1 8 世紀イギリス簿記書に見る期末棚卸商品評価損益

[日本会計史学会第 1 9 回大会,2 0 0 0 年 1 0 月 1 4 日:ワークショップ(於)専修大学]
1 8 世紀イギリス簿記書に見る期末棚卸商品評価損益の本質
大阪経済大学 渡辺 泉
1.はじめに
当時徐々に進行してきたインフレーションに対応する会計処理法を整備するために,スウ
ィーニー(H.W. Sweeney)が安定価値会計を主張するうえで取得原価会計に異論を提唱した
り(Stabilized Accounting, Holtrinehart & Winston inc.,1936.),またエドワーズ,ベル
(E.O. Edeards and Philip W.Bell )が多元的時価評価を基盤にした時価主義を主張した( The
Theory and Measurement of Business Income, Univ. of California Press, 1961, 伏見多
美雄・藤森三男『意思決定と利潤計算』日本生産性本部,1964.)のもそれほど遠い昔のこと
ではない。
その後,いくつかの論議の末,取得原価主義が認知されこんにちに至っているのは周知の
通りである。しかし,近年さまざまな金融派生商品の登場に伴い,一方では,取引概念の拡
大に関する諸問題すなわち会計上の認識の問題がクローズアップされると同時に,もう一方
では,決算時点でのそれらの評価をどのようにするか,すなわち会計上の測定に関する問題
がクローズアップされるに至った。後者の問題は,会計が長きにわたって採りつづけてきた
取得原価にもとづく評価基準が時価にもとづくそれへと移行しつつあるかのような印象を,
ややもすれば,強く与えているかのようにも思われる。
本日の報告では,資産の時価評価に関する考え方,とりわけ期末棚卸商品の評価方法がど
のように変遷してきたか,時価評 価がいつ頃から行われるようになったか,そしてその評価
損益の本質がいったい何であるのかを,16
18 世紀のイギリスの簿記書の分析を中心に,検
討していくことにしたい。
2.ビランチオにおける棚卸評価基準
13 世紀の始め,複式簿記の発生当初の第一義的な役割は,企業の期間損益を計算するこ
とではなく,債権・債務の備忘録であり,諍いが生じたときの文書証拠としての役割を果た
すことにあった。しかし,当時のフィレンツェの期間組合では,組合員相互間での利益分配
1
の必要性から,必ずしも1年毎ではなかったが,会計期間を人為的に区切って,その期間に
獲得した利益を厳密に計算することが要求された。しかし,当時の帳簿では,むしろ[集合]
損益勘定が設られない場合が多く ,帳簿上で企業損益を計算することは出来なかった。した
がって,帳簿記録を前提にした損益法的損益計算にもとづかない,換言すれば複式簿記によ
らない方法,すなわち実地棚卸を中心にして作成されたビランチオ( Bilanzio)と呼ばれる
利益処分計算書と財産目録が結合したいわば利益処分結合財産目録とでもいえる計算書類に
よって企業損益を計算しなければならなかった。
ビランチオの代表的な一例として,われわれは,1367 年 9 月末に作成されたダティーニ商
会アヴィーニョン支店の財務表を挙げることができる i 。いうまでもなく,ビランチオにおけ
る評価基準は,財産の実地棚卸を基軸として行われたため,継続的記録によってしか求める
ことのできない債権・債務を除いて,時価であった。複式簿記の完成以前における財産の評
価方法は,帳簿記録を前提にしない以上,時価による以外になかったのである。歴史的には,
時価は取得原価に先行したといえよう。
3.初期における売残商品勘定の評価方法
売残商品を認識し,売上収益と仕入原価ではなく売上原価を対応させて期間損益を算出す
る方法を明確に説いた最初の簿記書は,1543 年アントワープで,彼の死後未亡人の手によっ
て 出 版 さ れ た イ ン ピ ン (Christofells Jan Ympyn ) の 簿 記 書 『 新 し い 手 引 き 』( Nieuwe
Instructie)iiである。フランス語版の取引例示(1542/12/28−1543/8/31)では,決算,すな
わち各勘定を締め切り損益を確定する作業は,8 月 31 日付けで行われ,売残商品(Remanance
de biens)勘定が設けられている。当期の売残商品,す なわち宝石,イギリス産オスタード,
フランダース産ラシャ,グレーのフライズ,うね織のタフタ,オランダ産リネンの各勘定の
