンを歩いているとき EUREKA!(アルキメデスが金の純度をは
かる方法を見つけたときに叫んだといわれるギリシャ語、わかったの意味)ジャン・ティ
ン
ゲリーに女教皇から流れる水の中に噴水の形で運命の輪をつくってもらうのはどうかとい
う
アイデアが浮かんだ。*22
タロット・カードに表現された「運命の輪」(図 43)はこのニキの言葉にあるように、
ティン
ゲリーによる噴水となって「女帝」(カードⅡ)の口から流れ出た水のそそぎ込む池の中に
設置さ
れた。3つの黒い輪が回り、細くのびた管の先からは、螺旋状に水が噴き出す仕掛けとな
っている。
噴水という案が浮かんだのには、彼女が参考にしたという庭園の一つで、庭園内の様々な
噴水で有
名なエステ家別荘の影響があるかもしれない。また、1982年パリ市からティンゲリー
へポンピ
ドー・センターに隣接する広場のための噴水の依頼があった際にティンゲリーは、ニキ・
ド・サン
ファルのカラフルな作品と自分のモノクロの機械をあわせることを考えつき2人で《スト
ラヴィン
スキーの噴水》をつくったこと、その後、ミッテラン大統領の依頼により、2人でシノン
城に噴水
をつくったことも要因の一つと考えられる。
一方で、この運命の輪の図像の系譜をたどるとおもしろいことがわかる。若桑みどり氏
による
『象徴としての女性像』の1章、「女神の没落」のなかで氏は、ローマで最も有名な運命の
女神フ
ォルトゥーナが、大地母神からいかに運命の女神としての機能を果たすようになったか、
そして、
運命の女神がいかに没落の道をたどったかを詳細にあげているが、その女神の没落をあき
らかに示
す表象としてこのタロット・カードにあるような「運命の輪」の図が用いられているので
ある。ロ
ーマ帝政期には「女の人生の守り手」として各地に神殿を建てられ崇拝されていたこの女
神は、一
方で変わりやすく盲目、はかない、売春婦、嫉妬深い、残酷な、という形容のされる女と
なったこ
とを氏は指摘する。そしてその表象として、「運命の輪」が用いられたことを氏はあげる。
ボッカッチョにも、ボッカッチョを自由英訳したリッドゲイトの『王侯の没落』にも、ポ
エ
ティウスが示唆した、為政者の権力の変転を象徴する「運命の輪」が強調されて登場して
い
る。フォルトゥーナがくるくると回転させている車輪の上を上がる人間と、その車輪が回
転
したときに、その上から振り落とされて転落する人間たちの図像は、回る輪の上に乗った
人
間のように激しく変わる権力の交代と、この世での権力の危うさをたくみに表象した図像
で
あるために、10世紀頃から既に中世の写本の中に現れ、14世紀から16世紀の社会変
動
期には、異常な流行を見せた。*23
他者化された女神は、気まぐれにまた無慈悲に車輪を回し、後にこの像は裸体の玉乗り女
の図と化
してしまう。
ニキは、この「運命の輪」の図像に使われ、家父長社会の中で降格させられてしまった
女神の没
落を知っていただろうか?ニキは、このガーデンに設置する像を考える間、様々な像のバ
リエーシ
ョンを制作している。その中には「運命の輪」も含まれている。それはレリーフ状の作品
なのだが、
そこには、水面に浮かぶ輪とその輪を支える棒に絡みつく2体の蛇、そしてその上、タロ
ット・カ
ードでは竜がいることとなっている位置には、フォルトゥーナを思わせる羽根の生えた女
性像を見
ることができる。なぜ彼女はこの作品を用いなかったのだろうか。ほとんどの像を彼女は
自分を通
して解釈し、その上で作品を作り上げているように思えるが、もしかするとこの「運命の
輪」につ
いて彼女は積極的に関わることが出来なかったのかもしれない。それは、運命が中世に置
いては女
神という他者に置いて表現されたものであるように、自らの外にあるものだからだ。フォ
ルトゥー
ナを意識したものであるにせよ、そうではないにせよ、彼女が女性像を「運命の輪」の上
に載せる
ならば、彼女のしばしばどんなものも「ナナ」のバリエーションだと考えられる女性像は
どうして
もニキ・ド・サンファル自身と密接な関係を持ってしまう。自分の外にある強力な運命と
いう力を
表すのに問題が生じてしまうのだ。彼女がその運命をティンゲリーに託したというのはと
ても興味
深いことである。もちろんそこには、女神の没落もなければ、男性神の没落もない。
ⅩⅠ
力
Strength
若い女性が目の前の獅子の口をつかんでいる。または獅子に花輪をかけている。彼女の
頭には鍔
の広い帽子があり、この帽子はいくつかのパックでは無限大のマーク(∞)として描かれ
ている。
彼女は自分の置かれている状況に対しきわめて冷静であるようにみえる。彼女を月の女神
ディアナ
と結びつけるものもいる。本能の力の象徴ライオンを押さえ込む彼女の姿は、自制を身に
付け高い
自己を求める姿の象徴と考えられている。
「力」はタロット・パックに現れる4つの徳目の2番目にあたる。ライオンをさえ込む
若い女性
としての「力」は中世の一般的イメージである。このイメージはライオンを倒すサムソン
という
『聖書』の物語を暗示する。そのためいくつかのパックではこの「力」はライオンを殺す
サムソン
の姿によって示される。
11というこのカードにあてられた数字は、2桁の第2番目の数字であり、脆弱さ、危
険、境界
を越えることを伝統的に示す。またアラビア数字1の反復という点で緊張、対立、多用な
本質を調
和させるための闘争を暗示するという点で、数字の2ににている。
「魔術師」(カードⅠ)や「女帝」(カードⅡ)とその前に広がる池と対面するように「力」
(図
44)は設置されている。少し高い位置で女性が腰に手を当てたポーズで立ち、向き合うよ
うにド
ラゴンが置かれている。一見ドラゴンは巨大で重量感があるが、しかし、ドラゴンの体は
空洞で、
体の小さい子どもたちならば、その内側に入って遊ぶことが出来るようになっている。ニ
キはこう
話す。
か弱い乙女が、どう猛なドラゴンを目に見えない糸でひいている。怪物も乙女も彼女自身
の
内に飼い慣らされているものに違いない。彼女が征服しなければならないのは、彼女自身
の
内にいるデーモンなのだ。この難しい務めを通して彼女は自らの力を発見するであろう。
*24
この言葉に私は、以前私自身がこのカードについて思いつくままに書いた文章が間違って
はいなか
ったと感じた。それは以下のようなものだった。
ニキ・ド・サンファルが繰り返して製作する《力》という作品に注目してみよう。ニキは
タ
ロットカードの大アルカナ22枚に見立てた巨大な建造物をつくり、《タロット・ガーデ
ン》を建設しているが、《力》はそのタロットカードの11番目に相当するもので、女性が、
鎖につながれた怪物を犬のように従えている像である。この作品は、他の作品と同じように
何度も繰り返して製作されているが、もともとは影響を受けたというパオロ・ウッチェロの
《竜と戦う聖ゲオルギウス》から発想を得たと思われる。このウッチェロの絵の場合には、
殺される竜は、悪の化身で異教を象徴し、王女はキリスト教によって改宗される異教の国を
擬
人化していると考えられる。つまり、この絵の主題はキリスト教の進行による異教征服を意
味している。一方でニキの作品を見てみると、同じような怪物と王女の像を見ることはでき
るが、それを退治する聖ゲオルギウスの存在を見ることはできない。王女は怪物を飼い慣ら
し、そして機械を使ったニキの作品の中で、王女は自分自身の力で怪物を解体しているので
あ
る。ニキがこれまでに個人的な事柄をきっかけにして、作品をつくっていることを考えると、
ニキを取り巻く数々の困難を、聖ゲオルギウスという他者に頼ることなく自分自身の力で解
決する様子を見てとることができるかもしれない。*25
言葉足らずなこの文章だが、ドローイングや立体など様々なバリエーションのあるこの
《力》と
いう作品を見ていて私は、彼女がボンでの回顧展カタログ*26 の扉絵に《私が好きなもの、
影響を
受けたもの》というタイトルで、様々な事柄、人物、ものの名前を簡単なイラスト入りで
紹介した
ドローイングの中にパオロ・ウッチェロの名があり、そのウッチェロの作品《竜と戦う聖
ゲオルギ
ウス》(図 45)とニキのこの「力」に現れる女性と竜の関係がよく似通っていると思い当
たった
のである。おそらくこの鎖でつながれた怪物とその怪物をひく乙女という図自体は、もと
もとは、
タロットカードにあるようなライオンのようなどう猛な動物を押さえつける女性の図、つ
まり、典
型的な徳の図から発生したものであろうと思われる。
一方で聖ゲルギウスは、ドラゴン殺しのとの形容が付く人物として伝えられており、中
世の習慣
では復活祭の月曜日に祀られる人物であった。これは、ゲオルギウスが春の精と同等に見
られてい
たことを示す。このような豊穣の儀式に関わることを好まなかった教会は、(こういった自
然を司
るのは、多くの場合この時代にはキリスト教会によっておとしめられた女性神や、女性の
聖人であ
った)ゲオルギウスを偽の守護聖人、想像上の聖人と呼び始めた。*27 ウッチェロの絵の
中では、
この女性と竜の関係は、そこに聖ゲオルギウスが入り込むことにより、キリスト教による
異教征服
の図としての機能を果たしてはいるが、ニキは、タロット・カードが示すライオンの口を
押さえ込
む女性の像ではなく、ウッチェロの絵に登場するような怪物をペットのように飼う女性の
像に惹か
れたのではなかっただろうか。自分自身の中にある陰性と陽性の共存をはかってきたニキ
にとって、
ウッチェロの絵に登場する、怪物を倒す存在の聖ゲオルギウスは必要のないものまたは乙
女こそが
聖ゲオルギウスと同様の働きを代行するものなのである。ティンゲリーが亡くなった後、
ニキ・
ド・サンファルはティンゲリーへのオマージュ作品としてキネティック絵画を作り始めた
が、その
中の《砂漠の女王》(図 46)という名の作品には「力」と同様怪物を引く女性の姿が見ら
れる。
この機械によって動く作品では、怪物はライトによって点滅する鎖の先で、解体と再生を
繰り返す。
鎖の点滅、怪物の解体と再生と同時に女王の胸のランプも光り、始めにあげたニキの言葉
「彼女が
征服しなければならないのは、彼女自身の内にいるデーモンなのだ。」が形となって現れて
いる。
ガーデン内の「力」に登場している怪物のあざやかな羽根は、未だこの怪物が彼女の従属
物ではな
くいつかはまた暴れ出しそうな予感を、そして、その怪物の牙はもしかすると鎖を握る彼
女に噛み
つくかもしれないけれど、解体の代わりに空洞化されたドラゴンのお腹からこのガーデン
を訪れた
子供たちが顔をのぞかせている様子を見る限り、今のところはこのガーデンの守り神のよ
うな役目
さえ果たしているようである。
ⅩⅡ
吊された男
The hanged man
頭に光臨のある若い男が、宙に逆さ吊りされている。彼の腕は背中で縛られており、両
足は縛ら
れていない左の足が右足にかかっているため十字になっている。彼の表情は落ち着いてお
り、むし
ろ笑みを浮かべているパックもある。
吊された男は、タロット・イメージの中で最も奇妙なものの一つである。正統的キリス
ト教の図
像の中には見いだせないため、このタロットというものが非キリスト教的信仰を説明する
ためにデ
ザインされたことをはっきり示している。また彼が吊されている樹は、世界樹、あるいは
宇宙のあ
らゆる天球を通って成長する生命の樹の枝だとされる。犠牲となる生け贄を樹から吊すと
いう行為
は様々な地域で見られる宗教的祭儀の一つである。彼は逆さまに吊され、それにより新し
い視点を
獲得した。
このカードには12という数字が与えられている。アラビア数字に置いて12は第3次
元を生む
統一と二重性の相互作用を意味する1という数字と2という数字の組み合わせである。1
1という
数字の危機は解決され、再生と救済の象徴である。
タロット・カードに忠実な、逆さ吊りにされた男性がスキニーズで表現され、枝先が蛇の
頭部とな
った樹の内側に吊されている。(図 47)樹の内側は、細かなガラスの破片で覆われている。
ニキ
はこう述べる。
吊された男は、これまでの時代、詩人や芸術家たちを魅惑し続けてきた。T.Sエリオッ
ト
は、彼の詩『失われた大地』の中でこの吊された男について述べた。謎めいていて、多義
的。
吊された男は、足から吊されている。これは何を意味するだろう?彼は世界を上下逆さま
に
見る立場にある。つまり、新しいやり方だ。このカードは、同調も意味している。*28
タロット・カードにおいて最も異教的なこの図像にはニキはあまり手を加えず、忠実な表
現をした
が、その男が吊されている樹はニキのオリジナルな要素に溢れている。一つにニキは、世
界樹や生
命の樹だといわれる男が吊されている樹の枝先を蛇の頭部にした。ニキは初期の絵画作品
から蛇や
樹を登場させ、この蛇の樹を単独の作品として他にも多く制作している。増田静江氏によ
