牛痘種痘法導入期の武蔵国 多摩郡における癌、療による疾病災害

歴史地理学
4
3
1 (
2
0
2
) 47~64
2001
.
1
牛痘種痘法導入期の武蔵国
多摩郡における癌、療による疾病災害
川口
1.はじめに
洋
ている。癌痛による死亡者のなかで数え歳 2
(1)研究の目的
歳までの乳幼児が 30%を占め,これに 1
0歳ま
(
2
) 癌清の病態
での小児を加えると 90%を 超 え る 。 文 化 元
(
3
) 史料
(1 804) 年には 1~5 歳の年齢階層人口 337
(
4
) 研究対象地域の概要
人の 20%が癌清によって死亡した。明治時代
I
I
. 牛痘種痘法の導入・普及過程
に入っても,東京府下における癌癒擢患者が
m
. 癒清神を祭る習俗
2
0
0
0人を超えた明治 2
5(
18
9
2
) 年,同 2
9年
,
(1)年中行事における痘塘神信仰
同3
0年 に お け る 致 命 率 は , そ れ ぞ れ 23%,
ホウソウピマチとカマジメー
29%,34%に達している 3)。牛痘種痘法導入
(
2
) 癌矯擢患者が発生した場合の祈祷法
以前に有効な予防法,治療法のなかった癌塘
N. 中藤村原山における宿清による子供の死
は,乳幼児にとって死亡する危険性の高い恐
亡
るべき伝染病であった。
V. お わ り に
医学史や洋学史の分野では牛痘種痘法を導
入した幕末期における種痘医の活動に関して
4
)
1.はじめに
民俗学などの分野では癒矯神信仰に関し
て5)研究成果の蓄積が進んでいる o しかし,
(1)研究の巨的
衛生統計が整備される以前,癌箔が何時,ど
本稿で取り上げる癌清(天然痘,痘癒,
こで,どのような規模で流行したのか,擢患
s
m
a
l
l
p
o
x
) は,高熱を発し,水泡性の発疹が
者の何割が死亡したのか,痘療が発症すると
顔から四肢に広がることを主症状とする。癒
民衆はどのように対処していたのかといった
矯の病因は天然痘ウィルスである。患者の飛
具体的状況はあまり知られていない。牛痘種
沫によって空気感染することが多く,水泡液
痘法の導入に対する民衆の反応や牛痘種痘法
や清蓋の接触によって感染する場合もみられ
の乳幼児死亡率低下に対する効果などについ
9
7
3年を最後に癌清患者が消
る九日本では1
ても未着手の課題である。
滅した。
他方,痘苗がはじめて日本に輸入された嘉
飛騨国大野郡宮村にある浄土真宗往還寺の
1
8
4
9
) 年は,明治時代以降に連続する
永2(
過去帳の検討結果2
) によれば,明和 8 (
1771
)
持続的人口成長が開始したと推定される時期
年から嘉永 5 (
18
5
2
) 年までの 8
2年間に死亡
に相当する。牛痘種痘法導入期の癌癒による
が確認できる 6
4
8
9人のうち 13%が癌療による
子供の死亡の実態解明は,持続的人口成長が
ものであり,病名が判明する死因の 1
位を占め
どのような状況下で始まり明治時代以降に続
i
ウ
Aτ
斗
くわんのう
うみ
いたのか,という素朴な疑問に接近を図るた
ふ又次の三日を濯膿といふ。膿を
めに必要な課題でもある。
もち後収聖書三日にて功を収むるな
のちかせ
こうおさ
らっか
癌療による疾病災害は,このような未解明
り,されどこのあと落痴三日といふ
の研究課題を含む歴史地理学におけるフロン
ものあり都合十五日をもて痘の
ほうそう
さだまり
ティア領域である。しかし,地震災害,火山
はじめねつなが
定期となす也。初発の熱ノ、長きも有
みちか
災害,気象災害,疾病災害という菊地万雄の
ねっ
おも
る歴史地理学の研究は極めて少ない。 200号
き中に見ゆるものハ重し,
を越える「歴史地理学」誌上において疾病災
齢毒も定期なし。
よどく
害を主題としているのは小林茂の論文 7) 1本
つご協同判
うち
ょの
じゅんしょう
さめて出斉を順症とす。
のり宣
でそろう
区分 6)のなかで,癒癒を含む疾病災害に関す
教⋮:
短きもあり,いづれ二三日にて熱
さだまり
癌療の症状には見点→起脹→潅膿→収唇→
にとどまる。
落痴という 5段階があり,順症の場合には各
研究の障害となっているのは史料の欠如で
3日で一斉に次の段階に移行して合計 1
5日で
ある。先に示した飛騨国高山周辺における寺
治癒する。江戸時代後期の育児書,医学書な
院過去帳などを除くと,江戸時代後期におけ
どにも類似の説明が多し、 8
)。癌痛は特徴のあ
る死因を記録した史料は発見されていない。
る段階的な症状の進行のため,医学的知識に
痘療による疾病災害の実態を復原するには,
乏しい江戸時代の民衆でも診断を誤る可能性
史料の発見と史料分析方法の開発こそ最大の
が少ない伝染病であったと推測される。
課題となる。
癌癒と麻疹は必ず擢る病であり,生命にか
本稿では,武蔵国多摩郡における牛痘種痘
かわる場合も多いため,両方の病に擢ってい
法の導入・普及過程と牛痘種痘法の普及にと
ない子供は子孫のなかに数えることができな
もなう宿清による子供の死亡数の変化につい
いと江戸時代末期の人々は考えていた叱桑
て考察する。主要史料とする陰陽師の日記は,
田立斎によれば,自然痘では 6人に 1人,種
病に苦しむ人々に果たした宗教者の役割を考
痘噴鼻法では 3
0人に 1人 , 種 痘 発 泡 法 で は
えるうえでも貴重である。 N章で子供の死亡
1
0
0人 l
こ 1人,種人痘刺法では 3
0
0人に 1人が
数を日記から整理する前に,宗教者の日記に
死亡したのに対して,牛痘種痘法で死亡した
癌癒の記録が多い理由を明らかにする必要が
者はいない 10)。多摩郡の天領を治めていた江
m章で宗教者がどのように
川太郎左衛門英龍も嘉永 3 (
1850) 年に「癌
して、庖療を防ぎ¥擢患者の安護を祈ったのか
清一般流行致候靭,何様手首致候共平均十分
癌矯神を祭る習俗について検討する。
一者身命ヲ過候ニ付(以下略) J と述べてし、
ある。そのため
るl九牛痘種痘法が普及する以前の民衆, 知
(
2
) 泡磨の病態
識人は,癌癒を生涯に 1度必ず擢患して, 致
葛飾芦庵が文政 7 (
1
8
2
4
) 年に出版した『小
命率の高い疾病と認識していた ω。
児養草全麻疹必用
一名痘疹年代記』
(東京都立中央図書館所蔵)は,植痛の症状
(
3
) 史料
を次のように描写している。
多摩郡における牛痘種痘法導入に関する先
史料 1
行研究の論拠となった史料の多くは,牛痘種
i
王うそう
た
やま
ちが
わずか
痘法の施療,受療に直接関わった当事者によ
一癌清ノ、他の病ひと違ひ僅十二日を
かぎ
る記録ではない ω。先人の業績を顕彰するた
限りとして其十二日を,又四ツにわ
しせつ
まづでそろい
め後世に書かれた史料から,牛痘種痘法導
りて是を四節といふ先出斉迄三日
けんてん
完全ヲ上つ
入・普及期の民衆の対応を含む具体的状況を
を見点、といひ,次の三日を起脹とい
4
8
表1 1
9世紀の多摩郡周辺における日記史料
番号
①
史料名
期間
天保 5 (
18
3
4
)
『指回日記』
明治 4 (
18
71
)
天保 8 (
18
3
7
)
②
『公私日記』
安政 5 (
1
8
5
8
)
天保 7 (
18
3
6
)
③
『小島日記』
18
6
6
)
