政策研究レポート - 自治体総合政策研究所

政策研究レポート
2010
2010.
10.12.10(No.4
.10(No.44)
1 提 言
日本の
日本の水源が
水源が危ない(
ない(下)
―自治体はどう
自治体はどう対応
はどう対応すべきか
対応すべきか―
すべきか―
2 連 載
市民と
市民と職員のための
職員のための「
のための「自治基本条例読本」
自治基本条例読本」―その 23―
23―
3 時 事
指定管理者の
指定管理者の撤退
―美里町余剰金返還訴訟―
美里町余剰金返還訴訟―
4 コーヒーブレイク
童心庵「
童心庵「夜の紙芝居」
紙芝居」~八角手風琴の
八角手風琴の調べ
自治体総合政策研究所
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提
言
「日本の
日本の水源が
水源が危ない」
ない」(下)
―自治体はどう
自治体はどう対応
はどう対応すべきか
対応すべきか―
すべきか―
自治体総合政策研究所
石井 秀一
3 自治体の
自治体の対応
1)分権時代における自治体の対応の必要性
1)分権時代における自治体の対応の必要性
2008 年の対馬の韓国資本による土地買収問題で、地元自治体(市・県)は、国に対
応を求めるのみで、自らその問題にあたることはなかった。国防に関する問題もある
ので、国の法整備を考えたのだろうが、そうだとしても、分権時代の自治体として未
だ旧態依然とした中央政府による支配の構図から脱却できない、
「お伺い」
・「お願い」
政治のままであるとの批判は、果たして厳しいだろうか。
とくに基礎的自治体である市町村は、分権化によって、住民にもっとも身近な政府
としての役割を果たさなくてはならない。しかし、残念ながら、現実は、自治体職員
の意識、能力において変革が進んでいない状況である。今後、基礎自治体である政府
を支えていくために、自治体職員をはじめ議員においても、従来のように国に頼るの
ではなく、住民の生活を守る「第一の政府」としての意識、気概を持つことが最重要
課題である。
また、その意識を支えていくものとして、職員体制や研修等による能力の向上は必
要不可欠である。そのひとつの能力として「政策法務」能力の問題は、今回のような
外国人の土地取得において、自治体としてどのように対応していくべきかという問題
を喫緊の問題として突きつけられている。
さて、外国人土地取得問題に対応するための基礎・基本的な自治体体制の問題は、
今後の課題として置くとして、国の対応が一向に示されない現在、地域の土地は外国
人資本の脅威に晒されており、現在進行形である。国防の問題は、基本的には国の所
管事項であるが、水資源や環境、防災などといった点から、住民の命と安全、環境を
守るという重要な役目が、自治体には課せられている。
国において、早急な手立てが打ち出されないのなら、権限ある自治体が外国人の土
地取得について法整備をすることは何ら差し支えない。というよりもむしろ、分権時
代の自治体は、国の対応いかんに関わらず、
「第一の政府」として、積極的に住民の福
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祉のために行動を起こすべきである。
2)具体的な自治体の対応
①喫緊の課題と他自治体の動向
2 で述べたとおり、2010 年 3 月に、国土調査法、国土調査促進特別措置法の改正も
あり、地籍調査は費用負担の軽減、民間の調査導入など推進体制が整備された。まず
は、自治体において地籍調査を進めることが、第一である。
第二に、喫緊の課題となっている住民の生命の安全と防災、環境保全等のために外
国人土地取得を規制する法整備を行うことである。
北海道では、道内での森林売買などの土地取引の際には、事前届出を求める独自の
条例を 2011 年度中に制定することにしている。現在、森林などの土地売買は1ヘクタ
ール未満なら届け出の必要がなく実態がつかめない。そこで、1ヘクタール未満の土
地も契約前の届出を求め、問題があれば審査し、知事が勧告するというのである。
「事前届出」によって実態把握はしやすくなるが、
「問題があれば」、知事の「勧告」
というものにどれだけの抑止力、規制力があるのか、現時点では不明である(後述の
国土利用計画法と同様の知事の「勧告」であれば、ほとんど意味がない。
「勧告」とい
う言葉からしておそらく強制力はないと思われる)。「隔靴掻痒」のような条例になら
ないように工夫が必要だろう。
北海道以外の動きとしては、新潟県柏崎市が、12 月議会で「外国資本等による土地
売買等に関する法整備を求める意見書」を採択し、意見書を国に提出する予定である。
柏崎市は、原子力発電所があるため、原発などの重要区域は「外国資本による周辺地
域の土地取得は制限すべきである」として、早急な法整備を国に求めることにしてい
る。
現在のところ、自前の条例で対応しようとしている市町村は皆無のようである。
②東京財団の提言
水問題について研究している東京財団は、「日本の水源林の危機」
(2009 年)
、「グロ
ーバル化する国土資源(土・緑・水)と土地制度の盲点」
(2010 年)という二つの提言
書を報告している。
その中で、「国土利用計画法による売買規制」という提言があった。その内容は次の
とおりである。
我が国には土地売買の法規制は二つあって、一つは農地法、もう一つは、国土利用
計画法である。この現行の国土利用計画法の「監視区域」の考え方を広義にとり、森
林売買に適用することを検討すべきである。
監視区域(事前届出制:第 27 条の 6~9)とは、土地の利用目的と適正価格取引を監
視するため、地価の高騰が見込まれる区域を都道府県が指定するもので、売買契約の
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締結前に届出を行い、価格及び利用目的について問題があれば知事の勧告を受ける。
過去、最も実績の多かった 1993 年には、全国 1,212 市町村において区域指定がなさ
れた。現在では、東京都小笠原村のみが指定されている。
重要なインフラに該当する森林(「重要水源林」)については、今後、地価上昇が見
込まれる区域(監視区域)とみなし、現行の国土利用計画法の考え方を広げていく。