ると、ニ
キが11歳のときアメリカの避暑地で平原を散歩しているときに絡み合いながら動く2匹
の蛇と出
会い、目をそらせず見続けている内にその蛇たちに同化してしまうという奇妙な恍惚の体
験をした
ことが影響としていると考えられるのだということである。*29 また、樹と蛇はもともと
関係の深
いもので、例えば、神話・伝承事典では、ギリシャ人は、母神ヘラが西方に魔法のリンゴ
の園を持
っていると考えており、そこでは「生命の樹」がヘラの聖なる蛇に守られていると考えら
れていた
ことや、太女神が崇拝者にリンゴの形をした生命を与えている姿を、誤って解釈した結果
がイヴ、
アダムと樹に潜む蛇の図像となったのではないかということを示している。*30
この「蛇の樹」は半分は白黒で、半分は色づけされている。これはニキが1979年頃
に盛んに
つくっていた《昼と夜》(図 48)と題された作品に見られるように一つのものの2面性を
表した
のだろうと考えられる。《昼と夜》の作品では、城や、山、そして樹が描かれそれらは中央
から2
分され片方は明るく、陽気な昼の様子を、片方は暗く、しばしば不吉な感じを漂わせる夜
の様子に
色づけされている。同一のものの二つの顔とその中の断片化された鏡が細かに反射する中
に男は吊
された。物事の裏と表を知り、物事を新しい方法で見られるこの男は、どんな考えにもそ
の見方を
様々に変えることで同調することが出来るのかもしれない。
ⅩⅢ
死神
Death
骸骨が、人体の散乱した地面の上にいる。パックによって骸骨は、大がまをもっていた
り、甲冑
に身を包んでいたり、馬に乗っていることもある。また、背景に川が流れていることもあ
る。
この死の様式化したイメージとしての骸骨は、古くからの用いられてきた。この場合、
骸骨はお
ぞましき存在というよりも、解放者である。パックによっては大がまは、古い束縛からの
意識の解
放を示す。散乱した人体である、手や足は再生のため地面に根を張るかのようであり、し
ばしば背
景に描かれる川は、再生に至る生命の川である。骸骨はそれ自体、根底にある生命の持続
を象徴す
る。個体の外見は年をとるにつれ変化するが、これらの肢体を支える骨の構造は変化せず、
若者の
時と同様、老人の肉もそれらは支える。死無くしては生はなく、また死は終焉ではなく新
たな生へ
の道を拓き、その組織のための材料を提供する。そこでは失われたり、浪費されるものは
なくただ
形が変化するだけなのである。
このカードには13という数字が与えられている。死のエンブレムであり、今日不吉な
意味を持
つ数字である。1と3からなるこの数字は秩序と組織の象徴としての4という数字と類似
している。
死神は、一見混沌の使いのようではあるが、生に従う新たな秩序の扇動者である。
まるで地面から生えているような断片化された手足、『黙示録』の第6章に語られた黄泉
を従え
地上の四分の一を支配する「青い馬に乗った死」のように青い衣装を掛けられた馬、手に
は生命を
刈り取る大鎌を持っている骸骨と、一見タロット・カードの図柄を忠実に再現したかと思
える「死
神」(図 49)の像は、本来肉体の剥げ落ちた骨だけであるため女性か男性か見分けること
は難し
いはずである。しかしながらこの像をニキは明かな女性像として表現した。頭部は確かに
骸骨の形
をとってはいるもののこの像の頭より下には、肉付けがされており女性的ラインを作り上
げている。
このことからこの「死神」の像にはニキ独自の解釈が加えられたと考えられるだろう。
人生の偉大な謎。死無くしては、人生はなんの意味もないだろう。死、偉大な収穫者は、
新
しい花が育つことを促す。死のカードは、再生のカードである。死に気づいていることは、
人生のはかなさに捕らえられない方法である。*31
ニキ・ド・サンファルにとって、生命を刈り取り、新しく生命を与えるものは女性でな
ければな
らなかった。それは、古代においては生と死を司るのは女神の役目であったことと無縁で
はないだ
ろう。「運命の輪」(カードⅩ)であげたフォルトゥーナのような女神たちは、父権社会に
よって
その地位を奪われるまで、様々な地域で様々な名で呼ばれながら生と死を司ってきた。彼
女たちは、
古代人にとって、宇宙および宇宙の法則を作り上げたものであり、誕生と死の他にも自然、
運命、
真実、知恵、正義、愛も司ってきた。古代においては、死にも誕生と同等の価値が置かれ
たのであ
る。この女性の骸骨が刈り取った手や足は混沌の中へと帰り、再生を遂げるのである。
またそれと同時に、古い時代に用いられた骸骨の像がおぞましき存在ではなかったとは
いえ、現
代に至るまでにこの像は不吉な予感を与えるものともなった。ニキのこの女性の姿をとっ
た骸骨が、
ネガティブなイメージとも切り離せないだろうことがニキの言葉の中に伺われる。ニキは
自伝の中
でこう述べている。
私は1930年生まれ、大恐慌ベイビー。私が母のお腹にいたとき、父はすっかり財産を
な
くしてしまいました。同時に母は、父の不実を知りました。妊娠中母は、泣きっぱなし。私
は母の涙を感じていました。後になって母は、何もかも私のせいだとよく言っていました。
私がトラブルを持ち込んだと。*32
1929年の世界恐慌によってサンファル家は破産し、その結果、一家は住んでいた家を
追われ、
またこの頃ニキの母親は、夫であるニキの父親の浮気に悩まされていたのだと自伝は語る。
そのこ
ろに生まれたニキと兄のジョンは、両親と離れ、3年間を祖父母の元で暮らしている。後
になって
書かれた自伝がどの程度の客観的真実を告げてるかはわからない。しかし、ここには、ニ
キにとっ
ての真実が語られている。自伝の中にはこのような詩的な散文が見られる。
お母さん、お母さん
あなたはどこにいるの?
どうして私の元から去っていったの?
私が何か悪いことをした?
いつか戻ってきてくれる?
すべての女性はあなたになる
ママ!
すべて私が悪いの。*33
不吉な使者としての自分自身の姿がこの「死」の像に反映されてはいないだろうか。
そして、また、ニキはこのタロットの「死」の像以外にもドクロを作品中に用い、特に
「再生へ
向けての死」のイメージ表すことがある。例えば、ドクロの形の燭台《赤い髑髏 −燭台》
、
や
《ナナの家》のように一人が中に入れるようになっている巨大な頭蓋骨《デス・ヘッド −
ルー
ム・オブ・メディテーション−》といった作品には、現実的な死というよりは精神修養的
な意味合
いの死を見ることができる。これらの死のイメージというものは、過去の絵画の中にも見ら
れるも
のである。ドクロは聖フランチェスコや、マグダラのマリアなどの持ち物とされ、特にも1
6世紀に
は、ドクロを凝視し、あるいはこれを手にもちながら、祈る聖人の姿が数多く描かれている。
ニキの
髑髏を用いた作品は、これらの考え方と無縁ではない。髑髏の燭台に火を灯し、向き合うと
き、髑髏
の瞑想の部屋へ一人入るとき、おそらくそこには死と向き合うための機会が整っている。
ⅩⅣ
節制
Temperance
翼を持つ女性が屋外に立ち、左右の手に持つ水差しの液体を入れ替えている。彼女の片
足は陸に、
片足は泉に足を浸している。
一つの器から、別の器へと水を注ぐ女性としての「節制」という徳のイメージは、
「正義」
(カ
ードⅧ)、「力」(カードⅩⅠ)と共に中世に一般的なものの一つである。節制という言葉は、
原
料を正しい比率で混ぜるという古い意味で用いられている。そのため、節制は、対立物の
結合のエ
ンブレムである。彼女の片足が地面に、片足が水に浸されているのは、外的世界と、内的
世界の結
合を示すととれる。
彼女に与えられた14という数字は他の数字と同様、5と似た要素をもち、大きな全体
の複数の
部分の調和を示す。
羽の生えたナナが建物の上で軽やかにポーズをとる、かまくら状の建物の中にはいると、
ニキ
がボトルデザインと、香りの調合をしたという香水の匂いがただよっている。網の目状の
縁取りに
鏡が埋め込まれたどちらかといえばシンプルな外側と比べ、内側はハートや、花、床面に
は、月や
星のモザイクがはめ込まれとても華やかな印象を与える。とてもニキらしい色使いや形の
この「節
制」(図 50)なのだが、ニキはこのカードをどう表すかに悩んだのだという。
私はこのカードをつくるのに大変悩んだ。それは私の情熱的な性質とあまりにかけ離れて
い
たためだ。「節制」は私には、妥協することに見えた。真ん中の道をを選択すること。
ある日光が降りてきた。「節制」は正しい道なのだ。私は節制の礼拝堂の上部を飾るよう
このカードの天使をつくった。このドームの内側は、多くの鏡が反射するセラミックの花
と
ハートの宇宙、黒人の聖母マリアの飾られた礼拝堂だ。それは、魔法の空間。*34
確かにこのニキの言葉を聞くと、「節制」という言葉はニキの人生を語る上で使うことは
難しい
ように思える。彼女の人生は、真ん中の道を選択するというよりは、道を外れたとしても
一つのこ
とをとことんに突き詰めてきたように見えるからだ。例えば60年代にニキが行っていた
射撃絵画
は、本物の銃を使って絵の具の入った袋やスプレー缶を石膏で塗り固めたキャンバスを撃
つといっ
たもので、銃声と共に、色が吹き出し完成する絵画だった。彼女は教会を撃ち、男性を撃
ち、「テ
ロリストになる代わりにアーティストになった」*35 という言葉さえ残した。ネガティブ
な情熱か
ら一転、「ナナ」という女性像が産み出されたことがきっかけとなりニキの作品は過剰な色
と膨ら
みとユーモアをもつようになる。どこにも中庸など見あたらない。
タロット・カードの「節制」には、羽根の生えた女性が水辺にいて、壺から壺へと液体
をうつし
ている姿が描かれている。彼女は統合された自己をつくるため相反するものを混ぜようと
している
のだとタロット・カード上では解釈される。それはこのカードの前の数字にあたるカード
「死神」
がそうであったように、再生も意味している。ニキが礼拝堂としてこのカードを解釈し、
黒人のマ
リアと、マリアに抱かれるイエスの像をつくり、その祭壇の前にはティンゲリーの写真を
飾ったこ
とは、このカードが意味する再生と大きく関わってくるだろう。
彼女が作り続けてきた女性像「ナナ」の形をとってつくられた「節制」の天使は単独で、
スイス
チューリッヒの中央駅構内に《守護天使》という作品としても設置された。カードの意味
のうち特
に再生にまつわることが、このカードを表すときに礼拝堂という形を取り、そのカードに
表された
羽根の生えた女性が、それを見守る守護天使として表現されたのだろうと考えられる。
ⅩⅤ
悪魔
The devil
このカードに表されるのは、石の台座の上に立つ、あるいは座る悪魔の古くからある姿
である。
角を生やした山羊の頭とコウモリのような翼をもち、パックによってはその体は女性的で
あること
がある。足下には、2人の生き物が台座に鎖でつながれた状態で立っている。その姿は人
間の男女
のようにもみえ、混沌の状態に陥ったアダムとイヴを思わせる。
悪魔のこの図柄は、中世の典型的イメージでもある。悪魔はいくつかのパックでは、実
際に角を
生やしているのではなく、鹿の枝角の付いた兜をかぶっていることがあり、キリスト教の
悪魔の原
型であるとされる古代ケルトの神ケルヌノス(闇と死と地下の神)によくにている。
悪魔に与えられた数字は15である。1と5からなるこの数字は、「選択」(カードⅥ)
と同様
対立原理の結合であり、愛の数でもある。
木々に覆われた小道の突き当たりに「悪魔」(図 51)の像は設置されている。タロット・
カード
の絵柄の通り、台座の上に、山羊の角と、コウモリのような翼をもち、膨らんだ胸と男根
を持つと
いう両性具有の姿の悪魔と、その両脇に立つ男女の像で表されている。ニキはこう述べる
人を引きつける魅力、活力、性のカード。悪魔は、何物かへ熱中することで失われる個人
的
自由も表している。このカードをつくる作業中私は恐ろしかった。私は、100もの悪魔
が
群をなしスフィンクスの周りをうごめく幻をみ、私を攻撃するのではないかと恐れた。*36
他の建造物が見えない状態で、自然の中にぽつりとおかれたこの「悪魔」の像は、確かに
人の目を
捕らえてはなさない。その効果を狙ってこの「悪魔」は特に意識して、細い小道の突き当
たりに置
かれたように思える。鑑賞者は丁度この像と向き合う形になるのだ。カラフルなニキの作
品の中で
も特に赤と緑といった補色や、黒を多用した色づけはいっそうこの像の印象を強めている。
古代英語 divell(devil)は元をたどると、古代ローマ時代の派生語である divus(divi)にた
どり着く。
神々という意味である。それは、devil(悪魔)と divinity(神聖、神)の2語が同じ語根
から派生
したものであることを示している。*37 言葉にあるように、この「悪魔」は、カードには
