企業活動とグリーンコンシューマーの関係 - So-net

企業活動とグリーンコンシューマーの関係
此島康之
【目次】
第一章:はじめに
第二章:「情報操作」の可能性
第一節:情報の重要さ
第二節:IT 技術の希望と絶望
第三節:なぜ環境か
第三章:グリーンコンシューマー運動とは
第一節:グリーンコンシューマーの定義
第二節:事例∼グリーンコンシューマー地域実験プロジェクト
第三節:グリーンコンシューマーの潜在的問題
第四節: グリーンコンシューマーの位置づけ∼環境制御システム論
第五節:まとめ
第四章:環境ビジネスと消費者∼企業経営と環境配慮は相克するか
第一節:企業経営とは
第二節:「環境配慮」という競争力
第三節:「環境派企業」・少しだけ悪くない罠
第四章:企業の利害対立による混乱
第五章:まとめ∼グリーン度による消費者と企業の4類型
第五章:終わりに
【注釈】
【参考文献】
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第一章:はじめに
環境問題は大変複雑でややこしい。身の回りのゴミの問題もゴミを焼却したときにでるダ
イオキシンなどの有害物質の問題も海洋汚染も途上国における森林伐採もオゾン層の破壊
もエネルギー問題も人口爆発も全て環境問題に含まれてしまう。塩化ビニールが燃やされ
るとダイオキシンがでやすいので塩化ビニールをなくそうとすると、エネルギー効率的に
は塩化ビニールは良い物質なのでなくすべきではないと言われる。紙パルプの使用をへら
し熱帯林の伐採に少しでもいい影響を与え、かつ排出されるゴミとしての紙をへらそうと
して牛乳パックをリサイクルするとそれはエネルギー的に正しくないと言う。原子力発電
所はエネルギー効率的には優れているが、人間は今もなお核分裂を制御しきれていない。
そのためしっかりした管理にはその運営そのものの意味を問い直さなければならないほど
のコストがかかる。生ゴミの堆肥化は優れたアイディアだが実際の使用に耐える「いい堆
肥」を作るには電力を使って発酵させなくてはならない。これらは一見トレードオフの関
係にあり、その解決は容易ではない。では、果たして環境問題は解決可能なのであろうか?
先日あるシンポジウムに参加した。その会の総括の段階で議場は紛糾した。シンポジウム
の実行委員の1人が自分が参加した部会の研究報告にあたって、
報告の時間が少なすぎる、
会の運営に問題があるなどとして他の実行委員を非難し始めた。当面はその場にいるほと
んどの人がその怒鳴り声を無視して報告などをしていたが、再三の怒鳴り声にたいして別
の実行委員が怒鳴り声をいさめ始めた。1人が怒鳴り続ける中で他の実行委員が静かな声
でそれに対処し、その議論の内容について別の、同じく批判されている実行委員がいかに
怒鳴り声の主張が正統性を欠いているかを会場に対して説明した。怒鳴り声の主張には難
点か興味深い点もあった。例えば他の実行委員は特定の問題について行政の資料を持って
あたっているが、それは行政の情報操作によるもので、それを用いた議論は情報操作であ
る、というものがあった。しかし、他の実行委員とのやりとりにあたって、その人が怒鳴
り続けていたために、そのような論点がでてきたときには会場内からも「大人気ないので
やめなさい」と言う発言がでるほど、参加者から煙たがられていたので、
「他の実行委員は
その点についてはあとで確認しておきます」と言う曖昧な返答を得ただけで、異議申し立
てをした実行委員はその後の議論で完全に無視されることになった。
私はこの様子を見ていていくつかの、非常に重要な点に気がついた。以上のやりとりを分
析すると、1)ある実行委員の異議申し立て、2)他の実行委員の1)に反対する意見の
陳述、3)2)の認識の会場全体への一般化、4)会場にいる多くの人の1)の実行委員
に対する反感、5)それ以降の議論からの1)の実行委員の締め出し、と言う経過をたど
っていると言えるだろう。この結果、この実行委員の主張は全てが妥当なものではなく、
単なる議論の進行の妨げに過ぎないと言う認識が共有された段階で、それ以降のこの実行
委員の議論は全てが、検討の余地無く、不当なものであるというように認識される事とな
った。
これはある主体が正当でないと認識されたことにより、その主体の提示する内容も検討に
値しないというレッテルが貼られたことを意味している。しかもそれは主体に対立する主
体によってもなされるものであることを示している。
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また、この実行委員は他の実行委員が「情報操作」1していると盛んに怒鳴っていた。内容
としては行政の提示した「嘘の」資料に基づいて議論を進めようとしているということで
あった。
この体験から私は環境問題の認識にとってきわめて重要な(他の事象についても充分重要
だが)情報の取捨選択と「情報操作」の類似性の問題と具体的な議論や討論に依らない意
思の形成の問題に興味を持つようになった。このことは、特定の主体が何らかの形で情報
や認識の操作を行う場合、科学的に客観的な情報や認識はそれに対して無力なのではない
か、という疑問として現れてくる。私たちの意思決定は必ずしも対等な立場で行われる充
分な討論の結果に依るのではないのではないだろうかと言う疑問である。第二章ではこの
点を探っていく。
つぎに、先に述べたように、環境問題の解決については実に悲観的な疑問がわいてきてし
まうほど「解決」への道のりは遠そうだ。しかしだからといってなにもしないというので
は良心がとがめる嬉しいことに、地球上には同じように環境問題を解決に導くために何か
をしなければならないと考える人がおり、そういった人々は解決へ向けて様々の活動を行
っている。第三章では特に、消費者であることによって環境問題を解決しようと言う「グ
リーンコンシューマー」をとり上げる。現代の消費者はどの商品を選んでも大きな環境不
可を生じてしまうような「構造化された選択肢」によって、本人の意思とは無関係に環境
負荷を生み出し続ける主体となっているがこの様な状況に対する異議申し立てとしてグリ
ーンコンシューマー運動をとらえる。この運動を考察することで、環境問題の解決への糸
口を見つけだしていく。
第三章では消費者を扱うがそれとの関係で第四章では商品を提供する側の企業について考
察していく。企業は環境問題の解決に貢献することができるのだろうか?それともあしを
ひっぱるだけなのだろうか?この疑問は日々私の中で大きくなっている。
ある企業は効率性を追求した結果、自社が開発した非常に強力な農薬や化学肥料、それに
近代的な農業用の重機類を使うと従来の品種よりも格段に収穫量の多い新品種の稲やトウ
モロコシや小麦を開発してそれを途上国におろしている。その作物は一代雑種であるので
農家は毎年その企業から種を買い、肥料を買い、農薬を買わなくてはならない。そのため
多くの中小地主は没落して土地の集積が進み、その国の経済的停滞の原因をつくっている。
あとに残るのは農薬によって荒れ果て単なる食糧生産施設に成り下がった土地と、農業の
機械化によって追い出された元農民である。彼らは都市に流れ込めば失業にみまわれスラ
ムを形成し、山や森に流れ込めば焼き畑によって生きていかなければならない。つまりそ
の企業は途上国における地域環境問題と地球環境問題に負の貢献をしているといえる。2
しかし別のある企業はシャンプーやボディーソープなどのゲル状の商品を店頭で詰め替え
するサービスを行って排出されるゴミの量をへらそうと努力したり、レジ袋をできるだけ
使わないように呼びかけたり、自社製品に含有される全ての物質を公開したりといった、
環境や健康を強く意識した経営を行っている。3
アメリカのある企業は経営者が変わったことで一気にグリーンな企業になったが別のある
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企業は同様にして一気にグレーな企業になった。
この様な企業という主体群が持つ複雑な性格を私たちはどのようにとらえることができる
のだろうか。
もちろん、一つの企業が上に書いた全ての事を行うこともあるのだ。
「企業活動と環境問題の解決は矛盾しない」と言う主張がある。果たしてそうなのか。こ
れが私の根本的な疑問点である。今まで環境問題を引き起こし続け、かつ状況を悪化させ
続けてきた企業活動が、実は環境問題の解決と矛盾しないとはいかなる事なのか。この点
を追求することが本章の中心的な趣旨である。
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第二章:「情報操作」の可能性
第一節:情報の重要さ
情報は常に操作されている。それが意図的なものであるかないかとは関係なく、である。
例えばあなたが持っている私という人物に対する認識は、私があなたに対して提供した情
報に基づいて、あなたが作り上げた私という人物のデータベースによっている。それはま
ず私が意識・無意識に特定の情報を提示する印象管理に規定されるだけなく、それを解釈
するあなたの主観にも規定される。私があるとき突然怒り出したとする、私が自分の好き
嫌いについてあなたに情報提供していればあなたはそのどれかが原因だと思うだろう。だ
が、それが私の幼いときのトラウマに原因があるのかそれとも最近カルシウム不足であっ
たことに原因があるのかを判定するのはあなたの主観である。
先日のアメリカ大統領選の最中に行われたテレビ討論で、ブッシュ候補の発言に対して、
いちいちゴア候補が「はぁ∼」と言うため息をついたり、
「お手上げ」と言うニュアンスで
両手を開いたりしていたが、聴衆に「あいつ(ブッシュ)はだめだ」という思いを起こさ
せるための情報操作であるといっていいだろう。もちろん実際にはこの作戦は失敗して、
聴衆からは「あいつ(ゴア)はだめだ」と思われてしまったと言われている。聴衆はゴア
が使ったそのような露骨な印象操作に対して「大統領の器ではない」と判断したのだとい
う。
つまり実際にそこに存在する友達や知人の人格という、本当にそこにあるかのごとく思わ
れるものでさえ、その認識にはなんらかの「情報操作」がなされるということである。
私たちの認識は全て何らかの形で提供される情報に基づいているといえるだろう。なにが
正しくて何が間違っているかといった価値判断はその前提となる価値基準という情報を内
面化することを意味しているし、あの人はいい人だとか悪い人だとか言うのも、その人を
判断する際のその人の行為や人間性についての情報や判断する基準の情報が無くてはなら
ない。4
認識に関するこの問題は環境問題の文脈ではどのような意味を持つだろうか。
知覚の困難さと認識の操作可能性
今日の文脈で語られる地球環境問題は、要因が複雑であるだけでなく、目に見えない。つ
まり、
「地球が温暖化している」といわれても、実感としては夏はやっぱり夏であり、冬も
やっぱり冬である。以前と比較して夏が暑くなったと感じても、冬だって同時に寒くなっ
ており、
「それは冷暖房の室外機のせいだ」といわれればそうなのかなと思ってしまう。オ
ゾン層が薄くなっていると言うが、薄くなっているのを実際に見ているのはその情報を得
ることのできる研究者である。私たちはその研究者の発表を頼るしかない。
目に見える目の前にいる友達の人間性を認識するのにも「情報操作」が行われうるのであ
るから、直感的に感じることが出来ない環境問題の認識に関わる「情報操作」は重層的に
なされうる。
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日本で60,70年代に顕在化した公害問題において、私たちは被害者を何らかの形で見
ることで実感として「明らかに、それのせいで」身体に異変が起こった事を感じられた。
とても演技や冗談には見えない真実味と迫力を持って被害者が加害者を告発することで
「そこに公害が起こっていること」が加害者と被害者以外の主体に認識されたのである。
加害者がどんなに嘘をついたり、情報を隠蔽したり、情報を操作したりしても、被害者が
その加害の事実の生き証人であり続けた。「地域の環境を悪化させない対策をした」と、嘘
の、もしくは情報操作のための主張をしても増え続ける被害者がその反証であった。
翻って今日、地球環境問題の文脈ではこのような被害と加害の関係はいっそう複雑化して
おり、ある問題の被害者は別の問題の加害者であったり、また別の問題では地球上の全人
類が加害者であり被害者であったりする。そのため、問題の解決は公害問題と比較しても
困難なものであろうと思われる。それだけではない。原因や結果が複雑で直感的にとらえ
られないと言うことは「情報操作」の可能性を大幅に拡大する。私たちは水俣の人たちが
水俣病を発見したようには今日の環境問題を発見することは出来ないのである。
「工場の煤煙を排出しないようにフィルターを取り付けた」
のは煙を見ればわかるが、「ダ
イオキシンを取り除くフィルターを取り付けた」のは外から見ただけではわからない。そ
れが本当であり続けるためにはフィルターがしっかり作動していることが確認され続けな
ければならない。
誰もが何らかの情報を操作し得るが、この点について最も大きな力が集中しているのがマ
スコミである。あるところで起こった何らかの特殊な事象。その情報をそこにいない人に
伝達する主要な回路がマスコミである(もちろん、他にも例えば口コミによる伝達なども
考えられるが、スピードとそれを受ける客体の数が制約されるので特定のコミュニティー
内で流通する情報には大きな意味を持つが、国家規模地球規模の事象については主要な回
路とは言えない)。彼らはニュースや討論番組、その他ありとあらゆる番組を使って情報を
操作することが可能である。しかもそれだけでなく、情報を操作しようと思っている他の
主体(主に企業など)に対して広告宣伝という形で情報操作の機会を提供している。
それでは実際の情報伝達にあたってマスコミがどのような役割を果たしたのかについて検
討してみたい。
アメリカでの例:1992年のボスニア紛争5
ボスニア紛争についての認識は当時と今日では大きく異なっている
1992年3月ボスニアのイスラム系住民が独立を宣言に伴ってユーゴとの紛争が起こる。
4月ボスニアのシライジッチ外相が「ボスニアが攻撃されている事実を訴える」
ため訪米。
彼はベーカー国務長官からの助言で西側メディアを味方に付けることになった。情報コン
サルタントルーダーフィン社(特に紛争同時国が国際世論を身につけたいとき、メディア
や政治家への対策を一手に引き受けるようだ、詳しくは三節で)のジェームス・ハープ氏
の協力を得てメディアを見方にする戦略を取り始める。一番はじめの記者会見ではアメリ
カ人はボスニアの場所さえも知らない状況で、会場の2/3は空席だった。
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その頃、ボスニアではセルビア勢力が支配領域を拡大しており、大量のイスラム系住民が
追い出され難民化し始めていた。メディア戦略の一環として、これをどのように表現する
か検討された結果「民族浄化」
(ethnic cleansing)と言う単語が使われた。
「これは第二次
大戦時にクロアチアに出来たナチスの傀儡政権が国内のセルビア人を追い出すときに使っ
た言葉」で「自分たちを異なる民族を追い出す政策を指す」のだが、それまで訳語として
は「民族純化」(ethnic purification)も使われていたの。しかし会社はこれを「 cleansing」
で固定。以降シライジッチ氏もありとあらゆる機会に「民族浄化」を口にし、セルビアを
非難することになる。
シルビア・ポジオリ(公共ラジオ NPR 記者で東ヨーロッパを20年以上取材)は
「洗うというのは本来良いイメージの言葉。例えば服の汚れを洗って取ると綺麗にな
る。それを違う民族を取り除くという意味に使うと衝撃的な言葉になる。特に英語に
訳され西側諸国に伝えられたとき衝撃がさらに増した。」と回想している
次に彼らは新聞の論説委員が時の人を呼んで話を聞くミーティングに出席する。論説委員
はそこから情報を得て記事を書くことが多いからだ。事実、その一週間後ウォールストリ
ートジャーナル・ニューヨークタイムズ二誌はシライジッチ外相の言葉をそのまま引用し
て社説を発表。ボスニアに肩入れしてユーゴスラビアを攻撃する主張を展開した。
ジョージ・マローン(ウォールストリートジャーナルの論説委員)は「私たちはボス
ニアに大幅に肩入れしてセルビアをたたく報道をしたが、それはボスニアが犠牲者だ
と私たち自身が思ったからだ」といっている。
6月に入りアメリカ国務省はボスニア紛争の責任の大半はユーゴスラビアにあるという見
方を強め、独自の経済制裁が行われ、医薬品などを除いた商品やサービスの輸出入が全面
的に禁止した。
ウォーレン・ジーマン(駐ユーゴスラビア大使)「証拠がない限り情報コンサルタン
ト企業の言うことをまともに受けることはない。ボスニア紛争では現地に多くの証拠
があった。だから情報コンサルタント企業は重要な立場にいる人に確実に情報が伝わ
るようにしただけだ」
これらを受けて、当初「アメリカは世界の警察ではない」と発言していたブッシュ大統領
も7月9日のヘルシンキの会談では民族浄化を非難する声明を出すに至る。8月28日に
ボスニアからの情報に基づき、セルビアで強制収容所が作られ9万5千人が人権侵害を受
けているという情報をコンサルタント企業が流す。各メディアは独自取材によりボスニア
内の強制収容所を取材。セルビアが悪であるという考えが広まるが、
国連保護軍サラエボ司令官マッケンジー将軍は「ただ双方がお互いの収容所の存在
を非難していた。私には判断材料はない」と発言した。
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その後9月15日から行われた国連総会で圧倒的大差を持ってユーゴは総会から追放さ
れた。その後の旧ユーゴ国際戦争犯罪法廷で1997年、イスラム側にも収容所がありセ
ルビア人に対する人権侵害が明らかになった。紛争当時はメディアによって報じられるこ
とはほとんど無かった。
今日ではこの時点でセルビア軍だけが民族浄化を行っていたのではなく、イスラム系住民
もクロアチア軍も関与しており、難民の中にはセルビア人も多かったとされている。先に
登場したシルビア・ポジオリは以下のように述べている
「情報コンサルタント企業は紛争の早い段階で黒と白のイメージを世論に植え
付ける効果があった、私も間違いなく紛争の初期の段階で影響を受けた1人だっ
た。私も例外ではない。今でもそうかもしれない。そうならないためには対立す
る双方の側を取材するしかない」
情報コンサルタント企業によって編集された情報を受けることによって、その情報を受け
た側がコンサルタント企業の認識のしかたを知らず知らずのうちに内面化していたと言う
ことが言えるだろう。セルビア非難のニュースが至るところから流れてくる状況である。
しかも、視聴者は直接現地に行って確認することは出来ない。つまり検証の機会を初めか
ら持っていないのだ。現実にこれが検証されたのは国際法廷の場であるが、そのときには
とうに「悪者ユーゴ」は国連総会から追放されているのである。
