これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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多摩美術大学大学院
e-mail: [email protected]
平成 16 年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文
2004,Master Thesis,Graduate School of Art and Design,Tama Art University
中国の伝統的住居̶四合院の研究
The Research of Chinese Traditional Residence
趙 30330099
ZHAO
YAN
30330099
博士前期(修士)課程 デザイン専攻 環境デザイン領域
Environment Design Field,Design Course,Master Program
指導教員: 山下 泉
The Professor of Charge:
Izumi Yamashita
目次
第一章
中国建築文化の発展
1 宋代までの四合院住居の形成と発展
2 元代以降の四合院住居の主流地位の確立
3 四合院住居の防御性の形成原因
4 四合院と日本民家の比較
第二章
四合院住居の分類
1 世界の住居建築の分類
2 中国伝統住居の分類
第三章
四合院住居の概説
1 全国範囲における形態の多様性
2 北京四合院の内部構成
3 風水と他の重要な構成要素
3①風水 3②南面の原因 3③中心対称
3④門 3⑤瓦葺き
第四章
四合院住居の特徴
1「院子」の重要性
2 構成原理
第五章
中国現代の状況
1 現代中国の経済状況 (アジアの新経済大国への道)
2 現代国民の生活状況 (部分的小康から全面的小康へ)
3 中国の大家族制度と孝行文化 (大家族から核家族へ)
4 中国の一人っ子政策 (人口爆発から高齢化へ)
5 中国の現在の住居環境 (人間関係の疎遠)
第六章
北京四合院の存在価値
1 社会価値
2 文化価値
3 使用価値
第七章
結論
附:公府建築施工図と実地考察
注
参考文献リスト
第一章 中国建築文化の発展
1 宋代まで四合院住居の形成と発展
中国文明は多くの民族文明を融合したものであり、気が遠くなるほど歴史が古い。早く
は紀元前 2000 年から紀元前 1500 年頃の夏や商の遺跡が出土し、その後の周はすでに史実
の領域に入る。紀元前 221 年に秦の始皇帝が初めて中国を統一し、地方官衙を設けた時に
は官衙の建物はすでに瓦葺きであった。中原におきた古代中国文明は、漢民族を中心にそ
の他の民族文化の融合によって築かれた。漢民族を構成した人達の多くも、周辺の民族が
同化したのではないかと考えられるように、中国文明の成立は漢民族の成立をも意味する
ことなのである。
中国は古来、戦火が頻繁に起こったため、現存する建物は少数の唐代、宋代の寺院や磚
塔を除けば、殆どが明代以降のもので、ましてや秦代、漢代の建物がどんな姿であったか
はよく分からない。しかし当時の彫刻や陶器に残された建物の姿を見る限りは木造で、深
い軒を支える複雑な組み物があり、重層はもちろん、五層の家もあり、四合院を思わせる
町家すらある。
唐代、宋代になると少数の現存する建物と多くの絵画が残されており、更に具体的に建
築の様相を知ることができる。丸柱を礎石の上に立て、組み物を載せて軒を支え、柱の間
は白い壁を塗り、窓や扉をつけ、瓦葺木の屋根は緩く反り返って入母屋の屋根も出現する。
唐代の都、長安では当時は世界一の国際都市であったらしく、中国文化の他に、西域か
ら来る文化に濃厚に彩られていた。宋の頃には唐代まで栄えたシルクロードが衰え、代わ
りに海路のシルクロードが徐々に盛んになる。これはアラビア商人が中近東から中国への
航路を切り開いたためである。宋が滅びて元となり、元が滅びてから明になると、海路の
シルクロードを通じてヨーロッパとの文化の交流はますます盛んになる。中国、特に江南
や華南あたりの町家に南欧などの建築様式や技術が大量に使用されるようになる。
2 元代から四合院住居主流地位の確立
ユーラシアの平原では農耕系である漢民族の社会を遊牧系の波が繰り返し洗ってゆく。
五世紀の騎馬民族大南進によって、中国の黄河流域にある中原の地は席巻され、漢民族は
揚子江流域へと南下させられ、南北朝が形成された。十三世紀のモンゴルと、十七世紀の
清による中国全土の席巻によって、元代と清代の征服王朝の誕生など、繰り返される多民
族の侵入と戦ってゆく過程で、脅威に打ち勝つ方法を見出し、自己を確立していった。万
