時流に流されず、そして群れない

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与謝野家の人々
2006・ 6・19 487号 時流に流されず、そして群れない
~与謝野馨金融相に聞く~
財部誠一今週のひとりごと
村上ファンドに1000万円拠出していたことから、日銀の福井俊彦
総裁に対する批判が高まっています。拠出したのは98年でした。ノー
パンしゃぶしゃぶで話題になった大蔵・日銀の接待スキャンダルの責任
を取って、副総裁を辞任し、富士通総研理事長へと福井さんが下野した
時でした。じつはその当時、私は毎月、福井さんと会っていました。金
融行政をチェックするNPOを支援するためでした。その主催者は三十
代の元日銀マン。日銀総裁への道が閉ざされ、民間に下野した福井さん
は、当時、本気で若手の応援をしていました。村上ファンドへの拠出は
「志のある若者を支援するため」といった福井さんの言葉には嘘はなか
ったと思います。ただし、後が悪かった。総裁就任後も運用を続けたば
かりか、量的緩和解除の目前に解約を申し出ていたという事実。福井さ
んにしては、随分とお粗末なことをやってしまったなあ、というのが私
の率直な印象です。
(財部誠一)
※HARVEYROADWEEKLYは転載・転送はご遠慮いただいております。
ポスト小泉レースの本命といわれる「麻垣康三」。だ
がここにきて第5の男として「与謝野馨」の名がささや
かれるようになりました。その与謝野さんに先日じっく
りと話をうかがう機会がありました。『財部ビジネス研
究所』(BS日テレ)のメインコーナーのひとつである
「キーパースンに聞く」のインタビューです。4月の番
組開始以来、このコーナーでは大企業の経営者を中心に
話をうかがってきましたが、これからは少し幅を広げ、
政治や行政、あるいはスポーツといった世界の方々にも
ご登場願おうということになりました。 「与謝野」という姓を聞いてみなさんは何を連想される
でしょうか。
そうです。彼は与謝野鉄幹と与謝野晶子の孫にあたり
ます。4月17日、日経新聞夕刊の人気コラム「こころ
の玉手箱」に、与謝野さんがこんな文章を寄稿していま
した。
「才優れる者と劣る者の紙一重。芸術の残酷。鉄幹と晶
子の関係はモーツァルトとサリエリよりも起伏に富んで
いるように思える。短歌革新のリーダー、鉄幹にあこが
れた晶子だったが、程なくして二人の立場は逆転する。
一日三十首が自然に詠めてしまう晶子に一首ですら青息
吐息の鉄幹。家事、子育て、家計…。すべてを担った晶
子とさまよう鉄幹。それでも別れない二人。巨大な才能
と向き合える人間としての魅力が鉄幹にあったのか。晶
子には欠け、鉄幹に備わっていたものは何だったのか。
自分はどちらなのか。私の心にぐさりと突き刺さった」
与謝野さんに尋ねてみました。
「あなたはどちらの血をひいているのでしょう?」
与謝野さんは晶子の血筋から話し始めました。
「晶子はもともと大阪、堺の出身で鳳(ほう)と名乗る
一族の出なのですが、この一族には頭のいい人が多かっ
たようです。東大で物理学の大家といわれた人物もでて
いますし、晶子自身、天才肌の人でした。対照的に鉄幹
は新しい短歌の運動を起こすといったことはやったけれ
ど、才能では晶子の足元にも及ばなかった。では自分は
どちらの血をひいているのか。鉄幹でしょう。努力を積
み重ねるタイプですよ」
◆与謝野鉄幹 ( よさの てっかん ) 1873~1935
明治6年2月26日に京都岡崎で生れる。
与謝野礼厳の四男。明治・大正・昭和期の
歌人。霊美玉廼舎(くしみたまのや)、鉄
雪道人、鉄幹などの号がある。鉄幹の号は
明治38年に廃した。
明治25年上京、落合直文門下となる。翌
年、落合直文を中心として「あさ香社」を