見られな
かった鮮やかな色と大きさでいっそう、見る者をひきつけ、同時にまがまがしさを感じさ
せる。
ⅩⅥ
塔または神の家
The Falling tower
緑の丘の上に立つ頑丈な塔が、雷に打たれている。塔の先端は、雷の一撃を受け持ち上
がり、火
の粉や崩れ落ちた破片が雨のように降り注いでいる。3つある窓からは炎が上がり、火が
内部深く
をおそっていることを伺わせる。2人の人間が、塔から墜落している。このカードは、楽
園を追放
されたアダムとイヴの象徴ともバベルの塔の崩壊の象徴とも解釈されている。また、塔は、
意識の
頂点、新たな状況に適応しえぬ時代遅れの哲学とも解釈され、それをおそう稲妻は、真実
の強力な
る光の象徴だとも、運命や、強い精神性ともいわれる。
このカードの数字は16である。これは7と同様積極的行動を意味する陽性の数字と見
られてい
る。
「皇帝」(カードⅣ)の22本の柱に囲まれた中庭の一角に「塔」
(図 52)はつくられた。
そ
の塔は、タロットカードにあるように上部が崩壊している。
幾人かの人はこのカードをバベルの塔と呼ぶ。これは、物質的な自然の構造または、丈夫
で
はない精神の構造を表している。「塔」は否定的な見解だけではなく、教訓を与えてくれる。
複雑な精神のでっち上げは、崩してしまわなければならない。精神的壁を見通しのよいよ
う
に壊してしまえ。
ジャン・ティンゲリーは、塔をバラバラに裂く「稲妻」の象徴的な彫刻をつくった。*38
なぜニキ・ド・サンファルは、「皇帝」と同化するように「塔」をつくったかがこの言葉か
ら伺え
る。「複雑な精神のでっち上げは崩してしまわなければならない」これは、ニキにとって、
特に男
性へ向けたメッセージだからだ。
男たちはロケットや原始爆弾を作り、汚いもので世界をいっぱいにして、すっかりひから
び
た人間になってしまったわ。いまや男たちに残っているのは、頭か見かけだけ・・・
これは1965年ヴォーグ誌のインタビューへの答えの一部だが、このように彼女にとっ
て崩して
しまわなければならならないものは、男性原理なのである。おそらくそれでこの「塔」は、
男性原
理の様々なモティーフの詰め込まれた「皇帝」の中庭の一角にたてられたのである。
おもしろいのは、ティンゲリーのつくった「稲妻」を表す彫刻だ。カードの絵柄では、
しばしば
上部に太陽等が描かれるので、その方向から稲妻が落ちてくる様子がわかるのだが、この
「塔」の
場合ティンゲリー作の「稲妻」はまるで内部から飛び出してきたもののようだ。堅固な高
層ビルを
思わせる、この庭にあっては最も世間一般の建物に近いこの塔が内部にがらくたを詰め込
んでいる
という様は非常に風刺的だ。そしてまたこの内側からの崩壊を思わせる飛び出す機械は、
ティンゲ
リーの1960年の作品《ニューヨーク賛歌》を思い起こさせる。この作品は、巨大な機
械彫刻が、
光や音と共に自ら崩壊してゆくという作品であった。
私が訪ねたとき*39「塔」の内部はいまだ完成しておらず、タイルが貼られる途中の状
態で、立
入禁止であった。その状態さえも私にはこの「塔」をよく表しているように思えた。何か
完成して
しまい硬直してしまったものを生まれ変わらせるために崩しているのが、この「塔」の意
味すると
ころなのであるから。
ⅩⅦ
星
The star
一つの大きな星を囲む7つの星が輝く夜空のもと裸の若い女性が、川または池のほとり
にひざま
ずき、2つの水差しから水を注いでいる。水差しの一つは川または池の上へ、もう一つは
地面へと
向けられている。その背景には、樹がみえ、多くの場合鳥が樹にとまっているか、空を飛
んでいる。
解釈によっては、この輝く大きな星は、古代エジプト人が太陽のように崇めていたシリ
ウスであ
り、囲む7つの星は大熊座であるという。星は、創造力の象徴であり、彼女が液体を川ま
たは池と
大地に注ぐのは、「節制」(カードⅩⅣ)と同様、意識と無意識を統合することを象徴する
からだ
と解釈される。
このカードには17という数字が与えられている。8という数字に還元されるこの数字
は、更新
と再生の象徴であり、洗礼と結びつけられることがあった。
「星」(図 53)は、「女帝」(カードⅢ)の内部に飾られているものと、庭園向かって右
側に
位置する噴水の形をとったものと2つある。両者共に、軽やかなポーズをとった女性像で、
体中に
星のマークがちりばめられている。1999年に発行されたニキ・ド・サンファルによる
この庭の
紹介の本、『タロット・ガーデン』には、「女帝」内部のものしか紹介されていないところ
を見る
と、噴水の形をした方の「星」はその後に設置されたものだと思われる。この庭はいまだ
完成形で
はないのだ。ニキはこの本の序文でこう述べている。
《タロット・ガーデン》は、もともと私が考えていたものよりも大きなものとなった。そ
こ
に終わりはなく、私は自由にそこで制作する。・・・(中略)・・・この庭園は、困難と、
愛と、激しさと、熱意と、妄想と、とりわけ信念によって出来た。何者も私を止めること
は
出来ない。*40
女帝内部の立像はいわばマケットに近いものであったのだろう。そこから発展した形が、
噴水とし
て表されたのである。この「星」だけではなく、園内はまだ未完の場所がいくつもある。
この庭は、
これからも増殖し続けるだろう。ニキはこの「星」のカードをこう解釈した。
「星」は2つの水差しをもち、流れの中に再生の水を注いでいる。私がこの「星」の最も
気
に入っている点は、彼女の完全性だ。彼女は完全な存在で、私たちの多くが、現代文明の
中
で断片化されているのとは異なる。「星」は有り余る豊穣の元で、自然と交流し、自然を作
り上げる。彼女は天と地の真の法則を知っているのだ。*41
「節制」(カードⅩⅣ)と同様に2つの壺を持った女性像は、ニキがつくる女性像の典型的
な形を
とっている。1965年の個展で初めて発表したときからこれら女性像は、すべて「ナナ」
と呼ば
れてきた。「節制」で「ナナ」は守護天使となり、この「星」では完全な存在となった。
ⅩⅧ
月
The moon
2つの塔の間を曲がりくねった道が通り、2匹の動物が道の両側におり、夜空の月に向
かって吠
えている。この2匹は、あるパックでは2匹ともが犬であり、別のパックでは、犬とオオ
カミとし
て表されている。カードの下部には池があり、大きなザリガニまたはサソリが乾いた陸に
上がろう
としている。月は満月のようでもあるが、三日月のようでもあり、その光が水滴のように
降り注い
でいる。
月のシンボリズムは、異教的なカタリ派を思わせるものである。彼らは、死後、完全な
るものの
魂は、天井の楽園に引き上げられるが、劣った人々は、動物に変えられると説いた。また
月は、古
代においてしばしば、死者の住むところと信じられていた。そこで彼らは再生の日まで安
全に過ご
すのだ。同様に月は新たな生命を生む母の子宮を象徴した。従って月は2つの側面を持つ。
それは、
死の暗い洞窟として畏怖されると同時に、新たな生命への入り口として敬われた。月の負
の側面は、
主要な属性が犬であるハデス(冥界)の門番ヘカテにより象徴された。月に向かって吠え
る2匹は
そのことをより強化している。
このカードに与えられた18という数字は1と8の集合であり、9と同類と見られる。
一桁最後
の数9は、一つの段階の最後の部分であることを示す。
「月」(図 54)はこの庭園のある小さな丘の中で最も開けた場所に設置された。周りを
遮るも
ののないこの場所は、もしかすると夜には特に月の光を受けることが出来るのかもしれな
い。2匹
の獣、ザリガニ、女性の横顔のような月、流れる川とタロット・カードと同様のモチーフ
を使いな
がら、タロット・カードでは地上を向くうつむきかげんの月がここでは顔を上げているこ
とがこの
表現された「月」自体が天空の月の光を浴びるように考えられたのではないかと思わせる。
またニ
キは、タロット・カードでは一番下にザリガニが、その上に2匹の獣が現れるところ、そ
の順番を
変え、一番下で2匹の獣が、その上でザリガニが月を支えているように表現したが、これ
は立体物
にする際のバランスの問題だったであろうと考えられる。
「月」は創造と想像と否定的な幻想のカードである。「月」は謎めいていて不可解な内側の
カード。月は、作用する海の潮の干満に、女性の生理に、生命の誕生に影響を与え、すべ
て
のものは潮の満ち引きと関係する。「月」のカードは危険または、偉大な想像の力を与える
ものとなるに違いない。*42
このニキの解釈はタロット・カードがそうであるように、「月」の2面性を訴えている。横
顔を見
せる女性としての「月」は見る角度によって微笑んでいるようにも、冷たい視線を投げか
けている
ようでもある。
ⅩⅨ
太陽
The sun
壁の前で2人の子供が踊っている。子供たちは地面に描かれた輪の中にいる。壁の向こ
うにはひ
まわりの花が咲いているのが見える。空には太陽がでており、その光が降り注いでいる。
彼らがいる場は、魔法の輪の中であり、聖域という閉じられた空間である。霊的エネル
ギーと創
造性、生命の源泉である太陽は、子供たちの頭上にあって恵みと保護を与えている。
このカードの数は19である。これはカードⅩの運命の輪と同様に、多様性からの統一、
回帰を
象徴する。
「太陽」(図 55)はタロット・カードの図柄とは全く異なった大きな鳥の姿で表された。
青いゲ
ートの上に力強く立つこの鳥の胸と背中には太陽のマークがついていて、また鳥の頭には、
とさか
のようにもまた太陽の光の現れとも思われる飾りがついている。ニキはこのように話して
いる。
「太陽」は生命の力。すべてのものを育ててくれる。私たちの魂を照らし出すことの出来
る
神。私は、「太陽」をアメリカンインディアンや、メキシコの伝説の鳥だと思いついた。鳥
は太陽に最も近い生き物である。*43
初期の頃からニキ・ド・サンファルの作品には鳥が登場してきた。ニキは自伝的映画『ダ
ディ
ー』の中でこんな言葉を残している。
私は鳥たちの傍にいるあなたが本当に好きでした。ダディは何よりも鳥たちを愛していま
したものね。あなたの梟や、鷲や、鷹や、どんなに私も鳥になりたかったでしょ
う。・・・中略・・・いつの日か、私もこの鳥のように飛び立とう、この目に見えない支
配力から。いつか私も、乳房の代わりに翼をつけて空高く。*44
そのあこがれだった鳥は、アメリカ西海岸南部サンディエゴに住まいとアトリエを構えて
以来特に
アメリカンインディアンや、メキシコの伝説を知ることでニキにとっては単なるあこがれ
ではなく
神聖なる存在としてうつるようになってきたようである。ニキの住まいの近く、南カリフ
ォルニア
大学サンディエゴ校には、《太陽神》として同じようにゲートの上に立つ大鳥の像が設置さ
れてい
る。
ⅩⅩ
審判
Judgement
十字の旗を付けたラッパを吹く天使が空に現れ、3人の裸の人物がそのラッパに答える
かのよう
に大地より立ち上がる。パックよっては3人の人物は、男女と子供である。またその数は
3人以上
のこともある。彼らは、墓の中から立ち上がる場合や、水の中から立ち上がる場合もある。
このカードの情景は、最後の審判の情景と似ている。このとき大天使ガブリエルは最後
のラッパ
を吹き祝福に値すると思われる死者が墓からよみがえるとされる。
このカードの数字20は2という数字のさらに高い地平における二重性を象徴する。高
きものと
低きものの対立は最終的な統合に向かって進む。
このカードでは、3人の人物が墓の中から立ち上がる。それは、子供と、中年と、老人で
あ
る。それらは、私たちの人生の3つのパートが一つに解け合わなければならないことを示
し
ている。天使は、他を裁くのではなく私たちが結合すること、立ち上がり一つになること
を
勧める。*45
この言葉通りのモザイク画が「女帝」(カードⅢ)内部の壁面に描かれている。(図 56)
同じ
ように女帝内にあったカードⅩⅦ「星」が後に噴水の形で屋外に設置されたことを考える
と、この
「審判」も後にひとつの建造物となるかもしれない。ニキ・ド・サンファルは、自らの絵
によるタ
ロット・カード自体も制作しているが、そこで「審判」はこのモザイク画とは全く違った
図柄で表
されている。タロット・カードの方では、岩場に男女がいて、その2人に向かって、おそ
らくスキ
ニーズらしい青い生き物が語りかけている様子が示されている。この青い生き物が人間に
向かって
審判を下している図だろうか。この青い生き物は、ニキが1985年にはじめた「エジプ
トシリー
ズ」のうちの《ギルガメシュ》(図 57)を思わせる。ギルガメシュは、シュメール・バビ
ロニア
の叙事詩に登場する英雄で、死を恐れ、不死を求めて旅を始めるが、結局人はすべて死ぬ
ものだと
いう結論をえた人物である。さて、今後「審判」はいかなるものへと発展するだろうか?