これにより、森林売買の事後届出が事前届出に変わるとともに、価格と利用目的に
ついて、事前に公的セクター(都道府県)のチェックが加わり、規制が進む。
③自治体における条例の制定
③自治体における条例の制定
確かに、こうした提言のように、既存の法規の解釈運用をして事前チェックをする
ことも一つの手法といえる。
しかし、事前届出によって売買を審査し、問題がある場合に該当するとして、知事
が勧告※しても、当事者が勧告に従わない場合はどうなるのか。その場合、勧告に従わ
ない旨及び勧告の内容を公表するに留まるのである。勧告には強制力はなく、罰則等
もない。
つまり、事前に届けていれば、勧告に従わなくても契約は有効であり、土地を取得
できるのである。
※ 知事の勧告等
知事の勧告等
都道府県知事等は、届出の内容が、価格に関する基準、利用目的に関する基準に該当してい
るかどうかを審査し、以下のいずれかに該当し、適正かつ合理的な土地利用を図るために著し
い支障があると認められるときは、土地利用審査会の意見を聴いて、契約締結の中止、予定対
価の引下げ、利用目的の変更等の必要な措置を講ずべきことを勧告することができる。
1.土地価格が著しく適正を欠くこと
2.利用目的が土地利用基本計画などの土地利用に関する計画に適合しないこと
3.公共・公益施設整備の予定、又は周辺の自然環境の保全上不適当なこと
4.一年以内の土地の転売で、投機的取引と認められること
等
法の運用により、
「事前届出」を義務付ける形で、事前のチェックはできるが、結局、
強制力のない「勧告」では、「外国人土地取得」規制という意味では、実効性が乏しい
といえる。また、「国土利用計画法」では、1 ヘクタール未満の土地については、事前
の届を必要としていないので、北海道のように条例でその点を補完する必要がある。
しかし、どちらにしても、最終的に強制力のない「勧告」では意味がない。
やはり、
「外国人土地取得」規制という問題に正面から対応すべきではないだろうか。
この際、条例制定という道も考えてはどうかと思うのである。自らの水源、環境を守
り、そして、災害を含めて住民の命と安全を守るのは、基礎的自治体である「市町村」
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の役割である。
すでに、外国人土地法という法律は制定されている。前述のとおり、政令が制定さ
れていないため、法としての発動がされないだけである。しかし、法律としては外国
人の土地取得を規制するという考え方を打ち出しているので、その趣旨に則り、条例
を制定することは問題がないだろう。
どのような条例にするか。「外国人土地法に基づき、必要なことを定める。」などと
して、地域規制の条項を定める直截な方法もあろうし、住民の生命の安全、環境、防
災等の点を含めた観点からの総合条例の形で、外国人の土地取得を規制する方法もあ
ろう。条例のバリエーションは、いくつかある。
ただ、早急な規制を必要としているので、単一の目的条例として、外国人の土地取
得規制の条例を制定し、のちに総合条例の中に取り込むやり方も考えられる。
条例を作るにあたり、遡及適用のことが問題になる。早急適用の規定を設けるべき
かどうかは、地域の実態にもよる。遡及適用は法的安定性の面から好ましくないが、
住民の生命の源の水の確保と環境保護、防災の観点から「住民の利益になる場合」に
あたるものとして、遡及適用を規定することに問題はないと考える。
そのほか、制定にあたっては、規定の内容によっては、財産権と条例など法的問題、
政策的な問題、法制執務上の問題など、検討すべき問題がある。
4 おわりに
森の水は、樹木や森の生物を育み、やがて地に沁み出した水は川となり、海に注ぐ。
途中、川の魚をはじめ、多くの生物の命を育んでいる。われわれもその中のひとつであ
る。そして、山からの土砂を海に流し込み、浜辺ができる。また、肥えた土壌等の栄養
分を含んだ水は、海辺の生物を育み、食物連鎖の魚たちの餌となる。かくして海は豊饒
となる。
近年、わが国の海浜は消滅の一途をたどっていると指摘されている。三面コンクリー
ト張りの河川工事など、環境、生態系を無視した治水工事によることが原因として上げ
られている。この問題のみならず、これまで、私達は、とくに、行政は「水の循環」を
全体としてみてきたのか、俯瞰した一つの政策体系があったのかという、問いに辿り着
く。
これまで、そうした「水の循環」という政策体系はなかった。縦割り行政の中で、そ
れぞれが、各々の視点において、対応してきたに過ぎない。
「21 世紀は水の時代」である。この「水の循環」を一つの視点として、政策体系を構
築することが、市町村、県、国に今求められている。今回の森への姿なき侵入者の問題
で、こうした「水」の問題に関心が集まったことは大変意義があることである。また、
「日
本人は、水と安全はタダだと思っている。」という正鵠なる指摘を思い出し、水の大切さ
を再確認したのではないだろうか。
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「水の循環」を守り、維持していくためには、森を守らなくてはならない。しかし、
今、森は、所有者の経済的問題、森林事業の不振及び後継者不足、過疎化・高齢化に伴
う森林の荒廃、乱開発(植林放棄(木材資源の乱伐)や採水(地下水の過剰揚水)等。)
、
そのほかに地下水の取水、転売などの多くの問題を抱えている。
外国資本への森林売却を阻止するためには、法整備とともに、今後、公共財として森
林を「公有林化」していくことも考える必要がある。
また、住民等による森林トラスト運動の取り組みも重要である。近年、熊、猪、鹿、
猿などが、人里に餌を求めて降りてくることが話題になっている。異常気象のために木
の実などの餌が不足しているためと分析するが、そもそもが、人間の利益のために森を
改造したことにより、動物達の餌となるべき木や植物が著しく減少したことに起因して
いる。森は、動物が生きていくための領域でもある。そうした配慮も政策の中に生かさ
れなくてはならない。
日本の国土の 7 割は森林である。しかし、近年、前述のなどの様々な要因が重なって、
全体として日本の森は崩壊の傾向にある。つまり、それは、
