Title 1920年代ロシア障害児教育の証言 : Л.С

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1920年代ロシア障害児教育の証言 : Л.С.ヴィゴツキーと
A.M.シチェルビナとの往復書簡
渡邉, 健治; 高木, 潤野
東京学芸大学紀要. 第1部門, 教育科学, 56: 293-307
2005-03-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/2084
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要1部門 56
pp . 293 ∼ 307, 2005
1920年代ロシア障害児教育の証言
─ Л.С.ヴィゴツキーとА.М.シチェルビナとの往復書簡* ─
渡邉 健治**・高木 潤野 訳***
特別ニーズ教育
(2004年10月29日受理)
のいくものである。また,ヴィゴツキーは結核で二度
解説
ここで翻訳紹介する論文は,Р.Л.ゾロトニツカヤ
入院し,一度目の発病で完治しないままに仕事に復帰
が旧ソ連時代に「障害児学誌」(1992年1号)にЛ.С.
し,驚異的な業績を残すことになる。が,しかし,ま
ヴィゴツキーとА.M.シチェルビナとの往復書簡を掲
たそのことが彼の生命を縮める結果につながったと考
載したものである。ヴィゴツキーの論文(手稿も含め
えられる。彼の闘病生活のこともこの書簡によってそ
て)は,ヴィゴツキー著作集全5巻においてほとんど
の詳細の一端を知ることができるであろう。
(渡邉健治)
のものが収められている。しかし,研究者同士が当時
の状況や心境について親密に,しかも生々しく書簡を
交わしたものが再現されたのはこれが初めてである。
この論文の目的は,二人の心理学者,Л.С.ヴィゴ
二人の書簡は1924年9月から1934年5月まで続いた。
ツキー教授とА.M.シチェルビナ教授 1)とのあいだの
そのなかでも1924年∼26年のものが多く再現されてい
いままであまり知られていなかった書簡を公表するこ
る。その他の時期のものは,書簡自体が取り交わされ
とである。
なかったのか,あるいは,保存されていないためかは
定かでない。
私が綿密に調べたシチェルビナ文庫2)に,完全なま
まのヴィゴツキーの書簡の原文が残されている。シチ
1924年は旧ソビエトの障害児教育においても画期的
ェルビナの書簡については,当然のことだが文庫には
な年である。Л.С.ヴィゴツキーが障害児教育史の上
写しのみがあった。この写しは,視覚障害の教授の妻,
で登壇する時期であり,また,その出現の舞台となっ
А.П.ゲイェフスカヤ・シチェルビナ3)が夫の口述を要
た未成年者の社会的法的保護第2回大会が開催された
約して書いたもので,彼女はそれを保管することが習
時期でもある。1924年7月からヴィゴツキーは教育人
慣となっていた。シチェルビナの書簡の写しのうち,
民委員部の障害児課に勤務するようになり,未成年者
ここではいくつかを選んで用いることとするが,より
の社会的法的保護第2回大会の障害児教育部会の準備
深い研究は今後の研究者の仕事となろう。
の責任者になっている。ここでの書簡ではこの部会に
この文章の執筆者である私は,心理学者でも盲教育
おけるА.M.シチェルビナ教授の報告をめぐってのや
学者でもないが,それでも以下に掲載する書簡は盲教
り取りが具体的に示されている。ヴィゴツキーはこの
育学の歴史にとっても,また同様に書簡の書き手両者
大会において,障害児と正常児の発達の筋道の共通性
の性格描写にとっても,疑いのない価値を有している
や障害児と健常児の統合教育の観点など,斬新な方向
ことを確信している。この二人の学者の書簡には,科
を打ち出す。この時期に統合教育的観点を提起するこ
学的な諸問題における相互理解と一致,大きな事業に
との先見性に驚きを隠せない面があるが,それもシチ
おける悩み,そして親友としての思いやりが満ちてい
ェルビナの影響を受けていたということを知れば納得
る。書簡から,いかにして彼らの仕事上のかかわりが
* Р.Л.Золотницчкая, Переписка Л.С.Выготского с А. М. щербиной,Дефектология.1992.(1)
** 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1)
*** 東京都立養護学校
− 293 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
親友の関係に進展していったのかが検討できる。シチ
化−歴史的理論は,反動的哲学概念として批判にあい,
ェルビナがモスクワに立ち寄る時には,いつもヴィゴ
却下され,彼の研究は時として似非科学的なものだと
ツキーのお待ちかねの客であった。ヴィゴツキーの未
評価された。ようやく30年後に,ヴィゴツキーはソヴ
亡人であるローザ・ノエブナが私に語ってくれた話で
ィエト心理学の創始者のひとりとして認められた。
現在では,彼は我が国のみならず外国でもよく知ら
は,茶話会はいつも賑やかで親しげであった。
ヴィゴツキーとシチェルビナの科学的業績の完全な
れ,尊敬されている。意外にも,ヴィゴツキーの評価
評価をしようとは決して思っていないが,この二人の
は,科学からは離れたところ,しかし本質的には児童
科学者の簡単な紹介をすることは無意味なことではな
心理によく通じている人,例えばイタリアの作家ドゥ
いだろう。
ジャンヌ・ロダーリの言葉の中に見いだせるかもしれ
レフ・セミョーノヴィッチ・ヴィゴツキー(1896−
ない。つまり彼はこの学者の研究の一つを「Л.С.ヴィ
1934)は著名なソヴィエトの心理学者,障害児学者で
ゴツキーの『児童期における想像と創造』の著書は銀
ある。彼はモスクワ国立大学法学部とシャニャフスキ
と純金とがちりばめられている」8)と評している。
ー大学歴史−文学部4)を修了し,ゴメルで文学の教師
もしヴィゴツキーの名前が普及する必要がないほど
として勤務し,同時に懸命に心理学を研究した。第二
無条件で認められていれば,А.M.シチェルビナの名
回精神神経学大会ですばらしい報告を行った後,名声
前もこれまでよく知られていたであろう。シチェルビ
を得,心理学研究所(今日のソ連邦教育科学アカデミ
ナのものはロシアの百科事典のどこにも,どの文章に
ー一般心理学及び教育心理科学研究所)に招かれ,そ
もない。初めは学者の名前に影を落とすような,政府
の年1924年にモスクワに転居した。彼が当時,特に興
筋による疑念が原因となり9),後には忘却が長い間続
味を持った問題の一つは,健常児と障害児の発達の法
いたためであった。
則であった。数多くの実験的研究によって,ヴィゴツ
アレクサンドル・モイセヴィッチ・シチェルビナ
キーは,社会的諸条件を子どもの成長における基本的
(1874−1934)はポルタワ県プリルーキ市(現在のチェル
要因とみなしつつ,これらの法則の共通性を根拠づけ
ニゴワ州)で生まれた。生後3年で不幸な出来ごとに
た5)。
よって視力を完全に失った。ただ,もって生まれた才
専門家達がみなしているように障害児の領域でのヴ
能と文化的な環境のおかげで,彼はしっかりした家庭
ィゴツキーの業績は,『障害児学の諸問題の生産的理
教育を受ける事ができ10),そのことがその後,彼が聴
論的研究にとって,これまで基本的なものとなってい
講生としてプリルーキ中等学校を金メダルで終えるこ
る』6)。
とを可能にした。1905年にシチェルビナはキエフ大学
ソヴィエトの心理科学におけるヴィゴツキーの最も
歴史−文献学部の古代文化専攻を好成績で終えた。彼
大きな貢献は,彼によって確立された心理発達の文
の学問の指導者はГ.И.チェルパノフ教授だった 11) 。
化−歴史的理論である。
「カントの物自体に関する学説」でシチェルビナは大学
ヴィゴツキーの見解によれば,心理学は多かれ少な
の金メダルを受けた。
かれ実生活上の問題解決のために現実的な援助をする
1909年から1918年まで,シチェルビナはモスクワ大
ものでなければならず,単に教授のための理論的対象
学の講師であり,そこで心理学,倫理学,倫理学史,
であってはならないのである。
古代ギリシア哲学や,一連の選択科目を教えた。同時
彼の後継者の語るところによれば,『Л.С.ヴィゴツ
に,第一級の教師だけが招かれるモスクワ学校管区附
キーの求めたものは,科学的心理学と実践的心理学と
属の中等学校教師の1年間の準備クラスで論理学を講
をより密接に結びつけることを可能にすることであり,
義した。同じ時期にシチェルビナは当時盛んになった
その現実性は今日でも失われていないと我々は思って
「女性問題」12)に関心を持った。
いる』7)。
第一次世界大戦の結果,多数の障害者が生じ,その
Л.С.ヴィゴツキーは非凡な才能によって32歳で教
なかの多くを盲となった軍人が占めた。シチェルビナ
授となり,子どもの心理に関する一連の著名な研究を
は,障害者の労働の制度化の計画や彼らの点字の読み
行った。それらのうちの多くが現在でも専門家に利用
書きの教育計画を作成した。このときから,シチェル
されている。しかし,ヴィゴツキーの存命中と夭逝後
ビナは活動の重要な位置を盲教育学にあてた。彼は,
のはじめの10年間は,知られているとおり,彼の業績
社会のなかでの盲人の権利の平等のために真の闘士と
は当然なされるべき評価を受けなかった。その上,ス
なった。彼の多数の公開講座,研究報告,日常活動は
ターリン崇拝の時代には,彼によって確立された文
視覚障害者の可能性の宣伝,彼らの宿命の軽減,彼ら
− 294 −
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
Α.М.シチェルビナのЛ.С.ヴィゴツキーへの書簡
を有用な社会的労働に就かせることに向けられた。
帝政ロシアにおける障害児学校の少なさと,それら
の望ましくない状況(1914年までロシアでは約20,000
Ⅰ.