期末残高合計額が[決算]残高勘定に取得原価で振替えられている。
イギリス人の手による最初の簿記書『勘定記帳の方法とその様式』(The maner and fourme
how to kepe a perfecte reconyng)が 1553 年によって出版されたが,そこでピールは,イ
ンピン同様,期末に売残商品を明確に認識している iii 。売残商品の期末の評価基準は,イン
ピン同様,取得原価であるiv 。
ピールに遅れること 14 年,1567 年に上梓されたジョン・ウェディントン(John Weddington)
の『簡単なる手引き』(A Breffe Instruction, and Manner, howe to kepe, merchantes bokes
of accomptes)における期末棚卸商品の評価基準もまた,取得原価であるv 。
1605 年から 1608 年にかけてブルージュで出版されたシーモン・ステフィン(Simon Stevin)
の『数学的回想録』(Vierde Stvck Der Wisconstighe Ghedachtnissen)あるいは,ステフィ
2
ンの影響を大きく受けたリチャード・ダフォーン( Richard Dafforne)の『商人の鏡』(The
Merchant Mirror,London,1635)でも,売残商品の評価基準は,取得原価である。
4.取得原価評価の普及
18 世紀のイギリスとりわけスコットランドでは,数多くの優れた簿記書が相次いで上梓さ
れた。ジョン・メイヤー(John Mair)やロバート・ハミルトン(Robert Hamilton)の簿記書
は,当時を代表する簿記書である。
メイヤーは,第 1 の簿記書『組織的簿記』(Bookkeeping Methodiz’d,Edinburgh,1736)の
中で,取扱商品の各荷口別に設けられたいわゆる口別商品勘定の記帳に当たり,「借方に[仕
プライムコスト
入れた商品の] 取得原価と[それにかかった]諸費用を記帳しなさい。そして,貸方にはそ
の商品の売上すなわち売却[額]を記帳しなさい。そうすることによって,以下のような三
つの場合が生じてくる。
.....3.商品の一部のみが売却され,数量欄に不一致が生じた
ときには,二重のバランスが要求される。第一に,売残商品の残高を[商品]勘定の貸方に,
取得価額で記帳しなければならない。
.....この後で,売上によって生じた利益ないしは
損失を,[当該商品勘定の]借方または貸方[の摘要欄]に損益と[書いて]記帳する。そし
て,[摘要]欄の右端[の数量]を合わせ,勘定を締切る」と述べているvi 。
メイヤーのこの説明による限りでは,彼は,少なくとも,期末棚卸商品の評価基準として
取得原価基準に準拠していたのは明白である。
1765 年にダブリンで出版されたダウリング(Daniel Dowling)の簿記書『イタリア式簿記
ウェアー
の完全体系』(A Compleat System of Italian Book-keeping)第 3 部の 商品勘定の締切方法
プロドュース
で,「[商品勘定の]借方は,[購入]原価と[その付帯]費用を示し,貸方は, 売
している。
上を示
.....3.[商品の]一部が売却され一部が売れ残ったならば,まず始めに,売
レイト
残商品原価の残高を,それにかかった 値段(すなわち取得原価−渡辺注)で評価し,その勘
定の貸方に記帳し,次いで,その後で損益[勘定]に利益等として締切りなさい」vii。
この説明文から明らかなように,ダウリングの期末棚卸商品の評価基準もまた,メイヤー
と同様,取得原価である。
この売残商品を取得原価で評価するという考え方の背景には,ある意味では売残商品が当
初から存在しなかったとする捉え方であるということが出来る。それに対して,以下で述べ
る棚卸商品の期末評価を時価で行う背景には,仕入れた商品が総て売却されるとする考え方
がその根底に存在していたのではなかろうか。
5.時価評価の登場
3
18 世紀のイギリスで出版された簿記書の中で,売残商品の評価基準に取得原価ではなく時
価を基準にした評価方法を提唱した数少ない簿記書として,1731 年にロンドンで出版された
リチャード・ヘイズ( Richard Hayes)の『現代簿記』(Modern Book-keeping: or, The Italian
Method improved) お よ び 同 書 の 増 補 版 と い え る 『 ジ ェ ン ト ル マ ン の 完 全 な 簿 記 係 』(The