ⅩⅩⅠ 世界
The world
花輪のなかで若い女性が踊っている。彼女は左右の手に杖を持つ。楕円の花輪を囲う4
隅には、
天使、ライオン、鷲、雄牛がいるが、それらは、キリスト教のイコノグラフィーにおける
4福音書
の記者を象徴するエンブレムである。
楕円形のリースは、宇宙卵を表す。それは混沌が秩序のもとに治められたことを示す。
またタロ
ットの連続としてこれを見る場合、「世界」は究極であると同時に、丸いリースを子宮とし
て、そ
の中の存在を胎児として見ることで、旅の再開を開始する新生児、愚者へと続く新たな循
環を示す
と解釈できる。
このカードの21という数字は、3に還元されるものであり、統合と創造の数である。
《タロット・ガーデン》は木々に囲まれており、すべてが見渡せるわけではない。
この道の先には何があるだろうと進んで行くと、人が近づくのを関知したセンサ
ーの働きによってくるくると回り出す建造物がある。それがタロット・カードの
最後22番目の「世界」(図 58)だ。
「世界」は心の内の生命の栄光のカードだ。このカードは、大アルカナの
最後のカードであり、このゲームの精神の鍛錬の最後のカードでもある。こ
のカードには世界の謎がある。それは、スフィンクスへの答えである。*46
タロット・カードの解釈は、「世界」に描かれた楕円形のリースは、宇宙卵を表
すのだという。その言葉通り、この「世界」は、ティンゲリーの手によるらしい
機械の上に宇宙卵とそれを守る蛇、そしてカードではリースの中で踊っていたと
思われる女性がここでは「ナナ」の姿で表されている。宇宙卵は世界の始まりを
もたらす巨大な子宮と考えられてた。それは、「女帝」(カードⅢ)が巨大な女
性像でその内部が子宮であることとリンクする。ニキが、このカードに対して、
「それはスフィンクスへの答え」といったのはそういう意味だったのではないだ
ろうか。この「世界」の傍には、まるで隠れるようにひっそりと「愚者」(カー
ド0)がおかれている。以前は、この庭園の正面に当たる「女教皇」(カード
Ⅱ)から吐き出される水の流れ込む池の中にあった「愚者」なのだが、なぜか現
在ではこの場所に移されている。おそらくタロット・カードの解釈が言うように
この最後のカードにあたる建造物と共に、最初とも最後ともとれる0のカードを
置くことで、新たな循環が意識されているのであろう。
第2節
様々なシンボル−タロット、手相、占星術、宗教…−
*シンボルとは何か
ニキ・ド・サンファルは、タロットやタロットにとどまるだけでなくこの庭の建造物に
組み込ま
れた様々な象徴など、シンボルの力に魅せられたアーティストである。シンボルは、何百
年にもわ
たり、意味をゆっくり蓄積してゆく傾向がある。そして言語と同様に枝別れを繰り返し、
たくさん
の含み、文化的背景に応じて特有の道をたどっている。変化の幅が狭く、ほとんど意味の
変わらな
いシンボルがある一方で、原型と全く反対の意味さえ持つこともある。おそらくこのシン
ボルとい
うものは、原始の時代、そこで生き延びてきた人間たちが、生き延びるという本能と共に、
その意
味を見いだすこと、生活の基本をなしている太陽、雨、食べ物、火といった必需品にきち
んとした
意味づけをし、その全体を把握したいという思いに端を発している。現代では、一見合理
的なもの
が、不可思議なものに優先しているように思えるが、相変わらず私たちはシンボルを好ん
で使い、
それを解釈をすることを楽しむ。ユングは、意識によって発明された日常生活の記号(サ
イン)と
区別してシンボルを、「日常生活でなじみのものもあるにせよ、決まり切った明瞭な意味に
加え、
それならではの含みも有する用語、名称、ひいては絵。何かつかみ所のない、隠された、
我々の知
らないことを暗示する」と定義した。人は、おそらくすべての事象が科学的に証明できる
としても
客観的理性の及ばないところに深遠な実在があると信じるだろう。シンボリズムという手
段によっ
てその真理に到達できると、私たちは考えている節がある。「シンボルは万国共通の熟語(イ
ディ
オム)をなす」とユングの言うように、世界中で用いられるシンボルは、文化の中で特有
の意味が
付け加えられることはあるにせよ、多様な解釈を受け入れる器であり、その力を借りれば、
己の心
をよりよく理解することもできる。また、シンボルは、絵、比喩、音、身振り、匂い、神
話、擬人
化と考えられる限りあらゆる形をとる。*47
*ニキ・ド・サンファルとシンボル
この《タロット・ガーデン》には様々なシンボルが用いられている。というより、タロ
ット自体
シンボルの集合、一つの象徴体系である。タロットを用いた占いの目的は、神の神託を聞
くことで
はない。タロットは、他の占いと同様に占い師のような誰かそのカードを扱える人の手を
借りて、
各札に解釈を加えてもらい、いくつかのことを明かしたり、諸処の問題についての助言を
与えたり、
未来を占ったりするものと考えられているが、オカルト伝承ではタロットはもっと別の目
的を持っ
ている。それらは、瞑想や、研究の道具であり、そのカードに表された諸処の過去の奥義
と、内面
を成長させる複雑な体系を理解するために時間をさき、自分と向き合うことで変化を遂げ
ること、
ひいては人間とはいかなるものなのかを知ることがタロットの本来の役目なのだ。
この《タロット・ガーデン》ではタロットに現れるモティーフを飛び越えてニキ・ド・
サンファ
ルが独自に加えたものが数多く見られる。タロット・カードと明らかに違うもの、一見タ
ロット・
カードに従ったかと思われるが細部を見てゆくと違いが見られるもの、その割合は様々だ
が、それ
らは彼女がこのタロット・カードと向き合い、独自に発展させた結果である。このような
彼女とシ
ンボルの関係は、この作品だけに見られるものではない。例えば、ニキは自らの出生時間
を元にホ
ロスコープをつくり、自分が「ダブル・スコルピオ」(運命宮、支配宮ともにさそり座であ
る、2
重のさそり座)だという。
私の占星学的サインは、ダブル・スコルピオだ。
すべての障害にうち勝つ図。私は、障害を愛することを学ぶだろう。*48
また手相の図解を作品化したもの(図 59)では、
これは私の右手。私は右手が好き。筋も、思考も、感情も、望みもすべて。
この手によって作り出された生き物の中で私はたくさんのすばらしい旅をしてきた。
との文字が書き込まれ、手のひらには、手相の図と共にニキの手形と思われるものがおさ
れ、甲の
部分には、象徴に満ちた様々な事物、女性像、目、花、ハート、渦巻き、男性の頭部、ド
ラゴン、
太陽、鳥、月の女神、動物、クエスチョンマーク、唇、太極の図が描き込まれた。
幼い頃受けた厳格なカトリック教育に反発し、「射撃絵画」では、キリスト教の祭壇を撃
ったニ
キは、様々な異教の神々をつくってきた。
エジプトの神アヌビス、ホルス、トエリス、アシュタルテ。インドの神ガネーシャ。日本
の大仏に
影響を受けたブッダ。北米先住民族の守り神トーテムポール。それらすべてにニキ独自の
味付けが
施されている。例えばエジプト神アヌビス(図 60)と、ホルスは椅子の形に仕上げられ、
増田静
江氏によると「人間が座ってこれらの神々に守られるために椅子にした」とニキは語った
というこ
とである。*49 トエリス(図 61)は、出産や豊穣に関わるカバの神様だが、この妊娠した
カバの
図には、様々な色が加えられマニキュアを塗っているような様子に仕上がっている。アシ
ュタルテ
は、1965年のコラージュ作品に現れるのだが、この絵を紹介した本*50 の中では、
アシュタルテは古代オリエントの繁殖の女神であり、地母神であった。・・・彼女がこのよ
うに華麗な寄せ集めによって現代においてもなお人々の心の奥底に潜んでいるエロスへの
あ
こがれと畏怖を造形化して見せてくれたという事実は、めまぐるしいほどの変貌にも関わ
ら
ず、人間のイメージの中にある種の不思議な連続があることを暗示している。
と紹介されている。
様々な神々を集めたタロットガーデンのような庭を計画しているニキは近年特に積極的
に神々の
像をつくっており、その中でつくられたのが、ガネーシャ(図 62)やブッダ、トーテムポ
ールで
ある。ガネーシャは、ヒンズー教では学問の神、賢明なる指導者であるが、障害物をつく
ったり、
それを退かしたりする役目を果たすと考えられてきた。ニキはこのガネーシャをモーター
で動き解
体と再生を繰り返す像としてつくったが、それは障害を作ったり退かしたりというこの神
の性質の
象徴であると考えられる。
ブッダ(図、前掲)は、座禅を組み瞑想に耽っており、背中には丁度人が一人座禅を組
み瞑想で
きるスペースが用意されている。1998年ニキ美術館の招きで日本を訪れ、京都の寺を
いくつか
まわったニキが、同じ機会に京都で行われた講演会で「日本をテーマにしたシリーズが生
まれるか
もしれない」と語った通り、作品はできあがった。このブッダはしかし、日本の文化だけ
の産物で
はない。カラフルな姿で座禅するその像には体の中心を貫くように一列に眼が加えられた。
おそら
くこれは、チャクラを表している。チャクラとは、サンスクリット語で「輪」を意味する
言葉で、
タントラや、ヨーガの伝承においてプラーナ(食べ物や、空気の流れとならび、人の命を
維持する
のに必要なエネルギー)の流れが集中する中継所を表したものだとされる。
トーテムポールは、最も最近の作品だ。そこには、伝統的にトーテムポールが表してき
た精霊や
動物と共に、母子像が描かれたりしている。
《タロット・ガーデン》同様にこれらの作品では象徴的なものに、さらなる象徴と色が
加えられ、
結果、使われたもともとの象徴固有の意味はうすれ、新しい象徴が誕生している。それら
は全体と
して、ニキ・ド・サンファルという個人の小宇宙、一つの象徴形態を示している
第3節 フェミニスト、ニキ・ド・サンファル
*フェミニストであることと
フェミニズム・アーティスト(フェミニスト・アーティスト)であること
1998年来日した際の講演会*51 の中でニキ・ド・サンファルは、「私はフェミニン
なフェミ
ニスト」だと語った。おしゃれをすること、お化粧することそういった女性的部分を失わ
ずに男性
と同等の権利をのぞむという彼女の言葉には、それまでフェミニストと呼ばれることや、
女性アー
ティストだけの招待展への出品を断ってきた*52 彼女の新たな姿勢が伺われた。しかし、
フェミニ
ストだとニキが名のったことと、彼女のつくる作品をフェミニズム・アート(フェミニス
ト・アー
ティスト)とくくることは別の問題であるという気がする。上野千鶴子氏は、この問題に
触れニキ