「実はそこでなにが起こっていたのか」については今日でも未だに議論が続いている。し
かし本論で重要なのは実際にそこでなにが起こっていたかではなく、メディアがそのとき
の社会にどのような影響を及ぼしたのか、ということである。さらに言えば情報コンサル
タント企業がメディアにどのような影響を及ぼしたのかと言うことである。
情報コンサルタント企業が情報の操作可能性と認識の問題について無神経なメディアを手
玉に取ったことは疑う余地のないことである。メディアは情報コンサルタントという、特
定の利害関心を代弁する主体によって伝える情報を操作された。
メディアはその驚異的な影響力を持ってユーゴスラビアという国家を国連から追放させる
原動力となった。少なくともユーゴスラビアという国家が国際世論において悪者とされ、
それを受けた国連総会が彼らを追放する事の下地を作ったと言える。
さて、本論ではメディアというものが「第四の権力」であるとか、いや第一の権力である
とか言いたいのではない。この様な巨大な情報捜査力を持つメディア、もしくはメディア
を操作しうる主体が環境問題に対してどのような影響を持ちうるのかを検討したいのであ
る。
環境問題の文脈での事例
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「キース・シュナイダーはニューヨークタイムズで1990年代の汚染地域の環境
的危機がかつて思われていたほどではないと主張する修正主義的記事を書いて悪評
を招いた。「多くの専門家は…何十億ドルも費やして人々を有害化合物から保護する
ことに疑問を抱いている。多くの科学者、経済学者及び政府役人がほとんどのアメリ
カの環境計画は決定的に失敗だったとする落胆するような結論に達した」と書いた。
シウナイダーは自分自身を新しいタイプの環境報道の先駆者と見なし、「私たちはあ
らゆる立場を等しく懐疑的に見て考察し、どちらかの立場のきちがいじみた戯言では
なく、データに基づいた結論に到達する」「新聞社は、必ずしも真実を語っては居な
い環境保護団体の捕虜となっている」「環境ジャーナリストは環境保護団体を、以前
に私たちが汚染者を取り扱ってきたように極めて懐疑的に扱わなければならない」な
どといっている。……
シュナイダーの報告は、環境規制が確かな科学的根拠に基づいていないと示唆して
いるが、科学者の名前をほとんど語らず、彼の主張を裏付けるためには専門の違う科
学者やその研究、政治家や環境、経済評論家及び産業関係者を好んで用いた。彼がわ
ざわざ名前を取り上げた科学者達は産業のためのコンサルタントであるのにそれを
指摘しなかったが、これはいつもの手口であった。…シュナイダーの出現は環境報道
では孤立した現象ではない。
この様にしてメディアは、産業側の科学者から持ち上がった疑問に科学界で与えら
れているよりもはるかに高い地位を与えている。これらは、環境的キケンに関連した
不確実性を誇張するもので、やがて議会を麻痺させてしまいかねない。シエラ誌の記
事で、ポール・ローバーは次のように述べている。
大部分の報道記者は科学について良く知らず、正統的な科学論争と偽物とを区別
することが出来ない……。石炭会社及びエネルギー会社から給料をもらっている
1ダースにも満たない科学者が、心配ないと言っているに過ぎない。それなに夜
のニュースでは、両方の立場が平等な持ち時間をもらっている。彼らの違反行為
が完全に暴露されようと、懐疑論者と化石燃料産業は結局得るものは得た。事実
の根拠よりもはるかに大きな疑問の影と、石橋をたたいて渡る臆病な国会議員の
ための即席の良いわけである。」(グローバルスピンp247-249)
これはもちろんアメリカの事例であるが、ここでの示唆は非常に重要である。後にふれる
ことになるが、科学者、専門家という人たちの権威が特定の利害関心を持つ主体によって
利用されるという可能性と、それをメディアが後押しする可能性が示されている。メディ
アがそれを後押しする理由は2種類ある。第1は彼らが私企業であり、企業の存続のため
に広告費を獲得しなければならないということに由来する。広告費を払うのは企業である
からスポンサー企業の一定の影響力がメディアの番組制作に働くのである。第2はメディ
アの関係者が特に気を遣う情報の客観性を保持するということに由来する。先のボスニア
の例でシルビア・ポジオリが述べていたように、彼らは客観性を保持するために両方の意
見を聞けばいいという考えを持っている。「1ダースにも満たない科学者が…」
というのは
それを利用した戦略である。メディアや専門家はそのようにして利用されうるということ
10
である。
では、メディアのこの様な影響を排除、もしくは和らげるにはどのような事が出来るであ
ろうか。一つには環境に配慮した主体がメディアを使って影響を及ぼそうとすることであ
り、もう一つはメディアの機能を分散させることである。メディアが巨大な権力を持って
しまうのであれば、その権力の源泉である「情報を伝達すること」を分散させればよい。
今日の IT 技術(とくにインターネット)はこれ補完する機能を一定程度持ちうる。
まず、前者についてであるが、環境運動を後退させようという考えや環境運動がじゃまだ
という考えを持った主体が特定の影響力をメディアに行使して環境問題は対したことはな
いという主張を流通させようとするのであれば、同じように洗練された手法を用いて環境
保護団体が環境問題が重要だという主張を流通させるというのが一つの手法であろうと思
われる。金銭的な問題から不可能に近いが、パブリシティーを利用した広報活動という可
能性は少ないながらも存在する。ボディーショップの戦略から考えれば、そのようなやり
方が不可能ではないということが分かる。6
次に IT 技術について7。IT 技術については既に功罪様々なことが論じられているが、ここ
でその全てを洗い出すことは割愛する。本論では特に情報の操作可能性という点との関連
でこれについて述べたい。
インターネットに接続すれば世界中のコンピューターとの情報交換が可能になる。これは
インターネットの利点である。今までふれることの出来なかったような様々な情報へのア
クセス可能性が飛躍的にのびたと言っていいだろう。国連の資料やアメリカの学術論文の
全文、新聞社のデータベース等、様々な情報により容易にアクセスすることが出来るよう
になっている。
また、今まで発言力が小さかった人々(個人、第三、第四世界の人々など)が社会に一定
程度の影響力を及ぼすことが出来るようにもなった。特定の企業に対する被害者の声を載
せるサイトは大量に存在するが、
それによって、
今まで泣き寝入りせざるを得なかった人々
は、要求提出の際に、例えば裁判などのような非常に高いコストを払わないとならないも
の以外の、より少ないコストで要求提出可能な方法を選択肢に加えることが可能になった
のである。これは企業に対して消費者が告発するというものだけではなく、第四世界の問
題などにおいて構造的に発言力が弱められてしまう主体の発言権の確保にもつながってい
くはずである。マスメディアという、特定の企業の広告宣伝費によってまかなわれている
私企業が情報を取捨選択する際に発生するスポンサー企業の影響などは基本的に無縁であ
る。
しかしながら、この様な希望にも関わらず根本において IT 技術は情報に混乱をもたらし
うる存在であるということは理解しなければならない。なぜか。それはインターネットの
匿名性の問題と情報の量と正確さの問題である。
マスメディアによってインターネットは非常にしばしば批判の対象とされるが、
論点は「若
者の犯罪の原因」と「匿名性を使用した犯罪」とである。メディアがインターネットの匿
名性を批判する場合「インターネット上のやりとりは対面的コミュニケーションではない
ので匿名である」という主張が多いように思われるが、これは全く的はずれである。イン
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ターネットでのやりとりはこの様な意味での匿名性を持たない。
詳しく議論するにあたってまずインターネットで相互作用を情報発信とコミュニケーショ
ンに分節する必要があるだろう。情報発信とはサイトを作って情報を発信することや掲示
板に自分の考えを書き込むことによる一方的発信を指すことにする。コミュニケーション
とはチャット・掲示板・メールなどの機能を使って、まさに「おしゃべり」することを示
すものとする。両者はそれぞれが持つ意味によって分節した理念型である。実際にはこれ
はゴチャゴチャに混じり合って存在している。
まずはコミュニケーションについてであるが、私たちのコミュニケーションは相手の姿形
に必ずしも依存していない。もちろん「振る舞い」というノンバーバルコミュニケーショ
ンを軽視するわけではない。
「振る舞い」
が無くてもコミュニケーションはとれるという意
味だ。電話を考えればいい。インターネット上にもコミュニケーションは成立しうるので
ある。これを完全にバーチャルな世界と捉えるのは明らかに誤りである。例えば文通の代
わりであったり電話の代わりであったりするだけのものだ。インターネット上のコミュニ
ケーションには相手の「電話番号」や「住所」や「本名」は必要ないので匿名のコミュニ
ケーションが存在すると感じるだけである。実際にチャットなどでおしゃべりが行われる
場合には会話の相手は直接顔が見えないという点を除けば、相手は回線の先で自分と同じ
ようにパソコンに向かっているのであり、その人の人格丸出しで会話しているという、た
だのおしゃべりと同じである。それにインターネットは無法地帯ではない。同一の目的の
ために集まった人々のコミュニティーがそこにはあるのである。ネット上に国家は存在し
ないが無数のコミュニティーが存在していて、それぞれが一定の規範をもっている。社会
的に危険であるとされるアンダーグラウンドな人々(麻薬関連・自殺志願者・殺人願望・
ペドフェリア・音楽やプログラムの著作権侵害・悪魔崇拝・極右思想などなど)になれば
なるほど社会からの自己防衛意識が強く、その集団の規範は厳格になり、集団の結束力は
強く、新参者を受け入れにくい。そういった人々は自分たちのサイトを守るためにインタ
ーネットに対してネットサーファーが絶対に立ち寄れないような非常に厳重な仕掛けを用
意している。そこには現実の社会に存在しているのと何ら変わらないコミュニティー意識
が存在している。
つぎに情報の発信についてだが、一般的に、発信される情報について匿名性は存在してい
ない。全てのネット端末には IP アドレスという固有の数字が割り当てられていて、どこ
かのサーバーに接続するたびに相手にそれを送っている。だから実際にはこれを調べて、
その IP を発行した主体に問い合わせれば情報の発信者が誰であるかは解るのだ。ネット
上にウィルスを流した人が捕まるのはそのためである。今ではこういった技術に無知なま
までもインターネットに接続することが出来るようになっているため、これを知らないも
のが、そこにさも匿名の、バーチャルな世界があるかのごとく錯覚しているに過ぎない。
しかし実際には IP の垂れ流しによって自分のプライバシーを世界中に垂れ流しているの
であるから、この様な意味でもメディアがしばしば批判するいみでの「匿名性」はないの
である。
さて、情報に混乱を及ぼしうるのは、あとに述べた方、つまり「情報の発信の匿名性」で
ある。たしかにメディアがしばしば批判する「匿名性」は誤りである。しかし、現在の社
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会的状況を利用して匿名性をある程度もたせることが、現実には可能なのである。家のパ
ソコンで、自分の情報を登録しているプロバイダーを使って発言すれば、それは自分の I
Pが残るから誰の発言か調べようと思えば調べられてしまう。しかし、たとえばインター
ネットカフェや大学のパソコンを使えばそれが自分のパソコンであるということは解らな
い。(もちろんパソコンを販売しているお店で試用する事が出来るパソコンを使うことも
出来るし地球環境パートナーシッププラザのパソコンを使うことも出来る。大学のパソコ
ンについては、法政の場合ほぼ全てのパソコンがユーザー登録しないと使えなくなってい
るが、その必要のないものもいくつか存在している。就職課のパソコン、工学部の研究室
が特権を使って登録を拒否したパソコンなどがそれである。管理が充分でない大学はいく
らでもある。伝統的に大学やインターネットカフェがインターネット犯罪の頻発地帯であ
るとされている。)どんなに調べてもカフェや大学が判明した段階で、そのとき誰が使って
いたかは解らなくなる。プロクシサーバーやアノニマイザーサーバーの技術を利用して自
分の IP を誤魔化すことも出来る。もちろんどんなに誤魔化しても IP がわかればネットワ
ーク上での対象の動きを追っていけば解るのだが、一般にサーバーの管理者は IP のログ
を何週間も取っておいたりはしない。
そのため調査の途中で記録が削除されてしまうため、
発信者が実質的な匿名性を保持することが可能なのである。
この様にして発信された情報には、まさに匿名性の問題が含まれている。
最後に情報の質と量との関連で述べなければならない。インターネット上にはそこに参加
する人全員に発言権が原則として与えられている。一つのテーマに対する掲示板に何千件
もの発言があることも驚くことではない。当然数百人の政治家が発言をする議会とは違っ
て数千万人が発言をする場所がそこに出現することになる。と、すればその発言を誰がど
うやってまとめるのか。先に述べたような複雑な方法で匿名性を保った発言はどう扱われ
るのか。この点についての解決はなされていない。
2001年1月1日開催の IT 万博には参加サイトの投票システムが組み込まれている。
「あなたの良いと思ったものに投票してください」という具合である。この投票システム
には同じ人が何度も投票することを防ぐ機能が付いていない。仮に IP が同じ投票は二度
目以降排除するというプログラムにしたところで、IP を変えたり他の人になりすましたり
して投票することを防ぐことは出来ない。1人しかいないのに10人100人に見せるこ
とが出来るのである。
この点が悪用されれば、まさに「便所の落書き」と同じ信憑性しか持ち得ない。
さて、このインターネットが抱える固有の問題は環境問題の文脈にもスライドして考える
ことが出来る。環境問題を扱ったサイトは山のようにあり、中には NGO や NPO が作っ
たものだけでなく、環境ビジネスを行う企業や環境配慮の面から批判にさらされているサ
イトもある。そこでなされうる全ての情報発信には以上のような問題が必ずついて回るこ
とになるのである。
環境問題の文脈でも同様にして意図的に誰かの発言を根拠のないもののように思わせたり
全く根拠のないものを非常に理にかなったもののように見せかけたりすることも出来るの
である。
13
そのため、インターネットを利用した情報のやりとりでは、特定の集団が署名入りで情報
発信しているサイトについては相応の信憑性がそこにはある。だから今までのメディアが
取り上げにくかった声なき人々に発言のチャンスを与えうる。しかし、身分を明かさずに
なされている情報発信については「便所の落書き」である。両者が入り乱れているところ
がインターネットの抱える問題である。物理的に不特定多数対不特定多数の議論は困難で
ある。どちらかといえば特定の関心を持つ人々が地域を越えて集える場所を提供するシス
テムとして考えるのが適当である。そのような意味でこれはメディアを補完するものであ
るといえると思う。
第3節:なぜ環境か
世論がどのように誰によって構成されようとも、最終的にどのような行為を決断するかは
その主体の判断に依っている。環境破壊が深刻だという主張を受け入れるのも環境破壊な
ど存在しないという主張を受け入れるのもそれを受け入れる人次第ということになる。だ
から、私が環境問題は解決された方がいいと考えるとき、その根拠は環境破壊がなされて
いると言われている現状が「よくない」と言う信念であるということになる。また、だれ
かが環境破壊がなされているという現状を知って、
「だからどうした」と考えればそれはそ
の人の信念として私の信念と同等の価値を持つ。
環境問題があるということからは環境問題が解決されなければならないと言う主張は論理
的に導き出されない。そもそもどこに「解決」があり「破綻」があるのかはわからないが、
どこかに「解決」と「破綻」があったと仮定して、それが今すぐ起こる可能性はそれほど
大きくない。8私たち世代が生きている間にそれが起こる可能性も同様である。つまり、特
に先進国の人にとって、自分たちが生きるために環境問題に取り組む必要性は小さい。仮
に「破綻」が私の生きている間に起こったとして、その環境に私が耐えられなければ死ぬ
だけである。地球が無くなろうが、生物がゴキブリ以外全て絶滅しようが、死んでしまえ
ば同じである。しかも、環境の「破綻」だけによって死は訪れるのではない。ある日突然
雷に打たれて死んでしまうかもしれないのだ。人間社会が持続的であろうと無かろうと持
続可能でない我が身はいずれ滅びてしまうのである。短期的に考えれば環境破壊で命を落
とす人よりも自動車事故の犠牲者の方が多いし、戦争の犠牲者の数については議論の余地
はない。つまり、人命という点からいえば、戦争をなくす方が合理的である。
環境問題についてどのような言説をどのような程度で信じるかはその人、社会といった主
体の勝手なのであるが、それによって地球環境が台無しにされてしまったのではたまった
ものではない。環境の破綻というものがあるとして、その一線を越えてしまいそうな現代
社会は私の直感ではとてもよろしくないものである。仮に私が死ぬまでの間にそのような
ことにならなかったとしてもあとの世代に付けを残すなどと言う醜い生き様だけはごめん
被りたいものだし、私が環境破壊の犠牲にならなかったとしても私の生活の性で誰かが犠
牲になるというのは耐え難い屈辱である。
14
さて、環境破壊は大したことはないという言説を垂れ流す人やそれを信じる主体があるの
は自由だと先に書いたが、環境の破綻ということが起こった場合にこの責任をとるのは環
境破壊は大したことはないといっていた人々だけではない。地球環境問題については地球
上の全てのものがその責任をとらなければならない。「もしそのようなことが起こったら」
ということに対して責任をとる方法は1,潔くあきらめる 2,
事前に対策をとるである。
願わくば2の対策をとりたいものだ。
15
第3章:グリーンコンシューマー
第一節:グリーンコンシューマーの定義
環境問題を解決したいという信念は、環境問題が深刻化していると考えられている今日多
くの人に多かれ少なかれ存在しているように思われる。それは環境問題の解決について総
論賛成各論反対といわれている現状がよく示している。総体としての環境問題の解決につ
いては、異議がたとえあったとしても、堂々と唱えられることはない。それほど環境問題
という問題の存在は普遍的だと考えられ、かつ解決されるべきものだと考えられていると
言うことであろう。
さて、
環境問題を解決したいという信念は、具体的にどのような行為を伴うのであろうか?
