南宋仏画へ遡及する 日本における受容の観点から

南宋仏画へ遡及する
─日本における受容の観点から─
井手誠之輔
九州大学大学院人文科学研究院
はじめに
1.南宋仏画の受容における一般的傾向
2.国籍の揺らいでいる作例─南宋時代か鎌倉時代か─
3.寧波仏画の領分─その内と外─
4.杭州仏画の多様性
おわりに
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提要
日本における南宋絵画の受容は、ジャンルによる違いがあり、時代的に重
層化をともなっていく。よく知られている禅宗を中心とする水墨画の受容は、
13 世紀の半ば以降にはじまり、また南宋院体画の受容は、日本が明の册封体
制に組みこまれて以降という南宋との間で 200 年以上ものタイムラグを経て
重ねられてきた。一方、従来、注目されることのなかった着色系の南宋仏画の
受容は、じつは、もっとも先行して 12 世紀後半からはじまり、その後の日本
で "鎌倉時代新様式"の仏画を形成する大きな要因となってきた。
一般論として、13 世紀以降の鎌倉時代の仏画では、平安時代以来の仏画
制作に由来する慣習的な手法や態度が作用するために、積極的に南宋仏画へ規
範を求めた場合でさえ少なからざる変容をともなう場合が多い。南宋仏画の受
容において、いわば"日本的なフィルター"が必然的に作用することを前提とす
るとき、鎌倉仏画から南宋仏画を可逆的に復元することは、ほとんどむずかし
い。
しかし、今日、日本の仏画研究者の間では、一部の作例について日本製か
中国製か、作品の国籍が揺らいでいる作例も存在する。日本製とする論者の場
合でも、論理上は、その作例の原画となりうる南宋仏画が存在し、すでに 13
世紀の日本に舶載されていたことが前提となっている点を重視したい。これら
の作例は、日本における受容の局面から相補的に南宋仏画へ遡及しうる有力な
材料となるのである。
本発表では、上述の "南宋的"な仏画を紹介しながら、それらを南宋絵画
史の地平に迎えいれるための概念的な枠組みを整理し、南宋絵画史を語る言説
空間と現存作例のしめす多様な実態とのズレを解消するための試論としたい。
具体的には、日本伝来仏画の主たる制作地に当てられてきた寧波仏画の境界性
を明確にし、あわせて、宗室の南渡にともなって宮廷絵画の新たな制作地とな
る以前から、浙江地域における仏画制作の中心地でもあった都・杭州について、
多様な絵画制作の在り方を考えたい。
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はじめに
「伝播と融合(transmission and fusion)」というこのセッションにおいて、
発表者には、南宋から日本に伝播した絵画が、その後、どのようなかたちで従
来の絵画制作に刺激を与え、既存の日本的なものと融合をはかり、さらに新た
な様式を形成してきたのかについて語ることが期待されているものと想像し
ます。そのことの期待にはやや反するかもしれませんが、本日の発表は、日本
における南宋仏画の受容の局面から、むしろ逆に南宋仏画の問題へと遡及して
いきたいと思います。
さて、日本における南宋絵画の受容は、けっして単純な様相をしめしてい
たわけではありませんでした。さながら、近代日本における西洋美術の受容が、
アバンギャルドの歴史の順番どおりに受容されたわけではなかったように、南
宋絵画の日本における受容には、ジャンルによって受容の時代に違いがあり、
それらが時代とともに段階をへながら重層化してまいりました。
南宋絵画といえば、まずは、馬遠や夏珪に代表される宮廷画院の作例が思
いおこされます(挿図 1)。それらが日本にもたらされたのは、同時代の鎌倉
時代ではなく、日本が明と正式に国交を結んでその册封体制に組みこまれた室
町将軍家の時代まで下ります。馬遠や夏珪の活躍した 13 世紀初めの時期から、
日本における受容までじつに 200 年間ものタイムラグがありました。894 年、
日本は遣唐使を廃止しますが、それから 500 年間もの長期にわたり、日本が中
国の宮廷美術にアクセスできなかったことは忘れるべきではないでしょう。
南宋絵画の受容においては、禅宗を中心とする水墨画の受容が、とくに注
目されてきました。この水墨画の受容は、中国の禅僧・蘭谿道隆の来日にとも