里の長城は、当時中国農耕文明と遊牧文明の分水嶺として、認識されました。
建築は当然のことながら、その国の自然的風土と社会的風土の条件に基づいて形成され
てゆく。人間が生活する以上、境界線の思想は必ず出てくる。
周知のように、中国の家は分厚い煉瓦の壁が外と内を明確に区切っており、重い扉は空
気まで完全に遮断する。そして道路から重い扉を押して入ったところに「院子」か「天井」
(テンジン)がある。ここはまだ社会的空間の延長で、そこから更に奥の個室に入ると、鍵の
ある個人的空間となる。中国伝統の住宅におけるこうした空間の取り扱いは、黄河流域の
中原に起源をもつ四合院という内庭型(コート・ハウス)住居以来、過酷な環境の中に生
活の場を確保してきた漢民族の発想に帰着するものであろう。
13 世紀のモンゴルによる中国全土の席巻によって、元々中原と北方にあった、壁を囲ま
れる内庭型住居(四合院)が、元代以後江南から華南に至る全国範囲内に急速に普及して
いったと思われる。
四合院の歴史は二千年以上といっても、北京の街自体な「千年の王城」であって、それま
で中国の都は長安、洛陽であった。それ以前の北京は辺境地帯である。現在の都市の原型
が出来たのは元代、つまり十三世紀だった。元代の北京を訪ねているマルコ・ポーロは「東
方見聞録」で大都(北京)建設の経緯と都市の構造につい述べているが、街路や住宅について
はこう語っている。
「街路は真直ぐで、しかも幅が広く、一方の端から他の端を見通すことが出来る。各城門
から反対側の城門が見通せるような具合に整備されている。至るところに立派な宮殿やき
れいな旅館、美しい邸宅がある。大通りの両側にはあらゆる種類の店鋪が軒を列ねている。
邸宅の建てている敷地は全て四角で、直線で区切られており、それぞれの区劃には中庭や
庭園もついた大きな、広々とした宮殿風の建物もある」つまり、四合院の敷地は当初、文字
通り大きな正方形だった。それが明・清時代を経て次第に短冊化して、現在のようになっ
たのである。
3 四合院住居の防御性の形成原因
中国の建築では何よりもまず「守る」ということが全ての始まりである。有史以来、中国
において人間の住環境は絶えず外敵の侵略に備えるため、また北方の中原においては、容
赦ない寒風と砂風を防ぐため、壁を築き、塀をめぐらせて全てを包み込んできた。古くは
新石器時代から房屋群の配置には向心型な構成が見られ、夏代、商代において、すでに堂
屋を東西南北に配し中央に求心的な内庭を構成するという「四郷の制」が整えられていた。
西周の時代には中国で四合院形式の家が出現しており、漢代において殆ど成熟した。その
後今日に至るまで中国民居は壁を立てて堂屋を囲み、その中に「院子」か「天井」を抱いて
きた。
固く厚い土壁を築いて、住居や集落、都市を囲みとることが中国建築の基本的行為であ
った。それは外に備えると共に、領域を明確に宣言し、内を固めることでもあった。
「守る」
という理念から生まれた向心的な平面構成は、中国人にとって理想的な美の構成であろう。
それは建築だけでなく他の領域にも浸透し、伝統的な造型芸術や伝統的紋様、絵画にも向
心的な構成要素が現れている。
4 四合院と日本民家の比較
日本の家は屋内と戸外の空間が流動的であるが、中国の家は壁が四方を仕切り、外界と
厳密に遮断された空間に人間だけの域を作ろうとする。この関係を模式的に示せば(図 )
になる。すなわち座敷を核に、座敷縁濡れ縁庭と、内から外へと拡散してゆく空間
が、静(内)から動(外)へと波動するのが日本の空間である。これに対し、厚い煉瓦で囲まれ
た空間の内側に部屋が並び、その中心に位置する内庭が、外界と接触するために僅かに開
けているのが中国の空間である。
第二章
四合院住居の分類
1 世界の住居建築の分類
世界の住居建築について構法による分類がある。それにより材料、構法の分類を世界各
地に当てはめると、各地域の性格が自ずと示されてくる。例えばヨーロッパは石造と木造
の混合する地域であり、壁体は石、煉瓦による場合が多く、更にヨーロッパ北部では、木
造でも構法は組積式、一体式に近いものもある。日本は広く東南アジアの木造軸組地域に
属し、高床式住居である。したがって現在の中国西南部に暮らす少数民族の住居形式と類
縁性を持つものである。そして地中海沿岸から中国にまで及ぶ一大地域は、古くから幾つ
もの文明の中心地として発達し、宗教的、文化的にも多様であり、各地域の環境、文化状
況によって異なる住居様式を持つものであるが、それらが構造的に組積造であるという点
においては、共通する広大な中央組積造地帯である。中国はこの壮大な地帯の東部におい
て組積造を広く有するものであるが、一方木造の組積造も古くから発達し、その両者を混
