日中人称詞の比較研究

日中人称詞の比較研究
山本裕美
1.はじめに
「我愛你」を日本語に訳す度、「私はあなたを愛している」ではなく、
「私」「あなた」という人称詞を省略して「愛してる」であるということに疑
問をもってきた。日本語では省略できる人称詞をなぜ中国語では省略できない
のだろうか。本稿ではこの点を考察していきたいと思う。
2.先行研究
『新日語大辞典』では自動詞は「動詞の一種。目的語をとらずに自ら完全な
1
意味を表す動詞。「人が眠る」「風が吹く」の「眠る」「吹く」など」 、他動
詞は「動詞の一種。作用が客体に及ぶ意味を持つ動詞。たとえば、「戸をあけ
る」のように、動作・作用(あける)がある事物(戸)に及んで、これを処理
2
するという意味を表す動詞」 と説明されており、日本語の動詞には自他動詞 2
種類あることが明記されている。この定義から考えると、目的語をとる「愛し
てる」という動詞は他動詞である。
日本語の「愛してる」と中国語の「我愛你」の「愛」はともに他動詞である。
では、日本語では人称詞が省略でき、中国語ではできないのはなぜか。本章で
は、動詞の自他性に着目して中国語の動詞についての先行研究をまとめる。
輿水(1993)は次のように述べている。(下線は報告者による)
動詞は賓語をとるものととらないものに分けられる。前者を“及物动
词”(他動詞)、後者を“不及物动词”(自動詞)という。しかし、よ
り正確には賓語を真賓語と準賓語に分け、他動詞はその双方をとり、自
動詞は真賓語はとれないが、準賓語はとれるといわなければならない。
(略)自動詞のなかで、若干ではあるが真賓語をとり他動詞としても用
いるものがある。しかし、その動詞のあらわす意味は、自動詞と他動詞
でことなる。これらのほとんどは単音節動詞である。
他笑了(かれは笑った)- 他笑你(かれはきみを笑いものにする)
他哭了(かれは泣いた)- 他哭他奶奶(かれはおばあさんのために
泣く)
いずれも意味上なんらかの関連があり、(略)たんなる同音語の関係
ではない。したがってこれらは自動詞と他動詞の兼類として考えるのが
3
よい。
上記から輿水(1993)は自他動詞の 2 種の存在を認めており、その若干は自
他動詞どちらにもなりうると考察している。
また、李(1993)の論は以下の通りである。
動詞が自動詞と他動詞とに分かれることを述べた。自動詞は賓語をと
もなうことができず、他動詞は賓語をともなうことができる。しかし、
1
『新日語大事典』(1968)三省堂p. 876
同上p. 1237
3
輿水優(1993 初版 1985)『中国語の語法の話-国語文法概論-』光生館p.157-p.158 参照
2
1
一部の動詞はある条件のもとでは賓語をともなうことができないが、他
の条件のもとでは賓語をともなうことができる。前者の場合は、自動詞
に属することとなり、後者の場合は、他動詞に属することとなる。これ
らの動詞は自動詞、他動詞の両類に兼属するわけである。 4
李は両類の動詞を“联合”類と“睜”類動詞にわけた。以下に例と図式を載
せる。
联合[自]你們双方要联合起來。
[他]你們要联合对方。
自動詞:N(当事者・群体)←V
他動詞:N(当事者・群体部分)←V→(受事者・群体部分)
睜[自]他的眼睛睜了一下。
[他]他睜了一下眼睛。
自動詞:N(当事者<主体+主体のある部分>)←V
他動詞:N(当事者<主体>)←V→N(受事者<主体のある部分>) 5
このように李も中国語動詞を自他動詞にわけ、両類動詞の存在を認めている。
さらに、劉(1991)は以下のように説明している。
動詞は、目的語をとれるかどうか、またどのような目的語をとれるか
によって他動詞“及物動詞jiwu dongci”と自動詞“不及物動詞
6
bujiwu dongci”の二つに分類される。
劉(1991)によると、他動詞とは、受け手目的語“受事賓語”をとれる動詞