慶応 2 (
天保 3 (
1
8
3
2
)
④
『本田覚庵日記』
18
6
5
)
冗治 2 (
享保 5 (
17
2
0
)
⑤
『石川│日記』
明治4
5(
19
1
2
)
天明 5 (
17
8
5
)
⑥
『大悲願寺日記』
文化 1
4(
18
1
7
)
文政 4 (
18
21
)
⑦
『瀬沼三左衛門日記』
3(
1
8
3
0
)
文政1
文政1
1(
1
8
2
8
)
③
『諸用日記控』
1
8
6
8
)
慶応 4 (
安政冗 (
1
8
5
4
)
⑨
『里正日誌』
明治 2 (
18
6
9
)
安政 6 (
1
8
5
9
)
⑩
W
f
義三郎日記』
18
6
8
)
慶応 4 (
安政 6 (
18
5
9
)
⑪
『比留間家日記』
慶応 3 (
18
6
7
)
安政 6 (
18
5
9
)
⑫
『市川家日記』
明治 3
0(
18
9
7
)
慶応 2 (
1
8
6
6
)
⑬
『河野清助日記』
慶応 4 (
18
6
8
)
明1
台1
5(
18
8
2
)
⑬
『五十子敬斎日記』
著者
『相津日記』
大正 1
5(
19
2
6
)
明治 1
9(
18
8
6
)
⑬
『牛五郎日記』
19
1
3
)
大正 2 (
文政 9 (
18
2
6
)
⑪
『馬琴日記』
翻刻・編集者
武蔵国多摩郡中藤村
(武蔵村山市)
武蔵村山市教育委員会
鈴木平九郎
(名主)
武蔵国多摩郡柴崎村
(立川市)
立川市教育委員会
小島政則、為政
(名主)
武蔵国多摩郡小野路村
(町回市)
小島日記研究会
本田党庵
(医師)
武蔵国多摩郡谷保村
(国立市)
くにたち図書館
石川家歴代当主
(八王子千人同心)
武蔵国多摩郡上桐回村
(八王子市)
八王子市教育委員会
慈、明、宝明
(住職)
武蔵国多摩郡横沢村
(あきる野市)
五日市郷土館
武蔵国多摩郡宇津木村・江戸
瀬沼三左衛門
八王子市教育委員会
(名主・前回信濃守勝手鮪方用人) (八王子市・千代田区)
中野久次郎
(商人)
武蔵国多摩郡中神村
(昭島市)
昭島市教育委員会
内野杢左衛門
(名主)
武蔵国多摩郡蔵敷村
(東大和市)
東大和市立郷土博物館
黒山儀二郎
(元締)
武議国多摩郡戸倉村
(あきる野市)
あきる野市教育委員会
比留間七重郎
(長百姓・年寄)
武蔵国多摩郡府中新宿
(府中市)
府中市立郷土館
市)
1
1庄右衛門
武蔵国多摩郡小曾木村
(青梅市)
青梅市教育委員会
河野清助
(組頭)
武蔵国多摩郡日野宿
(日野市)
日野市教育委員会
五十子敬斎
武蔵国多摩郡落川村
(日野市)
五十子順造・佐伯弘次
相津菊太郎
武蔵国多摩郡相原村
(相模原市)
相漂栄久
宇岡牛五郎
(助役)
武蔵国多摩郡槍原村
(西多摩郡槍原村)
牛五郎日記研究会
滝沢馬琴
江戸神田明神下向崩町
(千代田区)
輝峻康隆
3(
19
1
0
)
明治4
明治 1
8(
18
8
5
)
⑬
居住地(現在地)
指田摂津正藤詮
(陰陽師)
18
4
9
)
嘉永 2 (
復原することは困難とみられる。そこで本稿
天逝している。婚姻するまで成長した子供は,
では,牛痘種痘法を実際に見聞した民衆が著
羽村に嫁いだ「かね J ,箱根ヶ崎村から妻を
した日記を主要史料とする。
迎えた保十郎,
表 1に示した日記のうち,指田藤詮が著し,
日野宿に嫁いだ「菊」の 3人
である。保十郎(天保 10 (
18
3
9
) 年出生)は,
藤詮の嫡子である保十郎鴻斎が原史料を編集,
医師となり牛痘種痘法の普及に努めた。藤詮
筆写したと推測される①『指回日記~
は明治 4 (
18
71)年 8月 6 日に死亡した。
1
勺
ま
,
1
9世紀中期の日常生活を陰陽師という立場か
天保 1
4(
18
4
3
) 年の f
宗門人別書上帳武
ら描いた貴重な史料である。寛政 7 (
1
7
9
5
)
蔵国多摩郡中藤村佐兵衛組」に百姓伝兵衛(持
年,父福明と母「ふみ J の聞に出生した藤詮
高 1石 8斗余,旦那寺は真言宗真福寺)と記
,
は
, 10才歳下の妻「こう j との聞に男子 3人
録されている藤詮は,漢方医学をはじめとす
女子 5人の子供をもうけた。このうち男子 2
る諸学問を身につけた知識人であり,寺小屋
人,女子 1人は,痘療のため生後 3年以内に
を開いて子弟の教育に携わった。指国家は福
-49
明の代から陰陽師として活動している。天保
属する地域集団と推定される 6
0軒の当主が 3
1
4(
1
8
4
3
) 年 4月 2
8日,土御門家の関八州陰
代にわたって記録されている。この系譜と墓
陽家取締方改役阿川伊予正から藤詮に仮免許
0軒の
石,位牌,伝承などを対比した結果, 6
が下付された。ついで嘉永 6 (
1
8
5
3
)年1
1月
うち絶家と不明分を除いた 5
3軒の子孫が原山
2
3日 摂 津 正 」 と 名 乗 る こ と を 許 さ れ , 免
に居住していたことが判明した。この 6
0軒と
許状を受け取った。
4(
1
8
4
3
) 年の佐兵衛組,源蔵組の「宗
天保 1
「土御門二位晴親卿直伝安家相承霊符口
門人別書上帳 J (武蔵村山市歴史民俗資料館
惇 J (指田和明氏所蔵)には,家内安全,子
1軒が佐兵衛組, 3
6軒
所蔵)を対比すると, 2
孫繁栄,崇りやけがれを払う除災,病気の平
が源蔵組に登録されていた。
癒,安産,風やもぐらの害,噂の防止など多
親類縁者や知人との交流記録と中藤村原山に
様な呪法が記録されている。このなかに癌清
居住する 6
0軒の詳細な生活記録である。
安護の呪法も含まれている o
W
指回日記』は
w
指回日記』は,
1
1
. 牛痘種痘 j
去の導入・普及過程
冠婚葬祭,生業,村でおこった事件など日常
生活の記録であるとともに,陰陽師の業務記
従来の研究によれば,多摩郡で最初に牛痘
録としての性格も持っており,癌癒患者に対
種痘法を導入した人物は,江川英龍の派遣し
して実施した祈祷についても豊富な記述があ
た蘭方医肥田春安 ω,伊東玄朴から分苗を受
る
。
けた八王子の松井玄同 17) あるいは嫡子を伊
東玄朴に入門させていた多摩郡相原村の青木
得庵 18)と推定されてきた。このうち松井玄同,
(
4
) 研究対象地域の概要
青木得庵については,明治時代中期に彼らの
『指回日記』の著者である指田藤詮が居住
した武蔵国多摩郡午、雇村は,狭山丘陵南麓か
子孫が著した史料に基づいて立論されている。
ら武蔵野台地にかけて展開する村高 1
4
9
3石余,
生没年から判断して,史料を書いた松井寅太
市郎右衛門組,源蔵紐,佐兵衛組の 3組に分
郎や青木純造が父親である松井玄同や彼父に
かれる相給村落である 15) 1
9世紀初頭,市郎
あたる青木得庵から直接牛痘種痘法の開始時
右衛門組と佐兵衛組は天領,源蔵組は旗本沼
期を聞き取ったとは考えられない。玄同,得
間氏の知行地であったが文政 6 (
1
8
2
3
) 年沼
庵が比較的早期に牛痘種痘法を始めたことは
間氏が改易されると天領となった。
事実としても,このような史料から施療開始
中藤村は,鍛冶ヶ谷戸,谷ツ,入り(この
時期を特定するのは困難とみられる o 本章で
3集落は内中藤と呼称されている。) ,萩ノ
は,牛痘種痘法を見聞した民衆が残した日記
尾,赤堀,中村,馬場(この 4集落は上中藤