いくつかの次元でのいくつかの主体についてはその戦略について若干述べてきたが、本章
では各主体からの影響を最も受けやすく環境問題にあらゆる意味において無意識的に関与
している消費者に焦点を当てる。
本論では無意識的に環境に関与している消費者が、その問題性を顕在化したところで感じ
る主観的ジレンマが、運動という形を取ったものが環境保護運動であり、消費者運動とし
てのグリーンコンシューマー運動であると位置づけ、消費者とそれ以外の主体との相互行
為について考察を深めていきたい。
さて、考察の前にグリーンコンシューマーというものがどのようなものであるかを定義し
なければならない。
定義
「消費者が何を求めているか、企業はいつも市場の動向を探っています。ですから、
消費者が環境付加の少ない商品を積極的に買い求めるようになったら、企業は売れる
商品として環境付加の少ない商品の開発と商品力に力を入れるはずです。
(中略)グ
リーンコンシューマーの消費行動は、商品を選ぶときの条件に“環境”という視点を
入れて、購入という行動を通して市場を変え、生産を変え、循環型社会を実現するこ
とにあります。そこで大切なことは、商品化されている場合には環境に出来るだけ付
加の少ない商品を選び、まだ商品化されていない場合は事業者に提案していくことで
す。」グリーンコンシューマー東京ネット『ゴミプレス』1999vol.42
「グリーンコンシューマリズムとは、一口で言えば、
「消費者側から主導的に市場
をより環境を意識したものに変えていこう」という動きである。
グリーンコンシューマーの存在が目立ち始めた1980年代以降、それを一つの動
きとして捉えようとしたものなのである。つまり「消費者が、環境への影響と考慮し
ながら購買活動する」事で、「企業に環境問題への配慮を求める運動」であり、今や
「グリーンコンシューマリズム」は、世界の消費者運動の合い言葉の一つになってい
る。
16
グリーンコンシューマリズムは、これまでの消費者運動と異なり、市場原理を全面
に打ち出しているのが特徴である。営利企業に対して、従来のように「社会的倫理」
をそのままぶつけるのではなく、経済原理で翻訳し、結果的には企業経営にもプラス
であると訴えるものである。」
堀英里子『「消費者理解」によるマーケティング戦略』1995
本分科会では、「グリーンコンシューマー(緑の消費者)」を「買い物するときに資源
の再利用を考慮しつつ、環境に対する負荷がより少ない商品やサービスを選ぶことを
購買の基準とする消費者」と定義しています。
バルディーズ研究会グリーンコンシューマー分科会発行『グリーンコンシューマーレ
ポート』No,1 1991
これらの定義からグリーンコンシューマーとは
自分の消費行動が企業に与える影響力に自覚的であり、その影響力を、環境配慮という自
分が重要視する価値を反映すると思われる循環型社会の成立のために行使する、消費者と
しての自分に対して積極的な要求提出主体
として把握することが出来るだろう。
つまり、市場原理を否定するのではなく、市場の中にある消費者としての自分が、消費者
であることによって市場に対して持っている影響力に自覚的であり、消費などに際して環
境配慮意識を反映させることによってニーズを作り出し、それに合わせた商品やサービス
を提供させよう。その繰り返しによって市場そのものを循環型に変えていこうという環境
保護主義的な要求提出を積極的消極的に行う人々である。それは環境問題という、地球環
境の危機的な状況が存在するという認識に基づいており、具体的な戦略としては消費者が
商品やサービスの購入に際して、その選択基準に環境配慮というフィルターを掛けること
によって環境に配慮した購買をしたり、直接企業に働きかけるなどし、ひいてはそのよう
な購買基準を持つ消費者が存在することを知らしめ、生産者が環境に配慮した商品を作り
たいと思うような市場の状況を作っていこうという運動であるということができるだろう。
市場を通した生産流通システムは非常に高い不確実性を持っている。売れない商品を作る
ことは、企業という主体が利潤を出し続けることによって正当性を担保していることを考
えれば、致命的な失敗である。失敗によって損失を被ることを少しでも減らす為、企業は
様々な手法を用いてマーケティングを行うのである。そしてマーケティングによって市場
の不確実性を縮減しようとしているのである。企業がマーケティングを繰り返さざるを得
ないのは不確実性の領域としての市場を自分が支配可能(予測可能)な領域とし、自社の
存続可能性をより高めていかなければならないからである。にもかかわらず、消費者は「そ
こにあるものを選ぶ」という受動的な立場にあることが多く、その選択がそのたびごとに
企業に存続の一票を投じていると言うことを意識しにくい。しかし市場という、企業にと
っての不確実性の領域は、提供される商品やサービスを引き受ける消費者の選択の不確実
性にその不確実性の源泉をもっている。経済学においては市場が独占状態であろうと完全
17
競争状態であろうと、市場についてはもっぱら価格の点から示されているが、市場が「独
占」以外の状態において、消費者は市場という不確実性の領域に一定程度の支配力を持っ
ているのである。消費者個人はあまりにも支配力が小さいためにそれが自覚されていなか
ったと言うことであろう。グリーンコンシューマリズムは潜在的に消費者が持っていた市
場の不確実性に対する支配力を顕在化し、これを行使して企業に影響力を行使していこう
という消費者運動の戦略であるという事も理解しなければならない。
消費者運動としてのグリーンコンシューマーが持つ特徴として市場との協力的な関係とい
うことがあげられる。従来の消費者運動がボイコットや共同購入などによって、つまり市
場とは対抗的、もしくは無関係な立場をとったのと対称的である。市場との先鋭で対抗的
な消費者運動が市場という「敵」を自分たちの運動の「味方」であると定義し直すことに
よってグリーンコンシューマー運動は生じたものであるといえよう。
消費者運動が企業や市場を敵視すれば、当然そのように見られた主体からの反発を招くこ
とになる。何らかの消費者運動によって企業活動が不利益を被った場合その運動に対して
損害賠償請求すると言うことも企業の当然の権利である。9
第2節:事例∼グリーンコンシューマー地域実験プロジェクト
さて、その具体的な事例の研究のために、本章ではグリーンコンシューマー地域実験プロ
ジェクトを採り上げる。
このプロジェクトは循環型社会を目指す消費生活推進協議会(通称グリーンコンシューマ
ー東京ネット)の呼びかけに応じた東京都北区と多摩市の消費者団体が中心となっておこ
なったものである。北区では北区リサイクラー活動機構、多摩市では多摩消費者団体連絡
会がそれぞれ地元商店街との連携を持ってグリーンコンシューマーの普及と商店街の活性
化などを目指し、ほぼ一年という期間で行われた実験的な運動である。
プロジェクトの趣旨は以下のように定義されている。
「北区において消費者が環境に配慮した商品やサービスを選択、購入することによっ
て市場を変え、循環型社会に変えるために、北区内においてグリーンコンシューマー
活動(環境に配慮した消費行動)を地域ぐるみのネットワークにより実践していくも
のです。さらにこの活動を通して、より安全で環境への付加の少ない消費行動が継続
的に広がって行くよう取り組みを行う実験的な取り組みです。
また、このプロジェクトは地域に商店街の活性化の一助となるよう進めるものです。」
グリーンコンシューマー「地域実験プロジェクト」北区協議会設立趣旨
この定義を見ても解るように実際に本格的に実験されたグリーンコンシューマリズムは社
会的状況の違いから一般的な運動の定義とは若干趣を違にしている。その最も大きな違い
は地域の商店街活動との連携である。グリーンコンシューマリズムは市場システムを肯定
的に捉え、その中で環境配慮意識を内面化した消費者としてのあり方を追求した運動とい
18
う側面を持っているが、そうであればこそ、グリーンコンシューマリズムそのものによっ
ては自由競争は否定され得ない。なぜなら、グリーンコンシューマリズムの戦略は自分た
ちの動きを出来るだけ大きなものにして、環境配慮型の商品やサービスの提供はニッチビ
ジネスではないと生産者に認識させることが重要となるためである。
そう考えると今日的制約条件下でスーパーなどの流通業者と比較して、中間マージンなど
の点から価格競争で上位に立つことの出来ない商店街が、衰退しつつあることは必ずしも
重要なことではない。運動の戦略を考えると小売店と協力関係にあるよりも流通や製造部
門などの川上と協力関係になる方が環境配慮が他商品の提供という点からは社会に対して
より大きな影響力を持つことが出来る。
ではなぜ商店街との結びつきを持ったのか。1,グリーンコンシューマーの「買う」とい
う側面に注目して、商店の売り上げ減少に貢献できるかもしれないという仮説。2、近隣
商店街は今後の超高齢社会を視野に入れるとその存続が重要であるため、何らかの方法で
衰退する現状を打破していかなければならないこと。3,主体となった2つの消費者団体
にとってはグリーンコンシューマー東京ネットからの募集が「商店街の活性化と関連した
もの」を要求していたからであると思われる。
この様なプロジェクトの初期設定によって運動10は決定的な影響を受けたように思われる。
それはプロジェクトの期間の短さや投入された労力などとも関係するが、プロジェクト前
後で商店街に起こった変化ほどには住民意識は変化しなかったと言うことである。商店街
との意思疎通に時間を費やした結果消費者への普及に労力を投入できなかったと言うこと
も出来るかもしれない。
この運動では実際に商店街への働きかけと住民への働きかけ、あと若干の流通への働きか
けがなされた。
大まかに記述すれば、
商店街への働きかけ
・2回行われた調査票調査
・商店会役員と地元消費者団体のパートナーシップ醸成
・商店街の空き店舗対策への助力
・商店街と協力して行われたコンポスターの設置
住民への働きかけ
・2回行われた調査票調査
・在来消費者団体とのパートナーシップ醸成
・エコショップの運営によるPR
・環境配慮を中心的課題としたお祭り
流通への働きかけ
・JTの商品輸送を段ボールから通い箱にするように要請
・プロジェクトの外で行われた、東京ネットによるキャンペーン
19
これらについて逐一詳細な記述をすることは本論では避ける。11本論では日本に現存した
グリーンコンシューマリズムがその展開においてどのような困難を生じるのか。また、そ
の困難を乗り越えるためにどのような戦略が考えられるのかを考察することをそのねらい
とする。
まず、日本のグリーンコンシューマーは量的な困難を抱えているということを認識しなけ
ればならない。欧米で発生したグリーンコンシューマーが強力な市民運動の伝統と市場に
対する肯定的価値観の上にあったため、運動が大きな影響力を容易に行使し得た事と比較
して困難を抱えている。そこにある決定的な違いが運動の正否と左右していると言っても
よいと思う。グリーンコンシューマーが商品選別の際の影響力を行使して、その後提供さ
れる商品を環境配慮型に変えたいとき、具体的な戦略は直接企業に要求提出するという従
来型の選択肢とグリーンコンシューマーに特有の市場を媒介とした投票行為を続けるとい
うことが考えられる。前者が実を結ぶためには、理由の如何に関わらず、そのような主張
に迎合的な決定権者が企業内にいなければならない。後者についてはそのようなニーズが
ニッチではないことを知らしめなければならない。企業に直接要求提出して、それが受け
入れられるためにはより大きな規模の運動であることが望ましい。一度の要求の背後に数
万人という消費者の存在が意識されなければならない。市場を媒介とした消費では環境配
慮が他商品を一定程度買い支えなければならない。一般的にいって環境配慮製品はニッチ
ビジネスだと考えられており大手が手を出したがらないので、それを担うのはしばしば中
小企業となる。そのため価格競争力の点で大企業が蓄積した設備投資で生み出す環境高付
加商品に太刀打ちできないためである。
それゆえ、値段が高くても環境配慮商品を買いうる消費者としてのグリーンコンシューマ
ーが量的に増大することが市場を媒介にした運動の成功には不可欠であるし、特定の企業
に対する直接的要求提出においても影響力を増すためには数が必要になる。
しかし調査期間中の運動のこの点に対する対応は必ずしも充分ではなかったと私は考えて
いる。それは運動が選択した手法の点からも言えるし前後の住民意識調査の結果からも言
える。運動が選択した手法がグリーンコンシューマーの量的増加についてどのような影響
を及ぼし、もしくは及ぼさなかったのかについてはもっぱら1999年舩橋研究室調査報
告を参照してもらうとして、本論では事前事後調査の結果から、運動が住民意識にどのよ
うな影響を持ったのか、もしくは持たなかったのか分析してみたい。
分析にあたってはまず堀(1995)12における消費者のセグメンテーションを参考にし
たい。ここでは環境配慮意識と行動という点から消費者が分類されている。
20
図 1 :堀(1995)における消費者のセグメンテーション
1、真のグリーンコンシューマー
2、見せかけのグリーンコンシューマー
3、タテマエのグリーンコンシューマー
4、グリーコンシューマー
そしてそれぞれについて
1、自らの直接的利益だけでなく「環境保全」という社会的利益のためになる購買行動を
行う層。2、関心はあるがそれは一種のステイタスの現れ。3、意外にグリーン商品を購
入する層なので、一見グリーンコンシューマーであるが、それはあくまでも価格が安いか
ら、など個人の直接的利益に魅力を感じた結果の購買で、環境への関心度は低い。4、コ
スト感覚も低ければ環境意識も低い。と定義されている。
この分類に基づいて実際の意識調査の結果をグラフにしたのが以下のものである。
21
消費者のグリーン度事前調査
環
境
問
題
へ
の
関
心
環境配慮行動
図 2 :運動の事前調査における消費者のグリーン度 1 3
消費者のグリーン度事後調査
環
境
問
題
へ
の
関
心
環境配慮行動
図 3 :運動の事後調査における消費者のグリーン度 1 4
図は環境問題への関心と環境問題への実際の行動をそれぞれ縦軸と横軸にとり、それぞれ
環境に配慮しているほど、右、上に行くように作ったグラフである。それぞれの丸はそれ
ぞれの度数に応じた大きさの直径である。つまり大きい丸ほど大きな集団であることを表
しているのだが、これによって、環境への関心と実際の行動の度合いについて、どのあた
りにどのくらいの量の集団があるのか視覚的に捉えることが出来るだろう。ここでは前後
の調査における集団の大きさの違いに注目したい。このグラフでは前後の意識調査のおけ
る変化は全くなかったように見える。しかしながらこの2つのグラフは一体運動によって
人々の環境配慮意識や環境配慮行動はどのように変化したのかといういう事は示していな
い。ただ2つの時点でのそれぞれの集団を静的に示すのみである。それぞれの集団の構成
22
メンバーが替わっているのか変わっていないのかを確認するためそれぞれの変数について
調査の前後でクロス集計を取った。
事後調査での問い6「環境に配慮した行
動を取っているか」への解答
い し 1事
る た 4前
か行
﹁ 調
﹂ 動環 査
へ を境 で
の とにの
っ 配問
解
答 て慮 い
0
1
2
3
4
合計
0
1.2
0.6
0.6
0.9
0.3
3.7
1
2
3
0.3
2.2
0.9
4.6
2.5
2.2
2.8 30.3
8.7
0.6 10.2 28.2
0.3
1.2
8.4 45.5 41.2
4 合計
4.6
9.9
42.4
1.2 41.2
1.9
1.2 100.0 (
%)
表 1 :運動の前後で「環境に配慮した行動をとっているか」とい
う問いに対する答えを比較した
事後調査での問い5「環境問題に関心があるか」への解答
﹁
が 3事
あ 前
る環調
か 境査
問で
へ 題の
の に問
解関い
答心 1
﹂
0
1
2
3
4
5
合計
0
1
2
0.3
0.6
1.9
0.9 12.4
8.7
0.6
8.4 55.4
0.3
0.3
1.9
0.3
1.9
0.3
2.5 21.7 70.0
3
4
1.2
1.9
0.3
0.9
0.3
0.6
3.4
1.9
5 合計
2.8
22.0
66.6
4.6
0.3
3.4
0.3
0.6
0.6 100.0 (
%)
表 2 :運動の前後で「環境問題に関心があるか」という問いに対する答
えを比較した
グラフ中央の灰色になっているところは調査の前後で意識や行動について同じ程度を示し
た人を示している。「0」15は本来除外されるべき欠損データである。つまり、調査票のこ
の解答に対して解答しなかった人を示している。
「0」を除いた灰色部分より上は事前調査
の方が事後調査に比べてより関心があるとか行動していると答えたケース。同様に「0」
を除く灰色部分より下は事前調査より事後調査の方がよりプラスの評価をしたケースであ
る。それぞれ、環境に配慮した行動については「前回より下がった」14.6%「前回と
同じ」64.3%「前回より上がった」15.2%であり、環境問題への関心については
23
「前回より下がった」11.4%「前回と同じ」70.9%「前回より上がった」13.