Gentleman’s complete book-keeper,London,1741)を挙げることができる。
ヘイズは,第 8 章「元帳を閉じることなく勘定を締切る方法」で,「.....全ての商品が売
プレゼントマーケットプライス
れ残ったときには,その売れ残った全てに対し,勘定上の借方残高は, 現在の市場価格かあ
るいは取得原価(the Price they cost you)で評価する。
.....注.商人たちは,通常,
彼らの帳簿を締切るに際し,手持ち商品をその時点で売却可能な市場価格で評価するのが一
般的である。しかし,幾人かの商人は,そのようにしていない」と述べている viii 。この説明
を読む限り,当時の商人たちは,売残商品を時価で評価するのが一般的であったということ
プレゼントマーケットプライス
セリング・プライス
になる。ただし,彼のいう「 現在の市場価格」が 売
リプレイスメント・プライス
価を指しているのか,再 調 達 原 価
なのかは,文中の説明からだけでは,必ずしも明らかではないが,われわれは,その注書き
プレゼントマーケットプライス
よって,現在の市場価格が締切時点における「売却可能な市場価格」(the Market Price they
go on at, at the Time of their balancing)すなわち売価であることを知ることができる。
へイズの簿記書では,これらの売残商品を期末に売却可能な市場価格で時価評価した具体的
な商品勘定の例示がないため,そこで発生する評価損をどのように処理したのかについて確
認することは出来ない。
いずれにせよ,期末棚卸商品を売却時価で評価するということは,それによって生ずる取
得原価と売却時価との差額の本質が,期末商品の評価益ではなく,期待利益ないしは高寺貞
男教授のいう「みなし売却」ix による利益の先取りであると解することができる。
6.もう一つの時価評価
メ イ ヤ ー の 簿 記 書 と 並 び 18 世 紀 の イ ギ リ ス を 代 表 す る 簿 記 書 ロ バ ー ト ・ ハ ミ ル ト ン
(Robert Hamilton)の『商業入門』(An Introduction to Merchandise, Edinburgh, 1777)
では,簿記に関する論述は,第 4 部「イタリア式簿記」xと第 5 部「実用簿記」xiに見られる。
第2部の伝統的なイタリア式簿記すなわち複式簿記に関する取引例示では,売残商品の評
価は,取得原価で行われている。 しかし,本文中の説明では,「[元帳の]締切前に,.....
カレントプライス
出来るだけ速やかに商品の正確な手持ち有高を出し,その時点の 時
価,すなわちその所
ヴァリュー
有主が現在購入したいと思っている 価 格にしたがって各商品に適正な価格を付けるのが好
ましい」 xii と述べ,時価で評価するのが適当である旨の解説をしている。しかも,ハミルト
4
カレントプライス
ンの時
価 は,ヘイズが売却時価であるのに対して再調達原価なのである。
同じ時価で評価するとしても,売却時価と再調達原価では,それが意味するところには,
大きな相違がある。ヘイズに見られる売残商品を売却時価で評価するというのは,すでに述
べたように,「みなし売却による利益の先取り」ないしは「期待利益」を意味しているのに対
して,ハミルトンのいう再調達原価による評価は,いわば翌期における仕入損益を当期の決
算期時点で早期に認識することを意味していると解釈できるのである。
なお,第5部「実用簿記」の取引例示におけるポートワイン勘定では,期末の売残商品は,
取得原価ではなく時価で評価されている。18 世紀の後半から末葉にかけて,売残商品の時価
評価に関する会計処理法が登場してくるのである。
7.おわりに
ビランチオの証明手段として完成した複式簿記は,元来,記録計算を第一義としているた
め,取得原価を基準にしているのはいうまでもないことである。
売残商品を始めて認識し売上収益と売上原価を対応させ,期間損益計算を推奨したインピ
ンを始めピール,ウェディントンの簿記書では,売残商品の期末評価は,取得原価で行われ
るのが一般的であった。この考えが,18 世紀のイギリスを代表するメイヤーを始め多くの簿
記書に継承されて行くことになる。
流動資産であるか固定資産であるかを問わず,資産評価に関する問題が議論の舞台に登場
するのは,多かれ少なかれ物価変動が,企業利益に少なからざる影響を及ぼすに至った時で