人の盲児がいたが,そのうち5%のみが学校で学んで
1924.12.22.
いた)を考慮して,シチェルビナは1916年に政府に対
プリルーキ
して視覚障害児の義務教育,卒業後の彼らの労働権,
大いに尊敬するレフ・セミョーノヴィッチ!
そして能力がある場合の晴眼者と共同の高等教育を受
私がモスクワを離れてから,今日でちょうど2週間
になります17)。しばらく考えていたのですが,やはり
ける権利の請願を行った。
1918年にシチェルビナはモスクワ大学の教授となっ
あなたに若干の解説と助言をお願いすることに決めま
た。1919年に彼は哲学講座を作り,その長となるため
した。すでに3年,盲人に関する事業をすすめるため
エカテリーナ(ドニエプルペトロフスク)大学に招か
に,自分の知識と経験を最大限にいかす方法をさがし
れた。
ています(たとえば2年半も前に,盲人に関する事業
シチェルビナはポルタワにあるプリルーキ教育テフ
の研究と子どもの教育についての新しい理念の宣伝の
ニズムと国民教育研究所(ИНО)の創立者の一人で
ためにウクライナ内の無料旅行券が私に確約されてい
あり,1920年から1929年まで心理学,児童学,倫理学
ましたが,現在までこれは実現していません)。しか
の講師であった。その時に彼は,自分が作った盲教育
し,まるである種の闇の力が私の活動を邪魔している
学のコースの教授プログラムをはじめて導入した。
かのようです。ふと,В.アユイの運命との対比が頭
1929年からシチェルビナは,彼によってつくられた
に浮かびます18)。この活動家にアレクサンドルⅠ世が
キエフ国民教育研究所障害児学部附属盲人学科長とな
同情しました。3年間ペテルブルグへの彼の移転に関
った。この学科の基本的な目的は,障害児学校教師の
する交渉が命じられたのですが,ロシアの主都に到着
養成であった。弱視児の職業準備教育の教員の不足が
しても,彼は自身の創造的イニシヤチブを発揮する土
いかに大きいか,そのような教員の必要性がいかに大
壌を見いだせませんでした。この対比を悲しむべきか
きいかをシチェルビナは知っていた。学生達に十分な
喜ぶべきかわかりません。
知識を与えるため,彼は一連の特別なコースをつくっ
私の前に,最近いくらかの可能性が開けてきました
た。しかし,盲人学科の存在する事実自体さえ,教育
が,あなたが計画した方法が良い結果になりそうに私
学の保守的な活動家の激しい抵抗をひき起した。この
には思われます。私のとった方法と,とり得た方法と
多勢に無勢の闘いは,生活条件の困難を倍加し,シチ
を比較することは困難なので,私が間違っているかど
ェルビナを死に至らしめた13)。
うかを判断することはできません。
シチェルビナの名は忘れ去られた。薄情で不当なこ
大会17)までは,モスクワでの私の仕事に関わる問題
とに,彼は哲学者のみならず盲人学者にさえ忘れられ
は,大会後にはいずれにしろ解決されているだろうと
た。彼についての記述は,特殊な出版物においてみら
の確信をもっていました。盲人研究部門における研究
れるが,しかし,この優れた学者であり市民の生活と
とあなたの監修で出版される選集,そして総会での記
科学的教育学的活動についての然るべき著作は出現し
念すべきあなたの演説19)が私に新しい希望を与えてく
なかった14)。
れました。しかし,大会は終わりましたが,やはり問
確認するには苦渋を伴うが,西ヨーロッパ,とりわ
題はすぐには前進しないようです。勇気をだして現実
けいくつかのA.M.シチェルビナの著作15)が発表され
を直視しましょう。あなたの非常に興味深く内容豊か
ているドイツにおいては,故国とは比較にならないほ
な報告が読みあげられたにもかかわらず,聴衆の数は
ど彼は有名で尊敬されている16)。
目立って減っていき,会場はすっかり空になってしま
А.M.シチェルビナは自分の60歳の誕生日の2ヶ月
いました。このことは間違いなく特徴的な意味をもっ
前,1934年1月7日に永眠した。キエフのルキヤナフ
ています。上述の事実は次のことを物語っています。
スキー墓地に埋葬されている。彼の墓は保護されてい
つまり,盲,聾唖,知的障害者の教育においては『慈
る。
善の対象としての障害者』という観点は,早々には取
り除かれません。なぜなら,より能動的な教育者でさ
***
書簡は,原本の正字法のまま複製され,略語や区別
え,どんなによくても,この観点をより高めることは
できないからです(第二回全ロシア大会資料29頁,第
(アンダーライン)はすべてそのままにされている。
3テーゼ参照)。
− 295 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
よくはわかりませんが,私になんらかの落ち度があ
ったとは思えません。しかし,人民教育部への招聘の
かに困難に充ちていようと,ただ希望だけが残るでし
ょう。
問題が疑いなく生じていることを確信できますし(そ
残念ながら,12月5日に私たちが出発するまで,あ
の問題には,十分な根拠があると思います),私は児
なたには会いませんでした。П.Я.エフレモフ25)が書
童学及び障害児学研究所で12月5日に講義を行うこと
簡で私に報告したので聞いたのですが,同志ティザノ
を決め,ファリク20)との会談では今年度の第2学期に
フはおそらく12月8日の出発の前には私との会話をさ
研究所で研究に着手することを決めただけにしました。
けていたのだと思います。これまで私はどんな通知も
来年まで仕事を延期することは,非常に好ましくない
受けていません。私はモスクワで思いがけなく,教育
ように思われます。たしかに,私はできることを地方
人民委員部(НКП26))の仕事をあなたから『奪う』
で行ってきました。すなわち,新聞にその大会とあな
という意図があることを聞きました。あなたの研究活
たの監修で出版された選集に関して手記を書いて送っ
動にとって,おそらく必然的であり,不可避ですらあ
たり,学校管区の教員大会21)やその他の報告のための
るということを認めながら,にもかかわらず私は自分
準備をしたりしてきたのです。しかし,モスクワでそ
の悲しみを隠すことができず,私に伝えられたものを
の仕事を行うのははるかに生産的であると思われます。
お知らせすることもしませんでした。そのことが盲・
私に対して,1)児童学及び障害児学の研究所におけ
聾唖・知的障害者の利益になる活動に取り返しのつか
る仕事を実施するために,2学期のはじめから行くか
ない損失をもたらしました。私はそのことについてあ
どうかという,純粋に実践的な問題が生じています。
なたと話し合うことを望みますが,出発前にはできな
念のため,私は届け出を当該の委員会に送ります。が,
いでしょう。それらの不安はどれだけ現実的な意味を
もし必要であるならそれを研究所宛に送って下さい。
持つのでしょうか?
言うまでもなくそれは以前から送る必要があったので
あなたに対しお詫びの言葉もありません!
すが,私はティザノフ22)からの通知をずっと待ってい
私の仕事を組織するためにあなたにどれだけ負担を
たのです。今はできるならそれを,反対の性質を持っ
おかけしてしまったのでしょうか。これ以上あなたを
た届け出に代えるべきでしょうか?あなたは重要な地
困らせるつもりはありません。
位にいるので,私にその事業での助言を与えて下さい。
2)度々あなたに言い,書簡にも書きましたが,ウク
尊敬すべき教授へ А.シチェルビナ
ライナのこの職場における良好な関係を確立するため
に,研究所での講座か,あるいは教育人民委員部での
追伸
仕事のどちらか,いい場合にはもちろん両方が私に委
大会の資料の印刷状況はどのようになっていますで
任される通知を得ることが,非常に重要なのです。私
しょうか?私の報告によって,決定の修正が行われる
には,すぐにそれを受けることができるかどうかが明
でしょうか?大会の決定を送っていただけると約束し
らかになることが重要なのです。3)いうまでもなく,
ましたが,もちろん私はそれらを受け取っていません。
もし私に妻と共にどこかの部屋をいただけるのならば,
私がとりわけ興味をもったのは,あなたの報告につい
たとえすぐにではなくても,そしてそれほどよくなく
ての決定と盲の事業についての部門の決定でした。私
ても,私はモスクワにゆくことができます。4)新し
は出発前に自分の要約をП.Я.エフレモフに渡しまし
い盲教育の考えを普及するために23),私が全ソ連邦教
た。
員大会に参加して発表することがどれだけ重要なこと
か,あなた自身ご存じだと思います24)。それが容易で
Ⅱ
ないことは十分承知しておりますし,思うにその問題
1925.6.16.
