マタイ23:13~39 「演じるのはやめよう」

マタイ23:13~39 「演じるのはやめよう」
今朝の説教題は、
「演じるのはやめよう」という言葉ですけれども、
「演じるのはやめよ
う」と言われると、私たちは皆、自分の心を指さされるような気がして、何かドキッとす
るのではないでしょうか?私たちの色々な外面に現れるものを飛び越えて、私たちの心を
直接見透かすような言葉、そういう主イエスの、私たちに対する鋭い眼力が、今朝の御言
葉には満ちています。
先程、私たちは罪の告白をいたしました。そこで、司会者が、詩編 34 編の言葉を引用
して、皆様にこう言いました。
「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆ってい
ただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎(とが)を数えられず、心にあざむき
のない人は。わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も
夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪を
あなたに示し、咎を隠しませんでした。
」
主に咎(とが)を数えられず、心にあざむきのない人は、なんと幸いなことでしょうと、
詩編の作者は語りつつ、実は、心に欺きがないなんて、そんな人は、主イエスのほかには
誰もいません。詩編の詩人は、自らそのことに気付きつつ、
「わたしは黙し続けて、絶え間
ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の
日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
」と
語りました。心には欺きがある。けれども私たちには、それを隠して、演じているところ
がある。でも神様の目には、その私たちの心の欺きはすべてお見通しで、心の中にある罪
と咎を、私たちは人に隠せても、神さまには数えられてしまう。それが重くてつらくて、
その心の内側を隠して演じていることに、夏の日照りに遭うような消耗を感じ、わたしは
もう疲れ果てた。もう隠せない。詩人はそう観念して、自分の心の内側に秘めていた罪を、
神様に告白したのです。このあとの詩編 34 編には、罪の赦しを体験した詩人の、喜びの
言葉がつづられていきます。
今朝のマタイ福音書で主イエスが語られた唯一の命令形の言葉は、clean という言葉、
26 節にでてくる「きれいにせよ!」という言葉です。
「杯の内側をきれいにせよ。そうす
れば、
外側もきれいになる。
」
私が手に持っているこういうマグカップですと、
外側からは、
内側にある汚れは見えない。蓋を開けて、中を覗き込んで、そこに深く手を入れて洗わな
いと、内側はきれいにできない。これと全く同じことが、私たち人間に起こっている。そ
ういう外側と内側のギャップが、人間にはある。
今朝の御言葉を読みながら、どうしても頭に浮かんできてしまう映像があるのですけれ
ども、それは、私がまだ小さい、小学生かそれ以下の歳の頃、ディズニーランドに行って、
七人の小人たちに囲まれた時の思い出です。そこには実際、7 人も小人がいた訳ではなな
くて、恐らく数人の小人に囲まれただけだったと思うのですけれども、私は、突然、ミッ
キーマウスなどよりは背が低くて、自分の目線に合うような小ささで、小太りで、そして
何より顔が、満面の笑みをしてワーッとビックリ笑顔で笑っているという小人たちに囲ま
れた時、それまでは楽しくディズニーランドの世界に浸っていたのですが、急に「うわ、
気味悪いっ」と思ってしまいました。せっかく私を喜ばせようとしてくれた小人さんたち
には申し訳なかったのですが、急に現実世界に引き戻されてしまった私は、この笑ってい
る小人の中には、どんな人が入っているんだろうとか、とても醒めた思いで、その満面の
笑みをしている小人たちをまじまじと見てしまった。そういう思い出があります。
そういう笑顔満面の着ぐるみと、内側の違い。この事実を表現する言葉として、今朝の
御言葉には、偽善者という言葉が何度も出てきます。それは、ギリシャ語で、エポクリテ
ースという言葉ですけれども、この言葉はもともと、舞台俳優という言葉でした。その役
者という言葉から派生して、
「本当の自分とは違うそぶりをする人」という意味の言葉とし
て使われるようになった言葉です。
そしてその偽善者は、不幸だ、不幸だと、何度も主イエスは言われます。なぜ偽善者は
不幸なのでしょうか?それは、偽善者は、本当の自分とは違うそぶりをして、外側を綺麗
