アトピーと哲学、そしてモンテーニュが試みたこと

医学のあゆみ(2014.7.12)250 (2): 165-169, 2014
パリから見えるこの世界
Un regard de Paris sur ce monde
第 30 回 アトピーと哲学、そしてモンテーニュが試みたこと
「われわれはいつも別の場所で考えるのです」
――モンテーニュ
1923 年、Arthur Coca、Robert Cooke の両博士はアレルギー疾患を再検討し、遺伝性
のものをアトピー(atopy)という新しい概念で一括りにした。この語源になっている
のがギリシャ語の atopos で、「場所(topos)がない(a-)、場所を超える」という意
味がある。その原意から、「奇妙な、変わっている、常軌を逸した、非常識な、型に
分けられない、度を越した」などの意味が派生した。この言葉を用いてソクラテス
(Socrates, 469 BC-399 BC)を形容したのがプラトン(Plato, 427 BC-347 BC)である。
例えば『饗宴』の中で、「しかし、ここにいるこの男 (ソクラテス) はあまりにも
常軌を逸しているので、どんなに一生懸命調べても彼に少しでも似ている男をいかな
る時代からも見つけ出すのは難しいだろう。そして、その話し方もまた誰にも似てい
ないのです」とアルキビアデス(Alcibiades, 450 BC-404 BC)に語らせている。この言
葉を「場所を超えて」の意味に解釈すると、わたしの考えている哲学の姿とも重なっ
てくる。さらに、正規に教えられている場所ではなく、そこを超えたところから時代
に抗する精神や自由闊達さを持つ新しい哲学が生まれる可能性が高いとすれば、この
点からもアトピーの背後にあるこの言葉には哲学の本質が宿っているように見える。
僅か 28 歳で亡くなったドイツの詩人フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(Georg
Philipp Friedrich von Hardenberg, 1772-1801)ことノヴァーリス(Novalis)は、この事
情を見事に看破していた。
「哲学は、正確に言うと郷愁である。それは、あらゆる場所を自分の家とするように
駆り立てる何かである。哲学するわれわれが自分の家の外のあらゆる場所にいる時に
のみ、哲学が哲学たり得るのである」
ノヴァーリスという言葉が「新天地の開拓者」の意味であることも、実に示唆的であ
る。
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わたしがフランス文化に触れ始めた当初、週刊誌に哲学者という言葉が頻繁に顔を
出すことに驚き、興味を持ったことについてはシリーズ初回で書いた。それ以来、一
生を思索に費やす人間を指す「フィロゾフ」(philosophe)という響きの中に、ある
種の高貴さを感じるようになった。当時購読していた雑誌 Le Point でモンテーニュ
(Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592)の特集記事を読んだのは、丁度こちらに渡
る 2007 年夏のこと。猛暑の日本で読み始め、秋を思わせる肌寒いパリのカフェで読
み終えた。その中で紹介されていたモンテーニュが行った試み(Essais)のエッセン
スは確信を拒否し判断を保留することで、このシリーズ第 20 回で取り上げた「不確
実さの中に居続ける力」とも通じるところがある。そのモンテーニュはソクラテスが
体現する哲学と不可分な atopos という言葉の中に、すべての生の形の普遍性や自由闊
達さを見ていたという。そして昨年 5 月、ボルドーの友人の案内でドルドーニュ県の
小さなコミューン、サン・ミシェル・ド・モンテーニュ(Saint-Michel-de-Montaigne)
にあるモンテーニュの終の棲家を訪れる機会が巡ってきた。今回はその時の印象も交
えながら、最もヨーロッパ的な人間と評されることもあるこの哲学者について考えて
みたい。
終の棲家になったモンテーニュの塔を望む
(2013 年 5 月 31 日)
その日、ボルドーのサン・ジャン(Saint Jean)駅から目的のラモット・モンラヴェ
ル(Lamothe-Montravel)に向かった。しかし、駅名を書いた案内板が錆付いて朽ち果
てていたため乗り過ごしてしまった。次のヴェリーヌ(Vélines)で降りたが、その駅
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舎も閉鎖され人影も公共の交通機関もない。頭を抱えていると地元の人が通りかかり、
線路のすぐ脇にある電話でタクシーを呼んでもらうことができた。そして、1 時間後
に到着したタクシーでブドウ畑の中にあるモンテーニュ城(Château de Montaigne)に
辿り着いた。モンテーニュはそのお城で 1533 年に生まれている。子供の前ではラテ
ン語で会話をしていたという親の熱心な教育が実ったのか、13 歳の時には教えること
がなくなったとして中学を追い出されている。体を動かすのは苦手だったが、乗馬だ
けは好んだという。「坐っている時には眠っている思考を足が活性化する」と言う彼
は、よく歩く人でもあった。そして 1571 年、38 歳の時に静寂と自由を求めて敷地内
の塔に籠もり、59 歳で亡くなるまでの 20 年あまりを思索とエッセイ(Essais)の執
筆に当てたのである。ただ、この間も塔に閉じ籠ったままで瞑想していたわけではな
く、腎結石を抱えながらも大胆に動き回っていた。父親のピエール(Pierre、フラン
ス語で「石」の意)が後年膀胱結石を患っていたので、遺伝の不思議について考えを