は審議されているのでしょうが,私は決定に関しての
プリルーキ
尊敬するレフ.セミョーノヴィッチ様!
報告をもらっていません。
イニシヤチブという点でそれほど期待できませんが,
教育人民委員部社会的教育・総合技術総管理局(グ
普通学校の従事者に仕事に興味を持つようにする必要
ラフソツボス)から依頼され,私が書いた2つの論文
があります。しかしそれを行うのは人里離れた田舎に
を未成年者社会的法的保護部(СПОН)に同時に送
生活しながらでは容易ではありません。盲人を普通教
付(配達証明付き書留郵便)いたします。1つは方法論
育の施設に入学させることについての大会の決定に関
的な論文−31頁(大判),2つめは晴眼児と盲児の共
しては,心理学的に全く明らかな理由があるので,い
同教育に関する論文−35頁です。もし郵便物がきちん
− 296 −
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
と配送されるならば,私に指定された期限の6月25日よ
ス未成年者社会的法的保護部が予定している仕事を実
りも早く,未成年者社会的法的保護部に届くはずです。
現したいと思っております。しかし,おそらく仕事が
もちろん,必要な場合には若干の変更,補足,ある
あるだろうという期待だけではほかの仕事を断ること
いは削除をしても結構です。おそらく私の示した見解
はできません。それゆえ,今後の仕事の調整について
には,本質的には厳しい反対はほとんど生じないでし
の若干の指示であったとしても,ハリコフへたつ6月
ょう。しかしそれらはおそらく,指定した人の要求に
26日までに,あなたから情報を受け取ることが大変
は,形式的には適してはいません。私は今の仕事に十
重要なのです。ハリコフでは,書簡は教育人民委員部
分な注意を割くことはできません。年末までに教育学
(アルチョーム通り)の教育視学官のА.M.シチェルビ
科における通常の授業のほかに,1年の総まとめをし
ナ教授宛に送れます。パヴェール・パヴロヴィッチ28)
なければなりませんし,90人近くの聴講者の評価をし
の話によれば,4月29日に未成年者社会的法的保護部
なければなりません(私はとくに厳格な教師だと思わ
に私がすでに書いた盲児についての報告書が,5月末
れているので,厳しくしなければと思います)。しか
になってもまだ届いていないというので,私は悩んで
し,重要なことは仕事で身近に接している人との接触
います。6月3日に私は地方の郵便局の支局に照会し
なしで責任ある論文を書かねばならないことなのです。
ました。私に一週間後に返事をすると約束しましたが,
私の個性からか,活発な人たちの反対,質問,疑問な
今日まで返事はありませんので,今日また調査を依頼
どに答えねばならないとき,私の思考は非常に集中的
します。
に働きます。
最後に,私が大きな意義を見いだしている事業に就
1916年以来,私は盲人の教育の問題について習熟し
けるようにしてくれたことに,お礼を言わせて下さい。
ていましたが,晴眼者も盲人も私をあまり理解せず,
不適切な条件にも関わらず,常に委された仕事を私は
また私が指針としているモチーフを理解しませんでし
喜んで行っています。その仕事は生産性が高いので,
た。うち明けて言いますと,この点でレフ.セミョー
すばらしいものだと思っております。
ノヴィッチ,あなたは私に感動を与えてくれました。
あなたは私たちの考えの本質をどういうわけかすぐに
追伸
見抜き,私が期待もしていなかった見解を私には関係
臨時の委員会の仕事に参加するためのモスクワへの
なく述べたのです。私は喜んで両手をあげてその意見
招聘が,夏休みに予定されていることを4月にあなた
に賛成しました。言うまでもないことですが,あなた
が示してくれましたが,まだ正式には手続きがされて
のような人の反論,質問,疑問,そして指摘を知るこ
いません。
とは私には非常に価値のあることなのです。
仕事を行ううえでどんな場合にも重要なのは,私が
Ⅲ
述べてきた見解や提起した施策を主張できること,そ
1925.10.23.
して,それらの実現に参加する可能性が私にあるとい
プリルーキ
うことです27)。
拝啓 レフ・セミョーノヴィッチ様
私はコースの仕事を数日中に終え,6月26日にハリ
ずいぶんご無沙汰しておりましたが,再び書簡を差
コフに出発します。そこではウクライナの高等教育施
し上げます。それはあなたが最近関心をもったことに
設の教育指導者のためのコースゼミナールにおいて,
ついてであり,その理由をよくおわかりでしょうが,
一般教育学の問題に関して3つの演説をする予定です。
私もとても関心をもっていることです。
1)質的な調査に関すること,2)教科科目の学習に
活動を成功させるために,新しい考えの普及が非常
関する指導方法,3)心理−教育学的技術について。
に重要であり,その場には印刷物が強力な援助になり
3月に予定されていたとおり(このことは私が以前に
ます。私の考えが印刷される事を確信し,私はあなた
あなたにお話ししたことですが),ハリコフでのコー
の援助によってロシア共和国グラフソツボスに3つの
スゼミナールの仕事が6月29日からさらに2週間続き
論文を提出しました。1)「盲児の教育において何を
ます。できるなら,これは延期したいのですが,この
目指すべきか」29)という私の論文の要旨,2)「盲児の
点については何の指示も受けていません。ハリコフの
ための学校に関する規定」についての「方法的書簡」30),
件についてはウクライナの社会保障人民委員部から私
3)「盲児と晴眼児の共同教育について」31)。私は急い
への委任の可能性が残っています。
でこれらの仕事を完成させ,決められた期日までに提
もちろん,まず第一に,ロシア共和国グラフソツボ
− 297 −
出しました。私は,厳しくともそれが印刷され,批判
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
を受けることを望みます。どちらも望ましいことであ
外国から文房具を入手して,仕事は順調になりました
り,新しい成果へと導いてくれるでしょう。ですが,
か?
アンナ・ペトローヴナがよろしくと言っています。
どうも予測できなかったことが生じています。つまり,
仕事は外見上そのままであって動きがないのです。私
は悪用される可能性については心配していませんが,
Ⅳ
1925.11.2.
活動の生産性を妨げる外的な条件を懸念しています。
主たる問題は私がどのように行動すべきかを知らない
プリルーキ
ことです。すなわち,順風を期待するのか,すでに私
尊敬するレフ・セミョーノヴィチ様,ただいまあな
が公表した見解の普及のために新しい道を探すべきか
たの書簡を受け取りました。おそらく私の書簡が,今
が分からないのです。それでこの,ウクライナの地で
のあなたの健康状態にとって無用で有害な不安の原因
何をするべきなのでしょうか。新しい法律に基づいて
になっているのではと心配ですが,そういう私の思わ
自分の著作権を明らかにするのはここプリルーキでは
ぬ落ち度を僅かでも和らげたく,急いでお答えいたし
困難です。というのも私の著作権は,一時的にグラフ
ます38)。
ソツボスに譲渡することになるからです。もし,私の
悪条件にもかかわらず,事業にひとかたならぬ援助
危惧が大げさであったならお許し下さい。ですが仕事
を与えてくれましたので,個人的にも盲人の事業にと
に関心を持っている人ならどうしてこの停滞に無関心
っても,あなたのことで非常に心をいためております。
でいられるでしょうか。
私は以前にもお手紙いたしましたように,今でもその
少し思いがけないことなのですが,最近9月24日と
独自の事業には心からの共感を得られませんし,あな
10月9日に第二国立大学 32)障害児学部の幹部会から,
たのなかにみられるすぐれた理解にも同意できません。
はじめはガンデル教授を経て,後には直接に通知を受
もちろん,心理学に関するあなたの科学的業績は私に
けました。それは4学年の盲児の社会的教育について
大きな希望をもたらしてくれております。
ゼミナールの授業を3年間受け持ってほしいというこ
過度の緊張する仕事から解放され,南の快適な場所
とでした。仕事の条件についても,そして私が教官に
で病んだところを回復できるように,強く望んでおり
選ばれたことについてさえ何の指示もありませんでし
ますし,そうなると信じております。御自身の健康に
た。通知を出した人たちは,特別な方策がなければ,
十分配慮することは,とりわけあなたのような活動家
そして十分な費用がなければモスクワに住むことは困
にとっては,社会的義務の遂行に相当するのであると
難であり,ましてや創造的な活動をすることは困難で
いうことをくれぐれも忘れないで下さい。
あることをおそらく理解していないでしょう33)。それ
盲人が参加できるようあなたが行ったあらゆること
はどういうことなのでしょうか?事業に対する故意の
に,いま一度こころから感謝申し上げます。おそらく
皮肉なのでしょうか,あるいは全く無関心なのでしょ
将来,それもすぐには,あなたが始めた事業を支持す
うか?もちろん,事業にとって必要ならば,私は飢え
る人々がまさかいなくなることは考えられません。
にも耐え,困窮も辞しませんが,はっきりした情勢か
シチェルビナ教授39)
らみても仕事にとっての客観的な条件が好転すること
を期待する根拠は少ないでしょう。
追伸
レフ.セミョーノヴィッチ様,おそらくあなたにと
私が女性として*関心をもっている問題があります。
って最も縁遠いと思われる考えや気持ちをあなたと語
それはあなたのそばにいる人々,あなたが医師からの
り合うことをお許し下さい。にもかかわらず,もしモ
指示を遂行しているか見守っている近親者(例えばお
スクワでなくウクライナであるなら,私は何かもっと
母さま,妹)のことです。私の心からの御挨拶として,
うまくできるのではないかとがっかりせず期待し続け
御自身の健康のなるべく早い回復をお祈りいたします。
ます。今年から,プリルーキでの盲教育のための師範
何の助けにもならないであろうことを痛く感じてはい
学校の仕事はうまくいき始めました34)。
ます。
あなたはおそらく外国で,自分の興味のある観察に
せめて,時折りでもあなたの健康状態についてのお
関連した報告書をつくったのでしょう。それを入手し
知らせを受け取れたらと思います。
やすい出版物にするかどうかお知らせ下さい35)。
アンナ.シチェルビナ
私のために4月にアヴェルバフ37)から手に入れよう
としたビュルクレン36)の本は,手に入ったでしょうか。
− 298 −
*追伸は,アンナ・ペトローヴナ・ゲイェフスカヤ・
シチェルビナによる。
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
Α.Μ.シチェルビナへのЛ.С.ヴィゴツキーの書簡
Ⅴ
1926.12.14.