「水の循環」の崩壊の問題で
もある。
「水の循環」は、前述のとおり上流の山里のみの問題ではない。中流、下流に住む人々
、
にとって、命の水であり、海で漁をする人たちにとっても重要な問題である。つまり、
「そ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
の水の恩恵を受ける流域全体で考えるべき問題」なのである。当該自治体だけでは、森
林保護が財政的には困難である。その不足分は流域全体で支えるという新たな発想が必
要である。森林税の創設など、森と水を守るために、恩恵を受ける流域自治体の財政支
援は必要不可欠である。
近年、声高に叫ばれている道州制のねらいを含んだ広域連合ではなく、こうした「水
の循環」という目的を明確にした自治体の広域連合は大変意義がある。
以上、縷々述べたが、森林売却問題は、住民の生命、安全に直結する問題でもあり、
国や県に任せるのではなく、分権時代における「第一の政府」としての市町村の役割を
果たすべく、条例化を目指すべきである。
外国人の土地取得制限もさることながら、この際、森と水、
「水の循環」という視点か
ら総合条例の制定が望ましい。また、費用負担も含めた流域自治体との広域連携政策の
展開も重要である。
(完)
※
条例制定を検討する自治体様において
条例制定を検討する自治体様において、法的問題、法制執務上等で
様において、法的問題、法制執務上等で、ご
、法的問題、法制執務上等で、ご質問、
、ご質問、
ご相談があれば、HPトップページのアドレス(クリックでメールが開きます。)
よりご連絡ください。
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連
載
市民と職員のための
「自治基本条例読本
自治基本条例読本」
読本」
― その 23 ―
自治体総合政策研究所
石井 秀一
第二章 自治基本条例の
自治基本条例の根本思想
自治基本条例の基本構造の考え方として、「主権」に基づく「信託論」がそのベースにあ
ることは、前章において説明したところです。
しかし、現在、制定されている自治基本条例をみるに、その点が曖昧なものや、
「まちづ
くり条例」に引きずられて法的整合性の欠くものなど、誤った自治基本条例が多く制定さ
れています。
また、市民の皆さんが条例を草案するにあたって、この自治基本条例の根本思想をよく
理解しないまま、他自治体の条例文を比較しながら、条例文言にのみに拘泥し、条文を作
成することが多々あるようです。いわば、「木を見て森を見ず」という形の条例が草案され
ています。
この根本思想は、自治基本条例のバックボーン(背骨)であり、条例の土台となるもの
、、、 、、、、、、
です。ここを良く理解しておかなければ、正しい
正しい「自治基本条例」は策定されません。大
変重要な部分ですので、この章を何度も読んで理解をしていただきたいと思います。
この章では、以下、
「主権と憲法制定権力」、
「政府を創設するという思想」、
「地方自治の
本旨とは何か」、「自治基本条例の最高法規性」について説明をします。おそらく、市民の
皆さんや、行政職員の皆さんは、この章を理解することで、自治基本条例の本質をより深
く理解することができると思います。
1 主権と
主権と憲法制定権力
《「主権」
主権」論の歴史的展開》
歴史的展開》
「主権」の意味を理解する上で、この「主権」という考え方がどのようにして生まれ
てきたのか、歴史的な変遷を知っておくことは、
「主権」という考え方を理解するために
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大変重要なことです。
なお、ここで説明する「主権」は、
「主権」の下記の三つの意味のうち、3 の「政治を
最終的に決定する権限」について説明するものです。
【主権の三つの意味】
1 国民および領土を統治する国家の権力。統治権。
2 国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利。国家主権。
3 国家の政治を最終的に決定する権限。国民主権。人民主権。
1)君主主権から国民主権へ
ア)君主主権
ア)君主主権 ― 神に由来する絶対王政の誕生
最初に主権論を体系的に主張したのは、ボーダン(J.Bodin;仏、1530~96)で
した。ボーダンは、国王の権力が最高の権力であり、その権力は不可分・不可譲で
あるとの君主主権論を展開し、君主国家の理論的根拠を提供しました。
そして、その理論は、「領域内のすべての事柄について、最終的な決定権力をにぎ
る主権者としての王の権威は、それが神に由来するものである」という、いわゆる
「王権神授説」
王権神授説」と結びつき、中世の絶対王政時代の政治理論として定着していきま
す。ルイ 14 世の「朕は国家なり」とは、まさにその考えを体現したものといえます。
、
このように、
「主権」の概念は、神の無過失性と同義の「権威」を国王に与える「
「概
、、、
念装置」として、絶対君主の「独立性・最高性」(主権の「sovereignty」は、「最高
の」
「至上の」という意味の名詞形。)、すなわち、神と同等の絶対権力者としての地
位を確固たるものにしていきます。これにより、中世の封建的多元的支配(「封建国
家」体制)は崩壊し、一元的な統一的支配が確立されることで、
「絶対主義国家」が
形成されていくことになるのです。
イ)ブルジョアジーの興隆と絶対王政に対抗する理論
ブルジョアジーの興隆と絶対王政に対抗する理論
この絶対王政の下で商工業が発展することとなるのですが、しだいに都市の富裕
な商工業者(市民=ブルジョアジー;現代の「市民」とは異なる。)にとって、王権
に支えられた統制と特権が、自らの自由と自律を妨げるものになってきました。
つまり、国王の絶対的な「主権」は、市民の利益を侵害するものとして捉えられ、
これに対抗して、権力(政府)の基礎を人々の「同意」に求める考え方、すなわち、
「社会契約論」が次第に広く受け入れられるようになったのです。
社会契約論は、人は自然状態から社会契約によって政治社会を構成するとする考
え方で、これを理論的に確立したのは 1651 年に「リバイアサン」を発表したホッブ