の作品がラディカル・フェミニズムの担い手でアーティストでもあるケイト・ミレットの
作品《生
む女神》の像(ニキの《ホーン》』とよく似ている)が、「女性のプライドを回復する自覚
的な戦
略」として女神のイメージを用いていると指摘し、ニキの制作態度はケイト・ミレットの
ような姿
と言うよりは「花」のシリーズを生涯にわたって描き続け、それは女性器の暗喩かという
問いを生
涯にわたって否定し続けたジョージア・オキーフを思わせるという。*53 また増田静江氏
はこう述
べる
ニキ美術館を訪れる方々の中で、ニキを「フェミニズム・アート」「ジェンダー・アート」
の
先駆者として位置づけようとする人がいる。確かに、「射撃」から始まるニキの芸術へのエン
トランスは、家庭、学校、教会、社会へのジェンダー(性差)を踏まえての至近距離から
の
告発だったと思う。そう言う意味では、まさに「先駆者」に違いない。しかし、ニキが25歳
の
ときにシュヴァルの《理想宮》やガウディの《グエル公園》に触発されてから、終生のテ
ー
マとして持ちつづけたシャトー(城)やカテドラル(大聖堂)への夢の現実化としての《タ
ロット・ガーデン》建設を通して、ニキはもう性差を超えたアーティストとして在る、と
私
には思える。ニキは「デュアリティ・インテグレイテッド(duality integrated)」という。
こ
れはふたつの異なるものがひとつにまとまるという意味。矛盾するもの、相違するものの
融
合。ニキが苦しみながら追求してきた境地はそこにあるのではないだろうか。*54
フェミニストであることとフェミニズム・アートの作り手(フェミニスト・アーティスト)
である
ことは必ずしもイコールではない。むしろ、程度の差こそあれ自らの女性性(フェミニテ
ィ)に気
づく女性はすべてフェミニストなのであり、一つの政治的策略としてアートにフェミニズ
ムという
思想が持ち込まれることはあるが、たとえそういった作品であってもそこにはフェミニズ
ムという
思想だけが見られるのではなく、そこには視覚や触覚を伴う新たな感覚があるはずである。
196
0年代後半から盛んにいわれたこの言葉が、だんだんと効力を失っているのは、フェミニ
ズムとい
う用語をめぐる議論がつづく一方で、その主張が広く受容されてきたことを意味する。
*ナナの誕生
ニキ・ド・サンファルは確かに女性性についてを高らかに歌い上げる。その背景には、母
親から
拒絶され、父親からは誘惑の対象と見られた自らを肯定的に受け止める必要があったこと、
彼女自
身の手で「存在する権利」を勝ち取ることが生きるために必要であったことに端を発して
いる。初
期の頃からの作品を追ってゆくと、彼女が「存在する権利」を勝ち取ってゆく姿を見るこ
とができ
るだろう。既に1章で述べ、繰り返しになるが再度追ってみよう。
初期の絵画は、暗く、個人的な体験や、幻想を描いている。精神病の回復のために始め
たという
それら絵画からは、何か鬱屈したものをかかえつつもその問題がどこにあるのかがわかっ
ていない
ニキの様子をうかがえる。それが、アッサンブラージュや、射撃という形でその鬱屈した
ものを撃
つこと、男性を撃つことへ、と発展する。
ニキは射撃絵画による自己セラピーを試みたあとで、盛んに女性像を作り始める。花嫁、
娼婦、
出産、魔女といった女の役割についての疑問は、おそらく射撃によって身軽になった彼女
の中に残
る重大な問題だったに違いない。この作品を作るまでに、花嫁になり、出産も経験してい
る彼女に
とってこの作業は苦痛を共にしていたのだろう、出来上がった作品は大きく生々しい。ニ
キはこん
な言葉を残している。
私の描く売春婦は、痛めつけられた生け贄です。
磔で両腕を失ってしまった。
切り刻まれてしまった。
助けもなく。*55
出産 それは両性具有
彼女は男性器のごとく子供をつけて
出産 それは女を女神にし
同時に父とも母ともする。*56
彼女はこの苦痛のなかで、最終的に「自分自身も、女という役割をそのつど演じているに過
ぎない」
と悟る。そしてこの頃、友人のクラリス・リヴァースの妊娠によって膨らんでゆく体に影
響を受け
た*57 ことが大きなきっかけとなりナナが生まれる。初期のナナは紙や布や毛糸で出来て
いるが、
その姿はその後、素材にポリエステルを用いることで屋外に設置したり、より鮮やかな色
を出すこ
とが可能となった。
彼女たちを何と呼んでいいかわからなかった。
たぶんナナと呼ばれるのがいいでしょう。なぜかは分からない。
彼女たちはとても陽気だった。
まったく苦痛を伴わない。
彼女たちは踊っていた。
世界中の音楽や音色と踊っていた。
歓喜と踊っていた。
エミール・ゾラの「ナナ」とはぜんぜん関係ない。ただそう名づけただけ。
ナナたちは女性の誇りの象徴だった。
ナナたちは妊娠していた。
大いなる母性の誇りをぜひとも表わしたかったから。*58
「ナナ」はフランス語では女、娘を意味し、一人の古代の女神の名でもある。*59 こうし
て誕生し
たナナは、以後彼女の作品にでてくるすべての女性像の名でもある。
*様々なナナ
《タロット・ガーデン》に設置された建造物の大くには、女性のイメージが関わってい
る。タロ
ット・カードの図柄では男性しか登場しない「皇帝」
(カードⅣ)、
「教皇」
(カードⅤ)、
「戦
車」(カードⅦ)、「隠者」(カードⅨ)、「死神」(カードⅩⅢ)でさえ何らかの形で女性が関
わっている。「皇帝」(カードⅣ)には、《ナナの噴水》、《ネックレス》といった女性像がお
か
れ、「教皇」(カードⅤ)では「女教皇」(カードⅡ)という別の独立したカードがありなが
ら、
教皇は女性でもあるとニキは語り、巨大な頭部の上に3重の十字架を捧げ持つ男女の像を
おいた。
「戦車」(カードⅦ)はカードによっては女性像で表されることもないわけではないがまれ
であり、
通常は男性像なのだが、ニキは女性のマーク(♀)を「戦車」の立像の上部にわざわざつ
けて女性
であることを強調している。「隠者」(カードⅨ)は、老人像としての隠者の他にニキが隠
者の女
性版であるという巫女が別につくられた。「死神」(カードⅩⅢ)は骸骨の性格上本来男女
の区別
は難しいものであるが、カードによっては甲冑を身につけており男性的であるにもかかわ
らず、ニ
キは頭部に関してはドクロとしたものの、頭より下には女性的な肉付けをしている。
「女教皇」(カードⅡ)、「女帝」(カードⅢ)「正義」(カードⅧ)「節制」(カードⅩⅣ)、
「星」(カードⅩⅦ)、「月」(カードⅩⅧ)、「世界」(カードⅩⅩⅠ)のような女性像に関し
ては、その女性的ラインを強調した姿で表された。こうして現れる女性像たちはすべて「ナ
ナ」で
ある。「ナナ」は無名の女で、女神でもあるのだから。
例えば、スフィンクスの形をした「女帝」
(カードⅢ)がそうであるように、時に「ナナ」
は黒
い肌をしている。そこにはマイノリティーとしての「ブラック」と、その存在を自分と重
ね合わせ
るニキの姿勢が現れている。そしてまた黒はエジプトでは再生と復活の色でもあり、「女
帝」の肌
の色は、その両方の主張がこめられていると考えられる。また、「女帝」には、その表面の
装飾に
これまで様々に表されてきた女性像がはめ込まれた。その中には、たくさんの乳房を持つ
豊穣の女
神アルテミスを思わせるもの、ボッティッチェリの《ヴィーナスの誕生》に描かれた貝の
上に立つ
女性像(図 63)も見られる。彼女たちもニキの手に掛かっては、ナナと呼ばれる女性像と
なって
いるといえるだろう。
ナナは、豊かな体を大いに誇ってはいるが、けして裸にならない。一見何もつけてはい
ないよう
に見えるその体には、常に水着のような服や、入れ墨のように見える覆いがかぶせられて
いる。
「女帝」にはめ込まれたアルテミスを思わせる像、ボッティッチェリのヴィーナスを思わ
せる像の
原型は、裸体をさらしているのだが、ここでは他のナナ同様何らかの形で肌を隠している。
リン
ダ・ニードはその著書『ヌードの反美学』で「女性のヌードの歴史は、女性の身体の・・・・
包含
の伝統であると同時に・・・・排除の伝統として・・・・理解することができる」*60 と
述べ、女
性のヌード像が男のまなざしにおいて理想化され美術の内に取り入れられる一方、その理
想に反す
るものは外へ排除されてきたシステムを明らかにし、西洋の美的伝統を浮き上がらせたが、
そうい
った男性的まなざしをはねのけるためにナナは裸体をあらわにしないのだろうか。それと
も単に装
飾、ナナ流のおしゃれなのだろうか。いずれにせよ、ナナは男性の目によって理想化され
た身体な
ど持っていない。むしろ過度に女性を強調した身体はシステムの中で排除されてきた部類
に属する
ものである。しかし、西洋の美的伝統の外、例えばそれ以前の時代や、その他の場所では、
ナナの
妊娠したような身体は、豊穣や多産をもたらす女神のものである。時にはこれまで表され
てこなか
ったようなものも含めた自由なポーズをとったナナたちはその体に施された色鮮やか装飾、
つまり
ナナたちの衣服によって、いっそう美しくみえる。
第4章 《タロット・ガーデン》内
第1節 ジャン・ティンゲリーとニキ・ド・サンファル
ニキについて語るとき、がらくたや廃品から機械作品をうみ出すスイス人アーティスト、
ジャ
ン・ティンゲリーとの関係は欠くことのできないものである。《タロット・ガーデン》にお
いても、
建造物のフレームに関してはティンゲリーが関わっており、「運命の輪(カードⅩ)」はテ
ィンゲ
リーがつくり、いくつかの建造物はティンゲリーとニキのコラボレーション作品となって
いる。
1991 年、《タロット・ガーデン》のオープンを見ることなく亡くなったティンゲリーの写
真をニ
キは建造物のひとつチャペルだという「節制(カードⅩⅣ)」の中に飾った。ティンゲリー
との出
逢いがなかったならばニキの作品はまた別のものであったかもしれない。
1955年はニキにとって大きな転換期だった。その2年前に精神病からの回復の手段
として本
格的に絵画を始めたことをきっかけに、アーティストとしての道を探っている最中だった
25歳の
ニキは、この年自らの師と、生涯にわたる共同製作者両方との出会いを果たすのである。
彼女の師
となったのは、ガウディや、シュバルであり、共同製作者となったのは、ティンゲリーで
あった。
二人はドキュメンタリー映画の中で、出会いの場面を思い起こそうとしている。*61
ティンゲリー
ティンゲリー ニキ
ニキ ティンゲリー インタビュアー ティンゲリー
1955年にニキはパリの僕のアトリエにきた。そして、前が白、後が黒で騒がしいレリ
ーフを見
て言った。「なぜ羽根をつけないの」と。 覚えてる?