Ⅰ
1924.9.1.
プリルーキ
モスクワ
親愛なるレフ・セミョーノヴィッチ様
この間,あなたのことを度々思い出し,その都度,
体調不良なのだから御自分の仕事をうまくできている
尊敬するアレクサンドル・モイセヴィッチ様!
私は2週間の休暇中モスクワから離れておりました。
かかどうか考えています。また,御自身の問題によっ
帰ってきてからあなたの書簡を手にしました。遅れが
て苦しまないでほしいと,だれもが考えています。11
生じたのは私の責任ではなかったことと,その遅れに
月26日に,ようやく私はСПОН(未成年者社会的法
ついてはなはだ遺憾に思っていることを,取り急ぎお
的保護部)附属方法論委員会のメンバーへの任命につ
答えし説明します。
いての通知を受け取りました。よくわかりませんが,
順を追ってお答えします。
ここからなんらかの実際の結果がでるのではないかと
1)組織局からの書簡が,全ての報告者に対する回
思います。1925年の4月に私が委員会のメンバーに任
状として,間違って,機械的にあなたに送られました。
命されるよう問題を取り上げて下さったのは今から1
あなたの文章は私が渡しました─もう今後は送る必要
年半前でしたね40)。
はありません。
1月の下半期にモスクワに集まり,あなたとお会い
できることを楽しみにしています。
2)大会44)は10月後半か11月前半にまで延期されま
した。期日が決められたなら─私はあなたにすぐにお
盲人の活動に関する研究センター設置という問題が
知らせします。
実現に近いと考えた時に,ついでに,アンケートによ
3)あなたが立てたテーマでの対談への巻頭のあな
って社会の種々の領域における情報を,計画的に集め
たの言葉に関する問題は─これもまた最終的には決定
ようと考えました41)。私は....と思う....文化的関
されていません。木曜日に国家学術審議会において,
係の社会において42)。実際今のところ,ほとんど本を
私たちはあなたのテーゼとテーマを報告します。会議
手に入れてはいませんが,そのかわりすでに『ビュル
の後,問題が判明したらすぐに,あなたに報告します。
クレン(の本)』,雑誌『盲人の友』,『速記の指導』を
4)あなたのここへの召喚に関する問題はいたると
持っていますし,とりわけ最大の関心をもって点字雑
ころで首尾よく解決されました。あなたの到着にとて
誌,(マールブルグからでた)視覚障害のアカデミー
も大きな期待が寄せられています。しかしながら,こ
協会の『視覚障害者のための教育制度,視覚障害の大
こでも最終決定はすぐ後に開かれる新しい研究所45)の
学生のための大学図書,大学施設と相談所に関する論
幹部会議まで延期されることになります。研究所長で
集』を読んでいます。外国での戦争のあと盲人につい
あるファリク博士と同志ティザノフは,その解決のた
ての制度における大きな前進があったことがわかりま
めに具体的な方法を採ろうとしていることを私に話し
した。すなわち盲人の生活の確立のための種々の手段
ました。すなわちコースと授業をわけること,部屋を
(方法)が根気よく探究されています43)。
どうするかなどです。
私達は5月1日以降プリルーキを出発する予定です。
あなたの御家族に心からの御挨拶をさせていただきま
近日中にこのことはすっかり解決します─その時に
はすぐにお知らせします。
モスクワはまだ(学術的なものは)集まってもいな
す。
アンナ・ペトローヴナからの伝言です。
いし,盛り上がってもいません。いたるところで夏休
おそらく,私達は直接モスクワには行かず,まずポ
みが続いています。授業はようやく10月第1週に始ま
ります。そのためすべてのことが遅れています。
ルタワとハリコフに立ち寄ります。
それゆえ,近日中に私からのもう1通の書簡をお待
ちいただきたいと思います。
あなたが書いてくれるのだから,あなたの書簡は単
に私から全ての不安を取り除いてくれるだけでなく,
このうえない喜びを与えてくれます。あなたに心から
言いたいのですが,あなたとのこのような仕事上のや
り取りや連絡でさえ,モスクワの夏にあっては,私に
とても大きな喜びを与えてくれております。私はまさ
− 299 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
Ⅲ
に,話しましたように,あなたに深く感謝する生徒で
1925.3.6.
あり,深く注意を向ける読者であり聴き手です。
モスクワ
敬白
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
Л.С.ヴィゴツキー
2つの入り交じった感情−悲しみと喜び−をもってあ
追伸
もし私に必要な部分があなたのところでみつかった
なたの書簡を読みました48)。もし,あなたから便りを
なら,あなたからの書簡をとても嬉しく思います。何
受け取れたら嬉しく思います。出口がみつからず,独
なりと私にお申し付け下さい。
力でやらねばならず,そして天分と科学的思考を持つ
奥様によろしくお伝え下さい。
あらゆる労働者が我々の仕事では英雄的に働かなけれ
Л.В.
ばならない,そういう新しい証拠に悲しみました。モ
スクワプランが駄目になった後では,あなたの仕事が
Ⅱ
どのように用意されるのかわかりません。これまで,
1924.11.14.
盲教育学講座に関する問題は解決できない状態にあり
ます49)。1)この場合にも,レニングラードにおいて
モスクワ
尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
何人かがこの学部に籍を置いています。仕事は退屈で,
取り急ぎあなたにいくつか述べたいことがあります。
駄目で,紋切り型になっています。2)児童学研究所
私の返答の遅れはいずれも私の責任ではありません。
(所長−ファリク)はこの6月で廃止されます。学生
なぜなら私自身は組織者でも管理者でもありませんし,
の一部はレニングラードに移り,一部は第二国立大学
また研究所45)と教育人民委員部のこれらの事業では大
に移ります。すべてが不安定です。この点で,あなた
きな混乱があります。何とかこのことを私はつきとめ
がこれらの大学で自分の住まいや賃金との問題に関係
ることができました。
してないということは,喜ばねばなりません。
1)研究所においてあなたは教授に選ばれました。し
3)レニングラードでは3つの教育大学が1つの一
ばらくの間一人の学生がこの部にいました。授業はま
般大学に統合されます。それでこれからの私たちの仕
だ3学年,4学年では始まっていません。ファリク所
事は次のようになるでしょう:障害児教育大学は私た
長はあなたの居室や研究室についての問題を解決し,
ちのところにはできないでしょう。第2モスクワ国立
あなたに報告することを約束しています。
大学附属障害児学部あるいは学科の開設が問題となり
2)大会は26日です。あなたを正式にこの書簡と同時
得ます。そこで仕事は再組織され,盲教育学講座は改
に招きます。あなたの報告が決まりました。我々は首
めて設置されるでしょう。心配ですが,この仕事にあ
を長くしてあなたを待っています。
なたが関わることについては,はっきりと話すことが
3)教育人民委員部において問題は適切に解決されま
できません。なぜかといいますと,今年の出来事に関
したが,当局の機構はまったく滞っております。あな
係はしていませんが,責任を感じているからです。し
たの到着とともにこれはすべて整うと,同志ティザノ
かし以下の考えをそのままにしてはおけません。この
フが保証しています。
こと(上記のこと)は盲教育の領域の研究的な力量によ
4)私は教員の大会への出席に関するあなたとの連絡
る私たちの極度の貧しさ(=0です)からみちびきださ
を同志ベムにまかせました46)。このことは十分に可能
れる論理的不可避的帰結であるということです。あな
だと彼は言っています。あなたはM.Н.ポクロフスキ
たはモスクワに来なければなりません。私があなたに
ー47)の引用について,あなたのことばで内容を表明す
書いていることがその時にわかるでしょう。
ることについて,そして大会の通知状にあなたのこと
今度はあなたのことにふれましょう。あなたの蔵書
50)はきちんとされています。蔵書は傷もついていませ
ばを載せることについて申請すべきです。
んし,何の心配もいりません。
奥様によろしくお伝え下さい。
個別の資料集になるか全体の報告書の一部になるか
敬白 Л.ヴィゴツキー
はわかりませんが,大会の資料集が印刷物になること
になります。あなたは要約51)を進めて下さい。いただ
いた報告書に感謝しています。諸決定が今やっと印刷
されましたので,書簡も一緒に送ります。
最後になりましたが,盲教育学と盲人心理学の諸問
− 300 −
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
Ⅴ
題についての新しい本の問題があります。心理学研究
1925.10.28.
