祝福に満ちた栄光の福音

2017 年 1 月 8 日 礼拝説教
テモテのへ手紙第一1章1~11 節「祝福に満ちた栄光の福音」
はじめに
今日からテモテの手紙第一から主の教えを聞いていきたいと願っています。み言葉につながり、主の命に
つながって今年もよい実を結びましょう。
Ⅰ. 信仰による真実のわが子テモテ
パウロとテモテとの出会いはお互いに人生を大きく変える出来事でした。パウロは第二次伝道旅行の途中でル
ステラいう町に行きました。その時テモテという青年に出会いました。パウロはこの青年の祖母ロイスにも母ユ
ニケにもイエス・キリストの救いを伝えました。彼らは福音を喜んで受け入れました。その後、テモテはパウロ
に同行し、主に仕えるようになりました。やがて彼はエペソ教会の牧者になりました。
この手紙は紀元 64~65 年ごろ、パウロの晩年の手紙で、この後、絶筆となる第二の手紙が書かれますが、こ
の 2 つの手紙は遺言のように読むことができるでしょう。また、個人宛の手紙ですが、すべてのクリスチャンに
も読んでほしいという思いがあったようです。パウロはテモテに対して「真実のわが子」と呼びます。そこには
牧者としての思いやりや励ましが満ちています。
Ⅱ.目当てを失わないように
パウロはテモテに対してテモテがエペソにずっと留まるように命じています。実はテモテは健康の問題で苦し
んでいました。教会の諸問題のためにストレスがかかり、弱気になり、度々病気になっていたようなのです。特
に胃が弱く苦しんでいました。テモテとしたら困難な働きから退きたいと思っても当然でしょう。しかしパウロ
はエペソにずっと留まり、お願いしていた働きを続けなさいとテモテを励ましました。私たちが実を結ぶかどう
かは神のご計画にとどまるかどうか、そのために困難の中でも踏みとどまるかで決まります。
テモテを悩ましていたもう一つ問題の 1 つは不健全な教えを教会に持ち込み、混乱させる人がいたことです。
そのため一部の人たちは信仰の目標を見失い、空想話や系図にとらわれてしまったのです。パウロは不健全な教
えに対して厳しく対処し、そのような人とは交わりを断たなければならないと教えました。
私たちの信仰の目当ては何でしょうか。それは「愛」です。律法主義や異端の教えから「愛」は生まれません。
何故ならこの「愛」はきよいこころ、正しい良心、偽りのない信仰から生まれるからです。
Ⅲ.祝福に満ちた神の栄光の福音
クリスチャンには「神を愛し、互いに愛し合う」という戒めが与えられています。また聖霊が神のみ心が
何であるかを教えてくれます。「聖霊を悲しませない」これがクリスチャンの生き方です。律法はクリスチ
ャン以外の人のために与えられているのです。その戒めによって罪が何であるかがわかり、神が望んでいる
ことと望んでいないことがわかります。律法は罪が何かを教え、救いの必要性を示し、悔い改めを促し、十
字架のもとに導きます。律法は良いものですが、私たちクリスチャンは律法に勝る祝福に満ちた栄光の福音
によって生きます。
パウロは「福音」という言葉の前に「栄光の」という言葉を付け加えました。律法は消えゆく栄光ですが、
福音は消え去ることのない栄光です。さらにパウロは「祝福に満ちた神の」という言葉を重ねています。福
音によって私たちは祝福に満ちた神との交わりとそこから生まれる祝福を受ける立場を与えられました。パ
ウロは「私はその福音をゆだねられたのです。」言います。栄光の主との出会い、主からの召命を最も大切
なこととして心に刻みました。神の祝福、神の栄光の現れである福音がゆだねられたのは福音を伝えるため
にほかなりません。
おわりに
私たちも祝福に満ちた神の栄光の福音によって救われ、祝福に満ちた神との交わりに入れられました。それ
は愛を目当てとして生きるためです。80 周年を迎える篠原教会も今まで栄光に満ちた福音に生かされ、福音を伝
えてきました。私たちにもこの福音がゆだねられているのです。