在させている。したがって中央組積造地帯の両端において、西のヨーロッパが混在地域で
あると同じように、中国を東南アジアの混合構造地域とみなすことが適切である。
2 中国伝統的住居の分類
事実上中国の伝統的住居は構造により以下の三つに分類できる。
1. 純粋に土、煉瓦による組積造住居の北方中原系。(四合院住居)
2. 木造による軸組造の雲南西南系。(一顆印式三合院住居)
3. 木軸組式の屋を組積式壁体で外から包む混合構造の江南系住居。(天井式四合院住居)
この三類型の住居が、広大な国土と多民族の中国においてどのように混在しているか、
またそのような状態が如何にしてもたらされたかについて以下で簡単に触れておきたい。
中国の住居も三つに大別することができる。一つは北方の典型的な住居で、土間があり、
周囲を堅固な土や煉瓦の壁で囲み、上に屋根をのせた壁型としての住居。北京四合院など
は正にこれに該当し、壁型は同時に内庭型である。もう一つは西南中国の典型的な家屋と
して、柱上に高床と屋根を組み、周囲に壁はないに等しい軽微な屋根型である。雲南省の
西双版納地方のロングハウス(long house)などはその例であり、外庭型が一般的である。黄
砂と北狄の侵入に備えた北方の住居が壁型であり、多雨湿潤と木材に恵まれた南方の住居
が屋根型であった。中国の古い時代において、壁型と屋根型は楊子江をはさんで南北に分
かれていたが、やがて壁型の分布は楊子江を越えて広まり、屋根型は更に西南方に狭めら
れると共に、その間にあって両者の折衷型も存在し始めた。漢民族の楊子江以南への発展
を示すものである。北方の壁型住居では、乾燥した酷寒に対処するために坑(カン)という暖
房具を備えているものが多いが、何よりも平屋建ての家が「院子」を囲み、そこに日が良く
当たることが好まれる。それに対し緯度が下がる楊子江流域から江南においては、強い日
差しを避けるため、中二階のある家、あるいは多層の家によって囲まれ深く狭くなった「天
井」という空の井戸を抱く壁型住居がよく見られる。外部は高い壁によって覆われているが、
内部には各階の高床と軒の出の深い庇を持つ木造軸組式の建物であり、これは壁型をもつ
折衷型としてとらえることができる。圧倒的に多い漢民族の住居形式を単純に壁型、そし
て派生したものを折衷型としてとらえることは難しい。各地域の風土環境に合わせてそれ
らが発展し、展開している状況を更に詳しく見る必要がある。
第三章
四合院住居の概説
1 全国範囲における形態の多様性
四合院住居は、独立した横長方形住居の四棟が中庭である院子を囲むことからこのよう
に呼ばれる。これは三合院住居よりも格式が高い。四合院形式の住居は二千年以上の歴史
を持って中国全土に広く分布し、各地方の自然状況、風俗習慣に応じて多種多様な平面と
立面を生み出している。このため、その規模と内容は、おのずから中国住宅の最も重要な
地位を占めているが、全体的にいえば、対称形の平面と閉鎖型の外観とが、このタイプの
住宅のもつ、二つの主な特徴となっている。ここでは、とりあえず形式と構造によって、
平屋の四合院と二階建て以上の四合院の二種類に分けることにする。またそれを建設し使
用した人々は、富農、地主、商人から支配階級の貴族に至るまで、比較的裕福な経済的地
盤を持ち、一部にはかなり高い政治的地位を占めた人もいた。
平屋の四合院住宅の平面形式は、更に大門が中軸線上に置かれるものと、大門が南東・
北西隅に置かれるものと、二種類の異なった形態に分けることが出来る。前者は大体淮河(ホ
ワイホー)以南の諸省と東北地方に分布している。後者は、北京を中心として、山東、山西、
河南、陜西などの諸省に散在している。なおこのような違いを生じた原因は、過去の封建
制社会における家相方位の迷信が、先天八卦という説の影響をこうむっていたからにすぎ
ない。
2 北京四合院の内部構成
北京市街の大通りから入った胡同は、高い壁に挟まれ、落ち着いた小道である。点々と
置かれた大門を入ると照壁がある。照壁は北方では影壁とも呼ばれ、レリーフ等による装
飾が施され、独自の表情を持っている。大門の前に前院と言う内庭があり、その中央にあ
る垂花門を通り、中央の院子に導かれる。院子を囲んで四棟の堂屋があるので四合院とい
われるが、院子正面の南面する主屋を正堂とし、東西両面に廂房、主屋の対面に倒座と称
する副房を置く。
四合院の各室は使用目的によって区分して使われる。各室は全て「院子」に向けて開口部
を持っている。両妻壁は磚と呼ぶ煉瓦で積まれ、一般的に窓は設けない。寝室の中には一
段高い座があり、暖房設備の坑(カン)とされている。堂屋は祖堂とも言われ、祖先を祭る冠