ズ(Thomas Hobbes;英、1588-1679)でした。
1689 年、王権の絶対性に異を唱えるジョン・ロック(John Locke;英、1632~
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1704)が、「市民政府二論」を発表し、「生命・自由・財産に対する権利は、すべて
の人間に認められているはずのもので、国王の権力によっても、これを奪うことは
できない」と説き、王権の絶対性に反対しました。
また、ロックは、社会契約によって社会を構成した諸個人が多数決によって選ん
だ立法機関に統治を委託することを説きました(信託論)。このロックの考えは近代
民主主義思想の源流を作りました。
ルソー(J.Rousseau;仏、1712~1778)は、
「社会契約論」
(1762 年)において、
「国家は、人々の自由や権利を守るために、約束(契約)によってつくった組織で
ある。政治の権力は、人々がつくったこの約束に基づいて、政治をおこなうことを
預けた力である。国家の最高意思は、全体としての国民の意思に基づくものである」
として、「主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎない」と主張し、
社会契約の考え方に基づいて人民の「主権」を明確に根拠づけました。
これらのロックやルソーの思想は、やがてアメリカ独立宣言やフランス革命の理
論的支柱となっていきます。
ウ)革命による「君主主権」から「国民主権」への変遷
都市の商工業者(ブルジョアジー)は、これらの思想に基づいて、君主主権に対抗し
て、「国民主権」を主張し、権力闘争が展開されました。権力闘争は革命という手段
で成功し、世界は「君主主権」から「国民主権」へと変遷していきます。
アメリカ独立宣言(1776 年)は、
「これらの権利を確保するために人類のあいだに
政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来する。もしこ
れらの目的を毀損(きそん)するものとなった場合には、人民はそれ(政府)を改
廃し、新たな政府を組織する権利を有する」としました。
また、世界で最古の憲法典としての「バージニア権利章典」(1776 年)は、第 2
条において、「すべて権力は人民に存し、したがって人民に由来するものである。行
政官は人民の受託者であり、かつ公僕であって、常に人民に対して責任を負うので
ある。
」としています。
フランス人権宣言(1879 年 8 月 26 日)は、第 3 条において「一切の主権の淵源
は、本来国民に存する。いかなる団体も、いかなる個人も 国民に由来しない権力を
行使することはできない。
」としました。
このように、絶対王政のために考えられた「主権」概念は、
「君主主権」から民主
的要素を基礎とする「国民主権」へとその概念を変えていくわけです。
この「国民主権」の考え方を支えたのは、前述の「社会契約論」であり、現実の
国民と国家社会との間に「契約」という「飛躍」を設定する理論は、近代国家理論
として引き継がれ、今日の現代国家理論に至っています。
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2)国民主権から人民主権へ
)国民主権から人民主権へ
ア)国民主権― 純粋代表制 ― 議会主義
①ブルジョアジーによる「国民主権」の構築
前述したように、ブルジョアジーを中心とした市民階級が、革命によって絶対君
主制を倒しました。しかし、ここにおいて、市民階級か、民衆かという「主権」の
帰趨をめぐる問題が生じて来たのです。
そこで、革命の中心となっていたブルジョアジー(市民階級)は、権力の掌握を
目論み、狭義の「国民主権」を考え出すことになります。つまり、それは、民衆の
力を背景に革命を達成し、新たに権力の座についたブルジョアジー(市民階級)が、
自己の権力を行使、維持するために、革命時に共に戦った民衆を「排除する」もの
でした。
フランスの 1791 年憲法は、
「主権」は国民に属するとしながらも、
「国民は委任に
よってしかそれを行使することができない。」と定めました。すなわち、「すべての
権力は、国民に由来する。国民は、委任によらなければそれらを行使することがで
きない。フランス憲法は代表制をとる。代表は立法府と国王である。
」(第 3 篇前文第
2 条;下線は筆者。)としたのです。
そして、さらに、「県において任命される代表は、特定の県の代表ではなく、全国
民の代表である。代表にはいかなる委任も与えることはできない。」(第 3 篇第 1 章
第 3 節第 7 条;下線は筆者。)として、代表議員の「純粋代表制」、
「命令的委任」の
禁止を定めました。
この「純粋代表制」とは、議員は全国民の代表で、議員は選挙区の利害を離れて
全国的見地から意思を表明するというものです。従って、代表者たる議員は、選挙
区の国民の意思に拘束されず、議員の意思によって決定の判断を下すということを
意味していました。
また、それとは逆に、命令的委任とは、議員が選挙人の意思に拘束されることを
意味し、選挙人の意思に反するときには、議員は選挙人から直接に議員の地位を奪
われる(リコールされる)というものです。
このように、フランスの 1791 年憲法は、これらの「
「純粋代表制」、
「命令的委任の
禁止」を定めることによって、権力の基盤を民衆(国民)に置きながら、民衆の政
禁止」
治参加を排除するという相矛盾する政治的問題を、
「国民(ナシオン)主権」制度を
構築することで克服しようとしたのです。
②国民主権(ナシオン主権)
国民主権(ナシオン主権)
ルソーは、人民主権(プープル主権)論に立って、主権の主体は、具体的に存在
する市民の全体としての「人民」であり、主権はその構成員たる市民に分有されて
いると主張しました。
しかし、上記 1791 年憲法では、「主権」は、ルソーが主張するような具体的に存
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在する市民ではなく、また市民個々にも分有されない、具体的な市民とは別個の、
、、、、、、、
、、、、、、、、、