にして、可愛いくて愛くるしい着ぐるみを着るようにして、内側も綺麗にされなければい
けないのにもかかわらず、それで間に合っているということにしてしまうからです。本当
は助けが必要なのに、助けはいらないということにしてしまうからです。
主イエスは 37 節で言われました。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分
に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽根の下に集めるように、わたしは
お前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
」その
ように、自分は大丈夫だとうそぶって、神様の羽根の下に守られに来ない。救い主主イエ
スのもとに来ない。それどこから、エルサレムというユダヤ人たちを代表する街は、その
救い主、主イエスの招きに応じないばかりか、十字架に付ける。まさにそれを今、やろう
としているのです。
偽善者は不幸だ、偽善者は不幸だという言葉の連続。これは、かつての山上の説教での、
貧しい者は幸いだという言葉の反対語です。マタイによる福音書 5 章 3 節で、主イエスは、
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
」と語られました。
けれども今朝の13節では、
「律法学者とファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせ
ない。
」と語られました。偽善者は、神の救いを求めない。それは、天の国に自分も入れな
いばかりか、人をも入らせなくするので、不幸だと言われています。
この「不幸だ。
」という言葉は、
「ウーアイ」という言葉です。それは、苦しい時のうめ
き声のような、
「オウ―」という声を、そのまま「不幸だ」という言葉に移し込んだ、痛み
を含む言葉です。23 章のこの部分は、これが本当に主イエスの言葉なのかと見まごう程の、
主イエスが口にされた言葉の中でも、最も辛辣な言葉の数々が語られているところなので
すけれども、主イエスはここで、ただ怒りに任せて、
「ウーアイ、不幸だ」という言葉を語
られたのではありません。主イエスは怒りと共に、ここで悲しみと痛みを持って「ウーア
イ」と繰り返し語っておられるのです。彼らが不幸に落ちていく、神の国から落ちていく
ということは、主イエスにとって悲しみであり痛みでした。律法学者やファリサイ派たち
は、実のところ、主イエスにとっては、めんどりの雛のような愛おしい存在、母親とその
子どもたちのように、同じユダヤ人として、同じ神を信じる、同じ救いの民として、血の
つながっている子どものような存在だったのです。けれどもそんな彼らが、自分たちは間
に合っている。ちゃんと、しっかりと神様の戒めに従っていると言いながら、不幸へと、
天の国にはいれない存在へと落ちていく。それは主イエスにとって、胸の引き裂かれるよ
うなことだったのです。
彼らは、聖書について、神様について、分かっているようで、全然わかっていない人々
でした。16 節には、ものの見えない案内人と言われていて、この段落のこのあとの部分に
書かれていることは、すべて本末転倒という結果になっています。そして 23 節のところ
では、
ファリサイ派の人々の目は、
聖書に記されている手続きだけに向いてしまっていて、
肝心の、神様に対する、正義、慈悲、誠実が抜けてしまっている。
そして 25 節から 28 節のところでは、外側は綺麗で、問題ないように見えても、内側の
心はそうではないという二面性が暴露されています。
そうでありながら彼らは、自分たちが偽善をしていること自体にも気付いていない。自
分たちは偽善ではなくて、本当にいいことをしていると勘違いしている。主イエスはそこ
を指して、ウーアイだ、盲目だ、見えていない、と言われています。
なぜこうなってしまったのでしょうか?律法学者やファリサイ派の人々の間にも、愛さ
れたい。神様に救われたい。天の国に入ってゆきたい。という思いはありましたし、しか
も彼らの救いへの願いは、
通常よりもさらに強い、
並々ならぬものだったのだと思います。
だからこそ彼らは、愛されるにふさわしい、救われるのにふさわしい、そういう自分に
なろうとした。そういう自分たちというグループでなければならないと考えた。そして、
愛されるに値する、ミスのない優秀な、強い人間、間違いを犯さないグループになろうと
した。この考え方の背後には、同時に恐れがあります。それは、内側を見られたら大変だ