のことを指し、自動詞とは、目的語をとれない動詞や受け手目的語をとれない
動詞のことをいう。その他に、次のような自動詞、他動詞両方に属する動詞も
あげられている。
(去南京)([南京に]行く)-自動詞
(去皮)([皮を]とる)
-他動詞
(笑了)(笑った)
-自動詞
7
(大家都)笑(他)([皆彼を]笑う)-他動詞
以上の先行研究から次のことがいえよう。従来の研究では中国語動詞は自動
詞と他動詞の 2 種類あることを認め、一部の動詞はその両方を兼ねていること
が共通認識である。しかし、どのような条件の下1つの動詞が自動詞から他動
詞に、またその逆に変化するのかは書かれていない。では、どのように自他動
4
李臨定(1993)『中国語文法概論』光生館p.502
李臨定(1993)『中国語文法概論』光生館p.502-p.505 参照
6
劉月華(1991)相原茂等訳『現代中国語語法総覧(上)』くろしおp.131
7
同上p.131-p.132 参照
5
2
詞を判断しているのであろうか。次章では日本語と中国語の自他動詞について
考察する。
3.日中言語の構造
3.1 日中言語の自他動詞
3.1.1 日本語の自他動詞
野間(1975)は日本語の自他動詞について以下のように記述している。
「他動詞は、何々をとる動詞です」という言い方は不正確です。本を
読む・文章を書く-けっこうです。読む・書くは他動詞。ところが、角
を曲る・坂をのぼる-とくる。曲る・のぼるは、おあいにくさま、他動
詞にあらず、自動詞でした。言い直して、「他動詞は、自動詞で何々を
とる動詞以外で何々ををとる動詞です」と言っておいて、「何々ををと
る自動詞は、これこれです」と言わなければならない。(中略)そうい
うわけで、他動詞の規定のしかたはむずかしいのです。
そこで他動詞とは
1、その語の意味する内容の動作・作用をある主体がおこない、他の客
体(対象)にその結果が及ぼされる、そういう動詞のこと。
2、その動詞に「てある」をつけて、ある状態のあらわせるのが他動詞。
折ってある・破ってある、など。自動詞だと、折れている・破れている、
となる。
自動詞の規定
1、ある主体の動作・作用をあらわすが、その行為の結果がその主体自
身の動きをして完結し、他の対象に及ぶことのない動詞。
2、(他動詞の逆で)状況を言うとき普通「―てある」と言わない動詞。
8
あいている・生きているなど。
上記の記述からわかることは、日本語では動詞によって自動詞か他動詞かど
うかが決まっており、それは目的語の位置にどんな名詞が来ようが他動詞が自
動詞に変化することはない。同様に、文脈によって自動詞が他動詞に変わるこ
ともないということである。「ごはんを食べる。」の「食べる」は永遠に他動
詞である。たとえ、目的語の位置に「会社」「両親」というような名詞が置か
れても「食べる」が他動詞であるということに変わりはない。自動詞に変化す
ることはありえない。これは湯川(1999)が「現実反映性」という概念で説明
している。
細イ道 細イ糸 細イ指
等々はいえるが、
細イ家 細イ夏
等々はいえない。(中略)「細イ~」がいえるか否かは、個別的事実を
除けば、専ら言語の現実反映性によって決まっていることであって、
8
野間正雄(1975)「第 11 章これだけ知っていれば「動詞」通になれる­動詞のさまざま­」大久保忠利・
奥津敬一朗『新・日本語講座 2』汐文社p.159-161
3
「細イ~」といえるかどうかに、言語側の分類が関与していると見られ
る証拠はまったくない。 9
この概念で考えると、「会社を食べる」「両親を食べる」が言えるかどうか
は、現実反映性の問題であり、「食べる」が他動詞であることに変わりはない
のである。
3.1.2 中国語の自他動詞
中国語の自他動詞を考察する前に、中国語の動詞について記す必要があろう。
大河内(1982)は中国語の「花」を「本来他動詞である」 10 と規定している。