婚葬祭の場ともなり、常に家の中心にあって家長の座である。日常生活においては客間と
もなり、食堂として使われる。「院子」の四周には回廊をめぐらし、四棟間の連絡をしてい
る。廊の低く深い軒により「院子」と各室の間に奥行きが生まれ、静かな四合院住居のたた
ずまいをもたらしている。やや大型の四合院住居では、正堂の奥に後院を設け、廊をもっ
て後ろの部屋に結ぶ。またより豊かな四合院の場合、主軸を成す住居部に平行して側軸を
設け、庭園を営む園林を併せ持っている。園林の中には書斎・茶室・宴会場等を設け、主
人の非日常生活や接客を楽しむ場所としている。
3 風水と他の重要な構成要素
3① 風水
中国では居住地の適否を判断する基準として、風水地理説と陰陽五行説がある。風水地
理説では、その土地から見た全方位を二十四に分け、各方位に対して吉凶を判断する。山
や水は生気を発し、その気が集まる場所を穴と呼ぶ。気が良ければ住宅の適地であるが、
そうではないと避けるしかない。陰陽説は宇宙が陰と陽の相反する二つの因子で成り立っ
ていると説く。これは昼と夜、男と女、天と地、日と月、夏と冬といった具合に、宇宙の
全てに事象を相反する二つの因子が成す現象と捉える。陰陽を発する唯一絶対を太極と呼
び、陰陽は二つに分けられ、四象となり、更に二つずつに分けられて八卦となる。
また五行説は宇宙の因子を木、火、土、金、水の五つとし、これら五要素が相 し、相
生するととらえる。陰陽説と五行説が合体すると、二
五で十干が生まれ、これに十二支
が組合せられると、六十進法の暦ができる。六十歳を還暦というのは十干十二支の組合せ
が六十年で一廻りして元に戻ることを意味している。
中国の古代都市は皆、陰陽五行、風水地理により選ばれた立地である。小さな町や村、
屋敷や家の構えもこれによってつくられてきた。
陰陽五行、風水地理説によって家の平面形は目、日、口の様に完結形がよいとされ、一
般の家は口型である。日本の状況もおおよそ同じだろうと思われる。奈良や京都の都の造
りかた、古い町、村落の立地、そこでの庄屋の家の位置、長屋門と母屋の関係などは陰陽
風水によって定められている。中国では家と屋敷は一体化して三合院、四合院といった内
庭を取り囲む家であるが、大門は南面し、主棟がこれに正対して南面する理由ははっきり
とある。家が南面する原則性は、中国で紀元前に成立した陰陽五行や風水地理説が普遍す
ることで作り出されたと思われる。
そうすると陰陽五行や風水地理説がなぜ普遍したかを考えなければならなくなる。陰陽
五行説は宇宙の原理性を説いているのであるが、日本では家相の基礎としても知られる。
現代人にはどうにも理解不能の迷信的要素ばかりが目立つが、しかし自然の摂理というこ
とで理解すれば、理解不能とも言えないようである。
3② 南面の原因
南を向いて建つ家の前に稲田が広がっている風景を想像する。これは人間も作物も日照
を享受している図である。南面は暖気をもたらすので歓迎されるが、北風は寒気だから防
がねばならず、農作物にも人間にも、北を背にする姿勢は自然と発生するだろう。皇帝も
南を向くわけで、北は災厄がやってくるといわれる方向である。
南面するということでは、中国の家における家庭精神の中心にあたる堂や祖堂もまた南
面する。祖堂の北壁に長寿福禄を象徴する松、鶴、鹿などの軸をかけて、その下に供案と
いう細いテーブルを置き、そこに祭る道具を飾りつけていた。仏教においては西方が浄土
の世界であるので中国人にとって西を向いて拝むのがよいとされ、仏壇の向きが最良とさ
れている。
3③ 中心対称
古来中国の場合、何かを造るとすれば対称的な形にするのが基本的原則であるように、
大は城郭・宮殿・寺院・廟から小は住居・家具小物まで全て、できるだけ対称的な造形に
して作られている。その理由と時代背景は中国文化の中心となる漢民族の文化が、黄河流
域の中原という厳しい自然環境の中で、人間自身の努力によって築かれたものだからであ
る。古代の中国では神の代わりに聖人を崇拝する。聖人とは古代の聖王堯、舜、禹たちが
崇拝の対象であるが、彼らは人間であり、「治水」という偉業により、常に荒れ狂う黄河の
水害を人間の力によって防ぐことに成功した人たちなのだ。
この人間の力に寄せる信仰が人間至上主義を生んだ。ここから自然と対抗する、人間の
力を賛美する、対称的な形式が生まれた。ちなみに人間の体が左右対称であることも無関
係とは言えないだろう。同じ人間至上主義であったエジプトや古代ロマの神も理想化さ
れた人間であるし、建造物などもシンメトリ(symmetry)、一点中心的な形をとっている。
中国の宮殿は左右対称の平面を採用し、厳しい封建社会の秩序を暗示している。広大な