1%である。どちらも前回より環境への関心や行動が喚起されているケースがある一方で
同じくらいのケースが減退している。最大の集団は変わらなかったケースで両変数ともに
事前調査事後調査両方で「最も…」と返答している「真のグリーンコンシューマー」を除
いても63.1%と58.5%が変化無しである。
もちろん、重要なのは数の多さではないが、個人が消費の際になにを選択するかという単
純な商品選択が、マクロに見た場合の消費動向を形成し、結果として社会に影響を与えう
るという点を考慮した場合やはり数が重要であるから、いかにすれば消費者をグリーンコ
ンシューマーとして啓発することが出来るかと言うことを考えることが運動の戦略として
は重要だと思う。
逆に言えば、これら諸点を克服することが今後の日本におけるグリーンコンシューマー運
動の展開にとって鍵となることは明らかである。
この点については本章の最後でまとめる。
さて、ここまで日本に現存するグリーンコンシューマー運動の東京での萌芽的な実験につ
いて述べてきたが、ここからはやや対象を拡大して、グリーンコンシューマリズムそのも
のが本質的に、もしくは潜在的に抱えている問題について述べていきたいと思う。
第3節:グリーンコンシューマーの潜在的問題
これまでグリーンコンシューマーの定義として、環境に配慮した購買ということをいって
きたが、では果たして環境に配慮した購買とは何か、という疑問が当然生じる。これはグ
リーンコンシューマーが潜在的に持っている論理的な限界と深く関係している問題である。
たとえば、スーパーで買い物をする際に、果物は全て発泡スチロールのトレーに乗っかり
ラッピングがされている店 A と、むき出しで果物を売っている店Bがあったとする。グリ
ーンコンシューマーはトレーのついていないBの店で果物を買うだろう。その方がゴミが
少なくなって良いからである。これはもちろん無駄なトレーに対して、「それは不要であ
る」という意思の表明であり、グリーンコンシューマー的な購買であるといえる。この影
響に気づけば、店 A は近いうちにトレーを取り去るだろう。
しかし、実はここにグリーンコンシューマーの論理的な問題点が存在している。それはグ
リーンコンシューマーが「買う」消費者であることに由来する。グリーンコンシューマー
は市場という、企業にとっての不確実性の領域を支配し続け、影響力を行使し続けるため
に、必然的に市場を維持し続けなければならない。そこにあるのは現状の「市場」を肯定
し、それをシステム内部から変革しようとする消費者である。そのため例えば市場化その
ものが環境問題を引き起こすような場合には必ずしも有効な戦略とはなり得ない。
私たちが食べる農産物はしばしば輸入品である。それが生産される過程でその地域の住民
や環境に大きな負荷をかけているということがいわれている。植民地時代から続くプラン
テーション経営が原因で今日まで農産物輸出型のモノカルチャー経済を維持している国家
も多い。そのような国の中には、国内では外貨獲得のため換金作物ばかり作り、そのため
24
に生産が減った食糧のせいで飢餓が発生している所もある。私たちがこの様にして作られ
た商品を購買するということは、
「市場を通した投票」を考慮すればこの様にして農産物を
作るシステムそのものを支持していることになっているのである。
つまり、グリーンコンシューマーが「買う」消費者である以上、提供される商品のうちの
どれかを常に肯定し続けなければならない。これは、それら全てが大量生産モデルから作
られた商品である以上、
大量生産のシステムそのものを否定することは出来ない。(もちろ
ん、この様なシステムで作られた商品を、環境配慮というフィルターで排除することも可
能ではある。しかし、私たち消費者の多くは身の回りで生産できるだけのもので満足でき
るほど無欲であろうか。私たちの欲求がこうした大量生産システムよって生み出されたも
のであることもまた真実であると同時にその欲求で大量生産システムを支えていることも
また真実である。そうである以上、この欲求をピュウリタン的な自己抑制で押さえない限
り、すぐにこれらを否定、もしくは排除することは出来ないだろう。)
そのため、一方では環境配慮を選択基準としつつ、より潜在的で本質的な問題については
肯定、つまり免罪符を与えてしまうことになるのである。16
次に市場というシステムの範囲の問題がある。端的に言ってしまえば、物事は市場だけで
は解決しないと言うことである。
私たちの生活のほとんどの部分は市場に依存していない。
家事・育児・地域教育(社会化の過程)
・家庭での介護は言うに及ばずみその貸し借りから
公共投資までじっくり考えれば市場化されている分野は私たちの生活の一部分に過ぎない。
地域通貨やエコマネーが対象とする領域はそっくり市場原理から抜け落ちた部分であるし、
アングラ経済部分も同様である。これらは市場で過剰な流動性を持ったマネーが暴走して
いる現在、その重要性を増している。地域通貨は投機の対象とならないためにインフレに
対して強く、安定している。アングラ経済はそもそも福祉水準の低い地域におけるセーフ
ティーネットの機能を果たしており、特に開発途上国で重要である。政府の公共投資につ
いては言うまでもないかもしれないが、「市場の失敗」を補うために必要である。
グリーンコンシューマリズムが市場を通して、市場に対して行われる運動である以上、社
会の一部分に過ぎない市場に対してしか影響力を及ぼすことが出来ない。ということは市
場が存在しない地域、分野に対しては影響力をも持たないと言うことである。日本では公
共事業の不適当な肥大化とそれが引き起こす環境問題が深刻である。ダム開発、干潟の干
拓、万博誘致、原発建設…しかしこれらには影響を与えることは出来ない。なぜなら市場
の外部だからである。17もちろん消費者が直接参加することのできない市場や独占事業体
についても同様のことは言える。
分かりやすい事例をあげよう。
環境配慮商品で最もよく売れているのは紙製品であろう。リサイクルトイレットペーパ
ー・リサイクル OA 用紙。パソコンの普及に伴ってプリンターで印刷する普通紙が増える
ことは想像に難くないのでこれらは今後売り上げをさらに伸ばすであろう。
さて、大手の製紙会社は再生紙100%は必ずしも環境に良くないと主張するのが好きで
ある。理由は1,古紙のリサイクルにかかるエネルギーがバージンパルプで紙を作るのと
比べると大きいためであること。2,その上設備投資や資源そのもののコストから生産コ
25
ストも古紙の方が高くつく 3,にもかかわらずそれを価格に反映すると売れないと言う
意識からバージンパルプの紙と同等の利益を出すような価格設定が出来ない 4,バージ
ンパルプが熱帯材の森林伐採とは関係ないと考えているということがあげられる18。
専門的知識を背景にエネルギー効率の話を彼らはする。そして実際には再生繊維は30%
位混入して残りはバージンパルプにするのがエネルギー的によいという。
このとき専門知識の影響力は非常に大きく、多くの消費者は納得するか「非合理的に」1
00%リサイクルパルプの商品を選択することになる。
ここで何となく腑に落ちない消費者はその商品のバージンパルプがどこから来ているのか。
どのような樹種なのかという質問をすることになるだろう。彼らは答える。いわゆるジャ
ングルを切ることはありません。ジャングルはいろいろは木が生えており、全部まとめて
切ってしまうといろいろな、紙に適さない木も入ってしまうから。だからパルプチップ用
に造林されたところを切っています。と、生産地は北米や南アメリカですと北米を強調し
て説明してくれるだろうし、樹種についても丁寧にもユーカリです。と答えてくれるだろ
う。
しかし、原生林の伐採は通常択伐であって、区画全てを丸ごと切ることは少ないことやユ
ーカリが土壌収奪的な植物であって、これが生えたあとの土地は砂漠になってしまうこと
も説明してはくれない。知らないのかもしれない。
消費者は、自分たちが直接関与できない市場がそこにあることに気がつくだろう。たしか
に、自分で消費する紙の選別に際してそれがどのよう、どの程度環境に配慮されているか
を調べることは専門知識を集約していけば論理的には可能である。
しかし私たちは現地で木を伐採しパルプチップにしている製材業者でもないしそれを買い
つけている商社でもない。この市場の参加者ではないのだ。だから自分たちが直接参加で
きる市場に比べて影響力は間接的にならざるを得ない。
(現実に、いまのグリーン購入ネッ
トワークのリストでは製紙会社が使うパルプチップの樹種についての記述はない)
しかも、途上国でユーカリを植え続けている造林プロジェクトはしばしば先進国の経済援
助で行われている。これは市場を通さないし細かい予算は日本では議会も通らない。行政
レベルの決定事項である。そうである以上ユーカリの造林プロジェクトをグリーンコンシ
ューマリズムがやめさせることは出来ない。くどいようだが、政府が引き起こす全ての環
境問題にはグリーンコンシューマリズムは何の影響力も持たない。
当面この様な本質的な問題点を指摘することが出来るだろう。さて、これまで日本で実際
に行われているグリーンコンシューマー運動の1つの事例としてのグリーンコンシューマ
ー地域実験プロジェクトと、グリーンコンシューマー運動そのものが持っている問題点に
ついて若干の考察を加えてきたわけだが、それでは一体どうしたらいいのだろう。どうし
たら環境問題を解決に導くことが出来るのだろうか。その事を考えるにあたって、まず今
まで見てきた運動が社会システムの中でどのような位置を占めているのかについて検討し
ていきたい。運動に関わる制約条件や戦略の選択肢を考えることでなにがしかのことが言
えるのではないかと思う。
それではこの点について環境制御システム論を使って考察を深めていきたい。
26
第4節:グリーンコンシューマーの位置づけ∼環境制御システム論
環境制御システム論とは
舩橋(1998)19で環境制御システムは以下のように定義されている
「環境制御システム」とは、環境付加の累積により現在生じている、あるいは将来生
じるであろう「構造的緊張」を「解決圧力」に転換し、「実効的な解決努力」を生み
出すような社会制御システムであり、環境問題の解決に第一義的関心を払う環境運動
並びに環境行政部局をその制御主体とし、これらの主体の働きかけを受ける社会内の
他の主体を非制御主体とするような社会制御システムである。……(中略)……
「構造的緊張」とは、社会システムの文脈で定義される概念である、それは、「経営
システム」の状況としては、構造変数に制約されながら、経営課題の達成が困難化し
ている状態であり、
「支配システム」の状態としては、閉鎖的受益権の階層構造にお
ける財の急格差型配分によって、あるいは受苦圏の存在によって、先鋭な利害対立が
生じている場合である。社会システムの状態としての構造的緊張は、人々の生活とい
う文脈において、
「生活危機」を生み出すゆえに、問題の「解決圧力」の源泉となる。
「解決圧力」とは、構造的緊張を被った主体が、その発生と解決に責任のあると思わ
れる主体に、要求提出という形で働きかけることである。解決圧力は主体間の相互作
用の文脈で定義される概念であり、社会システムの状態としての構造的緊張は、主体
的努力を通して解決圧力へと転嫁されなければならない。
次に環境制御システムによる経済システムへの介入の諸段階として、
①環境保全という観点からの制約条件が、経済システム内の諸種対に化せられる段階
②環境保全という経営課題が、経済システム内の諸種対にとって副次的周辺的な経営課題
の1つとして設定される段階
③環境保全という経営課題が、経済システムとその中の諸種対にとって主要なあるいは、
中枢的な経営課題の1つとして設定される段階
の3段階を想定し、これら経営システムの文脈での制約条件や経営課題群の再定義は支配
システムにおける解決圧力の表出によってこそ推進されうるとして
Ⅰ環境制御システムの制御主体が経済システム内部の主体に対して、発言権を持つという
形で解決圧力を及ぼす段階
Ⅱ環境制御システムの制御主体が、経済システムの諸主体に対して対抗力の発揮という形
で解決圧力を及ぼす段階
Ⅲ環境制御システムの制御主体が、経済システム内の諸主体に対して、決定権を持つ段階
の諸段階を示している。
27
図 4 :舩橋(1998)における環境制御システムモデル
もちろん、舩橋(1998)で示されている環境制御システムの課題に従えばこの様なモ
デルになるのだろうと思われるが、環境問題を巡る状況を考慮すれば、このモデルは経済
28
システムからの環境制御システムへの介入、個人がこれに対して及ぼす、もしくは及ぼさ
れる影響という点を軽視しているのではないかという疑問を提出しなければならない
モデルの拡張
舩橋(1998)においては環境制御システムによる経済制御システムへの介入による実
効的な解決努力の展開を妨げるものとして
1政府行政組織内の勢力関係において環境庁が弱体であること
2社会的にも、環境保全への利害関心よりも経済成長への利害関心の方が協力であること
3環境負荷軽減の方策が技術主義的対策とモラルへの訴えという両極分解を示し、「環境
高付加随伴的な構造化された選択肢」を変革する努力が弱いこと
4自治体の権限が小さくイニシアチブを取るのに制約があること
5複雑化し、巨大化した社会システムと行政組織の中での変革努力は、利害関係者が多数
に上るため絶えず硬直性と閉鎖性にぶつかること
があげられている。
本論においては環境問題そのものよりも環境問題を巡る問題(情報の取り扱いなどに関す
る問題)をも考察の対象に含めているので、これを敢えて介入の深化を妨げる行為として
ではなく、介入によって達成されるであろう価値に対して別の価値を追求する経済システ
ムの側からの、自分たちの価値を追求するための条件整備を目的とする勢力の拡大過程(つ
まり、
経済システムによる環境制御システムへの介入)として理解する。
(4以外について)
(「妨げる」といった場合に周辺に追いやられてしまうであろう環境ビジネスなどの環境問
題解決について促進的な企業活動が持つ潜在的な逆機能の側面を考察の対象に入れたいた
めでもある。)
経済システムによる環境制御システムへの介入は、環境問題の解決という要求に対して逆
機能的である可能性があるが、必ずしもそうとは言えないのではないかと考える。
これらの点について以下で考察を加えていく。
「個人」の追加
次に、このモデルでは個人とシステムの間の相互作用については言及がない。しかし今日
的環境問題という目に見えない問題を考えた場合に、そこに問題が存在していると考える
主体は最終的には個人である。実際に危機がそこに存在しているかどうかに関わりなく、
そこに問題があると認識されているから環境問題が存在しているのである。問題がそこに
あるとしてそれを可視化する主体と、可視化された問題状況を問題だと感じる主体として
の個人の相互作用が析出されなければならない。環境問題という問題は(今まで述べてき
たような)人々に認識されているところの問題であるという点を考えれば、それを問題で
あると認識している具体的な「人々」であるところの個人というものが、問題を形成する
29
者としてどこに位置しているのかということを考えることは有益であろうと思う。
さらにこの個人は生産者側、要求提出団体、主務官庁それぞれを構成するとともに消費者
である。消費者は場合によっては環境制御システムの側からの要求提出を行う運動団体の
参加者であり、場合によっては企業活動を通して環境を汚染し続ける主体でもあり得る。
もちろん、企業の中で、直接汚染を引き起こす部署で働きながらも、本人は環境保全に関
心があるので環境保護を主張する団体に加入するということもあるだろう。
この、個人が担う役割の重層性については取り扱われていない、消費者であり同時に生産
者や主務官庁の職員であるという個人の性質は以上の点から重要になってくるものと思わ
れる。これを理解するために、環境制御システムの介入モデルに個人の相互作用を書き加
えるという作業を本論では行う必要があると思われる。
考察にあたっては諸主体の持ちうる勢力範囲の違いから、対象主体を以下のように分節す
る。もちろんこれらの肩書きは、1人の人間が同時にいくつも持ちうるものであって、そ
の1側面というだけに過ぎない。
1,研究者、研究機関
2,メディア
3,投資家
4,企業職員、企業幹部、環境団体メンバー
5,一般的消費者
経済システム内主体から環境制御システムによる介入への順機能的な作用―SRI、環境ビ
ジネスについては4章で考察する。
1,研究者
研究者や研究機関が社会に与える影響力は非常に大きい。それは高度な専門性や専門的発
言の代替不可能性が高いからでもあるし、彼らの提供する理論が目の前の不確実性の領域
を支配する可能性を示しているからでもあるだろう。これは社会的分業が高度化すればす
るほど、
それについての専門的知識が重要になっていくことを示しているものと思われる。
哲学が世界の包括的把握の不可能性を証明したときから知識の専門分化は不可避的に起こ
り、今日ではそれが非常に高度化しているのである。そのため、専門外の人間がふれるこ
との出来ないブラックボックスが増えれば増えるほど専門家の勢力は拡大されるわけであ
る。
私たちは、相手を納得させるときによく「だれだれが言うには∼」とか「だれだれも同じ
ことを言っている」という言い方をする。これは「だれだれ」の専門的権威を借りること
によって自分の発言に影響力を持たせることを意図している。「だれだれ」
が学者であれば、
その人の発言は科学的に客観性を持っているものとしての意味を持つので、
「だれだれ」
の
発言を引用た人の主張は科学的客観性という「後ろ盾」を得ることになるのである。ある
住民運動団体の配ったビラにはこの様なことがかかれている
30
「…渋谷清掃工場は住宅密集地に無理やり建設しようとするもので、周辺や遠く離
れている住民や勤労者などの与える影響ははかりしれません。ゴミの専門家も「他に
類をみないひどい計画」と述べています。既に周辺住民約60名がこの裁判の…」
渋谷清掃工場差し止め裁判の会
これによって、このビラの作成者は論理的な根拠をあげることなく、論争の相手を非難す
ることに成功している。
(もちろん、
この団体だけがこの様なことをしているというのでは
なく、同じようなことは多かれ少なかれ、誰でも行っているということが言いたいのであ
る。ただこのビラの主張は方法が洗練されていないので分かりやすいだけにすぎない。例
えば「グローバルスピン」参照のこと)
後にメディアの勢力においても示すが、研究者が持つブラックボックスは、周囲の利害関
係者にとって非常に役に立つものなのである。
さて、
もちろん研究者自身にも潜在的な問題があることは押さえておかなくてはならない。
「専門外の専門家」
専門家の勢力の源は彼らが抱える専門性というブラックボックスだけではない。そのブラ
ックボックスが客観性によって、正当性が担保されていることが重要である。つまり、人々
は客観性に対する、もはや盲目的としか言えないほどの信頼を持っている。これは実に多
くの人が持っている信仰である。社会学を学んだものならば一度は感じたはずの「参与観
察法」に対する疑問を思い出せば自分の中にあった信仰を思い出す事ができよう。
このような信仰を持つ人々の中に、研究者と言う生き物は客観性を満たす存在として立ち
現れるのである。もちろん、彼らは本質的にはウェーバーが言う意味での「科学的客観性」
を満たしているに過ぎない。しかし客観性が限定的なものだなどと言う事をどれほどの人
が理解しており、また理解し得るだろうか。20客観的であると言う事は、普遍的事実であ
ると言う事を意味するのであるから研究者は権威者となるのである。
しかし、本質的には科学的客観性は記述の検証や反証の可能性が開かれている事によって
担保されなければならない。そのために面倒な参考文献のインデックスや引用の際の出所
などがいちいちつけてあるのだ。
それゆえ、どんなに普遍的真理をついていても(そのようなものが存在するとして)それ
が検証も反証もできない事であれば、それは科学的に客観的だとは言えないのである。だ
から学術雑誌には審査がついており、その内容は当の学会によって厳密に審査されなけれ
ばならないのである。
しかも、研究内容が社会的に歪められると言う事も当然考えなくてはならない。どんなに
すばらしい発見や研究性かがあったとしても、多くの人はその論文を直接読まない。直接
読んだとしても、読む側が正しく理解するかどうかはそのときになってみないとわからな
い。少なくとも私の周りにウェーバーの論文を最後まで読みきったという人は数えられる
ほどしか存在しない。実際ほとんどの人が名前さえ知らない。読んだ人でも必ずしもいわ
31
んとしている事を正確に理解しているかはわからない。それは私自身にも言えることだ。
メディアを通して誤解曲解が伝達されたらどうなるだろうか。それが半ば意図的になされ
たとしたら。もちろんわざとでなくても、「水が半分入っているコップ」を「水が半分しか
入っていないコップ」と表現する事によってそこに情報操作が生じる。ありとあらゆる情
報は人の認識の過程を経るゆえに常にある程度の情報操作可能性が存在するのだ。取り扱