にもとづいて牛痘種痘法の導入・普及過程を
と呼称、されている。) ,神明ヶ谷戸,原山と
検討する。
まず,多摩郡柴崎村名主である鈴木平九郎
いう 9集落から構成されている。上中藤は大
部分が市郎右衛門組に所属しており,曹洞宗
の著した『公私日記』の記事を以下に示す助。
長円寺の檀家が多い。内中藤,神明ヶ谷戸,
史料 2
および原山は,源蔵組,佐兵衛組に所属する
嘉永 3年 2月 3日 八王子玄理療治二而,中
家が大部分を占め,真言宗真福寺の檀家が多
しまたけ之--=:>1..-皇室去ル
い。藤詮の居住する原山は,馬場組,観音寺
乳母附添八王子江往。
2月 6日 中しまかっ壁皇室見舞与
組,橋場組,中組,向組という 5つの差場と
して八王子伊藤氏相越ニ
呼ばれる小地域集団から構成されている。
『指回日記』第 2冊末尾には,指田家の帰
付,芳蔵ため眼病診察相
F町 U
n
u
頼候処,いつれ茂さした
伊藤玄現は,江川英龍が嘉永 3年 2月 2
1日に
る事なきよし也。
触達した「西洋種痘法の告諭」に基づいて領
2月 1
1日 蘭家伝模癒療受療与して
内に派遣された肥田春安より半月以上も早く
徳次郎内相雇駕寵ニ而八
牛痘種痘法を実施している。伊藤玄現,織田
王子伊藤氏江小児さし遣
研斎,貫斎は門人姓名録」に記録されて
ス。中島ニ而もかっ乳女
いる伊藤玄朴の高弟である 20)。彼らが用いた
同道駕億二而小児遣ス。
痘苗は,玄朴から分苗された可能性が高い。
両人共療治受夕刻帰ル。
牛痘種痘法は,史料 2のように「うっし癌癒 J,
「蘭家伝模癌癒 J, 植 癒 癒 J , 種 痘 」 な
2月 1
5日 布田白鳥内当月上旬より
病気之所快気無之ニ付,
ど多様な名称で記録されている。多摩郡に牛
八王子伊東氏相頼今日見
18
4
9
)
痘種痘法が導入された時期は,嘉永 2 (
舞,帰りかけ夜ニ入立寄。
年 7月に出島オランダ商館医である Dr
. Otto
さた模癌清見舞布田も為
G
o
t
ti
!e
bJ
o
h
a
n
n Mohnikeが B
a
t
a
b
i
aから取り寄
差容体茂無之候得共,食
せた痘痴が鍋島藩医楢林宗建によって 3児に
気無之疲出候由也。
接種されてから半年後 21)同年 1
1月中旬に江
戸に住む鍋島藩医伊東玄朴が痘苗を受理して
2月 25日 中島氏ニ而かっ豊重量笹
から 2ヶ月半後のことであった 22)。
湯いわゐ。
3月 8 日 中島内方いのうへ巴屋同
牛痘種痘法の普及に努めた多摩郡の医師を
道八王子玄現老盤皇室受
顕彰するため,明治時代中期以降に書かれた
療往。
文章には村民頑蒙ニシテ群疑百出敢テ人
さた植癒癒受療兼,嘉代
ノ其術ヲ受クルモノナシ J23にあるいは I~牛
八王子往。駕籍児下女善
の如く角が生える』と罵晋雑言至らざるなか
吉女房等合七人也。
ったと言ふ J24)といった民衆の拒絶的態度が
さた盤L
皇室棚祭り立川
強調されている。しかし,表 1の日記には牛
院奉幣。
痘種痘法に否定的な見解は全くみられない。
3月 1
0日
3月 2
0日
3月 2
2日 今日府中社家織田氏ニ市,
導入当初から,子供を連れて約 8kmはなれ
盤皇室療治。当日之由ニ
た八王子や府中まで牛痘種痘法を受けに出か
而下和田迄女人共大勢罷
けた事例までみられる(史料 2) 。子供の腕
越ス。さた痕癒棚下ヶ立
から腕へ痘苗の継代を続けるには民衆の理解
川院招請中島老母相休也。
と協力が不可欠で、あったが,織田研斎,貫斎
18
5
0
) 年から安政 2
は,少なくとも嘉永 3 (
3月2
8日 定宿癒笹湯いわゐ与して
(
18
5
5
) 年まで 5年以上も痘苗の継代を続け
見舞受候所三拾軒ほと赤
飯焼米配り。
た可能性がある(史料 2) 。 牛 痘 種 痘 法 導
入・普及に努めた種痘医が民衆の強し、抵抗を
安政 2年 2月2
3日 八男小八霊童之ため嘉代
つね同道府中織田氏往。
受けたという見解は再検討する必要がある。
表 1の日記から確認できる多摩郡で最も早
次に,
~指回日記』にみられる牛痘種痘法
期に牛痘種痘法を導入した人物は,八王子の
の関連記事を以下に示す。
伊藤玄現(嘉永 3 (
18
5
0
) 年 2月) ,府中六
史料 3 天保 9年 3月 2
5日 水戸屋小児,種
所宮(大国魂神社)禰宜家出身の織田(猿渡)
痘ノ癌療ニテ死ス
O
史料 4 嘉永 3年正月 2
5日 伊之介小児,木
研斎,貫斎(嘉永 3年 3月)である。とくに
phu
下川ニ行テ種痘ヲセシム。
から慶応 2 (1866) 年 10月まで,江戸駿河台
史料 5 嘉永 5年 3月 14日 東隣小児種痘サ
の木村周庵に師事して漢方医学を学び,次い
サ湯。
で,慶応 3 (
1
8
67)年 3月から明治元 (
1
8
6
8
)
史料 6 嘉永 5年 1
1月朔日
中藤谷ツ小児,
年 12月まで,江戸牛天神下の伊東南洋のもと
田口氏小児牛種痘,此辺牛種痘ノ最
で西洋医学,とくに眼科を修得したのち,明
初也。
治2 (
1869) 年から中藤村で開業した折衷医
史料 7 安政 3年 3月 25日 羽村小児種痘ニ
である(指田鴻斎「履歴書 j 明治 6年,指田
ヨリ見舞ニ行。
和明氏蔵)。鴻斎はロシア,
史料 8 文久元年 3月 10s 保十郎八王子ニ
ドイツ,イギリ
スの翻訳医学書から牛痘種痘法を独習して,
行テ種痘ノ針ヲ求ム。
1863) 年から明治 4
修行時代を含む文久 3 (
史料 9 文久元年 3月 12日 保十郎羽村ニ行
(
1871)年まで 9年間にわたって施術してい
ク,種痘ノ事ナリ。
たことが,指田鴻斎「牛種懇願書 J 明治 8年
史料 10 文久元年 3月 18日 昌蔵,保十郎,
(指田和明氏蔵)からも確認できる。
種痘ニ付羽村ニ行。
次にあげる多摩郡小野路村名主である小島
史料 1
1 文久 2年 4月22日 中藤谷ツ七五郎
政則の著した史料 1726),小島為政の残した史
児自然痘清メ。
料 1827)は,医師が牛痘種痘法を実施する具体
史料 12 元治 2年 4月 3 日 保十郎,北野屋
像を示している。
鋪児種痘ニ行。
史料 17
史料 13 慶応 3年 2月 1
1日 なっ種痘。
嘉永 4年 5月 29日 牛蕩植人篤斎。谷戸次右
史料 14 慶応 3年 2月 17日 保十郎,黒須村
衛門娘壱人,東高五郎娘
ニ行キ牛痘ヲ種。
弐人,橋本道助,娘ゆき
史料 15 明治 3年 3月 12日 種痘ヲ始,萩ノ
〆五人。
尾按摩ニユズル。
6月 7 日 相州高座郡上溝村井上篤
史料 16 明治 3年 3月 18日 萩ノ尾按摩ヲ拝
斎与申医師参り,八日目
島村ニ種痘ノタメニ行カシム。
ニ而牛蕩を左之もの江篤
中藤村では嘉永 5 (
1852) 年 1
1月に初めて
也。利平二{卒壱人,中田
牛痘種痘法が導入された(史料 6) 。史料 3
善蔵停弐人,梅吉イ卒壱人,
~5 にみられる
友右衛門娘壱人,勇助娘
f 種痘 J は人痘接種法であり,
史料 4の木下川では庄屋次郎兵衛が施療して
壱人,善助子共弐人,又
いた 25)。牛痘種痘法導入以前に実施されてい
吉娘壱人,孝右衛門子弐
た人痘接種法は,先にあげた桑田立斎の指摘
人
。
のように必ずしも効果的で安全な予防法では
6月 14日 新屋敷甚太郎小児弐人,