あろう。18 世紀の末,とりわけ 80 年代頃までのイギリスの物価は,極めて安定している。
生産財,消費財ともに急激な上昇を見るのは,フランス革命(1789‐99)からナポレオン戦
争(1800‐15)以降のことである xiii 。もしそうだとすれば,売残商品の時価評価の問題が論
議され,しかもそれが,現実の会計処理法に影響を及ぼすのは,18 世紀末から 20 世紀にか
けてと考えるのが普通であろう。このような経済的背景を考慮すれば,ヘイズやハミルトン
に見られる時価による評価方法は,必ずしも当時の一般的な方法であったと断定するには慎
重を要するであろう。加えて,一つには,ヘイズの締切の説明は,正式の決算時ではなく,
それに先立って行われた決算の運算,ないしは仮決算のための締切であり,二つには,当時
においては,時価による売残商品の評価を説明している簿記書は,むしろ例外的であったと
いう現実に依拠すれば,なおさらのことである。
5
De ROOVER, Raymond, “The Development of Accounting Prior to Luca Pacioli According
to The Account-books of Medieval 1956, Merchants”, in LITTLETON, A.C. and YAMEY, B.S.
eds., Studies in the History of Accounting, London, pp.142-3. 拙著『損益計算史論』
森山書店,1983 年,32−6 頁。なお,財産目録と今日の利益処分計算書が結合した,当時の
フィレンツェの商人を中心に作成されたビランチオに関しては,泉谷勝美『スンマへの径』
森山書店,1997 年,第 10 章に詳しい。
ii 本書は先ず 1543 年にオランダ語版(Nieuwe Instructie)として出版され,同年直ちにフ
ランス語版(Nouuelle Instruction)も上梓された。全体の 5 分の 4 を超える記帳例示が省
略された英語版(A notable and very excellente woorke)がロンドンで出版されたのは,
1547 年になってからのことである。
iii PEELE, James, The Manner and Fourme how to kepe a perfecte reconyng, London, 1553,
The Quaterne or greate booke of accomp tes, fol.15. ピールの第 1 の簿記書については,
小島男佐夫『英国簿記発達史』森山書店,昭和 46 年,第 5 章に詳しい。
iv PEELE, James, Op.Cit., The Quaterne or greate booke of accomptes, fol.15.
v Ibid., fol.29.
vi MAIR, John, Bookkeeping Methodiz’d, Edinburgh, 1736, pp.76-7.
vii DOWLING, Daniel, A Compleat System of Italian Book-keeping, Dublin, 1765, p.33.
viii Hayes, R., Modern Book-keeping: or, The Italian Method improved, London,1731, and
The Gentleman’s complete book-keeper,London,1741,pp.78-9.
ix 高寺貞男『前掲書』95-7頁。
x HAMILTON, Robert, A Introduction to Merchandise, Edinburgh, 1788, 2nd ed.,
pp.265-466.
xi Ibid.,pp.467-95.
xii Ibid.,p.285.
xiii 松井
透『世界市場の形成』岩波書店,1991 年,294−5 頁。氏の分析によれば,1701
年の物価を 100 とすれば,1710 年代後半から 1750 年代頃までは,むしろデフレ気味であり,
概して 1770 年頃までは,ほぼ 100 の範囲で推移していた。物価が上昇に転じるのは,1770
年代後半からであり,18 世紀末の物価は,おおよそ,生産財が 140,消費財に至っては 180
程度にも上昇していることになる。
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