つくり、新派和歌運動をはじめる。
明治
27年には、歌論「亡国の音」を発表。明
治32年、「新詩社」を創設し、明治33
年「明星」を創刊し、妻与謝野晶子ととも
に浪漫主義運動を華麗に活動する。北原白
秋など多くの俊秀を世に送った。大正8年
から昭和7年(1919~32)まで慶大教
授。著に詩歌集「東西南北」(明治29)
など多数。
◆与謝野晶子 ( よさの あきこ ) 1878~1942
明治11年、堺の甲斐町に、和菓子屋で有
名な駿河屋の三女として誕生し、明治・大
正・昭和を短歌とともに生きる。「情熱の
歌人」と呼ばれた晶子は、近代文学史上屈
指の女性であるとともに、与謝野鉄幹の妻
であり、11人の子供たちの母でもある。
明治34年(1901)に出版された「みだ
れ髪」は鉄幹へのあふれる愛と青春のみず
みずしさを歌い上げ、当時の若い世代の圧
倒的な指示を得て浪漫主義の代表作となる。
また、生涯を通して「源氏物語」をはじめ
とする古典文学に傾倒し、その現代語訳に
情熱を注ぐ一方、女性の権利に焦点をあて
た評論も多く著し、女性教育の分野でも積
極的な役割を果たす。
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さらに興味深い話がでてきました。なんと与
謝野鉄幹は衆議院選挙に立候補したことがあっ
たというのです。
「選挙といっても当時は限られた人々だけが選
挙権を持っていた時代ですから、鉄幹のような
人間が当選するはずがない。落選です。先日、
ホテルオークラの大倉集古館で与謝野晶子展を
やっているというので、見に行きました。する
とそこに『選挙の応援をする晶子』とタイトル
をつけられた写真があったんです」
まさしく夫、鉄幹の衆院選を応援する晶子の
姿を写した貴重な写真で、与謝野さんはそのな
かの1枚をもらいうけてきたそうです。その時、
与謝野さんの叔父さんがやってきて嬉しそうに
語ったそうです。
「父(鉄幹)の夢を叶えてくれてありがとう」
与謝野鉄幹はじつは政治家を目指したことが
あったという、学校で習う文学史からは想像も
つかぬ事実に、妙な感動を覚えました。歌人と
して圧倒的な才能に恵まれた晶子と、政治家を
志したこともあった鉄幹。まったく違うこの2
人は11人もの子宝にめぐまれました。文学史
に名を残す2人ですが、芸術で暮らしていくこ
とは簡単ではありません。その生活は「赤貧洗
うがごとき」もので、晶子は晩年、自分の子供
たちに「教育しか、してあげることができなか
った」といったそうです。そのなかで鉄幹、晶
子夫妻は、理由は定かではありませんが、長男
にはぜひとも外交官になってほしいという願い
をもっていたそうです。次男、秀(しげる)は
東大法学部を卒業後、期待通りに外交官になり
ました。日本が太平洋戦争へと突入していく困
難な時代を生きた外交官でした。エジプト公
使・大使、スペイン大使をへて東京オリンピッ
ク事務局長などを歴任しています。その息子が
与謝野馨さんでした。
あまり知られていませんが、じつは与謝野さ
んは大変な米国通だという話を、安全保障を専
門とするシンクタンクの研究員からつい先日聞
きました。流暢な英語を使いこなすだけではな
く、ワシントン人脈も豊富だというのです。意
外な顔が次々と見えてきましたが、父親の経歴
をみればさもありなん、という気がします。
時流に流されない、そして群れない
その与謝野さんが、ことあるごとに話題にし
ている歴史上の人物がいます。小泉首相や民主
党の岡田元代表が尊敬する人物として「織田信
長」の名をあげていたのとは対照的な人物です。
井上成美。
ご存知でしょうか。最後の海軍大将とよばれ
る人物です。作家、阿川弘之氏が著した『井上
成美』(新潮社)という本を、与謝野さんはこ
とあるごとにとりあげています。日経新聞の
