-1- 夏の断章~エンドレス・セレナーデ プロローグ・八月 その年の夏は

夏の断章~エンドレス・セレナーデ
プロローグ・八月
その年の夏はひどく暑かった
関東一円が水不足となり、渡良瀬川の水量も極端に少なかった。
そう。だからあの時川を渡れた。
中学三年の僕たち。僕たちはあの時五人だった。
川のせせらぎ。夏草の生い茂った岸辺。蜃気楼でぼぉうとかすむ橋。遠くから微かに響い
てくるお囃子の音。赤城山がユラユラ揺れていた。むせ返るような草の匂い。時々吹いて
くる風が気持ち良かった。
真赤な口紅。厚い唇。少女の輪郭からはみだしている。ミニスカートの下の真っ白な下着
・・・。
最初に〃多田っち〃がキスしてもらった。
次に僕が右胸にさわらせてもらった。
〃きょーじ〃が左胸。
〃まっちゃん〃は下着の中に手を入れた。
〃あさの〃は『僕はいい』と言ったが、 『それじゃかわいそう』と言ってペニスに触っ
てもらった。
「キミたち、まだ本当のセックスを見たことないでしょ。水門のところの小屋に隠れてい
なさい。」
薄くらい小屋の中。漏れる吐息。光る汗。少女の太もも。揺れる腰。まだ成熟しきってい
ない乳房。
そして、僕たち五人の目と心臓の鼓動・・・。
「おまえら、やりたければ、でてきてやってもいいぞ。」
あの男は僕たちが覗いていたことをずっと知っていたのだった。僕たちはびっくりしてす
ぐに逃げ出した。けれど、『財布を忘れてきた』と言って〃あさの〃だけ一人戻った。
一人だけで。
1
ビーナス
沢口有人(ぐっち)
-1-
Ⅰ
風の音が聞こえる。心地よく暖房が効いたこの部屋にも風の音が聞こえる。熱帯魚の入
った大きな水槽が青く光っている。低くバロック音楽が流れているが曲名は思い出せない。
水槽を循環する水の音もたえず聞こえている。光を遮断する厚めのロマンシェードをずら
すと大きな窓だった。窓の下にはネオンが瞬き、すぐそばにJRの高架線が走っていて、
ずっとむこうは駅だった。
しばらく眺めていると、風で電線が揺れているのに気づいた。
さっきまでいた大きな飲食店の雑居ビルはこのホテルの隣にある。
その時、隣のバスルームからシャワーの音が響いてきた。
部屋の中央の大きなベッドの上にはピンクのミニのスーツと白のブラウスが脱ぎ捨てられ
ている。今、シャワーを浴びている玲美という女が脱いでいった。
背広を脱ぎ、ネクタイをはずす。
十時二十五分。
シャワーの音から離れ、携帯を取り出し沢口有人は家に電話した。5度目のコールで妻の
美恵子が出た。『子供たちは寝たか、今日は遅くなる・・・』など話しているとシャワー
の音が止み、女がバスタオルをまいて出てきた。女と視線が合う。確かに、昔、出逢った
視線だった。人差指を唇につけてシィッというポーズをつくる。女がわかったというよう
にゆっくりうなづいた。
☆
☆
☆
冷たい風の吹く冬の日だった。北関東のこの地方では『からっ風』と呼ばれる季節風が
吹く。昔は毎日のように『からっ風』が吹いていた記憶があるが、最近は暖かい日が多く
なってあまり『からっ風』が吹かなくなった。
久しぶりに『からっ風』が吹いた日の午後。
沢口は多田明彦を彼の会社に訪ねていった。地元の企業5社がコスト削減のために社員研
修を合同でやってみようという話が浮上して、とりあえず担当者が集まる会議の幹事役を
沢口と多田の会社が引き受け、たまたま二人がその担当となった。多田とは同じ小、中、
高に学び、東京方面の大学に進学し、やはり同じように地元にUターンしてこの地方に根
ざした企業に就職した。二人とも会社の中では同期の連中より少し重ポストにいる。お互
い四十歳も半ばを過ぎて、お腹の出具合や白髪を気にする年齢になった。沢口は総務課課
長補佐、多田は人事課係長の肩書きを持つ。家族どおしのつきあいもあって、心の許せる
友達だった。
合同研修の話はほとんど打ち合わせ済で基本的な点の確認と、多田の上司や会社の幹部へ
の挨拶が中心だった。出来るだけ早く切り上げ、退社時間を待ってすぐに飲みに出た。
最初は二人だけの予定だったが、急きょ多田の会社の課長と部長も同席することになった。
食事をかねて軽く一杯やった後、部長につれていかれた店は沢口たちには縁のない高級ク
ラブで、ホステスも飛びきり上等だった。たまたま沢口が部長と同じS大の出身であるこ
ともわかり、さらに部長は機嫌をよくして、
-2-
「VIPルームで遊んでいくといい。」
と言い残してIDカードを多田に渡して課長と一緒に帰っていった。
カードで5階の扉を開けると驚くほど厚いじゅうたんが敷かれていて、全てロココ調に統
一されたいかにもVIPルームという感じのエントランスだった。タキシードで蝶ネクタ
イの初老の執事風の男がフロントに案内してくれて、
「身分証明書とサインをお願いします。カードをお作りするようでしたらお持ちのキャッ
シュカードをおみせ下さい。」
と落ち着いた口調で言った。
年代物のソファに腰を下ろすと、多田が、
「おまえは今日泊まっていけるか。」
と言った。
どういう意味なのかと思っているとすぐに4人の女が来て二人のとなりに座った。4人と
も思い思いのミニスーツだったが都会的な洗練された感じのきれいなコたちだった。
「誰か一人を選べってことさ。」
と、多田が沢口の耳元でつぶやいた。
4人の中の玲美と名乗ったコは確かにどこかで見た女のコだった。
☆
☆
☆
「やっぱり家族思いの沢口さんだ。奥さんに電話してたんでしょう。」
電話を切るとすぐに女が言う。
「朋美ちゃん、なんだね。本当に朋美ちゃんなんだね。」
「今はシャングリラ、VIPルームの玲美で~す。お願いします。」
おどけた口調で言った。
朋美は2年前まで沢口の会社の受付嬢だった。沢口が新採担当の時に入ってきたコできり
っとした細身の美人だった。目立った存在で男子社員の中で誰が射止めるか話題になって
いたが会社の若い男のコには目もくれずにさっさと結婚して、退社した。沢口も結婚式に
は出席した。
「ここは、どういうシステムでどうなっているのか、まず教えてほしい。」
「シャングリラは、会員制のVIPルームです。何よりセキュリティを大切にしています。
さっきの5階のフロントにはIDカードがないと入れません。私たちはお客様のニーズに
合わせて接客させていただいています。もし、ゴールド会員とかになっていただければ、
このホテルだけでなくどこにも行くことができます。」
「接客っていうのは?具体的に言うと?」
「お客様の意のままに。」
「君と泊まって、何をしてもいいってことか?」
「ええ。」
その答えを待っていた。それから
-3-
「いちだんときれいになった。」
と言って、わざと頭のてっぺんからつま先までゆっくりと視線を這わした。
「いろんなことがあったんです。」
朋美が目を伏せる。
「セックスしてもいいのかな。」
「はい。お客様がお望みなら。でも、なんだか奥さんに悪いみたい。」
沢口の家に何度も遊びに来たことがあって、妻の美恵子とも顔見知りだった。
「美恵子は関係ない。」
朋美を抱き寄せくちづけた。若い女のむせ返るような匂いがした。すぐに舌を入れてきて、
朋美の匂いに包まれた。躰を離そうとすると、
「このまま・・・」
と言って、朋美の指が沢口の股間をまさぐった。
「アタシ、沢口さんに抱かれてみたかったの。」
耳元で確かに朋美の声を聞いたと思った。
服を脱ぐのももどかしいほどの官能が押し寄せた。
てのひらに余る程の柔らかな乳房の先で乳首がツンと立っている。朋美の股間も充分濡れ
ていた。柔らかで暖かくてそれでいて肌に吸い付いてくるような温もりを感じ、朋美の中
で出してしまってからも何度も何度もくちづけてずっと入れたままだった。そのままでも
沢口は萎えなかった。初めてセックスした時のような充実感に満たされた。
少し落ち着いてからベッドの中で裸のまま、いろんな話をした。静かになるとまた、風の
音が聞こえた。
数年前の社員旅行のこと、歓送迎会のこと、社員食堂のまずいコーヒー、朋美のことをず
っと追っかけていた営業の男の子のこと、わがままでいばりくさっている部長、その下で
いつも不機嫌な顔をしているけど、本当は人のイイ課長・・・
そんなことをとりとめもなく話した。
「奥様やお子さんたちもお元気なんですか。」
「元気だ。子供たちが大きくなった分だけ、俺も美恵子も年取った。」
沢口の妻・美恵子も会社勤めだ。男の子と女の子の子どもが二人。五年前に郊外に家を新
築して、夏は海水浴、冬はスキーをして、去年は家族でハワイにいってきた。共働きのた
め家事はいつも分担する。絵に描いたようなニューファミリーだ。妻の美恵子には特別不
満があるわけではないが、数年前からセックスはしていない。たまにキスすることもある
が、いわゆるセックスレスの夫婦である。
朋美は朋美自身のことにあまり触れてほしくなかったようだった。沢口も朋美に結婚し
てからのことを聞きこうとは思わなかった。ただ、朋美は、
「結婚という現実は、夢とは違うんだっていうことに気づくのが遅すぎたのかも知れない。」
とだけ言った。
話が止まると
「もう一回・・・」
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と言って沢口の手を取って自分の乳房に持っていった。朋美の腋にくちづけるとDFSで
嗅いだ香水の匂いがした。
☆
☆
☆
その日、沢口は午前五時三十分少し前にシャングリラの5階を出て、六時三十分に家に
着いた。
ワイシャツを鼻に寄せると朋美の香水と化粧の匂いがした。下着にはもっと朋美の匂いが
ついていた。全て脱いで洗剤と一緒に洗濯機に入れ、スイッチを押した。水が流れ込んで
くる音を確認してから『これで大丈夫』と思った。そしてすぐにシャワーを浴びた。髪の
毛をふきながらそのままコーヒーをおとして朝食を作り、やっと起きてきた家族と一緒に
食べた。妻の美恵子は
「いつ帰ってきたの。多田さん元気だった。」
と聞き、
「五時まで一緒だった。」
と答えると、
「あまり遅くまで付き逢わなくってもいんじゃないの。」
と言ってそれだけだった。
長女の美穂が
「遅く帰ってきたわりにパパは元気でうれしそうだよ。なんかハワイのDFSみたいな匂
いがする。」
と言った。
沢口は朋美の香水の匂いを思い出して一瞬、ドキッとした。美恵子は
「パパは外で遊んでくると元気なの。」
とだけ言った。
そのまま、沢口は普通に出社した。
会社では一日中機嫌が良かった。
8月8日 197 ×
その年の夏は僕達にとって忘れられない夏になった。
ユキコさんのあの事件のためだ。
中学生最後の部活の大会はあっけなく終わってしまった。僕らはとりあえずの目標を失っ
てしまって、何も手につかず、何をするでもなかった。そして、あの事件によって僕らは
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ある種の運命共同体のようになってしまった。一緒にいることによって不安や割り切れな
いモヤモヤした心やどうしたらいいかわからない揺れる気持ちを共有していたかったのだ
った。とにかく、僕達5人がくっついたことは偶然で、渡良瀬川のあの川原で田中由紀子
とであったことも偶然だった。
高1少女全裸絞殺
8日午前5時頃、K市の渡良瀬川河畔で昨夜から行方不明になっていた同市T町、会
社員田中伝次さんの長女・由紀子さん(15)が絞殺死体で発見された。発見された当時由紀
子さんは全裸で胸にはこぶし大の石がおかれ、さらに祈るように両手が合わせてあった。
K署では死体の状況から知り合いなどを中心に詳しく調べている。
前日の祭りの余韻が覚めないまま、8日は朝から街全体がざわざわしていた。
夏のギラギラした熱い太陽が照りつけ、パトカーのサイレンがいくつも響いていた。
なにしろ、十数年ぶりにこの街で殺人事件が起きて、それも、現役の女子高校生が全裸で
殺されたのだから。僕の父親は地方新聞の記者をしていたのですぐに情報が入って、朝食
を食べる前に取材に出かけた。でも、披害者がまさかユキコさんとは思わなかった。
高校受験の夏期講習会で僕らは殺されたのがユキコさんだと知った。〃多田っち〃からの
情報だった。〃多田っち〃のおやじさんは警察に勤めていて、『一年上でおまえと同じ一
中を卒業したタナカユキコっていう女の子を知らないか。』と聞かれたということだった。
「タナカユキコって聞いただけでもうドキドキしちゃったぜ。」
と〃多田っち〃が眼をキラキラさせながら言った。
僕らはきのうユキコさんの躰に触らせてもらって、そのあと、ユキコさんの裸を盗み見た
ばっかりだったから。僕の掌にはユキコさんの胸の暖かい感触がまだ残っていた。僕らは
これからどうしたらいいか話した。
「俺さ。昨夜良く眠れなかったよ。ユキコさんの裸がチラチラしちゃってさ。」
中3にしては早熟で僕らのまとめ役の〃まっちゃん〃が言いだすとみんな堰を切ったよう
にしゃべり始めた。
「寝ようと思って暗くして眼つぶったら駄目なんだ。浮かんできちゃって。」
「俺なんか、くちびるの温かさを思いだっしゃったよ。」
「あん時やっぱ、やらしてもらえばよかったかな。」
「いやぁ、やっちゃったら俺達も絶対取り調べだぜ。やんなくて正解だったんじゃないか。」
いつも冷静で物事をどちらかというと斜めから見る傾向にある〃きょーじ〃の言葉に改め
てユキコさんが殺されていたことを思い出して現実に戻った。
ユキコさんがすでに死んでしまっていてこの世にいないということが不思議でならなかっ
た。僕らの脳裏には生々しくユキコさんの感触が残っていて、ユキコさんは確実に僕らの
ココロに生きていたから。『死』ということを初めて意識した。
ひょっとしたら僕らも事情聴取とかされるかも知れない。もしそうなってもきのう触らせ
てもらったことと、小屋で覗き見をしていたことは絶対喋らないことを約束した。
実は僕はきのうからすっごく気になっていたことがあった。どうしても確かめておきたく
て、みんなにおそるおそる聞いた。
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「あのぉ、ユキコさんって、あそこに毛がはえてなかったよね。」
「〃ぐっち〃は何考えてんだよ。」
みんなに白い目で見られて、それで終わってしまった。
僕らのなかで一番驚いて、衝撃を受けていたのが〃あさの〃だった。
〃あさの〃はユキコさんが殺されたことを聞いて明かに動揺していた。『俺達もつかまる
かなぁ』とか、『警察に呼ばれるんじゃないか。』とさかんに気にしていた。〃あさの〃
は一回みんなで小屋から逃げた後、『財布をおいてきた。』と言って一人で戻った。その
あと、誰も〃あさの〃にはあってなかった。〃きょーじ〃と〃多田っち〃が〃あさの〃の
様子を見ていて、
