井上隆晶牧師ローマ14章7~9節

2016 年 8 月 14 日(日)主日礼拝説教
『死者のために祈ること』 井上隆晶牧師
ローマ 14 章 7~9 節、マタイ 18 章 18~20 節
❶【死者のために祈ることは昔からされてきた】
今日は永眠者記念礼拝です。永眠者を記憶することによって平和の大切さにつ
いて、生きること死ぬことについて考えたいと思います。平和の「和」という
漢字の語源を御存知でしょうか。左側は「ノギヘン」で、穀物がたわわに実っ
て垂れている姿を現し、右側は「クチ」で、仲良く争いがないという意味だそ
うです。日本の国は昔「和の国」と言われていました。そのようになればいい
と思います。さて死者のために祈ることについてまずお話したいと思います。
●旧約聖書の続編Ⅱマカベヤ 12:40 以下にこんな記事が出てきます。戦死者を
葬ろうとしたら、服の間から偶像の守り札が出てきたというのです。そこで指
導者のユダは死者の罪の赦されるように祈り、贖いのいけにえを献げたという
のです。
「もし、彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者
のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。
だが、…彼は死者が罪から解かれるように彼らのために贖いのいけにえを献げ
たのである。
」
(同 12:44~45)とあります。
それゆえ古くから教会は死者のための祈りをしてきました。聖ヤコブ典礼、聖
バシレイオスの典礼、聖クリュソストモスの典礼、聖グレゴリオスの典礼など
にはすべて入っています。4世紀の聖アタナシオスは「神の霊感を受けた師父
たちは聖霊に満たされ、聖餐式、祈祷、詩編歌、および毎年死者を記憶する式
を設けた。
」といい、クリュソストモスは「死者の為に聖餐式を行い、祈りを奉
げ、献げ物をすることは決して思いがけないことではない。聖霊はわれらを通
して、互いに益を与える為にこれらを設けたのである。
」と言っています。人間
は一度だけ死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定まっています。裁き
には二つあり、私審判と公審判があります。地方裁判所の決定と、最高裁判所
の最終決定のようなものです。この世で悔い改めた者は、それにふさわしい実
を結ぶ時間がなかった時にも天国に行くことが出来るといわれています。
(十字
架の強盗の例)しかし死んだ後は悔い改めることができません。そこで代々の
教会は、教会の祈りと、家族が死者のために祈ることと、聖餐式の力によって
神の憐れみを受けることが出来るとしています。
●私が正教会で学んだ時に、死者のために記憶するのを見ました。礼拝の前に、
信者は家からパンを焼いてきて、既に亡くなった信者や未信者の名前を記した
紙と共に司祭に渡します。司祭は礼拝の前に、それらの人の名前を読み上げな
がらパンを削ります。礼拝の聖餐式の終わりに、未信者や死者を記憶して削ら
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れたパン屑を最後に聖杯の中に入れて、キリストの血と一体にすることにより、
彼らの罪の贖われることを祈り、それを司祭が飲み干すのです。
❷【祈ることにより死者の罪は赦される】
死者の為に祈ることは聖書の教えに基づくと言われています。
「願いと、祈りと、
とりなしと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
」
(Ⅰテモテ 2:1)と
いう言葉があります。
「すべての人」とは生者と死者、信者と未信者を含むとい
われています。また祈りの力についてはこう言われています。
「信仰に基づく祈
りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯
したのであれば、主が赦してくださいます。…正しい人の祈りは、大きな力が
あり、効果をもたらします。
」
(ヤコブ 5:15~16)
「死に至らない罪を犯してい
る兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に
命をお与えになります。
」
(Ⅰヨハネ 5:16)とあります。ここでいう「死に至
る罪」というのは、聖霊やキリストを冒涜することであり、具体的には反キリ