所は目下のところ外国の書籍から何も得ていません。
私たちは「科学的研究所連合」の図書館の文献を利用し
モスクワ
ています。教育人民委員部では私達は多くの書籍を注
セルプホフスク17番地1号住宅
文しましたが,まだ届いていません。届いたときには,
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
私が考えるに,あなたに一時それらをお渡しし,評論
あなたの書簡は悲しい状態の私のもとに届きました。
していただくつもりです。私自身,以下の著作を利用
私は病気にかかり,すでにふた月床についています
しました(主なもの):カール・ビュルクレン,盲人
(外国から帰ってすぐに病気になりました)。私は─以
心理学,1924年。すなわち,点字の解読。L・アンソ
前軽い結核にかかったのですが,今,それがひどくな
ルディ,盲人の心理学。L・アンソルディ,ビューラー,
っています。ベッドの中であなたに書簡を書いていま
盲人の知能検査,1913年。ビュルクレン,点字への批判,
す。いつベッドから出られるか─わかりません。医師
1913年。チュペレーク,読みと触覚,1913年。クレー
はすぐに治るとは言ってくれません。それゆえ,私は
マー,読み書きの授業法,1913年。レンク,盲人の夢
長期間,完全に生活と仕事ができなくなりました。そ
の生活,1922年。ヴェネセック,盲人による注意の表
れにもかかわらず,私のところに同僚がたびたび来て
情の誘発,1919年。
くれ,仕事を持ってくるので,今も(ベッドの中で)
今,思い付きました。雑誌『世界の書籍』を通せば
仕事との結びつきを断たずにいます。たぶん,じきに
全部注文できますが,とても高くつきます。
南の方へ出発することになるでしょう。その時には
それではごきげんよう。アンナ・ペトローヴナによ
(教育人民委員部の)ポチャーピンと書簡で連絡し合
ろしくお伝え下さい。
わなければなりません。私への書簡はモスクワから転
敬白 Л.ヴィゴツキー
送されることになります(私の新しい住所に)。
あなたの書簡は,重大な仕事に関わって生じる不安
Ⅳ
と,無意味な妨害による苦しみという点で,私ととて
1925.6.27.
も似ております。あなたも知っているように,非常に
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
劣悪な条件の中で我々は活動しています。いたるとこ
あなたの書簡を両方とも受け取りました。仕事がは
ろで戦って,勝ち取らねばなりませんが,私はそれほ
っきりしないために返事が遅れました。私は1週間後,
ど,戦闘的な人間ではないのです。同志ベムがグラフ
聾教育国際会議への出席と事業の研究のために,外国
ソツボスの長の地位を去りました。あらゆる事業が停
に出発します52)。委員会の仕事の遅れは,またしても
滞し,国家学術審議会の改革はさらに停滞しています。
お金のためです。そのため,すぐにはあなたを招くこ
我々は巨大なメカニズムのほんのちっぽけな一部分で
とができません。あなたの資料を受け取り,国家学術
しかありません。我々はあらゆる仕事を完了しました
審議会に渡しました。私にはあなたに,話し合いたい
が,国家学術審議会において何ヶ月も仕事は寝かされ
こと,考えていること,問題にしていることがたくさ
ており,あらゆる機関でそうなっています。私は病気
んありますが,すべて帰ってくるまで延期します。第
になる前は,仕事の手順が変わらない限りは活動に着
二モスクワ国立大学で障害児学部と盲教育学講座が開
手しないことを固く決めていました。しかし,病気は
設されるようです。私はあなたに応募して頂きたい。
私の力を奪ってしまいました。現在,我々の条件でも
もしあなたの到着が夏になるとしたら,国家学術審議
事業が正常に進展していることを示すことができます。
会はあなたの仕事に非常に興味をもっており,あなた
あなたの最初の論稿は,活版印刷に組まれて大会資料
を招いているということです。あなたの助力と我々の
集53)に収められ11月に発行されます。我々(すなわち
見解の一致をとても嬉しく思います。このこと以外に
障害児の教育の問題に関する委員会)による残りの二
も,私達が知りあえたことと学問を通じて友情をもて
つの研究54)は受理され,採択された後,印刷にまわり
たことは,個人的にとても嬉しいことです。アンナ・
ます。
ペトローヴナによろしくお伝え下さい。
著作権に関してはわからないのですが,もしウクラ
敬白 Л.ヴィゴツキー
イナで印刷できるようならば,著作権の許可を得るた
めに教育人民委員部と話し合いでちょっとした協定を
結んだ方がいいと思います。このことはグラフソツボ
スにとっての教訓となるでしょう。第二モスクワ国立
− 301 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
大学についてはまったくわかりません。あなたと同様
Ⅶ
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様
に,このような仕事のやり方に憤慨しています─これ
エリ・エス,は病気が続いており,私は彼の依頼で
は古い習俗です。共通の知人を通じて私は,アズブー
キン教授55)にこのことについて伝えました。
あなたに書簡を書いております57)。
何よりもまず,書簡と思い出をありがとうございまし
た。
さようなら。書くことが大変でした。
ごきげんよう。アンナ・ペトローヴナによろしくお
彼の健康状態はまったくよくなりません。彼はまだ
伝え下さい。今,もっているビュルクレンの本は私の
サナトリウムの病床にあり,多くの余病に耐えていま
もので,それをあなたに送るように依頼します。
す。最近は湿性の肋膜炎が彼をそこにとどめておりま
す。
敬白 Л.ヴィゴツキー
レフ・セミョーノヴィッチはあなたの仕事について
とても喜び理解していますが,ちょうどその時期大学
Ⅵ
1925.11.18.
セルプホフスク17番地1号住宅
には人々がおらず,一人の学者もいないプリルーキで
あなたが自分の仕事を行わなければならないことに,
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
彼は我慢できません。
急ぎあなたを安心させ,そして正直にお話ししたい
彼は学者が師範学校で仕事をしていることを大きな不
ことがあります。つまり,あなたの書簡56)は私に不愉
公平だと考えています。
あなたもモスクワにいらっしゃいませんか?
快な動揺をひき起すことなどまったくなく,それどこ
深く尊敬するアンナ・ペトローヴナによろしくお伝
ろか,私に生きる喜びをもたらしてくれるのです。二
番目の書簡と,その書簡の中であなたが言ってくれた
え下さい。
親切な配慮に対して感謝します。私のかなり豊かで騒
さようなら。
がしい生活の中では,人間的に心から話すことが稀な
心からの深い尊敬をこめて。
ので,親類でない人からそのような言葉を聞くと,心
−Р.ヴィゴツカヤ
ならずも感動します。
私の体の具合は良くなりません。近々,療養所へ移
ります(モスクワ内のサナトリウムに,その後おそら
Ⅷ
1926.12.25.
モスクワ
く南の方へ移ります)。
あなたに近々,あなたの論文が収められた論文集の
深く尊敬するアレクサンドル・モイセェヴィッチ様!
冊数分の印税が送られます。第二モスクワ国立大学に
私はあなたの書簡58)とアンケートの計画を受け取り
は,おそらく,障害児学部のもとで再度大規模な研究
ました。私は以下の様なあなたの考えと全く同じです。
活動を組織するような大きな計画は,なんにもないで
つまり,科学的見解をつくるためには私たちの関心と
しょう。あなたのコースでの講義のために,モスクワ
なる対象への一般的な見解を知らなければなりません
に行きますか?
