これでいいのか日本外交

琉 球 フォーラム
Vol.131 /2004 March
サトウキビの収穫体験(カメラ 桑原
第131回琉球フォーラム講演内容
晶子) ……………………… 1
…………………………………… 2
「これでいいのか日本外交」
講師
天
木
直
人 氏(前駐レバノン大使)
「ワシントン便り」 ある女性の訃報
森
暢平
………………… 16
「エディターズ・ノート」 財源不足 悲鳴上げる自治体
宮良健典 … 17
「第7回世界青年意識調査結果のポイント」
内閣府 ………………… 18
「国際交流異聞」〈59 〉学歴詐称
玉盛映聿 ……………………… 23
琉球フォーラム・産業別会員 ………………………………………… 24
第132回琉球フォーラム(3月例会)の御案内 ……………………… 25
琉球フォーラムの記録 ………………………………………………… 26
※表紙写真は国吉和夫カメラマン
サ トウキ ビの収 穫体験 =中城 村で宜 野湾市 内の中 学生ら ︵桑原
晶子 ︶
1
第131回琉球フォーラム講演会
2004年2月10日 沖縄都ホテル
これでいいのか
日 本 外 交
講 師
天 木
直 人 氏
(前駐レバノン大使)
いま過分なご紹介をいただき、 また琉球
フォーラムの講師陣を見まして、 非常に著
名で立派な方ばかりで、 私はこの話をお受
けした時に大変なところで話をすることに
なったなという気がしました。 今日はこれ
だけの方々の前ですから私の思っているこ
とを率直にお話して出来るだけ有意義であっ
たと思っていただきたいと願う次第です。
私は昨年8月末に外務省を辞めて、ああい
う本(『さらば外務省』)を出して、 様々な
人達に呼ばれて話をすることになりました。
だいたい私の話というのは聞いていても楽
(あまき・なおと)
駐日レバノン特命全権大使として在勤中の昨
年3月、小泉首相らに「国連決議なしの対イラク
攻撃は何があっても阻止すべきである」と意見打
電。これが引き金となり同年8月、大使を事実上
更迭された。
1947年、山口県生まれ。69年、京都大学
法学部在学中に外交官試験に合格、中退して同年
に外務省入省。中近東アフリカ局アフリカ第二課
長、内閣安全保障室審議官、在マレーシア公使、
オーストラリア公使、カナダ公使、米国デトロイ
ト総領事などを経て2001年2月に駐レバノン
特命全権大使となり、03年8月に外務省を退職。
著書にベストセラーとなった『さらば外務省!』
(講談社)のほか、『アメリカの不正義』(展望社)、
『マンデラの南ア』(サイマル出版会)がある。
2
しくない話なのです。 特に、 日本外交はど
うあるべきか、というような真面目な話は、
ますます面白くない。 もちろんそういう話
もさせていただきます。 しかしいつも話が
終わったあとで「もうちょっと生々しい裏
話も聞きたかった」 という声が多いので、
本日はオフレコの話からさせていただきま
す。 できるだけ私の心境、あるいは次元が
少し低くなりますが当時の状況などから話
させていただきます。
これでいいのか日本外交
では、なぜ打ったのか。私は2年半レバノン
「イラク 戦争反対 」 の電報
におりまして、アメリカの中東政策をずっ
と見てきて、特にイスラエル−パレスチナ
私はアメリカのイラク戦争は、 あらゆる
戦争に対するアメリカの政策がどう考えて
意味でまちがいであったと思っています。
もまちがっているという意見を持ってきま
アメリカが自分の国益を追求して、特にブッ
した。 アメリカの中東政策と日本の中東政
シュ大統領や彼を取巻く連中が、 自分達が
策は、 自ずと違うものがあってしかるべき
正しいと思うことをやったという意味では、
だ、 それをずっと言ってきたわけです。し
あの戦争は彼らにとっては正しかったと思
かしながら、日本の中東政策というものは、
うのです。
後で申し上げますけれども、 中東に限らず
しかしながら第二次大戦のような悲惨な
日本の外交は、まずアメリカの外交を見て、
戦争を再び起こしてはならないと願って作
そしてアメリカの要求に従って外交をやっ
られた国際社会の合意からみればとんでも
ていく、ということでした。 少なくとも私
ない誤りであったのです。 戦争というもの
が外務省にいた35 年間はそうでした。日本
はなくならないかもしれないが、 差し迫っ
がアラブ寄りの外交をせよとは言いません
た脅威を前にして真に自己防衛として戦争
が、 アメリカの中東政策はあまりにも一方
を行う以外の戦争は認めないという、国際
的な親イスラエル政策で、 アラブの国民は
社会の合意に基づいて国際連合による安全
それを知っています。
保障システムがつくられ、 曲がりなりにも
機能してきた。それをブッシュ大統領の米
論議 もせ ず対 米追 従
国が完全に無視したのです。 そういうこと
もあって、私は「あの戦争(アメリカによ
欧米諸国と違って中東に手を汚していな
るイラク攻撃)はまちがいであり賛成して
い日本に対するアラブ人の期待は大きい。
はならない」と東京に打電をしたわけです。
アラブの国は今日でも独裁政権が多くアメ
私がこのような電報を打ったことに関し
リカの支援なくしては自分達の政権は維持
て 「なぜ電報を打ったのか。 あなたはその
できない国が多いのです。 エジプトにして
電報を打つことでアメリカに戦争を止めさ
もヨルダンにしても、 あるいはサウジアラ
せられると本当に思ったのか。 小泉首相が
ビアにしても、ほとんどアメリカの言いな
あなたの電報を読んでその政策を変更する
りになってしまっているわけです。 しかし
と思ったのか」という質問をよく聞きます。
それと反比例してアラブの国民はますます
その質問に対しては、 私は「そうは思わな
反米になってきています。 他方でアラブの
かった」と答えます。つまり自分が打った
人々は例外なく親日的なのです。 だからこ
一本の電報が、日本の政策を変え、 さらに
そ日本の中東政策は米国のそれとは違った
はアメリカのイラク攻撃を止めさせると思
中立的なものが期待されているのです。
うほど私は過信していません。
私はアメリカの中東政策はまちがってい
3
第131回琉球フォーラム講演会
るということを何度も東京に伝え、 その情
ておきたかったのです。 そういうつもりで
報も送ってきました。 しかし残念ながら我
意見を打って、同時に他の大使に転電とい
が同僚は、誰一人としてそういう意見を言
う形で自分の意見を伝えました。 他の大使
わなかったのです。 年に一回、 中東大使会
か ら の同 調 する 意 見を 期 待 した の です 。
議というのがあり、中近東に駐在する大使
「なぜあなた達は、こういう時に自分の意見
が集まって会議をします。 少なくとも私が
を発しないのか。皆もこの戦争は誤りだと
参加した会議では、まともに日本として中