大陸の君主思想は、四辺を堅固で高い壁で囲い、閉じた空間でのみ実現できると考えたか
らである。中国の寺院も同じく壁と回廊をめぐらせ、均斉に閉じた聖なる世界としてつく
られる。一つの原理だけを認めるとき、中心軸が生じ対称となる。
3④ 門
中国の伝統的理念からすると、門はある領域に出入りする場として厳重に遮蔽すること
ができる。たとえば都市を守るための城門、町や村落を守るための守更楼門、家の大門な
ど、これらの門はいずれも厚く、重い木板製の板戸である。更に板戸の表面に鉄板張りの
堅固な門もあった。中国人にとって門は、開閉可能な城壁か家の壁の一部のようなもので
ある。
3⑤ 瓦葺き
瓦の起源は紀元前七世紀前後で、周の戦国時代の頃と言われる。中国では紀元前の 221
年から紀元前 206 年にかけての秦の時代、瓦はすでにかなり普及していたらしく、地方に
ある官衙でさえも瓦葺きであったと言う。
四合院の住宅に使われている瓦は日本の瓦の四分の一ほどの大きさで、非常に薄く、軽
い。葺き上げた様子は煎餅を重ねたようで、葺き方は垂木の上に平瓦を敷いてから土や漆
喰を載せて、その上に瓦をじかに円弧を上向きに勾配の下方から上方へ向かって重ね流す。
そして目地ごとに漆喰や土を置きながら、その上部に円弧を下向きにかぶせて重ね流す方
法であり、上向きと下向きとは同じ物を使う。
中国宋代の「清明上河図」に描かれた住宅の屋根はすでにこのような瓦を葺いていた。
この軽量化そして量産して低価格化された瓦もまた普及に大きくあずかっているに違いな
い。この瓦の形、薄さは製造が簡単で葺くのも手軽にできる。瓦を流す葺き方も見事に合
理化されている。
四合院の瓦は驚くほど実用性への徹底振りがうかがえる。特殊な形の瓦は生産が難しく
高価であり、一般の住宅では殆ど使えない。ケラバは普通の瓦の下向きになった列で終わ
らせる。軒先が多少贅沢な家では特殊瓦を使うが、普通はそのままで、棟瓦をおくことは
あるが、それさえ普通の瓦を立て、ぎっしり並べるだけですむ。四合院住宅の屋根形は圧
倒的に切妻型で、寄棟や入母屋などが少ないのも瓦葺きの合理化に役立っている。こうし
たつくりによって四合院は素直で素朴で、親しみのある姿に見える。元々民族芸術と言う
のは実用に徹したところに生まれる素朴の美なのであろう。
第四章 四合院住居の特徴
1 「院子」の重要性
四合院住居の多くはこのような構成をしており、漢民族が長い間をかけて作り上げてき
た住居の基本形式である。高い壁をめぐらせ、大門を固く閉じ防御的な環境を作り出して
いる安心感と静謐感であった。そして平屋の堂屋に囲まれた「院子」には、豊かな輝き、穏
やかな風が流れ、大地の自然を感じることができる。各室に「院子」を共有して適度な開放
感と閉鎖感を持って接しながら、日差しを与える方位を持って堂屋の序列性もおのずと感
じられる。「院子」と各室は全体が一つになって有機的に結ばれていることがわかる。「院子」
は単に囲まれて眺める内庭ではなく、屋外の一室として様々な生活に使われている。「院子」
にめぐらされた廊は「院子」と堂屋の間にあってより親密な関係をもたらせているが、何よ
りも「院子」の広さと周辺堂屋の軒高との比例の心地よさ、あるいは僅かに植えられた桐の
木の落とす日陰などにより、好ましい均衡と独特の雰囲気が「院子」にはある。更に堂屋
や回廊の柱、梁、そして開口部に塗られた赤、緑、黒、黄色の彩色が強烈な印象をもたら
した。こうした近世の北方系四合院の個性である屋根や壁、基壇などに見られる瓦、煉瓦、
石の濃密な細部の構成に目が引かれる。
「院子」はそれ自体としては単純な方形を示すもの
であるが、堂屋を挟んで次々と「院子」が連なり、堂が現れるときの空間の変化は四合院
住居のもっとも興味深い展開である。すなわち四合院の魅力はこの院子と堂屋の一体にな
った三合院の形式を次々と奥に広く繰り返し連結していく迷宮性にもある。
2 構成原理
この四合院住居形式の構成原理を整理すると次のように考えられる:
1. 高い壁を持って囲み大門を一つ開ける。
2. 囲壁の中に院子を置き、四辺に堂屋を配して囲む。
3. 院子に面する正房は南面する。
4. 正房から発する中軸線が想定され、建物配置は全て左右対称とする。
5. 各堂室は必ず奇数の柱間を持つ。
6. 院子と堂屋の三合院形式を基本単位として深く広く展開する。
四合院住居の優れた特性は、人々が古くから発展、成熟させ、現在に至る独自の生活秩
序と日常生活に適応した空間として、このように「院子」とそれを囲う堂の一体的な発展
を作り上げ、結集させてきたことである。
第五章 現代中国の状況
1 現代中国の経済状況
(アジアの新経済大国への道)
急速な経済成長を果たしている中国は、13 億人を有する新たな市場として、全世界の注