しかし、「錢花了」の「花」は自動詞としても理解可能であり、「花錢」や
「叫花子」だと、「花代」「乞食」という名詞のようにも考えられよう。また、
「花心」では品詞分類も困難である。このように、中国語の動詞は自他動詞の
区別の前に、品詞分類すら難しいのである。
次に「愛」の例を挙げよう。「愛」という中国語も品詞分類がしづらい。
「愛是神聖的」の「愛」の品詞は「我愛你」の「愛」と同じと考えてもよいの
か。このように中国語の場合、品詞による形の違いがないため、分類しにくい。
意味を理解した後、その意味によって品詞を決定するしかないのだ。また、た
とえ「我愛你」に限定して、「愛」が動詞だということがわかった場合も自他
動詞の区別はつけにくい。たとえば、「年輕人有錢的愛,沒錢的不愛。」この
ような文では前後の手がかりがないと、「愛」が自動詞か他動詞か決定しがた
いのである。
趙(1987)は以下のように述べている。
主語跟謂語在中文句子裡的文法意義是主題跟解釋,而不是動作者跟
動作。(省略)「動作者-動作」能解釋的句子還是非常少,甚至不超過百分
之五十。所以採用較廣義的概念:主題跟解釋,反而比較恰當。主語就是名
符其實的主題,(省略)。 11
つまり、中国語の場合、主語が動作者とは限らず、主題とその説明と考える
ほうが適している。「陳進興求處死刑」の文をこの趙の論から考えると、陳が
主題であるとも、死刑を要求した動作者であるとも解釈できる。要するに、自
他動詞という概念では「求」を説明できない。状況理解や事前の情報などの前
後の手がかりがあって初めて理解できる。ここから、中国語の品詞分類、自他
動詞の決定は意味を理解した後の結果と言えそうである。
このような特徴をもつ中国語の動詞を王力(1987)は次のように記している。
實際上,及物不及物的分別,在中國語法裏,並不重要。這種不重要
性就寄託在介詞的缺乏上。動詞之需要目的與否,這是語言環境自然會決
定了的,不煩語法家代為規定。 12
9
湯川恭敏(1999)『言語学』ひつじ書房p.166-p.167
大河内康憲(1982)「中国語構文論の基礎」『講座日本語学 10 外国語との対照研究』明治書院出版
p.327
11
趙元任(1987 初版 1980)『中國話的文法』中文大學出版社p.40
12
王力(1987)『中国語法理論』藍燈文化事業p.86
10
4
さらに、以下のような記述がもある。
西洋的動詞及物不及物,完全以語言的結構方式為標準。如果他的目
的格是一種「受格」,或不用「介詞」做動詞和目的格之間的聯結工具,
就叫做及物動詞。如果它不需要目的格,或所需要的目的格是一種「副
格」,或必須用「介詞」做動詞和目的格之間的聯結工具,就叫做不及物
動詞。中國語是不是也用一個標準呢?中國沒有真正的副格,因為沒有副
格的屈折形式,又加上節所論,中國的介詞時很缺乏的,尤其是在現代一
般口語裏,幾乎找不出一個真正的「介詞」。這樣及物和及物就很難分別
了。 13
また、朱(1993)も中国語の自他動詞についてこう述べている。
中国語の場合(中略)動詞の自他性となると、もう語形からわかるは
ずはないのである。 14
換而言之,中文動詞中所謂的自動性或他動性,只是在根據上述的文
意等去了解句子真正的意思之後,再根據認識結果所作的判斷而已。
和日文動詞相較之下,可清楚看出兩者具有下列的差異。
(日語)
他動詞本身-―必須有賓語
自動詞本身―不必須有賓語
(中文)
根據文意等―判斷必須有賓語 ―根據此判斷結果 ―稱動詞為他動詞
根據文意等―判斷不須有賓語 ―根據此判斷結果 ―稱動詞為自動詞
和本身即具有是否要求賓語的日文動詞自,他「本質分類」相較,中
文這種根據認識結果所作的自,他分類應該可稱為「結果分類」。(中
略)自,他分類或說只是針對這種動詞本身已具備之性質所作之分類而
已。雖然對於日語動詞自,他分類妥當性的論爭至今不息,這只是對動詞