(うなずくニキ) 僕はすごく
怒った。
カンカンよ。 (周りで笑い声) 怒り終わって、見つめ合って、一緒に住み始めたの。
そうだっ
た? 羽根は? すぐに、つけた。
ニキはこの頃から自分の理想宮殿を夢想しその理想を絵にしていた。それを見たティンゲ
リーがニ
キが美術学校に行っていないことについて「技術なんかはなんでもない。夢こそがすべて
だ」と言
って励ましたのだという。*62 当時ニキはその後作家となるハリー・マシューズと、ティ
ンゲリー
は美術学校で知り合ったアーティストのエヴァ・エプリと結婚していたのだが、1960
年ニキは
ハリーと離婚し、子供を彼の元に残しティンゲリーとアトリエを共有すると共に、同棲生
活を始め、
二人は共同作業も行うようになる。
その後1971年にニキとティンゲリーは結婚し、書類上正式な夫婦となった。この結
婚は、一
般的な意味の結婚と言うよりは、これから先も、生涯にわたって共同製作を約束するため
のもので
あったという。ニキとティンゲリーはこの後くっついたり離れたりを繰り返しながら数多
くの共同
作品を作り上げてゆく。例えばそれは、ニキのつくる「ナナ」をティンゲリーが作る台座
が支えた
り、巨大な建築作品の骨組みの溶接をティンゲリーが行い、その上にニキが色づけすると
いった形
で実現してきた。二人の関係を表すエピソードはたくさん残っている。いずれもが示すの
は、二人
が互いに尊敬しあい、互いの作品を好み、必要としあい、しかし、二人は全く異質で、納
得のゆく
までぶつかり合うということだ。ドキュメンタリー映画のシーンには、公園のベンチで話
し合う二
人の姿が撮影されている。*63
ティンゲリー ニキ ティンゲリー
ニキ ティンゲリー ニキ
ティンゲリー ニキ ティ
ンゲリ
ー ニキ
「ナナ」は女の世界。 そして、動物の世界。機械に対立する人間性。 機械は
女
性を攻撃する。女性は機械を攻撃しない。 機械は、何か新しい物を創り出す。でも女性は
違う。
ボテッとして厚顔、寝転がって何もしない。彼女は太った巨大な女。 彼女はすべてを産む。
僕ら
に何ができる?だから機械を作るんだ。 それが人間の抱える問題。結構なことだ。男
性は
産業に奉仕するありとあらゆる機械を発明した。でも世界を良くする方法は知らない。世
界は不満
だらけ。 食べ過ぎだ。 飽食か飢餓かよ。「ナナ」の出番だわ。 無理だね。 新しい母系社
会がで
きるのよ。
1991年亡くなる2週間前にティンゲリーはニキに電話で「生きるのにはうんざり、
休む」と
伝えたという。ティンゲリーは、自らの葬儀の手配を葬送演奏まですべてを手配して亡く
なった。
ニキとティンゲリーは「片方が死んだらどうするかを、よく話し合った。残った者が最善
を、と誓
った」*64 と決めており、その言葉に従いニキは、フォンテーヌブローの森に何人ものア
ーティス
ト達が参加して作り上げた巨大な頭部《キュクロプス》の一般公開と、ティンゲリーの故
郷バーゼ
ルに美術館を建設するために力を尽くした。また、《メタ・ティンゲリー》(図、前掲)と
いう彼
へのオマージュ作品を作り上げた。
ジャンが死んだとき、オマージュの制作を決意した。ポートレートを描き、生まれて初め
て
回転する輪を作った。おそらく無意識に感じていた。彼を失って一番悲しいのは、この先、
一緒に仕事が出来ないことだ。共同作品こそが、私たちの関係のベースになっていた。*65
もしも、ニキがティンゲリーと出会わなければ、または、ティンゲリーとの共同での制作
がなけれ
ば、ニキは自分の中に潜む攻撃性や、吐き出さなければならない自伝的要素の強い幻想を
持て余し
てしまったのではないかと思うことがある。彼女の内にあるものを作品として昇華させる
ためには
補充作用を持つものがどうしても必要だった。その補充作用、男性的と女性的、直線と曲
線、カラ
ーとモノクロ、動的でバラエティーにとんだボリュームと線的な機械のメカニズムといっ
たものが
合うことで開かれたリズミカルな宇宙、環境に溶けこみつつ、環境を異化する形態が誕生
したので
ある。
第2節 マリオ・ボッタとニキ・ド・サンファル
タロットガーデンは小さな丘の上につくられ、その丘のふもとには、城壁を思わせるよ
うな頑丈
な壁がつくられた。マリオ・ボッタの作品(図 64)である。
私は友人のマリオ・ボッタに中にあるものとの対照的な庭へのエントランスをつくってく
れ
るよう頼んだ。マリオは、地元の石ではっきりと外の世界と内の世界をわける男性的で要
塞
のような壁をつくった。その壁は私にとってはおとぎ話の中で宝物を守るドラゴンのよう
に
「保護」を象徴する。*66
ニキにとって直線や、直角は男性を表すものである。例えば片面は女性像、別の片面は男
性像の
《あるカップル》(図 65)という作品では女性像の洋服は曲線や円、男性像の洋服は直線
と四角
で表され、その対比はクリムトの《接吻》に描かれた男女のようだ。ニキの詩には
・・・(前略)・・・
世界は円。世界は乳房。
直角は愛さない。私を脅かすから。
直角は殺人者。
直角は刃物。
私はシンメトリーを愛さない。不完全を愛する。
私が描く円は、ただしい円ではない。
それが私の選択。完全は寒々としている。
不完全は命をもたらし、私は命を愛する。
・・・(後略)・・・*67
というものがあり、男性を表すのに用いられる直線や直角は彼女にとっては忌むべきもの
であるこ
とがわかる。しかし、彼女はここで《あるカップル》が裏と表の直線と曲線の対比によっ
て男女の
コントラストを強めているのと同じように、内側の曲線的な彫刻群との対比、外と内との
境界を作
り出すために男性的な形態を必要としていたのである。
マリオ・ボッタはこの依頼を「どちらかというと驚いた」*68 と語ってはいるが、それ
にこたえ、
ニキの彫刻に顕著な内側から膨らんで軽々としているような要素に対しては、地元のもの
だという
石を積み重ねどっしりとした重量感を、カラフルな色使いに対してはモノトーンを、スキ
ニーズに
見られる透明感に対しては、視線を遮る高さといっさい奥を見せないような厚みをもった
壁をつく
った。マリオ・ボッタはニキがこの庭を「孤立した島とするためその(ニキの)世界に属
さないエ
ントランス」を必要としていると理解し「(外部の日常生活と庭の内の並はずれた贈り物)
2つの
現実を隔てる」ようつくったと語っている。*68 このように対照的なエントランスはしか
し、人が
出入りする部分は円となっている。それは、ニキの過去の作品で巨大な女性像《ホーン》
の足の間
にもうけられた出入り口の穴を思い起こさせる。
マリオ・ボッタとのコラボレーションはこのエントランスに始まったことではない。こ
の庭に先
立ってティンゲリーの死後、ニキの指揮と多くの作品の寄贈でスイス、バーゼルにつくら
れたティ
ンゲリー美術館の設計がマリオ・ボッタであったり、ベルリンの広場のプロジェクト、エ
ルサレム
の「ノアの箱船」プロジェクトが二人のコラボレーションとして進行中である。特に「ノ
アの箱
船」プロジェクトではマリオ・ボッタによる直線的で固い感じの船とその周りにカラフル
で有機的
な形のニキのつくった動物たちが置かれる予定で、ニキが、自分が好んで用いる曲線と、
自分の好
まないと言った直線や直角といったものとの新たな関係を作り始めていることを感じさせ
る。
第3節 多くのコラボレーター達
ジャン・ティンゲリー、マリオ・ボッタだけではなくこの庭にはもっと多くの人間が関
わった。
《タロット・ガーデン》内のモザイクの中には、デスマスクのように型どりされ、色を塗
られた石
膏で出来た人顔がある。これらは、この庭に関わった人たちの顔である。第3節にはニキ
の彼らに
対する発言や、この無名のコラボレーター達の証言を断片的に紹介することにした。《タロ
ット・
ガーデン》に多く使われた鏡がそれぞれに景色を映しているようにこの言葉たちは様々な
角度から
ニキやタロットガーデンを映し出している。
私は私自身の中に夢を収集してきた。私は一人で制作をはじめた。36歳になって初めて
私
は最初のアシスタントをもった。何年も経った今日私は、私の大聖堂(タロット・ガーデ
ン)を多くのクルー達と共にイタリアに実現した。私の人生は変わった。*5
(Niki de Saint Phalle)
私は一度も正式な造形の勉強をしたことがありませんでした。私は美術ではなく演劇を勉
強
していたのです。しかし私の演劇の勉強はニキの作品を制作するのに役立ちました。タロ
ッ
トガーデンの内の一つをとっても彼女の作品は演劇に近いものだからです。彼女自身とて
も
芝居がかったところがあります。とても重要なことに彼女のアートはいつも物語を語りま
す。
そして、彼女はいつもステージとなるものを必要としているのです。*6
(Marcelo Zitelli*7)
驚いたことに、それが遺伝によるものか、遠い記憶を受け継いでいるのかやってくるイタ
リ
ア人の3人に1人は、驚くほどの腕前。天賦の才能がありながらいままでつまらない仕事
を
してきた。すぐに上達し、素晴らしい職人になる。当初からいた、電気工、石工、郵便配
達
夫。素晴らしい能力の持ち主たち。私は大勢の人と働くのが好き。仲間との目標達成が夢
だ
った。彼らに言った。これは私の庭であり、あなた方の庭でもあると。*6
(Niki de Saint Phalle)
それは私にとって貴重な体験だった。この先、この《タロット・ガーデン》に魅せられる
人
すべてにこの貴重な体験が訪れるよう願っている。*7 (Doc Winsen*8)
私たちは、1日の内の8時間をここで過ごした。家族はこの庭を愛していたし、時々は遊
び
にも来た。それは生活の一部だった。もしかすると私たちは一方は日常生活、一方は白昼
夢
という2つの生活をしていたのかもしれない。*9(Tonino Urtis*10)
15年前、初期の頃私は自分の創造力や制作スタイルを失うのを恐れてました。私にはニ
キ
が、彼女に従うものに催眠術をかけ、彼らがすることを彼女のしたいことに変えてしまう
蛇
のように感じられたのです。・・・しかし、私はニキの元で訓練をつむことにしました。彼
女の元にいることは、まるで300年か400年前のアーティストの工房の弟子になった
よ
うでした。私はどのように制作するのかを教えてくれる師匠を見つけたのです。私はワク
ワ
クしていました。彼女はワイフのようでもありました。もしかすると、心理学者は私が母
親
を必要としていたのだというかもしれませんが。*11 (Pierre Marie Lejeune*12)
彼らは筋骨たくましい大男。女には従わない。ただし、母親の言うことだけは聞く。だか
ら
私は、彼らの母親に。*7 (Niki de Saint Phalle)
彼女にとってこの庭は全体で一つのものです。展覧会の彫刻のシリーズとは違うのです。
こ
れは彼女の個人的創造で、私たちはその魂の中に入り込み一部を担ったのです。私たちと
彼
女の間にはとても素晴らしい親密な関係が成り立っていました。私たちは彼女の崇拝者で
し
た。お互いに対する尊敬や友情がこの庭で働く者たちの間にもわいていました。*8
(Venera Finocchiaro*9)
私は、ジャンが作り上げ、ニキがとても大切にしてるライティングシステムによって明か
り
が灯る夜にもっともこの庭を楽しめると思います。・・・夜には創造力がこの場を支配して
います。*10
(Rico Weber*11)
結び
ドイツで行われた回顧展カタログの扉絵に描かれたニキ・ド・サンファルのドローイン
グ《私の
好きなもの、影響を受けたもの》のなかには「私の神探し」という言葉を見ることができ
る。それ
はタブーであったにもかかわらず、愛という名の下に見えなくなっていた宗教や家族の裏
側に潜む
束縛や抑圧から抜け出したニキが行ってきたことである。近代の社会の中で、宗教や、家
族という
結合は破綻をきたす要素を多分に持っていたとはいえ、自分の周りによきロールモデルを
見いだせ
なかったことは彼女にとって不幸だったのかもしれない。そのことに深く傷つきながらも
彼女は
「私の神」を探し出さなければならなくなった。それは自らの存在意義をかけた冒険であ
る。冒険
はポジティブな妄想、強力な想像の力のもとに行われた結果、タロットという過去の、そ
れでいて
いまだその魅力を失うことのない象徴体系から彼女独自の象徴体系をつくりだし、それを
具現化さ
せることに成功した。それが幻想の庭《タロット・ガーデン》である。この庭では象徴体
系の中心
である彼女こそが、「神」となる資格を持っている。探すべきは「神」のではなく「私」だ
ったの
だ。しかし、彼女は行ってしまった。尽きることなく湧き出てくる新たなビジョンに形や
色をあた
えるために、あたらしい理想宮、城、庭を世界中に放つために「神」にはならずに「神探
し」をつ
づける道を彼女は選んだ。
主なきこの庭は、相変わらずキラキラと光を反射させつつ訪れるものを迎えている。そ
れは現代
の神話、現代の楽園を予感させる。自分の居場所を求め続けた彼女の、絵を描きながら、
物を作り
続けながらねがった幸せの空間に入り込み、タロットの声に耳をすまそう。何が聞こえる
かは、そ
れを聞く方の姿勢にかかっている。
ニキ・ド・サンファルが芸術界において今やインサイダーとなっていることを私はうれ
しく思う。
彼女が自分の霊的ビジョンの犠牲にならず内に抱え込む物を昇華させ、できあがった作品
が、芸術
理論に富んだ、芸術に対する芸術での批評などといった物というよりは矛盾も含んだ曖昧
さと思い
こみからできているとしてもそれは、遠い過去から人間を引きつけてきた象徴に特有の物
なのであ
り、霊的ビジョンを昇華させるという姿は芸術の根本姿勢であるはずだ。近年にはその有
効性が忘
れられてしまっていた物であるかもしれないが彼女がインサイダーとして扱われることで、
それま
で存在していたにもかかわらず見過ごされてきた、または無視されてきた作品を見直すき
っかけと
もなるだろう。
年
1930
10 月 29 日朝 6 時 40 分 Catherine Marie-Agnes Fal de Saint Phalle はパリ郊外
Neuilly-sure-Seine に
Jeanne Jacqueline と Andre Marie-Fal de Saint phalle の 5 人の子供の第 2 子として生
まれる。彼女の
父は 7 人兄弟の一人で、一族で経営をしていた銀行家として 1927 年ニューヨーク支店の
支店
長であったが、1930 年の世界恐慌により職と全財産を失う。
Marie-Agnes(ニキ)と兄の Jhon はフランス Nievre の父方の祖父母のもとに預け
られ、3 年間
をそこで過ごす。
1933(3 歳)
Marie-Agnes と兄の Jhon はアメリカ、コネチカット州 Greenwich の両親のもとへ
戻る。
1937(7 歳)
一家はニューヨーク東 88 番ストリートのアパートへと移る。
この頃までに Marie-Agnes は Niki de Saint Phalle(ニキ・ド・サンファル以下ニ