「こころの玉手箱」でもふれていますし、昨年
の郵政民営化選挙で初当選した自民党の新人議
員83人の集まりである「83会」の講師をつ
とめたときも、与謝野さんは参考図書として
『井上成美』をあげています。
日本が米国との戦争に突入していく大きな流
れの中で、井上成美は海軍の軍務局長として上
司である米内海軍大臣、山本五十六海軍次官と
ともに日独伊三国同盟に強硬に反対したことで
知られます。また海軍兵学校の校長時代には、
陸軍士官学校が早々と敵国語である英語教育を
廃止したのとは対照的に、「いやしくも世界を
相手にする海軍士官が事実上の世界語である英
語を知らぬでよいということはあり得ない」と、
英語教育の続行を決めたことでも知られていま
す。その後、米内(よない)海軍大臣のもとで
海軍次官となり、終戦工作、和平の研究に取り
組みました。そして昭和20年、敗戦の年の5
月に海軍大将となった人物です。時流に流され
ず、正論を言い続けた稀有の軍人、それが井上
成美です。また終戦後は、横須賀に隠棲し、村
の子供たち相手に英語を教えて余生を送ったの
でした。
「ああ、あんな時代でも冷静に物を見ていた人
がいたんだなあ。井上も揺れただろう。軍人と
しては「米国と戦えない」と口にすることは屈
辱だったろう。だがぶれなかった。政治でも政
策でも孤立無援になったり迷ったりした時はい
つも井上を思い出す」
『こころの玉手箱』にそう記していた与謝野さ
んに、尋ねてみました。
「なぜ、井上成美なのですか?」
「自分の父親いがいにも、そういう人間がいた
のかという思いがどこかにあるのかもしれませ
ん。時流に流されず、群れないという生き方で
すね」
たしかに与謝野馨は時流に流されず、また群
れることもありませんでした。いまでこそ小泉
政権の中枢にいますが、自民党のなかでけして
スポットが当たり続けてきた政治家ではありま
せん。自分は政策職人でよいと開き直っている
ところがあります。
「私にはね、小泉首相に拾ってもらったという
思いがあるんですよ」
小泉首相からいきなり電話がかかってきたそ
うです。「少し働かないか」。また閑職だろう
とおもっていた与謝野さんに用意されたポスト
は政調会長でした。なぜ自分が政調会長なのだ
ろうか。小泉首相とは特別親しかったわけでも
ない。
「25年前の大蔵委員会で、質問をさせてほし
いと手を挙げ、私が延々と郵貯問題をとりあげ
たことがあったのです。その時の委員長が小泉
さんだった。小泉さんはそれを覚えていたので
はないでしょうか。それしか思い浮かばないん
ですよ」
人間万事塞翁が馬とは、まさにこういうこと
でしょうか。
時流に流されず、群れない。人生の醍醐味は
そこにあるのではないか。じつは私自身も自分
の人生を振り返って、そんな思いを強くしまし
た。 (財部誠一)
◆井上成美(いのうえ しげよし)
宮城県第二中学校(現宮城県仙台第
二高等学校)を経て海軍兵学校37期、
海軍大学校卒。イタリア駐在武官、
軍務局第一課長、横須賀鎮守府参謀
長を歴任。司令長官だった米内光政
を補佐、二・二六事件の際は陸戦隊
を海軍省の警備につかせる。その後
軍務局長として米内海軍大臣、山本
五十六海軍次官と共に三国同盟に反
対。海軍関係の新聞記者からは米
内・山本・井上ラインのことを「海
軍左派」と言われていた。支那方面
艦隊参謀長、航空本部長の後開戦時
の第四艦隊司令長官。兵学校長を経
て米内海軍大臣の海軍次官として中
央に復帰。教育局長だった高木惣吉
少将に終戦工作の研究を指示、米内
を援け早期和平に向けて尽力する。
敗戦の年の5月、大将昇進。次官を
退く。塚原二四三とともに最後の海
軍大将であった。敗戦後、横須賀に
隠棲し、責任を感じるとして公の場
には出ず、子供たちに英語を教えた
りなどしていた。