「ヤツはフツーじゃないけど、あの後、何かあったんだろうか。」
と言ってきた。僕にも〃あさの〃のたたごとでない様子は伝わって来ていた。
〃あさの〃は僕らのなかまで一番真面目で勉強ばかりしていて女とはまったく縁のないヤ
ツだった。
Ⅱ
桜の花が咲いた。
〃花曇り〃〃花冷え〃などの言葉がぴったりな気候が続き、季節は確実に春へと変わって
いった。K市の回りの山々も緑に染まってきていた。桜の花が散ると一斉に緑の葉が芽吹
いてきた。
真冬の風の強いあの日からすでに三カ月がたっていた。
三カ月の間に沢口は朋美と10回逢って、そのたびに彼女を抱いた。
多田と一緒に進めていた企業合同の研修会の話も佳境に入っていた。朋美のいる高級クラ
ブのVIPルームには登録がしてあってIDカードももらってあった。が、普通のサラリ
ーマンが小遣いで行けるようなところではなかった。でも、沢口は朋美に逢うため時間を
割いて金も使った。朋美とセックスすることによってココロと躰のバランスが保たれ、よ
り優しいパパになり、よりやさしい夫になれるような気がしていた。妻の美恵子には指一
本触れなかった。かえって美恵子もそのほうがいいような様子だった。が、他の女とセッ
クスしていることがバレないように最大限の努力はした。今日も多田との打ち合わせのあ
と朋美に逢う予定でいた。朝食の時に、
「きょうは多田とまた逢うから遅くなる。」
というと、美恵子が、
「多田さんと逢うことを言い訳にして若いコと遊んでるんじゃないの。」
と言った。なにげない一言だったが、ぞっとするほど冷たい声に聞こえた。
☆
☆
☆
-7-
その日の午後、沢口はA市に向かった。確かに多田と打ち合わせがあったが、それは電
話でも済むようなことだった。
わざわざ沢口が会社まで来たので多田はあきれ顔で、
「だいぶ女に熱を上げてるようだけど、本気じゃないよな。」
と言った。
自分にとって大切なのは子どもであり妻である。つまり家族だ。朋美に求めているのは躰
であり、温もりであり、皮膚の触れ合う温かさだ。結婚した頃の愛情とは違っているけれ
ど、美恵子とは一緒に暮らして一緒に子どもを育てているという愛情がある。が、美恵子
は最近仕事で責任のある立場に立ち、家庭を支えていて、更にキャリアウーマンと言う言
葉が似合うようになるに従って、女から母親になり女房になった。その分沢口はココロに
割り切れないものを感じていた。セックスもずっとしていなかった。
玲美という源氏名の朋美と再会したのはそんなときだ。
沢口は朋美に温もりとセックスを求めてココロの均衡を保てるようになった。朋美と再会
してから沢口は仕事でも家庭でも毎日が充実していると思った。
会議を5時に終わらせて、白髪の目立つ多田にまた一緒のわけにしておいてくれるよう頼
んだ。わかれぎわに多田は『適度にやれよ。』とあきれ顔で言った。
6時の開店時間を待って例の5階に向かった。カードで扉を開けるともう馴染みになった
初老のボーイがいつものように
「いらっしゃいませ。」
と声をかけてきたが、沢口の顔を見ると、
「今日は玲美さん、お客様が入っているかも知れません。フロントでお確かめください。」
と言った。
フロントに行くと
「原則的にキャストは1日に1人のお客様にご奉仕するということになっています。」
と、あっさり断られた。『わかりました』と言い残して、ココロもそこに残してフロント
をあとにした。扉を開けて出ていこうとしたときに玲美である朋美が沢口を追いかけてき
た。
「ごめんなさい。10時30分まで空かないの。もしお時間があれば11時すぎに。」
と、沢口の耳元でささやいて、香水の匂いも残してすぐに戻っていった。沢口の頭の中に
〃11時すぎに〃という言葉がこだました。
ココロを5階に置き去りにして夜の街に出た。
とりあえず11時にもう一度いってみようと思って、上映時間が一番長い数年前の映画を
見た。ブラッド・ピットが主演で、長くて重苦しい映画だった。映画を見ながら朋美が男
に抱かれているところを想像し、彼女の胸の張りと肌の温もりを思い出した。いままでの
朋美の話から、客層は裕福なおじいさんが多くて一緒にベッドの中にいるだけど喜んでく
れるんだという。でも、指先には朋美の濡れた股間の感じが蘇ってきて沢口以外のほかの
-8-
男にも反応して、キスするのかと思い、今、彼女を抱いている男のことを明かに嫉妬した。
何時間か前に多田と別れるとき、『若い女はそんなにいいのか。それともアソコが特別い
いのか。』と言って不審そうな顔を向けてきた。多田には今もそしてこれからも理解でき
ないにちがいない。理屈じゃないんだ。沢口は朋美がかわいくてしかたがない。自分の子
どものかわいさにも通じるし、初めてつきあった女のコがかわいくてしかたなかったあの
オモイにも似ている。年柄もなく〃ココロがトキメク〃という感じを持った。
先日、朋美の休みに合わせて沢口も内緒で有休をとって映画を見たり食事をしたりして一
日一緒だったことがあったが、そのことがあって余計にトキメいていた。
最近、沢口は〃幸せ〃ということを考える。
家族で一緒にいることも〃幸せ〃だし、子供たちが寝てしまってから妻と一緒にゆっくり
とビデオを見たりするのも〃幸せ〃なんだろうし、朋美と抱き合って柔らかな肌に触れて
いるのもこの上ない〃幸せ〃だと思う。
内緒で朋美と過ごした一日も本当に〃幸せ〃だった。だから、きょうもその〃幸せ〃のた
めに朋美に逢わずにはいられない。奥さんのことをアイシテルと公言してはばからない多
田には決して理解できないに違いない。多田のところは、今でも新婚の頃のようにベタベ
タしている位夫婦仲が良かった。
時間潰しにゲームセンターにも入ってみた。どれもこれもつまらないゲーム機ばかりだっ
た。
客は若い子ばかりで、遅い時間なのに、ニーハイのソックスにマイクロミニで化粧もして
いる制服姿の女子高生が何人もいた。アベックでいるコの隣にはピアスをして茶髪のいか
にも有職少年という感じの男の子がいて、躰をピッタリと寄せていた。
壁にあった鏡の中の自分の姿に気がついて足を止めた。
40半ばにしてはまだ若いと思う。スーツ姿もそんなにダサくはない。会社の若いコたち
とも話しを合わせられるし、この前は会社の男のコ達に『今度一緒にお見合いパーティー
にいってみませんか』と誘われた。でも、もう四捨五入すれば50歳だ。
スタバの前では同じ制服の2人の女の子が沢口のほうを見てクスクス笑っていた。沢口は
自分が高校生に声を掛けに来たオヤジに見えるような気がして足早にそこを後にした。
午後11時。
沢口は再び5階のVIPルームの扉を開けた。『キャストは1日1人のお客様・・・』と
いうフロントの言葉と『11時過ぎに』という朋美の声が交錯しているのを感じながら。
いつもの初老のボーイが沢口を見て、柔らかな表情で
「玲美さんがお待ちです」
と声をかけてきた。
やっと恋人に巡り合えたようなうれしい気持ちになって、少し恥ずかしいような気がした。
と同時に玲美としての躰は沢口一人のものでなく、未知の何人もの男たちと共有している
という意識を強く持って、その男たちもワクワクしながら玲美に逢いに来るのだろうかと
思った。が、玲美である朋美と顔を逢わせるとそれまで考えていたいろいろな思いがすべ
-9-
て飛び去ってしまった。
隣のシテイホテルの部屋に入るのがもどかしほどだった。
「待ちくたびれた。」
と沢口が朋美の耳元でささやく。
「来てくれないんじゃないかと思ってた。」
朋美が答える。自然に手を繋ぎながら部屋にいった。ドアを閉めるとすぐ、どちらからと
もなくくちづけた。今は朋美の匂いとなったck-beの匂いがいくらか薄くなっている
ような気がした。
「ごめんなさい。何もしないおじいちゃまだったの。」
沢口はcK-beをずっと愛用している。
朋美を抱く度に躯やワイシャツについた匂いを気にするより朋美に同じ匂いを使ってもら
えば簡単なことだと考えて、いつか、朋美にcK-beをあげた。それ以来朋美は気に入
ったと言ってcK-beを愛用している。沢口は単純にそのことがとてもうれしいが、同
時に玲美である朋美の気持ちが分からない。沢口に抱かれて確かに感じているように見え
るが、あれは玲美としての演技なのだろうか。絶頂に達したときの声はあまり大きくなく
感情を押し殺して自然に漏れてくるような気がする。玲美の躰を共有している何人もの男
の中の一人が沢口であり、さっき朋美が漏らした何もしないおじいちゃまであることは確
かだ。
が、とにかく、沢口の心の拠所は『アタシ、沢口さんに抱かれてみたかった・・・』とい
ういつか朋美が耳元でつぶやいたことばだった。
「あのね、驚かないでほしいの。さっき、毛を剃られてしまったの。」
「下の毛を剃られてしまったの。」
もう一度、もっとはっきりした言い方だった。即座に沢口は朋美の全裸を想像した。毛が
無い、毛がない、けが無い・・・。
昔、ずっと昔、少女がセックスしているのを盗み見た。
あの時からずっと沢口のココロのかたすみに毛のない少女がいる。
薄くらい小屋の中。光る汗。揺れる腰。まだ成熟していない太股。そしてつるんとした感
じの少女の下腹部。その時の記憶が鮮やかに蘇ってきた。確かに少女のあそこには毛がな
かったように見えた。
沢口は目の前で毛の無い朋美の躯を見てみたいという欲望が押え切れなくなった。照明の
スイッチを全てオンにして部屋を明るくした。朋美は沢口が何をするつもりなのか図りか
ねて怪訝な顔をしている。
「お願いがある。目の前で裸になってほしい。」
「明るいまま? ここで?」
「そう、俺の目の前で。」
「どうしても?」
「みせてくれ。」
「じゃぁ、〃シャングリラ〃の玲美さんがお客さんの前で裸になる。でも沢口さんの知っ
- 10 -
ている朋美は恥ずかしくてそんなことできない。」
朋美の言葉が沢口にはとてもうれしかった。沢口は背広を椅子にひっかけネクタイをいく
らか緩めて椅子に腰掛けた。
「待ってて。今、玲美さんになり切るから。」
そう言って後ろを向く。深呼吸を一回したように見えた。それから沢口のほうに向き直り、
濃紺の地味なミニのスーツを脱ぎ始めた。視線は宙を舞っている。ゆっくりとした動作だ。
上衣をとるとウエストがしまって腰が十分に発達しているのがより鮮明になる。スカート
の裾から見えるいくらか太めの腿は適度な色気を感じさせ、ストッキングとパンプスも紺
色で統一されている。手を後ろに回してスカートを落とし、右足、左足の順番に抜いてい
く。次にパンティストッキングに手を掛け、一気に降ろす。足首のところで銀色のワンポ
イントが一瞬光る。すると、黒に緑が交じったいかにも高級そうなレースのパンティが表
われる。パンストをベッドの脇に置き、指が白いブラウスのボタンにかかる。ブラウスか
ら透けて下着のストラップが見える。キャミソールをとると半カップのブラはパンティと
おそろいだった。朋美の乳房はあまり大きいほうではない。ブラをはずしても急に乳房が
垂れたようには見えない。乳うんも乳首もそんなに大きくない。沢口は改めて形の良い乳
房だと思った。肌もつやつやしている。脇の下のところに下着の線が残っている。いよい
よ朋美はパンティだけになり、放心したようにさらに動作が緩慢になる。全てを脱ぎ去っ
てしまうと沢口の目を覗きこむようにして
「沢口さん、これが玲美の躰よ。よく見て。」
と、言った。
「きれいだ。人間を超えてしまったくらい、本当にきれいだ。」
沢口は心からそう思った。不思議に性的な感じはまったくしない。均整の取れたマネキン
を見ているようだ。きれいで輝いていた。
毛の無い少女がセックスしているのを盗み見た時、同級生の多田達4人といっしょだった。
暑くて狭い小屋の中に隠れていた。沢口達は少女に躯を触らせてもらってから少女と男の
セックスを盗み見せてもらったのだった。そしてその後すぐに少女は殺されてしまった。
でも、少女は毛の無い少女のまま沢口のココロの片隅にずっと生きていた。今まで毛がな
いことがとても不快でいやらしく思えていた。けれど、朋美の裸は光っていた。いつか絵
画で見たビーナスを連想させた。崇高な感じさえした。毛が無いことは決して性的な感じ
を抱かせない。かえって毛が一部分にしかないことによってより卑猥になることを今改め
て実感したのだった。沢口は、15歳の時からひきずってきた少女の呪縛からようやく解
き放たれたような気がした。
明るいまま朋美を抱き寄せ、そのまま沢口は暖かな朋美の素肌、足の指から躰の奥までゆ
っくりと舌を這わせた。
ck-beの匂いに包まれて沢口は幸福にココロをふるわせた。
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2
赤い唇
松山圭亮(まっちゃん)
Ⅰ
夢を見た。
薄暗い部屋の中で何かを見ていた夢だった。昔からずっと見続けてきた夢。あの事件があ
ってから。タナカユキコが殺されてからずっと。薄暗い部屋で身を隠すようにして何かを
見ている夢。いつでもそうだ。俺たちの見ていたむこうにあるものは、想像を絶するよう
な無気味な何かであったり、近未来的な造形物であったりして、ひょっとして生と死の境
目はそんなのかもしれないと思い続けていた。いつも最後に俺たちはその薄暗い部屋から
逃げ出すのだった。
とにかく、今日も、薄暗い部屋の中で何かを見ていた感じが記憶の片隅に残っている。
目が覚めた。
冴子の躰が手の上にあって重くて目が覚めたのかもしれない。冴子は安らかな寝息をたて
ている。触れあっている素肌から躰の温みが伝わってきて松山圭亮はとても幸福な気持ち
になる。浴衣の袂を探してそこに右手を滑り込ませ冴子の太股に触れた。すべすべしてい
て温かかった。とうとうここまで来てしまったという気持ちとやっと二人になれたという
安心感。
昨日の土曜日、冴子を連れて草津に来た。I市から約2時間。雪があるかもしれないと事
前にタイヤをスタッドレスに換えておいた。当然、女房には内緒だが、冴子といっしょで
あることはわかっているに違いない。
時計は6時を少し回ったところを指している。食事の時間までにはまだ間がある。冴子を
起こさないように気を遣いながらゆっくり躰を起こして、改めて冴子の顔をのぞきこんだ。
かわいい。いとおしくも思う。
眼と眉の間が狭くて彫りが深い。鼻筋が通っていて唇は薄めだ。短めの茶色く染めた髪が
額にかかっている。ふとんを少しずらすと乱れた浴衣のあわせからあまり大きくない胸の
谷間が見えた。確か昨夜、冴子は浴衣も何も付けずに寝たはずなのにと思った。
「寒い。」
と言って冴子が眼を覚まし躰を縮めた。
そのしぐさがたまらなくかわいくて軽く額にキスした。リンスの匂いがした。もう一度、
ふとんに入りなおすと冴子が松山の首に手を回し、抱きついてきた。松山の左手は冴子の