─それらの見解が正しいかどうか,我々がそれらに依
Л.ポチャーピンに,私が外国から輸入したいくら
拠できるのか,それともそれらに反対しなければなら
かの資料,ビュルクレンの本などをあなたに送るよう
ないのかは,どうでもいいことです。人類によって,
に依頼します。
それぞれの地域で膨大な経験が蓄積されました─その
私には書くことも考えることも禁止されていません
経験は尊重する必要があります。もしこの経験が科学
ので,(一連の諸問題を入念で周到に検討できるので)
にとって否定的な意味を持っているとしたら,その経
書簡はとても嬉しいです。─もし元気があれば自分で
験が興味深ければ深いほど,事物に対する真の見解を
あなたに長い書簡を書くでしょう。
探求し,多くのものを説明できる客観的理由を示して
奥さんの思いやりには感謝していますと,よろしく
いるからです。この問題に関するすべての歴史的,人
お伝え下さい。私のところには─妻と娘(6ヶ月)が
種誌学的資料(民俗学)が非常に価値があることはま
おります。部屋を改修しました。
ったく疑いようがありません(すばらしいドイツ人の
研究─伝承,伝説,ことわざにみる盲人。私は関心を
ごきげんよう。
強く持ってインドや中国などの盲人についての情報を
集めています)。なぜ,我々と同時代の社会の見解が
− 302 −
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
ひろまってゆくのでしょうか?現在すべての地域で現
うな請願をキエフ国立大学と科学アカデミーに書いて
代への転換が起っています。結局,英雄叙事詩だけで
送ります。私は学長と申し合わせ,彼も同意しました。
なく,革命的流行歌まで興味深く集めております。ま
シチェルビナの回想録を私はアンドリエフスキーから
さに問題はここにあります。特に研究において大きな
も,あなたからも受け取っていません。首を長くして
関心をひくのは,盲人への態度についてのできるだけ
待っています。もっとも,どこで印刷できるかはわか
異なる地域での国際的な調査なのです。
りませんが。雑誌は,心理学も教育学も障害児教育学
とりわけ,アンケートはまったく<億劫でつまらな
もだめでした。それでも私は,回想録を発表するため
い>(プーシキンの言葉)という驚きを私に常にもた
にできることを文字どおりすべて行います。ドイツで
らしました。何しろこれは大衆の語ることなのです。
はシチェルビナの死に敬意を表しているのに,我が国
我々は何千もの事務的なアンケートをいっぱい行って
ではそれがないことを恥ずかしく思います62)。我々は
きましたが,実際に興味深く注目に値する大衆の話と
シチェルビナの回想の夕べを開きたいと思っています。
いうのは5∼10件もありません。私はいつも,大衆が
ガンデルに関しては,彼が何のためにシチェルビナの
このことについてどのように考えているのか,という
記事が必要なのか私にはわからないので,このことに
非常に異なった問題について,心引かれています。そ
ついてはあなたに助言することはできません。
れゆえ,私はあなたの理念を熱烈に支持します。モス
アンナ・ペトローヴナ,あなたに覚えておいていた
クワであなたと直接問題の文脈について,その実際の
だきたいと思います。私は,シチェルビナの思いでと
遂行についてなどを話し合うことを期待しています。
結びつくあらゆる事業に参加することを幸せに思いま
あなたが一連の書籍を全ソ対外文化連絡協会(ВO
すし,私達とシチェルビナとをつなぐ親密な関係をあ
KC)59)を通じて受け取ったことを非常に嬉しく思っ
なたとよろこんで維持したいと思います。
Л.ヴィゴツキー
ています。遺憾ながら,予算が尽きてしまい,彼らは
これ以上書籍を買うことができません。私には手も足
Ⅹ
もでません。
1934.5.14.モスクワ
アンナ・ペトローヴナに心から御挨拶申し上げます。
私の妻があなたによろしくとのことです。
親愛なるアンナ・ペトローヴナ63)。
シチェルビナの伝記の資料を受け取りましたので,
あなたをモスクワで待っています!
あなたに感謝します。可能な限り,これを[利用する]
Л.ヴィゴツキー
よう努めます。文庫の運命に関しては,(そのことに
ついての状況が分からないので,私が何か助言するこ
Ⅸ
とはむずかしいのですが)しかし,つまるところある
1934.5.1.
深く尊敬するアンナ・ペトローヴナ様!60)
何らかの決定を受け入れ,それを実現することが必要
です。このことが明らかになるまで,私は大学にあら
あなたの書簡へのお返事が遅れたことをお許し下さい
ゆる雑事からしばらく離れることを願い出ました。そ
(私は2通とも受け取りました)。私にとってもあまり
れ故,私がこのことで何をどのようにお手伝いできる
に不幸な出来事で.....それで書くこともできません
か,あなたの指示を待っています64)。
伝記をうまくすすめることができたら65),すぐにあ
でした。
アレクサンドル・モイセェヴィッチの死を私は辛い
思いで心から悼み涙にくれています。辛く悲劇的な別
れに耐え難い思いです。ある意味では,彼は文字どお
り完全な人間でした。間違いなく,あなたは私より彼
を知っていますが,でも,私はあなたに彼のことを話
します。私が彼を忘れないでいること,とてもシチェ
ルビナを愛していたこと,そしてしばしば彼との想い
出に浸っていることをあなたに分かってほしいのです。
彼の記憶を不朽に伝えることが必要です。私の考えで
は,あなたが書くことが最も理にかなっています。キ
エフにすべてを運びます61)。我々は,大学からこのよ
− 303 −
なたに伝えます。
あなたが健康でお元気でいることをお祈りします。
敬白 Л.ヴィゴツキー
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
註
註1)シチェルビナ・アレクサンドル・モイセェヴィッチ
(1874−1934):哲学者,心理学者,盲教育学者。彼に
ついては註9,10参照。
註2)シチェルビナ文庫は,彼の蔵書の一部も含めて,キエ
フのウクライナ社会主義共和国科学アカデミー図書館
手稿部,34番に保管されている。
註3)ゲイェフスカヤ・シチェルビナ・アンナ・ペトローヴ
ナ (1870−1944):『ベストゥジェブ大学の女子学生』,
青年時代に革命運動に参加,ポルタワ県のプシュカレ
フク村で教師を勤めた。1905年にА.М.シチェルビナの
妻となり,後継者であり献身的につくした援助者でも
あった。
註4)シャニャフスキー人民大学,モスクワにおける大文化
センター。国民教育の自由主義的社会活動家であるА.
Л.シャニャフスキー(1837−1905)の遺言による資金
によって1908年から1918年まで存在した。
註5)このヴィゴツキーの活動の路線はシチェルビナを驚か
した。特に晴眼児と盲児との共同の訓育と教授に関す
る問題において,両者の観点は近かった。1927年12月
末にモスクワで開催された第一回全ソ連児童学大会の
シチェルビナの報告をここに引用してみよう。『広く普
及した考えにもかかわらず,盲者の惨状は視知覚の欠
如だけでなく,視力がないことから生じる実際的な困
難にもある。主に盲者は通常の集団から脱落して,つ
まりその低い集団に移される。彼らには,労働や社会
生活の建設に参加する権利が通常は認められていない。
正しく位置づけられた社会的教育,晴眼児と盲児ので
きるだけ早期の接触,彼らの共同の学習は,古い壁を
取り除き,何らかの共通の利益のために相互のよりよ
い理解をつくる。盲人ははかりしれない不幸から免れ,
それはすぐれた文化上の勝利をもたらすだろう。その
すばらしい技術の進歩が生活を改善せず,苦しい経験
を遠ざけないのであれば,それは人間に特別の価値を
もたらさない』(盲の研究のための社会的アプローチの
必要性, 「障害児学の諸問題」, 1928年, No.4)
さらに,特殊学校と普通学校との接近に関してのヴィ
ゴツキーの意見は次の通りである。『晴眼児と盲児の教
育の間にはなんら原則的な相違はない』(ヴィゴツキー.
Л.С.選集, モスクワ, 1984年, 第5巻, 43頁)。またヴィ
ゴツキーは以前に次のように書いていた。『これらの子
どもをより長く学ばせなさい。独自な特性に相応した
特別な方法と手段を用いつつ,別のやり方で学ばせな
さい。けれども,彼らには他のすべての子どもと同じ
ものを学校で学ばせなさい。他の全ての子どもと同じ
ように社会生活に参加できるように,将来の生活に向
けた同じような準備教育を受けさせなさい』また,ヴィ
ゴツキーは社会的有用労働と生活の中での盲者の価値の
ある参加の事実を報告し,次のように結論づけている。
『国における他の子どもが受ける一般的な社会的教育以
外に,他の教育はこれらの将来の建設者,勤労者にど
のようなものを与え得るのだろうか』(ソヴィエト教育
学と外国の教育学の交差点, 「障害児学の諸問題」, 1928
年, No.1, 22∼23頁)
註6)『レフ・セミョーノヴィッチ・ヴィゴツキーと現代の
障害児学』,「障害児学」, 1982年, No.3, 6頁
註7)レオンチェフ, А.Н,ルリア, А.Р,《Л.С.ヴィゴツキ
ーの心理学の見解》Л.С.ヴィゴツキー心理学研究選
集, モスクワ, 1956年, 36頁
− 304 −
註8)ロダーリ・ドゥジャンヌ,「ファンタジーの文法」.モス
クワ, 1978年, 170頁
註9)死ぬまでにシチェルビナは,周囲の僧職にある人(註
10参照)や自分の宗教心にさいなまれ,また彼の科学
的問題における主義の正確さや妥協しないことから不
評をかった。その,1920∼30年代のひどい間違による
迫害は,彼にとてつもない苦痛を加える原因となった
が,決して不平を言わなかった。
註10)A.M.シチェルビナは1874年3月1日(新暦)にプリルー
キの中学予備校の神学教師であったモイセイ・ニキフ
ォロヴィッチ・シチェルビナの家庭に生まれた。父の
みでなく,母方の祖父で同じく司祭のチト・ヴォルコ
フ,また姉の夫で神学教師のВ.チェルナゴフがよい影
響を盲の少年に与えた。A.M.シチェルビナの訓育と陶
冶に最も大きく関わったのは,彼の兄達であった。つ
まり,後にオデッサのノヴォロシスク大学の数学教授
となったコンスタンチン・モイセビッチ(1864−1946)
と,後にルガンスクの近くの病院を経営した医師グリ
ゴリ・モイセヴィッチ(1872−1942)であった。
註11)チェルパノフ・ゲオルギー・イワノヴィッチ(1862−
1936):著名な哲学,心理学,論理学者。キエフ大学,
後にモスクワ大学の教授。モスクワにあるロシア心理
学研究所の創立者で初代所長(A.M.シチェルビナとГ.