なって、13 世紀の半頃から、本格的にはじまります。ここでは日本における
初発的な水墨画の受容をしめす事例として、向嶽寺所蔵の《蘭谿道隆賛達磨像》
(挿図 2)を挙げておきます。
本日の発表の中心となる南宋仏画の受容は、これまで見てきた南宋院体画
や禅宗系統の水墨画というジャンルの受容に先だつかたちで、すでに 12 世紀
後半からはじまっていました。日本美術史において、南宋仏画の受容は、従来
の彩色仏画の様式を一変させ、抑揚と肥痩をもった線描による鎌倉時代の新様
式"の仏画を形成する大きな要因となったと説明されています。
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鎌倉新様式の誕生を告げる詫磨勝賀筆が 1191 年に描いた《十二天屏風》
(京都・東寺)を御覧下さい。この鎌倉新様式とされる仏画とそれまでの日本
仏画の主流であった美麗な装飾をほどこした 12 世紀半の《釈迦如来像》(京
都・神護寺)を比較すると、いかに宋代絵画にならった十二天画像の表現が斬
新であったのか、お判りになると思います(挿図 3)。
しかしながら、じつは詫磨勝賀の《十二天屏風》にみられる斬新な線描を
もつ作例は、一般に知られている南宋仏画とは、大きく様式が異なっています。
南宋仏画の多くは、明るい色彩を多用し、線描は、彩色から自立するものでは
なく、尊格を輪郭づける鉄線描で彩色と協調するものでした。この点において、
従来の日本美術史の言説空間と絵画史の実態とは大きく乖離しているといわ
ざるをえません。
1.南宋仏画の受容における一般的傾向
日本における南宋仏画の受容にかんする問題は、より具体的に実態に即し
て明らかにする必要があります。そのためには、日本に舶載された南宋仏画と
それを模倣した日本の仏画との比較を行うことが有効です。以下、両者の比較
を通して、鎌倉時代における南宋仏画の受容にかんして、その一般的な傾向を
確認することにします。
最初の比較(挿図 4)は、12 世紀末頃に、寧波の仏画師金處士によって描
かれた《十王図》の中の一図(メトロポリタン美術館)とそれを 14 世紀前半
頃の日本で写した岡山宝福寺本です。いずれも十王図の第五番目、閻羅王にあ
たります。日本の作例は金處士本の図像をそのまま写していますが、彩色が大
きく異なります(挿図 5)。色調が単純なために、空間のイリュージョンが失
われ、平板な画面となっています。ここでは日本の作例から南宋の原画を復原
することはできません。
次の比較(挿図 6)は、南宋仏画の可能性が高いと考えられている京都・
長福寺本の《涅槃図》と、それを鎌倉時代の 1274 年に写した広島・浄土寺本
の《涅槃変相図》の場合です。広島・浄土寺本では、涅槃場面のまわりに釈迦
の仏伝図をめぐらした涅槃変相図となっていますが、中央の涅槃場面は、ほと
んど図像が共通しています(挿図 7)。前方の象を比べてみると、長福寺本で
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は、自然の再現がつよく意識され、現実に即したグレーで彩色された象となっ
ています。それに対して鎌倉仏画の浄土寺本では、伝統的な仏画における彩色
にもとづいて、白象となっています(挿図 8)。長福寺本では、沙羅双樹の 8 本
が前後左右に複雑に重なるようすが適確に描写され、三次元空間のイリュージ
ョンが表出されていますが、浄土寺本では、そのような意識は希薄で、8 本の
うちの 4 本が、悲しみのあまりに枯れて白くなったという仏伝説話に、より忠
実な表現となっています(挿図 9)。ここには、涅槃場面の表現において、景
観の自然主義的な再現を重視する南宋仏画と仏教説話におけるストーリーの
再現を重視する鎌倉仏画という立場の違いが、よくあらわれています。
以上、わずかですが典型的な事例をとりあげてみました。いずれの場合も、
日本側が積極的に南宋仏画の受容を行っているにもかかわらず、南宋仏画の原
本にみられた絵画表現は、大きく変容してしまっています。中国側から見ると
き、鎌倉仏画に対する南宋仏画の影響力は、圧倒的なものであったということ
ができます。しかしながら、立場を変えて日本の側から見るとき、鎌倉仏画か
ら南宋仏画を復原することは困難であるほどに、双方の造形的な志向が異なっ
ていることも事実です。8 世紀に制作された日本の奈良時代の仏画の場合では、