胸を探り、右手の中指は確実に冴子の敏感な部分に達した。冴子が舌を入れて、右手は松
山のペニスに触れてきた。しかし、松山は中途半端な気持ちで勃起しないような気がして
いた。
冴子の耳元で
「いいよ。」
と言って躰を離したが、とりあえず、二人裸になりふとんの中で抱きあった。
そしてエアコンの暖房を強くした。
冴子は高校時代に水泳部だったから、胸は筋肉質でどちらかというと固い感じがする。う
りざね型の顔で躰も驚くほどスリムだ。無駄な脂肪は一つもついていないように見える。
- 12 -
「ねぇ、雪降ってるのかな。」
「見てごらん。」
冴子が裸のままゆっくりと立ち上がりカーテンをずらす。薄暗い部屋に光の筋が差し込み、
冴子がまぶしそうな表情をした。光に添ってちいさなほこりが浮き上がる。
「晴れてるぅ。スキー場も見えるぅ。」
本当にうれしそうな声だった。冴子がもっと外を見ようとカーテンを動かすと光がちょう
ど胸のあたりを浮かび上がらせた。
「誰かに冴子の裸が見られるぞ。」
「だいじょうぶ。だってここが一番高いもん。」
そう言って向き直ると、今度は冴子の顔に光があたって大きな二重の眼がキラキラと輝い
た。
「朝食の前に湯畑のあたりを歩いてみよう。その前にもう一度ここへおいで。」
冴子がふとんの中にはいる。松山が躰を浮かして冴子を仰向けに寝かせる。
「どうするんですか。」
「冴子は何もしなくていい。」
冴子の唇を吸った。唇を離してから舌を固くして触れるか触れないかという感じに軽く楕
円を描きながら小刻みに舌先を動かした。両方の手には乳房がすっぽりと収まっていて指
は乳首を軽く愛撫している。松山は舌先を微妙に動かした。その時、部屋の隅にかけてあ
ったタオルが眼に入った。松山はちょっとしたいたずらを思いついた。躰を起こしてタオ
ルを2本取った。冴子は松山が突然躰を離したので何があったのかと狐につままれたよう
な表情をしている。
「これから冴子は俺の言う通りにするんだ。」
そう言いながら、一本のタオルで目隠しをした。もう一本のタオルで両方の手首を軽くし
かし抜けないように縛った。
「きょうのセンセイは、いやらしい中年のおじさんみたい。」
松山の舌は首筋から乳房のそば、腋の下、脇腹へとゆっくりと這っていく。松山の指も軽
く触れるか触れないかのようにして素肌の上を絶えず動いている。冴子のからだが徐々に
熱くなっていくのがわかるが、乳首とクリトリスにはまったく触れない。冴子の指を一本
ずつ口に含み思いきり吸った。それから、松山の舌は太股の内側から膝へくるぶしへと降
りていき、冴子の足の指の間に入っていった。冴子はたまらずに声を漏らした。
「センセェ、アタシ、もうダメ。」
冴子は相変わらず目隠しされたままだ。
☆
☆
☆
松山はI市で個人病院を経営している。元は義理の父親が作った病院だ。松山は入り婿
で2代目になる。義理の父親も母親もすでに亡くなっていたが、患者には先代からの人も
多く、評判も悪くない。金銭的には何不自由無い。女房の加奈恵は3つ歳下で病院の事務
を統括している。子供は中学生の男の子が一人いる。加奈恵の関心事は息子のことと病院
の経営についてだけだ。もともと愛情があって結婚したわけではない。病院の魅力である。
- 13 -
松山は生まれも育ちもK市だ。父親は様々な事業に手を出しては失敗し、いつも金の無い
家の三男坊に生まれた。母親が金の工面に苦労しているのを見て育った。頭は悪くなかっ
たので、苦学をしながら国立の医学部を卒業した。ちょうど後継者を探していた義理の父
親が『苗字はそのままでいいし、何一つ不自由させないから娘と結婚してくれないか』と
松島に懇願したのだった。それでも、義理の両親が生きていたときは加奈恵ともうまくい
っていたし、実際に仲も悪くなかった。義理の父親が亡くなって数年後、松山は病院を建
て替え利益を上げるための近代的な経営を実施した。加奈恵と義理の母親は大反対だった
が、英断を下した。といっても義理の母親は病院ができる前になくなってしまった。が、
松山の経営方針があたった。今では個人病院としては市内でも指折りの病院となった。手
にする金が増えるに従って松山は太り出し若い女に手を出すようになった。加奈恵にはそ
れが気に入らなかった。以来、加奈恵との溝は広がり深まり続けている。
中野冴子は松山の病院で働く看護婦の中の一人だ。
病院に看護婦は30名近くいるが、みなかわいくて美人で粒揃いだと思っている。患者の
中には看護婦を見に来るのではないかという人たちが何人もいる。なかでも中野冴子はバ
タ臭い顔立ちとスレンダーな躰で松山好みだった。それにピンク色のナース衣がよく似合
った。往診にはよく冴子を連れ出し、深い仲になるのに時間はかからなかった。今までに
松山は何度も病院の看護婦や酒場の女に手を出してその度に加奈恵との仲が遠くなってい
った。ここ数年はほとんど口をきかないし、寝室もまったく別々だった。
☆
☆
☆
ゆっくりと温泉につかった。大浴場の前で『いっしょにでよう』と言って男湯と女湯に
別れたけれど松山の方が早く出た。脱衣場で身長計や体重計に乗って時間を潰したつもり
だったが、大浴場の前でしばらく待った。身長は178で体重は87・5だった。下腹も
だいぶ出てきた。冴子も松山自身も湯上がりのかすかな硫黄の匂いがした。
冴子が化粧を終えてから、浴衣の上にしっかりとどてらを着込んで寒くないようにして湯
畑に向かった。冷たい空気がほてった躰に気持ち良い。温泉街の狭い通りを歩いていくと
湯畑が近づくにつれ、硫黄の匂いが増してきた。二人の下駄の音が響いていかにも温泉街
という雰囲気を醸し出す。湯畑に出ると、一瞬大量の水蒸気で視界が遮られた。何年も来
ないうちに周辺がきれいに整備されていた。
冴子は『20年ぶりくらいに来た』と言って素直に喜んだ。『カメラを持ってくれば良か
った』と繰り返して、結局、店を開けたばかりの土産屋でポケットカメラを買ってきた。
近くにいた子供連れやカップルにお願いして何回もシャッターを押してもらった。いくら
松山が年より若く見えても冴子とはだいぶ年が離れている。夫婦には見えないし、親子に
も見えない。シャッターを押してくれた人たちは俺達のことをどういうふうに思ったろう
か、二人で撮った写真はこれからどうなるんだろうかと松山は思った。
休憩所に腰を降ろして一本しか残っていなかった煙草を二人で吸った。フィルターに冴子
の赤よりも茶色に近い口紅がうっすらとついていた。
- 14 -
草津から六里が原のバイパスをまわって軽井沢によった。2月の軽井沢はひっそりとして
いた。駐車場もガラガラで車もすぐおけた。アウトレットもそんなに混んでいなかった。。
帰りは上信越道から北関東道にまわった。右ハンドルの黒のベンツの中で冴子は躰を松山
に預けずっと甘えていた。松山にとっても病院や女房から離れて幸福な瞬間だった。碓氷
峠を越えると急に曇ってきて、雨になった。渋滞は全くなかった
FMからは福山雅治の番組が流れてきた。
〃こんにちわ、福山さん。私は会社の上司の係長に恋をしています。私のことを好きだ
と言ってくれます。でも、彼には奥さんも子供もいるんです。以前から彼を上司としてだ
けでなく男の人としてみていました。半年前の懇親会の後、彼に誘われて2人だけで飲み
にいき、彼は私の部屋に泊まっていきました。「入社したときから僕は君のことをずっと
見てきた」と言ってくれました。決してお酒のせいではありません。真剣に愛し合ってい
ます。彼は奥さんと別れて私といっしょになってくれると言ってくれました。週に1回か
2回の割りであっていましたが、2ヶ月程前、会社のある人に私の部屋から彼が出てくる
ところを目撃され、噂になってしまいました。それ以来彼はほとぼりがさめるまで逢わな
いようにしようと言っています。先日は田舎の父親から見合いの話があり、どうしても断
り切れずに結局見合いをしました。先方が私を気に入ってくれて話がどんどん進んでいま
す。このまま田舎に帰って結婚してしまおうかと思うこともありますが、でも、私は彼の
ことが好きで好きでたまりません。会社で彼と顔を会わせたりすると、彼に抱かれ彼の腕
の中で「好きだよ」って言ってくれた時のことが蘇ってきます。福山さん私はどうしたら
いいんでしょう・・・〃
スピーカーからは低く〃桜坂〃が流れる。
一呼吸おいてから思いつめたように冴子がしゃべりだした。
「センセィ、あたしと結婚してくれる?」
「ああ。」
「ああじゃなくて。あのね、センセィ。アタシにもお見合いの話があるんだよ・・・。」
「冴子は見合いしたいのか?」
「したくないけどぉ。両親がとても乗り気なの。逢うだけあってみろって。12歳も年上
なのよ。」
「冴子は23だったな。じゃあ、その男はひょっとしてオレよりずっと下じゃないか。1
2歳も上っていうのは失礼だゾ。」
「そうねぇ。でもセンセィはすてきよ。エッチも。」
と、言いながら冴子は松山の股間に手を伸ばした。松山が左手を冴子の太股の上に置くと、
冴子はゆっくりと足を開いた。
40歳も半ばを過ぎた。不惑と言うけどそれは嘘だ。俺はいまでも迷い続けている。こん
な生活を送っていてもいいのだろうか。家も女房も冴子のこともずっとこのままではいら
れない。一人息子の信一郎は来年高校受験だ。松山は自問する。
- 15 -
先日、同級生の荏原から『今年は同窓会を開く年でオマエも幹事の一人だぞ。』という電
話がかかってきたのを思い出した。近くの街に住みながらなかなか逢うこともできない。
たまには昔の仲間とも逢ってみたい。でも、荏原達と逢ったらきっとまたあの話になるに
違いない。
あの時、俺たちは少女に躰を触らせもらった。高校受験の夏。俺は殺された田中由紀子さ
んのパンツの中に手をいれさせてもらったけど、あの時は緊張して指を動かすこともでき
なかった。俺と一番仲の良かった〃あさの〃は由紀子さんにペニスを触ってもらった。ま
じめで頭の良かった〃あさの〃は高校1年の夏に突然俺達の前から消えてしまった。今で
も思い出すと胸がキュンとする。田中由紀子さんの死と〃あさの〃の失踪は今でもずっと
俺の心の中に残っている。田中由紀子さんが殺された時から俺はずっと死を意識している。
死は常に俺たちの生活のすぐ側にある。実の父親が死んだとき、俺は泣かなかった。義父
が死んだときも義母が死んだときも涙はでなかった。死は無だ。死んだら何もできない。
身近な人の死に接するごとにそういう思いを強くした。俺自身は今、産婦人科の医者とな
って、ほとんど毎日のように新しい生命をとりあげている。生は一方では力強いが常に死
と隣り合っている。死を強く意識したあの夏から、俺の運命は決まっていたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを思いながら松山の左手は冴子の太股の奥へゆっくりと動いてい
く。
福山雅治の歌声にあわせて、フロントグラスのワイパーがスキップし続ける・・・。
8月7日午後 197 ×
とにかく、クソ暑い日が続いていた。
午前中の夏期講習の時はまだいい。昼食をとってから夜までがひどく長くてそして、暑い
のだ。部活をやっていた時は1日が短くてやりたいことがいっぱいあって何をやってもお
もしろいことばかりだったけど、今は特別おもしろいこともない。大好きだったTV番組
もなんであんなに大笑いしてたのか不思議な気さえする。俺は志望高校の偏差値もだいぶ
上回っているからこのまま順調に行けば落ちることはない。
きっかけはなんだったか忘れてしまったけれど、誰かが『川に行けば涼しいんじゃないか』
と、言った。そして、俺達は川に行った。はじめは10人くらいいたけど、結局、川を渡
ったのは俺と〃きょーじ〃と〃多田っち〃と〃ぐっち〃と〃あさの〃の5人だった。膝ま
でつかって、川の流れは一瞬心地よかった。本当に一瞬だ。渡良瀬川の土手には直射日光
がジリジリと照りつけていて、川岸と中州には人の背丈よりも高く草が生い茂っていた。
草いきれでムンムンしていた。誰かが〃レット・イット・ビー〃を口笛で吹いていた。中
州まで渡ると不思議にトンネルのようになって草の間に道がついていた。ある種の予兆を
- 16 -
持ってそこを歩いていくと、突然、真赤なミニのワンピースを着た女が現れた。どこかで
見たことがあるけどだれだかわからなかった。一瞬、俺は気がふれているヒトかと思った。
歩き方がフワフワしていて本当に突然現れたので、とにかくびっくりした。ひょっとして
クスリでラリっていたのかも知れない。
〃ぐっち〃が、
「ユキコさん、どうしてこんな所にいるんですか。」
というようなことを云いながら近づいた。そうか、タナカユキコさん。俺達の中学校の一
年先輩でもう卒業したんだけれど、中3の時に妊娠して中絶したと云うウワサのヒトで学
校の有名人だったから俺も顔だけは知っていた。ただ、真赤な口紅で感じが全然違ってい
た。〃多田っち〃と〃ぐっち〃はユキコさんと知り合いらしく何か話をしていた。その間、
俺は〃あさの〃と〃きょーじ〃に『あのヒトが例のタナカユキコさんだ』と云っていた。
しばらくしてからユキコさんが、『キミたち、まだ、おんなの躯を知らないでしょ。一列
に並びなさい。アタシが教えてあげる。』と言って、俺達はなんとなく一列になった。
最初に〃多田っち〃がくちびるにキスしてもらった。その時から俺は心臓がドギドキして
いた。次にユキコさんは真赤なワンピースのボタンを胸まで外した。白いブラが見えてユ
キコさんが〃ぐっち〃の手を持って右の胸の所に持っていった。〃ぐっち〃が軽く手を握
ったままどうしていいかわからずにしているとユキコさんが〃ぐっち〃の右手をブラのカ
ップの中にいれさせた。それから〃きょーじ〃も同じようにして左の胸の中に手を入れさ
せてもらった。いよいよ俺の番になった。もう俺の股間はパンパンに堅くなっていた。ユ
キコさんは俺の前に来て同じように俺の手を取って、『あなたはラッキーよ』と言いなが
ら自分のパンツの中に入れさせた。俺はもう頭の中が真っ白になってしまって、手を軽く
握ったままでパンツのゴムが固かったことしか覚えていない。それから、〃あさの〃が『僕
はいい。』と言い出した。ユキコさんは『それじゃかわいそう』と言ってズボンの上から
〃あさの〃のペニスに触って、すぐにベルトをはずしてズボンの中に手を入れた。『すっ
ご~く大きくなってるよ。』と言ってユキコさんは左手でペニスをつかむような手つきを
して笑った。俺は〃あさの〃の顔を見ていたけれど超まじめ人間の〃あさの〃はどうして
いいかわからず今にも泣き出しそうな顔つきだった。しばらくしてユキコさんは〃あさの
〃から離れた。
『前に多田君と沢口君にパンツを見せてもらったときのお礼ね。』と、誰にともなく言っ
た。