一つの「観念的な集合体」としての「国民」に不可分的に帰属するという、
「国民主
権(ナシオン主権)
」論に基づくものでした。
この「国民」
(ナシオン)について、なぜ「抽象的な総体」として考えられたのか、
その点の論理構成を以下見ておくことにしましょう。
シェイエスは「第三身分とは何か」において、政治社会の形成過程の第二期(憲
法制定期)について次のように述べています。
すなわち、第二期は、
「結合した人びとは、その団体に永続性を与えたいと考える。
いいかえれば、結合した人びとは、その結合の目的を達成したいと考えるのである。
そのために、人びとはたがいに集合して相談しあい、たがいに公共的な必要を認め
合い、そしてそれを満たす方法を決定する。ここでは、人の見るとおり、権力は公
、、、、、、、、、、、
衆のものである。しかも、その権力の源泉は個人の意思にあり、その個人意思が権
力の不可欠の要素である。」しかし、「個人の意思も、その一つひとつをとりあげれ
、、、、、
ば(その力は)無である。
・・・・意思の結合がなければ、それは一個人の意思を求
、、、、、、、、
め、かつ活動する団体の全体の意思たらしめることは絶対にできない。さらにまた、
、、、、、
この全体の意思は、それが共同の意思でなければ、なんらの権利も与えられないの
である。」(下線、傍点は筆者。
)
つまり、シェイエスは、
「権力の源泉」は「個人の意思」であるとして、一人ひと
りの「個人の意思」に主権の「淵源」があることを明らかにしています。そのまま、
個人個人に主権があるとすれば、ルソーが主張する人民(プープル)主権の考え方
になりますが、ここから、シェイエスは、論理を転換します。
すなわち、
「個人の意思」は、結合しなくては無であり、主権としての力を発揮で
きないとするのです。そして、個々人の結合した意思は、「団体の全体の意思」とな
り、さらに、それは「共同意思」となって、初めて主権が発動するとするのです。
少しややこしいのですが、要するに、シェイエスは、主権の源泉として、
「個人の
意思」を認めるのですが、実体的な主権は、個人ではなく、個々人の結合した意思
である「団体の全体の意思」でもなくて、「共同意思」にあるとするのです。となれ
ば、この「共同意思」とは、誰の意思なのかという疑問が湧くところです。
そこで、さらにシェイエスの考えを明確にするために、1791 年憲法の第 3 篇前文
第 1 条を見てみることにします。
「主権は、単一、不可分、不可譲で、時効にかかることがない。主権は国民(nation)
に属する。人民(peuple)のいかなる部分も、またいかなる個人も、主権の行使を
纂奪することができない。」(第 3 篇前文第 1 条;下線は筆者。)
この条文でまず注意する点は、国民(ナシオン)と人民(プープル)とを明確に
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、、 、
、、 、、、、、、、
区別しているところです。つまり、「国民」は、「人民
「人民」とは異なる存在であるとい
うことです。
条文をつぶさに見ると、主権は、「単一」、「不可分」なものであり、「国民」
(ナシ
オン)に属するとなっています。そうすると、主権が「単一」で、「不可分」である
からには、その主権が帰属する「国民」
(ナシオン)は、それ自身が不可分の性格を
もつ、単一の存在として考えられているということです。
当時の憲法制定議会では、「その個々の構成員を超越する」「不可分の全体」が「国
民」(ナシオン)であると理解されていました。つまり、最初に説明したとおり、具
、、、、、、、
体的に存在する人民ではなく、一つの「観念的な集合体」として、「国民」(ナシオ
ン)を位置づけていたのです。
この「国民」(ナシオン)概念について、もう少し理解が進むよう、後世の学者で
あるラフリエールとカダールの説を補足として紹介しておきます。
ラフリエ-ルは、「国民は、それが基礎を置く諸個人の全体ないし数量的総和であ
、、、、、、、、、、、
る。国民は、不可分で永続的な集合体として、一定の時点にこれを構成する諸個人
、、、、、
とは区別される一個の法人を形成する。」(下線、傍点は筆者。)としています。
また、カダールは、「国民は、真の法的・道徳的・実存的な人格であり、市民を超
越して存在する精神的人格である。市民は国民の一時的な表現手段にすぎない。国民
は市民を越えて存続し、数世紀来市民に先行してきたのである。」(下線は筆者。
)と
します。
というように、国民(ナシオン)は、
「不可分」の、一つの「集合体」であり、
「観
念的」な存在であるということがより良く理解できたと思います。
そうすると、主権者である国民(ナシオン)は、それ自体としては自然的な意思
能力をもたない一般的、抽象的な存在となるわけです。その当然のコロラリー(論
理的帰結)として、国民(ナシオン)は、主権を自ら行使できないということにな
ります。主権を行使するためには、その「行使」を他の機関に委任するしかありま
せん。この主権の「行使」が委任される機関が「国民代表」となるわけです。
シェイエスが言う、
「個人の意思」の結合による「全体の意思」とは、抽象的な総
体意思に過ぎず、何か具体化されたものでもありません。そこに、委任された「国
民代表」が討議によって、
「共同意思」を形成させ、決定(決議)することによって
「全体の意思」
(=国民(ナシオン)の意思)が具現化されるということだったので
した。
つまり、「共同意思」とは、「国民代表」の意思、あるいは「国民代表」の統合さ
れた意思のことであったわけです。
前述のとおり、主権者たる「国民」
(ナシオン)の意思は抽象的にしか存在しえな
いわけですから、「国民代表」は、国民(ナシオン)の意思に拘束されることはあり
ませし、国民(ナシオン)の同意を取りつける必要もありません。ここに、独立し
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た存在として、
「純粋代表」制の「国民代表」が生まれるのです※1)。
言い換えると、一人ひとりの人民はそれ自体としては主権者ではないので、
「国民
代表」は、個々の国民の意思とは独立無関係に「国民意思」を決定できるというこ