しばしば中国の唐時代の様式を考えるための代替として利用することが行わ
れてきました。このような日本の仏画から中国の仏画を復原的に考察するとい
う可逆性は、南宋仏画と鎌倉仏画との間では基本的に保証されてなかったとい
うことを、まずは、この時期の一般的傾向として確認しておきたいと思います。
2.国籍の揺らいでいる作例─南宋時代か鎌倉時代か─
つぎに、きわめて特殊な事例についてお話しします。じつは、現在、日本
の仏画研究者の間には、その国籍(制作地)の判断において、中国か日本かで
意見がわかれている作例が、わずかながら存在します。それらの作例は、じつ
は、それがもし日本で鎌倉時代に制作された仏画であったとしても、南宋仏画
を考えるための有力な材料となりえます。
最初に山梨・一蓮寺の《釈迦三尊十八羅漢像》
(挿図 10)をとりあげます。
この作例は、1994 年の奈良国立博物館における特別展『東アジアの仏たち』
において、はじめて南宋仏画として公開されました。しかし、その解説では、
鎌倉時代に制作された可能性についても触れられています。発表者は、2001
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年に発表した『日本の宋元仏画』
(至文堂)において、杭州で制作された可能
性をもつ仏画としてとりあげました。今年の 4 月、一蓮寺本は、鎌倉時代の仏
画として重要文化財に指定されました。指定にかかわった文化庁の増記隆介氏
は、最近の論文で、一蓮寺本を、1300 年を前後する頃、南宋仏画の原画を忠
実に写した稀な事例として位置付けられています。
また増記氏は、日本にかつて伝来し、今は失われてしまった一蓮寺本の原
本についても考察を加えられ、その作例は、12 世紀後半の南宋内府に所蔵さ
れていた五代北宋以来の規範的な仏画をもとに宮廷画院の画家によって制作
された可能性を指摘されています。発表者は南宋説を採ってきましたので、増
記氏とは、現段階で国籍についての判断が異なりますが、その国籍判断を別に
して、一蓮寺本が、南宋の都杭州で制作された仏画を考えるための有力な作例
であるという認識には、大いに賛同します。日本作か、中国作かの仏画の国籍
については、今回の重要文化財指定を契機に、さらに多くの研究者の意見を交
えながら、最終的な決着がつくものと思います。
次にとりあげるのは、さきほど御覧にいれた京都・長福寺本の《涅槃図》
(挿図 11)です。日本の仏画研究者で国籍の判断が分かれている典型的な事
例です。この仏画には、南北朝時代にあたる貞和 2 年(1346)の施入銘があり
ますが、それが明治 40 年(1907)の旧国宝指定の時期から、制作年代と考え
られてきました。つまり、日本の南北朝時代の作例とみなされてきたわけです。
ところが、後に、この画像をもとにする広島・浄土寺本の軸木から、1274 年
の紀年銘が確認され、また中野玄三氏によって先程確認した絵画表現の違いが
指摘されるようなって、長福寺本が南宋仏画であり、鎌倉時代の涅槃図の典拠
となる規範的な性格を具えていたという解釈が広く認知されるようになりま
した。1994 年の奈良国立博物館における特別展『東アジアの仏たち』では、
長福寺本をはじめて南宋画として展示しています。また発表者も、これまで南
宋説を支持してきました。長福寺本を、日本作とみなす根拠として、顏を泣き
はらした天女のようすは中国で見られないとする意見を聞いたことがありま
す(挿図 12)
。この意見に対しては、15 世紀中頃の明時代の作例ですが、鹿児
島・黎明館が所蔵する《仏伝図》13 幅の中の涅槃場面を描いた画幅において、
同様の泣きはらした天部があるという反論を示しておきます(挿図 13)。なお、
日本説をとる研究者は、長福寺本の原本が南宋仏画であることについて異義を
となえることはありません。日本説の場合でも、長福寺本が南宋画の原本の忠
実な写しであるという見解は、先の一蓮寺の場合と共通しています。
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さて、日本の仏画研究者において、中国作か日本作かで意見が分かれてい
る典型的な二つの作例を紹介しました。ここで新に浮上する問題は、二つの作
例が、日本作であれ、中国作であれ、いずれの場合であっても、南宋仏画を考