い次第で研究成果が社会的には別の意味になってしまう事を自覚しておけばこれを意図的
に操作する事も可能である。
さて、現代の私たちにとって重要なのはこの先のお話である。世の中に高等教育を受ける
ものが 10%もいなかったような時代、雑誌などは一部の知識人しか読まなかった時代なら
いざ知らず、現代社会では非常に多くの人間がマスメディアに触れて生活している。マス
メディアに登場するすべての言説には、審査つき学術雑誌と言う、ほとんど関係者しか読
まない雑誌を除いて、科学的客観性と言う見地からの審査は存在しない事を私たちは知っ
ている。後に述べるようにメディアは客観性に対して大いなる思い違いをしているので、
それは仕方のないことではあるかもしれない。しかし、次に述べるような現状が拡大再生
産されるようになれば、自体はどんどん深刻になっていく。
「井戸の中に落ちた一枚のはね」
これはリッチー・ローリーが著書『グッドマネー』21の冒頭で友人の言として引用してい
る事である。曰く
「ある友人が純粋学術論文を表して、井戸の中に羽毛を落として水のはねる音を聞
くようなものだといったことがある。数年かかって一冊書いた本が何千部か売れれば、
あるいは何人かの研究者が専門的な雑誌の中でコメントをしてくれれば、幸運な方で
ある。たくさんの論文と本を書いた私にもそれは思い当たる。それとは反対に、
『ヒ
ューチュアリスト』誌に書いた「社会的投資−論理と利益の一致」と題する私の最初
の、半ば一般向けの記事に対する反響は圧倒的なものであった。電話や手紙が、東京
からリオデジャネイロまで世界中至る所から届いた。その手紙や電話の全てが、社会
に責任を持つ企業で経済的にも良い投資先に関するより多くの情報を提供して欲し
いというものだった。私は敏感な神経にさわり、大きなニーズを発見したのであっ
た。」
専門家の研究はしばしば羽毛の羽である。審査つき学術論文に論文を載せることは、社会
に対して大きな影響力を及ぼす事にはならない。もちろん、取り上げる一人一人が一般の
人々よりは大きな影響力を持っているかもしれないが、その論文を取り上げるのはせいぜ
い数人である。一般の人がそれを読むわけでもない。それに対して、一般の人が読むよう
な大衆紙での記事は非常に大きな反響を引き起こす事ができる。当時世界で5人しか理解
できないといわれたアインシュタインの相対性理論は、今日でもほとんど全ての一般人が
32
理解していない。にもかかわらず、多くの人がその理論のすごさを知っているのは、とり
もなおさずそれを理解した専門家の地道な普及活動とオッペンハイマーはじめマンハッタ
ン計画の参加者のおかげとだとしかいいようがない。
私たちは日々非常に多くの情報にさらされている、
しかしその中に純粋に学術的な記述(科
学的客観性が検証・反証可能性によって担保されている)はごく僅かである。否、多くの
人にとっては、ごく僅かさえないかもしれない。
純粋に学術的な記述は審査付き学術論文や学術書によって提供されるが、専門家でない一
般人がこれらにアクセスする機会は非常に限られている。
何らかのセンセーショナルな発見が学会に報告されたとき、それは当の研究の要約や解説
という形でメディアに乗る。私たちはメディアが捉えたイメージにアクセスすることにな
る。
つまり科学的客観性が担保されている言説より、そうでない言説のほうがより多くの人々
に接触し、より大きな影響力を持つ事になるという悲劇がそこにある。
と、すれば、より大きな影響力を及ぼすためには、科学的客観性はないがしろにしても「専
門家」という権威ある肩書きを使って、人々に「受け」のよい言説を垂れ流すほうが、地
道に論文を書きつづけるより効率がいいのではないか。と言う考えを持つ人が現れても不
思議ではない。
それだけではない、研究者と言っても実際、多様である。すべての研究者が科学的客観性
についての省察を常日頃行っているわけではないしすべての発言について科学的客観性を
担保し続けているわけではない。それは非常に困難である。
たとえ本人にこの様な権威を利用して社会に影響力を及ぼそうと言う意図がなくても、肩
書きの持つ権威や自分の権威の由来に無自覚なものは同じ過ちを犯す事になるものと私は
考えている。
ある犯罪真理学者がいるとする。彼は日ごろの犯罪心理学の研究から最近起こっている少
年犯罪に見られる犯罪者真理の幼稚性について自分の説を展開するかもしれない。それに
ついて、では法や制度の面でどういう対策を取ったらいいのかと言う質問が帰ってくる事
も当然の事として予想される。そこで彼がその質問に答える事は果たして許される事であ
ろうか。
もちろん、一般的にはここでこの研究者は日ごろの犯罪心理学の研究に立脚して法的、も
しくは制度的対応について、例えば少年法の厳罰化と言った事を論じる事になるだろう。
しかし、彼の専門は犯罪心理学であり、法律学や社会政策論ではない。彼が犯罪者の心理
を分析する事は彼の研究領域であるが、それに対する社会的対策について彼は専門外、つ
まりただの素人である。
その発言は彼の単なる信念に過ぎず、科学的研究の成果ではない。
にも関わらず、あたかもそうであるかのように受け止められる。
専門家という肩書きは本人に自覚があろうとなかろうと、発言を人に納得させる強い力を
持っている。これを不当に利用しようと思っていようがいまいが影響力はそこに生じてい
るのである。
さらにこの事柄は、「弱い個人」の前提の前でより大きな問題となる。
33
金子勝は市場モデルにおける主体の設定の際に過去の支配的なモデルが「弱い個人」とい
う前提を無視していた事を批判し、これを導入する事を提案している。
「理論の出発点として仮定される人間像に、どれだけ高い負荷が欠けられているか否
かという意味である。「高い負荷をかける」とは、現実の人間の行為として、持続的
にとる事の出来ない現実離れした仮定をおくということだ、つまり高い負荷に耐えら
れる人間を「強い個人」そうでない人間を「弱い個人」と考えるのである。」
金子勝『市場』1999
つまり、市場における個人の振る舞いを「ひたすら自己の利益だけを追求する個人(ホモ
エコノミクス)」や「自立した個人」などに設定する事は、ある価値の追求に全身全霊を傾
け、ほかのものには見向きもしない人間像=「強い個人」を示しているのであるが、残念
ながら人間はひとつの価値に奉仕してほかの価値を無視できるほど強い生き物ではない。
実際には個人というのはその意思においても社会的立場においてももっと不確実なもので
あると言う事を考慮しなければならない、ということである。
さて、この弱い個人の前提は、市場における個人の認識方法だけに限定されるには惜しい
概念である。本論ではこれはあらゆる個人の理解に際して適用可能なものであると仮定す
る。これに依れば当然研究者もこれに例外的な存在ではありえない。つまり、自分の研究
対象だけに熱中してほかの事にはまったく興味がない。学問のために人生をささげ、世俗
的な成功や金銭にはまったく関心がないという、学問に対して「強い個人」の前提は現実
の前に破綻するだろう。研究者も弱い個人であり、お金や政治力に価値を見出す事もある
のである。学内政治における教授会や教授間の争いについてはいまさらと言う感があるし、
理系の学者が特定の企業にコネクションを持って利害関係者になるのも当然の事なのであ
る。
「強い個人」の前提に立った学者観ではこの様な事柄を捕らえる事ができない。せいぜい
けしからん人というくらいで、そのような研究者の社会へ与える影響を考察する事はでき
ない。
「弱い個人」の前提に立つことで初めてこの様な現実の把握とその影響の分析が可能
になるのである。
先ほどあげた犯罪真理学者は自分の研究に没頭するあまり社会の事をよくわかっていなか
った、単に客観性に対して無自覚な学者であった。そのため彼は無自覚によって自分の専
門外の事柄について、専門家の肩書きで語ってしまったのである。
しかし彼が自覚的に専門家の肩書きを使って発言していたとしたらどうだろうか。彼はそ
もそも「近頃の若者はなってない」と考えていた。もっと刑罰を厳しくすれば無秩序な若
者を抑制する事ができると言う信念を持っていたとする。(理由は何でもよい。
つまり彼は
当の問題の利害関係者である。
)
その自分の信念を具体化するために専門性と言う権威を使
って社会に影響力を与えようとして、本来専門外の分野である法的、もしくは制度的対策
について述べたのだとしたらどうだろうか。もしくは彼の研究に資金を提供している特定
の個人や集団、彼の教え子に特定のポストを約束している個人や集団、彼とプライベート
な関係を持つ個人や集団などなどからの要望でそのように発言したとしたらどうか。
34
そういう事を研究者はしない。それが研究者と言うものだ。という批判には、これが弱い
個人の前提だとしか答えられない。弱い個人の前提とはこの様なものである。これによっ
て学者と言う主体がひとつの要求提出の回路として要求を社会に提示している主体として
相対化されるのである。22
専門家の影響
専門家は完全に独立して存在しているわけではない。常に周囲との相互作用を繰り返して
存在している。で、あるから当然状況に制約された選択肢と不確実性の領域を持っている。
他の主体が支配している彼にとっての不確実性の領域が存在することによって専門家は他
の主体から影響を受けることになる。
本論の文脈から言えば特定の企業からの影響を受け、
その企業に肩入れする状況と、特定の環境保護団体から影響を受け、その団体に肩入れす
る状況が考えられる。もちろん、自立的に研究し、その結果どちらかに肩入れするという
状況も考えられる。
専門家の影響力は専門家の記述を読む人に何らかの影響を与えることになる。それが実は
全く研究に基づかないものであっても同じ影響を及ぼすと言うことについては先に述べた
とおりである。
図 5 :専門家の相互作用を図示したもの。凡例は基本的に舩橋1998に依拠している。1重
の丸は「個人」を示している
2,メディア
メディアの持つ勢力は絶大である。それは非常に多くの情報を彼らが支配することが出来
るためだ。メディアの流す情報を信じるものが多ければ多いほど、彼らの勢力もまた大き
くなる。しかし、メディアは多くの場合営利企業である。CBSの「60minuets」がC
35
BSのたばこメーカーへの買収に伴ってたばこ批判のドキュメンタリーを放送できなくさ
せられたという話は、彼ら自身が広めた有名な話だが、同じようなスポンサーからの報道
への介入はいくらでも起こりうる。この非常に洗練された企業からの広告費を媒介とした
権力の行使は広告費に依存している私企業としてのメディアが持つ不確実性の領域をうま
く利用したものである。(この点についてはグローバルスピンを参照)
専門家の影響力は、客観的であることを追い求めるメディアによってさらに増幅されてい
る
「客観的」である事は諸刃の剣である。世間一般において「客観的」とはウェーバーが言
う意味においての「科学的客観性」を意味しない。それは往々にして「誰かの特定の主張
や意識を反映しない何物か」を意味している。メディアが特定の事象への意味付与にどれ
ほどの貢献をするかについてすでに示したが、残念ながらメディアはこの様な意味での客
観性を追及しているといわざるを得ないだろう。メディア、特に情報を伝える事を使命と
するニュースにとって、彼らが伝える情報が、情報を受ける側から見て「歪んでいる」と
判断される事は致命的である。なぜなら、情報の正確さによって人々の信任を獲得し、そ
れによって視聴率や購読数を維持し生活している彼らにとって、自分たちの情報が「誤り」
であったり「歪んでいる」という事は自分たちに対する信任を失う事であったり、生活の
すべを失う事であるからである。そのため彼らは自分たちの伝える情報を「より客観的」
であり「より真実」であるものにしようとする。そのために「現場」の写真や映像を報道
したり「専門家」の勢力を利用するのではないかと思う。
実に残念な事にそこにあるのは「客観的」であることに対する盲信のみである。実際には
ありとあらゆる主張から主観を排除する事はできない。誰かが写真を一枚撮ったとき、そ
のレンズを向ける先、シャッターを押す瞬間の選択に主観は存在する。コップに水が半分
はいっているときに、
「半分も入っている」といおうが「半分しか入っていない」といおう
が「何デシリットル入っている」といおうが、そこにはそれ以外の表現をしなかったとい
う表現者の判断が介在している。にもかかわらず写真や映像はそれぬきに語られるものよ
りも「客観的」であると彼らは考えているし、特定の主張に偏らずバランスをとる事が重
要だと考えている。バランスなどというのは論理的には不可能である。
「左右」のバランス
を考えてみても良い、それは「中道」だろうか?否である。中道は左右とは違った新たな、
全く別の主張である。そこには三つの極が存在するだけである。
地方のある地域で、都市部への電力供給を目的にした新規原子力発電所への建設反対運動
が起こったとしよう。推進派は地域エゴであるというだろう。反対派は特定の地域に対す
る被害の押し付けであるというだろう。このばあい、バランスはどのようにとられるべき
だと考えるだろうか。反対派は地元住民を中心に原発反対を主張する市民団体などになる
だろう。賛成派は建設する電力会社、建設によって利益を得られる地元地権者、地域の自
治体、潜在的にはそれによって電力を供給される事になる都市住民である。数も資金も社
会的影響力もすべて賛成派のほうが上に立っている。より多くの人が賛成する事は正しい
とするのは民主主義の最終的な問題解決法であるから、建設が妥当であるとして、それは
住民の地域エゴであると言うべきであろうか。それとも多数決の論理を排して、特定の地
36
域へ負担を押し付ける事は都市部住民の地域エゴであると言うべきであろうか。
「客観的」への盲信を持つものができる選択はただひとつである。それはその両方を取材
して双方に意見を述べさせることである。そして「難しい問題だ」などとコメントを入れ
て完了である。
このときメディア自身が自分たちの主張を客観的にアレンジするために専門家の発言を引
用する事がしばしばある。インターネットを利用した犯罪が起こると必ずテレビや新聞に
「インターネット悪者論」を展開する専門家は多い。これはメディアがそのような発言を
彼らから引き出しているのだと言う。またメディアは自分たちに都合のいい発言をする専
門家しにか関心を示さないのだと言う。(中野 1999「講義:現代社会と社会学」談)
メディアが専門家を引用するとき、そこには自分たちの発言を専門家の専門性によって「客
観的」に見せようというレトリックがあると言う事である。
メディアの機能を理解するためには、メディア自体が利用される状況も考えなくてはなら
ない。先に取り上げたコソボ問題でメディアが情報コンサルタントに振り回された結果か
ら公共ラジオ NPR 記者のシルビアポジオリがたどり着いた見解を再度取り上げてみよう。
「情報コンサルタント企業は紛争の早い段階で黒と白のイメージを世論に植え付け
る効果があった、私も間違いなく紛争の初期の段階で影響を受けた1人だった。私も
例外ではない。今でもそうかもしれない。そうならないためには対立する双方の側を
取材するしかない」
対立する双方の側を取材することによって彼女は紛争の正確な理解が得られると考えてい
る。ではたとえば、数万人規模の反対運動が起こっている原発の誘致に対して、その十分
の一の賛成運動があったとする。彼女はこの両方を取材することになり、平等のために両
方を報じることになるだろう。そのとき、
運動の規模と彼女が取り扱う分量は等しくない。
「グローバルスピン」では、オゾン層破壊の問題でメディアがいかに利用されたかについ
てこの様な点から詳細な分析を行っている
メディアの影響力
メディアは多くの場合私企業である。だからその影響力の分析に際して敢えて企業から分
節して把握することは論理的に正しくないかもしれないが、その影響力を及ぼせる範囲は
一般の企業とは異なる。
メディアの影響力はそれにふれる全ての人に一定程度発揮される。
情報を伝達することでそれを支配しているからである。また、この影響力にはメディアに
影響を及ぼすことの出来る主体の影響が入る。コソボ報道の事例で言えば情報コンサルタ
ント企業であるし、メディアに広告費を提供しているスポンサーであり、メディアの発言
に正当性を与えている専門家である。
37
図 6 :メディアによる相互作用を図示したもの
3,投資家
投資家の取りうる戦略は消費者のそれと近い。なぜなら、投資家も消費者と同じように市
場を構成する主要なメンバーであり、投資によって一定程度の企業にとっての不確実性の
領域を支配している主体だからだ。そのように考えた場合投資家と消費者は論理的には違
いを持たない。投資家が消費者と異なるのは企業への影響力の大きさという点である。一
人の消費者が企業にとって無数にいる人の一人にすぎないのに対して投資家は把握するこ
との出来る数のうちの一人である。また、消費者が顧客に過ぎないのに対して投資家は企
業の所有者である。だから企業が投資家に対して一定の配慮をしなければならないことは
投資家の当然の権利として規定されている。
さて、投資家が自分の持っている影響力に自覚的になって、特定の価値や行為様式を企業
に内面化させようとする運動を SRI 運動と呼ぶが、この運動のバリエーションをしての環
境配慮型投資(エコファンドなど)が、環境問題の文脈で可能性を持っている。以下、こ
れについて述べることにする。
SRI 運動。
SRI(Socially Responsible Investing)運動はその主体によって2つに分けることができる。
第一は投資家が行うもので、社会的関心、倫理的関心を持った投資家達が、その債権者と
しての影響力を企業活動に対して行使しようとする運動である。第二は企業経営者が行う
もので社会が必要とする計画や行動を促進するために経済力を行使する運動(主に企業活
動)である。
「SRI とは利益を提供すると同時に生活の質を高め、福祉と社会関係を向上する何者かに
金銭を利用することである。」p18
38
具体的には
1倫理的投資:自分にとっての倫理的価値を投資の際の意思決定に反映させる投資
2社会的投資:投資家としての権利を利用して投資と企業運営を改革するための経済的・
政治的行動を起こす
3代替的投資:土地信託組合などに対する投資
の三つの類型がある。これらが積極性の度合いや経済的なリスクの度合いなどによって複
雑に混合されて実際の投資が行われている。
社会的責任を排除した従来型利潤だけを考慮したの投資活動の結果、ベトナム戦争に際し
て、アメリカ人の投資家は自分の投資によって泥沼の戦争が継続される状態。さらにその
戦争によって自分が利益を得るという経験をした。どうやらこれが直接の契機となって、
SRI 運動が形成されていったようだ。90年代の初めには金額にして5千―1兆ドルのお
金が SRI 運動の下に動いているということであるから、その影響力の大きさは相当大きな
ものであろうと思う。
しかしながら、SRI 運動による投資活動は必ずしも自己犠牲的精神の下に行われるのでは
ない。この点は SRI 運動を考える上で大変重要である。リッチー・ローリーによって明ら
かにされたところに依れば、SRI は従来的な、利益だけを考慮した投資と比較して少なく
とも同等か、しばしばそれ以上の利益を上げるということが言えるということである。つ
まり、社会的責任を全く考慮しない企業は、しばしば経営課題に対する硬直性や社会的支
持の喪失などにより企業経営に失敗することがあり、この点から考えても社会的責任を果
たそうとする企業は、少なくともその点は安心できるため、経営的に失敗している例を除
いてリスクが小さいということが言えるからである。
つまり、SRI 運動による投資は一方で社会的責任に対する投資家の意向を経営に反映させ
たいという影響力行使であると同時に、他方で、投資に際してのリスクを軽減したいとい
う要求をも満たすことにもなっているのである。
さて、今日では日本にも SRI 運動が取り入れられているという事実は驚くべき事ではない。
現段階で行われているのは投資信託を使った倫理的投資、その中でも特に環境配慮に重点
を置いたそれである。たとえば、日興証券グループの投資信託会社日興アセットマネジメ
ントは1999年8月に設定している日興エコファンドがそれである。設定から2週間で
230億円以上が集まったというこのエコファンドは今日では1000億円以上の規模23
に達している。エコファンドを扱う証券会社も1999年9月末には2社だったものが今
日では5社。エコファンド全体では合計1500億円程度の資産が運用されている。たし
かに、アメリカが5000億から1兆ドル規模で SRI が行われているのに比べると、その
10年後の日本で1500億円程度というのは規模が小さいかもしれないが、1,運動が
日本で実践に移されて約1年であること 2,従来日本では資産を有価証券の形で所有す
る機会が小さかったこと24 3,アメリカのような市民運動の伝統がないこと などを考
慮すれば見過ごせない事象である。
市民運動団体が自分たちの信念を企業に実践させるために当該企業の株式を保有して影響
力を行使すると言うことも、資金が許せば当然あり得る。
