社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士 宮元預羽

私はソーシャルワーカー
社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士:宮元預羽
「ソーシャルワーカーは何をしている人達なのか」
こ の 度 、当 協 会 よ り 原 稿 依 頼 を 頂 き ま し た 宮 元 と 申 し ま す 。
「 自 由 に 書 い て 下 さ っ て 結 構 で す 」と
の こ と で し た の で 、 色 々 悩 ん だ の で す が ・ ・ ・ ・ 。 2,500 字 ~ 3,000 字 ・ ・ ・ ・ 。 せ っ か く の 機 会
で す の で 投 稿 さ せ て い た だ き ま し た 。私 の 母 親 と 姉 2 人 は 看 護 師 な の で す が 、な ぜ 私 が 、母 親 や 姉
2 人のように看護師にならず、ソーシャルワーカーになったのか?少し振り返ってみることにしま
した。そして振り返るついでに、今の私の立ち位置と重なる?青春時代を思い出したので、反省も
込めて、若き時代より、つらつらと書き連ねてみました。
私 は 高 校 時 代 、 バ ス ケ ッ ト ボ ー ル 部 に 所 属 し て い ま し た 。 今 か ら 20 年 程 前 の 話 で す 。 私 の 所 属
していたバスケットボール部はシード校でしたので、地元の沖縄では強豪校だったと思います。柔
道 を し て い た 今 は 亡 き 父 親 か ら は 、「 お 前 は 背 が 低 い か ら 卓 球 を や り な さ い 」( ← な ぜ 卓 球 だ っ た の
か ? 父 親 に 聞 け ず 仕 舞 い )、 ま た 、「 バ ス ケ ッ ト ボ ー ル を 続 け た け れ ば 高 校 卒 業 ま で に 空 手 の 黒 帯 を
取 り な さ い 。部 活 が 終 わ っ た ら 走 っ て 道 場 に 通 い な さ い 。」
(←人間の体力の限界というものを知り、
月謝の数ヶ月分は新しいバスケットシューズ代に)と言われ続けたものです。私より体が大きく、
厳格な父親だったのですが、背の低い私が背の高い連中の中でバスケットボールをすること、滑稽
で不憫に思えた歪んだ親心?だったのでしょうか。結果的に私は、顧問の先生や女の子達からチヤ
ホヤされるようなスター選手になれなかったのですが、それでも好きであることだけで、高校の3
年間バスケットボールを続け、控え選手を続けることできました。控え選手と言っても少しは試合
に出場する訳です。背の高い新入生が入部して来たり、沢山の友人達が退部していきましたが、7
名の登録選手として残ることができたのです。私にとっては快挙です。つまり、好きであることが
“向いていない”ことに勝ったのだと思うのです。ソーシャルワーカーという職業を目指したこと
も 、居 や す い 環 境 に 身 を 置 く こ と よ り 、目 指 し た い 職 業 で あ っ た 訳 で す 。
( 今 で も 私 は 、ソ ー シ ャ ル
ワ ー カ ー の 控 え 選 手 な の か も 知 れ ま せ ん ・ ・ ・ ・ ・ 。)
さて、なぜ私は看護学校に行かなかったか。皆さんにとっては、どうでも良いことかもしれませ
んが、ここから少しずつ本題に突入していきます。高校卒業後、事情により親元を離れ、当時の老
人病棟で夜勤専属の看護助手をしながら介護福祉士の養成校を出ました。養成校卒業後は介護老人
保健施設で介護福祉士をしていた訳ですが、当時の私は、看護学校に行く環境はとても整っていた
と思います。同僚や上司も看護学校進学を勧めます。働きながら進学する道も整っています。もし
看護師になっていたら、ベテラン看護師である母親から助言などもして貰えていたことでしょう。
姉達の様に。また、もし看護師になっていたら、隣接していた精神科病棟の男性看護師達と草野球
チームやサッカーチームに所属して真っ黒に日焼けをしていたり、イベントの時等は精神科の患者
さん達の前で得意なバンド演奏なども披露、あるいは一緒に演奏していたことでしょう。そして私
の働いていた老人保健施設には、複数の介護スタッフが看護学校へ通っていたのですが、施設の入
所者達、御高齢の方々は、私には看護学校進学より大学進学を勧める訳です。高齢者達にとっての
大学は、一つのステイタスであったのかも知れません。平成大不況の真っ只中、学歴社会も崩壊し
つつ時、人生の大先輩達の助言を鵜呑みにし、施設内で一人、時代に逆行していた私は、働きなが
ら社会福祉専攻の夜間大学に通う道を選びました。辛くて弱音を吐いた時も「ヨハネ。ヨワネ(弱