えるための有力な材料になることです。増記氏が、一蓮寺本を、南宋仏画を忠
実に祖述する第一次模本と位置付けられ、その原本について議論を深められて
おりますが、研究における実践例として注目されるところです。
一連寺本と長福寺本にかんする議論には、もうひとつの興味深い共通点が
あります。それは、いずれの作例も、南宋の寧波地方で制作された一連の仏画
とは、積極的な関係性を見出しがたいことです。日本には、数多くの南宋仏画
が伝来してきましたが、その大半は、従来、寧波地域で制作された仏画である
と漠然と考えられてきました。しかし、近年、研究が大きく進展し、寧波仏画
のほとんどが、寧波の城内にあった天台寺院、延慶寺を中心とする地域社会と
密接に関係していることが判明しています。昨年の夏、奈良国立博物館で特別
展『聖地寧波』が開催されましたが、そこでの展観は、こうした最近の研究成
果を反映したものでした(挿図 14)。つぎに寧波仏画を特色づける境界性、そ
の領分について、簡単に確認しておきたいと思います。
3.寧波仏画の領分─その内と外─
寧波仏画と地域社会との関係性を明らかにするためには、宋代における天
台仏教復興の舞台となった延慶寺の役割を考える必要があります(挿図 15)。
延慶寺は、府城内の南に位置する天台寺院で、晩唐の廃仏によって荒廃してい
た仏教の復興につとめた呉越国の時代、951 年に創建されました。とりわけ北
宋初めには、知礼が住持となり、宋代における天台教学復興の舞台となり、ま
た天台浄土教の中心となりました。延慶寺は、さながら今日の大学とおなじよ
うに天台教学という学問研究の中心として機能するばかりでなく、寺の外側の
地域社会とも密接な結びつきをもっていました。知礼は、1013 年、地域社会
の人々 とともに念仏結社をはじめています。記録によれば、この結社は、僧俗
にわたる 210 名のリーダーを介して、約一万人の会員を有していました。延慶
寺と寧波の地域社会との関係は、概念図にしめすような延慶寺の内外にわたる
二重のネットワーク構造によってとらえることができます(挿図 16)。
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一つは、今日の大学とでもいうべき学問道場としての内部ネットワークで
す。知礼は、いわば延慶寺、あるいは寧波の精神をつくった人です。彼は、阿
弥陀如来はすべて心によってとらえられるものと考えます。こうした本性弥陀
説、唯心浄土説を中心理念とする延慶寺は、杭州の上天竺寺などの他地域にお
ける有力な天台寺院とも結びついています。その意味で、内部ネットワークは、
天台ネットワークと言い換えてもよいでしょう。そこでは、悟りをめざす唯心
浄土説の象徴的な道場として十六観堂が存在し、出家した学僧や在野の真摯な
求道者たちがその構成員となっていました。一方、寺の外に広がる外部ネット
ワークは、念仏による極楽往生を中心理念とし、一万人の浄土結社によって地
域社会の信者たちと結びついています。
延慶寺が天台寺院であることを念頭に置くならば、内部ネットワークとは、
大乗仏教で重視される菩薩行のなかの自利行を実践する道場、外部ネットワー
クとは、菩薩行によって救済される人々 、利他行の実践される場であるといっ
てもよいでしょう。延慶寺の内外にわたる二重のネットワークは、自利と利他
が不可分に結びついているように、ゆるやかな境界をもつ中間領域を形成し、
信者のイニシアティブの強弱によっては、ときとして、半僧半俗的な性格を帯
びるものもいたことでしょう。たとえば、念仏結社の上部組織のリーダーとな
った在俗信者は、まさしく、このような中間領域のなかに位置づけられること
になります。
延慶寺の内外における二重のネットワークは、その空間で仏画を制作した
画人たちの生活をつつみこんでいます。彼らの仏画制作は、寺院や地域社会に
おける注文者や享受者たちの存在を無視して語ることはできません。そして内
部と外部のネットワークのために必要とされ制作された仏画には、自ずと図像
と画風の両面にわたって差異がうまれることになります。内部ネットワークで
は、図像の典拠となる経典やその儀軌類への厳格さが求められ、しかも画風に
は、天台寺院で重視する観想の宗教感情が大きく干渉します。この場合、地域
性が表象されることは少ないはずです。ちょうど、主要な大学における専門研