スト、偽預言者を指しています。そうでない罪や過失を犯している兄弟のため
に祈るなら赦されるというのです。今日の箇所では、
「あなたがたが地上で解く
ことは、天上でも解かれる。
」
(マタイ 18:18)とあります。これは地上で誰か
の罪を教会が赦せば、天でも赦されるという意味です。
「どんな願い事であれ、
あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の父はそれをか
なえてくださる。
」
(マタイ 18:19)どんな願いでもとあります。死者の罪の赦
しのためにも祈っていいのです。私たちの祈祷はこのように約束が伴っている
ものであり、多くの人の罪を覆うものなのです。
プロテスタント教会では、救いは個人の理性と信仰によるものなので、教会の
祈りが人を救うという面が軽視されてしまいました。そこでこの世で信じない
者は救われないと決めつけ、信仰を持たなかった死者の為に祈ることをしなく
なりました。葬儀でも遺族の慰めが中心となり、亡くなった本人の罪の赦しは
誤魔化してきました。神学校でも教えず、その問題に触れようとしません。
私は以前、主の祈りの中の「御国が来ますように」という祈りを心の底からで
きませんでした。神の国が来て、最後の審判があれば、信仰を持っていない両
親は裁かれると思ったからです。信じる者は救われ、信じない者は救われない
のでしょうか。牧師としていろんな人に福音を語ってきました。カルトの説得
を通して分かったことがあります。いくらマンツーマンで何時間も特別講義の
ように聖書を教えても、信じない人は信じませんでした。話せばわかるという
のは嘘です。そして私の出した結論は、信じた者は自分が偉いのではなく、神
から選ばれて信仰心を貰ったのであり、そうでない人は選ばれず、信仰心を貰
っていないのだということです。
「信じない者は救われない」という人は、信じ
ない人を裁いています。
「これだけ話したのに信じないその人が悪い」と思って
います。ではなぜ私たちはキリスト教徒になったのでしょうか。なぜ信じられ
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たのでしょうか。それは、私たちにキリストと同じ働きを地上でさせるためな
のではないでしょうか。一部の信じる者によって、多くの信じない者が救われ
るためなのではないでしょうか。キリストは信じない者に何をされたのでしょ
う。あきらめないで彼らに語り続け、祈り続けました。疑うのではなく信じ、
裁くのではなく赦し、恨むのではなく愛し、彼らの重荷を負い犠牲になったの
です。この生き方以外にしてはいけないと思いました。私たちは隣人の為に祈
る時に「これだけしたのになぜ」と、ついその人を疑い、裁き、恨んでしまい
ます。でもそれはキリストの業ではありません。主は地上でご自分と同じ働き
をしてくれる者を必要とされているのです。その働きの為に信仰と聖霊を下さ
ったのだと思います。救いというのは個人のものというよりは全体のものだと
思います。
❸【人の生死は他者と深く結びついている】
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる者はなく、だれ一人自分
のために死ぬ人はいません。
」
(ローマ 14:7~8)とパウロは言っています。つ
まり生きるのは他者のために生き、死ぬのも他者のために死ぬのだというので
す。現代人はあまりそのような考え方をしません。死はその人、個人の死であ
って自分と関係がないと思っています。しかしキリスト教では生も死も他者を
生かすためのものなのです。人は自分だけで生きているのではなく、いろんな
人とのつながりの中で、他者の愛や優しさや思いやりに助けられて生かされて
いるのです。私たちは隣人とつながって生きている、互いに連帯し合って生き
ているのです。生きるのが連帯なら、救いも連帯なのです。そして自分の救い
は、分かち難く隣人の救いと結び合っているのです。私が生かされたのは、今
度は、私が他者の為に生きるためなのです。
亡くなった人たちの名前を読み上げて祈っていると、
「ああ、自分はいろんな人
に助けられ、お世話になったなあ」と思います。父は幼い時から私のことを心
配し、本当にいろんな所に連れて行ってくれました。辻中先生はいつもベビー
センターに来る時ケーキを持参してくれました。樽川先生は握手しながら5千
円を握らせてくれました。川谷先生にはよく御馳走してもらいました。有澤先