И.チェルパノフとの往復書簡「心理学ジャーナル」.1991
年.No.5参照)。
註12)これに関しては,シチェルビナ.A.M.「女性の大学への
入学に関して」, モスクワ, 1916年を参照。
註13)キエフでの生活と労働条件は非常に複雑であった。敵
意をみせる反動主義者との絶えまない抗争と常態化し
た栄養失調が,極度にシチェルビナの神経系を衰弱さ
せ,そのことが重い病気を引き起こし,1934年1月7
日の死にいたらしめた。
註14)革命前にもソヴィエト期にも,シチェルビナに関する
簡単な報道は度々なされた。しかし,最初の比較的詳
しい伝記や彼の研究活動は,シチェルビナの生誕100周
年にむけて私が雑誌に発表した。「障害児学」, 1977年,
No.2. 「モスクワ国立大学通報/哲学叢書」, 1974年, No.
2.「公布」, 1964年, No.23. 「公布」, 1965年, No.2, No.7.
「盲人の生活」, 1974年, No.1. A.M.シチェルビナと彼に
関する著述の詳しい目録も,同様に私がつくった。以
下参照。「科学と文化の盲人活動家」, 文献目録, モスク
ワ, 1976年, 第3巻分冊1. 1986年には雑誌「ロシア文学」
No.4に私の論文「Б.Г.コロレンコの無名の文通相手」
(シチェルビナと作家との往復書簡)が掲載された。
註15)就学義務導入と結びついた視覚障害者と健常者との共
同の教育。「視覚障害者の教育についての論集」, 1927
年, No.6, 7. 「ロシアとウクライナにおける視覚障害者
のための社会福祉事業―視覚障害者のための社会福祉
事業ハンドブック」, マールブルグ, 1930年, No.113. ヨー
ロッパと北アメリカ,「ウクライナにおける視覚障害分
野における貴重な成果」, 1932年.
註16)故国で出版されたシチェルビナの著作は極めて多数で
ある。しかしそれらは,通常定期刊行物において発表
されたものであった。それ故,比較的入手しがたく,
わずかに専門家に名が知られているのみであった。
註17)A.M.シチェルビナのモスクワ滞在は,1924年11月26日
から12月1日まで行われた全ロシア未成年者社会的法
的保護(СПОН)第二回大会への参加と関係してい
た。シチェルビナは「盲人の指導部門」で「盲人の教育の
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
際に何を目的とすべきか」という報告演説を行った(全
ロシア未成年者社会的法的保護第二回大会報告決定, モ
スクワ, 1925年, 参照)。
註18)アユイ・バレンチン(1745−1822):著名なフランス
の盲教育学者であり,視覚障害者のリハビリテーショ
ンと教育のために多くをなした。ペテルブルグに招か
れ,そこで多くの形式主義者の妨害にもかかわらず,
1806年にロシアで最初の視覚障害児の学校「盲人研究
所」を,15人の生徒を対象として設立した。ロシアに招
かれてからのアユイの14年間は,多くの不幸と迫害と
に結びついていた。このことは,自身の運命と悲しく
も類似しているとのシチェルビナの思いを生じさせた。
註19)ここで『記念すべき演説』という場合,シチェルビナ
はヴィゴツキーの報告『子どもの障害の心理学と教育
学』を念頭に置いていた(全ロシア未成年者社会的法的
保護第二回大会報告についての決定, モスクワ, 1924年,
参照)。
註20)ファリク.М.Г:モスクワ児童学及び障害児学研究所
長。あらかじめ定められていたシチェルビナの講義の
コースは,ここで言われている研究所への彼の教授へ
の就任と同様に,1925年6月末の研究所の解体に伴っ
て成立しなかった。
註21)管区の教育大会は1925年の秋(おそらく11月)にプリ
ルーキで行われた。その大会についてのシチェルビナ
の発表が『真実は引き起こされる』新聞(1925年11月
12日)に『プリルーキの師範学校と盲教育』という見
出しで掲載された。
註22)ティザノフ.C.C:社会教育総管理局(グラフソツボス)
の局長。
註23)盲人と晴眼者との共同の教育に関する問題は,シチェ
ルビナによって提案された視覚障害者の中等及び高等
教育のプログラムにおいて中心的なものであった。シ
チェルビナの考えは積極的な反対にあい,その中には
障害児学者や盲教育者も多く含まれていた。まさにそ
れは,彼に強い懸念をもたせた。
註24)第一回全ソ連邦教員大会は1925年1月11日∼19日に行
われた。
註25)エフレモフ.П.Я:ロシアの盲教育学者,1917年ソヴィ
エト教育人民委員部の学校衛生会議附属社会教育課の
研究員で,盲児の学校のためのプログラム(1928)の最
初の制作者のひとり。
註26)Л.С.ヴィゴツキーの伝記の情報(「障害児学」1982
年.No.3)に従えば,彼は1926年までロシア・ソヴィエ
ト連邦社会主義共和国の教育人民委員部の困難児課で
働いていた。同時にヴィゴツキーは彼の設立した教育
人民委員部の医学・教育研究所付属異常児の心理学実
験室を指導者した。これを基盤にして1929年から1930
年に実験障害児学研究所がつくられた。
註27)視覚障害児(もちろん正常な心理をもつ)の同等の権
利に関して,そして彼らの適応能力の可能性と社会的
有用労働における能力の可能性に関して,А.М.シチェ
ルビナの信念は,この点でЛ.С.ヴィゴツキーの見解や
評価と完全に一致する。Л.С.ヴィゴツキーの次のよう
な記述の一つを引用するだけで十分であろう。「シチェ
ルビナは,盲は自分の経験だけでは決して盲児とはな
らないということを強い信念のもとに示した。彼は盲
の克服,つまり心理において実際に存在する補償過程
を熟知している。晴眼者のみが盲人の心の闇を経験す
る」(ヴィゴツキー.Л.С.障害と超補償,知的障害,盲
− 305 −
及び聾唖,心理生理・教育学・予防,レニングラード,
1927年)
註28)ポチャーピン・パヴェール・パヴロヴィッチ─10月革
命まで,ロシアの盲学校の視学であった。生涯を通じ
て,盲児の普通義務教育の支持者であり,推進者であ
った。大祖国戦争後に,レニングラードで亡くなった。
註29)「身体障害児の教育の道」:選集として出版されている。
モスクワ, 1926年.