なかった(史料 3) 。
新屋敷太蔵小児三人,上
指田保十郎は,文久年間(1861~1863) か
宿八郎兵衛壱人,同友之
ら多摩郡羽村,入間郡北野村,入間郡黒須村
助弐人,同新七壱人,上
といった狭山丘陵周辺の村々で牛痘種痘法の
宿次郎兵衛壱人,瓜生重
普及に努めた(史料 10, 1
2, 1
4
) 。さらに,
兵衛四人,下堤吉五郎壱
中藤村原山に隣接する萩ノ尾の按摩に種痘を
人,大向政右衛門孫壱人,
教え,拝島村にも派遣していた(史料 1
5,1
6
)。
上宿平右衛門弐人,上宿
指田保十郎楕斎は,文久 3 (
1863) 年 3月
与五左衛門壱人,〆拾九
υ
戸内
4
円
切除種痘医の居住地
O
0
~Okm
3
種痘を受けた子供の居住地区
一→移動の方向
海
EE
山地・丘陵
図 1 武蔵国多摩郡における牛痘種痘法の施療・受療行動(1 850~ 1
8
7
0
)
(武蔵村山市教育委員会『指回日記Jl ,1
9
9
4,立川市教育委員会『鈴木平九郎 公私日記 第十三冊
嘉永三年Jl , 1
9
8
0,小島正則「嘉四手記触書,上 J,嘉永 4(
18
51)年,小島資料館所蔵,小島日記
0l
J ,1
9
9
7,くにたち図書館『本田覚庵日記Jl ,1
9
8
9,青梅市教育委員会『市
研究会『小島日記 3
9
9
6,日野市教育委員会『河野清助日記 ーJl, 1
9
9
7,より作成)
川家日記Jl ,1
人。右之通井上篤斎老与
郎右衛門娘三才,佐兵衛
申医師参新宅文右衛門方
男二才,嘉平男七才,同
ニ市移し申候。
三才,女五才,勘兵衛男
史 料 18
四才,幸助男三才,平八
元 治 2年 1月 3日 相原清(省)庵来ル。牛
十六才,〆十三人。
痘人左ニ。米二郎枠壱
相模国高座郡上溝村の井上篤斎は,嘉永 4
(
1851)年 5月 29日
人,清次郎娘弐人。
ら 9日ごとに,多摩郡相原村の青木省庵は元
1月 9日 相原青木省庵来今日種痘
致候もの左ニ。権左衛門
治2 (
1865) 年 1月 3日
女十才,惣兵衛女二才,
を周期として各々自村から約lOk
ml
まなれた
弥五右衛門男三才,小兵
小野路村を訪れ,近隣村落の子供たちまで集
衛女六才,小右衛門九才,
めて牛痘種痘法を実施している。
男四才,新太郎壱人,武
1月 1
5日
6月 7 日
, 15日と 8か
9日
, 15日と 7日
武国製薬杏雨書屋所蔵の楢林宗建『牛痘小
左衛門女三才,図師村
考』嘉永 2 (
18
4
9
) 年,桑問立斎『牛痘発蒙』
琴次郎廿壱才,〆九人。
嘉永 3 (
1850) 年,内藤記念くすり博物館所
米次郎,礼済五郎左衛
蔵の緒方郁蔵訳『散花錦嚢』嘉永 3 (
1850)
門
。
年,本間秦軒『内科秘録
巻十四』慶応 3
寄合。貝取村直二郎娘
(
18
6
7
) 年の接種法を要約すると,①種痘後
二才。小野路村三郎左
6~9 日目に病癌を切開して清澄な痘紫を採
衛門男五才,女八才,弥
取する,②生後 2~3 ヶ月以上の乳幼児を対
兵衛男三才,杢左衛門娘
象として,採取した痘竣を片腕に 5~12 カ所,
四才,紋十郎娘四才,七
ランセットを用いて 1分ほど刺入れる,③種
-53-
痘後に真痘と無発痘,仮(疑)痘を識別して,
して,ここでは知識人層が蘭方医学の吸収に
後者であれば再度種痘するという手順であっ
積極的であった点 30) 種痘医のなかに神主や
た。このような導入・普及期の接種法は,添
陰陽師の子弟がいた点、を指摘するにとどめた
川正夫の指摘のように,種痘を施した小児の
し
、
。
先に述べたように指田保十郎は修学以前か
病癌から人化牛痘襲を採取して植え継ぐ直接
へ
ら翻訳医学書によって牛痘種痘法を独習して
村を訪れた間隔が 7"'9日であったため,
いた。青木芳斎,松井玄同も多くの翻訳医学
人伝牛痘種痘法であったと推測される 2
井上篤斎,青木省庵も,保存した痘痴を水に
書を所蔵していた 3九江戸近郊に位置する多
溶いて刺入する間接人伝牛痘種痘法ではなく,
摩郡では医学書の入手が比較的容易であり,
直接人伝牛痘種痘法を施療していたとみられ
書物を通じて牛痘種痘法の効果も知識人層に
る。絶苗を防ぎ,痘苗の継代を続けるために
浸透していた可能性がある。また,伊東玄朴
0, 1
2, 1
4, 1
7, 1
8のよう
も,種痘医は史料 1
は奥医師に登用されるまで柴崎村名主鈴木
に相当広域におよぶ地域的範囲を定期的,計
家・中島家,小野路村名主小島家をはじめと
画的に往診する必要があった。
する村役人層を頻繁に訪れていたことが確認
八王子の伊藤玄現,府中の織田研斎,貫斎
できる 3九往診のたびに,村役人層に牛痘種
18
5
0
) 年初頭から始めた牛痘種痘
が嘉永 3 (
痘法に関する説明を行い,同行した織田研斎,
0年足らずのうちに中藤村の指田保十
法は, 1
貫斎などの門下生への協力を依頼していた可
郎鴻斎,相原村の青木省庵,相模国高座郡上
能性もある。一方,神主や陰陽師は疾病を含
溝村の井上篤斎,鷹取半斎なども実施するよ
む民衆の多様な相談に対応しており,後述す
うになっていた(図1) 0 医師が自村から約
るように,癌癒擢患者の発生した場合にも祈
10Kmの範囲の村々を往診して施療する場合
祷によって対処していた。とくに織田家が禰
L
宜を務める府中六所宮は,民衆の信仰を集め
子供を連れて約 10Km離れた医師を訪れて
受療する場合がみられた。医師が国境,郡境
た古社である。神主や陰陽師に対する信頼が,
を越えて施療した事例も確認された。
牛痘種痘法普及への協力に繋がった可能性が
このほか八王子の松井玄同,相原村の青木
ある。
8
6
3
) になると,種痘に
文久年間(1861'"1
得庵,青木玄瞳,青木芳斎などが,幕末維新
期に牛痘種痘法を実施していたことが報告さ
よる痘と区別するために「自然痘」という用
れている。伊東玄朴の「門人姓名録」には,
1
) 。牛痘
例がみられるようになった(史料 1
1
8
4
5
)年
多摩郡周辺の門人として,弘化 2 (
,
種痘法を受けた子供のなかには,数え年 2歳
以前に入門したとみられる八王子の秋山佐蔵,
3歳の乳幼児が確認できる(史料 1
8
) 。牛痘
渋谷桂斎,府中の鈴木玄岱,高座郡上溝村の
種痘法の礼金は 1朱から 2朱で、あったため,
1
8
4
9
) 年入門) ,山本文
鈴木玄昌(嘉永 2 (
村役人層の子弟だけでなく,多くの子供が受
18
5
5
) 年入門) ,多摩郡駒木野
孝(安政 2 (
療できるようになったと思われる。 R記から
1
8
5
7
) 年入門)の名
村の山口玄友(安政 4 (
確認できる種痘医の活動に加えて以上の状況
が確認できる 29)。彼らも多摩郡周辺で牛痘種
から,牛痘種痘法が多摩郡の平野部である程
痘法の普及に努めた可能性がある。
度普及した時期は文久年間であったという作
多摩郡では導入当初から多くの人々が牛痘
業仮説を提示したい。
種痘法を受療しただけでなく,自ら医師とな
って普及に努めた人物も現れた。牛痘種痘法
I
I
I
. 癒魔神を祭る習俗
の普及に民衆の理解と協力を得られた背景と
に
υ
1
4
A
w
叫
沢
王戸口
口箔療棚,ささ湯を行った家が確認できる集落
・ カ 7 ジメを行った家が確認で、きる集落
図海
o
.