「あのね、キミタチ、まだ本当のセツクスを知らないでしょ。見たことないでしょ。鉄橋
の下の水門のところに小屋があるの知ってるわね。その小屋に隠れてなさい。4時よ。」
ユキコさんの『4時よ。』という言葉が脳の奥底まで響いていて、ユキコさんの素肌の暖
かさは掌に残っていた。心臓の鼓動のドキドキはずっと続いたままだった。
その日は、祭りの最終日だった。俺たちは放心したように街を歩いた。本町通りは歩行者
天国になって道の両側にところせましと露店が並んでいて所々にやぐらが組まれていた。
街のあちこちに『この人を見かけませんでしたか。』というチラシが貼ってあって、例の
女性連続殺人の被害者の似顔絵だった。大音量で八木節が流れていてどこをどうに歩った
- 17 -
のか覚えていないが、とにかく3時30分にもう一度川に行った。土手づたいに歩いてい
って鉄橋の下の水門はすぐわかった。水門の裏の奥まったところに小さな小屋があってそ
こは水門の開閉をするためのものだった。背の高い夏草に覆われていて小屋があることを
俺たちの仲間は誰も知らなかった。小屋の鍵は開いていて中に入ってみるとサマーベッド
が一つおいてあった。となりの部屋からちょうどのぞき込めるようになっていて、ちゃん
と裏口まであることもわかった。
俺たちはユキコさんが来るのを待ち続けた。
Ⅱ
光がにじんでいる。赤や青や黄色のネオンが霧雨の小さな一粒一粒の中で一瞬光って反
射して、そしていくつかがまとまり重くなって落ちていく。何時間か前に降り始めた雨は
いつのまにか霧のような小さな粒に変わっていた。どこかの店でもらった透明なビニール
のかさに雨が柔らかに落ちてくる。キラキラと光が交錯する。かさのビニールのむこうに
ネオンがにじんで見えるのは俺が酔っているからだろうか。それとも雨のせいだろうか。
冴子が松山の前から消えてもう4ヶ月になる。たった4ヶ月しかたっていないのに松山
のココロも生活もそれこそボロボロになっていた。
大学時代の恩師の退官記念パーティーがあるからというので3月末に一週間程家を空け
て帰ってきてみると、冴子は病院にもアパートにもいなかった。携帯もつながらず、雇用
の登録カードも抹消されていて同僚の看護婦たちも冴子のことは何もしゃべらなかった。
女房の加奈恵の差し金だった。
3月に出かける時、加奈恵はやけに愛想よく徴笑みさえ浮かべながら『たまにはお友達と
ゆっくりと遊んでらっしゃい。』と言ったのだった。家に戻ってきて初めて加奈恵の愛想
のよさと微笑みの意味を知ったが後の祭りだった。松山のいない間に加奈恵が冴子を病院
からもアパートからも追い出したのだった。
そして、冴子がいなくなってから松山は毎日毎日、夜の街に出た。スナックやクラブの女
を抱くにはある程度時間と金をかけなくてはならなかった。松山にはその手間がひどく無
駄に思えた。いわゆるフーゾクの店に何十年振りかで足を踏み入れたのは患者の一人に誘
われてだった。
☆
☆
☆
『優香です。いらっしゃいませ。』
といって松山の前に現れたのはまったく予想外の若くてかわいいコで、くっきりとした二
- 18 -
重まぶたのウチの病院の女の子達よりもずっと化粧が薄いコだった。すぐに目の前で裸に
なって一緒にシャワーを浴びた。肌もきれいで小さめの乳房と薄目の恥毛がかわいい印象
を与えた。狭いバスルームの中で『よく見せて。』と言って距離をとると『恥ずかしい。』
といいながら躯を隠そうとはしなかった。憂いを含んだような眼差しを見せてそれが魅力
的だった。部屋を暗くすると、すでに十分大きくなっていた松山のペニスを口に含んだ。
わずかな金のために見ず知らずの男の前で裸になって、躯を触られ、ディープキスをして、
ペニスをくわえ、それでいて、決して挿入させない。一線は越えてないから躯はきれいだ
し、いつだってフツーの生活に戻れるという不思議な貞操感となによりも〃優香ちゃん〃
が気に入って、何度も指名した。
しばらくして、心も通じあうようになったと思った。
優香ちゃんは煙草を吸わなかったし、男の影も見えなかった。話の弾みで店が終わって一
緒に食事をして休みの日に何回か二人でドライブに行った。でも、店の外で松山は優香ち
ゃんに指一本触れなかった。
いままでの松山は女を好きになると自分のすぐ側に置いておいていつでも手の届くように
していたけれど、優香ちゃんのようにある一定の距離を保ちながら自分から逢いに行くと
いうのは初めての経験で、とても新鮮な気持ちがして心に一つ張りができたような気がし
た。冴子の替わりがみつかったと思った。が、しばらくすると優香ちゃんは店を休みだし、
1ヶ月もすると店を辞めてしまった。松山の方から連絡する手段はなかった。残ったのは
一緒に遊びに行ったときに買った携帯のストラップだけだった。松山はひどく落ち込んだ。
それから、優香ちゃんのような女をさがし、性欲のはけ口を求めて毎晩夜の街に出たのだ
った。
始めっからわかっていたけど、性欲は満足できてもココロは満足しなかった。松山は特別
なことを望んでいたのではない。フツウにセックスして満足感が得られればそれで良かっ
たのだ。現にいままではそうしていた。
金を媒介にしたココロを置き去りにしたセックスは救いようのない虚無感を増長させるだ
けだった。とにかく夜の街を歩き回った。
そして、すぐに、様々な店の店長とも知り合いになった。松山の遊び方を見ていたある店
長は余りにも刹那的で〃もう来ないほうがイイ〃と言い、ある店長は街の暗い奥の秘密ク
ラブを紹介してくれた。何をやっても松山は満足できなかったのだった。そして、今日、
松山は街の奥のSMクラブに向かった。
わかっていたけれどSMクラブも松山を満足させてくれなかった。松山についた27、8
歳のコはごくフツーのコだったが、とても気を使ってくれた。松山をSの立場にもMの立
場にもしてくれた。『あたしは国会議員の偉いセンセイにもついたことがある。一番喜ぶ
のは縛って浣腸して、我慢してる時蹴飛ばしてやるともっと喜ぶの。あたしはおかしくっ
て笑いをこらえながらまじめな顔して蹴飛ばすの。なんでも言ってね。できるだけがんば
るから』と淡々とした口調で言った。でも、結局、特別何をするでもなく、そのコの口の
中に出しただけだった。『あなたの、しょっぱいけれど疲れているんじゃないの。』と言
われて、体じゃなくてココロが疲れているのかも知れないと思った。
ココロを余計に重たくして、いつものクラブに足を向けた。とにかく、酔ってしまおうと
- 19 -
思ったのだった。
☆
☆
☆
エリといういつものコを指名した
が、指名が入っていて、ちょっとだけ松山のところにきてすぐにいなくなった。落ち着い
た雰囲気の店で、時々控え目な生バンドが入る。とにかく、音がうるさくなくて、女のコ
とちゃんと話ができるところが気にいっていた。女のコの服装もそんなに派手でなく、中
でもエリは松山のお気に入りだった。ヘルプできたコはどこかで見たことがあると思って
いたら『院長先生ですよね。アタシのこと覚えていますか。』と言って声をかけてきた。
昔ウチでナースをやっていたコだった。シラケた感じになってしまって、共通の話題もな
く、他の席にいっているエリを探した。
薄暗い店内を端からずっと見まわしていった。客はそれほど多くはなくて、店自体もいく
らかのんびりしていた。エリはソファの端に腰掛けていたのですぐにみつかった。エリを
指名した男はどんなヤツなんだろうと思って見てみると、なんとそれは同級生の多田明彦
だった。エリが松山の視線に気づいたのを見て、松山は軽く手をあげた。エリが自分のこ
とを呼んでいるのかと思って『失礼します』と言ってこちらに向かってきた。多田を見て、
松山は今までの元気のなさが吹き飛んでいくのを感じていた。しばらくぶりに心からの友
達に出会った。
「センセィ、どうしたの?」
「エリを指名したあの客は〃多田〃だろ?」
「そうよ、多田さん。知ってんの?」
「同級生だ。同じ席にいって大丈夫かな。」
こちらを訝しげに見ていた多田だったが、松山だとわかるとすぐに安心して、結局、エリ
を二人の間に座らせて飲み始めた。本当にしばらくぶりの再会だった。近くの街に住みな
がらなかなか会うこともない。
「まさか、〃まっちゃん〃と逢うとは思わなかった。」
「俺こそ愛妻家の〃多田っち〃が一人でこんなとこにいるとは思わなかったよ。」
しばらくぶりに〃まっちゃん〃と呼んでくれる心の許せる仲間に会えた。エリの話から松
山も多田もエリを指名する常連であることがわかった。〃二人とも女の好みが似ているん
だろうか〃から始まってエリのことをさかなにして腰を落ち着けて飲み始めた。多田は溌
らつとした感じがなくていつもの多田らしくなかった。
酔いがまわると、
「妻の律子が子供たちを連れて実家に帰ってしまっていて、それで最近、耳鳴りがしたり
色が見えないんだ。でも、おまえと一緒に飲みはじめたら少し色が見えてきたような気が
する。」
と言った。
俺たちの仲間のなかで一番の愛妻家の多田が奥さんとうまくいってないんだったら相当精
神的にまいってるかも知れないと容易に想像できた。
- 20 -
昔の仲間たちの話もでた。荏原はロリコン趣味を止めて見合いをしたらしい。沢口はフー
ゾクの若い女にトチ狂っている。でも奥さんにはバレていないらしい。
昔の仲間の話を始めてそれぞれにみんなが迷ったりしてることが想像できて、松山は『俺
だけじゃないんだ』と思った。松山はどうしても多田に元気を取り戻してほしかった。
クラブが終わってからエリも連れてスナックにいった。『アタシはあのクラブにいつまで
もいる気はないヨ』というエリの言葉が気になった。べろべろに酔いながら松山は冗舌に
なった。多田とエリがほとんど聞き役に回って松山は、今の若いの女の子についてしゃべ
りまくった。松山の意識の隅には〃優香ちゃん〃の記憶や冴子のことがあった。
エリが帰ってからも二人で飲み続けた。しばらくぶりに心底酔った。
多田は
「なにもかもみんなおんなじ色に見えるんだ。だけど、エリの赤い口紅だけは色が付いて
いる」
と言った。
なぜ?なぜなんだろう。
なぜ、松山も多田もエリを指名していたんだろう。
理由はわかっていた。口には出していなかったけれど、エリは似ていたのだ。あの田中由
紀子にどことなく似ていたのだった。少女の雰囲気を残しながら真赤な口紅が躯の輪郭か
らはみ出ていて、精一杯大人ぶっている。『また飲もうな。』と言って別れるとき、多田
が松山に声をかけた。
「エリとはもう寝たのか?」
「ああ。」
「毛は薄かったか?」
もう一度、
「ああ。」と返すと、
「じゃあ、ほんとによく似てるな。」
と言って、それで別れた。
3
水色の世界
多田明彦(多田ッチ)
Ⅰ
夜の音がする。
それは夜の底にゆっくりと漂っている。遠くで電車が通りすぎる音、オートバイのエンジ
ン音、子供たちの寝息、星たちのささやき、恋人たちのサヨナラ、身体の奥の鼓動、木々
のざわめき、少女のため息、シャワーの水音・・・。誰もいない公園で風にブランコがか
すかに揺れる。
啓蟄もすでに過ぎて、彼岸も近い。風が柔らかい。もっと耳を澄ましたら植物の息吹まで
- 21 -
聞こえるかも知れない。
ベッドの中で多田は妻の律子を待っている。
静かな夜だ。
三年前、郊外に5LDKの家を新築した。多田の父親が亡くなり、それを機会に母親の多
恵子と同居するために家を建てた。55坪の家は30年のローンで毎月の返済は多田の給
料から引かれている。やっとやりくりしている。妻の律子はいつも家計が苦しいと愚痴を
こぼして、そのことは子供たちもよく知っている。律子と姑との仲は悪くはない。仏壇は
母親の部屋にあり、律子と母親が交互にお供えをあげる。
子供は高校2年をアタマに3人いる。三人とも男の子だ。一番下の子も小学校に入り子供
から手が離れて、律子は秋からパートに出た。パートにでることで姑との仲はよけいに良
くなったような気がする。サービス関連の会社の事務だったが、最近、ノートパソコンを
使うようになった。子供たちが寝たり自分の部屋にいったりしてから、多田が教えてやっ
てどうにかワードが打てるようになってきた。
昼間、旧友の沢口と会った。最近は仕事の関係で一ト月に何回か顔をあわせる。それだけ
でなく、家族ぐるみのつきあいもあってお互いの家庭事情から子供たちのことまでよく知
っている。
でも、沢口のウチと決定的に違うのは妻とのスタンスだと思っている。沢口のところと違
ってずっとうちの方が夫婦仲がイイ。
きょうも沢口から『今夜一緒に飲んでいることにしておいてくれ』と頼まれていた。同じ
会社にいた女の子がフーゾクにはしって沢口はそのコに入れ込んでいた。『とにかく、カ
ワいくてしょうがないんだ。』と言いながら、奥さんに内緒で足繁く通っている。実は多
田もそのコに一度あっていて確かにちょっときれいなコだとは思ったけれど、自分は沢口
みたいなバカなことはしないと多田は確信していた。だいち、ウチは多田のところと違っ
ていまでも愛しあっているからと思っている。
寝室のドアが開いて律子が入ってきた。
静かに多田の隣にすべりこむ。多田が律子のほうへ向き直る。
「起こしちゃった?」
「待ってた。」
「やるの?」
「ああ。」
ゆっくり抱きしめるとアナスイの香りがした。いつだったか律子の腋の下に顔を埋めなが
ら〃いい匂いだ〃と誉めてからセックスをする前に必ずつけている。パジャマの上から乳
房にさわる。下着はつけていない。律子の胸はかなり大きい。年にしてはスタイルも悪く
ない。乳首を刺激するとすぐにピンとしてくる。律子の手は多田の下腹部に向かう。律子
が感じる場所はもうわかっている。どこをどのように愛撫すればどういうふうに反応する
かわかっている。特別な刺激はないけれど、安心してお互いを確かめあうためのセックス
だと思っている。
最近、律子は多田の乳首を必要以上に刺激する。ちゃんと小さいなりに反応するんだと言
- 22 -
う。律子がペニスを口に含み、手早く避妊具を付けた。何の違和感もなくごく自然な感じ
で、律子は結構上手いんだなとも思う。躰の位置を入れ替えてすぐに一つになった。
多田が腰を動かすと数日前からつけ始めた磁気ネックレスも一緒に揺れて気が散った。動
きを止めると、律子が不思議そうな顔をした。
「磁気ネックレスが気になる。」
「効き目があるの?」
「ここ2、3日は肩がこらない。」
「あなたにネックレスは似合わない。」
多田はキーボードを打ちすぎて首と肩を痛めている。接骨医や整体に通ってみたけれど良
くならず、磁気ネックレスをつけ始めた。
40歳半ばを過ぎてから何かすごく老けたような気がする。
会社でも中間管理職という立場で目だって白髪が多くなった。家に帰る時間も毎日10時