という恐れ、着ぐるみを剥がされたら、可愛い小人ではありえない、そういう自分の本当
の姿が暴露されてしまう。そうなったら、愛されるに値しない、自分の素の部分が出てき
てしまう、そうなったら、大変なことになってしまうという恐れがあります。だから面の
皮を厚くして、内側を悟られないようにしなければならない。自分一人で持ちこたえるよ
りも、同じ考えの人でグループを作って、自分たちのグループが一番良いグループで、自
分たちの考えていることだけが正しい。他はみんな間違っているということにして、その
グループの中に閉じこもっていれば、より安全で、かつ安定的で、安心できるということ
になる。
ファリサイ派という派閥の起源は、紀元前 150 年頃、主イエスが生きておられた時代か
ら数えて 150 年前、アレキサンドロス大王が行ったギリシャ文化の普及運動としての、ヘ
レニズム政策によって、旧約聖書に基礎を置くユダヤ人たちの宗教が、壊滅の危機に瀕し
た時、そこで、ユダヤ人による、ユダヤ人のための、旧約聖書の神に根ざした信仰の復興
のために立ち上がった、気骨のあるユダヤ人たちの一派にさかのぼります。他の宗教、価
値観、考え方がどんどんユダヤに入ってくる中で、必死に聖書の信仰を守ろうとした彼ら
の動機は素晴らしいものだったのですけれども、
聖書の信仰を守ろうとした彼らの熱意は、
しかしいつしか、聖書本来の教えから離れて、排他性と自己保全に向かってしまった。信
仰の純粋さを取り戻そうとスタートした彼らは、しかし、聖書の言葉、詩編の言葉、心の
内側に保つべき、罪からの清らかさという、本来大切にしなければならない純粋性から、
彼らは離れてしまいました。
けれども前回の時も申しましたけれども、主イエスは、この言葉を、23 章 1 節で、ファ
リサイ派の人々に対してではなく、
群衆と弟子たちに向けて語っておられます。
なぜなら、
これが、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、主イエスの弟子たちの、すなわち私た
ちと、私たちの教会の問題でもあるからです。
自分たちが、これは正しいと思っていること、これまで正しいと思ってきたこと、それ
が本当に正しいのか、あるいは私たちの行動なり実践が、神様の御心から逸れて、形だけ
になってしまっていないか、私たちも、自分を顧みる必要があります。
何より主イエスが、厳しい言葉を発せられながら、ウーアイと、不幸だと言っておられ
たのは、ファリサイ派の人々によって、福音が捻じ曲げられているからでした。冒頭に引
用した詩編 34 編にも、
「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」
とある様に、神様が喜ばれるのは、砕かれた魂であり、神が愛され、天国を与えてくださ
るのは、ファリサイ派の人々が考えていたような強い心ではなく、逆に貧しい心です。
強さで、正しさで、武装する必要はない。人の目は欺くことができても、主はわたした
ちの心を見ておられる方ですので、神様には、私たちの心の内側にある寂しさや、飢え渇
きや、
そこにあるほころびや傷はお見通しです。
それを強さで覆い隠していくのではなく、
むしろ、
「そうなんです。自分の心には咎がある。このままでは自分はしんどいし、多分こ
のままではだめです。
」というところに至った時に、めんどりが、翼の下に、自分の居場所
を作ってくれているようにして、主イエスが、罪の赦しの十字架の下に、自分を招いてく
ださっている、ウーアイ、このままでは不幸だという言葉の奥に、わたしのもとに来なさ
い。安心して休みなさい。幸いなるかなという、主イエスの言葉が、聞えてくるのです。
偽善者は不幸だ。そういう風に生きていてはもったいない。かわいい着ぐるみで装わな
いと愛されないのが、あなたなのではない。あなたは愛に値する。私が十字架で命を捨て
たのは、あなたが生きるためだ。装わなくても、心に咎があっても、あなたは愛されるに
値する。演じなくてもいい。と、主イエスは招いてくださっています。
教会とは、全く聖い善人を産み出すところでもありません。教会とは、偽善しか行なえ
ないような罪人が、しかし主イエス・キリストの十字架によって罪赦されて、どんな者でも
安心して、安んじて集うことのできる場所です。これから受ける聖餐式は、主イエスがこ
こにいてくださり、私たちのために、めん鳥のように羽を広げてくださっていることの、
この上ないしるしです。
私たちはひなのようにその主イエスの羽のもとに集まる。
そこに、
私たちが罪から完全に解き放たれて、主イエスの愛のめん鳥のような暖かさに、安心して
憩う場所があります。