思っているのではないか。 どうして声をあ
東政策、特に中東紛争に対して日本として
げないのか」という思いで、 私は自分の書
どういう政策を取るべきかという議論は、
いた意見をみんなに転電したわけです。し
一度たりとも行われませんでした。
かし反応はまったくなかった。 ここに今日
その理由は、 しょせん日本が何を言って
も影響力はないし、ましてやアメリカの中
の外務省の劣化ぶりが象徴的に現れている
のです。
東政策にどうして日本が反対できようかと
いう諦めのような暗黙の了解がある。本来
米、
仏の駆け引き
あるべき政策決定、つまり情報を丹念に集
めて、 それを分析して日本独自の政策を打
厳密に言えば、 アフリカに駐在している
ち出すという議論がほとんどなされないま
ある大使から「本当によく言ってくれた。
まに対米追従があるという状況だったので
これで胸がスカッとした。 自分はとてもそ
す。
うは言えないけれども、 私は全面的に賛成
今度のアメリカによるイラク攻撃は、も
しています」という電話がかかってきまし
しそれが国連の合意なしに単独で行われる
た。 ただ残念ながらこの大使は外務省の大
のであれば、戦後五十数年にわたって世界
使ではなくて、民間から一時的に大使になっ
が認めてきた国連による世界の安全保障確
ておられる人でした。 それからもうひとつ
保の努力を真っ向から否定するものとなり
は、エジプトに勤務している若い書記官が、
ます。それほど大きな歴史的暴挙を前に、
個人的なE-mailで私のところに励ましのメー
自分の意見を一言も述べなくて何のために
ルをくれました。「私は天木大使の電報を読
三十数年間も外交官をやって来たのかとい
んで泣けてきました。 翌朝もう一度読んで
う思いが日増しに強まりました。
また泣けました。 これは血判状です。 天木
おそらくあと何十年か経ってこの戦争が
大使という先輩を誇りに思います」 という
ひとつの歴史として語られる時に、 いろい
ものでした。見知らぬ若い職員から受け取っ
ろな論評がなされると思います。その時に、
た声は私を勇気付けてくれました。 これだ
自分の意見が正しいかどうか分かりません
けでも電報を打った甲斐があったと思いま
が、少なくともあのとき自分は「これ (ア
した。
メリカによるイラク攻撃)は間違っている」
という意見を公式にレジスター(記録)し
4
戦争が始まったのは3月20日でした。私は
結果的には一週間前の3月14日に 『どうし
これでいいのか日本外交
てもあの戦争をアメリカにさせてはいけな
い』と電報を打ったわけです。 当時米国は
大使 も報 道 で情 報収 集
いつでも戦争を行うという態度でした。お
そらくアメリカが最終的に戦争に踏み切っ
そのような緊迫した状況の中でわが国が
た一番の理由は、フランスが拒否権を使う
どのような議論をしてわが国の政策を決め
ということを言い出したからだと思います。
ようとしているのか、 出先の我々には全く
さすがのアメリカも全く国連を無視して戦
伝わってきませんでした。 私はこの点こそ
争する勇気はなかったわけで、 何とか国連
最近の外務省の根本的な問題点だと思いま
におけるコンセンサスを得ようとしていま
す。 出先には百何十人の大使がいるのです
した。 そして様々な理由をつけて何らかの
が、 東京は彼らの意見を聞こうともせずま
国連決議を成立させようと必死でした。そ
た彼らに本省の議論を教えようともしませ
んな中で仏が戦争を認めるごとき決議案に
ん。東京から言わせれば本省の幹部と官邸、
は拒否権を行使すると言ったわけです。そ
自民党首脳が決めればよい、 いちいち出先
こで米国はもはやこれまでと考えたのです。
の大使に伝える意味も必要性もないと思っ
フランスのこのような挑発的な態度が米国
ているのでしょう。しかしこれほど歴史的
を怒らせたと非難する声も当時聞かれまし
な政策決定を行うのですから省をあげて議
た。しかし私はその批判はあたらない、米
論をして決めるべきであったと思うのです。
国はいずれにせよイラクを攻撃するつもり
私達が知り得るのは、 新聞やその他の報道
であったからです。
でしかなかったわけです。
5
第131回琉球フォーラム講演会
しきりにあの時に北朝鮮の脅威と絡めて
と、 ほとんどの友人が会うと真っ先に私に
「日本を守ってくれる国は唯一アメリカであ
言うのです。うちの家内も女性だけの集ま
る。 したがってアメリカを怒らすことはで
りから帰ってきて「普通は政治の話はしな
きない。対米協調しか選択の余地がない」
いけれども皆から何故日本は米国の味方を
という言い方が伝わってきました。 私はそ
するのだと言われ残念だ」 と言っていまし
れを聞いて、耳を疑いました。 電報にはそ
た。 地道に築き上げてきた信頼関係があっ
のことを書いたのですが 「まさかそれが本
という間に崩れてしまったことを実感しま
省の意見とは思わないけれども、 少なくと
した。
もそういうことが外務省高官の弁というこ
レバノンという国は、 日本にとってはと
とで新聞に伝わってくるのはおかしいので
るに足らない国です。 それでもそういう国
はないか」ということを言ったわけです。
と一つひとつ地道に友好・信頼関係を築い
私は意見具申の電報はこれ一本にとどめ
ていくのが外交だと思います。 私がレバノ
ておこうと思っていました。 どういう結果
ンにおいていろいろな仕事をする時の唯一
を生むかわからなかったけれど一度打てば
の力といいますかサポートは、 レバノンの
十分だと思っていました。しかしながら、
人達の親日感情だと思うのです。 そのレバ
戦争が始まった直後に小泉首相は 「アメリ
ノン人の信頼を失う事は非常に辛かった。
カは正しい」と胸を張って支持する姿がC
今まで自分を支えてくれた人達を悲しませ
NNで繰り返し流されました。 そして小泉
てしまった。
首相は 「日本は援助をしてイラクを助ける
外交というのは日本のためだったら日本
んだ。 イラクの戦後復興に日本は貢献しま
が少々無理なことを言っても何とかしてや
す」としきりに言うわけです。「何を言って
ろうということを、その国の政府や国民に
いるんだ。今、 目の前でイラク人が殺され
起こさせる努力を地道に積み上げていくこ
ているんだぞ!」 と叫びたくなりました。
とである、しかし今度の戦争を支持したこ
米国を支持すると繰り返し言ってアラブ人
とにより一瞬にして彼らの感情を傷つけて
の心の傷口に塩を塗り込んでいるのです。
しまった、そう伝えたわけです。
私は最終的に電報を打とうとした時ため
親日的なアラブ人
らいました。電報を起案したらある程度自
分の思いも晴れたのでこれを東京に打電す
レバノン人も他のアラブ人と同様非常に
るのは止めようかとも思いました。 あと数
親日的で、日本がああいう形でアメリカを
年で外務省の任期をまっとうするのである
支持しても、日本はけしからんということ