ととなったわけです。そして、その抽象的な「国民意思」は、憲法が定める「国民
代表」によって決定されるという「議会主義」
(=議会主権)になっていくわけです。
このように、個々の人民と「国民代表」の間には具体的な選任関係の必要はなく、
また、すべての人民が「国民代表」の選任にかかわる必要もないことから、制限選
挙、間接選挙も「国民主権」に反しないということになりました。
結局、この「国民(ナシオン)主権」論は、
「教養も財産もない」民衆の政治参加
、、、、
を排除し、「教養と財産をもつ市民」(=ブルジョアジー)による支配を、観念的な
、、、、、、、、、、 、、、、、、、、 、、、 、、、、、、、、、
「国民(ナシオン)意思」による支配として「正当化」するものとして機能するこ
ととなったのです。
※1) この考え方を表すものとして、エドモンド・バークのブリストル選挙区演説(1774 年)が
有名である。バークは、命令的委任を否定することによって、身分代表から国民代表へ、つ
まり、身分的利害から解放され、選出母体の利害から解放されて全国民の代表者となるべき
であると演説した。
「有権者の見解は代議員が常に喜んで耳を傾け、常に真剣に考慮すべきかけがえのない貴
重な見解に他ならない。しかし、代表が自己の判断力と良心の最も明白な確信に反してまで
も必ず盲目的盲従的に追従し投票し支持せねばならないという如き権威的指図、委任の行使
なるものは、少なくともこの国の法律の上では前代未聞のものであり、わが国の憲法の秩序
と精神全体の完全な取り違えから生ずる誤解に他ならない。
議会は決して多様な敵対的利害関係を代表する諸使節団から成る会議体ではない。そして
この使節個々人はそれぞれが自己の代表する派閥の利害をその代理人ないし弁護人に対し
て必ず守り抜かねばならないような種類の、会議体ではない。議会は、一つの利害、つまり、
全成員の利害を代表する一つの国民の審議集会に他ならず、したがってここにおいては地方
的目的や局地的偏見ではなく、全体の普遍的理性から結果する普遍的な利益こそが指針とな
るべきものである。諸君は確かに代表を選出するが、一旦諸君が彼を選出した瞬間から、彼
はブリストルの成員ではなく、王国の議会の成員となるのである。
」
イ)人民主権―
人民主権― 半代表制 ― 議会制民主主義
人民の個々具体的な一人ひとりに主権があるという「人民主権」の主張は、市民
革命当時の民衆活動家の基本的な政治信条でした。それは一定年齢の男女に平等の
選挙権を保障する普通選挙等の要求に現れました。しかし、この要求は、前述した
とおり市民革命で権力を握ったブルジョアジーから排除されました。
しかし、「人民主権」の考え方は、市民革命以後の新たな階級対立、すなわち、資
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本家階級 (ブルジョアジー)と労働者階級(プロレタリアート)の対立から生まれた労
働運動を背景として、イギリスのチャーチスト運動※2)(1837 年~1858 年頃)やフ
ランスのパリ・コミューン※3)(1871 年)を支える思想となりました。そして、労働
者階級による生存権・普通選挙権獲得運動において再構築されるのです。
産業革命以後、労働者階級が成熟し、政治に対する意識が高まってくると、民衆
の実際の「国民意思」と国民代表によって決定される「国民意思」との間に隔たり
があることが明らかとなってきます。
つまり、実際の「民意」とは無関係の抽象的な「国民意思」による権力の正当化
は通用しなくなり、実際に存在する民意にもとづく政治(「民主主義」)の要求が高
まってくるわけです。「国民主権」概念は、もっぱら権力の正当化のためのものから
一人ひとりの国民の具体的権利(権限)を含む「人民主権」に変質していくのです。
「人民主権」の考え方は、主権者たる「国民」の意思は、現に存在する人々の具
体的な意思であり、直接民主制あるいは命令委任に基づく代表者によって具体的に
表現されます(命令委任と半代表制)。そして、全国民の具体的な意思を吸い上げる
という意味で、普通選挙制に結びついていくことになるのです。
※2)
1830 年代後半から始まった英国の労働者階級の普通選挙権獲得運動である。
「チャーチス
ト」の名称は、運動の要求書 People's Charter(人民憲章)に由来している。
※3) 普仏戦争により敗北したフランス政府がプロイセンと和平交渉に移ろうとした時、降伏を
認めないパリの民衆が 1871 年 3 月 26 日に蜂起して誕生した革命政府で、労働者階級を主と
する民衆によって樹立された世界最初の社会主義政権である。パリ各区から選出された代議
員によってコミューン(自治政府)を組織した。
しかし、プロイセン軍の支援を受けた政府軍と「血の一週間」といわれる大激戦ののち、
崩壊した。72 日間の短命政権であった。
(つづく)
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時
事
指定管理者の
指定管理者の撤退―美里町余剰金返還
美里町余剰金返還訴訟―
余剰金返還訴訟―
《事件の
事件の概要》
概要》
美里町は、2005 年4月、小牛田町文化会館(現・美里町文化会館)の指定管理者と
して、NPO法人「北日本文化事業協会」を指定し、3 年間の管理委託契約(管理委託
料は年間 3000 万円。)を結んだ。
しかし、指定管理者側は、施設老朽化による修繕要求に町が応じなかったことを理
由に契約を解除すると申し出、契約は 2 年間で解除された。
その際、利用料金、イベント収入などで、計約 773 万円の収益金が指定管理者側に残
った。そこで、町は、それは管理委託契約にかかる「協定書」の余剰金にあたるとして、
返還請求を求めて提訴した。
裁判所は、
「余剰金として返還することまで合意していたと認められない」として町の
訴えを棄却した(平成 22 年 12 月 1 日、仙台地裁古川支部判決)。
《 解
説 》
◎「余剰金」と「
◎「余剰金」と「収益金」
収益金」
町は、協定書に「余剰金は町に帰属する」としており、従って収入と支出の差額の約
773 万円は「余剰金」として返還をすべきだと主張していた。しかし、指定管理者側は、
町文化会館設置管理条例では、「利用料金などは指定管理者の収入」と定められており、