キ)と呼ばれる
ようになる。
東 91 番ストリートにある、厳格な女子修道学校に通う。
1941(11 歳)
修道学校を放校になる。
ニキは、ニュージャージー州プリンストンへ移り、第 2 次世界大戦の影響で、フラン
スから移
ってきていた母方の祖父母とともに暮らしながら、地元の公立学校へ通う。
1942(12 歳)
ニキは、父母の元へ戻り、ニューヨークのブレアリー・スクールへ通う。
エドガー・アラン・ポー、シェイクスピア、ギリシア悲劇に親しみ、また、演劇部に
所属し、
初めて詩や戯曲を書く。
1944(14 歳)
彼女の振る舞いに対する担任の指導で、精神病治療を受けるかまたは、学校を辞める
よう迫ら
れる。
両親は、ニキをニューヨーク州 Suffren の修道学校へ通わせる。
1947(17 歳)
メリーランド州のオールドフィールド・スクールを卒業。
1948(18 歳)
ニキはモデルとして働く。彼女の写真は、『ヴォーグ』、『ハーパーース・バザー』、に
掲載
され、『ライフ』の表紙も飾った。
6 月、19 歳の海兵隊員であった Harry Mathews(ハリー・マシューズ以下ハリー)
と駆け落ち
する。
1950(20 歳)
ニキとハリーはマサチューセッツ州ケンブリッジに住む。ハリーは、ケンブリッジ大
学で音楽
を学び始め、ニキは、初めて油絵の具やグワッシュによる絵を描き始める。
1951(21 歳)
ボストンでニキとハリーの娘、Laura(ローラ)が生まれる。
1952(22 歳)
ニキ、ハリー、ローラはボストンからパリの Rue Jean Dolent のアパートへ移る。ハ
リーは指揮
者になるために学び、ニキは演劇を学びはじめる。夏、一家は南フランス、スペイン、イ
タリ
アを旅行する。
1953(23 歳)
深刻な神経衰弱を患いニースで治療を受ける。このとき絵を描くことが彼女を救い、
ニキは女
優をあきらめ、アーティストになることを決意する。
同じ頃ハリーは音楽の道を捨て、初めての小説を書く。
1954(24 歳)
3 月、ニキとハリーはニースで初めて車を購入。車で、数人の友人たちと共同生活を
送ってい
たパリの家に戻る。
アメリカ人画家 Hugh Weiss(ヒュー・ワイス)を紹介され 5 年ほど彼の指導を受け
ることとな
る。
ニキとハリーは、マヨルカ島 Deya へと引っ越す。
1955(25 歳)
3 月に息子 Philip(フィリップ)が誕生する。
ニキはマドリッド、バルセロナを訪れ、そこで Antonio Gaudi(アントニ・ガウディ)
の作品と出
会う。この体験は彼女を変え、彼女自身の彫刻公園をつくるという夢をもたらす。
8 月、一家はパリに戻り、Rue Alfred Durand-Claye のアパートに住み始める。この
年、ニキは、
Jean Tinguely(ジャン・ティンゲリー以下ティンゲリー)とその妻 Eva Aeppli(エヴァ・エ
プリ)と
出会う。
彼女はしばしばルーブル美術館に足を運び、Paul Klee(パウル・クレー)、Henri
Matisse(ヘン
リ・マティス)、Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)、Henri Rousseau(アンリ・ルソー)らの
絵を知る
こととなる。
またこの年、彼女は Hauterives(オートリーヴ)にある Joseph Ferdinand Cheval(ジ
ョセフ・フェル
ディナン・シュバル)の手による幻想的な城《Le Palais Ideal(理想宮)》を訪ねる。
1956(26 歳)
一家はフランスのアルプス Lans-en-Vercors に住む。
スイス St.Gallen にて初めての油絵の展覧会を行う。
ハリーを通じて、Jhon Ashbery(ジョン・アッシュベリー)や Kenneth Kock(ケ
ネス・コッ
チ)ら多くの現代作家と知り合う。
1957(27 歳)
1958(28 歳)
1959(29 歳)
Musee d'Art Moderne de la Ville de Paris を訪れ、アメリカンアーティスト、Jasper
Johns(ジャスパ
ー・ジョーンズ)、Willem de Kooning(ウィリアム・デ・クーニング)、Jackson Pollock(ジ
ャクソ
ン・ポロック)、Robert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ)らの作品を紹介され
る。
1960(30 歳)
ニキとハリーは離婚し、ハリーは子供たちとともに、Rue de Varenne へと越す。ニ
キは Rue
Alfred Durand-Claye に残る。
ニキは芸術活動を続け、石膏によるアッサンブラージュを発表する。
この年の終わり、ニキとティンゲリーは 2 人でスタジオを共有すべく Impasse Ronsin
へと越す。
ティンゲリーはニキをストックホルム近代美術館の館長である、Pontus Hulten(ポ
ンテュス・
フルテン以下フルテン)へ紹介する。フルテンは、このときの展覧会に彼女の作品を出品
し、
またいくつかの作品をストックホルム近代美術館が買い取った。
1961(31 歳)
2 月、Musee d'Art Moderne de la Ville de Paris にて"Comparison:Peinture
sculpture"のタイトルのもと
グループ展を行う。ニキは、《Portrait of my Love》と名付けられたダーツの的付きの絵
画を展
示した。
2 月 12 日には続く何年か行われることとなる「射撃絵画」が発表された。
1962(32 歳)
2 月、ニキとティンゲリーはカリフォルニアを訪れロサンゼルス近くの Simon
Rodilla(サイモ
ン・ロ−ディア)の Watts Tower(ワッツ・タワー)を訪ねる。
3 月、ティンゲリーはロサンゼルス Everett Ellin Gallery にて展覧会を開く。またニ
キと共に、ネ
バダ砂漠にて「ハプニング」を行う。このときニキはアメリカでは初となる 2 回の「射撃」
を、
1 度目はマリブ海の Virginia Duwan's beach house で、2 回目は Ed Kienholz(エド・
キ−ンホル
ツ)の助けを得ながら、マリブ海を見渡せる丘で行った。
ニキとティンゲリーはメキシコへと旅行する。
パリの Galerie Rive Droite で、10 の作品からなる個展を開催。この個展へ訪れた人
の中には
Alexander Iolas(アレクサンダー・イオラス以下イオラス)がおり、続く 10 月彼の招き
により、
ニューヨークでの展覧会が行われた。
彼は長きに渡りニキを財政面で助け、また以後多くの彼女の展覧会を手がける。また、
シュー
ルレアリスト Victor Brauner() Max Ernst(マックス・エルンスト) Rene Magritte
(ルネ・マ
グリット)らと引き合わせた。
6 月 Yves Klein(イヴ・クライン)が突然亡くなる。
8 月ニキはアムステルダム Stedelijk Museum にて Robert Rauschenberg(ロバー
ト・ラウシェンバ
ーグ)Martial Raysse(マン・レイ)Jean Tinguery(ジャン・ティンゲリー)Per Olof Ultvedt
(パー・オロフ・ウルトヴェット以下ウルトヴェット)らと共に巨大なインスタレーション
《DYLABY(Dynamic Labyrinth)》を制作。
10 月ニューヨークでの初となる個展を Alexander Iolas Gallery で開催した。ここで
は、シュバル
へのオマージュや、射撃絵画が展示された。
1963(33 歳)
5 月 Virginia Dwan 主催の射撃イベントがロサンゼルスで行われ、ニキはそこで、記
念碑的彫刻
「King Kong」を撃った。
この年より、ニキとティンゲリーは、Essonne 近くの Soisy-sur-Ecole にある古い
ホテル Auberge
au cheval blanc に住むようになる。
ニキは社会の中での女性に対する様々なルールに直面し、出産する女性、むさぼる母
親、魔女
といった女性の姿を描写した彫刻のシリーズを制作。
1964(34 歳)
ロンドンでの初めての個展が、Hanover Gallery で行われる。ニキは、花嫁、毛糸で
できた頭部、
ドラゴンを展示した。
10 月、ニキとティンゲリーはアーティストのたまり場として知られていたニューヨー
クの
Chelsea Hotel(チェルシー・ホテル)にて活動をはじめる。
1965(35 歳)
夏の間をロングアイランドのハンプトンで過ごす。ここでニキは、最初の「ナナ」を
毛糸、棉
糸、パピエマシェ、金網によって制作。
9 月「ナナ」をパリの Alexander Iolas Gallery にて発表。イオラスのすすめにより、
シルクスク
リーン版画を作り始める。
1966(36 歳)
マン・レイ、ティンゲリーとのコラボレーションとして、Roland Petit(ローラン・プ
ティ)のバ
レエ "Eloge de la folie(狂気賛歌)"のために舞台セット、コスチュームをデザインする。
これは
3 月パリ Theatre des Champs-Elysees で行われた。
ニキ、ティンゲリー、ウルトヴェットは、フルテンの招きにより、ストックホルム近
代美術館
の巨大なエントランスホールに彫刻をつくることとなる。彼らは、記念碑的な長さ 28 メ
ート
ル、幅 9 メートル、高さ 6 メートルの巨大な寝そべった「ナナ」をつくることとし、スウ
ェー
デン語で「彼女」を意味する《Hon》と名付けた。
スウェーデンでの制作中ニキとティンゲリーは、若きスイス人アーティスト、Rico
Weber(リ
コ・ウェーバー以下リコ)と出会い、リコは《ホーン》』の制作に加わる。また後の 10 年
リ
コは彼らのアシスタントとして働くこととなる。
1967(37 歳)
ニキとティンゲリーは、フランス政府の依頼によるカナダ、モントリオールでの、'67
EXPO の
フランス館のための《Le paradis fantastique(幻想楽園)》の制作を行う。これは 9 つの
ニキに
よる色づけされた彫刻と、ティンゲリーの 6 つの黒い動く機械によるものである。引き続
きこ
れらは Buffalo の Albright-Knox Art Gallery にて展示され、後 1 年間ニューヨークのセ
ントラルパ
ークに置かれた。現在では、ストックホルム近代美術館そばに永久設置されている。
8 月、ニキの初の回顧展"The Nana Dream House - an adult doll house(ナナの夢
の家−大人の人形
の家)"がアムステルダムの Stedelijk Museum にて行われる。この展覧会のためニキは《ナ
ナの
家》《ナナの噴水》を作りナナの街のプランを立てる。新しい展覧会にはこの頃使われはじ
め
たポリエステルが素材として用いられた。
1968(38 歳)
6 月ドイツ Kassel の Staatstheater にてディレクターでもある Rainer von Diez(ラ
イナー・フォ
ン・ディーツ以下ディーツ)との共著による初の演劇 ICH(All about ME)が演じられる。
ニキは
自分でセットとコスチュームのデザインも行う。
10 月、18 個の壁掛けレリーフによる《Last Night I Had a Dream(昨夜私は夢を見
た)》を
Alexander Iolas's Paris Gallery にて発表。
風船のように膨らませることのできるナナをデザインし、ニューヨークで発売される。
この年が終わる前、彼女はポリエステルのガス、埃を吸い込んだ事による深刻な呼吸
困難に陥
る。
1969(39 歳)
インド旅行から持った後、初の建築プロジェクトとしてディーツのために南フランス
に 3 つの
家をつくる。
ニューヨークの Whitney Museum of American Art がニキの作品《Black Venus(黒
い女神)》を買
い上げる。その後 4 月の"Contemporary American Sculpture Selection2(現代アメリ
カ彫刻、セレ
クション 2)"にて展示される。
ティンゲリーはじめ多くのアーティスト達とともにフォンテーヌブローの森にコラボ
レーショ
ン作品として《La tete(頭部)(Le Cyciope キュクロプス)》の制作をはじめる。
1970(40 歳)
ヌーヴォーレアリスト結成 10 周年記念のイベントが、ミラノで開かれる。オープニ
ングセレ
モニーに置いて、ニキは祭壇のアッサンブラージュを撃つ。
《Nana power(ナナパワー)
》というタイトルの 17 枚のセリグラフシリーズがパリ
で出版され
る。
ニキは、ティンゲリーの仲間と共に初めてエジプトとインドを訪れる。
1971(41 歳)
7 月 13 日ニキとティンゲリーは Soisy にて結婚する。
2 人はモロッコを訪れる。
ニキの娘 Laura と Laurent Condominas の間にニキの孫娘となる Bloum がバリ島
で誕生。
初のジュエリーデザイン(ネックレス、ブローチ、カフスボタン)を行う。
この年の終わり、イスラエル、エルサレムの Rabinovitch Park に子供のための建築
プロジェク
ト 3 つの舌が滑り台となっている《Golem》を制作。
1972(42 歳)
この年より、大きなサイズの彫刻等をつくるため、ポリエステル製造会社 Haligon と
の制作を
はじめる。
7 月、フランス南部 Grasse 近くの Chateau de Mons を借りる。彼女は映画"Daddy"
を Peter
Whitehead と共に撮影。
11 月、London's HammerCinema にて公開される。
ギリシャを訪れる。
1973(43 歳)
映画"Daddy"の改訂版をソワジーとニューヨークにて、Mia Martin、Clarice Rivers、
Rainer von Diez
らと共につくる。
4 月、テレビ放送版がリンカーンセンターで行われた第 11 回ニューヨークフィルムフ
ェステ
ィバルにて封切られる。のちカンヌ映画祭に出品される。
Georges Plouvier のために Saint-Tlopez にスイミングプールをデザイン。
ベルギーKnokke-le-Zoute に Fabienne、Roger Nellens 夫妻の子供達のための遊び
場《Dragon》を建
設。
1974(44 歳)
3 体の巨大なナナをドイツ、ハノーヴァー市に設置。
Alexander Iolas's Paris Gallery にて彼女の建築的プロジェクトの展覧会が行われる。
ポリエステル作品をつくっていたことに起因する肺に膿のたまる病にかかる。