から黙ってやり過ごして何もなかったこと
にはなりません。しかし私にとってショッ
にするというオプションもあったのですが、
クだったのは、小泉首相のブッシュの発言
どうしても自分の意見を公式に残しておき
を支持するというのを聞いて「残念だ。こ
たいという強い思いがありました。 そして
こまで日本はアメリカについて行くのか」
打電したのです。
6
これでいいのか日本外交
人が来ましたが、その方自身は優秀な官僚
「あなたは辞める気ですか?」
で良い方ですが、 中東の知識はゼロで 「自
分がなぜ中東に行かされるのか分からなかっ
電報を打って数日間は反応がなかったの
た」 と私に言っていました。 適材適所なん
ですがその後一本の電話を受け取りました。
ていうのも嘘っぱちです。 三十数年間も勤
「天木大使、あんな電報を打って、辞める気
めた挙句に手紙一枚で退職を迫られる、こ
ですか?」人事を担当する官房長からの電
の非礼なやりかたに私は強い怒りを覚えま
話でした。当時、イギリスのクック元外務
した。
大臣やショート経済開発大臣がブレア首相
私があの本を書いた動機のひとつは、そ
に反対して辞めているわけです。 アメリカ
の時の感情的な怒りと申しますか、 それが
も2、3人の外交官が辞めていた。
直接の原因だったわけです。 しかしあの本
そういうこともあって 「あなたは辞める
気ですか」と、まず言われました。 私はそ
で本当に糾弾したかったのは小泉首相の外
交姿勢だったのです。
の言い方に強い不快感を覚えました。それ
は一種の恫喝の電話でした。「いや、自分は
拉致問題への対応
辞めるつもりで書いたんじゃない。 しかし
もしこの電報を小泉首相が見てこういう意
イラクに対するアメリカ支持もそうです
見を言うのはけしからんから辞めさせろと
けれども、北朝鮮の拉致問題に対する2年前
いうのであれば自分には辞める覚悟はでき
の訪朝のプロセスがあまりにも人道にもとっ
ている。必ず首相に見せて欲しい」 という
た外交であったと思います。 日朝国交正常
ことを言ったのを覚えています。
化という政治的功名心のために拉致家族の
それから一カ月ほど経ってワープロで打
心を踏みにじった。歴代の首相ができなかっ
たれた一枚の手紙が次官から私のところへ
たことをやりたい、それをそそのかした田
届きました。「あなたはよくやってくれたけ
中均という外務官僚、 彼は私と同期入省な
れども、これでもって外務省を辞めてもら
のですが、が許せなかった。 彼が拉致され
いたい。川口改革の一環で人事の若返りと
た人達を北朝鮮が返す用意があるという何
適材適所を図っている。 了承願いたい」と
らかの情報を得たとしましょう。キム・ジョ
いうそっけないものでした。しかしながら、
ンイル(金正日)が譲歩するという情報を
人事の若返りといっても私は当時一番若い
つかんで、それに飛びついたということで
大使で、 現に今でも4∼5 年先輩の大使がほ
す。 拉致問題の全面的解決よりもとにかく
とんど外国にいるわけですから、 それが本
一人でも拉致家族が帰ってきたら大前進だ、
当の理由ではないことはすぐ分かりました。
これで一気に日朝国交化を進めようと考え
もうひとつ適材適所という理由ですが、私
たならば国民の心を読み違えたのです。今
の後任者として、警察官僚で神奈川県警本
は国民の北朝鮮に対する厳しい姿勢と国交
部長をやって警察学校の校長をやっている
正常化交渉をなんとか再開したいという野
7
第131回琉球フォーラム講演会
心の板ばさみになって身動きがとれない状
いたとはいえ大変なものがありました。公
態です。外交の本道から逸脱した私利私欲、
明党から訴えるという連絡があって、外務
名誉欲のための外交の弄びを糾弾したかっ
省の報道官は「事実誤認の箇所があり、さ
たのです。
らに公務員で知り得た情報は公務員を辞め
7月頃に原稿を一気に書き上げました。
ても漏らしてはいけないという規則がある
しかし書いたあと本にすることを躊躇しま
ので、そのへんも含めて検討したい」 と記
した。一国の総理をここまで非難し、また
者会見で公言しました。 公明党に対しては
三十数年間世話になった外務省を敵に回し
「私は全て事実を書いた。必要であれば司法
て非難するわけですからそれは大変なこと
の場でもはっきりさせたい。本に書けなかっ
をすることになるという自覚は、 もちろん
たことも含め事実を究明したい」 と返答し
私にはありました。しかしすべての責任を
ました。その後動きはありません。 『産経
負うという覚悟を決めました。
新聞』 系統の雑誌に私に対する批判記事が
あの本が出たのは10月8日ですが、その前
いくつかでました。「天木というのは、元々
に一部のメディアが外務省を辞めた官僚が
変わり者だった」 とか「部下からも嫌われ
告発本を出すらしいという情報を流しまし
ていて、人格的にも随分片寄った人間だっ
た。外務省から、私のところに二つアプロー
た」とか、 さらに驚いたのは「天木という
チ が あり ま した 。 ひ とつ は 人 事課 長 から
のは、 レバノンに行った時にゲリラと通じ
「天木さん、本を出されるようだけれども止
ていて、ゲリラに洗脳されて反米になった」
めてください。2年前の外交機密費スキャン
という記事もありました。 そんな情報は外
ダルで外務省は皆が立ち直れないぐらい傷
務省しか持っていないわけですから明らか
ついて仕事にもならなかった。 それがやっ
に外務省が意図的に流して書かせているの
と一段落してこれから仕事をしようとする
です。
時に、また騒ぎを起こされるとかなわない」
と。
そういうプレッシャーに押しつぶされそ
うになって眠れない日もありました。「バカ
もうひとつは私と同期の者から電話があ
なことをしたな。何のためにこんなことを
り 「天木、 お前がそこまで思いつめている
したのか」と思ったりもしました。 しかし
とは知らなかった。 我々の責任でもある。
覚悟して行なったことだから最後まで頑張
もう一度話し合おう」 という誘いがありま
ろうと自らを鼓舞しました。
した。私は 「ありがたいけれども、 もう自
ただその時に唯一拠りどころになったの
分の人生で外務省の人達と二度と交叉する
は、 多くの方々からの激励の手紙でした。
ことはないだろう」と言いました。
ひとつひとつ返事を書きながらこういう人
達の励ましが今の自分を支えてくれている
出版 後の プ レッ シャ ー
んだと言い聞かせました。 もうひとつの支
えは、アラブの人達、特にパレスチナの人
本を出した後のプレッシャーは覚悟して
8
達の悲しみでした。 私は毎日レバノンで、
これでいいのか日本外交
罪のない老人や子ども達が米国とイスラエ
明らかなように(イスラム) 原理主義者の
ルの政策で死んでいる中東を見てきました。
巣窟になっていて、いずれサウド王制がひっ