近くで疲れは慢性化し子供たちと顔をあわせることも少なくなっている。律子とゆっくり
話すこともない。コンピューターの画面を見ていると目がショボショボしてくることもあ
る。
一番上のコはギターに凝りだして練習を始めた。Xjapan位までならわかるが、ラル
クとか他のg多田にはどこがい愛国のバンドの名前を言われてもよく分からない。昔はロ
ックが大好きでいろんなコンサートにも行ってこんなじゃなかったのにと思いながら、こ
れが歳をとるということなんだろうかとも思って諦めかけている。
そういえば妻の律子とセックスするのも本当にしばらくぶりだ。
結局、律子が上になった。重そうな乳房がゆっくりと揺れる。
「お腹の脂肪が少なくなったみたいだ。」
思ったままを多田が口にすると
「ええ、だって気をつけているもの。」
と落ち着いた口調で言った。
今のいままで律子は声を漏らしていたはずだったけどと思った。律子が腰を上下に動かし
て多田にはネックレスの揺れがまったく気にならなくなった。それですぐに射精した。
☆
☆
☆
律子が会社の送迎会だという日。
多田は珍しく早く帰宅した。夕食は母親の多恵子が作った。子供たちは〃勉強しなさい〃
と言われなくてよいのでテレビを見たり、ゲームボーイをしたりして伸び伸びとしていた。
2階に上がっていこうとすると、
「明彦、ちょっと話があるんだけど。」
と母親に呼び止められた。
『最近律子は変じゃないか。着るものも派手になってきた。化粧品もたくさん買い込んで
いる。化粧も濃い。会社で何かあるんじゃないか。今日も出かけるのにすごくご機嫌だっ
た・・・』云々。多田はまた母親のお節介が始まったと思った。
- 23 -
確かに最近律子は機嫌がいい。ファウンデイションをくすんだ色から白っぽいものに変え
た。この前買ったスーツはピンクで少し派手目だった。きょうも歓送迎会で少し遅くなる
と言っていたが、でも、それは近づいてきた春のせいで別にそれだけだと思った。だって、
ウチみたく仲のいい夫婦はいないから。
明日の会議のことで確かめておきたいことがあったので、今は律子のものになっているノ
ートパソコンに USB をセットした。出かける直前まで使っていたらしくランケーブルも
つながったままだった。。スイッチをいれるとアウトルックが立ち上がって、パスワード
を聞いてきた。前の家の電話番号に設定したことを思い出して打ち込むと、メールボック
スが開いた。見ようとしたわけではない。発信も着信もおなじ相手で気になった。題名は
ほとんどついていなくて、R e が重なっていた。
Date : 1/24 14:10
From: Ritsuco
T.〈総務〉
主人はどうやら私に飽きてしまったみたいです。<(_ _)>
結婚してから2週間以上SEXしなかったのは(アツシ君の年代だと〃H〃って言うんで
しょうね)初めて。でも、私は毎日、アツシ君に慰めてもらっているような気分。だから、
『満足』、とまではいかないけど、とりあえず、ま、いっか。
アツシ君とこうやってメ
ールのこうかんができるからとっても充実した毎日です。
RITSU
Date : 1/25 16:49
From:
Atsushi
H.〈工務〉
RITSU子さんの悩みはわかるような気がします。でも、ご主人とはいえ、RITS
U子さんが他の男の人とHしてると思うと複雑な気持ちです。本当は僕だってRITSU
子さんとKISSしたい、Hしたい・・・。でも、こうしてRITSU子さんとメールの
交換が出来るだけでもすっごくありがたいことなのにわがまま言ってはイケナイ。イケナ
イ。
とにかく、会社のみんなにわからないようにこうしてメールを送るのはカイカンで
す。 アツシ
Date : 2/16 21:26 From: Ritsuco
T.〈総務〉
今、あなたに抱かれているのを想像しちゃいました。
今日はあなたの姿が見えなくてとっても寂しかった。だから、あなたに抱かれている様子
を想像しちゃったんです。心臓がドキドキして腋の下が汗ばんでいます。あなたの舌が私
の首筋から胸へ・・・。あぁ、もう想像しただけでだめ。ねぇ。
最近の主人はいつも同じことばっかりで、本当のこと言ってあたしは感じてるフリしてる
だけでちっとも気持ちよくはないの。主人のアレがあたしの中に入ってくるといつも早く
おわんないかなぁって思ってる。ついでにいうと主人は、自分で上手と思ってるから困っ
たものなのです。
ところで、静岡の支社の方はどうでしたか。カワイイ女のコはいた?
RITSU
メール、ありがと
Date : 2/16
22:49
From:Atsushi
- 24 -
H .〈工務〉
今、帰ってきました。 RITSU子のメールを見て疲れが飛んでいってしまいました。
も、ひょっとして今頃はご主人様の腕の中?
そう思うと僕は嫉妬心で荒れ狂ってしまい
そうです。RITSU子の香水が僕の鼻先まで匂ってくるような気がします。シット、し
っと、嫉妬、SHITTO・・・。僕はRITSU子が裸で抱かれているところを想像す
るしかありません。ほんとうにいつかRITSU子を抱いてみたいと思います。
でも、
RITSU子のメールで少し元気になりました。
じゃあ、また明日。会社で。 アツシ
Date : 3/22 15:53 From: Ritsuco
いよいよ、きょう、ですね。
T.〈総務〉
これから貴方に抱かれると思うと・・・
そこで読むのを止めた。
瞬間に多田の身の回りの世界の色がすべて失われ、すべて水色の単色になった。
耳の奥で何かが音を立てて崩れた。3月22日は紛れもなく〃きょう〃だった。怒るとか
嫉妬とか驚きとか決してそういった感情ではなかったが、鼓動が早くなってのどのところ
までドキドキして全身が心臓になってしまうんじゃないかと思うくらいだった。全てのメ
ールを読もうとは思わなかった。きっと同じような内容なのに違いなかった。今頃、律子
はアツシという若い男に抱かれているのかと思い多田は愕然とした。
改めて律子とのセックスを思い出した。
お互いを確かめるための、愛情を確かめるためのSEXのはずじゃなかったのか。そっと
触ると濡れてきたのは嘘だったのか。
多田は律子の乳房の感触と膣の濡れた感じを生々しく思い出した。『感じてるフリして』
『ちっとも気持ち良くないの。』『早くおわんないかなぁ』とその言葉が脳裏に焼き付い
た。律子が若い男に抱かれているということよりも律子の言葉の方が多田を打ちのめした
のだった。
その夜、多田はしばらくぶりに渡良瀬川のあの小屋のことを思い出した。
薄くらい小屋の中。漏れる吐息。光る汗。少女の太もも。揺れる腰。まだ成熟しきってい
ない乳房。脳裏に焼き付いている。時々蘇ってきて、淫靡なイメージが頭の中に広がって
股間が熱くなるのだ。
多田は耳の奥で絶えず何かが聞こえていることや自分が水色の世界にいるのを意識しなが
ら、寝室にロープや手錠をもちこんで律子の帰りをじっと待った。
- 25 -
8月7日午後
197×
夢を見ているようだった。
街には八木節のお囃子があふれていた。道の両側には露店が並んでいて威勢の良い掛け声
や様々な食べ物の入り混じった匂いがしていたけれど、それらは全て意識の外だった。隣
にいるのが、〃ぐっち〃なのか〃まっちゃん〃なのか〃きょーじ〃なのかわからなかった。
人ゴミの中で僕らは着かず離れず一緒にさまよっていた。
僕らの脳裏や掌には由紀子さんの影がずっと張り付いたままだった。というよりその影は
数時間前に記憶となったばかりだったから。
午前中の高校受験講座が終わってから飯を食って、それから川へ行った。そして、由紀子
さんと逢った。僕らは由紀子さんの躰にさわらせてもらってそれから午後4時に水門のと
ころの小屋に隠れているように言われたのだった。
由紀子さんは僕らの一年先輩で学校では有名人だった。3年の夏休みに妊娠したという噂
の張本人でおまけに美人で独特な雰囲気を持っていた。
その由紀子さんと僕が知り合ったのは今年の1月頃だった。
放課後に「隠れ家」と呼んでいた屋上の隅の機械室裏に親友の〃ぐっち〃と行くと、そこ
に由紀子さんがいたのだ。煙草を吸っている様子だった。人の気配を感じて僕らが戻ろう
とすると『君たちの場所だったのかな。ごめんねェ。』と言って由紀子さんが声をかけて
きた。すっごく大人っぽい言い方で僕らの足は止まった。『キミたちも吸う?』という声
に少しの間も置かずに〃ぐっち〃が『ごちそうさまです。』と腰を下ろしながらハイライ
トの箱から一本もらって、僕にも由紀子さんは〃一本どう?〃という感じで箱を向けた。
『僕はいいです』というだけでどきどきした。〃ぐっち〃は慣れている様子で火をつけて
煙草を吸い出した。ほんとにドキドキもんだった。学校で煙草を吸っていることも、〃ぐ
っち〃がやけに大人っぽく落ち着いていることも、腰を下ろしている由紀子さんの制服の
スカートの奥に見える白いパンツもドキドキの理由だった。僕は〃ぐっち〃に好きな女の
ことで相談しようと思って屋上にきたんだけれど、〃ぐっち〃はそんなことまで由紀子さ
んにしゃべってしまった。『女の子は誰だって好きなヒトにキスしてもらいたいし、セッ
クスしたいの。』そう言いながら、由紀子さんは僕の視線に気づいて、『もっと見たい?』
と、ゆっくりと足を開いた。
国語の若い女の先生はいつもワンピースの超ミニで、黒板の一番上に字を書こうとする
とフリルのついたパンツが見えた。美術の若い先生も足を組むと見えるんだとみんな知っ
ていた。だけどこんなにそばでパンツを見るのは初めてだった。同級生の女の子たちは制
服のスカートの裾を膝よりちょっと上にしていて、多分冬で寒かったからだと思うけど、
ほとんどがブルマを重ねてはいていた。それに僕には弟だけだったから、白いパンツを目
の前で見て僕はすぐに興奮した。『ねぇ、ねぇ、キミたちはどんなパンツはいてんの?や
っぱり白かな?』からかうように由紀子さんが言って、ぼくらは立ち上がって後ろを向き
テカテカ光っている制服のズボンを少し下ろして、由紀子さんに見せた。
そんなことがあって僕と〃ぐっち〃は由紀子さんに挨拶したり話をしたりするようになっ
たが、すぐに卒業式で、それから由紀子さんと逢うこともなかった。
- 26 -
由紀子さんの言っていた4時より30分位前に小屋に着いた。
小屋は狭く薄暗くてものすごく暑かった。サマーベッドが置いてあったその裏の物置きみ
たいなところに僕ら5人は身を潜めた。僕らは胸をドキドキさせながら息を殺すようにし
て待った。でも、4時過ぎても誰も来なかった。川の流れる音と時々通り過ぎていく電車
の音が聞こえていた。
〃まっちゃん〃が『帰ろう。』と言い始め、〃きょーじ〃も『触らせてもらったんだから
もういいよ。』と言い出した。『待ってよう。』と言い続けたのは〃あさの〃だった。
4時15分を過ぎてから外に足音が聞こえて僕らの緊張は極点に達した。バタバタと足音
が近づいてきて扉が開くと、一瞬光が小屋に差し込んだ。僕らのことがバレてしまうんじ
ゃないかと思ってビクッとした。扉はすぐに閉められてその瞬間に二人は抱き合ってキス
して服を脱ぎ始めた。男は若いのか年寄りなのかよくわからなかった。でも、由紀子さん
の顔だけはよく見えた。大きな二重の眼が光っていて、時々僕らの方に視線を向けている
ような気がしたが、はっきり言ってよく見えなかった。由紀子さんの声だけはよく聞こえ
た。でも、僕は興奮した。チンチンはこれ以上固くなったことがないというくらいに勃起
していた。男の背中ごしに細くて華奢な由紀子さんの躰とあまり大きくない乳房が見えた。
男が腰を動かすと躰と身体がぶつかりあって音がした。由紀子さんの躰の上で唾液の跡が
光った。男と由紀子さんは2度も3度も交わってからしばらくして静かになった。
静かになると川の水音がまた耳の奥にひびき始め、僕らの心臓のドキドキが、由紀子さん
と男のところまで届いてしまうんじゃないかと思うくらいだった。
「おまえら、やりたきゃ、やっていいゾ。」
男が煙草に火をつけながら言った。
その言葉に驚いて誰かが逃げ出した。その気配に僕らは一斉に駆け出した。小屋から出る
と光がまぶしくてクラクラしたけれど、みんな全力疾走した。土手の上をおもいっきり駈
けって大橋の下の日陰で腰を下ろした。汗がどっと吹き出てしばらく言葉もでなかった。
落ち着いてから〃あさの〃が 「サイフを置いてきたからとってくる。」
と言って戻っていった。
僕らはそこでずっと待っていた。 でも、〃あさの〃は戻ってこなかった。
Ⅱ
土曜日、午後4時37分。
駅前で2人の女子高生がクルマに乗ると若い匂いが充満した。それは、化粧やトワレやリ
ンスがまじった独特の匂いで、多田には今までまったく無縁の世界のものだった。
- 27 -
「リサです。」
と言って隣にすわった女のコが全然ものおじしない様子だったので多田はひどく気後れが
した。クルマは松山のベンツで、松山の隣の助手席にもアキというコがいる。二人とも県
立高校の制服を着ていて、ニーハイソックスにミニスカート、化粧もしっかりしていてピ
アスもつけている。スタイルもよくてかわいいコだ。
でも、多田にはかわいいとかかわいくないとかあまり関係ない。あいかわらず、水色の単
色の世界にいるから。愛していたはずの妻の律子の裏切りをみつけてから多田の世界は水
色の単色になって耳の奥では絶えず何かが聞こえている。
前の席で松山が女のコの耳元で何か話しかけているが聞き取れない。多田はどうしていい
のか分からなかった。多田の子供は3人とも男だったので年頃の若い女のコとは話したこ
とがなかった。
「多田、彼女達に身分証明書見せてもらってくれ。18歳って証明するって言ってるから。」
助手席からすぐに手が伸びてきた。プリクラが貼ってあるカワイイケースだ。隣でリサが
バックの中を探している。
〃県立M高等学校3年1組N O.35、氏名鈴木亜希美、生年月日平成4年5月11日、
上記の者を本校生徒と認める。県立M高等学校学校長
山口顕史朗〃
リサが
「はい。」
と言ってケースを渡してくる。その時、多田の耳元で
「すてきなおじさまたちでよかった。」
とつぶやいた。リサの声を聞いて多田は背中がゾクッとした。不意打ちをくらったという
感じもあったけど、やけにハスキーで性的な匂いがしたからだ。
リサの顔を改めて見る。一瞬、怪訝そうな表情を浮かべてから、何の屈託もないような笑
顔を見せた。化粧の奥にまだ幼い表情が見えて大きな瞳がキラキラ光った。多田は彼女た
ちの大人と子供が同居しているような危うさと逢ったばかりなのに安心して身分証明書を
見せてしまうような無防備さに余計に戸惑ってしまいた。
〃3年2組 NO.12、氏名河田理沙、生年月日平成4年7月1日・・・〃
ケースを返すときに指と指が触れてまたビクッとした。
「時間は?