km
9
皿山地・丘陵
図 2 武蔵国多摩郡における庖癒神を祭る習俗
(表 1 に示した日記の他に,立川市教育委員会『神領・氏子・神社経営関係文書~ , 1
9
9
0,
青梅市郷土博物館『村鏡(上長淵村) ~ , 1964 ,羽村町教育委員会 ~I日下回家住宅調査報告
書~ ,1
9
8
3,光石知恵子「疫病神組り捨ての民俗 J ,桑都民俗 3,1
9
8
3より作成)
した ω。多摩郡中神村福厳寺でも,旧暦 2月
牛痘種痘法が普及する以前,癌清神を祭る
呪術的な手段によって,癌療を防ぎ,患者の
5 日に癌清神を祭って神楽をあげていた列。
安護を祈ったことが知られている。本章では,
これもホウソウビマチと関係の深い癌療神を
従来の研究で明らかにされていなかった信仰
祭る年中行事とみられる。
行事の主催者,信仰行事の分布,牛痘種痘法
指田藤詮は毎年旧暦 12月 21日に指国家のカ
の普及との関係に着目して,多摩郡における
マジメ(竃七五三,竃注連)とし、う行事を行
痘癒神を祭る習俗の実態を復原する
っていた。柴崎村諏訪神社の「明治弐己巳年
O
竃 融 別 帳 鎌 月 よ り 大 神 村 J 35)によれば,諏
(1)年中行事における癌矯神信仰
訪神社でも,旧暦 12月 23日に竃放と称する行
ーホウソウビマチとカマジメー
事を軒別に行い,年神や竃神などと共に癌清
中藤村原山では,ホウソウピマチ(癌清日
神にも注連を供え,お払いをして礼銭を取っ
需,癌清日待)とし、う行事が旧暦正月 9 日か
ていた。竃放の対象は家ごとに異なっており,
ら 2月 1
5日までの時期に毎年 1度,当番の家
機神,八幡宮,山の神,はやり神,水神,稲
を会場として実施されていた。行事の詳細は
荷,松尾宮,竜王,弁天などがみられる。多
『指回日記』に記録されていないが,千葉県
摩郡大神村では, 56軒のなかで癌清神にお払
流山市,印西町,本埜村,印熔村,および松
いをした家は 8軒であった。
戸市における民俗調査報告によれば,毎年 1
多摩郡羽村の下回家では,毎年 12月 16日に
月中旬から 2月上旬に行われるホウソウピマ
松本神社の神主が,大神宮様,歳神様,井戸
チ(ホウソウガミサマ,あるいはホウソウオ
神様,荒神様,山王様,ホウソウ様などに正
ビシャと呼ぶ地域もある)には,女性だけが
月用の幣束を切る「オ先達」としづ行事が行
参加してさんだわら状の円座に赤い幣束を立
なわれていたことが報告されている 36) 12月
てた癌魔神を祭り,小豆飯などの飲食を共に
30日,下回家の戸主がオカマジメと称するこ
-55-
①軽症で治癒した場合
癒橋発症
癌癒棚(払い)
ささ湯(湯流し、湯かけ)
②重症で死亡した場合
癒癒発症
癌搭棚(払い)
山口千度参り、千垢離、観音経 →
赤飯配り
死亡
図 3 癒癒擢患者が発生した場合の祈祷の手順
(武蔵村山市教育委員会『指田日記Jl , 1
9
9
4より作成)
の幣束を飾りつけた。ホウソウ神様には,幣
(
18
31)年 2月,罵琴は孫の太郎と「お次」
束のほかにオソナエ,神酒の口,宝船,お膳
の病が癌療であると判断すると,見点の段階
を元旦に供えた。下回家住宅では,さんだわ
で茜木綿を購入して,頭巾,病衣,手甲を縫
らに幣束を立てたホウソウ神様が,カッテの
わせ,孫たちに着せた。次に,癌矯棚を設け,
へヤ側にある東向きの棚にダルマと並べて置
守札,御符,幣,為朝の紅絵,供物などを祭
かれている。 1
9
8
0年代まで年末のオカマジメ
った。宗教者とみられる根岸伊三郎の守札は
という行事のなかで癌矯神に赤い幣束を受け
柳の枝十二本でできた癌矯棚に,白山権現の
2
0軒,元八王子
神棚に祭った事例が,恩方で 1
守札はさんだわらの癌磨棚にそれぞれ飾った。
で 1軒報告されている 37)。
見舞客は張子達磨,車付鯛などの玩具のほか
諏訪神社の「竃赦別帳」や下回家などに残
に,赤落雁,煉羊糞といった紅菓子,魚など
る習俗から,中藤村においてもカマジメとい
を土産とした。太郎お次」ともに軽症で
う年中行事のなかで癌癒神にも祈祷が捧げら
治癒すると,酒湯を行い,癌癒棚を撤去して,
れた可能性が高い。陰陽師である指田藤詮,
守札などを白山権現,根岸氏に納めている。
諏訪神社や松本神社の神主のほかに,多摩郡
最後に,酒湯祝儀として赤飯を配り,太郎と
横沢村にある真言宗大悲願寺,多摩郡上桝田
「お次」の父親である宗伯が小石川伝通院寺
村の真言宗高楽寺,柴崎村では修験山伏の立
内沢蔵主稲荷と菩提寺である深光寺に参詣し
)
1
1院が毎年 1
2月にカマジメを行っていた。指
た。滝沢家の家業は売薬であり,父親である
田藤詮は牛痘種痘法の導入後も最晩年の明治
宗伯は松前志摩守の侍医を勤める医者であっ
3年までホウソウビ、マチ,カマジメを続けた。
たにもかかわらず,丸薬,熊肝,煎薬の投薬
カマジメは 1
8世紀後半から 1
9世紀の多摩郡全
と図 3と酷似した手順の祈祷を併用して癌療
域で確認できる(図 2) 。
に対処していた。
次に,柴崎村諏訪神社の癌療に対する祈祷
(
2
) 痘癒擢患者が発生した場合の祈祷法
を史料 1
940)に,柴崎村の名主である鈴木平九
痘清擢患者が発生した場合,指田藤詮は図
郎家に招かれた立川院という修験山伏の対処
3の手順で、祈祷を行った。癌療棚,ささ湯,
041)に,上柄田村の八王子千人同心
法を史料 2
山口千度参り,千垢離,および観音経は陰陽
である石川喜兵衛家に招かれた真言宗高楽寺
師が中心となって実施された 3九 癌 清 棚 を 設
142)に示す。
住職の祈祷法を史料 2
けてからささ湯を行うまでの期間は,およそ
9
史料 1
7日から 1
0日であった。史料 1に示した 5段
文化 1
2年亥 1
2月 2
0日
階のなかで,見点、から起脹の段階で癒矯棚を
当年六才癌清棚祭
井上豊次郎。
設け,落痴の時期以降にささ湯を行ったと推
同
測される。
2
4日 笹 湯 流 神 事 。
史料 2
0
抱癒に擢患した子供の病状を刻銘に記録し
天保 1
3年 1
2月 1
4日 三男準蔵癒清初熱より五
た史料として,江戸神国明神下同服町に居住
日目ニ而相発熱気さめ候
した滝沢馬琴の日記がある
事
。
。天保 2
3
9
)
F同 U
ハ
hU
1
2月1
9日 三男準蔵痘清九日目ニ付
I
V
. 中藤村原山における癌嬉による子供の
立川院控請棚祭リ。
死亡
1
2月2
2日 準蔵痘矯棚下/レ立川院執
本章では,
事
。
~指田日記』に記録されている
死亡記事,痘癒安護の祈祷に関する記事から,
1
2月2
6日 準蔵笹湯いわゐ,ため産
家明ニ付見舞受候。所々
中藤村原山における子供の死亡数,癌癒擢患
江赤飯焼米配リ,立川院,
者数,癌箔による子供の死亡数を復原する。
中嶋,井上里親,産婆等
原山におけるすべての癌療援患者,死亡者が
相招候事。
『指回日記』に記録されているか確認するこ
史料2
1
とはできないが,陰陽師を含む宗教者は祈祷
明和 9年 3月2
5日 比日よりおとめほうそう
を通じて子供の看護に直接関わっており,子
に取付。
供の教育に熱心に取り組んだ指田藤詮は癌療
3月2
9日 夜ニ入ほうそう棚ニ,高
について詳細な記録を残している。
子供の死亡数,痘癒擢患者数,および癌癒
楽寺様御出ほうそう棚致
による子供の死亡数は,以下の手順で集計し
申候。
た。①死亡年齢が 1
5歳以下の者,あるいは f善
4月 6 日 高楽寺御出ほうそう湯か
け。ほうそう九死一生。
兵衛小児死」のように当主との続き柄が小児,
史料 1
9,20,2
1の痘猪患者に対する祈祷の
子息,嫡,娘,女,孫などと記されていて,
手順は図 3と酷似している。したがって,陰
死因が癒療と明記されていない者を癒猪以外
陽師,神主,修験山伏,真言宗僧侶は,類似
の死因による子供の死亡とした。②祈祷など
した手順の祈祷によって癌癒患者に対処して
から癌療に権患したことが明らかで,しかも
いたと推測される。柴崎村名主鈴木家では修
死亡記録のない者を痘癒に擢患したが死亡し
験山伏立川院を招いて癌癒棚を祭っているが,
なかった子供と判断した。 @ r忠蔵二男癌癒
村内にある諏訪神社も痘癒棚祈願を行ってい
ニテ死」のように死因が癌癒であることが明
た。先に示した滝沢家では,白山権現と根岸
記されている者を癌請による子供の死亡とし
種類
伊三郎から守札を受け,様式の異なる 2
た。④①
の癌癒棚に祭っていた。陰陽師,修験山伏,
に述べた『指回日記』に記録されている 60軒
神主,真言宗僧侶などの宗教者は,癌癒安護
の 3代にわたる当主の名前などと照合して一
の験を競って競合していたとみられる。
致した者を中藤村原山の居住者と判断した。
③のなかで当主の名前や屋号を先