究のためのプログラムに大きな違いがないこと同様です。一方、外部ネットワ
ークでは、仏画の図像に経典や儀軌類への厳密性が後退し、むしろ地域社会の
在俗信者たちの日常的・庶民的な死生観と結びついた図像選択や改変がなされ、
また画風には地域性が濃厚に現れることになります。この場合は、各地の大学
で地域社会と結びついた特色ある教育がなされていることを想像いただけれ
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ばいいでしょう。このような想定のもとで、寧波仏画の担い手たちの作品を3
つにわけて紹介いたします。
まず、一つは、内部ネットワークのなかにいた僧籍をもった画人として普
悦が描いた阿弥陀三尊像です(挿図 17)。延慶寺の内部ネットワークで制作さ
れる仏画は、厳粛な法会の本尊としての風格をそなえている必要があります。
その担い手は、僧籍をもった画人です。夢幻的ともいえる静謐な宗教感情が三
幅全体にわたってあふれています。このような宗教感情は、知礼の説いた「本
性の弥陀、唯心の浄土」という厳しい観想を通して心中に感得される阿弥陀如
来への信仰と深く結びつき、普悦の制作理念の中核を成していたのではないで
しょうか。普悦は、純粋に内側の精神世界に向かっているといえるでしょう。
その意味で、普悦の画風には、寧波の市井の仏画師たちと共通するような地域
性の干渉は微塵もありません。
つぎに外部ネットワークのなかで地域社会の在俗信者の日常的・庶民的な
感覚をもりこんだ画人であった陸信忠の描いた仏涅槃図をとりあげます(挿図
18)。この涅槃図では、不思議なことに一般の涅槃図のように参集がひとしく
大仰な悲しみの仕草やポーズをとることがありません。上空から降りてくる摩
耶夫人や、前方で繰り広げられる七日の供養などの涅槃場面をあらわす常套的
な設定によっていますが、本来、8 本であるはずの沙羅双樹は、宝石をちりば
めた七層宝樹となっています。この宝樹は、極楽浄土のモチーフです。七層の
宝樹は、この涅槃図が、延慶寺を中心とする天台浄土教と密接に関わることの
証明にもなっています。この涅槃図では、涅槃という死の場面でありながら、
極楽往生という再生の論理を重ねていることになります。こともあろうに宝床
台に乗りあがる仏弟子たちは、まさしく、死と再生の間で揺れながら、それぞ
れが思いおもいの行動を露わにしています(挿図 19)。この不思議な涅槃の場
面には、庶民の死生観が表象され、いわば「釈迦の涅槃は生か死か」という問
いかけ自体が主題となっているといるのではないでしょうか。
さいごに半僧半俗の仏画師としての張思恭の描いた二つの阿弥陀画像を
紹介したいと思います(挿図 20)。延慶寺における内部ネットワークと外部ネ
ットワークの中間領域に結びつく半僧半俗の仏画師として、もっとも可能性を
持つ画人が張思恭です。廬山寺本と禅林寺本は、いずれも阿弥陀三尊をあらわ
しながら、阿弥陀如来が、説法印をむすぶ坐像といわゆる逆手の来迎印をむす
ぶ正面来迎の立像とである点に違いをもちます。内外に広がるネットワークの
中間領域のなかに張思恭を位置づけうるとすれば、観想性のつよい説法図の廬
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山寺本には内への志向が、他者救済の利他行を旨とする来迎図の禅林寺本には
外への志向が認められることになります。張思恭は、おそらく当時もっとも需
要のあった阿弥陀画像を中心的な画題とする画家だったのではないでしょう
か。
以上、簡単に寧波仏画について概観してみましたが、いずれも天台仏教と
密接な関係性をもつ寧波仏画の領分に、先にみてきた一蓮寺本や長福寺本は、
なかなかおさまりきれないように思われます。そのことを確認するために、二
つの作例を寧波仏画と比較してみることにします。
まずは、一蓮寺本と張思恭筆の阿弥陀三尊像を比較します(挿図 21)。い
ずれも、涌出雲が描かれていて、観想性のつよい作例です。私が注目したいの
は尊格のプロポーションです(挿図 22)。撫で肩で膝の張りの少ない一蓮寺の
プロポーションに対して、張思恭の作例は、両肩や両膝が張りだしています。
頭部から両肩・両膝へと流れるような調和のとれたプロポーションは、じ
つは、鎌倉・建長寺本の毘盧舍那三尊像や静嘉堂文庫美術館本の釈迦三尊像な