39
投資家の影響力について
投資家の影響力はもっぱら企業に対して向けられる。彼らに影響を与えうるのは彼ら個人
に働きかけることの出来るメディアやパーソナルなつながりである。そして彼らは彼らが
投資する企業に影響を及ぼす。そのため企業は株式会社でなければならない。SRI は論理
的にグリーンコンシューマーとよく似た不確実性の領域を支配している
図 7 :投資家の相互作用を図示したもの。2重丸は組織による投資、1重丸は個人投資家
4,企業職員、企業幹部、環境団体メンバー
企業の成員は企業の行く末に対して直接影響を与える個人である。当該企業が環境に配慮
するかそれをも環境高付加的な経営を続けるかは最終的にその企業の決断による。工場か
らの大気汚染や水質汚染の規制が出来たあともそれを無視して非合法に汚染物質を垂れ流
すか、規制を契機にして規制値ぎりぎりではなく、出来るところまで汚染を減らすような
設備をつくるかはその企業の決断次第である。この決断にあたってその成員のグリーン度
は非常に重要になる。
「一般の消費者」がグリーン購入を繰り返しても企業が消費者となる
市場や自由競争の行われない市場などでは影響力を持てないが、企業成員はそこで影響力
を持ちうるのである。ここでは企業という消費者が彼らが参加する市場でグリーン購入す
ることで商品提供サイドの企業をグリーン化することが予想される。(三橋規宏
「ゼロエミ
ッションと日本経済」など)
企業幹部が企業という組織に対してもる勢力については今さら述べるまでもないかもしれ
ないが、環境問題の文脈での事例をあげておいても損はないだろう。
「ウォルト・ディズニーが亡くなって以来、同社はこの創業者の持っていた社会へ
40
の関心を失った。創業者ディズニーはフロリダのエプコット(EPCOT)
・センターを、
閉じた自給自足の環境を持つ未来都市のための社会実験と見ていた。現在のディズニ
ー社の重役達は、それをただの巨大な金を生む機械としてしかみず、そのように操業
して自分たち同士で莫大な報酬を毎年与えあっているにすぎない――その報酬は社
の実績と何ら相関関係のないものである。エプコット・センターは悪質な環境問題を
引き起こし、さらに酒類を販売する娯楽施設と化している。ディズニー社が創業者の
願った清潔な家族的楽しみを提供する会社であることをやめたために……」
(『グッド・マネー』p223-224)
「業績を厳しく問われる現場部門にしてみれば、本社スタッフ部門から下りてくる
環境関係の施策や目標は、時として現場を知らない絵空事と映る。ことにコストアッ
プ要因ともなりかねない対策の場合は現場の反発もいっそう強まる。一方、環境部門
の力はそれほど強くはない。ほとんどが数人のスタッフを抱えるだけの小世帯か、専
任スタッフ1∼2人と各部門の長などで構成する委員会組織だ。企業にとって程度の
差こそあれ、環境部門と現場の間には簡単には埋められない溝がある。……
環境問題への取り組みを一番左右するのは経営トップの姿勢――。取材に応じてく
れた企業の環境担当者は一様にリーダーシップの重要性を口にする。
「コスト負担が
生じるような施策の場合、それでもやるんだ、という社長のお墨付きがあって初めて
社員は安心して取り組める」(庄子幹生・鹿島専務)。」
(日経ビジネス1997年11月24日号)
企業職員、企業幹部、環境団体メンバーの影響力
企業職員は企業組織からの影響を排除することは出来ないが、組織の構成員であることに
よって固有の影響を組織に及ぼしている。企業幹部が組織に与える影響はさらに大きい。
彼らは企業が営利活動をする限りにおいて経営課題達成のための影響を受けることになる。
それは今まで起こしてきた汚染を隠蔽し続けることかもしれないし、これからおきそうな
汚染を起こらなくすることで後の訴訟を回避することかもしれない。環境団体のメンバー
は団体の意思決定に影響を与える。企業のように高度に位階化された組織と比較すると個
人の影響力は大きくなる。
41
図 8 :各校成員の組織との相互作用を図示したもの
5,一般的消費者
さて、これまでグリーンコンシューマー運動を考察するにあたって重要となる各種対の相
互関係について若干論じてきたが、ここではもう少し根本的な点を考察しなければならな
い。今まで述べてきた、各組織の成員や投資家といった人々はそれぞれの肩書きを持つと
同時に消費者である。またそれぞれにパーソナルなコミュニケーションを行っているとこ
ろの個人である。そのため、各組織からの影響を受けると同時にプライベートな関係によ
って独自の影響をお互いに与え合っていると考えるのが妥当である。解決圧力という形を
取るかどうかは別として、人は他人に対して発言力や交換力を行使しうる。人は誰かの言
いなりになったり、印象操作をしてみたり、隣の人にみそを貸したりする。これらは自分
の設定した目的に対しての合理的な行為だともいえるだろう。環境制御システム論におい
てはこの様な個人のコミュニケーションが例えば啓発などのこうかを及ぼしうることを考
慮に入れる必要がある。
また、個人は消費者であることによって選択肢を提供している企業から影響力を受ける。
広告などの形での情報提供だけでなく、市場での選択肢を形成している商品やサービスが
企業によって生産されていることにもよっている。企業広報はメディアを通して増幅され
る。全ての消費者はグリーンコンシューマーであることによって市場に対して環境制御シ
ステムからの影響をより大きなものにすることが出来る。いっぽうで環境配慮に無関心に
なることで伝統的な市場を支持することが出来る。
42
図 9 :消費者および個人として企業や運動に対して持つ相互作用を図示したもの。矢印のない
線はパーソナルなコミュニケーションによって起こっている様々の関係を示しているつもり。
第5節:まとめ
ここでは今まで述べてきたようなシステムへの理解にも基づいてグリーンコンシューマー
運動が今後取りうる戦略を考察してみたい。
1,グリーンコンシューマー運動がそれだけでなされるのは困難である。日本の環境保護
主義運動団体が、現状においてグリーンコンシューマー運動だけを展開することは困難で
ある。欧米でグリーンコンシューマーが一定以上の効果を及ぼしているのは運動の背景に
なった市民運動の伝統があったことやそれを担う担い手が量的に大きかったことなどに依
っている。日本でのグリーンコンシューマリズムは欧米ほどの影響力を持っている訳では
なく、企業のグリーンかは欧米でのグリーンコンシューマリズムの影響の大きさを知って
いる企業が、日本でもグリーンコンシューマリズムが普及しつつあるという状況に対応し
ていこうとしている故のものである。つまり、欧米でのグリーンコンシューマリズムの成
功が日本において企業に内的な制約条件を課しているのである。
(グリーンコンシューマ
ー買い物ガイドの場合にも買い物ガイドで評価の芳しくなかったスーパーが早速環境配慮
を打ち出したというのは、ガイドを手にして買い物した消費者が実際にそのスーパーの売
り上げを下げたからではなく、欧米のようにガイドによって売り上げが下げられてしまう
かもしれないと考えたスーパーが事前に対策をとっておく必要を感じたからだと言って良
いと思う。)つまり日本の現状でのグリーンコンシューマリズムは不確実性の領域への支配
力の源泉を独自の運動にではなく欧米のグリーンコンシューマリズムの成果に依存してい
るということである。
日本でのグリーンコンシューマー運動の今後を考えるならば、グリーンコンシュームだけ
43
に依らず、状況に合わせた様々の運動を適切に組み合わせていかなければならない。その
理由は1,市場の範囲の問題からグリーンコンシューマリズムが範囲の点で限界を持って
いるため、それを越えた要求提出をする事が出来ない。2,量的な不足を補うために他の、
量を必要と品運動と組み合わせることで適切に影響を行使する事が出来る。その意味で実
験プロジェクト期間中に東京ネットから流通へ働きかけを行ったことは示唆的であった。
対象地域の地元商店街との協力やそこでなされた交渉も消費とは関係ない。他にも SRI 運
動や企業の株主代表訴訟、行政担当部局との連携による規制、企業への直接的要求提出、
パブリシティを利用したPR活動、消費者への普及活動などなど、様々の選択肢を持つこ
とが重要になる。グリーンコンシュームの様に、より参与しやすいが、しかし一回の影響
が大きくない運動から、企業への直接的要求提出のような、参与しにくいがより大きな影
響を与えられる運動までを、それぞれの主体の適正に鑑みて効果的に組織していくことが
考えられる。東京ネットのように、行政や学識経験者が加わっている、より大きな影響力
を持つが、それ自体は人数の少ないもの、人数は多いが「口うるさい消費者の集まり」と
しか認識されていないものそれぞれが同じようにグリーンコンシュームをしても仕方がな
い。前者は直接要求提出を行う方が効果的であり、後者はグリーンコンシューム運動を戦
略とすることが効果的である。
また、
グリーンコンシューマー運動以外の組織との連携も必要である。
SRI を進める団体、
例えば投資信託やそこに情報提供している投資顧問会社との協力は投資の際の倫理的基準
の中に「環境に配慮した商品」を導入する可能性を示しているし、カード会社との連携は
クレジットカード利用の際に発生するキャッシュバックが航空各社に還元されるマイレー
ジから環境保護団体への寄付に変換される可能性を示している。
2,また、今後の運動の展開にあたってはグリーンコンシューマーの量的拡大が大変重要
になってくる。グリーンコンシューマーの影響力の源泉は運動に参加する人の商品選択で
ある。量的現象として商品選択がなされなければ、影響力は生じない。その関係は資本家
対労働者の構図と非常に近い。労働者が団結してストライキを起こせば資本家に制約条件
を課すことが出来るが、誰かがスト破りをすれば制約条件は課されないかもしれない。グ
リーンコンシューマー運動においても市場との関係がまさにこれに相当する。誰かが買い
続けるのであればその商品は存在し続ける。企業はある程度の需要で環境配慮商品を投入
できるが、それはある程度の支持があれば環境に配慮されていない商品が作り続けられる
ということを示している。もちろんそれはニッチなビジネスになるだろうが、中小企業は
ニッチビジネスをうまく事業化するものである。ニッチとして発生した環境ビジネスがし
ばしば中小企業を担い手としているのはそのためである。政策的な配慮がなければ、マス
化した段階で大企業が参入し設備投資にものをいわせて価格優位や広告による影響の行使
で先発中小企業を衰退させるかもしれないし、それによってニッチ化した環境配慮のしに
くい分野を中小企業が担うことになるかもしれない。もちろん、「かもしれない」だけであ
るが。
そのため、ニッチビジネスに参入しづらい大企業より中小零細企業と協力して買い支え運
動などを行うという方向性も検討されて良いだろう。
どのような戦略を選択するにしてもその背景となるのは一人一人の消費者が実際に購買す
44
ることであるから、消費者を啓発していかなければならない。具体的な方向性として、特
にゴミの問題などで対策が必要な行政担当部局との連携がはかれるだろうし、環境ビジネ
スを展開しているもしくは使用という企業とも連携がはかれる。
(実際とことん討論会は
企業からの協賛をえている)そういった連携を利用して消費者への働きかけの機会を拡大
していくことが可能であるし重要であろうと思う。
3,運動の進展で決定的になるのは経済システムからの影響をいかに排するかと言うこと
である。環境制御システムが経済システムに介入していくのと同様に経済システムも環境
制御システムへ介入する。それは特定の企業が特定の研究者を使って「環境問題は実は大
したことはない」
と宣伝させることであるかもしれないし、
「環境配慮は職を減らすのでし
てはならない」と主張する市民運動を作ることかもしれない。また、
「今までよりもほんの
少しだけ環境に悪くない商品」を市場に流通させることで消費者にそれを選択させ、環境
配慮に満足させることで社会問題としての環境問題を消滅させようとすることかもしれな
い。そのような経済システムからの環境制御システムへの介入に対してグリーンコンシュ
ーマー運動が取りうる方法は限られている。例えばそれは「グリーンコンシューマー運動
の漸次的深化」(舩橋ゼミ 2000 談)である。グリーンコンシューマーはいつ、どの段階で
満足するか解らない。スーパーに環境配慮商品が並べられた段階で満足してしまえばそこ
で買い物すること自体には何ら疑問を抱かない、スーパーを肯定する消費者が一人できあ
がるだけである。つまり「少しだけ悪くない罠」を避けるためには何らかの形で運動を段
階的に深化していかなければならない。急激なグリーン化が「マニアック」な運動だと捉
えられ、結果として賛同者が減ってしまうことを想定すれば徐々に運動を深化させていく
ことが効果的であろうと思われる。深化させていくとはより大きな環境配慮を求めていく
ということである。
4,これらの効果的な運用にあたって、情報の整備が最も重要な問題になる。企業から出
される情報にも行政から出される情報にもある程度の情報操作可能性が認められるわけだ
し、それを評価する基準にも基準を作った主体の思惑が介在しているわけであるから、こ
れらから無関係に、無菌室状態で商品や業態の評価は出来ないわけである。そこには自分
たちを実体より良く見せようというレトリックが必ず働く。完全に無意図的な評価という
ものはあり得ないので、運動はこの点に自覚的でなければならない。これを軽視すれば情
報提供者を一方的に肯定するだけの、実質的効力を持たない都合のいい運動になってしま
う。
45
第四章:環境ビジネスと消費者∼企業経営と環境配慮は相克するか
第一節:企業経営とは
企業は環境問題の解決に貢献することができるのだろうか?それともあしをひっぱるだけ
なのだろうか?この疑問は日々私の中で大きくなっている。ある企業は積極的な環境対策
を行い多くの消費者を啓発している。しかしある企業は小手先だけ環境に配慮してそのよ
うに見せかけることで環境に配慮したいという信念を持つ消費者を欺こうとしている。こ
の様な現象は企業というものに対する私の見方を混乱させている。もちろん、私だけでな
く多くの人がこの点で同じ混乱を抱えていると思われる。ゼロエミッションのような環境
配慮企業万能論から不買運動の企業悪者論まで、多種多数の意見がその混乱に基づくもの
なのではないかとおもう。この疑問は環境配慮と企業活動は相克するか?という疑問につ
ながる問いである。つまり環境配慮することは企業活動を犠牲にしなければ出来ないもの
であるのかないのかということだが、相克するのであれば企業は環境配慮をしたがらない
=企業は環境配慮のお荷物でありそうでないのであれば企業は環境配慮のお荷物ではない
ということになるだろうと認識されるだろうと推測されるからである。
というわけで、本章のテーマは企業活動が環境配慮とどのような関係にあるのかを考察す
ることになる。ちなみに前章と同じく本章でも分析の視点として環境制御システム論を使
うものである。
環境問題への配慮という視点から企業活動を考察するにあたっては全ての活動を一緒くた
にするということは不適当であろうと思われる。既に疑問の段階で現れているように企業
は自発的に環境配慮しているものもあればそうでないものもある。本論ではまず環境制御
システム論における企業の位置に考察のヒントを求め、企業を4種類に類型化することに
したい。環境制御システム論においては、市場経済システムの主体としての企業が環境経
済システムに対してどれほど介入を許しているか、またはどの程度開かれているか、とい
う視点から A、制約条件も欠如・環境配慮の経営課題としての内面化も欠如 B、制約条
件の設定 C、制約条件及び副次的経営課題としての環境配慮の設定 D、中心的経営課
題としての設定 と分類されている。
46
図 1 0 :環境制御システム論における企業の相互作用
しかし、グリーンコンシューマー運動の事例を考えるとこれとは違う状況が生じているの
ではないかと私は考える。まず、環境制御システム論においては、全ての企業は何らかの
形で環境問題についての運動団体からの要求に対して対立関係を持っている。そこにある
のは交換力ないし自己決定性の保持によって、環境団体からの要求提出に対して対抗して
いるという状況である。
グリーンコンシューマー運動を考えた場合、この様な分析が適切であるか疑問が生じる。
グリーンコンシューマー運動においてはしばしば企業は運動団体を応援している。(実際
にとことん討論会に対して多くの企業が協賛していた)もちろんこれを環境保護団体に対
して資金を提供することによって交換力を保持しようとしているのだと考えることも可能
である。(現実にそのようなことも起こりうる)
グリーンコンシューマー運動の場合にそこで起こっている企業からの資金提供は交換力の
保持とは別の意図によるものであると私は考えている。
それはなぜか。企業活動の周辺的、もしくは中心的課題として環境配慮を位置づけている
企業にとってグリーンコンシューマーという消費者が非常に大きな意味を持っているため
である。グリーンコンシューマー運動はそもそも従来の不買運動や企業に対する訴訟など
がうまくいかない状況で、市場を媒介にして、企業を敵に回すことなく、しかも容易に参
加できる運動として起こされているが、これは「買う」という行為が持つ不確実性の領域
に対する支配力を行使する運動であるという側面を持つことについては既に述べたとおり
である。
それはすなわち、
環境に配慮した企業は環境に配慮する消費者によって支持され、
市場における不確実性を縮減しうる。ということを意味している。
消費者が環境に配慮すればするほど、環境に配慮されている商品やサービスが選択される
ようになるわけだから、それらを提供する企業はここに優先的に自社商品を選択する消費
47
者を確保することが出来るのである。
環境により配慮されたものを買いたい消費者であるグリーンコンシューマーはより商品を
売りたい企業をグリーン化することが出来る。既にグリーンな企業にとってはグリーンコ
ンシューマーを増やすことが、すなわち自社の売り上げを増大させることにつながる可能
性を持っていると言うことである。そのために、既にグリーンな企業はグリーンコンシュ
ーマー運動をしたい消費者団体に協力したり、独自に環境配慮の重要性を訴えたりするの
である。
SRI 運動とエコファンド(投資信託会社)の関係はさらに運動体上位である。エコファン
ドは SRI 運動の舞台であると同時に SRI 運動に変わって実際の投資を行う主体である。
(そもそも日本では SRI 運動がエコファンドを舞台にして行われているから運動と投資
主体を分けることに意味を見いだしにくいが、アメリカなどでは年金組合や機関投資家な
ど、別の主体もこの運動を展開しているので、厳密には運動全体と投資信託会社の関係は
運動とその担い手の一つという関係である。)
その活動は SRI 運動を担う専門の投資顧問会社からの助言によっている25。
SRI とグリーンコンシューマーが企業との間に持つ相互作用は両者が市場を媒介として制
約条件を設定していこうとしているところに由来しているようである。さらに彼らが市場
における消費者や投資家であることによって独特の勢力を持っていることを考えれば、彼
らは環境制御システムと市場システムの接する地点に位置しなければならない。
図 1 1 :企業と S R I 運動やグリーンコンシューマー運動との相互作用
第二節:「環境配慮」という競争力
つぎに、環境に配慮した企業(D、C)は環境に配慮しない企業(B、A)に対して環境
配慮の点からの制約条件を課しうる。先に述べたように、CやDの企業にとって環境配慮
48
という観点からの社会的制約条件が設定されることは、経営的に極めて望ましいことであ
る。そのような企業が社会的制約条件の設定に対して促進的に行為することは容易に理解
されよう。省エネ技術の開発や非価格競争の進展で環境配慮が進んでいる電機業界が家電
リサイクル法を飲んだことはそれによって例えば海外企業(特にアジア NIES や ASEAN
4など)に対する参入障壁足りうるし、グリーンコンシューマーの育成戦略が結果として
環境配慮の必要を重視する社会意識や環境運動団体の主張にプラスに作用することになる。
それだけではない。企業が行う資材の調達に際して、提供される商品が既にグリーン化さ
れていると言うことがあり得る。26その際、企業は否が応でもグリーン調達しなければな
らない。企業も需要サイドに回ることがあるのだから、環境配慮企業が、供給主体として
供給することに基づいた支配力を行使することが可能である。市場を通した相互作用は、
商品の提供及び購入という互いに交換力を行使する過程として描かれるべきであるが、そ
の影響力の大きさは専ら市場における取引規模の大きさなどに依存している。商品を「買
ってやる」か「売ってやるか」は両者の総合的な勢力関係に依存しているわけである27。
これに対して例えばグリーン購入の強制や推奨はエコプロダクツの需要を増大させ、市場
における交換力を強めることにつながる。結果としてCやDの企業は他の企業に対してよ