音 ) を 吐 く な 」( ← 御 高 齢 ギ ャ グ ? ) と か 、「 働 き な が ら 大 学 に 行 く な ん て 当 た り 前 だ 。 昔 は 皆 、 苦
学 し て 大 学 を 出 た も の だ 。」と か 、そ の 他「 と り あ え ず 大 学 」と か 、高 齢 者 ら の そ ん な 言 葉 に 励 ま さ
れたりもしていました。親元を離れて暮らしていた私にとって、まさに高齢者達は私の親代わりで
あ り 、ま た 高 齢 者 達 も 子 や 孫 を 私 に 投 影 し て い た の だ と 思 い ま す 。
( こ こ ま で で は 、看 護 学 校 へ は 行
か ず に 大 学 に 行 っ た 、 と い う こ と で 話 が そ れ て 終 わ っ て し ま い ま す ね 。)
さてさて、それではなぜ私はソーシャルワーカーを目指したのか?ソーシャルワーカーが目指し
たい職業であったのか?これもほとんどの方々にとっては、もうどうでも良いことだと思うのです
が・・・・。当時の私は「ソーシャルワークとは何か」を、正直よく理解していませんでしたが、
介護福祉士をしていたので「ソーシャルワーカーが何をしているのか」は、よく見えていました。
例えば、ある事件において、被害者の視点に立ち、マスコミや国家権力?に対し、ソーシャルワー
カー達がソーシャルアクションをおこす姿を見ていました。また、精神科の患者さんの処遇に対し
て、患者さんの視点に立ち、医師や行政に根拠ある意見を発言している精神科のソーシャルワーカ
ーを見ていました。ソーシャルワーカーは、普段細々とデスクに向かう少数派で、患者さんや利用
者と静かに面接をする。しかしクライアントが困っている時はその環境を整え、誰に対しても言う
べきことは言い、一貫した姿勢を見せる・・・・。誠実性と正義感。それが私の見ていたソーシャ
ルワーカーでした。当時の私はソーシャルワーカーに程遠い存在で、忙しさに感け、人の話を「聴
く 」姿 勢 も 不 十 分 で 、同 僚 達 が 威 圧 的・感 情 的 に 意 見 を し て き た ら 、た と え そ れ が 間 違 っ て い て も 、
すぐに謝ってしまっていました。他人の環境を調整する程のスキルが自分に身につくのか不安でし
た。だからこそソーシャルワーカーに憧れたのかも知れません。そして私は大学卒業後、生活相談
員や介護支援専門員として、曲がりながらもソーシャルワークに携わることができました。
「離職者訓練制度における介護福祉士養成事業にソーシャルワークの視点を」
現在私は、介護福祉士と社会福祉士の養成に携わっておりますが、今まさにソーシャルワーカー
の控え選手なのかも知れません。ソーシャルワーカーの控え選手?と反省するようになったのは、
あ る 仕 事 に 携 わ っ た こ と が き っ け で し た 。皆 さ ん は 平 成 21 年 の 10 月 、朝 日 新 聞 の「 介 護 系 学 校 訓
練生の波」というショッキングな記事をご存知でしょうか。介護福祉士の養成校に在籍する職業訓
練生の記事で、
「 半 数 は ま じ め な 訓 練 生 」な の だ が 、一 部 に「 介 護 分 野 で 働 く 気 の な い 人 ま で 集 ま っ
た 」「 失 業 手 当 が 目 当 て 」「 介 護 の 仕 事 内 容 を 知 ら な い 人 ま で 受 講 し て い る ? 」 と の 内 容 で し た 。 こ
こ で 誤 解 し て 頂 き た く な い の が 、半 数 以 上 は ま じ め な 訓 練 生 で あ る こ と で す 。
(一部の訓練生の評判
で 、 ま じ め な 訓 練 生 達 が 実 習 先 で 悲 し い 思 い を し て い た の を 私 は 知 っ て い ま す 。) そ の 記 事 の 1 年
後、私自身がその訓練生達に介護教員として携わることになったのですが、沢山の訓練生が退学し
てしまいました。訓練生に対しソーシャルワークを行う環境も整っておらず、私自身もソーシャル
ワ ー ク を 行 う 力 量 が な か っ た こ と を 反 省 し て お り ま す 。 平 成 22 年 度 の 調 査 で は 、 介 護 福 祉 士 の 養
成 校 の 2 割 以 上 が 職 業 訓 練 生 や 介 護 雇 用 プ ロ グ ラ ム の 求 職 者 で あ り 、今 後 そ の 数 は 更 に 増 え 、彼 ら
に 日 本 の 将 来 を 託 す の が 現 状 で す 。彼 ら と 関 わ り 、不 完 全 燃 焼 の ま ま 2 年 が 経 過 し て し ま い ま し た
が、今後は少し離れた場所で、離職者訓練制度における介護福祉士養成事業のソーシャルワークと
は何か?を追求していきたいと考えております。
現在の所属:大妻女子大学人間関係学部人間福祉学科助教(実習担当)