生は仕事を下さり、それを通して自信をくださり、死ぬ時も牧師の姿を見せて
くれました。吉本八重子さんには辛い思いをさせてしまいました。彼女の痛み
を理解することができませんでした。亡くなって行った人を思い出すと感謝と
懺悔が出て来ます。彼らの人生は終わりましたが、私にはまだ時間も健康も命
もあるのだということに気づきます。この手が動くのです。この手で人を癒し、
祈ることが出来ます。耳で悩みを聞くことが出来ます。口で慰めと勇気を与え
ることが出来ます。
●小崎登明修道士の本を読みました。第二次世界大戦の時、アウシュビッツ収
容所で亡くなったコルベ神父の話が出て来ます。一人が脱走したので、10 人が
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選ばれて死刑にされることになりました。その中にガヨビニチエックさんがい
ました。彼は「自分には妻子がいる。別れたくない」と叫び出しました。コル
ベ神父は列の後ろにいましたが、間をすりぬけ前に出ました。それは普通では
ありえないことでした。列を乱す者は兵士に殴られ、すぐに列に戻されます。
しかも所長の前に進み出て「私はカトリックの司祭です。私が身代わりになり
ます」と申し出ました。所長は罰を与えないで「よし」と許可してしまったと
いうのです。そのことに仲間たちは一番驚いたというのです。彼はガヨビニチ
エックさんの身代りで死んだと言われていますが、それだけでなく9人のため
にも自らを献げたというのです。彼らは餓死室に送られ、裸にされ、水も食べ
物も何一つ与えられずに殺されました。彼は神父として亡くなって行く9人を
最後まで励まし、勇気を与え、祈り、支えました。最後まで生きていたのがコ
ルベ神父でしたので彼は注射で殺されました。コルベ神父はいつも仲間たちに
「絶望しないでください。やがて戦争は終わります。あなたたちは家族のもと
に帰れるでしょう」と言って励ましていたそうです。
人を愛するとは、
「人の痛みが分かること」であるというよりも、
「人の痛みを
共有すること」であると小﨑修道士は言っています。同じようになってこそ人
間は人間を救えるのです。アウシュビッツには希望がありませんでしたが、コ
ルベ神父の愛の死を皆が知った時、不思議と皆が「生きよう、最後まで生き抜
こう、いのちは大切だ」という力が湧いてきたといいます。パウロはコリント
の信徒の手紙の中で「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多
く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々
でした。…」
(Ⅱコリント 11:23~)と言っています。何が「多い」といって
いるのでしょう。苦しみです。与えられものではなく、失ったものが多いと言
っているのです。彼の後にコリント教会にやってきた偽教師たちは、雄弁でし
たが、福音や信者のために何一つ失ったことはありませんでした。一方パウロ
はどうでしょうか。愛とは失うことなのです。コルベ神父は「私はカトリック
司祭です。
」といいました。本物の司祭というのは愛する者たちの為に、自分の
ものを差し出すものなのです。それに比べて私の愛の何と薄っぺらいことでし
ょうか。何という愛の無い人間なのでしょうか。こんな者がキリストの福音を
語れるでしょうか。彼らの姿を聞く度に、自分が恥ずかしくなります。どうし
たら人を愛する者になれるのでしょうか。祈るしかありません。
●先日、S 姉と話をしました。彼女はボストンに 1 年間行きますが、ボストンに
は立派な大きな教会があるようです。でも彼女の中で教会のイメージというの
はこの都島教会だそうです。この小さな猫の額のような教会が、教会のイメー
ジだというのですから驚きました。
それはキリストの香りを感じさせるような体験があったということです。それ
は愛なのだと思います。こんな私たちでも少しはキリストの香りを出すことが
出来たということです。その愛を失ってはならないと思います。人のために生
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きること、人のために死ぬこと、そのような生き方を神に求めていきたいと思
います。
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