り強い交換力を持つことになる。ある企業が商品を購入する際に選択する商品群が全てエ
コプロダクツだったらどうだろうか。その企業は必然的にエコプロダクツを購入すること
になり、ここにその企業に対してCやDの企業から選択肢の限定という形で制約条件が設
定されたことになる。もちろん実際には商品選択にあたっての選択の余地が残るので、選
択する側にも最低限の交換力は保持される。
企業間の関係は直接的な取引関係だけではない。特に今日の企業活動の中でマーケティン
グがいかに重要視されているかと言うことについてここで詳しく述べることはしないが28、
企業のマーケティングによる他企業への影響と言うことが考えられる。例えばボディーシ
ョップが典型的に行っているグリーンマーケティングの結果消費者が環境配慮について啓
発される。そのようにして啓発された消費者は環境配慮を消費行動の選択しに加えること
になるのである。この様な効果をより大きなものにするための具体的な方法としてパブリ
シティーを利用した社会への働きかけをボディーショップは行っている。また、ライフス
タイル産業というものもある。消費者に対して新しいライフスタイルを提示することで自
社の製品を効果的に販売していくという方針の産業である。無印良品などが典型的な例で
あるが、住宅供給から日常の買い周り品まで徹底して特定のコンセプトを維持し続けるこ
とによってブランド良いやるな消費者を獲得していく29。この様な産業においては特定の
ライフスタイルを社会に提示していくことが消費者を獲得することにつながるため、社会
全体に発言力が行使されるのである。
49
図 1 2 :企業同士の市場おける環境問題解決圧力の相互作用
さて、これまでの議論から一つの仮説が生じる。それは、今日のように、既にCやDの企
業が存在している状況下では、企業の市場原理に基づく働きだけで社会全体の環境配慮化
がなされるのではないか。というものである。
第三節:環境派企業(造語)・「少しだけ悪くない」罠
にもかかわらず本論ではこの仮説を退けることになる。
それは、1、環境に配慮したビジネスはその担い手が企業だということによって経済シス
テムからの一定の制約条件を課される。2、この制約条件の結果、環境ビジネスが社会の
資源循環型化を、妨害しないまでもある段階で抑制しうる。ということである。
環境ビジネスがビジネスであることが経済制御システムの内部において他の主体をグリー
ン化するという点から重要であった、これは環境ビジネスに固有の機能である。しかし、
環境ビジネスがビジネスであるということで、ある局面では社会の資源循環型化に対して
促成的に働く事があるようであるということについては既に示した。ここではその逆の場
合について示さなければならない。
企業は常に利益を上げ続けなければならない組織である。上場している株式会社であれば
赤字を出し続ければ上場を取り消されてしまう。市場から資本を調達する必要のある企業
にとって、それは信用の失墜と市場からの資金調達の道が閉ざされたことを意味する。銀
行からの間接金融に依っている企業についても多かれ少なかれ同様のことが言える。近年
では日本でも以下の上手に株式を操るかが企業の重要な経営課題になっている。株式会社
は利潤を上げ続けなければならない。これは環境ビジネスを行う企業にとっても同様であ
50
る。どんなに環境対策に優れていても経営が悪化すれば経営者は責任をとらなくてはなら
ない。それによって経営者の地位を追われることになるかもしれない。新しく経営者にな
ったものが環境配慮に全く関心がなかったらその企業は次の日から環境に無配慮な企業に
なる。これは先に見た市場の要請としての SRI 運動とは逆のパターンである。経営に失敗
した企業が立ち直りのためと考えて環境配慮意識を捨てることはあり得る。
SRI 運動自体の性質を考えてもある程度のことは言える。先に述べたように、SRI 運動は
環境配慮や社会的責任を企業に内面化させるための自己犠牲的な運動ではない。それらの
基準を満たした企業は社会的支持の喪失による経営破綻や巨大な環境破壊による環境浄化
費用、訴訟費用の支出などのリスクが小さいということも動機になっている。どんなに環
境に配慮されていても経営的に失敗した企業からは資金が引き揚げられる。SRI 運動の支
持はその企業が経営的に大成功しないにしても失敗しないということが大前提になってい
る。
そのため、企業にとって過剰な環境配慮はなされにくい。それがどんなに地球規模の環境
負荷から考えて必要なものであっても、である。
IBM の広報で、商品の耐久性をあげたところ精密機械運搬の際の緩衝材利用が減り、環境
負荷を低減することが出来た。今後それを突き詰めて商品をむき出しで輸送できるように
することが目標である。という文が書かれているもの30がある。なぜ今すぐそのようにし
ないのか。それに対する解答を上の議論から引き出すことが出来るだろう。それが経営課
題の達成という点から困難であるということだろう。またなぜ四半期毎に製品をリニュー
アルするのをやめないのかという疑問に対しても、コンピューター技術の進歩を考えると
技術の陳腐化が急速に進むのでそのくらいのペースで新製品を打ち出していかなければ経
営が成り立たないということだろう。かりに四半期毎に出されるパソコンの新製品が IBM
の出す最も大きな環境負荷だったとしても IBM はそれをやめることは出来ないし、投資
家もそれを望まない。経営的に無理をして IBM が100年持つパソコンを開発し環境負
荷を大幅に削減したとしても、そのせいで100年に一回しか買い換えをして貰えなくな
り、経営が破綻したらたとえ SRI 運動をしている投資家達でも IBM への投資を続けるこ
とは困難になる。
また、自社製品の無鉛化や製品点数の削減によるリサイクル効率の上昇などについては革
新的な対応をしている企業も、同じ文脈で開発途上国での安価な商品の生産とせいぜい1
0年で使い物にならなくなってしまうような商品と開発サイクルを変えようとはしない。
安価な労働力として開発途上国の女性達が大量生産の現場を担う。そこで生産された商品
は市場でさばかれる。日本の消費者はそれを安価に購入する。しかしその商品はいつかは
必ず壊れる。壊れたら修理すればよいのだが、修理は日本国内で行われる。修理専用のカ
スタマーサポート、修理工、修理工場これらへの投資、必要経費は大きい。そのため修理
費用は製品の購入費用と比較して恐ろしく割高なものになってしまう。修理しなければな
らない頃には技術の陳腐化も進んでおり、「今までより性能が格段にいい商品」
が修理費よ
りちょっと余分にお金を出せば変えてしまう。「修理するぐらいなら買った方がいい」とい
うことになる。「修理するくらいなら買った方がいい」消費者が増えれば増えるほど商品需
要は大きくなる。ケインズの有効需要の原理ではGNP は需要で決定されるのだから、「修
理するぐらいなら買った方がいい」人が増えれば増えるほど GNP が上昇し国が豊かにな
51
ったことになり、企業は利潤を拡大できる。
開発途上国での安価な労働力としての女性労働者が本国と同じ賃金水準で扱われることは
ない。31環境配慮と無関係にこの様な開発途上国に付けを回すような業態が維持されてい
く。それは企業が悪いからではなく、市場というものがそういう性質を持っていると言う
ことである。これらの点で典型的な例を挙げておきたい。
生分解性プラスチックについて32
生分解性プラスチックというものを考えてみよう。
先日来ダイオキシンの原因物質として、
または柔らかくするための添加剤(可塑剤)が環境ホルモンであるとして「塩ビ」は攻撃
の的にされてきた。塩ビに対する代替製品として現れた商品の一つがトウモロコシのでん
ぷんから作られた生分解性プラスチックである。これなら使用後は土中に埋めてしまえば
30日から2ヶ月程度で微生物に分解されるということである。私たちは塩ビ製品を使わ
ないようにするために生分解性プラスチックを普及利用することが重要だと考えるかもし
れない。しかし、例に出した生分解性プラスチックの原料はトウモロコシである。トウモ
ロコシのでんぷんは私たちが普段食べている実の部分から抽出される。そしてトウモロコ
シは、米・麦に並んで世界中で基礎的な食料として使用されている穀物である。ここに重
要な問題が潜在している。
例えば、途上国は農業国というわけではなく、基礎的な食糧を外国からの輸入に依存して
いることが多い。トウモロコシ原料の生分解性プラスチックが流通するということはトウ
モロコシの需要が増えるということである。そのためトウモロコシの国際価格は上昇する
ことになるだろう。上昇した国際価格でトウモロコシを買いあさることができるのは、よ
り多くのお金をもっている先進国の企業であったり多国籍企業であったりするので、生き
るためにトウモロコシの粉が必要な人が生存から排除される可能性は大きくなる。つまり
トウモロコシを原料とした生分解性プラスチックはそれを食べる人から取り上げて作った、
人間は食べられない商品なのである。33
生きるのに必要なエネルギーも摂取できなくさせられている人間がいる一方で、少しでも
うまい肉を食べるために、家畜に大豆を初め飼料用「穀物」を食べさせ、場合によっては
ビールなども飲ませる様な社会があり、生活習慣病を患う子どもがいるという奇妙な現象
―産業社会における効率性の追求がもたらした国際的な富の扁重とでもいおうか―と全く
同じ事がここでは繰り返されようとしているのではないか。
既にこの技術は実用化局面に至っており、今後さらなる発展が見込まれている。2001
年には今までの全世界の生産量の6、7倍の生産力(14万トン程度の生産)を持った工
場がカーギル・ダウ・ポリマーズ34によって操業が開始される。
この技術についていえば、環境に良い(化石燃料の使用が少ない)ということと南北問題
の文脈での食糧問題がトレードオフになるにもかかわらず、その点は無視されている。
本質的には環境によいという衣をまとって経済合理性を追求するビジネスの前に(穀物メ
ジャーの主導する農業形態は持続可能な形でなされていない)農業と食糧の問題がないが
しろにされているのだが、私たちにはこれは環境ビジネス(つまり環境に配慮した商売)
としてあらわれてくる。
52
環境配慮意識を内在化して経営を度外視して環境配慮をしなければならないという主張を
軽視しているのでも何でもないが、企業が環境対策をする場合、そこに経営的に見たメリ
ットがあるということは重要なことである。環境配慮によるメリットは企業の環境配慮に
際しての動機付けとなるのである。例えば将来環境配慮に対する規制が強化される場合を
見越して今のうちに設備投資しておけば出費が五分の一で済むとか、リサイクルしやすい
ように設計したら生産ラインが短くなってコスト削減に成功したとか、そういうメリット
が重要になる。今までよりも環境に配慮した商品を作ったら消費者が積極的に選択してく
れるようになった。というのも重要なインセンティブ足りえるわけである。
さて、企業は例えそれが目的でなく、真に環境問題の解決に第一義的関心を払っていたと
しても環境配慮から利潤を引き出しうる。そうしなければならないのが企業であるし、グ
リーンマーケティングが重要なのもそこに理由の一端がある。そのため、ここに一つの落
とし穴が生じる。それは今までより若干環境に配慮された商品が何度も何度もで続けると
いう状況である。ポータブルのCDやMDのプレイヤーのことを想像すれば理解して貰え
るだろう。毎回毎回出るプレイヤーは「世界最小最軽量」である。いつまで経っても新製
品にはこれが付き続ける。ものすごい勢いで軽量化や小型化が進んでいるが、いつまで経
っても小さくなり続けている。どこまで行けば止まるのか解らない。携帯電話の小型化が
止まったのはそれ以上小さくなれば電話が掛けられなくなってしまうからに過ぎない。環
境配慮にトレースして考えれば、環境配慮技術がどのような方向を示すか明らかである。
既に家電分野における省エネ化競争は何年もの実績があるがもうこれで充分という水準に
は達していない。35だから技術開発が進む限り省エネ化競争は続き続ける。では、環境へ
の外部転嫁が許容されるレベル(私たちは知り得ないが)の家電を購入できるようになる
には私たちは何度「今までより環境にいい」商品を買い変えればいいのか。
環境に配慮したい消費者は環境に配慮されたことを購買することで罪悪感から逃れること
のできる人である。企業がいつまでも「今までよりも(ほんのちょっとだけ)環境にいい」
商品を作っていれば、それを買うことで満足する消費者がそのような企業をバックアップ
して「今までよりも(ほんのちょっとだけ)環境にいい」商品を作り続けさせることにな
る。グリーンコンシューマーがそのような消費者であり得るということは十分承知してお
かなければならない。
「人々が、ジュリエット・ケルナーが「少しだけ悪くない罠」と呼んだものに陥る
のは訳もないことだ。例えば鉛を混ぜない燃料がそうである。人々はそれを利用する
ことが当然だと感じるだろう。だが自家用車の過剰な使用は、例え無鉛ガソリンを用
いたとしても、依然として環境に害がある。「クリーンなことをしたい」という運転
者を標的にした広告主は、人々に車を買わないよう、もしくはなるべく運転しないよ
うに提案したりはしない。…………
…………人々はスーパーマーケットで正しい行いをすることで不安を軽減させ、彼
らの行動が環境保全に必要な活動の全てだと信じる場合さえある。グリーン消費主義
は、悪くすると消費者階級の良心の弁護となり、自分は必要な役目を果たしていると
53
いう気持ちを持ちつつ、いつものように仕事を続けてしまう。そこでは消費や価値観、
制度や構造に対する態度を変える必要性は無視される。消費者は最終的に「何かでき
た」と満足して、地球を救うためにショッピングカートを押す以上のことはしなくな
るだろう。」(グローバルスピン p202-203)
「真の」
グリーンコンシューマーとてこのシステムからは逃れられないかもしれない。「ち
ょっとだけ悪くない罠」とも関連するが、素朴に言って製品が壊れたとき修理する方が環
境負荷が小さくなるのは解る。しかし、技術の進展で自分が商品を買ったときよりも10
倍も20倍もエネルギー効率が良くなっていたらどうだろう。
修理すべきか買うべきか。同じ問題が自動車で起こるかもしれない36。自動車税のグリー
ン化で昔の車を大切に乗っている人がより大きな税金を払わなければならなくなるかもし
れない。自動車税の問題は政策の選択によって制約条件が変わる事によってそのような状
況に陥るが、技術を巡る社会的状況によっては買い換えなければならなくなるということ
もあり得るわけである。では、どれほど技術が進歩した段階で買い換えるのが最も環境負
荷が小さいのか、いつ製品が壊れたら買い換えて良いのかいけないのか。これに対する情
報はない。(というより、技術の製品化予測と技術の把握がなされなければ出来ないが、第
三者機関がそこまで踏み込んで情報を集約することは現実的に言って不可能であろう。
)
第4節:企業の利害対立による混乱
環境産業という産業内で企業が技術開発競争を行うということは市場原理の良いところで
ある。その技術開発競争によって技術の普及が加速される。ただ逆に技術開発競争によっ
て関係する企業が対立し譲らない場合には企業が環境問題の足を引っ張る可能性がある。
私たちはその事例を塩ビ論争に見ることが出来る。ここでは対立する双方がともに大量の
情報を操りうる主体であるということに注意する必要がある。
この論争の参加者は1,
環境問題の解決を要求する市民 2,メディア 3,
塩ビ業界 4,
生分解性プラスチック技術を開発している企業 及びそれぞれのお抱え専門家である。
塩ビ業界がレスターブラウンはじめ数々の専門家の発言や様々なPRによって塩ビの安全
性と LCA 的な効率性を主張し、生分解性プラスチックなどの新しい技術の対等に歯止め
を掛けようとする一方で、生分解性プラスチックなどを開発した企業は塩ビ業界への受注
をもぎ取ることに必死になっている。今日では塩ビがダイオキシンの主原因であり塩ビ製
品を非塩ビ化することが環境に配慮することだという社会的な定義に基づき様々な場面か
ら塩ビ製品は追い出されつつある。が、LCA 的には塩ビ優位は揺るがないものであるため、
塩ビを他のものに代替することはエネルギー的にみて環境に好ましくない影響を与えると
いう。彼らは対応が遅れたため相当の打撃を受けており、今日でもまだ需要は縮小傾向だ
が数々の専門家に代弁させるなど、PR戦術的にも洗練された方法を取り始めており、こ
れ以上の打撃には歯止めを掛けている。これに対して、塩ビ=ダイオキシンの元凶説に乗
じる形で「環境に配慮した」塩ビ代替物質が開発された。各企業や消費者がダイオキシン
54
を敬遠する中塩ビ需要は減り「燃やしてもダイオキシンが出ない」もしくは「土に埋めれ
ば分解する」シートやプラスチックが塩ビに取って代わっている。
この問題の解決は先に述べた情報問題を内包しているがゆえに非常に困難である。塩ビに
関わる様々の主張はがどの程度的を射たものであるかを判別することは非常に困難なので
ある。社会の多くの部分が利害関係者になっている。関係するのは塩ビ業界や代替商品を
研究している企業だけに限らない。もちろんそれら自体も大きな事業規模の企業であるが、
製品調達先や製品を利用する人々、焼却炉製造業者、ダイオキシンを取り除く技術を持つ
企業、焼却炉周辺住民、メディアによって恐怖を植え付けられた人々…この論争の結果か
ら完全に無関係でいられる人間は居ないか居たとしても非常に少ない。ほぼ全てが利害関
係者であるこの社会において、発言に冷静な診断を下せるものがあるとしたらそれは学会
ということになるかもしれない。しかし学術的な記述にいかに宇宙の真理があろうともそ
れが社会に認知されるかどうかとは別物である。
自然科学分野での研究によって塩ビが「本
当の意味」で現状で最も環境負荷が小さいということが明らかにされたとしても、塩ビを
悪者だとする人々はこの発見をうさんくさいものであるとするだろう。その原因が研究者
の個人的な性格に帰されるか研究手法の幼稚さに帰されるかはそのとき次第である。
私たちはどんなに真実に近いことであっても嘘だと信じることが出来るしどんなに悪いこ
とであっても正しいと信じることが出来る。塩ビ問題にしても環境破壊状況についての完
全情報は存在しないのであるから、結局はそのときその人(社会)が信じる決断をすると
いうことに過ぎないのだが、環境問題という様々の問題がごちゃ混ぜにされた状態で定義
されてしまっている問題についての利害関心に絡む論争によって、社会問題としての環境
問題は解決するものの、
「本当の意味」での環境問題の解決がなおざりにされるという状況
が生じている。たとえば、私たちが地域環境を重視して塩ビの使用をやめ生分解性プラス
チックにきり変えたとする。それによってダイオキシンは減るが、今までより多くのエネ
ルギーを使用することでエネルギー問題が深刻化するかもしれない。その問題が問題化さ
れなければ私たちは塩ビを巡る環境問題は解決したと思うだろう。しかしその場合にはエ
ネルギーへの負荷はそれまでより大きくなっていくのである。
第五節:まとめ∼グリーン度による消費者と企業の4類型
企業の提供するエコプロダクトについて整理してみよう。そのために先に使った消費者の
4類型を再度ここで利用する。今までの議論から、それを購入する消費者をグリーン化す
ることが言える。しかし、それが本当の意味でグリーンであるかどうかという問題はエコ
プロダクトの性質からは説明できない。また購入する消費者が本当の意味でグリーンであ
るかどうかも問わない。その意味で、グリーンコンシューマーの環境に配慮した行動を、
比較的実行しやすいものにするという効果がある。という言い方をするのが良いのではな
いかと思われる。行動を起こしにくい誰かが知らずに買った商品やサービスがグリーンな
ものだったとすれば、彼が環境への関心を持っていれば真のグリーンコンシューマーとな
るし、そうでなければ見せかけのグリーンコンシューマーになる。最終的には(次第に市
場がグリーンかしていくと素朴に仮定すれば)全ての消費者がグリーンになる。さて、グ
55
リーンコンシューマーという表現を使ったがもちろん消費をする企業についても同様のこ
とが言えるだろう。
図 1 3 :エコプロダクツは社会の制約条件をどのように変えうるか
また、これまでの議論を大まかにまとめると以下のようになる。
56
第5章:終わりに
環境問題は解決可能か。
本論ではこれまで安易に「環境問題」と「解決」という用語を使ってきたが、これについ
て考え直さなければならない。
「環境問題」の考察をするにあたって実際に起こっているとされる環境破壊を「本当の意
味の環境問題」その環境破壊を巡って社会問題として提起される「環境問題」を「社会問
題としての環境問題」として別のものとして議論する。本論では「本当の意味の環境問題」
の解決可能性を模索することは対象としない。それは自然科学や環境浄化産業によってな
される研究対象である。本論の研究はあくまでも「社会問題としての環境問題」というこ
とになる。つまり「環境問題が解決可能であろうか」といった場合、