目を集めている。改革・開放が始まった 1978 年の GDP は 3624 億元にすぎなかったが、
2003 年には約 32.4 倍の 11 兆 6694 億元となり、これまで年平均約 9%成長を経験してき
た。2000 年発表の第 10 次 5 ヵ年計画で、2020 年までに GDP を 2000 年(8 兆 9468 億元)
の 4 倍にする目標が立てられ、そのためには、今後年平均 7.2%程度の経済成長が必要であ
る。達成すれば、現在の日本と同規模の経済大国がアジアに登場する。
2 現代国民の生活状況
(部分的小康から全面的小康へ)
2000 年に国家統計局が算出したところ、全人口の 4 分の 3 が小康レベルに達していると
いう。2001 年の第 16 回共産党大会で、江沢民主席はすでに小康の初期段階が基本的に達
成されていることを認識した上で、2020 年までに「全面的な小康社会」を建設するという目
標を提出した。
近代化の過程で誰もが欲しがる、いわゆる「三種の神器」(中国では「三件」という)は時代
と共に変化する。70 年代の中国では、生活の中でもっと必要とされた「自転車・ミシン・腕
時計」を三件(現在は「老三件」)と呼んだ。この老三件にラジオを加え、「三転一響」といわれ
ることも多かった。80 年代に入ると、三件は、「カラーテレビ・冷蔵庫・洗濯機」を指すよ
うになる。これを「新三件」と言っている。90 年代に入ると、「エアコン・電話・システムコ
ンポ」などが憧れの的となった。また 2000 年前後から「超級三件」という表現が聞かれるよ
うになった。これは、
「パソコン・マイカー・マイホーム」である。
3 中国の大家族制度と孝行文化
(大家族から核家族へ)
中国における理想の家族は、34 世代が同居する大家族である。父親が家長として全て
の決定権を持つといった伝統的な家族の権力構造がある。そもそも、中国伝統社会におい
て、「孝」は非常に重要な徳目である。だから中国の子供はとても親孝行である。
「不孝」は
「万悪の首」と認められる。しかし、経済の発展は、そのような家族関係にも変化を与え
ようとしている。都市部では、経済発展や一人っ子政策に伴い、急速に核家族化が進み、
また、生活水準の急速な向上は親子間の常識の断絶を生んでいる。更に、扶養制度や社会
保障制度は、親子関係に頼ってきた側面を見直すための整備であり、核家族化は大きな問
題となる可能性が高い。
4 中国の一人っ子政策
(人口爆発から高齢化へ)
18 世紀半ばに約 4 億といわれた中国の人口は、中華人民共和国の成立後、医療や公衆衛
生の改善により、死亡率が低下、自然増加率が上昇し、1970 年には年間約 2300 万人増と、
1 年に東京都の 2 倍近い人口が増える状態となった。人口を抑制し、急激な人口増加による
生活水準向上の阻害や食料不足を防ぐため 1979 年に導入されたのが、「独生子女政策」(一
人っ子政策)である。少数民族や双子を除いて原則 1 組の夫婦に子供は 1 人とし、2 人以上
の子供を生んだ場合は高額の罰金や医療金の自己負担、賃金カットなど多くの不利益が与
えられ、都市では役所がこれを管理した。しかし、農村部では労働力確保するため、第 2
子出産は存在する。
この政策は人口抑制に大きな効果を果たした。2002 年の自然増加数は 826 万人、これま
で 3 億の人口を抑制したといわれる。一方で、一人っ子政策は急速な高齢化を生み出した。
2050 年には 014 歳の人口が 19%、1559 歳の人口が 56%、60 以上の人口(筆者はこの
グループ)が 25%になると予想されており、高齢者を社会全体でどう支えていくかが大きな
課題となる。これまで中国では、伝統的に子供が親の面倒を見るという社会習慣が重視さ
れていたため、社会保障は軽視されていたが、今後はその制度的整備が不可欠であろう。
家族の愛情と期待を一身に受けて成長した一人っ子達は、大人になり、一人っ子同士で
結婚し、二人で眼前に広がる超高齢化社会と向き合うこととなる。これは厳しい問題だと
考えている。
5 中国の現在の住居環境
(人間関係の疎遠)
元々、中華人民共和国では住居は個人が買うものではなく、各役所が職員に分配してい
た。そのため、同じ場所に同じ職場の人間がまとまって住むという状況が多かった。しか
し、80 年代になると、政府は住宅改革を進め、マイホーム購入を奨励し、分配制度を廃止
した。もちろん、社会主義中国では、マイホームといっても所有権は存在せず、使用権を
買うのみである。しかし、ここで二つの大きな変化が発生した。一つは、住居を私有財産