あの人達の悲しみというものを何らかの形
くり返るという危惧を持っています。サウ
で代弁したいという思いがありました。そ
ジアラビアの石油に変わる安定的な石油国
れも支えになったと思っています。
を探す必要があるわけです。
あの本を書いた経緯はそういったことで、
随分長くなりましたが、 そろそろ本論に移
自 爆 テ ロ の 背景
りたいと思います。アメリカの中東政策は、
かつては三本柱でした。そのうちひとつは、
イラクはアメリカだけではなくフランス
ソ連との全世界的な対立です。 それがなく
やロシアにも石油の権限を与えていますか
なって今は石油資源の確保とイスラエルの
ら、 この際一気にイラクの石油を独占する
安全保障の二つです。 アメリカは石油資源
という考え方はあったと思います。 もうひ
を非常に重視していまして、 アメリカ自身
とつはイスラエルの安全保障です。 イスラ
も産油国ですけれども大変な消費量で、6割
エルのパレスチナに対する姿勢は9.11の
ぐらいは海外に依存しています。 その最大
同時多発テロ以降強硬になりこれに対して
の依存先がサウジアラビアです。 ところが
パレスチナの自爆テロも激しくなりました。
サウジアラビアはオサマ・ビンラディンで
そんな中でサダム・フセインは今日の中東
9
第131回琉球フォーラム講演会
では唯一イスラエルに強硬な姿勢を見せて
こまで人間を追い込むイスラエルの政策は
おりパレスチナの抵抗組織にも支援をして
まちがっていると私は思います。
いました。イラクを親米政権に変えること
は米国、イスラエルの共通の目的でした。
はじ めに 戦争 あり き
いわゆるネオコンとよばれるブッシュ大統
領の取り巻き連中がユダヤ系であることも
関係しています。
イスラエルはテロに対抗するためには何
をやってもいいということで、 ここ2、3年
そういうような中で起きた米国のイラク
攻撃は、しかしまったく米国の都合で起こ
されたものです。あれは国益追及のために
はじめから戦争ありきだったのです。
どんどんパレスチナ人を殺してきました。
いまでは明らかになりましたが、当時か
ヘリコプターからミサイルで直接殺すわけ
ら大量破壊兵器の存在は疑われていました。
です。 まわりの市民や子どもが巻き添えで
しかしより重大なうそは、 かりになんらか
犠牲になっています。 パレスチナ人はアメ
の大量破壊兵器を持っていたとしても、そ
リカから資金源を絶たれますから、 なかな
れをサダム・フセインが使うという差し迫っ
か武器の調達もままならない状況の中で、
た脅威はまったくなかった。 国連憲章で認
もうどうしようもなく自爆テロという形に
められている武力行使は真にさし迫った脅
なるわけです。 自爆テロというのは、 2、3
威があるときの自衛の為の武力行使です。
年前まではそんなに頻繁ではなく珍しかっ
しかもその差し迫った脅威は安全保障理事
たのですが、いまや当たり前の状況です。
会の承認が必要である。 いずれもあの場合
女性の自爆テロも当たり前になってしまい
はなかった。ブレア首相もブッシュ大統領
ました。男は警戒されますがまさか女性が
もなかなか厳しい状況に今後は追い込まれ
自爆テロをするとは思わない。 その盲点を
ていくと思います。
ついて女性が服の中に爆弾を持って自爆す
るということです。
そんな大義のない戦争で始まった今、イ
ラクに何故日本が自衛隊を派遣しなければ
ちょうど2年前に、17歳のパレスチナの女
ならないのか。私は自衛隊のイラク派遣は
の子が、スーパーマーケットに入ろうとし
本当に間違いだと思っています。 日本が自
て係員に呼び止められた時に自爆テロを起
衛隊をイラクに派遣することを望んでいる
こしたのですが、その時ちょうど同じ17歳
国はどこにもありません。 あるとすればア
のイスラエルの女の子とそのお母さんが買
メ リ カだ け です が 、 そ のア メ リカ さ えも
物から出てきて、すれ違った時に爆発して
「日本も自衛隊を派遣して協力姿勢を示して
みんな死んだわけです。 17歳の女の子が17
いる、 つまり米国だけがイラクを占領して
歳の女の子を殺したというのがショックで、
いるのではない」ということを世界に示し
『ニューズウイーク』に大きく報道されまし
たいだけで、今となっては自衛隊がサマワ
た。 二人の赤ん坊を残してお母さんが自爆
で何をやろうが米国は関心がありません。
テロを起こしたことも先日ありました。こ
それどころかどうやってイラクを安定させ
10
これでいいのか日本外交
ようかということで頭が一杯です。
いまイラクは内戦状態に突入寸前といわ
のかと疑いたくなるような状況での強引な
派遣です。
れています。米国は早く政権を移譲したい
のですがイラク人の間の主導権争いはます
後ろめたさか、 士気が低下
ます激化しつつあります。 選挙をして誰が
この国の主導権を持つのか。 いま選挙をす
そのような中で外務省はどのような外交
ると多数決でシーア派が政権を持つわけで
をやってきたのか。私が35年間外務省にい
す。しかし、シーア派が政権を持つと、当
て内部からその外交を見てきてことごとく
然スンニ派が反発するしク
ルド人も反発します。そし
てアメリカにとってもっと
も重要なのは、どの政権で
あれ、その政権が親米政権
でなくてはならないという
ことです。反米政権ができ
てしまったら何のために戦
争をしてきたのか、という
ことになりますから。
そんな状況の中でサマワ
での人道援助なんてまるで
的外れなことをやっている
わけです。今のイラク情勢
の全体から捉えてサマワで
の支援活動は日本の自己宣
伝の意味しかありません。
377 億円 の予 算をか けてす
ることはまず自分達の施設
を作ることです。一部の部
族に様々な協力をちらつか
せてとにかく安全を第一に
する。何のための援助かと
いうことです。その派遣も
明らかに憲法違反ですが国
会でのまともな議論がなさ
れない。これが法治国家な
11
第131回琉球フォーラム講演会
対米追随がすべての外交に優先されてきた。
今の外務省の幹部の考え方、 あるいはO
アメリカとの関係も重要ですけれども、時
B、御用学者、評論家、みんな彼らが一律
にはアメリカと違った政策を取った方が日
に言うのは「アメリカは唯一の同盟国で、
本の外交にとって好ましいことがあったと
歴史的にアメリカ以外の国と関係を持とう
思うのです。しかしながら米国の意向に逆
としてうまくいったケースはひとつもない。
らったことは無かった。それは何故だろう。
したがって日米同盟をなくした時点で日本
私はこれは自己欺瞞の外交だと思います。
の国益は失われる」と。
自分自身でもおかしいと思うがそれでも対
岡﨑久彦という外務省のOBがいて、彼
米追従を繰り返す。こういうことだから仕
はいち早くそういうことを言ってきた人で
事そのものに充実感だとか達成感がまるで