どの、いずれも寧波とは異なる場、それも都杭州で制作された可能性が高い仏
画と共通しています(挿図 23)。またこうしたプロポーションは、南宋仏画に
もとづいて鎌倉時代に制作されたメトロポリタン美術館本の釈迦三尊像では、
継承されていません(挿図 24)。一蓮寺本や建長寺本、静嘉堂文庫美術館本に
共通するプロポーションは、ひとつの文化伝統をもつ地域と関係すると考えて
よいのではないでしょうか。ここでは後の議論と関係しますが、こうしたプロ
ポーションが、12 世紀の前半に杭州で、李公麟筆の図像にもとづいて制作さ
れた六和塔の《白衣観音像石刻》や 13 世紀後半、杭州の六通寺や法相寺で活
躍した牧谿筆の《白衣観音像》
(京都・大徳寺)でも共有されていることを示し
ておきたいと思います(挿図 25)。
次に長福寺本の涅槃図と寧波仏画の涅槃図の代表作である陸信忠本と比
較してみます(挿図 26)
。両者の違いは明らかで、説明するまでもないでしょ
う。寧波仏画には、陸信忠に先だつ作例として、周四郎が描いた《涅槃図》
(愛
知・中之坊寺)もしられています(挿図 27)。周四郎本は、参集たちがいずれ
も泣いているようすを描いている点において長福寺本とも共通しています。し
かし、長福寺本と周四郎本との間には大きな違いが見られ、周四郎本の存在は、
むしろ陸信忠本にみられる少人数の参集による涅槃場面の構成が、寧波仏画の
伝統を形成していたこと伝えています。
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長福寺本では、寧波の在俗の仏画師たちの描写にみられない色線を多用す
る点が注目されます。やや突飛な比較かもしれませんが、こうした参集の衣文
線に見られる赤い色線は、北宋末の徽宗皇帝が制作した《搗練図》
(ボストン
美術館)にも見ることができます(挿図 28)。また衣文線が屈曲するようすは、
南宋の杭州で 12 世紀後半に制作されたと考えられる《文人図》
(台北故宮博物
院)の人物にも見出すことができます(挿図 29)。長福寺本では、景観の自然
主義的な再現描写に特色があることを先に確認しましたが、さまざまな動物た
ちの忠実な再現描写(挿図 30)は、北宋末以来の中央で制作された花鳥画や
畜獣画とも共通し、寧波よりは、むしろ都杭州で制作された可能性を示してい
るのではないでしょうか。
4.杭州仏画の多様性
さいごに、これまでの議論を発展させ、杭州仏画の多様なあり方について、
発表者の見取図を提示し、皆さんの御批判を仰ぎたいと思います。
まずは、南宋時代の都杭州の絵図を御覧下さい(挿図 31)
。西湖のまわり
には、さまざまな宗派の寺院が点在していますが、これは、先にみた寧波が、
基本的に延慶寺という天台寺院を中心とする空間の中で制作されていたこと
と大きく性格を異にしています。よくしられているように、南宋の都杭州は、
仏教文化の復興につとめた呉越国の時代にも都が置かれ、それ以降、北宋から
南宋時代、そして元時代に至るまで、江南地域における仏教文化の中心地であ
りつづけました。
寧波の延慶寺と内部ネットワークを通じて密接な関係をもっていた天台
寺院として、上天竺寺や下天竺寺などがあります。華厳学は、北宋後期に高麗
の支援によって復興しますが、その中心寺院となる慧因寺が南高峰の麓にあり
ます。律学は、北宋末に活躍した元照によって復興されますが、その中心の場
となった霊芝寺も西湖の南岸に所在しています。よくしられた禅宗五山の寺院
には、霊隠寺や浄慈寺も西湖の周辺に所在しています。大切なことは、こうし
た各宗派の代表的な寺院が、いずれも、宗室が南渡する以前から、杭州の場に
すでに存在していたことです。
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南宋絵画史の枠組については、一般的に都杭州の宮廷絵画がもつ強い規範
性を中心に議論されてきました。しかしながら、12 世紀の半を過ぎた紹興年
間の末年頃に整備されたと考えられている南宋画院の活動以前から、杭州は、
長らく仏教文化の中心地として機能していたことを忘れるべきではありませ
ん。杭州における有力寺院と在地の仏画師集団との関係性を考えるために、一
つの概念図を提示したいと思います(挿図 32)。
いずれの有力寺院も、先に寧波仏画と地域社会で想定した二重のネットワ