何時までに帰ればいい?」
松山が声をかける。
「10時頃までだいじょぶです。リサはぁ?」
「あたし、門限10時なんです。」
「とりあえず、夕飯でも食べよう。君たちは何か食べたいものある?」
「なんでもだいじょうぶです。ちょうどおなかすいたと思ってたところです。」
松山とは10日前に偶然行き逢った。
同級生ですぐ近くの街に住みながらなかなか逢うこともない。たまたまクラブで同じ女の
コを指名したのだった。
松山は大きな病院の院長で、金には不自由しないけど家庭的にはあまり幸せではないとい
う意味のことを話した。多田も数ヶ月前から妻の律子とうまくいっていなくって、律子は
- 28 -
子供たち3人をつれて実家に帰ったきりだった。それからずっと世界が水色で、耳の奥で
は何かがなり続けているんだと正直に話した。でも、しばらくぶりに松山とあって話して、
少しづつ色が見えてきたような気がした。松山が『少し元気出させてやるか』と言って知
り合いの店長から女の子たちを紹介してもらったのだった。
なんのためらいもなく松山は郊外の大きなラブホテルの駐車場にベンツを滑り込ませた。
すでに女のコたちは制服から私服に着替えていた。ひとけのないフロントの掲示ボードの
前で、松山は
「一緒でいいよな。」
と言って一番高いカラオケのあるパーティールームを選んだ。というより、土曜の午後で
その部屋しか空いてなかったのだった。リサとアキは部屋の案内板を見て、『プールのあ
る部屋もあるよ』とか言いながら楽しそうに話していた。多田はその様子を見て、彼女達
のココロの中はどうなっているのか、道徳観はないのか、どういうように育ってきたのだ
ろうかとか考えて、そして、その彼女達をこれから抱くのは自分たちだと思ってすごく複
雑な気持ちになった。
多田は会社の代表で市の補導センターの委員をやっていたので、いつもと立場が逆で、こ
れで女のコたちが補導されてウリをやってることを喋ったりしたら俺たちも捕まって〃い
ん行罪〃になってしまうんだろうなと思ったけれど、別にどうなってもいいやというやけ
っぱちな気持ちになっていた。
部屋は天井から豪華なシャンデリアが下がっていて、壁面いっぱいにプロジェクターのス
クリーンがあった。スクリーンの右はバスルームで〃当ホテル自慢のレインボーバスの使
い方について〃という説明書きが掲示されていた。スクリーンの左側は一部2階になって
いてそこに大きなダブルベッドが一つ、その真下にも同じベッドが一つ置いてあった。ベ
ッドの横にはベネトンのロゴの入ったコンドームがおいてあった。リサとアキはそれをみ
て『カワイイ』を連発した。部屋の中のチェックが済むと、カラオケを始めた。リサもア
キも嵐やジャニーズ系の多田がよく知らない最新の歌を歌い続けた。リサが歌った歌は、
何か月か前、まだ妻の律子とうまく行っていた頃、一緒に見ていた不倫のドラマの主題歌
であることに気づいた。
「なにか歌ってくださいヨ。」
と促されて松山が『夜空ノムコウ』を歌った。多田はしかたなくサザンの『栞のテーマ』
を歌った。
「桑田さん、最近、痩せたよね。」
と、リサが耳元でささやきながら、指を多田の指に絡ませた。それを見て松山がアキを抱
き寄せキスした。視線は多田のほうに向けたままで、ちゃんとオレみたいにやれよと言っ
ているようだった。
「制服を着てくれないか。」
松山が言うと、
「制服を着たままやるのはオプションよ。」
とアキが微笑みを浮かべて答えた。やけに落ち着いた声だった。多田はそのままリサと一
緒に2階のベッドにいって、ためらいながら恐る恐るキスした。冷たくて薄いくちびるだ
- 29 -
った。リサは目の前で制服に着替え、すぐに躰を多田にあずけた。さっきリサが歌ってい
た歌の最後の英語のフレーズがずっと頭に残っていた。リサの躰のぬくもりを少しづつ感
じながら、多田はあの夜のことを思い出していた。
☆
☆
☆
会社の送迎会だと言って律子が遅く帰ってきた夜。律子は酔っていなかった。
その日、多田は律子の電子メールを見て不倫の事実を見つけてしまった。帰ってきた律子
を寝室に呼び入れて、スーツ姿のままベッドに両手両足をしばりつけさるぐつわをした。
最初はどうしたんだろうという表情でいた律子も普段の様子と違う多田を見て抵抗を始め
たが、もう遅かった。服の匂いを嗅ぎ回ったが男の匂いはしなかった。パンツスーツを脱
がそうとしてお腹のホックをはずしたが、両足首を縛りつけてあったのでできなかった。
でも、どうしても律子を裸にしたかった。そしてベッドの側に置いてあったハサミをとっ
た。多田がハサミを持ったのを見て律子は目を見開いて本気で恐怖の表情を浮かべた。最
初はズボンの左の裾から始まって少しづつ切っていった。ひとつ切り終わるごとに律子と
の過去の思い出が消えていくような気がした。
律子と初めてあったときのこと。初めて行ったホテルのあの部屋。プロポーズをしたあと
裸のままバスタブの中で将来についてずっと話したあの時。長男が生まれたときの病院の
部屋の匂い。去年家族で行った沖縄の海の暖かさ・・・。
いろんな思い出が蘇っては消えていった。ハサミの先がパンストにあたるとすぐに伝染し
た。下着の最後の一枚まで全て取ってから部屋の明かりをすべてつけて、もう一度男の匂
いが残っているかどうかじかに確かめてみた。律子のあそこはアンモニアの匂いがした。
多田はもう訳が分からなくなって異状に興奮していていつもよりも固くなっていたペニス
を律子の中に強引に入れた。多田を拒否する律子の強烈な視線と出会わないようにしなが
ら。
あの日から多田は全て水色の単色の世界の中に閉じ込められている。
☆
☆
☆
稚拙でぎこちない単調なセックスだった。
リサが上になって、ただそのまま上下に腰を動かしているだけだった。それでも多田は果
てた。若い女の子の匂いが下半身につくのだろうかと思った。ひよっとしてリサはオレの
ことを人間としてでなくモノとして見てるのかもしれないという漠然とした思いが多田の
ココロに深く沈殿した。少し落ち着いてからリサが
「写真を撮ってもいいですか」
と言ってポケットカメラを取り出した。シーツを巻いたまま4人で集まってセルフタイマ
ーをセットした。
しばらくして多田は警察から呼び出しを受けて少し説教された。高校生と偽ってゆすり
- 30 -
をやっている女のコたちが捕まって携帯のメモリに多田の名前があったからだった。
4
儀式
荏原亨二(きょーじ)
Ⅰ
3階の美術準備室の窓からは赤城山が正面に見える。
長いすそのの途中まで雪があってその上は雲におおわれている。雨が降っているのか雪が
降っているのか、雲間からの日差しで下の方の雪がキラキラ光っている。
始業のチャイムがなってから生徒たちが集まりだし蜂の巣を突っついたような騒ぎにな
って、そしてやっと先週からのスケッチの続きを始めた。荒れている学校ではない。が、
美術の授業は息抜きの時間だった。
荏原は隣の準備室で静かになるのを待っていた。
金曜5、6時間目の1年生の授業。ゆっくりコーヒーを飲んでから準備室を出て、机間巡
視を始めた。準備室を出た途端に、安物の香水やトニックやリンスの匂いが鼻をついてき
て、ムッとする。男子生徒の名札で1Cであることを確認して、たしかこのクラスで一番
かわいいのは香村佳央里のはずだがと思い出して香村はどこにいるのかと捜した。
二重の大きな眼。かたちのよい唇。荏原はいつか香村を自分のカメラで写したいと思って
いた。
荏原は写真が趣味で、特に少女の写真を撮るのが好きだった。土曜日や日曜日には渋谷や
ショーナンの海岸にいくことも多かった。少しカワイイコに『写真を撮らして』と声をか
ければほとんどOKで、『どこの雑誌に出してくれるんですか。』と聞いてくるコもいる。
荏原自身美術専攻で歳よりもずっと若く見えたし、芸術家という雰囲気を持っていたから
怪しまれなかった。いざという時のために〃アサヒ企画専属カメラマン〃というニセの名
刺も持っていた。荏原のスクラップ帳にはもう数千の単位で少女たちの写真がたまってい
る。その少女達はほとんど高校生達だ。でも、学校の同僚ももちろん生徒たちもそのこと
を知らない。はずだ。
荏原亨二は3月生まれだ。だからまだ、45歳にはなっていない。
教員になって20数年。同期には管理職になっている連中もいて、上を目指すのかヒラの
ままでいるのか分岐点にきている。もともと教師になりたかったわけではない。大学を選
ぶときに一番入りやすい教育学部を選んで教育実習を終わってみたらすっかり周りに洗脳
されて教員試験を受けたのだった。
『かわいい中学生の女のコがいるかもしれないから』と思って中学の試験を受けてそのま
ま仕事に就いて、アッという間に時間が過ぎた。
荏原はずっと独身できた。結果的に結婚しなかっただけで意識して独身を通してきたわけ
- 31 -
ではない。でも、結婚しなかった一番の原因はジュンコだと思う。ジュンコは荏原の初め
ての女だった。高校1年の時から就職するまで8年つきあっていた。初めてのキスも、初
めてのセックスも、ジュンコが相手だった。大学時代はほとんど同棲状態で、友達は荏原
とジュンコが結婚するものとばかり思っていた。が、就職するので地元に戻ってその頃か
ら二人の間に何となくズレが出てきて別れたのだった。なんで別れたのかその一番の原因
はジュンコが〃少女〃から〃女〃になってしまったからだと思っている。
『少女もいつか必ず女になる』
そのことをジュンコとの8年間で学んだ。その後何人かの女とつきあったが、結局、荏原
のココロの中にはいつまでも少女のままのジュンコが住み続けていた。
ジュンコはもうすでに2人の女の子のお母さんになって隣の街にすんでいる。
中学1年生は大人しくて比較的扱いやすい。先週からの静物のスケッチもほとんど仕上げ
に入ってみな集中している。第二次性徴に入った中学生の女子は躯もココロもとても中途
半端だ。子供でもなく、大人でもない。小学生の時はまだカワイさが残っているし、高校
生になるときれいになってくる。が、中学生はどっちつかずで中途半端な状態だ。荏原は
高校生位の女になる一歩手前の少女が好きだった。女になる前の少女の躯の線は固くて尖
っている。それがセックスを知って快感に目覚めてくると腰が発達して躯つきもなんとな
く丸くなってくる。膣にペニスが挿入されることによって本能的に出産を予感して女にな
るのかも知れない。女になってしまってからではもう少女の時代は戻ってこない。だから、
荏原は少女の写真を撮るのだ。
その時突然、荏原の携帯がなった。
エレクトリカルパレードの着信音。急いで、準備室に駆け込んだが、生徒たちの視線が荏
原を追いかけてきた。緊張感が途切れていっきにザワザワし始める。
『センセイですか。渋谷・ディーのオカベです。いいコがみつかりました・・・』
数週間待ち続けていた連絡だった。 授業を終えてからすぐに〃急用ができた〃といって
時間休をとり、そのまま東武電車の急行に飛び乗った。
☆
☆
☆
金曜日午後7時の渋谷。街の人波は途切れることがない。明日が土曜日だからだろうか。
荏原はドキドキしながら道玄坂近くの指定されたマンションの扉を開けた。503号室。
「こんにちわ。」
と言って顔をあわせた女のコは本当に美しい少女だった。二重のおおきな眼、鼻筋が通っ
ていて彫りが深い。髪は肩まであって決して茶髪ではない。17か18くらいだろうか。
大きくて黒い瞳に真っ正面からのぞき込まれてゾクッとしたけど、何か冷たくて能面のよ
うな感じだった。その時、電話がなった。『〃ディー〃のオカベです。センセェ、いいコ
でしょ。名前はアヤです。気に入ってくれましたか・・・。』
荏原はオカベと逢ったことがない。携帯とキャッシュカードで繋がっている。適当な時期
にイイコがみつかったと電話してきてくれる。2年程前にアダルトサイトのリンク集を片
っ端から見ていたときに〃ディー〃のホームページを見つけた。初めはモデルの女子高生
- 32 -
を紹介してくれるだけだったが、最近は『金さえ払ってくれれば女のコになにをしてもい
いし、何を使ってもいいですよ。』と言ってマンションの部屋にはSMの道具から覚醒剤
まで揃えてある。
「きょうは特別にアッチの感度が良くなるっていうクスリもそろえておきましたからよか
ったら使ってみてください。精算はご使用になったものを見させていただいてまたキャッ
シュカードからの引き落としでよろしいですか。」
オカベとの話を早く終わらせて〃アヤ〃というコを写してみたかった。
アヤは見た目よ
りもずっとスレていた。写真を写し始めると美しい顔の下から淫乱な顔が浮かび上がって
きた。自分から服を脱いで荏原をベッドに誘った。
「そんなにセックスしたいか?」
「ええ、いつも、ずっとしてたい。」
「学校は?」
「中2の時家出してきてそのまま。学校にはいってないの。ずっとウリやってる。」
裸になってみると、とても写真をとれる状態じゃなかった。おしりや背中に赤いブツブツ
ができていて、躯のあちこちにキズがあった。それは引っ掻きキズやロープで縛られたよ
うなあとだった。キスをすると唇もザラザラしていた。ただ、感度は良くてもう十分に濡
れていた。荏原の最初のゾクッとするほどの印象とはだいぶ違っていて、気持ちはだいぶ
萎えてしまっていたけれどちゃんと立ってくるので情けない気がした。とりあえず、やっ
てしまおうと思ってすぐに入れて腰を動かし始めた。
その時、携帯がなった。二人ともビクッとして唇を離した。エレクトリカルパレードの着
信音。数時間前にも美術室で同じ音を聞いた。そのまま無視して腰を動かしているとすぐ
に止んでまたなりだした。アヤの中にいれたまま上半身を持ち上げた。
「とめてくる?」
アヤが荏原の顔を覗き込む。
「いい。」
と荏原が答える。かなりしつこくなっていた
3回目にエレクトリカルパレードを聞くと気持ちは完全に萎えてしまった。でも勃起はし
ていて、腰を動かし続けた。体位をかえて何十分も腰を動かし続けたけれど、いつになっ
てもイカなかった。アヤは何度も何度も声を漏らして、そしてしばらくしてから
「口で出す?」
と言って中途半端に勃起しているペニスをなめはじめた。でも、結局、荏原は出なかった。
しばらくしてから
「もういいよ。ありがとう。」
と言って躯を離した。
「すごく、やさしいんですね。いままでの人ってみんな、ぶったり、縛ったり、おしりの