す。あの人が書いた『戦略的思考』 という
ないのです。
本は 「要するに弱い者がいくら協力しあっ
いま外務省は非常にモラールが低下して
て何もならない。強い者と組まないと国益
います。それは結局国民を裏切ってまで対
を損なう」ということに尽きます。 実利主
米追従外交をしてきた後ろめたさだと思う
義、 現実主義の極みであり、 理想を求める
のです。これも驚きですが、 最近日米地位
外交を最初から放棄している。
協定の運用に関する外務省の考え方という
極秘書類が出てきました。 私はその書類の
『吉 田 茂の 自問 』
ことは知らなかったのですが、 私はある時
のちに次官になった人が条約課長時代に作
成した安全保障条約の解説書を読んでみろ
これに反論する意見が最近外務省のOBか
ら出ました。昨年10月に『吉田茂の自問』
と渡されました。その調書は薄っぺらなも
(藤原書店)という本が外務省OBで小倉和
のだったのですが、 その中に 「アメリカほ
夫という私よりも7年ぐらい先輩により出版
ど日本にとって重要な国はない。 そのアメ
されました。彼は外務省で偉くなって最後
リカを、日本が攻撃された時にアメリカは
はフランス大使までやった人です。
本当に助けてくれるのかと疑うことは失礼
その本は吉田茂が若い課長に命じて、な
だ」というくだりがありました。 私は唖然
ぜ日本はまちがった太平洋戦争に突入した
としました。これが条約課長の書いた文章
のか、 外務省の責任はどこにあったのか調
なのかと。そこには法的論理もなにもない、
べさせたのです。そして当時の課長が集まっ
思い込みと言いますか、 あらゆる議論がそ
て、3カ月間で日本の外交のまちがいを書い
こで打ち止めになっている。
たのですが、その調書が50年ぶりに公開さ
今度の米国のイラク戦争について「米国
を支持するほかに選択の余地がないじゃな
れて、 それを小倉さんが検証して本にした
わけです。
いか」 ということとまったく同じ言い方で
その調書が言っていることは、結局、当
はないでしょうか。殺し文句になっていま
時軍部が統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)
す。思考停止です。
という誰も抗えない特権を持ち出したため
12
これでいいのか日本外交
外交の余地がなかったということを認めた
てまちがいなく政治問題になっていくと思
上でそれでも当時の課長たちは外交そのも
います。
のが軍部と一緒になって太平洋戦争に突入
イラク戦争、 あるいは拉致問題、 この二
していったのではないかと自己批判してい
つにずっとここ1∼2年の外交は終始してき
るのです。
ましたけれども、これからはまちがいなく
そのこと自体が興味深いのですが、 もっと
日米安保条約の是非が真剣に問われるよう
興味深いのは、小倉さんがそれを読んだあ
になってくるでしょうし、 またそうあらね
と、自分の意見を述べているくだりです。
ばなりません。この問題こそ、 一体いつに
ここまで戦後の外交が日米同盟一辺倒になっ
なったら変わるであろう日米同盟至上主義
てしまったことは間違いではないか、これ
の政策の是非の問題であるからです。突き
しか選択がないということで正に太平洋戦
詰めて言えば、それが変わる時は日本外交
争に突入していったその誤りを再び繰り返
が変わる時だという認識で私はいます。地
すおそれはないのか、 理想を忘れた外交は
位協定の改定を回避し運用の改善で済まそ
戦前の外交と同じまちがいを繰り返すので
うとする限りこれまでの外交がやってきた
はないかということを言っているわけです。
ごまかしなのです。
外務省を辞めたといえども枢要なポストを
本当に外務省が、 先ほど申し上げたよう
歴任したOBの言葉です。 外務省は衝撃を
に国民の方に顔を向けて、 アメリカに対し
受けていると思います。
て本気で向かい合っていくのかということ
です。
地位 協定 は重 要課 題
大田昌秀前沖縄県知事やいろんな方が言っ
ておられるように、アメリカは日本の政府
私は昨日、 日米地位協定の改定のシンポ
が言ってくれば検討するのです。 日本政府
ジウムに参加させてもらって聴いていまし
が本気で要求すれば、 そしてその要求に理
た。
がある場合は米国としても取り上げざるを
私は、 実は沖縄には1974年の海洋博覧会
に来て、それ以来のことです。 今こういう
得ないのです。それを日本政府自身が要求
を放棄しているのです。
形で自由な身になって、 日本のこれからの
さらに言えば、 アメリカのメディア、ア
いろいろな外交について考えていきたいと
メリカの国民を通じてアピールすることが
思っている時に沖縄に来て地位協定の問題
重要であると思います。 米国政府がもっと
を考えるのは非常に有益だと思いました。
も耳を傾けるのは米国民の声です。 もし米
日米安保条約、そしてその中で一番重要な
国民がおかしいと考えれば米国政府は検討
日米地位協定というのはこれからの日本の
せざるを得ないでしょう。 米国民に日米地
外交を考える上で最優先のテーマであると
位協定の不合理性を訴えるのです。 アメリ
思います。
カ国民が問題意識を持って意見を言うよう
普天間基地の移転問題、 15 年問題も含め
になれば、必ずアメリカの政権にも影響を
13
第131回琉球フォーラム講演会
与えていくと思います。
わけで、当然放っておくわけにはいきませ
ん。
さらに言えば、 100 人∼200 人という(拉
国民 が外 交を 変え る
致されたのではと推測される) 人達も出て
きました。これらの解決無しに北朝鮮との
私は拉致問題をめぐる最近の外務省の動
関係を進展させることは難しくなってきま
きを見てつくづく思うのですが、 おそらく
した。 外務省は困難な外交を迫られていま
初めて国民が、外務省が独占してきた外交
すが、 これこそが本来やるべき外交であっ
を変えつつあるのではないかと。 外務省は
たのです。やはり情報公開は必要なのです。
動きが取れなくなっているわけです。
最後に、 今後日本は政治が変わっていく
外務省は、 北朝鮮に拉致家族の一部返還
のかということですが、 これには私は悲観
を認めさせた見返りに国交正常化を進めよ
的にならざるを得ないのですが、 しかしや
うと目論んでいました。 しかし国民の感情
はり政権交代が国民の手で一度は実現しな
的反発を読み間違えたのです。 これだけ国
いと駄目だと思うのです。 その意味で民主
民が関心を持つと、いま当面は家族の返還
党を応援しているのですが、 どうも民主党
の問題ですけれども、 まだ存在が分からな
はいまだ自民党を倒すだけの力が無いよう
い横田めぐみさんとか有本さんなどがいる
な気がします。しかしだからといって、今
14
これでいいのか日本外交
のように自民党と公明党によって日本の政
策が決められていってよいのか、 これは多