本身性質應如何視之而產生的爭論,並非是懷疑動詞是否具此依性質而做
的爭執。 15
本節では次のことがいえる。日本語の動詞は他動詞と自動詞に分かれており、
それらは目的語の位置にどんな名詞が来ようが、変化するものではない。一方、
中国語は異なった品詞でも形が同じであるために、分類し難く、動詞の自他性
も前後の手がかり(言語環境や常識など)から意味を理解した結果の分類であ
る。
13
同上 p.85
朱廣興(1993)「言語対照研究 中国語の「語」の性質について」『東呉日本語教育 第 16 期』p.203
15
朱廣興(1988)「從“從意義被動文"看中文動詞的自他動性」『第二屆世界華語文教學研討會論文集』
p.194-p.196
14
5
では、なぜ中国語の動詞は自他動詞の区別がつきがたく、主語が動作者か主
題かも判断しにくいのであろうか。次節では日本語と中国語の動詞の方向性に
ついて考察する。
3.2 日中動詞の方向性
3.2.1 日本語動詞の方向性
森山(2002)は日本語の自他動詞について以下のように記述している。
特に、変化がある動きをめぐっては、多くの場合、自動詞と他動詞は、
人が 扉を {あける・閉める}……他動詞(対象を変化させる)
扉が {あく・閉まる}……自動詞(主語が変化する)
のような対応関係ができます。このような対応関係を自他の対応といい
ます。 16
これによると、他動詞は「対象を変化させる」、自動詞は「主語が変化す
る」ものであり、他動詞は人が扉に何らかの働きかけをするという構図をかく
ことが出来る。一方、自動詞の場合は主語自体に何らかの働きかけが起こると
でもいえようか。これは以下のような図式で表すことができる。
主語
人が
主語
扉が
目的語
扉を
他動詞
あける
自動詞
あく
以上から日本語の動詞には方向性があるといえそうである。そして、その方
向は自動詞と他動詞では逆向きだとわかる。まとめると、日本語の動詞は目的
語の位置にくる名詞に関係がなく自他動詞に分けることができ、そしてその自
他動詞は方向性を持つということである。
3.2.2 中国語動詞の方向性
陳(1988)は中国語の動詞について次のように書いている。
漢語有一些特殊句子,兩個名詞組可以對調並不影響其意義。試比較
下列 16 與 17 各句
16
a 十個人吃兩磅肉。(趙元任,1968)
b 兩磅肉吃十個人。(同上)
c 人吃肉 (狗吃骨頭) 。
d*肉吃人。
17
a 三個人喝五瓶酒。
b 五瓶酒喝三個人。
16
森山卓郎(2002)『<もっと知りたい!日本語>表現を味わうための日本語文法』岩波書店p37-p.39 参
照
6
c 人喝酒 (馬喝水) 。
d*酒喝人。
當我們比較 16a 同 16b 或是 17a 時,我們發現 16a 動詞前後的主賓語向對
調就變成了 16b 的句子,且能保持語意。
(略)我們可以說「人騎馬」卻不可以說「馬騎人」,但是如果人,馬前面
都加上數量詞,則主賓語就可以互調而同時又能保持語意。
18
a 兩個人騎一匹馬。
b 一匹馬騎兩個人。
c 人騎馬。
d*馬騎人。 17
陳(1988)の論から「十個人吃兩磅肉。」「兩磅肉吃十個人。」「三個人喝
五瓶酒。」「五瓶酒喝三個人。」「個人騎一匹馬。」「一匹馬騎兩個人。」は
動詞の前後を入れ替えても文章の意味に影響はないことがわかる。それは、も
し中国語の動詞が日本語の動詞のように方向性があれば起こるこはずのないこ
とである。したがって、自他動詞の区別のつけがたい(重要でない)中国語の
動詞は方向性がないと考えられるだろう。
また「選總統」と「李登輝選總統」では「選」の性質が異なる。それは中国
語の動詞が自他性では説明できず、自他性で説明できない中国語の動詞には方
向がないということを表していると言える。
高(1985)は中国語の動詞の性質をこう説明する。
動詞是表示一種歷程或動作,但光光一個動詞並不能表現這歷程或動作是
18
.