ークを有していたと考えてみましょう。この場合、各宗派の内部ネットワーク
については、それぞれの宗派を特色づける教義的内容がつよく干渉し、ゆるや
かな境界領域をもちながら、ある程度の自律性を保持しているとします。その
場合、寧波仏画と地域社会との関係性ともっとも異なる点は、グリーンで表示
している外部ネットワークの部分です。
たとえば、陸信忠のような在俗の仏画師として、陸 x なる画人が、杭州で
仏画制作を行っていたと想定してみます。寧波の陸信忠は、延慶寺という天台
寺院との関わりの中で制作を行っていましたが、杭州の陸 x なる画人は、天台
寺院ばかりでなく、華厳や律や禅の寺院との関係も視野におさめていたことで
しょう。さらに都杭州には、さまざまな寺院の活動に居士としてかかわった士
大夫たちが数多く集まっていました。また 12 世紀半からは、宮廷画院の活動
とも相互に関係性をもっていた可能性も考えねばなりません(挿図 33)。杭州
で活躍していた陸 X なる画人の絵画制作は、寧波の陸信忠に比べて、はるかに
多様なものであったことが念頭に置かれるべきではないでしょうか。
今回のシンポジウムにおける王耀庭教授の御発表とも関連しますが、杭州
に都を定めた高宗皇帝は、紹興 13 年(1143)、詔勅を出して、広く遺書を求め
ていますが、同時に歴代の書画宝物の収集もはじめ、金の侵入によって失われ
た宮廷コレクションの回復しようとしています。『南宋館閣録』と『南宋館閣
続録』の記事を総合すると、高宗皇帝の時代に、御容の 467 軸とは別に 911 軸
の歴代名画が収蔵されていたことを確認できます。911 軸の歴代名画には、200
幅近い道釈画が含まれていましたが、この中には、都杭州に所在する寺院など
から収集されたものが多かったことは想像に難くありません。新たに内府のコ
レクションに加えられた仏教絵画のリストから、逆に、宮廷画院が活動する以
前に杭州に蓄積されてきた仏教文化の伝統を垣間見ることができます。杭州の
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仏教世界と宮廷との間には、相互に影響し合う関係性が考えられてよいのでは
ないでしょうか(挿図 34)。
発表者は、昨年の夏、奈良国立博物館で開催された国際シンポジウム「舎
利と羅漢」において、大徳寺伝来の五百羅漢図について発表を行い、五百羅漢
図を制作した林庭珪と周季常という二人の画人が、杭州で活躍していた可能性
について述べました(挿図 35)。大徳寺伝来の五百羅漢図は、とくに自然景の
水墨表現において、寧波仏画とは明白な違いがあります。
たとえば、12 世紀に遡ると考えられる寧波の仏画師・金大受の《十六羅
漢図》(東京国立博物館/群馬県立近代美術館)では、当時における都杭州の
最新モードであった斧劈皴は使用されていません(挿図 36)。水墨表現におい
て濃墨をうまく活用できていないため、墨のグラデーションの幅が狭く、十分
な空間のイリュージョンという意味において、やや劣る感を否めません。
一方、林庭珪や周季常の作例では、李唐の描法に由来する斧劈皴が多用さ
れています。たとえば、周季常の描いた《天台石橋図》
(フリーア美術館)で
は、李唐筆《山水画》
(京都・高桐院)と共通する大小の斧劈皴があるほか(挿
図 37)、13 世紀初めの寧宗朝に活躍した夏珪画を先取りする水墨による闊葉樹
の表現などが見られます(挿図 38)。こうした画風の特色は、二人の画人と孝
宗朝の杭州画壇との密接な関係性をうかがわせて余りあるものではないでし
ょうか。
大徳寺伝来五百羅漢図について最初に詳細な研究を行われた方聞教授は、
北宋末の秦観が記録する五百羅漢図と大徳寺本との図像の結びつきについて
示唆されています。この五百羅漢図は、北宋後期に活躍した呉僧の法能が制作
したものでした。最近、文化庁の増記氏は、北宋の都開封を訪れた日本僧の成
尋が伝法院に滞在していたとき、訳経僧の慧詢から、杭州の能なる画僧の描い
た五百羅漢図一鋪を授かり、日本へ送ったことを指摘されるとともに、杭州の
能なる画僧が、秦観が記録する五百羅漢図の作者法能と同一人物であるとされ
ています。
ところで、京都・知恩院には、法能の五百羅漢図の模本と伝えられる作例
が伝存しています(挿図 39)。中央の釈迦三尊の表現から、この五百羅漢図は、