巡らせている。微笑ましい息子の姿をそこに見る思いがする。
1581 年 8 月のボルドー市長選の時、彼は 48 歳になっていた。当時、カトリックと
プロテスタントの政治的・宗教的闘争が激化し、フランス自体の存続に関わる危機が
迫っていた。そんな中、モンテーニュは戦略上の要であるボルドーの舵取りを任され
る。しかし、この時彼は 1 年半に亘るドイツ、スイス、イタリアなどを巡る馬上の旅
に出ていて、塔に戻ったのは 11 月も終わる頃であった。市長の 1 期目が終わった 1583
年、その立場にいることによってのみ平和が齎されると確信した彼は 2 期目も出馬し
て市長を継続することになる。思索だけの人かと思っていたが、実は国王アンリ 2 世
(Henri II, 1519-1559)の王妃であったカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis,
1519-1589)、アンリ 3 世(Henri III, 1551-1589)、アンリ 4 世(Henri IV, 1553-1610)、
そしてローマ教皇などとも接触のあるスケールの大きな政治家の顔も持っていたの
である。
モンテーニュの生きた時代は数限りない激変、旧来の知や価値の崩壊、宗教的狂信
の衝突などがあり、今の時代と酷似しているとも言える。例えば、1492 年のコロンブ
ス(Christopher Columbus, 1451-1506)によるアメリカ大陸の発見やコペルニクス
(Nicolaus Copernicus, 1473-1543)の『天球の回転について』(De revolutionibus orbium
coelestium, 1534)による紀元 2 世紀のプトレマイオス(Claudius Ptolemaeus, ca. 90-ca.
168)以来の天動説の終焉などにより、それまでの閉鎖された世界観に変更を迫られ
ることになった。さらに、紀元前 4 世紀から千年以上の長きに亘り権威であったアリ
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ストテレス(Aristotle, 384 BC-322 BC)の哲学が批判に晒され、医学にも革新が起こ
った。例えば、反骨の医者にして錬金術師のパラケルスス(Paracelsus, 1493-1541)は
スコラ派の教義による医学を批判して自然の観察に基づく薬物療法を提唱し、ヴェサ
リウス(Andreas Vesalius, 1514-1564)は『人体の構造についての七つの書』
(De humani
corporis fabrica libri septem, 1543)により近代解剖学を確立した。
塔の最上階にある書斎
天井の梁にはギリシャ語やラテン語の引用が刻まれている
(2013 年 5 月 31 日)
早速、案内の方とともに塔の中に入ってみた。1 階がチャペルで、2 階にはモンテ
ーニュが息を引き取った寝室があった。そして、最上階に読み、書き、生活する場だ
った書斎があり、三つの窓からは敷地のすべてを見渡すことができる。彼が愛した馬
具も置かれていた。1,000 冊ほどの彼が所有するすべての本がここに移され、その多
くは注釈で埋め尽くされていたという。天井には縦横に梁があり、そこにラテン語や
ギリシャ語による古典の引用が刻まれている。主要な 2 本の梁には、「一方に偏るこ
となく」、
「わたしは保留する」、
「わたしはしがみつきはしない」、
「わたしは固定した
立場に立つことを差し控える」という懐疑派の標語が目に付く。彼はここで机にしが
みついていたのではなく、動き回り、外を眺め、本や天井に目をやったりしながら考
えていたという。彼の標語にもなっている « Que sais-je ? »「クセジュ」(わたしは何
を知るのか」に表されているように、すべてに疑いを持ち、あらゆる種類の確信を拒
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否すること。そうすることにより一つのドグマにしがみつくのを避け、バランスを取
ること。われわれは真実に到達することができないのだとしたならば、判断を保留し
なければならない。「エポケー」である。どこか超然としたモンテーニュの精神が浮
かび上がってくるようだ。
新市長のモンテーニュは古代人の智慧を眺めながら 1 年半に亘る旅を振り返り、カ
トリックがプロテスタントより優遇されることが果たして良いことなのかについて
思いを巡らせていたのだろうか。その旅ではあらゆる種類の食事や会話、幅広い女性
を経験しただけではなく、ヨーロッパ各地でカトリックとプロテスタントが共存する
姿を目にしていた。これらの経験から、対立する意見や狂信主義を治める手段を引き
出していたのかもしれない。塔の中に展示されていたモンテーニュの衣装の白い首巻
はカトリック、黒いローブはプロテスタントを意味していたという。そこに、身を以
って寛容の精神を訴えていた彼の姿が浮かんでくる。ドグマや教義に囚われていない
状態は一見すると不確実性の中にあるが、それだからこそできる自由な行動によって
さらに確実なものに辿り着く可能性も出てくる。天井の刻印は想像を膨らませるキャ
ンバスであり、塔 1 階にあるチャペル天蓋にかわいらしく描かれている幾多の星のよ
うに彼を導く天上からの言葉だったのかもしれない。
モンテーニュ城入り口に刻まれた « QUE SAIS JE »
(2013 年 5 月 31 日)
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ところで、モンテーニュはなぜ公的生活から離れ、思索の道に入ったのだろうか。