註30)この書簡が出版されたかどうかは明らかではない。
註31)レポートは出版されている。「盲人の生活」, 1926年,
No.2(ブライユ点字)参照。
註32)第二モスクワ大学は高等女子専門学校を基礎として10
月革命後につくられた。20年代にそこに科学研究的障
害児学科と障害児学部が設置された。革命前のこの領
域の豊富な経験をもつ盲教育学者であるВ.А.ガンデル
(1861−1939)教授が学部長になった。類似した学部と
学科が当時レニングラードのА.И.ゲルツェン記念レー
ニン国立教育大学に付設された。
註33)シチェルビナが快適さと金に困らない暮らしを追い求
めていたということは,決して考えるべきではない。
彼はその概念の高度な意味において,禁欲主義者であ
り愛他主義者であった。さらに,彼とアンナ・ペトロ
ーヴナは少しも実際的ではなく,個人の幸福の希求に
は無縁な人々であった。本来の金がないことへの愚痴
は極度の貧困さによるものである。シチェルビナは当
時,わずかな給料を受け取っていたが,それでも本来
必要なもの,つまり社会的な事業(主として視覚障害
者の仕事)のための旅費や,さらに親戚の生活扶助費
に対しても,使うことさえしなかった。視覚障害者の
参加の改善のための,そして自立的な価値ある労働と
教育への権利の確立のための,絶え間ない希求は,根
拠のない頑強な抵抗にあった。そのきちがいじみた官
僚主義との闘いは,多くの力と精神的なエネルギーを
奪った。それゆえシチェルビナは,ヴィゴツキーの側
から得た理解と同情を特に高く評価した。彼はヴィゴ
ツキーの相当の視野の広さ,科学全般や特に盲教育学
についての彼の社会的,国際的なアプローチを評価し
た。
註34)障害児教育はその時代にはしっかりした土台や明確な
課題を持っていなかった。1928年の資料では,特殊学
校で働く1500名の教師のうちたった2%しか高等教育
を受けていなかった。とくに盲教師の養成に関しての
問題が著しかった。それが,国で最初に盲教育のコー
スをつくり,ポルタワの国立教育研究所やハリコフ,
ときにはピリャーチンでも兼任で講義していたА.М.シ
チェルビナの心配の一つであった。プリルーキの師範
学校では盲教育コースはとくに好評だった。この,聴
講者の中で16人の学生の熱狂的なグループが際立って
おり,彼らのためにシチェルビナが『盲教育サークル』
を設立した。彼は当時,特殊学校についての知識さえ
もなかったこれらの学生を,その地方の目の見えない
子どもたちの指導に目を向けさせた。もちろんサーク
ルの学生の大多数は,彼らが習得した盲教育の知識の
基礎をみごとに具体化した。
註35)Л.С.ヴィゴツキーの1925年の夏のドイツへの旅のこと
に言及している。娘のГ.Л.ヴィゴツカヤの資料によれ
ば,彼はそのときイギリス,オランダ,フランスを訪
れた。
註36)ビュルクレン.К.の「盲心理学(1924年)」の著書につい
東 京 学 芸 大 学 紀 要 第1部門 第56集(2005)
て言及している。本はГ.Е.アルキン,Ю.Д.ジャリン
ツェヴァ,Л.С.ヴィゴツキーが参加して,В.А.ガン
デルによってロシア語に訳され,1934年にモスクワで
出版された。
註37)アベルバフ.М.И(1872−1944):ソ連の眼科医で,科学
アカデミーの会員である。
註38)1925年10月28日付のヴィゴツキーの書簡の中で,外国
派遣から帰還した後に悪くなった彼の病気について記
されている。
註39)この書簡(および同様にいくつかの他の書簡)では自
身の署名の代わりにその複製(印)がみられる。書簡
は,ヴィゴツキーが働かざるをえなかった過酷な条件
に関して記述している。優秀な学者としての存命中の,
また尚早の死(彼は満37.5歳で亡くなった)後の彼の
業績に対する不当な取り扱いは,疑いもなくスターリ
ン崇拝の時期における我が国のすべての才能ある人へ
の侵害の結果である。ヴィゴツキーはようやく50年代
に,ソヴィエト心理学の創始者の一人に認められた。
註40)障害児の教育問題のための科学センターを大都市に組
織することに関する決定はすでに,未成年者社会的法
的保護第二回大会(1924年11月∼12月)において採択
されていた。ようやく1926/27学年度に第二モスクワ
国立大学附属科学教育学研究所の障害児教育部門が創
立された。
註41)
『盲人にどのような援助が望ましいか?』というシチ
ェルビナのアンケートの計画についてのことである。
後に活版印刷されるこのアンケートは,住民の様々な
グループの間で行われた。アンケートに対して1500以
上の回答が得られたが,それらを集計する時間がシチ
ェルビナにはなかった。この回答は現在シチェルビナ
文庫に保管されている(註2参照)。アンケート調査の
方法をシチェルビナは頻繁に利用しており,彼は明ら
かにその時代の最先端をいっていた。これは現在の
我々の社会学的研究に近いものであった。アンケート
は様々な問題,特に教授過程の改善の可能性を扱って
いた。例えば,1914年にシチェルビナは自分の聴講生
に対し,論理学コースの改善についての24の項目から
なるアンケートを行った。彼は,モスクワ国立大学歴
史−文献学科の学生に対し,『いかなる科学にあなたは
もっとも興味をもっていますか?』などのアンケート
を行った。
註42)<私は....と思う>との言葉のあとで書簡では2頁が
欠落している。次の本文は<文化的関係の社会におい
て>との言葉で始まっている。署名なしの書簡である。
註43)シチェルビナ,また同様に彼の妻はドイツ語に非常に
堪能で,海外で出版された専門書を可能な限り読んだ。
註44)1924年11月26日から12月1日までモスクワで行なわれ
た全ロシア未成年者社会的法的保護第二回大会のこと
である。
註45)児童学及び障害児学研究所のことである(註20参照)。
註46)ベム.O.Л:障害児学者,1925年までロシア共和国教育
人民委員部社会的教育・総合技術総管理局(グラフソツ
ボス)の管理者。
註47)ポクロフスキー.M.H(1868−1932):歴史家,1918年
から教育人民委員部次長。シチェルビナ文庫に,盲教
育に関してポクロフスキーと文通した書簡が保存され
ている。
註48)1924年12月22日付のシチェルビナの書簡のことである。
註49)モスクワとレニングラードにおける盲教育学講座開設
− 306 −
の最初の試みは失敗した。このような講座は第二モス
クワ国立大学障害児学部でВ.А.ガンデルによって1925
年に組織され,指導された。それはВ.А.フェオクチス
トワの報告(「ソヴィエト盲教育史」.モスクワ.1980年)に
よれば,ほんの短期間存在していた。1929年から1930
年にかけてのみ,盲教育講座は有名なソヴィエトの盲
教育家Б.И.コヴァレンコ教授(1890−1969)の指導の下,
А.И.ゲルツェン記念レニングラード国立教育大学に付
設して開設された。現在この講座は教育大学障害児学
部に存在している(講座主任А.Г.リトヴァク教授)。
註50)モスクワからドニエプロペトロフスクへ1919年に移る
際に,シチェルビナはГ.И.チェルパノフの管理するモ
スクワ国立大学哲学講座に自分の蔵書の一部を置いて
いった。チェルパノフが,そして後にはヴィゴツキー
が,本がきちんと保存されていることを時々シチェル
ビナに連絡した。
註51)未成年者社会的法的保護第二回大会での報告の要約の
ことである(註17参照)。
註52)1925年の7∼8月,ヴィゴツキーはヨーロッパで過ごし
た。
註53)未成年者社会的法的保護第二回大会での報告を指して
いる(註17参照)。
註54)多分,以下の論考を考えている:「盲教育では何を追求
すべきか」, 「身体障害児の教育方法」, モスクワ, 1926年;
盲人の研究での社会的アプローチの不十分さ, //障害児
学の諸問題, 1928年, No.4.
註55)アズブーキン.Д.И(1883−1953):ソヴィエトの障害児
学者,精神科医,ロシア共和国教育科学アカデミーの
準会員。
註56)1925年11月2日付シチェルビナの書簡(Ⅳ)。
註57)ローザ・ノエビナ・ヴィゴツカヤの書簡は日付なしで,
重症の夫の依頼で書かれた。
註58)1926年12月14日付のシチェルビナの書簡(Ⅴ)への返事
(註41参照)。
註59)В.O.K.C.:全ソ対外文化連絡協会,1925年設立。
註60)А.М.シチェルビナの死(1934年1月7日)後,彼の未亡人
に宛てた書簡(タイプライターによる)。
註61)シチェルビナ文庫はアンナ・ペトローヴナの妹Е.П.
ゲイェフスカヤによってキエフに移された。文庫に対
し大きな援助が,キエフ大学教授でシチェルビナの親
友であるセルゲイ・イワノヴィッチ・マスロフからな
された。先に述べたように,文庫は現在も保存されて
おり,ウクライナソヴィエト社会主義共和国の「図書館
分類Ф.34手書きの部署」にある。
註62)ドイツでは一連のシチェルビナの回想録が出版された。
その回想録の主たる執筆者であり,マールブルグの盲
人協会の会長で盲学者でもある教授К.シュテレルは,
シチェルビナとは学問上でも友情の面でも書簡のやり
とりをしていた。彼は,А.М.シチェルビナの死後,未
亡人に深い哀悼の書簡を送っている。
註63)郵便はがきにタイプ印刷された文。署名も同様。多分,
口述筆記であろう。タイプされた語は,おそらく『利
用する』という語であろう。ヴィゴツキーのこの最後
の書簡は,プリルーキにいるシチェルビナ未亡人に宛
てたものである。宛先のそばにアンナ. ペトローヴナの
手により日付が『1934年6月11日死亡』と入れられて
いる。
註64)当時,モスクワ国立大学においてА.М.シチェルビナ文
庫の譲渡についての交渉が行われていた。
渡邉・高木:1920年代ロシア障害児教育の証言
註65)А.М.シチェルビナの伝記も同様に出版されなかった
(註14参照)。
謝辞:本論文の翻訳は読書会形式ですすめたため,高
木潤野君の他にも多くの大学院生,学部生がかかわっ
た。氏名を明記していないが,この場を借りて感謝申
し上げる。
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