図 3の手順で祈祷を受けていたのは,平百
⑤①,③については死亡年月日,②の場合は
姓,組頭,名主,八王子千人同心,町人だけ
痘療棚を行った年月日を!日暦から新暦に換算
でなく,大名 43)や将軍家 44)f
こまでおよんでい
した。
た。史料 2のように,牛痘種痘法と癌癒棚,
中藤村原山において癌清患者が 1
0人を越え
ささ湯は併用されていた。牛痘種痘法導入後
た年は 1
8
3
6,1
8
4
0, 1
8
4
3, 1
8
4
5, 1
8
5
0, 1
8
5
6
も指田藤詮は癌癒患者が発生すると図 3の手
年
, 1
5人を越えた年は 1
8
4
0,1
8
4
3年であった
(
図 4)
順で祈祷を続けていた。癌清棚を設け,ささ
0
1
8
4
0年には 1月から 7月まで, 1
8
4
3
湯を行って癌箔神を祭る習俗は, 1
8世紀後期
年には 4月から 1
2月まで断続的に癌癒擢患者
から 1
9世紀前期の多摩郡全域で確認される
が発生している。多摩郡平野部に牛痘種痘法
(
図 2) 。
がある程度普及したと推定した文久年間
(
18
6
1~ 1
8
6
3
) 以降,癌痛の患者が 1
0人を超
-57-
抱療羅患者数
2
0
量二宿療権患者
泡療による死亡者
1
5
1
0
5
。
図 4 武蔵国多摩郡中藤村原山における癌療穣患者数 (1834~ 1
8
71
)
(武蔵村山市教育委員会『指回日記jJ,1
9
9
4,武蔵村山市立歴史民俗資料館『村の知識人 指田家三
9
9
9より作成)
代の資料jJ,1
える年はみられなくなる。 1
8
3
6年から 1
8
5
6年
支炎,胃腸炎,結核といった季節性の顕著な
まで,痘清はほぼ 5年周期で流行していた。
疾病 47)と比較すると,癌療の季節性は緩やか
臨済宗建長寺派の下石原宿源正寺,
日野宿
であったと判断できる。
宝泉寺,打越村梅堂寺,川崎村宗禅寺,羽村
8
3
4年から牛痘種痘法が
中藤村原山では, 1
一峰院,および千ヶ瀬村宗建寺の過去帳によ
導入された 1
8
5
2年末までの期間における子供
れば, 1
8
4
3年における数え年 1
5歳未満とみら
8
5
3年から 1
8
7
1年
の死亡者90人のうち 52%, 1
れる子供の死亡数が平常年を大きく上回って
までの期間における子供の死亡者 40人のうち
いる 45)。したがって,現在の府中市から武蔵
25%が癌磨による死亡であった(図 6)。癌
村山市, 日野市,八王子市,羽村町,青梅市
麿以外の死因としては,癌癒後の余病・衰弱,
におよぶ広範囲で 1
8
4
3年に癌靖が流行した可
死産,流産,堕胎,事故死,溺死,焼死,痢
能性が高い。 1
8
4
3年の中藤村住民の生活交渉
病,疫病などがみられる。 1
8
3
4年から 1
8
5
2年
空間は,狭山丘陵周辺の近隣地域を遥かに越
までの期間における癌癒権患者99人のうち
えて,江戸,青梅,五日市,秩父, 日光,富
47%, 1
8
5
3年から 1
8
7
1年までの癌清擢患者 2
6
士山,伊豆,真岡に及んで、いた(図 5) 。飛
人のうち 38%が死亡した(図 4) 。癌療権患
沫による空気感染と水泡液や塘蓋の接触によ
者,癌矯による死亡者,および子供の死亡者
って感染する癌清の伝染経路は,民衆の生活
8
5
2年末を境として急激に減少している。
は
, 1
『指回日記』に記録された 1
8
5
3年以降の癌
交渉空間と密接な関係があったと思われる。
中藤村原山で癌癒擢患者が比較的多かった
のは 4月
6月
清擢患者と死亡に関する記事の減少要因とし
7月であり,癌靖患者が少
て,以下の可能性があげられる。①牛痘種痘
なかった月は 9月
, 1
0月
, 1
1月であった(表
法の効果により癌癒擢患と死亡者が減少した。
2
) 。高良斎も Dr
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pF
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a
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zv
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b
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(こ
②偶然にも 1
8
5
3年から 1
8
7
1年の期間に癌療が
提出した「日本疾病志」のなかで,小児痘癒
流行しなかったため,癌清 J
擢患者が減少した。
あるいは麻疹の流行は冬に始まり,春の間多
③痕矯擢患者は減少しなかったが,村内に居
く,夏に減ると報告している岨)。肺炎・気管
住していた修験山伏の常宝院,大行院,神明
-58-
時
副
長
0所 沢
。
*武蔵国多摩郡中藤村
.中藤村を訪れた人々の出身地 (5~7 人)
•
(2~4 人)
(
1人)
•
O 中藤村の住民が訪れた集落 (2~4 人)
o
(
1人)
図海
凹山地・丘陵
0
~Okm
5
図 5 武蔵国多摩郡中藤村における生活交渉空間(18
4
3
)
.図の範囲外から秩父の人が中藤村を訪れたことが確認できる。
-富士山,豆州温泉,日光,下野国真岡といった図の範囲外を訪れた中藤村の住民が確認できる。
9
9
4より作成)
(武蔵村山市教育委員会『指回日記Jl, 1
表 2 武蔵国多摩郡中藤村原山における癌療の季節性 (1834~18 71l
1月
癌濯による死亡数
癌癒擢患者数
5
7
2
1
1
7
1
9
1
0
8
1
2
6
1
4
1
3
2
7
2
4
6
8
3
n吋 u
死亡数
2
0人
宿矯以外の死因
比二による死亡者
宿癒による死亡者
1
5
1
0
5
。
1
8
3
5
1
8
4
0
1
8
4
5
1
8
5
0
1
8
5
5
1
8
6
0
1
8
6
5
1
8
7
0
図 6 武蔵国多摩郡中藤村原山における子供の死亡(l 834~ 1
8
7
1
)
(武蔵村山市教育委員会『指回日記Jl , 1
9
9
4,武蔵村山市立歴史民俗資料館『村の知識人
9
9
9より作成
家三代の資料Jl , 1
指田
QJ
汁ザ
一
の
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7
1
0
(武蔵村山市教育委員会『指回日記Jl, 1
9
9
4,武蔵村山市立歴史民俗資料館『村の知識人
より作成)
1
2月 合 計
5
7
5
2
2
7
。
1
1月
nwd
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2
R
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0
F
6
つUE
1
4
帽 叫 玄n1
1
0月
8
-nnd
9月
6
,
1.
・
8月
3
4月
8一
資
7月
4
3月
一
家
一
一
回
合計
6月
5
2月
指
4一
(死亡者を除く)
5月
3
ハ同υ
z
u
社の神主,真言宗真福寺の僧侶などの宗教者
が牛痘種痘法を導入した。中藤村で最初に牛
との競合に敗れたため,藤設への癌癒安護の
痘種痘法の受療者が記録されたのは,嘉永 5
祈祷依頼が減少した。@死亡者,癌癒擢患者,
(
18
5
2
) 年1
1月であった。指田藤詮の嫡子保
および祈祷依頼は減少しなかったが,藤詮が
18
6
3
) 年から牛痘種痘
十郎鳩斎は,文久 3 (
死亡などを『指回日記』に記録しなくなった。
法の普及に努めた。幕末期の牛痘種痘法は直
先に述べたように,中藤村原山では 1836年
接人伝牛痘種痘法であったため,医師は相当
から 1856年までほぼ 5年周期で癌癒が流行し
広域におよぶ地域的範囲で施療していた。文
たことが確認できる。指田保十郎が牛痘種痘
久年間(18
6
1~ 1
8
6
3
) 以降,牛痘種痘法は多
法の施療を始め,多摩郡平野部で牛痘種痘法
摩郡の平野部である程度普及したとみられる。
がある程度普及したと推定される文久年間
指田藤詮はホウソウピマチとカマジメとい
(
1861~ 1
8
6
3
) 以降,中藤村原山で癌癒擢患
う年中行事を通じて癌矯神を祭っていた。癌
0人を超えた年はみられなくなる。その
者が 1
癒の患者が発生した場合には,一定の手順に
ため,②のように牛痘種痘法の普及とは無関
8世紀後期から
従って祈祷が行われていた。 1
係に, 1
0年以上にわたって癌痛が流行しなか
1
9世紀の多摩郡全域において,陰陽師,真言
ったとは考えにくい。また, 1853年以降,健