穴だったりで・・・。アタシ、小さいときから、両親に殴られっぱなしで。それで中2の
時家出してきて。でも、その頃はこういう顔じゃなかったの。16の時に街でウリやって
たときに顔をボコボコに殴られてライターで焼かれて、その時ついでに顔直しちゃった。
アタシの顔、きれいでしょ。顔をなおしてからはみんな顔は殴らなくなったの。」
話を聞いていて最初の能面のような印象は整形のためなのかとすごく納得して、すごくか
- 33 -
わいそうに思えた。
「何かしてもらいたいことはない?」
「GHBがあるって聞いたんだけど・・。」
「なんだそれ?」
「クスリ。今、けっこう流行ってるの。Hがすっごくよくなるってウワサよ。でも、ヤク
とかじゃないからつかまんないよ。」
オカベから教えてもらった引き出しはきれいに整理されていてカタカナとアルファベット
の訳の分からない名前が並んでいた。
5-HT、チロシン、フェニルアラニン、ビンポセチン、ピラセタム、DHEA、ハルシ
オン、L、ハッシシ、コカ、SSRI、ペゲタミン、セニラン、X、レスリン、デジレル
2CB・・・。
スマート・ドラッグと覚醒剤の類なんだろうと想像はできた。
アヤは
「ヤッタァ、スピードもあるよ。」
と言いながら目を輝かせた。
「ヤクとかクスリとかやったことある?」
「うん、だいたいやった。みんな好きだよ。」
GHBを捜しだすと
「一緒に飲んでみない?」
と言われたが、荏原は飲まなかった。1時間たっても2時間たってもアヤに変化は起きな
かった。
「スピード、やるよ。」
アヤはアルミホイルに白い結晶を取り出して、ライターであぶりそれをそのまま吸いこん
だ。
「どんな匂いなんだ?」
と荏原が言うとアルミホイルをそのまま荏原の鼻先に持ってきた。少し吸い込むと鼻がツ
ーンとして目がチカチカした。アヤは目がトロンとしてきて抱きついて、
「お願い、アタシのあそこにもクスリを入れて。」
と耳元で囁いた。それからベッドに横になって自ら足を開いた。
白い小さな結晶を少し摘んでアヤの膣の中に入れた。すでにもうびしょびしょで触れただ
けで声を漏らした。アヤの躯の赤いブツブツはひょっとしてクスリのせいかも知れないと
思った。
「胸がドキドキする。」
と言うので心臓の音を確かめようと胸に手をおくと自分の手を重ねてきて、そのまま目を
閉じた。
早鐘のような鼓動が皮膚に直接伝わってきた。
アヤのもう片方の手をとって胸の上に重ねた。
- 34 -
8月 197 ×+1
また夏がやってきた。
僕ら5人はそれぞれ高校に進学していた。〃多田っち〃、〃ぐっち〃、〃まっちゃん〃が
地元の学校に、〃あさの〃はS市へ僕はA市へ通うようになっていた。〃あさの〃と僕は
方面が一緒で同じ電車に乗っていてほとんど毎朝顔を合わせた。不思議だったのは、田中
由紀子さんの事件の後〃あさの〃は進学希望を地元の高校から急にS市の高校に変えたこ
とだった。
初めは仲間ウチで『小屋に戻ってから何か見たんだろう?』と何度も聞いたけど、その話
をすると〃あさの〃は真剣になって怒り出すので誰もそのことには触れなくなった。なに
よりもあの事件のあと〃あさの〃はいつもビクビクして何かに怯えているような感じだっ
た。とにかく、あの事件があってから〃あさの〃は変わった。
事件自体はその後、ほとんど進展がなかった。噂ばかり飛び交っていた。『警察犬を使う
と必ず最後は自宅に戻ってしまうので父親が犯人じゃないか。』『男の体液が残っていた
らしい。』『中学生の頃から身持ちが悪くてひょっとして躰を売ってたんじゃないか。』『胸
の上に手を組まされていたのはやっぱり肉親が殺したからじゃないか』等々。
もっとも群馬県警は昨年の秋から冬にかけて大久保清連続殺人事件、連合赤軍事件と大き
な事件で忙しくて、1人しか殺されていない事件まではなかなか手が回らないんだという
話もまことしやかに囁かれていた。僕らには絶対事情聴取があると思っていたけれど1年
たっても何もなかった。去年の夏から秋にかけてビクビクしていたことが嘘のようだった。
でも、僕らの脳裏からはあの日の由紀子さんの裸身と手の温もりは決して消えなかった。
僕は彼女が殺されたあの日から数日後に初めて精通を経験した。僕の掌には乳首の固い感
触がずっと残っていた。ずっとペニスは勃起したままで『しっかり握って擦り続けると液
が出て気持ち良くなるんだぜ。』と言う〃まっちゃん〃の言葉のまま僕は初めてオナニー
をした。精子が出るとき心臓がドキドキしてなんとも言えない奇妙な気持ちだった。決し
て気持ちがいいとは言えなかった。でも、もう一度その感じを経験してみたくてすぐにも
う一回やってみた。それから毎日やって、それが快感に変わっていった。オナニーをする
とむやみやたらに勃起することがなくなった。
☆
☆
☆
その日もやはり暑い日だった。
『全員集合』が始まる前だったから8時少し前だったと思う。〃ぐっち〃からの電話は切
羽詰っていた。「〃あさの〃が警察に行った。由紀子さんの件らしい。〃多田っち〃のう
ちに集まることになってる。」
僕は動揺を押さえて別になんでもないように装いながら、母親に『〃多田っち〃のうちへ
行ってくる』と言ってすぐチャリで出かけた。汗びっしょりになってめいっぱいにこいで
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いった。でも、着いたのは僕が一番アトだった。〃多田っち〃のうちは〃あさの〃のうち
のすぐ前で〃多田っち〃の部屋からはちょうど〃あさの〃のうちの玄関が見えた。でも、
結局詳しいところはよく分からなかった。とにかく、『今日の午後〃あさの〃が警察に呼
ばれて由紀子さんの事件のことで何か聞かれていて、容疑者とか参考人でもないらしい。
今現在も警察にいて、家には戻っていない。』ということだった。僕らは『どうして今に
なって』とか『〃あさの〃だけなんだろうか』とか『やっぱり財布を取りに行って何かあ
ったんだ。』と話していたけど、ただ、群れているだけだった。9時過ぎまでみんなでい
たけど〃あさの〃が家に戻った様子もないのでそのまま解散した。
ウチの電話がなったのは12時すぎだった
。〃あさの〃のことも気になってたし、消防車や救急車のサイレンが行き交っていて、寝
苦しい夜だった。〃多田っち〃の親父さんからの電話は、『〃あさの〃の家でガス爆発が
あったこと、あさの〃が自殺を図ったのかもしれないこと、今現在〃あさの〃自身はたぶ
んケガをしたままどこかに身を隠していてまだ見つかっていないこと』を伝え、『警察も
見つけているが友達の処や心当たりのところはないか探してもらいたい』ということも話
したらしかった。それは親から聞いた話だ。僕は直感的に〃あさの〃は川にいると思った。
〃あさの〃を捜しに行きたいと思ったけど、
「あさの君がうちに来る可能性もあるんだから外に出るな。」
と言われて、父親が外に行った。うちの母親は〃あさの〃のことを昔からよく知っていて
ずっと真面目で頭の良い子というイメージを持っていたので『なんであのコが。』と何度
も繰り返した。僕はなぜかあの小屋の中で〃あさの〃と由紀子さんが抱き合っている姿を
何度も想像した。
午前3時。再び電話がかかってきた。
血だらけの〃あさの〃が三珠橋のたもとで保護された話だった。しばらくして父親も帰っ
てきて発見されたときの〃あさの〃は雑巾のようにボロボロでキズだらけでよく生きてい
て何キロも歩けたもんだと救急隊員が感心していた話をした。僕は血だらけの〃あさの〃
を想像して、一睡もできなかった。
〃あさの〃は10日間集中治療室に入っていた。その間に僕らは警察から呼び出しがある
かも知れないと思ってずっとビクビクしていた。
2週間後に僕らは4人で花束を持って〃あさの〃の病室に行った。
〃あさの〃は頭からつま先まで全身に包帯を巻いていてまるでミイラ男だった。ずっと上
を向いたままで少しも動かなかった。お母さんが横についていて世話を焼いていたが、す
っかり憔悴し切った様子で僕らを見ると『何であんなことしたのかわかりませんか。』と
言って涙をこぼした。僕らはいたたまれずにすぐに病院を後にした。聞きたいこともいっ
ぱいあったけど、お母さんが傍に居たので何も聞けなかった。結局、〃あさの〃はただの
一言も話さなかった。
でも、いつだったか学校からの帰りの電車の中でたまたま由紀子さんの話が出たとき、〃
あさの〃は流れていく景色を見ながらボソっと『見たけど、言えない。』と確かに言った
のだ。『えっ』と僕が聞き返すと『言えない。』とだけはっきりと言った。僕はその時、
〃あさの〃は知っているんだけど、今は言えないんだと思った。〃あさの〃の遠くを見る
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眼をのぞきこんでいつか話してくれるんじゃないかと思った。でも、そのことは誰にもい
わなかった。
夏休みが終わる頃、〃あさの〃の家は夜逃げのようにしてどこかに引っ越してしまった。
誰にも移転先を告げずに。
引っ越した後、『〃あさの〃が田中由紀子殺しの犯人でそれで自殺を図った』という噂が
どこからともなく流れてきた。メチャクチャに壊れていた〃あさの〃の家はしばらくして
取り壊された。
そして、〃あさの〃は僕らの記憶の中だけに残った。
Ⅱ
荏原は変わろうとしていた。
実際、少しづつだけど、変えていった。写真も撮らなくなって、東京にも行かなくなった。
少女の写真が貼ってあったスクラップも捨てた。携帯の番号も換えて渋谷のあの店とも繋
がりはなくなった。荏原は『殺人未遂のロリコン』ではなくなろうとした。
あの日、アヤという女の子はクスリを飲み過ぎてあと少しで死ぬところだった。
早鐘のような鼓動。裸の少女の胸の上に手を重ねた。その時ずっと昔、心の奥に封印した
はずの記憶が戻ってきた。見たわけではない。が、田中由紀子の死体とあの少女の姿が重
なっていたのだった。
全てを無にしてやり直そうと思った。
ずるい考えだとは思っていたけど、本気で結婚しようと考えて見合いもした。3回続けて
だ。そして巡り会った。3回目の見合いだった。
☆
☆
☆
新緑がまぶしい4月の末。
割烹の敷居をまたいで入っていくと見合いを取り持ってくれた親戚の叔父はもう来てい
て、
「遅かったじゃないか。先方はさっきから待ってる。きれいな娘さんだ。」
と言った。 会ってみると想像していたよりもはるかに若くてきれいで、清楚という言葉
がぴったりなコだった。
「三井あゆみです。よろしくお願いします。」
と 小さな声であいさつしただけで、叔父がくどくど話をしている間も伏し目がちで表情
をあまり出さなかった。どういうコだろうとはかりかねてずっと見ていると、荏原の視線
に気づいて伏せていた目をあげ、控え目に微笑んだ。大きな二重の瞳だった。瞬間に、こ
のコだと思った。自分とこのコとはどこかで繋がっていると確信した。
いつだってそうだ。運命ってヤツは自分の知らないところで決まっていて唐突にやってく
る。高校の時、同級生のジュンコと出会った時も直感的にこのコだという感じがあった。
あの時以来だった。ジュンコとは8年つきあって結局別れたが。
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T美術大学卒業、31歳、家事手伝い、現在花嫁修業中、昼間アルバイトをしている。
履歴書には確かそんなことが書かれていた。写真もチラッとみたけれど、本物のほうがは
るかに若そうで少女の雰囲気を残しているような感じさえした。とても30過ぎには見え
なかった。
食事の間も荏原は〃三井あゆみ〃をずっと見続けていた。二人だけで話してみたかった。
時々、思い出したようにして三井あゆみは荏原の方に視線を向け、荏原の視線が自分に注
がれているのを確認し、そして微笑んだ。グッチの黒のバックからケイタイのストラップ
が見えて〃hyde☆LOVE〃とあった。「ラルクが好きなんですか?」
そう聞くと、
「ええ。」
と、恥ずかしそうな表情を浮かべ
「子供っぽいでしょ。」
と言って笑った。ちょうど受け持っている中学生みたいですごくカワイく思えた。
それから、荏原はあゆみとつきあい始めた。
☆
☆
☆
土曜日。午後6時30分。
衣更えが終わって季節は確実に巡り、梅雨入り前の暑い時期になっていた。
荏原とあゆみのつきあいは順調で、荏原の両親もあゆみを気にいっていた。あゆみは小さ
いときに両親を亡くしていて後ろ楯の叔母夫婦も早く話を進めたがった。もちろん荏原は
毎日でも逢いたかった。
K市文化会館には開館したばかりの塗装の匂いがまだ残っている。
最上階の展望台はイタリアンのしゃれた店を囲むようにして大きな空間があり、ベンチが
置いてある。眼下には南東方向に広がっている街の明かりが連なっている。あゆみはえん
じのノースリーブのサマーセーターにロングスカートで細い躯がさらに細く見えた。ビト
ンのバックを持っていた。
荏原はベージュの綿パンツでTシャツにサマージャケツトを引っかけていて、二人とも夏
の装いだった。1階のロビーはのコンサートで若いコたちがなん列にも並んでいて、待ち
合わせ場所としてはちょっと失敗したかなと感じていた。早くここを出てしまおうと思っ
ていた
実はきょう、荏原は決意を持ってやってきていた。胸のポケットには指輪が忍ばせてある。
あゆみの左手の薬指にあうはずだ。あゆみがその指輪をしてくれるかどうかはまだわから
ない。でも、きっとあゆみは断らないに違いないと思っていた。
べタァとくっついている若いカップルが多い中、荏原とあゆみは一定の距離を保っている。
つかず離れずという感じが二人で見つけた二人の距離だ。二人でいることにすっかり慣れ
ていたけれど、その距離は埋っていなかった。大きな窓の一番隅の目立たないところにい
ってあゆみの手を握って引き寄せようとした。
その時、すぐ後ろで『先生っ。』という声がして反射的に振り返ると、
「やっぱり荏原先生だ。」
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と言って3人の中学生が寄ってきた。3年生のコだった。『AAAのコンサートにきたん
です』と言いながら彼女達の関心は確実にあゆみにある。
「きれいな人ですね、先生の恋人なんですか?」
案の定、単刀直入に聞いてきた。
「そうよ。アタシは荏原先生の恋人。あなた達は荏原先生に教わってるの?
