小 さ な 旅 行 会 社 の〝 生 き 方 〟論

●はら・ゆうじ
成販売。現在、亜細亜大客員教授。
モンゴルなどのツアー を 企 画 造
て1991年(株)風の旅行社設
都職員、長野県小学校教員を経
飯田市(伊賀良)生まれ。慶応
義塾大学文学部哲学科卒。東京
■随想
小さな旅行会社の
〝生き方〟論
立。ネパール、
チベット、ブータン、
︵高 回︶
〝ネパール人と仕事する〟という経験を
とおして
原 優二
と、よほど強い思い入れがあってのことと思われるかも
ロッコ、グアテマラ、ペルー、インドシナ、バングラデ
現在、私は、ネパール、チベット、ラダック、ブータ
ン、モンゴル、中国シルクロード、ウズベキスタン、モ
に、渡りに船とばかりに便乗した。
しれないが、このときが初めての海外旅行だったので、
シュなどの国や地域へ行くパッケージツアーを、自社造
1987年の年末、私は、知人に誘われてネパールの
トレッキングに出かけた。ヒマラヤトレッキングという
どこでもいいから〝外国へ行ってみたい〟という好奇心
成、自社販売する旅行会社を経営している。社名は『風
る方ならご存知かもしれない。
の旅行社』という。これらの国・地域への旅に興味のあ
で、誘われるままにネパールへ行ったというのが実のと
ころである。
と こ ろ が、 こ れ が、 私 の 人 生 に お け る 最 大 の 転 機 と
なった。当時、私は、長野県で小学校の教員をやってい
たが、このネパール旅行から帰って一年後、この旅行で
JR中野駅近くの 坪のワンルームマンションで営業を
私を誘った知人・比田井博氏(故人)が出資し、私が
代表となって1991年 月に設立。 月から、東京の
知り合った現在の妻と結婚するために上京し、仕事を探
年目になる。社員数は、東京と大阪、
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名古屋で 数名だが、ネパール、モンゴル、タイ、ブー
始めた。今年で
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タン、モロッコの海外支店を含めると 名ほどだ。
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知人が、東京に来るなら旅行会社で働かないか、と電話
してきたのである。私は、「(私が)旅行会社で修行した
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すことになった。そのとき、私をネパールに誘ったあの
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ら、ネパール専門の旅行会社を作ろう」という彼の構想
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食いつなぐために格安航空券を販売
%しかなかったが、
保するために続けるが、いずれは止める。
「格安ツアー」
は販売を即中止し、売上げ比率は
ネパール、チベット、ブータン、モンゴルなどのツアー販
で、
わずか一年半の〝修行〟で覚えた「格安航空券販売」
売をしたくて旅行会社を始めたわけではない」という私
無謀な決断ではあったが「納得の行く旅を作りたい」
というスタッフたちの思いと、
「そもそも、航空券の販
売へと全面的に切り替える、という二つのことを決めた。
で当面は食いつなぐことにした。ところが、当時は、海
の思いが重なり迷いはなかった。私自身は、むしろ「こ
「ネパールにもっと多くの日本人にいってほしい」そ
んな思いで始めた会社だったが、無名の旅行会社のパッ
外渡航者数が1000万人を超え、格安航空券を使って
に、本来の目的であったネパールツアーの販売は、継続
はしていたもののなかなか売上げを伸ばせずにいた。
専門店と名乗ったら世界が変わった
ところが、面白いもので専門店だと名乗った途端に、
今まで来なかった話が次々に舞い込んできた。その中で
も、阪神電鉄が新築する「ハービス大阪」という商業ビ
ルの3階に旅行の専門店だけを集めた「世界のたび市場」
た。専門店として評価して戴いたことが無性に嬉しかっ
を作るから出店してくれと声がかかったことには驚い
しかし、所詮、航空券販売は料金競争の世界である。
1995年には大手が参入してきて太刀打ちできなく
た。おかげで、1997年 月、自社のツアーだけを販
ティーがない限り私たちの存在意義はない」これが結論
社員全員を集めてミーティングを行った。「オリジナリ
私どものツアーは大阪のお客様に受け入れられ、順調に
売する店を大阪の梅田に出すことができた。幸いにも、
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売上げを伸ばした。スタッフの顔から不安が消え、会社
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であった。具体的には、「格安航空券販売」は収益を確
なり窮地に立たされてしまった。そこで、翌年の
月、
売上げ比率 %の商品に未来をかける
なったくらいである。
れでだめなら会社をたたもう」そう考えたら気が楽に
ケージツアーなど、そう簡単に売れるはずがない。そこ
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の海外個人旅行がブームになってきていたので好調に業
億円を超え、
名ほどに増えた。勢いに任せて、タイ、香
績 が 伸 び、 会 社 設 立 3 年 目 に は 売 上 げ が
スタッフも
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港、ソウルなどの「格安ツアー」の販売まで始めた。逆
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随想
もこれで勢いに乗った。また、1998年の