宗僧侶,神主,修験山伏が酷似した癒椿神を
康状態の悪化,強力な宗教者の出現といった
祭る祈祷を行っていた。これらの信仰行事は
藤詮への祈祷依頼が減少する理由を『指田日
牛痘種痘法と併用されて続けられた。
記』から読み取ることはできない。逆に,指
中藤村原山では 1836年から 1856年を最後と
田藤詮は 1853年末に土御門家から陰陽師の免
して,ほぽ 5年周期で癌痛が流行した。なか
許証を受け取り,摂津正の名乗りを許されて
でも 1843年には多摩郡北部を中心として相当
いる。そのため,③のように他の宗教者との
広域におよぶ地域的範囲で癒癒が流行し,多
競合に敗れて祈祷依頼が減少したとも考えに
くの子供が死亡したと推測できる。牛痘種痘
くい。さらに,藤詮は 1853年以降も寺子屋を
法が導入された嘉永 5 (
18
5
2
) 年1
1月以降,
継続している。藤詮の墓の台石には「筆弟中 j
痘療による子供の死亡数は急速に減少した。
と彫られており,門弟一聞が感謝を込めて墓
すなわち,牛痘種痘法が普及した結果,癌清
石を贈ったと思われる。子供の教育に極めて
による子供の死亡数が減少したと解釈できる。
熱心であった藤詮が,④のように村の子供の
現在のところ,牛痘種痘法普及にともなう
死亡や癌清擢患者を日記に記録しなくなった
痘清による子供の死亡数について比較検討す
とも考えにくい。牛痘種痘法が普及した結果,
べき事例は皆無である。そのため本稿は素描
1853年以降,中藤村原山における癌搭擢患者
の段階にとどまり,未解決の研究課題は多い。
第一に,中藤村原山における年齢階層別の
が減少していったと筆者は考えている。
癌癒擢患率,致死率,致命率は算出できなか
v
. おわりに
った。~指田日記』の記録が原山における庖
本稿では, 1
9世紀の多摩郡における民衆が
癒擢患者,死亡者の全数であるのか確認でき
著した日記を主要史料として,牛痘種痘法の
ないうえに,癌清に穣患する可能性のある年
導入・普及過程,癌療神を祭る習俗,および
齢階層人口が不明であったためである。原山
癌矯による子供の死亡数について検討した。
6
0軒の約半数が所属する源蔵組の「宗門人別
結果を再言すると以下のように要約できる。
喜 上 帳 」 は , 天 保 14 (
1843) 年 か ら 文 久 4
多摩郡では,嘉永 3 (
18
5
0
) 年 2月に八王
子の伊藤玄現
(
18
6
4
) 年までの 2
2年間にわたって継年的に
3月に府中の織田研斎,貫斎
保存されている。したがって,
-60
~指回日記』
と「宗門人別書上帳」を比較対照することに
武蔵村山市立歴史民俗資料館,宗禅寺,指田和
よって,年齢階層別の痘矯擢患率などの指標
明氏をはじめ,史料閲覧や現地調査にご協力いた
を求めることができると思われる。牛痘種痘
だいた方々にお礼申し上げます。
法の普及にともない癌清による致死率や乳幼
〔
注
〕
児死亡率が幕末期から低下を始めたことが検
1)酒井シズ『日本疾病史 L 放送大学教育振興会,
証されれば,わが国における人口転換をめぐ
1
9
9
3,9
4頁
。
る議論に一石を投じることができると予測さ
2
) 須田圭三『主要業績集 L 医療法人生仁会須田
れる。
9
8
7, 112~118 頁。このほかに往還寺の
病院, 1
過去帳を利用した癒清の研究として,須田圭三
第二に,癌療の伝染経路や痘清が流行した
『飛騨O寺院過去帳の研究 1 ,医療法人生仁会
地域的範囲についても未解明のまま残された。
9
7
3。須田圭三『飛騨の癒清史ー
須田病院, 1
両 者 は , 中 藤 村 原 山 で ほ ぼ 5年 ご と に 癌 療 の
撲滅されたものへの挽歌としてーL 教育出版
流行年を迎えたメカニズムとも密接な関係が
文化協会
あると思われる地理的課題である。多摩郡全
1
9
9
2
0
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a,Ann Browman,
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域の過去帳などを収集して,本稿で得た知見
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9
8
7
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と対比する必要がある。
Browmana
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第三に,牛痘種痘法が民衆の理解,協力を
企omat
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s
,
得て急速に多摩郡に普及していった背景を,
4
5,
1
9
9
1,p
p.
41
7
-4
3
6
. などがある。
地域社会の生産活動,消費行動,地域間関係
3
)東 京 府 『 東 京 府 史 第 六 巻 行 政 篇 1 , 1
9
3
7,
のなかで理解したい。中藤村周辺では,横浜
502~574 頁。
開港にともなって養蚕,蚕紙生産などが活性
4
) ①浅井允品「幕末大和における牛痘法の伝播に
ついて J (有坂隆道編『日本洋学の研究
化した。幕末期に高機が導入され,木綿の村
Vl
1,
山紺緋や絹の武蔵太織が織られるようになっ
創元社, 1
9
7
9, 169~189頁)。②田崎哲郎『在
た。このような地域社会の状況における労働
村の蘭学 1 ,名著出版, 1
9
8
50 ③古西義麿「大
阪における近代種痘制度の展開 J (有坂隆道編
需要の増大が,牛痘種痘法の迅速な普及と深
『日本洋学の研究区 1 ,倉
I
j
元
社
, 1
9
8
9, 1
5
9
く関わると予測される。
~175 頁)。④土井作治「近世後期における医
(帝塚山大学経営情報学部)
療思想の基盤(I)
一安芸国山県郡大朝村保
9
9
0, 125~
生堂の場合一 J,実学史研究羽, 1
1
5
4頁。⑤土井作治「近世後期における医療思
〔付記〕
想、の基盤 (
I
I)
喜寿を迎えられました黒崎千晴先生に小稿を献
一安芸国山県郡大朝村保生堂
の場合一J,実学史研究 V
I
I,1
9
9
1,23~58 真。
呈させていただきます。
⑥田崎哲郎編『在村蘭学の展開 1 ,同朋舎,
0
0
0年の歴史地理学会大会シ
本研究の内容は, 2
9
9
8年春アムステルダム市
ンポジウムのほかに, 1
1
9
9
2 ⑦浅井允品「モーニッケ首受容の前提一
で開催された The S
e
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大坂・堺における小林安石の動向をめぐって
0
J (有坂隆道・浅井允品編『論集
H
i
s
t
o
r
y Conたr
e
n
c
e,文部省科学研究費補助金(創
成的基礎研究)
r
ユーラシア社会における人口・
義麿「丹波の種痘医松本節斎とその一族
家族比較史研究 J 夏季セミナー(代表者:速水融,
1995~2000) で討論された。本研究には,
特
に初代・二代の節斎による種痘事業をめぐって
1
9
9
9・
ー J (有坂隆道『論集
2
0
0
0年度文部省科学研究費補助金(萌芽的研究)
日本の洋学
I
V1 ,7
青
文堂, 1
9
9
7,2
8
1~304 頁)。⑨二宮陸雄『天然
「牛痘種痘法の普及過程と天然痘による乳幼児死
亡の変容
日本の洋
学 11 ,清文堂, 1
9
9
3,2
1
1~250 頁)。⑧古西
痘に挑む
ー武蔵国多摩郡の事例ー J (研究代表
種痘医北城諒斎 1 ,平河出版社,
1
8
7
1
0
5
3
) の助成を受け
者・川口洋,課題番号: 1
1
9
9
7。⑬青木歳幸『在村蘭学の研究L 思文閣
た
。
9
9
8。⑪川村純一『病の克服
出版, 1
61-
日本痘療
史~ ,忠文閣出版, 1
9
9
90 などがあげられる。
俗資料館『特別展解説書村の知識人指田家
5
) ①野瀬弘美,飛永精照「癒磨神の世界 J,昭和
三代の資料~ , 1
9
9
9に明治 4年の日記がそれぞ
薬科大学紀要 1
2,1
9
8
3, 105~137 頁。②水野正
好「鬼神と人とその動き
ひに
れ翻刻された。
招福除災のまじな
15) 村山町史編纂委員会『村山町史~ , 1
9
6
8, 1
4
1
J,奈良大学文化財学報 4,1
9
8
6, 1~
1
7頁。③高橋昌明『酒呑童子の誕生
とつの日本文化
L
~143 頁。
1
6
)前掲 1
3
) ,30~41 頁。
もうひ
中央公論社, 1
9
9
2。④ H.
