全 国 展 開 を 見 通 し た 二 つ の 視 点全国展開を見通した二つの視点

に変更、さらに 年に開設した東
﹁親父が亡くなって感じたの
は悲しさよりも肩に何十トンも
の重しを乗せられたようなプ
レッシャーでした﹂昭和 年に
歳の若さで年商 億円の藤井商
父、藤井利七社長が急逝し、
35
郎は、明治 ︵1890︶年3月
紙から紙の販売を思いついた常次
行商もしていた。この線香の包み
で独立したおいを手伝い、線香の
の次男、常次郎は線香の製造販売
明治維新当時の当主、藤井利三治
副業に線香を製造販売していた。
綿、麻織物を扱う古町の老舗で、
藤井家は江戸時代から続く絹や
問はそう振り返る。
店を受け継いだ藤井輝彰常任顧
10
扱って商売は繁盛。明治 年に東
肥製紙が八代に設立されると、九
州一円での製品販売を委託され、
洋紙の販売を伸ばした。
大正 年に2代目庄次郎の後を
継いだ次男の利吉は昭和2年に急
逝してしまった。外交官を目指し
て五高から東京帝大学法学部に進
んだ庄次郎の三男利七は急遽熊本
に戻り、4代目として父の後を継
ぐことになった。
利七は昭和3年に藤井商店を
合資会社に組織変更し、昭和5
年に代表社員に就任した。戦時
中には軍用紙加工有限会社を設
立、第六師団の紙類から文房具、
を進め、企業体質を一層強固なも
は物流業務や受発注業務の統廃合
視点を生かせるようになった同社
した福岡の比重を高めた。東京・
熊本と東京からの視点の両方を
に 東 京 支 店 を 本 社 に 昇 格 さ せ、
利七の長男輝彰が初代東京支店長
生 か し た﹁ 二 眼 レ フ 体 制 ﹂ は
福岡・熊本の3拠点、それぞれの
ために王子製紙に画用紙を特注
として東北から関東一円で新規開
1991年の福岡支店本社化で
紙専門の個人商店としてス
のとしていった。
同年のオイルショックは同社
福岡・東京に変った。
てのホテルキャッスル建設にも尽
利七は昭和天皇来熊に合わせ
を開設、文房具の自社生産を始め
タートしたレイメイ藤井は多角化
社 2 社 と 合 併 し、 現 在 の レ イ
と当時を振り返る。セールス力の
ろ、大いに士気が上がりました﹂
して給料も倍増を目標にしたとこ
ない﹂という声から事務機販売の
機を導入したくても使える人がい
いを始めていたが、顧客の﹁事務
されたという。その勢いの中、昭
した勢いは﹁藤井帝国主義﹂と称
の関連会社、五つの出張所を設立
間で全国各地に二つの支店と三つ
本リース興発ではバブルの洗礼を
ス関連で輝彰が社長を勤めた西日
中九州︶を設立した。事務機リー
リーセンター中九州︵後のパソナ
ると気付き、昭和 年にテンポラ
20
和 年には年商が 億円を超え、
売上倍増を達成した。
24
受け、平成 年に会社更生法を申
60
全国進出には東京に本社を置く
彰の弟、邦宏は平成3年に本社化
同年に6代目社長を継いだ輝
請したこともあった。
ことが必須と考えた。昭和 年
輝彰は東京支店長の経験から
10
43
48
語った。
︵編集部・佐竹信彦︶
打ち出していきます﹂と、抱負を
私なりの大きなビジョンを明確に
が、次の中期経営計画の策定では
来の予測が難しい大変な時代です
7代目の藤井章生社長は﹁将
えている。
ビジネスも提供し、次世代を見据
きた。紙を離れたソリューション
を伸ばし、バブルもくぐり抜けて
済の上昇と足並みをそろえて業績
売るような総合力を武器に日本経
用紙を文具部門、事務機部門でも
を進め、紙部門が仕入れたコピー
に追い風になり、業績が急上昇。
経常利益は最多の6億5千万円
目の社長に就任した輝彰は第一次
メ イ 藤 井 が 成 立。
に達した。平成元年には関連会
五カ年計画を立て、文章で従業員
き継いだ売上は平成8年度には
利七が昭和 年に急死し、5代
全員に配った。
﹁当時は人手不足
409億円に達していた。
昭和 年から事務機の取り扱
10
延長にオペレーターの派遣業があ
31
拡大と支店の拡充を目指し、 年
画をヒントに、当時の売上を倍に
▲昭和 45 年 11 月に移転した上熊本 1 丁 ▲平成 3 年に竣工した福岡本社
目の熊本本店
億円で引
に悩まされましたが、所得倍増計
35
と粘り強く交渉した。
力し、敷地売却について九州電力
戦後、昭和 年に大阪に出張所
して作らせ、九州各地で無料配
2 事 業 部 2 本 社 制 を 確 立 し た。
28
紙の需要増に乗り、文房具も取り
書店南隣に藤井商店を開業した。
1日、 歳の時に新町の長崎次郎
23
拓をした。
京出張所は 年に支店に昇格し、
50
10
28
熊本市上熊本のレイメイ藤井
全国展開を見通した二つの視点
印 刷 ま で を 一 手 に 引 き 受 け た。
明治 40 年に 2 代目庄次郎が移転した細工町 1 丁目の店舗。土蔵造り
2 階建てで裏には住居もあった。
布したこともあった。
その一方で娯楽の少ない児童の
28
た。 年には社名を藤井株式会社
21
▲ 4 代目の藤井利七社長
▲ 7 代目の藤井章生社長
33
⑧
23