くの国民の等しく抱いている感情であると
思います。これから先は私の話すことでは
ないと思いますが注意深く見ていきたいと
思っております。今は国民の選挙への関心
が恒常的に低下していますが、 本当にこれ
でよいのか、国民が目覚める日が来ること
を期待しています。
(拍手)■
15
あ る女 性 の 訃 報
米国でも日本と同じく、 訃報記事は大事
だ。 かつて一時代をなした人が亡くなると
大きな記事になる。 一方、地域欄には名も
ない一般人の訃報記事が数多く載る。そこ
には、 さまざまなヒューマン・ストーリー
が語られている。
米国の新聞で 「沖縄」 の文字を見つける
のは、訃報記事の中が多い。 太平洋戦争に
従軍歴のある人の紹介の中に 「沖縄の上陸
作戦に参加した」などとさりげなく書かれ
ている。
だから、 訃報は必ず目を通すことにして
いるのだが、先日、興味深い人物が亡くなっ
ている記事を読んだ。 2月15日の 「ロサン
ゼルス・タイムズ」紙が報じた女性の元脚
本家、キティ・ブラッドレーさん (81歳)
の訃報である。
この女性自体は米国でもそんなに名が知
られているわけではないのだが、 夫は有名
人である。第二次世界大戦で米軍の欧州戦
線を率いた故オマー・ブラッドレー元帥だ。
米国では、マッカーサー元帥と並んで陸軍
の英雄として扱われている。
記事によれば、 キティさん (本名はエス
ター・ビューラー)は沖縄に住んでいたこ
とがある。沖縄戦が終わって間もなく、米
政府の仕事を得て、 沖縄に渡った。 UCL
A (カリフォルニア大学ロサンゼルス校)
を卒業して間もない20 代前半のころだった
という。
脚本家を目指していたキティさんは、フ
リーの記者として、UP通信と星条旗新聞
の仕事を請け負う。両社の沖縄特派員となっ
たのだ。彼女が沖縄にいたのは1955年
ご ろ まで の 約10 年 なの で 、 も しか し たら
「エスター・ビューラー」の名を記憶してい
16
る方がいるかも知れない。
運命が変わるのは、50年1月、 統合参謀
本部議長だったブラッドレー氏が沖縄に来
た時にインタビューしたためだ。 気が合っ
た2人の親交はここから始める。
後にキティさんは帰国し、 希望通りハリ
ウッドで映画やテレビのシナリオを書くこ
とになった。58年の映画「チャイナ・ドー
ル」(日本未公開)、 60年代のテレビドラマ
「マイ・スリー・サン」などが彼女の手によ
るものだ。後者はフジテレビ系で61∼63年、
「パパ大好き」という邦題で放映され人気を
博した。OTVでも放送されたから、 覚え
ている方もいるだろう。 このころ、 ブラッ
ドレー氏に彼の生涯を映画に出来ないか打
診し、さらに親しくなったと思われる。
キティさんが一躍メディアの注目を集め
たのは66年。妻を亡くしたばかりの73歳の
ブラッドレー氏と結婚した時だ。この時、
キティさんは44歳だった。
この後、 ブラッドレーさんが88 歳で亡く
なるまでの15 年、2人は寄り添うようにし
て暮らす。彼女自身が夫の映画を作ること
はなかったが、欧州戦線を描いた映画「パッ
トン大戦車軍団」(70年)の製作で、夫婦は
アドバイザー役を務めた。夫の死後は、ブ
ラッドレー財団を立ち上げ、 退役軍人の福
祉向上の仕事をしていたという。
なかなか数奇な人生だが、 子供がいない
ため、 彼女のことを知る人はこれから段々
と減っていくだろう。 数十年後、 彼女の人
生をはっきりと記憶し続けるのは、「ロサン
ゼルス・タイムズ」の訃報だけになること
を考えると、やはり死亡記事の重要さが心
にしみる。
1993年
◇ 4・14
◇ 5・12
◇ 6・18
◇ 7・14
◇ 8・11
◇ 9・ 8
◇10・13
◇11・10
◇12・ 8
細川連立政権発足し上原康助長官誕生 コメ大量輸入
パレスチナ暫定自治宣言 全県でウリミバエ根絶達成
ユネスコ事務総長特別顧問 磯村尚徳 「新世界秩序の中の日本」
東京海上研究所理事長 下河辺淳 「21世紀は地方の時代」
野村総合研究所理事長 鈴木淑夫 「日本経済の景気はいつ回復するか」
前駐中国大使 橋本 恕 「中国の現状と今後の日中関係」
政治評論家 三宅久之 「今だから話せる政界再編のウラ話」
長崎オランダ村専務取締役 高田征知 「オランダ村そしてハウステンボス」
住宅金融公庫総裁 高橋 進 「住宅をめぐる現状と課題」
中東調査会理事長 三宅和助 「イスラエルとPLOの歴史的合意と今後の中東」
東京芸術大学長・日本画家 平山郁夫 「私と芸術とシルクロード」
自・社・さで村山政権が発足 北朝鮮の金日成首席が死去
知事選で大田氏が再選 大江健三郎氏にノーベル文学賞
毎日新聞編集局顧問・政治評論家 岩見隆夫 「激動の政局を読む」
矢野経済研究所代表取締役副社長 矢野 弾 「日本の経済の現状と課題」
沖縄開発庁長官 上原康助 「激動する国政に携わって∼沖縄からの視点」
外務省前北米局長 佐藤行雄 「今後の新しい日米関係」
毎日新聞論説委員長 清水幹夫 「最近の政治情勢」
三和総合研究所理事長・経済評論家 原田和明 「最近の経済動向」
国際流通グループヤオハン代表 和田一夫 「ヤオハングループの挑戦」
上海国際問題研究所日本研究室室長 呉 寄南 「最近の中国経済事情」
東京工業大学教授 渡辺利夫 「東アジアの発展動態をどう捉えるか」
KDD総合研究所取締役調査部長 伊藤英一 「マルチメディアの現状と将来」
新王子製紙㈱代表取締役名誉会長 河毛二郎 「経営者 今昔」
サイマル会長 村松増美 「異文化との付き合い方∼沖縄に始まる私の世界」
1994年
◇ 1・13
◇ 2・ 9
◇ 3・12
◇ 4・13
◇ 5・11
◇ 6・ 8
◇ 7・11
◇ 8・ 3
◇ 9・ 7
◇10・12
◇11・ 9
◇12・14
1995年
◇ 1・11
◇ 2・15
◇ 3・ 8
◇ 4・ 5
◇ 5・10
◇ 6・14
◇ 7・19
◇ 8・10
◇ 9・13
◇10・11
◇11・14
◇12・13
阪神大震災で死者5500人余 米兵が少女暴行事件
平和の礎が完成 ラビン首相暗殺 地下鉄サリン事件
臨済宗東福寺管長・東福寺専門道場師家 福島慶道 「心の開発」
中央大学学長 外間 寛 「21世紀に向けての人材教育∼大学の対応∼」
花王取締役 平坂敏夫 「企業経営と情報戦略∼リエンジニアリング成功への課題∼」
通商産業省顧問 岡松壯三郎 「わが国をめぐる国際経済情勢∼日米交渉を中心に∼」
政治評論家 森田 実 「参院選と今後の政局」
元駐米大使 松永信雄 「世界の中の日米関係」
日本将棋連盟棋士九段・永世棋聖 米長邦雄 「棋士から見た 21 世紀の日本」
『ワシントン・ポスト』極東総局長 トム・R・リード 「自信のない時代の日米関係」
住友生命保険相互会社名誉会長 新井正明 「古典に学ぶ経営の心」
国立予防衛生研究所室長 根路銘国昭 「縄文人を育てた琉球の人たち」