「差額は余剰金ではなく、条例上の収益」であると反論した。
この 733 万円は、
「余剰金」なのか、あるいは「収益金」なのかが争点となっている。
そこで、「余剰金」とは何かが問題となる。一般に、「余剰金」とは、予算から支出を差
し引いた「残金」のことであり、要するに当初予定した予算を使い切れずに残ったお金
のことである。従って、施設の利用料金などは、指定管理者の「収益金」であり、「余剰
金」ではない。
指定管理者側は、予算である管理委託料 3000 万円については、予算額を越えて支出し
、、、、、、、
ているので余剰金の問題はないと反論する。しかし、町は「文化会館の使用料収入を含
、、
めた指定管理者の全体の決算剰余金」(下線、傍点は筆者。)の意味であるとする。
前述した「余剰金」の定義からすれば、指定管理者側の主張が正しく、町の解釈は独
善的曲解といわざるを得ない。
判決も、協定書の規定は「指定管理委託料について規定されたもので、収益について
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のものではない」として、町の主張を退けている。
つまり、使用料収入等は「余剰金」に含まれないとしたのである。常識的で、妥当な
判決であると思われる。
◎未実施の自主事業 500 万円の返還問題
ところで、
「余剰金」の定義の問題は、前述のとおりであるが、美里町議会の議事録を
見るとひとつ疑問点がある。
それは、指定管理の初年度の 17 年度、500 万円の自主事業予算が実施されずに、次年
度に繰り越されたということである。そして、次年度も年間委託料の 3000 万円が支払わ
れた。それ故に、未実施の自主事業分の 500 万円は返還されるべきではないかというこ
とである。
つまり、文化会館の 18 年度予算は、繰越分を含めて、3500 万円の委託料となり、こ
れに余剰が生まれれば(例えば、自主事業を含めて 3200 万円の支出があった場合、余剰
金は 300 万円である。
)、町に返還するという主張は、前提が事実であれば、妥当な考え
方であり、理由があると思われる。
その点の主張は、裁判において十分になされたのだろうか。弁護士もついての訴訟で
あるので、主張したが裁判所に認められなかったということなのだろうか。判決文等詳
細な資料が無いので、この点については不明である。
◎修繕費をめぐる問題
この指定管理の解約問題が生じた発端は、老朽化した施設の修繕をめぐっての話であ
る。自治体側は、小さな修繕費については、例えば 30 万円以下の修繕については、指定
管理者で費用負担をするよう「協定書」で求めているところもある。
しかし、自治体の多くは、施設の老朽化度や将来的なメンテナンス費用など正確な積
算をしないまま、委託料を算定し、というか、この施設の経費をいくらコストダウンさ
せるかという視点から委託料の総枠を定めるため、指定管理者側と施設の修繕費用をめ
ぐって、受託後もめることが多々ある。
美里町も、老朽化した文化会館の修繕等をめぐって、指定管理の解約の問題につなが
ったものである。すなわち、文化会館の指定管理者は、老朽化が進んでいる現状の建物、
設備では、指定管理者として責任ある管理運営、事業の実施ができず、これは、協定書
第5条第1項にある施設の維持補修等に町が取り組んでこなかったためであるとして、
指定管理の解約を申し出たのである。
町では、施設の老朽化を認め、文化会館の大規模改修を考えている旨、指定管理者側
に説明をしてきたが、現実の実行には至らず、解約となったようである。
この修繕費をめぐる問題や、次の「委託料」の問題は、自治体側のコストダウンを重
視した制度運用にその問題点を見い出すところである。
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◎委託料の問題点
委託料や利用料金など指定管理者の収入に関して、自治体側と指定管理者の考え方に
は大きな齟齬があるようである。
近年の財政難から、自治体はコスト削減に躍起である。指定管理者制度は、そのため
の切り札だと考えている節がある(制度導入の第一の目的は住民福祉の向上である。)。
そのため、委託料を年々シーリングにかけるなどして減額を指定管理者に迫ってくるこ
とが多い。
しかし、そうすると、委託料とは何なのかという疑問に突き当たる。
「そもそも、自治
体は、このサービスを市場から購入している。一定のサービスを提供するにあたってど
のくらいの経費、また、どのくらいの利益を指定管理者に与えるのかということについ
て、詳細な計算をまったくといっていいほど考慮した形跡がない」(拙稿「公共分野のア
ウトソーシング―指定管理者制度の課題―」11 頁。政策研究レポート 2007 年 7 月号)。
つまり、修繕費の問題のところで述べたように、自治体側の視点は、施設経費のコス
トダウンに注がれ、その視点から委託料の総枠を考えるからである。それでは、指定管
理者側としては、利益をどこに求めるかという問題に突き当たる。
そもそも、委託料の中にサービスを提供するにあたっての利益部分が含まれていなけ
ればならない。にもかかわらず、毎年、委託料のシーリングをかけるなどは、まったく
指定管理者側の利益を考慮しない、
「官」的発想である。
使用料収入等とは別に、指定管理をする際に、基本料金的に委託料に若干の利益を含
めておくことが重要である。もちろん、人気の施設で、入館料や使用料収入が大きいの
であれば、ある程度の調整を必要とするだろう。
指定管理者側への「利益」等の配慮を欠くと、この市場からの撤退が進み、制度の目
的が失われる。自治体側には、指定管理者との WIN-WIN の関係をどう創り上げてい
くかという視点が必要である。
◎指定管理者制度の実態
指定管理者制度の実態
そもそも、指定管理は、PPP(Public Private Partnership=公民協働)とも呼ばれ
るもので、指定管理者と自治体は対等な関係であり、自治体ではできない質の高いサー
ビスを指定管理者(民間)が提供し、自治体と「協働」して公共サービスを提供するこ
、、
とが、この制度を導入する「
「建前」となっている。
しかし、実態は、発注者と受注者の関係であり、単なるアウトソーシング化している。