とみなすことにより、内装などの住環境を整えるという概念が生まれ、インテリアデザイ
ンという新たな産業が形成されたこと。もう一つは、「社区」という地域別コミュニティ組
織が政府により再編成されたことである。従来は、生活にプライバシーがない反面、人間
関係が緊密であった。ところが、改革・開放の中で核家族が進み、また職場とつながりの
ない住居の購入は、職住分離を進め、各居住地域における住民間の関係を疎遠にした。
第六章 北京四合院の存在価値
1 社会価値
良い社会環境は、物質条件を備える上に、人間の交流要求や帰属意識や安全感なども考
えなければならない。現在の北京は、高層マンションがどんどん増えているが、四合院住
居はまだ存在の価値がある。
『北京四合院』(陸翔 王其明 中国建築工業出版社 1996 年刊)によれば、下表のよう
な調査結果がある。
安全問題
四合院
とても安全
64%
普通
安全感少ない 高層マンション
6%
25% 11% 子供一緒に遊ぶ機会
四合院
よく一緒に遊ぶ
50%
60%
34%
高層マンション
5%
時々一緒に遊ぶ
29%
一緒に遊ぶ機会が少ない
21%
62%
隣人関係
往来頻繁
普通
あんまり往来しない
年寄りの寂しさ
33%
四合院 高層マンション
68%
24%
8%
四合院
よく寂しく感じる
17%
時々寂しく感じる
37%
あんまり寂しくない
46%
16%
84%
高層マンション
71%
総体印象
四合院
高層マンション
32%
28%
普通
38%
39%
あんまり好きではない
30%
33%
とても好き
調査から分かるように、北京で四合院は高層マンションより社会的影響がずっと高いと
考えられている。今の中国は大家族から核家族へ変化するが、一人っ子政策と高齢化の状
況で、将来は再び大家族に戻るかもしれない。四合院住居は、お年寄りにも、子供にも、
良い住まいだからだと思う。
2 文化価値
伝統的な四合院は、北京城の重要な一部として存在している。紫禁城は広大な四合院で、
北京城自体も巨大な四合院である。すなわちある程度まで、北京城と四合院は中国人にと
って、同じようなものと考えられるかもしれない。中華文明の魂として存在している。こ
の四合院の構成や、空間形式や、院落の特徴や、風水理念など、全く昔からの精粋である。
多くの建築家や、設計家は四合院の美意識から、色々なアイディアが浮かぶ。
3 使用価値
今北京に残っている四合院は、半分以上はぼろぼろになったが、今でも重要な住居形式
として使用されている。現中国では、住居といえども国家の建設によるものである。従っ
て、国家財力には限りがあり、今後まだ長期にわたって北京市民の主な住居形式であり続
けるであろう。同時に、昔の名宅は(魯迅故居、郭沫若故居、恭王府等)、博物館や文化展覧
館や、有名な観光地として、国家の保護のもとで使用している。
第七章 結論
もちろん、このような芸術的風格は、かつて支配階級に奉仕するために生み出されたも
のではあるが、それは一方では数知れない工匠たちの苦心の創造の結晶であって、そこに
価値を具えていることを否定することができない。ただ惜しむらくは、全体の配置と細部
の構造・装飾が、かつての封建制社会の色々な政令や習慣に拘束されて、ほぼ一種類の定
型をつくっており、また機能的な面でも、全て平屋を用いるために、場所をとりすぎ、も
はや今日の経済的条件には適合しないことである。たとえ人々を、それに対して強く愛着
をもつように仕向けようとしても、早晩、消滅していく運命は免れないだろう。問題は、
今日の実用性、経済性及び各種の技術的条件という原則にそむくことなく、その長所をい
かに吸収するかであって、融通性のある活用をおこなうことこそ、正しい方法といえよう。
中国の独自の美の規範と言っても古来不変と言うことではない。時代と共に変わってゆ
く。今中国の大都市では、西洋風の建築を建てるために、四合院はたくさん破壊された。
今建てられている都市住居は、以前の住居とは別種のように国際様式化してしまっている。
しかし、果たしてそれは美しいであろうか。
こうした考えから見れば、現在の中国建築界の現状は実に不安を覚える。現代の中国は
長い歴史を持つ伝統的な建築様式から脱却し、大量の国際的な最新、最良の建築を建てて
いる。この現象はある一部の地域で出現しているわけではなく、中国全土で文化の大断裂
を迎えている。
「世界化」と「地域化」は同じような方式で私達を飲み込み、世界文化史上、
最も劇的な一幕を作り出している。中国の建築が市場化と商品化に取り込まれてゆく中で、
私達は度重なる文化の無秩序と無選択性によって「民族伝統建築」を捨て、世界文化の大
断層の中で見失ってしまった。文化はいつでも消費可能なファストフドのようになり、