療養のため訪れていた St.Moritz で、ニューヨーク時代の友人 Marella Caracciolo と
再会する。彼
女に彫刻公園のデザインをしたいという夢を語ったところ Marella の兄弟から彼女の夢を
実現
するため Tuscany の土地を提供するとの申し出がある。
1975(45 歳)
映画のためのシナリオ"Un reve plus long que la nuit(夜よりも長き夢)" を書く。
この映画には
彼女の友人のアーティストが多数出演。彼女は映画のセットのためいくつかの家具をデザ
イン
する。
1976(46 歳)
1 年の間、彫刻公園の計画をしながら、スイスの山で過ごす。
1977(47 歳)
Constantin Mulgrave と共に Hans Christian Andersen のおとぎ話に基づいた映画
"The Travelling
Companion(旅の案内人)"のセットデザインをする。
メキシコ、ニューメキシコを訪れる。
Ricardo Mnon がアシスタントとなる。彼は後の 10 年間アシスタントとして働く。
1978(48 歳)
ニキは、Carlo、Nicola Caracciolo 兄弟のトスカーナ、ガラビッキオにある土地にタ
ロット・カー
ド大アルカナ 22 枚に基づいた《タロット・ガーデン》をレイアウトする。
1979(49 歳)
一年の多くをトスカーナで過ごす。
彼女の《タロットガーデン》のための財団が設立される。
スキニーズ(やせっぽちのという意味の線形彫刻)と呼ばれるあたらしい彫刻が創案
される。
3 月、日本での初めての展覧会が、東京のギャルリーワタリ(現在のワタリウム)で
開かれる。
Gimpel Weitzenhoffer of New York にて彼女の建築的プロジェクトの模型と写真の
展覧会が開かれ
る。この展覧会は"Monumental Projects(記念碑的なプロジェクト)"と名付けられ、ア
メリカ
を巡回する。
1980(50 歳)
4 月、《タロットガーデン》の最初の彫刻「魔術師」と、「女教皇」に着手する。
Ulm 大学構内にて、彼女の彫刻《La poete et sa muse(詩人とその女神)》の除幕式
が行われる。
同時に 5 月から 7 月にかけて版画作品の展示も行われた。
7 月から、9 月にかけてパリのジョルジュ・ポンピドゥー・センターでは彼女の回顧
展が行わ
れる。これはのちにヨーロッパをを巡回。
ニキによる家具(イス、テーブル、ランプ、鏡、花瓶)が製品化される。
12 月、増田静江(洋子)によって東京にスペース・ニキが開廊する。1 年間にわたっ
て、版画、
彫刻、ポスター、映画各展を開催。
1981(51 歳)
ニキは《タロット・ガーデン》そばにコテージを借り、プロジェクトを手伝うアシス
タントを
近隣の農家から雇う。
ティンゲリーと彼のスタッフ Sepp Imhof、
Rico Webwer がタロット彫刻の骨組み
溶接を行う。
春、彼女はアムステルダムの Stuyvesant 財団のために新型のツインエンジン飛行機
Piper
aerostar 602P の外装を手がける。
1982(52 歳)
アメリカの会社が、ニキに新しい香水をつくるよう(香り、ボトルデザイン)依頼する。
彼女は
この収益を《タロット・ガーデン》のために使う。
ティンゲリーはパリ市より、ポンピドー前ストラヴィンスキー広場の噴水のデザイン
を依頼さ
れる。ティンゲリーは彼の機械と明るい色彩の彫刻を組み合わせたいと考え、ニキに手伝
うよ
うに依頼する。翌 83 年完成。
Gimpel Weitzenhoffer of New York とロンドンの Gimpel Fils において、ニキのス
キニーズの展覧会
が行われる。
ニキは《タロット・ガーデン》の制作を続ける。
オランダ人アーティスト、Doc Winsen がティンゲリーの仕事を引き継ぎ、彫刻の鉄
部分の建設
を行う。
この年の終わり、彼らはセメントを制作に用いはじめる。
ニキは、この頃よりリューマチ関節炎を患う。この病は以後続くこととなる。
1983(53 歳)
Stuart 財団より彫刻の依頼があり、カリフォルニア大学サンディエゴ校キャンパスに
《Sun
God》を制作。
《タロット・ガーデン》内のスフィンクスの形にデザインされた「女帝」に移り住む。
彫刻のために、鏡、ガラス、セラミックが使われる。
Ricard Menon は Venera Finochiaro と出会い、以後すべてのセラミックは彼女の
手によるものと
なる。
1984(54 歳)
一年のすべてを《タロット・ガーデン》の制作に費やす。
1985 (55 歳)
「魔術師」、「塔」、「皇帝」、「女教皇」が完成。
ティンゲリーは「塔」のための機械製作を行う。
1986(56 歳)
一年のほとんどを《タロット・ガーデン》の制作に費やす。
Silvio Branbun 教授と共に絵本
"AIDS:You Can't Catch it Holding hands"を執筆。
後にこの本は、5
カ国語に翻訳され出版される。
Ricard Menon が演劇学校へ参加するためパリへ戻る。彼はニキにアシスタントとし
て Marcela
Zetelli を紹介する。
ニキは動物の形をしたポリエステル製花瓶のシリーズをを制作する。
5 月、東京スペース・ニキと佐賀町エキジビット・スペースにて、スペースニキ・コ
レクショ
ンによる大規模な回顧展を開催。
10 月、大津西武百貨店にて、スペースニキ・コレクションによるニキ・ド・サンファ
ル展開
催。
1987(57 歳)
3 月、ミュンヘンの Kunsthaller der Hypo-Kulturstiftung にて
"Bilder-Figuren-
Phantastische Garten
(絵画−彫刻−幻想庭園)" 展が行われる。
ロングアイランドの Roslyn にある Nassau Country Museum of fine Arts では
"Fantastic
Vision:Works by Niki de Saint Phalle(幻想的視点:ニキ・ド・サンファルの作品)"展
が行われる。
1988(59 歳)
ミッテラン、フランス大統領より、Chateau-Chinon(シャトーシノン)のための噴水
の制作が、
ニキとティンゲリーに依頼される。
3 月、ミッテラン自身によって街の広場で噴水の除幕式が行われた。
Helen Schneider の依頼により、ロングアイランドのシュナイダー子供病院に高さ5.
5メート
ルの《蛇の樹》を制作。
1989(59 歳)
パリの JGM Galerie にて展覧会"Oeuvres des annees 80(80年代の作品)"が開かれ
る。
エジプトシリーズが初めてのブロンズ制作としておこなわれる。これらは後に鋳造さ
れる。
Ricard Menon がエイズにより亡くなる。
息子フィリップと共に、自作の本 "AIDS:You Can't Catch it Holding hands"をアニ
メーション映画
化する。
1990(60 歳)
パリの JGM Galerie にて 1960 年からの作品展 "Tirs...et autres revolts 1961-64(射
撃...そのほ
かの反乱"が行われる。
11 月、エイズについての映画をパリの Musee des Arts Decoratifs で発表。同時に映
画のためのド
ローイングと改訂版の本を展示する。
絵本"La SIDA:Tu ne l'attraperas pas"がフランス・エイズ対策教会より発行され、フ
ランス中の学
校児童に配られる。
1991 年(61 歳)
1972 年に構想の、使命のない教会《Temple Ideal(理想の寺院)
》1/4モデルをつくる。
これ
はおよそ 16 メートルの高さの建造物としてフランス Nims につくられる予定。
ティンゲリーが 8 月に亡くなる。ニキは初めての動く彫刻をつくり、《Meta-Tinguery》
と名付
ける。
1992 (62 歳)
ドイツ、ボンの Kunst und Ausgesttellungshalle で大回顧展開催。のちにヨーロッ
パを巡回。
1993(63 歳)
動く絵画、レリーフのシリーズ「Tableau Eclates(爆発するタブロー)」を発表する。
アメリカ、南カリフォルニアに住居とアトリエを構える。
ドイツ Duisburg に大きな噴水《Lebensretter(人生の救い主)》を設置。
5 月、栃木県那須町にニキ美術館着工。
1994(64 歳)
スイスのために Stop Aids の切手をデザイン
10 月 6 日ニキ美術館開館。
Prix Caran D'arche 受賞。
8 つのシルクスクリーンからなる《California Diary(カリフォルニア日記)》を制作。
イスラエル、エルサレムに Mario Botta(マリオ・ボッタ)とのコラボレーション建築
作品
《Noah's Ark》をはじめる。
1995(65 歳)
映画監督 Peter Schamoni と共に、ニキのドキュメンタリー映画 "Who is the
Monster...You or
Me?(怪物はだれ?あなたそれとも私?)"がつくられる。
フランス文化庁 Asociacion Francesca de Accin Artistica により、メキシコ、ベネ
ズエラ、コロンビ
ア、アルゼンチン、ブラジル、チリの主要美術館を巡回する展覧会が開かれる。
1996(66 歳)
《タロット・ガーデン》試験公開。
高さ12メートル、長さ30メートルの石のモザイク、ガラス、セラミックにおおわ
れたドラ
ゴンの形をした子供のための遊び場《Gila》が、カリフォルニア Rancho Sante Fe につく
られる。
1997(67 歳)
スイス鉄道(CFF)からの依頼により33メートルの高さの彫刻《L'ange protecteur(守
護天
使)》 をスイス、チューリッヒの駅構内に設置。
1998(68 歳)
《タロット・ガーデン》オープン。
1999(69 歳)
2000 (70 歳)
第 12 回世界文化賞、彫刻部門受賞。
2001 (71 歳)
アメリカ南カリフォルニア、ラホーヤ在住。
年譜の作成にあたっては、Niki de Saint Phalle MONOGRAPHIE を使用した。
参考文献
・東野芳明編著『現代の美術第 3 巻「情念の人間」』講談社、1971 年
・東野芳明編著『現代の美術第 4 巻「ポップ人間登場」』講談社、1971 年
・東野芳明編著『現代の美術第 7 巻「集合の魔術」』講談社、1971 年
・赤地経夫 田澤耕 他『ガウディ建築入門』新潮社 1992 年
・日本建築学会編『空間演出 世界の建築・都市デザイン』井上書院、2000 年
・現代美術 16『ニキ・ド・サンファル』講談社、1994 年
・原研二『グロテスクの部屋』作品社、1996 年
・ニキ美術館編『ニキ・ド・サンファル 映画『ダディ』を見て、ニキを語る』
彩樹社、1997 年
・増田静江監修『ニキ・ド・サンファル』美術出版社、1998 年
・上野千鶴子『発情装置 エロスのシナリオ』筑摩書房、1998 年
・若桑みどり『象徴としての女性像』筑摩書房、2000 年
・リンダ・ニード『ヌードの反美学』青弓社、1997 年
・ミシェル・テヴォー『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』人文書院、1999 年
・バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』大修館書店、1994 年
・ベヴァリー・ムーン編『元型と象徴の事典』青土社、1995 年
・D.フォンタナ『シンボルの世界』河出書房新社、1997 年
・A.T マン『タロット』河出書房新社、1996 年
・Carla Schulz-Hoffmann ed.
Niki de Saint Phalle、 Prestel-Verlag 、1987
・Pontus Hulten ed. Niki de Saint Phalle, Verlag Gerd Hatje、1992
・Anna Mazzanti ed. Niki de Saint Phalle The Tarot Garden, CHARTA, 1998
・Niki de Saint Phalle, TRACES, ACATOS,
1999
・Niki de Saint Phalle, THE TAROT GARDEN , ACATOS, 1999
・Deidi von Schaewen
John Maizel,
・Colin Rhodes, Outsider Art,
Mondes imaginaires, TASCHEN, 1999
Thamos& Hudson,
2000
・Whitney Chadwick, WOMEN,ART,AND SOCIETY, Thamos& Hudson, 1996
・Heidi E.Violand-Hobi, Jean inguely,
Prestel, 1995
・Catherine Loewe ed. NIKI DE SAINT PHALLE MONOGRAPHIE, ACATOS, 2001
カタログ
・『Niki de Saint Phalle』ギャラリーワタリ、1979 年
・『ニキ・ド・サンファール展』スペース・ニキ、1986 年
・『NIKI&TINGUELY』川村記念美術館、1996 年
・『パラレル・ビジョン 20 世紀美術とアウトサイダー・アート』世田谷美術館、1993 年
・『HUNDERTWASSER
architecture』埼玉県立近代美術館、1999 年
・『突き上げる創造力アール・ブリュット−生の芸術展』
メルシャン軽井沢美術館、2000 年
・『Tableaux
eclates 』 Maxwell Davidson Gallery 、New York 、1994 年
・『Niki de Saint Phalle 』 Mingei International Museum、San Diego 、1998 年
・『NOA'S ARK Jerusalem 』 The Jerusalrm Foundation、 n.d.
・『THE MONSER PARK』 Giovanni Bettini、Roma、1988 年
・『The Wounded Animals』 Gimpel Fils London 1988 年
・『NIKI DE SAINT PHALLE CATALOGUE RAISONNE1949-2000』 ACATOS 2001
年
・『Hundertwasser KunstHausWien』 Taschen、1999 年
映画シナリオ
・『ニキ・ド・サンファール イン「ダディー」』スペースニキ、n.d.
・『ニキ・ド・サンファル 美しい獣』パンドラ、1998 年
(順不同)