「社会問題としての環
境問題」が解決可能であるかどうか、もしくは、社会が「本当の意味の環境問題」を解決
に導くことが出来るかが議論されるべきである。
環境問題の解決は、近代というシステムそのものがいわゆる持続可能な社会や循環型社会
というものに根本的に転換するという状況無しにはなされないということが理解されよう。
この点について、今日、政治的社会的状況は錯綜しており、近代が追求してきた秩序や倫
理観に対する疑問や抵抗はあるものの新たな時代を支えるような価値観やイデオローグが
市民権を得ているとはいえない、変革期にあるということが言えるだろう。
戦略分析の含意を用いれば、
ある主体は自分の選択可能な選択肢と固有の勢力関係の中で、
もっとも合理的に行為するが、ある問題状況に直面している主体がその問題状況の改善を
指向する際もっとも合理的な行為がその問題の社会問題化であると考える場合には、その
主体は問題を社会問題化するということがいえる。
「環境問題」に即していえば、その主体
にとって改善されるべき問題を解決するに当たって「環境問題」として問題化することが
もっとも合理的であると判断されればその問題は「環境問題」になる。「環境問題」が社会
のメガトレンドであるような状況においては、「環境問題」
としての問題化は問題改善を指
向する主体にとってより合理的である。
そもそも「本当の意味での環境問題」は「社会問題としての環境問題」が作り出した問題
である。それぞれは見方を変えれば地域環境問題であったり地球環境問題であったりする
し、または森林破壊であったり水質汚染であったりエネルギー効率の低さであったりする。
それら全てを包含する問題として「環境問題」が定義されているためその問題の自然科学
的根拠と仮定した「本当の意味での環境問題は」数々のトレードオフを含む、現在の技術
では解消不可能な問題となるのである。森林資源の保護を考えた紙のリサイクルがより大
きなエネルギー消費を伴うことや、ゼロエミッシンを含むネットワークモデルを構築して
いる研究者が原発問題を解決できないのは仕方のないことであるが、そのトレードオフを
必要とする関係まで「環境問題」に含められていることが「環境問題」がそれとしては解
決されえないことの根拠でもある。つまり、ある条件下では、ありとあらゆる問題が環境
という側面から捉えられ「環境問題」に組み込まれる。
57
もちろん、ありとあらゆる種類の、環境破壊と認識された問題が含まれる総合的な問題と
しての「環境問題」はその解決のためにはトータルな社会の変革が余儀なくされる。この
点について、私たちがトータルに世界を把握することが出来ないため、トータルに世界を
構想することが出来ないという点からも疑問を提起しなければならないと思う。私たちは
何らかの視点から事象を捉えることは出来、その視点を豊富化することでより事象そのも
のの姿に近い姿を認識することが出来るかもしれないが、それは事象そのものを把握して
いるのではない。その事象を何らかの視点から切り裂いた一つの側面、もしくはその集ま
りを理解しているに過ぎない。そのような意味でトータルに事象を把握することの出来な
い私たちはトータルに世界を把握することは出来ない。世界をトータルに構想することが
出来ない以上、全ての事象が含まれうる問題としての「環境問題」は解決不可能である。
「環境問題」が解決できない問題であると私が考えているからといって、そこに含まれる
それぞれの環境破壊が停止・回復されえないということでは当然、ない。
「解決」への方向性
解決の方向性はより適切な意思決定によらねばならない。私たちはあらゆる物事に対する
完全情報をえることが出来ない(だからこそ戦略が存在し政治が存在する)訳だから、全
ての決定はその場その場での不確実な情報に基づく決定の結果に過ぎない。それが正しい
決定であったかそうでなかったのかの判断さえも不確実な情報に基づいた、せいぜい科学
的客観性に基づいた認識の結果である。環境問題の文脈では情報の錯綜からさらにこの様
な状況が顕在的になるだろう事は既に述べたとおりである。
これまでのささやかな考察から、
「社会問題としての環境問題」と「社会が本当の意味での
環境問題解決を導くことが出来るか」の双方について方向性を検討したい。
「社会問題としての環境問題」の「解決」とはどのようなことであろうか。それは1,問
題状況としての環境破壊はあるが、社会的に問題化されなくなる。2,問題状況が無くな
ったため(例えば完全に持続可能な社会が出現した)社会問題化されなくなる。3,問題
状況は無くならないが、
「解決」
へ向けた実効的な努力が確実に行われていると言う社会意
識がある。というようなケースに分けられると思う。
「環境問題で示される問題状況が、このままの状況が続くと地球の将来を良くない方に導
いてしまう」と考える私としては「解決」は3の状況を通って2の状況に至る方向しか受
け入れられない。
さて、社会構築主義では社会問題の展開過程が以下のように定式化されている。
①(1つまたは複数の)グループによる、ある状態の存在を主張し、その状態を……望ま
しくないものと定義し、そのような主張を宣伝し、……その件についての公共のもしく
58
は政治的なイシューを作り出そうとする試み。
②何らかの公式の組織、機関、または制度によるこれらのグループの正当性の認知
③初めにクレイムを申し立てたグループもしくは他のグループからの、クレイムと要求の
再登場
④苦情を申し立てるグループによる確立された手続きへの反応。グループがもはや「シス
テムの中で」活動することは出来ないと言う主張を基盤に活動するときに始まる。活動
の焦点は、既成の手続きへの苦情と抗議から、知覚された問題についてのオルターナテ
ィヴの解決法を創出し展開する事へと移る。
「環境問題」においてはそれに含まれる種々の問題状況については別として、全体的な状
況としては④の段階にあるといえる。その後問題は1,既成の手続きの根本的変革に必要
な社会的、政治的基盤を発展させる手段としてオールタナティヴを作り出す2,グループ
のメンバーにとって限定された範囲内での解決となるようなオールタナティヴをつくるた
めにシステムから脱退する。方向を取ると言うが、地球規模の問題状況の前に2の方向は
ナンセンスである。
「社会が本当の意味での環境問題解決を導くことが出来るか」ということについて
この問題の解決には、環境制御システム論からの示唆が重要である。それは環境制御シス
テムの文脈で各主体が連携することである。これは特定の主体と特定の主体の連携だけを
意味しない。あらゆる局面でのあらゆる主体間の連携が重要であると考える。たとえば、
一般に言って、ある産業内で当たり前のことでも消費者には全く知られていないと言うこ
とがある。(例えばコクヨの例マーケットは7割以上がオフィス需要など)
この様な場合に
そこに環境制御システムが影響力を行使していくためにはその関係主体との連携が必要に
なってくる。連携がなければ適切な影響力は行使され得ない。環境制御システムの担い手
としての専門家と環境団体の連携が環境運動の発展にとってどれほど重要なことかという
ことについては説明の必要はないだろうし、環境団体と環境保護に関心を持つ企業との連
携は環境団体に寄付をするカードやエコファンドなどを生み出しうる。環境団体と行政と
の結びつきは政治システムの担い手に環境政策の必要性を認識させるのである。
また、同じ文脈で、環境制御システムを担う主体と行政の経済関連部局との連携も意味を
持ってくる。環境制御システム内の主体が実現したい価値基準を、経済システムを担う主
体に内面化させるには、その価値基準が経済システムを担う主体に独特のプロトコルに変
換されなければならない。例えばリサイクルが重要であるという基準が容器包装リサイク
ル法や家電リサイクル法というプロトコルに変換され、制約条件として設定されたことを
考えればよい。
最後に、
「環境制御システムの介入の深化」
(舩橋1998)という戦略が重要である。環
境制御システムの介入に対しては、常にその介入を妨害しようとしたり意味のないものに
しようとする力が働く。経済システムからの環境制御システムへの影響と表現したものが
それである。そのような作用が働くにも関わらず環境制御システムが経済システムへの影
59
響を深めていくことが重要になる。それには、例えば段階的に制約条件を課していくなど
の方法が考えられる。
どのような形であれ、全ての議論は情報問題を内包する。それがどのようなレベルの議論
であっても同じである。中立なる情報というものも存在しないのであるから、「第三者機
関」によるなにがしかの評価にも必ず何らかの偏りや歪みが生じる。全ての主体が完全に
納得しうる結論というものは存在しない。環境問題についての議論も同様である。「客観
的」であるとされる評価基準であってもそれは同様である。だから私たちは「そのとき、
私たちが、最善だと考えるもの」を追求していく事しかできない。その具体的な方策が、
とりあえずはグリーンコンシューマー運動であり、環境制御システムの経済システムへの
介入の深化なのである。
本論では情報操作という単語を最も広い意味に取る。それはある主体が印象操作で自分
がどのように見られるかについて自分についての情報を無意識に編集するというようなこ
とまで含む非常に広い意味合いの言葉である。一般に言われるような特定の状況下で特定
の意思の元に行われたというニュアンスを含まない。また情報問題とはそこから必然的に
生じる情報の歪み(歪んでいない情報を言うものの存在を認めているわけではない)によ
って起こる誤解や曲解。もしくは認識の制約を意味している。
2 詳細についてはスーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』1987 朝日選書やヴ
ァンダナ・シヴァ『緑の革命とその暴力』1997 日本経済評論社、金子勝『反グローバリズ
ム』1999 岩波書店ヘイゼルヘンダーソン『地球市民の条件』1999 新評論などを参照
3 ボディーショップやベン・アンド・ジェリーズ・ホームメイド社などの企業活動は実際
に利益を上げることを第1の目的としていない。詳細はアニータ・ロディック『BODY
ANM SOUL』1992 ジャパンタイムズ。それに、日本でも(株)カンキョーの様に利益以
外の価値を重視する企業もある。詳細は村尾国士『「クリアベール」はなぜ売れるのか』
1998 現代書林
4今ここにパソコンがあるとしよう、それはそのままではただの箱に過ぎない(これさえも
中に何か入っているという情報に依拠している)
。
そこにパソコンという概念が示されて初
めて私たちが今日使っているような意味でのパソコンになる。パソコンで何が出来るのか、
どういう使い方をするものなのかと言う情報があって初めて私たちは今使っているように
パソコンを使うことができるのだといえる。
この点に関する限り、マックスウェーバーの「プロ倫」も今朝の井戸端会議での誰かの悪
口も同じように情報に依存している。
1
NHK スペシャル『民族浄化∼ユーゴ内戦の内幕∼』制作統括:若宮敏彦を中心的に参
照したほか「アエラ」の「許してはならぬ「民族浄化」
」
『アエラ』1992.8.29、
「NATO は
なぜ裁かれないのか 旧ユーゴ戦犯法廷と民間人への誤爆」
『アエラ』
1999.7.15、「日本脅
威論をあおる米誌 ゆがむ米国の日本イメージ」
『アエラ』1999.8.30、「「コソボ大虐殺」
は幻か 崩れる NATO のユーゴ爆撃の根拠」『アエラ』1999.12.06 などを参照
6特定の企業のメディアへの影響力についてそれがアメリカに固有の問題であると考える
のは楽観的すぎる。環境問題の取材に現れるのが専ら NHK であることを私たちはもっと
重く捉えなければならないだろう
5
60
インターネット技術の詳細については「ウェブセミナー」を参照。以下はアドレス
http://www.docan.co.jp/~websemi/bf.html
8 私が生きている間に地球環境が破綻するようには思えない。ひょっとしたら本当はもっ
と破綻が近づいているのに勝手にそう思っているだけかもしれないが。私が環境破壊によ
って死ぬ確率は戦争や交通事故や病気などによって死ぬ確率より小さいのではないか。と
日々感じている。もちろん、想像力が無いだけだという批判は甘受するつもりだが。
9 最近の例で言うと、テレビ朝日の「ニューステーション」が所沢のダイオキシン問題を
報じたときに、「それによって被害を被ったと」
主張する農家からの損害補填要求が起こっ
た事はまだ多くの人が覚えているものと思われる。
(1999年2月)社会運動とは若干異
なるが、当然の要求として農水省もその要求を後押ししている。本論の視点からは発言の
背景は不明だが、http://www.crn.or.jp/FORUM/FREE/a00845.htmlが特に示唆的である。
7
プロジェクトは、それ自体は実験という趣旨であるが、当該地域におけるグリーンコン
シューマーの普及と継続的な発展を意識してなされている以上、環境配慮型の消費行動が
なされなければならないと考える主体、グリーンコンシューマー東京ネットやそれに関与
する主体による要求を人々に内面化させようという試みであると考えるべきである。その
ため本論においてはこれを一般的な意味での実験としてではなく、要求提出のための運動
と見なす。また、組織上も実際に活動で主体となったのは北区リサイクラー活動機構とい
う NPO かを目指す任意団体であるのでそのように考えてよろしいと考える。
11 この点についての詳細な分析に関しては、まことに拙劣ではあるが1999年の私の論
文『北区田端地区におけるグリーンコンシューマー運動の今後を考える』や1999年度
及び2000年度法政大学社会学部舩橋研究室調査報告書、または主体となった各団体の
活動報告書を参照。本論では極めて限定的な部分だけを記述したため、描写が浅薄である
ことはひとえに私の力不足故である。
12 堀英里子『
「消費者理解」による環境マーケティング戦略』政大学大学院経営学専攻マケティング・コ-ス研究成果集 / 法政大学学務部大学院事務課編 1996
13 1999年度舩橋ゼミグリーンコンシューマー地域実験プロジェクト事前意識調査で
の問い13と問い14の結果から作図した
14 2000年度舩橋ゼミグリーンコンシューマー地域実験プロジェクト事後意識調査で
の問い5と問い6の結果から作図した
15 「0」つまり無回答者をどのように解釈するかで若干変わる。本来なら欠損データとし
て除外するところだが、
「0」からの変化もしくは「0」への変化を捉えるために敢えてそ
のまま描写した。しかし、これを一律に「全くの無関心」とか「迷ったあげくに書けなか
った」などと考えることは慎まなければならないので、合計からは除外した。
16 この点については第四章で詳しく述べる
10
1999年5月26日に行われた元気なゴミ仲間の会主催のシンポジウム(於:東京ビ
ックサイト‘99廃棄物処理展内)において、日本製紙(株)環境部主席技術調査役金森
由樹氏は「古紙は、再生のエネルギーを外から取り入れなければならないのでエネルギー
的には紙の方が優れていると発言している。」と発言している。2000年12月16日に
エコプロダクツ(於:東京ビックサイト)では大日本製紙の営業担当者が「木材生産は農
業のようなものだ」と発言している。悪いと言いたいのではなく、そのように彼らは情報
18
61
を提供していると言うことである。
19舩橋晴俊「環境問題の未来と社会変動」舩橋晴俊・飯島伸子編『講座社会学12環境』
東京大学出版会 1998
20 現実に、社会学部を卒業する人の中で客観性論文を読んだことのある人が何人いるか想
像すれば実際社会と学会との乖離が容易に想像される。
21 リッチー・ローリー『グットマネー』1992 晶文社
22 なにも弱い個人などという大仰な概念を持ち出さなくても、この点については社会学の
研究者は非常に自覚的である。それは社会学が、研究対象の性質から必然的に敏感になら
ざるをえなくなったものだと思うが、特に調査にかかわる数々の書物などにそれぞれの視
点から記されている。問題なのはこの点について無自覚な専門家である
日興証券株式会社・日興アセットマネジメント株式会社『Sustainability Report 2000』、
日経新聞2000年8月13日朝刊、日経エコロジー編『エコプロダクツガイド2001』
日経BP社
24 一般的にいって、資産が1000億を越える投資信託はメガファンドと呼ばれる大きな
資産を抱えたものだと言える。アメリカの場合には年金組合などが投資の基準として採用
しているので必然的に規模が大きくなる。
25 例えば日興アセットマネジメントが抱える日興エコファンドの場合には環境に配慮し
た投資の専門コンサルティングとしてグッドバンカーという企業からの助言と情報提供を
受けている。
26 2000年舩橋ゼミでのコクヨ(株)へのヒアリング記録より
27 2000年舩橋ゼミでの大進興産(株)へのヒアリング記録(00A-2)より
28 野村総研1999「ロイヤルティーマーケティングの推進」
29 野村総研1999「ヒット商品に見る所得伸び悩み時代の消費志向」
30 例えば「日経エコロジー」2001年2月号とびら広告
31 目が良く、手先が器用で、従順で…という社会的に訓練された女性労働者が不熟練労働
という名目で不当な扱いを受け、彼女たちを訓練した社会的費用は企業が自社製品をより
安価にするために意図的に無視されているのである。例えば吉村真子「東南アジアの経済
開発と社会変化」吉田元夫編『<南>から見たアジア』1999大月書店
32生分解性プラスチック製造企業グループからの指摘については「生分解性プラスチック
研究会」以下アドレス http://www.bpsweb.net/
塩ビ業界の指摘については「塩ビ工業・環境協会」http://www.vec.gr.jp/index.html
市民団体の主張については、塩ビ製品リストづくり部会『あれも塩ビこれも塩ビ』1998「塩
ビとダイオキシンを考える」東京市民会議実行委員会などを参照。
「悪者説の大合唱、需要
減に追い打ち「生き残るには海外脱出しかない」
」
『日経ビジネス』1997.8.25。塩ビ業界の
ホームページから反塩ビ団体(NO!塩ビキャンペーン、化学物質問題市民研究会、グリン
ピース・ジャパン)へリンクが張ってあることも興味深い。
33 「三菱鉛筆株式会社
資源循環型社会へ向けた製品開発」『産業と環境』1999.5
34 どこかで聞いたことがある名前であると思うが、推察の通り、世界最大規模の穀物商社
カーギルとダウケミカルの双方50%出資による合弁会社である。
カーギルは株式非公開の世界最大の穀物メジャーである。80年のソ連アフガニスタン侵
攻に際してアメリカが1700万トンの穀物輸出をストップしようとした際、これを無視
してソ連に穀物を売りさばいた英雄であり、ダウケミカルはマンハッタン計画に加わって
23
62
いた企業の一つである(意地の悪い説明は半ばジョークである)
35 そもそももうこれで充分という水準がどこにあるのかを、私たちは地球が崩壊する瞬間
を正確にシミュレートする事でも出来ない限り近くできないが、このシミュレートはマー
トンの中範囲理論のような意味で社会学が完成しない限り変数の正確な設定が出来ないが、
実際にはそのような意味で社会学が完成することはない
36都の自動車税については
http://www.metro.tokyo.jp/INET/KONDAN/1998/11/408BQ300.HTM
【参考文献リスト】これまでの注釈で登場しなかったものを載せる。
金子勝『市場』岩波書店 1999
木内孝『ニューエコノミー』たちばな出版 1998
財団法人消費生活研究所『地球と台所をつなぐ環境問題報告書』財団法人消費生活研究所
1997
鈴木幸毅『環境問題と企業責任』中央経済社 1992
田辺義雅『世界の食糧情勢』1985 教育社 入門新書「時事問題解説」シリーズ
戸田清『環境的公正を求めて』新曜社 1994
舩橋晴俊・古川彰編著『環境社会学入門』文化書房博文社 1999
エアハルト・フリードベルグ『組織の戦略分析』1989 新泉社
C.W.ミルズ『社会学的想像力』1965 紀伊国屋書店
フリッチョフカプラ・グンターパウリ編『ゼロエミッション』1996 ダイヤモンド社
J.I.キツセ・M.B.スペクター『社会問題の構築』マルジュ社 1992
マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」』岩波文庫 1998
「環境配慮と消費者の理解を追求した製品開発」『産業と環境』1999.4
「現場には数字で示せ」『日経ビジネス』1997.11.24
「環境対策10年、収穫期へ 技術革新にも威力を発揮」『日経ビジネス』1998.4.6
「コスト削減・新事業の種に」『日経ビジネス』1997.11.24
「4倍の‘利益’出た IBM」『日経ビジネス』1997.12.24
「トヨタ、本田が新車投入 環境配慮、トップが決断」『日経ビジネス』1997.5.23
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