米国ハワイ州知事 ベンジャミン・J・カエタノ 「最近のハワイ経済事情」
米コロンビア大学名誉教授・日本文学者 ドナルド・キーン 「私と日本文学」
1996年
普天間基地の返還合意 ペルーの日本大使公邸占拠事件
基地問題で県民投票 又吉栄喜氏「豚の報い」に芥川賞
◇ 1・10 NHK解説主幹 西田善夫 「スポーツ人間像―名勝負、名場面に学ぶ」
◇ 2・14 上智大学文学部教授 アルフォンス・デーケン 「人間関係におけるユーモアの役割」
◇ 3・13 毎日新聞編集局政治部長 岸井成格 「橋本政権の行方」
◇ 4・10 満学協会総裁 愛新覚羅顕琦 「日中両国のはざまにて」
26
◇ 5・15
◇ 6・12
◇ 7・10
◇ 8・14
◇ 9・11
◇10・ 7
◇11・13
◇12・10
学習院大学法学部教授 砂田一郎 「大統領選挙と今日のアメリカ政治」
シンガポール紙コラムニスト 陸 培春(ル・ペイチュン)「アジア人が見た日本・沖縄」
駐ペルー大使 青木盛久 「フジモリ政権のペルーと日本・沖縄」
愛知学院大学大学院教授 島袋嘉昌 「今 沖縄企業に求められているのは何か」
香港大学亜洲研究中心客員研究員 丸屋豊二郎 「香港返還と沖縄」
のこ
株式会社ローヤル社長 鍵山秀三郎 「小さく生きて大きく遺す」
沖縄県副知事 吉元政矩 「沖縄基地の整理縮小と国際都市形成」
大和総研特別顧問・経済企画庁長官 宮崎 勇 「来年の日本経済展望と沖縄」
拓銀と山一が破綻 香港返還 世界同時株安 ダイアナ元妃が事故死
屋良朝苗氏が死去 名護市で住民投票 知念かおり女流本因坊に輝く
首相補佐官(沖縄問題担当) 岡本行夫 「あすの沖縄を考える」
1997年
◇ 1・14
ウミンチュ
◇ 2・ 7
日本セイルトレーニング協会理事長 大儀見薫 「世界の海人がやってくる」
◇ 3・12 地域振興整備公団総裁 工藤敦夫 「都市開発と地域振興」
◇ 4・ 9 静岡県立大学国際関係学部教授 伊豆見元 「朝鮮半島情勢と沖縄」
◇ 5・14 衆議院議員 山中貞則 「沖縄復帰25周年を語る」
◇ 6・11 世界FTZ協会代表理事 レイモンド・ヨシテル・オータニ 「日本の改革は沖縄から」
◇ 7・ 8 沖縄懇談会座長 島田晴雄 「沖縄の自立発展のために」
◇ 8・13 大和総研副理事長 賀来景英 「ビッグバン時代に備える」
◇ 9・10 元沖縄開発庁長官 植木光教 「首里城復元5周年 沖縄の風土と文化への愛着」
◇10・ 8 東海大学教授 唐津 一 「めざせ日本一 沖縄活性化への道」
◇11・ 7 東京外国語大学学長 中嶋嶺雄 「香港返還後のアジアと日本」
◇12・ 4 早稲田大学総長 奥島孝康 「グ ロ ー バ ル ・ス タ ン ダ ー ド の時代を担う若者の育成を考える」
現職の大田氏破り稲嶺知事誕生 ドイツで18年ぶりに政権交代
未曾有の不況で失業者増加 小渕政権が誕生 毒入りカレー事件
衆議院議員・前内閣官房長官 梶山静六 「アジア・太平洋時代とあすの沖縄」
NHK解説主幹 小林和男 「日ロの外交戦略と沖縄」
日本経済新聞大阪本社編集局長 久保庭啓一郎 「混迷の政局を読む」
日本総合研究所理事長 若月三喜雄 「アジア経済危機と日本経済」
駐日ロシア大使 アレクサンドル・N・パノフ 「ロシア側から見た日ロ関係」
毎日新聞東京本社経済部長 菊池哲郎 「政府の総合経済政策で景気は良くなるか」
駐日米国大使特別補佐官 ケント・E・カルダー 「アジア太平洋時代の日米関係」
白 大学法学部教授=政治学 福岡政行 「参院選の結果と政局」
毎日新聞社会長・日本新聞協会会長 小池唯夫 「日本の危機をどうするか」
日本公認会計士協会会長 中地 宏 「これからの企業経営」
南ドイツ新聞 ゲプハルト・ヒールシャー 「コール独首相の退陣と今後のヨーロッパ」
朝日新聞編集委員 船橋洋一 「いま同盟を考える」
1998年
◇ 1・14
◇ 2・10
◇ 3・11
◇ 4・ 8
◇ 5・13
◇ 6・10
◇ 7・ 8
◇ 8・12
◇ 9・ 9
◇10・14
◇11・11
◇12・ 9
沖尚がセンバツで全国制覇 2000年沖縄サミット決まる
コソボ紛争が解決 普天間飛行場の代替にシュワブ沿岸
国連難民高等弁務官 緒方貞子 「世界を回って考えること」
代議士・元科学技術庁長官 田中眞紀子 「21世紀の扉を前にして」
軍事評論家 江畑謙介 「朝鮮半島情勢とアジアの安全保障」
日本経済研究センター会長 香西 泰 「沖縄振興の課題」
沖縄県副知事 牧野浩隆 「基地問題と沖縄経済」
日本経済新聞論説副主幹兼編集委員 田勢康弘 「だれが日本を救うのか」
日本放送協会 会長 海老沢勝二 「デジタル時代の公共放送」
東京女子大学名誉教授 猿谷 要 「多元文化世界の中の沖縄」
駐日米国大使 トーマス・S・フォーリー 「アジアの中の日米関係と沖縄」
1999年
◇
◇
◇
◇
◇
◇
◇
◇
◇
1・13
2・10
3・10
4・12
5・12
6・ 9
7・14
8・11
9・14
27
◇10・15 宮城県知事 浅野史郎 「地方から政治を考える」
◇11・17 著述業 ジャック・ハルペン 「日本人とユダヤ人の発想の違い」
◇12・ 8 野村総研上席エコノミスト 植草一秀 「2000年の日本経済」
沖縄サミット開催
琉球王国のグスクが世界遺産に
朝鮮半島で南北和平会議
那覇市政32年ぶり保守が奪還
浴風会病院院長 大友英一 「ぼけになりやすい人、なりにくい人」
日本国際問題研究所理事長 外務省顧問 小和田恆 「沖縄サミットの意義」
アサヒビール 名誉会長 樋口廣太郎 「2000年!日本経済新生への提言」
公共広告機構理事長 寺尾睦男 「女性の時代。女房なんて怖くない−と言ってみたい」
経済評論家 佐高 信 「異議あり!日本」
プロ野球セ・リーグ会長 高原須美子 「21世紀は心の時代−フィンランドと日本」
東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長 中村祐輔 「21世紀はヒトゲノム時代」
慶応大学教授 小此木政夫 「韓国情勢、北朝鮮情勢」
毎日新聞社編集委員 岸井成格 「森政権と今後の政局」
京都大学大学院教授 家森幸男 「長命から長寿への食生活−沖縄サミットでの報告から−」
駐日中国特命全権大使 陳 健 「沖縄から見る東アジア地域の協力」
戦略国際問題研究所上級副所長 カート・M・キャンベル 「アジア安全保障の将来と沖縄」
2000年
◇ 1・12
◇ 2・16
◇ 3・14
◇ 4・12
◇ 5・10
◇ 6・14
◇ 7・12
◇ 8・ 9
◇ 9・19
◇10・11
◇11・ 8
◇12・13
米中枢同時テロ
小泉内閣発足
国内初の狂牛病
米テロで沖縄観光に打撃
米兵事件頻発し地位協定改定世論高まる
ノンフィクション作家 秋尾沙戸子 「アジアの女たち」