それは、生得の豊かな才能に研鑚を加えた完璧な精神の持ち主と彼が評するエティエ
ンヌ・ド・ラ・ボエシー(Étienne de la Boétie, 1530-1563)を赤痢により 32 歳という
若さで失ったからだと言われている。モンテーニュ 30 歳の時であった。最近日本で
も注目を集めているという『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫、2013)(Discours de
la servitude volontaire, 1574)を僅か 18 歳にして書き上げた著者とは 5 年ほどの付き合
いにしか過ぎなかった。しかし、その関係は非常に親密なもので、別れの悲痛な思い
出を昇華し、悲しみのどん底から這い上るための営みがどうしても必要であった。絶
え間なく蛇行しながら続く自らの思考の流れを綴ることにより、彼は生き延びること
ができたのかもしれない。その軌跡であるエッセイ(Essais)の中で、自分とはどう
いう人間なのかを追い求め、そこから人間の本質へと向かうが、結局当て所もない精
神は追えば追うほどその姿が遠ざかって行くことに気付く。このような自己分析の営
みに 4 世紀後のフロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)を見る人もいる。また、彼は 36
歳の時に落馬して死にそうになっている。その時のことを詳しく書いているが、彼が
興味を持ったのは意識を失った状態とそこからの回復であった。意識の問題からわた
しとは何者なのかというアイデンティティの問題、さらにデカルト(René Descartes,
1596-1650)に先んじて心と体の関係や自由意志の問題へと思索が進んでいった。そ
の営みは、まさに神を思索の中心に置く時代から中心が人間に移るヒューマニズムの
時代を象徴するに相応しいものであった。
« Que philosopher, c’est apprendre à mourir. »「哲学するとは、死ぬことを学ぶことで
ある」という有名な言葉がある。キケロ(Marcus Tullius Cicero, 106 BC-43 BC)がそ
のことを指摘しているが、モンテーニュも一章を割いて論じている。6 人の娘の内一
人を除いたすべてを失っており、死が近くにあったことも想像できる。しかし、それ
は彼が死に対する嗜好を持っていたからではなく、寧ろ生きることへの気遣いの方が
強かったのではないだろうか。死について瞑想することは、自由について瞑想するこ
とでもあると書いている。落馬の折の臨死体験から死は恐れるに足りないことに気付
いていたのかもしれない。二度目がない以上、死ぬことを学ぶことはできないという
人がいる。わたしも死がどういうものかを考えるよりは、死を意識することによって
浮かび上がる限られたものとしての生とどう向き合うのかを考えることの方が実り
多いように思う。パスカル(Blaise Pascal, 1623-1662)が見ていた人間の置かれた悲惨
な状況を頭に留めながらも、この地上における生を如何に満ちたものにするのかに目
をやりたいという立場である。
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ボルドー市カンコンス広場のモンテーニュ像
(2013 年 5 月 30 日)
終の棲家訪問の前日、ボルドー市中心部のカンコンス広場(Place des Quinconces)
にあるモンテーニュ像を見ることにした。その像は、同じくボルドーゆかりのモンテ
スキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689-1755)の像と対するように広場の両側に
配置されていた。ソルボンヌ大学前にあるモンテーニュ像(シリーズ第 6 回を参照)
が穏やかな好好爺の印象があるのに対し、こちらは厳しい現実に対峙していたことを
想像させる決然とした表情を湛えている。真理と確実性を取り去った後の不確実性を
足場にして、絶え間ない動きと驚きの中で実験を繰り返し、新たに悦びを発見する試
み(Essais)は、デカルトやカント(Immanuel Kant, 1724-1804)やヘーゲル(Georg
Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)がやったような体系の構築ではなく、生きること
に関わる哲学の展開であった。それはまた、「エッセイ(Essais)という形態による
哲学」という新しいジャンルを拓くことにもなった。理性への過度の信頼や確信を最
後まで拒否し、判断を保留し続けたモンテーニュ。しかし、それは事実を集めるだけ
の知としての「科学」の拒否ではあっても、その断片から何かを構築するために不可
欠になる「科学的思考」の否定ではなかったはずである。そして、それは何よりもニ
ーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)が彼の中に見ていた謙虚さ、誠実さ
の表出ではなかったのだろうか。モンテーニュはこう言っている。
「哲学がわれわれの思い上がりや虚栄と戦い、自らの優柔不断、弱さ、無知を誠実に
認める時にこそ、本当に素晴らしい働きをするようにわたしには見えるのです」
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医学のあゆみ(2014.7.12)250 (2): 165-169, 2014
今、再びのボルドーからパリに戻り、その余韻の中にいる。
(2014 年 6 月 4 日)
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