学校では、
どんな先生だか教えてくれない。」
そう言ってあゆみは躯を寄せて腕を組んできた。それまでの二人の距離があっさりと埋ま
った。荏原はあゆみの躯の温かさを意識して気恥ずかしいような気がした。
「なぁ~んだ。つまんないの。もう〃決まり〃ってカンジなんだもん。あのね、先生ね、
アタシ達生徒よりお母さん達から人気があるんだよ。」
せっかくあゆみと一緒にいるのになんで生徒の相手をしなければいけないんだと思ってい
たが、あゆみは楽しそうに話していた。荏原は少し離れてロビーの列を見ていた。
「ねぇ、センセィ、〃結婚は?〃だって。」
あゆみが茶目っ気たっぷりな言い方で荏原に問いかけた。でも、眼は真剣だった。
「するよ。な。」
と荏原も少しマジになってあゆみの眼をのぞき込んで言うとうれしそうにコックリと大き
くうなづいた。
「じゃあ、いいや。言っちゃおう。あのね、先生ね、〃ロリコン〃っていうウワサがあっ
たんだよ・・・。」
生徒たちの〃ロリコン〃という言葉に荏原は愕然とした。
ベッドに横たわった裸の少女の姿が脳裏に浮かび、エレクトリカルパレードの着信音が耳
の奥に響いた気がした。いままでの荏原の嗜好は誰にも分かっていないはずだと思ってい
たのに。荏原は口では言い表せないようなショックを受けた。〃ロリコン〃と噂されてい
たと聞いてとにかくその場を離れたかった。
市民会館を出てすぐに荏原は『本当に結婚してくれるか。』と聞き直して、そして、あゆ
みの左の薬指にアニエスベーのプラチナリングが当然のことのように収まった。クルマの
乗ってすぐにあゆみを抱き寄せて軽くくちづけた。
「今日はアタシたちの特別な日だからずっと一緒にいたい。」
あゆみは両親を亡くして一人暮しだったからそのまま彼女のマンションに向かった。
ベージュを基調にした2LDKの部屋はこぎれいに片づいていて、微かにお香の匂いがし
た。
「引っ越し屋さんと修理屋さん以外の男の人がここに入ったのは初めて。大好きなヒトが
来てくれるのが夢だったの。」
あゆみがとても上機嫌だったのに対して、荏原は弱気だった。〃ロリコン〃という言葉を
聞いてから、荏原の耳の奥にはエレクトリカルパレードの着信音が響いて、脳裏には胸に
手を重ねた裸の少女の姿が蘇っていた。あの日以来、立つには立ったがなかなかイクこと
ができず、インポになる一歩手前のような状態がずっと続いていたのだった。せっかく順
調にきたのに今日もダメなんだろうかと思った。あゆみの華奢な肩を抱き寄せてから耳元
で、
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「ダメかもしれない。」
とつぶやいた。
「心配しないでだいじょうぶ。」
あゆみはキスして舌を入れてきた。あゆみの左の薬指にはさっきまで荏原の胸のポケット
にあったプラチナの指輪がある。あゆみの匂いはブルガリだった。
荏原の心配も杞憂だった。ブルガリに包まれて荏原は1時間のうちに2回も続けて出して、
20代の頃に戻ったような気がした。
今のこの時間が永遠に続けばいいと思った。
☆
☆
☆
「いらっしゃいませ。」
ドアを開けるとクーラーの冷気が押し寄せてくる。でも、汗は止まらず、外のうだるよう
な暑さを一人で持ち込んでしまったような気がする。
午後4時。約束の時間だ。
「きょうはご指名はございますか?」
「〃さやか〃さん、お願いします。」
「それでは指名料込みで1万1千円になります。こちらの応接室で少々お待ち下さい。」
どうしてこうなってしまったのだろう。全てうまくいっていたのに。
ゆうべのあゆみの電話。『アタシの、最後のお客になってくれない?』ためらいながら一
つ一つ区切るように言ったあゆみの言葉。
『生活していくにはお金がなかった・・・』『一人でいるのは寂しくって寂しくって気が
狂いそうになる・・・』電話で話したことが蘇ってくる。『何があってもおまえのことが
好きだ。』と喉元まで出かかっていた言葉を荏原は飲み込んでしまった。言葉自体がクサ
クッて、思っていても言えなかったのだった。『明日、4時にあの店に行く。』とだけ言
って受話器を置いた。切ってしまってから言えばよかった、いや、こういうときこそ言わ
なければいけなかったんだと後悔していた。
「〃さやか〃です。」
そこにいるのはあゆみにちがいなかったけれど、荏原の知っているあゆみとは明らかに違
っていた。ビキニの水着の上にガウンをはおっていた。いつもよりずっと濃い化粧。ブル
ーのコンタクト、ルージュは赤よりも黒に近い感じで、確かにあゆみではなくなっている。
「別人だな。」
「お店のドアに入ってからは〃さやか〃だもの。もう、口もきいてくれないし、来てもく
れないと思ってた。」
「あゆみのことは全部知っときたいから、来た。」
昨日のO市への出張は県下の美術関係の会議で、ほとんどが先輩や後輩ばかりだった。
早々に『結婚するっていう噂はホントか?』と聞かれ、『8月15日の大安に結納で11
月に結婚する。』と答えた。会議は小一時間もかからないで終わり、その後の話題の中心
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は荏原だった。『相手は?』少し照れながら、『14
歳下のすっごい美人だ。待ってた甲斐があったっていうヤツだな。』と、もううれしくて
しかたないという様子で話した。『これはもうツミだよな。』『や~らしいゾ』『もう、や
ったのか。』『ちょっとニヤけてるゾ。』etc・・・思い思いのことを言っていたけどみ
んな荏原のことを祝福してくれていたのだった。
それから、荏原の独身最後を飾ってやろうということで数人で街にでて、あの店にいった
のだった。
荏原たちがフロントで金を払っていたとき、『ありがとうございました。気をつけて帰っ
てね。』という女のコの声にどこかで聞いたなと何気なく振り返ると、あゆみがいたのだ
った。あゆみもすぐに荏原の視線に気づいた。瞬間に荏原は絶望的な気持ちになって、目
の前が真っ暗になった。フロントのボーイが紙切れを渡しながら、『当店はフーゾク店と
は違って本番等の性的行為ならびにホステスの躯に触るなどの行為は禁止となっておりま
すのでご了承下さい。』と、覚えたてという感じにしゃべった。
個室に入ってから荏原はほとんど放心状態で無言のまま、マッサージを受けていた。女の
コの手が荏原の股間に伸びてきて、ビクッとすると『なめてもらいたいの?』と言って女
のコがそのまま口に含んだ。その時初めて女の顔を見た。髪をオレンジに染めたすごく若
いコだった。マリナと名乗って自分から水着のブラを外した。荏原は、あゆみもこんなこ
とをしているのかと思った。
「さっき、客を送ってた、少し背が高くてキリッとした二重のちょっときれいなコ、なん
ていうコ?」
「あっ、さやかさんね。きれいなヒトだから指名しようと思ったんでしょ。でも、残念で
した。明日やめるのよ・・・。」
荏原はマリナからいろんなことを聞いた。 店から言われているのは水着は必ず付けてな
ければいけないっていうこと、手で出すようにいわれてるけどアタシは指名が少ないから
ちょっとサービスしてる。さやかさんは11時~5時までの昼間だけのバイトだけどもう
けっこう長く勤めているんじゃないか。美人だから指名も多い。でも、サービスはよくな
いかも・・・。
〃さやか〃であるあゆみになされるままにしていた。
あゆみのマッサージはものすごく上手だった。天井の手すりにつかまって荏原の腰の上に
乗ると的確にツボを刺激した。あゆみは手でマッサージするだけだった。水着もつけたま
まだった。部屋から出るとき、
「本当はお客さんとはこんなことしないけど・・・。」
と言って、キスした。舌を入れて吸いあって長い長いキスだった。
「ごめんなさい。アタシ・・・。15日までにはきれいな躯になってなければと思って・
・・。」
そのまま泣き崩れた。
「いいんだよ。明日から〃さやか〃じゃなくなって三井あゆみに戻るんだ。15日は結納
なんだから。」聞きたいことや話したいことも山ほどあったけど、何も言わなかった。
「こんなアタシでもイイの?」
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荏原は大きくうなづいた。 『俺だってヒトには言えないようなことをやってきた。俺の
こともあゆみに話しそう。いや、話さねばならない。』そう思った。
☆
☆
☆
8月×日、
あゆみが〃さやか〃でなくなってから2日目。あゆみが死んだ。
マンションのそばの十字路でクルマにはねられたのだった。結婚して、子供を生んで、お
かあさんになるというゴク普通のあゆみの夢はあっさりと断ち切られてしまった。加害者
は60歳くらいのおっさんだった。放心したような表情で遺体に深々と頭を下げた。
荏原の立場は微妙だった。結納も済んでいなかったので、表だって葬儀には関われなかっ
たし、墓も両親のところがあった。
あゆみの死因は、後頭部の強打による脳内出血でほとんど即死の状態だった。だから、頭
の後ろが少し陥没しているだけで顔や躯にも傷はほとんどなかった。
後見人のようになっていた叔父さん、叔母さんが葬式の準備を進めてくれて、遺体に誰が
一晩付き添うかという話が出たので、荏原が一緒にいると申し出た。
あゆみの遺体と二人きりになると、自然に涙が出てきた。俺のことも話しておけばよかっ
たと思った。が、何よりもあゆみが死んだということが信じられなかった。薄い化粧がし
てあってあゆみはそこで寝ているような感じだった。でも、蒲団の上には小刀が置いてあ
った。白い着物を着せられいて胸の上に手を組んでいた。蒲団をはがしてあゆみの手に触
れると冷たかった。特に、ドライアイスの下は氷のようだった。合わせをずらして手を入
れ乳房もおなかも触ってみたけどやはり冷たかった。もう死後の硬直を過ぎて皮膚は青白
くなっていた。思い切って着物の裾をはだけてみると恥毛は生きているときそのままだっ
た。クーラーの風で微かに揺れた。くちびるに軽く触れるとやはり冷たかった。
「もう、誰も好きにはならない。」
そうつぶやいて荏原は声をあげて泣き始めた。
明日は、あゆみとのわかれの儀式だ。
エピローグ・再び八月
川のせせらぎ。夏草の生い茂った岸辺。蜃気楼でぼぉうとかすむ橋。赤城山がユラユラ
揺れていた。むせ返るような草の匂い。
時々吹いてくる風が気持ち良かった。
45歳を過ぎた僕達。喪服の僕たち。僕たちは4人だった。
ギラギラ照りつける太陽。僕たちは土手の上にいた。煙突から立ち上る黒い煙。川の横に
斎場があって40分ほど前に式が終わった。
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記憶の中のあの山のカタチ。変わらないモノと変わってしまったモノ。鉄橋の傍らのあの
小屋もまだそのままだろうか。
川もあの日と同じように流れている。あの中州の草の奥から僕たちの今が始まった。
もうずっと前の夏の日だった。
真赤な口紅。厚い唇。少女の輪郭からはみだしていた。ミニスカートの下の真っ白な下着
・・・。
でも、あの時の少女の顔は記憶のはるか彼方にいってしまって、もう思い出すことはでき
ない。
最初にキスしてもらった〃多田っち〃。
愛妻家で僕たちの中で一番奥さんと仲が良いわけだったのに、今離婚の調停を進めている。
僕は右胸にさわらせてもらった。最近まで夢中になっていた朋美という若いコは妻にバレ
る前に店をやめて東京に行ってしまった。そして、いつもの生活に戻った。
同じように左胸にさわらせてもらった〃きょーじ〃は僕たちが支えていなければならない
ほど憔悴していた。婚約者だった三井あゆみは今煙になって空に登っている。
〃まっちゃん〃は下着の中に手を入れさせてもらった。僕たちの中で一番太っていて、金
持ちだ。このあいだ高校生と遊んでもう少しで警察にやっかいになるとこだったと言いな
がら今度の愛人はエリという名前だと教えてくれた。
ペニスに触ってもらった〃あさの〃は高校1年の時に僕たちの目の前から姿を消した。
☆
☆
☆
「きょう、何の日か覚えているか。」
僕が言い出すと3人ともうなづいていたから、わかっていたのだ。
「また、8月だよ。」
荏原が煙突からの煙をずっと見つめ続けたまま言った。
「同窓会があるから〃あさの〃がどこに行ったのか調べたんだ。」
松山が一気にしゃべりはじめた。
「東京に引っ越したんだけど、あの爆発で右手が不自由になったらしいんだ。何年か前の
宮崎勤の幼女連続殺人の時、宮崎と一緒に〃あさの〃も容疑者の一人だったんだ。宮崎が
捕まったのは何月か覚えているか。8月だよ。その前に、〃あさの〃はまたどこかにいっ
てしまったんだが調べるのはそこでやめた。」
〃あさの〃の記憶はすでに僕たちの意識のものすごく遠いところにいってしまっている。
「耳の奥でずっとなっていたのは川の流れている音だったんだ。」
多田が誰にということなくつぶやいた。これから多田はどうやって生きていくんだろう。
負けず嫌いのの多田は『離婚なんてどうってことない。』といってたけど、それじゃなく
ても白髪の多かった頭はここ数ヶ月で真っ白になった。
「もしかしたら、川の音はあゆみのためにずっとなり続けている音楽かもしれない。」
荏原が言う。三井あゆみのためにずっと響き続ける音楽。荏原の言う音楽はさしずめ甘い
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セレナーデだろう。
何ヶ月か前、荏原があゆみを連れて僕の家に遊びに来た。
子供たちが寝てしまってから荏原とあゆみと僕と妻の美恵子と4人で、したたかに酔って
僕と美恵子は新婚の頃のことを思い出し、荏原とあゆみはこれからの二人の未来に思いを
馳せたはずだった。
『とっても仲が良いんですね。』
『仲良さそうにするのは簡単なことさ』
あの時の会話は僕の耳の奥にまだ残っている。
荏原にはもったいないくらいのイイコだった。あゆみを失った荏原はまたしばらくしたら
ロリコンに戻っていくのだろうか。
薄くらい小屋の中。漏れる吐息。光る汗。少女の太腿。揺れる腰。まだ成熟していない乳
房。そして、僕たちの眼。心臓の鼓動・・・。
あの時の少女はもう何十年も前に死んでしまっているけれど、少女のイメージはいまでも
僕たちのココロの中に生きている。同じように三井あゆみもこれから荏原や僕のココロの
中にとどまり続けるだろう。
200×年、夏。今年もあの夏の日ように暑い。
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