駐横浜大韓民国総領事 徐 賢燮 「新しい韓日関係を目指して」
台北駐日経済文化代表處代表 羅 福全 「台湾の新政権と東アジア」
ブルッキングス研究所上級特別研究員 ラエル・ブレナード 「日米経済関係の新局面」
ドイツ‐日本研究所所長 イ ル メ ラ ・ 日 地 谷 ‐ キ ル シ ュ ネ ラ イ ト 「文 化 比較 か ら 何を 学 べる か 」
富士通総研理事長 福井俊彦 「日本経済の展望」
神戸大学大学院法学研究科教授 五百旗頭 真 「アジア太平洋に生きる」
自由民主党元幹事長 加藤紘一 「参院選後の政局」
京都大学東南アジア研究センター教授 濱下武志 「アジアネットワークの中の沖縄」
多摩大学名誉学長 グレゴリー・クラーク 「クラーク先生の日本人論」
元ソ連大統領 ミハイル・ゴルバチョフ「グロ ー バリ ゼ ーシ ョン の 時代 − ロシ ア と沖 縄 の経 済 交流 」
共同通信社論説副委員長 春名幹男 「米中枢同時テロで激変した世界」
2001年
◇ 1・17
◇ 2・14
◇ 3・14
◇ 4・11
◇ 5・ 9
◇ 6・14
◇ 7・11
◇ 8・ 8
◇ 9・17
◇10・10
◇11・15
◇12・12
初の日朝首脳会談―拉致被害者5人帰国 国連のイラク査察再開
サッカーW杯で日本躍進 ノーベル賞初の日本人W受賞 沖縄振興新法スタート
厚生労働大臣 坂口 力 「差別なき社会をめざして−雇用・失業、狂牛病、ハンセン病問題」
北海道大学法学部教授 山口二郎 「小泉改革・政治の行方」
毎日新聞社社長 斎藤 明 「新聞ジャーナリズムのこれまでとこれから」
駐日シンガポール大使 チュー・タイスー 「日本・シンガポール関係の発展−沖縄の可能性」
総務省総務審議官 月尾嘉男 「IT革命と社会変革」
元西鉄ライオンズ投手 稲尾和久 「鉄腕稲尾の人生論」
沖縄担当大臣 尾身幸次 「沖縄新大学院大学構想について」
三井物産戦略研究所所長 寺島実郎 「21世紀の日米関係と沖縄」
慶応大学経済学部教授 金子 勝 「アメリカのバブル破綻と日本経済の動向」
弁護士 堀田 力 「生きがい大国への道」
ジャーナリスト 歳川隆雄 「小泉訪朝の内幕と朝鮮半島情勢の行方」
日本共産党委員長 志位和夫 「日本外交、日本経済の未来と日本共産党」
2002年
◇ 1・12
◇ 2・13
◇ 3・13
◇ 4・10
◇ 5・ 8
◇ 6・12
◇ 7・13
◇ 8・14
◇ 9・18
◇10・ 9
◇11・13
◇12・11
28
2003年
◇ 1・15
◇ 2・12
◇ 3・ 5
◇ 4・ 9
◇ 5・14
◇ 6・11
◇ 7・ 9
◇ 8・13
◇ 9・10
◇10・15
◇11・19
◇12・10
米英がイラク戦争 邦人外交官2人がイラクで殺害される
新型肺炎(SARS)が世界的流行 沖縄都市モノレールが開業
台風14号が宮古島で猛威
岩手県知事 増田寛也 「地方の自立のために」
在日中国人ジャーナリスト 莫 邦富 「中国最新事情−日本企業がなぜ中国に敗れるのか」
法政大学総長 清成忠男 「新振計はベンチャーの気概で」
ヨット冒険家 堀江謙一 「未知への航海」
ジャーナリスト、アラブ研究者 平山健太郎 「イラク戦争後の中東」
東京大学医学部名誉教授 養老孟司 「脳と現代社会」
大阪大学産業科学ナノテクノロジーセンター長 川合知二 「ナノテクノロジーがひらく社会」
チャイコフスキー財団総裁 アンドレイ・シェルバック 「ロシア―沖縄を結ぶ音楽交流の提案」
エコノミスト 國定浩一 「阪神タイガース優勝の経済効果」
マサチューセッツ工科大学教授 ジェローム・フリードマン 「科学の力と沖縄大学院大学」
毎日新聞社編集委員 岸井成格 「総選挙の結果と今後の政局」
音楽評論家 青木 誠 「沖縄音楽の魅力」
2004年
◇ 1・14
◇ 2・10
◇ 3・10
元自由民主党幹事長 野中広務 「今、日本を憂う」
前駐レバノン大使 天木直人 「これでいいのか日本外交」
アジア経済研究所参事 酒井啓子 「イラク復興と自衛隊」
29
[編集後記]
◎…天木直人氏の講演録から―。
い。 国連 (安保理)は戦勝国の利害が渦巻
「日本の外交は、 まずアメリカの外交を
く場であって、政策決定は容易でなく、 国
見て、アメリカの要求に従って外交をやっ
連中心というだけでは日本の安全保障は得
ていく、ということでした。少なくとも私
られない、という意見もあります。
が外務省にいた35年間はそうでした」
この北朝鮮脅威論に対して、一昨年8月
「年に一回、中東大使会議がありますが、
琉球フォーラム講師に招いた、寺島実郎氏
私が参加した会議では、中東政策特に中東
が最近、新聞、雑誌、著書の中で異論を説
紛争に対して日本としてどういう政策をと
いています。たとえば、 北朝鮮が存続して
るべきかという議論は、一度たりとも行わ
いられる唯一の理由は、 中国がまだこの国
れませんでした」
を存続させようと判断しているからである、
「緊迫した状況の中(米のイラク攻撃前)
と指摘。 米中間の信頼関係の密度が深まれ
わが国がどのような議論をして国の政策を
ば、 北朝鮮という国を存続させておく必然
決めようとしているのか、出先の我々には
性が変化し、朝鮮半島統一への流れが生ま
全く伝わってきませんでした。 私達が知り
れる可能性がある、 と分析しています。 か
得るのは、新聞やその他の報道」
つて米ソ間の了解が東西ドイツ統一を実現
「(地位協定の改定は)日本政府自身が要
へ向かわせたように。
求を放棄しているのです」「改定のためには
◎…寺島氏はまた、 琉球フォーラムの講演
(メディアなどを通じて)米国民に日米地位
の際、 中国がたとえば尖閣列島で軍事力を
協定の不合理性を訴えるのです。アメリカ
行使した場合、アメリカが安保条約を発動
国民が問題意識を持って意見を言うように
して日本のために中国と戦うと見るのは甘
なれば、必ず政策にも影響を与える」。
く単純、と話しています。「日本人の多くは
―以上、元外交官の体験に基づく発言の
夢見る乙女か、善意の足長おじさんのよう
一部でした。
にアメリカのことを考える傾向がある」と。
◎…イラク攻撃を支持した日本の政策に関
アメリカは国益概念を明確にし戦略性を持っ
して、「北朝鮮の脅威」を挙げた上で、いざ
た外交を展開しており、 日本が同様に主体
という時に日本を守ってくれるのはアメリ
性を明確にして外交交渉に当たれば応じる、
カだけだから、 日米同盟の観点から順当な
と主張しています。再読をお勧めします。
選択だ、と巷間よく言われます。また、日
(伊礼)
本人の国連に対する期待は過剰なほど大き
月刊・琉球フォーラム
第131号
2004年3月10日発行
発
編集人
伊
礼
発行人
宮
里
行
勉
昭
也
琉球新報社琉球フォーラム事務局
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