14 世紀の高麗時代に朝鮮で制作されたことがわかりますが、後方の山岳風景
は、北宋の李郭派の表現を踏襲しています(挿図 40)。この画幅の存在は、北
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宋の法能が描いた規範的な画像にもとづく作例が、日本や朝鮮へと早くに伝来
していたことをしめしていて興味ぶかいものです。最近、韓国東国大学の辛氏
は、その博士論文において、この知恩院本の細部に、大徳寺本の五百羅漢図と
ほとんど一致する図像が、部分的に含まれているという重要な指摘をされてい
ます。参考のために林庭珪が 1178 年に制作した洗濯(フリーア美術館)
(挿図
41)と、同じく林庭珪が 1180 年に制作した剃髪(京都・大徳寺)(挿図 42)
について、図像の一致を確認しておきます。法能の五百羅漢図と大徳寺の五百
羅漢図との結びつきを重視するとき、それを可能とした場として、やはり杭州
が浮上してくるのではないでしょうか。
さまざまな図像の伝統や、着色と水墨を併用する大徳寺五百羅漢図の画風
は、さまざまな宗派の仏教寺院が存在し、寧波仏画とは性格を異にする多様な
仏画制作の場となっていた都杭州における仏画師集団のあり様を、素直に伝え
ているとも考えられます。先に見てきた一蓮寺本や長福寺本についても、そう
した杭州仏画の多様なあり方の中に位置付けることができるのではないでし
ょうか。
おわりに
本日の発表では、これまで日本に伝来する一連寺本や長福寺本の帰属をめ
ぐって、日本における南宋仏画の受容にみられる一般的傾向から説きおこし、
次に近年、研究が深化してきた寧波仏画の領分を明らかにした上で、これらの
作例、あるいはその原本となった南宋仏画が、寧波地域で制作された一連の仏
画の領分にはおさまりきれないことを示し、さらにその制作地として、南宋の
都杭州の可能性が高いことを述べてきました。また、寧波とは異なる杭州仏画
の多様なあり方について、大徳寺伝来の五百羅漢図の帰属問題をふくめて、議
論を進めてきました。迂遠な論理の展開となり、短時間ではわかりづらいこと
も多かったのではないかと思います。
しかし、こうした迂遠な論理の展開を行ったのには、それなりの理由があ
ります。日本に伝来する南宋仏画の数は、すでに 300 幅を超えています。その
制作地や帰属先を探る試みは、じつは、日本美術史の語りにおいて、鎌倉時代
の日本が、その仏画制作において、長大な中国絵画の時空の広がりから、何を
選択し何を選択しなかったのかを明らかにする必要があるからです。中国側の
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多様性を明らかにしてはじめて、日本における南宋仏画の受容が選択的であり、
単純な影響伝搬論では解決できない多様性を帯びていたことが、相互補完的に
議論されていくのではないかと考えております。
当然のことですが、本日の検討をもって、とりあげた南宋仏画が都杭州で
制作されたことが実証されるとは考えておりません。むしろ、強調したいこと
は、南宋絵画全般を考える上で、これまで議論されることのなかった都杭州に
おける着色仏画制作の伝統を視野におさめる必要があるということです(挿図
43)。本日、検討を加えてきた一蓮寺本、長福寺本、さらに大徳寺伝来の五百
羅漢図の制作地が、従来の曖昧な見解のまま寧波であったとしてみましょう。
たとえ、その場合でも、南宋院体画との直接的な交流があったとは思えません。
これらの仏画について議論する場合には、まず、その先例となったはずの杭州
の着色仏画が想定されねばならないはずです。これらの仏画の帰属先について
議論することは、自ずと南宋仏画から、さらに南宋絵画史全般にかかわる議論
へと展開していくのではないでしょうか。
本日、お示しした考えは、南宋絵画史を語る言説空間と現存作例のしめす
多様な実態とのズレを解消するための粗削りなスケッチでしかありません。そ
の議論の成否はともかくも、議論の枠組自体について共有していただきたいと
願っております。また、この拙い試みが、南宋絵画史の言説空間と鎌倉絵画史
の言説空間とを、東アジアの観点から連続させていく試みとしても、ご理解し
ていただけるならば、幸甚です。
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