月にモン
ゴル航空の代理店となった。これによって収益の見通し
がたったので「格安航空券販売」のための雑誌広告を止
め、名実ともに専門店への道を歩み始めることができた。
ネパール流か、
日本流か。苦しんだツアー作り。
歳にしての初めての海外旅行でネパールへ行っ
一方、肝心のツアー作りであるが、こちらは、当初か
ら大きく躓いた。弊社は、1990年に、前出の比田井
氏が、
たことをきっかけに、
〝気のいいネパール人〟を集めて、
カトマンズに日本人連絡事務所を開設したことから始
まった。ちょうど私が上京し、旅行会社で修行をしてい
たころである。その後、1991年に日本に『風の旅行
社』を作り、その〝気のいいネパール人〟と一緒にツアー
を作り始めたが、これが大変な事態を招いた。
〝気のいいネパール人〟たちは、自ら仕事を見つける
な ど と い う 働 き 方 は し た こ と が な い。 手 配 を 担 う オ ペ
レーションスタッフ、ガイド、ドライバー、経理、誰も
が、ボスに命じられた仕事しかしない。だから自分の仕
事がなければ会社に来ない。時間はルーズで約束は守ら
ない。ツアーのスケジュールが手配通りに進まなくても
「ここはネパールだから」と常に言い訳をして済ませる。
そんな状態がずっと続いた。
そこで、私たちは、ある決断をした。「仕事はあくま
で日本流を通すが、彼らをイコールパートナーとして敬
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NKT スタッフ集合
関係にあると考えた。彼らは、決して能力がないわけで
しかし、彼らのモチベーションが低い原因は、黙って
ボスの命令に従うしか選択肢がなかったネパールの労使
しい態度で臨む方が普通だろう。
私は、それを原則にした。それが、彼らをイコールパー
で使え。但し、山分けはだめだ。将来のために投資しろ」
からこそである。
「自分たちであげた利益は、自分たち
しようと努力するようになっていった。但し、
「彼らが
る。それが次第に分かってきて、自ら仕事をもっと良く
はないし、怠け者でもない。自分たちで判断し、行動す
トナーとして敬う、ということである。私たちの予測を
おう」と決めたのである。一般的には、罰則を伴った厳
る能力を十分持っていた。それを発揮する環境がなかっ
遥かに超えて、 年ほどで、彼らの中に自信と誇りが定
あげた利益は日本には持ちかえらない」と私が約束した
ただけだ。
着し、自立し、
且つ自律した組織へと生まれ変わっていっ
キングガイドもカウンターに座らせ、接客をさせた。ガ
それからは、毎日定時に出勤させ、ミーティングをし
て役割分担を決めて、就業時間まで仕事をさせた。トレッ
一回りほど若く、トレッキングガイドにしては珍しい大
務めてくれたプリスビー・シュレスタ氏である。私より
の
そ の N K T = NAPAL KAZE TAREVEL Co.,Ltd.
社長は、私の初海外旅行の際に、トレッキングガイドを
ていった。
イドがホテルへお客様を迎えに行く際には、事前に車に
学出のインテリである。もちろん彼も、あの〝気のいい
されたいい車を回してもらうよう交渉すること。お客様
こと。車は、レンタル会社に前日に再確認を入れ、整備
の素材にこだわった『風ダルバール・カマルポカリ』と
カトマンズで、朽ちた旧王族の館を改修して自然・天然
ネパール人〟の一人であった。その彼が、昨年の
ガソリンを入れ、
を、知り合いの土産物屋に連れて行って無理やり買わせ
いう
流は一切許さなかった。
もちろん、最初は大きな抵抗にあった。しかし、いい
仕事をすれば、お客様は喜んでくれるし、また来てくれ
月、
分前にはホテルのロビーに到着する
自立し、且つ自律した組織へ
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るようなことは禁止。その他、細々したこともネパール
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部屋ほどのホテルを始めた。彼は、ネパールの文
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私たちは、このやり方を、モンゴル、チベット、ブー
たいという。私も、これに共感し、出資した。
化と歴史を尊重し、ネパールの良さを世界と後世に伝え
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随想
トレッキング開始「石楠花&コンデリ(6,187 m)」
タン、モロッコなどに広げ『 Kaze Family
』と称してネッ
トワークを形成してきた。国によって習慣も考え方も違
うし、経営者個人の性格によっても組織の作り方は異な
るが、基本は曲げないでやってきた。
オリジナリティーがない限り
私たちの存在意義はない
振り返ってみると、私たちは、本当に素人集団であっ
たと思う。旅行業界では、ツアーを作るなら現地手配を
専 門 に 行 う ツ ア ー オ ペ レ ー タ ー に 外 注 す る の が 常 識 だ。
私たちも、そうしていれば、習慣や考え方の違いという
大きな壁にぶつかることもなかったかもしれない。しか
し、それが功を奏した。労せずして得られるものは、誰
でも手に入るものでしかない。
「オリジナリティーがな
い限り私たちの存在意義はない」それが原則である。
こんなふうに書くと、今は、すべてが上手くいってい
るようだが、
そうではない。新しい問題が次々と生じる。
年間で、
完璧な組織などできるはずがない。
「問題を解決して次
に進む力」それこそが肝心である。私は、
この
数え切れないくらいネパールやモンゴルなどに通って来
た。これからも変わらないだろう。手間と時間を惜しま
ないこと、これもまた、大切なことである。
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