そこでは、例えば、生涯学習施設の指定管理者と自治体側との間で、当該施設の生涯学
習の推進に関する政策論争や、新たなイベント・事業の哲学、思想といったものや、そ
、、、、、、、、、、、、、、
れによる住民への効果などが討議されることなく、
「不適切な管理運営がなされない」こ
とだけが、双方の重要な課題となっているのである。
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また、厳しい指摘をするが、自治体、指定管理者側双方に、上記の論争をするほどの
能力は未だ醸成されていない。それ故に、自治体側はコストダウンのみに走り、指定管
理者は、利益優先を考えるという亀裂を生んでいる。かくして、もっともこの制度で利
益を享受しなければならない「住民」は、無視され続けるのである。
《 結
語 》
本件訴訟は、控訴されたかは不明である。しかし、主張の基礎となっている「余剰金」
の町側の定義では、控訴審においても勝ち目は無いだろう。唯一、上記において疑問を
呈した「自主事業の未実施による」残金 500 万円が、平成 18 年度予算においていくばく
か残金として残っており、773 万円の一部となっているとするならば、その部分について
の返還請求は意味があると思われる。
さて、本件は指定管理者側からの老朽施設改善要求に、町が、結果として応じること
ができなかったために、指定管理から撤退されたケースである。しかし、この理由は表
向きの理由であって、指定管理を続けていく上で、これまで町側と様々な軋轢があった
ことが推測される。
上記「解説」において、WIN-WIN の関係の構築をどのようにしていくかという問題
を指摘したが、自治体だけのコストダウンを考えるのではなく、指定管理者の利益にも
適正な配慮をすることが重要である。結局、指定管理に利益的な魅力が無くなれば、参
加する企業等も減り、自治体自らが直営するということにもなりかねない。
また、何よりも、制度導入の一番の目的は、
「住民の福祉」であることを忘れてはなら
ない。この重要な点がないがしろにされて、自治体側のコストダウンだけを主張するの
であるならば、PPPの思想は活かされず、指定管理者制度を導入する意味を失うので
ある。
※
なお、指定管理者制度については、上記拙稿のほか下記のものも併せて参照され
たい。
・「指定管理者制度の問題点」―自治体と指定管理者との思惑の乖離―(「政策研
究レポート」2007 年 11 月 10 日号)
・「『第二ステージ』における指定管理者制度の課題」(「政策研究レポート」2008
年 9 月 10 日号)
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コーヒー
ブレイク
童心庵「
童心庵「夜の紙芝居」
紙芝居」~八角手風琴の
八角手風琴の調べ
名古屋の酒場で、大人向けの紙芝居が静かなブームになっている。その名は、「夜の紙芝
居」である。といっても、変な内容のものではない。いつも同じ場所ではなく、居酒屋さ
んだったり、カフェレストランだったりする。そこへ「紙芝居」の出前をするのだ。
「紙芝居」を演じるのは、宮地直樹(じきじゅ)さん、なんと寺のご住職である。宮地
さんは、若い頃、東京で商社マンとして勤めていた。しかし、夢破れて故郷に戻り住職を
継いだ。檀家回りをする中で、人生に絶望し自殺する人が多いこと聞き、なんとかしたい
と強く思うようになった。そこで、心が疲れた大人達に元気を取り戻すきっかけになれば
と、2003 年から紙芝居を始めたということである。
観客は、仕事を終え、一日の疲れを癒すためにちょっと立ち寄った居酒屋で、ずっと昔
に置き忘れていた、
「幼いころの温かい記憶」や、
「忘れかけた純粋な気持ち」
、それを宮地
さんの「紙芝居」の中に見つけるのである。
仕事に行き詰まったサラリーマン、子供との
会話がうまく行かない父親、認知症の母親の介
護に疲れている娘など、見る人によって受け取
り方はそれぞれだが、みんな忘れていた自分の
心に、「暖かかったころの気持ち」に戻ってい
く。その誘いは、八角手風琴の音色である。
そこには、不思議な「紙芝居」に引き込まれ
た人々が織りなす人間模様がある。
夜は その日についた 他人への嘘と
自分の嘘を
浄化してくれる。
より、自分らしい自分に 戻る時間。
夜に書いたラブレターを
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朝、読み返しては
何度もやぶり捨てた。
幼い頃に よく行った 懐かしいあの場所
そこにもう一度 佇めば 忘れていた何か大切なものが見つかるような気がする。
物語のテーマは、誰もが忘れかけていた子供の時の記憶、ふるさと、家族である。
「言葉のひとつひとつが、ストーリーをつくり、ストーリーが、あなたのフィルターを
通して、あなただけのファンタジーになる。忘れかけていた心地よい場所がきっと見つか
るはずです。
人は疲れたときに、旅に出たり、故郷を想う。それと同じように、精神面においても疲
れたときに行きたくなる場所があるはず、その心の置き場とは、心の故郷。そう、子供心
であると考えます。
見るものすべてに興奮し、怒りも、悲しみも素直に受け入れ、それを表現できたあの頃。
そこに、しばしの時間戻っていただき、明日の糧にしていただきたいのです。」
と、宮地さんのメッセージである。
「夜の紙芝居」は、片意地を張り、建前の中で、四角四面の社会を生き抜こうとしてい
る大人たちに心の癒しを与えているようである。
「営業化された笑い」ではなく、心の底か
ら素直に笑える気持ちのよい「笑い」と、心のすさんだ、ひどい自分に気づいて反省し、
そして「暖かかったころの気持ち」に戻り、癒されるのである。
「夜の紙芝居」は、観客として紙芝居を見ているのではなくて、実は、そのお話の中に、
自分の心をのぞきこんでいるのである。ストーリーは、自分自身のことなのである。
今宵も、入り口の「出迎え提灯」を目当てに、疲れた大人たちが、心を暖めにやってく
る。
会場の入り口にある
会場の入り口にある「出迎え提灯」
ある「出迎え提灯」
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