1
7
)松井寅太郎「吾家之歴史 J,多摩文化2
3,1
9
7
2,
O. ローテルムンド『癒矯神一江戸時代の病
をめぐる民間信仰の研究一~ ,岩波書庖,
79~95 頁。
1
9
9
5。
18) 清水庫之助『郷土偉人傍~ ,文華堂,
などがあげられる。
6
) 菊池万雄『日本の歴史災害一江戸後期の寺院
過去帳による実証
1
9
)立川市教育委員会編『鈴木平九郎
~ ,古今書院, 1
9
8
0の分類
公私日記
第十三冊嘉永三年~ , 1
9
8
0, 12~30 頁。立川
による。
市教育委員会編『鈴木平九郎公私日記第十
7
)小林茂「近世の南西諸島における天然痘の流行
八冊安政二年~ , 1
9
8
2, 1
4頁
。
パターンと人痘法の施行 J,歴史地理学4
2
1,
2
0
)
2
0
0
0,47~63 頁。
r
門人姓名録 J
(伊東条『伊東玄朴停 L 玄文
社
, 1
9
1
6
) , 1~16頁。
8) 橘南鶏『痘清水鏡録~ ,天明元(17
81)年,東
2 1)富士川遊『日本医学史~ ,日新書院,
京都立中央図書館所蔵にも,序熱→見点→出斉
2
2
)前掲 2
0
) ,84~89 頁。なお,内藤記念くすり博
経て合計 1
5日で治癒すると説明されている。
物館『天然痘ゼロへの道一ジェンナーより未
9
) 高良斎「日本疾病志 J (緒方富雄・大鳥蘭三
来のワクチンへ--~
郎・大久保利謙・箭内健次「門人がシーボルト
,1
9
8
3,36~39 頁には,牛
痘苗の普及過程の概要が示されている。
に提供したる蘭語論文の研究 J (日独文化協会
『シーボルト研究~ ,岩波書庖,
1
9
4
1,
593~596頁。
→起脹→行奨→潅膿→収密→溶痴という段階を
2
3
)前掲 1
3
) ,3
8頁
。
8
) ,1
4
5頁
。
2
4
)前掲 1
1
9
3
8
) ,95~
9
6頁)。
25) 桑田立斎『引痘要略解~ ,嘉永 2 (
1
8
4
9
)年
,
1
0
)桑田立斎『牛痘発蒙 L 嘉永 2 (
1
8
4
9
) 年,東
内藤記念くすり博物館所蔵。
2
6
) 小島政員J
Ir
嘉四手記触書
京都立中央図書館所蔵。
l
l
)
1
9
2
1,
144~150 頁。
r
西洋種痘法の告諭」嘉永 3
(
1
8
5
0
) 年(戸羽
山構編『江川坦庵全集~ ,厳南堂,
上 J,嘉永 4
(
18
51)年,小島資料館所蔵。
1
9
5
4
),
2
7
)小島日記研究会編『小島日記
145~148 頁。
30~ , 1
9
9
7,3
3
~37 頁。
1
2
) このほかに,上総国武射郡富田村名主大高善兵
28) 添川正夫『日本痘苗史序説~ ,近代出版, 1
9
8
7,
衛が安政 5 (
1
8
5
8
) 年,幕府勘定奉行に提出し
57~81 頁。
た嘆願書には安政凹巳年,同村出生之小児
2
9
)前掲 2
0
) , 1~16 頁。
弐拾六人
3
0
) 多摩文化研究会による多摩文化 2
3,1
9
7
2は
,
内五人程痘清ニ而死失又ハ盲人片
輪等ニ而廃人出来可申見込ニ御座候。 J とある。
小島政孝『幕末のロータリアン
大高善兵衛~ ,
第一法規出版, 1
9
9
9,24~25 頁。
「多摩の洋学J特集号であり,多くの示唆を得
た
。
31)新藤恵久「現存する蘭書について J,多摩文化
1
3
)新藤恵久「八王子周辺の蘭方医 J,多摩文化2
3,
1
9
7
2,30~41 頁は,松井玄同の嫡子松井寅太郎
9
7
2,7
1~73 頁。
2
3,1
3
2
)伊東玄朴と多摩郡の人々との密接な関係は,次
が明治3
5(
19
0
2
) 年に書いた「吾家之歴史 J,
の文献にも指摘されている。酒井シズ「伊東玄
青木得庵の嫡孫青木純造が明治2
5(
18
9
2
) 年に
3,1
9
7
2,23~29 頁。
朴と多摩地方 J,多摩文化2
記した「善寧見先生碑建設由来」にもとづいて,
多摩郡で牛痘種痘法を始めた人物を推定してい
3
3
)復本正三『赤の民俗
--~
る
。
利根川流域の癌清神
,嵩書房, 1
9
8
9, 102~ 1l 1 頁。
3
4
)昭島市教育委員会『中里子久次郎
諸用日記控~ ,
8・1
3
6頁
。
1
9
7
9, 7
14) 武蔵村山市教育委員会『指回日記~ ,1
9
9
4に天
保 5年から明治 3年まで,武蔵村山市立歴史民
3
5
)立川市教育委員会『諏訪神社所蔵古文書第六集
~62
神領・氏子・神社経営関係文書~ , 1
9
9
0,42~
の過去帳を調査した。調査した過去帳には,
5
5頁
。
「年繰」と称される年表形式日繰」と称さ
36) 羽村町教育委員会『旧下回家住宅調査報告書~ ,
れる日めくり形式がある。いずれの場合にも,
1
9
8
3,113~ 1
3
1頁
。
死亡年月日,戒名,俗名,戸主との続柄,小字
3
7
)光石知恵子「疫病神紀り捨ての民俗 J,桑都民
名が記録されており,死亡年齢が書かれている
俗 3, 1
9
8
3, 8~14 頁。
のは稀である。
3
8
)癒癒棚,ささ湯については,葛飾芦庵『小児養
戒名の語尾により死亡者は三つの年齢階層に
草 全 麻 疹 必 用 一 名 痘 疹 年 代 記 L 文政 7
大 別 で き る 。 す な わ ち 孜 子 ( 児 ) ,核女,
(
18
2
4
) 年,東京都立中央図書館所蔵に詳しく
嬰子(児) ,嬰女 J, 童 子 ( 児 ) ,童女 J,
紹介されている。癒清棚,ささ湯の方法には地
および「禅定門,禅定尼,信士, {言女,居士,
r
該
域差がみられたようである。庖療棚や癌清絵は
大姉,禅者,上座, l'日尚,禅師」である。
以下の文献にも紹介されている。内藤記念くす
子(児) ,子女女,嬰子(児) ,嬰女」は出生当
り博物館『病と祈りの歳時記ーさまざまな健
日 か ら 当 歳 童 子 ( 児 ) ,童女」は, 2
3歳 1
康への願い-~ , 1
9
9
4。名古屋市博物館『大人
例
, 2
0歳 1例を除くと 1
2歳 ま で 禅 定 問 , 禅
形への祈り
一息災と豊穣を願うー~ , 1
9
9
70
3
9
)輝峻康隆他校訂『馬琴日記
定尼,信士,信女,居士,大姉,禅者,上座,
,中央公
第二巻~
和尚,禅師」は, 1
3歳 1例を除くと 1
6歳以上で
r
該子(児) ,抜女,嬰子(児) ,嬰
論社, 1
9
7
3,296~321 頁。滝沢馬琴の孫の癌清
あった。
については,立川昭二『江戸
女 Jは,原則として生後一年未満の乳児死亡者
老いの文化~ ,
筑摩書房, 1
9
9
6,243~244頁などに紹介されて
に付ける戒名と思われる。しかし,江戸時代に
し
、
る
。
は 用 例 が 少 な い う え に 童 子 ( 児 ) ,童女 J
4
0
)前掲3
5
), r
痘矯棚祈願 J,12~17 頁。
のなかにも当歳,十一ヶ月,妊娠八ヶ月生とい
41)立川市教育委員会編『鈴木平九郎
った例も散見される。そのため,乳児死亡だけ
公私日記
第六冊天保十三年~ , 1
9
7
5,84~87 頁。
を抽出することは困難で、ある。本稿では禅
4
2
)八王子市教育委員会『郷土資料館資料シリーズ
定門,禅定尼,信士,信女,居士,大姉,禅者,
第2
3号 石 川 日 記 ( 六 ) ~ , 1
9
8
4,4
9頁
。
4
3
)八王子市教育委員会『瀬沼三左衛門日記
上座,和尚,禅師」は,およそ 1
5歳以上の成人
一~ ,
が死亡した場合の戒名子女子(児) ,核女,
1
9
9
4,7
1頁から,文政 5 (
1
8
2
2
) 年,前田加賀
嬰子(児) ,嬰女」と「童子(児) ,童女Jは
,
守家の嫡子勝千代が癒療を患ったときに酒湯を
およそ 1
4歳以下の子供が死亡した場合に付けた
行ったことが確認できる。
戒名と解釈した。
4
4
)①前川久太郎「江戸幕府に於ける痘清・麻疹・
務、正寺,宝泉寺,一峰院,宗禅寺,宗建寺の
酉湯行事の変遷 J, 日本医史学雑誌22,
1
水痘の j
1
8
4
3年における子供の死亡数は,調査期間にお
1
9
7
6,39~48 頁,②前川久太郎「酒湯記録より
ける子供の年間平均死亡数に標準偏差の 2倍を
見た痘癒・麻疹・水痘の大奥への伝播 J,日本
加えた数値より多い。梅堂寺については,調査
医史学雑誌2
2
2,1
9
7
6,63~74 頁に,江戸城に
期間における子供の年間平均死亡数に標準偏差
おける酒湯が紹介されている。
を加えた数値より多い。
0
0頁
。
4
6
)前掲 9) ,1
4
5
)源正寺,宝泉寺,権堂寺,一峰院については寛
政1
2(
1
8
0
0
) 年から明治3
3(
19
0
0
) 年,宗建寺
47) 千葉徳爾・籾山政子『風土論・生気候~ ,朝倉
については文政 2 (
1
8
1
9
) 年から明治3
3年,宗
書庖, 1
9
7
9,6
1~72 頁。
18
9
3
)年
禅寺については寛政 1
2年から明治2
6(
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