建築もまたファッションのように時代の流行を追うようになった。欧米の建築が間断なく
中国に上陸し、私達の都市は時空をさまよい、徐々に「家」という親しみが失われている。
しかし熱帯植物が北方では生育できないのと同様に、文化もまたどこにでも発生できる
ものではない。文化というのは、その場所の自然、人文、社会条件のもとに生まれるもの
であり、建築もまたその地の文化を反映しなければならない。よって今日の中国の都市と
建築は中国的な美を持つべきである。ただ単純に伝統様式を模倣するのでもなく、外来文
化を形式的に直接持ち込むのでもない。私達は元々の美意識によって四合院の「趣のある
庭」を創造してきた。そしてこの美意識は私達中国人自身の文化、自己の生活の中にこそ
存在するのである。
附:
公府建築施工図
実地考察
注
シルクロード (古代中国の特産品であった絹がこの道を通り、西アジアを経てヨーロッ パ、北アフリカへもたらされたからいう)中央アジアを横断する東西交通
路に対して名づけた称。絹の道。
遊牧民族 遊牧しながら季節的・周期的に移動する民族。農耕生活を営む定着民族
とは全く異なる文化圏を形成。その住地は農耕の営めない中央アジア・
イラン・アラビアなどの草原・乾燥・半砂漠地帯。文章の中の遊牧民族
とは、特に匈奴、鮮卑、羯、、羌である。
縁側 日本家屋で、座敷の外側の沿う細長い板敷。「椽側」とも書く。
マルコ・ポーロ (Marco Polo 12541324)イタリアの商人で旅行家。ヴェネチアの人。
1270 年末、再度元朝へ行く宝石商の父と叔父に伴われて出発、1274 年フ
ビライに謁して任官、中国各地を見聞、海路インド洋・黒海を経て 1295
年帰国。ポーロが旅の実見と伝聞を語り、ピサのルスライケロが筆記し
た「東方見聞録」は、ヨーロッパ人の東洋観に大きな影響を与えた。
『東方見聞録』 マルコ・ポーロの旅行記。12711295 年中央アジア・中国の紀行で、ジ
パング(日本)に関する記述もあり、ヨーロッパ人の東洋への関心を高
めた。
北京(ペキン) 中華人民共和国の首都。河北省中央部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・
元・明・清の古都で、明代に至り北京と称し、1928 年南京(ナンキン)に
国民政府が成立して北平(ペーピン)と改称、1949 年北京の称に復す。政
治・文化・教育・経済・交通の大中心地。面積 1 万 7 千平方キロメート
ル。人口 1077 万(1995 年)。
胡同(フートン) 四合院の壁と壁の間にできた横丁的な路地。胡同はモンゴル語で「水井」
の意味である
四合院 漢民族の代表的な民家で中国全土に広く分布している。北側に主屋を置
き、その前方左右に向かって脇部屋を置く。南側には門長屋を配する。
この四つの棟が中庭を囲んだ住宅。主屋を正室、脇部屋を廂房あるいは
耳房、門長屋を倒座と呼ぶ。中庭は院子という。
大門 四合院の大門は風水の考えによって東南の隅に設けられている。外部か
ら住宅内に入る唯一の入口。
影壁 門内に立て、内部の建物を門外から覗かせぬようにした一種のしきり。
つまり大門を入って突き当たりにある目隠し壁。盆栽や花が置かれる。
胡同からの視線を防ぐ。「照壁、影屏」とも書く。
軒 垂木を支えるもっとも外側の桁(軒桁または丸桁)から先の部分を軒とい
う
儒学 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一。後漢代に五経
などの経典が権威を持ち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。
六朝・隋・唐代には経典の解釈学に進んだ反面、哲理面で老荘の学や仏
教に一時おくれをとったが、宋代に宋学が興り、特に朱子学による集大
成を見て以後は、清末まで中国思想の主座を占め続けた。 参考文献リスト
翦伯賛 『中国史綱要』 (人民出版社) 1983 年
梁思成 『梁思成文集』 (中国建築工業出版社) 1984 年
劉敦 『劉敦文集』 (中国建築工業出版社) 1984 年
王育民 『中国歴史地理概記』 (人民教育出版社) 1985 年
R・E・PARK 等 『城市社会学』 (華夏出版社) 1987 年
良 『広義建築学』 (精華大学出版社) 1989 年
雲郷 『北京四合院』 (人民日報出版社) 1990 年
陸翔 王其明 『北京四合院』 (中国建築工業出版社) 1996 年
21 世紀中国総研編 『中国情報ハンドブック 2003 年版』 (蒼蒼社) 2003 年
華夏英才基金編 『21 世紀中国大城市居住形態解析』 (天津大学出版社) 2004 年