屬於那一種「性」
さらに、朱(1988)も同様のことを述べている。
在未入句之前,中文動詞應屬中性,入句之後,我們才能依據認識的結果
19
將其作自,他分類。
このように、高(1985)は中国語の動詞の「性」の欠如を指摘しており、朱
(1988)も「中性」であると主張している。これらは中国語の無方向性を示す
ものであると考えていいだろう。また、黄(2008)は中国語の動作の方向性に
ついて以下のように述べている。
総じていえば、いわゆる中国語の動作の『無方向』というのは、大河内
(1975)による「妹妹吃了」と「糖吃了」、「魚吃了」において「吃」と
いう動作の示すとおり、その方向は『常識』、『文脈』、つまり朱
(1990)が述べている『了解句子真正的意思之後,再根據認識結果所作的
17
陳秀英(1988)「中文一些特別句型的主賓語位置問題」『第二屆世界華語文教學研討會論文集』p.1401p.1402
18
高名凱(1985)『漢語語法論』台湾開明書店p.435
19
朱廣興(1988)「從“從意義被動文"看中文動詞的自他動性」『第二屆世界華語文教學研討會論文集』
p.196
7
判斷』(文意に対する認知の結果)によって決まるものであるので、『文
法の形式』によって理解されるものではない。 20
黄(2008)は中国語の動詞は無方向であるとし、「中国語の動作は、文法上
の自、他性質をもたないので、その方向が変わったかどうかはあくまでも個人
主観の論争に流れる問題になってしまう」 21 と述べている。
これまでの論をまとめてみる。文法という明確な規則を持つ日本語は動詞に
よって自他動詞が区別されており、「他動詞は「対象を変化させる」、自動詞
は「主語が変化する」」という方向性を持っている。
一方、中国語は意味を理解して初めて品詞分類をすることができる。また、
中国語の動詞は自他性では説明できず、言語環境や常識などの前後の手がかり
による意味理解から判断されるといえよう。つまり中国語の動詞の自他性は意
味理解があっての結果論である。このように自他性で説明できない中国語動詞
は無方向だと言えるのである。
このように日本語動詞には方向性があるため、人称詞の省略が可能になる。
「人を殺した」と「殺人」を例にあげる。他動詞「殺した」は「(主語)が人
(対象)を変化させる」という方向を持っており、主語を明示しない限り
「私」が主語の位置にくる。そのため、我々 は「人を殺した」だけを聞くと発
言者が動作者だと考えるのである。しかし、中国語の「殺」には方向性がない
ため、人称を明示しないと誰の行為かわからない。つまり、日本語の場合、自
分が動作者の際、「私」を省略できるが、中国語では省略すると動作者が不明
になるという現象が生じるのである。
4、おわりに
本稿では日本語と中国語の動詞に着目し、その方向性の差異を考察してきた。
以上の考察から動詞の方向性の有無によって人称詞の省略可能か可能でないか
が決まると言えそうだ。もちろん日本語、中国語ともに人称詞を省略すること
はできる。しかし、日本語のように方向性のある動詞の場合、人称詞を明示し
なくても関係性が明確であるが、動詞に方向性のない中国語の場合、前後の手
がかりがない限り人称詞を明示しないと動作者か主題かわからないのである。
日中両言語、人称詞の用い方の差異には以上のような言語構造のほかに、日
本と台湾の社会背景も影響しているのではないかと考えられる。この点は今後
の課題にしたい。
5、参考研究 省略
報告者経歴
山本裕美:同志社大学社会学部卒、東呉大学修士課程2年在籍中、
私立稲江商業高等学校兼任教師
20
黄士哲(2008)『日中受身対照研究-動詞方向性を中心に-』東呉大学修士論文p.157
同上p.164
21
8